第63巻 第2号 1990年9月 125-151
「対話」の原理論
一一現代社会における表現の自由の原理論を求めて一一
目次一一 I はじめに II チェヴィニーの原理論 1II マーチンの批判とチェヴィニーの反論 IV r対話」の原理論の評価 V おわりに は じ め に池 端 忠 司
なぜ表現の自由を保障しなければならないのか。この問題を扱った原理論が, 様々な学問分野の成果を踏まえ,1
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年代後半から8
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年代にかけてアメリカ 合衆国において集中的に登場しA
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(1) 原理論の議論の整理に役立つものとして, Greenawalt, Free Speech .Justificaton, 89 Col L Rev. 119 (1989), Schauer, Must Speech Be Special? 78, Northwestem U. L Rev. 1284 (1983)参照。なお民主政治における市民の参加」という価値がもっとも説得 力があると判断する英国の学者による,アメリカの議論だけではない,英国,西ドイツの 議論を踏まえた原理論の考察として, Eric Barendt, Freedom0
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Speech, (1987)を参照。 ちなみにシャウアーはアメリカの原理論の議論をつぎのように分類する。 まず大きく二つに分類する。個人にとっての価値に着目した「自己発展(self-develop -ment)J論 と , 社 会 に と っ て の 価 値 に 着 目 し た コ ン セ ク ウ ェ ン シ ャ リ ス ト (conse -qu巴ntialist)である。 「自己発展」論とは,言論の自由が個人にとって何をなし得るかという観点からみた価 値を基礎にし,個人を究極的な目的と理解する。そして,この立場は積極的・消極的のご つからなる。積極的「自己発展」論は,個人に関わる価値を積極的に評価することによっ て表現の自由の価値を説明する。それには(1) r自己実現(self-realization)J論, (2) r自 己充実(self-fulfillment)J論, (3) r自己表現(self-expression)J論などが含まれ,その他 の個人の自由を中核とする原理論が含まれる。それに対して,消極的「自己発展」論は,「自己表現J,1自己充実J,自己実現」という個人に関わる価値を持った言論とそれらの 個人的な価値を持った非言論(言論以外の行為)を比較して,前者を規制する方が後者を 規制するよりも危険が大きいということから,言論の自由の価値を基礎づける立場であ る。 他方,コンセクウェンシャリストの原理論は言論の自由が許されることによってもた らされる社会的価値に着目する。(1) 1真理探求/思想の自由市場(thesearch for truth/ market place of ideas)J論, (2) 1人民主権/民主主義過程(thepopular sovereignty / democratic process)J論, (3) 1政府不信(thedistrust of government)J論がそれにあ たる。 しかも,そのうちでも「自己発展」という価値にとってかわる唯 の価値を挙げる立場 (1単一価値」論)と複数の価値を挙げる立場 (1多価値(multi-valued)J論)とに分かれ る。前者には民主主義の価値を根拠とする原理論や,政治的自由のシエ マを中核とする 原理論がある。 さらに「多価値」論も二つに分かれる。その一つは,言論の自由の問題の領域ごとに国 有の言論の自由の価値があり,それらの価値をアレンジする役割をするものとして言論 の自由条項を捉える立場であるoこれには三つあり,第一は,政府批判を政府が抑制する という問題に標準を当て,民主主義理論や政府権力の濫用を正当化理由にするものであ る。第二は,学問の真理のための理論である。第三は,芸術活動に対する伝統的な抑圧と いう問題に対抗する理論である。 もう一つの「多価値」論は,自己表現,自己実現,政治的変化に与える影響力等の質の 異なるさまざまな複合的な価値を,言論以外の他の行為が実現できず,その複合的な価値 を実現するという特徴が言論の自由を価値づけ,他の行為と区別されるという原理論で ある。 以上のシャウア の分類を箇条書きにするとつぎのようになる0 • 1自己発展」論 a)税極的「自己発展」論 (1) 1自己実現」論(Redish,Baker) (2) 1自己充実」論(Emerson,Tribe) (3) 1自己表現」論(Chevigny,Bollinger) (4) その他の倒人の自由を中核とする表現の自由の原理論 b)消極的「自己発展」論(Gr巴enawalt,Perry) ・コンセクウェンシキリストの原理論 a) 1単一価値」論 (1) 民主主義(Meiklejohn,Kalv巴n,Bork, Y odof) (2) 政治的自由のシェーマ(Rawls) b) 1多価値」論 (1) それぞれの問題領域ごとに価値あり 付) 1真理探求/思想の自由市場」論(Mill,Milton, Holmes, Hand) (ロ) 1人民主権/民主主義過程」論(Meiklejohn,Bork Y odof) け 「政府不信」論(Schauer Blasi) (2) 複合的価値(自己表現,自己実現,政治的変化に与える影響力)論(Shi的in) ( 2 ) 1970年以降の表現の自由をめぐる問題が,表現の自由の主体者相互の問題となってい ること,それを解決するには最高裁は街頭演説のパラダイムからCBSのパラダイムに変 わらなければならないことを主張する論文に, Owen M. Fiss, Free Speech and Social
この時期に表現の自由の存在理由を問う原理論がなぜ登場したかは,いくつ かの理由によって答え得るであろう。たとえば,これまでの表現の自由論の文脈 からいえば,表現の自由と他の諸利益の調整をめぐる司法審査の基準論が一段 落し,アメリカの学界の関心がそれらを全体として捉える大、局的な理論へと移 千子したといえるであろう。 もちろん学問の領域であれ,その問題設定自体が他の領域の状況に規定され ないわけがなしなぜこの時期に表現の自由の存在根拠を問うかは政治的にも 規定されているといえるだろう。たとえば, 70年代のウォーターゲート事件は, 経済的利益が歪めた政治的な意思決定過程に対ーする市民の不信を増大させ,そ れがデモクラシーの根幹をなす表現の自由を問うための前提を提供したともい える。政治不信はデモクラシーの理念にたち返らせ,表現の自由が実現すべき 価値とは何かを議論させているのではないだろうか。 さらに 70年代はジャーナリズムとしての放送メディアが成熟した時期であ り,表現の自由の政府による抑圧の問題ではなく,表現の自由の主体者相互の 対立の調整の問題が顕在化してきたことも見逃せないであろう。現に 70年代に はいり,裁判所においてマス・メデ、ィアが表現の自由のうちのどの価値を実現 すべき存在であるかが議論された。 このように,近年の合衆国の豊富な議論は,当然ながらその国の独自の政治 状況・ジャーナリズム(マス・メディア)状況・学問状況に規定され展開して いるのであり,その問題関心の共有なしにその議論の真の理解に至ることは困 難であろう。 その合衆国の議論のなかで,本稿はとくに他の原理論と一線をを}画する「対 の原理論ともいうべき見解に注目する。その提唱者であるチェヴィニー
