東南アジア研究 IS巻3号 1977年12月
タイ国 にお け る 《イス ラームの擁 護》につ い ての覚 え書
石
井
米
雄*
A
Noteon the lProtutionIofISl&m irLThailand Yoneo lsHIIThekingofThailandistraditionally consideredto betheahhhas房ねanu砂 at
-hamPhoh,theprotectororupholder,ofs冴isan万.andsZusan冴(religion)inThailand isvirtuallytantamounttoBuddhism.Thisroyal epithet.however,underwenta semanticchangewhen thepoliticalupheavalof 1932 introduced western-Style constitutionalism andthemodernconceptofreligiouslibertyintothistraditional SoutheastAsiankingdom.Royalprotectionwasthenextendedtoallreligionsin the land,including the Islam of Thai-Malay subjects which had long been regardedwithindifferenceby theSiamesegovernment.The丘rstlegalexpression ofthenew religiouspolicywasHTheRoyalDecreeontheprotectionoflslamH
(1945).Royalprotectionoflslam isbeingbroughtaboutthroughareorganization ofthereligioninto a,centralized hierarchy with theChu招Y5ichamontrias its head.Theprocess ofreorganization seems,however,to be slower and more complicatedthanthatoftheBuddhistsangha,forhistorical,culturalandstruc -turalreasons.
1
.
1932年 か ら1977年 まで の45年 間 に タイ 国 は8回 にわ た る憲 法 の大 幅 な改 廃 をお こな った。 こ れ ら8種 燐 の憲 法 の うち1976年10月 に制 定 され た 「仏麿 2519年 タイ 国 憲 法 」 を除 く7種 類 の憲 法 に は, い ず れ も 「タイ 国 王 は仏 教 徒 で あ り, 宗 教 の至 高 の擁 護 者 で あ る」 とい う規 定 が設 け られ てい る.1) こ こで言 う と ころの 「宗 教 の至 高 の擁 護 者 」 に 当 た るタイ語 は (akkhas豆tsanか
pathamphok)で あ るが, これ はパ ー リ語 か らの造 語 で 「至 高 の (akkha<agga),「宗 教 〔の〕 (satsan豆<S豆sana)
」
,
「擁 護 者 あ るい は支 持 者 (upathamphok<upatthambhaka)」 の三 要 素 か らな る合 成 語 で あ る。 造 語 の 由来 は不 明 で あ るが,1805年 に編 纂 きれ た 『三 印法 典 』 の 中 に 現 われ て い る と ころか ら, す くな くと も19世 紀 初 頭 まで に は タ イ語 嚢 の 中 に定 着 して い た こ と が 確 認 され る。2)パ ー リ語 の(S瓦sana)は, 「教 え, 教 説, 書 信 」 の意 で あ るが, と りわ け(Buddhas豆sana)す *京 都大 学 東 南 ア ジア研 究七 . /タ-1) 「仏暦2475年 シャム王国憲法
」
,
「仏暦2489年 タイ王国憲法」
,
「仏暦2490年 タイ王国暫定療法」では いずれ も第4条,
「仏暦2492年 タイ王国憲法」では第7条,
「仏暦2495年改正仏暦2475年 タイ王国憲法」 では第5条 , 「仏暦2511年 タイ王国憲法」では第 6条, 「仏暦2517年 タイ王国憲法」では第9条 がそ れにあた る。 2) RotPhrasong8お よび 9。
東南アジア研究 15巻3号 なわ ち 「仏 教」 と同義 に用 い られ る ことが多 い。3)(S豆sana)は タイ語 に入 って (sat(S豆sn と書 く)) とい う形 と,語 末 の母音 を長音 化 したくS瓦tsan-a)とい う形 のふ たつ の音相 を とるに至 った. パ ー リ語 で の原義 は前者 の中 に保存 され てい る。後 者 は現在 では 「宗教 」 を意味 す る普 通名詞 として用 い られ るが, ス コータイ刻文 に現 われ た6個 の用例 を見 る と, い ずれ も 「仏教」 を指 してい るこ とが わか る
。
4
)
これ だけ の資料 か らタイ語 の (SatSana)が元 来 「仏教」 のみ を意 味 してい た と断定 す るこ とは避 け なけれ ばな らない が, タイ 国史 の中 におい て 仏 教 が 一 貫 して 占めて きた卓越的地位 を考 え るな らば (S豆tsana) が もっ と も多 くの場 合 (Phutthasatsana) (<Buddhas瓦sana)す なわ ち 「仏教 」 を指 してい た と考 え るこ とに大 きな誤 りはない で あろ う。 と りわ け (S瓦tsanQpathamphok)の一要素 をなす(S豆tsan匝])が,仏教 を意 味 した こ とはその用 例 に徹 して ほぼ疑 い を容 れ ない。 この語 は ラーマ Ⅰ世王 (1782- 1809) の治下 に出 され た10篇 の 「サ ンガ布告 」 (KotPhrasong) の各篇 に タイ国王 ラーマ Ⅰ世 の形 容詞 としてつ ぎの よ うな 文 脈 の中 で用 い られ てい る。 a=
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歴 史家 ク ー ニー ・ニ ワ ッ ト殿 下 は, 仏教 サ ンガに対 す るタイ国王 の立場 がい わ ゆ る信 仰 の (defender) ではな く (protector) であ った と述 べ, タイ には異教 か ら仏教 を守護 す るとい う 観 念 が乏 しか った ことを指摘 してい る。6) (upathamphok) の語源 と考 え られ るパ ー リ語 の
(upatthambhaka)は, サ ソス ク リッ ト語 の (upa-Sthambhaka)に由来 す る語 であ って, 「支 持 す ること,後 援 す る こと,鼓舞 す るこ と
」
7
) を意味 す る。上座部仏教 の正統 的解 釈 に従 えば,「戒律 は仏教 の寿命 で あ って, 戒 律 の存立 す る間 は聖教 も存 立 す る
。
」
(vinayo n瓦maBud-dhas豆sanassa 豆yu,vinayethites琵sanarp thitalp hoti.)8) ブ ッダ ゴーサが 『サ マ ンタパ ーサ3) RhysDavids&W .Stede,TheP.T.S.Pall-EnglishDictionary.1972.p.707r.,・R.C.Childers, A Diciio- ry ofthePallLanguage・1976(repr.)・p.4651・
4) 第 2碑文 (1298-1346/7)に 2回 (2-ト48,2-2-61),第13碑文 (1510)に 1回 (1310-1),第45碑
文 (1392)に 1回 (45-2-10),第49碑文 (1412)に 2回 (49-0-35)現われている
.(
c
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.
