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[A Note on the ‘Protection’ of Islam in Thailand ]

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東南アジア研究 IS巻3号 1977年12月

タイ国 にお け る 《イス ラームの擁 護》につ い ての覚 え書

雄*

A

Noteon the lProtutionIofISl&m irLThailand Yoneo lsHII

ThekingofThailandistraditionally consideredto betheahhhas房ねanu砂 at

-hamPhoh,theprotectororupholder,ofs冴isan万.andsZusan冴(religion)inThailand isvirtuallytantamounttoBuddhism.Thisroyal epithet.however,underwenta semanticchangewhen thepoliticalupheavalof 1932 introduced western-Style constitutionalism andthemodernconceptofreligiouslibertyintothistraditional SoutheastAsiankingdom.Royalprotectionwasthenextendedtoallreligionsin the land,including the Islam of Thai-Malay subjects which had long been regardedwithindifferenceby theSiamesegovernment.The丘rstlegalexpression ofthenew religiouspolicywasHTheRoyalDecreeontheprotectionoflslamH

(1945).Royalprotectionoflslam isbeingbroughtaboutthroughareorganization ofthereligioninto a,centralized hierarchy with theChu招Y5ichamontrias its head.Theprocess ofreorganization seems,however,to be slower and more complicatedthanthatoftheBuddhistsangha,forhistorical,culturalandstruc -turalreasons.

1

.

1932年 か ら1977年 まで の45年 間 に タイ 国 は8回 にわ た る憲 法 の大 幅 な改 廃 をお こな った。 こ れ ら8種 燐 の憲 法 の うち1976年10月 に制 定 され た 「仏麿 2519年 タイ 国 憲 法 」 を除 く7種 類 の憲 法 に は, い ず れ も 「タイ 国 王 は仏 教 徒 で あ り, 宗 教 の至 高 の擁 護 者 で あ る」 とい う規 定 が設 け られ てい る.1) こ こで言 う と ころの 「宗 教 の至 高 の擁 護 者 」 に 当 た るタイ語 は (akkhas豆tsanか

pathamphok)で あ るが, これ はパ ー リ語 か らの造 語 で 「至 高 の (akkha<agga),「宗 教 〔の〕 (satsan豆<S豆sana)

,

「擁 護 者 あ るい は支 持 者 (upathamphok<upatthambhaka)」 の三 要 素 か らな る合 成 語 で あ る。 造 語 の 由来 は不 明 で あ るが,1805年 に編 纂 きれ た 『三 印法 典 』 の 中 に 現 われ て い る と ころか ら, す くな くと も19世 紀 初 頭 まで に は タ イ語 嚢 の 中 に定 着 して い た こ と が 確 認 され る。2)

パ ー リ語 の(S瓦sana)は, 「教 え, 教 説, 書 信 」 の意 で あ るが, と りわ け(Buddhas豆sana)す *京 都大 学 東 南 ア ジア研 究七 . /タ-1) 「仏暦2475年 シャム王国憲法

,

「仏暦2489年 タイ王国憲法

,

「仏暦2490年 タイ王国暫定療法」では いずれ も第4条

,

「仏暦2492年 タイ王国憲法」では第7条

,

「仏暦2495年改正仏暦2475年 タイ王国憲法」 では第5条 , 「仏暦2511年 タイ王国憲法」では第 6条, 「仏暦2517年 タイ王国憲法」では第9条 がそ れにあた る。 2) RotPhrasong8お よび 9

(2)

東南アジア研究 15巻3号 なわ ち 「仏 教」 と同義 に用 い られ る ことが多 い。3)(S豆sana)は タイ語 に入 って (sat(S豆sn と書 く)) とい う形 と,語 末 の母音 を長音 化 したくS瓦tsan-a)とい う形 のふ たつ の音相 を とるに至 った. パ ー リ語 で の原義 は前者 の中 に保存 され てい る。後 者 は現在 では 「宗教 」 を意味 す る普 通名詞 として用 い られ るが, ス コータイ刻文 に現 われ た6個 の用例 を見 る と, い ずれ も 「仏教」 を指 してい るこ とが わか る

4

)

これ だけ の資料 か らタイ語 の (SatSana)が元 来 「仏教」 のみ を意 味 してい た と断定 す るこ とは避 け なけれ ばな らない が, タイ 国史 の中 におい て 仏 教 が 一 貫 して 占めて きた卓越的地位 を考 え るな らば (S豆tsana) が もっ と も多 くの場 合 (Phutthasatsana) (<Buddhas瓦sana)す なわ ち 「仏教 」 を指 してい た と考 え るこ とに大 きな誤 りはない で あろ う。 と りわ け (S瓦tsanQpathamphok)の一要素 をなす(S豆tsan匝])が,仏教 を意 味 した こ とはその用 例 に徹 して ほぼ疑 い を容 れ ない。 この語 は ラーマ Ⅰ世王 (1782- 1809) の治下 に出 され た10篇 の 「サ ンガ布告 」 (KotPhrasong) の各篇 に タイ国王 ラーマ Ⅰ世 の形 容詞 としてつ ぎの よ うな 文 脈 の中 で用 い られ てい る。 a

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3Jはf]J… 摘卵 朋m … = 5) (--仏教 が その実践修行 におい て も教学 におい て もとこし ? えに栄 え行 くよ う顧 み給 う (S瓦tsan豆)の擁 護者 た る 〔国王〕 が お出 ま しにな って---) 上 の訳文 か ら も明 らか な よ うに, ここでの くS豆tsan豆)は 「仏教 」 を指 してお り, (maha) 杏 ●●

冠 して さ らに意味 を強 めた くakkhamah瓦S瓦tsantipatham)は 「仏教 の至 高 の大擁護 者」 と解釈 す ることが で き る。

歴 史家 ク ー ニー ・ニ ワ ッ ト殿 下 は, 仏教 サ ンガに対 す るタイ国王 の立場 がい わ ゆ る信 仰 の (defender) ではな く (protector) であ った と述 べ, タイ には異教 か ら仏教 を守護 す るとい う 観 念 が乏 しか った ことを指摘 してい る。6) (upathamphok) の語源 と考 え られ るパ ー リ語 の

(upatthambhaka)は, サ ソス ク リッ ト語 の (upa-Sthambhaka)に由来 す る語 であ って, 「支 持 す ること,後 援 す る こと,鼓舞 す るこ と

7

) を意味 す る。上座部仏教 の正統 的解 釈 に従 えば,

「戒律 は仏教 の寿命 で あ って, 戒 律 の存立 す る間 は聖教 も存 立 す る

(vinayo n瓦maBud-dhas豆sanassa 豆yu,vinayethites琵sanarp thitalp hoti.)8) ブ ッダ ゴーサが 『サ マ ンタパ ーサ

3) RhysDavids&W .Stede,TheP.T.S.Pall-EnglishDictionary.1972.p.707r.,・R.C.Childers, A Diciio- ry ofthePallLanguage・1976(repr.)・p.4651・

4) 第 2碑文 (1298-1346/7)に 2回 (2-ト48,2-2-61),第13碑文 (1510)に 1回 (1310-1),第45碑

文 (1392)に 1回 (45-2-10),第49碑文 (1412)に 2回 (49-0-35)現われている

.(

c

f

.

