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近代文化蜻蛉学

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Academic year: 2021

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近代文化蜻蛉学

保科英人

福井大学教育学部

Cultural odonatalogy in the Japanese modern monarchical period

Hideto H

oshina

Faculty of Education, Fukui University

(2020 年 2 月 17 日受理) I. おおよそトンボに好意的な現代日本人  筆者は中国人留学生対象の授業で「童謡『赤とんぼ』 は小学校で必ず習う。日本人なら歌えないやつはいない」 と断定したことがある。おそらくこれは間違っておるま い。歌詞カードがなくても、我々は一番はまず歌えるは ずである。あくまで個人的主観にすぎないが、懐旧の心 情に誘う『赤とんぼ』の歌詞とメロディはまこと秀逸で、 日本人の心の琴線に触れるものだ。国際トンボ学会の学 会歌に指定されていることも故無しとしない(井上・谷 2010)。好きとまで言えるかどうかは別として、現代人 で「トンボが嫌い」と明言する人はそう多くはないはず だ。手に触れることはできなくとも、たわわに実った稲 の上空を飛ぶアキアカネに秋の風情を感じる人も少なく ないだろう。  しからば現代人の直接の先人とも言うべき近代日本人 はトンボと如何に向き合ってきたのか。政治、経済、軍事、 学校などの社会制度で見れば、現代と近代(明治元年~ 昭和 20 年)は共通部分が多い。江戸の人々と比べれば、 明治日本人と我々の発想がより似通っていても不思議で はない。  昆虫観で言えば、現代と近代で近似するものと全く異 なるもの 2 つに分れる。例えば、セミに対する見方は近 代も現代もそう大差はない(保科 2019d)。一方で、現 代の昆虫飼育愛好家が 1 ミリでも大きく育てようと奔走 するカブトムシとクワガタムシであるが、近代日本人は この 2 大人気甲虫に対して、いたって冷淡だったことが わかっている(保科 2019b, 2019c)。  現代日本人のトンボ観については何回か言及したこと がある(保科 2014a, 2014b, 2016a)。そこで、本稿で は近代新聞記事を主な資料とし、近代日本人のトンボ観 を探り、現代日本人のそれと比較考察することを目的と する。  なお、本稿では文末で(明治 38 年 9 月 5 日付〇〇新 聞)と引用する際、「新聞」を省略する。具体的には(明 治 38 年 9 月 5 日付東京朝日)との表記となる。 問い合わせ先 〒 910-8507 福井県福井市文京 3 - 9 - 1 福井大学教育学部

