「非政治的人間の考察」から レヾり訪問記」ヘ
ド イ ッ 語 教 室
三
枝
圭
作
(昭和49年10月 31日受理)トーマス・ マ ンは論文 「文化 と社会主義」 の中で
,第
一 次世界大戦 中 に執筆 した「非政治的人 間 の考察」(以下 「考察」 と略記 す る)に
言 及 して,Es ist ein Ruckzugsgefecht groSer Stils ―― das letzte und spateste einer deutsch― romantischen Burge』 ichkeit― geliefert im vollen BewuStsein seiner Aussichtslosigkeit l)
と述べて
,「考察」を一種の「退去
]戦」と呼んでいるが
,講
演 「私の時代」 においては
,1918年
に
「考察」の仕事がどうや ら完成 し
,戦
争が終結するととも
1こ急速にこの仕事か ら離反 し
,や
がてその
「非政治的な」立場が克服 されたとい う意味のことを述べている動。
f考
察」んゞ
世に出てか らほぼ
4年後に行なわれた講演「 ドイツ共和国について」は
,そ
の経緯 を示 していると思われる。
ところが
,多
くの評者の中には
,マ
ンにこのような思想の変転は存在 しないとする立場の論者が
いる。彼 らは詩人の首尾一貫 した
Crun berzeugllngenを好意的に強調するか
,或
いは逆にその点
を非難 して
,「考察」 の著者 にヒューマニズムの ドイツを擁護 し
,
ドイツ民族 に反ファシズムを訴 え
る資格τ否定するが
,ま
た一方 には
,フ
ランスの文芸学者
Andrё Gisselbrechtのように
,詩
人が後
年その「公然のまちがい」 を完全に克服 したことを評価する立場 とがある
0。いずれにせよ
,マ
ン
が「考察」における反デモクラティックな君主主義者から,フ イマール共和国の熱心な支持者になった
ということは事実である以上
,この時期のマンに焦点を合わせて
,彼
の政治的軌跡の模索を試みたい。
1914年 1月
,
トーマス・ マンは
Isar河
畔の
Poschinger Stra8e l番地の新居に移 る。それはマ
ンの永住の地になるかに見えた。この時点におけるコーロッパの大多数の民衆は
,ほ
ぼ半世紀にわ
たる平和のために
,ほ
とん ど戦争のことを考 えたことがなかった。
Noch ahnte man nicht,wie gut sich Mars und Mammon,Profitgier und Pulverdampf aufeinander reinen,4)
マンもその一人であった。
ところ力
L第
一次世界大戦が勃 発す るや,マ
ンは この全 く「予期せ ざる もの」 に驚 き,破
局 を予 測 し得なかった不明 を恥 じている。1) Thomas ManniGesammelte lVerke in zw61f Binden,
Aufball一Verlag Be』 1956,Band ,S,706,以下 同全集 か らの引 用 は,ロー マ数 字 で巻数,ア ラ ビア数字 で ペー ジ数 を示 す 。
2)
,S,589,3)Eberhard Hdscher:Thomas Mann.Volk und Wissen Volkseigener Verlag,Berlin 1973,S.53.
作
Ich bin noch inlmer wie im Trauln, 一―und doch mu8 man sich jetzt wOhl schamen, cs nicht fur
mёghch gehalten und nicht geschen zn haben, da8 die Katastrophe ko■ lmen muSte. 5)
クラウス・ マンは1914年の巷の雰囲気 を次のよ うに捕捉 している。「私の目の前 に
,は
ため く旗, 珍妙 な花東で飾 られた灰色のヘルメ ッ ト,編
物 をす る婦人たち,け
ばけば しいポス ター,そ
れか ら また旗の波 ―一 それは黒,自
,赤
の奔流だ一― が現れて くる。 どこもか しこ も大言壮語や愛国家の 騒 々 しい リフレーンで一杯 だ。」6)そ
して,こ
のM惣
吠態 は決 して一般国民 だ けの ものではなかった。 例 えば,「その創設以来つねに もっとも戦闘的な反政府党であ り続 けた社会民主党が1914年 8月 4日 帝国議会で戦費の信任 に賛成 し,政
府 と城内和平 を結んであ らゆる階級闘多 を中止 したばか りか積 極的に政府・軍部の戦争遂行 に協力す ることになった ことで ある。・………世界最大の社会主義政党 として,第
2イ ンターナシ ョナルの中核 として,
ドイッ社会民主党 は帝国主義戦争 に対 しあ らゆる 機会 に反対 して きた。つい7月 25日オース トリアがセル ビアに最後通牒 を突 きつけた直後 に も,党
幹部会は宣言 を出 して,『 ドイツ兵士 の血の一満 も,オ
ース トリアの権力者や帝国主義的利潤追求者 の欲望のために流 されてはならない。・………われわれは戦争 を欲 しない!戦
争 をやめよ!諸
国民の 国際的友愛万歳 !』 と絶叫 したばか りであった。・………理論を軽視 し現実 に追随す ることに9‖れた 彼 らの眼にはこの帝国主義戦3も
祖国防衛戦 とうつ った し,ま
た開戦 とと もに国民の大部分を襲 っ た激 しいショーヴィニズムの熱病 に も抵抗 し得なか った。」7)こ の戦争 に血道 をあげたのは社会主義 者 も例外ではなかったのである。 ヘルマン・ ヘ ッセは当時の名だたる知識人たちの迎合的愛国主義を見かねて, o Freunde,
cht diese Ttte lと 叫んだ ことは有名だが,そ
の他 ハイン リヒ・ マン,シ
ュテフ ァン・ ッヴァィク,レ
オンハル ト・ フランクなども,戦
争 をむ しろ冷静 に受 けとめた小数派 に属 しているといえよ う。 「略伝」によれば,マ
ンは戦争 を当初か ら情熱的に是認 して,当
時の心境 を次のように述べている。Das Verhangnis nahm scinen huf. Ich teilte die Schicksalsergriffenheit eines geistigen Deutsch― tumsj dessen Glaube soviel Wahrheit und lrrtunL Recht und Unrecht tta8te und so furchtbaren, ins GrOSe gerechnet aber heilsamen, Reife und Wachstum f6rdernden Bclehrungen entgegenging. Ich habe diesen schweren Weg zusanllnen mit meinem VOlk zuruckgelegt, die Stufen meines Erlebens
waren die des seineL und sO l17ill iCh′ s guthei8en. 8)
しか も
,彼
はこの壮厳で偉大で実 にまともな民族戦争のお蔭で,こ
うい う大事件 を身 を もって経験 す ることが許 されるとい う幸運 に感謝 している。9)Hans M.Wolfは
当時のマ ンの状況 を,Der "DOnnerschlag`` setzte sciner bisherigen Neigung zur Versenkung in dic eigenc lnnerlichkeit ein Ende.10)
獅幹 辮就 脇 軸を
鰯 幽柵 赳
9)Thomas Mann:Briefe 1889-1936,S.112.
