Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty 駒 澤 短 期 大 學 佛 教 論集第
2
號1996
年10
月(1
)成
仏
ノ
ー
ト
袴
谷
憲
昭
1
本稿
は、 私のあ
る種の 驚愕
と疑
問 を述べ 、 それによっ て 一 つ の 問 題提 起 を な して み よ うと願 うと共 に、 こ れ を公 けに して お けば、た とえ充分 な検 討 を経て い ない も の ではあるにせ よ、私が調べ 切るこ との で きない 不明の 事 柄につ い て も、どなた か らか御教 示 を得 るこ と が で きるか も しれ ない との 考え か ら草される もの である。 こ ん なこ とを書け ば 、怠慢の謗 を免れ ない か も しれ ない が 、敢 えてお許 を賜 わ り御
海容 を乞い たい 。有体
に い えば 、実
は 、つ い数時間前
まで は 、仏教
と は、 (a) 「仏
の 説い た教 え 」とも
、 (b
) 「仏
と成
る教
え」 とも言
わ れ るが、 本 稿で は 、特
に 後者 を念 頭に置 きなが ら、 「成 仏 」 の 問題 を論 じて み た い 、 とい うふ うに書 き出せ ば 、殊 更 問題 と な る よ うなこ ともある まい と思っ て い たの で ある が 、ひ ょ っ と した ら、かか る仏教
の 定義
自体が 、曹 洞宗
に僧
籍 を有
する学 者に特 有
なこ とかも
しれ ない との思
い が頭 を掠 め る や 、書 き出 しか ら容 易 なこ と で はすま ない ような気が して きたの で ある。 あ る 意味 では 、最
近 まで曹 洞宗に身
を 置い て い た 人 間 と して、 私 自身か極 め て甘か っ た か も しれ ない の であるが、 私 は、大
抵 の 仏 教入門書
の 冒頭は上 述の ご とき(aXb )二 つ の 仏教の 定義
か ら始 まっ て い る もの と思い 込ん でい た節が ある。 しか し、い ざ本
稿 を書 き始め よ うと思っ て、 必ず
し も出版さ れ てい る仏教
入 門書の 多く を集
め てい る 人間
で は ない にせ よ、一応は手 元にある数
種の 入 門書
の 類 を開
い て はみ た もの の 、 私 が 当然
の ご と く予期
し てい た よう
に全ての 入門 書が なっ てい た わ けで はな か っ た の で あ る。 しか るに、 その 冒頭が私の予期
した よ うな定
義
で始 まっ てい る仏
教入 門書の ほ と ん ど が 、曹 洞宗に僧 籍を有 す る著名
な学 者に よっ て 著 わ さ れ てい るこ とが 歴 然 として くれば 、 それは偶 然
の 一致 です
まさ れ る よう
な こ と で は な く なっ て こ よう
。今
や、 その 理 由 は ほぼ明 らか に な っ た と私 に は思われるの で ある 一272
N工 工一Eleotronlo LlbraryKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (
2
) 成 仏 ノー ト (袴 谷) が 、それ を述べ る前に 、まず、図 らず
も同 じ1983
年に出版 された曹 洞宗
の 著 名 な三 人 の 学 者の 著 書 より、 その 冒頭箇 所 を引 き抜 い て示 して み る こ と に し よ う。 似 下、 引 用 中の ア ル フ ァ ベ ッ ト記号と 下線は袴谷 )(
A
)高崎 直道 著
『仏教
入門』 (東 京 大 学 出版 会 、1983
年6
月10
日初 版) N N N(a)仏 教 と は、 文字通 りに は 厂仏の 教 え 」、 す な わ ち 「ほ とけの 説い た教 え」 であ る。こ れ は ち ょ うど、 キリス トの 説い た教 え をキ リス ト教と よ び、マ ホ メ ッ ドの 説 い た教 え (す なわ ち イス ラム教 ) をマ ホ メ ッ ド教 とよぶ の と同 じ命名 法で ある。 こ ぶっ し や か む に
ご で 「ほ と け」 (仏 ・ブ ッ ダ)とい うの は ブ ッ ダ ・シ ャ ー キヤ ム ニ 〔釈迦 牟 尼仏〕、
つ ま り釈尊、い わゆ る釈 迦の こ と で、 釈 迦は仏 教の 「教 主」 で あ る。 仏教は シ ャ ー さ と キヤ ム ニ が 自 ら覚 っ た真 理 を他に知 らせ るべ く説い たもの で、こ の 「所説」 の 真理 を「法」 (ダン マ 、 ダル マ )と よぶ 。 し た が っ て、仏 教 は別の 言い 方 をすれ ば 厂仏 法 」 す な わ ち、 仏の 説い た 真 理である。 (
b
)とこ ろ で、シ ャ ーキヤ ムニ は何 ゆ えに 自 己の覚っ た こ と を他に語 っ たの か。 換 言 す れば、仏の 教 えは何 の 必要が あっ て 生 まれ た の か、 とい うこ とを考 えて み る し たが と、 そ れ は 仏 の 教え を 聴 い た者が、その 教 え に随っ て実 践に励 んだ 結 果 、シ ャ ー キ ヤ ム ニ と同 じよう な悟 りを得 るこ と を念 願 した か らで ある。 同 じ悟 りを得 れば ブ ッ ダ と な る。 つ まり、仏教 は、 目的 的に 言 えば 「仏 と な る た めの 教 え」 で あ る。 実践を 「道 」 とよぷ の で 、 仏 教は こ の見 地か ら、「仏 道」 とも よば れ る。 (
1
−2
頁 )(
B
)奈良康
明 著 『 仏教
の 教 え』 (東 京 書 籍 、1983
年10
月14
日第1
刷 ) 仏 教 とは何だ ろ うか。 仏 教 と は(a)「仏の 教え 」 で ある、 と言 えば事 は簡単 だ し、 それ は そ れで問 違 っ て い る わ け で は ない 。 しか し、 これは い か に も大 ざっ ぱ な 言 い 方で ある。 仏 教 、 とい うこ と ば に含 ま れ り ん か く る具体 的内容の 、 その輪 郭さ え を もじゅ うぶ ん に示 す もの と はい え ない D (14
頁 )(
B
捺
良康明著 『仏 教 と人 間 一主
体 的アプロ ー チー 』 ((B)の 改訂 版、 東 京書 籍 、 東書選書、1993
年10
月23
日第1
刷 ) 仏 教 とは何だ ろ うか。昔か ら仏教は(a)「仏の 教え 」 で あ る と同時に、 (
