人間存在のメディア論的構成
著者名(日)
小林 修一
雑誌名
東洋大学社会学部紀要
巻
40
号
2
ページ
31-44
発行年
2003-01
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002279/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja人間存在のメディア論的構成
Mediologistic Construction of Human Existence
小林 修一
Syuuichi KOBAYASHI
(1) メディア (三項図式) 本稿では、世界に関与する人間存在のあり方、その枠組みを再構成するために、ピアジェのシェマ に関わる二項図式を三項図式へと拡張、改変することをめざす。ピアジェの行為図式は基本的に、「シェ マ」一「対象」の二項図式からなるものである。しかしながら、人間と世界との関連は、基本的に間 接的、媒介的なものである。それゆえ、ピアジェの二項図式を三項図式へと拡張する必要がある。こ の点で、ヴィゴツキーの試みは参照に値する。彼にとって、人間と世界とを媒介するのは、文化であ り、それは象徴的体系にほかならない。ヴィゴツキーはこれを「ブリダンのろば」という逸話を例に 取り上げている。それは腹をすかせたろばを中心に、左右に等距離に置かれたえさの干草を前に、こ のろばはいずれを選択することもできずに、身動きもままならない状況に置かれるというものである。 つまり、この自然的条件を前に、ろばの摂食行動への動機付けは完全に均衡状態にあると想定されて いるからである。むろん、これはなんら現実的な話ではない。にもかかわらず、動物の欲求を前提と して、その充足対象へと向かう決定論的な性向をモデル化して見せた逸話である。これに対して、人 間の場合には左右どちらかを選択するために身近な道具を用いて「くじ」を引くことになるかもしれ ない。ヴィゴツキーによれば、それは状況の中に持ち込まれた「補助刺激」であるとされる (LS.Vygotsky,1960.訳、101頁)。そして、この補助刺激=くじこそ、ヴィゴツキーが「心理的道具」と 名づけるシンボルにほかならない。つまり、人間は自然的世界に直接適応するのではなく、シンボル によって構成された文化的世界を自らの手で創り出し、そこに適応することを通じて生きる術を身に 着け、固有の行為様式を編み出したと考えられる。 動物の行動が自然的信号=刺激としてのシグナルに対する反応といった半ば決定論的に閉じられた東洋大学社会学部紀要 40・2号(2002年度) 環境世界において成立するのに対して、人間は人為的な象徴系=シンボル世界を創出しつつ、そこへ の適応において、自らの行為様式を改変してきた。それゆえ、ヴィゴッキーによれば、道具が自然力 を支配する手段であるとするなら、このシンボル=心的道具は、人間の自らの行為を支配、統制する 手段であることになる。 むろん、道具と象徴はともに「媒介機能」を持つ点では機能的に等価といえるが、その対象の点で は異質といえる。道具がもっぱら自然的適応に関わるのに対して、シンボルはむしろ対人的、心理的 適応に関わるということができるω。シンボル=心的道具は他者および自己の行為の統制と調節を目 指した操作的手段であるという点で、自然過程の変更を目指した道具とは区別される。その上で、彼 が心理的道具として想定していたものは極めて多岐に渡っている。 そこには言語、記数法、代数記号、芸術作品、文字、図式、図表、地図、設計図など(同前、52頁) が含まれている。このヴィゴツキーの斬新な企ては、今日、再評価とその理論的継承が進められてい る(J.V.Wertsch,1991,本吉良治、1995,など)。この二項図式から三項図式への転換は、人間行為の道 具性や象徴性の重視というだけでなく、行為図式それ自体の枠組みの転換を意味し、行為そのものの 象徴的=文化的媒介による質的転換の道を開くことになる。そして、このことは、共同=象徴世界の 第一義性に着目した「世界性」の組み換えといったここでの関心に沿う提起でもある。レオンチェフ はこれをこう解説している。 「彼の仮説によれば、媒介の過程は、あらゆる精神機能にとって第一級の意義を持っている。した がって、ここで提起された図式は普遍的な意昧をもっている。ここでの中心問題は、20年代の心理 学に広く受け入れられていた二項分析図式が、新しい三項図式に置き換えられたということである。こ の三項図式においては、刺激と反応との間に、第三の中間の媒介項一手段=刺激あるいは心理的道具 一が挿入されている。つまりそれ以上分割不可能な三項図式だけが、精神機能の基本的特性を自らに 保持する、分析の最小単位となる一これが、ヴィゴツキー思想のパトスだった」(AN.Leontev,1982,訳 34頁)。こうした三項図式をもとに、ヴィゴツキーの「生活概念」と「科学的概念」における「記号的 潜在力(semiotic potentials)」の差異から世界に対する媒介的関与のあり方の違いをさらに突き詰める 研究などが進められているのである(J,V,Wertsch,1985)。 (他者と共同世界) ヴィゴツキーは人間行為の媒介性に注目することで、行為図式の三項原理を提示した。それは人間 固有の「生への関与」を解明するうえで、ピアジェの二項図式の変更を企てたものとして評価しうる ものである。だが、ヴィゴツキーが想定する「媒体」は人間にとって基本的に外在的なものであって、 そこには「他者」や「身体」の契機が漏れていた。そこで改めて媒体としての他者に注目しておきた い。