「非政治的人間の考察」から「パリ訪問記」へ
221
と記 して い るが手今 とな って は
,マ
ンは これ まで続 けて きた芸 術的 な仕事,つ
ま り「魔 の山」 を継 続 す るこ とは不 可能 とな った。Ith war nicht stark oder nicht uberheblich genug, mich den Krieg "nichts angehen`・ zu lassen i
erschuttert, aufgelvuhlt, gellend herausgefordert, warf ich mich in・ den TIInult und verteidigte
disputierend das Meine. 11)
ドイツ国民の苦難は
,マ
ン自身の苦難 とな り
,13)彼は国家や国防軍ではなく
,時
代その ものに「召
集」 されて,「 諸君と共に苦しむ」ために思想的に従軍する。
13)こぅして
,マ
ンが一切の創作を投げ
うって
,
ドイツのために書 き綴 った悪戦苦闘の大論文が「考察」であることは言 うまで もないが
,その由来には以上のような歴史的な背景があったのである。
このような運命の陶酔の中で
,マ
ンが とりあえず完成 した政治論文「フリー ドリヒと大同盟」は
,「戦争についての論議に寄与する一篇の歴史的評論
,す
なわらプロイセン王 フリー ドリヒの生涯に
ついてのスケッチ」
14)でぁる。それは同時に
,戦
う とは無関係 に考 えぬかれた文化論で もあ り
,永
年の研鑽 をふまえたものであるが
,戦
争が勃発 し
,
ドイツのベルギー侵入に対する国際世論の激 し
い非難に
Iヨ面 して
,フ
リー ドリヒの史実 を借 りてドイツを擁護すべ く
,
Ⅲ日
興的」
15)に書 き上 げられ
た ものである。フリー ドリヒ大王 を描 くその冷静な′
心理学的筆致をはじめ
,論
文は文学的に も高 く
評価 されるべ き作品のひとつであろう。 しか し,「時局のためのスケッチ」 という副題 に照 らして眺
める場合
,こ
こで ドイツは擁護 されているのか
,そ
れ とも批判 されているのか
,妙
にさだかではな
いが
,1756年
のフリー ドリヒ大王によるフランス
,オ
ース トリア
,ロ
シアの機先 を制 したザクセン
侵攻が
,1914年
の ドイツ軍の国際法を無視したベルギー侵入と暗に並行され
,「守勢」 と「攻勢」 と
の問題
16)ヵゞ
論ぜられるに及んで
,マ
ンの意図は明白となる。彼はこれによって
,第
一次世界大戦に
於ける ドイツ軍のベルギー侵犯を「歴史的に」正当化 しようとしたのである。マンはフリー ドリヒ
の行動 を「やむを得ない正当防衛」
17),「力をのばしつつあるものの正義」
18)だったとす る。従って
,フリー ドリヒのザクセン侵入 という不法行為は
,論
文の結末で彼の運命 として是認 される。
Er war ein Opfer, Er mu8te unrecht tun und ein Lcben gegen den Gedanken fdirerL er durfte nicht Philosoph,sOndern mu8te K6 g sein,damit eines groSen Volkes Erdensendllng sich erfulle.19) つ ま り
,マ
ンの主 張 す る ところ は こ うで あ る。,daB aber Deutschland mutma81ich uberhaupt nicht bestunde, wenn Friedrich nicht in Sachsen ein―
11)alol14s ManniBetrachtlngen eines UnpoliOschen S.Fiscller Verlag,Frallkfurt a.M.1956,S481.
12)honns MannIBI・ i」e an Pad AШ血1915-1952.Max Schmidt― Rand41d VeHa&hbeck 19591 S.54.
13)
,S.412.14)Thollns Mann:Betrachtungen dnes UlapЛ ■にchen,S.67.
15)
,S.413.16)「holxns Mam:Betrachungen eines Unpohtischen,S.179.
17)
,S.108.18)
,S.113.19)
,S.126.gcriickt 、vdre, und da13 es heute vielleicht nicht mehr in der hge ware, sich seiner unsterblichen Seele zu erfahren, wenn es August 1914 nicht dhnlich gehandelt hdtte. 20)
これ に対 して
,ス
イスや ス ウェーデ ンの よ うな中立 的立場 の国の人 々 は,そ
こに表 明 され て い る 公正 で あ りたい とい うマ ンの意志 を称揚 したが,国
の 内外 か ら非難 の火 の手 が上 ったので あ る。 こ の点 に関 して,マ
ンは「 フ リー ドリヒと大 同盟」 にお ける,ほ
ん の わず か ばか りの国粋主義 表 明 に よ って人 々の怒 りと軽蔑 とをまねいた ことを認 めて い るが,21)国 外,つ
ま リロマン・ ロランか らの 告発 は と もか くと して,特
に国内か らのそれ は我慢 のな らない もので あった。彼 は言 う。Mehr als befreundet, weniger als Freund.… Nicht der Fremde, nicht der "Feinde“ war es, der ge― gen dic POsitiOrL in 、velche die Zeitereignisse mich drangten diesc Gefuhlshaltung9 die zu erklaren ― nicht zu rechtfertigen9 denn das Gefuhl ist frei ――dies Buch ■lir dienen mu8, die wdtendsten Angriffe gerichtet hat. Rolland schalt und klagte ntit heftigen WOrten, aber er zischte nicht. ¨.Es
war der deutsche Zivilisationshterat, der nair das Giftigste und EFniedrigendste gesagt hat.¨
War
es Gift nun fur■ ch? erniedrigend nur filr mich? Es ist seine Sache,daruder nachzudenken,一 ―Sache deSienigen,durCh dessen lateinisch beredten Mund der Zivinsationsliterat zu mir sprach. Anzugeben, welchen Mund das war, lehne ich ab. 22)
は っ き りと名前 をあげることこそ差 し控 えた とはい た
,こ
こまで マ ンを激昂 させ た相手 は,外
で も ない彼 の実 の兄 ハ イン リヒ 。マンで あ った。 もと もと,ハ
イ ン リヒと弟 トーマス は,か
つ て は と もにイ タ リアに遊 び互 に協力 して文学活動 を 行 った仲 で あったが,二
人 の関係 には1903年 頃か らしば しば緊張 が起 るよ うにな り,兄
弟 の間 に少 なか らず 「か くされ た論3」 23)が持 ち上 るよ うにな って いた。その うちに,両
者 の疎 隔 はマ ンを し Ч 『,Mcin Bruder, dem die Rheingrenze durchaus willkonlmen warc(wir hatten damals eine groSe
Literatur)ist,etZt nich rech zu brauchen.… 24)
と嘆かせ るほ どにその度 を増 すが
,戦
争 の2年
目にな って,反
戦 の文芸 雑 誌 「 白帖」 にハ イ ン リヒ の暗 に弟 を批判 した Zda―Essay力ゞ掲載 されてか らは,兄
弟 の関係 は決定 的 な もの にな った。 マ ンは「考察」の中で
,ハ
インリとの問題のエッセイ
,つ
ま り
Bckenntnisschriftに対 して総力 をあげて
アンチテーゼを展開する。そして
,そ
の中の特に「文明の文士」 と「正義 と真理に抗 して」の章に
おいて
,兄
に対する最 も激 しい論難を加 えるのであるが
,マ
ンとィヽインリヒの「兄弟喧嘩」の詳細
を跡付 けることは本論の課題ではない。
こうして
,「考察」はマンの個人感情 も加わって
,「なりふりかまわず」
25)膨張する。論戦は複雑多
霧塾番と
呼 評
離濫
4g濾
器
1龍拙
&盈
98贄
二
鍋 歯
泥
二
:靴
殿協ポ篭
lび帝
手
翠
も
k sdnes Leben鼠&nscher tta&hattu■
■