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II. 漢方薬としてのトンボ  近代期スズムシやホタルはペット昆虫商品として盛 んに取引されたが(保科 2017, 2018b; Hoshina 2017, 2018)、トンボが飼育ないしは標本鑑賞目的で売買され たとの新聞記事は見つけていない。しかし、漢方薬の材 料として商取引されていたとの記事が一つだけあった。 実は、かつてナツアカネやショウジョウトンボなど、特 に赤みの強い種を材料とした漢方薬は百日咳や扁桃腺 炎、梅毒に効果があると信じられていた(二橋 2014)。 明治 17 年(1884 年)8 月 8 日付朝日新聞によると「鳥 獣魚虫を黒焼にする高は三府中当地を最も多しとするよ し」とある。当時朝日新聞の本社は大阪にあったので、 「当地」とは大阪のはずである。この記事によれば、同 年上半期に商取引された生き物の内訳は、赤蜻蛉 2 万、 蛇 1300、百足 210、石亀 50、鳶 650、猿 20 などなど で、アカトンボがずば抜けて多く取引されていた。なお、 全ての生き物の合計取引金高は 850 余円だったと言う。 明治 10 年代後半は大工の日当が約 40 銭との時代であ る(森永 2008)。仮にこの 40 銭を現在の貨幣価値の 1 ~ 2 万円とすると、850 円は数千万円ぐらいの計算にな る。令和現在の漢方薬材料市場の経済規模がどれくらい か、筆者には見当もつかないが、当時の大阪が日本経済 の中心だったことを鑑みると、数千万円は意外と控えめ な数字のような気がする。漢方薬の材料としての生き物 の量的な需要が大きくなかったが故であろうか。  明治時代、神戸元町の『精々薬館』と言う製薬業者が 盛んに新聞広告を出していた。例えば、たんを取り、咳 を直す薬の「和胸散」(明治 19 年 6 月 5 日付神戸又新日 報)。1 日分 3 包でお値段 5 銭なり。当時の朝日新聞 1 部が 1.5 銭との時代だから、薬としては安価である。また、 『精々薬館』は「鐵飴」との薬も販売している。これは、 肺病、貧血、喘息、脚気など、効能は何でもござれの万 能薬を謳っていた(明治 19 年 7 月 1 日付神戸又新日報)。 この他、同社は「無色ヨヂェムチンキ」との塗り薬も製 造していた(明治 30 年 6 月 12 日付神戸又新日報)。  実はこの神戸の『精々薬館』の商標がトンボなのであ る。前段の新聞広告には全てトンボが描かれている。もっ とも、新聞広告では各種薬の効能が強調される一方、そ の成分は一切書かれていないので、トンボの粉末が各種 薬の材料として用いられていたかはわからない。ただ、 『精々薬館』製商品のいずれかにはトンボが使われてい たと推測できる。  なお、『精々薬館』の「鐵飴」は中々の売れ筋だった ようで、それ故に他社のコピー商品まで市場に出回って しまった。そこで、『精々薬館』は「とんぼの商標なき ものは真正の鐵飴にあらざるなり」との注意喚起の新聞 広告を掲載している(明治 30 年 6 月 1 日付神戸又新日 報)。 III. トンボを名前に持った近代日本企業  現代日本でも『トンボ鉛筆』や『トンボ出版』など, トンボは企業名になることがある。また,筆者は町中 で「とんぼ」なる飲み屋の前を通りがかった記憶がある。 実際、「トンボ 居酒屋」でネット検索すると、いくつ かの店舗が引っかかる。ちなみに、同じ酒類を提供する 店であっても、トンボは居酒屋,チョウはキャバクラと、 トンボとチョウの間で、ある種の “ 住みわけ ” が見られ る。生物の実態に合っているかどうかは別にして、チョ ウはどうしても性的な雰囲気を持つ昆虫として扱われる ことが少なくない(保科 2018a)。  近代日本でも「トンボ」との名を持つ企業は存在した。 新聞広告や記事中に見つけた “ トンボ ” 企業と業種は以 下の通りである。 ・時計及び附属品装飾品「蜻蛉商店」(明治 22 年 6 月 29 日付東京朝日) ・美術雑貨店「蜻蛉商会」(明治 24 年 9 月 10 日付読売) ・印刷業「蜻蛉社」(明治 27 年 10 月 23 日付東京朝日) ・出版社「蜻蛉館書店」(大正 5 年 6 月 24 日付読売) ・毛糸屋「トンボ屋」(大正 12 年 12 月 2 日付東京朝日) ・料亭「とんぼ」(大正 14 年 8 月 7 日付読売) ・雑貨店「赤とんぼ」(昭和 6 年 9 月 6 日付東京朝日) ・楽器製造業「トンボハーモニカ手風琴製作所」(昭和 17 年 10 月 2 日付読売)  なお、企業名ではないが、明治 20 年代には「蜻蛉ビー ル」との商品名のビールがあった(明治 21 年 5 月 11 日 付読売)。現代でも日本やヨーロッパにトンボが描かれ たラベルを持つ酒類は存在するから、特に珍しい話でも ないのだろう。

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IV. 童話の中のお間抜けなアカトンボ  明治初期のお雇い外国人に化学教師のグリフィス (W. E. Griffs) (1843–1928) がいる。グリフィスは明治 4 年 福井藩に雇用され、藩校・明新館で藩士たちに化学、物 理、各種外国語を教え、日本最初の米国式理科実験室を 設立した。廃藩置県のあと、明治 5 年大学南校(現在の 東京大学理学部や法学部の前身)に移った。グリフィス は教育者として多くの人材を育てたほか、帰国後に日本 文化に関する本を多く著した。そして、昭和元年に再来 日したグリフィスは、その多大な功績に対し日本政府か ら勲三等旭日章を授けられた。このようにグリフィスは 19 世紀を代表する知日派米国人の一人である。  グリフィスは帰国後に日本の昔話や自然を題材とし たお伽話集『Japanese Fairy World: Stories from the Wonder-lore of Japan』 (1880 年) 、 『The Fire-fly’s Lovers and Other Fairy Tales of Old Japan』(1908年)、 『Japanese Fairy Tales』(1923 年)の 3 冊を出版した(山

下 2009)。この 3 冊には計 45 編のお伽話が収録されて おり、そのうちの 1 本が「The fire-fly’s lovers」(蛍の 求婚者)である。「The fire-fly’s lovers」は日本の竹取 物語を原作としつつ、舞台を福井城のお堀に設定し、お 姫様をホタルにした上、全ての登場人物を昆虫に変えた 異色作である(保科 2014c)。

 竹取物語ではお姫様に求婚した紳士たちは、彼女か ら無理な条件を突き付けられ、皆酷い目に合うわけだ が、その点は「The fire-fly’s lovers」も同じだ。ホタル のお姫様は多くの求婚者に「火を持ってくるように」と 指示する。求婚者の一人がアカトンボで(the scarlet dragon-fly)、彼は哀れにもランプから火を取ろうとして 失敗し焼け死んでしまう。

