• 検索結果がありません。

後 山 山 麓 の 村

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "後 山 山 麓 の 村"

Copied!
165
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

地 域 研 究 第 2 2 集

後 山 山 麓 の 村

‑ 岡山県英田郡東粟倉村 ‑

21101154116

岡山大学附属園雷館

岡山大学教育学部社会科教室 内地域研究会

(2)

‑ 1

(3)
(4)

村役場庁舎 韓葉Au付 .3形館

公民

(5)

後山中谷部落

目名恵山から望む 林家

大庄屋河毛

退要文化財

賦繋缶小学校

(6)

後山キャ/プ場 後山大瀧

摩 供 養

放送

(7)

調 査 参 加 者

(8)

は し が き

」助 長研究・T,22最 として 重'後日lrJJ碇 の付 ‑伯山LI.拙 紫什 付 ‑

J

i̲,公 T‑uす るD本.評価潮

1 5 ・ . , l

Fは IfL'凧 52咋 7)」2()ll(水 )か ら24日 (

u

)まで,㈹LLLy.t英11JlmTJi紫創 寸を対 射 出としてIll('仙 火 I:芦9I帯学 と胴 上倉恥.i/攻・小指の3咋J火!L/I5抑 こLf.る′達弁鵬iiの胡脱 状 であ るO

l

uJLurl→の

lL11調

Llfには 社 会 村 数 &'の 全 教 酌

在朝仁は .卦 7分出虎猫 し,rJ川11,i‑1機 の調 査 も脳il失地LTこ。

こし州 Iji・

] ' l l

山史

柴J

/i‑相良 をは じめ として幽係機朋

・ L

Tl休及 び村民の方 々の仝而約1Ju Jをい ただいたO 公川に騰 して締せ られた脚J‑1TTfJ‑に対 して攻 めて磁剤の8‑杏(<す ると

j l

1‑‑に厚 く御礼 を申 し上 げたい。

野栄CJ村 はIJY;1LLL肘 の北洲軌 とい うJ:・')は北窮の'kLli部に位irこした面も'12 8,01にni,人 口1 5 0 5人 ("日和 5 0咋 同調 )CL)r・f‑lL圭ヨ山地 の山村 であ 7Jo北側の後山を伯成峰 とし,三方 を5 0 0‑ 1,:i 0 0ntのLIlに よって閉 まれ r=軸に向 って朋かi‑LT:谷i・な してお り,交通 は この谷に よって両隣 J)火 脚汀との

こ最 も緒 である。北隣の兵仰山 T陛町 とは,i‑;引峠 に よ り,頼隣の兵ql.i.幣佐川町 とは処海 hlL.QJ=,=), また

.

北は西東fT村 を軽山して鳥1鵬 とと帆 Jかてい ろこの村 は梅故 山皮 の粒 も低い と

ろで も2 5 0 m程虻 はあ り, この ことが現LlJ='東栄

r t H

の1三要 な琴丘金収入 とな ってい ろ東軍の大

栽培 を可能 に しているL,漢/こ,hI李 の学/l三村 や規Jll・T

もTl利 な条件 とな っていろO

小はILけ山は山が深 く,山相 成野の占める巾湖 の7.1糾合かlT古い。 この

も例外 では/Jい.節二 次大槻 後の木炭か ら石iLlt,i

1‑ガスへ の燃料71'・:命 は村のJIb物 肘を も‑・変 させ たといわれ る亡.王どの帥林 を 行 う遠出 nJl'L,たれ これが山村 にあ t)が ちな.I:.'1‑旺if̲折成 昆に とも/J:う過疎 化 ,i,くい とめ ることと な ったこれ らは良い雌むを もつ後山

イ ;

'

;

.'仰 と共 に どれ Jfとって も: lj」に生 きf=村 であ るとい うに充分 であろC.

(後山山姥の村

J

はその象徴的

側 であ り, もってぷ令 としたゆ えん である。

分 村は

I Q

ij'粟爪村 と‑出こ江JIJ時代 に架aFr.と岬ばれていた ことが文化 12年

にJ

Fかれ

.

r

煎作 訟 Jに,iLiされてい るQ しか し,この

仁間にLyJす る

ILL.a)史料はないO紫色J:1・:は恥吋に/Tlかれてお り, 如

紫n

L1‑‑.は吉ELl・大u]・野原l皆野

・l

r

l

裕 ・輿触 ・後山の

7

村 か らな ってい る。F比の如 薬指村 は

0)i‑i‑i柴缶ELの村 々に吉ult・1削 、原比内の川棚 寸がイ)「きれ /こもa)である。 これ らの村 々は北の方後山 か ら細長い裕 を繭旅す る後山川の流域 に

t .

'lJJt]三す る小 村であ る。文化1 2咋 では8)一村 合計 で3 64 ij‑,別布 の如来L^f村 は4 2 5戸 (j帽 日5 0'LT;周 LNJ)である0人 口 もそれ ぞれ1,64 9人 に対 して

1,50 5であ り,いづれにおいて も大 きな変化はlJか っT=といえよ う

0 ㍍

地についてはrilはそれ ぞ れ7 8町 5反】畝斜 こ対 して18 7 5 Ra,州=ま9

4

町 9)‑15畝余 に対 して8 8 0411であるか ら ttlがほは 2.51F'1・にftl加 LTここと(こT.i‑る。後山村 ではす でに明治TJiFの 「後山村地誌 」にEll畑の割 合

(9)

の逆転がみ られ る0)で,江戸時 代束 にはす でに/J(ru化が進行 してい たの であ ろ う。 この変化 も,帆 えば文化12年 当時の巾 谷村のlJ:]駒 の鉄

(砂鉄 )の採取 とか,lg]治,大正 の荘蚕 とか,戚近 の大 ,供 とい うよ うな・こ0)村 の彦菜 は変 えf二が,村 の基 本的 なあ り方は長 い雅史 香油 じて変 え

なか っf二 であ ろ う。

この報告輝 の [;rl一節 はいずJLもこの よ うな伝い榔 史

油 じて,一つの村 として/Jiきつづけて きた中 仙 L川bの山村 の‑ こま,一仙Trru‑である

ム立に求姫ijL村 の発娘 を祈念 しては しが さをお くことに Lf=いO‑

(10)

発 刊 に よ せ て

碇柴忠相村長 春 名

IR作目52年春,岡山大学教育学 臥 三浦,

右 も

正他数名の先/JJJ'が来庁 され,r■粥 と部tL会科教室の r地域.r

J

f

」の対卸

也に

火薬由村 を避 びたいが如何か とい うお申 し出が あ りま した。趣 旨は,当熊 襲宙村が どの i:うな歴史的過程 を総 て今 日に至 り,新たな時代 に どう対応 し, また変貌 しつつある かを,雌史,地理,座業経折,社会.教育,文化o:)諸分野か ら総 合的に研究 して,調禿報告坪 を拙 めたい とい うことで した。

お話 を うけ†こまわ E), こu)際当村の雌 史 と現状 を学術的に研究 して頂 くのは有難 い ことで, この 研究姫が発刊 きれれば これ を村民 と共 に愛読 し,これか らの村 づ くりに役立 てたい と,rLlいまして, 叩唾に協力 を約束 したのであ ります。

阻Jll52年 症,一過tEUにわた り諮lh生方 と学生 さん

.

言I5 5名が来村 されま した。炎忍のなか で昼 夜 をわかたず現地調査 と研兜にあた られ †こ熱心 さには円心解いた ものです.

その後,大学 内で調査結果の分析,研兜か紡杭 されてい ると

I l

'

(

1いてお りま したが, こ こに研光雄 が上梓の遊びにな ()ま したことは胡 びに堪 えません。L泊係者の方々に対 し心か ら敬誌 を表 し懲曲 を 小 し上げる次第 であ ります。

木嬉 をよ り数多 くの方 々に愛読 して偵 き, これか先人の第力 によって守 り育て られたみ どりlhか lJ郷土 を, さ らに さ らに発展 させ る棚 とな ることを心か ら願 って,発刊にJ:せ る,‑言柴 といた しますO

(11)

参加 拍埠教官

参 加 学 生

調

三 浦 iB三

子 盲

揖 達

郎 山

内 峠 行

刑 克 己

■▲

石 由 英 子

上 正 義

WJ] ri] 広

崎 伸 也

I

l

B 雌

子 高 木

竹 本 行 甥

難 波 倍

Ii

J ・ 川

札 止 藤 原 Lji 子

山 川

政 iLJ. 敏 江 加 藤 な る み 巾 桐 出 身 水 砕

組 子

査 参 加

朋 二

行 文 茂

柴 夫

=t上.

l

浅 井 宏

娼 木 al 小 野 敏 弘

碓 i'.(裕 美 佐 々 木

. d

i 二 顔‑須 'ii: 久 子

・ 信 行

野 々 村 坦 樋 口 nJl 文 松 原 秀 子

U ]

,申 子

石 井 雅 弘 酒 本 則 子

横 手 i'i埋 子

iLIJ 重 進

田 中 史 郎

平 rZl 公 夫

上 僅 治

田 玲 子

本 久 司

小 林 美 恕

佐 藤 文 夫 縞 u 和

; I ' T G '

j T :

千 代 幅 木 呂 lリ1

JIE'‑]‑ 倒

花 成

利 岡 美加 江 JlL一 伺 俊 之

松 尾 剛

順 玩

(12)

境 I Ltこ't‑ :i与 l LYIIJ :j!. 2

i 巾

窮 2

が l i.lilJ 第 2 節

tin,I 3

串 約

1 節 0,‑ 2 即

l

j吉 3 節

荊 1

抽 P

,‑ 2 師

3 節

'確, 5 若妻

I LfLl

自 然 端 境 一 頗 柴金村の地形 と地'ef /jE 朕

雌 史

的 背快・ ‑ 1

7

古代・小LLrの身‡柴

T T ̲‑̲̲ ー ̲̲, , ̲

.t H 〜 ー ̲ .‑い 17 近川̲の如

人 口 と Ll主塔 . 人LJ

L ' )

