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雑誌名 人間福祉学研究 = Japanese Journal of Human Welfare Studies

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<特集論文:コミュニティと協働する研究方法論 :CBPR>アクションリサーチの主体形成について :  新潟県中越地震の復興過程から

著者 宮本 匠

雑誌名 人間福祉学研究 = Japanese Journal of Human Welfare Studies

巻 8

号 1

ページ 41‑54

発行年 2015‑12‑31

URL http://hdl.handle.net/10236/14492

(2)

1 . はじめに

 本稿の主題は,アクションリサーチの主体形成 の問題である.結論から述べると,アクションリ サーチにおいて,当事者が何らかの問題に対して 自ら対処するものだという意識をもてなかった り,そもそもそれらの問題に自分たちが対処でき る力を有しているとは思えないときには,まずは 問題に対する当事者の主体性が回復されなければ いけないのではないか,というのが私の考えであ る.何らかの問題をめぐる実践において,その問 題の最も近くにいる当事者が主体性をもち得ない とき,アクションリサーチは頓挫する.いや,頓 挫する以上に,かえって事態を閉塞したものにし たり,当事者の無力感を強めることさえある.そ こでは,アクションリサーチが大前提としている

「よりよい状態をめざす」という姿勢が,後述す るようなある論理において働いてしまっている.

それでは,事態をより閉塞的なものにしてしまう ようなアクションリサーチを回避するには,言い 換えれば,当事者が主体性を回復するには,どの ような方策が有効だろうか.以上のようなことに ついて,本稿では,私が 10 年ほど継続して関 わってきた,新潟県中越地震からの災害復興の事 例を通して考えていきたい.

 さて,アクションリサーチの祖と呼ばれるクル ト・レヴィンは,私が学んできたグループ・ダイ ナミックスの祖であった.グループ・ダイナミッ クスとは,組織やコミュニティなどのグループを 対象とした学問である.「集合力学」という訳語 が定着しているが,「集合」の動的な側面を強調 するために,「集合体動学」(杉万,2013:8)と 特集論文

アクションリサーチの主体形成について

―新潟県中越地震の復興過程から―

宮本 匠

兵庫県立大学防災教育研究センター

  要約  

 アクションリサーチにおいて,当事者が何らかの問題に対して自ら対処するものだという意識をも てなかったり,そもそもそれらの問題に自分たちが対処できる力を有していると思えないとき,アク ションリサーチはかえって対象の無力感を強めることさえある.それは,アクションリサーチの大前 提である「よりよい状態をめざすこと」が,暗黙のうちに,当事者の現在を否定してしまうからだ.

このようなアクションリサーチのパラドックスを回避するには,まずは当事者の潜在的な力の肯定に つながるようなかかわりが重要である.本稿では,新潟県中越地震の復興過程について,グループ・

ダイナミックスの立場から継続してきたアクションリサーチの事例を紹介しながら,アクションリサー チのパラドックスを回避する方策を提案する.

 

 Key words:アクションリサーチ,グループ・ダイナミックス,主体形成,「めざす」かかわりと「すごす」かかわり 人間福祉学研究,8(1):41―54,2015 特集論文 コミュニティと協働する研究方法論:CBPR

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訳したほうがよい.グループ・ダイナミックスの 特徴は,グループの中に研究者が実際に身を投じ て,当事者と一緒に現場を改善していこうという 実践的な性格にある.

 アクションリサーチの主体形成の問題を考える にあたって,まずはその祖といわれるレヴィンが グループ・ダイナミックスにおいてどのようなア クションリサーチを展開していたのか,その背景 にどのような事情があったのかをふりかえってお きたい.そして,それがグループ・ダイナミック スにおいてどのように継承,発展されていったの かについて論じながら,グループ・ダイナミック スの枠組みにおいて実践してきた筆者自身の災害 復興のアクションリサーチについても紹介しよう.

2.  アクションリサーチとグループ・

ダイナミックス

 クルト・レヴィンは,1890 年に,当時のプロ シア,現在のポーランドに生まれたユダヤ人であ る.彼が後にアクションリサーチとして知られる ようになった研究を行うようになったのは,ナチ スドイツによる権力の掌握が増し,アメリカに亡 命した後のことである.彼はアイオワ大学に移り,

そこで行動科学の理論と実践に大きな貢献をなす のだが,評伝によれば,その背景にはヒトラーの 存在があったという(Marrow,  1969).彼は,民 主的な社会とはどのような人間共同体であるべき かを問いながら,独裁・民主制をめぐる問題をは じめとして,マイノリティやリーダーシップにつ いての研究などを行った.ユダヤ人であり,亡命 教授であったレヴィンにとって,どのようなリー ダーシップが民主的な社会の実現に資するのかを 考えることは,さしせまって重要な研究テーマ だった.そもそも,ヨーロッパに残った彼の母親 は,残念ながら収容所へ送られ亡くなっている.

八ッ塚(2014)は,レヴィンの生涯と業績を丁寧 にたどりながら,レヴィンのアクションリサーチ にとって,基礎と応用を区別することがさほど重

要な意味をもたなかったことを強調している.ユ ダヤ人への偏見や少数者への理解,独裁にいたら ない民主制の確立の問題は,レヴィンにとって研 究テーマである以前に「生存と尊厳につながる問 題」(八ッ塚,2014:358)であった.「どのよう に生きるか」と「どのように研究するか」がレヴィ ンの中で密接に関係していたともいえる.

 そのレヴィンによるアクションリサーチの中で 有 名 な も の に, 食 習 慣 に 関 す る 研 究 が あ る

(Lewin,  1948).興味深い実験なので,少し詳し く紹介してみよう.第二次世界大戦下,アメリカ では食料統制が行われた.そこで,それまで人々 があまり口にする習慣のなかった栄養豊富な牛の 臓物,言わばホルモンの家庭での食用を促進する ためにはどのような方策がよいのか,食習慣の改 善に係る国家プロジェクトが進められる.レヴィ ンの研究はその一部として遂行された.レヴィン は,主婦たち十数人からなるグループを 6 つつく り,それらを「講義グループ」と「集団決定グルー プ」に分けた.講義グループには,まず,牛のホ ルモンがいかに栄養豊富で戦争を遂行するのに価 値ある食品なのかがグラフを用いながら詳しく講 義される.そして,健康にもよいこと,経済的に も優れた食材であることも強調される.その後,

栄養学の専門家から,ホルモンの臭みや見た目の 嫌悪感を和らげる方法が示され,その調理法も説 明される.最後に,そのレシピが配布される.一 方で,「集団決定グループ」は,「講義グループ」

と同様,戦争を遂行する上での食材としてのホル モンの価値などが紹介されるのだが,その講義の 後で,グループごとにディスカッションの時間が 設けられる.ディスカッションの中では,例え ば,夫がホルモンのような食材を好まない問題 や,調理中に出るにおいが気になる,といった話 題が議論されたという.その後,再び「講義グルー プ」と同様,栄養学の専門家から,調理にあたっ ての工夫がアドバイスされ,レシピが配布されて セッションは終わる.