YoneolsfIII eial・,A GlossarialIndexofikeSuhholhaiZnscriPh llS・Kyoto:ShoukadohPublishing,1977)

5) Kotm諾iTrziS房m Duang,Vol.4.Bangkok:Khurusapha,1962.pp.164-5,170,176.181,186, 189,196,206,220,223・布告によって綴字にわずかな異同があるはかは全 くの同文である。国王の定 型修飾句 と言 ってよいであろう。

6) H・H・PrinceDhaninivat,"MonarchicalProtectionoftheBuddhistChurchinSiam,Hp.6. 7) M.M onier-Williams,ASanshrii-EnglishDictionary.1951.p.210r.;RhysDavids&W.Stede,

oP.,cit.,1421.

8) N.A.Jayavikrama,TheInception ofDisciplineandikeVinayaNidCma.London:Luzac

&

C0.,1962・p・145・;長井真琴, rlJ南方所伝仏典の研究』 (東京 :中文館書店 ;昭11)所収 「巴利善見 律序文和

」p.810

(3)

石井 :タイ因における iイスラームの擁護〉についての覚 え書 -デ ィカー』 の序文 において示 した この戒律観 はタイ国におい て も踏襲 されてお り, た とえば 「サ ンガ布告第 2

(1783)では 「パ ーテ ィモ ッカ (戎) とはすなわ ち聖教 であ る。 ビクがパ ーテ ィモ ッカを正 しくお こな うとき, そ こに聖教 が存在す る」 と述べ られ てい る。9) 仏教 を支 持 し,後援 す るとい うことは異教 の攻 撃か ら仏教 を守 ることではな く,サ ンガの中にあ る出家 者 たちが戒律 を正 し く守 り, その結果 として仏教が栄 え るよ うこれ を 「支持 し,後援 し,鼓舞 す る」 ことにはかな らない のであ る。 ところで上座部仏教サ ンガの成員 は文字通 りの 「出家者

であ って, い っさいの経済活動 か ら離れ, ひたす ら宗教的修練 に投入す ることを期待 され る存在 であ る。 か れ らは街 に汗 して こつじきし

自 らの生活 の糧 を求 めず,在家者 の前 に立 って 「食物 を乞 う」 (bhikkbati)ところの 「乞食

者」

(bhikkhu)としてあ る. したが って, もしサ ンガに対 し物 質的支持 を与 え る在家者 の存在が失 われ るな らば, ビクたちは持戒 をつづけ ることが不可能 とな り,サ ンガの秩序 は弛緩 してつい に仏教 は衰亡す るにいた る。上座部仏教 の戒律観が不変 であ るか ぎ り,サ ンガに とって これ以 外 の道 はない。 この よ うに考 えるな らば, 「仏教 の擁護者」で あ る国王 の任務 は,何 よ りもま ず第- に,サ ンガに対 し恒 常的な物質的支援 を与 え, 出家老 たちが生活 の糧 の獲得 に心 をわず らわす ことな く持戒修行 に専念 で きるよ うな安定 した環境 をつ くり出す ことでなければ な らな いであろ う。歴代 のタイ国王がサ ンガに対 してお こな った さまざまの寄進行為 は こうした思想 に導 かれた ものであ る。 い まか りに国王 の支持 に よってサ ンガの物質的基盤が確立 し,持戒 のための基礎条件 が とと の った とす る。 この よ うな場合 であ って もサ ンガの中に 「悪 しき ビ

」 (p瓦pabhikkhu)が出現 して破戒行為 をお こない, サ ンガの清浄性 を担 う可能性 は残 る。 こうした場合, す ぐれ て 自治 的団体 であ るサ ンガは ヴィナヤの定 め るところに したがい 自らの力でサ ンガの秩序 の回復 をは かろ うとす る。軽微 な破戒行為 の場合 には,一定 の反 省期間 と手続 を経 たのち破戒者 のサ ンガ -の復帰が承認 され るが,殺人 ・淫行 な どの重罪 (p豆rajika)を犯 した場合 には 「不共住 (者)」 (asarhv豆sa) として違反者 はサ ンガ外 に追放 され ることが戒律 の中に定 め られてい る010) しか し現実 にはサ ンガの 自治的処理能力を越 えた破戒行 為が各地,各時代 で発生 した。 こうした場 令, 国王 に よって代表 され る世俗権 力がサ ンガに介入 して破戒僧 を強制的 に還俗 させた上処罰 をお こな うことによってサ ンガの秩序 を回復 させ るとい う手段 の とられ た ことが歴史に見 えて い る. その古典的事例 をわれわれはアシ ョーカ王法勅 の中に見 ることがで きる。 コ-サ ンビー, わか サ ー ソチ -,サ ールナ- トの小石柱法勅 に 「比丘 あ るいは比丘尼 に して僧伽 を破つ もの は白衣 を着 せ しめて, 住処 (精舎) でない所 に,住 せ しめなければな らない。」 (塚 本啓祥訳) とあ る

9) Kolm万iT招 Szim Duang,Vol.4.p.170.

1()) Yen.封atlamOliThera,ThePalimokhha.Bangkok:TheSocialAssociationPressofThailand,

(4)

東南アジア研究 15巻3号 のがそれであ る。11)白衣 を着 せ しめて住処 でない所 (an豆V豆sa)に住 まわせ るとは, ビクの印で あ る黄衣 を強制的 に剥奪 し, サ ンガの外 に破戒僧 を放逐す ることを意味す る.12)サルナ- ト法 勅 に よれば, アシ ョーカ王 は大官 (mah瓦matra)に対 し, この教勅 の実行状況 の確認 を命 じて い る。 タイの場 合 には前掲 の 「サ ソガ布告」の中にひ とつの具体例 を求 め ることができ る。 た とえ ば 「サ ンガ布告第 1

0

」 (1801)がそれで, ここには ラーマ Ⅰ世王が 128名 の破戒僧 を還俗 させ, 見 せ しめのため これ に入墨 を施 して官の重 い得 役 に服 せ しめた との記述があ る。13) もとよ り, タイにおい て もまたサ ンガが 自治 団体 であ る とい うたて まえは認 め られてい た。 「もし破戒 の ビクを見 るときは互い にい ましめ合い, 制裁 を下 し, 戒律 に したが って処分すべ き