移.lUuとilrJd雌化のflLq雌 人 u jl'Ii成 一 一 老 如 化 ‑‑ 一 職業別人口の変遜

通 ・ 通 信

交通手F̲'rtと交通路の変血

税/

LU)ia雌女 lITi ̲ 油 17言の 苑 逆 と現 況

経 済 ftq 造 ,

I‑T3

49

・lt1

8 3 9 2

̲13 1 ..̲̲13 1

(2) 労他力の構成変化 と

‑ E

t菜 134

(13)

(4) Jii民朋の分解 と出地改JE.・ .i,I・一 ・ (5) 如

良村)l注村振9Q計画の歩み ‑‑一・一一

(2) 耐 JSi ‑‑‑I‑‑ .‑ ‑一一一・‑・一一・・‑一 一一‑一一・一一‑・1‑‑‑‑ ,‑ 16 1 (3) 役 肉用 牛 ・・,・‑‑i‑,‑‑‑I;し・・丁 ,.l一㍉ ‑ 一一 ・一 ・‑‑r ・‑‑ 1 6 7 (4) 重 犯 ・‑‑・・一一一ー‑‑‑‑I.一廿一・一.:̲‑ ∴ .‑1・‑‑‑・・い い 1‑‑‑.一 一一‑ 1 69

1

(5) 養 藤 一‑I,・‑‑‑一・‑、一一一一,‑‑‑・・‑.一一・P∴ ‑‑‑.一一一一 ・‑‑‑ 17 3 (6) 馬 ‑‑一一一一一‑ ‑‑‑I‑‑‑‑‑I‑:‑A‑1一・一一一一一‑一一一.‑.‑ ‑・‑ I 1 78 (7) 薙 蚕 業

第 3

(1) 日本 株 菜 の 概 要 ‑,= 一一一‑I‑・一一・1‑‑1・.・・.・日 工‑・‑ ‑ 19 1 (2) 東粟倉村にb・ける林業範営 ‑ 一・‑‑‑I‑・‑‑‑I‑一一‑・‑ ‑一・・ ∫9 I (3) 第 二 次 大 職 級 の 林 業 ‑I‑「一一‑ ,・‑‑:‑ ‑..‑‑・一一一一・一・.‑L,一一 2 07

1

第 4 節 商 業 .7‑‑‑・十 一一一 一二二 ・一・一一t‑‑ L・・一・‑ 一一‑・一一 2 1 3

(2) 車乗倉村民の購買活動 とその中心地 ・ ‑ ‑ こい 一一一 一・ 2 3 1 第 5 新 工 業 ・ ・‑一一 ‑・‑1‑.‑‑‑1l一二‑一一一一一‑‑・I‑・一・一‑‑= ‑I‑2 ・49 (1) 工業の先述 と現況 AI‑‑‑1=一一一一‑ ‑ ‑ ‑・‑‑山 一一一・‑.‑‑ ‑I 24 9 (2) 主 要

小 某 所1 ‑I ‑‑・1‑‑‑‑‑‑‑‑A‑ 25 7

一■

第 6

社 会 械 造‑ ‑‑ .‑‑‑‑「‑I‑‑・. 一十 一・一‑一・・一一一‑I‑:‑・‑1:‑∴ ∴ ̲‑ 2 6 3 第 1 節 家 族 ‑‑一一・一一一.‑‑ ‑・‑‑I:H I‑・‑∴ :‑∴ ・‑‑∴ ∵二 ・・‑エ ー‑ 26 3

第 2 節 中筋部落における同腹 ‑‑⊥一一・一一277

(14)

耶 3 節

nJ 7

第 1

i j i i

第 2 節 第 3 節

第 8 帝 8.J l 蜘

2 節 第

3 飾

帝 9

1 t F

第 1 師 範,' 2 節

村 落

地 方 行 政 の 成 立 と展 開 3 1 3

付 の

i

lト7.:と 区 域 の 変 選 一‑‑.‑‑‑ 一一一・‑・一一一一一一一一・一一一一一 3 1 3 明治町村制u)成立 とその後の変化 一一‑・・‑一一一一 一一320 地 方 行 政 と財 政

地 域 の 習 俗 ・伯 仲 とJj三宿 343

'a 卵 非 祭 ‑‑‑ ・・‑ 一一・・・‑‑‑ ‑‑I‑‑34 7

地 城 の 教 育 学 佼 教 育

以 上

(15)

第 1 章 自 然 環 境

1

節 東 粟 倉 村 の 地 形 と地 牛 (1)地形 ・地質の抵触

岡山県の最北乗場 .英 田都 東粟倉村 にあ る県 下放高時の唖峰 ・後山(1544・6m)比 奈良の大湛 山 と 並 ぶ修業道の行場 として今 なお女人葬制 を守 る山岳 信仰の聖地 であ る 0

地 元の人 は後 山の ことを行者 山 と呼 んでい る 。行者 山/、の 出発点は村 はずれの迩摩堂 であ る。ここ か ら50丁 .谷沿 いの急な坂道 をあえ ぎなが ら登 ってい くのであ る。中 道を駐年令 の上 ではずれ .後山 山頂 をめざす 。後山^台 目 (棲布約1000m )にあ る延命山道山寺 の典 ノ院 までの道 は険 しい

登山 口の周囲は杉桧 の人工造林地帝が広 が っている.規則 正 しく,計画的に拙林 きれてお り,美 しい造林 地帯 とな っている 。登 山口か らしば らく山腹 を登 ると.後山地区の山鹿緩斜 面の広が りが望 める。周 囲が山ばか りの この村 の中で .この様斜 面の広が りは 一段 とあきやか であ る。周囲の 山 々を中心 とし た移桧の造林地帯 と,その山の掛 こ拡 がる緩斜面の大枚蛾 を見 れは .この地 区の人 々の生活 の様 子が 一目でわかるo)である。

岩をか こんで流れる後 山川沿 いに行者道 が続 き.谷の紬価 は うっそ うたる広柴針林が ひろか ってい こり る。しば らく登 ると入布俄 とい う小

な木の帖が掛 か ってお 1),これ を渡 ‑'T:所 にあ る女子垢脈取硯 で休 む 。このあた りか ら後111川 は岩をかんで流れ .見

j

ftfJ渓谷美 を見せ る。その上流の男子垢鮒 取壊 を過 ぎると,女人堂 に 1こどり器 く。ここか ら上は 「女人

i

f!

」であ りい よい よ tT修行 の道場 "に入 る わけであ る。女人f,i‑制 を過 ぎたと1=ん .足鵜が急 に放 くfsり行者参道には ところ どころ岩脈 も走 り.

ます ます捗行の場 の険 しさを増 して くる O登 り始 めて1時間 ほ どで.後 山川 のなす岩槻 にかか った.

自然木 を掛 けただけの粗末な丸木0)橋 を汝 った所 で休猫 を とる 。川沿 いにはい くつかの岩場 か らな る 渓谷 があ るが .そこを流れ る水は まこ とに きれいで .まさにqJJ流 とい う名が ピIJタリであ る D尾根筋 か らの水を集めた後 山川には .行者が身 を柄める10711近い落差の大滝 か ら,身の丈 くらいの小 さい梅 まで大小50の滝があ るとい う。この

梢流

に手 をつけてみた山夏であ ろ とい うのほ長 く才 をひた して おけないほ どの .しびれ るよ うな水の冷 たきだ。(='いたいlC?℃ ぐらいであ ろ うか。 この3'lこり も.港 I:LfA 鍛 樹林 はか りである。今

日に しみ るほ どの背 と台の胤 か らほとばしる消耗 で失 しいか ,冬 はさぞ 教 的損 であろ うとliLわれ るこのあた りか ら流紋 岩や安 山'Liの石か ごろ ごろところが ってお りとて も milりに くい。登 り始 めて2時間あ ま りで.炎 ノ院 (八

介n

.持 高約1000m )に岩 い Tこ。境仙 ま杉 の

巨木 で囲 まれてお り,伝年9月7・8r]に行 なわjlる大曲7tff法磐 では.燃 え上が る火 と4/trLJji者 ,I;r者 たちの読経 で全山 をゆ るがす ほ どであ ると召われているが ,今 は ま った く静かであ (),まわ りには人 の手が入 っていない自然林 と山腹 に

l

yT

; ;

出 してい る令培地呼の附 の行場が厳 しさを見せつけ てい るT̲/り である O行者頚か ら上は .踏み分 け適 で あ る。あ まり人か登 らないためか道が伯 えかか ってい て.鶴 牡か迷い そ うにな った.木の脈 にすが り.掛 こへば りつ きILが ら頂 上 をめ ざ したか ,il:小てiTl

I か. l

LL.て

きたので挽念 なが ら登頂 はあ きらめ ざる得 なかっ†二..