 セッションの 1 週間後,実際に牛のホルモンを

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食した人々は果たしてそれぞれどれぐらいいた か.「講義グループ」では,実際に食べた人がわ ずか 3%だったのに対し,「集団決定グループ」

では 32%もの人がホルモンを食べたと回答した のだ.「講義グループ」と「集団決定グループ」

では,大きな差が出たのである.レヴィンは,こ の差について,「講義グループ」が終始受動的で あるのに対して,「集団決定グループ」は,能動 的な討論によって関心を深めることができたり,

ディスカッションの中で,ホルモンを「食べる」

にしろ「食べない」にしろ,自分の意思を表明す ることができるため,その後の意思決定,さらに は行動変容にもつながりやすいのだと説明する.

 ここで,重要なのは,レヴィンが社会的行為の 変革にあたって,その当事者自身が集合において いかに関与するか,関与の余地があるかが,まず は決定的な要因として働くのではないかと考えた ことだ.さらに,当事者の関与の違いの結果を証 明するにあたって,研究室や授業の中で実験を行 うのではなく,現場に入って,実際の生活者の間 で実験を行うことで,実験そのものが現状改革の 実践となっていた点も重要であろう.レヴィン は,実験法の核心に,「特定の事例に対して,条 件を変化させながら関与し,その全体像を把握」

(八ッ塚,2014:354)することを据えていた.こ こでは,研究することは,「能動的に対象に関与 して変化を持ち込む『アクション』」(同前)とな る.

 このように,アクションリサーチとして実践的 な性格を多分にもつ学問として生まれたグルー プ・ダイナミックスであったが,1947 年のレヴィ ンの死後,科学的な厳密性を重視する実証主義心 理学が勃興することで,グループ・ダイナミック スのアクションリサーチ的な側面は薄れていくこ とになってしまった.一方で,アクションリサー チが,その後,さまざまな学問,現場において発 展していったことは,本特集の他の論文を見れば 明らかである.

3. グループ・ダイナミックスの考え方

 レヴィンに始まるグループ・ダイナミックスを 日本に導入したのは三隅二不二であった.三隅に 始まる当初の日本のグループ・ダイナミックス も,レヴィン由来の実践志向をもっていた.三隅 は,リーダーシップ研究で広く知られるが,これ も リ ー ダ ー シ ッ プ を 目 標 達 成 で あ る P

(Performance)と集団維持の M(Maintenance)

の 2 つからなるものとした上で,実際の組織の中 で当事者同士がリーダーシップを測定したり,そ の結果を還元したりするなどして,現状を改善し ていくものであった.しかし,日本においても実 証主義心理学の勢力は,グループ・ダイナミック スのみならず心理学全体に広がり,三隅に始まる 実践志向の研究は限定的なものとなっていった.

そのような状況の中で,あらためてアクションリ サーチとしてのグループ・ダイナミックスを発展 させたのが杉万俊夫である.

 三隅のもとでグループ・ダイナミックスを学ん だ杉万は,それを社会構成主義をメタ理論とする 新しい学問として発展させた.メタ理論とは,個 別の理論の根底にあるような「哲学」のことであ る.杉万(2013)によれば,「論理実証主義」を メタ理論としているのが自然科学であり,「社会 構成主義」をメタ理論とするのが人間科学である.

そして,グループ・ダイナミックスは人間科学の ひとつとして位置づけられる.論理実証主義は,

「外界 / 内界」図式に立っている.これは,「心を 内蔵した肉体」としての個人(内界)が,その外 に広がる事実(外界)を言語によって忠実に写し 取ろうとするものである.この「外界 / 内界」の 図式によって得られた外在的知識が自然科学の成 果である.この外在的知識は,端的に言えば,人 間が知ろうと知るまいと存在する事実についての 知識である.人間が知ろうと知るまいと存在する 事実を探求するのであるから,それを写し取ろう とする人間の内界によって,その事実が異なって しまうことは避けなければならない.ここで,外

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界の観察対象と観察者の間に一線を引いて,一線 の向こう側に据えた観察対象を,一線のこちら側 から観察者が観察しなければならないという鉄則 が生まれる.このことによって,自然科学は普遍 的な事実を得ることとなる.

 このような自然科学の原則によってもたらされ た知的貢献には計り知れないものがあるが,一方 で,この原則によっては知ることが難しい現象が あることも事実である.有名な例で言えば,古く は社会学者のロバート・マートンが「予言の自己 成就」と指摘した経済予測の例がある(Merton,  1957).エコノミストが「景気が悪くなる」と予 想したとする.消費の冷え込みを見込んで,企業 の経営者の中には,生産規模をあらかじめ縮小し ようとするものも出てくるかもしれない.消費者 の中にも,給料が上がらないことを見越して,財 布の紐を引き締める人も出てくるだろう.そうし た人々が多くなると,結果的に本当に景気は悪く なってしまう.このとき,エコノミストの予測は あたったといえるのだろうか.それは違う.なぜ なら,以上の結果は,エコノミストの予測の正し さが事態を把握できたのではなくて,エコノミス トの予測を信じた国民が経済行動を変えたことに 由来するからだ.予測(予言)が,その理論的根 拠の正しさとは無関係にあたってしまうこと,こ れが「予言の自己成就」である.