M.慟65,S4み 25)hOn4S Mann iBetrachtungen eines Unpolitischen,S272,「非政治的人間の考察」か ら「パ リ訪問記
Jヘ
223岐にわた り
,政
治論に加 えて芸術論がい く重にも混入す る。従 って「考察」が単なる政治論で
はな
くなるのは勿論
,「芸術作品」で もな くなって しまった。 しか し
,陰
術家の作品」であることは事
実で
,26)それ故
,マ
ン自身「考察」について次のように述べている。
Das Buch lvar im lnnersten 、veit mehr Experlnental―und Bildungsroman als politisches WIanifest.27)
この点 に関 して は次 の よ うな適切 な論及 もある。
Trotz der reaktionaren Grundhaltung der "Betrachtungen eines Unpolitischen“ konnte llЮmas Mann spater in cinem kleinen Paradoxon■lit Recht sagen, sie seicn dberall dort, "Wo sie nicht politisch
sind, ¨. durchaus lesbar“, und sie cnthielten lvohl uberhaupt "cinige ganz gute, bewahrenswerte
Dinge,kulturkritische und autobiographische,auch rein literarischei`28)
た とえば,「美徳 について」 の章 で
,Pfitznerの
傑作 ,,Palest na“ につ いて論 じられて い る箇所 は,本書 の最 もす ぐれ た部 分 の ひ とつで あろ う。 Inge Diersenも
,こ
の書 の中心 は直接政治 問題で ある とい うよ りは,kunsttheorictische Fragen,つ ま り,dic Funktion der Kunstで あ る とい う意 味 の こ とを述べ て い るが,29)本論 の性質 上 ここで はマ ンの芸術 論 は割 愛 しな けれ ばな らない。それに して も,「考察」 はその膨大 な内容 を如何 な る面か らもひ とつか み に把握す るこ とが不可能 なほ ど複雑 多岐で あるが,―そ こに提 出 されてい るい くつかの ア ンチテーゼ は
,結
局 はマ ンの胸 の中での「二 つ の貌」 として とらえ られて い る とい えよ う。Hans Eichnerは それ らを政 治 の面か ら次 の よ うに要約 して い る。
Im Politischen_豊 ganz allgemein war das Grundprinzip seiner Denkweise die Gegendberstellung
von unversё hnlich feindlichen Gedankenkomplexen ge、 vesen. Der eine Komplex in Manns fruhem poli―
tischen Weltbld gruppiert sich tlrn eine geforderte ldee d6s Deutschtulns und lautet "Kultur, Seele, Freiheit,Kunst``;Sein FOrtbestehen wird gewhhrleistet vom Obrigkeitsstaat,der es dem Staatsburger
ermbglichen sol■e,sich ausschlic8hch seiner pers6nlichen Bildungswelt Zu widmen und alles Geselト
schaftlich―Politische getrOst den Berufspolitikern zu uberlassen. Der audere Komplex hei8t "Zivi―
hsation, Gesellschaft, Stirnmrecht, Literatur“ , die ihm gemase Staatsform ist dic Demokratie llnd
seine geistige Heinsttttte vornch■ 1lich Fx・ankreich. Und WIanns Patriotismus,zusanlmen niit den Grauen
vOr der zunehmenden Politisierung Europas, fむ hrte ihn zur Zeit des ersten WVeltkregs dazu, sich
kOmpromilllos,lvenn auCh Hユit 、vachsenden Z、 veifeln,auf die Seite des Obrigkeitsstaates 2u schlagen,30)
マンが
3年
近い歳月を費し
,一
切の創作ぞ投
tデうって書 き綴ったこの書は,ま た挑発的な文句に
も事欠かない。例えば
,彼
は「君主政体」を欲するとか
,或
いは「権力国家」が ドイツ民族にふさ
わしい当然の国家形態であると断言 している。
31)要するに
,彼
がここで擁護したものは,ロ マンチ
26)
,S705,27)
,S.589.争 鞘 課 瑯 謝 熱 齢
,魂
沖 靴
靴
,監
Ⅷ ■
6餡盈
ックな Burgerlた
hkdt,
プうシャ的 Haltungsethos及 び極 めて反動的なKathechsmusで
あった。3め 当時の トーマス・ マンにとって政治 とデモ クラシー とはイコールであったが,そ
のいずれ も ドイツ 民族の本質 とは無関係であるとい うことを強調 したのである。 しか し,そ
れによって,彼
自身は深 い矛盾 に陥 らざるを得 なかった。`
後年,マ
ンは「考察」の仕事がいかに苦 しい ものであったか とい うことをしば しば強調 している が,こ
の苦悩の姿 を再 びクラウス・ マンに聞いてみよ う。「父が書斎か ら出て くる。グレー地の制服 じみた上着 をぴっち り身 につ けて,ひ
どく体 をそ らしている。唇 はまるで暗い秘密 の上 に封 をで も したよ うにとじられ,目
は思 いにふけるよ うに うちにむけ られてい る。父 は疲れているらしい。机 を前 にしての午前の仕事 は非常 に骨が折れたにちがいない。毎 日午前 は九時か ら昼食 まで書斎 にし ば りつけ られ る……… しか し彼 はこのたびは明 らかに,格
別厄介 な,求
めるところの多い魔法 をあ み出そうとしている。今,朝
の時間に彼 を苦 しめているのは美 しい物語 のひ とつではな く,あ
る抽 象的で困難な神秘的な ものなのだ。訪客 に新 しい作品の模様 を聞かれ ると,彼
はちょっと当惑顔 を す る。『つま り本 を書 いているんだがJと
彼 は言 うが,視
線が奇妙 に定 ま らない。[いや,小
説 じゃ ないんです。戦争 とい うもの を考 えているわけです。』まるで父は書斎で新兵器か未曽有の戦略をあ み出そ うとで もしているよ うな調子だった。」33) このよ うな長期の思想作業 によって傷ついたマンは,陽
察」 が完成 し,大
戦が終結す ると,以
後 一 切の政治的な発言 を放棄 したかに見 える。「彼 はまたして も非政治的 になった。その頃わが家で政 治 の ことが話題 になったことはない。・・……・しか し,会
話 は大抵文化的な問題 をめ ぐってな されて いたように思 われる。」34)この時期 にマンの生涯で最 も牧歌的な瞬間がお とずれ る。愛犬バウシャ ンと一緒 に散歩 に出かけるのは,苦
しい時代の慰 めであり,気
ばらしであった。こうして生れたのが 「主人 と犬」である。 「筋 なんかな くて もよい。バウシャンの性格 を描 こうとすれば正確 さと朗か な綿密 さ以外 には何 もいらない。イーザル河畔の風景がすて きな背景 になる。それは取 り立てて どう とい うわ けで もないが絵の よ うに美 しい。バ ウシャンをつれて楽 しい散策 を試みたいろんな小道 を 思 い出 しなが ら,紙
の上で もう一度 それをた どってみるのは愉快な ことだろ う。書 きなが ら自分で 楽 しい思 いをすれば,書
かれた ものだって退屈 な ものにはなるまい。実際,『主人 と犬』 とい う物語 は,緊
張 した筋 などなくて も好 もしい読 み物 だ。」35)「主人 と犬」 は,あ
まりにも政治的な レF政治 的人間の考察」 に対 して,真
の意味で非政治的な作品である。 これは,同
じ頃1子生れた「幼な児の 歌」 と共 に,世
界大戦の勃発以来祖国に対す る義務感か ら中断 していた平和 な仕事 (創作)へ
の復 帰 を意 味 している。それか ら数年,彼
が時局 について日を開 くことはほ とん どなか った。 しか し,この間
,彼
は国粋的な「考察」の著者 として,右
翼の思想家Arthur MOeller van den Bruckと の関 係が取 り沙汰 され るが,こ
の点 に関 してはまた して もクラウス・ マンの登場 を求 めなければな らな32)Eberhard mにcher:IIIOn4s Mann,S.50.