YoneolsfIII eial・,A GlossarialIndexofikeSuhholhaiZnscriPh llS・Kyoto:ShoukadohPublishing,1977)5) Kotm諾iTrziS房m Duang,Vol.4.Bangkok:Khurusapha,1962.pp.164-5,170,176.181,186, 189,196,206,220,223・布告によって綴字にわずかな異同があるはかは全 くの同文である。国王の定 型修飾句 と言 ってよいであろう。
6) H・H・PrinceDhaninivat,"MonarchicalProtectionoftheBuddhistChurchinSiam,Hp.6. 7) M.M onier-Williams,ASanshrii-EnglishDictionary.1951.p.210r.;RhysDavids&W.Stede,
oP.,cit.,1421.
8) N.A.Jayavikrama,TheInception ofDisciplineandikeVinayaNidCma.London:Luzac
&
C0.,1962・p・145・;長井真琴, rlJ南方所伝仏典の研究』 (東京 :中文館書店 ;昭11)所収 「巴利善見 律序文和
讃
」p.810石井 :タイ因における iイスラームの擁護〉についての覚 え書 -デ ィカー』 の序文 において示 した この戒律観 はタイ国におい て も踏襲 されてお り, た とえば 「サ ンガ布告第 2
」
(1783)では 「パ ーテ ィモ ッカ (戎) とはすなわ ち聖教 であ る。 ビクがパ ーテ ィモ ッカを正 しくお こな うとき, そ こに聖教 が存在す る」 と述べ られ てい る。9) 仏教 を支 持 し,後援 す るとい うことは異教 の攻 撃か ら仏教 を守 ることではな く,サ ンガの中にあ る出家 者 たちが戒律 を正 し く守 り, その結果 として仏教が栄 え るよ うこれ を 「支持 し,後援 し,鼓舞 す る」 ことにはかな らない のであ る。 ところで上座部仏教サ ンガの成員 は文字通 りの 「出家者」
であ って, い っさいの経済活動 か ら離れ, ひたす ら宗教的修練 に投入す ることを期待 され る存在 であ る。 か れ らは街 に汗 して こつじきしや
自 らの生活 の糧 を求 めず,在家者 の前 に立 って 「食物 を乞 う」 (bhikkbati)ところの 「乞食者」
(bhikkhu)としてあ る. したが って, もしサ ンガに対 し物 質的支持 を与 え る在家者 の存在が失 われ るな らば, ビクたちは持戒 をつづけ ることが不可能 とな り,サ ンガの秩序 は弛緩 してつい に仏教 は衰亡す るにいた る。上座部仏教 の戒律観が不変 であ るか ぎ り,サ ンガに とって これ以 外 の道 はない。 この よ うに考 えるな らば, 「仏教 の擁護者」で あ る国王 の任務 は,何 よ りもま ず第- に,サ ンガに対 し恒 常的な物質的支援 を与 え, 出家老 たちが生活 の糧 の獲得 に心 をわず らわす ことな く持戒修行 に専念 で きるよ うな安定 した環境 をつ くり出す ことでなければ な らな いであろ う。歴代 のタイ国王がサ ンガに対 してお こな った さまざまの寄進行為 は こうした思想 に導 かれた ものであ る。 い まか りに国王 の支持 に よってサ ンガの物質的基盤が確立 し,持戒 のための基礎条件 が とと の った とす る。 この よ うな場合 であ って もサ ンガの中に 「悪 しき ビク
」 (p瓦pabhikkhu)が出現 して破戒行為 をお こない, サ ンガの清浄性 を担 う可能性 は残 る。 こうした場合, す ぐれ て 自治 的団体 であ るサ ンガは ヴィナヤの定 め るところに したがい 自らの力でサ ンガの秩序 の回復 をは かろ うとす る。軽微 な破戒行為 の場合 には,一定 の反 省期間 と手続 を経 たのち破戒者 のサ ンガ -の復帰が承認 され るが,殺人 ・淫行 な どの重罪 (p豆rajika)を犯 した場合 には 「不共住 (者)」 (asarhv豆sa) として違反者 はサ ンガ外 に追放 され ることが戒律 の中に定 め られてい る010) しか し現実 にはサ ンガの 自治的処理能力を越 えた破戒行 為が各地,各時代 で発生 した。 こうした場 令, 国王 に よって代表 され る世俗権 力がサ ンガに介入 して破戒僧 を強制的 に還俗 させた上処罰 をお こな うことによってサ ンガの秩序 を回復 させ るとい う手段 の とられ た ことが歴史に見 えて い る. その古典的事例 をわれわれはアシ ョーカ王法勅 の中に見 ることがで きる。 コ-サ ンビー, わか サ ー ソチ -,サ ールナ- トの小石柱法勅 に 「比丘 あ るいは比丘尼 に して僧伽 を破つ もの は白衣 を着 せ しめて, 住処 (精舎) でない所 に,住 せ しめなければな らない。」 (塚 本啓祥訳) とあ る9) Kolm万iT招 Szim Duang,Vol.4.p.170.