 以上の事例が示していることは,人間がそれを 知ったとたんに変化してしまう事象が存在すると いうことだ.このとき,観察者と観察対象の間に 一線を引いて観察しようとする論理実証主義は躓 くことになる.観察者と観察対象を分離すること が不可能となるのである.ここで,論理実証主義 ではないメタ理論として登場するのが社会構成主 義である.社会構成主義は,認識を含むすべての 行為が,人々の関係,つまり集合において存在し ていると考える.それぞれの集合は,その集合な らではの性質をもっている.例えば,ある集合に おいて,朝 9 時にならされる「チャイム」は「心 地よいメロディ」ではなくて,「業務開始の合図」

である.その集合ならではの性質を集合性と呼ぶ.

チャイムの例のように,集合性は,集合のメン バーにとっては暗黙かつ自明の前提として存在し ている.さらに,集合性は時々刻々と変化もする.

その変化する集合性を集合流と呼ぶ.

 私たちは何らかの独特な性質を帯びた集合流に 身を委ねて存在している.それも,ひとりひとり がたったひとつの集合流に存在しているのではな くて,さまざまな集合流の重なりの中に存在して いる.研究者としての私,子としての私,大阪人 としての私……というように考えれば分かりやす いだろう.それゆえ,グループ・ダイナミックス では,「個人」という存在を所与のものであると 考えるのではなく,さまざまな集合流が流れ込む 結節点として,いわゆる「個人」が存在するのだ と考える.

 社会構成主義をメタ理論とした人間科学,そし てその人間科学のひとつとしてのグループ・ダイ ナミックスは,このように時々刻々と変化する集 合流におけるローカルな現象を把握しようとす る.このとき,もちろん研究者だけが,かやの外 にいて,客観的に何らかの集合流を把握できるわ けではない.研究者も,例外なく,何らかの集合 流に内在している.だから,社会構成主義におい ては,研究者は研究対象との間に一線を引くので はなく,研究対象とともに同じ集合流に巻き込ま れていくのだと考える.これは,言い換えれば,

研究者と研究対象者が一緒に何かをやっている状 態になるということである.これを,杉万は「協 同的実践」と呼んでいる.グループ・ダイナミッ クスは,レヴィン以来,現状を把握するだけでは なく,積極的に改善,改革しようという志向性を もっているのであった.それゆえ,現状をよりよ い状態へと変革するために研究者と当事者が協働 的実践1)を行い,メッセージを発信する,これが グループ・ダイナミックスの研究スタンスである.

 そもそも,人間が知ろうと知るまいと存在する 事実についての知識を探求する自然科学とは異な り,研究者と当事者が互いの集合流のせめぎあい

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の中で,ひとつの実践をめぐる集合流に巻き込ま れていく人間科学は,程度の差こそあれ,アク ションリサーチとしての性格を有することにな る.なぜなら,人間科学においては,研究者も当 事者も,互いの価値判断が避けては通れない問題 になるからだ.経済的な豊かさと精神的な豊かさ は両立できるのか,慢性疾患の患者が地域で豊か に暮らすにはどのようなことが必要か,災害で身 近な人を喪った苦しみとどのように向き合えるの か,人間科学の研究は,多かれ少なかれ,根っこ のところでこのような切実な問題とつながること になる.ただし,人間科学の研究がつねにアク ションリサーチであるかといえば,そうではない.

あくまでこのような価値判断があることを前提に した上で,研究者が当事者とともに自覚的に現状 をよりよい状態へと変革していくことを志向した ときに,それはアクションリサーチと呼ばれるも のとなるだろう.

4. アクションリサーチの困難

 さて,グループ・ダイナミックスは,人間科学 の見地に立ち,研究者と当事者が現状をよりよい ものにするための協働的実践を展開すると述べ た.しかし,ここにひとつの問題が浮かび上がる.

何らかの問題があり,その問題に悩まされる当事 者がいて,そこに一緒にその問題を考えたい研究 者が出会えば,協働的実践はただちに開始される のだろうか.無論,そうではない.まずは,その 研究者が信頼するに足る人物なのか,すぐに逃げ はしないか,本当に一緒に問題を考えてくれる仲 間足りえるかといった,当事者から見た信頼関 係,いわゆるラポールとして議論されてきた関係 が重要であることは言うまでもない.しかし,こ うした信頼関係と同じくらい,協働的実践にとっ て重要な問題が残されている.それは,問題の最 も近くにいる存在であるという意味で協働的実践 の主役である当事者が,そもそも,その当事者性 を発揮できているのか,主体性をもち得ているの

か,さらに言えば主体でありえているのか4 4 4 4 4 4 4 4

という 問題である.

 当事者が当該の問題解決の主体であるとき,当 事者は研究者とともに問題の分析についてさまざ まな議論をしたり,解決のための処方を協働的に 試みることができる.しかし,当該の問題解決の 主体になりえないとき,研究者との協働は,当事 者の主体性をより弱体化させたり,無力化させた りして,事態をより閉塞的なものにさえする.そ れでは,当事者はいかにその主体性を回復するこ とができるのか,そのプロセスにアクションリ サーチを試みる研究者にできることはないのか,

それが本稿の問い,アクションリサーチの主体形 成の問題となる.私がこのような問題意識をもつ にいたったのは,自分自身の研究フィールドであ る新潟県中越地震の復興過程に参与する中で,い わゆる復興支援として考えられるようなかかわり がうまくいかないどころか,被災地域の雰囲気を より閉塞的なものにする場面に何度も直面してき たからである.もちろん,それらの復興支援は,

被災地の人々に共感し,その生活が少しでもよい ものになるようにと試みられたものであった.そ れが,意図とは逆に,人々の悲観的な見通しを強 めてしまっていたのだ.これは敷衍すれば,アク ションリサーチのパラドックスともいえる.なぜ なら,ある状況下においては,アクションリサー チがもつ「よりよい状態をめざす」という志向が,

かえって状況を閉塞的なものにするといえるから だ.なぜ,よりよい状態をめざすことが,自体を 閉塞させてしまうのか,そして,それはいかに回 避され,本来の目的を果たすことができるのか,

私が関わってきた中越地震の復興過程から考えて みよう.

