1政教分離の制度
まず、丸山が信教の自由にたいする国家権力の窓意的な発動を阻止し、それを制限しうる法的制度・立法の原理三自由の条件
政治権力と自由︵下︶
l丸山真男の﹁信教の自由﹂論を中心にI
李鋳哲
133 前稿においては、政治権力には自己目的化と画一化の必然的な傾向により我々の精神的自由を侵害しうる危険性 が潜んでいるという丸山真男の所論を明らかにした。それでは、こうした政治権力の危険性から我々が信教の自由 を最大限に確保するためにはいかなる条件が必要なのであろうか。丸山は法的な制度の保障、宗教者自らにおける 抵抗の精神、そして政治的活動を強調する。本稿においては、これらの問題について検討することにしたい。として強調するのは、政教分離の原則である。つまり、法によって、政治と宗教の領域・目的を分離し、国家によ る宗教への介入、そして宗教による政権への直接的な関与を禁止することである。 丸山はこうした政教分離の原則の重要性について、ョ−ロッパの近代国家の理念を強調し、またジョン・ロック の政治思想の﹁現代的意味﹂を評価するなかで、つぎのように指摘している。 近代国家は周知の如く宗教改革につづく十六、十七世紀に亘る長い間の宗教戦争の真只中から成長した。信 仰と神学をめぐっての果しない闘争はやがて各宗派をして自らの信条の政治的貫徹を断念せしめ、他方王権神 授説をふりかざして自己の支配の内容的正当性を独占しようとした絶対君主も織烈な抵抗に面して漸次その支 配根拠を公的秩序の保持という外面的なものに移行せしめるの止むなきに至った。かくして形式と内容、外部 と内部、公的なものと私的なものという形で治者と被治者の問に妥協が行われ、思想信仰道徳の問題は﹁私事﹂ としてその主観的内面性が保障され、公権力は技術的性格を持った法体系の中に吸収されたのである。︵強調 この世紀の中頃には、果てしなき﹁神々の争い﹂に対する倦怠と嫌悪の一般的感情を背景として、大陸︵と くに亡命者の国オランダ︶にも英本国にも寛容と信仰の自由の思想が成長して来た。人々は宗教が国家権力と 結び付くときに如何なる結果をもたらすかを痛切に学んだ。ロックは畢寛こうした一般的動向を代表したケン ブリッジ・プラトニストや広教会派︵F三三口胃言い︶の影響を受けつつ、宗教と政治権力との完全な分離を 主張するに至ったのである。 は丸山︶ 134 ところで、一言で﹁政教分離﹂といっても、その原則の具体的な内容をめぐっては様々な観点がありうる。例え ば、アメリカのような宗教に友好的な政教分離と、旧ソ連のような宗教に非友好的な政教分離がありうるだろう。
そして、政教分離の対象になる﹁宗教﹂、または﹁宗教的行為﹂についても、その範囲にかんする規定をめぐって 多様な法理論上の解釈がありうる。また、宗教団体の政治活動の範囲をどこまで禁止するかという問題にかんして も意見が分かれるだろう。さらに、﹁分離﹂という場合、それが人的レベルにおける分離を指すのか、それとも、 機能的な分離を指すのかという問題もあるだろう。 丸山はこのような政教分離をめぐる諸問題をそれ自体として具体的に論じていない。それは、前稿で言及したと おりに、彼が入信した経験を持っていなかったということと、それ故に、具体的な状況において宗教者の主体的な 立場から信教の自由の問題と対決しなかったことに起因するものと思われる。また、制度よりも、制度を営む精神 の重要性を強調するという彼の学問的姿勢とも関わっているだろう。 しかし政教分離の具体的な解釈の問題において、少なくとも丸山が、宗教に友好的な立場から可能な限り国家に よる宗教への介入を最小限度にとどめるという原則を堅持していたことは間違いないと思う。それは何よりも、前 稿で検討した彼の政治権力の危険性への理解から根拠づけられるだろう︵その他に、戦前の﹁超国家主義﹂Ⅱ国家 神道体制や戦後の民主主義の行方にかんする彼の批判的な理解をその根拠として指摘しうるが、ここでは立ち入ら ないことにする︶。ともあれ、丸山において政教分離の法的制度は信教の自由を確保するための最も基本的な条件 であるといえる。
