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臼きこれ までの国司 ・紬 家の椀力 は柚朝の手中に'lJL,文治元年 には守誰地頭 を穀粒 した.守誕地酢 こは部下の武士 を もって これにあて,武家政柿に よる全問支配が 押立 していったOこの時
代
,矢作の同は梶
慣・和tl.北条各氏が相次 ぎ守離職 として支配 していた。 その後南北朝の 対̲OTを
期 として拡L・舶 l比定は助摘 をは じめ,応仁 ・文明のlli乱時代Iri入 ると許拒馴ま解体 をはじめ,これ に代って大名細が台頭す る。 南北朝ま抑 こねい る美作の大部分は北朝のJj,'力掛であ っf/.か ら.元弘 元年 に赤
収 則村が守.‑;堕馳 こ任せ られて以来赤松 氏のrl!irEが続 く。 正平5年則相の子別祐が守離m とな り.同 15咋同 じく則村の子月職が これにかわ る。Ir(]19年には刷 屯は山名崎氏 と交戦して敗退 し,山名 氏が美作守離職 となっflo その後, lJ」名氏 は赤松氏 に征服せ られて赤松義則が美作守離 職 となったが
その子満掛 ま山名氏に敗れて宗吾元年 には山名取柄.つづいて政稲 が美作守誰暇 とな った。 しか し応 仁の争乱 とともに赤松 ・山名両氏の抗争が続 き蒋府 の聴力 も地にお ちて乗作守詐職赤松氏 の図13Ei支 配 は終 りを告 げ,美作国内は折雄割拠に よる申ほしの時代に移 るのであ るo
その後.浦上則宗が赤松氏 を敗退せ しめ美作の大半 を帆 ヒ氏 の勢力下にお くことになったが .天文 年間出雲の尼子氏が美作へ の侵 出を企 てた結果美作全土 は尼子氏の細石す るところ とな り,以後十有 余年尼子氏が支配 を続けた。 永禄 に入 ると西方 .より毛利氏の勢力が進出 し.毛利氏札下 よ り秀吉側に 転 じた字幕多氏 と激 しい職いが耗い たが ,天正10年 の秀吉 と毛利氏の和解に よ り,この地域の軌乱
も一応の決着 をみ .宇再多氏の支配がつづい た。
この後 ,小早川氏,在民 と美作の支配はつづ くのであ そ'。
ところで,この時 代の索粟f31村 はいかな る姿 をしていたの であろ うか。 足利 の末tLtよ り毛利 .宇宙 多を粁 て小早川の除国にいたるまで小原城主斯免伊f5'守 の所紙 とな り,同家中 の竹 内申務大輔久盛が 全非 を哲理 していたとい うが ,その詳 しい住子はわか らない。(注 8 )
(江 4 ) 文帆 こみえる苦節国の初 見は 『古て拝妃 』の考即天皇 の条 . 「大 吉榔秤 目子爵与若建吉 節津日鞘 ,二柱栖F剃而 .於針 間氷河之的居 忌盆 両,斜Ⅷ為 道口以,言向和 吉備国也⊃」 であ る。
(托 5 ) 『紀 日本紀
. H
利腕的国英多勝tJI苫F̲r久米大庭出 島六郡 始箭美作飼 」 (注6 ) 『続 日本紀. D
「従五位下印守連濁為美作守 ̲I(注7 ) 角川 軒店 『日本史辞舛 』に よると架台拝は近布家餌である.
(江 8 ) 東
粟 丹
荘に隣接する大原恥 こ関す る論文 が.当時 の在地 の様子を克明に伝えてい る。この論文は,圧TFIl修lTI氏 の 「中世の美作大原
保
」で岡 uT将教育委員会 『教育時報』 1 9 7 6年1・ 2月号に珠録 されてい るO 大原餅は.現在の英Fl孤大原町の北臥 同郡東粟宙相 川 憤 地区 ).内実
fi村雨部 を含むl 虹
号であ り,m FI・山金剛三味院紙 として, 『㍍野 山文田
畑に,主 として訴訟文17.7を中心 に とりあげ られてい る。
(高 見 和宏 ) を 考 文 蹴
(
第 1m )・ 山勘新制祉 『古代のか たち 』 . 鎌木義貞著 『岡 山の古耶 』
.