 米国人が日本の昔話をアレンジして、登場人物を全て 昆虫に変えてしまった「The fire-fly’s lovers」は文化昆 虫学的に大変興味深い資料である。しかし、グリフィス が滞日中に野外の昆虫に深い関心を持ち、観察に勤しん だかとの点については疑問が残る。まず、グリフィスの 福井滞在中の日記が残っているが(山下 2013)、彼は福 井で見たはずの昆虫に対して、ほとんど記録や感想を残 していないのである(保科 2014c)。次に筆者が気になっ たのが「The fire-fly’s lovers」のアカトンボが死んだ 場面「She found a roasted Dragon-Fly, whose scarlet

wings were all burned off」(注、she とは人間の主婦の こと)である。グリフィスは「燃え尽きた茜色の羽」と 記したわけだが、言うまでもなく日本のアカトンボは胸 部や腹部、頭部は赤くなっても、羽が赤くなることはな い。グリフィスは福井の地でアキアカネやナツアカネを ろくすっぽ眺めていなかったのではないか、と勘ぐって しまう。  とは言え、現代日本のフィクション作品で奔放なアカ トンボが描かれることはあるが(保科 2014a)、やられ 役を振り分けられることはあまりないような気がする。 アカトンボに間抜けな役割を与えたグリフィスの感性は 特筆する価値がある。 V. これと言った役割が与えられなかった 森永ミルクキャラメル宣伝マンガ中のトンボ  昭和 11 年(1936 年)10 月 5 日~ 12 月 20 日付大阪 朝日新聞、同 9 月 18 日付~同年 12 月 20 日付東京朝日 新聞で、約 70 回に及ぶ森永ミルクキャラメルの昆虫漫 画が連載された(保科 2014d)。この頃、森永製菓はミ ルクキャラメルの中箱に色刷昆虫漫画を付けるサービス を開始していた。今風に言えば、おまけカードを封入し たわけである。  このおまけの昆虫漫画は、当時の日本の昆虫学の指導 的立場にあった石井悌博士の協力のもと、漫画界の大御 所の岡本一平(芸術家・岡本太郎の父)やその影響下に ある近藤日出造、杉浦幸雄、矢崎茂四などの中堅漫画家 たちによって描かれた(森永製菓株式会社編 1954)。そ して、時期をほぼ同じくして、森永のキャラメルの宣伝 昆虫マンガの新聞連載が始まったと言うわけだ。  この新聞連載の昆虫漫画であるが、最初の回の頃は キャラメルを食ったアリがパワーアップすると言った宣 伝色が非常に強かった。しかし、連載が進むにつれてキャ ラメルから離れ、昆虫の生態を紹介したり、個々の昆虫 の特徴をギャグに生かしたりと、科学漫画の要素が強く なっていく。  この約 70 回の連載中に登場する昆虫は、カブトムシ やカマキリなどの誰しもが姿形を思い浮かべることがで きる種ばかりではない。登場昆虫はイネゾウムシとかフ ユシャクなどなど、多少の昆虫学の知識が無ければ、何 が面白いのかさっぱりわからない漫画も少なからず含ま