ことは 「サ ンガ布告第 8」 (1790)の中に も述べ られてい 814)。 そればか りか

,

「布告第 7

(1783)で はサ ンガの内紛調停 のため国王 に直訴す ることを禁 じて さえい るのであ る。15) しか しその一方 で,サ ンガの力に余 るほ ど多数 の破戒者が出現 した場合 には,サ ソガの要請 に応 じて俗権がサ ンガの 自治 に介入 す るのは古来 の慣行 (pen praphenim瓦)であ るとも述べてい る.16) そ して 古代イ ン ドにおいて国王が結集 を後援 してサ ンガ秩序 の回復 に貢献 した ことをその事例 として 挙 げてい る。 「第 10布告」 に示 された破戒僧大量追放 の措置 は まさに この 「サ ンガの力にあ ま る」破戒僧 出現 の場合 にあた るもの と考 え られ る。 以上述べ た ことか ら明 らかなよ うに, 「仏教 の擁護者」 としての国王の任務 にはふ たつの側 面 が見 られ る。 その第一 は ビクの団体 として経済的 に非 自立的な性格 を もつサ ンガに対 して物 質的支持 を与 え ることに よって持戒 の基礎条件 を ととのえ, もって清浄 な るサ ンガの維持, す なわち仏教 の繁栄 に寄与す ることであ る。第二 はサ ソガの内部 に破戒者が出現 し, これ を調御 す ることがサ ンガの 自治能 力を越 え るよ うな場合,サ ンガの要請 に応 じて これに介入 し,強権 を もって破戒僧 を還俗 させ,サ ンガの失われ た秩序 を回復 す ることであ る。「保護」 と 「統制」 とい う 「仏教 の擁護者」 た る国王 に期待 され た このふたつの役割 は, たがいにあい補いなが ら サ ンガの持続的発展, ひいては仏教 の発展 に貢献 してきた。 これがタイ人仏教徒 の間 に広 く受 容 されてい る 「仏教 の擁護者」観 であ るとい えよ う。

2.

1892年,チ ュラ ロンコソ王 (1868- 1910)に よって国家統治機構 の近代化努力が開始 され る ll) 塚 本啓祥 『アシ ョーカ王碑文』 (第三文 明社 :昭51),pp・69-72;137-139.;

E.Hultzsch,Inscriptionsof Asoha,new ediiion・〔Corpus InscriPtionum Zndicarum〕 Delhi:

IndologlCalBookHouse,1969.pp.159-164. 12) Hultszsch,oP.I;it.,p.160,n.5&7.

13) Kotm存iT招 S冴m Duang,Vol・4.pp.222-228. 14) Ibid.,p.207.

15) Zbid.,p.295. 16) Ibid.,p.207.

(5)

石井 :タイ国における (イスラームの擁護)についての覚 え書

以前 の タイ国 におい ては, 中央政府が有効 な直接支配 を及ぼ し得 た地域 は首都バ ンコクを中心 とす る畿 内 (wong r豆tchath豆ni)にか ぎ られ てお り, その範 囲 は北 に向か ってパ トゥムタ _ニ ー, ノンタプ リ,南 はプ ラ′げ ェソ とサ ム ッ トプ ラカー ン,距 離 にすれ ば半径30キ pメー トル に も満 たなか った。17)北方,東北方 お よび南方 に横 たわ るラーオ系, マ レ一系属 領 はい うにお よはず, 畿 内 とこれ ら属領 の中間 に位 置 す る諸 国 で さえ も, バ ンコクに臣従 を誓 う地 方豪族 た ちに よる割拠 的支配 にゆだね られ てい た。 こ うした状況 は当然 サ ンガ組織 の上 に も反 映 してい るo全 国各地 に散在 す る大 ・小 の寺院 におい ては, 人的結合 を媒 介 として都市 の有 力寺院 との 問 に一種 の 「本寺」- 「末寺」 に類 す る関係 を結 んでい る場 合 も見 られ たが,18' その関係 は あ くまで も不定 であ り流動的 であ った。 サ ンガは理論上法王 を首長 とす る組織 であ り,北方, 南方 お よび中央部 とい うサ ンガの三地 方区分 には, それ ぞれの長 として高僧が任命 され てい た が, かれ らは通常造任 であ って首都 に とどまるこ とが多か ったため, こ うしたサ ンガ組織 が現 実 に どの程度有効 な支配 を遠隔 の地方 に まで及 ぼ し得 たか ど うか につい ては疑 問が残 る。事実, 全 国各地 の寺院 の実態調査 は, 1899年 に至 るまでお こなわれず, それ までは正確 な寺 院数 も出 家老 の数 さえ も把擾 ざれ てはい なか ったのであ る。 しか も1899年 の調査 で さえ も,サ ンガ内部 か らの要請 に よ ってお こなわれ た ものではな く, サ ソガの潜在的能 力 を,新 たに導入 され た国 民教育 の普及 に動員 す るための計画立案 に必要 な基礎資料 を得 るのが 目的 であ った。lO) そ して サ ンガの組織化 も教育 の普及 とい う世俗 目的 を達成 す る手段 と してお こ な わ れ た の で あ る。 1902年, これ らの調査結果 に もとづい て 「サ ソガ統 治法

が制定 され た。 この法律 はそれ まで ば らば らであ った全 国の大 小寺院 とそ こに止住 す る出家者 たちを,単一 の集権的統 治機構 の下 に置 き,政府 に よる管理 を容易 に しよ うとす る もの であ った. この法律 は 「ラタナ コ- シソ暦 121年 サ ンガ統 治法」 (phraratchaban'yatLaksanaPokkhr6ngKhanaSongR6.S6.121)20)

と呼 ばれ, 当初 辺境地 万 をのぞ く14州 に適用 され たが, 1908年 には東北 の ウ ドン

, 1924年 に は北部 のマ- - ラー ト州, パ ーヤ ップ州 と南部 のバ ッタ ニー州- と地 方行 政組織 の発展 と並行 してその適用範 囲 を全国 に拡大 して行 った。 その結 果, 法律制定 か ら22年後 の1924年 には, 全 国の寺院 と出家老 とが,統一組織 であ る 「タイ国サ ンガ」 (Khana Song Thai)の構成 員 とな ることが法的 に義務 づけ られ ることとな った。

1932年6月24日, 人民党 に よ るクーデ タが発生 し,絶対 王制 に終止符が打 たれ ると,新政府 はただちに憲法 を制定 し, タイ国 に立憲君主制 を導 入 した。新 憲法 は1932年 12月10日に制定公

17) TejBunnag,The ProvincialAdministration of Siam.Kuala Lumpur:Oxford University Press,1977.pp.18-19.