近年、ピアジェの発達理論に対する批判として、それが認知的発達に偏している点が問題とされ、こ れに対するワロンらの児童の精神的発達における対人的関係の重視、および同じことであるが感情的 要因への言及が注目を集めてきた(浜田寿美男、1994.)。だが、ここでの関心からすると、媒体とし ての他者という契機は、単にピアジェやヴィゴツキー理論の補完という以上に、あらゆる媒体が媒体 として機能するための前提条件を満たすものとして、特権的地位にある。なぜなら、モノや言葉は、そ れ自体として主体と対象を媒介する仕方、関わり方を指示することはできないからである。そして、人 間の児童にとって決定的に欠けているのは、そうしたモノや言葉を介しての世界との関わり方にほか ならない。他の動物とは違って、人間の場合、関わり方はあらかじめ遺伝的にプログラムされてはい ない。あくまで経験的に獲得されるほかないのである。 そして、この世界への関与をわれわれは行為と呼び、その担い手としての機制をピアジェに倣って 「シェマ」と名づけておいた。それは原初的には身体運動のシェマ、すなわち「身体図式」として発現 する機制である。児童にとって生後間もなくの吸畷活動にみられる反射的シェマを除くと、そのほと んどは獲得的なものといえる。そして、それらは他者の身体図式の同化に基づくと考えられる。ただ、 注意しておかなければならないのは、それぞれ自立した自他関係を前提とした「同化」以前の、いわ ば「自他未分」な癒合状態に発する「同化」がそこでは想定されるほかない点である。これについて は、ワロンは、子どもにとって、他者を含む世界ははじめは自らと癒合して現れ、他者や事物は子ど もの主観性の中に「溺れている」と考えられる。自他が分化するのはその後である。そして、この明 確な自他区分には至らない過渡的で不安定な段階において、「子どもは、他者の中に自己を見はじめる のです。自己の中のものを他者に投映している分だけ容易に、他者の中に自己を見出します。他者の 行為が自己の行為と似ていても違っていても、子どもには、それが多少とも同じ手本のもとでなされ ているように見えるのです」(H.Wallon,1954、201−2頁)と説明する。 ワロンがここで述べている子どもと他者との相互関係はいうまでもなく言葉以前の、身体的活動な いし感覚レベルでの関係である。他者の身体的活動を前にするとき、そこに随伴する身体的感覚をあ たかも自分自身のものであるかのように感受するという、われわれ大人の場合にもあてはまる事態を 想定すればよい。同じ事は表情や感情についてもあてはまる。 同様の事態について、市川浩は、それを「模倣」の機制に関わらせて展開している。市川によれば、 人間の行為はその身体的制約のうちに封じ込められるものではなく、情動や知覚、思考は常にその身 体的制約のかなたへと向かう指向性を孕んでいるという点において共通したものとみなされる。「そし てわれわれはこうした指向的構造のもろもろの指向において生きており、やはり指向的構造である他 者の身体の動作や姿勢や表情など、さまざまの指向のあらわれを介して、他者の指向に共振し、同調 する。…その典型は模倣であろう。そこにあるのは感情移入というよりは、身体的指向の移入であり、 私の指向的構造が、他者の指向的構造と共振ないし同調する現象である」(市川浩1975,856頁)。 いずれにせよ、言語以前、意識以前の身体的レベルでの活動の共振、同調といった事態を理解する ためには、当の身体的活動を可能たらしめる個人の「身体図式」およびその指向性=志向性が、他者
東洋大学社会学部紀要 40−2号(2002年度) のそれと重なり合い、共同化しているとそうていするほかない。M.ポンティもまた身体図式のこう した共有を「〈私の行動〉と〈他人の行動〉という二つの項をもちながら、しかも一つの全体として働 くような〈一つの系〉」(M.Ponty,1962,訳1356頁)と表現している。あるいは、ポンティがM.シェー ラーの言葉を借りて述べているように、自他双方の志向性がそれぞれ相手の身体を迂回して作用する 「『前交通』precommunication」(同前137頁)を想定するほかない。いわば、身体を介して自・他の志 向性が感覚的(内感ないし運動感覚というレベルで)にコミュニケートされるわけである。これは自 己による他者理解の根底に備わっている機制であるのみならず、相互に他者を媒介しあって成立する 社会関係の基底に備わっている機制でもあるという点に注意しておく必要がある。 