2抵抗の精神
他方、丸山は宗教者自らに要求される主体的な条件として権力にたいする﹁抵抗の精神﹂を強調している。前稿 で見たように、政治権力には必然的に自己目的化と画一化への傾向が潜んでおり、それ故に、権力への監視を怠る 135 政治権力と自由(下)被治者にたいしては、常にいかなる法的・制度的制約を突破し、被治者の内面性の自由を浸食しようとする。従っ て、信教の自由への真の唯一の防衛手段は、結局のところ、宗教者自らの自発的意志のみであり、そのなかでも特 に要求されるのが権力への批判意識と抵抗の精神であるといえる。このことについて、丸山はある座談会でつぎの ように述べている。 136 自由というものは、いつの時代でも抵抗の精神によって担保されている。﹁抵抗の精神﹂というのは、体制 を革命するとかしないとかということと独立した次元の問題です。けれども、権力にたいする抵抗、また、お よそ権力の立ち入ってよい事柄と立ち入るべからざる事柄との弁別の意識を欠落してしまったら、自由主義者 のミニマムの条件を欠くことになる。 それでは、政治権力にたいする宗教者の抵抗の精神はいかなる宗教的原理や政治的態度より生まれるのであろう か。丸山によれば、権力への抵抗の精神は、政治への﹁規範主義﹂の態度と、内面的人格への信仰に基づいた﹁非 政治的態度﹂という二つの立場により可能である。 まず、前者の政治的規範主義の場合、彼は歴史上の実例として日蓮の思想に注目する。日蓮の鎮護国家論は、丸 山によれば、仏教を王法との緊密な内的関係に置いたという点で﹁著しい政治的性格﹂を持つものである。そして それは、﹁本地垂迩思想に基づく神国観念を強調するに至って⋮⋮汎日本主義へと発展する﹂ものである。しかし それにもかかわらず、日蓮の鎮護国家論は、﹁現実の政治社会を所与として前提して、これを仏法が鎮護するとい う趣旨の伝統的なそれとはきわめて異り、正法を基準として現実の体制を裁くという批判的性格が強く前面に出て いる﹂。丸山は、当時の政治権力にたいする日蓮の積極的な抵抗の精神がこうした政治的規範主義の態度から生ま れたものである、と捉えている。
が、クリ﹃ している。 しかし、信教の自由のための抵抗の精神という当面の課題において、丸山がより強調することは、後者の立場、 つまり人格の内面性に基づいた非政治的態度である。なぜなら、人格の内面性の窮極的価値への信仰が﹁政治権力 への合一化を原理的に拒否しうる﹂からである。そしてこの場合において、丸山が宗教史のなかで特に注目するの か、クリスト教の原理と親鷲の思想である。まずクリスト教における抵抗の論理について、彼はつぎのように指摘 クリスト教的倫理が政治権力への合一を原理的に拒否する倫理として登場したということは、それがつねに 政治権力に対する批判的な或いは進んで革命的な契機として作用したという意味ではない。むしろその点から いえば歴史的にクリスト教会は旧教であれ、新教であれ、政治権力に対する絶対服従を教え、若しくは進んで これをジャスティフアイする役割を演じた場合の方がはるかに多かったことは歴史の明らかに示すところであ る。