b
) 「仏 になる教え」 である、 といわれて い る。 本書で はこ の 二 つ の 定 義 を軸に、 仏教の 「 意味」 をさ ぐっ て み た い 。 仏教と は 「 仏の教え」 である、 とい うい い 方は簡明 だ し、 まさ に その と お りなの だ が、 しか し、こ れはい か に も大 ざっ ぱない い 方で あ る。 仏 教 とい うこ とばに 含 ま りん か く れ る具体的内容の 、 その 輪郭 さ え を もじゅ うぶ ん に 示 す もの と はい え ない 。(
12
頁 )(
C
)奈良康
明編 著 (第7
章を除 く全体の 実 質的著 者は松 本 史朗)『仏教
の実
践 』 (東京 一271
一Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty 成 仏 ノー ト (袴谷) (
3
) 書籍、1983
年10
月14
日第1
刷)= 松本
史 朗著 『仏 教へ の 道 』 ((C
)の 改 訂 版 、東京 書 籍 、 東 書選書、1993
年6
月26
日第1
刷)仏教は 、(a)仏の 説い た教 えで ある と ともに、(b)仏 に な る た め の 教え である とい わ れ て い る。 で は、 仏に な る と は、 どの よ うな 意 味で あ ろ うか ,, 仏 に なる、 つ ま り、 成仏す る とい うこ との 意味 内容は、 長い 仏 教 の 歴 史に お い て、 時 代 に よっ て も、 地 域 に よっ て も、 また 宗 派に よっ て も、さ ま ざ ま に異な っ て い る。さ ら に、 よ り厳 密 にい えば 、仏教徒一.・人一・人に とっ て、 そ れは相 違 してい る とい え ない こ とも ない 。 しか し、これ らの すべ ての 相 違を超越 して 、変わ るこ との ない 普遍的な真理が あ る と考 える か らこ そ、人は仏 教 徒で あ る との 自覚 をもつ の で あろ うv 本 . 書は、 仏に な る教えの 種々 相 を紹 介しつ つ も、内面 的に は む しろ、 その 種々 相の う ちに一貫 す る 仏 教の 統一的 真 理 と は なに か、つ ま り仏教の 仏教た る ゆ え ん は どこ に あ る か をさ ぐ ろ うとす る試み に ほ かな らない 。 (
8
頁= 改 訂版10
頁 )ところで、 私 が、 上
引
の (AXBXC
)に お け る ご と き(aXb )両 面か らの 仏 教の定義
を、 仏 教入門書
の 類の 本に お い て は む しろ一般 的に採 用さ れ て い る もの と、つ い先
程 ま で思 い 込ん でい た遠 因に は 、私の 本 稿 を草す
るこ と に な る動機
づ けの 一つ に もな っ て い る か もしれ ない 、前田惠學
博士 の 以下の よ うな御 指 摘と、 そ れ に よっ て知っ た(D
)下の 前田博士御 自身
の 記述 とがあっ たか ら なの であ る。宇 井 博士 は 「仏 教 と は仏 陀の 説い た教 え であ り、 仏 陀 と成 る教 え である」 と言わ
れ た。 従 来は この 線に沿 っ て仏教を理解す るこ とが 多か っ た。 私 も小 著 『 仏教要 説
(昭和
43
、 山喜房 )を書い た時、 こ の 考えに よっ た。 (前田惠學 「 仏教 と は何か 、 仏教学 い か にあ るべ きか 」 『仏 教 学』 第
36
号 (1994
年12
月)、22
頁)(
D
)前
田惠
學著 『仏 教 要説 一 イン ドと中 国』 (山喜房仏書林 、
1968
年6
月20
目第1
刷)仏教は、 (a)仏 すな わ ち仏陀 (
Buddha
)の 開い た教 えであ る。 仏 陀の 語 は、〈覚者〉 〈真理 をさ とっ た 人〉 を意味 す る。 こ れ は仏 教の 理想 的人間像 を示 す普 通名 詞が 、 固 有 名 詞 となっ た もの で ある。仏 教で は ま た、さ とり を開い た 人 は なん ぴ とも仏陀 た りうる。そ れ故仏教は、 すべ ての 人が (b)仏 陀 と成 る教 えと さ れ る。 そこ で他 の 仏 陀 と区 別 して、 歴 史 上の 人物 と し て の 仏陀 その 入 を指す時に は また 、 ゴー タマ ・ブ ッ ダ とか 釈 迦 牟 尼 世 尊 とか 呼ばれる。 ゴ ー タマ ・ブ ッ ダGotama
Buddha
の ゴ ー タ マ と は、 仏陀の 属してい た氏 姓の 名称で ある。 釈迦 牟尼世尊の 釈 迦 は、 その所属 してい た種族 名で あ り、牟尼 muni は聖 者の 意、世 尊は尊,称 で あ る。 従っ て、 釈 迦 族 出 身の 聖 者 を意 味 し、これ を略 して 釈尊と も言 う。 また種 族名の 釈 迦 を、 その ま ま 仏 陀その 人の 呼称 に も用い る。 (
7
−8
頁) 一270
一 N工 工一Eleotronlo LlbraryKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty (
4
) 成 仏 ノー ト (袴 谷 )宇 井
博
士 は、 周知 の ご とく、 イ ン ド学
や 仏教学
に関す
る その 厖大
な御業績
の ゆ え に 、斯 学会 に重 大 な影響 を 与えた大 学 者である か ら、 前田惠
學 博十 の御指摘
さ れた よう
に 、仏 教の 定義
に関
して も、宇 井博
十 の 説が後 学の 学 者たちに よっ て 、意識 す る としない とに か か わ らず、 い つ の 間にか借用 され てい るこ ともまた大 い にあ り うるように私 に は思 われ たの であ る。 その ために、私 は 、浄土真宗に属 す る学 者 と 認 識さ れて い た前
出博士 がそう
で あ るよう
に 、 か か る仏教
の定義
の 借用 は広
く宗 派 を問わず
に流布 してい る もの と漠然
と考
え て今 冂に至っ た 。 しか る に 、今
口、勿 論私 が所 持 して い る限 りの 仏 教入 門書とい う限定付 きで は あ る が 、宇 井 博士か ら の 借 用であ るこ と を断っ てい る前田博士以外に 、か か る定義
を用 い てい るの は、 曹 洞宗所属
