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元代江南の一高官の犯罪
植 校
正 Ⅰ事件の顛末一判例解説一 Ⅰ 事件の背景と波紋一地方政治の実態上− (1)江西行泉府司をめぐって (2)江西官界の動向 Ⅲ 江南官人任命についての問題点 一明清時代本籍廻避の制の成立にむけて 結び Ⅰ 事件の顛末一判例解説− こいそん 胡瞭孫はもともと張の家に生まれ,新治州(江西省臨江路)の富豪の家に養 子となって,胡を姓としたのであった。養父の勢力のあってのことであろう, 江西宣慰使の官位を手に入れ,世祖の至元26年(1289)には,江西行尚書省参知 政事,泉府大卿,行泉府司事を授けられた。官品からいえば従2品の歴とした 大官である。このように彼は地方官ながら宰相に列する官位を得て,得意の時 を迎えていた。その彼が一体どうして弟殺しの重罪で死刑に処せられるような ことになったのだろうか。時ほ元朝第2代皇帝成宗の大徳年間のことである。 我々はその裁判の記録を『元典章』に見出すのである。同書41,刑部巻3〔胡 参政,弟を殺すこと〕と題するその条の原文全てをまず掲げておこう。 〔胡参政殺弟〕大徳五年三月 日,江西湖東道粛政廉訪司准監察御史牒該。 奉御史台割付。′大徳五年正月二十六日奏奉聖旨。省裏,台裏差人,交去問 呵,除与内外官吏人等銭物,更其余干碍有招的人毎罪過,遇着詔書,釈免 了也。省官毎,俺根底与将文書来。「是悠元奏来的勾当,悪行者。」磨道, 説有。俺商量釆,詔書裏不該免的胡参政,他牲張,是養的児,困着胡家的 気力裏,倣到参政的名分有,却将他胡家的親子胡総管根底殺了有。主謀的 胡参政,与他兄弟張八同謀,賊毎根底与了銭,未着賊人。他也要了紗和銀植 松 正 子,将胡総管殺了。、「依体例,這胡参政・張八弟兄両個,合死ム」歴道, 奏呵,「敲了老。」磨道,聖旨了也。文王庭・羅鉄三名字的両個人,胡参 政根底要了銭,下手,用力伎,将胡総管殺了。「這両個也合死。」磨道, 奏珂,「郡般者。敲了者。」磨道,聖旨了也。文把鎗匙開門的,把火照明 的,和賊毎一処執着器仕入去来的熊瑞・謝貴先名字的両個人,胡参政根底, 後底要了銭来,不曽下手。「他毎的罪過,教配役流速的,上位識者。」歴 道,奏珂,「体例是忠生磨道?甚磨有?」磨道,聖旨有珂,「殺胡総管時, 和賊毎一処入去来,不曽下手有。流速珂,蛮子人,他毎的地面有。三年掛 量着,這田地裏交配役呵,忠生?」奏珂,「如般者。」磨道,聖旨了也。 又這胡参政是義養的児,将胡総管的房舎・田産・財物,多費了有。胡参政 的露児,交依元姓張。「如今,有的房舎・人口・田産・財物,応有的物件,
胡冶管的娘婦・露児根底分付与老。」歴道,聖旨了也。又人命的勾当有。
「如今,省裏,台裏差人,郡裏審復無冤呵巨依着礼撤裏入去珂,忠生?」 磨道,奏珂,「郡般老。」磨道,聖旨了也。文一件未完的小勾当,「殺胡 聡管的刀伎,船上将着,江裏轍了五六年也。交尋珂,不曽尋得着。那船主 人走了,也不曽尋得見。交知道的奏有。」奏珂,「是有。」磨道,聖旨了 也。欽此。除熊瑞等配役処所,具呈都省区処,及差官一同審断外,今委本 職将引書吏,就資本台元問文巻,馳駅前去,合下仰照験,与省委官,将犯 人胡瞭孫等審録,巳招是実,別無冤抑,依上処断外,干犯人孫賢等,罪過 赦恩,欽依釈放。所拠胡蹟孫男脱困等,復還張姓,並応有房舎・人口・財 産等物,欽依奏唯事意施行,具審断託月日・財産等数,開坐呈台,仇将胡 陳孫・張珪元受宣命,井龍興路寄収臓物,就便依例施行。承此。除男行外, 於大徳五年三月十八日,到来龍興路,将胡参政名臨孫・張八提拳名珪・王 庭・羅鉄三四名審復,巳招是実,欽依聖旨事意,将各人,明正典刑了当。 牒請照験施行。 52 まずこの判例全体の構造の分析を試みたい。この文書の骨格は監察御史の牒で あって,それを受けとったのが江西湖東道粛政廉訪司である。監察御史の牒に かなり長文にわたって引用されるのが御史台の割付であり,そこには御史台官元代江南の一高官の犯罪 53 がこの事件の処置について成琴に逐一奏上して裁可された蒙文直訳体の聖旨が 引用されている。 文書構成の上で注目すべきことほ,江南(南中国)での裁判であるにかかわ らず,江南行御史台を経由せず,中央の御史台から監察御史,そして直接に江 西廉訪司へと文書がまわし下されていることである。したがって,ここにいう 監察御史とは江南行台付きの監察御史ではなく,御史台直属の監察御史でなけ ればならず,文書の末尾にみえるように,龍興路に到来して胡蹟孫らを審復し, 明正典刑とて;死刑を執行したとしくうのは,監察御史が特別の任務を帯びて中 央から江西行省の現地に派遣されたことを意味することは明らかであろう。さ すがに行省の参知政事を処刑するだけの事件であって,ひとすじ縄では一件落 着とはゆかなかったのである。のちにふれるであろう,『元典章』と『元史』 成宗紀の記事とで年次がくい違っている事実も,何かその間にいりくんだ事情 がありそうなことを推察させる。 そこでこの文書の内容を読みとりつつ解説してゆこう。 大徳5年3月 日,江西湖東道粛政廉訪司の准けたる監察御史の牒の(節) 該。(監察御史の)奉じたる御史台の割付。大徳5年正月26日に(御史台 官が)奏して奉じたる聖旨。 中書省から,御史台から人をつかわして,行きて取り調べさせたと ころ,内外の官吏らに銭物を与えること(すなわち臓罪のこと)を除 き,その余の白状している人らにかかわる罪過は,詔書に遇って釈免 されております。いま中書省官が我々に文書をよこして「これはそち らでもと奏した事案なので,そちらで扱われたい。」と言っております。 裁■々が相談いたしました。詔書で免にあたらない胡参政,彼の姓は 張,は養子であり,胡家の勢力によって参政の名分となっているが, かの胡家の実子である胡総管を殺している。首謀者の胡参政は彼の兄 弟の張八と共謀し,賊らに銭を与えて賊人をあつめ,そのものも砂と 銀をもらって胡冶管を殺した。「体例によって,この胡参政・張八の 兄弟2人は死刑とすべきであります。」と奏したところ,「敲(たたき ころ)せ。」と聖旨があった。
植 松 正 さらに王庭・羅鉄三という名の2人は,胡参政から銭をもらって手 をくだし,刀伎を用いて胡総管を殺した。「この両人も死刑とすべき であります。」と奏したところ,「そのようにせよ。敲せ。」と聖旨があ った。 さらに鍵で門を開け,火で照明し,賊らと一緒に凶器を執っておし 入った熊瑞・謝貴先という名の■2人ほ,胡参政からあとで銭をもらい, 手をくだしてほいない。「彼らの罪過は配役流速せしむべきことを, お上は御承知ください。」と奏したところ,「体例はいかが,どのよう であるか。」と聖旨があったので,「胡捻管を殺したときに,賊と一緒 におし入ったもので,手を下してはおりません。流速とするならば, 蛮子人(つまり旧南宋領の南人)については,・(配せらるべき)それ らの地方があります。3年の刑期として,その鞄方に配役せしめたら いかがでしょう。」と奏したところ,「そのようにせよ。」と聖旨があっ た。 さらにこの胡参政は義養の子であり,(実子である)胡総管の房星 (家屋)・田産・財物を多く費消している。胡参政の子供はもとの姓 の張によらせている。「いま,もっている房屋・人口・田産・財物な どあらゆる物件は,(殺された)胡冶管の妻と子供に分け与えよ。」と 聖旨があった。 さらに人命にかかわる事案がある。「いま中書省から,御史台から 人をつかわして,そこで再審理して,冤なければ,ヤサによってあて はめればいかがでしょう。」と奏したところ,「そのようにせよ。」と聖 旨があった。 さらに一件の決着していない小さな事案がある。「胡総管を殺した 凶器の刀伎ほ船でもっていって,川の中にほうりなげて5,6年にな ります。さがさせても見つけられないし,その船の持ち主も逃げてし まって,これも見つけられていない。知っているものに奏上せしめま す。」と奏したところ,「よろしい。」と聖旨があった。これを欽め。
