一九二〇年代広東における宗族の自己改革論
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五邑地域の族刊雑誌からみる
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宮
内
肇
はじめに
中国東南部の地域社会における歴史的特質として、 宗族結合の強さがあげられる ① 。同地域社会では明朝後期以降、 父系出自を統制し祖先祭祀を行う祠堂 ︵祖廟 ・宗祠︶ の建設 、同族族人を記録し子孫へ伝承する族譜 ︵家譜︶ の編纂 、 族人子弟の教育や救済を目的とした族産 ︵共有財︶ の管理を通じて、 同族を維持発展させる血縁集団である宗族結合 を基盤とした郷村構造が形成された。そして、宗族の代表者は地域エリートとして ② 、地域社会の慈善活動や地方行 政の一端を担ってきた ③ 。清朝末期から一九二〇年代初頭にかけての政治制度の近代化政策、とりわけ地方自治の導 入の際にも、宗族はみずから自治団体を組織したり ④ 、宗族単位で地方議会へ議員を送り込んだりするなどの様相が 見られた ⑤ 。 しかし、こうした様相を伝統的な宗族形態の近代における持続性としてとらえるのは尚早である。近代中国の宗 族研究によれば、 清朝中期からの人口増加により土地所有が細分化され、 貧窮した族人は宗族活動に消極的になり ⑥ 、 族人関係が疎遠化し父系出自の統制が希薄化していったという ⑦ 。そうした背景のもと、黄海妍氏は、広東省では宗 族結合が同姓不宗︵開基祖を同じくしない同姓︶の社会団体へと変質する傾向を指摘する ⑧ 。また、清朝末期以降の立命館東洋史學 第 39 號 革命論や国民統合の議論の中で、宗族は伝統的・封建的として批判の対象となったことも宗族衰退の要因といわれ る ⑨ 。 こうした清末民初期の宗族の状況をふまえると、新たな問題が生じる。それは宗族の変質あるいは衰退を宗族自 身がどのようにとらえ、何を主張していたのかという問題である。とくに、宗族結合の変質は宗族が望んだことな のか、さらには国民統合の思潮に対し、宗族はみずからと社会や国家との関係をいかに考えていたのかを考察する 必要がある。すなわち、宗族内部からの視点である。それにより伝統的な宗族の、近代における動態性を明らかに することが可能となり、ひいては中国東南地域社会の特質をさらに解明することに資すると考える。 さて、一九二〇年代半ばの珠江デルタ西部の五邑地域では、狭隘な血縁関係を超えて地域社会の同宗を結びつけ る宗族が、陸続と族刊雑誌を創刊し ⑩ 、そこで同族に向けた宗族のあり方についての議論が展開された。族刊雑誌と は、海外を含む遠隔地に居住する同宗同族に対し、族人および郷里の情報を提供した雑誌であり、華僑を多く輩出 していた五邑地域において多数刊行された ︵次章にて詳述︶ 。ならば、 族刊雑誌は宗族自身が理想とする宗族のあるべ き姿を論じていたのではないだろうか。そこで、本稿では族刊雑誌の宗族に関する論説の分析を通じて、一九二〇 年代の広東宗族のあり方を考えたい。具体的には、 ﹃風采月刊﹄ ︵台山県余姓が一九二五年に創刊︶ ・﹃李族月鏡﹄ ︵台山県李 姓が一九二二年に創刊︶ ・﹃黄氏月報﹄ ︵台山県黄姓が一九二六年に創刊︶ ・﹃教倫月報﹄ ︵開平県司徒が一九二四年に創刊︶ の四誌 をとりあげる ⑪ 。そして、第一章において五邑地域の特質と族刊雑誌創刊の背景およびその構成を論じ、第二章・第 三章でいくつかの論説をとりあげ、当時の五邑地域の宗族内部において求められた宗族の姿を考察する。
第一章
五邑地域と族刊雑誌