5. エスノグラフィー新潟県中越地震の復興―

5.1. 私が中越に通うようになった背景

 新潟県中越地震(以下,「中越地震」)は,2004 年 10 月 23 日に起きた地震である.大きな被害が

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出た地域は,大都市を襲った阪神・淡路大震災と は異なり,山間部に散在する集落だった.被災地 は,災害前から,深刻な過疎・高齢化に悩まされ ていた.それが,地震からの再建過程で,特に子 どものいるような若い世帯が,より便利な市街地 での再建を選んだため,山間部の人口は激減,高 齢化も一気に進んだ.災害は,既存の社会課題を より深刻な形で顕在化させるといわれるが,中越 地震ではまさに,復興過程の中で,過疎・高齢化 とどのように向き合っていくかということが避け ては通れない課題となったのである.

 地震の後,「復興とは何か」,このような問いが 繰り返しなされるようになった.震災によって深 刻になった過疎化のことを考えれば,復興が地震 前の状況に戻るだけでは十分ではないことが容易 に想像されたからである.

 中越地震が起きたとき,私は大阪大学人間科学 部の 2 回生だった.周りの学生たちが,中越地震 の被災地を支援しようと学生グループをつくっ て,現地に通い始めた.情けないことに,私はそ うした動きに対して,「ボランティアなど,お利 口なものだな」と斜に構え,現地に行こうとはし なかった.学生グループは,女性が多かった.地 震の翌年,2005 年 5 月,彼女たちが活動してい た現地の拠点が引っ越すことになり,そのための 男手が必要だというので,私に声がかかった.予 定していた二日間の滞在の間で,現地で拠点の 引っ越しの手伝いや,仮設住宅にわれわれの拠点 が引っ越したことを知らせるチラシなどを配布し たりした.大阪への夜行列車に乗って帰ろうとい う二日目の夜,神戸から派遣されて現地で活動し ていた被災地 NGO 恊働センターの鈴木隆太氏と 食事をした.鈴木さんに,その日の活動を聞いて みると,なんと村の人たちが自分たちで道路を復 旧しようとしていて,その手伝いをしているのだ という.

 それは,小千谷市東山地区の寺沢集落というと ころだった.村から田んぼや畑につながる道の途 中で山が大きく崩落してしまった.崩落箇所は重

機でないととても復旧できないのだが,重機がそ こにたどり着くまでの道が傷んでいて,重機を運 ぶことができない.行政の支援を待っていてはい つになるのか分からないというので,まずはその 道を住民自ら復旧しようではないかということに なった.行政からは生コンクリートが現物支給さ れるのだという.鈴木さんの話では,今日は生コ ンを流すための型枠を整備したところで,明日は いよいよコンクリートを流すという話だった.そ れは面白いと,私は有効期限が二日間あった急行 券を活かして,滞在を一日延ばすことにし,翌日 の作業を手伝うことにした.

 翌朝,村に行ってみると,50 代から 80 代にな ろうかという男性たちが,鍬や鋤などをもってお もむろに集まっていた.私はそんなおじいちゃん たちから,「おい,若ぇの,頼むぞ!」と言われ,

「これは自分ががんばらないと」と息巻いた.コ ンクリートミキサー車が,集落の中の細い道を這 いめぐって,現場に到着する.流れ出す重いコン クリートを,型枠で仕切られた道の上に流してい くのだが,これがとても難しい.流れ出す速さに あわせて,手際よく運んだり,平らにならしたり しないといけないのだが,なかなかうまくいかな いのである.私が悪戦苦闘していると,80 代の おじいちゃんが見事に生コンをならしている.聞 けば,こんな作業は初めてだという.私は,早々 にそのおじいちゃんが仕上げをする前の,簡単な 作業にまわることになった.ミキサー車がコンク リートを流しきった後,そのおじいちゃんは,ど こから見つけたのか,長いベニヤ板をもってき て,その縁で生コンの上をトントンとたたきだし た.すると,生コンがみるみる平らにならされて いった.「なんでそんなこと知ってるんですか」

とたずねると,田んぼを平らにするときに同じこ とをするのだという.私はすっかり感心してし まった.

 作業の後は,集会場で飲み会となった.そこで も私は衝撃を受けた.正直なところ,私は被災地 にはとても暗い雰囲気が漂っているのだと思って

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いた.山の奥の集落で,地震があって,お年寄り ばかりで,過疎化が進んでいて……というよう に.ところが,その飲み会は,みんな涙が出るぐ らいに爆笑の連続だったのである.私は村人のた くましさと,なんともいえない幸せな雰囲気に すっかり魅了されてしまった.この地域に,もう 一度来たいという気持ちが強くなった.そうし て,私は中越に通うこととなった.

 私が初めて中越を訪れた頃,現地ではちょう ど,長期的な復興を支えようと民間の中間支援組 織が設立されていた.それは,中越復興市民会議

(以下,市民会議)と名づけられた.各被災地域 のボランティアセンターが閉じられる中で,仮設 から出た後の再建が大変重要だという,阪神・淡 路大震災を経験した人々からの助言もありつくら れたものだった.私は,この市民会議のスタッフ として,主に集落再生に関わるようになった2). その中で,私が主に担当することになったのが,

中越地震の震源地でもあった旧川口町(2010 年 3 月 31 日に長岡市に編入合併)の木沢集落である.

5.2. 木沢集落の復興過程

 木沢集落は,旧川口町の北部,標高約 300 メー トルに位置する山間集落である.冬季間の積雪は 優に 3 メートルを超える豪雪地である.村からふ もとの役場に続く道は崩落により遮断されたが,

木沢の人たちは自分たちで道を切り開いて,孤立 をまぬがれた.地震直前には,52 世帯 138 名の 人々が暮らしていたが,地震をきっかけに村を離 れた人が多く,現在では 30 世帯 70 名となって,

人口は半減してしまった.高齢化率も地震前の 35%から 50%を超えるまでに増加し,地震前か ら地域の課題であった高齢化は一気に深刻なもの となった.そうした状況の中で,地震や過疎に負 けないで地域に元気や夢をつくろうと,2006 年 4 月,木沢集落住民有志からなる地域づくり団体

「フレンドシップ木沢」が活動を始める.私は,ちょ うど 2006 年 4 月から,現地に居住し始めていた ので,それまで以上に被災地域に通うことができ

るようになっていた.その中で,フレンドシップ 木沢の支援をすることになった3)

 どのような地域になりたいのか,どんな復興を したいのか,そのためにこの団体にはどんなこと ができるのか,フレンドシップ木沢が活動を始め るにあたって,そうした活動の目標や理念を話し 合う会議が開かれた.ところが,会議の場面では,

そうした未来のことをいくら話し合おうとして も,「こんな年寄りばっかの村はもうだめだ」,「子 どももいねぇのに未来なんてあるか」といった諦 め感や,「復興なんて役場の仕事だろう」,「役場 はあの道をいつになったら直すんだ」といった根 強い依存心がうずまいていて,一向に話し合いは 前に進まなかった.「オラ,バカだから,復興の ことなんてよく分かんねぇ」という無力感もあっ た.さらに,「水がない」ことがしきりに訴えら れた.木沢集落では,横井戸と呼ばれる地面と水 平方向に山腹に向かって掘られた井戸から農業用 水を確保していたのだが,その水脈が地震によっ て変わってしまい,水が出なくなってしまってい たのである.そのため,生きがいである農業が再 開できないという深刻な課題が生じていた.