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れている。  トンボの登場頻度は多くない。まず、昭和 11 年(1936 年)11 月 19 日付東京朝日新聞掲載の第 51 回の「トン ボとハチの相撲」。“ トンボヤマ ” と “ ハチガタケ ” が対 戦し、二人は四つに組んだまま、土俵の上空に舞い上がっ てしまう、との内容だ。次は、同年 11 月 28 日付東京朝 日新聞掲載の第 59 回。この日は日本がナチスドイツと の間に日独防共協定を結んだ 3 日後にあたり、トンボが ホタルとテントウムシの 2 頭に新聞の号外を運んでくる。 そこで、ホタルとテントウムシは協定ごっごをして遊ぶ、 との漫画である。約 70 回の連載のうち、トンボの登場 回はせいぜいこれぐらいである。上記 2 編の漫画の中で 登場キャラクターがトンボである必然性はないことがわ かる。岡本一平一派からすれば、トンボは漫画に使いづ らい昆虫だったのであろうか。 VI. 新聞紙上のトンボ事件簿  鼠小僧治郎吉とは江戸期に実在した盗賊であるが、明 治時代には “ とんぼ ” を名乗る、ないしは名付けられた 強盗がいた。埼玉県出身で「とんぼ小僧」との異名を 持つ盗人は弱冠 15 歳の少年ながら、盗んだカネは合計 千余円に達したそうだ(明治 31 年 5 月 15 日付東京朝 日)。当時の大工の日当が 1 円弱との時代である(森永 2008)。現在の学校制度に当てはめるなら、中学生が大 工さんの 4 年分の年収に相当するカネを盗んだと言うの だから恐れ入る。明治 39 年(1906 年)には「蜻蛉の清」(26 歳)と称される強盗が御用となった(同年 10 月 31 日付 読売)。なお、両新聞記事からは、二人の泥棒がなぜ「と んぼ」と呼ばれていたのか、その背景はうかがい知れな い。捕まりそうになったら、高ッ飛びですり抜けるから との理由だろうか?  トンボに絡む悲惨な新聞記事は、虫捕り中の事故であ る。明治 15 年(1882 年)、東京浅草の士族の子弟 2 人 がトンボ捕り中に誤って川に落ちた。幸い二人とも巡査 に無事助けられた(同年 9 月 12 日付読売新聞)。明治 22 年の麻布では、垣根に上ってトンボを捕っていた少年 が誤って落ち、運悪く竹の切り先に刺さり、重傷を負っ た(同年 9 月 7 日付読売)。  一方、大阪では明治 17 年 9 月に大浦警部長が市部及 び二郡の警察署に対して、子供のトンボ捕りについての 注意喚起を父兄に促す指令を出した。当時、大阪の子供 たちは、髪の毛に結んだ小石を包んだ紙玉を空に投げて トンボを捕っていた。これが電信線に引っかかること、 通りを往来する人々の妨げとなっていたこと、子供自身 も危険であることから、大浦警部長は上記のような達し を出したと言う(明治 17 年 9 月 27 日付朝日)。  この大浦警部長とは、後に内務大臣や農省務大臣を歴 任した大浦兼武(1850–1918)のことだ。大浦が大阪府 警部長の職にあったのは明治 15 年 1 月から同 20 年 1 月までである。当時の大阪市の道路は幅が狭く、交通上 の危険があった。そこで、大浦は赴任後すぐに馬車荷車 の通行に厳重な制限を加えた(香川・松井 1921)。大浦 は特にトンボに関心があったわけではなく、大阪の交通 事情を鑑みて、職務上子供のトンボ捕りに着目しただけ だろうが、後の大物政治家とトンボとの奇妙な縁ではあ る。  一つ不思議なのは、読売新聞がトンボ捕り中の子供の 人身事故を多く報じているのに対して、朝日新聞(明治 21 年以降は東京朝日新聞と大阪朝日新聞の両紙が並立) が同様の事故を殆ど記事にしていない点である。東京朝 日新聞はセミ捕りに伴う人身事故はきちんと報じていた ので(保科 2019d)、この点は不可解と言うほかない。  読売新聞は大正末以降、大東亜戦争中まで毎年のよう にトンボ捕り中の人身事故を記事にした。記事内容は 誤って池や川に落ちた子供の溺死事故が大半だが、トン ボ捕りに夢中になっていた子供が電車に轢かれる事故も 発生している(昭和 8 年 9 月 12 日付同紙)。明治時代~ 大正前半期と比べると、大正後半以降トンボ捕り中の事 故を報じた読売新聞記事は確実に増えている。かと言っ て同時期に子供たちの間でトンボ捕りが流行し始めたと は断定できない。大正 6 年(1917 年)から同 8 年(1919 年)、読売新聞は 3 年連続で紙面変革を実行し、掲載文 字数を増やした。大正 15 年には日曜夕刊を創刊した(岡 野 1955)。大正末以降、悲劇ではあるが重大事件とは呼 び難いトンボ捕り中の人身事故が頻繁に記事になったの は、単に紙面に掲載される情報量が増加したことが一因 と筆者は考えている。

