東 南 ア ジア研 究 18巻3号 1980年12月
「
台 湾 籍 民」 を め ぐ る 諸 問 題
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N AKAM URA*
The inhabitants of Formosa,which became a Japanese colony asa resultofthe Sin°-Japanese W ar(1894-1895),WereallowedtobecomeJapanese nationalson8May1897.But,forsometenyears the Government-GeneralofFormosa wastoo oc-cupiedwi thpacifiCationofthisnew territorytotake an accurate census. Thisenabled non-Formosan Chinese in Fukien to obtain illegally Japanese nationality,whichgavethem exterritorialrightsand a means to elude theh'hin.Around1910,the majority oftllOSe registered as Formosan by the Japanese consulates at Amoy and Fuchou was actually non-Formosan Chinese. At the end of
1911the consulatesin Fukien,the Government -General,and the Japanese Ministry of Foreign A鮎 irsdecidedthattheconsulatesatAmoy,Fuchou
,
and Swatow should registerthoseFormosanswho wantedJapanesenationalityandexcludet heunde-sirableelementseveniftheyhadbeenregisteredin FormosaasFormosansofJapanesenationality.
Wllen the southern expansion policy of the GovernmenトGeneralwasstimulated and activated
は し が き 本 稿 で い う 「籍 民 」 とは, 中 国民 族 で外 国 の 国籍 を もち, そ の所 属 国飯 事 の保 護 の下 に 中 国官 吏 の管 轄 を うけぬ もの を指 す 。 元 来 福 建 省 ,特 に虞 門 は早 くか ら海 外 移 民 多 く,彼 ら の 中 には多年 出稼 ぎ地 に住 ん で, そ の地 の 国
*天理大学教養部 ;Faculty ofLiberalArts,Tenri University
byW orldW arI,Formosanfortuneseekers,crimi -nals,andanti-JapaneserebelscrossedovertoFukien withoutpassportsandenteredtheunderworldthere. Someoftllem even becameleadersoftheunder -world and were called Formosan bandits. The Japanese consulatesin Fukien could notcontrol them and asked for aid from the Government -General. Policeo氏cersoftheconsulatesinAmoy
,
Fuchou,Swatow,a.ndCantonwereincreasedattile expenseoftheGovernment-General. In1916c on-ferenceswereheldbetweentheGovernment-General andtheconsulatesatAmoyandFuchoutodiscuss theproblemsofSouthChinaaswellastheproblems oftheFormosansthere. Throughtheseconferences theGovernment-Generalrevealed itssoutllern eX・ pansionplan,includingsuchprogramsastheeduc a-tion oftheFormosansto convertthem into loyal Japanesesubjectsandpropagandaandintelligence activities through hospitals and the press. The1916conferencesweresignificantinthattheyfore・ shadowedthenextphaseofthesouthernexpansion program oftheGovernment-GeneralofFormosa.
籍 を得 る者 が 多 か った 。 即 ち ペ ナ ン, シ ン ガ ポ ール な ど英 領 マ ライ居 住 者 は イギ リス籍 香, トンキ ン, サ イ ゴ ンな ど仏 領 イ ン ドシナ 居 住 者 は フ ラ ンス籍 を,バ タ グ ィア (ジ ャカル メ),ス ラバ ヤ,メダ ンな ど蘭 簡 イ ン ド居 住者 は オ ラ ンダ 籍 を, マ ニ ラな ど フ ィ リピン在 住 者 は スペ イ ン籍 を とい う具合 で あ る。 彼 らは 帰 国後 ,其 々洋 行 の看 板 を掲 げ,そ の 国 0'治外 法 権 の特 権 を利 用 して商業 を 営 む者 が 多 か っ
中村 :「台 湾 籍 民 」 をめ ぐる諸 問題 た 。 しか る に 日清 戦 争 の結 果 , 日本 の 台 湾 領 有 よ り生 じた 日本 籍 を もつ 台 湾 籍 民 な る新 し い型 の もの が 生 れ て外 国 籍 民 の 中 に加 わ る よ うに な った 。 これ は数 に お い て , 従 来 の 外 国 籍 民1)の比 で は な い圧 倒 的 な 多 数 で あ る。 1910年 時点 で 領 事 館 な ど に 登 録 され た 台 湾 籍 民 は華 南 一 帯 で2千 余 ,未 登 録 者 ,家 族 な どを 加 え れ ば
6,
7
千 を 下 らな い だ ろ う と推 定 され た2)[森 1910:機 密 5]。 しか もそ の大 半 は , 領 台 当 時 の戸 籍 不 備 に乗 じ, 不 正 手 段 で 日本 国 籍 を 取 得 し, 台 湾 人 を 称 え た い わ ゆ る仮 冒 者 で あ り,犀 門 の 場 合 そ の 増 加 ぶ りは5年 前 の2倍 で あ った とい う [瀬川 1907:機 密18]。 彼 ら台 湾 籍 民 中 に は 台 湾 で 事 を 起 こ し, 冒 憲 の逮 捕 を 逃 れ 対 岸 に赴 い た 者 も数 多 くあ っ た 。 1899年 蜂 起 した 匪 首 簡 大 獅 ,3)そ の 徒 党 頼 乾 , 高 大 鼻 , 林 第 之 の 事 件 を 初 め と し, い わ ゆ る北 輔 ,酉 栗 ,西 来 庵 事 件 等 々 [民 政 部 警 察 本 署 1917(?):3-6], 多 少 と も民 族 的 自 覚 を も った抗 日の 士 - 日本 で い う土 匪 -1)1910年現在で,屡門在住 イギ リス籍民23戸, フ ランス籍民16戸,スペイン籍民47戸 と報ぜ られ ている。 この うちスペイン籍民 は1908年 にはわ ずかに4戸 に過 ぎなか ったが,アルメラ領事赴 任以来周旋人を介 して2,3百元ない し数千元で 国籍証書を発売 したので急激 に増加 し(150名), うち税関に届 け出た営業者 は前記47戸 の多 きに 達 した とい う 【森 1910:機密5]。ただ し ドイ ツ籍民 はひとりもいない。 これは籍民 になると 徴兵の 義務 があるか らとい う 【瀬川 1907:機 密18]。 同 じよ うにオ ランダ籍取得者 も, 実数 はあま り多 くはなか ったので はないか と思われ る。蘭領 イ ン ド (イ ン ドネ シア)では1907年, 中国人 も同化法 によって ヨーロ ッパ人並みの取 扱を うけ られ るよ うにな ったが,同時 にこれ は 兵役の義務,相続財産の均等配分などが課せ ら れ ることになったので,中国人 はほ とんど手続 を とらなか った とい う[マ ックネア 1945:102 -103;満鉄東亜経済調査局 1940:147]。 2)福州領事天野恭太郎は,南清 における台湾籍民 数 は 2千を越 え,妻子を加算すれば 1万 にもな るとい っている [天野 1909:公93]。 3)北山の匪首簡大獅。捕え られ,安寧を害 し風俗 を壊乱す る者 と認 め られ,3年間清国在留禁止, 台湾-送還 され る [民政局 1901:53】(
「民政 局」
「警務局」
「民政部警察本署」などとある場 合は,いずれ も台湾総督府 に所属す るため簡略 表記す る)0 蜂 起 を 初 め , 「台 匪 」, 「台 湾 呆 狗」
と忌 み き らわ れ た 無 頼 の 徒 も含 め て , 辛 亥 革 命 を 中 心 とす る 中 国 の 動 乱 期 , 華 南 に は 無 籍 の 台 湾 人 が 激 増 した。 彼 ら有 籍 , 無 籍 の 台 湾 人 は 中 国 人 の 間 に雑 居 して 滋 擾 を 起 こす こ と多 く, 冒 清 両 国政 府 の悩 み の 種 と な って い た。 大 正 期 日本 の南 方 進 出 (台 湾 総 督 府 も含 め て ) と と もに, 必 然 的 に 関 与 せ ざ る を 得 な くな った東 南 ア ジ ア華 僑 と, 直 接 間 接 に近 い 関 係 を もつ 台 湾 籍 民 の 問 題 を , 台 湾 総 督 府 と して は解 決 せ ざ るを得 な くな って くる。 彼 らを 忠 良 な帝 国 の 臣 民 とす る こ と に よ って 南 進 日本 の 戦 列 に加 え る こ とが 衷 心 要 請 され た わ けで あ る。 加 う る に, 華 南 とは 領 台 当初 か ら悩 み で あ った 南 支 那 海 に跳 梁 す る海 賊 船 取 り締 りの 問 題,4)数 次 にわ た って も ち込 ま れ た 伝 染 病 防 過 の 問 題,5) あ る い は ま た 年 々多 数 渡 来 す る 中 国 人 季 節 労 働 者 そ の 他 非 労 働 者 の 問題 6)等 等 もあ る。 4)南 シナ海沿岸 に播磨す る海賊 は,毎年6月か ら 9月の間,夏期季節風を利用 して台湾南 シナ海 を航行す る船舶を劫掠 した。総督府 は海賊船を 章捕残滅せん と試みたが,出没巧妙で容易に成 功せず,1898年か ら1916年 まで に報告 された被 害40数件を数えた 【民政部警察本署 1917(?): 6,40-43]。 5)台湾では領台の翌年であ る1896年 か ら1897, 1901,1904,1914,1916年 と数回にわた ってペ ス トの大流行 に苦 しめ られている。いずれ も対 岸度門か らの侵入で,初発か ら1915年までの患 者数 は3万, うち2万4千が死亡す るという惨 禍を被 っている [民政部警察本署 1917(?); 7-8]。