 私もそれは大変だと,何とかもう一度水を確保 する方法はないのかと探した.すると,これがと んでもなく難しい問題であることが分かった.井 戸を掘るには,1 箇所当たり数百万円必要で,そ れも水脈が変わってしまっている以上,掘ってみ ても十分な水が出るとは限らない.ふもとの川か ら水を引くとなると数億円かかると言われてし まった.とてもすぐには解決できない問題だった のである.私はすっかり途方に暮れてしまった.

 私は,とりあえず木沢の人々がどのような考え をもっているのか知りたいと思い,村に通おうと 思った.ただ,何もないのに村を歩いていると不 審に思われるかと考え,村の中で畑を借りること にした.当時,村の区長であった星野幸一氏は私 の申し出を快く受けてくれ,村の中でも一番見晴 らしのいいところ,それも私がその畑で作業をし ていれば,村のどこからも私が来ていることを確

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認できるような場所の畑を手配してくれた.私は その畑に通うようになった.

 畑に着いて,しばらく草抜きなどをしていると,

すぐに幸一さんから呼びかけられた.「一杯やろ う」というジェスチャーである.実は,幸一さん の家は私の畑のすぐ下にあった.この「一杯」は 酒ではなく,お茶のことである.幸一さんは無類 のお茶飲み好きだった.ここで,「お茶飲み」に ついて,説明が必要だろう.この地域では,友人 同士が互いの家を訪ねあってお茶を飲みながら世 間話をする文化があるのである.幸一さんはこの お茶飲みが大好きで,地震直後の避難生活で村を 訪れた看護師にもお茶飲みに誘っていたぐらいで ある.

 幸一さんの家の中には,囲炉裏があって,その 中には薪ストーブが据えつけられている.春でも 木沢はひんやりすることがあるので,薪を焚きな がら,幸一さんの淹れたおいしいお茶を飲む.私 は,先述の「水がない」こと,それを自分が支援 しないといけないんだということで,頭が一杯に なっていたので,眉間にしわを寄せながら,幸一 さんに「水が出ないんですよね.大変ですよね.」

と声をかけた.すると,幸一さんは「オゥ」とい う一言を残して,隣の部屋に消えていった.何か 悪いことでも言ったかなと心配していると,幸一 さんがなにやらアルバムを抱えて帰ってきた.「そ れ,なんですか?」,「山野草の写真」,「え,この 草すごくないですか?」,「浦島太郎が釣りをして るように見えるだろ,だからウラシマソウってい う」,「へぇ〜,そんな草あるんですね,こっちも すごいじゃないですか」,「これはネジリバナ,オ ラほうじゃネジバナって言うけど」,「面白い形で すねぇ」,「ネジバナなんてどこにでもあるよ」,「そ うなんですか?」,「ちょっと,山行って見てみる か」,「お願いします」,そんな経緯で,幸一さん と山を歩くことになった.

 木沢の山を歩くと,そこには私の知らない珍し い山野草がたくさんあった.和菓子を食べるとき に使うのだという香りのいい木や,樹皮をはいで

みると黄色で煎じると胃腸にいいものなど,幸一 さんの説明はとても面白かった.そして,何よ り,幸一さんと一緒に歩いているときに,村の中 を流れる風がとても心地よかった.土のにおいが して,草のにおいがして,そして遠くの残雪の越 後三山が見えている.なんてすばらしいところな んだと思った.木沢にいると,なんだか今までに 味わったことのない解放感があった.そうして,

木沢の畑に来ると,私は幸一さんとほとんど必ず こうした山歩きをするようになった.幸一さん は,例の隣の部屋から,あるときは戊辰戦争の鉄 砲の弾をもってきた.あるときは,「木沢便り」

という,昔の木沢小学校の校長先生が,村人から 聞き書きをして,各世帯に配布していたものを見 せてくれたりした.いろんなきっかけで,私は幸 一さんと山を歩くようになった.

 山を歩いていると,他の村人とも出会うことに なる.そこで,出会った村人たちとのやりとりも また面白いものだった.「私の母ちゃんは産婆さ んで,いま村にいる木沢生まれの衆は,だいたい うちの母ちゃんがとりあげた!」と誇らしげに語 る人,手作りの木製の鉢でリンドウの花を育てて いる人,野菜づくりの名人,植物や昆虫に大変詳 しい人など,本当にさまざまだった.「すごいで すねぇ」,「おいしいですね」と,私は感嘆するば かりであった.

 実は,畑作業を通して,私以外にも大学生たち が木沢を訪れるようになった.この大学生たち は,大阪からやってくる学生や,現地の大学生 だったりした.これらの大学生も私と同様,都市 部に育った学生が多かったので,木沢の暮らしは とても珍しいものに思えた.そして,私が感嘆し たように,村人のやりとりの中で,すっかり木沢 の暮らしや木沢の人のたくましさに魅了されて いった.

 木沢のことを知らない大学生がやってくる.そ こで,村人は,木沢のことについてさまざまなこ とを語る.それを聞いて大学生が驚いたり,感心 したりする.すると,村人はさらに木沢のことに

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ついて語るようになる.そんなふうに,語りが連 鎖していった.その中で,会議の場面では諦め感 があったり,依存的であったりして,なかなか出 てこなかった,村の将来や理想像についての語り が少しずつ出てくるようになった.「昔と比べて,

人が集まる機会が減った」,「こんなふうに,木沢 がまたにぎやかな村になったらいいなと思う」と いうように.村のことをよく知らない大学生たち の感受性を通して,木沢の人々はなにげないも の,とりたてて価値のないものと考えていた自分 たちの暮らしや生き方が,実はとてもすばらしい ものであったことに気づき始めたのである.