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VII. 不思議な流行語  明治 23 年(1890 年)和歌山市内で不思議な流行語が 飛び交った。「今日は行水しましょう」「今日は蜻蛉が捕 れましょう」「今日は碁石を十分に持てましょう」これ は一種の隠語である。行水する=粥をすする、トンボが 捕れる=麦飯を食える、碁石を持つ=米が食える、との 意味だったと言う(同年 8 月 1 日付読売)。して、その 心であるが、行水は水分たぷたぷの飯のこと、麦飯はト ンボの頭に似ているから、そして碁石は白米を彷彿させ るからだと言う。解説がないとさっぱりわからない当時 の隠語である。 VIII. 近代日本軍とトンボ (1)。勝ち虫としてのトンボ  古来日本では、トンボは前進あるのみで決して後退し ないことから、勝ち虫と呼ばれてきた。現代でもトップ アスリートがトンボに絡む伝統的な縁起担ぎをするこ とがある。例えば、平成 26 年(2014 年)7 月 20 日放 送のスポーツニュースにて、前田健太投手は(現ミネソ タ・ツインズ所属)、グローブにトンボの模様をあしらっ ていることを披露していた。前田投手は「トンボは後退 しない虫だから」とその理由を解説していたが、視聴者 の中にはこの発言を前田投手オリジナルの発想と勘違い した人も少なくないだろう。また、平成 28 年(2018 年)8 月 29 日付配信の「tennis365.net」によれば、テ ニスプレイヤーの錦織圭選手はトンボの羽をモチーフと したデザインのウェアを着用したとのこと。ちなみに、 古代シュメル神話でも、ニンウルタ神が退治した 11 勇 士の一人がトンボだった、との物語がある(岡田・小林 2008)。トンボを強者と見なす認識は、我が国だけでは ないことを認識しておく必要があるだろう。  次に、時は明治 27 年(1894 年)6 月の日清戦争の 緒戦の成歓の戦い。混成第九旅団を率いる大島義昌少将 は成歓駅にて部下将校と軍議を開いていた。すると、ト ンボが飛んできて少将の肩に止まった。さてこそ縁起良 きことかな、と当時話題になったと言う。そして、この 新聞記事の見出しは「勝虫の紋」である(明治 28 年 11 月 12 日付読売)。実際、成歓の戦いは日本軍の圧勝とな り、その後日本陸海軍は清国軍相手に連戦連勝を重ねて いく。  さて、この大島少将の逸話は大変面白いのだが、問題 は本稿で引用した新聞記事は成歓の戦いから 1 年以上 たった、日清戦争終了後の回想記事であるとの点だ。大 島義昌将軍にはまとまった伝記はなく、また日清戦争と ほぼ同時期に書かれた陸海軍軍人列伝の類にも大島少将 とトンボの逸事は記録されていない(堀本 1894;元木 編 1896)。現時点では大島少将のこのエピソードを史実 として断定して良いのかどうかは不安が残る。 IX. 近代日本軍とトンボ (2)。 雑魚として叩き落とされるトンボ  明治以前の近世、戦場で不覚を取るまいとの武士の願 いを反映した結果、トンボをあしらった兜や陣羽織が存 在した(橋本 2013;福井市立郷土歴史博物館編 2013)。 また、幕末土佐藩は「蜻蛉」と言う名の洋式艦船を擁し ていた(神谷 2018)。さらに、昭和期の日本海軍の「九三 式中間練習機」は “ 赤とんぼ ” との愛称を持っていた。 技量未熟者が操縦していることを周囲の一般機に知らせ 注意を促すため、機体全体を目立つ黄色で塗っていたか らである(野原 2004)。“ 赤とんぼ ” との愛称は軍関係 者内だけでの通称ではなく、一般国民にも知られた愛称 であった(昭和 19 年 2 月 12 日付朝日新聞)(注 1)。  ただ、“ 赤とんぼ ” はあくまで綽名であって、軍用機 の正式名称ではない。理由不明ながら、明治以降の近代 日本陸海軍はトンボを含む昆虫全てを軍艦や戦闘機の名 称に用いなかったのも事実である(保科 2016b)。そして、 筆者はこの事実を「日本人は虫好き、虫好きと自負する が、本当にそうなのか?」との疑義を表明する際の証拠 の一つとして使ったことがある(保科 2018a)。  どうも日本海軍、新聞記者、そして少なからぬ国民は トンボを勝ち虫ではなく、敵側の雑魚戦闘機に準えてい たフシがある。例えば、盧溝橋事件勃発からほどない昭 和 12 年(1937 年)10 月。東京朝日新聞に「空襲、空 襲、赤いとんぼの爆撃隊。編隊飛行で堂々と僕等の陣地 へ攻めてきた。(中略)萬歳!萬歳!命中だ。とんぼの 敵機は大慌て。散々ばらばら逃げていった」との読者投 稿の詩(歌詞?)が掲載された(同年 10 月 17 日付同紙)。 この作者は中国空軍を念頭に置き、やっつけるべき敵を トンボと設定して詩を書いたこと、想像に難くない。  次に同じ日中戦争の話。昭和 12 年(1937 年)8 月、