‑1‑‑

(16)

東粟南村 は .名 山後山 (1544.6m )をu7主 とし.船木 山( 1554m ).鍋 ケ谷

L I I(

1253m ), 駒 の尾 山(1280.7m ).日卜名愈 山( 1047.4m )と菜 を拡 ける後山迎峰 を背 負 って , この山地 よ り 源 を発 する後 山川の谷間に 7つの射落 よ りな る山村 であ る。東西約9kx,南北約 12血 で .総 血税は 28.OdkJ,如高所 は155416m (児下山立高峰 ・後山 ),般低所 は2 4 0m程度 (川東地 区 )である。

川が5つの谷川 を堆 めて地域の中央部 を繭酬 こ向か って流れてい る。耕地 の分科 ま標高250m〜 7 00mの間 に牌棚状 に点在 し ,総廊蛸の9 2% (258Aa)に相 当 する。山林は67・5%(1895ha). 採草地2 1.15g(590.9/za).宅地0.A,i(18.7ね ).その他1・5%(4 1・4hii)であ るt,

行較 区画 か らみ ると .rF'.1山県のJl立北束端 に位旧 し ,北 の村界 は兵唾鼎宍粟郡 千種町 ,束 の村 三和 ま兵 蹄県佐用郡佐月」町 との県境 をな し,西辺は剛 lj県兵 刑部 西粟倉村 と,繭辺は岡 山県英 四郎 大原町に接 す る。帥山 .兵 印両県

U)後 山 と日名店 山 とがはほ南北の方向に 一連の 山脈 をな してお り ,吉井川水 系 と千1剃 り水系 との分水界 をな している.

写其 1‑ 1‑ 1 中央 に白 く雪 を残 すのが後 山 D雪 どけ水 を流すのが後 山川 で ,三段の河岸段丘 を形成 している。

(3月初旬掘彫 )

この地域の地質 につい ては .「氷 ノ山 ・後山 ・御 庄山国定公園侯祁地学術調査報

」(日本 自然保 .

KG協会, 1967)に岸田孝臓が記述 してい るOそれ な変約 すると以下 の よ うである。

この国定公開地区 お よび その周辺部の地質 を概観 す ると.地 区の東南側 には北東 一雨西方向に舞釣 手削こ屈 する古生 代か ら小生代初期の詣岩脚泌こ巾生代末か ら古第三紀 の火成活動 に由釆 す る火 山岩If‑g7

(17)

‑ 1

駒の尾

128.

l

g ー \

̲qJ 3 H

㌔‑≡∵≡

(18)

惚 1‑ 1‑ 2 地質概略 鼠

(注 ) 15万分の1阿山9詩仙田Ll (

山LLA,

1965年 )Lたりf'g品

1 .

即操縦灰岩 を主 とす る地層 2 変放 れい岩

i 流紋岩貿砕屑岩研 (熔岩流 .貫入岩 を含 む )

41 安山岩 お よび同質砕屑岩赦 5 粘板岩 を主 とす る地層

6 変花 崩岩 .変石英閃緑岩 および変種長岩 N.

7 花柏岩掛

̲

81 宋団結砂環屈

(19)

瓶が あ /こか も地区 を取 り師tl・よ う[L形 で分布 してい る。Iも駁 .仰山掛こ兵雌県脚 こ沿 って粥立

た 昂 ノ山 ・須釣 ノ山 .後 山お よび榔岐 山頂 を'A旅 する亡qJ肺 と公幽 0)内部地 区は古い地fiか ら/Jろが ・Zfi il.ノ山繭他地区以北はおおむねJtや三紀 のql新 世以 u)火山件 の来し、岩朋軌か ら成 り立 ってい る 。

この地区の地質 とこれに的雄せ しめて地形 の成

TE

Jl'の低 空 を涙 nJけ るc

El木列砧全部の土台 をな している樹 木は .石炭hl一二怨紀 (550n0‑ 225(川 方咋 )にかりて軸 庇 で鵬坊 LT=白岩 ・仙台お よび栃尾火 山の脚 勿で Lf'

Ft

l

松呈胤に榔細沢灰宕TLを挟lJ;T/JII̲tl一封 七のlui周 であるG

この時代の郵他称 ことも/Jう夜久 野

益軒崇朝

・ l

ik久野f牧舎態類 IJLよび帯

花 I'・Bi岩知 は劫

他I

I判別 仁 研時 (ペルム紀 )に同時掛 こ出入 した ものであ る .占虻代桝の雌 f.L'JIこ引 き統 いて起 った造 山迎J裾 {‑よ

り広 く睦 化す るとともに侵 食 きれて

1 1 叫

三代 日脚

申如 (約 9

000

力/rT=一肌 )に

は戸

̲b両 日木のlJj即 は叩平 原 をlJしてい†こと推定 され るC,この陸上Itr平原上で b:山岩JL・1お J:び流紋

'Llの血 しい火山

U,JJが ,こ の地区か ら中国地相‑‡削こ亘 って行 われ,Pl‑い火山牡の他例を堆机 し .これに引 き就いて

J E

il劫tLiマグ マの上昇ff人か起 った (約8000万年

r i

lf)これ ら一匙の乱 しい火 山前掛 ま後妊肘1!l一代白恥J紀 中仙頃 か ら古第三紀 まで続 いた。

中生代末別の流紋 岩幻火LLl治,JSlが陸上は食 を受 けて 平出 化 した新生 代巾新̲/Ji(約2500万

rrrJ)の 帆には地Eよの北部即 ち但馬 か らJf.1,JIV垢uE部に かけての地蝿は再び激 しい火山店動くこ見舞 われ1=この 捕弧で玄武

岩 J , (

IL、しノ安

l l

げi風 の‑I̲‡7J‑か ら旅紋皆'Bの .'

t

托火 山

l l

'拙 物

鵬払 LT:これに引 き続 き広域 くり也盤の沈下に よ り,射西に延びた水城を形成 した このHJj戚盆地 が耶滅 して睦 化 した.のは .中

節t u ,

末 (約15DOJ7j'Lf舶 )であるo

その後 ,節

: 新

t此初矧 (約1500万年i

n)

に妙地山

・ 郎

武ケ岳等o

J

山陵の凸仇 .乱親即 1‑LI滞お <とびま 方町地 区に南北Iこ良い仰殺陣牡鹿地か発生 し[=bこの盆地の形成 と相前後 して感 しい火Li川や捌 かあ り, 酵件 /i'い し塩 益軒 の火山栖岩 ・火lLl帥Jr4台のFTfl出物 が盆地 内の相成 の腺fl.砂岩 .頁

桝 とと もに雌 机 したo

I

L

I

,,OL)地域 て.は噂 ら敬平原他作m o)日食かT̲Iわれてtリこ

この他 蛾 o)7'て̲JJ,J

G .

店曲 と触

Y

F

jllが 行 われて いた もの といえる ,,眺払tuに入 って .こuJL

i 包

kはEii耶ノ11」r川 l専占仏 として上界雌勅 を続 〟 るとと もに この上昇柵 に沿 って

. 禿& ‑

ノ山 ・鉢f大山 ・i.I/LLl等 g)山陵 を形状 す る新山.rの火 し」1(6‑Lrr畑 咽 . 鉦0)山JTl部付近 で起 り,鉢伏火

I

U

皆l

r・i(甜 ノLLl火

L

JJF,肘 )を堆軌せ しめて いる。この ⊥好餌でOL)小心 Pl1人の 活動は t]本の第四紀火山の特徴 と言 える もの であ る。

(2) 河岸段丘

本村域 の中央部を南抑こ向 ‑'て流 れ てい る後L川jl(吉州 H・吉yFHl水系 )にt,.'ト‑'て .はく.r2段の7q 拝殿GT:が発達 している。河谷の平地面は ,ほ とんどが殴丘b‑とそれ をおお うFB錐

,L

Ti状地 ttりli‑る。

川‑Gi,吉 FtJ地区 で段丘 血は最 も幅広 く.平出 な水川かLL峠的多 いのか†!jerlJ‑あ る。段丘面は7,.JL4:よ L) 1‑ 2mの比砧 で,山際 では扇状地 がの 一}て いる

。九r T l .

市町 仙Eiに入 るとそ0)抄庄作吊ま恨紬,'か

I

i・

I

) 抜 く(.L‑ち.段丘上 での水

[ t l

も少なく.かわ F)Erl駅

S

JLRrの

. T

gL、肌 tJが

立 って くる,J小

rL .I,i,LT)太目1兆

‑‑7‑

(20)

区は このBt丘 上Iこあ り.村役磯 や郵便局 li・どが'Bかれ てい る ,段丘面の左掛 ま水田 ,右掛 よネギ ,ナ ス .エ ン ドウな どの棚に利用 され てい る。青野地区 にわい ては .この段丘か ら山掛 こかけて扇状地が 広が って お り,小学校 .軸椎臥

野神社 rL・どが殴かれてい る。中 谷 ,後山地区 におい て も後 山川沿 いに1‑5殿の段丘がひ ろが ってい るが河 味 か ら2‑ 5mの比高 を もち段丘 面は ほとん ど水田 として 利用 され ているが ,面朝 としては非常 に狭 い ものであ る。

ら亡

まT=後 山川 には推淵 と呼ばれてい る淵があ t),昔か らの伝説 を現在 も伝 えてい る。

写炎 1‑ 1‑2 太田付近における後山川の河岸段丘 面

(5)山並緩斜面

本村域 内を後 山川 に沿 って走 る爪適を北上 してい くと.軸心即3.急性斜 の1いよか りで .平坦面 といえ はわずかに後 山川に沿 って発淫 した河岸牧丘面 1:/け であ るが .中谷 .後山.地区 においては .後山山鹿 部にひろが る摺斜面 を見 ることがで きる。この山鹿疑斜 面 では .後山,中谷両地区 にま/二が る.のペ 4 0hdの大悦月rlがBll:,']▲れてお り.クロボ コの

Ptい土質 の餌 で とれ7:後 山大舵は ,京阪神 に トラックで 厄送 され ,束架台の地業 を支えるEi‑.要な姥物 とな っている O

探斜 血のJr3舵要田 としては .その一つに ペデ ィノ ン トが考 え られ る 。 (ペデ ィメン ト‑ 内陸盆地 に おいてペ デ ィ} ンテーシ ョンによ ってで きる .基盤 を切 る綻斜 面 。ふつ う傾斜60‑ 7OcJr・:,,戒 について K・R,yam(1932)は. 1)f・!!j)'jGZ食, 2)山広斜 面の末節=こおける網状侵食,5)表層風化の さ まざまな,‑m合 わせに よると し.W.D'tvi8 (1958)は1)よ りも商状at‑水に よる山脚 末端 のfa食 に韮 点 をおい た 。IL Sl川 rP(1940)は定'拝,瀧 とやわ らかい地田の地域 では1)那.はかの場 合は2)・ 5)が中心 にな り・ 4:dの'LIJ合であ るとい う。乾腺 地域 での普対的な地階か香 かの曲論 が多い 。山

(21)

̲.I,‑・

写実 1‑ 1‑5 日名倉 山中放 J:り後 山 ・中谷地 区に広 が る硬斜面を望む 血煙斜面 ともいい .岩石屈伏地 とはほ同義 である.‑ 平凡社 .地学事典 )a

ペデ ィメン トは背後に急斜b‑があ り,ま1こ明琳な傾斜の変換点があ り,ある高殿で直線的に連な っ ていることを特徴 としている。また乾燥地域に多 く,岩石の剥離 され 1こものが時お りの面状洪水 (

8beet flood.乾漁地域 における降 雨が岩石味の上を流出す るときは定常流を形成せず .面状に 流れてはんらん状態 とな る。この水 によって洗い流 され るf]L屑 は雨水 と混 じて#t水状闇にな るので .