6)台湾 には年 々約7千 の労働者が対岸か ら渡来 し た。福州,虞門,淳州,泉州人が多 く,毎年4月 前後 に来て10月過 ぎに帰還す るのを常 とした。 上陸港は基隆, 淡水, 安平 (台南), 打狗 (高 雄 )に限定 されていたが,6割が淡水 に上陸 し, 大半 は台北で就労 した。 これ らの中には無頼, 不良の徒 も混 じり,あ るいは労働者以外の中国 人で,領事館 の身分証明書を もち渡台 し,上陸 後労働者 に変 じて排 日,抗 日運動をなす ものな どあるので,総督府 は労働者取 り締 り規則を公 布 し,南国公司 (台華公司の後身)に労働者移 入を独 占的に取 り扱わ しめ,また華南領事館 は 取 り締 りを厳重に し,身元不確実者が渡台 して 治安を乱す ことのないよう努 めた [民政部警察 本署 1917(?);16-18,47]。 - 67- 423東 南 ア ジア研 究 18巻3号 台湾 総 督府 は, 対 岸 (華南 ) の外務 省公 館 の領事 と会 議 を開 き這 般 の諸 問題 を協 議 す る が, この対話 の過 程 で台湾総 督府 の南 支 (華 南 ) ひ いて は南 洋 (東 南 ア ジア)経 略 の構想 が 固定 して い く。7) 本 稿 で は いわ ゆ る大 正南 進期 ごろまで の台 湾 籍民 を め ぐる諸 問題 を, 台 湾総 督府 と華南 領事館 との応接 の 中 にみ なが ら, 台湾総 督府 の立 場 - 意志 決定 の経緯 - を眺 めて みた い と思 う。 Ⅰ 台湾籍 民 の 由来 日清 講 和条 約
(
1
895)
に よ り台湾全 島 お よ びその付 属 島喚 ,亨彰湖 列 島の主権 が 日本 に割 譲 された結果 , 同地 方 の住 民 は 当然 国籍 を変 更 して 日本 主 権 の下 に立 た ざ るを得 ぬ よ うに な った が,同条 約 は さ らに,同地 方 の住 民 の割 譲 地 域外 に住 居 しよ うと欲 す る もの には,秦 約批 准 の 日か ら2
カ年 間,即 ち1897
(明治30
)
年5
月8
日まで に 自由 にそ の所 有不 動 産 を売 却 して 同 島 を 退 去 す る ことを 得 べ く, 年 限 来 て もその地 を退 去せ ぬ者 は 日本 の都 合 に よ り,これ を帝 国属 民 と看倣 す ことが あ る(第 5 秦 ) と規 定 した ので, これ ら地 方 住 民 はその 選 択権 に基 づ いて,2
カ年 内 にその去 就 を定 め る こと とな った [伊能1
905:64
,7ト72;
警 務 局1938:23
]
。
台湾総 督府 は,1
895
(明治2
8)
年1
1
月1
8
日,府 令35
号 を もって 「童 潜及潅 湖 列 島住 民退 去候 規」 を発 布 し, そ の前文 にお いて前記条 約 の正条 を 明示 し, か つ 台湾 お よび潅 湖 列 島 7)最初,台湾総督府の最高為政者は,対岸を理念 の上で台湾と一体 と考えようとした。明治3
0
年 代後半には,対岸の南支 (華南),特に福建 (宿 州,度門)に対する意識が明瞭になる。広東を 考えるのは少 し遅れ [台湾51
9
0
1
],さらに大 正南進期を中心にして これが東南アジア,南洋 へ と拡大 してい く。 この概念内容の時代的変遷 についてはなお矢野[
1
9
7
8:2
8
-
3
0;1
9
7
9;1
1
0
-1
1
2
】など参照。 住 民 に して同地 方 の外 に転 居 せ ん と欲 す る者 は,累世 の住 民 と一 時 寄 留 の住 民 とに論 な く, その家 族 と と もにそ の郷 貫 ・姓 名 ・年 齢 ・現 住 所 ・不 動産 な どを記 載 し,1
897
年5
月8
日 以 前 に台湾総 督府 の地 方 官庁 に届 け出づべ く (第1
条 ),幼年 の戸主 お よび他地 方 -旅行 中 の者 は,後見 人 ・管理 人 また は代 理人 が退 去 届 の提 出を な し得 (第2粂 ),また土 匪 暴動 の 擾 乱 に与 し, 日本 軍 に抵 抗 した者 で も帰順 降 伏 して兵器 を納 めた上 は また 同 島 の退 去 を許 し (第 3条 ),なお退去 者 の携帯 す べ き家財 は す べ て海 関税 を免 除す る (第4
条 )旨を述 べ, 同時 にそ の内容 を諭告 (漢文 ) して, 民衆 に 周 知 徹底 させ た [警務 局193
8:6
49-65
0
]
。
その後 台湾総 督府 で は, 台湾 住民 の 国籍帰 属 に 関 す る 具体 的規 定 制 定 の 必要 が あ るた め,帰 化法 取 調 委員会 を設 置 して,翌1896
年 8月 台湾住 民 に関す る国民 分 限令案 を作成 せ しめ, また一方 清朝 時代 の戸籍 は徴 税 を主 に 作 成 された もので役 に立 たぬ し, また 当時 の 戸 口簿 も兵 馬樫 健 の際 に作 成 され た もので完 壁 を期 す ことが で きぬ もの なので 「董 漕 住民 戸 籍 調査規 則 」 を制定 し(
1
896
年8
月 , 訓令85
号),警 察 官 お よび憲兵 隊 を して同年9
月 よ り12
月31
日まで の問 に, そ の所 轄街庄 内各戸 につ き,その戸主 ,家族 の姓 名,年齢 ,続 柄 そ の他 を調 査 して戸 籍 を編成 させ , かつ 各 街圧 の総 理 ・地 保 を して時 々部 内を巡 回 して戸 籍 の異 動 を届 け出 させ , 同 時 に告 示 して, 総 督 府 が戸籍 を編成 す るの は住 民 確 認 の証 愚 に資 す るため なので各人 は そ の意 を休 し,調 査 官 吏 の臨検 に遇 えば正 確 詳細 に 申告 し,万 遺 漏 な きよ うに諭 旨 した。 か くて警 察 官, 憲兵 は 万 難 を排 して調査 にあた ったが, 言語 不 通 , 筆 談 も要 を尽 くさず,加 うるに民 衆,特 に婦 女 子 は官 憲 の姿 を みれ ば屋 内 に逃避 して 出で ず, 調 査 員, また家族 制度 , 旧慣 に不案 内な た め, 正確 な結 果 は望 むべ くもなか った [同上書 :66ト663
]
。
中村 : 「台湾 籍 民 」 を め ぐる諸 問題 前 記戸 籍 中 には 日本 臣民 た るべ き もの と否 らざ る もの とを包含 し,一方 また分限確 定 の 期 日 も迫 って きたので , 台湾 総 督府 で は台湾 住 民 国籍処 分 に関す る閣議決定 に基づ き
1
89
7
年3
月1
9
日,
「垂 漕住 民分 限取 扱手 績」を定 め, 帝 国臣民 と非 臣民 とを判 別 す る準 則 を 内訓
し た。該手 続 に よれ ば 「明治二十 八年五 月八 目 前 二在 テ茎 漕 島及ラ彰湖 列 島 内 二一定 ノ住 所 ヲ 有 シタル者 ヲ以 テ蔓 漕 住 民 ト」 (罪 -煤 ) し, 同住 民 に して 「明治三 十年 五月 八 日前 二重 習 練 督府 管轄 区域 外 二退去 セサル」者 は これ を 「日本 帝 国 臣民 卜税馬
」(第 二修 )し,また 「一 時旅 行 ノ馬 メ現 二重薄 紙督府 管 轄 区域 内 二住 居 セサル董 漕住 民 - シテ 明治三十 年 五月 八 目 二於 テ 日本 帝 国 臣民 ク ラ ン ト欲 スル者 アル ト 辛-
」同 じ くこれ を 「日本 帝 国臣民 卜税 馬 ス」 (第三修 ) べ く,
「戸主 日本 帝国 臣民 トナ リタ ル トキ-其 家 族 モ亦 日本 帝国 臣民 トシ戸主 日 本 帝 国 臣民 トナ ラサル トキハ其 家 族 モ亦 日本 帝 国 臣民 トセ ス但 明治三 十 年 五月八 日前 二分 家 シテ別 二戸 主 ヲ立 ツル者 -此 限 - ア ラス」 (第 四懐 ) と し,而 して 「日本 帝 国 臣民 トナ ラサル重 曹住 民 - 戸 籍簿 ヨ リ之 ヲ除却 シ」(節 五候 ),除 籍簿 に移 収 して外 国人取 扱規 定 に よ る こと と した[同上書:6
5
3-
6
5
4
]
o以 上 の手 続 に よ り日本 帝 国臣民 は定 ま り,各県 庁並 び に 支庁 で は同年 7月 住 民 を召集 して定 籍式 を あ げ, ここに台湾住 民 の 国籍 は確定 した。 これ よ り先 ,住 民 国籍 の去 就 を決 定 す べ き1
8
9
7
年5
月8
日が切 迫す るにつ れ, 台湾 は も ちろん 日本 内地 で もその動 向 には特 別 の注 意 が払 われて いた [佐 々島1
92
8:6
8
-
7
6
]。台湾 が 日本 統 治 になれ ば台湾 人 は国民 と して兵役 の義務 を課 され, また諸 般 の点 で生 活 環境 の 変 化 (耕 髪 ,纏 足 , 阿片 喫梱 禁 止 な ど) を強 制 され る上 , 中国本 土 へ の渡航 も禁 絶 され る や も しれ ず等 々と噂 され て,退 去者 はどれ ほ ど出 るか が関心 の的 で あ った。 しか るに5月 8日を過 ぎて報告 され た 退 去 台湾 人 は 5,
4
6
0
名, これ は 当時 の台湾人 口2
8
0
万 に比 す と実 に九牛 の一 毛 に もあた らない数 で あ った [警 務 局1
9
3
8:6
6
4
-
6
6
8
]。 しか し南部 の 台南県 で は,仝 退 去者 の半 分 の2千 2百以 上 を 占め て お り,全村 退 去 して た め に土 地 の荒 廃 を来 た した と ころ も あ った とい う [鶴 見1
96
5:
2
2
-
2
3
]。 だが全 体 よ りみれ ば,退 去 者 は1.
