• 検索結果がありません。

駒澤短期大學佛教論集 2 014袴谷 憲昭「成仏ノート」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "駒澤短期大學佛教論集 2 014袴谷 憲昭「成仏ノート」"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty 駒 澤 短 期 大 學 佛 教 論集第

2

號 

1996

10

(1

 

 

 

1

 本稿

は、 私の

る種の 驚

問 を述べ 、 それによっ て 一 問 題提 起 を な して み よ うと願 うと共 に、 こ れ を公 けに して お けば、た とえ充分 な検 討 を経て い ない も の ではあるにせ よ、私が調べ の で きな事 柄につ い て も、どなた か らか御教 示 を得 るこ と が で きるか も しれ ない の 考え か ら草される もの である。 こ ん なこ とを書け ば 、怠慢の謗 を免れ ない か も しれ ない 許 を賜 わ り

海容 を乞い たい

 

有体

に い ば 、

は 、つ い

数時間前

で は

仏教

と は、 (a) 「

」と

、 (

b

) 「

え」 とも

わ れ るが、 本 稿で は 、

に 後者 を念 頭に置 きなが ら、 「成 仏 」 の 問題 を論 じて み た い 、 とい うふ うに書 き出せ ば 、殊 更 問題 と な る よ うなこ ともある まい っ て い たの で ある が 、ひ っ と した ら、かか る仏

の 定

自体が 、曹 洞

籍 を

する学 者に

特 有

なこ とか

しれ ない との

い が頭 を掠 め る や 、書 き出 しか ら容 易 なこ と で はすま ない ような気が して きたの で ある。 あ る 意味 では 、

近 まで曹 洞宗に

を 置い い た 人 間 と して、 私 自身か極 め て甘か っ た か も しれ ない の であるが、 私 は、

抵 の 仏 教入門

の 冒頭は上 述の ご とき(aXb )二 つ の 仏教の

か ら始 まっ て い る もの と思い 込ん でい た節が ある。 しか し、い ざ

稿 を書 き始め よ うと思っ て、 必

し も出版さ れ てい る仏

入 門書の 多く を

め てい る 人

で は ない にせ よ、一応は手 元にある

種の 入 門

類 を

い て はみ た もの の 、 私 が 当

の ご と く予

し てい

の 入門 書が なっ てい た わ けで はな か っ た の で あ る。 しか るに、 その 冒頭が私の

予期

した よ うな

で始 まっ てい る

教入 門書の ほ と ん ど が 、曹 洞宗に僧 籍を有 す る著

な学 者に よっ て 著 わ さ れ てい るこ とが 歴 然 として くれば 、 それは

偶 然

の 一致 で

まさ れ る よ

な こ と で は な く なっ て こ よ

や、 その 理 由 は ほぼ明 らか に な っ た と私 に は思われるの で ある 一

272

N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(2)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (

2

) 成 仏 ノー ト (袴 谷) が 、それ を述べ に 、まず図 ら

も同 じ

1983

出版 され曹 洞

著 名 な三 人 の 学 者著 書 より、 その 冒頭箇 所 を引 き抜 い て示 して み る こ と に し よ う。 似 下、 引 用 中の ア ル フ ァ ベ ッ ト記号と 下線は袴谷 )

 

A

高崎 直道 著

仏教

入門』 (東 京 大 学 出版 会 、

1983

6

10

日初 版)       N    N    N

  

(a仏 教 と は、 文通 りに は 教 え 」、 す な わ ち 「ほ とけの 説い た教 え」 であ   る。こ れ は ち ょ うど、 キリス トの 説い た教 え をキ リス ト教と よ びマ ホ メ ッ ドの 説   い た教 え (す なわ ち イス ラム教 ) をマ ホ メ ッ ド教 とよぶ の と同 じ命名 法で ある。 こ       ぶっ       し や か む に

 

ご で 「ほ と け」 (仏 ・ブ ッ ダ)とい うの は ブ ッ ダ ・シ ャ ー キヤ ム ニ 〔釈迦 牟 尼仏〕、

 

り釈尊、い ゆ る釈 迦の こ と で、 釈 迦は仏 教の 「教 主」 で あ る。 仏教は シ ャ ー       さ と   キヤ ム ニ 自 ら覚 真 理 を知 ら い たもの で、こ の 「所説」 の 真理   を「法」 (ダン マ 、 ダル マ )と よぶ 。 し た が っ て、仏 教 は別の 言い 方 をすれ ば 厂仏 法 」   す な わ ち、 仏の 説い た 真 理である。    (

b

)とこ ろ で、シ ャ ーキヤ ムニ は何 ゆ えに 自 己の覚っ た こ と を他に語 っ たの か。 換  言 す れば、仏の 教 えは何 の が あっ て 生 まれ た の か、 とい うこ とを考 えて み る       し たが   と、 そ れ は 仏 の 教え を 聴 い た者が、その 教 え に随っ て実 践に励 んだ 結 果 、シ ャ ー キ   ヤ ム ニ と同 じよう な悟 りを得 るこ と を念 願 した か らで ある。 同 じ悟 りを得 れば ブ ッ   ダ と な る。 つ まり、仏教 は、 目的 的に 言 えば 「 と な る た め 教 え」 で あ る。 実践

 

を 「 」 とよぷ の で 、 仏 教は こ の見 地か ら、「仏 道」 とも よば れ る。 (

1

2

頁 )

 

B

)奈

良康

明 著 『 仏

え』 (東 京 書 籍 、

1983

10

14

日第

1

刷 )     仏 教 とは何だ ろ うか。    仏 教 と は(a 」 で ある、 と言 えば事 は簡単 だ し、 それ は そ れで問 違 っ て   い る わ け で は     しか し、 これは い か に も大 ざっ ぱ な 言 い 方で ある。 仏 教 、 とい うこ と ば に含 ま れ       り ん か く   る具体 的内容の 、 その輪 郭さ え を もじゅ うぶ ん に示 す もの と はい え ない D (

14

頁 )

 

B

良康明著 『仏 教 人 間

体 的ロ ー B訂 版 東 京書 籍 、 東書選書、

1993

10

23

日第

1

刷 )     仏 教 とは何だ ろ うか。

  

昔か ら仏教は(a 」 で あ る と同時に、 (

b

) 「 になる教え」 である、 とい

 

われて い る。 本書で はこ の 二 つ の 定 義 を軸に、 仏教の 「 意味」 をさ ぐっ て み た い 。    仏教と は 「 仏の教え」 である、 とい うい い 方は簡明 だ し、 まさ に その と お りなの  だ が、 しか し、こ れはい か に も大 ざっ ぱない い 方で あ る。 仏 教 とい うこ とばに 含 ま       りん か く  れ る具体的内容の 、 その 輪郭 さ え を もじゅ うぶ ん に 示 す もの と はい え ない 。(