\ (ここから「承此」までが聖旨をふまえて,御史台の監察御史に対
54する指令)熊囁らの配役の場所については■,都省に具呈して決定し, および官をつかわして一同に審断せしめることほいうまでもなく,い ま本職(すなわち監察御史)に委して書吏を将引して,本台のもと取 り調べた文巻を携え,駅を馳せて(すなわち駅伝の特急便で)行き, すぐに仰せて調べさせ,中書省から委した官とともに,犯人の胡瞭孫 らを審理して,すでに白状したところが事実であって,別に冤抑の状 がなければ,上の通り処断することとする。干犯人の孫貿らはその罪 が赦恩に遇っているので,欽依して釈放する。 胡陳孫の息子の脱困らについては,張姓にもどらせ,ならびにあら ゆる房屋・人口・財産等の物については,奏して准められた事意に欽 依してとりおこない,審断しおわった月日・財産等の数をきちんと書 きつらねて,御史台に呈せよ。なお胡臨孫と張珪のもと受けた辞令, ならびに龍興路があずかっている臓物については,ただちに例の通り に措置せよ。これを承けられよ。 (・以下が監察御史の江西廉訪司あてのオリジナルの牒文)別に措置 するの招か,大徳5年3月18日に龍興路にいたり,胡参政,名ほ瞭孫, 張八掟挙,名は珪,王庭・羅鉄三の4名を再び審理し,すでに白状L たところが事実であったので,聖旨の事意に欽放して,各人を明正典 刑した。牒して請うらくは照験施行せられよ。 御史台官が成宗皇帝に対して最終的な決裁を仰いだ結果がここに記録されて いる。大徳5年正月26日のことである。その内容は,①首謀者たる胡瞭孫と張 珪を死刑に処し,②下手人の王庭・羅鉄三をも死刑に処し,④殺人常助の熊瑞 と謝貴先は流刑に処す。④胡家の財産は胡総管の妻子に相続させる。⑨裁判手 続きに関して,人命の勾当であるので,審復して確かに冤罪でなければ,チン ギス・ハソのヤサ(札撒)にてらして厳重に処罰する。⑥証拠物件の凶器につ いては捜索を継続する。以上である。 ところで,この事件については『元史』巻20,成宗紀大徳4年4月戊午(13 日)の条にも記録されており,次のようである。
植 松 正 56 参政張瞭孫及びその弟の珪ら,龍興の市に伏課す。蹟孫はじめ新治の富人 胡制磯の養子となり,のち制機みずから子を生みて死す。顧孫その柴を利 とし,珪と謀りてこれを殺し,郡県の更に賂して免るるを獲たり。その僕 の胡忠,主の冤を官に訴え,乃ちこれを誅す。その柴ことごとく胡氏に還 る。(1) これによって,胡臨孫は胡総管を殺害▼したのち,地方官に賄賂をおくづて罪の 発覚するのを糊塗しようとしていたこと,そして胡家の家僕の胡忠なるものが 訴えでて,やがて事の真実が明るみにでたことがわかる。また殺害の動機は, 胡制機が没したのちの財産相続問題にあったらしく,胡院孫が養父の実子の胡 総管を亡きものにして財産をひとり.占めにせんと図ったものとみえる。「共謀者 である胡陳孫の実弟の張珪は『元典章』にほ提挙とあった。市舶捉挙,造船提 挙,権茶捷挙など,捷挙官もさまざまあるカミ,これだけでは何とも確定しがた い。 ここにひとつ問題となるのは,『元史』に記録されたこの事件の日付である。 平心にうけとれば,胡院孫らが処刑されたのが大徳4年4月戊午ということに なろ。しかし『元典章』によれば処刑は大穂5ヰ3月中,しかも18日以後に行 なわれたはずである。このくいちがいをいかに理解すべきだろうか。史料の性 格上,どちらかの日付が誤りとはどうも考えにくいところである。何とか合理 的な説明が求められなければならない。そこで私は次のように考えておきたい。 家僕の胡忠の訴えによって事件は表面化した。どの役所に訴え出たかは不明 であるが,江西廉訪司で事件は取り上げられた。そこから江南行台,さらに御 史台へと裁判文書はまわされ,皇帝の裁可をも得て一旦は判決が下った。それ が大徳4年4月のことなのであろう。『元典章』に,中書省官が「これはもと 御史台官が奏したことだ」といっているのは,すでにひとたびは文書が中央官 庁にまわってきていたことを示している。ところがすく“には死刑は執行されず, 大穂5年正月26日に至って御史台官がこの件を早急に決着しようと,皇帝に緊 急の上奏を行なったという次第なのであろう。 その半月はど前に,御史台官は官吏の賊罪などの犯罪について綱紀を引き締 あるべく上奏して許されている。すなわち『元史』巻20,成宗紀大徳5年正月
壬子(11日)の粂にいう。 御史台臣言ふ。「官吏の賊を犯し及び官銭を盗み,事覚して罪を避け逃匿 する老は,宜しく獄成ると同じくすべし。すでに原免せらるといへども, また降覿を加ふれば,紆偽革むべきに庶からん。」これに従ふ。(2) 一般論として認められたこの提案が,半月後の胡参政関連の具体的事件につい ての上奏の伏線をなしているとみられる。また『元典章』に「詔書に遇って釈 免された」とみえ,またこの『元史』にも「すでに原免せらる」とあるその釈 免の詔書とは,何を指しているのであろうか。ひとつの可能性として考えるな らば,大徳3年正月8日に発せられた詔書条画に釈免の条文が含まれているこ とから,これを指していると考えられる。(3)それならば胡参政の殺人事件の発 生ほ一体いつのことであろうか。原文善についてみると,大徳5年正月に奏奉 の聖旨の中に,凶器の刀伎が川に投げ捨てられて5,6年になるとあったから, 一応成宗の元貞元年,2年あたりに殺人は行なわれたということになろう。と いうことは文書の行移の手まどりの時間をも考えると,殺人が行なわれてから 家僕の胡忠によって訴えられるまでおよそ2,3年の間,胡昧孫はどうやら犯 罪が表沙汰にならないで済んでいたものであろう。大穂2年,桑専一派と反対 の立場にあった眺天福が江西行省参知政事に任ぜられたのは,胡昧孫のあとに 就任したものかもしれない。もっとも彼は病いを理由に辞退してはいるが。(4) この判決にみえる刑罰について一言しておかなければならない。まず胡陳孫 がヤサの適用をうけて死刑に処せられたことであるが,『元典章』や『通制条 格』中のヤサの例を調べてみると,はとんどは世祖の中統・至元年間に禁令と して皇帝聖旨のうちにあらわれている。軍事関係のものが多く,違反した場合 にはヤサによって処断せよと,当然のこととして死刑を想定しているのである。 このような実際の裁判の中で,しかも成宗期に南中国において中国宮人がその 適用を受けたというのはきわめて珍しい実例といえよう。やほりこれは胡昧孫 が一般の民間人でほなく,宰相格の高官の地位にあったればこそ,ヤサの権威 をかりて重罪に処すとしなければならなかったとみるべきであろう。 また殺人封助の熊瑞と謝貴先は3年の流刑に処せられたが,「蛮子人につい てはそれらの地方がある」というのは,『元史』巻102,刑法志に「商人は遼陽・
植 松 正 58 逸北の地に遷し,北人は南方湖広の地に遷す」とみえるように,彼等ほ北方に 流されたのであろう。 胡殴孫関係系図