の 学 者だけであ る とい うこ とを知 っ た の は 、 私 に は 少 なか らぬ シ ョ ッ ク で あ っ た 。恐 ら くは周
知 さ れて い るこ と と は思 うが 、前田博士 の 依 拠 され た字 井 博 士御 自身
が ま た曹洞宗
出身
の 著名な学者
であっ た わけである か ら、か か る仏教
の定義
が 曹洞宗
の 仏 教学
者に特有
な もの と分か っ て くれ ば 、か か る定義
自体が、曹洞 宗 的 な学 者にだ け有
利な非
学 問 的な もの で あ る との 可能
性 が高
くなっ て くる か ら で ある。 もっ とも、私 には、 本 稿 を草 して み よう
と思っ た段 階か ら、 上 記(aXb )の 仏 教の 定義
は 、 自力聖 道 門 的 な仏 教に とっ て は都 合の よい もの か も しれ ない との 判断
は働
い てい た の で あるが、 こう
まで その 定義
が 曹 洞 宗の 学 者だけ に特 定 さ れ る よ うに なっ てみ る と、事
態は予 期 さ れ てい た 以一ヒに深 刻 なの か もしれ ない 。 私はな に も他人の こ とを言 っ て い るわ け では ない 。私 自身
、3
年 前まで 曹洞宗に僧
籍の あ っ た人 間 と して 、 この (aXb )に よ る仏教
の定義
に よっ て知 らず
識らず
のう
ち に影響
されて い た の であ り、自力聖道 門的な仏 教の 延 長線上 で唯 識思 想の研 究を行 い 、 そ うい う仏 教 観 を研究 論 文E
に も振撤 い て い たの であ る1}が 、 こ こ数 年は善導
や法
然 や親鸞
なども少 しつ つ 読む よ うになっ て他 力浄土 門的
な仏教
の こ と も真 剣に考 え るよ うには な っ て き た もの の、染 着い た仏 教 観 を 自分か ら排 除 す るた め に は 、本稿 の ような 試み を今 後 も続け ね ば な ら ない で あろ う。さて 、
奈 良博
士が、B
)に お い て(aXb )は昔
か らそ う言 わ れてい る とおっ しゃ っ てお ち れ るの を とも
か く とすれ ば 、前田博十 はせ っ か く(aXb )の 仏 教の 定 義は字 井博士 か らの 借 用 であ る と明 言 して 下 さっ て い るの で あ るが、残念 な こ と に その 典拠 を 明示 して 下 さらな か っ た た め に、 私 に は そ れ が宇
井 博 士の い か なる論 著に 基づ く もの で あ る か が正確
に は分か ら ない 。前
田博十 を始め と し て、 正確な こ とが分 か っ てい る方に は ぜ ひ御教
示 を賜 わ りたい の で あるが、私の 知 り得 た限 りで、その定義 一269
一Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty 成 仏 ノー ト (袴谷) (
5
) に最 も近い と思 わ れ るもの を示 せ ば以下の とお りで ある。(
E
)宇
井伯
寿著 『信 仰 仏 教 』 (要 書房、1948
年8
月15
日発行 2)) 先づ 、仏教 とい ふ の は (a)仏の 説い た教 とい ふ 意味で あるこ とは何 人に も考へ られ る所で あ る が、 然 し古 くは屡々 仏法 とい うて 、仏教 とい ふ よ りも 一層 多 く用 ゐられ た し、支那で は現代で も よ く仏 法 とい うて居る。仏法も通常 は仏の 説い た法の 意 味 で 、 法 と教 と が 同 意 味になつ て居 るの で あ る。 現 今 、 殊 更 仏 教 と用 ゐ るの は、明治 時代に宗 教 とい ふ言葉が 用 ゐ られ、其 中に 含 まれ る もの を キリス ト教、マ ホメ ッ ト 教 など と呼ん で、教の 字を用ゐ るの が多い か ら、仏教 とい ふ名が よ く用 ゐ られ るこ とに なつ た の であろ うと思は れ る。 勿 論 仏 教の 中に仏 教 とい ふ 語は あつ たか ら決 し て新 た に造 られ た もの で は ない 。仏の 教 とい ふ 意味 を更に内容的にい ふ と、(b)仏に 成 るこ とを教へ る教 、即 ち仏 に 成 る教 と解するこ と も出来 る。 こ れは つ ま り仏教の 目的は凡て 仏に成るこ とに あるか ちで ある。 (4
−5
頁)こ れ は、 ほ と ん ど に
見
ら れ る高崎博
士 の記
述 の 祖型 と言っ て も よい くらい の もの で あり、 (B
りの奈良
博士 の 「昔か ら 」 「い わ れ て い る」 とお っ しゃ る限定
に そ れ ほ どの 根 拠 を見 出 しえない 以 上、 基本 的に(E
)と とをつ な ぐ線 で考 えてみ て太過 は ない の で はない か と思 う。 そこ で、 以下に 、こ の線
に沿い なが ら、当初 私が考
え たよ うに 、(aXb )による仏教の 定義
は 自力 聖 道 門的 な仏 教に都 合 よ くなるよ うに採 用 さ れた もの で は ない か とい う危惧の 念を確認 して い っ て み る こ とに し たい 。 以 下、(a)と(b)との そ れ ぞ れに 分 けて考察
を行 う
が 、 まず
、 (a)か ら取
上げて み よ う。II
(a)につ い て の宇 井博士 の別 な著書
における言 及 を探 してみ る と、『仏教
汎論
』 で は次 の よ うに述べ られてい る3}。仏教 は、 通常の 解 釈 によ れば 、 仏の教 (
Buddha
−dharma
,Buddha
−§asana )であ
る。 梵 語で 言ひ現さ れ た場合に は仏に関 するもの
(
Bauddha
)で 、 形容 詞 形 と し て、仏の 教で も、 仏の 系統 で も、 仏の 弟子で も、 広 く指すこ とに なつ て 居るが 、 古くは 、訳 して仏 法 とい ひ、 現今は一般 に、 仏 教 と用ひ て居 る。 こ の 仏は仏 陀 と音訳 せ ら れ るの と同 じで 、 決 し て、 仏陀の 略 称で な く、 仏 で 完全 な 音 訳で あ る。 占来 、 浮 屠 、 浮 陀 、 仏駄 、 浮 図 、 浮 頭 、 歩 他 、勃陀 な ど と音訳せ ら れ て も居 る が 、仏、 仏 陀 、浮屠 な ど が 比較的に よ く用 ひ ら れ る。 ほ とけ とい ふ 訓は これ か らの 派生 に外 な ら ぬ もの で あ る。