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附 Structure 7IIovva L Rev 1405(1986)p. 1405-25を参照。(3) Chevigny, Philosophy of Language and Free Expression, 55 N Y U L Rev 157 (1980)なお, Chevigny More 51うeech Dialogue Rights and Modern Liberty (1988)は,
言語のもつ不確実性を根拠とする権利批判論に対抗して,その同じ論拠から権利を擁護 するものである。本舎は,表現の自由の権利を基礎づける論拠として,意味の変りやすさ,
理論とは異なる,新たな原理論の提示を試みている。 ここで彼がいう伝統的な原理論とは,個人主義の思想や「思想の自由市場」 論に依拠するものをいい,それに対して,彼が求める原理論は,自由主義経済 体制だけでなく,社会主義経済体制のもとでも通用するものである。それゆえ, 彼の原理論は人間とは何かという人間性の問題に関わるより根源的な「表現の 自由の基礎づけ」をめざすことになる。しかも,彼は人間性と言語の深い結び つきを前提としており,とりわけ今世紀の初頭から思想界の傾向となった言語 への関心を共有し,その一定の成果から,表現の自由を意義づける独自の論拠 を引き出そうとしている。 ところ‘で,このチェヴイニーの原理論は日本の表現の自由研究者である奥平 康弘教授によってすでに若干の紹介と分析がなされている。奥平教授はその近 刊書においてチェヴイニーの見解をつぎのように評価する。「こうしてみれば, チェヴィニーのく対話>価値論は,従来の原理論に取って代わる新理論である よりも,より多く,従来の原理論が内包ずる価値を,<対話〉という契機を導 入することによって,再確認し,あるいはよりよく充実される役割を果たすに とどまるのではないかと思う。このばあい,自由主義・社会主義の両体制を超 言語の社会性,選択の必要性をあげ,無限定な対話だけでなく,合理的な意思決定のための 対話をも重視する点で,本稿の扱うチェヴイニーの論文と異なる。しかし,本:志の中核と なるテーゼは「開かれた議論のないところでは理解もなければ合理的な意思決定もない」 であり,このテーゼは本稿で紹介する論文のテーゼと基本的に異ならない。本書の書評で あるMarthal¥1inow, Listening th巴RightWay, 64 N Y U. L Rev. 946(1989)によれ ば,チェヴィニーは,言語が社会生活・相互行為の表れ (figur巴)であるという認識と,言 語(とくに法的言語)が特定の社会を構成する権力のパターンを採用しかっそれを遂行す るという批判とを同一視しており,認識に与える権力のインパクトを媛昧に扱っている。 その結果,この理論は子供や動物や自然等の自らの欲求や考えを話すことのできないも のを対話の権利の保持者として排除する危険を持つとともに,また逆に,差別的な言論の ような行為にも,過度に覚容に扱う危険を持つことになる。この批判は,本稿の扱うチェ ヴィニーの論文にも当て依まると,思われる。 さらに,修正第一条の法理を支え,民主的な自己統治の核となる「パブリック・ディス コース」の領域が,共同体の規範や政府の道具的な価値といかに複雑な関係のもとで不安 定に形成されているかを説明するものに, RobertC.Post, The Constitutional Concepf of Public Discourse: Outrageous Opinion, Democratic Deliberation, and Hustler Magazine v. Falμ'ell103 Harv L Rev..601 (1990)参照。
えた原理論を構築するという,チェヴィニーのねらいを貫徹するために,自由 主義と一体化した『個人主義
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ということばを避けたいというのであれば, w人 間主義j という言い換えをしても,従来の原理論にとっては,一向に差支えな いはず、である出 さらに,阪本昌成教授は,チェヴィニーと同様にコミュニケーションとは何 かという視点から,表現の自由の意義づけを行い r表現権理論にとって必要な ものは,道徳哲学よりも,記号学や言語哲学と,それに基づいたコミュニケイ ション理論ではないか」という印象をもらし,さらに「従来,思想の自由市場 論は,r
真理トーーその意味するところは,法律家も真剣に検討すべきであろう 一一ーに焦点を合わせてきたが,同理論は,もっと広く,自由かつ合理的なコミュ (5) ニケイション行為の果たす機能から,肯定的に見なおされるべきであろう。」と いう指摘を行っている。 しかし,このようなチェヴィニーの原理論に対する消極的ながらも少なくと も否定的でない奥平教授の評価や,さらにはチェヴィニーと同様の視点を取り 入れることについての積極的な意義を認める阪本教授の考えに反して,本稿は, チェヴィニーの原理論が表現の自由の意義づけに失敗しており,原理論の議論 におけるその視点の意義も今のところ認められないことを説明するものであ る。そのために,つぎのような順序で議論を進める。まずIIではチェヴィニー の先にあげた論文にできるかぎり即して彼の原理論を紹介する。つぎのIIIにお いては彼の論文を直接批判した見解と,その批判に対するチェヴィニー自身の 反論を紹介し,その対立点を際立たせたうちで,I
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においてその議論を手がか りにしてチェヴィニーの原理論の評価を行いたい。 II チェヴィニーの原理論 チェヴィニーの論文はその内容から大きく二つに分けることができる。新た な論拠自体を説明する部分(第一部)と新たな論拠の提起がこれまでの表現の (4 ) 奥平康弘『なぜ「表現の自由」か』東京大学出版会 (1988年)55真。 (5 ) 阪本昌成「慾法21条の構造と機能Jr公法研究」第50号(1988年)73-74頁。自由の法理に与える影響を説明する部分(第二部)とである。それを順を追っ てここで紹介することになる。ただ,第一部には言語哲学の成果を丹念に紹介 する部分がかなり多くあるが,本稿は言語哲学の成果自体を直接問題にするわ けではないので,ここではその部分の紹介を省き,彼が摂取した言語哲学の成 果を前提として,彼が行った表現の自由の意義づけに焦点をあて,その真価を 問うことにしたい。 そのまえに導入部をかねて他の原理論に対する彼の評価をみておくことに しょう。 チェヴィニーは個人主義の思想を基礎にした原理論の代表者として