これを布状洪水 または面状gt水 とい う )に よりで きるの で.乱楓地域 にはない。

しか し日本に もペディメントが存在 すると考 える艶かある。背後の 山が安山岩o)ようなかたい岩石 で .頓斜面が花納岩のようなやわ らかいtl石の所の それはか つて 日本の叱煉胤 にで きたペディメ ン ト とする もので ,中国山地 .吉備高原 に もペティノン トが多 く認め られ るとい う。

本村域の接斜面は花尚岩が卓越 してお r).その背後の後山 をは じめ とす る山々は安山岩質の堅 い岩 石 でできているわけで,ペ ディメン ト形成の要素 を多分 に もっている。 しか しペデ ィメントだとした ら傾斜の変換点がある高圧で曲線的に連 なっているはずであ るか .後 山 ・中谷地区では それ らしき由 線状の変換点は認めに くいoむ しろ後山連峰か ら山鹿BF斜面に流れ出 るい くつかの糾'(̲tの谷 口か ら横 斜面上lこ谷す じと尾根す じとが放射状 にのぴているようにみえるQこれはそれぞれの沢か ら発 した厨 代地 の形成 とみ1.:方が よいか もしれない 。後IlJ・中谷地区においては.この ようなそれぞれの谷か ら 谷す じ ・尾根 す じが .放射状 にひろが る扇形がい くつかあ l).それ らが迦担 してひ と続 きにな って横 斜面を形成 してい るとみ られ ることか ら.地域全体 としては ,扇状地か集 まってで きた社台LJ封大地 で あると推察 される。また ,もしこの地域 にペ7‑:ィノ ントかで きた としで も.その後砧状地がかぶ

て現在の地形 をな してい るとみたほ うが よい。

扇状地 とい って も,かな りの起伏 を もち,沢口か ら放射状 にのぴ る尾挺状の高 まりと谷状 の控 みが あ り.尾根す じの露頭 では .淘汰の よくfJい鎌朋の上に欺 10cT以上の ク t3ポコかの っている。これ らの ことは .尉状地 の形成が新 しい時代ではな くクロかコ堆 地脈 であ り,娼収す じは占いL占状地 で形 成後 にか な りの開所 を うけてい ることを示す 。後 山川は この複合扇状地の南船 を1‑5段の糾岸段 丘 をつ くって細 りこんでいる。扇状地の谷 す じの地形面 LT)一部 は後 L川rlの同相段 丘につ/,1・が るこの後

9

(22)

山川の下刻 に伴 って扇状地の開所 が行われたULJであ る。この谷す じか ら河岸段丘にかけては水田が開 け .尾根 すじは主 として林地 ・畑地 とな り.後山大根 は ここで生産 されるQ写共 1‑ 1‑ 4は,篇状 地末端 近 くの ‑轄頭 である。淘汰の惑い錬屑が み られ るo鎌種は花 的岩 .閃松岩が壬で ・フ*ル ンフ

̲lル ス化 した古生用 の康 も含むD後山川の谷垂や朝状地末端近 くでは基盤 となる花胸岩が虞出 してい る。

写真11 1‑ 4 厨状地末端近 くの塔頭

横斜面の背後 には花細岩類 .変花組岩 ,変石英脚線岩 お よび変種長老 などを含む地層 とともに .後 山 をは じめ とす る山々には安山岩 お よび間男砕屑岩布 が分布 してい る

県北部に分布 する花削岩の大 まかな現明 として ,岡 山県地質国税耶 β (岡山県. 19日 )を婆約す ると以下の ようである。

県北部に分布 する花尚岩類 は ,分布範囲が広 く.薬歴郡 か ら英EEl邪 にかけて分布 し.岩質 も夢枕多 様 であ る。県北部の花樹岩類については.文魚花樹岩類 とその他の花樹岩魚 に分 EH:0

文象花絢岩掛 よ典斡町西方 か ら.真庭雛北部の中和村 ・八東村 .新庄村 なt'lこ小 さい痛切 を占 めて 点在す る 。柵成鉱物 として斜長石 ・カ リ長石 ・石英および鼠雲母が認 め られ .か )長石 と石英 との闇 に文教細魚 を生 じてい るQ

その他の花樹岩 とした ものが .一一番広い面gtを占め るこの花組崇板 は花細岩 ・花tlij閃緑岩 ・花樹 斑岩 ・石英閃緑岩 よりなり ,これ ら岩舟 の茂人時期 には差異 があると考 え られ る。この うちで .最 も 広い面概 を占める ものは ,中粒‑粗粒角閃石 ・県賢母花樹閃緑岩 で,か )長石に乏 しい O

野外では ・収載件含有物 にとみ .この岩体の商標部 (宮村常 )では石英閃鮮 封 にな っている部分 も多 い。また奥沖町北 .伊茂岡付近 ではこの培体中に零母状赤鉄鉱 ・蒼鉛鉱物 などを含む鉱師が発連

(23)

し,この ような鉱脈 は奥津町 羽出 に も多 く悦某 きれ る,,

束部の勝 田郡奈義町 史尾 付近の花 F.g岩矧 ま,政虹色の カ リ長 石

宵 み .有色鉱物 は少TEL、O英 日1都 東粟倉村後 山の花 拙岩 も同様で ,石英脈 に尉み ,卿水

鉱 を伴 うO

(池井宏 lJl) 参考文献 (約 1扉 )

1

.

「束葉食 曲芸 最 邦地域変 更盤備計 画

」(繋 )(197叫 ∋ 岡 山娘英 田野栄粟台村

2 ・

「山伽新恥は伸 ・後山 」

51 r氷ノ ・後山

桃 山規定 公流転補地学軒別ff削 与

」 (

1947咋)Er本 自然坪漫 u/l会 4.

r

岡 山県地牢固魂胆

1 日 94

)

I.qLILu'よ

5・

r

地学辞 典

J

平 凡

2

節 気 操

東粟倉村は .その北他 か ら蚊 側 にかけ て .駒ノ

LLu・叶 卜山 ・故山 ・目名也tuにい 1:る.

=】 On t n

を越 える甫 山 を有 している .これ らの 山 々は .氷 JLlJ・故山・榔岐 山 同定公地 の一一劫 であ l).こ うし た一選 の山系 は

,

中国地方 を麻酉に縦 断 す る守 軌 り脈 で ある .

こうした地 形が来 襲愈村 にわ ける気 候に多大 な彫 捗 をお よば してい るこれ らur:,Ih々の商い所 は . はば山岳気辰 を示 して い る O

血巣食村 にお ける気ai.陣水良等 の触弛兜i副 t兄山せなか ‑つたの で ,大原町 占町 の触別記串 と氷 ノ 山 ・後 山 ・都岐 山国定公 園候 補地学 術副査軸 性に所収 され た太 EEL巌 (19占7)の該 当地域のEjirt候 と気 象 についての記述 を参考 に して以 下 を速へ るO

太田の報告 では ,この 山系 には氷 ノ山上 で2倍年余 の気象私利値 しか ない ので .その観測値 と蹄棲 地域 の句集観測値 お よび氷 ノ山 とよ く似 た伊吹 山の轍RlH顕等 を用 いて,このLLl系 な らびに隣接地 城 の 気候 と気象 について .気温分作図 (1921‑ 1950)・降 水量 分布図(1921‑ 1950)・降 水 日数 分相図(1955‑ 1964)・最深 概雪 見分布 図 ・軌甘 口軟分布 図(1055‑ 1964)を描 いて いる。

それ らの分布図 か ら東粟倉村 ・後 山 ・目名金 山fLt'の気 卦数値 を涼み と って ,以下のFL三速に用 い てい ち. したが って ,ここで用 い られてい るそれ らの取 払は観邸 値 その もので は/Ei‑い nI.1・お季節 qj移 り変

りについ ては太田の調査 を もとに し,幣栗有村 での岨取 りを加 えて述 べ る 。

(1)気温

乗粟 Gr村 における年 平均気軌 ま ∴太田の掃 いた気瓜 分相岡 (1921‑ 1950)か ら読 み とる ,LH, ほ

ほ 11‑ 12'C前後 で .市町 よr)l'C樫圧低 (.r.JiJユr)1・C

岡山 ・監岡 上り5

C印鑑低 い。 後 山 で

比8■ C

, H名

f I

山 では1

[' C

母艦 であ る。

1月の平均気温 は ,東果食倒 では‑ 2‑日Ic .田町 では1‑ 2℃ で .r:FrMl・'{r叩(I)4‑5℃):