Ⅰ 事件の背景と波紋一地方政治の実態一
胡隣孫とその周辺のことをもう少し調べてみよう。『元史』にほさきに掲げ た成宗紀の記事のほかに,さらにもう一カ所,彼の名を見出すことができる。 すなわち同書巻15,世祖紀至元26年由10月庚寅の条に次のようにみえる。 江西宣慰使の胡陳孫,沙不丁の例を援き,至元紗千錠もて行泉府司をつく り,歳ごとに珍異の物を輸して息と為さんと請ふ。胡隣孫を以て行尚書省 参政・泉府大卿・行泉府司事を遥援す。(5) これは江西宣慰使であった胡隕孫が江西行省参知政事の地位を得た時の記事でナソガ あり,折しも財務に長けキウイグル人宰相桑寄の専権期にあたり,彼が資力を
背景として宰相格にのし上がったことを物語っている。江西宣慰使が初めて設 けられたのほ至元22年2月のことであるが,(6)彼がどうした経過で宜慰便に任 命されたかは不明である。一般に至元13年(1276)江南征服前後の混乱期にあ ってほ,南宋を支持して抵抗を試みるか,それともこれを見限ってすすんでモ ンゴル軍に投降して協力するか,人々は選択を迫られざるを得なかった。胡参 政の事件の舞台にごく近い瑞州路で最初に総管に任命された眺文龍も,民間の元代江南の一高官の犯罪 59 自衛団を組織し,元軍を手引きして瑞州城を陥しいれた人物であった。(7)また 宋代に知州であったものが投降してそのまま元の路冶管に任命されるケースも 当然あったのである。おそらく胡陳孫などほ,これをしおに元朝の官人の位を 得て,そのことを通じて自身の商業的利益を図ろうとしたものであろう。とな れば,彼のようなものこそ元代にしばしばその横暴ぶりを非難されている「官 豪勢要」と称される豪民の典型にはかならない。 (1)江西行泉府司をめぐって 彼が行泉府司に関係していたことが,その豪民としてのあり方に近づく手掛 りとなるであろう。泉府司については,村上正二氏の研究によって知られると ころによれば,主ソゴル帝国の特権的御用商人たるイスラム商人の活動が政府 の機構のもとに統制されて斡脱総管府が設置され,それが至元17年(1280)に 泉府司に昇格したものである。帝室関係など,有力者の出資によって運営され たが,元朝の財政を担当するイスラム教徒やウイグル人との個人的関係が深か ったため,この役所の開廃は時の政治情勢によって左右されることが多かった という。(8) とくに至元23年に市舶司を泉府司に所属させたことは,莫大な海外貿易の利 をこの役所に集中させることを意味したから,元朝の財政史の上で画期的な出 来事であった。この措麿ほ当然ウイグル人財政家の桑寄によって計画されたも y′、−プアルタインオマル のに他ならない。その手先となって働いたのが,沙不丁と烏馬児である。それ ちようせん まで海運は,海賊また塩賊出身で宣慰使に任ぜられていた朱清と張造が海道運 糧万戸となって独占的に運営していたが,至元24年,沙不丁と烏馬児に率いら れる2万戸府を増設し,新たに行泉府司を設けてこれら4万戸府を統轄させた。 そこには朱清・張直など成り上がりの商人勢力を警戒し,これを牽制する意味 もあった。(9)至元24年5月,沙不丁と世祖の間には次のようなやりとりがあっ た。 沙不丁言ふ。「江南の各省には南官多し,省ごとに宜しく一二人を用ふべ し。」帝日く,「陳巌・呂師襲・管如徳・菟文虎の四人を除き,余は卿の 議に従がほん。」㈹
植 松 正 60 沙不丁と烏馬児のもとには,鎮撫司・海船千戸所・市舶掟挙司をおき,さらに 桑寄の推薦によって沙不丁は江准行省左丞を遥授され,烏馬児は同じく参知政 事となり,のちに沙不丁は江准行省平章政事にまで昇進した。(11)市舶司からあ がった当年分の利益として,彼は珠400斤・金3,400両を献上している。仏勿 ノヤソ さらに桑寄らほ北方で坂乱事件を起こした乃顔の残党を南方に強制的に移す こととし,これらを沙不丁らの率いる水軍に所属させた。至元26年2月,尚書 省官僚ほ次のように上奏して,認められた。 尚書省臣言ふ,「行泉府の統ぶるところの海船方五千肢は,新附の人を以 てこれを駕せしむれば,緩急殊に用ふるべからず。宜しく乃顔及び勝納合 児の流散の戸を軍と為し,泉州より杭州に至るまで海嶺十五を立て,鈷ご とに船五鹿・水軍二百を置草・専ら番夷の貢物及び商販の奇貨を運び,且 つ海道を防禦せしむるを便と為す。」これに従ふ。(咽 ニカ月のち,彼らはさらに上奏した。 尚書省臣言ふ,「乃顔反を以て誅せられ,その人戸ほ月ごとに米万七千五 百二十三石を給す。父母妻子ともに北方に在り,恐らくは有志を生ぜん。 請ふらくは征して江南に置き,沙不丁の請ふ所の海船水軍に充てられんこ とを。」これに従ふ。(川 さらに沙不丁の行なったことを注目しておこう。彼は両断地方の塩法を改革し て塩課の増収をはかり,江壮行省参政の王巨済と協力しつつ銭穀を徴収するこ とにつとめた。その銭糧の管理も厳正をきわめ,倉庫官が不正をはたらいたと き,彼は宋代の法に従って鯨してその腕を切りおとさんと請うたが,世祖はこ れを回回の法なりとして許さなかったと伝えられている。江南の兼井の戸とい われる有力者を亡宋帝室の宗族とともに強制的に都に赴かせようとしたため笹, 人心が動揺しそうになってこれを急遽取りやめたというようなこともあった。 彼の行なった政治に対する反感も相当に強かったとみえて,湖広行省でやはり ユースフ 強権による政治を行なっていた安東木のように,兵300人を護衛につけてはし いと願いでて許されるはどであった。(咽 ここに沙不丁の事績について述べたの は,さきにみたように,胡陳孫はまさに桑寄ら尚書省官僚が中央政府の権力機 構を垂断しているそのときに,沙不丁を手本として行泉府司を設立し,行省参
元代江南の一高官の犯罪 61 政の地位をも手に入れているからであった。さらに佐藤圭四郎氏がかつて論じ たように・桑寄の推薦によって至元21年11月に中書右丞に抜擢された虔世栄の 前職が江西権茶都転運使兼領市舶掟挙であったとすれば,㈹胡陳孫と桑専一派 とのつながりほきっと慮世栄の専権時代までさかのぼるであろう。 江西行泉府司ほ桑寄が失脚するとたちまち廃止される。即ち『元史』巻16, 世祖紀至元28年8月己巳(5日)の粂にいう。 江西等勉行泉府司・大都甲匠総管府・広州人匠提挙司・広徳路録事司を罷 む。泉州より杭州に至る海中水粘十五所を罷む。㈹ これにより江西行泉府司が設置されていたのは,おそらくは至元26年閏10月か ら同28年8月までのはぼ2年間というごく短い期間であったと推察される。し かもここに泉州よ▲り杭州に至る海中水砧十五所を廃止したというのも,前掲の 至元26年2月における尚書省の提案が早速とりやめになったということである。 なお,村上正二氏がこの記事を根拠として沙不丁,烏馬児の行泉府司が一時廃 止されたとした史料操作は私には納得できない。この記事ほあくまで胡陳孫の 江西行泉府司について言っているのであり,沙不丁らの行泉府司もこの頃一時 的に廃止された可能性は残るとはいえ,村上氏は江西行泉府司について追求を したのではなかったのである。q倒 江西行泉府司が実際胡臨孫によってどのように運営されたか,貿易がどの地 域を対象として,どのようなルートで行なわれたかについては,今のところ不 明というはかほない。但し佐藤圭四郎氏がかつて『元典章』22,戸部巻8〔合 併市舶転運司〕の記事を検討して得られた結論と考えあわせると興味深いとこ ろがある。㈹というのは,至元21年6月29日の中書省の上奏に「慮市舶司的勾当」 の文言がみえるが,これは慮世栄が江西権茶都転運便兼市舶提挙の職にあった とき,公金十万錠を舶商に貸し付けて南海貿易を独占的に営ませることを建言 したものという。錮虚世栄はこれを提案したのち,中書右丞に抜捷されて中央 に転ずるのであるが,胡陳孫は慮世栄が江西に居たときにその財政政策にふれ, 御用商人としてのあり方を学んだ可能性があるからである。 『元史』巻94,食貨志,市舶に次のような記事がある。 (至元)二十一年,市舶都転運司を杭・泉二州に設け,官みずから船を具