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日本海軍は中国大陸へ渡洋爆撃を敢行した。その時の飛 行隊長の入佐俊家少佐は 4 年後に「如何なる敵戦闘機も トンボにすぎなかった」と自慢げに回想した(昭和 16 年 8 月 14 日付読売新聞)。  三番目は大東亜戦争中の昭和 17 年(1942 年)。朝日 新聞の日高特派員は輸送船団警護に当たる血野一大中尉 にインタビューした。中尉は敵戦闘機をトンボに準え、 己の任務を「蜻蛉釣」と呼んでいる(同年 1 月 30 日付 同紙)。  最後は昭和 18 年 12 月のラバウル海空戦を報じた新聞 記事。その見出しは「宛ら蜻蛉叩き落とし。見敵必殺海 鷲の神技」とある(同年 12 月 4 日付朝日新聞)。  日本海軍と陸軍とにかく仲が悪かった。当然、それぞ れが開発を競い合っている航空隊同士もいがみ合ってい たわけだが、海軍軍人は「海の荒鷲、陸のにわとり」と、 陸軍航空隊をバカにしていた。かの山本五十六は陸軍の 東条英機に「ホホウ、君のところの飛行機も飛んだか。 それはえらい」と愚弄したこともあったと言う(阿川 1973)。ならば、「俺たちは鷲だ!」と自負する海軍関係 者が、ワシよりはずっと弱いトンボを叩き潰す敵に想定 したのもわかる気がする。  筆者は「『銀蜻蜓』(ギンヤンマ)や『羽黒蜻蛉』(ハ グロトンボ)などの勇名を戦闘機に与えてやれば、日本 はアメリカに勝てたのに」との戯言を述べたことがある (保科 2016b)。しかし、上記のような風潮を鑑みると、 トンボの名を持つ戦闘機が生まれなかったのは当然なの かもしれない。 X. 景気回復の期待を背負うトンボ  平成令和の現代も人は景気に無関心でおれない。大正 12 年(1923 年)の関東大震災以降、度重なる経済恐慌 に苦しんだ昭和戦前期の日本人なら猶更だ。当時、不景 気になるとトンボをあしらった着物が流行する、との新 聞記事がある。昭和恐慌真っ只中の昭和 5 年(1930 年)、 歌舞伎座に来る見物人の 3 割がトンボ模様の着物を着て いたと言う(昭和5年 8 月 22 日付読売)。また、昭和 12 年(1937 年)盧溝橋事件が勃発し日中戦争に突入し た日本は、慢性的な経済不況に陥った。翌昭和 13 年、 デパート関係者は記者の取材に対して「不景気になると トンボ模様の着物が流行る」と答えている(昭和 13 年 11 月 2 日付東京朝日)。どうやら人々は勝ち虫との異名 をとるトンボに景気回復の願いを託したらしい。 XI. 季節の風物詩としてのトンボ  俳句の世界では「蜻蛉」は夏ないしは秋の季語である (中尾 2001;今村 2004)。我々に最も馴染み深いトンボ の 1 種であるシオカラトンボは、生物学的には春から秋 まで成虫が見られるのにもかかわらず(石田ら 1988)、 なぜか夏の風物詩とされがちだ。筆者はシオカラトンボ が世間では夏限定の虫と認識されている不可解さについ ては、過去に指摘したことがある(保科 2018a)。  近代日本人もまたトンボは夏の虫、ただしアカトンボ は秋の虫と見なしていた。明治 25 年(1892 年)、読売 新聞は「下谷、浅草、本所、深川等の場末ハ一昨日より ムギワラ蜻蛉が出初めたり」と報じた(同年 5 月 30 日 付同紙)。明治時代、シオカラトンボの成虫の出現は夏 到来を告げるものだったのである。  アカトンボの大群飛もまた人々に強い印象を与えてい た。明治 28 年(1895 年)晩夏、東京の日本橋区蛎殻町 に雲霞の如きトンボの 2 つの大群が二方向から出現した。 この風景を読売新聞は「蜻蛉の合戦」と称した(同年 8 月 30 日付同紙)。当時の人々にとってこの規模の大群は 物珍しかったようで、多数の見物客が詰めかけたと言う。 トンボの個体数があまりに多すぎた故か、やや奇異的に 報じた記事もある。明治 42 年晩秋、茨城県結城郡に数 十万頭のアカトンボが集まり、電話電信線に多数止まっ たほか、トンボの羽ばたきの音まで聞こえたそうだ(同 年 11 月 19 日付東京朝日新聞)。明治末の茨城県人には 奇観と思えたらしく、見物人が山の如く集まった。あま りに多くの群衆だったため、駐在所から巡査が派遣され、 非常警戒までしたと言うのだから恐れ入る。現代の昆虫 学の知見から判断しても、11 月も半ばを過ぎた時期に、 アキアカネのとてつもない大群を見ることはあまりない ような気がする。当時の茨城県の人々が大変奇異に感じ て一目見ようと思いついても不思議ではない。  アカトンボが季節の風物詩として記事になるのは現代 も同じである(例えば平成 30 年 10 月 4 日付朝日新聞 (高知県版))。そのような意味では近代日本人も現代日 本人もトンボへの見方はそう変化していないが、明治日 本人のように周辺の住民が大挙してトンボ見物に押し寄