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ミル (John S.. Mi1l)をあげ,つぎのように批判ずる。ミルは言論の自由の擁護を「個 人の自主権 (theright of the indvidual to autonomy) Jによって基礎づけた。 ミルによれば,自由の名に値する自由とは Iわれわれがわれわれの善をわれわ れの方法で追求すること」であれこの自由にとって欠くことのできないもの が,自らの見解を表現し公表するという意味での言論の自由である。この自由 の名に値する自由との関係で言論の自由はその基礎となる思想、の自由と不可分 間種の自由とされる。だが,このミルの見解は個人主義と真理に固執しており, ミルは討論の重要性に着目しながらも,対話自体に価値があるという考えを発 展させるものではなかった。 さらに,チェヴィニーはホームズ (OliverWendell Holmes)の「思想、の自由 市場」論をつぎのように批判する。「思想の自由市場」論は商品流通と思想、の相 互交換をパラレルに捉え,市場の競争において自己の見解を受け入れさせる説 得力が,真理であるかどうかの最良の判断基準であると捉える。しかし,思想 の自由な交換とは,真理発見の手段なのではなく,思想が他者にとって受け入 れやすいものであるかどうか,人気のあるものであるかどうかを判断する手段 (7) でしかない。 チェヴィニーはミルとホームズの見解をこのように評価したうえで,これま (6) Chevigny, supra. note3, PhiIosophy of Language and Free Expression, p.158-59. (7) Ibid., p.161-62での多くの原理論が,個人主義の思想と「思想の自由市場」論を核にしたもの であると指摘す£そして彼は個人主義の思想や自由経済体制を超えた社会主 義経済体制においても通用する原理論を提示しようとするのである。 (第一部新たな論拠の説明〕 彼は今日の言語哲学の成果をつぎのように要約する。 言語(language)は,現実世界の模写でもなければ,単なる対象の名称でもな い。それはある主張が意味を持つことができる場としてのディスコース (dis -course=ことばの連続体・言述[チェヴィニーは対話 (dialogue)と同義で用い ているようである。] )のシステムである。また,ある主張はそれが現実を反映 しているという理由で真なのではなく,対話のシステムの他の諸部分との関係 で理に適っている理由を見いだしうるという限度で,真であるといえるのであ る。そのような意味で真といえる場としてのディスコースのシステムが言語な のである。どんな命題の意味にも欠かせないのは,このシステムと意味との関 係である。しかも,その関係は命題とディスコースのシステムの双方の諸前提 についての吟味を抜きにしては形成されない。それは,事実的な命題や科学的 な命題を問わず,いかなる命題についてもあてはまる。ディスコースの洗礼か ら免責された諸前提はそのシステム内のあらゆる意味を失うことになる。 チェヴイニーは以上の言語哲学の成果を前提として,そこから表現の自由の 新たな原理論へ向かう筋道をつぎのように記述する。 ディスコースを封じ込めることによって生じる意味の喪失は,意図的に行動 することを公言するどんな個人または政府にとっても反対すべき事柄である。 われわれはあらゆる理論または政治的なディスコースが明示的または黙示的に ( 8 ) Ibid. p.. 162なお,チェヴィニーは,伝統的な主要な原理論の例外としてマイクJレジョ ン (AMeiklejohn)の考えをあげる。表現の自由が民主政治の行動に欠くことができない というマイクルジョンの主張は,ホームズの「思想の自由市場」というコンセプトに対抗 して登場してきたが,しかし,チエヴイニーは,マイクルジョンの主張が個人主義の思想、 を基礎にした論拠よりも,さらに深刻な問題を提示することになると理解する。その理由 は,マイクJレジョンの論拠が狭い範囲の統治形態にしか適用せず,さらに政治的な表現行 為だけを保護することになるからである(Ibid,p. 162, n.34)。 (9) Ibid,p162
それ自体の意味や有効性を主張していると認める。一つのシステム内での陳述 の意味が対話を通じてそのシステムの他の諸側面を明確に表すことによって確 定される,という言語哲学の成果から引き出された教訓が正しいとすれば,あ らゆる理論は,その主張する諸命題に関わる対話を許さなければならない。ひ とたびある理論が何らかの意味のあることを主張するならば,その意味の確定 のためには対話が欠かせないのである。だとすれば,自由なディスコースの権 利を否定するいかなる政治理論払理論の内部に矛盾をはらむことになる。な ぜ、なら自由なディスコースの権利の否認は自らの理論に意味の喪失を強いるこ とになるからである。 チェヴィニーは,こうして対話自体の持つ価値から表現の自由の重要性を説 き,つぎのように言い切ることになる。「自由主義の正当化理由を非難すること は容易であるが,自由主義に疑いを持つ人にとっても表現の自由の重要性は維 持される。自由主義に疑いを持たない人にとっては,新たに明らかにされ追加 (11) されたこの論拠を理由に表現の自由は重要である。」 チェヴィニーは以上のように結論を先取りし,章をあらためて,今日までの 言語哲学をかなり詳細に紹介・検討している。そのなかで彼は,言語に関心を 寄せる主要な学者達に言及する。彼は,とくに「言語ゲーム」という用語で有 名なヴィトゲンシュタイン(LudwigWittgenstein)の後期の言語哲学を支持 し,さらに一つのシステム内での意味がどのように発見されるかを考察した ノ¥ーパーマス(JurgenHabermas)や ガ ダ マ ー (Hans-GeorgGadamer)やリ (12) クーノレ(PaulRicaur)等の考えにも依拠している。チェヴィニーは,今日まで の言語哲学や解釈学等の成果を拾いあげた末に,-表現の自由の新たな論拠」と 題する短い章において自己の確信をつぎのように述べる。 (10) Ibid (11) Ibid (12) Ibid., p 163-76なお,言語哲学・解釈学に関して参考にした主!な邦文献として,麻生 健『ドイツ言語哲学の諸相』東京大学出版会 (1989年),ポール・リクーJレ著・久米博訳 E解釈の革新』白水社 (1978年),中岡成文「解釈学と弁証法Jr思想JNo.639 (1979年) 60-79頁,鷲田清一「コミュニケーションと規範一一ー実践を多階的に構造化しているもの 一一J'思想jNo684 0981年) 67-96頁。
「われわれはついに人文科学と自然科学の双方の哲学において,一つの一般的 なコンセンサスに向かい合っている。人聞が創った人工物の意味一一言語形態 をとる事実一一規範,価値,行為であろうとも一一ーは,ディスコースを通じて 確定したコンテクストにおいてのみ理解し得る。」 また,彼はさらに詳しくつぎのように述べている。 「意味についての今日の言語哲学のコンセンサスは,話す権利についてのある 立場を含意している。つまり,ことばの意味についてのディスコース(とりわ け行為や価値に関わるディスコース)が制限されるならば,ことばを使い,こ とばを聞くわれわれは,ことばを正確に理解できなくなり,ことばの意味する ものを正確に知り得なくなるという危険が生ずるのである。それはまたつぎの ことを意味する。発話 (speech)はことばの意味を学ぶための対話なのであるか ら発話の自由のないところには発話は存在しない。 この発話自体の性質に根拠をもっ表現の自由の論拠は,つぎのことを内容と する。すなわち,スローガンや反論をまったく許さない決まり文句は,ほんと うは言語(language)の一部でもなしさらに,それらは,言語の宅士会的な次元 がないかぎり,つまり,スローガンとそれに答える聞き手または話し手との相 互作用がないかぎり,コンテクストに登場することはできない。言われたこと の意図や理解をわれわれが求めるかぎり,人間の言語で話されまたは書かれた どんなものについても,われわれはその対話の禁止を望むことはできないので (14) ある。」 このように,チエヴイニーは,ディスコース・対話自体のもつ性質を基礎と する新たな論拠を提起した。意味は対話によってはじめて理解され,対話を制 限することは言論者の発話の意味を理解不可能にすることであり,われわれは 発話の意味を理解したいと欲する以上,対話を禁止すべきではない,というも のであった。 さらに,チェヴイニーは新たな論拠が体制を超えて適用することをより具体 (13) Ibid.., p.176-77 (14) Ibid.., p.177