ると相当掛 、。臥 JJは ‑4'C,日F.愈 山は‑‑1.C揮 TRであ ろ う

‑ 11‑

(24)

8月の平均気温は .束葉上̲IiJでは25.Cd‑'u後 ,古町 では25℃ ・岡山 ・笠岡は27‑ 28'C程度で ある。後山は20'C樫D:.口名倉 山は22‑C程度 で ,東強倉村 は相当涼 しい夏 であ るといえる。

以上J:ち,古町 と比べて東菓倉村 は.1‑ 2℃傑瓜気温が低い ことがわかる。これ は .東粟倉村 の 標高が ,古町 よr) 1 5 0 m程度か ことか らい iほ推察 できる。

4月の平均銘温 は ,古町で12℃前後で .桜の鵬花は4月d〜 8日頃 で ,津山 と

T ; '

いたい同 じであ るo東粟倉村 では .それ よ り2日程度遅い 。後山の行者本堂 (標高1150m )の桜 は .ム月10日頃 咲 くとい うことであ るか ら.d月初旬の支経 が後山の頂上付近 では .ふ もとの4月初旬 と同 じである

i.言える。

また後山では .5月まで雪が残 るとい うことか ら,2ケ月遅れの春 をむかえるといえ そうである。

5月に.入 ると,後山や 目名舟山の西斜面ではつつ じの花が咲 き.中旬 に入 るとつつじの花 は,国定 公園のほとんど全域に拡がる。また ,大部分の 山系 では .い っせいにふ じの花が咲 く.

臼植えが東粟倉村 では じまるのは ,早 いところで5月10日頃で .掛 、ところで 4月2 0日頃 であ ら.たいていは .d月5 ・dE=こは終わ る。刈 り入れは ,早 い ところで9月2 0日頃 は じま り.遅 い ところで10月2 0日頃である。

9月に入 ると北方気EZlが入 りはじめ秋雨 の季節に入 1).気温は急激に下 りは じめ ,後山などの山系 の高い所 では早 くも紅薬が始 まる。紅射 ま次章削て低地 におよび, 1 0月下旬頃 までには ,国定公脱 一 帯は全部紅葉 する。

落葉は .11月中旬 までに全部終 わり冬夙色に変わる 。そ して .この頃か ら高い山 に冠雪が始 まる。

以上の ような状値であるが .村の人の話 によれば ,

平台村 の気温 は10年 は ど前 か ら,した'いに 低 くなって きてい るそ うであるQそのため ,米の収樫が一反8俵か ら,現在の‑一反4位に激減 したそ うであるこの原因 として村の人が語 るところによれば ,これは杉 ・ひの きの植林が考 え られるとい う。杉 ・ひの きの ため ,地 面が暖 ま らない う九,乱逆 Lが よくな るので .土地が低温 にな るとい うも のである.それは .東葉舟村 J:り早 く植林を始 めた西粟倉村で背 しい 。東粟倉村 も米作 lこ不向 きな土 地 にな りつつあ る。そ してその植林 の膨廿か ,植林の多い役場 か ら北は特 に臨 しいそ うであ る。

鼓 1‑ 2‑ 1 月別平均気温

1 l 2 5 4 5 6 7 8 ; 9 10 ll ム412 年

47 i.1 5,5 8.2 15.2 lab 21,8 28.2 27.1 22.i 14.9 10̲8 15.3 48 5.4 ム2 7.1 15.5 17.4 21,8 27.7 28.4 22̲1 1ム4 ?.? 5L9 151 49 iO 18 &占 1ま8 la7 2D.o 25.5 27.5 22.4 1ム7 1D.0 iO 14.7 50 id ユ5 7.0 一id 1&1 22.7 27.2 27.1 25.2 17.7 ll.7 i2 15.5 51 ユ5 ム1 7.7 12.7 17.8 22,1 25.8 2&7 21.0 1L5 9̲5 5.1 14,5

笠岡 47 A.5 5.6 &576.1.6 110 17.? 21.7 2ム5 27.0 22̲7 17.5 ll.2 ムム 15.5 48

49 5.5 5.9 14,7 17.5 21.8 27.8 2at] 22.2 14.5 10.2 4.5 lil 17‑‑‑‑‑+lid 15.7 18.5 21ー5 26.0 2&5 23.5 18.0 11t1. 7.1 l15.1 ー 51i 4.4

!

ムム a5 …12.9 la1 22.

a

24.4i27‑4 21.7ilL9 10.1 5.7 15.1■

(25)

坪山 47 4.6 4̲4 7.f] 12.4 17.5 21.1 25.2 2ム5 21̲8

1 5 . 7 9 . 25 .

2 14.2

48 4̲0 4.8 &1 14.6 17.0 21.4 27.7 28.1 21.4

1 5 . 6 8 .

6

2

.a 14.5

4950 2,占 2̲A 5.7 15.5 1714..i8 2121..U7 24.8 26.5 21.2 15.4 8.5 4.9 15,7 2.5 2.7 A.1 12.4

2

2&

4

ー.2

8

25.7 24.1 1L1 10.5 4ま.7占 1,4.1

E i

了 47 4.2 5.7 5.9 ll.5 1占.1 19.7 24.5 25.0 20.i 14.4

7

8

.

.

8

2 4.A 15.2

町1il

4

51509 11..4 l 15 1..5 45..5 ヨ7 T127 1 1.).a 2O.21..5 25吉 2一..0 2255..29 1

.201?̲1 16.2 1

8 0 . . 0 2 了 芸 」 ′ 1 1 1 5 . 5 0

(紘 ) 桐山気 象台 「観測所 年表

(2)隙水汲

降水鰍 ま年 によ ‑'T相当な差 があ るJ:うだカ㍉ 太肘の降水地 分7rl一国 (1921‑ 1950)に よれ ば, 頗締台村 におけ る年降水茄̲tの平均 は, 1占00‑ 18M JJrで後 山 もそれ と同樫皮 と推察 され てい るO 古町 のそれは ,およそ1400‑ 1500Jrfの仙で .1∩ntr程度 は東栄余村 と差があ ると岨 われ るo

hlI近5'lfrm(1972‑ 197叫i)の此奴 では ,市町の年軒 水盤は1900肘程圧 とみ ろことがで きる が .史襲台村 における年降水

l

j主もそれに恥 じてい ると岨われ, 2000RJl前後の降水があ っJこのではな かろ うか 。

( 1月の降水

1 1 日

7L一町 ・虫

爪村 ・後山の陣水石t.は .1921‑ 1950年 の記線 では .5 0‑ 10 0mJrと.は っ きt) Lfこことはわか らないか .お よそ10 0R

h l r

川後 と考 えて よいだ ろ う.,

1972‑ 197占年 の5咋 [相の古町 の降水鎚 をみると

,j

滋低が78年 の7 2Jrd .娘櫛が75年の 1 44W,で

, ' 4

:iこ上ってかな ・')差 かあるか

,

たい18 0Jq前後 であ る とJliLわれ る。I,rA北 では もっと降

水が多 いと.liLったがぶ外 であ るOこれは,後山 ・蜘 ノ尼 山の北 にあ る鳥取県の氷 ノ山をは じめ とす る 10uO〝Lを越す措山のためであろ 兎口本拠 で多iitの水分 をIAM足した大陸性媒気仙 は .それ ら0)EJJ々脅越 える時 に .降雪 としてLLl陸側に多山 の降水 を与 え ,後 山あf=りでは .すでに吃煉 して しま ってい るか

らであろ う。

庚零台村 では,50Cnにな ることは少 な く,197占年 には4 0佃が2回 あった(=]けで ,あ まり'宙は 多 くない とい うことである。

(占月 と7月の降水 )

占町 と煎粟Ll村の 1921‑ 1950年の平均降水血は 400‑ 500JIhIと推察 され ,後 山では500

‑ 6 00柵 であ る .1日名倉 山は ,束粟宙村 と同席 度でや は1)400‑ 500朋 である。 1972‑ 197占 年 の古町における記録 は

,L

d‑大で1972年の9 2 7TTで

,

L止低 は1974年の504 3rJrと年 に J:って大 きな差 があ るが .だいたい5 00JmrTU後であ り.6月 ltJ7月の方が降 水TLI.は100仰程度多い よ う

である。

‑ 15‑

(26)

また この時1掛ま.1月の降水塵 と異な り山陰側 では降水が少な く,中国山地の山隣側 で降水が多い O これは ,台風や亜熱相性低気圧等南方か らの気組のためで .冬鵜 とは逆の現象がおこってい る ‑

一般 に山地の雨鰍 ま,蒔きが相加 するはど増加 し,任芯の高 さhほおける雨滋Rnは , Rn = tLo + ah とな る。

(

Oは推定海面

百 地主. a

は定数,なおhは比拭 をとt),そこの基準的丑 を

t t

o とす ることがあ るO) しか し.全 ての山地 で観測TL直と適合す るようJT定数aを決 めることは難 しい し.またその他の地形 的妙筆劉こも左右 される。また山脱における雨出の山大は頂上 よりも,やや下 った ,八〜九合E]に出現 することが多い。したが って来襲台村 で もこうい った規範が現 われていると懸われるo このため,古 町 よ りも束粟か村の方が少 し