ところで、こうした自他の癒合の中から自己身体が他の事物や他者身体から区別され、固有の存在 として自覚されてくるのは如何にしてなのか。それは自己身体と他の事物や他者身体との間の軋礫や 葛藤、抵抗における、自己身体についての安定した表象の成立に基づく。つまり、自己身体への距離化 二対象化と、その表象としての措定によっている。ワロンはアナニエフの事例を下にこのプロセスを こう紹介している。910ヶ月頃の子どもは自分の足をあたかも外部に存在するモノ、玩具として扱う。 これは足という器官がいまだ自分に帰属する身体の一部として統合されていないことを示している。 「アナニエフによれば、器官が動作の媒体になっても、それが身体図式に加わるにはそれだけではま だ不充分で、さらに、それが目で知覚されねばなりません。すなわち、視空間の中で、身体から分離 できる対象と区別されねばなりません。なぜなら、自己の身体を自己の身体と認めるためには、同時 に、外界の諸対象を外界の対象と認めねばならないからです」(H.Wallon,1954,訳194頁)。 こうして、自己と自己の身体とを媒介する事物との三項関係の下で、自己の身体は対象として一定 の距離をもって対象化されることになる。同様に、自他未分で癒合した状態における「間身体図式」か ら、いかにして自他の区別が生じるかを解くのは自他以外の第三者の媒介によるものである。ここに、 エディプス・コンプレックスの意義がある。これは母子間の鏡像的、想像的な二者関係の癒合に対する 禁止としての象徴的第三者=父親の介入による効果を示すものである。そもそも、子どもは象徴的世 界への参入以前には、自他癒合した状態において母子関係を生きている。そこでは子どもは母親の欲求 の対象(=全能のファロス)である。ところが、この関係に介入してくる象徴的な他者=父親による禁 止を引き受けるということは、父親の欲求すなわち象徴的に変形された(というのも、それは自然的 欲求を禁じることを通じて生じる欲求だから)欲望という(欲求の)代理物を受容するということにな る。ルメールはここに言葉の習得の代替としての「欲望の疎外」(A.Lemaire,1970.訳131頁)を見出す。 つまり、ことば以前の「存在」の領域(現実界)におけるファルスであることの断念とともに、言語 化された欲望の「所有」の領域への移行がここで生じるのである。 こうして、エディプス現象とは、子どもが言語を獲得し、象徴的に構造化された世界に参入すべく、 媒介的な他者=父親の欲望を欲望二同化すること、すなわち、象徴的な他者による象徴的世界への関 与のあり方を自らの身体へと組み込む(=シェマ化)ことによって、それ以前の世界へのかかわり方= 最初の欲望を抑圧(=原抑圧)するといった犠牲の下に、象徴的世界における自らの安定した位置づけ
(=アイデンティティ)、自我を手に入れることにほかならない。この無媒介的関係から、媒介的関係へ の移行に際しては、第三者=媒介者としての父親とその欲望の同化のプロセスは、いったんそれが身 体化されるや、その同化の事実は隠蔽され、もともと自分自身の欲望であるかのように、自覚される ことになる。 このようにして、他者の媒介によって子どもは象徴的世界の一員として、固有のアイデンティティを 所有することになり、ついで、モノ=道具と言葉によって媒介された象徴的世界の基底に潜む欲求や 情動もまた、象徴的に整形され、言表された(つまり、・・への欲望、とか「悲しみ」「怒り」「喜び」と して)欲望や情動として規定されることになる。そして、この言表された欲望や情動の意識化は、同時 に、言表されえない、言表以前のそれらを、無意識界へと抑圧する結果を招くものである。かくして、わ れわれにとっての世界とは、それが意味あるものとしてたち現れると同時に、すでに象徴的に規定さ れた世界、象徴的に規定された自我として、したがって固有の「リアリティ」、「アイデンティティ」と しての自明性においてわれわれを組み込むことになる。 (モノ=道具) 以上みてきたように、事物世界は、それ自体としては存立しえないものであった。事物世界をそうし たものとして存立させる根拠は、見てきたような共同的=象徴的世界のうちにあった。そのことを踏 まえた上で、事物相互の道具的連関を鳥臓してみるなら、そこで初めてハイデガーの展開を引き受ける ことが可能となる。事物は自らの意義をそれが道具=手段としての意味を付与されるべき目的におい て保証される。… のため、といった目的一手段の連鎖は無限に広がりつつ、最終的にはそれを活用 する現存在(共現存在を含む)へと至りつく。したがって、事物とその連関は人間にとっての何らかの 道具的意味を付与されることで初めて世界の構成因たることが可能となる。 そして、この事物への意味付与を可能にするものこそ、象徴的秩序にほかならない。だが、この秩序 の基底にあるのは、「意味づけ」としての志向性であり、ハイデガーの言い方では「配慮」であった。 つまり、一定の目的=充足された欲望についての表象に対する事物の手段的意味付け=志向性を前提 としなければならない。