的に示すために,マルクス主義理論と自由主義の法原理がディスコースのシス テムであり,その双方のシステムにおいて意味の確定が表現の自由に依拠する ことを示そうとする。 彼は言語が現実の模写であるという模写説の立場をとるマルクス主義理論 に,対話による意義づけが通用しないという反論を予想し,マルクス主義理論 も解釈学の伝統を分け持っており,その解釈学的なシステムでは政治的な問題 に対する答えを探すための唯一の手段としていまもなお表現の自由があると理解 する。 そして,チェヴィニーは,語用法とコンテクストを理解するために対話が必 要であるという非マルクス主義的なコンセンサスと一致する考えをとるソ連の 言語哲学者ノてフチン(M.Baxin)を取り上げ,彼のつぎのような見解を引用す る。「あらゆる了解は対話的である。了解は,対話のせりふがつぎのせりふに対 置しているように,発話に対置している。了解は,話し手の言葉を,それに対 する言葉と合わせようとすぷここでは,マルクス主義言語哲学でさえも,発 語は社会的状況に規定され,意味は現実の対象の反映としてだけではなく,相 手方との社会的な関係のうえに成立する対話という状況によって決定されると 理解している例があげられている。 また,チェヴィニーは,法哲学者のドゥオーキン(RonaldDworkin)を取り上 げ,自由主義の法原理も一つのデ、イスコースのシステムであると主張すど 結論として,チェヴ、イニーは新たに提示した論拠が体制を超えていることを つぎのように説明する。「したがって,対話のないところに意味はない,という 今日の言語哲学の意味する内容は,マルクス主義と自由主義の法原理の双方に おいても支持され得る。自由なディスコースの権利は,単に自由主義にとって 伝統的な思想の自由な交換や個人主義に由来するだけではなしそれに代わっ (15) Ibid, p 178-80 (16) Ibid, p 179.(ミハイル・パフチン著・桑野隆訳『マルクス主義と言語哲学』未来社(1976 年)154-55頁の訳による。) (17) Ibid, p.180-81. (ロナノレド・ドゥオーキン著・石前禎幸訳「正しい解答はないのか 一一『物語的整合性」と法一一」『現代思想~ 14巻6号 (1986年)214-35頁参照。)
て,その権利は,自由主義,マルクス主義,またはその他の理論が,生命を失っ たスローガンの祈祷のことば(単に長い退屈なI説明)へと身をもちくずしてし まわないようにするうえで重要な役割を果たしている(己 [第二部新たな論拠が表現の自由の法理に与える影響] 彼は,新たな論拠が表現の自由の法理に与える影響を,①新たな論拠が通用 する範囲,②これまでの論拠との関係,③表現の自由の法原理、への貢献の三つ に分けて説明する。 ① 新たな論拠が通用する範囲について 言語の呪術的な使用がなされていない社会であれば有効であ公 ② これまでの論拠との関係について 新たな論拠はこれまでの論拠を排除しない。対話的なディスコースは他の論 拠に基礎づけられる表現の自由の権利をも意義づけることができ,さらに新た (20) な論拠の容認は修正第一条に関わる判例法を必ずしも否認するものではない。 ③ 表現の自由の法原理への貢献について これに関して,チェヴィニーは r対一話の権利J,r対話の完成J,r危険な思想 を寛容に扱うこと」の三点に分けて説明する。 第一に,新たな論拠は「対話の権利」を表現の自由の法原理の中核にすえる ことによって,これまでの論拠を強化・修正し得る。チェヴィニーは,新たな 論拠がこれまでの論拠より,聞き手の権利に注意を払うことができ,これまで の法原理がその点で不十分であったことをつぎのように説明する。「対話を論拠 とする正当化は,話し手の内心を表明するという,自立的な個人の純粋な自由 であるというよりも,むしろ集会の自由により密接に関連する。議論(ディス カッション)は,言語によって行われる,完全に社会的な創造物である。そし て,それは,読むためのテキストや話す対象や聞き手のような,社会の人工物 に依拠する。誤解や適切な意味を見いだせないことのリスクは,その当事者が (18) Ibid.., p.181 (19) Ibid., p.182 (20) Ibid, p..183
話し手であろうが,聞き手であろうが,あるいは読み手であろうが同じであり, したがって聞き手はディスコースを行うことを望むならば,話し手と同様の利 益をディスコースについて持つのであぷしかし,-言論の自由を意義づける ものの中核に対話それ自体があるにもかかわらず,対話の構成要素である両者 (すなわち,話を聞く聴衆の権利と,それと相関関係にある自らの聴衆に話を 届ける話し手の権利)とも,近年の修正第一条の原則によって明確に意義づけ られていない。近年の原則において,言論の自由を自己表現の手段として捉え る見解が支配的である
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このように述べながらも,チェヴィニーは,これまでの論拠が対話に着目し たときの修正第一条の権利・利益を,まったく無視してきたといっているので はない。「聴衆の権利やそれに対応した自らの聴衆に言論を聞かせる言論者の権 利を支持するために,近年の修正第一条の原則は, w思想の自由市場]という概 念を利用する。それは,思想、の自由な交換が,表現の自由の権利の基礎にある (23) 対話の必要をひそかに保護することに役立った例である。」 しかしながら,チェヴィニーは,-ここで展開した理論は, ~対話のないとこ ろに意味なし jという旗のもとで,話し手とその聴衆との聞のコミュニケーシヨ (24) ンを,表現の自由に関する利益の中核に位置づける。」ことによって,より明確 に「対話の権利」を保護することになると主張する。 また,彼は,連邦最高裁が修正第一条の対話に関わる利益をもっともよく承 認した判例として,ラジオ局に対する反論放送請求権を認めたレッド・ライオ (25) ン判決をあげる。この判決のうちよく引用される箇所は以下のとおりである。 「もっとも重要なのは放送事業者の権利ではなく,視聴者の権利である。修正 第一条の目的は,真理が最終的に明らかになるであろう,抑制されていない思 (26) 想の自由市場を維持することである。」 (21) Ibid (22) Ibid., p 184 (23) Ibid (24) Ibid (25) Ibid第二に,新たな論拠は「対話の完成」をめざす。政治的な意思決定過程にし ろ裁判過程にしろ,あらゆる制度は当面の結論を出さなければならないため, 議論をあるところまでで打切らねばならぬという制限がある。