12

頁 )

 

C

)奈

良康

明編 著 (第

7

章を除 く全体の 実 質著 者は松 本 史朗)『

仏教

』 (東京 一

271

(3)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty 成 仏 ノー ト 谷) (

3

) 書籍、

1983

10

14

日第

1

刷)= 松

史 朗著 『仏 教 道 』 ((

C

)の 改 訂 版 、東京 書 籍 、 東 書選書、

1993

6

26

日第

1

刷)

  

仏教は 、(aい た教 えで ある と ともに、(b)仏 に な る た め の え である とい   れ て い る。 で は、 仏に な る と は、 どの よ うな 意 味で あ ろ うか ,, 仏 に なる、 つ ま り、  成仏す る とい こ との 意味 内容は、 長い 仏 教 の 歴 史に お い て、 時 代 に よっ て も、 地  域 に よっ て も、 また 宗 派に よっ て も、さ ま ざ ま に異な っ て い る。さ ら に、 よ り厳 密  にい 仏教徒一.・一・に とっ て、 そ れは相 違 してい る とい え ない こ とも ない 。   しか し、これ らの すべ の 相 違を超越 して 、変わ るこ との ない 普的な理が あ る   と考 える か らこ そ、人は仏 教 徒で あ る との 自覚 をもつ の で あろ v 本 . 書は、 仏に な  る教えの 相 を紹 介つ つ も、面 的に は む 、 そう ち貫 す  仏 教の 統一的 真 理 と は なに か、つ ま り仏教の 仏教た る ゆ え ん は どこ に あ る か をさ ぐ   ろ うとす る試み に ほ かな らない

8

= 改 訂版

10

頁 )

 

ところで、 私 が、 上

の (

AXBXC

)に お け る ご と き(aXb )両 面か らの 仏 教の

定義

を、 仏 教入門

の 本に お い て は む しろ一般 的に採 用さ れ て い の と、つ い

程 ま で思 い でい た遠 因に は 、私の 本 稿 を草

るこ と に な る動

づ けの 一つ に もな っ て い る か もしれ ない 、前田惠

博士 の 以下の よ うな御 指 摘と そ れ に よっ て知っ た(

D

)下の 前田博士御 自

の 記述 とがあっ たか ら なの であ る。

  

宇 井 博士 は 「仏 教 と は仏 陀 教 え であ り、 仏 陀 と成 る教 え である」 と言わ

 

れ た。 従 来は この 線に沿 っ て仏教を理解す るこ とが 多か っ た。 私 も小 著 『 仏教要 説

 

(昭和

43

、 山喜房 )を書い た、 こ の 考えに よっ た。 (前田惠學 「 仏教 と は何か 、 仏

 

教学 い か にあ るべ 『仏 教 学』 第

36

号 (

1994

12

月)、

22

頁)

 

D

學著 『仏 教 要説 一 イン ドと中 国

  

』 (山喜房仏書林 、

1968

6

20

目第

1

刷)

  

仏教は、 (a)仏 すな わ ち仏陀 (

Buddha

)の 開い た教 えであ る。 仏 陀の 語 は、〈覚者〉   〈真理 をさ とっ た 人〉 を意味 す る。 こ れ は仏 教の 理想 的人間像 を示 す普 通名 詞が 、  固 有 名 詞 となっ た もの で ある。仏 教で は ま た、さ とり を開い た 人 は なん ぴ とも仏陀  た りうる。そ れ故仏教は、 すべ の 人が (b)仏 陀 と成 る教 えと さ れ る。 そこ で他 の 仏  陀 と区 別 して、 歴 史 上の 人物 と し て の 仏陀 その 入 を指す時に は また 、 ゴー タマ ・ブ   ッ ダ とか 釈 迦 牟 尼 世 尊 とか 呼ばれる。 ゴ ー タマ ・ブ

Gotama

 

Buddha

の ゴ ー タ  マ と は、 仏陀の 属してい た氏 姓の 名称で ある。 釈迦 牟尼世尊の 釈 迦 は、 その所属 し

 

てい た種族 名で あ り、牟尼 muni は聖 者の 、世 尊は尊,称 で あ る。 従っ て、 釈 迦 族  出 身の 聖 者 を意 味 し、これ を略 して 釈尊と も言 う。 また種 族名の 釈 迦 を、 その ま ま  仏 陀その 人の 称 に も用い る。 (

7

8

270

 一 N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(4)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty (

4

) 成 仏 ノー ト (袴 谷 )

 

宇 井

士 は、 周知 の ご とく、 イ ン ド

や 仏

教学

関す

る その 厖

な御

業績

の ゆ え に 、斯 学会 に重 大 な影響 を 与えた大 学 者である か ら、 前田

學 博十 の御

指摘

さ れた よ

に 、仏 教の 定

して も、宇 井

十 の 説が後 学の 学 者たちに よっ て 、意識 す る としない とに か か わ らず、 い つ の にか借用 され てい こ ともまた大 い あ り うるように私 に は思 われ たの であ る。 その ために、私 は 、浄土真宗に属 す る学 者 と 認 識さ れて い

、 か か る

仏教

定義

の 借用 は

く宗 派 を問わ

に流布 してい る もの と漠

え て今 冂に至っ た 。 しか る に 、

口、勿 論私 が所 持 して い る限 りの 仏 教入 門書とい 限定付 きで は あ る が 、宇 井 博士か ら の 借 用であ るこ と を断っ てい る前田博士以外に 、か か る

定義

を用 い てい るの は、 曹 洞

宗所属

の 学 者だけであ る とい こ とを知 っ た の は 、 私 に は 少 なか らぬ シ ョ ッ ク で あ っ た 。恐 ら くは

知 さ れて い るこ と と は思 うが 、前田博士 の 依 拠 され た字 井 博 士御 自

が ま た曹洞

の 著名な

学者

であっ た わけである か ら、か か る仏

定義

が 曹洞

仏 教

に特

な もの と分か っ て くれ ば 、か か る定

自体が、曹洞 宗 的 な学 者にだ け

利な

学 問 的な もの で あ る との 可

性 が

くなっ て くる か ら で ある。 もっ とも、私 には、 本 稿 を草 して み よ

と思っ た段 階か ら、 上 記(aXb )の 仏 教の

は 、 自力聖 道 門 的 な仏 教に とっ て は都 合の よい もの か も しれ ない との 判

い てい た の で あるが、 こ

まで その 定

が 曹 洞 宗の 学 者だけ に特 定 さ れ る よ うに なっ てみ る と、

態は予 期 さ れ てい た 以一ヒに深 刻 なの か もしれ ない 。 私はな に も他人の こ とを言 っ て い るわ け では ない 。私 自

3

年 前まで 曹洞宗に

籍の あ っ た人 間 と して 、 この (aXb )に よ る

仏教

定義

に よっ て知 ら

識ら

ち に

影響

されて い た の であ り、自力聖道 門的な仏 教の 延 長線上 で唯 識思 想の研 究を行 い 、 そ うい う仏 教 観 を研究 論 文

E

に も振撤 い い たの であ る1} 、 こ こ数 年は

善導

然 や

親鸞

なども少 しつ つ 読 よ うなっ て他 力浄土 門

仏教

の こ と も真 剣に考 え るよ うには な っ て き た もの の、染 着い た仏 教 観 を 自分か ら排 除 す るた め に は 、本稿 の ような 試み を今 後 も続け ね ば な ら ない で ろ う。