山 も多 く.後山 ・目名倉 LLlでは .ふ もとの村 よt)は雨itとは多いだろうQ

表 1‑ 2‑2 月別降水丑 qJT

a 77【 51 128 115I222 514 95 244 44L し‑ 14 9 9

85 70 144 92 118十‑507 dd 127 216 5 5 5 0 11 21411̲̲2 5 2? 0 10 5 0占 7 29 占7 5

2占 28 1.̲12 54 218 88 78 l45462 1̲47 9 2 5 占

l 84」 刃 212T 1‑'正 159 158 dO 81 12 9 EA ̲4.̲5 5 8

1 841 54 110 25d 542 157 257164 7 211 8 6‑L= 5 2 6

1

4 55 12 120 98 150 65 48 9 5 2 1

65

58 82 142! 54‑T ‑ー 80 SAS 46 180 2 2 1 2 9

7

A 41 109! 49 250 169.21D 174 1 4 7 9 4 152 8

81 ̲!81T19̲8 9 146 147 82 84 560 .蒜 Tn う ‑L 5 7 156 7

2 90 1占2 154 511 dd1 95 174十 宣言 94 95 2 0 占5

1 66 29 170 156 2口1 79 107 151‡ 80 204ー 14‖ 1日 a」 ̲2 85 154 52 217250 298 70 176 147 4̲2 1598L 0 671 55 17@ 125 229 241 167 145fl?77̲D 2558 1658 4̲̲1

4 118 75 190⊥⊥旦呈 147 171 259 556 85 1920 ヰ⊥ 旦̲9⊥ Ltd ̲219

55 104119785 246 ・7止 202 291 226 5787 154.18911517 2D9 1161205 15919一十 ミヱ⊥ 178952 1945

(江 ) 岡山気象台 「観測所年表 」 (5) その他の気象現象

東栄台村では駒 ノ尾山 ・後山 ・目名舟山等の1000mを越す高山を有 してい るため ,天候の変化 も はげしい ようである。低気LEが通過すれば山の頂上付近は .たちまち頚がかか り,雨が降 りやす くな る。後山では頂上付近はほとん ど侮 日のように甥 がかか っている。村の人の話 では ,後山に密がかか

(27)

ると雨が降 るとい う。

大境現象 日数 について繭の 臼は. 1955 ‑ 1944年 の記録 では ,古町 で15 0日prJi.1後 .親紫,O村 では南部 でそれよ り10日.後 山のふ もとでは28Lj.後 山では

5

0日程度多い と似 われ る。後山が 町歌台村のLA朕に大 きな彫郷 を与 えてい る。

1972 ‑ 1976年 の古田丁の記録 では .娘Ftl'が1972年の1 77日 ,般低 が1974年 の14 5日で, これ も年 によって大 きな差があ るが .平均15 5日前後であ る。栄粟台村 ・後Ill・もそれに幣 じてい る と凪 われ る。したがって ,後 山にお いては ,一・年 の う11,5分の5近 くが ,熊襲台村において も一年の 半分の 日,が何 らかの的 を見 た といえる.

大気現象 日数 で雨や晋 は .f桐山県南部 と大 きな差は/H 、が ,降水姐がlJrJr以上の 日数 .1Dbrq以 上 の 口数,5 0qd以上の Fl数を . 1972 ‑ 1976年の古町 の記鎚 と他の観測場所 のもo)とを比 べ てみ ると.各 々について ,その 日数 が多 い ことかわか るO舶紫T3村は古町 よ りもその 【=l数が多い と/tiわれ る。 したが って .深紫fj村 .1‑̲

WJ

は,南部 と比

へ一 一

何の降

iitが多い とい うことがわか るo

蘇葉軒村 の冬は ,秋の終 わ りに ,きた11'(醐雨 )那 . もみは しの もみを しめ らす時 か ら始 まる. こ

れが .11月の初旬 である 。

初雪 は,(3i町 で11月Ft=I旬以降 .常襲台村 で も同 し頃 であ るo

後山

F]名畠 山で足'̲Tがu じまるのは, 12月下旬節 である 。後 山 .Fj名蔚 山の記'̲4'が杓 える0)は 4月初佃 であ るれ なお後 山では5月頃 までTjrt.Jが残 ってい るとい うの は ,前に述べ T=とお E)であ る。

切望 については,/^t..;Ltの ところで ,'=Tは多 く降 ら7t・い と糾い たが ,fLTL=T1‑'日数 は. 1955‑ 1964 年の記録 では.古町 が40日未納 であ るが .椴近5カ作間cL)1972 ‑ 197占年 の古己蝕 か らわ りだす

と,およそ55‑ 54日僅L虻が古町 の 平均 であると魁わi‑LるO輿棄凸村 において は .それ よ り多 く, 50日融接 ,後 山において(i.60E]樹皮 であ ると妃1われ る 。

一回で どo)挺朕のも

‑ 1

留が あ るかは っきりとした記

f iはな

いが, 1972‑ 197占年 の rl

ぅ '

町の記録 で は, 10ChIを越 える枇雪 は7EHTU後 で,2 0‑ 5 0佃か2 ・5日とい うところであ ろ うか。賦栄缶村 においては .それ よ り各 々2日程虻多 いぐらいであろ うと恐われ る

後山においては .1月12月がLdも舶哲 が多 く, 2月の終 わ り頃には4

m

dTJ後 とな り.その他C)連 山 も2‑ 5mとなる。

如来台村は ,以上の様 に ,後 に そび えてい る後 山をは じめ とする10

8

0

m

級 のL.iJ川こその天候 を大 きく左右 きオーしてい る。そして夏季 は,rrYJLLJ児の天気予紺がTごいたい当 っているが ,冬季 には ,鳥取 ・ 良師北部の ものが正確 である らしい ‑,

‑‑15‑

(28)

衷 1‑ 2‑ 5 気象資料

I閃笠山 年皮 大気 現 象 日数 i 降 水 日 数 軸 雪 日 数 融 雪 の深 さm 起 節 繭 】雪 ひ、よう # >3501*≧ 1(「0研≧20亡‑淵≧50 放大cm 海 自 面 百 一百 百‑一一百 一一一‑1;1 47 177 14 1 259 18168 45 15 0 D D 0 2.10 11ー29 4.2;

JIB lsd 2019 0 54 7 D 0 D 0 12.2占 ll.21 5.占 49 114976 D 7 99 59 8 0 0 0 2 2.8 12.4 5.24 50 24 0 ll 1〔】5 58 5 0 0 □ 0 2..を7 1.5 i21250 51 1占5 19l O 12 lld 45 9 0 0 0 0 2.12 12.22 47 141 12 1 5 112 49 17 0 0 D 5 2.10 12.12 5.51 48 114 9 1 1 90 57 4 8 0 0 ‑ ‑ ll.21 5.i

rn岡:

I山 49 110 5 0 95 40 14 0 l 0 1 2.812.7 5,15 50 150 9 0 0 】117 42 ll 0 0 0 2 」L7.‑L2‑V 1.12 2.28 47 202159 2 日】9 lad 58 14 2 0 0 19 j2.281ll.25 4.8 48 176 47 0 8288 129一三≒ 10I 0 0 0 18 日 16 12.120 ll.21 5,25

▲19 117896l⊥ 48⊥空l45 1 】121 44 15 1 0 0 ll.18 4ー2 50 1 69 144 57 15 5」 0 0 19 12.25 12.5 54.2.25 51 190 1 91 140 54 18 1 1 0 0 11 一.12 12.15

l

L: 当 ̲〜1̲̲7̲̲7,2占̲̲̲̲」̲ 0 .40 159 48 21 5 2 0 52 2.28lll.29 Lt.1 151l159 01 114u9 150 44 15 7 2 亡 互 29

2

,25ー11.21 5.21 145 45 149 54 15 る 2 l O 2A

l2

,ll 日.19 445.2.2.25 50

51!1dO」i.5竺 ̲2̲ l li ,62日 8 17 12 ! 7 0 40

2

.2511i2.6 (江 ) 岡山気象台 「観測所年表 」

(I ; ぷ

紅H 明 ) 参考文r淡

大 出 巌 「氷 ノ山 ・軌Ir・那岐 山国危公順朕郁地 気侯 と現地 ・,」(1916 7年 ) 日本 自然保瀧協会 r水 ノff」・後JLl・榔岐山 酢と公岨脚 拙 樺 術鋼査鞭/tt,・J

L・4‑

(29)

第 2 葦 歴 史 的 背 景

第1節 古 代 ・中 世 の 棄 粟 倉 (1)東乗合の過物 ・池跡

兵脚 畏佐用

船山の陵のBlお よび典庭郡中和村字聾 のW/てな どか ら考 えるに ,兼作 におい て も腔 史 は恥文時 代に さかのぼ ることが で きる。

古墳時 代に入 ってか らは,英 m部内におい て も.平 br古墳 (注 1)をは じめ として円墳お よび的lJ' 後円墳 ・的円後円墳 な どが,み うり られ るO しか しなが ら,繁栄愈 村 FAILこおい ては,この時 代の もの

と思われ る出物 ・出跡 は現 在までの ところほ とん ど発 見 されていない (注2).

申しはE・Cはい ると,山王宮跡 の宝圧 印

7僻 (Ef̲5)/Jどこの時代に築 かれ た と考え られ る ものが現 存す るo しか し,発射調 律が行 Ii‑われてい ないの で許 しL、ことはわか らない。 その他(こ.次に示 す も のが あげ られ る。

㊥ 経 塚 吉即一掛 目

(旦) 寺院跡 金 剛焼寺跡 吉田金 剛#

③ 城 跡 ^Tt̲山城跡 吉Fllびくに じろ 0:) 寺院跡 刺 ヒ臆寺跡 F7

栄光‑=!f (I.a;) 寺院跡 中 谷坊鵬

跡 中谷軒 の

下 ( 吋

寺院跡 神宮廃寺跡 rll谷 神宮寺 (7) 製鉄跡

, J I T l

肥 l和地跡 rllJdl軌IL

檀) 墳墓 地 後 山経教

(tT) 寺院跡 法泉坊

寺跡 後 山法仙 坊 QIg) 寺 院跡 刺 本坊嫡寺跡 後LLftう り^は う (ill) 寺院跡 後山

/Tf木

(

江 1 ) 英 lH郎美作町 平掛 こあ る接収

占 払

墳丘 な どの外部の状況はは っ きりしないが .18 9占年 に見っか っf=陶棺 f碇南開正 昭物 館蹴 )は ,身 の触辺 柵面に人馬 の腹 を浮雌 であ らわ してお 1),文様絵 Fuiu‑の見 られ る

1 ! 1

gfな資料 といわれてい る。

(注2 ) 『英別 れ;諾考 Jlに よる と,吉 田神社の亦 山頂 にあ る古墳 は仏教 伝来 以酌 の もの であ る として い る。

(江 5 ) 室町時代 よ t)遡 る もの か。

( 2 )

蘇葉fT荘 とその時 代

天武 ・持続 ・文武の頃 ,吉鵬 (注4 )

前小後 にか J.