第一節 宗族を基盤とした華僑母村 本章では、五邑地域の歴史的背景および地域的特質を述べるとともに、族刊雑誌の創刊背景と族刊雑誌の構成に ついて考察する。 五邑地域とは、珠江デルタの西部に位置し、東より新会 ・ 鶴 山 ・ 台 山 ︵新寧︶ ⑫ ・ 開 平 ・ 恩平の五県を含む約一万平 方キロメートルの地域を指す ⑬ 。同地域の中央部には、西から東へ潭江が流れ、その流域の西側より恩平県城・開平 県城・新会県城が位置するが、その流域以外は丘陵地帯が広がる。 ﹁はじめに﹂で述べたように、 中国東南地域における宗族結合の発達はしばしば言及されるが、 その中でも五邑地 域は、珠江デルタと並んで大規模な宗族結合が形成された地域であり、その多くの宗族は、宋代の祖先を開基祖と するものが多いとされる ⑭ 。そして、明清期を通じて規模を拡大させていった有力宗族は、清朝後期になると地域の 徴税代行を務めたり、地域社会の防衛を担ったりするようになる。例えば、清朝末期の自治風潮において、新寧県 の地方自治の啓蒙活動を担った余乾耀は、 県内の荻海墟 ︵現開平市三埠街︶ およびその周辺に居住する有力宗族である 余姓出身の地域エリートであった。また、 一九〇九 ︵宣統元︶ 年八月、 同県では地方自治の人材育成を目的とした新 寧自治研究所が設立されるが、その指導者の多くは各宗族団体より推薦された紳士であったという ⑮ 。 宋代に五邑地域へ入植し、明清期に耕地開発や商業活動を通じて宗族結合を拡大した彼らは、みずからを﹁本地 人﹂と称するが、清朝中期、とくに康熙帝による遷界令の解除以降、広東省北部および江西・福建両省からこの地立命館東洋史學 第 39 號 域へ、新たな移住者が現れる。本地人は彼らを﹁客家﹂と称し忌み嫌った。その後、十九世紀半ばからの人口増加 にともなう耕地不足もあいまって、 一八五四 ︵咸豊四︶ 年以降、 五邑地域では本地人と客家との械闘が多発する。こ の土客械闘は ⑯ 、 一八六八 ︵同治七︶ 年に、 客家の居住地域として新寧県の東南部に直隷赤渓庁が設置されたことによ り収束するが ⑰ 、それまでの長期間の械闘は、耕地や市鎮の荒廃をもたらし、五邑地域は深刻な食糧難と経済不況に 直面する。そして、同地域はその解決策として海外への出稼ぎ移民を送出していく ⑱ 。その移民先は主に北米大陸で あった 。とりわけ 、十九世紀半ばのカリフォルニアとブリティッシュ ・コロンビアにおけるゴールドラッシュと 、 同時期に建設が始まったふたつの鉄道敷設 ︵大陸横断鉄道およびカナダ太平洋鉄道︶ は、五邑地域から多くの出稼ぎ移民 を出す契機となった ⑲ 。また 、一八六〇 ︵咸豊十︶ 年に清朝が英仏と締結した ﹁北京条約﹂ 、その六年後にアメリカと 締結した ﹁中美天津条約続増条約﹂ により、 アメリカへの合法的出稼ぎが可能になったことも移民送出の誘因となっ た ⑳ 。出稼ぎの数は増加の一途をたどり、 一八八二 ︵光緒八︶ 年の中国人排斥法の施行以後も、 密航などの手段により その数は増え続けた 。一八五〇年代から八〇年代末までのサンフランシスコの華人人口は、その半数以上が五邑出 身者であったという 。このようにして、五邑地域の社会は宗族結合を基盤とした華僑母村、すなわち僑郷の特徴を 帯びるようになる。 二十世紀に入ると、 五邑地域は華僑からの送金によって経済不況からの復興をとげていく。例えば、 一九〇六 ︵光 緒三十二︶ 年から建設が始まり一九二〇年に全線開通した新寧鉄道は、 台山県の経済復興の起爆剤となった。鉄道の 開通により五邑最大の港である江門鎮よりさまざまな物資が県内へ搬入され、 それらを取り扱う商業地が復興した 。 そして、一九二〇年代後半期の台山県城は﹁小広州﹂と称されるまでに成長する 。華僑送金はこうした郷里への諸 事業に対してだけでなく 、郷里の同族に対しても行われた 。前述の荻海余姓では 、同族華僑からの送金により