 

さて 、

奈 良博

士が、

B

)に お い て(aXb )は

か らそ う言 わ れてい る とおっ しゃ っ てお ち れ るの を と

か く とすれ ば 、前田博十 はせ っ か く(aXb )の 仏 教の 定 義は字 井博士 か らの 借 用 であ る と明 言 して 下 さっ て い るの で あ るが、残念 な こ と に その 典拠 を 明示 して 下 さらな か っ た た め に、 私 に は そ れ が

井 博 士の い か なる論 著に 基づ く もの で あ る か が正

に は分か ら ない 。

田博十 を始め と し て、 正確な こ とが分 か っ てい る方に は ぜ ひ御

示 を賜 わ りたい の で あるが、私の 知 り得 た限 りで、その定義 一

269

(5)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty 成 仏 ノー ト 谷) (

5

) に最 も近い と思 わ れ るもの 示 せ ば以下の とお りで ある。

 

E

寿著 『信 仰 仏 教 』 (要 書房、

1948

8

15

日発行 2)     先づ 、仏 とい ふ の は (a い ふ 味で あるこ とは何 人に も考へ られ  る所で あ る が、 然 し古 くは屡々 仏法 とい うて 、仏教 とい ふ よ りも 一層 多 く用 ゐられ  た し、支那で は現代で も よ く仏 法 とい 。仏 の 説い 意 味   で 、 法 と教 と が 同 意 味になつ て居 るの で あ る。 現 今 、 殊 更 仏 教 と用 ゐ るの は、明治   時代に宗 教 とい ふ言葉が 用 ゐ られ、其 中に 含 まれ る もの を キリス ト教、マ ホメ ッ ト  教 など と呼ん で、教の を用ゐ るの が多い か ら、仏教 とい ふ名が よ く用 ゐ られ るこ  とに なつ の であろ うと思は れ る。 勿 論 仏 教の 中に仏 教 とい ふ 語は あつ たか ら決 し  て新 た に造 られ た もの で は ない 。仏の 教 とい ふ 意味 を更に内容的にい ふ と、(b)仏に  成 るこ とを教へ る教 、即 ち仏 に 成 る教 と解するこ と も出来 る。 こ れは つ ま り仏教の   目的は凡て に成るこ とに るか ちで る。 (

4

5

 

こ れ は、 ほ と ん ど  に

ら れ る

高崎博

士 の

述 の 祖型 と言っ て も よい くらい の もの で あり、 (

B

りの

奈良

博士 の 「か ら 」 「い わ れ て い る」 とお っ しゃ る限

に そ れ ほ どの 根 拠 を見 出 しえない 以 上、 基本 的に(

E

)と  とをつ な ぐ線 で考 えてみ て太過 は ない の で はない か と思 う。 そこ で、 以下に 、こ の

に沿い なが ら、当初 私が

え たよ うに 、(aXb 仏教

自力 聖 道 門的 な仏 教都 合 よ くなよ う 用 さ れた もの で は ない か とい う危惧の 念を確認 して い て み こ とに し たい 。 以 下、(a)とb)と そ れ ぞ れ 分 け

考察

行 う

、 ま

、 (a)か ら

上げて み よ う。

II

(aつ い て の宇 井博士 の別 な著

における言 及 を探 してみ る と、『

』 で は次 の よ うに述べ てい 3}

  

仏教 は、 通常の 解 釈 によ れば 、 仏の教 (

Buddha

dharma

, 

Buddha

§asana

 

る。 梵 語で 言ひ現さ れ た場合に は仏に関 するもの

Bauddha

)で 、 形容 詞 形 と し  て、仏の で も、 仏の 系統 で も、 仏の 、 広 く指すこ とに なつ て 居るが 、 古

 

くは 、訳 して仏 法 とい ひ、 現今は一般 に、 仏 教 と用ひ て居 る。 こ の 仏は仏 陀 と音訳  せ ら れ るの と同 じで 、 決 し て、 仏陀の 略 称で な く、 仏 で 完全 な 音 訳で あ る。 占来 、  浮 屠 、 浮 陀 、 仏駄 、 浮 図 、 浮 頭 、 歩 他 、勃陀 な ど と音訳せ ら れ て も居 る が 、仏、 仏   陀 、浮屠 な ど が 比較的に よ く用 ひ ら れ る。 ほ とけ とい ふ 訓は これ か らの 派生 に外 な   ら ぬ もの で あ る。

 高

崎 博士 も また、 先の   に おい て(a)に対す る補 足 説 明の 中で次 の よ

に述べ て 一

268

一 N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(6)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (

6

) 成 仏 ノー ト

お られ る4) 。       ふ  と     ブ ッ ダ (

buddha

)は中国で は 「浮図 」 など と音写され、 それが 日本に 入 っ て 「         なま

 

と」 と 訛 り、や が て 「ほ とけ」 になっ た。 漢 字の 「佛」 (仏 ) も

buddha

を表わす た   め の 造 字とい わ れて い る。    漢 訳 語 と して の 「仏 教 の 原語に は、 た と え ば

buddha

−§

asana

(仏の 教 説が あ   る。 今 日イン ド で、 ヒン ドゥ ー と か ジ イ ナ よ ぶ と

 

Bauddha

とか

Bauddha

dharma

(つ ま り仏 法)と言 う。 

Bauddha

Buddha

で、 仏

      ぼん ご

 

に関す る、仏に属 する、仏教 徒、仏教の 教説などを意味 す るサ ン ス ク リッ ト

梵語 )

 

に 由 来 す る。 な お 、 「仏 教 」は英 語の

Buddhism

に相 当 す る語 として、今 目一般 に 広   く用い ら れ てい る。    漢 訳 語の 「法」の 原 語は

buddha

dharma

で あろ うが、ダル マ に は後 述 するよ う  に い ろい ろの意 味が あるの で、「仏 法 」の 意 味 もい ちがい に は決め ら れ ない 。 わ が国   で は 古来、 仏教 と よぶ よ り仏法 と よぶ こ と が 多か っ た。