18) CraigJ・Reynolds,`一The BuddhistMonkhood in Nineteenth Century Thailand,〟 (Ph.D. Dissertation:CornellUniversity,1972)pp,221-′233・

19) DavidK・Wyatt,ThePoliticsofReform in Thailand.New Haven:YaleUniversity Press, 1969.p.243.

(6)

東南アジア研究 15巻3号 布 され てい る。 こうした時代 の流 れ はサ ンガの中 に も新 しい動 きを生 み, やがて若 手僧侶 を中 心 としてサ ソガ管理制度民主化 の要 求が現 われ始 めた。 こ うした新 しい動 きに対 しサ ンガの態 度 は守 旧的姿勢 に終始 し,政府 もまた迅速 な対応 をお こなわ なか ったが,1941年10月 に至 り, よ うや く時 の ピブ ソ政 府 は 「戒律 を犯 さぬ範 囲 において, サ ンガの統 治組織 を, 国家統治 の方 式 に近 づ け」 ることを 目的 として, 「仏暦2484年サ ンガ法 」 を制定 し旧法 を廃止 したのであ っ

たO その結果, 国家 (r瓦tchaan豆chak<r可a和 瓦cakka) におけ る 「国王

「内閣」, 「議会」, 「裁 判所

に対応 す るサ ンガ (Phutthachak<Buddhacakka) の組織 として 「法 王」, 「法 臣 会議」, 「サ ンガ議会」, 「サ ンガ裁判所」が も うけ られ た。21) この法 律 はその後22年 間 にわ た って タイ仏教 の性格 を規定 し続 けて きたが,1962年 に至 り, 国家行政機構 の高度 な集権化 に よ って行政能 率 を高め る とい うサ リッ ト内閣 の方針 に したが って廃 止 され,代わ って極度 に単純 化 され た 「仏暦2502年 サ ンガ法」 が制定 され た。新 サ ンガ法 は旧法 に見 られ た民主主義 的諸装 置 の一切 を廃止 し,サ ンガ統治 に関 す るすべ ての権限 を法 王 の一 身 に集 中 させ, しか もそれ ま で終身職 で あ った法王職 を勅命 に よって解任 で き る規定 を新 たに もうけた。 この措置 に よって 世俗権 力 に対 す るサ ンガの従属 はほぼ決定的 とな って しま った。

3.

1932年12月の憲法制定 は,一方 におい てタイ国王 を(akkhas瓦tsantipatthamphok)と規定 す ることに よ って, 国王 と仏教 をめ ぐる伝統 的観念 に明示的表現 を与 えたが, それ と同時 に,節 たに 「信仰 の完全 な 自由」 (seriph瓦pboribtln naik豆nthiisatsan豆) とい う近代西欧的観念 を

タイ国 に導 入 した。 その結果, これ まで一義的 には 「仏教」を意味 して きた ところの(S瓦tsana) と,「信仰 の 自由」 におけ る(religion)の訳語 としての (SatSan豆)とい うふ たつの (Satsan豆)概 念 の対立が発生す ることにな り, これ を調整 し統一 す る必要 が生 じた。 この間 の消息 を もっと

も明確 な形 で伝 えてい る史料 に, ワン ワイ タヤ コー ン殿下 の著 わ した小冊子 『憲法 草案解説』 (Athit癌iR瓦ngRatthathammantln) が あ る。22)1932年11月19日の 日付 を もつその序文 に よる

と, この小冊子 は当時 人民代表議会 において審議 が進行 しつつあ った 「仏暦2475年 シ ャム国王 憲法草案」 について,法 律学者 で あ るワン ワイ タヤ コーン殿下 が学 問的見地 か ら意見 を述べ た ものであ るとい う。 その内容 は憲法制定小委員会 の起草 した草案 に したが って各条文 を掲 げ, これ に対 し逐条殿下 の意見 を付 す形式 を とってい る。 その第4条 の解説 にはつ ぎの よ うに述べ られ てい る.23)

「第4粂 〔本文〕国王は仏教徒でなければならない。国王は く<TLkkhasatsanGpathamphok

)

である。

21) 上掲拙著 pp.198-202参照。

22) Mom ChaoWanwaithayakonWorawan,Athib7iiRangRZitihathammanu-n,1932.148p.

23) Zbid・,pp・28-29・ 352

(7)

石井 .・タイ国におけるiイスラームの擁護夢についての覚え酋 趣旨 :結構である。憲法制定小委員会委員長が 『シャム人の信奉するすべての宗教 (傍線原 文のまま)に対 し擁護を与え給 うものである』 とい う説明を付記 しているのはきわめて適切で ある。 タイ語の表現 :結構である。 英訳文の表現 :[くS豆tsana〉の訳語 として】HTheFaith"をあてているが, これでは意味が 狭すぎるO こうすると[satsanaが】仏教のみを意味して他の宗教を含 まないことになってし まうからであるO (中略)それゆえ 〔英訳文は〕Profess(sic)theBuddhistFaithandis theupholderofReligion・ (イタリックは原文のまま) と改めるべきであろう. この一文 はタイ語 テキス トについてい るか ぎ り無 自覚 の まま見逃 され てい た くsatsan豆)の両 義性 を指摘 し, これ を二種 の英語 で表現 し分 け ることに よ って,憲法 の導 入 に付随 して (sat -santipathamphok)の上 にお こった意義変化 に注意 を喚起 した もの として きわ めて重要 な意 味 を もつ ものであ ると考 え られ よ う。 もっともタイが 「信仰 の 自由」 の問題 に直面 したのは この憲法 の制定 が最初 ではなか った。 古 くは16世紀 の初 め, アユ タヤに来航 したマ ラ ッカのポル トガル人 に対 しキ リス ト教 の布教 を 許 した り, 17世紀末 のナ ライ王時代 に首都 にキ リス ト教 のセ ミナ ーが建設 され た ことは よ く知 られ てい る。 また19世紀 中葉 以降西欧列強 が タイ との問 に締結 した 「友好 通商条約」 の中で も

「自由な る信仰 お よび礼拝実践」 (thefreeexerciseoftheirreligiousbeliefand worship) が 明示的 に保証 され てい た 。24) しか しタイ語 テキス トについ て これ ら粂約 ・条文 を検討 す ると, いずれ も