しかし,論理上, 対話とは終わりのないものであり,対話の権利を表現の自由の法原理の中核に すえることはこの制度上の制限を越えて,対話の完成をめざす論拠となめ制 度上の制約が対話の完成を制限するときに,対話の権利を中心にすえた新たな 論拠は, 方的な酷評ではなく,対話の存在を確保するための抑制を正当化す (28) 一 ることができる。」こうして,対話の論拠は,マス・メディアへのアクセス権や 刑事法廷への公衆のアクセス権を正当化しやすいというメリットを持つことに なる。 チェヴィニーは,マス・メディアへのアクセス権を電子メディアに限定すべ きことを主張する判決を念頭に置いたうえで,対話の権利」としての表現の自 由の意義づけと個人主義による意義づけとの相違をつぎのように説明してい る。「レッド・ライオン判決の原則は,それほど容易には限定され得ないo レッド・ライオン判決は,自己表現に関する利益とは区別されるところの,表 現の自由のシステムを保護するという修正第一条上の利益を認めるものとして 読むことができる。まさにこのシステムが,すでに述べたように,意味を確定 (29) するところの聞かれた対話を確保するのに欠かせないものなのである。」 第三に,新たな論拠は「危険な思想、を寛容に扱うこと」になる。どんな思想 もそのコンテクストの外では意味を有しないという結論は議論すべきでないほ どの危険な思想が存在しないことを示唆している。どんなに危険な情報や思想 であっても,それらについて議論しないことの方がはるかに政府の支配の正当 性を危うくすど
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対話のないところに意味はない1
の旗のもとで,ある思想 が危険だと思われる理由がどんなものであれ,その危険な思想についての議論 (27) Ibid, p.187 (28) Ibid, p 189 (29) Ibid, p..190 (30) Ibid, p.192を許すことは政府支配の正当性の一つの要素である。ある情報が極秘であると いう理由でその議論が危険であると思われているときでも,その議論はその極 秘の情報についての施策を理解するために必要である,また,ある思想が虚偽 であるという理由でそれについての議論が危険であると思われているときで も,議論というものはその思想を理解するのに必要であるばかりか,対話をす る見込みによって創設される義務を表明するためにも必要なのであぷ 以上を要約するとつぎのようにいうことができるであろう。 チェヴイニーは,近年の言語哲学の一定の成果と考える「対話のないところ に意味はない」という考えに依拠し,表現の自由を保護すべき論拠を対話また はディスコースそれ自体の性質から導きだした。その理由は,個人も集団もそ して政府でさえも,他者の思想、を理解したいと欲し,さらに自らも他者に理解 されたいと欲している以上,意味の生成の場である対話を抑圧することは自己 矛盾に陥いるからであった。さらに,彼は対話による論拠を採用し,表現の自 由の法理の中核に「対話の権利」をすえることによって,これまでの法理より も,聞き手の権利を考慮することができ,また制度的な対話の限界を乗り越え ることができ,さらに危険な言論を寛容に扱うことが可能になると主張したの である。 ここで,チェヴィニーは,これまでの表現の自由の議論においてよく耳にす る警告とはまったく逆の主張を行っていることがわかる。彼の原理論は,政府 の言論抑制の傾向を前提として,政府が対話を抑制することがまさに政府に とって命取りとなるという主張ではなしある一定の段階に達した政府は対話 の持つ性質から表現の自由を保障する必然性があるという主張であった。この 主張は明らかにこれまでの表現の自由の原理論のなかにおさまるものではな い。果たしてこの主張はこれまでの原理論と比較し,どれほど説得力を持ち得 るのであろうか。 (31) Ibid, p 194
III マーチンの批判とチェヴィニーの反論 (1) マーチンの批判 マーチン(MichealMartin)は「対話」の原理論をつぎのように評している。 「チェヴィニー教授による言論の自由のための主張は政府を批判する市民の権 利を正当化する論拠を提供できず,政府批判の権利を度外視したうえでは,対 話は言論の自由のためにいかなる基礎も提供できない。」 マーチンはこの評価を説明するために,チェヴィニーの主張の不明瞭な点を 指摘し,さらにチェヴィニーの立論を再構成したうえで,その命題の虚偽性を 明らかにしている。 1) チェヴィニーの主張の不明瞭な点 マーチンはチェヴィニーの主張の不明瞭な点を四つ指摘している。 a)f対話」の意味の不明瞭性 マーチンは「対話」を三つに分ける。真理を追及するのに必要な「無限定な 対話J,二者からなる問答を指す通常の意味での対話,つまり意味の明瞭化のた めの「限定された対説)さらに,テキストと個人の解釈上の相互行為としての (34) 対話の三つである。最後の「解釈学上の対話」は,真理探求のための「無限定 な対話」とは異なり,相手あるいはテキストが何を言っているのかを理解する ことが目的であり,二者間の通常の明瞭化のための対話と同様に,批判を制限 することと両立する。なぜなら,テキストを解釈するときには,テキストの真 理や推論に疑いをはさむ必要がないからであ袋マーチンによれば,チエヴイ ニーは対話というときにこの三つの対話を混同して使っている。 b)意味の明瞭化と信念の正当化の混同 チェヴィニーは,意味の明瞭化と信念の正当化とを混同している。対話の持 (32) Micheal Martin, On a New Argument for Freedom of Speech, 57 N. Y U L Rev. 907 (1982)p.908 (33) Ibid, p.908. (34) Ibid, p 910 (35) Ibid
つ認識論上の信念の正当化という価値はミルによってすでに強調されており, もしその価値を対話の価値にするのであれば,対話の論拠は新たな論拠ではな c)意味の明瞭化の過程に政府批判は含まない (3)) 意味の明瞭化のための対話は,政府批判を抑制することと両立する。政府が 自らの命令の意味を理解するときに対話が必要なときでも,一般人との対話で ある必要はなく,政府高官が部下や在会の特権階級の一員との対話を通じて自 らの命令の意味を明らかにすればそれで足りる。対話の論拠は,すべての人が 対話に参加することを正当化できず,エリートだけが対話に参加できればよい ことになる。 d)いかなる国家を想定しているか不明 新たな論拠が通用する国家とはどんな国家であるか,チェヴィニーがどのよ うな国家を念頭に置いているのか定かではな災 2) 立論の命題の虚偽性 マーチンは,チェヴィニ}の論文から二つの立論を抽出し,構成しなおして その命題の虚偽性を指摘している。一つは「無限定な対話」によって基礎づけ られる認織論上の主張であり,もう一つは r制限された対話」によって基礎づ (40) けられる意味の明瞭化の主張である。 前者の認織論上の主張はつぎのような論理の展開をする。 (I) すべての政府は,自らの政策・原則・見解を合理的に正当化したいと望 んでいる。 (II) 政府がその政策・原則・見解を合理的に正当化する唯一の方法は,その 市民との「無限定な対話」を持つことである。 (III) (I)と(II)を前提とするならば,そのときすべての政府(政体)は言論 (36) Ibid., p 911 (37) Ibid.., p.913 (38) Ibid (39) Ibid (40) Ibid., p.914-15.