1()) Yen.封atlamOliThera,ThePalimokhha.Bangkok:TheSocialAssociationPressofThailand,
東南アジア研究 15巻3号 のがそれであ る。11)白衣 を着 せ しめて住処 でない所 (an豆V豆sa)に住 まわせ るとは, ビクの印で あ る黄衣 を強制的 に剥奪 し, サ ンガの外 に破戒僧 を放逐す ることを意味す る.12)サルナ- ト法 勅 に よれば, アシ ョーカ王 は大官 (mah瓦matra)に対 し, この教勅 の実行状況 の確認 を命 じて い る。 タイの場 合 には前掲 の 「サ ソガ布告」の中にひ とつの具体例 を求 め ることができ る。 た とえ ば 「サ ンガ布告第 1
0
」 (1801)がそれで, ここには ラーマ Ⅰ世王が 128名 の破戒僧 を還俗 させ, 見 せ しめのため これ に入墨 を施 して官の重 い得 役 に服 せ しめた との記述があ る。13) もとよ り, タイにおい て もまたサ ンガが 自治 団体 であ る とい うたて まえは認 め られてい た。 「もし破戒 の ビクを見 るときは互い にい ましめ合い, 制裁 を下 し, 戒律 に したが って処分すべ き」
ことは 「サ ンガ布告第 8」 (1790)の中に も述べ られてい 814)。 そればか りか,
「布告第 7」
(1783)で はサ ンガの内紛調停 のため国王 に直訴す ることを禁 じて さえい るのであ る。15) しか しその一方 で,サ ンガの力に余 るほ ど多数 の破戒者が出現 した場合 には,サ ソガの要請 に応 じて俗権がサ ンガの 自治 に介入 す るのは古来 の慣行 (pen praphenim瓦)であ るとも述べてい る.16) そ して 古代イ ン ドにおいて国王が結集 を後援 してサ ンガ秩序 の回復 に貢献 した ことをその事例 として 挙 げてい る。 「第 10布告」 に示 された破戒僧大量追放 の措置 は まさに この 「サ ンガの力にあ ま る」破戒僧 出現 の場合 にあた るもの と考 え られ る。 以上述べ た ことか ら明 らかなよ うに, 「仏教 の擁護者」 としての国王の任務 にはふ たつの側 面 が見 られ る。 その第一 は ビクの団体 として経済的 に非 自立的な性格 を もつサ ンガに対 して物 質的支持 を与 え ることに よって持戒 の基礎条件 を ととのえ, もって清浄 な るサ ンガの維持, す なわち仏教 の繁栄 に寄与す ることであ る。第二 はサ ソガの内部 に破戒者が出現 し, これ を調御 す ることがサ ンガの 自治能 力を越 え るよ うな場合,サ ンガの要請 に応 じて これに介入 し,強権 を もって破戒僧 を還俗 させ,サ ンガの失われ た秩序 を回復 す ることであ る。「保護」 と 「統制」 とい う 「仏教 の擁護者」 た る国王 に期待 され た このふたつの役割 は, たがいにあい補いなが ら サ ンガの持続的発展, ひいては仏教 の発展 に貢献 してきた。 これがタイ人仏教徒 の間 に広 く受 容 されてい る 「仏教 の擁護者」観 であ るとい えよ う。2.
1892年,チ ュラ ロンコソ王 (1868- 1910)に よって国家統治機構 の近代化努力が開始 され る ll) 塚 本啓祥 『アシ ョーカ王碑文』 (第三文 明社 :昭51),pp・69-72;137-139.;E.Hultzsch,Inscriptionsof Asoha,new ediiion・〔Corpus InscriPtionum Zndicarum〕 Delhi:
IndologlCalBookHouse,1969.pp.159-164. 12) Hultszsch,oP.I;it.,p.160,n.5&7.
13) Kotm存iT招 S冴m Duang,Vol・4.pp.222-228. 14) Ibid.,p.207.
15) Zbid.,p.295. 16) Ibid.,p.207.
石井 :タイ国における (イスラームの擁護)についての覚 え書
以前 の タイ国 におい ては, 中央政府が有効 な直接支配 を及ぼ し得 た地域 は首都バ ンコクを中心 とす る畿 内 (wong r豆tchath豆ni)にか ぎ られ てお り, その範 囲 は北 に向か ってパ トゥムタ _ニ ー, ノンタプ リ,南 はプ ラ′げ ェソ とサ ム ッ トプ ラカー ン,距 離 にすれ ば半径30キ pメー トル に も満 たなか った。17)北方,東北方 お よび南方 に横 たわ るラーオ系, マ レ一系属 領 はい うにお よはず, 畿 内 とこれ ら属領 の中間 に位 置 す る諸 国 で さえ も, バ ンコクに臣従 を誓 う地 方豪族 た ちに よる割拠 的支配 にゆだね られ てい た。 こ うした状況 は当然 サ ンガ組織 の上 に も反 映 してい るo全 国各地 に散在 す る大 ・小 の寺院 におい ては, 人的結合 を媒 介 として都市 の有 力寺院 との 問 に一種 の 「本寺」- 「末寺」 に類 す る関係 を結 んでい る場 合 も見 られ たが,18' その関係 は あ くまで も不定 であ り流動的 であ った。 サ ンガは理論上法王 を首長 とす る組織 であ り,北方, 南方 お よび中央部 とい うサ ンガの三地 方区分 には, それ ぞれの長 として高僧が任命 され てい た が, かれ らは通常造任 であ って首都 に とどまるこ とが多か ったため, こ うしたサ ンガ組織 が現 実 に どの程度有効 な支配 を遠隔 の地方 に まで及 ぼ し得 たか ど うか につい ては疑 問が残 る。事実, 全 国各地 の寺院 の実態調査 は, 1899年 に至 るまでお こなわれず, それ までは正確 な寺 院数 も出 家老 の数 さえ も把擾 ざれ てはい なか ったのであ る。 しか も1899年 の調査 で さえ も,サ ンガ内部 か らの要請 に よ ってお こなわれ た ものではな く, サ ソガの潜在的能 力 を,新 たに導入 され た国 民教育 の普及 に動員 す るための計画立案 に必要 な基礎資料 を得 るのが 目的 であ った。lO) そ して サ ンガの組織化 も教育 の普及 とい う世俗 目的 を達成 す る手段 と してお こ な わ れ た の で あ る。 1902年, これ らの調査結果 に もとづい て 「サ ソガ統 治法
」
が制定 され た。 この法律 はそれ まで ば らば らであ った全 国の大 小寺院 とそ こに止住 す る出家者 たちを,単一 の集権的統 治機構 の下 に置 き,政府 に よる管理 を容易 に しよ うとす る もの であ った. この法律 は 「ラタナ コ- シソ暦 121年 サ ンガ統 治法」 (phraratchaban'yatLaksanaPokkhr6ngKhanaSongR6.S6.121)20)と呼 ばれ, 当初 辺境地 万 をのぞ く14州 に適用 され たが, 1908年 には東北 の ウ ドン
州
, 1924年 に は北部 のマ- - ラー ト州, パ ーヤ ップ州 と南部 のバ ッタ ニー州- と地 方行 政組織 の発展 と並行 してその適用範 囲 を全国 に拡大 して行 った。 その結 果, 法律制定 か ら22年後 の1924年 には, 全 国の寺院 と出家老 とが,統一組織 であ る 「タイ国サ ンガ」 (Khana Song Thai)の構成 員 とな ることが法的 に義務 づけ られ ることとな った。1932年6月24日, 人民党 に よ るクーデ タが発生 し,絶対 王制 に終止符が打 たれ ると,新政府 はただちに憲法 を制定 し, タイ国 に立憲君主制 を導 入 した。新 憲法 は1932年 12月10日に制定公
17) TejBunnag,The ProvincialAdministration of Siam.Kuala Lumpur:Oxford University Press,1977.pp.18-19.