山叩 尻

釘軌1

l

m (それ ぞれ の宗教 の教 えに従 って実践 す る こ とを容 認す る)」 とあ り, あ くまで も外 国人 に対 す る宗教 的信仰 の消極的許容 とい う色彩 が濃厚 であ る。一 方 におい てはタイ国 にお け る仏教 の圧倒的卓越 とい う事 実 に支 え られ たタイの仏教信仰 の不動性 につい ての確信が あ り,他方 キ リス ト教 はたかだが外 国人 とこれ につ らな る少数者 の 宗教 にす ぎず,既存 の秩序 に対 す る脅威 とな る可能性 が少 ない とい う見通 しに立 った上 での判 断 が こ うした宗教的寛容 とな って現 われ た もの と思 われ る。 あ くまで も黙許 す るのであ って, これ に積極的支持 を与 え るのではない点 を強調 してお きたい。 これ に対 し(S瓦tsanapathamphok)のほ うは積極 的 に 「支持 し,後 援 し, 鼓舞 す る」 のであ って, その存在 を 「許 す

とい った消極 的 な もので はない。仏 教 の存続 に貢献 す ることは国王 の支配 の正統性 に もかかわ る ものであ り, 国王 自身 の利害 に も直結 してい る

2

5

)

したが って憲 法 の制定 に よって (S瓦tsantipathamphok)の上 に意 義変化が生 じた ことは, 単 に支持対 象 を量 的 に拡大 す る以上 の質的変化 の発生 を意 味 す る もの であ った。 24) 相手国によって多少表現に違いがあるが =-・sballbeallowedthefreeexerciseoftheirreligious beliefandworship-日 という文言が多い。 25) 仏教の繁栄 と国王支配の正統性の関係については前掲拙著pp・58-82参照0

(8)

東南アジア研究 15巻3早

4.

統 計 に よ ると1970年 におけ るタイ国の宗教別 人 口 表 1 は表 1の とお りであ った。 この表 の 「仏教徒」 の中 仏 教 徒 には, それ までの人 口セ ンサ スで 「儒教徒」 と分額 イスラム教徒 キ リス ト教徒 されてい た華僑 お よび中国系 タイ人 の約

1

7

%が含 そ の 他 32,771,544^ 1,325,587人 195,300人 104,943人 まれ てい るので数値 が やや高 くな ってい るが, この (1970年人口センサスによる) 点 を考慮 に入れ た として も仏教徒 の圧倒的 な優位 は歴然 た る ものが あ る。 しば しば言及 され る 「タイ人 は仏教徒 であ る」 とい う通念 は こ うした統計的事実 に よって支 え られ てい る。仏教 以 外 の宗教 は,王室儀礼 の中核 を成 すバ ラモ ン教 を除 けば, いずれ もタイ人 に とっては異質 な宗 教 と感 じられ てい る。あ るカ トリックの調査報告書 は, タイ人 のキ リス ト教観 についてつ ぎの よ うに述べ てい る。26) 「キ リス ト教 は当初 か ら外来 の宗教 であ った。 それ は外 国人 に よって タイ- もた らされ ただ けでな く, この宗教 の継承者 たち もまた 〔タイ人 に非 ざる〕 ア ジア系外 国人 であ った。 これ は 今 日のキ リス ト教 が なお も人 々に与 え続 けてい る一般的 印象 であ る」 輝似 の状況 はタイ国 内のイス ラー ム教 徒 につい て も認 め られ る。 タイ政府 のあ る少数民族 問 題専 門家 は,南 タイの ムス リムが タイ国籍 を持 ちなが らその大部分 は 自分 たちが純粋 のタイ人 であ るとい う意識 を持 っていない と述 べ てい る。27) この よ うにタイ国内に存在 す る非仏教系宗 教集 団 は, いずれ もその 「非 タイ性 」 におい て共通 してい るが, キ リス ト教徒 とムス リムの間 にはふ たつ の重要 な点 で相違 が見 られ る。第一 は集 団 としての凝集性 の大 きさの違 いであ る。 タイのキ リス ト教徒 は まず カ トリック とプ ロテス タ ソ トに分 かれ, プ ロテス タ ン トは さ らに諸 派 に分裂 してい る。 また信徒 の居住地域 も全国 にわた ってお り,信者 の民族別構成 を見 て も, タイ人,華僑, ラーオ人, ヴェ トナ ム人, カ レン族 山地民 等 きわ めて多様 であ る. したが って ク リスチ ャンは集 団 としての凝集性 が小 さ く, その存在 はタイ国 の社会統合 に とって脅威 とな ってはい ない。 これ に対 してイス ラーム教徒 はその大部 分が マ ライ系 であ って, イス ラーム- の同質化 はす なわ ちマ ライ文化- の同質化 を意味 し,相対的 に均 質 な集団 を成 す。 しか も表2に見 られ るよ うにその 居住地域 が南 タイ に偏在 してい るため,集 団 として の強 固 な凝集 力 を示 す。 と りわ け 「南部 タイ4県

と呼 ばれ て法 的 に も特別 の取 り扱 い を うけてい る国 表2 イスラーム教徒の地域別分布 (1970年センサスによる) 中 部 タ イ 北 部 タ イ 東 北 部 タ イ 南 部 タ イ 259,356人 9,623^ 2,223人 1,054,745人

26) Thailandin transition:TheChuychin aBuddhistcounlyy・Brussels:PRO MUNDA VITA,

1973.p.17r.

27) KhachatphaiBurutphat,ThaiMuslim・(in Thai),Bangkok:PraePitya.1976.p.428. 354

(9)

石井 :タイ国における(イスラームの擁護〉についての覚え番 境4県 (バ ッタ ニー, ヤ ラー, ナ ラテ ィワ- ト, サ トゥソ)で は, イス ラーム教徒 が人 口の過 半数 を制 してい るため, かれ らをタイ文化 に同化 させ るためには まだ数多 くの障害が横 たわ っ てい る。第二 の相違 点 は宗教上 の母 国 に対 す る近接度 の違 いで あ る。 タイ に隣接 す る国 でキ リ ス ト教 の優勢 な国 はないO しか しイス ラーム教 の場 合 には,南 タイ4県が地続 きでイス ラーム 国家 マ レーシア に接続 してい るとい う事実 が あ る. と りわけ国境付近 におい てはマ ライ文化圏 との交流 が 日常 的 にお こなわれ てい るため, それがイス ラーム教徒 のマ レーシアへの同質化傾 向 を強 め,異質 なタイ文化 - の心理的距離 の縮 少 の さまたげ とな ってい る。

5

.