その上で、事物をそうしたものとして意味付けることが可能であるためには、 そこに「距離」ないし「間隙」をもった対象化の機制が必要となる。事物を一定の対象として、措定 することができるためには、事物と主体とのあいだの距離がなくてはならない。その距離によって措 定された事物に対する欲望は、今度はその距離の無化をめざす。この自覚され、延期された欲望と、充 足された欲望についての表象=目的のあいだを架橋するのが「道具」として意昧づけられた事物には かならない。カッシラーが指摘しているように、道具は意志と目標との中間に置かれることによって 両者を媒介しつつ、「距離」化するのである(2)。 こうした道具を介した世界の把捉、ないしは道具としての世界の把捉とは、いずれにせよ、世界の
東洋大学社会学部紀要 40・2号(2002年度) 媒介的な我有化であり、同化にほかならない。それは単なる物理的、生理的な同化ではなく、世界の 道具的意味付与としての象徴的な同化である。ひとは世界との間=距離を道具によって媒介しつつ、道 具的にこれを同化し、同時にまた世界の意味は媒介する道具によって規定されることにもなる。さら に、この道具使用は、ひとの世界への関与のあり方のみならず、道具に対する適応の結果として、そ の身体的、意識的な変更二調節をももたらすことになる。この点について、カッシラーもまた、技術 的活動の外へと向かう作用とともに、それが内に向かう、すなわち人間の身体的、心理的組織に及ぼ す調節の機能にも注意を向けている③。 一方の極、すなわち外へと向かう技術的行為は、他方の極、すなわち身体や意識「内」の知=技能と 相互規定的な関係に立っている。それは意識的存在としての「自覚」のみならず、無自覚的な身体的な 知と結びつくものなのだ。モノないし外部へと向かう身体的活動は、モノないし外部からの抵抗が内 側に反照することを通じて、自らの自覚へと至る。そして、こうした道具使用によって、自らの身体 が、その延長上に道具を位置付けるような、それ自体がひとつの道具であることの自覚を生み出すに 至る。すなわち、道具的身体の自覚である。 この身体の道具性は、道具的連関としての世界への身体の組み込みについての自覚からもたらされ たものであるが、通常は身体そのものはあくまで道具使用の主体として意識されており、そのことに よって、自己と身体との「近さ」ゆえに、身体=道具としての自覚は覆い隠されがちである。いわば、通 常は身体化=シェマ化されることで意識下に追いやられている道具的性格が、身体を道具として扱う 状況下において、それ自体が焦点付けられる時に初めて自覚へともたらされることになる。M.ポラン ニーの言い方をかりるなら、われわれの意識は通常は意識の焦点である「遠隔項」へと集中させられ ており、その作用を実質的に制御している身体の側の微妙な動きは意識から遠ざけられている。しか しながら、われわれにとって「身近か」なのは、むしろこの身体なのであるが、それ自体が意識の対象 になることはない。ポランニーは、この身体の側を「近接項」と名づけ、このいわば「身体的な知」= 「暗黙知」の無意識的な作用に注目した。これが「シェマ化」=身体化することによる意識下への追放を 示すものであることは明らかである。 「私は、ii・暗黙知という行為においては、あるものへと注目する(attend to)ため、ほかのある ものから注目する(attend from)と表現する」(M.Polanyi,1966,訳24頁)と述べている。つまり、作 用点(遠隔項)への意識の志向は、その背後の身体活動(ニシェマ)の脱意識化と並行している。それ ゆえ、「知的であろうと実践的であろうと、外界についての我々のすべての知識にとって、その究極的 な装置は我々の身体である」(同前32頁)といわれる場合の身体が身体図式=シェマであることは明ら かである。 こうして、事物世界は象徴的世界へと送り込まれることによって初めて道具的意義を担ったモノの 世界へと変貌を遂げる。そして、この象徴的世界の背後には自他関係を核とした共同世界が潜んでい るわけである。ハイデガーは、こうした世界の重層構造に半ば気づいていたのであり、それゆえ、事 物は一定の「気分」、「情緒」において立ち現れると指摘しえたのであった。
(言葉=シンボル) 事物世界を道具的連関として有意義化するのは、象徴的世界という背景であった。そして、事物の 象徴的意味付けにおいて、ひとは独自の同化を成し遂げることになる。それゆえ、同化としての象徴 的意味付けの機制のうちに、ひとに固有の世界=象徴的世界の生成の謎が秘められているといえよう。 再び、カッシラーによれば、人間の規定はこの道具とシンボルとの二重の観点からなされるとされ る。つまり、言語(oratio)=シンボルに由来するratio(理性)の担い手であると同時に、ベンジャミン・ フランクリンが名づけたようにa tool−making animal(道具を作る動物)でもあるという二重の規定が それである(E.Cassirer,1985.訳87頁)。 