高
崎 博士 も また、 先の に おい て(a)に対す る補 足 説 明の 中で次 の よう
に述べ て 一268
一 N工 工一Eleotronlo LlbraryKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (
6
) 成 仏 ノー ト (袴谷)
お られ る4) 。 ふ と ブ ッ ダ (buddha
)は中国で は 「浮図 」 など と音写され、 それが 日本に 入 っ て 「ほ なまと」 と 訛 り、や が て 「ほ とけ」 になっ た。 漢 字の 「佛」 (仏 ) も
buddha
を表わす た め の 造 字とい わ れて い る。 漢 訳 語 と して の 「仏 教」 の 原語に は、 た と え ばbuddha
−§asana
(仏の 教 説)が あ る。 今 日イン ド で、 ヒン ドゥ ー教 と か ジ ャ イ ナ教 との 対比 で仏教 をよ ぶ と きは
Bauddha
とかBauddha
−dharma
(つ ま り仏 法)と言 う。Bauddha
くBuddha
で、 仏ぼん ご
に関す る、仏に属 する、仏教 徒、仏教の 教説などを意味 す るサ ン ス ク リッ ト
(
梵語 )に 由 来 す る。 な お 、 「仏 教 」は英 語の
Buddhism
に相 当 す る語 として、今 目一般 に 広 く用い ら れ てい る。 漢 訳 語の 「仏法」の 原 語はbuddha
−dharma
で あろ うが、ダル マ に は後 述 するよ う に い ろい ろの意 味が あるの で、「仏 法 」の 意 味 もい ちがい に は決め ら れ ない 。 わ が国 で は 古来、 仏教 と よぶ よ り仏法 と よぶ こ と が 多か っ た。以上の 宇 井、
高
崎 両 博士 の 記 述 をま とめ る と、 (a)の 仏 教に 関 してい えば 、漢訳語 と し て は 、当の 「仏 教」 の ほ か に 「仏 法」などもあ り、 その 原 語 として はbuddha
−§
asana
やbuddha
−dharma
が考 え られ る とい うこ と に なる。 しか し、こ の件に関して は、
先
の(E
)で、宇井博士 が、 「仏 教」につ い て、「勿 論仏教の中
に仏教
とい ふ語 はあつ たか ら決 して新
たに造 られ た もの では ない」 と言っ て お られ る よう
に片 付 けてす ませう
る ほ ど単
純 なこ とでは ない の で ある。確
か に、 厂仏
教」 という
語が昔
か ら決 っ てい た とい う方面 を重 視 す る な ら、 その場 合の 「仏 教」 と は 、「七仏 通 戒 偈」 の 「(諸)仏教
」 という
用例
な どが古くか ら知 られ て お り、 その 原 語 もbuddha
−§
asana /
buddhanu
§asana
かbuddhanam
(anu )§asanam
か という
こ とが確
実なの で あるが、 こ の場 合 に は 、その意 味が 果 して 「仏の教
義
(the
doctrine
ofthe
Buddha
)」 という
内容 を指示 しうる か とい う問 題が残 らざ るをえない で あろ う。buddha
−§asana /
buddh2nu
§asana
に せ よ、buddhanam
(anu )§asanam
に せ よ、
この
場合
に重要
なの は anu §asana /
§asana
なる語で あるが 、こ の語
が典
型的
な形で現 わ れ 、 しか も禅 宗で重 宝 され る「七仏 通 戒 偈
」に おける その 意味 は 、
flll
人的苦行 者の イメー ジ を もっ た宗教 的権 威 者の 命 ずる 「教 誡」の ご と き内容 を しか指 示 し
てい ない か らなの である。 その こ とは既 に検 討し たこ ともある が、 以 下に その 要 所
の み を引 用 して お くこ と に したい 5}。
この anugasana /§
asana
は、 動 詞の 語根SAS
− (折檻する、 罰する、 支 配する、命令す る、
宣
告す る)
か ら 派生 し た名詞 で あるこ と か ら もわ か る ように、権威者のKomazawa University
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成仏ノー ト (袴 谷 ) (
7
)側か らの 一一方的教 誡 とい っ た語感を 強 く残し て い る ように思わ れ る
。 そ れ は、思 想
(
ditthi
,d
膩i
, 見 ) 上の教 説 を論 争に よっ て決 着 する (dharma
−pravicaya
)とい うような仏教 的知性 (
prajfia
)の 特質を全 く示 して い ない の で 、 これ を権威づ けるの は通イン ド的 な宗 教上の 習慣 (slla,§ila
,戒 )で ある ほ か はない 。 その 点は、 今 問 題と して い る 〔「七仏 通 戒 偈」 の 〕(
3
)偈 や (8
)偈 を虚 心に読め ば、 誹 謗 (upavada )と はなん で あ り障害 (upaghata ) と は な ん で あ るか 、悪
(
papa
)とは なん で あ り善(
kugala
)と は なん で あるか とい う 、 そ れ らの 性質 (dharma
)を 決着 するこ となく、た だ それ ら を なすな と かなせ とか しか 言わ れ てい ない 以 上 、そ こ に は イン ドの 習 慣 と して是 認 さ れ た 苦行 的 実修し か 示 さ れ て い ない こ と が分 か る はず で ある。
上の 引用 文
中
に お い て指 摘 した点は 、「七仏通 戒偈
」以外
の 用例
にも
適 用 で き る こ と と思 うが 、今
は そ れ を (イ)∠)hammaPada
の 頌 と こ れ ら に 対 応 す る(ロ)Uddinavarga
とによっ て確
認 し てみ るこ とに した い 。3
例あ り、 それ ぞれに つ き、 (イX
ロ)の順に示す
こ と にす
る6 )が 、 ( A )は私 によ っ て与
え られ た暫
定 的な和訳 で あ る。 下線
は今 問題に して い る用 語であ る こ とを示 す。(
1X