鮒 .郁中 ,郁後が生 まれ , さ らに克 明天 I:;!の和 銅占年4月 .節約の 国か ら勝 ul・英多 ・久米 ・宮川 .大庭 ・共L為の 占邪 を分別 して美作 の国が 陀かれ た (注5 )O型和銅 7年1D月には初 代の国司 印守AI'前 が任命 きれて (注 占 ),E̲BI司の統軒 す る地方政治 がつづい た。

その後 ,寒老7年の三 世一身 の軌 天 平1 5年の重刑永粒私 別法 に よ り母材 を有す る

f

t族 ・社寺 ・

‑17‑

(30)

権門勢家は争 って使役に よる朗型を行い ,LlJi民のひ らいた土地 を

い占め.あるいは寄進の手段に よ I)その手中に収めてい った . これ らの占め る私有 の土地 は公地 よ r)も広大 とな り,国の制定 した

排日 」

制 も乱れ口分圧柑 ついに私有化 して個人の所有す るところとな り.土地を失 っ1こ戯民は耕作労 働者に くみ こまれ,荘関が形成 されてい ったの であ る。

束薬缶荘が歴史上にその姿 をあ らわ したのは,まきに この時 代の ことであろ う(注7).

一 、

,御 此

布遡 及

ヽ ト ′「

, / I

G i

/

/ \ ̲ /

部, i

那 崖 軸 心

ス砲声

冊丁屯 田ElE扱 高afL 噸 粥畔 中山 吐

棚よ

財 政

′I .

l

\、 / ' 触 /)

‑ ‑ 篭 船 艇 ‑

I‑‑1・r‑ i‑二 言 三 . 芸 芸 ニ

J

1'‑i:

:

、、絹,gR駈 ‑ 岩 見鍵 ‑ 虚 妄顧 ‑

LtL昔 .,t

\ .̲・一一・‑‑ ‑

才Jれ環 研和走 破褐且

\ 甜d J , i =I

Ea L ''

読聯 ‑ /‑

̲

竺舷 榔 p

iZ

!

申呼 ′J‑

、 ‑

・ー

・?./

lq42‑ 1‑ 1 実 作EE幽分和国 (注 )

r

軌 Ll市史

J

恥二 IL1耳明 t七E)・損 ・,;io

珪久5年,軒赫軌 ま錐掛 こ描府 を

t J

臼きこれ までの国司 ・紬 家の椀力 は柚朝の手中に'lJL,文治元年 には守誰地頭 を穀粒 した.守誕地酢 こは部下の武士 を もって これにあて,武家政柿に よる全問支配が 押立 していったO

この時

,矢作の同は

慣・和tl.北条各氏が相次 ぎ守離職 として支配 していた。 その後南北朝の 対̲OT

期 として拡L・舶 l比定は助摘 をは じめ,応仁 ・文明のlli乱時代Iri入 ると許拒馴ま解体 をはじめ,これ に代って大名細が台頭す る。 南北朝ま抑 こねい る美作の大部分は北朝のJj,'力掛であ っf/.か ら.元弘 元年 に

収 則村が守.‑;堕馳 こ任せ られて以来赤松 氏のrl!irEが続 く。 正平5年則相の子別祐が守離m とな り.

同 15咋同 じく則村の子月職が これにかわ る。Ir(]19年には刷 屯は山名崎氏 と交戦して敗退 し,山名 氏が美作守離職 となっflo その後, lJ」名氏 は赤松氏 に征服せ られて赤松義則が美作守離 職 となったが

(31)

その子満掛 ま山名氏に敗れて宗吾元年 には山名取柄.つづいて政稲 が美作守誰暇 とな った。 しか し応 仁の争乱 とともに赤松 ・山名両氏の抗争が続 き蒋府 の聴力 も地にお ちて乗作守詐職赤松氏 の図13Ei支 配 は終 りを告 げ,美作国内は折雄割拠に よる申ほしの時代に移 るのであ るo

その後.浦上則宗が赤松氏 を敗退せ しめ美作の大半 を帆 ヒ氏 の勢力下にお くことになったが .天文 年間出雲の尼子氏が美作へ の侵 出を企 てた結果美作全土 は尼子氏の細石す るところ とな り,以後十有 余年尼子氏が支配 を続けた。 永禄 に入 ると西方 .より毛利氏の勢力が進出 し.毛利氏札下 よ り秀吉側に 転 じた字幕多氏 と激 しい職いが耗い たが ,天正10年 の秀吉 と毛利氏の和解に よ り,この地域の軌乱

も一応の決着 をみ .宇再多氏の支配がつづい た。

この後 ,小早川氏,在民 と美作の支配はつづ くのであ そ'。

ところで,この時 代の索粟f31村 はいかな る姿 をしていたの であろ うか。 足利 の末tLtよ り毛利 .宇宙 多を粁 て小早川の除国にいたるまで小原城主斯免伊f5'守 の所紙 とな り,同家中 の竹 内申務大輔久盛が 全非 を哲理 していたとい うが ,その詳 しい住子はわか らない。(注 8 )

(江 4 ) 文帆 こみえる苦節国の初 見は 『古て拝妃 』の考即天皇 の条 . 「大 吉榔秤 目子爵与若建吉 節津日鞘 ,二柱栖F剃而 .於針 間氷河之的居 忌盆 両,斜Ⅷ為 道口以,言向和 吉備国也⊃」 であ る。

(托 5 ) 『紀 日本紀

. H

利腕的国英多勝tJI苫F̲r久米大庭出 島六郡 始箭美作飼 」 (注6 ) 『続 日本紀

. D

「従五位下印守連濁為美作守 ̲I

(注7 ) 角川 軒店 『日本史辞舛 』に よると架台拝は近布家餌である.

(江 8 ) 東

粟 丹

に隣接する大原恥 こ関す る論文 が.当時 の在地 の様子を克明に伝えてい る。

この論文は,圧TFIl修lTI氏 の 「中世の美作大原

」で岡 uT将教育委員会 『教育時報』 1 9 7 6年1・ 2月号に珠録 されてい るO 大原餅は.現在の英Fl孤大原町の北臥 同郡東粟宙相 川 憤 地区 ).内

fi村雨部 を含む

l 虹

号であ り,m FI・山金剛三味院紙 として, 『㍍野 山文

畑に,主 として訴訟文17.7

を中心 に とりあげ られてい る。

(高 見 和宏 ) を 考 文 蹴

(

第 1m )

・ 山勘新制祉 『古代のか たち 』 . 鎌木義貞著 『岡 山の古耶 』

.

坪 山市史折 詰素見会 『津山市史 』 野二巻中世 . 椎 口 松 玲 『英江l郡史

考J )

. 跳rfl町史桁 第委艮会 『勝田町史 』

. ・

岬柵新訂国史大系 『続 日本紀 』 後175

・ 小学館 日本 古興文学全銀 F吉野配 』

・ 角川軌 古 『日本史群舛 』 . 河出軒摂 『日本歴史大辞典 J]

‑19‑

(32)

2

節 近 世 の 葉 栗 倉

(1)領主 の系

当地 は.段 長7年 までは 小早川氏の縮 図 であ ったが

,

同年 小早川秀秋 が2占歳 で病没 す ると,蘇忠 政が美作に封 せ られ てい る。 帝忠政は駿長5年1 0月従51̲,?'下 で右 近太夫 ,同5年2月従41)Ll下 で侍 従, 7年7月信 州川

中F

I=

t

uへ封せ られ,小早川秀秋 病没後 .同 8年2月1 8万5千石 の封 乍守 とな って い る。 当時森の入内叫 の様 子 を述べ ると次の よ うに なるo

小早川 秀秋の家臣の卿披六郎及 び子の矧 時 ・宗守 ・故 守 らは, 小早川氏の没落 で‑一門 は払拭 と/.i‑る ため作乗務架 の講将 と相談 し‑硬 の甲 を起 し.森氏の入国 を拒 み ,蘇氏 を滅 そ うとして.5干余塀 で 作東 の

域 を守 ってい fこO これ を軌 、て蘇忠政 は手兵干余駒 を率 い て来 て.肺州 山崎 で榔 在 し,作衆 議円 の‑入所免有元に降旧 を勧 め,新免 の手引 きに よって蘇代 は美作に入相 す ることがで きた0 ‑ 万 他作煎%・掛 1.61‑:氏の人跡 こよ り,一機 も交 える ことな く手 を引いてい る。 =rqi忠政 の入[馴こ先 だ ちFl 誕屋九郎左裾 つが入内 し共作 を調べ てい るO又 同 じく川上付新鋸 耳左術門 .下Lr三軒 ド挺九郎兵術の2 人を頭廻 しと し,家中 の可宛兵 太.(,I.7久 rFi]長左衛 門の2人 に土地

訳 させ てい る。 これは勝抜 9年に 完成 してい る。 在民 の支配が続 くわけであ るが .延宝2年( 16 7 4 18月2 8日それ まで挑名 を 「 英多 」を

L

TJt・いていたの を 「英

E l l

」に改めてい る

o

疎家は忠 政一長鮮 ‑長義一長成 と続 くのであ る。 Iki 戒 の時に祖国の年頁米 を伸 す ために検地 をお こない 18万 百を2 5万百lこ切 りあげてい る。 しか し疑 likに は子が/JL、まま元禄1 0年 d月2 0日光亡 している。 養子式部 は同8月8日.山.附 してい たが .蕊 中の81勢桑 名において屯臣 を=T:封に したため除国 とな ってい るO この 1 うに して在家 は斬紙 し.以後 Li碓府 の天佑 とな っているC 天敵 にな った時 .おかれ た代官所 と代官 を衷 2‑ 2‑ 1で示す。

蓋 2‑ 2‑ 1 燭 台地 区支配 の代官所 ・代 官

(33)

久 美 浜 野村櫛九郎 鷲酔 5年〜悪政1 1年 h‑谷大円即 諾政12年一文化 9年 EH口五郎左衛門 文化1 0年〜文化15年

】 袋 策 之 助和 相1‑網 彦兵術場 LAl 文政i 文化' 454年〜文政年〜天保年〜天保 4咋8竺年 娃 野 範 山汲左肺門 I 天促 9年一 天Ci.10年

(江 ) 『英田郡誌 』

,

『英田邦史考 Jより作成 .