にも拘らず、クリスト教の出現が当面の問題にとっても、世界史的な意味をもつ所以は、それが社会的乃 至政治的平面に解消し尽されない人格の次元を人間に開示することによって、一方には﹁カイゼルのもの﹂の 絶対化を永遠に拒否すると供に、他面単なる現世からの逃避ではなく、むしろ彼岸的な活動のl従ってまた政 治社会形成の内面的なエネルギーとして働いたことによって、権力と道徳の間の緊張がある程度つねに再生産 される結果となったからである。︵強調は丸山︶ そして、後者の親鴬についてはつぎのように述べている。 親鷲の思想の社会的言己胃呂。弓[意味連関]といえば、彼の第一の関心は万人の彼岸における救済にあるの であるから、政治権力にたいする批判の重点は、⋮⋮直接的に権力にたいする闘争にあるのではない。むしろ ルッテル[Ⅱルター]の受動的服従と通じる︵9コ︲己○言旦な態度で、四三︲己○三星ではない︶。しかしそこに 137 政 治 権 力 と 自 由 ( 下
つぎのように強調している。 9 貫かれている。 ところで、ここ︽ 信仰が内面的であるということは、必ずしも信仰が行為に関係しない、ただ心情の中だけの問題であるとい うことでもなければ、また、信仰から出る行動範囲が教団や道場の内部とか家の中とかいった非社会的なlそ の意味で私的なl領域に限られることを意味するものでもない。範囲や領域に関する限り人間行動のあらゆる 領域にわたって信仰の原理が浸透するのでなければ、彼は一つの人格として信仰をもっているとはいえないは ずである。したがって、宗教は政治や道徳と次元を異にするにもかかわらず、宗教行動は政治的秩序や倫理的 秩序と交錯し、そこに宗教の立場からする政治や社会の批判が不可避となる。このことは、たとえば政治が祭 政一致のイデオロギーに立って内面性に干渉してくるときにもっとも明白に現われる。そのとき信仰者は、特 は重要な意味がある。第一に、信仰にたいする俗権の弾圧を拒否する原則︵内面性を侵すべからず︶はいつも 138 ところで、ここで注目すべきことは、丸山がこのように抵抗の精神における人格の内面性への信仰や非政治的態 度の重要性を強調する際、それが現実政治に無関心であるべしという意味ではないという点である。このような誤 解は、丸山によれば、人間の内面と外面とを﹁空間的な領域の問題﹂として機械的に分かつ思考から由来するもの である。そして、政治的無関心を説く教説からは、抵抗の精神どころか、﹁俗権のいかなる行動に対しても、これ ⑩ に黙従し、すすんでは、これに積極的に追随する態度さえ生み出されてくる﹂のである。 丸山の真の意図は、人間の内面的信仰と外面的行為とが不可避に結びついており、それ故に、宗教が内面的な信 仰に徹すればするほど、政治権力の干渉により徹底に抵抗することになる、というところにある。彼はこのことを ﹁非政治的動機からの政治行動﹂として概念化し、宗教者が信教の自由を確保するにおいて最も重要な要因として
3政治的活動
さらに、丸山が信教の自由に欠かせないもう一つの主体的条件として強調するのが宗教者自らの積極的な政治的 活動である。この場合、政治的活動とは、選挙などへの参政権の行使を含めて、日常的な政治への関心と能動的な 政治への参与を通して主体的に政治的秩序を創り出そうという努力を意味する。従って、前項での抵抗の精神が丸 山の自由主義的立場からの要求であるとすれば、ここでいう政治的活動は彼の民主主義的立場からの要求であると 丸山はこのような政治的活動の重要性について、人間の内面性の自由一般が近代国家における﹁私的自治 ︵宝ぐ畠昌。弓。目①︶の原則﹂と不可分の関係にあるという点を強調するなかでつぎのように述べている。 思想・信仰・言論等々の自由が﹁私事﹂として、その不可侵が国家権力によって承認されたことは、近代国 家における市民の公事︵言三o四雪﹃の︶参与の前提条件をなすものであり、公権力の具体的な行使が私的自治 を伸張するか抑圧するかということが、市民の権力への監視の基本観点になっているのが、ノーマルな市民的 デモクラシーのあり方なのである。