の自由を持つべきである。 (IV) したがって,すべての政府(政体)は言論の自由を持つべきである。 ここでは,あらゆる政府が自己の政策等を合理的に正当化されることを望ん ではいないこと,さらに合理的に正当化する手段は,市民との「無限定な対話」 (41) に限らないことが指摘される。 後者の意味の明確化の主張はつぎのような論理の展開を踏む。 (1) すべての政府は自らの政策・原則・見解の意味を知られたいと望んで、い る。 (II) 政府が政策・原則・見解の意味を知られるための唯一の方法は,市民と の対話を持つことである。 (III) ( 1 )と(II)を前提とするならば,すべての政府(政体)は言論の自由を 持つべきである。 (IV) したがって,すべての政府(政体)は言論の自由を持つべきである。 ここでもすべての政府が自らの政策等の意味を知られたいとは望んでいない こと,さらに,意味を知らせる方法は市民との対話に限らないことが指摘され る。 最終的に,マーチンはつぎのように結論する。「言論の自由は,政府批判の権 利を内容とする。無限定な対話を除いて,対話は,批判を許す必要がない。言 論の自由の擁護は,対話によって基礎づけられない。チェヴィニー教授の主張 は,その対話の概念の暖味さが解決されたとしても,取るに足らぬ説得力しか 持たないであろう。」 (2) チェヴィニーの反論 チェヴイニーは,議論を整理するために,自らの主張とマーチンの批判をつ ぎのように要約している。 -自らの主張の要約 (41) Ibid.., p.915-16 (42) Ibid., p 916-19. (43) Ibid.., p..919
(I) 表現の自由の権利は,個人の個的な自主性や思想の自由な交換に由来す るのではなく,言語それ自体の性質にもそのルーツがある。 (II) 現代の哲学は,ことばの意味が,語用法やコンテクストに左右されると ころの世会的な問題であるという見解を受け入れてきた。ことばの意味は, 対話参加者聞の対話の過程を通して確定される。単に意思決定をするため の対話というよりも,ことばを理解するための対話の必要性は,社会が対 話の継続を許す必要を惹起させる。要するに,社会はその市民に対話に参 加される権利を与えるべきである。 (III) 論理は,対話の参加者の数や対話の続く時間についての事前の制限が存 在しないことをわれわれに教える。たとえば選挙や訴訟のように,社会は 最終的な決定に到達するために制度的な制約を課すが,その制約は一つの 決定をわれわれにもたらすだけである。すなわち,それらの制約は,その 決定についての議論を排除するものではなど ・マーチンの批判の要約
(I) 言語哲学の分野における「意味 (meaning)Jは,認識論上の「認識
(knowl-edge) Jとは区別される。認識論にとって重要な,思想、の「正当化(justifica -tion)Jは,少しもあるいは全く言語哲学の分野に属さない。チェヴィニー は,それらの概念を混同している。 (II) 政策についての議論はすべての人が対話に参加できることを要求しな い。すなわち,政府の政策を評価するには,故意に反対の立場にたつ人 (devil's advocate =あまのじゃく)や支配者エリートだけで十分である。そ れゆえ,あらゆる人が自由に言論を表明することを〔対話が〕広く基礎づ けるとするチェヴィニーの主張は誤りである(( )内筆者)。 (III) 政策についての議論は,それが許されている時でさえも,その社会の持 つ既成の慣習や価値を越えて行われる必要はない。 (IV) r言論の自由がないところには意味はない」というチェヴィニーの主張 (44) Chevigny, The Dialogic Right of Free Expression: A Reply to Micheal Martin, 57 N. Y U L Rev..920 (1982)p..920
は,あまりにも狭すぎる。なぜなら,政府がその政策を理解されたいとか, 何らかの合理的な・理由により正当化されたいと望まなiいかぎり,その主張 の威力は発揮されないからである。ある政府がその双方を望まないことは, 歴然とした事実であり,それゆえ,その政府はチェヴィニーの主張の適用 範囲からはずれることになど 以上がチェヴィニーによる要約である。 彼は,つぎの三点, A) 意味の明瞭化と信念の正当化の関係, B) 意味の明瞭 化の過程と批判の関係, C) I対話」の原理論の適用範囲に関連して,マーチン の批判に答えている。
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意味の明瞭化と信念の正当化の関係 チェヴィニーが対話が意味を明瞭化するという主張と対話が合理化または正 当化を促進するという主張を混同しているというマーチンの批判に対して, チヱヴィニーは,その両者(明瞭化と正当化)を主張したと答える。チェヴィ ニーは,言論者が意味したものについての理解を手助けする筋道としての対話 に関心があったとし,マーチンが対話のもつ信念の正当化機能と意味の明瞭化 機能との結びつきを誤解していると指摘する。 チェヴィニーによれば,対話の持つ二つの機能の結びつきはつぎのように説 明される。意味を理解するための重要な方法は,言われたことの正当化理由を 吟味することである。この立場からすれば,意味の明瞭化のための対話と信念 の正当化・合理化を促進する対話とが区別できなくなる。言論者の行う正当化 理由の吟味は,正当化されていない主張を取り除くのに役立つという限度で, さらに,正当化理由の吟味が行われることを予想して雷論者は十分な支持を得 られない見解の表明を控えるという限度で,ある見解の意味の理解のためにそ の見解の正当化理由を吟味するという過程は,言われたことの合理化を不可避 的に育むことになる。それゆえ,意味の明瞭化と信念の正当化は,実際上分か (46) ちがたく互いに結び、ついている。 (45) Ibid, p..921. (46) Ibid, p. 922B
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意味の明瞭化の過程と批判の関係 マーチンは,政府が「限定された対話」と「解釈学上の対話」を認める傾向 にある一方で,だからといって政府批判を許さなければならないというわけで はないと理解した。自らの政策等を国民に理解してもらい,さらに自らの政策 等がいかなるものであるかを政府自身が理解するために,政府は意味の明瞭化 に必要な「限定された対話」か,あるいは解釈に必要な対話を行う必要がある だけである。そのことは対話を実質的に制限しながらも,意味の明瞭化が可能 であることを示すものである。 これに対して,チェヴイニーは,明瞭化の過程それ自体が批判を意味すると 主張する。言論者が自らの意見を理解してもらいたいと思い,意味の明瞭化の ための対話を行うことは,同時に,自らの意見を批判にさらすことを意味する。 したがって,マーチンのように意味の明瞭化を単なるより詳しい説明という意 味で理解しない。 第一に,意味の明瞭化の過程は,その信念の正当化の過程でもあるから,正 当化されていない主張に光を当てることになり,それは言論者に対する批判を 意味する。第二に,ある主張の意味は厳格に確定されるものではなく,コンテ クストに左右され,そのコンテクスト内での意味のヴァリエーションを予測す ることができない。そのため,明瞭化のための対話をあらかじめ決められた議 論の範囲にとどめておくことはできず,議論の進展方向が政府の思いどおりに (47) はならないという意味で,明瞭化の過程は批判の要素を含むことになる。 さらに,マーチンが「解釈学上の対話」について,法の解釈や翻訳の仕事が, 技術的なコンヴェンションに依拠した一つの限られた専門的な営みにすぎない と考えるのに対して,チェヴィニーは,法の解釈や翻訳についてもはじめから 決められたディスコースの範囲にわれわれをとどめておくものはないと考え る。 チェヴ、イニーは, トクヴィルの著書『アメリカにおけるデモクラシー j を例 (4'7) Ibid., p 923←25にあげて,この書物が紀行文,社会学の理論,政治理論として評価することが でき,この相異なる視点が相互に影響しあっていることを指摘する。そして, われわれはその本がいかなるジャンルの業績であるか,またそれを書くことに よって達成されるものは何であるかという価値判断の問題を考えることなし (48) に,翻訳をすることは不可能である。 さらに,法的なディスコースのシステムも他の分野に依拠しないそれ独自の 規則を持つものではないとする。チェヴイニーは,法の解釈について他の領域 の考えがその解釈の前提となっており,-解釈学上の対話」も予想不可能性を持 つことになる。こうして,チェヴィニーは,意味の明瞭化と正当化の結びつき と,意味への吟味過程の予測不可能性を理由に,批判は明瞭化のための対話か ら排除され得ないと主張す