中 国 内地 に財 産 を有 す る もの2
.
居 住 不定 の季節 労働者 3. 流言 輩語 に迷 わ され た もの4.
流行 の ペ ス トを 避 け た も の [警務 局1
93
8:
66
8
]。 な どで,郷 貫 の地 対 岸 に帰 還 した もので あ り, さ して政 治性 は ない もの と思 量 された。 もっ と も少 数 とは いえ,富裕 有 力者 の台湾退 去 は 日本 に と って影響 が なか った とは いえなか っ た。後年 ,台湾総 督府 並 び に対 岸 の領 事館 は, これ ら有 産 者 を含 む有 力者 に台湾 籍 を与 えて 日本 人 とす る工作 を展 開 し, 籍民 問題 を複 雑 な もの とす る一 因 とな るので あ る。 Ⅲ 仮 胃籍、民の発生 台湾住 民帰 属 決定 の ころ,台湾 総 督府 は台 湾 人 が 中国その他 海外 旅 行 の 目的で旅券 下 付 を願 い 出た場合 , 当分 の間 で きるだ け制 限 を 加 え る よ う 通 達 して いた ので [同上書 :6
70
-6
7
1
]
, 対岸 福建 省 の地 で は それ ほ ど台湾 籍民 の数 は増加 しなか った。 しか し, この ころ既 に厘 門 で は渡 来 台湾籍民 が 「一 時 ノ便宜 上 構 図 臣民 卜結 托 シ名 ヲ重 民 二語 り自己 ノ便 利 ヲ 計ル
」[同上 書 :6
7
2
]
別 の型 の籍民 (仮 冒民) の 出現 をみつ つ あ った。特 に1
8
9
8
年4
月清 国 政府 の福 建 省不 割譲誓 約 は, 中国人 に福建 省 は早 晩 日本 の領有 に帰 すべ Lと感 じさせ, 爾 後 日本 籍 を求 め条 約上 の権 利 に均霜 し自家 の 利 益 を はか ろ うとす る徒輩 を族 出せ しめ るよ うにな った。 当時 日本 の台湾統 治 は いわ ゆ る - 69 -4
2
5
東 南 ア ジア研 究
1
8
巻3
号 抗 日土 匪 の掃 討 に追 わ れ戸 籍 を整 備す る主皇な く, この機 に乗 じて 中 国人 中 には好 策 を弄 し て台湾 人 の姓 名,生 年月 日を詐 称 し,あ るい は 台湾 に居住 す る親 戚 故 旧 に依 頼 し旅券 の下 付 を 出願 ,当時 の街 長 ,保 甲そ の他 当事 者 に多少 の賄 賂 を贈 り入 籍 洩 れ の扱 いを して も らい, また 官 憲 中 には 内 々そ の事 情 を知 りなが ら金 員 に よ って旅 券 を交 付 した例 が少 なか らず あ った と伝 え られ た 。8)1
9
0
0
年4
月 台湾 民 政 長 官 後藤新 平 が対 岸度 門, 福州 を視 察 した 際,間 断 総 督 許応駿 , 布 政使 張曾 数 ,磨 門道 台延年 らか ら数度 にわ た って 台湾 籍民 問題 に関す る抗議 的 陳情 を うけ て お り, 後藤 は中 国官 憲 に 日本 の 国籍法 研 究 をす す め, 後 日福州 領 事豊 島捨松 と協 議 す べ き ことを答 えて いた。豊 島 は籍 民 の取 扱 に関 して 中国人 中, 日本 に帰 化 を望 む者 は 「自家 獲 利 ノ便宜 ヲ謀 ル モ ノカ, 不 正 ノ所業 者 力清 園法 網 ヲ脱 スル馬 力 ノ二 種 二 出 ス,彼 等 - 寸i5Ji51 竜 モ忠君 愛 国 ノ観念 アル -非 スサ レ-帝 国 二 帰 化 スル モ ノ-何 時 ニテ モ他 外 国 二帰 化 シ, 甚 シキ- 一人 ニテ 数 ヶ国 ノ国 籍 ヲ有 スル モ ノ 有 之 」 とい い, 英 国政府 で は濫 りに清 国人 の 帰 化 を許 可 せ ぬ の に台湾 で は便 宜 の方 法 を と るの で, 当地 (福州 ) にて不 正 の所 業 あ る者 が渡 台 し巧 み に国籍 を得 て帰 来 す る もの2,3 名 に とど ま らず , これ が 中国地 方官 の知 る と ころ とな って感 情 問題 とな って い る。 目下 福 州 には相 当の財 産 を有 す る者 で 台湾 に入 籍 を 望 む者 は2
0
数 名を下 らぬ と思 われ る。 これ ら の者 を全 部 入 籍 させ て も日本 に と って は何 ら の利 益 に な らぬ ので , 日中関係 を阻害 す る よ うな行 為 は厳 に慎 む べ きで あ る。新 た に帰 化 8)これ ら中国人で,もっぱ ら日本国民たる特権利 用を目的 として国籍を獲得するものを特に,虜 門籍民,福州籍民 と呼んで正規の台湾籍民 と区 別 していた。彼 らは日 ・中両国籍の利益を享受 していたが, 状況の変化に応 じて, 何 時 で も 中国人に復帰すべき可能性を もっていた [井出1
9
3
7:2
4
]
。
願 い 出の者 が あれ ば, 実 際 に1
8
9
7
年5
月 時 点 で登 録 漏 れ で あ った者 か, また は有 益 無害 の帰 化 人 で あ るか慎 重 に調 査 の上 , 許 否 を定 む べ きで あ る との 意見書 を 提 出 した9)[豊 島1
9
0
0
:外 機8
]。 台湾 籍民 の 問題 は そ の後 も福 州 債事 館 の 中 村 (義), 高 橋 (橘 太 郎 )領 事 と台湾 総 督府 と の間 で , ことに1
9
0
2
年 以来 屡 々論 議 され, 厳 重取 り締 りが要請 され て い た。10)1
9
0
5
年1
1
月 6日,民 政 長 官 後 藤 新平 は福 州 領 事館 に対 し, 登 録 台 湾 籍 民 の住 所 氏 名通報 方 を依 頼 した こ とが あ った が, さ らに1
9
0
8
年2
月2
4
日に も長 官代 理 大 島久 清 次 は, 福州 債事 管 内 に登録 居 住 して い る許孟 鏡 以 下62名 は, 台 湾 に戸 籍 の 記 録 な くあ るい はかつ て 台 湾 に渡 航 の事 実 も ない ことを告 げて,不 正 の手 段 に よ って本 籍 を詐 称 し登 録 を うけた者 で ないか と して, (1) 在 台 車 の年 月 日お よ び居 住 した 場所, (2)旅 券 を交付 した署 名者 ,下 付年 月 日, 番 号, (3)荏 台 中 の知 人 お よび台湾 に親 戚 関係 者 あれ ば, そ の姓 名, (4)渡 来 の年 月 日な どの具体 的事 実 調 査 方 を依 頼 して きた [民 政 長 官 代 理1
9
0
8:
民 警2
4
5
]
。
台湾 と して は,兵 馬樫 偲 , 治 安不 良 の際 に 作 製 され た 籍民 の旅 券 を, 台 治 漸 く整 わん と 9) このころ,見玉源太郎は日本南進政策を完遂す るために,はたまた台湾統治の実をあげるため に,対岸経営の揺 るがせにすべか らざることを 論 じ,近年度門の住民が台湾の統治を仰慕 し帰 化を乞 うものが増大 しているので 「国籍法ノ外 二重帯鋸化法 ヲ設ケ,恰モ彼 ノ英国ノ香港又-海峡殖民地二於ケル英国蹄化法 卜同一 ノモノヲ 規定 スル コ トノ必要 ナルコ ト」 [鶴見1
9
6
5:
4
2
2
]
といい,福建人の台湾入籍問題を政策的視 点か ら積極的に考究すべきことを述べて,出先 外務官僚の考え方 とはかなり異なった見解を示 していることは注 目しておいてよい。1
0
)
福州領事館と並んで,あるいはそれ以上に台湾 籍民を多 く擁 していたはずの虜門領事館のこの 時期の籍民に対す る対応ぶ りは,不思議という かほとんどみ られない。これあるいは林正子氏 も指摘 するごとく, 領事上野専一 の 魔門時代(
1
8
9
6
-
1
9
0
6
)
は彼の福州在勤時代はどの台湾に 対する関心を失 っていた証査かもしれない。彼 の籍民に対する見解はわずかに『台湾協会 々報』4
2
号に散見 されるのみである [林1
9
7
9:4
9
]
。中村
;
「台湾籍 民 」 を め ぐ る諸 問題 した 時点 で , 徐 々に修 正 せ ん と し照 会 した も の で あ るが ,領 事 館 側 か らす れ ば,そ の旅 券 を 基 に籍 民 た る資 格 を証 明 して い た こ と とて , 事 は簡 単 に はす ま され な い。 代 理 領 事 佐 野 一 郎 は 同年 3月 7日付 で大 要 次 の ご と く, ほ と ん ど抗 議 的 筆 調 で 回答 して い る [佐 野 1908: 台 18]
。
1
.