彼に言わせれば、言語と技術とはそれぞれ社会的世界と事物的世界との違いはあるものの、ともに 『理性』ないし精神による世界の克服=同化のための媒体にほかならない。「すなわち、言語的、理論 的思考による現実の『理解』(Begreifen)と、活動という方法による現実の『把握』(Erfassen)であ り、思想的形式付与と技術的形式付与である」(同前)。ここでは、言葉と道具がそもそも世界の我有 化=同化のための手段=媒体であることが指摘されている。 つまり、言語化し、名づけるという行為においては、名づけられた事象そのものの事物的存在性格 は放棄されており、モノそれ自体のかわりにモノの名称、意味(シニフィアン)が扱われていることに なる。だから、カッシラーも言うように言語は物へと志向しつつ、同時に物を言語的に代替えすると いう点で、物から遠ざかることでもある(同前202頁)。 そして、この言語による世界の意昧付け=分節化を、ユクスキュルの環境世界論を独自の「身分け」 論として再提示した市川浩に倣って、「言分け」論と称したのが丸山圭三郎であった。そもそも、市川の 「身分け」論とは、身体的活動に基づく世界の意昧付け=分節化は、同時にそうした世界による身体の 分節化といった両義性、すなわち、ピアジェのいう同化と調節との両義性を組み込む機制であること を主張するものであった。丸山はこの「身分け」を第一次分節として成り立つ第二次分節の位置に言 語的=象徴的意味付けを措定し、これこそホモ・ロクエンスたる人間本来のあり方に他ならないこと を主張した。 「私見によれば、人間だけが・−t本能の図式に加えて、もう一つのゲシュタルトを過剰物として持っ てしまった。これが第二次分節化の結果生ずる〈言分け構造〉であり、その網の目は『シンボル化能 力とその活動』という広い意昧でのコトバによるゲシュタルトにほかならない。このコトバが文化を 生み出して記号・用具・制度を組み込む身の延長を可能にした(解放性)一方、身の方もこれに組み込 まれて支配される状況(拘束性)をもたらしたという考えである」(丸山圭三郎、1987,172頁)。 ひとと象徴的世界との関わりにおける両義性、すなわち、象徴的世界による事物世界からの「解放」 という側面と、そのことを通じての象徴的世界による「拘束」といった両義性を丸山は明らかにして いる。そして、この世界との関わりにおける両義性は、身体図式=シェマにおける「同化」と「調節」 といった両機能に関連したものであることも明らかである。
東洋大学社会学部紀要 40−2号(2002年度) だが、丸山の「言分け」論は純粋に言語象徴に限定した展開を目指しており、ヴィゴツキーが指示 し、しかもそこから漏れている身体などの媒体を含め、より広義の象徴一一般に注目する必要がある。ち なみに、ひとの身体および身体活動を社会的=象徴的な構成物と大胆にみなしたM.モースの「身体技 法」論によれば、人間の所作=身振り、身体活動はそもそもがそれが組み込まれている社会の象徴的 体系の中で理解され、意味を担う固有の媒体と考えられている。さらに、このモースの発想を継承し つつ、独自の象徴的身体論を展開してみせたM.・ダグラスによれば、あらゆる社会には身体的シンボ ルの適用によって社会的状況の象徴的再現とそこへの働きかけをめざす傾向が存在している (M.Douglas,1970.訳8頁)。西欧中世におけるミクロ=マクロコスモス観から、日常的な身振り言語に 至る多様な象徴的身体論と社会とのつながりの可能性が、そこには満ちている。 そして、こうした象徴的媒体の問題は再び「無意識」の問題群へとわれわれを引き戻すことになる。 道具的媒介は、その作用点への意識の焦点化によって、その支点、すなわち意識の志向性の起点の無 意識化を生み出した。A・ルメールは媒介と無意識との関連についてこう解説している。 「実際、人と世界の間、人と人との間、自己と自己の表現との間には、ある媒介がひつようである。 ひとがお互いに一般原理について了解し合ったり、共通の所作を交換しようとするとき、媒介という ものが必要かつ十分な条件となる。 しかしながら、忘れてならないことだが、媒介の存在はまた、人間が無意識に条件付けられたもの となる、ということを生み出すものでもある。ことばは、社会的所与・文化・もろもろの禁止・掟など を伝達する。子供は、多様な次元をもつこの象徴秩序に入ると、この秩序によって加工を受けること になり、その消しがたい刻印を自分の知らぬ間に受けていくことになるのである。… その象徴体 系に入ることは、生きられる現実に対して距離を置くことであり、それぞれの個体にとって、無意識 の横糸を織り込むことを意味するのである」(ALemaire,1970.訳81−2頁)。 無意識の生成とシニフィアンの連鎖におけるメタファー的機制についての詳細は別稿に委ねるとし て、ここでルメールが述べていることは、象徴的秩序の媒介は、人間の社会的生存にとっての前提条 件をなすものであるとともに、それは直接的な現実の代理であり、その歪曲、抑圧でしかないという ことである。われわれは生きる自分と生きられる現実とを言葉=象徴へと引き渡すことによって初め てわれわれとその世界とを象徴的に構成し、そこで意味と理解とを獲得することができる。だが、同 時に、その陰路からはみ出し、はじき出された生の部分は、象徴的秩序からこぼれ落ち、意識化され ることもなく、言表されることもなく、抑圧され、無意識下に沈殿してゆくことになる。