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せた、との話は近年聞かない。  もっとも、現代社会ではトンボの大群を見ること自体 が難しくなっているので、やむなき事かもしれない。近 年、各種農薬の影響でアカトンボ類の減少が指摘されて いる(神宮子 2012)。一方、たった百数十年前の明治 15 年(1882 年)10 月には、東京の南品川の上空を数 万のアカトンボが群飛し、10 分間空が見えぬほどトンボ で埋め尽くされたと言うのだから(同年 10 月 4 日付読 売新聞)、トンボも随分と少なくなったものである。 XII. 新聞記事に現れる近代日本のトンボ保護論  戦後の 70 年代、昆虫採集に対して「虫捕るべからず」 との強い逆風が吹いたことは、高齢の虫屋の方々の記憶 に残っているだろう(例えば、青柳 1975)。近代日本に 昆虫採集に批判的な見解は既に存在していた。昭和 9 年 (1934 年)、北里研究所の宮島幹之助は、日本住血吸虫 の中間宿主ミヤイリガイの天敵と目されていたホタルの 乱獲を強く非難した(保科 2018b)。宮島の主張は現在 の生物多様性の保全云々との考えではなく、「人にとっ て有用な昆虫をむやみに捕るな」との益虫保護論である。 戦前期、同様の指摘はトンボに対しても見られた。例え ば、昭和 16 年(1941 年)の読売新聞に「トンボは蚊や 害虫を食べてくれる益虫である。夏の市中にはトンボ捕 りの少年たちが多くみられるが、親御さんや国民学校の 先生は子供がトンボを捕らぬよう指導すべきだ」との投 書が載った(同年 7 月 26 日付同紙)。  戦後の開発成長時代が終了した 90 年代以降から現在 までの昆虫採集否定論は「益虫だから捕るな」ではなく、 動物愛護思想に基づくものも少なくない(例えば、藤原 1990)。しかし、大正時代の時点で「虫が可愛そうだか ら虫捕りをするな」との発想は生まれていた.大正 11 年(1922 年)、小石川の淑徳高等女学校では有志が「慈 愛の會」を結成し、東京全市の小学校にセミやトンボを 捕らないように、との宣伝活動を開始した(同年 6 月 20 日付読売新聞)。彼女らの論理では確かに昆虫保護と の目的も指摘されているが、前面に押し出されたのは、 組織名が示す通り慈愛の精神である。大正 11 年 6 月と 言えば、シベリア出兵の最中だ。また、大正 9 年(1920 年)ニコラエフスクで赤軍パルチザンによる多数の日本 人居留民が虐殺された尼港事件の衝撃が収まらぬ時期で もある。そのような時代の風潮を受けてであろうか、「慈 愛の會」はセミやトンボの羽や足をむしる遊びを「まる でパルチザンの行為」とまで喝破している.なお,『淑 徳五十年史』には同校が設立した各種の会名が記されて いるが、「慈愛の會」の名は見当たらない(淑徳高等女 学校編 1942)。筆者の憶測ながら、「慈愛の會」はあま りに言動が過激であったためキワモノ視されたのか、あ るいはあくまで有志による活動であり、同校が正式に認 可した団体とはされていなかったから、学校の正史には 記載されなかったと解釈すべきなのだろうか?  大正 11 年(1922 年)には動物愛護の思想から過激に 昆虫採集を批判し、名物男と呼ばれたお爺さんが出現し た。このお爺さんは新潟県の資産家の内藤某と言い、上 京して農商務省、内務省、首相秘書官に押しかけ、蜻蛉 保護法令を出すようにと陳情した(同年 8 月 3 日付読売 新聞).この当時の農省務大臣の荒井賢太郎は「お爺さ ん本人曰く」、若い頃このお爺さんの生家で筆生をして いたこともあったそうで、そのつてでもって農商務省に 働きかけたと言う。このお爺さんは新聞記者の取材に対 し「自分の陳情に対して農商務省は目下調査中と答えた。 また、内務省は自分の主旨に賛同し、いずれ地方長官に トンボ保護の通牒を発すると約束した」と意気揚々だっ たらしいが、どう考えてもオカシイ。陳情を受けた部署 は「あ~はいはい。確かにトンボは益虫だから大事です よね~」と適当にあしらったのを、お爺さんが勝手に自 己流の解釈をしただけであろう。それにしても、このお 爺さんは天皇家の狩猟にまで矛先を向けている。この上 京時に宮内省に出頭し、かねて内大臣府に請願書を提出 済みだった、宮中における狩猟廃止論をぶちまけた。そ の際、お爺さんは「聖上陛下御不例」とまで述べたそうだ。 本当にここまで強い言葉を使ったのかどうかはわからな いが、仮に新聞記事通りの言葉遣いなら、時代が時代な だけに、かなりの勇気がいったはずである。  淑徳高等女学校の女学校生徒や新潟県の内藤某の活動 が当時の昆虫採集に与えた影響は皆無と言ってよいだろ うが,この時代に既に動物愛護の精神から採集行為への 批判があった,との点は昆虫学史上の一つのトピックで はある.