18) CraigJ・Reynolds,`一The BuddhistMonkhood in Nineteenth Century Thailand,〟 (Ph.D. Dissertation:CornellUniversity,1972)pp,221-′233・
19) DavidK・Wyatt,ThePoliticsofReform in Thailand.New Haven:YaleUniversity Press, 1969.p.243.
東南アジア研究 15巻3号 布 され てい る。 こうした時代 の流 れ はサ ンガの中 に も新 しい動 きを生 み, やがて若 手僧侶 を中 心 としてサ ソガ管理制度民主化 の要 求が現 われ始 めた。 こ うした新 しい動 きに対 しサ ンガの態 度 は守 旧的姿勢 に終始 し,政府 もまた迅速 な対応 をお こなわ なか ったが,1941年10月 に至 り, よ うや く時 の ピブ ソ政 府 は 「戒律 を犯 さぬ範 囲 において, サ ンガの統 治組織 を, 国家統治 の方 式 に近 づ け」 ることを 目的 として, 「仏暦2484年サ ンガ法 」 を制定 し旧法 を廃止 したのであ っ
たO その結果, 国家 (r瓦tchaan豆chak<r可a和 瓦cakka) におけ る 「国王
」
「内閣」, 「議会」, 「裁 判所」
に対応 す るサ ンガ (Phutthachak<Buddhacakka) の組織 として 「法 王」, 「法 臣 会議」, 「サ ンガ議会」, 「サ ンガ裁判所」が も うけ られ た。21) この法 律 はその後22年 間 にわ た って タイ仏教 の性格 を規定 し続 けて きたが,1962年 に至 り, 国家行政機構 の高度 な集権化 に よ って行政能 率 を高め る とい うサ リッ ト内閣 の方針 に したが って廃 止 され,代わ って極度 に単純 化 され た 「仏暦2502年 サ ンガ法」 が制定 され た。新 サ ンガ法 は旧法 に見 られ た民主主義 的諸装 置 の一切 を廃止 し,サ ンガ統治 に関 す るすべ ての権限 を法 王 の一 身 に集 中 させ, しか もそれ ま で終身職 で あ った法王職 を勅命 に よって解任 で き る規定 を新 たに もうけた。 この措置 に よって 世俗権 力 に対 す るサ ンガの従属 はほぼ決定的 とな って しま った。3.
1932年12月の憲法制定 は,一方 におい てタイ国王 を(akkhas瓦tsantipatthamphok)と規定 す ることに よ って, 国王 と仏教 をめ ぐる伝統 的観念 に明示的表現 を与 えたが, それ と同時 に,節 たに 「信仰 の完全 な 自由」 (seriph瓦pboribtln naik豆nthiisatsan豆) とい う近代西欧的観念 を
タイ国 に導 入 した。 その結果, これ まで一義的 には 「仏教」を意味 して きた ところの(S瓦tsana) と,「信仰 の 自由」 におけ る(religion)の訳語 としての (SatSan豆)とい うふ たつの (Satsan豆)概 念 の対立が発生す ることにな り, これ を調整 し統一 す る必要 が生 じた。 この間 の消息 を もっと
も明確 な形 で伝 えてい る史料 に, ワン ワイ タヤ コー ン殿下 の著 わ した小冊子 『憲法 草案解説』 (Athit癌iR瓦ngRatthathammantln) が あ る。22)1932年11月19日の 日付 を もつその序文 に よる
と, この小冊子 は当時 人民代表議会 において審議 が進行 しつつあ った 「仏暦2475年 シ ャム国王 憲法草案」 について,法 律学者 で あ るワン ワイ タヤ コーン殿下 が学 問的見地 か ら意見 を述べ た ものであ るとい う。 その内容 は憲法制定小委員会 の起草 した草案 に したが って各条文 を掲 げ, これ に対 し逐条殿下 の意見 を付 す形式 を とってい る。 その第4条 の解説 にはつ ぎの よ うに述べ られ てい る.23)
「第4粂 〔本文〕国王は仏教徒でなければならない。国王は く<TLkkhasatsanGpathamphok
)
である。21) 上掲拙著 pp.198-202参照。
22) Mom ChaoWanwaithayakonWorawan,Athib7iiRangRZitihathammanu-n,1932.148p.
23) Zbid・,pp・28-29・ 352
石井 .・タイ国におけるiイスラームの擁護夢についての覚え酋 趣旨 :結構である。憲法制定小委員会委員長が 『シャム人の信奉するすべての宗教 (傍線原 文のまま)に対 し擁護を与え給 うものである』 とい う説明を付記 しているのはきわめて適切で ある。 タイ語の表現 :結構である。 英訳文の表現 :[くS豆tsana〉の訳語 として】HTheFaith"をあてているが, これでは意味が 狭すぎるO こうすると[satsanaが】仏教のみを意味して他の宗教を含 まないことになってし まうからであるO (中略)それゆえ 〔英訳文は〕Profess(sic)theBuddhistFaithandis theupholderofReligion・ (イタリックは原文のまま) と改めるべきであろう. この一文 はタイ語 テキス トについてい るか ぎ り無 自覚 の まま見逃 され てい た くsatsan豆)の両 義性 を指摘 し, これ を二種 の英語 で表現 し分 け ることに よ って,憲法 の導 入 に付随 して (sat -santipathamphok)の上 にお こった意義変化 に注意 を喚起 した もの として きわ めて重要 な意 味 を もつ ものであ ると考 え られ よ う。 もっともタイが 「信仰 の 自由」 の問題 に直面 したのは この憲法 の制定 が最初 ではなか った。 古 くは16世紀 の初 め, アユ タヤに来航 したマ ラ ッカのポル トガル人 に対 しキ リス ト教 の布教 を 許 した り, 17世紀末 のナ ライ王時代 に首都 にキ リス ト教 のセ ミナ ーが建設 され た ことは よ く知 られ てい る。 また19世紀 中葉 以降西欧列強 が タイ との問 に締結 した 「友好 通商条約」 の中で も
「自由な る信仰 お よび礼拝実践」 (thefreeexerciseoftheirreligiousbeliefand worship) が 明示的 に保証 され てい た 。24) しか しタイ語 テキス トについ て これ ら粂約 ・条文 を検討 す ると, いずれ も
「
引
旬満
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釘軌1
脚l
m (それ ぞれ の宗教 の教 えに従 って実践 す る こ とを容 認す る)」 とあ り, あ くまで も外 国人 に対 す る宗教 的信仰 の消極的許容 とい う色彩 が濃厚 であ る。一 方 におい てはタイ国 にお け る仏教 の圧倒的卓越 とい う事 実 に支 え られ たタイの仏教信仰 の不動性 につい ての確信が あ り,他方 キ リス ト教 はたかだが外 国人 とこれ につ らな る少数者 の 宗教 にす ぎず,既存 の秩序 に対 す る脅威 とな る可能性 が少 ない とい う見通 しに立 った上 での判 断 が こ うした宗教的寛容 とな って現 われ た もの と思 われ る。 あ くまで も黙許 す るのであ って, これ に積極的支持 を与 え るのではない点 を強調 してお きたい。 これ に対 し(S瓦tsanapathamphok)のほ うは積極 的 に 「支持 し,後 援 し, 鼓舞 す る」 のであ って, その存在 を 「許 す」
とい った消極 的 な もので はない。仏 教 の存続 に貢献 す ることは国王 の支配 の正統性 に もかかわ る ものであ り, 国王 自身 の利害 に も直結 してい る。
2
5
)
したが って憲 法 の制定 に よって (S瓦tsantipathamphok)の上 に意 義変化が生 じた ことは, 単 に支持対 象 を量 的 に拡大 す る以上 の質的変化 の発生 を意 味 す る もの であ った。 24) 相手国によって多少表現に違いがあるが =-・sballbeallowedthefreeexerciseoftheirreligious beliefandworship-日 という文言が多い。 25) 仏教の繁栄 と国王支配の正統性の関係については前掲拙著pp・58-82参照0東南アジア研究 15巻3早
4.