 

以上の 宇 井、

崎 両 博士 の 記 述 をま とめ る と、 (a)の 仏 教に 関 してい えば 、漢訳語 と し て は 、当の 「仏 教 の ほ か に 「仏 法」などもあ り、 その 原 語 として は

buddha

§

asana

buddha

dharma

が考 え られ る とい こ と に なる。 しか し、こ の件に関

して は、

の(

E

)で、宇井博士 が、 「 教」につ い て、「勿 論仏教の

に仏

とい ふ語 はあつ たか ら決 して

たに造 られ た もの では ない て お られ る よ

片 付 けてす ませ

る ほ ど

純 なこ とでは ない の で ある。

か に、 厂

教」 とい

語が

か ら決 っ てい た とい う方面 を重 視 す る な ら、 その場 合の 「仏 教 と は 、「七仏 通 戒 偈」 の 「(諸)仏

」 とい

な どが古くか ら知 られ て お り、 その 原 語 も

buddha

§

asana /

buddhanu

§

asana

buddhanam

(anu §

asanam

か とい

こ とが

実な

の で あるが、 こ の場 合 に は 、その意 味が 果 して 「仏の教

the

 

doctrine

 of 

the

Buddha

)」 とい

内容 を指示 しうる か とい う問 題が残 らざ るをえない で あろ う。

buddha

§

asana /

buddh2nu

§

asana

に せ よ、 

buddhanam

anu §

asanam

に せ

この

場合

に重

なの は anu §

asana /

§

asana

なる語で あるが 、こ の

な形

で現 わ れ 、 しか も禅 宗で重 宝 され る「仏 通 戒 偈

」に おける その 意味 は 、

flll

人的苦

行 者の メー ジ を もっ た宗教 的権 威 者の 命 ずる 「教 誡の ご と き内容 を しか指 示 し

てい い か らなの である。 その こ とは既 に検 討し たこ ともある が、 以 下に その 要 所

の み を引 用 して お くこ と に したい 5}。

   この anugasana /§

asana

は、 動 詞の 語根

SAS

− (折檻する、 罰する、 支 配する、

 

命令す る、

告す る

か ら 派生 し た名詞 で あるこ と か ら もわ か る ように、権威者の

(7)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University

成仏ノー ト (袴 谷 ) (

7

 

側か らの 一一的教 誡 とい っ た語感を 強 く残し て い る ように思わ れ る

。 そ れ は、思 想

 

ditthi

, 

d

i

, 見 ) 上の教 説 を論 争に よっ て決 着 する (

dharma

pravicaya

)とい う

 

ような仏教 的知性 (

prajfia

)の 特質 く示 して い い の で 、 これ を権威づ けるの   は通イン ド的 な宗 教上の 習慣 (slla,§

ila

,戒 )で ある ほ か はない 。 その 点は、 今 問 題

 

と して い る 「七仏 通 戒 偈 の 〕(

3

)偈 や (

8

)偈 を虚 心に読め ば、 誹 謗 (upavada )と は

 

なん で あ り障害 (upaghata ) と は な ん で あ るか 、悪

papa

)とは なん で あ り善

  (

kugala

)と は なん で あるか とい 、 そ れ らの 性質 (

dharma

)を 決着 するこ とな

 

く、た だ それ ら を なすな と かなせ とか しか 言わ れ てい 以 上 、 に は イ  習 慣 と して是 認 さ れ た 苦行 的 実修し か 示 さ れ て い い こ と が分 か る はず で ある。

 

上の 引用 文

に お い 指 摘 した点は 、「七

仏通 戒偈

以外

の 用

適 用 で き る こ と と思 うが 、

は そ れ を (イ)∠)

hammaPada

の 頌 と こ れ ら に 対 応 す る(ロ)

Uddinavarga

とによっ て

認 し てみ るこ とに した い 。

3

例あ り、 それ ぞれに つ き、 (イ

X

ロ)の順に示

こ と に

る6 )が 、 ( A っ て

え られ た

定 的な和訳 で あ る。 下

は今 問題に して い る用 語であ る こ とを示 す。

1X

イ)mett 五vihari  

yo

 

bhikkhu

 

pasanno

 

buddhasasane

  

adhigacche  

padarp

 santarp  sa 田

kharUpasamarp

 sukharp .

 

(ロ)maitravihari  

yo

 

bhik

§ub  

prasanno

 

buddha

§

fisane /

  

adhigacchet  

padarp

§

antarp

 sarpskaropa §amam  sukham

//

 

 

に心 を安ん じ仏の 教 誡 に心 服 してい 修 行 者 (比 向 は 、 意 志まっ た 、

    安 楽に して静 寂 なる依 り所に到達 するで あろ う。

2X

イ)

pamojjabahulo

 

bhikkhu

 

pasanno

 

buddhasasane

  

adhigacche  

padalp

 santa sar

kharUpasama

sukhalp .

 

(ロ)

pramodyabahulo

 

bhik

§uh

 

prasanno

 

buddha

sane

   [

adhigacchet  

padar

§

antarn

 salpskaropa §amam  sukham

 

(・X)喜満 ち仏 教 誡心 服 修 行 者

は 、意 志

っ た、安 楽に

    して寂 静 なる依 り所に到 達 する であろ う。

3X

イ)

yo

 

have

 

daharo

 

bhikkhu

 

yufijate

 

buddhasasane

   so ’

mam  

lokam

 

pabhaseti

 abbha  mutto  va candima .