タイ ・ムス リム, と りわ け南 タイ4県 のイス ラーム教徒 の政 治的統合 をめ ぐる諸問題 につい てはすでに Ⅴ・Thompson

&

R・Adolff (1955),ThomasFraser (1960),As triSuhrke 1970 /71),Ladd Thomas(1974,1975),Arong Sutthasat(1976),KhachatpaiBurutphat(1976), Nantawan Haemindra (1976)らの論 考が あ るが,28)これ らはいずれ も社会 問題 ない し政 治問 題 としての角度 か ら南 タイ の ムス リムを論 じた もの であ って, タイ におけ る国家 と宗教 とい う 視点 か らタイ国 のイス ラー ム教徒 を全体的 に論 じた研究 は まだ現 われ てい ない よ うであ る。本 稿 は将来 の研究 に備 えての覚 え書 き として,論 ずべ き若干 の問題 の所在 を示 す に とどま る。 5.1.前掲 の表2か ら も明 らかな よ うに, タイ国 におけ るイス ラーム教徒 の分布域 は,南 部 タイ にその約80%が集 中 してい る。 この ことはアユ タヤ朝 (1350- 1767)以来, タイ人が そ の支配域 を しだい に南方 に拡大 し, マ ライ半 島 の一部 をその版 図 に含 めた とい う歴史的事実 に 照応 す る ものであ る029) しか しなが ら中部 タイのバ ンコクを中心 に して約30万人 のイス ラーム 教徒 が居住 してい るとい う事実 は これ までほ とん ど問題 に され ていなか った。 これ らの中部 タ イ ・ムス リムの大半 は, 南 タイか ら移住 したマ ライ人 の子孫 で あ るが, その中核 を成 すのは, 1785年 に ラーマⅠ世王 (1782- 1809)のお こな ったバ ッタニー遠征 と, 1832年 に ラーマ3世王 (1824- 1851)の お こな った 南 タイ7州 の反 乱鎮圧 とい う2回 の戦役終 了後 , バ ンコク周辺 に 28) VirginiaThompsonandRichard Adolfr,MinoyiiiesProblemsin SoutheastAsia.Stanford..

StanfordUniversity Press,1955.pp.158-165.;ThomasFraser,Ruscmbilan :A Malay Fishing

VillageinSouihcrn Thailand.Ithaca:CornellUniversity Press,1960;AstriSuhrke,=The ThaiMuslim :Some Aspects ofMinority Integration:IPacijcAHairs.γol.XLIII,No.4, 1970-71.pp.535-54l.;LaddThomas,…BureaucraticAttitudesandBehaviorasObstaclesto Political IntegrationofThaiMuslims:'SouiheasiAsia,An ZniernaiionalQuarterly,Vol.ⅠⅠⅠ, No.i,1974.pp.545-566・;-do-,PoliticalViolenceintheMuslim ProvincesofSouihcrnThailand. (ISEASOccasionalPaperNo.28) Singapore:Institute of Southeast Asian Studies,1975・; ArongSutthasat,PanhGKhw冴mhhaiyaengnaiS盲 ChangwaiPh冴h Tai・(in Thai) Bangkok: Phithak Pracha,1976・;KhachatphaiBurutphat,ThaiMuslim・Bangkok:PraePitaya,1976・; Nantawan Haemindra,''TheProblem oftheThai-MuslimsintheFourSouthern Provinces ofThailand (PartOne),JouynalofSoutheastAsianStudies(Singapore),Vol・ⅤⅠⅠ,No.3,1976・ pp.197-225.

29) 南タイのマ レイ人居住地域のタイ-の編入過程についてはNantawanHaemindra(1976)がよ く まとまっている。

(10)

東南アジア研究 lS巻3号 強 制 移 住 させ られ た捕 虜 奴 隷 の子 孫 た ち で あ る 。30) 中部 タ イ ・ム ス リム の地 域 分 布 を さ らに詳 し く見 るた め の ひ とつ の指 標 と して作 成 した の が 表 3で あ る。31) これ に よれ ば, 中 部 タイ に存 在 す る 350の モ ス クの94ウ射 こあ た る 328の モ ス クが バ ン コ ク とそ の隣 接 諸 県 に分 布 してい るO この うち 135の モ ス クが 集 中 す るバ ン コ ク首 都 圏 の み に つ い て 区 (amphoe)別 の モ ス ク数 を示 した の が 表4で あ る。 これ に よ る と, モ ス クは首 都 圏 の東 部 諸 区 に そ の7割 以 上 が 分 布 して い 表 3 中部 タイ各県別 モス ク数 (1976年 12月現在) 県 名 1モス ク数 l 県 名 Krugthep Phramahanakhon Phranakhon SiAyutthaya Chachoengsao

Pathumthani Nakhon Nayok Nonthaburi Chonburi Phetburi Samutprakan Prachuapkhirikhan Rayong Saraburi Angthong Nakhon Fathom SamutSongkhram 計 ---3 5 0 表 4 バ ンコク首都圏におけ る区別 モス ク数 (1976年 12月現在) モス ク数 8 7 4 3 1 1 1 区 名 巨 ス ク数 1 区 名 Nong Chok Phrakhanong Minburi BangKapi YallnaWa Phayathai Ratburana Bangkok Noi BangRak 31 23 17 16 8 6 6 4 4 L礼tXrabang Bangkok Yai Thonburi Khlong Sam Dusit Phranakhon

Pom Prap Sattru Phai Pathumwan 計--・--・--131 敬 ク ス モ 3 3 3 3 1

30) Thiphakorawong,phrayZuchaPhongs房wada′n KyungRalanaho-sinchabaP H∂samuthaengChzit Ralcha紘 n lh盲1,thi2.Bangkok:Khlangwitthaya,1962.pp.125-126.;-do-,Phray5tcha

Pho-ngs諾wadan KrungRaianahasin chabap H∂samuihaeng ChZu,Raicha紹n ih有3,ih吉4.Bangkok: Khlang W itthaya, 1963・p. 121. これ らの捕虜奴隷 の入植地 については Direk Kunsiriwawas, Khw百msami'ha,akh紬gMuisalim Thzlng Prawatis房tlac Wannahhadi Thai .Bangkok:Sama-khom Phasal礼eNangsu haengPrathetThai1974.p.77参照。

31) 資料提供 に御協力いただいたチ ュラー ラ-チ ャモソ トリー事務局長の KhunyingSa・manBhumi n-arongに心 よ り御礼 申上 げたい。

(11)

石井 :タイ国におけるiイスラームの擁護〉についての覚え書 図1 バ ンコク首都圏のモスク分布 るこ とが わか る。 (図 1) さ らに これ らの諸 区 の うち, モ ス ク数 の多 い もの か ら上位 8位 を と ってモス クあた りの人 口を調 べ た ものが表 Sであ る。 これ を南 タイ4県 にお け る同 じ数値 (秦

6)