一九一五年に祠堂﹁風采堂﹂を建設し 、一九二〇年には同族経営の宏済医院を設立している 。また、郷村では同族 からの送金により、郷村防衛の物見櫓である 碉 楼が建設された。開平県では、清朝末期から民国十年代の間に一千 余の 碉 楼が建設されたという 。 このように、一九二〇年代の五邑地域は、宗族結合を基盤とした僑郷として、華僑送金により豊かな地域社会が 形成されたのである。一方で、 多くの 碉 楼が建設されたことは、 その豊かさが軍閥の徴発や匪賊の強奪の対象であっ たことを示唆していよう。 第二節 族刊雑誌創刊の背景とその特徴 一九二〇年代の五邑地域は、華僑送金によって豊かな地域社会を実現していくが、族刊雑誌はこうした時期に陸 続と創刊されていった。海外華人に郷里の情報を提供する僑刊雑誌は 、同地域においては海外移民が生れた清朝末 期から存在したが、宗族を発行母体とする族刊雑誌は、一九二〇年代と一九三〇年代の創刊が多いという 。本稿が とりあげる四誌も﹁はじめに﹂において述べたように、二十年代前半期に創刊している。族刊雑誌は、僑郷におい て民間により編集・発行される刊行物であり、香港・澳門を含む海外に居住する同族に対し、同族あるいは郷里の 情報を提供することが主たる目的であるとされる 。例えば、 ﹃風采月刊﹄の販売代理所は、 中国国内では十ヶ所 ︵台 山県内に五ヶ所、新会県江門鎮に二ヶ所、広州 ・ 香 港 ・ 澳門に各一ヶ所︶ であるのに対し、海外ではアメリカ ・ カナダ ・ キュー バの各地に計三十二ヶ所もあった。そして、 その販売代理所のほぼ全てが余姓経営の商店 ︵そのほとんどが銀号︶ ある いはその同族団体であった 。また、 ﹃李族月鏡﹄第三年第十一期には雑誌発行のための同族寄付者の一覧が掲載され ているが、その送金元はメキシコシティ・キューバ・バンクーバー・モントリオール・サクラメント・シカゴなど
立命館東洋史學 第 39 號 の同族からであった 。これらのことからも族刊雑誌の主たる読者が同族であったことが推知できよう。 では、 いかなる人物が族刊雑誌を創刊したのであろうか。 ﹃風采月刊﹄は一九二五年一月に台山県内の荻海墟およ び周辺の郷村に居住する余姓族人二一六名が発起人となって創刊された。風采とは、北宋の名臣余靖の治績を形容 した名称で、余靖を始祖とする広東各地の余姓の堂号である 。同雑誌創刊の発起人の経歴を見ると、高等学校卒業 生 ・留学帰国生 ・商人 ・教員 ・慈善家 ︵県内の道路 ・病院建設に尽力︶ が多く 、地域社会において一定の影響力を持つ 地域エリートと呼ぶべき人物が多い 。例えば 、風采月刊社正社長の余友 䐿 は 、一八九九 ︵光緒二十五︶ 年に秀才 、 一九〇九 ︵宣統元︶ 年に抜貢となり、 上述の余姓祠堂を建設する一方、 一九二一年には明治大学へ留学し、 帰国後は 広東省財政庁や広州の嶺南大学に奉職している。同副社長の余懐徳はミシガン州立大学で﹁工程修士﹂を取得した 後に帰国し、台山県署の総工程師として働いていた 。他にも、当時の台山県長の県政を批判し、県長の解任運動を 展開した余梅生や 、他姓との械闘の際に余姓の代表として調停に当たった余梅庵といった 、荻海余姓の指導的立場 にあった人物が同雑誌の創刊に関わっていた。また、 ﹃李族月鏡﹄の創刊者の一人である李月垣も一九二五年七月に 組織された台山自治籌辦処の一員として活躍する一方で 、一九二八年には県城に李氏大宗祠を建設し、族人教育に 尽力した人物であった 。 次に、 雑誌の構成について、 ﹃風采月刊﹄を例に見ていく。