統 計 に よ ると1970年 におけ るタイ国の宗教別 人 口 表 1 は表 1の とお りであ った。 この表 の 「仏教徒」 の中 仏 教 徒 には, それ までの人 口セ ンサ スで 「儒教徒」 と分額 イスラム教徒 キ リス ト教徒 されてい た華僑 お よび中国系 タイ人 の約1
・
7
%が含 そ の 他 32,771,544^ 1,325,587人 195,300人 104,943人 まれ てい るので数値 が やや高 くな ってい るが, この (1970年人口センサスによる) 点 を考慮 に入れ た として も仏教徒 の圧倒的 な優位 は歴然 た る ものが あ る。 しば しば言及 され る 「タイ人 は仏教徒 であ る」 とい う通念 は こ うした統計的事実 に よって支 え られ てい る。仏教 以 外 の宗教 は,王室儀礼 の中核 を成 すバ ラモ ン教 を除 けば, いずれ もタイ人 に とっては異質 な宗 教 と感 じられ てい る。あ るカ トリックの調査報告書 は, タイ人 のキ リス ト教観 についてつ ぎの よ うに述べ てい る。26) 「キ リス ト教 は当初 か ら外来 の宗教 であ った。 それ は外 国人 に よって タイ- もた らされ ただ けでな く, この宗教 の継承者 たち もまた 〔タイ人 に非 ざる〕 ア ジア系外 国人 であ った。 これ は 今 日のキ リス ト教 が なお も人 々に与 え続 けてい る一般的 印象 であ る」 輝似 の状況 はタイ国 内のイス ラー ム教 徒 につい て も認 め られ る。 タイ政府 のあ る少数民族 問 題専 門家 は,南 タイの ムス リムが タイ国籍 を持 ちなが らその大部分 は 自分 たちが純粋 のタイ人 であ るとい う意識 を持 っていない と述 べ てい る。27) この よ うにタイ国内に存在 す る非仏教系宗 教集 団 は, いずれ もその 「非 タイ性 」 におい て共通 してい るが, キ リス ト教徒 とムス リムの間 にはふ たつ の重要 な点 で相違 が見 られ る。第一 は集 団 としての凝集性 の大 きさの違 いであ る。 タイのキ リス ト教徒 は まず カ トリック とプ ロテス タ ソ トに分 かれ, プ ロテス タ ン トは さ らに諸 派 に分裂 してい る。 また信徒 の居住地域 も全国 にわた ってお り,信者 の民族別構成 を見 て も, タイ人,華僑, ラーオ人, ヴェ トナ ム人, カ レン族 山地民 等 きわ めて多様 であ る. したが って ク リスチ ャンは集 団 としての凝集性 が小 さ く, その存在 はタイ国 の社会統合 に とって脅威 とな ってはい ない。 これ に対 してイス ラーム教徒 はその大部 分が マ ライ系 であ って, イス ラーム- の同質化 はす なわ ちマ ライ文化- の同質化 を意味 し,相対的 に均 質 な集団 を成 す。 しか も表2に見 られ るよ うにその 居住地域 が南 タイ に偏在 してい るため,集 団 として の強 固 な凝集 力 を示 す。 と りわ け 「南部 タイ4県」
と呼 ばれ て法 的 に も特別 の取 り扱 い を うけてい る国 表2 イスラーム教徒の地域別分布 (1970年センサスによる) 中 部 タ イ 北 部 タ イ 東 北 部 タ イ 南 部 タ イ 259,356人 9,623^ 2,223人 1,054,745人26) Thailandin transition:TheChuychin aBuddhistcounlyy・Brussels:PRO MUNDA VITA,
1973.p.17r.
27) KhachatphaiBurutphat,ThaiMuslim・(in Thai),Bangkok:PraePitya.1976.p.428. 354
石井 :タイ国における(イスラームの擁護〉についての覚え番 境4県 (バ ッタ ニー, ヤ ラー, ナ ラテ ィワ- ト, サ トゥソ)で は, イス ラーム教徒 が人 口の過 半数 を制 してい るため, かれ らをタイ文化 に同化 させ るためには まだ数多 くの障害が横 たわ っ てい る。第二 の相違 点 は宗教上 の母 国 に対 す る近接度 の違 いで あ る。 タイ に隣接 す る国 でキ リ ス ト教 の優勢 な国 はないO しか しイス ラーム教 の場 合 には,南 タイ4県が地続 きでイス ラーム 国家 マ レーシア に接続 してい るとい う事実 が あ る. と りわけ国境付近 におい てはマ ライ文化圏 との交流 が 日常 的 にお こなわれ てい るため, それがイス ラーム教徒 のマ レーシアへの同質化傾 向 を強 め,異質 なタイ文化 - の心理的距離 の縮 少 の さまたげ とな ってい る。
5
.