イ)mett 五vihariyo
bhikkhu
pasanno
buddhasasane
adhigacche
padarp
santarp sa 田kharUpasamarp
sukharp .(ロ)maitravihari
yo
bhik
§ubprasanno
buddha
§fisane /
adhigacchet
padarp
§antarp
sarpskaropa §amam sukham//
慈
に心 を安ん じ仏の 教 誡 に心 服 してい る修 行 者 (比 向 は 、 意 志の 静まっ た 、安 楽に して静 寂 なる依 り所に到達 するで あろ う。
(
2X
イ)pamojjabahulo
bhikkhu
pasanno
buddhasasane
adhigacche
padalp
santa 甲 sarロkharUpasama
卑 sukhalp .(ロ)
pramodyabahulo
bhik
§uh
[
prasanno
buddha
甑 sane/
]
[
adhigacchetpadar
ロ §antarn
salpskaropa §amam sukham/
/
]
(・X)喜に満 ち仏の 教 誡に心 服 してい る修 行 者
(
比丘 )は 、意 志の静
まっ た、安 楽に
して寂 静 なる依 り所に到 達 する であろ う。
(
3X
イ)yo
have
daharo
bhikkhu
yufijate
buddhasasane
so ’
mam
lokam
pabhaseti
abbha mutto va candima .お よ そ だ れ で あ れ
若
き修行
者に して仏の 教 誡に励むη もの である な ら ば 、その人は
雲
か ら離
れた月
の よう
に こ の世 を照 ちす。(ロ)
daharo
’pi
cetpravrajate
yujyate
buddha
§2sane /
一
266
Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
(
8
)
成仏 ノー ト (袴谷)
sa
ima
即bhasate
lokam
abhramuktaiva candramah //
のた とえ若 くとも遊行 し仏の 教 誡に励むな らば、 その 人は雲か ら離れ た 月の よ
う
に こ の世 を照 らす。以上の 頌に よれ ば、雲か ら離 れた月の よ うな解 脱 (mutta , mukta )を求め る修 行
者 (
bhikkhu
,bhik
$u)が 、慈や喜の 心に満た された精 神 集 中8 〕におい て 「仏の 教 誡(
buddha
−sasana ,buddha
−
9asana
) 」 に 関わ っ て い る わけであるか ら、「仏の教 誡」 と は 、実修 的側面
が極め て濃厚
なも
の だ という
こ とが 分か る わけで ある。従
っ て、 こ れ らの 用例に多
く よっ た と思わ れ るChilders
教 授が 、 その パ ー リ語辞書
9)中に おい て、buddha
・sasana に “The
commandment or religion of
Buddha
(仏 陀 の 掟 も し くは宗 教)”とい
う
、 実修
的 指令の意
を漂わせ る訳語
を与
えて い るのも
至極
当然
なこ と と思わ れる。 しか る に、 仏教
の(a)の定
義
に 沿っ てbuddha
−§asana
が理解さ れ る と き に は 、こ の 語は厂仏の教 説1°)(
instruction
or
teaching
ofthe
Buddha
,the
teaching
Qfthe
Buddha
,Buddha
’steaching
,the
doctrine
ofBuddha
,the
doctrines
of theBuddhas
)」 と訳されるの が一般
的
で ある。確
かに、名
詞 §asana
の 由来 す る動 詞SAS
・は 、如上所 引の 記述 中に指摘
した意
味 の 他に 、 「 教 える (toteach
)」 「指 示 する (to
instruct
)」11〕など の意 味 もあるか ら、 か く訳された と して も、そ れ ほ ど原義
を損っ たこ とに は な らない で あろ うが、しか し、元来の 実修 的 指令
の ニ ュ ア ン スを殺
して ま で 「教 説
」にこ だわ ら ざるを え ない の は 、仏教
の 歴 史は な ん とい っ て も 「教 義 (doctrine
)」中
心に展 開 した か ら であろ う。 しか し、 も しそ うな ら、 「 七仏通戒
偈」的
な §asana
は 、必 ず し も西 欧に お けるdoctrine
が動 詞didasc6i2
》(教 える)やdoceol3
)(教 える)か ら派 生 しdidach6
,
didascalia
,doctrina
を経て現 代 語の 「教義
」 を表わす語に成 長 したの と同じ よう
な経過 を辿 っ た わ けで は ない 14 )の で、仏教 を説明するの に過 度 に こ の語に 拘 泥 するこ との ない よ うに し た方
が よい と思わ れ る。 なぜ な ら 、 過 去の 仏 教の 厂教義
」 の展
開にお い て、 こ の §asana
が 当の 「教 義」 を表わすべ く使用 され た痕 跡はない の で あ り、 に もか か わ らず、 こ の 語が使用 さ れ る時
には、 そこ に 「七 仏通戒
偈」的な仏教理解が仏教入 門 の最初
の 段 階か ら紛れ込
んで しまう危険性
が あるか らで ある。しか し、 そ れ な らば 、 過 去 の
実際
の 「教 義」論 争の中
で、仏教 とは一体 どの よ う に定義
さ れ てい たの で あ ろう
か。 以 下 に は 、そ れ を示すため に 、紀 元前2
世 紀 頃活 躍 した説一切有
部の 巨匠カー テ ィ ヤー ヤニ ー プ トラの 『発 智論 (1n
−aTnaPrtLgtha−na )』 か ち仏 教の 定 義 を引用 して示 して お くこ と に しよう
15) 。 一265
一Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty 成 仏 ノー ト (袴谷) (
9
)仏 教云何。 答。謂 、 仏語 言 ・評 論 ・唱詞 ・語 路 ・語 音 ・語 業 ・語 表 、 是 謂 仏 教.