(2) メディア・ループ
人間と世界との関わりについて原理的な考察を続けてきたが、最後に、人間と世界との関わりにおけ る特異性である媒介的機制について、そこに起因する構造の問題に注目しておく。いうまでもなく、媒介することは、それ自体で両義的な側面を担うことになる。というのも、それは一方の極と他方の極 とを結びつけると同時に隔てることでもあるからだ。それはさらに生物と環境世界の関係のような閉 じた環(機能的円環)とは異なる象徴的世界を準備することになる。そして、この象徴的世界の媒介 によって、人間は自然的世界内への閉塞から免れ、そこからの「解放」と同時に象徴的世界への「拘 束」といった新たな両義性に直面することとなった。 ところで、この象徴的世界への「解放」と、象徴的世界による「拘束」とを両立させるような構造 がここで問題となる。というのも、人間が生きる世界はこの両義的性格を満たさなければならないか らである。そして、そのような構造とは、循環的なものでなければならない。循環的な構造こそ、こ の「解放」と「拘束」の両者を一定の時間的ずれを介して一挙に実現することのできる構造にほかな らない。これはまた、世界の人間化(=同化)と人間の世界化(=調節)をも同一プロセス上で実現 する機制でもある。こうした人間と世界との固有の関わりにおける循環的構造を、ここでは「メディ ア・ルーフ゜v(小林修一・1998)と名づけておく。 ところで、こうした構造はそもそも人間と世界との出会いにおいて準備されていなければならない。 つまり、シェマとその機能である「同化」と「調節」の作用のうちにそれは育まれてきている。ピァ ジェのいう「循環反応」がその原型である。それはシェマにおける「同化」とその反作用的(フィー ドバック的)反応である「調節」との反復的な循環を指している。だが、ピアジェ自身はそれを、彼 に先立って認識の発生論的研究に着手していたボールドウィンから引き継いだ。ボールドウィンによ れば、身体運動にみられる反復の現象は、その運動自体が快感を喚起し、視覚や触覚を通じての自己 刺激としての運動に対する反応にほかならない(J.M.Baldwin,1895)。この自己の身体をも含む世界に 対して繰り返される同化は、その運動を習慣化する。この習慣化された反復運動の中から、世界と自 己との両極的分解が生み出されてくる。 ちなみに、乳児と世界との関係は、あおむけに寝た子どもが自分の足を畳の上にバタン、バタンと弾 みをつけて当てる際の刺激が快感を呼び起こし、その快感を刺激とした反応が繰り返し足を持ち上げ させるといった事例において示される。当初は区別されていなかったであろう、自分の足と畳との関 係は、この反復運動を通じて、微妙に変化する足の快感(つまり、この反復は機械的な同一物の反復 ではなく、クラーゲスのいう「リズム」にほかならない。「拍子は反復し、リズムは更新する」 L.Klages,1923.訳57頁… 更新するのは「調節」機能によるものであり、この調節の介在によって こそ、習慣的活動は徐々に習熟されることになる)と、反復において常に不変な項として知覚される畳 とに分岐してゆく。(身体的)自己と世界との分化がここに生じることになる。ゲーレンはこの「感覚 運動的循環過程」の中で、世界の不変性=客観性が与えられると指摘する。つまり、与えられる側の身 体的感覚の「違和感」がそれを与えるのである。それはまたフィードバック的な循環をなす。「私たち の運動は物象に対するのみならず、また自分自身にも対座している。導かれる運動は対象に到達する ことをえるが、また自分自身にも到達しうる」(AGehlen,1940.訳159頁). ピアジェは、この循環反応を第一次から第三次までを区別している。とりあえず、これを紹介して
東洋大学社会学部紀要 40・2号(2002年度) おこう。まず、第一次循環反応とは、条件反射的な吸畷運動に始まる感覚運動的反復であり、「再生的 同化」「般化的同化」「再認的同化」といったシェマの発達が兇られるという。つまり、反復される新 規の運動は、先行する運動とは異なる要素を含むが、例えば吸畷に際しての首の傾きぐあいや、口か ら乳首までの距離などといった新しい要素を、既存のシェマへと同化、協応させることによって、よ り高次のシェマへの統合が果たされる。この反射のシェマから、より高次の習慣のシェマへの過渡に 見られる反復が、第一次循環反応と呼ばれるものである。この最も原初的な反復を通じて、子どもは 世界を同化し、同時に調節に基づく経験の蓄積を踏まえながら、シェマの分化、統合を成し遂げてゆ くことになる。その際、子どもの感覚運動的身体そのものが、世界と自らとを媒介する媒体となって いるのであるが、その道具的ないし象徴的機能は今だ自覚されることなく遂行されているのである。 