植 松 正 62 し,本を給し,人を選びて蕃に入り,諸貨を貿易せしむ。その獲る所の息 は十分を以て率となし官その七を取り,易す所の人その三を得。凡そ権勢 の家,皆な己が銭を用いて蕃に入り頁を為すことを得ず。犯す者はこれを 罪し,仇はその家産の半ばを籍す。その諸蕃の客旅,官船に就きて売買す る老は,例に依りてこれを抽せよ。鋸 佐藤氏はこれを『新元史』食貨志の記事と対比することに意を用いられたが, 私がここで注目したいのほ「権勢の家」である。民間の富商が海外貿易に従事 することを厳禁している内容であるが,この種の禁令が出されることほそうし た実態がすでに存在したか,またほ十分にありえたからこそ禁止されたのであ ろう。そうなれば権勢の家が合法的に海外貿易に従事する方便は,自らが単に 一般の「権勢の家」ではなく,行泉府司,市舶司などの役所で特権的高官とな ることである。胡昧孫はまさに一旦は首尾よくそれに成功した人物といえよう。 『元典章』22,戸部巻8〔市舶則法二十三条〕の第2条に次のようにみえる。 一。議し得たるに,拘該の市舶の去処にては行省・行泉府司・市舶司・権 豪勢要の家の興販する舶船が,休例に依りて抽分せず,勢を悼みて隠柄作 弊す。此れがため至元三十年四月十三日に於いて奏過せる車内の一件に, 「行省の官人ら,行泉府司の官人ら,市舶司の官人ら,いかなる官人らに よらず権豪富戸らが自己の船隻により買売をしたので,百姓らの体例に依 って抽分せよ。私下に隠蔵して抽分をゆるさざる老ほ,誰が首告しようと その銭物はすべて断没し,官となっているものらについて重く罪過をもと め,勾当から出ださしめ,断没した銭物から三分中一分ほ首告人に与えて 賞に充てればいかが,と商量しました。」と奏上したところ,「よろしい。 擬定してそのようにせよ。」と聖旨があった。¢功 桑守矢脚後に市舶に関する規定の見直しを行なった事例のひとつであり,次に 掲げる『元史』巻18,成宗紀元貞元年閏4月壬戌の記事にも連なってゆく内容 である。 詔し,行省・行泉府司の市舶船貨を抽分して,ともにその珍細を匿す者を 禁ず。¢捌 ここにほ貿易関係の役人や「権豪勢要の家」「権豪富戸」と称される有力者が,
自分の船舶を用いて私貿易に従事していた実態が間接的に語られている。この 際政府のとった対応措置は全面的に彼らを取り締まることではなく,規定通り に抽分する,つまり納税せよということなのであった。ここにも海外貿易に手 を出す豪民の活躍が法制史料の中に見てとれる。 胡瞭孫関係江西行省要図 (2)江西官界の動向
胡旗孫の裁判を行なったのは御史台系統の役所であり,さらにその処刑を促
したのもそうであった。この動きの中心にいた人物こそ董士選であった。胡旗
孫の裁判については,呉澄の『呉文正公集』巻糾,董士選の神道砕に次のよう
に記されている。植 松 正 64
か 江西の富家に親子ありて異姓の子を立てて長子となし,その資に籍りて潜
しんし 侠を以て朝野を僚動し,位を行省参政に致すものあり。その親子既に長ず
るや,久しくその家を専らにするを得ざるを催れ,異姓の子の弟,冠を結 び,夜その親子を殺し,而して獄を無季の人に帰す。賄,中外に偏ねく, 勢援盤結し,その屈,得て伸ぶるなし。或るひと憂に訴う。公究治明白に し,その状を以て上聞す。異姓の子の兄弟,倶に棄市せられ,その改姓に復し,而して家資悉く親子の子に帰す。公論じてこれを遺す。錮
ここには犯罪者の実名こそ挙げられてはいないものの,すでにこれまで見た裁 判文書や周辺史料の語るところからして,まさしくこれが胡懐孫の裁判にづい て董士選の事績を論ずる観点から記録されたものである七とは,一見して明ら かであろう。ここに目新しい事実としては「獄を無季の人に帰し」たというこ とがある。つまり無実の犯人を仕立てあげる工作まであえて行なっていたので ある。 董士選といえば私がかつて論及したように,やはり江南の豪民で河南行省左 丞の朱清や江漸行省左丞の張造の誅殺籍没事件の事後処理にあたった人物であ った。¢勾それは大徳7年(1303)のことで,そのとき江断行省左丞として事に あたったのだが,実はその直前に彼は御史中丞の位にあった。胡院孫の裁判を すすめ・処刑を促したのは彼だっキのである。さらに成宗即位後の彼の経歴を みると,愈行枢密院から江西行省左丞,ついで愈枢密院事,そして御史中丞を 大徳元年12月に辞任した雀或の後任としてこの地位に昇任したのである。¢㊥ と すれば,胡院孫とほある時期,同じ行省の同僚であったのである。その上なお 興味深いことには,かの張塩も元貞2年7月に江西行省参知政事に任ぜられ㌘竹 大徳3年あたりまで在職したようである。そうなれば朝晩孫と張造は相識の間 柄どころか,胡陽孫が犯罪隠しのために賄賂を贈った相手の一人ほ張造であっ た可能性も出てくる。 勲臣の子孫である董士選からすれが,胡醸孫などは朱清や張造と同様に,一 時の成り上がり老に見えたことであろう。しかもこの三者にほ海運業に携わっ て富を築き,その富によって諸方に贈賄して地方官僚の地位を獲得したという 共通点がある。朱清・張直の課殺の理由がはっきりせず,むしろ政治色の濃い冤罪であるらしいのに比べると,胡昧孫の事件ほ純粋な刑事事件である。しか しこれら南中国出身の南人地方官僚が,はとんど顛を同じくして失脚したとい う事実は,それ自体,征服王朝元朝の政治過程をたどる時,ひとつの画期をな す一連の象徴的申来事であったように思われる。即ち征服直後には両人の豪民 が政治情勢の激変に乗じてのしあがるのを容認したばかりか,元朝政府として もかえってこれを利用していた。ところが成宗の中頃にもなって,非常時から 脱してむしろ安定的な支配を日ざすようになると,こうした政治的に肥大化し た南人の豪民をそろそろ放置できなくなったのである。 董士選は江西行省左丞として赴任すると,当地の知識人とずいぶん交友関係 を深めた。『元史』巻156の本伝にほ次のようにいう。 江西に在りしとき,属嫁の元明善を以て賓友と為し,既にまた呉澄を.得て これを師とし,虞汲を家塾に延きて以てその子を教へしむ。㈹ 呉澄が董士選のために神道碑文を書いたのもその関係であった。またそこに胡 瞭孫の裁判が董士選の功績として書き残されていることほ,董士選の履歴と→ 致し,しかも江西行省の省都の龍興路は臨江路と隣接するのだから,当然あり そうなことだったのである。 『元史』巻181,元明善伝にいう。 辞せられて行枢密院に線たり。時に董士選院事を余し,これを待するに賓 友のごとくし,敢へて曹属を以てこれを御せず。士選江西左丞忙陛るに及 んで,又た辞して省線と為す。……始め明善江西に在りし時,(朱)張痘 その省の参政と為る。明善馬あり,駿にして瘡す。症候ノりて従騎となすに, 久しくしてますます壮たり。撞これを愛し,米三十斜を致してその直を酬 す。のち追放れ,江断行省その家を籍するに,金穀の簿を得たり。「米三 十斜元復初に送る」と善して,以て馬直を酬するを言はず。明善坐して免ぜ らる。これを久しうしてその事を桝白する者あり,乃ち復た省曹に接たり㌔功 元明善と董士選との関係が親密であったことと同時に,張逼が江西に在任した ときの興味深い交友関係のエピソードがみえている。大体,董士選にしてから が,朱清・張造と金銭にからむ疑惑もうわさされていたのであった。『元史』 巻21,成宗紀大徳7年3月英丑の粂にいう。