33)ク
ラウス・ マン「マィ家の人々」二 転回点 188/89ペ ージ34)ク
ラウス・ マン「マン家の人々」一 転回点 1130/131ペ ージ35)ク
ラウス・ マン「マン家の人々」一 転回点1129ページ作 枝
「非政治的人間の考察」か ら「パ リ訪問記」ヘ い。「『考察』の著者 は反動 の一 味の 指導 者 に も寵児 にも容易 にな り得 ただろう。 しか しこの連 中か ら 示 され たお世辞 た らた らな申 し出 を
,彼
は静 か に箕[重 に拒否 した。彼 と ドイツ国粋主義者 との類縁 関係 は,
もしそれ が あ った として も一 時 的 な もの で あ り,ま
た一 部誤 りに もとづ いていた。 ドイツ の伝統 を重視す る気 分 にお いて も,彼
は攻撃 的 な盲 目的愛 国心 の粗暴 と感傷性 とはなんの共通点 も もたなか った。」36) ところが,
トー マス・ マ ンは1922年 10月 15日 に, 4年
間 の沈 黙 を破 ってベル リンのベ ー トー ヴ ェ ン・ ホ ールで行 われた講演 「 ドイツ共和 国 につ いて」 においてデモ クラシーを讃 えて「共和 国 ばん ざい!」 を叫び,「
ドイツ精神」 の擁護者 の登場 を期 待 して いた聴衆 を唖然 とさせ る。彼 の意 図す る ところは,彼
らを必 要 なか ざ り共和 国の味方 に引 き入れ,デ
モ クラシー と名づ け られて い る もの, ヒューマニテ ィと呼 ばれてい る ものの味方 に引 き入 れ ることで あった。 そ して,好
戦 的 ナ シ ョナ リ ズ ムに反対 を表 明す る。Und um das Nationale nicht vё llig in Verruf kO■ unen9 es nicht gttnzlich zuln Fluche werden zu lassen,
wird nёtig 3ciL da8 es,statt als lnbegriff alles Kricgsgeistes und Gerhttes,viehneば,seiner kむnstle―
schen und fast schwarmerischen Natur durchaus entsprechett inlmer unbeangter als Gegenstand eines Friedenskultus verstanden werde...Dic Welt, die V01ker sind alt und klug heute, die episch― heroische Lebensstufe liegt fur iedes vOn ihnen weit dahinten,der Versuctt auf sic zuruckzutreten, bedeutet wuste Auflehnung gegen das Gesetz der Zeit... 37)
彼 は特 に ノヴ ァー リス を引 き合 い に出 して,
humauitas als ldee, Gefむhl und sittlich―geistiges Regulativ,das stille BcwuStsein9 daS Staat nur
"eine besOndere Verbindung mehl・erer Menschen in den gro8en Staate ist,den dic Menschheit fur sich selbst schon ausmacht“38)
を挙 げ
,最
後 に ドイ ツの政 治 に「 ドイツ的 中庸」 として の ヒューマニ テ ィを求 めて講演 を終 る。 Zwischen dsthetizischer Vereinzelung und wurde10se■ l Untergange des lndividuums im Allgemeinen; zwischen todverbundener Verneinung des Ethischen. Burgerhchen9 des Wertes und einer nichtsaと wasserklar―ethischen Vernunftphilisterei ist sie in Wahrheit die deutsche Mitte,das Sch6n― Menschliche, wovon unsere Besten trdulnten, 39)
「考察」の「ヲ
F開化主義者」 による西欧デモクラシーの擁護。聴衆の靴で床 をこすって憤慨する
のは当然であった。 ドイツ共和国へのこの信仰告白が彼 らの眼に「変節」
,「豹変」あるいは
「断絶」
と映るの も無理はない。国粋主義的新聞は
,激
烈な嘲 りをこめて
,Mam der BOrd!と
報 じたとい
う。彼 は「転向」 したのだろうか。そして ドイツ精神 とドイツ文化 とを裏切ったのだろうか。更に
36)ク
ラウス・ マン「マン家の人々」一 転回点1130ページ37)
,S.495/496。38)
,S4盟.作
マンの言葉に耳を傾けてみよう。
彼は今や ドイツ人にとって「内的事実」 となった共和国を「運命愛」 として受容することを訴 え
る。
Die Republik,dic DemOkratie sind heute solche inneren Tatsachen,sind es fur llns alle,i eden einzelnen,und sie lellgnen hd8t ltten,… Das Schicksal hat sic― wir wollen cht triumphierend
rufen: "hinLveggefegt``, wir 、vollen sachlich aussprechen: es hat sie beseitigt, sic sind nicht mehr
uber uns, werden es, nach allenl, 、vas geschehen, auch nie wieder sein,und der Staat,ob lvir wollten
oder nicht,一―er ist uns zugefallen, In unsere Hhnde ist er gelegt, in die iedeS einzelhen; er ist
unsere Sache gewOrden,die wir gut zu machen haben,und das eben ist dic Republik,一 ――ctwas anderes ist sie nicht, Die Repubhk ist ein Schicksal, und zwar eines zu dem "amor fati“ das einzig
richtige Verhalten ist. 40)
そ して
,共
和 国,或
い はデモ クラシー に対 す る反 発 は た だ言 葉 を恐 れ てい るに過 ぎな い。 共 和 国 が や は リ ドイ ツ で あ るよ うに,デ
モ ク ラ シ ー も軍 力 をが ちゃつ かせ るか の帝 国 よ りも居 心 地 が悪 い と は言 えない。更 には「マイス タージンガー」 を ドイッ 。デモ クラシーの範例 として提出す る。つ ま り,彼
は ドイツ・ ロマン主義 の中に ももとか らデモ クラシーの要素 が含 まれていた とい うこと,従
って ドイツ 。コマン主義 の世界 は,こ
の新 しい世界 につながっていた とい うことを特 にノヴァー リ スやホイ ッ トマンを引用 して説得 を行な う。講演の結末近 く,彼
は生 に対す る関心 と死 に対 す るそ れ との関係 を提 出 し,死
を賓 美す るロマン主義 を生の賛 歌 としてのロマン主義 に結 びつける。Und ist Sympathie ■lit denl Tode nicht lasterhafte Romantik nur dann, wenn der TOd als selbstan― dige geistige Mach dem Leben entgegengestellt wiri statt heiligend― geheiligt darin aufgenomlnen zu werden? Das lnteresse fur TOd und Krankheit,fur das PatiЮ 10gische,den Verfall ist nur eine Art
von Ausdruck fur das lnteresse am Lcben, am VIenschen, 、vie dic hlllnanische Fakultat der Medizin beweist; wer sich fur das Organische, das Lcben, interessiert, der interessiert sich namentlich fur
den T吼
41) 以上,マ
ンは過去の非 を告 白 した り,不
本意 なが ら「転向」 を表明 しているのではない。彼 は自 己の精神の基底部 において政治的過去 と何 ら「断絶」 がない と主張 している。講演が単行本 として 刊行 され るに際 して新 たに添 えられた「序」 の中で,彼
は志操の変化な どとい うものは知 らない し, ことによると考 えを変 えたか もしれないが,志
操 を変 えたことはな く…… ここで共和国に対 して励 ましを与 えているのは,「考察」の進路の正確 な,今
日にいた るまで断続のない継続であって,あ
の 書 の志操,す
なわ ち ドイッ的人間性の志操 は否定 されていない,と
い う意味の ことを述べている。 講演の中では,更
にはっきりと言 う。40)
,Si 501.41)
,S.531.「非政治的人間の考察」か ら「パ リ訪問記J 227
Ich widerrufe nichts. Ich nehne nichts Wesentliches zurick. Ich gab meinc Mrahrheit und gebe
sie heute。 42)
またそのす ぐ後で
,彼
は自らを「保守主義者」 とさえ呼んでくりかえし「断絶」を否定 しているし
,後年の講演「私の時代」において も
,こ の興奮の日々を回想して, きっぱりと同じ主旨のことを述
べている。
B108e vier 」ahre nach de■l Erscheinen der "Betrachtungen“ fand ich ■lich als Verteidiger der demokratischen Republik, dieses schwachen Geschёpfes der Niederlage, und als Anti― Nationahst,
chne dan ich irgendeines Bruches in meiner Existenz gewahr gewOrden lvare, 。hne das leisteste Gefuhl,dan ich irgend etwas abzuschwё ren gehabt hitte.43)
いっぽう
,以
上のようなマンの主張と平行して
,や
はリマンの思想の経過に「断絶」を承認しな
い評者がいる。例えば
Flinkerは講演「 ドイツ共和国について」をはじめ
,そ
の後の一切のマンの
政治的著作の基調に「考察」の存在を確認 し
,彼
の政治思想の一貫性を主張する。
Hans Eichnesは「 ドイツ共和国について」に言及 して
,Mann hat sich schon weit genug mit de■ l Neuen abgefundeれっum gegen die Alternative chauvinistischen
Terrors fur die DemOkratie Stellung zu nehmen. 44)
と述 べてマ ンのデモ クラシーヘ の転 向 を指摘 す るとと もに
,そ
の証左 としてす でに本論 の註18)で
も引用 した記述 を提示 して い るが,Flinkerは 逆 に これ らの言葉 はす で に「考 察」 で展開 された もの に外 な らない と断定 して い る。また
,1930年
のマンの講演「理性に訴える」の中にはこんな一節がある。
Es kOmmen tiefe,wenn auch unbestimmte und rat10se Zweifel innerpolitischer Art hinzlL ZWeifel
also daran, ob dic inl、vesteurophischen Stil parlamentarische Verfassung. die Deutschland nach dem Zusammenbruch des feudalen Systems als das gewisserma8en histOrisch Bereitlicgende tiberna吼 scinem Wesen vollstindig angemessen ist, ob sie seine pchtische Sittlichkeit nicht in gewissem Grade und Sinne entstellt und schddigt,45)
Flinkerは
このよ うな西 ヨー ロッパ型 の議 会制度への疑念 の表 白 こそ,マ
ンの「考察」 の基調音だ ったの だ と論 じてい る。以上 の よ うに
,Flinkerは
マ ンの「考察」 んゝらの離脱 を否定 しなが ら, 更 に「考 察」本来 の進歩 性 を強 調 して い る。Er war inlmer nur dem Fortschritdichen und Neuen.der Jugentt der zukunft aufgetan.Seine Gedan― ken gelten一 vOm Tage da cr zu schreiben begann― ― i■uner nur der Hlmanitat. 46)
42)Xl,S508.