従 来 福 州 領事 館 で は 台湾 総 督 府 発 給 の 旅 券 を唯 一 の証 拠 と し, これ に貼 付 して あ る写 真 と対 照 して 疑 い の な い者 の み を 籍 民 と して 登 録 して い る。 ま た婦 人 , 千 供 な ど家 族 を帯 同 して い る者 は戸 籍 謄 本 を提 出せ しめ, 確 実 な者 の み を 籍 民 と し て 扱 って い る。2.
照 会 者 の大 半 は在 籍 な しと い うが, 彼 らの所 持 す る旅 券 は い ず れ も台 湾 総 督 府 発 給 の正 当 な もの と認 め る。 これ らが 在 籍 な しとす れ ば, 従 来 台湾 総 督 府 の旅 券 発 給 の根 拠 は,如 何 な る もの で あ るの か 。 3. 翻 って 在 留 台 湾 籍 民 を み る と真 実 の 台 湾 籍 民 と 認 め られ る もの は 1- 2割 で , 過 半 は純 然 た る福 州 人 で あ り, 台 湾 とは ほ とん ど関係 が な い者 で あ る。 去 る1898 年 以 来 1903,
4
年 ご ろ まで に商 業 そ の他 を 理 由 に して 渡 台 証 明 書 を 請 求 して きた者 が あ った が , これ らの 者 が 1- 2週 間 の 問 に旅 券 を もち台 湾 籍 民 と して 帰 来 して い る。 あ るい は無 頼 の徒 , 商 業 失 敗 者 が 官 憲 の 手 を逃 れ て 台 湾 に渡 り, 数 日な ら ず して 台 湾 籍 民 と して 旅 券 を携 帯 して 帰 来 して い る例 もあ る。 これ は帰 属 決 定 の 際 の記 載 洩 れ と して入 籍 を して も らった とい うが , 事 実 は 関係 筋 に若 干 の賄 賂 を して , 甚 しき場 合 は 自己 の写 真 を 送 り通 信 の み で 旅 券 を 不 当 に入 手 して い る ご と くで あ る。 4. 噂 で あ り真 偽 の保 証 は な し得 な い が , 1902,3年 ご ろ まで は5円 くらい を 出せ ば 台湾 籍 は得 られ た が ,そ の後 10円 とな り, 現 在 で は 100円以 上 出 さね ば獲 得 困難 と 伝 え られ て い る。11) 5. 福 州 に は台 湾 籍 民 の 団 体 と して 東 嶺 会 館12)が あ り,首 脳 は今 回 照 会 の あ った黄 ll)台湾籍民の旅券売買は福建で広範囲にお こなわ れていた らしく, 1907年 には台湾人 の 旅券売 買の例証がい くつか 報 ぜ られ て い る [民政局 1907:167-180】。 さらに1912年10月在庫門の総 督府嘱託松本義成は民政長官内田嘉吉 に宛て, 泉州府の官吏李増欝よ り台湾人旅券売買の事実 あり,取 り締 り上困却する旨を告げ られたため, 調査 した ところ,取引はあたか も日本の株券売 買のごとく盛大 にお こなわれている,その方法 は秘密で,多 くは仲介人を介 し20元内外で集め られた ものが,2,3倍の高値で転売 されている, これが もし買い主の姓が券面記載 と同 じか,あ るいは同年輩 と符合すれば, 値は百元,2百元 と跳ねあが る,か くて旅券 は甲か ら乙-,乙か ら丙へ と転売 されてい く, と報告 している [松 本(134) 1912]。 1915年 には, 未遂であった が 日本人を主謀者 とす る事件が発生 している。 1914年末,台北の弁護士長嶺茂,古江徹両名は 事務員を使い,翌15年台湾で国勢調査のお こな われるのを好機 とし,台湾籍取得の希望者募集 を施範其 (初期の台湾公会 々長,現評議員,南 国公司買弁)に依頼 した事件が起 こった。謝金 をひとり銀千円とし,百円を前納,成功の暁には 2割を運動費 として施 に与える約束であった。 しか し希望者陳如実,林孟記,陳美和,部族飴, 黄卓庚,王茂郷,郵曾春 らは前金を出す ことを 承諾 しなか ったので,成功謝金千元 (円 ?)とし, 長嶺弁護士はこれ ら中国人が籍民 としての条件 を具備 していないのに虚偽の申告を して,1915 年 3,4月の間に台北庁に願書を提出 した。事件 は飯事館の探知す るところとな り台籍の獲得 は 失敗 したが,主謀者は日本人弁護士であ り,関与 者は籍民の有力者, 日本人関係会社の買弁など であったため,関係筋に衝撃を与えた。結局籍 民社会に与える影響を顧慮 して,施 には厳重戒 飾 して将来を戒めるのみの処置にとどまってい る [菊池 1915:機 密12;外務大 臣 1915:機 密10]。これを契機 に弁護士出張所が取 り締 りの 対象になる [民政部警察本署 1917(?):55】。 12)1900年 5月,福州債事豊島捨松の勧諭で成立 し た台湾籍民の互助団体。初代会長 は外務書記生 井原直鐙があたった ごとく,外務官僚監督下 に 台湾人を掌握せん とした ものである。黄成章を 協弁,林寿仁,王期端,黄金流,呉少嫌を幹事 とし,南台河域街 に事務所を開いた。最初会員 20名。1909年会則を変更 して東森学堂長三屋大 五郎が会長 とな り,さらに1915年,名を台湾公 会 と改め楊夢仕が会長 となって,完全な台湾人 の互助団体 に発展 した。会の主要業務 は,台湾 総督府援助下 に学校の経営,会員の衛生管理, 籍民の証明な どで あ った [中村 1979:168; 1980:2-6]。
- 7
1-
427東南 ア ジア研 究
1
8
巻3
号 成 章13)(日本 の勲六等 を もつ),その他 問 い合 わせ の黄金 流,14)王期 端 (先年 死 亡) ら,嘗静 々た る商 人50
数 名 が会 員 で あ る。 彼 らに対 して は,特 に咋1
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7
年1
0
月
30
日, 府 令86
号 の 外 国旅 券規 則 改 正 につ き,19
0
2
年以 前発 給 の旅 券 携 帯 者 には期 限 内 に査証 を うけ犯 則 の ない よ う平素 行 政 指 導 も して きた ので, い ま さ ら急 に在 籍 な しと否認 的 な照会 のあ るの は ま ことに遺 憾 千万 で あ る。 以上 の次第 で, い ちい ち 取 り調 べ る必 要 は ない と思 われ るので, 各 人携 帯 の旅 券 面 の要 領 を写 して送 付す るゆえ,左 様 了 承願 い た い, 云 々 [天野1
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9:公61
]
。
台湾 籍民 の問題 は,台湾総督府 ,華 南 飯 事館 相互 の重要 案件 と して, 時 に感情 的 とまで い え る往復公 文 の応 酬 とな って現 われ た。1
90
7
年9
月1
4
日に至 って虜 門領事 瀬 川浅 之 進 は台 湾籍民 の現 状 を繰 々説 明 し,本省 の考 え方 を 問 い,案 件 を如 何 に処理 ,解 決 すべ きか につ いて指示 を求 めた [瀬川1907
:機密1
8
]
。
外務 省 と して は夙 に問題 の重要 性 は認 めて いた ご と くで あ るが,事 を あ ま り明確 にせ ぬ 方 よ しと考 え,従 来 は案 件起 これ ば各 領事 ご とに別 個 に適宜 処 理せ しめて いた。 が こ こに 至 って解 決 に乗 り出す ことに決 し, 福州 ,地
頭,広東 ,上海 な ど各 領事 館 に も瀬 川 領事 の 報 告 書写 しを送 付 し, 各 管 内 にお け る台湾 籍 民 の状 態 を調査 報告せ しめ る ことに したOⅢ
対 岸 にお け る台湾籍 民 ここで華南 にお け る台湾 籍民 の状 態 を,各1
3
)
本籍,台北大稲堤北門外後街5
8
。質舗を経営 し ていた紳商であった。1
4
)
本籍,台北大加納隻艦肺歓慈市街4
0
。1
8
9
8
年福 州に渡来,城内に質舗東来号,城外南台に泰古 興記洋行なる古鉄 (船材)業を営む,福州にお ける台湾尊氏古参者のひとりであった。北京語 に通 じていた。 領 事館 の報 告 に基 づ いて概 観 して お くのが便 利 で あ ろ う。 も っ と も当時(
1
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9-1
91
0
年 ) 台湾 籍民 と して直 接 問題 にな ったの は福建省 の度 門, 宿 州 15)で,広東 省 のき山頭,広東 は まだ それ ほ ど 重 大性 を もたれ て い なか った。 油 頭 の場合,1
911
年 現 在 で籍民 の大 多数 は 生 地 で あ る奥地 に居住 し,仙 頭市 には6
0
名の 居住 者 が あ るの み,潮 池 鉄道16)に就 業 して い る者 の ほか は常 に近県 各 地 を往 復 し,生 活状 悲,風俗 習慣 な ど も一般 の潮仙 人 と異 な らず, ただ本 人 が住 民 分 限取 扱 の あ った 際, た また ま台湾 に往 来 して籍民 資格 を得 た のみで台湾 には何 らの不 動産 ,財 産 を もたず, 籍民 と し て の権 利 は何 らか の事 あ った際 に行 使 した ど と くで あ るが, 近年 は籍民 の効 力薄 らぎ,彼 らもそ の意識 を閑却す るに至 った ご と くで あ る とい う あ りさまで あ った [内 田1
9
11
:機 密送114]。 また広東 の どと きは, さ らに後年 の1
91
6
年 で も籍 民数3家族 を合 わせ て も10
名 で, いず れ も相 当の資 産 あ り, 正業 に従事 し, かつ独 立 自尊 の念 の厚 い広東 人 の間 には台湾 籍 を仮 冒す る者 もな く,虜 門,福 州 の ど とき問題 は1
5
)
当時厘門,福州領事館に登録 していた台湾籍民 の職業別人口表は中村[
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0;1
3
,衰 1
]
を参照。 両地 とも1
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年前の1
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年室田義文の赴いた折に は在留台湾人の数は少な く,度門には8
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余名, 資本総額7
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-7
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万円,もっともその中には座金 逃れの仮冒人が多い。福州はさらに少な くわず かに9名,資産は6万2千円くらいと報ぜ られ た [台湾4
7 1
9
0
0
]
。1
6
)
地頭,意渓間2
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.