植 松 正 66 枢密院臣及び監察御史言へらく,「中丞董士選,朱清・張塩に砂を貸すほ 義にあらず。」帝日く,「台臣め称貸するは,必らずしも問ほざるなり。も し言ふ者巳まざれば,のち当にこれを杖すべし。」銅 董士選が朱清・張塩の営む海外貿易などの事業に出資していたことを言ってい るのであろう。 この事件の波紋ほ,単に董士選がこの地方高官を裁いただ研こ止まらなかっ たようである。一体,殺された胡総管の総管が何かよくわからない。市舶司総 管などの特殊官庁の長官もあるが,通常は路の長官を称して総管という。しか しどこの路の総管かを文献の上で確定することが遺憾ながらできない。ただも し総管が路の紙管であるとして,ありそうな可能性は臨江路の魔管である。胡 家ほ臨江路新途州の富家であるから,この時代,その地の長官に任ぜられた可 能性は十分にあろうと思われる。少しく想像をたくましくしてみようか。胡稔 りてき 管が殺されたのち,臨江路総管に任命されてやってきたのがおそらく李個であ る。『牧庵集』や『同治臨江府志』などの記事によると,彼は元貞初年に集賢 侍読学士となったが,大徳の間に臨江路総管に転出した。糾そして『同沿臨江 府志』に,臨江路総管となったとあるそのあとに「郡大水」とあるが,『元史』
巻19,成宗紀につJ、て水害の記録を検出してみると,次のようである。
(大徳元年九月己丑)濃州・常徳・鏡州・臨江等路,温の平陽・瑞安の二 州大水あり。鋲江の丹陽・金壇草す。並びに糧を以てこれに給す。 (大徳二年正月)己酉,建康・龍興・臨江・寧国・太平・広徳・餞・池等 処水あり,臨江路の糧三万石を発して以て賑し,偽は沢梁の禁を弛め民の 漁采するを聴す。 (大徳二年七月壬寅)江西・江漸水あり,磯民二万四千九百有奇を賑す㌔功 こうしてみると臨江が大水に見舞われたのほ大徳元年,2年であるから,李偶 の臨江路への赴任ほその頃とみることができる。となれば,私がさきに胡総管 の殺人事件の発生を元貞元年,2年あたりと想定したことと矛盾ほない。しか しながら,これほあくまで胡総管が臨江路冶管であったと仮定したうえでの話 である。 ところで李個とほぼ時を同じくして,大徳元年に江西粛政廉訪副使に任命さぞうむかい れたのが賊夢解である。『元史』巻177の本伝に次のようにいう。 大徳元年,江西粛政廉訪副使に遣る。臨江路総管李個あり,素より変檜に して,又た大臣の勢に附し,以て省憲を控持す。夢解その臓罪を按じ,而 して一道澄清たり。六年,折衷粛政廉訪副使に還る。日朝 ここで李個が敵役として記述されているのは,その史料の性質上首肯できるこ とであるが,少なくとも江西行省の地方官同士で対立があり,しかも李個が「大 臣の勢に附し」たり,「鍼罪」の嫌疑をかけられているとなれば,彼が胡陳孫 や張塩と結びつきがあった可能性があろう。 『同治臨江府志』巻16,名居伝には次のようにいう。 (李)偶は素より剛介,郡の豪滑便ならず,謎するに事を以てす。たまた
うば ま憲司減夢解,個と戯あり,職を被ひて去る。明年,宣撫使,郡を按ずる
に,民数十百人,偶の冤を訴え,瞳に大書して云ふ。「十萬の居民血涙流 る,李侯ほまことに走れ賢侯,早とにはなほだ聡明に誤まらると知らば, 何ぞ当初鴇突として休めざりしや。」事始めて自す。のち集賢学士となる。錮 ここにいう「郡の豪滑便ならざること」があるいは胡旗孫の事件を指している のではないかと推測する。こちらの記事は李偶の側に立った記述であるが,こ こにも減夢解と李個との対立がはっきりと述べられている。減夢解ほ大徳6年 に李個を弾劾し,その臨江路総管の職を剥奪してから,折衷粛政廉訪副使に転 じた。大徳7年「宣撫使が郡を按」じたとあるのヤま,この年3月庚寅に全国に ムバタタ 派遣されることに決した奉使宣撫である。江西行省担当は木八刺と陳英であっ た。郎)奉便宣撫の視察に際して,臨江路の住民数十から百名はどによって李偶 の無実を訴えるデモが発生した。はどなく彼ほ復権し,集賢学士となうた。李 個と賊夢解の確執ほちょうど胡蹟孫の事件の処理に手間取って 事件の最終決着,即ち胡陽孫の処刑の後に,李個は罷免,減夢解は転任となっ ているのが注目される。なお『元典章』53,刑部巻15〔田土告欄〕の条に,大 徳11年の文書であるが,「前臨江路鹿管」の肩書きで李偶の土地政策についての 提言をみることができる。奉便宜撫について付言すれば,『元史』巻21,成宗 紀大穂7年12月丁未の条に次のようにいう。 七道奉便宜撫罷むる所の賊汚の官吏,凡そ一萬八千四百七十三人,賊四萬植 松 正 68 五千八百六十五錠,冤獄を審するもの五千一百七十六事。¢ゆ これは大徳7年末に報告された贈収賄摘発,冤罪の再審査の数である。奉便宜 撫派遣の−最大の目的は政変にともなう地方行政の整序にあったことが知られよ う。 ところで大徳5年に江西廉訪使に任ぜられた趨乗政なる人物がいる。『滋漢 文稿』巻10の彼の神道碑銘にいう。 大徳五年,江西廉訪使を拝す。民 公の来たるを聞き,憾びて日く,「走 れ能く十虎を縛する者か。」と。貪吏風を望んで或いはみずから引退す。研 これも江西行省の地方政治に何らかの引き締めの役を帯びて赴任したものにち がいないが,ここに「十虎を縛した」というのは,江南征服後間もない頃,彼 が愈江西湖東道掟刑按察司事の任にあったときの逸話である。舌州鎮守万戸の 蘇某が党与10人とともにこの地方で勝手放題の暴虐ぶりで,人々から「十虎」 と恐れられていた。趨乗政ほこのうちの一人に対して抜きうちに家宅捜索を行 なって武器類を押収し,ただちにこれを杖殺し,残りの9人をも敢然と処罰し た。¢ゆ成宗のこの時に再任されて,江西地方の人々がその権勢を畏れない剛直ぶ り吟期待してその任官を喜んだというわけである。 任官が大穂5年の何月であるか詳らか肇こしえないものの,あるいは彼が胡院 孫の事件についての監察御史の牒文を受領した当の責任者であった可能性もあ る。しかも廉訪副使の戚夢解の上役であったことは確かであるから,ここに「貪 吏が風を望んで引退した」という事実の中には,李個が臓罪の嫌疑によってそ の職を奪われたことを少なくとも含んでいるに相違ない。 そのはか江西地方の情勢について知られるところを付け加えておこう。『呉 文正公集』巻50「江西等処行中書省照磨李侯(李梼)平反疑獄之碑」にいう。 蓑州路経歴より新栓州判官に還り,大徳壬寅(6年)官に至り,丁未(11 年)得代す。明敏にして公勤,吏事に精たり,州に佐たること六年,令行 はれ政挙り,声誉著聞し,当路つねに委用す。朝廷使者に命じて天下を巡 行し,淑藍を彰別するに,臨江官吏ともに詰責を受く。新捻に至るに,侯 迎謁応待宜しきを待,使者これを嘉す。¢功 李構ほ大穂6年から11年まで新馴卜1判官に任臆られたが,その間朝廷からの特