43)
,S589.44)Hans Eichne■ThOmas Manlat S.68.
45)
,S539,作 従 って
,
トーマス・ マンが「 ドイッ共和国について」 において,君
主制 に敵対す る ドイツ共和国 の擁護者 として登場 したとき,彼
は「政治的 に望 ま しい もの」 についての彼 の判断が変 って しまっ たと非難 を浴 びたが,Fhnkerは
マンの「変 えられた判断」 とは 政治的に「望 ましいもの」 ではな く,恐
らく政治的 に到達 し得 る ものが引 き合いに出 された もの として捕 えて いる。 しか も,
ドイツ 人の本質 にふ さわ しい国家組織 として「考察」 で示 された像は,敗
戦後4年
の この講演の時点 にお いてはunwirklictt unrealisierbar,unerreichbarで あった と彼 は言 う。君主制 は崩壊 し,皇
帝 は亡命 した。 ドイッはマンの意 に反 して西欧的民主主義共和国 となったが,早
く.も 共和 国にはファシズム による危険が迫 りつつあった。彼 によればマンは祖国 と文化 とに対す るその危険 を認めた最初の人 のひと りであった。Obskurantismus, ■lit seinem politischen Namen ReaktiOn gchei8eL iSt Roheit,一 sentimentale Roheit, insOfern sie,壺 cll selbet betrttentt ihre brlltale und unvernunftige Dhysiognomic"unter der imposanten
Maskざ `des Geiniites,der Germanentreuc etlva,zu verstecken sucht...Wenn sentimentaler Obskurantismus sich zuln Terror organisicrt und das Land durch ekelhafte und hirnverbrannte MOrdtaten schadet,
dann ist der Eintritt solchen NOtfalls nicht ldnger zu leugnen. 47)
このよ うに,「 国家社会主義」の「権力獲得」の11年も前 に恐怖政治 の出現 を警告 したマンをFlinker
は高 く評価す る。更に彼の説 に耳 を傾 けよ う。それによれば
,新
共和国は発足 したが,そ
のデモ ク ラシーによる新憲法が未だ国民的共感 を得ているとはいえない状況 を見 るにつ け,マ
ンはこの こと を恐れ,警
告 したのであった。彼 は今,こ
のよ うな危 い祖国を支持す る以外 に何 もで きなか った。 彼 は総力 をあげて,若
者 を共和国の味方 につ けよ うとす る。共和国 は敗北 と虚脱の上 に建 て られた ものではな く,自
由な意志 と国民的高揚の表現 であると。そ して,Aber nun haben wir delと 叫ん だのだ。しか るに
,マ
ンの論調は何かfestな ものに欠 け,あ
きらめの響 きがある。デモ クラシーの擁護者 として自信 に満 ちていると言 いがたい。Flinker はその理由を次のよ うに論述す る。Denn seine Uberzeugung9 da8 das deutsche VOlk noch lange nicht reif sei fur die Demokratie dttrhaupt und schOn gar nich geschaffen ttr die DemOkratie nach westlichen Muster ist geblieben.481
マンは西欧的デモクラシーの信仰告自をしたのではなかった。む しろ逆 だったのである。Flinkerはそ の証左 に
,マ
ンの論文「文化 と社会主義」の一節 を引用 している。Glaubt man auch nur mir entginge,da8 dieses Buch._(die Bctrachungen)weit mehr taugt und
wiegt als jene vttterliche Ermunterung zur Republitt mit der sein Verfasser ein paar」 ahre da正二Ch
eine st6rrige 」ugend uberraschte.... 49)
また
,Erika Mamの
「考察」の復元版の「序」には次のような記述が見られる。
47)
,S498.48)Martin Flinker i ThOmas Manns pohtische Betrachtungen im Lichte der heutigen Zeit,S.100.
「非政治的人間の考察」から「パリ訪問記」へ
229
■M.s grOser Essay,Ⅳon Deutscher Reptlblik`:sein p16zliches Bckenntnis zu dieser in der Stunde
ihrer Not, und als "Schritt“ scin inopportunster seit den "Bctrachtungen“ , erschien urn diesc Zeit
und 、virkte, als hatte der Autor sich eine BrandbOmbe ins eigenc Haus geworfeno Selbst die "Kunst― schrift`` hatte meinem Vater so viel Schimpf nicht eingebracht.50)
いずれ にせ よ
,マ
ンは,共
和 国 が脅 か され る存在 とな った時点 で,や
むな く ドイツ共和 国 の支持 を 宣言 したので ある。 ところが,こ
の文字 通 り「政治 的講演」 には彼 の確信 か らほ とば しる力強 い響きが感じられない。彼の初期の信仰の公然たる
「否認」であるに もかかわらず
,「考察」の余韻が依然
として尾 を引いている。講演の中でマンが引用す るノヴァー リスの言葉がこのことを端的に示 して
いる。
Dieie geL die in mseren Tagen gegen Fursten als solche deklamieren und rgends Hcil statuieren als in der ncuen franz6sischen Manier... das sind armseligc Philister, lcer an Geist und iarm am Hcrzen.…
Buchstれ
ler,dic ihre Seichtigkeit und innere B168c hinter den bunten Fahnen der tritthierenden MOde zu verstecken suchen.51)それでは
,マ
ンがここで主張 したかったのは
,何
だったのか。それは「 ヒューマニズム」 だった
のではなかろうか。彼 は講演「私の時代」の中で
,当
時の思想的「断絶」 をきっぱ りと否定 したあ
とで
,次
のように言 う。
Gerade der Antihmanismus der Zeit machte mir klar,da8 ich nie et、vas getan hatte 一 oder dOch hatte tun 、vollen ,als dic Humanitat zu verteidigen.52)
つ ま り
,彼
は「 ドイツ共和 国 につ いて」 か ら30年 後 の時点 において も,「 ヒューマニズム」 を守 ると は言 って い るが,共
和 国 とは言 って いな いの で あ る。1934年 3月の 日記 には次 の よ うな記述 が見 ら れ る。Mcin Werk hat
■lit Deutschland etwas zu tun und ■lit Europa ctwas zu tunt aber gar nichts nait der Repubhk. Aber verdunimt von Politik weil zu dunim fiir die Politik, halt man kein Werk fur bedingt durch die Republik und ihr ,,saisonmaSig“ zugeh6ri3..53)以上
,Flinkerは
詩人 の政 治思 想 がつ ね に直線 的 に進 展 して きた こ とを論 じて い るの で あ って,マ
ンの転 向 を認 めるルカーチ,或
いはマンが1918年 以後 デモ クラシーの陣営 に立 ち,1924年
の長 篇 「魔の山」の出現の時点で政治の庭に降 り立つ決心をしたとする
Rychnerの立場とも異っているもので
あ る。「略伝」によれば, トーマス・マンは戦争の初頭から「顕者な画期的は転換」の到来を意識して
いたが,「考察」執筆中に早くも「退却戦」を予感していたということはすでに冒頭で述べた。そこ
50)Thomas ManntBetrachtungen eines Uttolitischen,S XVl.