 

  お よ そ だ れ で あ れ

修行

者に して仏の 教 誡に励むη る な ら ば 、

  

人は

か ら

れた

の よ

に こ の世 を照 ちす。

 

(ロ)

daharo

pi

 cet  

pravrajate

 

yujyate

 

buddha

§

2sane /

266

(8)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

8

成仏 ノー ト (袴谷

  

sa 

ima

bhasate

 

lokam

 abhramuktaiva  candramah /

  のた とえ若 くとも遊行 し仏の 教 誡に励むな らば、 その 人は雲か ら離れ た 月の よ

    う

に こ の世 を照 らす。

  以上の 頌に よれ ば、雲か ら離 れた月の よ うな解 脱 (mutta , mukta )を求め る修 行

者 (

bhikkhu

, 

bhik

u)が 、慈や喜の に満た された精 神 集 中8 〕におい て 「 教 誡

buddha

−sasana , 

buddha

9asana

」 に 関わ っ て い る わけであるか ら、「仏の教 誡 と は 、

実修 的側面

が極め て

濃厚

の だ とい

こ とが 分か る わけで ある。

っ て、 こ れ らの 用例に

く よっ た と思わ れ る

Childers

教 授が 、 その パ ー リ語辞

9)中に おい て、

buddha

・sasana に “

The

 commandment  or  religion  of 

Buddha

(仏 陀 の 掟 も し くは宗 教)”

とい

、 実

的 指令の

を漂わせ る訳

えて い るの

なこ と と思わ れる。 しか る に、 仏

の(

a

沿

buddha

§

asana

理解さ れ る と き に は 、こ の は厂教 説1°)

instruction

 or 

teaching

 of 

the

 

Buddha

the

 

teaching

 Qf 

the

 

Buddha

 

Buddha

’s 

teaching

 

the

 

doctrine

 of 

Buddha

 

the

doctrines

 of  the 

Buddhas

」 と訳されるの が一般

で ある。

かに、

詞 §

asana

由来 す る動 詞

SAS

・は 、如上所 引の 述 中に指

した

味 の に 、 「 教 える (to

teach

)」 「指 示 する (

to

 

instruct

)」11〕など の意 味 もあるか ら、 か く訳された と して も、そ れ ほ ど原

を損っ たこ とに は な らない で あろ うが、しか し、元来の 実修 的 指

の ニ ュ ア ン ス

を殺

して ま で 「

教 説

にこ だわ ら ざるを え ない の は 、仏

の 歴 史は な ん とい っ て も 「教 義 (

doctrine

)」

心に展 開 した か ら であろ う。 しか し、 も しそ うな ら、 「 七仏

通戒

偈」

な §

asana

は 、必 ず し も西 欧に お ける

doctrine

が動 詞

didasc6i2

教 え)や

doceol3

教 えか ら派 生 し

didach6

, 

didascalia

, 

doctrina

を経て現 代 語の 「

」 を表わす語に成 長 したの と同じ よ

な経過 を辿 っ た わ けで は ない 14 )の で、仏教 を説明するの に過 度 に こ の語に 拘 泥 するこ との ない に し た

が よい わ れ る なぜ な ら 、 過 去の 仏 教の 厂

」 の

開にお い て、 こ の §

asana

が 当の 「教 義 を表わすべ 使用 され た痕 跡はない の で あ り、 に もか か わ らず、 こ の 語が使用 さ れ る

には、 そこ に 「 仏通

偈」的な仏教理解が仏教入 門 の

最初

の 段 階か ら紛れ

んで しま

う危険性

が あるか らで ある。

 

しか し、 そ れ な らば 、 過 去 の

実際

の 「教 義」論 争の

で、仏教 とは一体 どの よ う に定

さ れ てい の で あ ろ

か。 以 下 に は 、そ れ を示すため に 、紀 元前

2

世 紀 頃活 躍 した説一切

部の 巨匠カー テ ィ ヤー ヤニ ー プ トラの 『発 智論 (

1n

−aTnaPrtLgtha−na ) か ち仏 教の 定 義 を引用 して示 して お くこ と に しよ

15) 。 一

265

(9)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty 成 仏 ノー ト (袴谷) (

9

   

仏 教云何。 答。謂 、 仏語 言 ・評 論詞 ・語 路語 音語 業語 表 、 是 謂 仏 教.

 

ただ、非 常に残 念 なこ とに 、 『発 智

』 には サ ン ス ク リッ ト原

が知 られてい な い の で、 これ らの 重要な漢訳語の 原語は 正

に示 し え ない 、 『

』 と同 じ漢 訳

で あ る玄

に な る 『 倶 舍

』 か ら推せ ば16>、 上 引の 「 仏 教」 の 原 語は

buddha

vacana 言 葉 た か も しれ な 。 しか し、 その 原語がか りに

buddha

§sana た に 大事 な は そ れ

る わあ る か ち、 その

定義

に よれば 、 「

」 と は、 「

」 の 「

語言

し くは 「

評論

」 「唱詞」 「語 路 」 「語 音」 「語 業」 「語 表」 であ る 、 とい

こ と に なる。 しか る に、 こ れ らの 定 義 中の 諸 語は、全て 言葉に関わ っ て お り、 しか も、 その うちの 「語 業 と「語 表

とは 原語 も確実 に そ れ ぞ れ vak −

karman

と vag ・vijfiapti と推 測 で き るこ とか ら

分か るよ

に、 こ れ ら は

人 に は っ き りと明示 し

る言

してい るこ とに な る。従っ て、 『発 智 論 』の

定義

に よ れ ば、 「 仏 教」と は 、 仏に よっ て 明瞭に他に分 か るように示 され た 言葉や教 えでな け れ ばならない の である。 仏教 徒 とは、 か か る 「 仏 教」 に順 っ て なに が 「正統 (orthodoxy ) であるか を断 えず選ん で い くべ き も の で あろ うが、 その よ うに 「仏 教」 を述べ た もの に、善

613

681

)の 『観 無

寿 仏 経 疏』 の 次の よ うな一節が ある17)。

   

又 、 深 信者、仰 願、一切行 者等 、一心 唯 信 仏 語 、 不 顧 身命 、 決 定 依 行。 仏遣捨

 

者、即捨 。仏遣行 者、 即行。 仏 遣去 処、 即 去。 是 名 、 隨 順 仏 教 、 隨 順 仏 意。 是名、  隨順 仏 願。 是名、 真 仏 弟 子u

 

しか る に、 「仏通 戒 偈 」的 な伝 統に全 く

拘 束

され る必 要の なか っ た

Griffiths

授は、「仏教」 の 語

に関わ るよ うな一連の 語、即ち

buddha

・vacana , 

buddha

§

asana

, 

buddha

de

§ana , 

buddha

dharma

及 し直後に 、 れ ち を刀 直 入 に 「教

doctrine

)」 の 方へ 引 き付 けて 、 次の よ うに述べ てい る18)。     〔これ らの と〕キ リス ト教 の 論 述 に お け る

didach

∈や

doctrina

との 類 似 性は濃   厚で あ り 明 白で あ る。 キ リス ト教徒に よっ て、 そ れ らの 語が 、 その 共 同 体の 教 える   もの と それ を教 える その 共 同 体の行為 とを表示す る た め に 用 い ら れ てい るの と全   く同 じよ うに 、 上 述の 諸 語 も また仏 陀の 教 えの 行為 と内容 とを表示 し うるの で あ

 

る。 vacana , 

de

§ana ,§

asana

の 動 詞 形は、似たよ う な もの で あ り、仏 教 教義 (

Budd

 

hist

 

doctrine

)を もた らす行 為 を指 すの に使い れ た の であっ た。

 