坪 山市史折 詰素見会 『津山市史 』 野二巻中世 . 椎 口 松 玲 『英江l郡史考J )
. 跳rfl町史桁 第委艮会 『勝田町史 』
. ・
岬柵新訂国史大系 『続 日本紀 』 後175・ 小学館 日本 古興文学全銀 F吉野配 』
・ 角川軌 古 『日本史群舛 』 . 河出軒摂 『日本歴史大辞典 J]
‑19‑
第
2
節 近 世 の 葉 栗 倉(1)領主 の系
譜
当地 は.段 長7年 までは 小早川氏の縮 図 であ ったが
,
同年 小早川秀秋 が2占歳 で病没 す ると,蘇忠 政が美作に封 せ られ てい る。 帝忠政は駿長5年1 0月従51̲,?'下 で右 近太夫 ,同5年2月従41)Ll下 で侍 従, 7年7月信 州川中F
I=t
uへ封せ られ,小早川秀秋 病没後 .同 8年2月1 8万5千石 の封 乍守 とな って い る。 当時森の入内叫 の様 子 を述べ ると次の よ うに なるo小早川 秀秋の家臣の卿披六郎及 び子の矧 時 ・宗守 ・故 守 らは, 小早川氏の没落 で‑一門 は払拭 と/.i‑る ため作乗務架 の講将 と相談 し‑硬 の甲 を起 し.森氏の入国 を拒 み ,蘇氏 を滅 そ うとして.5干余塀 で 作東 の
帯
域 を守 ってい fこO これ を軌 、て蘇忠政 は手兵干余駒 を率 い て来 て.肺州 山崎 で榔 在 し,作衆 議円 の‑入所免有元に降旧 を勧 め,新免 の手引 きに よって蘇代 は美作に入相 す ることがで きた0 ‑ 万 他作煎%・掛 1.61‑:氏の人跡 こよ り,一機 も交 える ことな く手 を引いてい る。 =rqi忠政 の入[馴こ先 だ ちFl 誕屋九郎左裾 つが入内 し共作 を調べ てい るO又 同 じく川上付新鋸 耳左術門 .下Lr三軒 ド挺九郎兵術の2 人を頭廻 しと し,家中 の可宛兵 太.(,I.7久 rFi]長左衛 門の2人 に土地丈
訳 させ てい る。 これは勝抜 9年に 完成 してい る。 在民 の支配が続 くわけであ るが .延宝2年( 16 7 4 18月2 8日それ まで挑名 を 「 英多 」をL
TJt・いていたの を 「英E l l
」に改めてい るo
疎家は忠 政一長鮮 ‑長義一長成 と続 くのであ る。 Iki 戒 の時に祖国の年頁米 を伸 す ために検地 をお こない 18万 百を2 5万百lこ切 りあげてい る。 しか し疑 likに は子が/JL、まま元禄1 0年 d月2 0日光亡 している。 養子式部 は同8月8日.山.附 してい たが .蕊 中の81勢桑 名において屯臣 を=T:封に したため除国 とな ってい るO この 1 うに して在家 は斬紙 し.以後 Li碓府 の天佑 とな っているC 天敵 にな った時 .おかれ た代官所 と代官 を衷 2‑ 2‑ 1で示す。蓋 2‑ 2‑ 1 燭 台地 区支配 の代官所 ・代 官
久 美 浜 野村櫛九郎 鷲酔 5年〜悪政1 1年 h‑谷大円即 諾政12年一文化 9年 EH口五郎左衛門 文化1 0年〜文化15年
】 袋 策 之 助和 相1‑網 彦兵術場 i 文化l 文政LA ' 454年〜文政年〜天保年〜天保 4咋8竺年 娃 野 範 山汲左肺門 I 天促 9年一 天Ci.10年
(江 ) 『英田郡誌 』
,
『英田邦史考 Jより作成 .この糞の よ うに元禄 10年 よ り天領 とな ったが,狂串 2年か ら2年
E
Ti‖よ,凶肺伯潜 の伺1三松 平宗ホ 相映守 の所餌 とな り代宵耶許 ヒ.大 仁1獅五郎が下町 什TT所へ出張支胤 してい る。 延宰 4年 よl)吉野郡 は.I.%紳士紺船主土屋鞘痢左 門托登守の所
餅 とlfっている。'・,di:政2年揃府 は吉野邦 の巾 で1万 h‑を天 禎 とし.その内に東粟倉村 も含 まれてお り,H・ J
tH久東浜の代官lTrJ り支配 してい る。 その時の代官 は 蓑 1に示 してい る。 ただ し.吉Fll相川恥 ま仙 ・H生野 代官所 よ り支仙 されてい る。 天保9年か らは久英浜代官所に代わ り生野代打所の文机す る ところ となってい るO 天併 15年 4月捕州明 石城主松平斉宜 典雅大棚 oL)細地 とlJ:ら.下町へ仲尾.を設 け,郡 代が出舶支札 してい る。 もっ とも後 山は生野代官所 よ
り支作Jを うけてい/こ。 そ してlyj治の鵬珊駅爪 に至 ってい るO
( 2 )
支札の親 株 と桃川架粟 缶村 は.江戸時 代Er̲おいて天絹 であ った期間が [:いへん長い。 江戸‑:jB'府lことって財政の供給源 の小心 は天歓 におけ る年iTlであ り.老中 .または助定串行 の札下の郡 代や代rFに .L tり支h‑L!されてい たO
天領 の支月山こついては,熊村伽菜軌には.小Jn自立 を進め,また過大な野郎的 El体 制を保持す るた め夫子itの賦課 は張 くこの夫役放収に照応 す る地軌 ・代官 の宙旗 文化体 制を とってい る。 そ して代官 は 地方功労者であることが任・用 の並木的条件 であ っf=o しか し正伽元年にな ると代官 の忠志的支nJL!の根 軒である代官手作 りや南 井 ・.由'利壬軒ラ鵜の
軌
L:等に 止‑'て代官 を勘定所柄押下の地方行政73'に位I F
FLづ lけてい るO すT.=わ ち将叩一老中一物定奉行一 代官一柑 々庄屋 とい う支他系統 であ る。 そ して代官 も初 l抑こねいては.支侃地のFは '師掛 こおいて .みずか ら手代を拒挿 して支爪 を行 な ってい たが元禄以後 にな ると.mC木が多 く地方行政ff.'として代宵 になったこともあって江戸住い とTJって接 見の時Iこ任地 に赴 く村政 とな り実際の民政は代官所の手 代や手附に よって行なわれ るようになって くる。 それ ぞれ 代官所の執務は公邪方 と地方 ,又地方に J I)山13'と分かれ てい たが 代官 は転任・が頻繁 であ ったf=め
代.