同雑誌の紙面は、 ﹁論著﹂ ︵後に﹁言論﹂と改称︶ ・﹁族聞﹂ ・ ﹁邑聞﹂ ・﹁要聞﹂ ・﹁宗先事略﹂ ・﹁函牘﹂ ・﹁学校成績﹂ ・﹁広告﹂から構成されている。 ﹁論著﹂では宗族のあり方や郷 里の近代化に関する論説が多い ︵次章にて詳論︶ 。﹁族聞﹂では族人の功績や出世 ・栄達などが紹介され 、それを含め た郷里の情報は﹁邑聞﹂に掲載される。 ﹁要聞﹂では広東省政府 ・ 台山県署からの公文、あるいは国内外の重要な情 報が報道される。 ﹁宗先事略﹂では余姓の先祖や各房宗の言行について、 その多くが族譜から転載され、 族人からの
手紙や同族に関する会議の告知 ・ 報告は﹁函牘﹂に掲載されている。 ﹁学校成績﹂では同族学生の優秀作文が掲載さ れ、 ﹁広告﹂のほとんどは同族が経営する銀号のものである。他の雑誌の構成も名称こそ異なるが、 その紙面の分類 と内容は﹃風采月刊﹄とほぼ同様である 。 以上、 本章での考察をまとめると、 五邑地域では咸豊 ・ 同治年間の社会混乱によりアメリカ大陸へ出稼ぎに向かっ た華僑が、光緒末期頃から同族あるいは郷里に対して送金をするようになる。それとともに同族・郷里の情報を求 めるようになり、族刊雑誌が創刊されたのである。こうした背景のもとで誕生した族刊雑誌は、出資者を含む作り 手および読み手が、すべて同族によって構成されるという特異性を有することになった。
第二章
族刊雑誌における宗族改革論
第一節 宗族に対する批判風潮 前章では、族刊雑誌が宗族結合の枠組みの中で、郷里の同族と移民先の同族とを結び付けるものであったことを 論じた。ならば、族刊雑誌に掲載された宗族のあり方に関する論説には、宗族自身が考える宗族のあるべき姿が語 られているのではないか。そこで、 本章および次章では、 この仮説に基づき、 族刊雑誌における宗族論を考察する。 本稿がとりあげる四誌の族刊雑誌のうち、一九二〇年代に発行されたものには、二十三篇の論説が掲載されている が、その約半数の十二篇が宗族のあり方に言及するものであった 。論説の約半数が宗族に関する内容であったこと は、族刊雑誌がいかに宗族結合を重要な問題として考えていたかを示していよう。では、族刊雑誌はなぜこの問題立命館東洋史學 第 39 號 を考えなければならなかったのか。本節では一九二〇年代半ばの五邑地域社会において宗族が置かれていた情況を 考察する。 清朝末期以来の革命運動および一九二〇年代直前からの新文化の思潮の中で、とりわけ宗族結合の強固な広東地 域では、宗族は伝統的・封建的として批判された。革命論においては、家長・族長の権限の強さが西洋近代の言論 権・信仰権・婚姻権・財産権といった個人の権利や自由を制限しているとして、宗族を批判の対象とした 。あるい は、宗族から﹁民族﹂への意識改革の必要性や、宗族単位の郷村社会から行政区画に基づく自治への転換の必要性 など、国民の創成と近代国家建設の過程において、宗族は不都合なものとしてとらえられた 。他方、新文化思潮の 宗族批判では、儒教における尊卑貴賤の不平等の原則が共和政治確立の弊害となっており、宗族の孝悌を﹁和﹂に 代えることで家族の平等が実現するといった呉虞の議論が代表的である 。しかし、広東省内においては、さらに直 接的に宗族を批判する議論が散見される 。例えば 、嶺南大学の学生紀要では 、個性や自立性を発展させるために 、 宗族結合 ︵原文は ﹁家族制度﹂ ︶ は不要なものであり 、父兄が子弟に財産を相続することは 、 私心への偏重を促すこと になり公共心の育成に適さないとする。また、 子弟が同族の遺産 ︵族産︶ を享受することを当然の権利とすることで、 子弟の自立心が欠如し、その生活は堕落していくのみであると論じる 。 