次に、この媒介的構造を構成する各項が次第に分化してゆく過程で、第二次的循環反応が生じる。 3,4ヶ月の子どもが、宙に吊り上げられたガラガラに結びつけた紐を引っ張って音をたてて喜ぶ場合な どがこのケースである。大人から見ると、子どもは明らかにガラガラを鳴らすという「目的」と、そのた めに紐を引っ張るという「手段」との区別をわきまえていると考えられがちだが、この段階の子どもは、 以前の(紐を引っ張るという)動作に随伴する結果(ガラガラが鳴るという)を刺激として受け止め、その 反応として次の動作を繰り返しているにすぎない。だが、こうしたさまざまな対象二刺激に対する同 化的反応の反復を通じて、子どもは10ヶ月ころまでに多様なシェマの分化と統合を蓄積することにな る。 そして、その後、分化した意図的な調節をともなった再生的同化が生み出されるようになると、「第 三次的循環反応」の段階になる。そこではシェマは手段的なものと目標となるものの分化と協調を示 すことになる。子どもはガラガラを鳴らすという目的のために、紐を引っ張るという既存のシェマの適 用から、竹の棒を用いてガラガラを揺するといった新規な手段とその使用のためのシェマへと向けた意 図的な調節へと進む。こうした明確な目的、手段関係の理解は、対象についての不変的、恒常的な認識と、 それとは分離された手段の位置付け、ならびに手段の目的に応じた関連付け、さらに、起こりうるで あろう結果に向けての世界の計画的変更のイメージなどが出揃っている。ピアジェによれば、子ども はこの段階では世界との身体的な関わりにおいて(目的一手段的)思考を獲得していることになる。そ して、この感覚運動的レベルの思考が、内的心像へと同化し、同化された心像に対する具体的、形式的 な調節がなされる時、内的な思考作用が成り立つといわれる。つまり、思考の本性は、こうした一連 の媒介的活動の心内化であるということができる。 こうした感覚運動的な反復運動のうちに見られる循環反応は、反射的シェマから、習慣的シェマ、そ して、言語的、概念的シェマへと高次化するにつれて、活動的、言語的、概念的な意味付けに基づく世界 構築と、その内部での自己形成(身体的自我からカテゴリー化された役割自我へと)を両極とした広 範かつ多様な媒介過程を経た循環構造へと展開されてゆくことになる。いかに社会的、技術的媒介過程 が複雑化しようと、その基層には人間と世界との両義的な相互性が息づき、しかも、この両義性をとも に実現することが人間にとっての存在形態であるほかない以上、両者は循環構造をなすに違いないから
である。 ちなみに、認知心理学のナイサーは、ピアジェのシェマを認知構造に適用し、独自の「予期図式」論 を展開している。そこでは、外界の探索活動を導くのは、既存の探索活動の結果としての予期図式に ほかならないとされ、そこに循環構造を想定している。彼は、ギブソンのアフォーダンス理論を取り入 れつつ、独自の「知覚循環」を提示する。「知覚者はしばしば眼や頭、そして身体を動かすことによっ て、このような情報を有効なものにするために、積極的に光学的配列を探索する必要がある。このよう な探索は、知覚的プランであり、かつ特定の光学的構造に対する準備状態である予期図式によって方向 付けられる。この探索の結果一抽出された情報一はもとの図式を修正する。修正された図式はさらに 次の探索を方向づけ、さらに多くの情報を取り入れる準備を整える」(U,Neisser,1976,訳2(}21頁)。 ナイサーのこうした「図式一探索一対象」のトリアーデは、探索活動およびその担い手たる「知覚 する身体」を媒介とした人間と世界の関わりを循環構造として提示して見せたものである。認知のメ カニズムについてのこうした「知覚循環」は、われわれの視角からすると、それ自体が象徴的世界の 媒体に組み込まれているという点を補足しておく必要がある。 あるいは、ハイデガーの技術論の独自の展開を試みている河上正秀は、「人間一道具一世界」の循環 構造を提示し、そこから、技術をこうした循環過程において把握してこなかった価値中立的な技術観 は科学技術の生活全般への浸透(==技術の同化)と、技術による人間行為の変更、修正、規定(=調節) の側面を看過することになると指摘する。技術が、人間と世界とを媒介する循環構造に組み込まれるこ とで、技術の次のような機能が明らかとなる。「… 技術のなす世界そのものが人間に対して実践的 に規定してくる行動のイデオロギーという側面は、それ自体である種の決定論であらざるをえない。と いうのは、技術は技術それ自体へと人間的行為の志向を収奪するひとつの力をもっているからである。 技術は行為を規定するとともに、その行為自体が技術へと再び還元されていかざるをえないひとつの 仕組みを有する」(河上正秀、1993,130頁)。 河上のいう、技術における「人間行為の志向を収奪するひとつの力」とは、技術を習得する過程にお いて、技術を活用する他者の志向性それ自体を「同化」せざるをえず、それゆえ、技術は、単なる技 術ではなく、技術への「志向性」そのものを引き出すことになる。