Griffiths

教 授は 、ア カ デ ミッ クな宗 教研 究の な か でかつ て は

特権 的

な 地位 を 占

めて い

教義

教義 的

究 (

doct

血 al studies of 

doctrine

近年衰

264

 一

(10)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty

10

) 成仏ノー ト (袴谷〉 の を嘆 く一 方で 、 自 らに、キ リス ト教の み な ら

仏 教につ い て も 「教 義 教 義 的研 究」を課 してい る学 者で ある19 )が 、 その 彼の 姿 勢 を考 慮 す る と、 上 引の 同教 授の 言 明は、仏 教に対 する極め て 好 意 的 な解 釈 を示 した もの と

做 し うる。 しか も、

Grif

fiths

教 授が言わん とするよ うに、過 去の 仏教 の 「正 統」 的 側面 に は 、上 引の 『発 智論』 や 『観 無 量 寿 仏経疏』 に 見 られ る よ うに 、仏陀の 「教 義」 や 言 葉 を重視 し よ

とした形 跡が認め られ るこ は確か であるが、 当の

とい れ る

に お い て は 、 むしろ圧倒 的に 、仏 教 と は 「教 義」 で はな くて 「実 践」 である と思わ れ て い ない であろ

か。

実、

崎直道 博十 は 、上 引の(

A

)に お け る(aXb )の 仏

定義

の もとに仏

につ い て

続け

、 その

6

で は 「

」 を

り、 その 直

の 第

7

章の 冒 頭 で は 、 次の よ

き起 こさ れて い る2°)

  

以 上 の 実 践 論は 、仏教の 諦 で あ り 眼 目で あるが 、 これ を総 括 して い るの が 「七

 

仏通誠の 偈」 で あ る。 すな わ ち、

    

諸々 の 悪 を作 ら ざれ

       

(諸悪 莫作

    

諸々 のをすすん で行 な え

     (

衆善 奉行)      おの れの 心 を浄め よ      (自浄 其意 )      これが諸仏の誡 である      (是諸仏教 )

 

か くして、か か る実 践が仏 教の 本

と されて しま うの か も、こ こで 「教

誡」 と訳さ れ て い る原語が sasana

§

asana

か anusasana

anu §

asana21

)で あるこ

とに は

分 注 意 を払わな けれ ば な ら ない であろ う。 また 、 こ の 「 を浄め る」 こ と が 「仏 となる」 こ と に連 なっ てい る とすれ ば 、 こ こ に おい て、仏 教の(a)の 定

は(b ) の定

と通底 して い る こ と にな る わけで ある。   なお 、(a 関 し

Griffiths

教 授 も 高 崎 博 も触 い た

buddha

dharma

(仏法 )に関 して い ば、 こ れは

通 厂 仏の 徳 性 を指 す 語で あっ て、管

ぶ限 りでは 、 この 語が 明確に 「仏の

を意 味す る例は知 られてい い と 言 わ ざ る を え ない の であ る22 )

III

 次 に 、(

b

)の 考 察に移るが 、前田惠學 博士御 指 摘の と お り、(aXb 仏 教 定 義 か 、宇井博 士に由来 する もの だ とすれ ば、 種 々 の 問題 は あ る にせ よ、 曲 りな りに も その 原語 を

想定

しなが ら論 を進め るこ との で きる(a 場 合 と は て 、

b

場 合 に は そ れ に

い 原語の

詞形 を想

定 す

るこ と さえ もで き ない か ら 、 (

b

)の

263

(11)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty 成 仏 ノー ト (袴 谷

11

根 拠は益々 っ て宇井 博

t

御 自

に求め たい ところ なの で あるが 前田博 士が そ れ を明 示 され てい い 上 、 私 自

もなん ら

実に知 りえた こ と は ない の で、 御 存知 の 方に は ぜ ひ御 教示 を乞 う次 第で ある。 私の 知 りえた範 囲でい え ば、 (

b

)に 関 する

少 とも詳 しい 宇 井 博士御 自身の 説明 に は次の よ うな もの が あ る23 ) 。

  

仏 教 は、字

通 り、 仏 陀の で ある が 、 同時に、 又 、 仏 陀 に 成 る教 であ る。 勿  論 、仏 教 の或 部 門に 於て は、 必 ず し も、仏 陀 と成 る教と は せ られ て居 ない こ ともあ  るが 、 然 し、一層 高次 の ・

Z

場か ら見 れば、 そ れは 中途に彷 徨 しつ つ 、 而 も、そ れ を   最 高と見做し て居 る程 度の 考に過 ぎ ない の で あ る か ら、結局は、仏陀 と成 る こ と  に努 力 して 居 るもの とな されね ば な らぬ もの で あ る。 故に 、仏 教 本 来の 性質か らい  へ ば、其総て の説 は、 仏陀 と成 るこ とを教へ る もの で あ る とい へ る。

 

こ の 説明 中で 宇 井 博士が 「仏 教 の 或 部門」 に よっ て なに を意味 した か は 必ずし も 定か では ない 、 恐 ら くは 、自力聖 道 門 的な仏 教に対 する他 力 浄土 門 的な仏 教 を指 して い るの で は ない か とわ れ る 。 浄土教に よれ ば、 阿

では ない 私 ど も全て の 人 間は 「罪悪 生死 凡夫」 で しか ない の であっ て、 私ども

自身

として は

決 し

て 「

離之 縁 」はありえ ない と信 ず る ほか は ない の だ か ら、 「仏 とな る

成仏

」 な ど とい う考 えは思い も甚 し なけれ ばら な 、 しか し、 阿弥陀

の 本 願に 乗 じての み

生はか な

と信 ずるこ とだ け はで きる か ちで ある24) 。 こ の よ うに、 浄 上教 で は 、 基本的に は 、「往 生」が 説 か れ る だけであ っ て、 「成 仏 」は 説 か れ ない の で ある が 、 その

の 一例 を、 『観 無 量

寿

仏経』 の 下 品 下生の 衆生の 場

につ い て

て み るこ とに しよ

25 )。    如 是 至 心 、 令 声 不 絶 、 具 足 十 念 、称南無阿弥陀仏。 称 仏名故、 於 念念中、除八

1

一  億 劫生死 之 罪 。 命 終 之 時 、 見 金 蓮 華 、猶 如 日輪 、住 其人前 。 如一念 頃 、 即得 往生 極  楽 世 界。 於 蓮 華 中 、 満十二 大 劫 、 蓮 華 方 開 。 当 花 敷 時 、 観 世 音 大 勢至、 以大悲音  声 、 即 為其 広 説諸 法実相、除滅罪法。

 