51)Xll,S497/498`
52)Xll,S589
作
で讃美 され る価値 はやがて歴 史 によって断罪 され るで あろ う
,見
込 みの な い こ とは百 も承知 の戦 い だ ったので あ る。Da13 der Krieg aber fur Deutschland einen machtigen schritt vOrwarts auf dem Wege zur Demok― ratie vor allen Dingen bedeuten werde, das 、vuSte ich am Tage seines Ausbruchs.54)
マ ンは上 に続 けて
,自
分 が反抗 して い るの は,
きた るべ きデモ クラシーに対 してではな く,た
だ そ れ が馬鹿 げた形態 ではな く,い
ささかな りと も ドイッ的形態 を とって実現 してほ しい と願 ってい る にす ぎない と述 べ てい る。 ここには,す
で にデモ クラシーヘ の関心 と関与 の姿勢 が現 れてい る とい えない だろ うか。彼 は,早
く も自分 も ドイッ も変 りつつ あ る。 いや,変
らざるを得 ない とい うこと を感 じて いたので あ る。 こ うして彼 は戦争 の終結 とほ と/Lど 時 を同 じくして「考察」 か ら離脱 して い くが,そ
の後,「
沈黙 の4年
間」 がや ってくる。 そして,彼
の デモ クラシーヘの接近 が開始 され る の で あ る。 マ ンは「考察」 においてデモ クラシーの堕落 を兄 ハ イン リヒよ り鋭 く認識す るとと もに, その概念 を立憲 的 な意 味 においてではな く,「
精神形式,進
歩 の ラジカリズム」 として理解 して いた ので あったが,こ
の「沈黙 の4年
間」 にか って彼 の擁 護 した ヒューマニズ ムの政治的別名 がデモ ク ラシーであ ることを感 じは じめたのではなか ろ うか 。 彼 は次第 に政治的 に考 えを変 えつつ あった。Natitrhch bedeutete das kcin Tabula― rasa―MacherL keine entschiedene Absage an seine bisherigen Bildwagsttchte oder de Vedeugnung der burgenた hen TrahiOL aber ulndenken ler c er』l耐Ⅲ托h
im Politischen.55)
この ことは勿論今 までの態度 の全面撤回ではなかったが
,極
めて ゆ るやか に何 かが起 っていた。彼 はC.B.BOutd
宛 ての手紙 の中で述べ てい る。In politischer Bczichung dagegen ist bei mir(und das ist elleich natiOnal―deutsch)ein sehr
langsames Reifen festzustellen.56)
ところで
,
トーマス・ マンの一連の「文化政治的エッセイ」 は
,ほ
ぼ
1920年頃に執筆 され始めた
のを見れば
,彼
が上の引用のすぐ後に
und tatsachlich setzte crst der nlich in meinen Grundfesten erschutternde Kriegsausbruch vOn 1914 mich gelvaltsana zu Problemen ilberhaupt in BezichuIIg9 fur dic ich vorher garkein organ entlvickelt
hatte.57) と続 けて
,彼
の政治的成熟 が大戦勃発 に触発 され た もの だ としてぃ るのは,文
字通 り受 け取 って よ か ろ う。 しか し,戦
前 の彼 の諸論文 に政治的要素 が全 く発 見 され ないわ けで はない。すでに触 れた Flinkerは,マ ンの戦前の論文「演劇試論」
,「老フォンターネ」
,或
いは「『大公殿下』について」な
どの一節をその例としてあげている。例えば「『大公殿下』
│こついて」の中にはデモクラシーに関し
諸 坤
逃
;ξ部
!掬
鞘
牌
中
み
「非政治的人間の考察」か ら「パ リ訪間記」へ
231
て次 の よ うな記述 が見 られ る。
In de■l Schicksal meiner drei furstlichen Geschwister, Albrecht, Klaus Hcinrichs und I)itlindenS, malt sich sPbolisch dic Krise des lndi dualismus,in der wir steheL iene geiStige Wendung zun DemOkratischelL zur Gemeinsamkeit,zuln Anschlu8,zur Liebe,中 ● 58)
彼 は これ らを取 り上 げて
,マ
ンが戦前非政治 的 ない しは反政治的 で あった とす る多 くの評者 に対 し て,戦
前戦後 を通 じて終 始 政 治 的 だ った と論 じて い るので あ る。 しか しなが ら,何
とい って も初期 の マ ンの諸論文 の色調 は,自
伝 的 な報 告,批
評 そ して芸 術論 で あ り,政
治 的問題 に対 して は外部 か ら刺激 された場合 にのみ,極
めて稀 にその態度 を表 明 したので あって,上
述 の諸論文 も厳密 には文 学 的領域 を越 える もの で はな い とす るHilscherの
説 の方 が,マ
ンの戦前 の姿勢 を的確 に捕 えてい るので はなか ろ うか。 さて,第
一次大戦後,マ
ンは過激 な左翼革命運動 と,そ
れ に対 抗 す る暴力的 な右翼 団体 の闘争 を 政 治的 に見守 る こ とにな る。1920年 の カ ップー携,そ
して特 にその2年
後 に起 った帝政派将校 によ る外務大 臣Walther Rathemuの
暗殺 事件 は,マ
ンが ドイツ共和 国支持 を公然 と表 明す る直接の きっかけになったと言われている。
Rathen佃の締結 したラッパロ条約は
,「ドイツが連合国とソ連 との
基本的な対立を利用す ることによって連合国をけん制 し
,ヴ
ェルサイユ条約の緩和をはかろうとし
た もので
,
ドイツが外交上の自主性を恢復 しようとす る試みのひとつ」
,59)っまり端的には
,
ソヴェー
ト・ ロシアとの国交回復であるが
,こ
の画期的な条約 に対す る過激な反動 は
,マ
ンの民主主義への
接近を促進 したといえよう。 しか し
,こ
の暗殺事件だけがマンの「転向」声明 といわれる「 ドイツ
共和国について」 を実現 させたので もないであろう。すでに
,
ドイツの社会民主主義 を標桟す る政
党はフイマール共和国の実践に際 して
,市
民的民主主義的目標 を追求 していたが
,そ
の姿勢は革命
的ではなかった。 トーマス・ マンはそのようなデモクラシーか らは もはや市民的芸術家気質に対す
る危険を感 じなかったに違いない。彼はむしろ
,そ
れを受容 し
,擁
護 し
,更
には強化する必要を痛
感 しはじめていたのではなかろうか。デモクラシーに組することが
,
ヒューマニズムの擁護につな
がることに彼は気がついたのであろう。
こうして
,マ
ンは講演「 ドイツ共和国について」において
,
ヒューマニズムの擁護
,つ
ま リデモ
クラシーヘの愛を告白す ることになる。 しか し
,彼
は唐突に進歩主義の立場に立ってそれを行なっ
たのではなかった。マンとしては
,「後向 きの結 びつ き」ヂ
0)即ら
,
ドイツ人の魂の故郷であるロマン
主義の世界を
,デ
モクラシーの可能性を探 し求めるよりどころとするほかなかったのである。「デモ
クラシーに対す る『 ドイツロマン主義の擁護』か ら
,
ドイツ・ ロマン主義 による
Fデモクラシーの
弁証へ』へ」
,1)この大胆な「デモクラシーの弁証」 は
,マ
ンの過去か らの苦渋に満 ちた「変容」 を
示す ものであって も
,思
想の「断絶」 を反映す るものではないはずである。
58)
,S.361/362.59)林
健太郎編「 ドイツ史」273ページ認 縫響給父
研響協競
緋
警
S絲
3年愕
0ペー
ジ
作 枝
マ ンは この講演 の結末近 くで言 う。
Keine MetamorphOse des Geistes ist uns besser vertraut ils dic, an・ deren Anfang die Sympathie mit dem TOde,an deren Ende der Entschlu8 zm Lcbensdienste stchti62)
この ことは
,マ
ンも指摘するように
,こ
の講演が生への親近を表自したものであり,「考察」はこれ
に先立 って歌われた「死 との共感」であるということを示 しているが
,両
者はともに著者の本性を
構成す る一要素なのである。ルカーチによれば
,「戦時中マンが非 ドイツ的な ものとして非難 してい
たデモクラシーの意義を
,
ドイッ性の再生のために深 く把握 しただけで もなかった。かれは
,デ
カ
ダン的イデオロギーおよびデカダン的感情のあり方 と
,そ
れまでの発展 との間の関係にも日をひら
いたのである。デモクラシーを求める闘いは
,か
れの場合
,い
まやデカダンスに対する闘いに変わ
ってい く。ここには戦時中に書かれたあの著書が実 り豊かな矛盾を合みつつ
,逆
説的に発展 を続け
てい くさまが見 られる。あの著書は
,戦
筆を遂行 していた ドイッ もろともに
,デ
カダンスを
,病
気
と寓敗への
,夜
と死への共感 を擁護 している
1し
か しトーヤス・ マンが擁護 したのは
,賛
否の入 り
まじった混沌のなかへあくまで も徹底的に突 き進んで行 くことであった。その結果
,か
れは ドイッ
のデカダンスの正当化になじもうとする無理強いな試みのすえに
,1918年
の出来事に助けられて
,正反対の原理のみが正 しいものであることを確信するにいたっていたのである。