と比 較 して み る と,NongChok区 におけ るム ス リムの集 中度 はヤ ラー, サ トゥソの水準 に近 く,Minburiのそれ で も約半 分 とい う事実 が浮 か び上 が って くる。 これ らの数値 はバ ン コ ク東 部 にお け るムス リムの集 中度 が一 般 に想像 され てい るよ りもは るか に高 い とい う事 実 を教 えて くれ る。 この よ うに中部 タイ に居住 す るタイ ・ムス リムは,Nong Chok区 の事例 の よ うなか な り凝 集度 の高い ムス リム ・コ ミュニテ ィを形 成 してい る場 合 が あ る一 方, た とえばバ ン コク市 内 の 表5 バンコク首都圏における1モスク当た りの人 口 人 口 (b) ∫ (a)/ (b) 区 名 巨 スク数(a) 表6 南タイ4県における1モスク当た りの人 口 (1970年センサスによる)

(12)

東南アジア研究 15巻3早 各区 におけ るよ うに複合的 な人 口構 成 を もつ都市的環境 に置 かれてい る場合 までその環境 に大 きな差がみ とめ られ る. したが ってその実態 を把握 す るため には今後 か な りきめの細 かい デー タに もとづ く比較研究 をすす めてゆ く必要 が あ る。 とくに都市部 におい ては周 囲の環境 に対 す る適応が 日常的 に必要 とな ってい るため,相手 に よって挨拶 の仕方 をマ ライ式 に した りタイ式 に した りす るな ど,状況 に応 じた行動様式 の変 化が観察 され る。 一般 にバ ンコク在住 の タイ ・ ムス リムの問 では, タイ式 の姓(namsakun)の使用, サ ロンの非着用, タイ式 の合掌 に よる挨 拶 ,仏教 の習慣 に もとづ く寄進行 為(than bun)な どが タイ文 化-の同化 の指標 と考 え られ て い るよ うで あ る。現実 にはタイ式 のサ ンス ク リッ ト風 の姓名 と, マ ライ式 のア ラビア風 の姓名 のふ たつの名 を状況 に よって使 い分 けた り,家 庭 内ではサ ロンを着 用す るが外 出時 には洋服 に 着換 え る等,行為規範 の二重性 を示 す事例 も多 い。 5. 2.タイ政府 はイス ラーム教 に関 しては永 ら くその 自治 に まかせ て きたが,1945年 に至 り 「仏暦2488年 イス ラームの擁護 に関す る勅令」 (Phrar豆tchakrusadik豆W豆duaiK豆nsats an-tipatham 紘iSatsan瓦Itsalam)を制定 し,33) ァユ タヤ朝 以来伝統的 にイス ラーム教徒 に与 え

られ てい た欽賜名 であ るチ ュラー ラ-チ ャモ ソ トリー (Chular瓦tchamontri)を新 たに官職名 として復活 させ, これ の保持者 に 「タイ国王 を代表 してイス ラ-ムに対 す るタイ国王 の擁護 を

I

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実施 す る任 務

」品 紬召

捕… n

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n諭 1

論叩け

T

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叛 与 えた (第3条) この勅令 は [S豆tsan]叫)atham lphok]とい う語 を仏教 以外 の宗教 に公的 に適用 した最初 の事例 として注 目され る。34)最初 の (チ ュラー ラーチ ャキ ン ト1)-)職 には,前 State CouncillorforMuslim A鮎 irsで あ り,TheIslamicUnionofThailandの総裁 であ ったプ

1)デ ィ派 の政 治家 Chaem Promyong氏が任命 され た035)チ ェ-ム氏 は1947年 までチ ュラー ラ

ーチ ャモ ソ トリ-職 にあ ったが, 同年11月いわ ゆ る 「変改 団」 の クーデタが発生後, プ リデ ィ と共 にバ ンコクを離 れ シンガポ ール に亡命 したためその職 を失 った。 かれ はそ こで - ジ ・サ ム スデ ィソ (HajiSamsuddin) とい うムス リム名 を名乗 ってい る。36) この事件 の翌年 にあた る

1948年12月,上述 した 「勅令」 の第3条 が改正 され, チ ュラー ラーチ ャモ ソ トリー職 は 「タイ 国王 の代表」 の地位 か ら一挙 に 「文部省事務 当局 の諮 問 に応 じる」- 顧 問職 - と引 き下 げ られ て しまった。37) これ はタイ政府が ムス リムに対 す る従来 の 「間接統 治」 か ら 「直接統 治」へ の 変更 にふみ き った ことを意 味す る措置 と解釈 す ることが で きよ う。1949年10月,「2488年勅令」 32)所在不明の4モスクを除 く。資料提供者は注31に同じ。 33) 同勅令の邦訳は前掲拙著pp・427-429参照。 34) この勅令が制定 された背景についてはほとん ど研究がな く, その解明は今後に残 され た課題 であ る。

35) NantawanHaemindra,op・,cii・,p・2101;NarongSiripachana,Pramuan Kolm冴ilaeRabiaク ー

r5tcha紘n hiaw dualKammahanItsallim laeMaisayit・Bangkok,1975・p・3,n・

36) Nantawan,op.cit.,p.210.

37) 「仏暦2491年イスラームの擁護に関する勅令 (第 2

)

」第三条.前掲拙著 p・429-430参照。 358

(13)

石井 :タイ国におけるiイスラームの擁護〉についての覚え番 の第8射8)の規定 に もとづい て制定 され た 「タイ国イス ラーム中央委員会規則」"'は, 1902年 に制定 され た 「サ ンガ統治法」 に も比較 で き る重要 な 「規則」 であ って,今後 さ らに検討 を加 え る必要 が あ る。 この 「規 則」 は全部 で33項 よ り成 り, 「澗 文」 と 「モス ク委員会」

,

「委員 の 任 免」

,

「モス ク委員 の心得」

,

「モス ク会員 の登録」

,

「宗教資産」,「経過規定」 の6節 に分 かれ てい る0 第 1節 の 「モス ク委員会」 ではモス クの管理幹部 であ るモス ク委員 の資格,委 員会 の 任 務,宗務専門職 としての三役 すなわ ち 「イマ ム」 (imam)「コーチ ップ」 (k6tep<katib)「ピ ラン」 (bilan<bilal)の任務 な どを定 めてい る0 第2節 の各項 は委員 の任 免 に関 す る手続規程, 第3節 は委員 に対 す る精神規程 であ るが, 第4節 では 「モス ク会員