タイ ・ムス リム, と りわ け南 タイ4県 のイス ラーム教徒 の政 治的統合 をめ ぐる諸問題 につい てはすでに Ⅴ・Thompson&
R・Adolff (1955),ThomasFraser (1960),As triSuhrke 1970 /71),Ladd Thomas(1974,1975),Arong Sutthasat(1976),KhachatpaiBurutphat(1976), Nantawan Haemindra (1976)らの論 考が あ るが,28)これ らはいずれ も社会 問題 ない し政 治問 題 としての角度 か ら南 タイ の ムス リムを論 じた もの であ って, タイ におけ る国家 と宗教 とい う 視点 か らタイ国 のイス ラー ム教徒 を全体的 に論 じた研究 は まだ現 われ てい ない よ うであ る。本 稿 は将来 の研究 に備 えての覚 え書 き として,論 ずべ き若干 の問題 の所在 を示 す に とどま る。 5.1.前掲 の表2か ら も明 らかな よ うに, タイ国 におけ るイス ラーム教徒 の分布域 は,南 部 タイ にその約80%が集 中 してい る。 この ことはアユ タヤ朝 (1350- 1767)以来, タイ人が そ の支配域 を しだい に南方 に拡大 し, マ ライ半 島 の一部 をその版 図 に含 めた とい う歴史的事実 に 照応 す る ものであ る029) しか しなが ら中部 タイのバ ンコクを中心 に して約30万人 のイス ラーム 教徒 が居住 してい るとい う事実 は これ までほ とん ど問題 に され ていなか った。 これ らの中部 タ イ ・ムス リムの大半 は, 南 タイか ら移住 したマ ライ人 の子孫 で あ るが, その中核 を成 すのは, 1785年 に ラーマⅠ世王 (1782- 1809)のお こな ったバ ッタニー遠征 と, 1832年 に ラーマ3世王 (1824- 1851)の お こな った 南 タイ7州 の反 乱鎮圧 とい う2回 の戦役終 了後 , バ ンコク周辺 に 28) VirginiaThompsonandRichard Adolfr,MinoyiiiesProblemsin SoutheastAsia.Stanford..StanfordUniversity Press,1955.pp.158-165.;ThomasFraser,Ruscmbilan :A Malay Fishing
VillageinSouihcrn Thailand.Ithaca:CornellUniversity Press,1960;AstriSuhrke,=The ThaiMuslim :Some Aspects ofMinority Integration:IPacijcAHairs.γol.XLIII,No.4, 1970-71.pp.535-54l.;LaddThomas,…BureaucraticAttitudesandBehaviorasObstaclesto Political IntegrationofThaiMuslims:'SouiheasiAsia,An ZniernaiionalQuarterly,Vol.ⅠⅠⅠ, No.i,1974.pp.545-566・;-do-,PoliticalViolenceintheMuslim ProvincesofSouihcrnThailand. (ISEASOccasionalPaperNo.28) Singapore:Institute of Southeast Asian Studies,1975・; ArongSutthasat,PanhGKhw冴mhhaiyaengnaiS盲 ChangwaiPh冴h Tai・(in Thai) Bangkok: Phithak Pracha,1976・;KhachatphaiBurutphat,ThaiMuslim・Bangkok:PraePitaya,1976・; Nantawan Haemindra,''TheProblem oftheThai-MuslimsintheFourSouthern Provinces ofThailand (PartOne),JouynalofSoutheastAsianStudies(Singapore),Vol・ⅤⅠⅠ,No.3,1976・ pp.197-225.
29) 南タイのマ レイ人居住地域のタイ-の編入過程についてはNantawanHaemindra(1976)がよ く まとまっている。
東南アジア研究 lS巻3号 強 制 移 住 させ られ た捕 虜 奴 隷 の子 孫 た ち で あ る 。30) 中部 タ イ ・ム ス リム の地 域 分 布 を さ らに詳 し く見 るた め の ひ とつ の指 標 と して作 成 した の が 表 3で あ る。31) これ に よれ ば, 中 部 タイ に存 在 す る 350の モ ス クの94ウ射 こあ た る 328の モ ス クが バ ン コ ク とそ の隣 接 諸 県 に分 布 してい るO この うち 135の モ ス クが 集 中 す るバ ン コ ク首 都 圏 の み に つ い て 区 (amphoe)別 の モ ス ク数 を示 した の が 表4で あ る。 これ に よ る と, モ ス クは首 都 圏 の東 部 諸 区 に そ の7割 以 上 が 分 布 して い 表 3 中部 タイ各県別 モス ク数 (1976年 12月現在) 県 名 1モス ク数 l 県 名 Krugthep Phramahanakhon Phranakhon SiAyutthaya Chachoengsao
Pathumthani Nakhon Nayok Nonthaburi Chonburi Phetburi Samutprakan Prachuapkhirikhan Rayong Saraburi Angthong Nakhon Fathom SamutSongkhram 計 ---3 5 0 表 4 バ ンコク首都圏におけ る区別 モス ク数 (1976年 12月現在) モス ク数 8 7 4 3 1 1 1 区 名 巨 ス ク数 1 区 名 Nong Chok Phrakhanong Minburi BangKapi YallnaWa Phayathai Ratburana Bangkok Noi BangRak 31 23 17 16 8 6 6 4 4 L礼tXrabang Bangkok Yai Thonburi Khlong Sam Dusit Phranakhon
Pom Prap Sattru Phai Pathumwan 計--・--・--131 敬 ク ス モ 3 3 3 3 1