元代江南の一高官の犯罪 69 使に対する応待よろしきを得て,他の臨江路の官吏が多く詰責を受けたなかで, 彼だけは例外的にお褒めに与かったとみえている。胡陳孫の粛清後に赴任した 彼であれば,謎めを被る理由ほなかったのであろう。 Ⅱ 江南宮人任命についての問題点 一明清時代本籍廻避の制の成立にむけて− さきに胡総管が在任したのほ臨江路総管でほなかったかと推測したのは,征 服王朝元朝治下にあって現地任用のケースが多いと考えられるからである。趨 巽の『廿二史答帽己』巻30「元初州県多世襲」の条にほ,州県官世襲の弊害のた めに遷転法が生まれ,また百官の俸禄がはじめは保証されていなかったので, 俸禄・職田の制が整備されてくることが述べられている。さらに「元州県官多 在外詮選」の粂によれば,州県官の世襲が罷められたのち各行省自選の制が生 まれ,割合にうまく機能したところもあった。やがてその省選にも弊害が出て くると遣使監選の制が考案され,中書省・御史台の中央官庁が地方官の人事を 監督するようになり,また隣省の地方官との間で人事異動(遷調)も行なわれ るようになったという。 ところで『康照臨江府志』巻5,官帥には例の総管李偶の名が「出鎮」とし て見え,どうやらここには元の臨江路総管の名を全て列挙しているのではない らしい。「出鎮」とあるからにほ,現地任用の者の名ほ挙げるに足らず,それ だけ李偶の赴任に格別な意味があったということになる。つまり現地任用のも のが多かったことの裏返しと理解される。胡隕孫も彼の実弟の張珪も,そして 朱清,張造のような大物も,いうまでもなく現地任用の老にちがいない。大地 主や大商人など豪民がみずから官位を手に入れたり,あるいほ有力者の庇護を 被るなどして,つまり「官豪勢要」が特権をふりまわして,一般の人民に害を なす場合もしばしばであった。『元典章』『通制条格』など当時の法令・判例 集で,こうした「官豪勢要」の横暴が取り沙汰されている事例はそれこそ枚挙 にいとまがない。 ただし,これは単に元朝の地方行政が弛緩していたといって済まされる問題 ではない。元朝が南中国への支配を図る上で「官豪勢要」を利用し,ぜたこれ
植 松 正 70 に頼らざるを得なかった当然り帰結である。いうなれば江南の豪民が元朝一代 にわたってこの一ような行政方針によって,結果においては政府に守られてみず からの勢力を扶植することに成功した。たとえ朱清,張造らの、ような豪民の巨 魁がとりつぶされることがあったにしても,全体としては大地主,大商人は力 を蓄えることができた。そしてこれが明朝成立にも貢献し,明代の政治にも反 映してゆくのであろう。 しかしながら,一方でほ彼らが地元に居るのを刺して権勢の根を張ることに ついては,警戒しなければならなかった。即ち『元史』巻21,成宗絶大徳7年 10月英巳の条にいう。 御史台臣及び諸道奉使言へらく,「行省官久しく任ずれば,隷する所の編 頓と姻を聯ねて政を害す。」詔し互いにこれを遷さしむ。㈹ この もたらしていると指摘され,行省官を入れ換えるなどして転任せしめるべきこ とが命ぜられている。これが大徳7年(1303)に,御史台官と奉便宜撫によっ て提議されているのが注目される。朱清,張塩,胡臨孫らのように,在地性の 強い行省官が強大になることへの警戒としてとらえたい。趨翼は『険飴叢考』 巻27「親族廻避」において次のようにいっている。 元史,大徳七年,行省官久しく任ずるを以て,多く隷する所の編頓と姻を 聯ねて政を害す。詔し互いにこれを遷さしむ。然れども大徳八年,又た詔 し,父子兄弟才ある者は並びに風憲に居ることを許す。則ち元の時退避す るも尚は疎潤なりき。(41) 私がむしろ注意したいのは「本籍廻避」である。「本籍廻避」も「親族廻避」 と無縁といえないところもあるが,明清時代のいわゆる本籍廻避の制の確立の 理由には,元代の政治の経験が横たわっているのではないだろうか。浜口重国 民の研究によれば;古く漠代にも本州出身者を本州の刺史に任用しない原則が あり,また隋初の中央集権政策との関連で,郷官が廃止されたことも論じられ ている。伍2)佐伯富氏ほ「近世の官僚,とくに地方官は全く浮草稼業で,転々と して転任を命ぜられ,同一箇所に長く職を奉ずることほ許されない」と述べたど割 ところが元代にはこうした本籍廻避の意識がはなはだ希薄で,かえって現地任
用や行省自選の制などが流行した。藤野彪氏が論じたように,元代には遷転法 によって人事交流をはかり,官吏任用を組織化しようとする動きはあったもの の,なかなかうまくゆかなかった。仏側 ただ本籍廻避のことは,下級の吏員についてはかえって意識されていたよう である。即ち『元典章』12,吏部巻6〔害吏奏差避籍〕の条にいう。 大徳三年七月御史台の容。奉じたる中書省の割付。准けたる准西江北道廉訪 使乞石烈卒らの呈。近ごろ差委を蒙り欽しんで詔書を費らし,江西行省等 の処に前去して閲読したるに,欽依するを除くの外,近ごろ江西行省所轄 の路府州司県の司吏,多く吏業通せず,行止廉ならざるに係り,もし上司 の分付するにあらざれば,即ち買(属)嘱承充するに係り,また所部の民 とその親政にあらざれば,則ちこれ健嫌し,公に侶りて私を行ひ,県吏暗 かに郷都に分れ,州吏県に分れ,府吏州に分れ,詞訟を起滅し,久しく衛 門を占め,官事を敗壊し,良民を残害せるがため,此れがため己に行省と →同に議擬し,遍く合属に行し,州県の司吏は本路所轄の州県内において 籍を避けて遷転し,路の司吏は本省所轄の路分において貫を避けて遷調す るの外,……もし各道廉訪司の書吏・奏差をもって道を避けて遷調すれば, 惟だに事において益あるのみならず,実に吏弊の大端を去らん。具呈した れば照詳せられよ。都省議し得たるに,路府州県の司吏は巳行に依准する を除くの外,各道廉訪司の書吏・奏差の元籍を回避するの一節につきては, 甚だ允当となす。擬する所に依准して,仰せて上に依りて施行せよ。此れ を承けられよ。……匝㊥ さらに同書新集ま部・吏制〔選補書吏〕の条にいう。 至治二年五月,抄到せる江南行台の延祐七年八月 日に准けたる御史台の 容。延祐七年八月初二日,本台官奏過せる事内の一件。各道廉訪司の書吏・ 奏差は名役徴なりと錐も,干係の事体は重い。……世祖皇帝より以来,人 おも を用いるに曽て南北を分たず。俺ら尋思うに,四海混一すれば,すべて走 れ皇帝の百姓である。もし南北を分って人を用いたならば大体の上に宜し くないようである。俺ら明白に奏知し,江南の廉訪司に,道ごとに南人の 書更四名を用いるを許し,うち挙子は二名,教官及び正従九品の棍脚偉人
植 松 正 72 出身の職官は二名,本貫(および)もと挙げられたる道分を廻適し,この ように厳切に体例と倣して扱治して行なえば,また好人を選び得て,風憲 の法度を壊了せず,大勾当に便益であろうd伍㊥ これらの例は路府州県の司吏や廉訪司の害吏・奏差についての規定であるが, かはどに督吏階層が政治の実際に大きな働きをしていたことを物語っている。 『元典章』にみられるような本籍廻避の指向が,やがて明代になって,官制全 般にわたって定着してきたとするならば,一旦は背吏化した官制が明代に新た な衣をまとって再登場してきたと解せられる。 明清時代の本籍廻避の制は従来あまり評価されてこなかった。かえって帝国 中国の隕習祝される傾向すらあったのではなかろうか。l特に明代における南北 選では,南方の人ほ北方に任官し,北方の人は南方に任官する定めであった。 顧炎武ほこの点に言及して次のようにいう。 南北互選よりの後,赴任の人ややもすれば数千里,必ず須らく債を挙げて はじめて官に到るを得。しかるに士風語ぜず,語言暁かにし難く,政権の 寄するところ多く滑菅㌢こあり。仏『 漏桂赤も本省廻避の制を痛罵してやまなかった。多少長くなるが,次に『皇朝 経世文続編』巻17「免廻避議」を引用して読んでみよう。 事有顕背三代聖人之制,醸民生無形之害,開背吏無窮之利,沿襲数百年, 墨守之為金科玉律,而不知変者,莫如官員廻避本省之例。成周三代世家草 渾,倶任於共闘,維楚有材晋賓用之,変也,非常也。漠之朱買臣,元魂之 畢安敬,唐之張漢周,宋之屯仲掩皆守本郡。明代始有南北選之例,後遂定 為週避本省,不開明之治勝於古之治也。為此説老,不過日官於本地,関説 之径路熟,恩怨之嫌疑多,嚢棄之取摘便而己。不知営私固易,挙発亦倍易, 阿比固多,責備亦倍多。祖宗邦墓之所在,子孫室家之所託,立身一敗,萬 事瓦裂,非一宮伝舎之比。郷評之可畏,甚於輿論。愚則以為官於本地,較 之他郷,倍宜自愛自重,亦人情也。至於遠任之害,昔人多有言之老,舟車 塩馬人夫之費,其給之也,非斥産即掲債,其償之也,非園衛即民膏。到官 之後,言語之不通,風土之不語,利弊則容訪無従,獄訟則詞聴無術,不得 不俺肝腎為耳目,循宿弊以歩趨,於園計民生,損乎益乎。況乎関説之径路