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また,チェヴィニーの原理論は,エリートの議論を保護する考えを排除して いるようには読めない,というマーチンの主張に対して1)チエヴィニーは,対 話の進展方向の予測不可能性の結果,支配グループが他者の言論の権利を制限 することは長期的には自らの言論の権利を制限することになると理解する。 「もしも対話の論拠が,主題や参加者の限定を内容とするような方法、で法制度化 されるならば,それは悲惨な矛盾を導くにちがいない。」 C) ,-対話」の原理論の適用範閤 マーチンは,建前としても,合理的な政策や市民に理解可能な決定を行おう としない政府のもとでは対話の論拠が通用しないと主張した。チェヴィニーは これに答えて,対話の論拠があらゆる政府に適用できるわけではないとし,適 (53) 用できない政府を具体的に列挙している。 (54) (I) 部族社会(言語の呪術的な使用がなされているところ) (48) Ibid., p.925 (49) Ibid, p 926 (50) Ibid, p.926-28 (51) Ibid., p.928 (52) Ibid, p..929 (5:)) Ibid (54) Ibid, p.930.(II) 臨時政府(junta) (暴力・武力だけによる支配が行われている社会) (III) ファシズム(情緒的な民族文化をルーツとする政樹 (IV) 権威主義的社会主義政府(合理的な政策と計画を通じて平等と進歩を約 (57) 束しながら,他方でその政策に聞かれた批判を許さない国家)。
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I対話」の原理論の評価 チェヴィニーの原理論とそれに対するマーチンの批判,さらにチェヴイ ニー自身による反論を,なるべくかれらの論理展開にそって紹介してきた。そ のため,かなりくどい説明となってしまったが,二人の対立点は明らかになっ たのではないかと思われる。以下ではその議論を踏まえチェヴィニーの原理論 を評価したい。 マーチンの批判の要点は明白である。チェヴィニーの原理論が政府批判の権 利を正当化できないというものであった。マーチンはそれを説明するために「対 話」を三つに分類した。そして「対話」と一言でいっても「限定された対話」 と「解釈学上の対話」は I無限定な対話」と区別でき,前のこつの「対宮古」は, 話し手やテキストの言いたいことの意味の明瞭化機能をもつが,正当化機能は なく,政府批判と両立すると説くのである。 意味の明瞭化のための二つの「対話」は,たしかに政府批判が制約されてい るところでも機能するといえるであろう。しかし,この「対話」の保護のすべ てが政府批判を抑制するとまではいえない。マーチンも正当にもそこまで主張 するものではなかった。ただ,明瞭化の機能を果たす「対話」はそこで行われ る議論が最終的にどこにいくのか予測不可能であり,さらに,政府の主張を明 瞭化する過程が同時に政府の主張の批判になることも十分に考えられるという 点で,チェヴィニーの反論も正当であろう。 要するに,意味の明瞭化のための「対話」も政府批判の機能を果たすことを (55) Ibid (56) Ibid, p 930-31 (57) Ibid, p 931認めなければならないが,しかしだからといって,-対話」が表現の自由を意義 づける論拠として相応しいということにはならない。 たしかに,宗教的な権威やカリスマ的な権威を直接的に利用した国家とは異 なり,アメリカのような,相対的にいって言語の呪術的な使用のなされていな い民主国家において,支配者の側がみずからすすんで支配の正当性を強固なもの にするために表現の自由を制限するよりも保障しておくことの方がベターであ ると判断するという見込みは,誤りではないであろう。だが,政府は,批判に さらされながら国民大衆を説得するという手続き(表現の自由の保障)によっ てのみその民主的正当性を得ているのではないというのも事実である。むしろ, 説得の手続よりも,政治的な意思決定の内容の適切さによってその民主的な支 配の正当性は維持されているといえよう。そのことは,たとえ民主的統治過程 に関わる中心的な表現行為であれ,ましてや民主的統治過程に直接関わらない周 辺的な表現行為を政府が多少制限したとしても,政治的意思決定の内容が適切 であると国民大衆が判断するならば,民主的な支配の正当性は揺るがないこと を意味する。つまり,政府でさえもその支配の正当性のために「対話」の価値 を認めざるを得ないことを仮定する「対話」の原理論は,マーチンが指摘する ように,政府の支配のために不可欠な「対話」のみを保護する危険を持ってい ることになる。 だとすると,チェヴィニーが新たな原理論を提唱した意図は,どこにあった のであろうか。それは,おそらく「制度化された対話」を「聞かれた対話」に することであったように思われる。彼は個人主義や「思想、の自由市場」論に基 礎づけられた原理論を批判したが,彼の意図は,個人主義や「思想の自由市場」 論の意義づけ自体を否認して,それにかわる新たな原理論を提示することでは なしむしろそれを補充することであって,そのためにその不十分さが指摘さ れたに留まる。「個人が言いたいから言わせろ」という主張と「真理への道は言 い争うことであるから,自由に言わせろ」という主張に,-無限定な対話自体が 大切なのだから言わせろ」という主張を加えることができると考えたのであろ う。さらにいえば,-無限定な対話自体が大切なのだから言わせろ」という主張
は個人の自己実現とか真理とかいった,何かのための表現の自由ではなく,表 現の自由のための表現の自由の主張であるはずであった。この主張が,一定の 決定を最終目標とする現実の「制度化された対話」に,さらにひとこと言うこ と (rモア・スピーチ J)を可能にすると考えたのである。 要するに,彼は r対話」の原理論のうちの r無限定な対話」の原理論を提 供することによって,政府批判の権利を保護することはあれ,抑制するはずが ないと考えたのである。 しかし r対話」が大切で町あるというとき r無限定な対話」が大切なのでは ない。表現が単なるモノローグやスローガンになることを意味の喪失と言い, それを回避するためにまさに「対話」が重要だ、ったのである。「対話」の原理論 が着目した価値は,モノローグにもなる可能性をもった「表現」の価値ではな く,意味の源泉たる「対話」の価値であり,そこに「対話」の原理論の神髄が あった。 だが,彼の「無限定な対話」の主張は,その意図に反して,モノローグを促 進する可能性を常に秘め,意味の源泉たる有意義な「限定された対話」や「解 釈学上の対話」を破壊する可能性をもつことになるのである。したがって,社 会関係から切り離された個人の表現(モノローグ)にも価値を認める,個人主 義の思想を基礎とする原理論の立場からすれば,チェヴィニーの「無限定な対 話」の原理論は,自らの原理論を補強するもののように思えるかもしれない。 しかし r無限定な対話」の価値を支える「対話」の価値は,モノローグの価値 さらにはことばにならない価値に対抗するところにその独自性があったのであ り,個人主義の原理論との協同は,原理上むずかしいといわざるを得ない。 また,どんなに「無限定な対話」を価値としてかかげ,新たな言論を付け加 えることが理念上正当化できたとしても,これまでの原理論を補強するために は,いかなる時に,だれの言論を,どのように付け加えることが「対話」を形 成することになるか,という「対話」の成立芸群が明らかにならないかぎり, (58) 対話の成立要件について示唆を与えてくれるものに島崎隆『対話の哲学一一議論・レト リック・弁証法一一』みずち書房 (1988年),尾関周二『言語的コミュニケーションと労