30) Thiphakorawong,phrayZuchaPhongs房wada′n KyungRalanaho-sinchabaP H∂samuthaengChzit Ralcha紘 n lh盲1,thi2.Bangkok:Khlangwitthaya,1962.pp.125-126.;-do-,Phray5tcha
Pho-ngs諾wadan KrungRaianahasin chabap H∂samuihaeng ChZu,Raicha紹n ih有3,ih吉4.Bangkok: Khlang W itthaya, 1963・p. 121. これ らの捕虜奴隷 の入植地 については Direk Kunsiriwawas, Khw百msami'ha,akh紬gMuisalim Thzlng Prawatis房tlac Wannahhadi Thai .Bangkok:Sama-khom Phasal礼eNangsu haengPrathetThai1974.p.77参照。
31) 資料提供 に御協力いただいたチ ュラー ラ-チ ャモソ トリー事務局長の KhunyingSa・manBhumi n-arongに心 よ り御礼 申上 げたい。
石井 :タイ国におけるiイスラームの擁護〉についての覚え書 図1 バ ンコク首都圏のモスク分布 るこ とが わか る。 (図 1) さ らに これ らの諸 区 の うち, モ ス ク数 の多 い もの か ら上位 8位 を と ってモス クあた りの人 口を調 べ た ものが表 Sであ る。 これ を南 タイ4県 にお け る同 じ数値 (秦
6)
と比 較 して み る と,NongChok区 におけ るム ス リムの集 中度 はヤ ラー, サ トゥソの水準 に近 く,Minburiのそれ で も約半 分 とい う事実 が浮 か び上 が って くる。 これ らの数値 はバ ン コ ク東 部 にお け るムス リムの集 中度 が一 般 に想像 され てい るよ りもは るか に高 い とい う事 実 を教 えて くれ る。 この よ うに中部 タイ に居住 す るタイ ・ムス リムは,Nong Chok区 の事例 の よ うなか な り凝 集度 の高い ムス リム ・コ ミュニテ ィを形 成 してい る場 合 が あ る一 方, た とえばバ ン コク市 内 の 表5 バンコク首都圏における1モスク当た りの人 口 人 口 (b) ∫ (a)/ (b) 区 名 巨 スク数(a) 表6 南タイ4県における1モスク当た りの人 口 (1970年センサスによる)東南アジア研究 15巻3早 各区 におけ るよ うに複合的 な人 口構 成 を もつ都市的環境 に置 かれてい る場合 までその環境 に大 きな差がみ とめ られ る. したが ってその実態 を把握 す るため には今後 か な りきめの細 かい デー タに もとづ く比較研究 をすす めてゆ く必要 が あ る。 とくに都市部 におい ては周 囲の環境 に対 す る適応が 日常的 に必要 とな ってい るため,相手 に よって挨拶 の仕方 をマ ライ式 に した りタイ式 に した りす るな ど,状況 に応 じた行動様式 の変 化が観察 され る。 一般 にバ ンコク在住 の タイ ・ ムス リムの問 では, タイ式 の姓(namsakun)の使用, サ ロンの非着用, タイ式 の合掌 に よる挨 拶 ,仏教 の習慣 に もとづ く寄進行 為(than bun)な どが タイ文 化-の同化 の指標 と考 え られ て い るよ うで あ る。現実 にはタイ式 のサ ンス ク リッ ト風 の姓名 と, マ ライ式 のア ラビア風 の姓名 のふ たつの名 を状況 に よって使 い分 けた り,家 庭 内ではサ ロンを着 用す るが外 出時 には洋服 に 着換 え る等,行為規範 の二重性 を示 す事例 も多 い。 5. 2.タイ政府 はイス ラーム教 に関 しては永 ら くその 自治 に まかせ て きたが,1945年 に至 り 「仏暦2488年 イス ラームの擁護 に関す る勅令」 (Phrar豆tchakrusadik豆W豆duaiK豆nsats an-tipatham 紘iSatsan瓦Itsalam)を制定 し,33) ァユ タヤ朝 以来伝統的 にイス ラーム教徒 に与 え
られ てい た欽賜名 であ るチ ュラー ラ-チ ャモ ソ トリー (Chular瓦tchamontri)を新 たに官職名 として復活 させ, これ の保持者 に 「タイ国王 を代表 してイス ラ-ムに対 す るタイ国王 の擁護 を
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叛 与 えた (第3条) この勅令 は [S豆tsan]叫)atham lphok]とい う語 を仏教 以外 の宗教 に公的 に適用 した最初 の事例 として注 目され る。34)最初 の (チ ュラー ラーチ ャキ ン ト1)-)職 には,前 State CouncillorforMuslim A鮎 irsで あ り,TheIslamicUnionofThailandの総裁 であ ったプ1)デ ィ派 の政 治家 Chaem Promyong氏が任命 され た035)チ ェ-ム氏 は1947年 までチ ュラー ラ
ーチ ャモ ソ トリ-職 にあ ったが, 同年11月いわ ゆ る 「変改 団」 の クーデタが発生後, プ リデ ィ と共 にバ ンコクを離 れ シンガポ ール に亡命 したためその職 を失 った。 かれ はそ こで - ジ ・サ ム スデ ィソ (HajiSamsuddin) とい うムス リム名 を名乗 ってい る。36) この事件 の翌年 にあた る
1948年12月,上述 した 「勅令」 の第3条 が改正 され, チ ュラー ラーチ ャモ ソ トリー職 は 「タイ 国王 の代表」 の地位 か ら一挙 に 「文部省事務 当局 の諮 問 に応 じる」- 顧 問職 - と引 き下 げ られ て しまった。37) これ はタイ政府が ムス リムに対 す る従来 の 「間接統 治」 か ら 「直接統 治」へ の 変更 にふみ き った ことを意 味す る措置 と解釈 す ることが で きよ う。1949年10月,「2488年勅令」 32)所在不明の4モスクを除 く。資料提供者は注31に同じ。 33) 同勅令の邦訳は前掲拙著pp・427-429参照。 34) この勅令が制定 された背景についてはほとん ど研究がな く, その解明は今後に残 され た課題 であ る。
35) NantawanHaemindra,op・,cii・,p・2101;NarongSiripachana,Pramuan Kolm冴ilaeRabiaク ー
r5tcha紘n hiaw dualKammahanItsallim laeMaisayit・Bangkok,1975・p・3,n・
36) Nantawan,op.cit.,p.210.