 やがて,会議の雰囲気も変化してきた.実は,

先の会議の場面を紹介したときに,「役場はあの 道をいつになったら直すんだ」という声があった と書いたが,その道とは,木沢集落にある「二子 山」と呼ばれる山にある遊歩道のことだった.二 子山は山頂に神社もあり,そこから眺める景色は 絶景で,木沢の人々にとって大切な場所だった.

その山頂から見える景色を,ぜひ大学生にも見て もらいたいということになった.そして,役場を 待っていてもいつになるか分からない,地震のと きも自分たちで道を復旧したじゃないか,あのと きのようにまたみんなで力を合わせればなんとか なるんじゃないかと,二子山遊歩道の自力復旧が されることになった.

 こうして,少しずつ「役場が」が「自分たちで」

というように語り口が変わっていった.そして,

会議の中でも,村の将来についての議論ができる ようになっていった.2007 年 12 月から 2008 年 2 月までの間には,「冬会議」と呼ばれた徹底的な 話し合いの場がもたれた.合計 9 回,特に 1 月後 半から 2 月は,毎週会議を開き,自分たちの活動 が何をめざすのか,そのときに大事にしたいこと は何かが話し合われた.その結果,「体験交流を 通した定住促進と永住促進」という活動理念がつ くられた.この言葉には,外部の人たちとの交流 を通して元気を得て,木沢にいま住んでいる人,

あるいはこれから木沢に移住してくれる人が,

ずっと安心してこの地に住むことができる村づく りをめざそうという思いが込められている.そし て,この活動理念を達成するための原則として,

「木沢復興 7 か条」が定められた.これは,「1.

木沢にしかできないことにこだわる」,「2.木沢 らしさを楽しむ」,「3.木沢らしさを伝える」,「4.

みんなでやる」,「5.収入を得られるようにする」,

「6.よその人や,何度も来てくれる人を温かい気 持ちで迎える」,「7.適切な情報を発信する」か らなっている.この「7 か条」は,のちに木沢集 落でまとめられた復興記念誌の最初のページに,

木沢から眺めた美しい山の風景を背景に,誇り高 く掲げられている.木沢集落では,その後,2010 年 4 月に,地震直前に廃校となっていた旧木沢小 学校が,宿泊型体験交流施設「朝霧の宿 やまぼ うし」としてリニューアルオープンした.そして,

木沢集落住民がその指定管理を担い,これらの活 動理念を達成するための拠点として活用してい る.大学生との交流をきっかけに,木沢集落では 主体的な復興が進んでいった.もちろん高齢化は 一層深刻になっているし,人口減少も残念ながら とまらない.しかし,さまざまな課題を抱えなが らも,集落住民は自分たちの暮らしを豊かにする 活動を楽しみながら続けている.そして,木沢の 豊かさを発信しながら,今もさまざまな人を勇気 づけている.実は,中越地震の復興過程では,こ の木沢集落のように,地震をきっかけに村を訪れ るようになった外部の人々との出会いをきっかけ に,自分たちの地域の価値に気づいて,それを活 かした復興がなされた村が多くある.木沢集落の 復興は,中越地震からの復興の象徴的な例のひと つといっていい.

 ちなみに,懸案だった水の問題であるが,復興 基金のメニューが弾力的に運用されるようにな り,木沢の中でも復興基金の補助を受けてボーリ ングを行い,地下水を入手することが可能となっ ていた.木沢の事例は,ただ問題が解決されるの を待っているのではなく,それまでに自分たちで やれることは自分たちでやるという考え方のもと

(11)

さまざまな活動を展開できたこと,その過程の中 で自分たちの暮らしのもっている潜在的な豊かさ や力に気づいていったことが重要だったことを示 しているだろう.

5.3.  中越地震復興の本質的課題―諦め感,依 存心,無力感の歴史的背景―

 あらためてふりかえると,木沢集落では,当初 は復興にあたって,諦め感や依存心,無力感が根 強く,村の将来を考えようとしても,なかなか語 ることができなかった.しかし,大学生との交 流,対話を通して,自らの暮らしの豊かさに気づ いていった.そして,復興の目標を議論すること ができるようになり,主体的な復興が進んだので ある.しかし,ここで疑問が残る.私を含め大学 生たちが出会ったように,村人はとてもたくまし い人々であった.「自分のことは自分でやる」と いう気概をもって,地震直後には自分たちで道を 直してしまうような人々である.それもそうだろ う,山間部に位置し,冬季は豪雪の地では,自分 のことは自分でという自助の意識なくしては,生 きていけないだろう.そんな厳しい自然環境を,

自分たちの手で切り開き,より豊かな生活を育ん できた人々であったのだ.それがなぜ,復興にあ たっては,諦め感,依存心,無力感が先に立って しまったのだろうか.その背景には,この地域が 歩んできた戦後の歴史がある.

 高度経済成長を経て,戦後の日本社会は経済的 な繁栄をとげていくが,中越のような中山間地域 はまだまだ貧しい生活を送っていた.都市と地方 の格差が広がっていたのである.そんな山の人々 の意識に決定的に影響を与えたのはテレビと冬季 間の出稼ぎだった.テレビは,中越の山の中のお 茶の間に,直接,きらびやかな都市の生活を届け た.また,出稼ぎで都市を訪れた人たちはその生 活を目の当たりにしていた.次第に,中越の人々 は,それまで所与のものとして当たり前だった村 での暮らしが,都市と比べて大変不便な,遅れて いるものだと感じ始める.そして,都市との不平

等感,不公平感を強めていくことになる.そのよ うな状況の中でこの地域が輩出した政治家が田中 角栄である.田中は,すでに保守の有力者がいた 都市部を避けて,辺境の村を熱心にまわり,支持 を固めていく.そして,「三国の山々を切り崩し てしまえば,日本海の季節風は太平洋にぬけま す.魚沼にも雪は降らなくなるんだ」といった豪 快な演説で人々を魅了していく.田中は,自らの 選挙区の,とりわけ山間僻地からの要望,いわゆ る陳情を積極的に取り次いでいく.そして,その 見返りとして,これらの選挙区では田中の後援会 が組織され,陳情との引き換えに巨大な票田と なっていった.これが,田中が確立した陳情政治 と呼ばれる仕組みである.