この

に、 た ちまち

るこ とはで きた として も、 彼は、

極楽

世 界の 蓮 華の 中で満 十一二 大劫 を経 な け れ ば大 悲の 教 え も聞 くこ と が で きない の で ある。 こ の 下 品下生の 衆生 に象 徴 され る よ うな往 生の 仏 教 を、宇 井 博士 は 、「中途 に彷 徨 しっ つ 而 もそ れ を最 高と見做 して居 る程 度の 考」 とお っ しゃ っ たの か も しれ ない が 、 しか し、 「…

」、 か か る浄土 教 を も含め て 、「結

は 」、 仏教の 「其 総て の 、 仏 陀と成るこ と を

へ る もの で あ る」 と言 い 切 るこ 一

262

一 N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(12)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty (

12

) 成 仏 ノー ト (袴谷) と は 果して可

なの で あ ろうか。 だ が 、 恐 ら く、そ れ は無理 だ と言 わ な け れ ば な ら ない であろ

。 に もか か わ ら

、 それ が 可

で あるよ

に見 えるの は、

宇井博

士御 自身が、全て の 人間が 「罪 悪 生 死 凡夫だけ であ る と説 く浄土教を理 由 も な く 見下 して 、不 遜に も全ての 人間が覚 りの うち

含さ れてい る とい 本覚 思 想26)」 を 勝 手に 「一

高次の 立

」 と決め付け てい るにすぎ ない に もか か わ ら

、 受け乎の

方 も

か か る 「

本覚

思 想」 が

次の

仏教

だ と思い 込ん で い る か ら なの であ る。 しか し、仏教 思 想史.上 に おい も、(人が )仏になる (

bUddhO

 

bhaVati

ど とい よ うな考 えは、 紀元

後に で もな ら な け れ ば はっ き り と は浮 上 し て こ ない 新しい 考 え方で あ り、 しか も、 浮上 したその 考 えは

非仏教的

な イン ド

に染 っ て い た もの と思わ れ る。 仏 教 教 団が

初 に大き く分 裂し た と き、 通俗 的な

数派 の 思 想に抗 して 、伝 統 的 な仏

を守っ た の が上 座 部で あっ た が 、その伝 統 を守 っ た 南伝の パ ー リ上 座部 に よっ て も北

の 説一切 有 部に よっ て も、普 通の 人が 「仏 にな る」 な ど とい う考 え方は決して認 め ら れ るこ とは なか っ たの である。実

buddho

 

bhavati

類 す 現 行 パ ー リ三 い ては 、最 も通俗 的な

話 であ る

1ditaka

に お い てすら 用い られて い い 27)

で あ り、 また、 説 一一

統の 文 献に おい て も事 情は同様で あっ た と考 えられ る。

 

次に、 その 説…切有 部系 統 を代 表 する文献で あ る 『大 毘

沙 論 』の 中か ら、 彼 ら が仏 (

Buddha

) をどう見做 して い た か を示

箇 所 け ば 次 の とお りであ る28)    復 次、 為於 帰依 有 愚惑、 令得正解 無猶 豫故。 謂 、或 有謂、 帰依仏者、 帰依如来頭

 

項腹背及手 足等所 合 成身。 今顕 、 此

父母 生 長、 是有漏 法 、非所帰依。 所帰依者、  謂 、 仏 無 学成菩 提 法、 即 是 法身。 (中略)    諸帰依 仏 者、何 所帰依。 答。 若法、 実有、 現有、 想 、等想 、施 設、 言 説 、名為 仏  陀。 帰 依 彼 所 有 無 学 成 菩 提 法 、 名 為 帰 依 仏。    此 中 、 若 法 、 実 有者、 顕 、 実有仏 体 、 以 法為 自性。 此言、為遮 、 或右謂 、仏但名  但 想 但 仮 、施設 無有実体。 現有者、 顕 、 仏 体 如 現 実有、 非 曽有等。 想 者 、 顕 、縁仏  想。 等想 者 、 顕 、 此 想 一 切共 起 。 施 設者 、 謂 、依 想 施 設 名 。 言 説 者 、 謂 、依 名 言説   転 。

 

上の 引用

、 下

で示 した

2

の 「

無学成 菩提 法

」は、 い さ さ か

み の

しい もの で は あ るが 、ノ

1

4

跏 庶 孟盈 α の 用 例 29》や 、 次 に 関説 す る

Abhidhamaako

一 諏 餉σα の 用

例 を参

ると、 a§aik $

a

 

bodhi

karaka

 

dharmah

な サ ク リッ ト原語 を想

するこ とが で きるの で、 「 菩 提 を あ ち しめ る (

bodhi

karaka

, 一

261

(13)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty 成 仏ノー ト (袴 谷)

13)

producing  

bodhi

) 無 学 法3°)」 と解 す るこ と が で きる か も しれ ない 。 か か る法 を

する仏 が 「法

身 (

dharma

kaya

」 であるが、帰 依の

対象

となる仏とは 、 その 法 を 自

る「実

仏 体」 であっ て、父母 所 生の 肉

では ない とい

の が 、以 上 の 『大 毘

沙論』 の 趣 旨で ある。 これ とほ とん ど同 じ趣 旨の こ とは

Abhidharma

一 肋 動 拡 釧 α で も述べ られ て い る31)が こ の場合 にサ ン ス ク リッ ト原文が知 られ て い の で、 まずその 原文 を示 した後に、 それ に対 する相 当 和訳 を付 記して お こ う。

   yo 

buddham

§arapar gacchati  a §aik

an

  asau  

buddha

karakan

 

dharmafi

 

chara ロam  

gacchati

 

ye

am

 

pradhanyena

 sa 

atmabhavo

 

buddha

 

ity

 ucyate  yea

 va 

labhena

 sarvavabodha −samarthyad  

buddho

 

bhavati

/ (だ れ で

 

帰依 するもの で あれ ば、 その 人 は仏をあ ら しめ る無 学 法に帰 依 するの で ある が、 そ

 

れ ら 〔無学法 〕 を主 要 な もの として い 、 その 身体 が 仏 で ある と言わ れ る。

 

あ るい は ま た そ れ ら 学 法 〕 を獲 得 して い る場 合に、 全て を覚 る能力があるか   ら、 〔その 人は〕 仏 と な るの であ る。

 