宗族が伝統的・封建的なものとして批判の対象となっていた一方で、宗族内部においても、社会から批判される ような事象が頻発していた。そのひとつが宗族対立ないしは族内対立による械闘である 。﹃風采月刊﹄ を発行してい た荻海余姓は、一九二八年前後、近隣に居住する開平県の秘洞譚姓と潭江の渡し場をめぐる争いから械闘を繰り返 しており、 治安維持の軍隊によって鎮圧される事態を招いていた 。鎮圧に当たった広東省西区善後委員の陳済棠は、 この宗族対立に関して、彼らの脳には封建的な思想観念が深く刻み込まれており、彼らを革命的な民衆へ導かなけ
ればならないと発言をしている 。また、同時期の新聞では、宗族結合は地域発展の障害であり、地域の治安維持を 阻害するものとして批判される 。北伐をほぼ完成させ国民統合を進めつつあった国民党政権にとって、地域社会の 混乱要因のひとつであった宗族・同族間の械闘は無視できない問題であった。 さらに、五邑地域の宗族社会では、僑郷ならではの問題を抱えていた。姚 䆾 氏によれば 、華僑送金により経済的 余裕ができた族弟が、 茶館や阿片窟、 賭館に入りびたり家産を散財するといった社会問題が顕在化していたという。 台山県の男性は婚姻後に、 妻の妊娠を見届けてから海外へ渡航 ︵あるいは婚姻のために一時帰国し、 妻の妊娠後に再渡航︶ す る習慣があり、多くの家庭では妻が﹁生寡婦﹂ ︵長期間、寡婦同然の生活を送る妻︶ として家庭を維持しなければならな かった。また、男性の中には出稼ぎ先で家庭を持つ者も少なくなく、そうした特異な家庭環境が家庭倫理の危機を 醸成した 。加えて、海外からの送金は主に家族間で行われるものであり、その結果、個人所有の意識が強くなった ことも宗族結合の意識が希薄化する要因となった。 このように、一九二〇年代半ばの五邑地域における宗族は、宗族批判の社会風潮、地域社会における宗族・同族 間の対立、さらには僑郷という環境がもたらす家族倫理の危機といった要因により、宗族結合の存続を脅かす状況 が存在した。だからこそ、族刊雑誌において宗族のあり方についての数多くの議論が展開されたのではないだろう か。 第二節 宗族結合の意識改革 前節で述べた族刊雑誌における十二篇には、宗族の現状をいかに改革するのかといったものが少なくない。そこ で、本節ではいくつかの論説をとりあげ、宗族の現状認識と自己改革論について考える。
立命館東洋史學 第 39 號 まず、 ﹃風采月刊﹄の総編輯であった余仲山が執筆した﹁改造我広義的家庭之商榷﹂をとりあげる。仲山は、 台山 社会が私利を求める風潮はなはだしく、公徳に欠けた﹁悪社会﹂であるとし、その結果、人々は自己と最も密接な 関係にある﹁狭義の家庭﹂を重視するが、 ﹁広義の家庭 ︵宗族︶ ﹂が直面している離散や粗放、 衰退については往々に して無関心であるとする。さらに、仲山は新文化を主張する者が個人と社会とを直接的に結びつけて、狭義の家庭 の打破を主張し、広義の家庭については存在の必要すらないという風潮をとりあげ、宗族が存続の危機にあること を述べる。その上で彼は、宗族改革の必要性を主張するが、その際に、宗族改革とは固有の習慣をことごとく排除 することではなく、その不良な部分を取り除き、良い部分はさらに良くしていくことが重要であるとし、五点の改 革案を提示する。 第一点は長幼の本分をわきまえることである。論説では昨今の平等や自由を主張する風潮により、家長や年長の 族人に対する尊敬が著しく蔑まれているとする。