 ここで,中越地域の人々の間に,ある見方が確 立されていく.それは,自分たちの地域や生活 を,都市との対比において「何がないのか」とい う欠如でもって見る視点,そして,それを行政や 政治家にお願いすることで村が豊かになっていく という見方である.自らを価値のないものとして 説得的に語ることで,物質的な豊かさを享受する という繰り返しがなされていった.確かに,陳情 によって,トンネルが通り,冬季間の除雪作業が 支援され,村の暮らしは便利になっていった.し かし,それでも過疎化はとまらなかった.便利に なったトンネルを通って,若い世代は村を離れ続 けたのである.その結果,中越地震が起きた頃に は,過疎化をはじめとした課題は決して自分たち にはどうにも対処できないものなのだという無力 感と,子どものいない年寄りばかりの村にはもは や未来なんてないのだという諦め感,さらにはだ れか何とかしてくれという根強い行政依存が残さ れていたのだった.

 実は,木沢の事例で,当初の会議が「水がない」

の連呼で話し合いが前に進まなかった事情も,こ うした中越地域の歴史的な背景が関係している.

「水がない」が意味していることは,直接的には 農業用水の不足の問題だが,より敷衍して考えれ ば,「○○がない」という欠如でもってしか自ら

(12)

の地域を見ることができない状況にあったとも見 ることができる.事実,「水がない」とともに,「子 どもがない」,「珍しいものがない」などと,当初 は何がないのかが盛んに語られていた.本当は,

日々の生活の中で,感受している豊かさがあるの に,いざ「復興について話し合いましょう」とい う場では,「○○がない」という語り口でしか言 えなかったところに,木沢集落の当初の閉塞感の 正体があったのである.

 地震から 10 年たってみて,つくづく思ったこ とがある.先に,中越地震は,折からの過疎化が 深刻で,元に戻るだけでは十分ではないことが容 易に想像されたために,復興とは何かを問いかけ た災害だったと書いた.実際,私も含めて被災地 に関わる人々は,「地震の被害も大変ですが,本 当の課題は,過疎・高齢化だったんです」としば しば語ってきた.しかし,今からふりかえってみ ると,本当の課題は,過疎化ではなかった.本当 の課題は,地震の被害や過疎の問題に対する人々 の心の構えであった.これらの問題が,自分たち が取り組める問題と思えるのか,その問題に向き 合う力を自分たちは有しているのか,そうした意 識をもつことがなかなか難しかったところに,中 越地震の復興の本質的な課題はあったように思う のだ.

6.  アクションリサーチの主体形成

―「めざす」かかわりと「すごす」か かわり―

 さて,本稿の問いに戻ろう.本稿は,アクショ ンリサーチの主体形成の問題を論じていたので あった.何らかの実践において,その問題の最も 近くにいる当事者が主体性をもち得ないとき,ア クションリサーチはうまくいかなかったり,か えって事態を閉塞したものにしたり,当事者の無 力感を強めることさえある.それをいかに回避す るのかが,本稿の問いであった.このような視点 から,木沢集落の事例をふりかえってみると,木

沢集落においては外部者による 2 種類の働きかけ があった.ひとつは,フレンドシップ木沢の当初 の会議で,復興の目標について議論をしましょう といった,地域に変化を求めるかかわりである.

もうひとつは,大学生らが畑仕事や山歩きを通し て,村人と交流したかかわりで,前者と対照づけ て考えれば,地域に変化を求めるというよりも,

地域が気づいていなかった潜在的な価値に気づく きっかけとなったかかわりである.通常,復興支 援であるなら,問題含みの現状を改善,改革しな いといけないのだから,前者のようなかかわりが とられるのは当然だろう.しかし,木沢の事例で は,前者がなかなかうまくいかなかった.それに 対して,後者のようなかかわりが,結果的には現 状を変革していくことにつながった.なぜ「より よい状態をめざす」ことが当事者の閉塞感につな がってしまうことがあるのだろうか.これは敷衍 して考えれば,復興支援だけでなく,現状改革志 向をもつアクションリサーチも抱えてしまうパラ ドックスが存在するということだ.

 なぜ,「よりよい状態をめざす」ことが閉塞感 を強めてしまうことがあるのか.ここで,肥後

(2015)が提起する「めざす」かかわりと「すごす」

かかわりの議論が参考になる.肥後は,保育現場 の子どもたちと接する中で,何らかの問題を抱え る子どもたちが,何かが「できる―できない」こ とをめぐる傷つきに多かれ少なかれ出会っている ことに気づく.何かが「できる」状態を「めざす」

ことは,もちろん子どもたちの成長にとって大切 な要素であるが,「成長するに従ってめざしたよ うにはいかないこと,しょせんとどかないこと」

が目に見えてきて,「それでも『めあて』にむかっ て目指す生活態度のみ求められると,次第に充実 感や達成感よりも,緊張感,失敗への不安,『で きない』ことや『変わらない』ことからくる無力 感のほうが大きくなってくる」という.そこで,

「めざす」生活態度が活かされるためには,もう 一方で,「変わらなくてよい」,「このままでよい」

というメッセージを含んだ「すごす」かかわりが

(13)

形成されていることが大切だと肥後は指摘する.

 「めざす」かかわりが頓挫するのは,端的に言っ て,「よりよい状態をめざす」ことが暗黙のうち に現在の存在を否定しているからである.現在が 十分でないからよりよい未来がめざされる.その とき,その対象が,そもそも現在の自分自身を否 定的にみることで無力感を抱いているのだとした ら,「めざす」かかわりはその無力感を強めるよ うに働いてしまうのである.「よりよい状態をめ ざす」アクションリサーチが,事態をより閉塞し たものにしてしまうことがあるのはこの機制によ る.それでは,どのようにこの閉塞感を突破する ことができるか,それは,「変わらなくてよい」

という「すごす」かかわりである.先の集落の例 で言えば,大学生らとのかかわりの中で村人が見 出したことは,何気ない日常の中にある自分たち の豊かさであり,それを築きあげる自らのたくま しさだった.注意しなければならないことは,「す ごす」かかわりは問題含みの現状を肯定している のではないことだ.「すごす」かかわりが肯定し ようとしているのは,当事者自身が気づいていな かった自らに備わる潜在的な力のことである.「す ごす」かかわりによって,力を取り戻した当事者 は,初めてそこで「よりよい状態」をめざすこと ができるようになる4)