難通,則転多国縁之輩臭。恩怨之嫌疑不渉,則弥無忌博之心臭。嚢貴之取 措不易,則更益斎送之費臭。人果賢耶,不可待之以不肖人,果不肖耶,仇 無以禁其不肖。無益於園,有損於民,莫此為甚。今制惟親老告近,為天理 人情之寧,然亦多為条目,有年歳之限,有次丁有無之別,梢不合,即謂之 規避遠省,曽亦思国家之設官,取其能治民乎,取其能行遠乎,侶執甚焉。 且又何以処夫勾通書吏遷就以求合着乎。碗以為此法宜反而用之,大吏特簡 者不論外府庁州県各官,用宋政和無過三十駅之法,無論有親無親,皆選 近省県丞以下,不出省,復古郷亭之職,庶政参古制今,国民交益臭。
その本質としゼ明らかに三代聖人の制に違背し,民生に計り知れない害
悪を醸成し,背吏の窮まりない利益をもたらし,そのまま数百年間踏襲し て金科玉律のごとく墨守して変更することを知らないものがあるが,まっ たく「官員が本省を廻避するの例」のようなものはない。成周三代の当時 の大臣や在野のものはみなそれぞれの如こ任ぜられた。ただ楚に材あり晋 が賓に羊れを用いたというようなのは例外であって,通常のことではない0 漢の朱買臣,北魂の畢安敬,唐の張漢周,宋の屯仲掩ほ,みな出身地甲長 官となっている。明代に始めて南北選の例があり,その後そのまま本省を 廻避するこ′ととなった。しかるに明代の政治が古えの政治より優れている とは聞いたことがない。これの賛成論老は,もしも本籍地に任官すれば, 口利きのルートがはびこり,私的な感情に捗ること多く,私腹を肥やすの に都合がよいと言っているにすぎないのだ。ところが彼らときたら, 利益を図るのは容易だとしても,それがばれるのほずっと容易だし,おべ っか使いや馴れ合いものが多いとしても,世話をやいてやるのはすっと多 いということを理解していないのだ。先祖代々の塞があり,子孫や家庭が 頼りきっているのだから,立身出世しても一旦失敗すれば,万事はそれで 瓦解してしまう。単に役人の浮沈の甚だしいというようなことでほ済まさ れない。郷里の評判の恐るべきは輿論よりも甚だしいといえよう。 私が思うにほ,本籍で任官すれば,よその土地に任官する場合に比べて 一層自重自愛するであろうことほ人情というものだ。遠くに任官する弊害 については,苦から多くの人が発言している。舟車・駿馬・人夫の経費ほ植 松 正 74 財産を削るのでほなく借金でまかなう。その償還はといえば国費ではなく, 人民の膏血よりするのだ。赴任の後,土地の言葉が通じない,風習がわか らないでは,行政の利弊も尋ねようもなく,裁判も審理しようがなく,と どのつまり悪賢い地元の晋更に頼ってこれを耳目として用い,積年の悪弊 のままにやってゆく。これでほ,国計と民生に対して損か益か明らかであ ろう。まして口利きのルートが通じにくいといったところで,かえって賄 賂をたかる輩が多くなってしまう。私的感情にこだわることがないといっ たところで,いよいよ自制心というものを失わせてしまう。私腹を肥やす のが容易でないといったところで,さらに付け届けを増すことになろう。 いま人が本当に賢者であったとしたなら,これを不肖の人として待遇して はならない。ところが本当に不肖の人の場合でもやっぱり不肖の人を締め 出すことはできないのだ。これほど国に益なく民を損なうことはない。 現今の制度では,親が年老いた時にのみ郷里に近いところで任官するの を請求できることになっているが,これは論理としても人情としても当然 といえよう。ところがやたらに細則があって,年齢制限あり,次男の有無 のことあり,ちょっとでもこれに適合しないものならもう,遠省を敬遠し ようとしているとされてしまう。つらつら思うに国家が官を設けるのほ, 人民をよく治めるもの うというのか,一体どちらなのだろう。その上,かの書吏と結託してあれ これ辻襟あわせて馴れ合おうとするようなものに一体どうしたら対処でき るのだろうか。思うにこの方法と反対のことをしてみるがよい。大官で特 別に抜きんぜられるものほ論外として,府庁州麻の官ほ宋の政和年間に実 施された,30駅以内に任命する方法を適用して親があるとなしとにかかわ らず,みな近省の県丞以下の官を選び,その省から出ないようにして,古 えの郷亭の職にたちかえるようにすれば,歴史を現代に生かすこととなり, 国にも民にも両方の利益となるであろう。 顧炎武や漏桂券の言うところを考えてみると,士大夫が士大夫としての役割を 果せず,いわば背吏の風が士大夫の高邁なるべき精神を汚染し,地方自治の美 点も損なったままに,ただ中央集権体制下で宮人がその日暮らしに終始する。
75 この本籍廻遊の制度が士風の刷新に何の役にも立っていないばかりか,大いな る障害になっているとする慨嘆なのであろう。彼らにしてみれば,官人に対し てほ理念として本籍を廻避するような必要を認めなかった。それだけ本来ある べき士大夫の給持に期待していたのである。 また『清国行政法』にも廻避の制を述べたのちに,備考として『日知録』や 『校邪魔抗議』(即ち漏桂芥の「免廻避議」)の議論にのっとり次のように述 べられている。仏領 按スルニ廻避ノ条項中本省廻避/事ハ明二妨マレリ昔時ハ此ノ如キ例習ナ カリシノミナラス州麻官ノ如キ人民二直接スル老二至リテハ遠地ノ人ヨリ ハ寧口本地ノ人ニシテ民情風俗二通暁スル者ヲ以テ充用スルヲ原則トシタ リ…■‥一方ヨリ見レハ官吏ノ弊害ヲ慮り濠メ之力謀ヲ薦スコト甚轟セルカ 如シト雉モ他ノー方ヨリ見レハ其害却テ大ナルモノアリ蓋シ支部ノ如キ幅 員大ナル固二於テハ各地ノ語言情俗同シカラス之力薦メニ姶メテ任二到リ クル老ハ其地ノ事情二通セス勢ヒ手ヲ書吏二籍り寓事其補助ヲ受ケサルヲ 得ス甚シキニ至リテハ知麻力獄ヲ断スルニ嘗り言語ノ相通セサルカ薦◆メ書 吏之力翻弄ヲ薦スノ己ムヲ得サルモノサヘアリ此ノ如クニシテ不識ノ間二 吏背街役ノ術中二陥り人民其毒ヲ蓑ムルコト極メテ大ナリ且赴任地ハ嘗然 遠隔ノ虞ナルヲ以テ旅費其他ノ費用彩多ナルニ拘ラス吏部ノ規則ニハ赴任 旅費ヲ給スルコトナシ故二素ヨリ富メル老ハ姑ク舎キ其鏡ナラサル老二在 リテハ勢ヒ財ヲ人二倍ラサルへカラス即チ京債ハ此二由リテ起ルナリ…… 然レトキ清図官吏ノ腐敗ハ根砥ヨリ之ヲ救治セサルへカラス廻避ノー事ノ 刷新豊遮王官吏ノ改善ヲ望ネへケンヤ このように悪評高い本籍廻避の制であるが,明代にこの制度が発足するには必 ずやその理由があった。元代の官豪勢要の活躍をそのまま明の新時代に受け容 れては,地縁血縁政治を招来してしまうことが十分に予想された。特に明朝ほ 江南の多くの地主の支持を得て発足したから,放置してお桝ゴし、よいよその弊 害は大きくなりかねない。つまり本籍廻避の制の確立ほ元代の歴史の経験に学 んだ結果であり,新生の明の政府に清新な一面があったことを物語っている。 ただ制度が時を経て形骸化し,本来の精神を失って弊害ばかりが目立つように