昏所の川成 は愉即 であ り,代官所の暇flの人数 も汀戸‑溝 と任地の代官所お よびLH張陣屋許 を合わせ て も7. 8名〜 20名前後 で,何州久美折代官pTrでは 8名.生野 代官所 では d名 であ っf=O そ して各 地 の代田il7‑rは絶 えず江戸託の手附 ・手代を
i
柏じて馳定冶行 itf=は舶係上 司にrul結 してい る。 これに よ り 江戸をFll核 としたIJi櫛的な稀府 の天領支Pl'L!体 制がで き上 っていって る。 代官や郡 代の下 で実際 の活軸 . の中心 とな ってい るのは手附 と手代であ るが ,羊附は幕臣であ るのに対 して,手代は代官が支配洲 こ‑21‑
おいて.地方の弓喝 の老練/3人 を.E''il君.あるいはその子郊のなかか ら採用 してい る。 そ して代官 陣屋 が特
別に
鉱山 ・別所・JR肪等の支配 を‑封臓 してい ると士者 の符のなかか らその疏務に施役人 として任 せ られている. 生野代官所 では銀 山があ るので衷 2‑ 2‑ 2の ような地役人が任せ られてい る。
東粟台 村の天韻時代の穀後の代官所はL&即代官= 所 であ るが.天伽 9年の 『徳川薄何県桁要略 J) に よると伯蝿 .美作の支此地昂は 7万 百 とな っ てい るo そ03時 の代官 は大串太郎方術門 であ る が ,汀戸の本所御料臓後に出曲 を持 って .江戸 請の手附 ・手代をinj̲じて支h‑Ll地 の邸務 を行 な っ てい たよ うである。
では鞘府の天頂支 FTLlの方針 は どのよ うな もの であ ったのだろ うかO 天紬 ま光に
L
DL、T;よ う (こ軒F付の封建JfJ文机 を強固fJ:ものにす るためゐ表2‑ 2‑ 2 生Tf代'r?支配 の地 役人
(注 ) 安藤博編 『徳川#府県拾要略 Jlよ りrF成 O 蹄府 肘政の供給WであったO だか ら代官 を通 じて少 しで も多 くCL)年日を徴収 しよ うとしてい るO しか し天頂の出民は
J
lfJ付の とったFfl央袋桁的 fi支舵のた桝 ことった政解 .交油粕の穀僻等 に よ り商品 .岱 幣相 月のE)̲人が軌 しい ことが飢和やL t J H
乍に
bllわ って.経新約に閲窮す る原因 をB)めか らもってい たo 又江戸中期以後.畑万
代宙 としての位駅が定 ま‑3て くると安全な処世 術 で在任期間 を無恥 こす ますの みUL)fe宵 や不Jl:.別 的'J e官が多 くなって くる。 しか し多 くの訓示 ・禁令 .牧草等 に もかかわ らず代P.I の不正行鵜は府 くな らfJか った.天節 の刷串は江FllPjfe初1剛ま 4公d良であ った と言われて るが中期以後は 5公5民 とな ってい る。
代田は まず村 々の施朝 や石盛 を秋定す るのに検地 を行い,次に諸条件 を考倍 して宙租 の非準を決め, 負担すべ き出 Lg‑.を決めている. そ して横地帳 に登録 され た戯 R.が年 月負担者になってい る。 厄年0..)年 irlはiJJ朋は検 見法 であったが後 Er̲定免法 で決め るO その年の年貢i‑が決定す ると代官師屋か ら相知に年
t 7L J , l J 付
1人が出 され るD この写 しをFl三定は高
札 として掲示 し村 民に知 らせ ,村役人は各 人に持蒔 その他 の条件にEL:じて割付け るのであ るOこ0)よ :)に各村 々の庄屋 ・韓苛 ・百姓 代の村役人はTil租 の制 当てばか りでな く,治 安緋緋や村政に ついて も,村の利右㌫の代議す るとと い こ支配機川の未恥 とな ってい.るo 表2‑ 2‑ 5には この村方三 役の うち分 ってい るもののみ掛 、てい る。 このrllで吉ril村卿 比の庄屋 を務めてい る山根又兵
柵
につい て,彼 は,当時, どの よ うであったか を述べ てみ たい と!.Jq.う。●l l