(sappaburut pracham matsayit)とい う概念 を導入 し,イ ス ラーム教徒 の一 人 ひ と りが定期 的 に出席 す るモス クを定 めて, そ こに 「会 員」 として登録 す ることを義務 づ けた。 この措置 はモス クを通 じてタイ国全 土 の ムス リムの動勢 を把握 しこれ を統 制下 にお こ うとす る政府 の意 図 の現 われ として注 目され るところであ る。 この規定 は1902年 サ ソガ法 が その第15条 におい て, 「すべ ての ビクお よびサ ーマ ネー ラは, がな らず, いずれかの寺院 の名簿 に登録 ざれ なければな らない」 と定 め たの と 軌 を一 にす る発想 とい え よ う。 この 「規則」 の制定 者 の描 いたイス ラ-ムの管理組織 の理想 図 は図 2の とお りであ る.`0) チ ュラー ラーチ ャモ ソ トリーは,建 前上 はサ ンガにおけ る (法王) (sangkharat)と比較 され る地位 にあ るが, 1948以来 その実質的権限が失われ, 文部 省 の諮 問 役 とされ て しま った ことは上 にのべ た とお りであ る。 「タイ国 イス ラーム中央委員会」 は10名 の委員 よ り成 るイス ラームの最 高機 関 で, チ ュラー ラーチ ャモ ソ トリーを職 権上 の議長 とす るO

これ はサ ンガの 「大長老会」 (Mah豆therasam瓦khom)に相 当す るO これがいわば中央行政組織

図 2 イスラームの管理組織図 (1975) 38) 第 8

粂「

(

前略)スラウ内における宗教上の役職の任免,および,宗教的車重の処理方法は

,

「タイ 国イスラーム中央委員会」が内務省の同意を得てこれを定める

」(前掲拙著,p.428)。 39) そのテキス トは前掲の Narong(1975),ppl57-69. 40) Krom Kansatsana,Ra-ing房n Kroyn KZinsZusan冴 2518113angkok:Krom Kansatsana,1975.p. 219.

(14)

東南アジア研究 15巻3早 で, この下 に各県お よび各モス クに置 かれ る 「イス ラーム委員会」 によって運営 され る地方行 政組織が位置す る。 そ してムス リムの一人 ひ と りはその居住地 に近いいずれかのモス クに登録 され, こ うしてチ ュラーラーチ ャキ ン トl)-を頂点 に全国 130万人のムス リムを底辺 とす るタ イ国イス ラームの ヒエ ラル ヒーが成立 す る。 しか しなが らこ うした理想図は現実 には出来上が ってい ない よ うであ る。 その理 由 として次 のふたつの問題が考 え られ る。第一 は仏教 とイス ラーム教 の宗教組織上 の基本的違 いであ る。 仏教サ ソガの成員であ る出家老 は,一定 の手続 きを経 てサ ンガ とい う団体 に加入 し, その団体 の構成員 としての権利 と義務 を分 け もつ ところの存在 であ るO これ に対 しイス ラームには出家 老 は存在 しない。 イマ ム, コーチプ, ビラソの よ うな宗教 「専門職」 とい え ども出家老 ではな い。 さ らに一般 の ムス リムたちはま った くの一般社会人 であって, これ をサ ソガにおけ る僧 の 場合 の ように, ひ とつ のモス クに固定 す ることははなはだ困難 であ る。 それは仏教 におけ る在 家 の信者 を単一 の寺院 に固定 しよ うとす るに等 しい作業 であ るO しか もムス リムの間 にはい く つ ものモス クの礼拝 に出席 して多 くの同信 の友 と交 りを深 めたい とい う要求が強 く存在 してい るとい う。 この点 の問題 を指摘 した資料 に, 内務省事務次官事務代理が1965年 7月9日付 で各 県知事 に対 し送付 した-通達が あ る。4

1

ノ これ は内務省が各県知事 に対 し,各 自の県 に住 むムス リムのモス ク-の登録 を促進 させ るよ う督励 した通達 であ るが, その 内容 を見 る と, 1965年 の段階 において さえ もモス ク会員 の名簿が まった く作成 されていない地方 のあ ることが知 られ る。 また1966年 2月21日か ら5日間バ ソコクで開催 され た 「タイ国イス ラーム中央委員会」 の 会議議事録 では, この規定が現状 を無視 した ものであ って実行不可能 であ るとす る報告が あ る 委員 たちに よってお こなわれてい る。 その事例 としてチ ャチ ュソサ オ県 のあ るモス クではイマ ムがバ ンコクに住み, 出席者 の範 囲は遠 くパ トゥムクーニー, ナ コソナ- ヨック, バ ソコクに まで及んでい るとい う例, また別 のモス クでは礼拝 の出席者がセエ ソセ ェ-プ運河 の両岸 に居 住 していて, その一方 の出席 を こはむ ことは事実上 できない例 な どをあげ, モス ク会員登録 の 困難 さを訴 えてい る。一2) 第二 の問題 は南 タイのムス リムを中部 タイのムス リムの間 に存在 してい る違和感 であ る。一 般 に中部 タイの ムス リムを南 タイの ムス リム と比較す ると,前者 はタイ人 との接触度が後者 よ りは るかに大 きい ためタイ文化- の同化が進 み,南 タイの ムス リムか らこれ を見 た場合, ムス リム としての 「純粋性」が失われ てい ると映 じる。 た とえばタイ式 の姓 を用いてい るとい う事 実 だけで も, 「かれ らはマ ライ人 ではない」 したが って 「ムス リムではない」 として これに対 し不信感 をか くさない とい う。43) 現在 のイス ラーム管理組織 はバ ソコクにその中心がおかれて 41) Narong (1975),pp・80-81・ 42) Zbid.,pp.82-86. 43) バンコク在住の二人のムス リム知識人からの聴き取 りによる。

(15)

石井 :タイ国における iイスラームの擁護〉についての覚 え書 い るが,南 タイ ・ムス リムの対バ ンコク ・ムス リム不信感が存在 してい る以上,バ ン コク中心 の組織 を媒介 として,多数派 であ る南 タイ ・ムス リムに までその管理 を及 ぼそ うとす ること負 体,基本的 な問題 をは らんでい ると言 うことがで きよ うO (S豆tsantlpathamphok) とい う概念 がその外延 を拡大 して仏教以外 の宗教 に 「国王 の擁護

を及 ぼす よ うにな ってやが て半世紀が た とうとしてい る。現在 までの ところタイ政府が本格的 な 「擁護」 すなわち援助 と統制 の両側面 を含 む ところの 「擁護」 の対象 としてい る宗教 はイス ラームに限 られてい る.194S年 には じめて制定 され た 「イス ラームの擁護 に関す る勅令」以来, タイ政府 はなお も試行錯誤 を続 けてい るが, その方向を正 し く把握 す るために も, タイ ・ムス リムについて よ り広い視野 に立 った実証的研究 の出現 が望 まれ る。

図 2 イスラームの管理組織図 ( 1 97 5) 3 8) 第 8 粂「 ( 前略)スラウ内における宗教上の役職の任免,および,宗教的車重の処理方法は , 「タイ 国イスラーム中央委員会」が内務省の同意を得てこれを定める 。 」( 前掲拙著 ,p

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