5
マイルを運行する鉄道。南洋 華僑張燈南 (ジャヮ,スマ トラ),謝栄光 (ペナ ン),呉理郷 (香港),林震生 (度門,台湾籍民) らが出資 し,1
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0
4
年か ら工事を開始 した。建設 には日本の三五公司 (愛久滞直哉)が請け負い, 日本人技師長設計の下に資材をいれ1
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0
5
年11月 竣工,次いで1
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0
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年潮州,意狭間も追認完工, 業務を開始 したので,従業員には日本人 (含台 湾籍民)が多かった。軌道は4沢 8吋の広軌, 男女客は別車輪として混乗を許 さぬ特色があっ た 【外務省1
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1
5;7
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】。中村 :「台湾尊氏」 を め ぐ る諸 問題 なか った[赤 塚 1916:機 密16]。 当時屋 門 にお け る台湾 籍民 登録 者 は251戸, 主 と して雑 貨 ,茶 ,銭 荘 ,反物 ,金 銀細工 , 穀物 , 煙草 な どの商 業 を営 んで いたが,概 し て資本 額 は小 さ く1千 元 ない し 8千元,取 引 額 も年5千 元 ない し 1万 元 とい うのが全体 の
7
割 を 占め る とい うあ りさまで あ った。 彼 ら の多 くは土 着 の 中国人 で郷里 に若 干 の不 動 産 を有 し, 中 には20-30万 元 を有 す る者 もあ っ た が台湾 に もつ 者 は少 な く,彼 らの実 際上 の 本 拠 は台湾 に非 ず して慶 門で あ った。 営業 組 織 も自身 で単 独経 営 の者 もあ った が, 中 国人 と合 同経 営 が あ り,純 然 た る名儀 貸 し (ひ と りで数 人 に貸 す例 もあ った) の ほか, 支店 は 一 切 中国人 支配 人 に委 す もの が多 か った。 こ れ は後 述 の税 減 免 の特典 が あ るので, 中 国人 は名儀 料 を払 い (当時1
カ年2
百 円の相場 と い う)外 国商 の招牌 の下 に営業 に従 事 して い た ので あ った [森 1910:機 密5]。 福州 の場合 も登 録 台湾 籍商 約百 戸 は,材木 , 樟 脳 , 綿布 ,海 産物 ,雑貨 ,運送 業 な どに従 事 して いた が,資 本 額 は2,3万 ない し 7,8 万 くらい の もの もあ るが概 して小 規 模 の もの 多 く,経 営形 態 も度 門 の場 合 と同 じ く1
.
独 力経 営 す る もの 20戸 内外 。2.
中国人 と共 同経 営 合 資組 織 に し, 日本 商 名儀 で其 々洋行 と称 し, 各種 税金 を免 れ営業 す る もの, この種 の ものが1 番 多 く30ない し40戸 くらい, 出資資本 の 割 合 は1 :1が多 いが,稀 に 1割 , あ る いは2割 とい う もの もあ る。3.
名儀 貸 し 台湾籍民 は 出資せ ず,単 に名儀 のみ貸 して各種 税金 ,厘 金 な どを 免 れ て い る もの,約10戸 くらい。 この場 合 台湾 籍民 は月15ない し20元 の名儀貸 し 料 を うけ る。 4. - 時 の名儀貸 し 3の どと く常 時 名 儀 を貸 す ので は な く, 中国商 が地 方 官 憲 か ら不 当の課 税 また は処 分 を うけた際, あ るい は係 争事 件 な どの場合勝 訴 の見込 み薄 い時 ,巧 言 を もって 籍民 関係 の事件 で あ る と詐 称 して領事 館 に 申告 ,成 功 の 上 は少 なか らず報 酬 を うけ る もの, た だ しこれ は近 年 減少 して いた [岩村 1909: 公61附]
。
上 述 の ご と く中国商 は台湾 籍民 を仮 冒 し, あ るい はまた籍民 と共 同 また は名儀 を借 りて 商 業 を営 まん と した が, その理 由の最大 な も の は台湾 籍民 が 日本 人 と して の特権 に均霜 せ ん と した ことにあ る。 当時台湾 籍民 は, 内地 税 は開港地 の厘金 を免ぜ られ,抵 代税 (子 口 秩 ,定額 は従価 2分 5厘 ) を払 うの みで,一 切 の苛税 ,人 頭税 を払 う必要 は なか った。17) ・い うまで もな く厘 金 は清末 に創 設 された 内 国関税 の一種 で,太平 天 国乱 後膨 大 な軍 費支 出 に悩 んだ政府 が,従来 の常 関 の課 税範 囲外 の商 品 に賦 課 した もので あ った。 福建 省 の場 合成 豊7 (1857)年 か ら開始 され, 当時67の 厘 金 局 が あ って福建通 商百 貨行 商厘 金葦 程 に よ って商 品 に賦課 し, 定客削ま92万 2千 5両 と 定 め られ (実収 は80万両 内外),省収入 の最 大 を 占めて いた。 この うち福州市 内で は水 亭 厘 金 総 局 (収入 定 額17万8,920両) を主 と し, その他 上渡 ,洲 頭 ,新 橋 な どに分局 が あ り, また万 寿 橋 には関 安 閑 と称 す る落地 税 関が あ った。税率 は一 様 で なか った が,概 ね商 品価 格 の4- 5% ,落地税 の場 合 は同 じ く1%以
下 が課 されて いた。 この場合 台湾 籍 民 は,秦 約上 の特 権 によ って無 税 で通 関で きた ので , 籍民 中取 引の大 な る者 は年 間2- 3千 円,小 な る者 で も数百 円を免 れ る ことがで きた とい う。厘 金 局 と して は年 額4-5万 両 の減収 とな った とい うか ら,仮 冒台 湾人 の摘発 には鋭 意 努 力 した わ けで あ った。 台湾 籍商 は輸 出入 商 品 1件 につ き50銭 の手数料 を領事館 に払 って 17)その他台湾籍民の負担すべきものに,地租,響 察費 (厘門の場合,月1- 6元),清街費があっ た 。 - 73- 429東南 ア ジア研究 18巻3号 三咲 単,子 口単18)を得 る仕組 みで あ った (毎 月 2百∼ 3百 件)。市 内販売 の際 は手 数料 な し で認証 を得 て いた (毎月 2百 件)[同上文 書]。 屠 門 の場合 も籍商 は抵 代税 と して の三瑛 単 (年約70), 子 口単 (籍 商 が直 接厘 金局 に願 い出 るた め実状不 明) を使用 す るが,厘 金 総 局 (4分局 あ り) で は税 収 の減少 を恐 れ て, 多量 の貨物 を輸入 す る者 が あ る時 は輸入者 と 談合 し,数量 を少 数 に見 積 って抵代 税以下 の 少 額座 金 を課 す よ う工 作 して いた とい う [森 1910:機密 5]。 いずれ に して も,籍民 で あれ ば少客銅内金 で 営業 を な し得 る便益 が あ ったわ けで あ る。 この よ うな経済上 の利点 のみ な らず, 台湾 籍民 は身体財 産 に関 して領事裁判権 の下 に保 護 され て い るので,訴 えが な されて も自国法 によ り審 問 され るので, そのた め に特 に多額 の費用 を要す る ことが ない。 これ が中国人 で あ る と,逮捕 され れ ば上 は地 方 官 か ら下 は背 吏獄 卒 に至 るまで若干 の賄 賂 を して裁判 を有 利 にせ ねば な らぬ ので,莫大 な費用 を要 す る。 現在 は籍民 が訴 え られ る と領事 に願 い 出て照 会 を乞 うとと もに, 中国官 憲 に も賭 して適宜 の処分 を願 うのが普通 で あ る。 かつ て は, 中 国官憲 は種 々の 口実 を設 け籍民 を逮 捕 した こ とが あ った が,外 交 問題 に まで発展 し, 日本 側 の抗 議 で解放 され,該地方 官 は その後上 級 官庁 か ら叱責 され,草職 に追 い込 まれた こと もあ り,滋擾 を恐 れて地方官 はで きるだ け穏 便 に扱 わん とす る傾 向が 出て きた。 これ が民 事 事件 にな ると籍 民提 訴者 (原 告 ) は保 証 人 連署 ,
2
通 の漢文 訴状 の ほか,訳 文 を添 えて 領事 館 に提 出,領 事館 が審理 の上 正 当 と認 め 18)土貨を搬出の場合の三蔵単,洋貨搬入の場合の 子口単の扱い に関 して は臨時台湾旧慣調査会 [1905:673-675]参周。 福建の厘金に関 して は 井出 [1932:129-135;1934:12511301参周O 悪徳籍民の中にはひとりで10枚,20枚の三咲単 を得,中国商に売 るものもあった [瀬川 1907: 扱密18]。
た ものを 中国官庁 に照会す る。 屡 門 の場合, 平 均毎 日1
通 あ り,領事 館 は手 不 足 で なか な か処 理 で きなか った。裁判 と もなれ ば多額 の 費用 を要 す る こと とて, で きるだ け係 争 事 件 にな らぬ よ う下工 作 をす るので,案件 は実 際 は これ以 上 にあ る ことと思 われ る。 これが 中 国人提 訴 (原告) の場 合 で あ る と,地方 官 に は多額 の金 を賄 し,領 事館 に訴 え るに も手続 不案 内, その上弁 護士 に依 頼 す れ ば多額 の費 用 を要 す るので,多 くの場合 台湾 籍民 とは係 争せ ぬ とい う傾 向があ るといわれ て いた。 か くて台湾 籍民 た る こ と は1
.