目の前のはさみは、それを目にした 私に、それでもって何かを断ち切る「志向性」を誘い出す。新しく購入したペンを手にするや、とり あえず、何か書くように誘われる、といった事態を想定すればよい。こうした「志向性」もしくは「欲 求」のそもそもの発現が「他者」のうちにあるという指摘は近年Rジラールが主題的に扱うことになっ たが、すでにゲーレンが指摘してきた点である。「私たちは特定の欲求をもつから、これこれの行為を するのではない。自分および周囲の人々がこれこれの行為をするから、その欲求をいだくことになる のだ」(AGehlen.1940,訳410頁)。こうして、道具的行為をする他者の志向二欲求を、その道具使用の 技術とともに「同化」した個人は、道具を目にするや、それを使用する志向を誘引されることになる。 つまり、道具はそれを使用する志向を「誘い」「けしかける」という機能を持っている。 いずれにせよ、河上が言うように、技術を「脱世界化」して扱うことをやめて、われわれの日常的
東洋大学社会学部紀要 40−2号(2∞2年度) 世界内での使用という文脈に置いてみれば、それが人間の欲求、無意識から、それが生む出す結果と人 間へのフィードバックといった循環構造=メディア・ループを構成することは明らかである。 しかしながら、この構造の全体がそうしたものとして表出されることはない。少なくとも、われわ れの意識の志向性の対象として表出される現象は、すでに触れてきたように、同時に志向の出発点とな る身体ないし身体化された知を暗黙化するだけでなく、言表されることが同時に抑圧された無意識を 背後に生み出すからにほかならない。その上、一連の行為を媒介する道具、言語、他者は、その同化の 過程で身体化=シェマ化されることによって、同様に暗黙化され、意識下における調節=シェマの修 正がなされることになる。我々自身が、我々の知らないうちに変貌を遂げてゆくわけである。 このように考えてくると、世界を主観と客観に(あるいは、超越的主観と客観的世界に)二分して きた近代の認識論的枠組みは、この循環構造のうち、意識の対象として可視的な部分をあたかもそれ 自体が自立的であるかのように「脱世界化」してみせたものでしかなく、それらを可視化し、主観化 し、客観化する暗黙の、不可視の下半身の構造を等閑に付すものでしかなかったことが判明する。 【注】 (1)道具とシンボルの媒介機能について、ヴィゴツキーはこう論じている。「技術的な道具が労働諸操作の形式を規 定することによって、自然的適応の過程を変更させるのと同様に、心理的道具もまた、行動の過程に挿入され る場合、自らの諸特性によって新しい道具的な作用の構造を規定し、心理的諸機能の全経過、全構造を変異さ せる」(L. Vygotsky,1930,訳、52頁)。 (2)カッシラーの言葉では「道具は、意志の最初の芽生えと目標のあいだに置かれる。そしてこのように中間に位 置することによってはじめて、両者を分離し、しかるべき距離に置くことができるのである」とされる(E. Cassirer, 1985.訳、100頁)。 (3)主体と対象を媒介するメディアの位置は、両極のそれぞれ他方に対する機能を媒介することによって主体・対 象の関係のみならず、主体、対象それぞれのありかたにも決定的な影響を及ぼすことになる。その意昧でも、メ ディアの機能ははるかに広範かつ深遠であることは改めて注目されてよい。「この意昧で、技術的活動について も、それは決して単なる『外』の獲得に向かっているのではなく、内部への独特の方向転換なり反転なりを秘 めていると言えるのである。ここでも問題なのは、・方の極を他の極からもぎ離すことではなく、むしろ両極 を新たな意昧で相互に規定することなのである」(E.Cassirer,1985.訳113頁)。 【参考文献】 LVygotsky, Razvitie Vysshykh psikhicheskikh fUnktsii,1960.柴田義松訳「精神発達の理論」明治図書、1970. L Vygotsky, Instrumentalnyi metod v psikhologii,1930.柴田義松他訳『心理学における道具主義的方法』「心理学の 危機」明治図書、1987.所収。 A. Leontev,同前、序文。 J、V. Wertsch, Voices of the mind,1991.田島信元、佐藤公治他訳「心の声」福村出版、1995. J.V. Wertsch, Vygotsky and the social formation of mind,1985. 浜田寿美男、「ピアジェとワロン」ミネルヴァ書房、1983. H.Wallon, Niveaux et fluctUations da moi,1954.浜田寿美男編訳「身体・自我・社会」ミネルヴァ書房、1983. 市川浩「精神としての身体」勤草書房、1975.
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東洋大学社会学部紀要 40−2号(2002年度) 【Abstract】