ただ、非 常に残 念 なこ とに 、 『発 智
論
』 には サ ン ス ク リッ ト原典
が知 られてい な い の で、 これ らの 重要な漢訳語の 原語は 正確
に示 し え ない が 、 『発智論
』 と同 じ漢 訳者
で あ る玄奘
の手
に な る 『 倶 舍論
』 か ら推せ ば16>、 上 引の 「 仏 教」 の 原 語はbuddha
−vacana (仏の 言 葉)で あっ た か も しれ ない 。 しか し、 その 原語がか りにbuddha
−§百sana であっ た に して も、大事 なの は そ れ以下 の 定義
にある わけであ る か ち、 その定義
に よれば 、 「仏教
」 と は、 「仏
」 の 「語言
」も
し くは 「評論
」 「唱詞」 「語 路 」 「語 音」 「語 業」 「語 表」 であ る 、 という
こ と に なる。 しか る に、 こ れ らの 定 義 中の 諸 語は、全て 言葉に関わ っ て お り、 しか も、 その うちの 「語 業」 と「語 表」とは 原語 も確実 に そ れ ぞ れ vak −
karman
と vag ・vijfiapti と推 測 で き るこ とか らも
分か るよう
に、 こ れ ら は他
人 に は っ き りと明示 しう
る言葉
を指
してい るこ とに な る。従っ て、 『発 智 論 』の定義
に よ れ ば、 「 仏 教」と は 、 仏に よっ て 明瞭に他に分 か るように示 され た 言葉や教 えでな け れ ばならない の である。 仏教 徒 とは、 か か る 「 仏 教」 に順 っ て なに が 「正統 (orthodoxy )」 であるか を断 えず選ん で い くべ き も の で あろ うが、 その よ うに 「仏 教」 を述べ た もの に、善導
(613
−681
)の 『観 無量
寿 仏 経 疏』 の 次の よ うな一節が ある17)。又 、 深 信者、仰 願、一切行 者等 、一心 唯 信 仏 語 、 不 顧 身命 、 決 定 依 行。 仏遣捨
者、即捨 。仏遣行 者、 即行。 仏 遣去 処、 即 去。 是 名 、 隨 順 仏 教 、 隨 順 仏 意。 是名、 隨順 仏 願。 是名、 真 仏 弟 子u
しか る に、 「七仏通 戒 偈 」的 な伝 統に全 く
拘 束
され る必 要の なか っ たGriffiths
教
授は、「仏教」 の 語
義
に関わ るよ うな一連の 語、即ちbuddha
・vacana ,buddha
−§
asana
,buddha
−de
§ana ,buddha
−dharma
に言及 した直後に 、 これ ち を単刀 直 入 に 「教義
(doctrine
)」 の 方へ 引 き付 けて 、 次の よ うに述べ てい る18)。 〔これ らの 語 と〕キ リス ト教 の 論 述 に お け るdidach
∈やdoctrina
との 類 似 性は濃 厚で あ り 明 白で あ る。 キ リス ト教徒に よっ て、 そ れ らの 語が 、 その 共 同 体の 教 える もの と それ を教 える その 共 同 体の行為 とを表示す る た め に 用 い ら れ てい るの と全 く同 じよ うに 、 上 述の 諸 語 も また仏 陀の 教 えの 行為 と内容 とを表示 し うるの で ある。 vacana ,
de
§ana ,§asana
の 動 詞 形は、似たよ う な もの で あ り、仏 教 教義 (Budd
−
hist
doctrine
)を もた らす行 為 を指 すの に使い 慣れ た もの であっ た。Griffiths
教 授は 、ア カ デ ミッ クな宗 教研 究の な か でかつ て は特権 的
な 地位 を 占めて い た 「
教義
の教義 的
研究 (
doct
血 al studies ofdoctrine
)
」 が近年衰
えて い る一
264
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
(
10
) 成仏ノー ト (袴谷〉 の を嘆 く一 方で 、 自 らに、キ リス ト教の み な らず
仏 教につ い て も 「教 義の 教 義 的研 究」を課 してい る学 者で ある19 )が 、 その 彼の 姿 勢 を考 慮 す る と、 上 引の 同教 授の 言 明は、仏 教に対 する極め て 好 意 的 な解 釈 を示 した もの と見
做 し うる。 しか も、Grif
−fiths
教 授が言わん とするよ うに、過 去の 仏教 の 「正 統」 的 側面 に は 、上 引の 『発 智論』 や 『観 無 量 寿 仏経疏』 に 見 られ る よ うに 、仏陀の 「教 義」 や 言 葉 を重視 し よう
とした形 跡が認め られ るこ とは確か であるが、 当の 仏教
国とい われ る日本
に お い て は 、 むしろ圧倒 的に 、仏 教 と は 「教 義」 で はな くて 「実 践」 である と思わ れ て い ない であろう
か。事
実、高
崎直道 博十 は 、上 引の(A
)に お け る(aXb )の 仏教
の定義
の もとに仏教
につ い て述
べ続け
、 その第
6
章
で は 「悟
りへ の道
」 を語
り、 その 直後
の 第7
章の 冒 頭 で は 、 次の よう
に書
き起 こさ れて い る2°)。以 上 の 実 践 論は 、仏教の 要諦 で あ り 眼 目で あるが 、 これ を総 括 して い るの が 「七
仏通誠の 偈」 で あ る。 すな わ ち、
諸々 の 悪 を作 ら ざれ
(諸悪 莫作
)
諸々 の善をすすん で行 な え
(
衆善 奉行) おの れの 心 を浄め よ (自浄 其意 ) これが諸仏の教誡 である (是諸仏教 )か くして、か か る実 践が仏 教の 本
質
と されて しま うの である。 しか も、こ こで 「教誡」 と訳さ れ て い る原語が sasana
/
§asana
か anusasana/
anu §asana21
)で あることに は
充
分 注 意 を払わな けれ ば な ら ない であろ う。 また 、 こ の 「心 を浄め る」 こ と が 「仏 となる」 こ と に連 なっ てい る とすれ ば 、 こ こ に おい て、仏 教の(a)の 定義
は(b ) の定義
と通底 して い る こ と にな る わけで ある。 なお 、(a)に 関 して、先 にGriffiths
教 授 も 高 崎 博十 も触 れ て い たbuddha
−dharma
(仏法 )に関 して い えば、 こ れは普
通 厂 仏の 徳 性」 を指 す 語で あっ て、管見