現実にはいかなる言論をも根拠づけることにはならないであろう。原理論とし ての補強は,チェヴィニーが言うほど簡単ではない。チェヴィニーは「モア・ スピーチ」によって「対話」が成立すると考えたが,それは「無限定な対話」 に一歩近づくだけであり,-無限定な対話」をめざすことそれ自体は,-対話」 の形成を意味するわけではない。 「対話」の原理論が他の原理論を補強するためには,-対話」の成立要件が探 求されなければならない。この意味において,阪本教授が指摘するように,表 現の自由の原理論において言語哲学やコミュニケーション論が生かされる必要 があるであろう。しかしながら,原理論が表現の自由の重要性を雰囲気的に盛 り上げる単なる飾りではないと理解するのであれば,-対話」の視点自体を原理 論の議論において積極的に評価することもできないように思われる。 V お わ り に 以上のように,チェヴィニーの「対話」の原理論を検討してきたが,-対話」 の原理論は,モノローグの価値さらにはことばにならない価値に対抗するとこ ろにその意義がある以上,彼のいう伝統的な原理論よりも,表現の自由を根拠 づけるものでもないし,ましてや,それにとってかわるものでもない。さらに それを補強するという途も「対話」の成立要件という難問をかかえ危ういと言 わざるを得ないだろう。いまは「対話」という一見中立的な価値ではなく,歴 史的な社会状況に規定された何らかの価値が表現の自由を意義づけることにな るであろう。それが民主主義や個人主義の価値となるのか,それとも他の価値 となるのかは別に検討を要する。 たとえば,奥平教授は,表現の自由をあくまでも「主観的・個人的な性質の 顕著な権利」であると捉え,表現の自由を個人主義の価値から意義づけたうえ で,表現の自由と他の基本的な自由との相違を,-よき民主主義の維持」に欠く ことのできない「表現の自由における道具的な価値」に求め泣この立場は, 働の弁証法』大月:13庖(1989年),尾関『言語と人間』大月評底 (1983年)参照。 (59) 奥平・前掲:13・59頁。奥平教授はすでに20年前に同様の主張を行っている(奥平『表
明らかに個人主義と民主主義の双方の価値によって表現の自由を意義づけるも のである。 芦部信喜教授は,個人の人格を最高度に実現するという意味での「自己実現」 と国民が自らの政治に参加していくという意味での「自己統治(self-govern -ment)Jの二つの価値が表現の自由を基礎づけると理解し,そのうえで,歴史的 な重要性からみて,そのうちの「自己統治」の方に重心を置くべき主張を行っ ている。 また r思想の自由市場」論は,その限界を指摘されながらも,人間の可謬性 という,この理論のもつ中核的なテーゼの特徴から,現在でもその支持者を失 わない。たとえば,小林直樹教授は,思想、が商品と異なり,経済性のような還 元できる一つの価値基準によってその真実性を測り得ず,誰でも発言できる討 論が必ずしもよい思想、を生き残らせるわけではないことを指摘したうえ,なお, 人間が常に過ちを犯す存在であるという経験則に照らして r思想の自由市場」 論を擁護すべきであると述べ
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さらに,浦部法穂教授は,表現の自由に対する法的な規制が他の人権に対す る規制よりも厳格な司法審査に服すべき理由を,表現の自由が人権問の価値序 列の観点からみて他の人権よりも優越することに求めず,人権としては表現の 自由も他の人権と同等の価値を持ち,ただ民主主義国家の権力の支配の正当性 との関係で,表現の自由の領域における権力濫用の可能性が大きいこと,さら (62) に,言語行為特有の,他の行為との線引の難しさのこ点を指摘する。 そして,官頭ですでに触れた阪本教授の原理論は,表現行為・コミュニケー ションとは何かという観点から表現の自由の意義づけを探求するという,これ までの日本の議論にない新たな原理論の試みであったが,最終的には,自己実 現の自由とはなにか』中公新書(1970年)21-42頁)。 (60) 芦部信喜『主主法判例を読む』岩波:23庖(1987年)180-81頁。さらに,佐藤幸治『憲法』 背林:古院新社 (1983年)351頁も同様の二つの価値をあげている。 (61) 小林直樹『現代基本権の展開』岩波書盾(1976年)104頁。 (62) 浦部法穂「精神的自由④JU法学セミナーJNo.382 (1986年)78頁,浦部 r21条」樋口 陽一・佐藤幸治・中村陸男・浦部共著『注釈 日本国憲法・上巻」背林容院新社(1984年) 419-21頁。現,真理探求及び知識の増進という諸価値から表現の自由を意義づけることが 正当であることを指摘するにとどまる。さらに表現の自由の優越的な地位につ いての説明においても,表現行為・コミュニケーションが,他の商品との比較 から本質的に強制になじまず,国家権力には表現規制に対する判断能力適合性 がないという主張に依拠していどしたがって阪本説はこれまでの原理論の議 論に新たな原理論を付け加えたというよりも,それらを表現行為の本質から裏 づけたのではないかと思われる。 これらの原理論の議論をどのような視点から評価し,どのようにして今日の 原理論を手に入れるかはいまもなお残された問題である。私は,これまでの原 理論を評価するためには,歴史的視点による類型化が不可欠であると考える。 資本主義社会の各段階に応じて異なった役割を果してきた表現の自由の原理論 をいくつかのモデルに分類する必要があるであろ吹そして,それらの歴史的 な意義と限界が表現の自由の領域における今日の歴史的課題(問題群)を明ら かにし,その問題群のうちのどれをその中核に据えることが今日の問題群の全 体を解決の方向に導くことになるかを検討することが,今日の原理論を手に入 れる方法であると,いまのところ考えている。この問題は,今後の課題とした し主。 (63) 阪本・前掲論文・71-81頁。 (64) アメリカ社会における原理論の歴史的な類型としてボリンジャーは「古典モデ1レ(the classica! mode!) Jと「要築モデル(thefortress model)Jを挙げている。前者には近代 的な政治原理への信奉を基礎に据える原理論が入れこれは封建的な社会的拘束に対抗 する啓蒙的なモデルである。それに対して,後者は「権力は必ず濫用される」という基本 的なテーゼ,つまり同じ近代政治原理のうちの懐疑的な面を基礎とする。現代国家の権力 に対するリアルな認識をもっ原理論がここに入る(Bollinger,The Tolerant Socejfy Freedom oj
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戸eechand ExtremisiS;戸eechin Amerzca, (1986)p.73-103..)。
(65) たとえば,奥平教授は,少数派・社会的弱者による差別表現に対する私的検閲の問題を, 少くなくとも表現の自由の領域における問題としては他の検閲の問題と同様に扱ってお り,差別の問題を今日の表現の自由の問題群のうちの中核的な問題とは理解していない ように読める(奥平「言論・表現の自由JW部 落J42巻4号(1990年)6-15頁。)。しかし, 私見では差別の問題を解決する有効な制度として表現の自由の保障制度があるべきでは ないかと考える。一見矛盾しているように思われるかもしれないが,少数派・社会的弱者 による告発としての検閲の正当性を認めつつ,しかもなお差別的な表現を保護するため の表現の自由の原理論を構築すべきであろう(拙稿rl積極的自由』としての表現の自由」 『六甲台論集.J36巻1号 (1989年)87-108頁参照)0)