︵強調は丸山︶ しかしながら、このように市民の政治への自発的参加が自らの自由の確保において必要不可分のものであるにも かかわらず、現代人の間にはむしろ政治にたいする無力感と無関心が急速に広がっていくのが現実である。丸山は 0 1 い蚤えう勺。 定の政治的目的からする政治行動ではなくて、まさに信仰の次元からして、信仰を守るためにこれに対する干 渉を排除するための社会的・政治的行動に出ざるをえないだろう。それは非政治的動機からの政治行動である。 ︵強調は丸山︶ 139 政治権力と自由(下)して挙げている。 こうした現象を現代民主主義における﹁最も大きな矛盾﹂として捉えながら、特につぎの三つの要因をその原因と 140 まず第一に、多様な政治機構が複雑化し、その規模が国際的に拡大したことである。これにより、﹁政治をコン トロールしているのは﹃我々﹄でなく﹃彼ら﹂だ﹂という無力感と絶望が生じるのである。第二に、現代社会が高 度に官僚化・専門化したことである。従って、﹁仕事の﹃意味﹄ではなしにその﹃効率性﹂だけに関心が集中する﹂ ようになり、ここから政治への無関心な態度が生まれる。第一一一に、マス・コミュニケーションを始めとする消費文 胴 化が急速に発達し、大衆の関心が非政治的な対象に集中することになったのである。 さらに丸山は、このような大衆の政治への無力感と無関心がもたらす政治的結果に注目する。まずそれは、特定 の危機状況のなかで積極的に﹁非合理的な行動主義﹂に転化しうるものである。また、より消極的には、現実のあ ぃ らゆる政治状況の承調恥と維持という保守的な役割を果たす。しかし、ここで丸山が何より強調するのは、﹁政治的 無関心が権力の濫用や腐敗を生み、それがまた逆に国民の政治に対する嫌悪と絶望をかきたてるという悪循環﹂の ⑰ 現状である。つまり、前稿で検討した権力の自己目的化と画一化の傾向を深化させるという点である。政治的無関 心がもたらすこうした結果が信教の自由の侵害ないしは全面的な喪失と直結するということは言うまでもない。 それでは、現代における大衆の政治的無力感や無関心の状況を克服するためには、宗教者︵宗教団体︶にどのよ うな政治的活動が要求されるのか。この問題について、丸山が宗教団体に特に期待するのは、﹁大衆の自主的な批 旧 判力と積極的な公共精神を不断に喚起する﹂ことである。そしてこのことは、宗教団体が日常的な生活のなかで常 に﹁公共の問題を討議する場﹂Ⅱ﹁討議的公共圏︵号呂邑ぐ①冒三oの︶﹂として機能することにより可能である。つま り、ある政治的意思の産出、または実現というよりは、討議の過程それ自体が大事なのである。丸山は、このこと
以上、前稿の政治権力論に続いて、丸山が権力の危険性から信教の自由を確保するためにいかなる条件を強調す るのかという問題について検討してきた。最後に、丸山の信教の自由論が今日の我々に示唆するところが大きいと 思われるつぎの三つの点を要約的に指摘することで結びに代えたい。 第一は、国民国家次元の政治権力に潜んでいる危険性にたいする強調である。このことは、宗教者が信教の自由 のためには、必然的に︵または永遠に︶自国の政治権力との間に緊張関係︵場合によっては対立関係︶に立たなけ ればならないことを意味する。さらにこの点は、国益や党益を越えた宗教者の責任や活動が切実に要求される今日 の状況において、特に大きな意味を含んでいると思う。 そして第二に、法的な制度以上に、宗教者自らの自発的意志が要求されるという点である。