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XIII. 結論。情緒は感じるが、飼育できないトンボに大き な用はなし?現代に受け継がれた近代日本人のトンボ観  本稿冒頭で「現代日本人はトンボに好意的」と述べた。 明治大正・昭和戦前期の新聞記事を見ても、近代日本人 のトンボ観は現代人のそれと大きく異なるようには思え ない。軍事関連記事では「トンボの如きヘボの敵」との 見方はあるものの、季節の風物詩としてのトンボ、勝利 の象徴であるトンボ、企業名に用いられるトンボなどな ど、先人たちは確かにトンボに親しみを感じていた。  とは言え、筆者は近代日本人のトンボ観にどこか物足 りなさを感じるのも事実だ。近代日本人は郷愁の心情を 増幅させる鳴く虫やホタルを愛する一方で、カブトムシ やクワガタムシのいわゆる “ カッコいい ” 虫に対しては 深い関心を持たなかった(保科 2019b, 2019c)。多少生 活に余裕があった近代日本人は鳴く虫とホタルに加え、 カジカガエルも盛んに飼った。特にカジカガエルについ ては、現在の貨幣価値で数十万円もの高値が付けられる 個体も存在した(保科 2019a, 2019e)。そのためか、特 に鳴く虫とホタルは多くの新聞記事に取り上げられてい るし、カジカガエルはこの両者よりもはるかに少ないと はいえ、トンボよりは高い頻度で記事中に登場している。  明治大正期の先人たちは昆虫に情緒を求めたわけだ が、その反面、家庭内での昆虫飼育に強くこだわったこ とも忘れてはならない。その意味では、近代期の新聞記 事を通して見れば、同時代の日本人がどこかトンボに関 心が薄げに感じられるのも首肯できる。言うまでもなく、 トンボは飼育に不向きな昆虫だからである。近代期のト ンボ関連記事は鳴く虫、ホタル、カジカガエルと比較す ると、質量ともに絶対的に劣る。この点は季節の風物詩 として親しまれながらも、近代新聞の記事になった件数 では決して多くなかったセミと相通じるものがある(保 科 2019d)。  もっとも、近代日本人がトンボやセミに冷淡気味に見 えがちなのは、あくまで相対的なものだ。近代先人があ まりに鳴く虫やホタルに熱中しすぎたが故に、トンボや セミの優先順位が単に下であっただけの話である。明治 時代末にはトンボ大群の見物に多数の人が押し寄せ、警 察官が交通整理にあたるなどと、現代ではあまり考えら れない事態も発生した(XI 章参照)。現代日本人は近代 の先人たちの好意的なトンボ観をほぼそのまま受け継い でいるのである。 (注 1)昭和 15 年(1940 年)、東京朝日新聞と大阪朝日 新聞は題号を統一し、現在の朝日新聞となっている(朝 日新聞百年史編集委員会編 1991)。 引用文献 阿川弘之 (1973) 山本五十六(上). 410 pp. 新潮文庫、 東京 . 青柳昌宏 (1975) 自然保護教育の歴史と現状、今後の課 題 . 日本生物教育学会研究紀要 : 1–32. 朝日新聞百年史編集委員会編 (1991) 朝日新聞社史 . 大 正・昭和戦前編 . 659 pp. 朝日新聞社、東京、北九州、 大阪、名古屋 . 藤原英司 (1990) 死に絶える動物たち . 63 pp. JICC 出版 局、東京 . 福井市立郷土歴史博物館編 (2013) 甲冑の美 . 84 pp. 福 井市立郷土歴史博物館、福井 . 二橋亮 (2014) 漢方薬にもなっていたアカトンボの赤色 の正体 . ファルマシア , 50: 1086–1090. 橋本麻里 (2013) 変わり兜 . 戦国の COOL DESIGN. 125 pp. 新潮社、東京 . 堀本柵 (1894) 帝国軍人名誉列伝 . 222 pp. 東雲堂、東京 . 保科英人 (2014a) アカトンボが登場するフィクション作 品あれこれ . Pterobosca, (19B): 72–73. 保科英人 (2014b) アキバ系文化蜻蛉学事始. Pterobosca, (20A): 10–12. 保科英人 (2014c) お雇い外国人グリフィスが描いたお伽 話の中の日本の甲虫たち . さやばね , (13): 26–34. 保科英人 (2014d) 戦前の新聞に見る昆虫漫画 . 日本海地 域の自然と環境 , (21): 107–117. 保科英人 (2016a) 近年の世相に見る日本人のトンボ観 . Pterobosca, (21B): 50–51. 保科英人 (2016b) 近代海軍における日米両国の昆虫観の 比較 . きべりはむし , 39 (1): 36–37. 保科英人 (2017) 鳴く蟲の近代文化昆蟲學 . 日本海地域 の自然と環境 , (24): 75–100. 保科英人 (2018a) 明治百五拾年 . アキバ系文化蝶類学 . 環境考古学と富士山 , (2): 46–73. 保科英人 (2018b) 明治百五拾年 . 近代日本ホタル売買・

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