」
63)この「変容」の
テーマを小説 として更に大規模に展開 したのが長篇「魔の山」であるとする見方は許 されると思わ
れるが
,そ
うすれば
,例
の「沈黙の
4年
間」 に
,マ
ンはこの大作に専念 していたということが言え
ないだろうか。
ところで
,同
じくルカーテは「魔の山」の中で
,反
動的ファシス ト的反民主主義的世界観の代表
者であるジェスイットのナフタが
,自
分の教 えを説 くときに
,ほ
とんどノヴァー リスの言葉を持っ
て次のように語るとき
,
トーマス・ マンの世界観に
,決
定的な転回が起 きたことがわかると述べて
いる。「病気はこのうえなく人間的な ものである。……… というのは
,人
間であることは病気である
ことを意味する。
・………人間は本質的に病気である。病気であることこそが人間を人間にする。人
間を健康にし
,自
然 と和睦 させ
,『
自然に還 らせ』ようとする連中………つま りあらゅる種類のルソ
ー流の連中が努力 していることは
,人
間の非人間化
,動
物化にほかな らない。
……・
・。すなわち精神
のなかにこそ
,人
間の尊厳が
,人
間の高貴 さが存す るのである。一言にして言えば
,人
間は病気で
あればあるほど
,い
っそう高い程度において人間的である。病気の霊は健康の霊よ りもいっそう人
間的である。
」
64)また彼はマンを弁護 して言 う。「
1918年以後のドイッのデモクラシーも
,か
ちとった
もの
,あ
るいは聞いとちた ものではなく
,い
とわしい運命の 一 歓迎 され ざる 一―贈物であった。
したがって
,真
に確固たるものにはなっていない生れたばか りの
,デ
モクラシーには
,憤
激 した敵
対者や日和見的に我慢 している連中はたくさんいて も
,味
方や支持者はごくわずか しかいなかった。
62)
, S.531.63)ル
カーチ著作集5自水社 1969年 422ページ64)ル
カーチ著作集5自水社424/425ペ ージ「非政治的人間の考察」か ら「パ リ訪問記
Jヘ
しか もその味方や支持者で さえ,た
いていは,そ
うい う廻 りあわせ になったのでやむな くデモ クラ シーを受 け入れただけの話 で,
ドイツの (も ちろん見なお された)過
去 とデモ クラシー との間に橋 をか け渡 して結 びつ けよ うな どとは試 み もしなか ぅた。要す るに,ヴ
ァイマール・ デモ クラシー体 制のなかで トーマス・ マンが孤立 した立場 にあったのは,か
れがまさしくこのよ うな橋 をか け渡す 方途 を求 めていたか らであ り,か
れの作家 としての教育的作品が,
ドイツ性の本質か ら生 まれ育 っ て くる民主主義 とい うものを目ざしていたか らなのである。だか らこそ,か
れはこの時期 にデモ ク ラシーを世界観の問題 として,そ
れ もドイツ的世界観の問題 として採 りあげた唯― の市民的作家 だ ったのである。」65) しか しこのよ うなルカーチの好意 に もかかわ らず,や
は り講演のため らいがちななまれるさを批 判す る論者 は多い。Inge Diersenも この講演の基調 にやは り「 イローニ ッシュな留保」 のあること を認めてい るが,そ
れに もかかわ らず,こ
の講演がマンの決定的な第一歩 であると評価 してい るの は的 を射 た指摘 と思 われ る。Die cchten und aus vollster tJberzeugung ko■ llnenden Bekenntnisse Thomas Manns nun nicht mchr
nur zur republikanischen Staatsfor■ 1,sondern zur DemOFratie und schlieBlich zur sOzialen DemOkratic sind zu dieser Zeit nOch nicht zu finden, sondern erst gegen Ende der zlvanziger 」ahre. DennOch hat er hier den ersten entscheidenden Schritt getarL den der Los16sung9 der Trennung vom politischen KOnservativismus und, eng da■ lit verbundeni den zur aktiven Teilnahme am politischen Tageskampf.66)
さて
,デ
モクラシーヘのマンの接近 は,喧
嘩別れ していた兄ハイン リヒヘのそれで もあった。すで に生917年12月,兄
の方か ら 晰日解 の試 み」 が企て られたこともあったが,両
者の関係 に戦後 も相変 らず距離がおかれていた。1922年の初め,兄
の重病 を契機 に,兄
弟の「再会」 が実現 した。 トーマ スはハイン リヒ宛てに書 いている。Es waren schwere Tage,die hinter uns liegen, aber nun sind 、vir iber den Berg und werden besser gehen,一―zusammen,wenn Dir's ums Herz ist,wie mir.67)
その夏
,彼
らは一緒 にバルチ ック海への旅 に出たのであった。マンのデモ クラシーヘの接近 を示す 挿話 である。その頃
,マ
ンはヨーロッパ各地 を講演旅行 して危険な時代 の接近 を見て とるとともにdie Sanmlung9 Einigkeit,Sondaritat der gesitteten Willenskrafte の必要 を強調す る。68)それは「インフレーシ ョ ンのためにつのって くる金の心配」69)がゃむな く彼 を駆 り立てた ものであった として も,彼
に混乱の時代 を冷静に眺 め させ ることになった。
「魔の山」完成の翌年
,マ
ンは短篇「無秩序 と幼 い悩み」 を発表す るが,そ
の主人公 の歴史学教65)ル
カーチ著 作集5423/424ペー ジ66)Inge Dおrseni Untersuchngen zu Thomas,Mann,s.135。
67)Tllomas Mann:B efe 1889-1936,S,196.
68)
,S357.234
授 には詩人の 自画像が見事 に投影 されている。背景 には
,第
一次大戦後 の荒廃 した若 い世代 が暗示 的に描かれている。そ して前景 にはマンの郷愁のよ うに,コ
ルネ リウス教授のメランコ リックに死 を礼賛す る姿 がイローニ ッシュな調子で描かれているが,
しか しここで も時代の「新 しい もの」が 肯定 されているのである。Er beivegt bei sich ein paar leise melancholisch gefarbte sitze, dic er morgen vor seinen Studenten sprechen 、vill, iiber den sachlich aussichtslosen Kampf des langsamen Philipp gegen das Neuc, den Gang der Geschichte, dic reichzersetzenden Krifte des lndividuums und der germanischen Freiheit,
ber diesen vom Leben verurteilten und alsO auch von Gott ver、 vorfenen Kampf beharrender
Vornehmheit gegen dic Mdchte des FOrtschritts und der Umgestaltung.70)
マンが後年
,時
代批判 と自画像 との調和 したこの作品 を彼の「最良の もの」のひとつ に数 えている のは意味深 い。 クラウス・ マンは「マン家の人々」の中で,「父が好 きなものはロシアの作家だ」71)と書 いている が,
トーマス・ マンイよ「考察」で,フ
ランスやイギ リスの文学 に対 してよ りもロシアの文学 に近 し さを感 じる旨を述べている。72)そして ロシア的人間性 と ドイツ的人間性 との結 びつ きを期待 し,そ
れが政治的に も延長 され ることを希望 している。 しか も彼 は大戦 我廃 前 にロシア旅行 を計画 してい た ことも知 らされている。やがて1917年にロシアで革命が起 った とき,彼
はまだ「考察」の仕事 を 終 えていなか ったが,ロ
シアが「民主主義共和国」 に向っていることを感 じるよ うになる。 1918年戦争 は終結 し,マ
ンの沈黙 によって彼 の思想の経過 は不明になるが,わ
ずかに もれ聞 える 言葉か らその微妙な変化 を うかがい知 ることがで きる。1919年 3月29日Pontenあ
ての書簡 には, 共産主義 を不安 そ うに「プロレタ リア文化」か ら区別 しなが らそ こに「多 くの善 と人間的な もの」 を是認 している。73) マンの「文化政治的エ ッセイ」が1920年頃か ら始 まることはすでに述べたが,こ
の頃か ら彼 は自 己の生活の「批判的監視」,74)いわば彼の創作の重要 な「付属物」75)と しての評論 を積極的に発表す る。 とい うことは,従
来無関係であった ころの政治が,彼
の内部 に影 を落す ことになる。彼 はつね に時代 と対決す る姿勢 をとるよ うになった。1921年に行 なわれた講演 「ゲーテと トルス トイ」 は, 「 ヒューマニズムの問題への断章」 とい う副題の下 に,今
後 のマンの姿勢 を暗示す るとともに,反
フ ァシズムの警告 を散見 させ る。 こうして彼の時代への発言は数 を増 して くるが,彼
は主 として啓 蒙の理念か ら,非
開化論及 びフ ァシズムとの闘いを展開す る。70)Ⅸ
,S685.71)ク
ラウス・ マン「マン家の人々」― 転回点1119ページ72)ThOmas ManniBetrachungen dnes Unpolitischen,S.429 ff.