諸種免 税 に よる営業 の安泰,2
.
資 産家 は 日本 領事館保 護 の下 に一家 の安全 を衛 り, 場合 に よ って は籍 民 た る ことを利 用 し不 当の利 益 を享受 す る こ と もで き, また民 事刑 事 の係 争 の際 に も多大 の便 益 を うけ る こと とな った。 1909年 ごろにな る と台湾 籍民 た る ことを仮 冒す る者 も激 増 した。 当初 ,領事館 で は台湾 総督府 の発 給 した旅券 を もって国籍 を証 明す る唯 一 の証 想 と し居留 民 名簿 に登録 し,爾後 日本 国民 と して保護 した ので,福 州 で は3
百 の籍 民 (1909年)中,真 の台湾人 は3分 の1の 百 名,他 の3
分 の2
は不正手 段 によ って台湾 籍 を得 た もの と想 像 されて いた [岩村 1909: 公61附]
。
この状 況 は屠 門 も同様 で,1907年9 月報 告 で は 正 当籍民 は住 民 の 1割 た らず [瀬 川 1907:機密18](6月 の調査 で は籍民 の戸 数240, 人 口1,300とあ る)。 また 同年3月 台湾 で戸 籍整理 後発給 され た旅券 を所 持 した 者 で1908年2月 領事館 に登録 した 台湾籍民 で も, そ の後 の総督府 調査 で不正 入手 の疑 い あ りと照 会 され た者 が3百 余 名 あ った とい う [森 1910:機 密 51。 もちろん これが 全 部不 正者 で あ った わ けで は ないが,少 な くと も相 当数 の不 正者 が あ った ことは否定 で きない。 台湾総 督府 並 び に華南領事館 は大 々的 に仮 冒者 の整理 をせ ね は な らな くな った わ けで あ る.中村 :「台湾籍民」をめ ぐる諸問題 Ⅳ 東 南 ア ジ ア に お け る台 湾 籍 民 華 南 , 特 に福 建 に お け る台 湾 籍 民 の取 扱 が 問題 に な り出 した ころ,東 南 ア ジ アで もわ ず か な が ら論 議 され て い る。 も っ と も最 初 は在 留 す る籍 民 の 数 も少 な く, 日本 公 館 も各 所 に 開 設 され て い な か った の で , 表 面 的 に取 りあ げ られ る ことは なか った 。 と ころが1908年10月 , 日本 人 井 上 尚 な る も の が 台湾 人 孫 元 堂 , 孫 江 水 を伴 い ス マ トラ東 海 岸 パ ガ ン ・シ ・ア ピ ・ア ピに 日本 語 学 校 を 開設19)せ ん と して 渡 航 ,土 地 の 官 憲 は取 り調 べ と称 して シ ンガ ポ ール 領 事 館 発 給 の 旅券 を 取 りあ げ返 還 せ ぬ事 件 , ま た頼 慶 富 , 劉 元 な る台 湾 人 が商 用 の た め 同 領 事 館 発 給 の 旅券 を もち ス ラバ ヤ に至 り, 内地 旅行 券 の交 付 を 申 請 した の に拒 絶 され , 劉 の ど と きは 罰 金 を課 せ られ る事 件 が 起 こ った [鈴 木 1908:機 密 10;染 谷 1909:公 信27]。折 か ら 日蘭 間 には 領 事 に関 す る条 約 が結 ば れ (1908),日本 は最 恵 国 待 遇 を得 て 蘭 領 イ ン ドに領 事 館 を 開設 す る こと に な り,1909年 3月 , 染 谷 成 章 が領 事 と して バ タ グ ィア (ジ ャカル タ)に着 任 した 。 既 に同 様 な幾 つ か の不 当取 扱 事 件 が 届 け 出 ら れ て い た の で , 彼 は公 館 最 初 の仕 事 と して 台 19)パガ ン・シ・ア ピ・ア ピには福建人多 く居住 し, 塩田借地を基礎に保存に必要な塩の安価入手が 可能 で, 早 くか ら蝦漁を中心 とす る漁業 が 営 まれて いた [満鉄東亜経済調査局 1940:292 -293]。 明治末年帰化台湾人孫某が村民の希望で この地 に学校を設け,約百名の生徒に日本語を 授 けていた とい うが,未公認のため地方官憲の 干渉で閉鎖を命ぜ られた。のち住民有志 は再開 を志 し,井上 に相談 し,1909年10月間人 ら一行 渡航の際は宿舎,食糧を提供 し開校のための尽 力を した。 しか し今回 も根回 し的な予備交渉を欠 いたため 官憲の許す ところとな らず,井上 らは空 しくシ ンガポールに引きあげの止むなきに至 った [鈴 木 1908;機密10]。 湾 籍 民 取 扱 の 問 題 と取 り組 ん だ ので あ る。 当 時 日本 領 事 館 に登 録 した 台 湾 人 は ス ラバ ヤ方 面 にわ ず か30名 くらいで あ った が, 彼 は蘭 領 イ ン ドの官 憲 と交 渉 して 台 湾 籍 民 も日本 人 と 同様 , 領 内 の居 住 , 通 行 の 自 由 を認 め しめ よ う と した。 時 を 同 じ く して東 京 の在 日オ ラ ン ダ公 使 館 は本 国 か らの訓 令 に よ り, 台 湾 人 の 国籍 関係 を 問 い合 わせ て きた く4月 27日)0 内務 省 は 関係 法 令 を 示 し, 日本 国籍 の あ る 旨 を 回答 した [内務 次 官 1909:書 甲10]の で , オ ラ ンダ との 交 渉 は急 速 に進 捗 した もの と思 わ れ る。 当時取 り決 め られ た こ とは, 台 湾 人 に限 り蘭 領 イ ン ドに入 国 の際 は,戸 籍 謄 本 の ほか , 台 湾 駐 在 オ ラ ンダ 領 事 の査 証 を求 め, ま た 目的 地 以 外 の地 に至 らん とす る者 は, 予 め新 旅 券 に変 更 の上 , 同 じ く領 事 の査 証 を う けて渡 航 す る こ とが要 求 され た [染 谷 1909: 公 信15]。 この よ うに台 湾 人 が ,日本 人 とは別 の 厳 重 な査 証 を要 求 され た こ とは,東 イ ン ド 在 住 中 国人 (パ パ ・チ ナ,僑 生 )統 御 上 の点 か らとみ られ た。 か くて 査 証 の な い旅 券 を所 持 す る台 湾 人 は,近 くの シ ンガ ポ ール まで 赴 き, 改 めて オ ラ ンダ 領 事 の 査 証 を得 な けれ ば な ら な か った [染 谷 1909:機 密 6]。 外 務 省 は総 督 府 に 要 旨を 通 告 した が [外 務 次 官 1909: 送126], 台 湾 で は戸 籍 謄 本 な きた め戸 籍 調 査 の抄 本 を も って これ に代 用 す る こと と し, オ ラ ンダ 領 事 の査 証 を うけた普 通 旅 券 と と もに 携 行 せ しめ る こ とに し, そ の 旨を告 示79号 を も って 公 示 した [大 島 1909:民 総2734]。 し か しオ ラ ンダ 領 事 の査 証 は翌 10年11月 6日に は不 要 と改 め られ て い る (府 報 )0 蘭 領 イ ン ドに お け る台 湾 籍 民 の取 扱 問題 は 法 的 に は解 決 した 。 爾 後 東 南 ア ジア他 地 域 で 同種 類 似 の法 的 問 題 が起 こ った場 合 に は, こ れ を 参 考 に して 処 理 され る よ うに な る。 ひ と - 75- 431
東 南 ア ジア研 究 18巻3号 つ の解 決 の前 例 が で きた とい って よい。20) だ が問題 が完全 に解 消 した わ けで はな い。 元 来 ス ラバ ヤ在住 の台湾人 は多 くが
3
0
年 ,4
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年 と在 留 し, その間1