そして、父兄は族産を管理し郷村内の係争を解決するだけの存在 ではなく、社会の治安維持と同族子弟への教育を行い、同族共有の幸福と利益をはかり、徳のある父兄となること が最重要であると述べ、父兄の地位とは先導的かつ主導的な存在であり、子弟はそれに対して協力的かつ服従的な 存在であることを強調する。第二点は、新旧知識の融和を説く。多少の例外はあるものの、老成者は新思想の受容 に消極的で、その豊かな経験から保守的になるため、新思想の理解者が勇敢に地域社会の事務や改革を進めようと しても、それが進展しない現状を提示する。その上で新旧の知識を融合し、社会を進化させなければならないと主 張する。注目すべきは、その際に、我々は﹁劣勢に甘んじて他の宗族の笑われ者﹂になってはならないと論じてい ることである。そのためには宗族の団結が重要であるとし、第三点として強房・弱房の意識を排除し、さらに第四 点として族内の貧富格差の解消をあげ、 加えて大きな宗族の紐帯の必要性を第五点としている。そして、 ﹁家 ︵家庭︶
は国家の根幹であり、家が宗族をなし、宗族を集めて国家とすべきであり、我々は今日その宗族を愛することから 国家を愛することへと推し広めていかなければならない﹂と結ぶ 。 このように 、余仲山の議論は 、宗族批判の現状を受けて 、長幼の本分を基本としつつ 、その長幼 ︵経験豊富な老成 者と新思想の理解者である若年者︶ が協力をして宗族の団結をはかることで近代化を促進し、さらには国家 ・ 国民統合を も意識させるものであった。しかし、そこには異なる意識も看取できる。結語の一節は、一九二四年の上半期に孫 文がおこなった三民主義演説の﹁民族主義﹂を意識したものであろうが、 その一方で、 ﹁他の宗族の笑われ者﹂のく だりからは、他の宗族への対抗意識が読み取れ、宗族主義的な意識が民族意識・国家統合に優先される可能性を考 慮しなければならないだろう。 そこで次に、宗族意識が民族意識に優先されるのかついて、 ﹃李族月鏡﹄の論説﹁吾人不可無正確愛家族的観念﹂ から見ていく。同論説は、台山李姓が県内の大姓であるにも関わらず、族人はその意識に欠けており、公益・慈善 活動あるいは近代化事業において、 ﹁他姓の先に立つことが出来なくとも、決して他姓の後塵を拝してはならない﹂ とした上で、ならば、みずからの宗族はどうあるべきかを論じる。 まず、今日の台山の現状として、自治や学校の設置といった近代化 ︵原文は﹁一種刷新的気象﹂ ︶ が生れつつあるが、 こうした動きは宗族 ︵原文は﹁大家族﹂ ︶ を単位として展開されていると述べる。大姓は独自に、中小の宗族は相互に 協力して自治会や月刊雑誌 、学会や学校を組織していることを例証する 。その結果 、近代化事業は宗族間の競争 、 すなわち械闘として現れるが、誰もがみずからの宗族の偉大さを求めるのは、優勝劣敗・弱肉強食の道理として当 然のことであり 、こうした械闘は 、いずれは強い宗族によって淘汰される 。だからこそ 、宗族主義 ︵原文は ﹁家族主 義﹂ ︶ をますます主張しなければならないとする。次に、しかしながら、台山李姓は公共機関の機能を有する合族祠
立命館東洋史學 第 39 號 や郷村の近代化が遅々として進まず 、﹃李族月鏡﹄の販売数の減少 、族校の校務が拡充していないなどの現況をあ げ、その理由として﹁族人の宗族を愛する観念が薄弱であり﹂ 、﹁何ひとつとして族人が責任を持たず﹂ 、﹁宗族に対 して冷めた態度である﹂ことなどをあげる。そして、結論として、宗族の団結こそが外敵に対抗し、内訌を解決す る有効な方法であり 、族人の宗族に対する真摯な思慕こそが平和な幸福に結実すると主張する 。同論説の主旨は 、 みずからの宗族の団結にあり、 その勢力が他姓に劣ることは許されないというものであり、 強い宗族意識を主張し、 孫文の﹁民族主義﹂とは相反する方向性を有していたことが伺えよう。 以上のように、族刊雑誌における宗族論は、宗族批判の社会風潮と家族倫理の危機に対して、新たな ︵あるいは更 なる︶ 宗族の団結によって、 その批判や危機を克服すべきであるという主張であった。その際には、 他の宗族よりも 強固な宗族結合が意識された。そこには、械闘を起こす民衆は、民族が亡びては宗族さえも存在できないことを知 ることで各宗族の並存・結合が可能になるとした孫文の﹁民族主義﹂ 意識は希薄であった。