の 及ぶ限 りでは 、 この 語が 明確に 「仏の 教義
」を意 味す る例は知 られてい ない と 言 わ ざ る を え ない もの であ る22 )。III
次 に 、(b
)の 考 察に移るが 、前田惠學 博士御 指 摘の と お り、(aXb )に よる仏 教の 定 義 か 、宇井博 士に由来 する もの だ とすれ ば、 種 々 の 問題 は あ る にせ よ、 曲 りな りに も その 原語 を想定
しなが ら論 を進め るこ との で きる(a)の 場 合 と は異っ て 、(b
)の 場 合 に は そ れ に近
い 原語の名
詞形 を想定 す
るこ と さえ もで き ない であろ うか ら 、 (b
)の263
一Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty 成 仏 ノー ト (袴 谷) (
11
) 定義
の根 拠は益々 もっ て宇井 博t
御 自身
の説
明中
に求め たい ところ なの で あるが、 前田博 士が そ れ を明 示 され てい ない 上に 、 私 自身
もなん ら確
実に知 りえた こ と は ない の で、 御 存知 の 方に は ぜ ひ御 教示 を乞 う次 第で ある。 私の 知 りえた範 囲でい え ば、 (b
)に 関 する多
少 とも詳 しい 宇 井 博士御 自身の 説明 に は次の よ うな もの が あ る23 ) 。仏 教 は、字
義
通 り、 仏 陀の 教で ある が 、 同時に、 又 、 仏 陀 に 成 る教 であ る。 勿 論 、仏 教 の或 部 門に 於て は、 必 ず し も、仏 陀 と成 る教と は せ られ て居 ない こ ともあ るが 、 然 し、一層 高次 の ・Z
場か ら見 れば、 そ れは 中途に彷 徨 しつ つ 、 而 も、そ れ を 最 高と見做し て居 る程 度の 考に過 ぎ ない もの で あ る か ら、結局は、仏陀 と成 る こ と に努 力 して 居 るもの とな されね ば な らぬ もの で あ る。 故に 、仏 教 本 来の 性質か らい へ ば、其総て の説 は、 仏陀 と成 るこ とを教へ る もの で あ る とい へ る。こ の 説明 中で 宇 井 博士が 「仏 教 の 或 部門」 に よっ て なに を意味 した か は 必ずし も 定か では ない が 、 恐 ら くは 、自力聖 道 門 的な仏 教に対 する他 力 浄土 門 的な仏 教 を指 して い るの で は ない か と思わ れ る 。 浄土教に よれ ば、 阿
弥
陀仏
では ない 私 ど も全て の 人 間は 「罪悪 生死 凡夫」 で しか ない の であっ て、 私ども自身
として は決 し
て 「出
離之 縁 」はありえ ない と信 ず る ほか は ない の だ か ら、 「仏 とな る(
成仏)
」 な ど とい う考 えは思い 上 りも甚 しい と言わ なけれ ばなら ない が 、 しか し、 阿弥陀仏
の 本 願に 乗 じての み往
生はか なう
と信 ずるこ とだ け はで きる か ちで ある24) 。 こ の よ うに、 浄 上教 で は 、 基本的に は 、「往 生」が 説 か れ る だけであ っ て、 「成 仏 」は 説 か れ ない の で ある が 、 その往
生の 一例 を、 『観 無 量寿
仏経』 の 下 品 下生の 衆生の 場合
につ い て見
て み るこ とに しよう
25 )。 如 是 至 心 、 令 声 不 絶 、 具 足 十 念 、称南無阿弥陀仏。 称 仏名故、 於 念念中、除八1
一 億 劫生死 之 罪 。 命 終 之 時 、 見 金 蓮 華 、猶 如 日輪 、住 其人前 。 如一念 頃 、 即得 往生 極 楽 世 界。 於 蓮 華 中 、 満十二 大 劫 、 蓮 華 方 開 。 当 花 敷 時 、 観 世 音 大 勢至、 以大悲音 声 、 即 為其 広 説諸 法実相、除滅罪法。この よ
う
に、 た ちまち往
生す
るこ とはで きた として も、 彼は、極楽
世 界の 蓮 華の 中で満 十一二 大劫 を経 な け れ ば大 悲の 教 え も聞 くこ と が で きない の で ある。 こ の 下 品下生の 衆生 に象 徴 され る よ うな往 生の 仏 教 を、宇 井 博士 は 、「中途 に彷 徨 しっ つ 、 而 も、そ れ を最 高と見做 して居 る程 度の 考」 とお っ しゃ っ たの か も しれ ない が 、 しか し、 「…層
高次 の 立 場か ら見れ ば 」、 か か る浄土 教 を も含め て 、「結局
は 」、 仏教の 「其 総て の 説は 、 仏 陀と成るこ と を教
へ る もの で あ る」 と言 い 切 るこ 一262
一 N工 工一Eleotronlo LlbraryKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty (
12
) 成 仏 ノー ト (袴谷) と は 果して可能
なの で あ ろうか。 だ が 、 恐 ら く、そ れ は無理 だ と言 わ な け れ ば な ら ない であろう
。 に もか か わ らず
、 それ が 可能
で あるよう
に見 えるの は、宇井博
士御 自身が、全て の 人間が 「罪 悪 生 死 凡夫」だけ であ る と説 く浄土教を理 由 も な く 見下 して 、不 遜に も全ての 人間が覚 りの うちに包
含さ れてい る とい う「本覚 思 想26)」 を 勝 手に 「一層
高次の 立場
」 と決め付け てい るにすぎ ない に もか か わ らず
、 受け乎の方 も
か か る 「本覚
思 想」 が高
次の仏教
だ と思い 込ん で い る か ら なの であ る。 しか し、仏教 思 想史.上 に おい て も、「(人が )仏になる (bUddhO
bhaVati
)」 など とい う よ うな考 えは、 紀元前
後に で もな ら な け れ ば はっ き り と は浮 上 し て こ ない 新しい 考 え方で あ り、 しか も、 浮上 したその 考 えは非仏教的
で通
俗的
な イン ド的
観念
に染 っ て い た もの と思わ れ る。 仏 教 教 団が最
初 に大き く分 裂し た と き、 通俗 的な多
数派 の 思 想に抗 して 、伝 統 的 な仏教
教義
を守っ た の が上 座 部で あっ た が 、その伝 統 を守 っ た 南伝の パ ー リ上 座部 に よっ て も北伝
の 説一切 有 部に よっ て も、普 通の 人が 「仏 にな る」 な ど とい う考 え方は決して認 め ら れ るこ とは なか っ たの である。実際
、buddho
bhavati