度 も帰 島 した ことが な く, 日常生活 は古 くか ら蘭領 イ ン ドに居住 す るパパ ・チ ナ と同様 で あ った。パパ が 中国人 と して,法 的 に経 済 的 に, 多 くの制約 が あ る の に反 し,一見パ パ と異 な ると ころの ない台 湾人 が 日本 人 と して の特 権 を もつ よ うにな っ た ことは,統 治者 の立 場 か らす れ ば問題 で あ る。 英 ,仏 の植民 地 で は, その国 の籍 を取得 した 中国人 がその地 を離 れれ ば籍民 と して資 格 を失 うので, オ ラ ンダ もこれ ら英 ,仏 籍民 が東 イ ン ドに来住 す れ ば中国人 と して扱 って いた。 しか るに台湾人 は 日本 人 と して別扱 い で あ る。 機 をみて 台湾 人 もこれ ら英 ,仏 籍民 と同 じ扱 い に され る ことが ない とはいえぬ。 日本 側 当局者 は危供 の念 で眺 めて いた こと も 事実 で あ る [染谷1
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:機 密4]
。 一方 また 中国人 社会 に も変 化 が み られ 出 し た。台湾人 が 日本 人 と して の特権 を享受 す る よ うにな る と,渡来者 の増加 が み られ るよ う にな った。 これ ら新来 の台湾人 は, これ また 言語,挙 動,服装 に至 るまで 中国人 と同様 ,し か も多 くは 中国商 の家 に寄食 して い るの に, 日本人 と して の待遇 で あ る。 永年東 イ ン ドに 居住 して オ ラ ンダ に同化,相 当の学 識,資 力 の あ る中国人 で も東 イ ン ド総 督 の特 許 が な け2
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)1
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年8
月サイゴン領事は,余宗芸,郭阿手並の 両名が台湾総督府発給の旅券を有するが正当に 日本国籍の証明書をもたぬとして,果た して正 当な台湾籍民なりやと雁会 してきた(不正)。さ らに翌15年3月にも林藍の籍民事件が起こって いる。この場合インドシナ側では,中国人がア ジア人に課せ られる税を免れるため日本人を詐 称する例があるため,日本外務省を経由台湾に 周会,回答のあるまで当人を移民局に中国人同 様の扱いで拘留するというありさまであった。 日本領事館では,台湾人は今後旅券中に本人国 籍獲得の時日,並びにその原因を明記せ しめる か,あるいは国籍登録証を携帯せ しめるかにし たいとしている 【成島1
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1
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]
。 れ ば欧人待 遇 は得 られ ない。加 うるに中国で は, 自国民 の他 国へ の帰 化 を許 さないので, かつ てパパ ・チ ナは 日本 籍 を得 よ うと工 作 し た ことが あ り, この間 にあ って悪徳 日本 人 は 帰 化 を世話 す る と称 し2百 ギルダ ー,少 な き も4
0- 5
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ギル ダ ーを詐取 した ケ ースが あ っ た。 しか も日本 の帰 化法 は厳重で成 功せ ず と み るや 日本 人 に入 夫 した り, あ るいは台湾 の 故 旧 に連絡 して台湾 籍 を得 ん と し, 中 には既 に成 功 した もの もあ る と伝 え られ た [同上文 書]。 日本 領事 館 が開 かれ, 台湾人 も 日本 人 同様 の扱 いを され るよ うにな る と, 中国人 は オ ラ ンダ政府 に迫 って,彼 らが何 ら台湾人 と 異 な る もので ない ことを愁 えて改善 を要 求 , 中国政府 また国籍 問題 を討 議 して迂余 曲折, 遂 に領事館 を開 いて 日本 と同 じ領事 協 定 を結 ぶ の に成 功 (1911年 5月 ),パパ ・チナの待遇 問題 は解 決 した [満鉄東 亜 経 済調 査局1
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-
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]。 従来 日本人 の欧人並 み権利 の獲得 が在 留 中国人 を刺激 して,彼 らも同様 の権利 を 獲 得 す るに 至 った ことが 伝 え られて い る が, 実 はその 中で も台湾人 の存在 が 中国人 に 大 きな刺激 を与 えた ことを この際特 に指摘 し て お きた い。 Ⅴ 籍 民取 扱 の確 定 日本 政府 は増加 しき った仮 冒籍民 を整理せ ん と考 え たが,旅券 発給 後1
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数年 を経 過 した 時点 で の調 査識別 は困難 が伴 い, た とえ不正 を究 明21)し得 た と して も既 に永年,台湾籍民 と して領事 館 で認 め, 中国官憲 に表 明 して い た者 をい ま さ ら台湾人 に非 ず と否認 す る こと は,政府 の威 信 上 で きが た い問題 もあ る。心 情 か らい って も, 台湾 籍民 の漢民 族 と しての2
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)
福州領事館 では台湾総督府 との公文往復 の結 果,正式な旅券所持者の中に5
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余名の不正所持 者を発見 した。かかることは産門領事館管内も 同様という 【天野1
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:公9
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】
。
中村 : 「台湾籍民」をめ ぐる諸 問題 風 俗 習 慣 は急 速 に改 変 で きぬが, 既 に 中 国人 と別 個 の社 会 を形 成 し,経 費 を捻 出 して 籍 民 の団体 (東 嶺 会 館 - 注 12) 参 照 - , 台 湾 公 会22)) を維 持 し,積 極 的 に学 校 な どを設 け て子 弟 を 日本 人 的 に教 育 せ ん と し (注24)秦 照 ), また軍 事公 債 な ど に応 募23)して 忠良 な 臣民 た らん ことを期 しつ つ あ る。 福 州 領事 天 野 恭 太 郎 は,この際解 決 策 と して ,台湾 総 督 府 と産 門領 事 館 相 互 間 で で きた素 案 を基 礎 に, 1. 台湾 に本 籍 の な い の に在 留 地 領 事 館 に 籍 民 と して登 録 され て い る者 は, た とえ 不 正手 段 で 旅.券 を入 手 した者 で も, 領事 館 で 除 籍 し難 い事 情 の あ る場 合 は,本 人 の素 行 良 好 で 日本 に忠 誠 を誓 い真 に 日本 人 た る ことを望 む 旨を誓 約 確認 の
上
,本 籍 地 に新 た に戸 籍 を作 成 入 籍 させ ,旅 券 の発 給 をす る。 領 事 館 で 除 籍 に異 議 の な い者 は旅 券 を発 給 せ ず , 除 籍 す る()2.