特に、信教の自由の ために日常的な権力への監視や抵抗の精神がいかに重要であるかは、権力の自己目的性に関する丸山の分析により 要であるかを強調するなかで、つぎのように述べている。 について、宗教団体を始めとする﹁自主的組織﹂の政治的活動が現代民主政の健全性を維持するにおいていかに重 民主主義を現実的に機能させるためには、なによりも何年に一度かの投票が民衆の政治的発言のほとんど唯 一の場であるというような現状を根本的に改めて、もっと、民衆の日常生活のなかで、政治的社会的な問題が 討議されるような場が与えられなけらばなりません。それにはまた、政党といった純政治団体だけが下からの 意思や利益の伝達体となるのでなく、およそ民間の自主的組織︵ぐ。一目国Qo偶三圃呂○口︶が活発に活動するこ 、 とによって、そうした民意のルートが多様に形成されることがなにより大事なことです。︵強調は丸山︶
四むすびに
141 政治権力と自由(下側﹁ジョン・ロックと近代政治原理﹂︵一九四九年︶、集四、二○一一頁。 側この問題と関連して、例えば、真田芳憲﹁靖国神社国家護持の現代的問題﹂︵﹁中央学術研究所紀要﹂第二号、一九八 二年︶、一一一九’四九頁は、﹁神社﹂や﹁祭祁﹂の宗教性を法理論の観点から論じている。 側飯坂良明﹁未来への軌跡lある政治学者の思想と行動l﹂︵四谷ラウンド、一九九五年︶、一八六’一八八頁を参照。 側例えば、﹁﹁である﹂ことと﹁する﹂こと﹂︵一九五九年︶、集八、一一一三’一一一七頁を参照。 ⑥﹁丸山真男座談6﹂︵岩波書店、一九九八年︶、一六一頁。 、﹁丸山真男講義録[第四冊]﹂︵東京大学出版会、一九九八年︶、一六七’二六八頁。 ⑧﹁権力と道徳﹂︵一九五○年︶、集四、二六七頁。 ⑨﹁丸山真男講義録[第四冊]﹂、二五○頁。 注 山﹃丸山真男集﹂︵岩波書店、一九九五年︶第三巻、一九’二○頁。以下、丸山真男集は集と略記し、巻数は漢数字のみで 記する。 142 充分に根拠づけられていると思う。 第三には、宗教者だけでなく、一般大衆の政治参加や政治意識の高揚が必要であるという点である。この点にか んしても、今日の大衆社会において、大衆の政治的無関心が政治権力の専制化をもたらし、さらにそれが信教の自 由の喪失への危険性を高めるという丸山の分析は示唆するところが大きいと思う。政治権力から信教の自由を確保 し、またそれを維持するためには、大多数の社会成員の﹁公民﹂化が前提条件となるのである。
⑲丸山における﹁自主的結社﹂論の展開、そしてそれの﹁討議的公共圏﹂としての性格については、斉藤純一﹁丸山真男 における多元化のエートス﹂︵﹃思想﹂、一九九八年一月号︶、七’八頁を参照。 ⑳﹁政治の世界﹂︵一九五二年︶、集五、一八九頁。 ⑫政治権力からの自由のための政治的活動の重要性については、加藤節ヨ政治﹄と﹁自由﹄l﹁政治的自由﹂に関する 一つの試論l﹂︵﹃思想﹂、一九九一年五月号︶が自由論の観点から優れた分析を行っている。 ⑬丸山の政治思想の全体像を自由主義原理と民主主義原理との緊張関係のなかで分析したものとしては、笹倉秀夫﹁丸山 真男論ノート﹂︵みすず書房、一九八八年︶が代表的である。 ⑭﹁現代政治の思想と行動第一部追記および補註﹂︵一九五六年︶、集六、一一八九頁。 ⑮﹁政治学事典執筆項目政治的無関心﹂︵一九五四年︶、集六、一一四’二六頁。 ⑯前掲害、一一七’二八頁。 ⑰﹁政治の世界﹂︵一九五二年︶、集五、一八三頁。 ⑱前掲害、一九○’一九一頁。 ⑲丸山における﹁自主的結社﹂論の展開、そしてそれの﹁討議的公共圏﹂としての性格については、斉藤純一﹁丸山真男 ⑫(11)(10リ 前掲書、三○一一一頁。 前掲書、一一一○三頁。 143 政治権力と自由(下)