37) 「仏暦2491年イスラームの擁護に関する勅令 (第 2
)
」第三条.前掲拙著 p・429-430参照。 358石井 :タイ国におけるiイスラームの擁護〉についての覚え番 の第8射8)の規定 に もとづい て制定 され た 「タイ国イス ラーム中央委員会規則」"'は, 1902年 に制定 され た 「サ ンガ統治法」 に も比較 で き る重要 な 「規則」 であ って,今後 さ らに検討 を加 え る必要 が あ る。 この 「規 則」 は全部 で33項 よ り成 り, 「澗 文」 と 「モス ク委員会」
,
「委員 の 任 免」,
「モス ク委員 の心得」,
「モス ク会員 の登録」,
「宗教資産」,「経過規定」 の6節 に分 かれ てい る0 第 1節 の 「モス ク委員会」 ではモス クの管理幹部 であ るモス ク委員 の資格,委 員会 の 任 務,宗務専門職 としての三役 すなわ ち 「イマ ム」 (imam)「コーチ ップ」 (k6tep<katib)「ピ ラン」 (bilan<bilal)の任務 な どを定 めてい る0 第2節 の各項 は委員 の任 免 に関 す る手続規程, 第3節 は委員 に対 す る精神規程 であ るが, 第4節 では 「モス ク会員」
(sappaburut pracham matsayit)とい う概念 を導入 し,イ ス ラーム教徒 の一 人 ひ と りが定期 的 に出席 す るモス クを定 めて, そ こに 「会 員」 として登録 す ることを義務 づ けた。 この措置 はモス クを通 じてタイ国全 土 の ムス リムの動勢 を把握 しこれ を統 制下 にお こ うとす る政府 の意 図 の現 われ として注 目され るところであ る。 この規定 は1902年 サ ソガ法 が その第15条 におい て, 「すべ ての ビクお よびサ ーマ ネー ラは, がな らず, いずれかの寺院 の名簿 に登録 ざれ なければな らない」 と定 め たの と 軌 を一 にす る発想 とい え よ う。 この 「規則」 の制定 者 の描 いたイス ラ-ムの管理組織 の理想 図 は図 2の とお りであ る.`0) チ ュラー ラーチ ャモ ソ トリーは,建 前上 はサ ンガにおけ る (法王) (sangkharat)と比較 され る地位 にあ るが, 1948以来 その実質的権限が失われ, 文部 省 の諮 問 役 とされ て しま った ことは上 にのべ た とお りであ る。 「タイ国 イス ラーム中央委員会」 は10名 の委員 よ り成 るイス ラームの最 高機 関 で, チ ュラー ラーチ ャモ ソ トリーを職 権上 の議長 とす るOこれ はサ ンガの 「大長老会」 (Mah豆therasam瓦khom)に相 当す るO これがいわば中央行政組織
図 2 イスラームの管理組織図 (1975) 38) 第 8
粂「
(
前略)スラウ内における宗教上の役職の任免,および,宗教的車重の処理方法は,
「タイ 国イスラーム中央委員会」が内務省の同意を得てこれを定める。
」(前掲拙著,p.428)。 39) そのテキス トは前掲の Narong(1975),ppl57-69. 40) Krom Kansatsana,Ra-ing房n Kroyn KZinsZusan冴 2518113angkok:Krom Kansatsana,1975.p. 219.東南アジア研究 15巻3早 で, この下 に各県お よび各モス クに置 かれ る 「イス ラーム委員会」 によって運営 され る地方行 政組織が位置す る。 そ してムス リムの一人 ひ と りはその居住地 に近いいずれかのモス クに登録 され, こ うしてチ ュラーラーチ ャキ ン トl)-を頂点 に全国 130万人のムス リムを底辺 とす るタ イ国イス ラームの ヒエ ラル ヒーが成立 す る。 しか しなが らこ うした理想図は現実 には出来上が ってい ない よ うであ る。 その理 由 として次 のふたつの問題が考 え られ る。第一 は仏教 とイス ラーム教 の宗教組織上 の基本的違 いであ る。 仏教サ ソガの成員であ る出家老 は,一定 の手続 きを経 てサ ンガ とい う団体 に加入 し, その団体 の構成員 としての権利 と義務 を分 け もつ ところの存在 であ るO これ に対 しイス ラームには出家 老 は存在 しない。 イマ ム, コーチプ, ビラソの よ うな宗教 「専門職」 とい え ども出家老 ではな い。 さ らに一般 の ムス リムたちはま った くの一般社会人 であって, これ をサ ソガにおけ る僧 の 場合 の ように, ひ とつ のモス クに固定 す ることははなはだ困難 であ る。 それは仏教 におけ る在 家 の信者 を単一 の寺院 に固定 しよ うとす るに等 しい作業 であ るO しか もムス リムの間 にはい く つ ものモス クの礼拝 に出席 して多 くの同信 の友 と交 りを深 めたい とい う要求が強 く存在 してい るとい う。 この点 の問題 を指摘 した資料 に, 内務省事務次官事務代理が1965年 7月9日付 で各 県知事 に対 し送付 した-通達が あ る。4
1
ノ これ は内務省が各県知事 に対 し,各 自の県 に住 むムス リムのモス ク-の登録 を促進 させ るよ う督励 した通達 であ るが, その 内容 を見 る と, 1965年 の段階 において さえ もモス ク会員 の名簿が まった く作成 されていない地方 のあ ることが知 られ る。 また1966年 2月21日か ら5日間バ ソコクで開催 され た 「タイ国イス ラーム中央委員会」 の 会議議事録 では, この規定が現状 を無視 した ものであ って実行不可能 であ るとす る報告が あ る 委員 たちに よってお こなわれてい る。 その事例 としてチ ャチ ュソサ オ県 のあ るモス クではイマ ムがバ ンコクに住み, 出席者 の範 囲は遠 くパ トゥムクーニー, ナ コソナ- ヨック, バ ソコクに まで及んでい るとい う例, また別 のモス クでは礼拝 の出席者がセエ ソセ ェ-プ運河 の両岸 に居 住 していて, その一方 の出席 を こはむ ことは事実上 できない例 な どをあげ, モス ク会員登録 の 困難 さを訴 えてい る。一2) 第二 の問題 は南 タイのムス リムを中部 タイのムス リムの間 に存在 してい る違和感 であ る。一 般 に中部 タイの ムス リムを南 タイの ムス リム と比較す ると,前者 はタイ人 との接触度が後者 よ りは るかに大 きい ためタイ文化- の同化が進 み,南 タイの ムス リムか らこれ を見 た場合, ムス リム としての 「純粋性」が失われ てい ると映 じる。 た とえばタイ式 の姓 を用いてい るとい う事 実 だけで も, 「かれ らはマ ライ人 ではない」 したが って 「ムス リムではない」 として これに対 し不信感 をか くさない とい う。43) 現在 のイス ラーム管理組織 はバ ソコクにその中心がおかれて 41) Narong (1975),pp・80-81・ 42) Zbid.,pp.82-86. 43) バンコク在住の二人のムス リム知識人からの聴き取 りによる。石井 :タイ国における iイスラームの擁護〉についての覚 え書 い るが,南 タイ ・ムス リムの対バ ンコク ・ムス リム不信感が存在 してい る以上,バ ン コク中心 の組織 を媒介 として,多数派 であ る南 タイ ・ムス リムに までその管理 を及 ぼそ うとす ること負 体,基本的 な問題 をは らんでい ると言 うことがで きよ うO (S豆tsantlpathamphok) とい う概念 がその外延 を拡大 して仏教以外 の宗教 に 「国王 の擁護