平 素 の行 動 不 明, 一 定 の職 業 な く, 召 喚 に も応 ぜ ず , 日本 国籍 を与 え る ことは 不 適 と認 め た者 は除 籍 の上 ,総 督府 と本 人 に通 知 , 申 し渡 しす る。 3. 妻 子 の入 籍 問題 は, 本 人 が有 資 格者 な 22)1906年 9月度門在住の台湾籍民施範其,股雪圃 らは布袋街の芳記洋行を仮事務所に,籍民相互 の親睦,公益をはかる目的で台湾公会の設立を 願い出た。当時籍民は2百数十戸,多 くは小規 模の商人で,その間に混 じって,多数の仮胃人 ありとみ られていた。領事館では設立の目的に 功利的意図があるとみて,時期尚早 として簡単 には公認 しなか った。あるいは福州のどとく日 本人指導下の会の成立を期待 していたのか もし れない [台湾90 1900]。 しか し翌1907年春飯事 瀬川浅之進が赴任するや,折か ら台湾か ら来た 『全問新 日報』の江保生 に命 じて章程の修正を なさしめ,5月 に至 って設立が公認 された (会 長施範其,副会長殻雪団,評議員13名)。会の 主要業務は籍民の登録その他に便宜をはかるほ か,台湾総督府援助下 に旭漉書院の経営,会員 の衛生管理 などが 含まれていた [中村 1980: 1]。
23)日露戦争の際対岸の台湾籍民にも軍事公債 に応 募す る者あり,虜門の施範其のどときは 1万円 を応募 している。 れ ば 台 湾 籍 を 与 えて も よい と 思 われ る が, い ま福 州 在 留 籍 民 を240名 と し,秦 子 を2名 とす れ ば全 員 で 1千 名 くらい と な る。 華 南 の籍 民 を2千 名 とす れ ば ,坐 体 で1
万 名 に もな り,取 り締 りに は注 意 を要 す る と思 わ れ るので , 不 良 籍 民 を淘 汰 した あ とに妻 子 問題 を 審 議 す る。 また この処 置 は急 激 にや れ ば疑 惑 を もた れ る ので ,徐 々にか つ慎 重 にお こな うべ きで あ る。 と した [天 野 1909:公 93]。 天 野 は また さ らに筆 を進 めて , 善 良 な籍 民 を積 極 的 に忠良 な臣 民 に改 造 す べ き方 図 を述 べ , それ は教 育 に よ るべ く,現 在 台 湾 総 督 府 が教 員 を 派遣 して い る 東 藩 学 堂24)は有 効 な 成 績 を あ げて い るの で, これ を 拡 張 して 籍 民 子 弟 を 強 制 的 に入 学 せ しめ,年 長 者 に は夜学 を設 けて 日本 語 を学 習 せ しめ, 事 情 の許 す 限 り中 国人 も入 学 を許 可 す れ ば親 善 の実 を あ げ る ことに もな る と した 。 さ らに台湾 人 の 同郷 団体 た る東 濠 会 館 に積 極 的 に入 会 せ しめ,東 藩 学 堂 教 師 そ の他有 識 者 を招 いて講 話 会 を催 し日本 的 教 育 を施 して 同化 政 策 を お こな う。 台 湾 籍 民 が増 加 す れ ば現 在 の領 事 館 警 察 で は 取 り締 り不 可 能 なの で, 台 湾語 (樟 泉 語 を指 す ) ので き る, 台 湾 で訓 練 を うけた本 島人 巡 査 捕 1, 2名 を採 用す る ことが望 ま しい。 か くて 従 来 とか く厄 介 視 して いた 名儀 上 の籍 民 を 忠良 な 日本 帝 国 の臣民 とな し,将 来 帝 国発 展 の一 助 となす べ きで あ る, 台 湾 総 督府 と協 議 あ りた い と菓 請 した [同上 文 書]。 この裏 請 を うけた外 務 省 は, 籍 民 問題 を至 急 解 決 す る必 要 に迫 られ , 2月 か ら 6月 の間 台 湾 総 督府 と も数 次 にわ た って協 議 を とげ, 24)1908年福州の台湾籍民 が, 子弟 のため 日本語 および台湾公学校程度の普通学を授けるべ く設 立 した教育機関。台湾総督府は教員を派遣 して これを援助 した。厘門にも同 じく台湾公会によ って旭濠書院が 設立 された [中村 1979・.16 0-170;同 1980:1-19]。
- 77- 433東南 ア ジア研究 18巻3号 一 応 次 の ご と き籍 民取 扱 の案 を作 りあ げた。 一 台 湾入 トシテ領 事 館 二登 録 セ ラ レ居 ル モ台湾 二本 籍 ヲ有 セサル者 ニ シテ従 来 領 事 館 二於 テ 台湾 人 タル コ トヲ公 認 シ今 更 之 ヲ否認 シ難 ク且 本 人 ノ品行 , 技 能 ,質 産其 他 諸 般 ノ状 況 二鑑 ミ我 国 籍 ヲ有 セ シ メ差 支 ナ シ ト認 ムル モ ノ- 台湾 二渡 航 セ シメ台 湾 纏 督府 二於 テ新 二籍 ヲ作 リテ吏 二旅 券 ヲ下 附 スル コ ト 二 台 湾入 トシテ領 事館 二登 録 セ ラ レ居 ル モ台湾 二本 籍 ヲ有 セ サル者 ニ シテ本 人 ノ 品行 ,技 能 ,資 産 其 他 諸 般 ノ状 況 二鑑 ミ我 国 籍 ヲ有 セ シムル ヲ有 害 ナ リ ト認 メ タル モノ ハ 領事 館 二於 テ旅 券 ヲ引上 ケ登 録 ヲ 取 消 シクル上 其 旨 ヲ台 湾総 督府 二通 報 シ 同府 二於 テ-再 ヒ旅 券 ヲ下 附 セ サル コ ト 三 台湾 入 トシテ領 事館 二登 録 セ ラ レ且 ツ 台 湾 二本 籍 ヲ有 スル モ ノニ シテ本 人 ノ品 行 , 技能 ,資 産其 他 諸 般 ノ状 況 二鑑 ミ我 国 籍 ヲ有 セ シムル ヲ有 害 卜認 メ且 日本 人 タル コ トヲ否 定 スル モ支 障 ナキ モ ノハ領 事館 ヨ リ台湾 絶 督府 二之 力除 籍 方 ヲ照合 シ除籍 ノ通報 ヲ得 タル上 旅 券 ヲ引上 ケ登 録 ヲ取 消 ス コ ト 四 左 記 ノ者 - 支障 ナ キ限 り入 籍 セ シムル コ ト但 シ国 籍 法 二依 り当然 日本 人 タル モ ノハ取 捨 ノ限 二在 ラス 台湾人 力台湾 籍 ヲ取 得 シタル 当時 ヨ リ ノ妻 及 其 当時未 成年 者 ク リシ子 並 此等 ノ者 ノ子 台湾 人 力台湾 籍 ヲ取 得 シタル後 国 籍法 施 行迄 ノ間 二於 テ婚 姻 シタル 妻及 右妻 ノ子 [外務 大 臣
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:機 密送1
8
]
。 よ って外務 省 は まず1
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10
年12
月2
日福 州 領 事 高洲太 助 に対 し [同上文 書], つ づ いて12
月 6日に は屠 門領事 菊 池 義郎 お よび地 頭領 事徳 丸 作戒 に対 し [外 務大 臣1
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:機 密送1
6
]
, 該 案 は各 管 内の実 状 に踊 ら し, 果 た して実 行 可 能 な りや否 や, さ らに実 施 の得 失 に関 す る4
3
4
意見 を 聴取 した。 これ に対 し徳 丸地 頭 領事 [徳 丸191
1:機 密1
], 菊 池 屠 門領 事 [菊 池191
1
:機 密3]
はいず れ も即 時実 行 差 支 え な しと返 信 ,高 洲 福 州 領 事 も, 妻 子入 籍 の問題 は後 日に残 す べ き 旨の留 保 を付 して原 案 に賛 成 した [高洲191
1:機 密4
]。 よ って外務 大 臣 は在 清伊 集 院 (彦 吉 )公 使 に情 況 を伝 え,意 見 の有 無 を照会 [外務 大 臣191
1:送3
2
]
,公 使 よ り も異 議 な しと返 電 が あ り (6
月2
1
日), さ らに最 終 的 に台湾 総 督 府 に も通 告 [外務 次 臣1
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:機 密送102
]
, 了 承 を得 て [内 田19
11
:民 内447
4
]
,ここに この取 扱 案 は実施 に 移 され る ことにな った。 外務 省 は福 州 ,慶 門, 池 頭 各 領 事 に訓令 を 発 し191
1
年1
0
月 末 まで に審議 を要 すべ き関係 者 の姓 名, 住 所 , 品行 , 技能 ,資 産 そ の他 参 考 とな るべ き事 項 を取 り調べ た名簿 の作成 を 命 じ, 完 了 の上 は台 湾 総 督府 ,外 務 省 よ り同 時 に派 遣 され た吏 員 と現 地 領 事三 者 の間 で協 議 の上 , 名簿 の検討 を お こなわせ る ことに し た。各 地 の領事 館 は積 極 的 に作 業 を進 め,磨 門 は同年9
月1
8
日, 福州 は同1
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月 5日, 名簿 の作成 を完 了 した。 仙 頭 は事 務 延 引 して いた が,
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0
月末 まで に完 了 の見 込 み と報 ぜ られ た 。 か くて外 務 省 よ りは参 事 官 木村 鋭市 , 台 湾 総 督府 よ りは警務 局 警視 加 福 豊次 を派遣 , 両 名 は11
月 台 湾 で落 ち合 い渡 華 ,各 地 の領事 と 会 同 の上 , 籍民 の取 捨 ,本 籍 地 の設 定 , 削除 を なす ことに な り,三 者 協 議 して 名簿 の確 定 を お こな い, 木 村 は1
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12
年2
月 帰 国 した。25) 25)その後の処置としては,台湾総督府は除籍者の 台湾における財産の有無を調査 し,財産ある場 合は除籍の撤回をなす,再調査者の結果を飯事 館に報告 し,必要な場合は原簿の訂正をおこな うことが定め られた。 しか しこのような結果を 公表することは,紛擾弊害を惹起する恐れがあ るため,除籍者または登録抹消者が,出頭また は交渉事件のある時個 々に宣明することにし, 一般 には公表せぬことに した。さらに在籍,ま たは新来者の家族の入籍は今後各領事館で調査 の上,直系尊属者,配偶者に限 り,各関係本人 の意志を参酌 して入籍の方法をとることなどが 定められた [木村1
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1
2
]
。中村 :「台 湾 籍 民 」 を め ぐ る諸 問題 当時 報告 され た台 湾 籍 民 の登 録 数 は次 の ご と くで あ った 。 1907年 3