に類 す る語は、現 行の パ ー リ三蔵にお い ては 、最 も通俗 的な説
話 であ る1ditaka
に お い てすら 用い られて い ない 27)よう
で あ り、 また、 説 一一切有
部系 統の 文 献に おい て も事 情は同様で あっ た と考 えられ る。次に、 その 説…切有 部系 統 を代 表 する文献で あ る 『大 毘
婆
沙 論 』の 中か ら、 彼 ら が仏 (Buddha
) をどう見做 して い た か を示す
箇 所 を引け ば 次 の とお りであ る28)。 復 次、 為於 帰依 有 愚惑、 令得正解 無猶 豫故。 謂 、或 有謂、 帰依仏者、 帰依如来頭項腹背及手 足等所 合 成身。 今顕 、 此
身
父母 生 長、 是有漏 法 、非所帰依。 所帰依者、 謂 、 仏 無 学成菩 提 法、 即 是 法身。 (中略) 諸帰依 仏 者、何 所帰依。 答。 若法、 実有、 現有、 想 、等想 、施 設、 言 説 、名為 仏 陀。 帰 依 彼 所 有 無 学 成 菩 提 法 、 名 為 帰 依 仏。 此 中 、 若 法 、 実 有者、 顕 、 実有仏 体 、 以 法為 自性。 此言、為遮 、 或右謂 、仏但名 但 想 但 仮 、施設 無有実体。 現有者、 顕 、 仏 体 如 現 実有、 非 曽有等。 想 者 、 顕 、縁仏 想。 等想 者 、 顕 、 此 想 一 切共 起 。 施 設者 、 謂 、依 想 施 設 名 。 言 説 者 、 謂 、依 名 言説 転 。上の 引用
中
、 下線
で示 した2
箇所
の 「無学成 菩提 法
」は、 い さ さ か読
み の難
しい もの で は あ るが 、ノ1
槻4
跏 庶 孟盈 α の 用 例 29》や 、 次 に 関説 す るAbhidhamaako
一 諏 餉σ釧α の 用例 を参
照す
ると、 a§aik $a
bodhi
−karaka
dharmah
の よう
な サ ン ス ク リッ ト原語 を想定
するこ とが で きるの で、 「 菩 提 を あ ち しめ る (bodhi
−karaka
, 一261
一Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty 成 仏ノー ト (袴 谷)
(
13)
producingbodhi
) 無 学 法3°)」 と解 す るこ と が で きる か も しれ ない 。 か か る法 を有
する仏 が 「法身 (
dharma
−kaya
)
」 であるが、帰 依の対象
となる仏とは 、 その 法 を 自性
とす
る「実有
の 仏 体」 であっ て、父母 所 生の 肉身
では ない 、 という
の が 、以 上 の 『大 毘婆
沙論』 の 趣 旨で ある。 これ とほ とん ど同 じ趣 旨の こ とはAbhidharma
一 肋 動 拡 釧 α で も述べ られ て い る31)が、 こ の場合 にはサ ン ス ク リッ ト原文が知 られ て い るの で、 まずその 原文 を示 した後に、 それ に対 する相 当 和訳 を付 記して お こ う。yo
buddham
§arapar ロ gacchati a §aik $an
asaubuddha
・karakan
dharmafi
chara ロam
gacchati
ye
$am
pradhanyena
saatmabhavo
buddha
ity
ucyate ye$a叩va
labhena
sarvavabodha −samarthyadbuddho
bhavati
/ (お よそだ れ で あれ仏に帰依 するもの で あれ ば、 その 人 は仏をあ ら しめ る無 学 法に帰 依 するの で ある が、 そ
れ ら 〔無学法 〕 を主 要 な もの として い る場合 に 、 その 身体 が 仏 で ある と言わ れ る。
あ るい は ま た、 そ れ ら 〔無学 法 〕 を獲 得 して い る場 合に、 全て を覚 る能力があるか ら、 〔その 人は〕 仏 と な るの であ る。
上
引中
の 下線部
分は 、 恐 ら く、先
の 『大 毘婆
沙論』中
の 下線部
分 とほ ほ伺 じ意 味 を示 そうと して い る と考 えられ る。 しか し、 「あるい は ま た 」 以 一 ドに示 され る別 な 解 釈に は 、「仏 となる (buddhQ
bhavati
)」 という
表現が用 い られ てい るが、 こ の よう
な考え は 『大 毘婆
沙 論』中
に は見出
しえず
、 比較 的新 しい 成立 のAbhidharma
一 んoε励1
晦
y
α だ か らこ そ 紹介
しえた解
釈 なの か も しれない が 、Ya
§omitra の 註釈 中 に もこれ を特定
の 部 派の主張 と指 摘 す るよう
な記
述は認め られ ない 。従
っ て、 こ こ で は敢えて この 解 釈に触 れるこ とは し ない で 、 両者
に共通の 仏の 規 定 に だ け 焦 点 を絞 っ て み るこ とにすれば 、仏 とは 、 仏 も し くは 菩提 をあ らわ しめ る 「無 学法」 と い っ こ と になっ て しまう
の である。 こ の よう
な 「無 学 法」 を 自性 とす る 「実有
の仏
体」 に 通常の 父 母所 生の 肉体の み の 人間が な り うる (buddho
bhavet
)とは考
え ら れる わけが ない 。 こ こに、仏よ りも法が優 先
され る説一切有 部 系統の 基 本 的思 想が 示 されてい る わけ
であ
るが、 その有
部
に よれ ば、 か か る法 を体
とす
る仏
にな
る という
よ うな極め て希 有
なこ とを成 し遂 げ るこ との で き たの は 、 原則 的に釈尊 だけだ という
こ と に なるの で ある。 従 っ て 、 仏 と な る こ と を約 束さ れ た菩 薩 (bodhi
− sattva )も
原則
と して一 人でなけれ ば ならない 。 その 菩薩
の条
件 と はAbhidharma
−koSiabha
−sya
によ れ ば 、次の とお りであ る32} 。bodhisattvab
kuto
yavat
yato
lak
$apa −karma
・krt
/一
260
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
(
14
) 成仏ノー ト (袴谷)
sugatib
kulajo
’vyak §ab puman
jati
−smarQ ’nivrt //どの ときか ら、 なに に限っ て、 菩 薩 であ るの か 。 〔三 十二〕相 〔を異 熟 とす る〕業