この糞の よ うに元禄 10年 よ り天領 とな ったが,狂串 2年か ら2年

E

Ti‖よ,凶肺伯潜 の伺1三松 平宗ホ 相映守 の所餌 とな り代宵耶許 ヒ.大 仁1獅五郎が下町 什TT所へ出張支胤 してい る。 延宰 4年 よl)吉野郡 は.I.%紳士紺船主土屋鞘痢左 門托登守の

餅 とlfっている。'・,di:政2年揃府 は吉野邦 の巾 で1万 h‑を天 禎 とし.その内に東粟倉村 も含 まれてお り,

H・ J

tH久東浜の代官lTrJ り支配 してい る。 その時の代官 は 蓑 1に示 してい る。 ただ し.吉Fll相川恥 ま仙 ・H生野 代官所 よ り支仙 されてい る。 天保9年か らは久

浜代官所に代わ り生野代打所の文机す る ところ となってい るO 天併 15年 4月捕州明 石城主松平斉宜 典雅大棚 oL)細地 とlJ:ら.下町へ仲尾.を設 け,郡 代が出舶支札 してい る。 もっ とも後 山は生野代官所 よ

り支作Jを うけてい/こ。 そ してlyj治の鵬珊駅爪 に至 ってい るO

( 2 )

支札の親 株 と桃川

架粟 缶村 は.江戸時 代Er̲おいて天絹 であ った期間が [:いへん長い。 江戸‑:jB'府lことって財政の供給源 の小心 は天歓 におけ る年iTlであ り.老中 .または助定串行 の札下の郡 代や代rFに .L tり支h‑L!されてい たO

天領 の支月山こついては,熊村伽菜軌には.小Jn自立 を進め,また過大な野郎的 El体 制を保持す るた め夫子itの賦課 は張 くこの夫役放収に照応 す る地軌 ・代官 の宙旗 文化体 制を とってい る。 そ して代官 は 地方功労者であることが任・用 の並木的条件 であ っf=o しか し正伽元年にな ると代官 の忠志的支nJL!の根 軒である代官手作 りや南 井 ・.由'利壬軒ラ鵜の

L:等に 止‑'て代官 を勘定所柄押下の地方行政73'に位

I F

FLづ l

けてい るO すT.=わ ち将叩一老中一物定奉行一 代官一柑 々庄屋 とい う支他系統 であ る。 そ して代官 も初 l抑こねいては.支侃地のFは '師掛 こおいて .みずか ら手代を拒挿 して支爪 を行 な ってい たが元禄以後 にな ると.mC木が多 く地方行政ff.'として代宵 になったこともあって江戸住い とTJって接 見の時Iこ任地 に赴 く村政 とな り実際の民政は代官所の手 代や手附に よって行なわれ るようになって くる。 それ ぞれ 代官所の執務は公邪方 と地方 ,又地方に J I)山13'と分かれ てい たが 代官 は転任・が頻繁 であ ったf=め

代.

昏所の川成 は愉即 であ り,代官所の暇flの人数 も汀戸‑溝 と任地の代官所お よびLH張陣屋許 を合わせ て も7. 8名〜 20名前後 で,何州久美折代官pTrでは 8名.生野 代官所 では d名 であ っf=O そ して各 地 の代il7‑rは絶 えず江戸託の手附 ・手代を

i

柏じて馳定冶行 itf=は舶係上 司にrul結 してい る。 これに よ り 江戸をFll核 としたIJi櫛的な稀府 の天領支Pl'L!体 制がで き上 っていって る。 代官や郡 代の下 で実際 の活軸 . の中心 とな ってい るのは手附 と手代であ るが ,羊附は幕臣であ るのに対 して,手代は代官が支配洲 こ

‑21‑

(34)

おいて.地方の弓喝 の老練/3人 を.E''il君.あるいはその子郊のなかか ら採用 してい る。 そ して代官 陣屋 が特

別に

鉱山 ・別所・JR肪等の支配 を‑封臓 してい ると士者 の符のなかか らその疏務に施役人 として任 せ られている. 生野代官所 では銀 山があ るので

衷 2‑ 2‑ 2の ような地役人が任せ られてい る。

東粟台 村の天韻時代の穀後の代官所はL&即代官= 所 であ るが.天伽 9年の 『徳川薄何県桁要略 J) に よると伯蝿 .美作の支此地昂は 7万 百 とな っ てい るo そ03時 の代官 は大串太郎方術門 であ る が ,汀戸の本所御料臓後に出曲 を持 って .江戸 請の手附 ・手代をinj̲じて支h‑Ll地 の邸務 を行 な っ てい たよ うである。

では鞘府の天頂支 FTLlの方針 は どのよ うな もの であ ったのだろ うかO 天紬 ま光に

L

DL、T;よ う (こ軒F付の封建JfJ文机 を強固fJ:ものにす るためゐ

表2‑ 2‑ 2 生Tf代'r?支配 の地 役人

(注 ) 安藤博編 『徳川#府県拾要略 Jlよ りrF成 O 蹄府 肘政の供給WであったO だか ら代官 を通 じて少 しで も多 くCL)年日を徴収 しよ うとしてい るO しか し天頂の出民は

J

lfJ付の とったFfl央袋桁的 fi支舵のた桝 ことった政解 .交油粕の穀僻等 に よ り商品 .岱 幣相 月のE)̲人が軌 しい ことが飢和や

L t J H

bllわ って.経新約に閲窮す る原因 をB)めか らもってい たo 又江戸中期以後.畑

代宙 としての位駅が定 ま‑3て くると安全な処世 術 で在任期間 を無恥 こす ますの みUL)fe宵 や不Jl:.別 的'J e官が多 くなって くる。 しか し多 くの訓示 ・禁令 .牧草等 に もかかわ らず代P.I の不正行鵜は府 くな らfJか った.

天節 の刷串は江FllPjfe初1剛ま 4公d良であ った と言われて るが中期以後は 5公5民 とな ってい る。

代田は まず村 々の施朝 や石盛 を秋定す るのに検地 を行い,次に諸条件 を考倍 して宙租 の非準を決め, 負担すべ き出 Lg‑.を決めている. そ して横地帳 に登録 され た戯 R.が年 月負担者になってい る。 厄年0..)年 irlはiJJ朋は検 見法 であったが後 Er̲定免法 で決め るO その年の年貢i‑が決定す ると代官師屋か ら相知に年

t 7L J , l J 付

1人が出 され るD この写 しをFl三定は

札 として掲示 し村 民に知 らせ ,村役人は各 人に持蒔 その他 の条件にEL:じて割付け るのであ るO

こ0)よ :)に各村 々の庄屋 ・韓苛 ・百姓 代の村役人はTil租 の制 当てばか りでな く,治 安緋緋や村政に ついて も,村の利右㌫の代議す るとと い こ支配機川の未恥 とな ってい.るo 表2‑ 2‑ 5には この村方三 役の うち分 ってい るもののみ掛 、てい る。 このrllで吉ril村卿 比の庄屋 を務めてい る山根又兵

につい て,彼 は,当時, どの よ うであったか を述べ てみ たい と!.Jq.う。

●l l

表 21 2‑ 14 EJ ・ A &#34;i I V ]成 吉 田 村 取 組 両 税 tf J ' 畝 歩 石 上 田 1 0 8 ・2 7 1? ・d D2 中 m 1 d 8 ・1 5 2 占 ,9 占 0 下 田 1 5 4 .1 4 1a 8 2 5 新 中 肘 2.1 .5 2 5 新 下 田 216 .5 0 8 硝石1.8=1.。=1.4 又 兵 術面前 高畝歩石18.55,2 占 85 0.2 44,9 282 4.25.5 6 9 上 州 1 1 上 仰 I田 5 申 対日 5 r
表 41 51 5 後 山怖 易部 何局 の某務実績 「 L ・受 今竺 ̲ ̲ ̲ 竺 竺 支 出 の邦 (ロ狗) i . i l 研和 4 9年 呼1) 逮2)ftlI1 5) I

参照

関連したドキュメント

ある架空のまちに見たてた地図があります。この地図には 10 ㎝角で区画があります。20

下山にはいり、ABさんの名案でロープでつ ながれた子供たちには笑ってしまいました。つ

群発地震が白山直下 で発生しました。10 月の地震の最大マグ ニチュードは 4 クラ スで、ここ25年間で は最大規模のもので

これも、行政にしかできないようなことではあるかと思うのですが、公共インフラに

を負担すべきものとされている。 しかしこの態度は,ストラスプール協定が 採用しなかったところである。