植 松 正 76 なることが避けられなかったのである。 南北選について付け加えるならば,元代の北と南(腹裏と江南)の社会的懸 隔は,それ自体,金・南宋対時の歴史もあるから随分大きなものがあった。文 化的に進んだ南中国の人士に多少不利益があろうと,明朝が真の統一国家とし てたちゆくためには,そのギャノップを埋め,政治的に南北融合を図る必要があ ったこともこの制度発足の大きな理由であったと考えられる。 結び 以上『元典章』に収められた判例の分析を辛がかりに,元代江南社会の断面 を垣間見てきた。ひ・とつのケース・スタディにすぎないが,『元典章』の判例 も仔細に分析し,なお文集や地方志など,周辺の史料を以て補強してゆけば, 当時の人々の生き方や社会のあり方について意外に興味ある観察が可能になる のでほないかと思う。そして最後に明清時代における本籍廻避の制確立の前提 条件をなした社会事象こそ,元代の「官豪勢要」といわれる豪民の活躍ではな かったかと考えたのである。 注 (1)『元史』巻20,成宗紀大徳4年4月戊午の条にいう。 参政張瞭孫及其弟珪等伏誅干(隆)龍興市。瞭孫初為新詮宮人胡制機養子,後 制機自生子而死。隕孫利其貿,与珪謀殺之,賂郡県吏獲免。其僕胡忠訴主之冤 干官,乃誅之,其貿悉還胡氏。 (2)『元史』巻20,成宗紀大徳5年正月王子の条にいう。 御史台臣言,「官吏犯臓及盗官銭,事覚避罪逃匿者,宜同獄成。錐経原免,亦 加降鮎,庶貯偽可草。」従之。 また『元典章』46,刑部巻8〔犯蠣官吏在逃不叙〕の粂にいう。 本台於大徳五年正月十一日奏過事内一件,「行台・廉訪司,文字裏説将来, 『受章勅的官人毎・令史毎,但是勾当的人毎,倫了官銭,要了肛皮,事発被問 的其間裏,避伯他毎的罪過逃走了的人毎,経了草呵,依着招了的体例裏,勾当 合罷的交罷了,合降的交降等。』説将来。俺商量釆,受宣勅的官人毎・令史毎, 但是勾当的人毎,要了牡皮,倫了官銭,投体例倣了,逃走了的,経了草呵,・依 着招了的体例裏,合罷的・合降等的,更他毎合得的罪名裏,倣例行吋,債鬼識 的人毎少也老。如今逃走了的人裏頭,路官・州県官也有,首領官也有,廉訪司
元代江南の一高官の犯罪 77 官也有。交這的毎倣例行吋,忠生?」磨道,奏珂,「那般老。」磨道,聖旨了也。 欽此。 (3)『元典章』54,刑部巻16〔重杖打人致死〕の条に「其余雑犯,並行釈免」とみえ る。拙稿「元代条画考」(5)(『香川大学教育学部研究報告』第1部第49号,1980) 参照。 (4)『元史』巻168,眺天福伝にいう。 大穂二年,授江西行省参政,以疾辞。 (5)『元史』巻15,世祖紀至元26年間10月庚寅の条にいう。 江西宜慰使胡臨孫援沙不丁例,請至元砂千錠,為行泉府司,歳輸珍異物為息。 従之。以胡瞭孫遥授行尚書省参政・泉府大卿・行泉府司事。 (6)『元史』巻13,世祖紀至元22年2月戊辰の条にいう。 立真定・済南・大原・甘粛・江西・江准・湖広等処宣慰司兼都転運使司,以治 課程,偽立条制。 (7)『同治瑞州府志』巻8,秩官志,名臣にいう。 眺文龍通志作葬龍。新昌人。謀暑出衆,勇力絶倫,少業屠,胡仲雲見而器之, 託之以子孫。宋末大乱,結集保郷薫,元兵陥瑞州,遂為本路総管,召仲要子希 寅,為買田築室,薦本州学正。文龍官至侍郎兼府声。 (8)村上正二「元朝に於ける泉府司と斡脱」(『東方学報』東京第13冊,1942,所収) 参照。 (9)拙稿「元代江南の豪民朱清・張造について−その誅殺と財産官没をめぐって−」 (『東洋史研究』第27巻第3号,1968,所収)参照。 ㈹ 『元史』巻14,世祖紀至元24年5月壬寅の条にいう。 沙不丁言,「江南各省南官多,毎省宜用一二人。」帝日,「陰険巌・呂師蓼・管如 徳・苑文虎四人,余従卿議。」 錮 『元史』巻15,世祖紀至元24年4月辛酉の条にいう。 従行泉府司沙不丁・烏馬児請,置鎮撫司・海船千戸所・市舶捉挙司。 また『元史』巻205,桑寄伝にいう。 桑寄嘗奏以沙不丁遥授江准行省左丞,烏馬児為参政,依前領泉府・市舶両司。 ㈹ 『元史』巻15,世祖紀至元26年正月辛卯の条にいう。 沙不丁上市舶司歳輸珠四百斤・金三千四百両,詔貯之以待貧乏老。 ㈹ 『元史』巻15,世祖紀至元26年2月丙寅の条にいう。 尚書省臣言,「行泉府所統海船万五千肢,以新附人駕之,緩急殊不可用。宜招 集乃顔及膠納合児流散戸為軍,自泉州至杭州立海砧十五,砧置船五健・水軍二 百,専遅番夷貢物及商販奇貨,且防禦海道,為便。」従之。 ㈹ 『元史』巻15,世祖紀至元26年4月丁丑の粂にいう。 尚書省臣言,「乃顔以反誅,英人戸月給米万七千五百二十三石。父母妻子倶在 北方,恐生官志,請徒置江南,充沙不丁所請海船水軍。」従之。 ㈹ 『元史』巻15,世祖紀至元26年10月巽西の粂にいう。
植 松 正 78 尚書省臣言,「沙不丁以便宜増置新東二塩司,合斬東西旧所立者為七,乞官知 塩法老五十六人。」従之。 また,佐伯富「元代における塩政」(『東洋学報』第66巻第1・2・3・4号)参 照。 『元史』巻16,世祖紀至元27年6月庚辰の粂にいう。 用江准省平章沙不丁言,以参政王巨済鈎考銭穀有能,賞妙五百錠。 同至元28年2月甲申の粂にいう。 命江壮行省,鈎考沙不丁所総督事院江南銭穀。 同至元27年7月契丑の条にいう。 江准省平章沙不丁以倉庫官盗欺銭糧,話依宋法,許而断其腕。帝日,「此回回 法也。」不允。 同至元27年4月英未の条にいう。 江准行省言,「近朝廷遁自繋矩釆,与沙不丁議,令発兼井戸借宋宗族赴京,人 心必致動揺,江南之民方息増課・料民・括馬之苦,宜供官日行之。」従之。 『元史』巻15,世祖紀至元26年9月丙寅の粂にいう。 江准省平章沙不丁言,「提調銭穀,積怨於衆,乞如安東木例,撥戊兵三百人為 衛。」従之。 ㈹ 佐藤圭四郎「元代における南海貿易一市舶司条令を通して観たるw」(『集 刊東洋学』11・12号,1964,所収,『イスラーム商業史の研究』1981,同朋舎,所 収)参照。 的 『元史』巻16,世祖紀至元28年8月己巳の条にいう。 罷江西等処行泉府司・大都甲匠総管府・広州人匠提挙司・広徳路銀事司。罷泉 州至杭州海中水粘十五所。 姻 前掲村上論文(注(8))参照。 ㈹ 前掲佐藤論文(注㈹) 鍋『元典章』22,戸部巻8〔合併市舶転運司〕の条にいう。 至元二十三年三月,御史台承奉中書省答肘。為庭石丞建言市舶等事。移准上都 中書省容。六月二十九日本省官奏過(事)内一件,這課程的勾当裏,両件児勾 当有,一件勾当,慮市舶司的勾当,係官銭裏,一十万定要了,他者海船裏,交 倣買売行,……‥ 釦 『元史』巻94,食貨志,市舶にいう。 (至元)二十一年,設市舶都転運司於杭・泉二州,官自具船,絵本,選人入蕃, 貿易諸貨。其所獲之息,以十分為率,官取其七,所易人得其三。凡権勢之家, 皆不得用己銭入蕃為貢,犯老罪之,偽籍其家産之半。其諸蕃客旋就官船売買者, 依例抽之。 鋤『元典章』22,戸部巻8〔市舶則法二十三条〕の第2粂に次のようにみえる。 一。議得,拘該市舶去処,行省・行泉府司・市舶司・権豪勢要之家,興販舶船, 不依体例抽分,情勢隠満作弊。為此於至元三十年四月十三日奏過事内一件,「行