線部

は 、 恐 ら く、

の 『大 毘

沙論』

の 下

線部

分 とほ ほ伺 じ意 味 を示 そうと して い る と考 えられ る。 しか し、 「 は ま た 」 以 一 ドに示 され る別 な 解 釈に は 、「仏 となる (

buddhQ

 

bhavati

い られ てい るが、 こ の よ

な考え は 『大 毘

沙 論』

に は

見出

しえ

、 比較 的新 しい 成立 の

Abhidharma

一 んoε励

1

y

α だ か らこ そ 紹

しえた

釈 なの か も しれない が 、

Ya

§omitra の 註釈 中 に もこれ を

特定

部 派の主張 と指 摘 す るよ

述は認め られ ない 。

っ て、 こ こ で は敢えて この 解 釈に触 れるこ とは し ない で 、 両

に共通の の 規 定 に だ け 焦 点 を絞 っ て み るこ とにすれば 、仏 とは 、 仏 も し くは 菩提 をあ らわ しめ る 「無 学法 と い っ こ と にっ て しま

の である こ の よ

な 「無 学 法 を 自性 とす る 「実

体」 に 通常の 父 母所 生の 肉体の み の 人間が な り うる (

buddho

 

bhavet

とは

え ら れる わけが ない こ こに、仏よ りも法が

優 先

され る説一切有 部 系統の 基 本 的思 想が 示 されてい る わ

るが、 その

に よれ ば、 か か る

法 を体

る とい

よ うな極め て

希 有

なこ とを成 し遂 げ るこ との で き たの は 、 原則 的に釈尊 だけだ とい

こ と に なるの で ある。 従 っ て 、 仏 と な る こ と を約 束さ れ た菩 薩 (

bodhi

− sattva )

と して一 人でなけれ ば ならない 。 その 菩

件 と は

Abhidharma

koSiabha

sya

によ れ ば 、次の とお りであ る32} 。

   

bodhisattvab

 

kuto

 

yavat

 

yato

 

lak

apa

karma

krt

260

(14)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

14

) 成仏ノー ト

   sugatib  

kulajo

vyak §ab  puman  

jati

−smarQ ’nivrt //

    どの ときか ら、 なに に限っ て、 菩 薩 であ るの か 。 〔三 十二〕相 〔を異 熟 とす る〕業

 

を造 っ て 以 来で あ り、善趣 に あ り良家の 生 ま れ で あ り完全 な 器 官を具 えた男で あ り   前世 を記憶 する もの で あり退 転 しない もの に 限 るの で あるu

 

こ の 選 ば れた一 人の

を規

す る

件に は、 イン ド的 差 別 観が た っ ぷ りと反 映されてい るの であろ

が 、 因み に、 これ らの

ちの 「

の 生ま れ 」が、

文註 釈 中で ど

説明 され てい る か を 示 して お け ば 、 次の とお りであ る33)

  tasya

即 ca sugatau  

k

atriya −

brahmana

grhapati

−maha −§ala ・

kulajo

 

bhavati

 

n盆nyab  

kulinah

/(そ して 、そ の善 趣に お い て、 〔彼は〕武 士階級か 司祭階級か屋 敷  持 ち か の 人 門 構の 良家の 生 ま れ の もの と な り、そ れ以 外の 族の の となるの で は   ない

 

か か る考 え

に よれば、 「 」 とい うような こ と を願い うるの も選ばれ た 菩薩だ け とい こ とに なろ う。従 っ て、.舶 痂

4

勿 捌 盈 o 血 ゐ舷 鈔α も彼の願 い を次の よ うに

述し てい る34) 。

  

§akyamunir

 nama  samyak −sambuddhah  

pOrvam

 

babhUva

yatra

 

Bhagavata

 

bodhisattva

bhUtenadyam

 

pra

idhana

krtam

 evam

prakara

 ev

ham

 

buddho

 

bhaveyam

 

iti

 so no  sic

py

 evam  

kaliyuga

 ev6tpannam  

bhavaty

ev6tpan −

 

navanaryavatt , sic)asyapy  evarn  var $a−sahasr 盒ntam §

asanar

babh

亘va

 

昔 、

 

シ ャ ー キャ ム ニ (釈尊)とい う正 等 覚 者が い v こ で、 菩 薩 と なっ た世 尊は、「私

 

も全 くこ の 類の 仏 とな れ ます よ うに 」 と初め て願 を起こ した。彼も また同様に 末劫   だけにじた の であ り、 彼の 教誡 もまた 同様に千 年の終 りまで存 統 した。   こ れ は 、 私 どもが仏 教史の 上で 仏 教の 開祖 と呼ん でい る人の 遥か 昔に 存 在 した と され るシ ャ ー キャ ム ニ の こ とにつ い て述べ た もの 35)なの であるが 、仏教 史上の 開 祖 もその

は同

の シ ャー キャ ム に

菩薩

として仕 えた こ とが あっ た とい う話 を 述べ た もの であ るが、こ の よ うに 、選ばれ た菩 薩だ けが 仏にな る とい う意 味で 、 一 つ の

時代

にお い て は 、菩 薩 原 則 とてか い い こ とにな るの である。

 

しか し、

他 方

で、こ の よ

な仏〉 菩

通の 人間 との 隔絶 性 を深 刻に問題 とせ

に 、 仏

とはだ れ し もが 「 にな る」 こ との で き るこ とを示 すた めの 教 えである と極め て安 易に楽天的に考え る ようにな れ ば、 そ こ に潜 んで い た 通 イン ド的な差 別 観や

菩薩

びつ い ン ド

観が

容易

仏教

活 するよ うに なるで あろ

。 仏 教が最 初に大 き く分 裂 した とき、伝 統 的 な仏 教 教

を 守っ たの が上座

であ っ た とは、

に も

れ た が、 こ の 上 座

抗して 、 通

259

参照

関連したドキュメント

 む         要領 一 ﹁チャン回天﹂十﹁コカイン﹂十﹁アドレナリン﹂ヲ使用スルコト︒

 第1例 総指獅筋ノ「クロナキシーハ左右何レモ著明二印チ通常ノ最低慣以下二短縮シテ届ル.特二左

小林 英恒 (Hidetsune Kobayashi) 計算論理研究所 (Inst. Computational Logic) 小野 陽子 (Yoko Ono) 横浜市立大学 (Yokohama City.. Structures and Their

Josef Isensee, Grundrecht als A bwehrrecht und als staatliche Schutzpflicht, in: Isensee/ Kirchhof ( Hrsg... 六八五憲法における構成要件の理論(工藤) des

静岡大学 静岡キャンパス 静岡大学 浜松キャンパス 静岡県立大学 静岡県立大学短期大学部 東海大学 清水キャンパス

※短期:平成 31 年度~平成 32 年度 中期:平成 33 年度~平成 37 年度 長期:平成 38 年度以降. ②

2011 “Key Features of Dharmakīrtiʼs Apoha Theory.” In: Apoha: Buddhist Nominalism and Human Cognition, Mark Siderits, Tom Tillemans, Arindam Chakrabarti eds., Columbia