 積極的な未来を構想することが難しかったり,

当事者に諦め感や無力感が漂っているときには,

アクションリサーチはまずは当事者に本来備わっ ていた力が回復されるような,当事者の現在の存 在の肯定につながるような実践から始まるのが,

アクションリサーチの困難を回避する方策であ る.しかも,その実践は決して一方向的になされ るのではない.木沢の例をふりかえれば,木沢を 訪れた私を含めた大学生たち自身も,木沢の人た ちとの交流を通して,自分自身の生き方や豊かさ 観を見直していった.その姿を通して,木沢の人 たちも,足元の豊かさに気づいていった.これは,

グループ・ダイナミックス流に説明すると,大学 生たちの集合流と木沢集落住民の集合流が出会

い,互いに変化させながら,あるひとつの集合流 をつくっていったのだといえる.そこでは,研究 者自身も自分の生き方を見つめなおすこととな る.研究対象を変化させないどころか,研究対象 に出会って研究者自身が変化する,それとともに 研究対象も変化する.グループ・ダイナミックス のアクションリサーチは,このような関係の中に おいて行われることとなる.

 積極的な未来を構想することが難しいというの は,実は相対化が進むといわれる現代社会全体が もっている性質である.それゆえ,現代社会のア クションリサーチは,多かれ少なかれ,本稿で言 及したような当事者の主体性の喪失と回復の問題 に関係するのではないかと思う.そのとき,現代 社会のアクションリサーチは,研究者を含めて,

それに関わるひとりひとりが,自らの生を支える 豊かさをもう一度問い返すことから始まるのでは ないだろうか.

1) キョウドウは,「共同」,「協同」,「協働」,「恊働」

と同音語が多く,「キョウドウ」的実践の表記も 論者によって異なっている.ここでは,「キョウ ドウ」的実践の提唱者である杉万俊夫からの引 用は,原著のまま「協同的実践」とし,その他 のところでは,「キョウドウ」的実践が研究者と 当事者がともに現状変革に向かって働きかけを 行う側面を強調するために,「協働的実践」と表 記する.

2) 現地とのかかわりを整理すると,私は 2005 年 5 月に初めて中越を訪れ,同年秋以降は月の半分 を現地ですごしながら市民会議のスタッフに同 行して被災地を訪れていた.2006 年 4 月から同 年秋までは現地に居住し,市民会議のスタッフ として集落再生の現場に関わった.その後も継 続的に現地を訪れ,2008 年 2 月からは再び現地 に居住した.このときは,市民会議のスタッフ であったが,集落再生ではなく,復興について 研究・発信するための仕事を担当した.その後 は,平均して月に 1 度ほどのペースで現地を訪 問している.

3) 木沢集落の復興過程については,外部支援者と のかかわりにおいて復興の目標がいかに生成す

(14)

るのかを論じた宮本・渥美(2009)や,その内 発的な復興過程のプロセスを理論的に論じた宮 本ら(2012),さらに 2010 年から木沢集落住民 と協働的に行われた生活実感調査の内容と当事 者が自らの生活を評価することを論じた宮本・

草郷(2014)などで論じている.

4) 宮本(2015)では,肥後の論考を参照しながら,

復興支援における「めざす」かかわりと「すごす」

かかわりの関係をより詳しく論じている.

参考文献

肥後功一(2015)『改訂版通じあうことの心理臨床

―保育・教育のための臨床コミュニケーショ ン論』同成社.

Lewin,  Kurt  (1948)  Group  decision  and  social  change.  In Newcomb, Theodore M. & Hartley,   Eugene L. (Eds.)  .   Henry Holt.

Marrow,  Alfred  J.  (1969)  The  practical  theorist: 

The life and work of Kurt Lewin. Basic Books

(望月衛・宇津木保訳(1972)『クルト・レヴィ ン:その生涯と業績』誠信書房).

Merton, Robert K. (1957) 

.  Free  Press(森東吾・森好夫・金沢

実・中島竜太郎訳(1961)『社会理論と社会構造』

みすず書房).

宮本匠(2015)「災害復興における めざす かか わりと すごす かかわり―東日本大震災の 復興曲線インタビューから」『質的心理学研究』

14,6―18.

宮本匠・渥美公秀(2009)「災害復興における物語 と外部支援者の役割について〜新潟県中越地震 の事例から〜」『実験社会心理学研究』49,17―

31.

宮本匠・渥美公秀・矢守克也(2012)「人間科学に おける研究者の役割―アクションリサーチに おける『巫女の視点』」『実験社会心理学研究』

52,35―44.

宮本匠・草郷孝好第一著者)(2014)「住民主 体の災害復興に資する地域生活改善プロセス評 価手法の有効性―新潟県長岡市川口木沢地区 の事例」『日本災害復興学会論文集』6,22―31.

杉万俊夫(2013)『グループ・ダイナミックス入門

―組織と地域を変える実践学』世界思想社.

八ッ塚一郎(2014)「アクションリサーチの哲学と 方法」やまだようこ・麻生武・サトウタツヤ・

能智正博・秋田喜代美・矢守克也編『質的心理 学ハンドブック』新曜社.

(15)

Study on subject formation in action research:

Case study on the long-term recovery process from the Niigata Chuetsu earthquake

Takumi Miyamoto

University of Hyogo Education and Research Center for Disaster Reduction

  Action research cannot succeed when stakeholders are not responsible for their issues or do not have a sense  that  they  can  solve  their  problems.    Action  research  could  even  be  detrimental  to  stakeholders  because  it  assumes that it should change the present state into a better one.  Although action research s desire for change  is  reasonable,  when  stakeholders  view  themselves  as  powerless,  action  research  could  reinforce  their  sense  of  powerlessness.  In such cases, it is important that action researchers attempt to help stakeholders recover their  sense of power.  The present study demonstrates how to avoid this paradox of action research using a case of  action  research  conducted  from  a  group  dynamics  perspective  in  the  long-term  recovery  from  the  Niigata  Chuetsu earthquake.

Key words: action research, group dynamics, subject formation,   approach,   approach

参照

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