73)Thomas Mann:Briefe 1889-1936,S158.
74)
, S416.75)Ebellda,S416
作 枝
「非政治的人間の考察」から「パリ訪PHl記」ヘ
Ich liebe das, was ich die sittliche Oberwelt nannte, ich liebe das menschlithe Gedicht,den klaren und humanen Gedanken, Ich verabscheue die =hrnverrenkung und den geistigen Pfuhl.76)
以上 は1923年 の講 演 「神秘学 的体 験」 の 中の一部 で あ るが
,マ
ンは同 じ意 味の言葉 を長篇「魔 の山」 の中でゼ ッテ ムブ リーニ に語 らせて い る。 ところが この よ うなイベリア半 島の Terror―Faschsmusと
は別 に,マ
ンには ロシアの新 しい姿,つ
まりTるrrOrbOlschewismuSが目立 ち始 め る。彼 は理解不十分 とはい え,最
初 革命 ロシアに共 感 を抱 いて いたのだが,早
くも1920年,か
の地 にお ける最近 の極 め て不毛 な ラジカ リズ ムを ロシア的全体主義 と呼んだ。やがて彼 は この ヴ ォル シェヴ ィズ ム革命 にロ シアの 「 ヨー ロ ッパ時代 」 の終焉 を見 て取 る。すで に触 れ た講演 「ゲ ーテ と トル ス トイ」 の中で彼 は言 う。Aller wesdich―marxistische Einscmag9 den die gro8c Umwalzung im hnde Tolstois an ttn Tag legt 一 an ienen Tag9 der die Oberfldche der Dinge bescheintL hindert uis nich,in der bolsdaewistischen umwalzung das Ende der Epoche Peters,der westlich― liberalisierenden,der europaischen Epocne Ru81ands zu scherL Welches mit dieser Revolution sein Angesicht 、vieder nach Osten wendet.78) │
更に
,先
にもあげた「パ リ訪問記」の中の次のような箇所を見れば彼 はコミュニズムの側
I争も軍国
主義の色彩を認めていることがわかる。
Man,,trdgt“ wieder Militarismus heute,sci er nun faschistisch oder koHlmunistisch eingefarbt.79) 後年彼 は
,講
演 「芸 術 家 と社会」 にお いて 自分 が コ ミュニス トにな るの ははなはだ不適格 で,彼
の 形式 主義,心
理主義,デ
カ ダ ンス等 は,ま
さに コ ミュニ ズ ムの側 か らも歓迎 されないで あろ うとい う意 味の ことを述懐 して い るが,とノか しなが ら彼 は当時すで にコ ミュニズ ム とフ ァシズム との あい だ に ひ とつ の区別 を もうけて いた らしい ことは次の言葉か ら推測 され る。Der Ko■ ununismus ist eine ldee,deren Wurzeln tiefer reichen als httarxismus und Stahnismus und deren reine Verwirklichung sich der Menschheit iHlmer wieder als Forderung md Aufgabe stdlen wird Der Faschismus aber ist herhaupt,'keine ldee,sondern ёine Schlechigkeit,der hoffentlich kein Volk,klein oder gro8, sich ic wieder ergeben wiri 80)
同じ頃の講演「私の時代」において も
,彼
は同様に
,ロ
シア革命を評価 しながらも
,そ
の限界に触
れている。
Sic(de Russische Revolution)ist die gro8e soziale RevOlution nach der politischen vOn 1789 und wird wie diese ihre Spuren zurucklassen in allenl menschlichen Zusanlmenleben. Wenn nichts anderes
mir Achung ftt sie辟
“
te,so ware es ihre unvettnderliche Gegenstellmg zuln Faschismus italenis― cher oder deutscher Farbung,… Was ihr das tragische Geprage verleih,ist,da8 sie sich eben in
76)Xl,S163.
77)
,S85,78)X,S265.
236
Ru81and vollzOg und das spezifische Signu14 ruSSischen Schicksals und Charakters tragt.81)
以上 はロシア革命か ら3C年以上 を経て後 のマンの見解ではあるが
,い
かに も真の意味での10月革 命への感激の経験 のないマンの言葉であることが理解 されよ う。彼 はBrechtに
おけるよ うなマル クス主義への傾倒 はなか った。彼 は市民的,民
主主義的,反
フ ァシズムの立場 に到達す るばか りで な く,社
会主義 に共感 を抱 く立場,い
や 「社会主義 の不可避性 を承認 す る ところにまで進 む」8の が , それ を越 えることはなか ったので あ る。 従 って,後
年 の フ ァシズ ムに対 す るマ ンの闘 いは,左
の立場 か ら右 に対 して行 なわれた もので は なか った。19那年,イ
タ リア・ フ ァシス ト党政権確立 の年 に,マ
ンはギ リシ ャとモス クワ との同盟 を,そ
して カール・ マル クスが フ リー ドリヒ・ ヘル ダー リンを読 む こ とを期 待 し,一
方 的 な承認 は 結局 不毛 に終 ることを予想 してい る。83)っ ま リマ ンは「中間」 の立場 を堅持 してい るので あ る。 こ の「中間」 の イデーは,「考 察」で論 じられ,講
演 「 ドイツ共和 国 につ いて」 にお け るひ とつ の結論 で あ った し,す
で に戦前 かの トニオ・ クレーガーが しっか りと身 につ けて いた もので もあった。Und ich― ―ich stehe nicht eihmal "gegendber“ , ich stehe auf jede Weise dazwischen, in der Mitte,
一gerade darin, scheint mir zuweilen,bin ich dё utsch,da8 ich vbllig ein Mensch der Mitte, ein ■litt―
lerer Mensch bin. Das ist keine leichte SituatiOn, wie schon TOniO Kr6ger lvunte. 84)
後年 マ ンは
,フ
ァシズ ムに対 す る政治的態度 に も,こ
の イデー を堅 持 して い くので あ る。第一次大 戦後 マ ンは 「変容 」 した。 しか しこれ以後 フ ァシズ ム と闘か うマ ンの姿勢 には第一次大戦 中の姿勢と共通す る ものが あ るの は このためで あろ うか。
参 考 文 献
Hans Eichner: ThOmas Mann.Eine Enfむ hrung in sein ヽVerk. Francke Verlag,Bern 1953.
Hans M.lV01f:乳
Omas Mann,A.Francke AG.Verlag,Bcrn 1957.Inge Diersen:Untersuchungen zu ThOmas Manれ , Rutten&LOening9 Bc』
in 1959.
― Martin FInker: ThOmas Manns pontische Betrachtungen im Lichte der heutittn Zeit,MOutOn&Co.'s―Gravenhage 1959.
ArnOld Baueri ¶hOmas Mann.CO1loquium Verlag, Bcrh■ 1960。
Hans Burgin u.Hans―
OttO Mayer:働
Omas Mann.Eine ChrOnik scines Lebens.s Fischer Verlag9Frankfurt am Main 1965.
Eberhard Hilscher: 乳Omas Man■ VOlk und Wissen VOlkseigener Verlag, Bcrli■ 1973.
81)
,S594/も9582)ル
カーテ著作集5457ページ83)Xl,S,714.
84)Tllomas Mann an Ernst Bertran,Briefe aus den hhren 1910-1955.Verlag Gunther Neske Pfullingen 1960,
S34.