第三章
社会の中における宗族
第一節 中国人としての族人 前章では、族刊雑誌における二篇の論説から、自己の宗族の団結と存続とが第一義的であったことを論じた。そ の主張の先には 、これまでの地域社会における自己の宗族の影響力を保持することが目的であったと想定される 。 従前、広東における大姓宗族は族譜や祠堂において科挙及第者を顕彰してきた。それは科挙及第による同族と官界とのつながりが、名誉や特権あるいはそれにともなう富を同族にもたらし、その宗族は地域社会における影響力を 維持拡大できたからである 。 では、一九二〇年代という時代性を考慮した場合、族刊雑誌における自己の宗族団結という主張の先には、地域 社会を超えた国家や国民といった意識はなかったのであろうか。余仲山が論説中で三民主義に言及している点を閑 却すべきではない。また、新文化運動期においては、個人と社会とを直接結びつける際の阻害要因として宗族が批 判された。ならば、 自己の宗族の団結を主張するだけでは、 その批判に対する返答とはなりえず、 宗族と一般社会 ・ 国家との関係性についても論じられるべきであろう。本章ではこの点について考察を進める。 まず、 ﹃黄氏月報﹄の論説﹁告黄氏小兄弟﹂をとりあげる。執筆者の黄仲琪は論説の冒頭において、 自身が北京大 学に在学していること 、台山黄姓の同族であること、さらに族人の黄星甫 の依頼を受けて執筆したことの三点を述 べている。すなわち、同論説は族人が族弟に語ることを前提にしている。その上で、族弟が社会においていかに振 る舞い、 いかなる人物になるべきかを論じている。結論として仲琪は、 これからの人間は正々堂々とした人 ︵原文は ﹁堂堂正正的人﹂ ︶ になるべきであると述べるが、そのために必要な三要素として 智 ・ 仁 ・ 勇をあげて解説を進める。智 とは迷信・神権・風水などに惑わされず、科学的知識を習得することであり 、仁とは、父母・兄弟姉妹・親戚朋友 だけでなく 、一切の同胞 ・人類 、さらには生物 ・無生物までを愛する博愛的精神であるとする 。そして 、勇とは 、 世事に関心を持たず、身を清くして世俗に染まらないという従前の中国人の人生観を改め、社会に関心を持ち、自 己の言動に責任を持つことであるとする。加えて、 勇については、 中国人が外国人から侮辱されている現状を述べ、 ﹁外国人が我々を東方の病夫と称して笑うのは、 我々の勇気の無さを笑っているのである。見よ、 勇とはいかに大切 なことであるかがわかるであろう﹂と結ぶ 。
立命館東洋史學 第 39 號 仲琪が論じたのは、科学的知識および社会的道徳としての博愛精神であり、さらに社会的責任を負う正々堂々と したひとりの﹁中国人﹂の姿であり、社会における個人の問題であった。彼が北京大学で学んでいたことをふまえ れば、この論説の背景には新文化の影響を看取できよう。しかし、仲琪が冒頭において族人として語ると述べてい ること、また、読者が同族であるという性質を持つ族刊雑誌において、同論説が掲載されたことを考慮すると、こ こでの中国人とは﹁中国人としての族人﹂と読み解くことも可能である。だとするならば、本論説からは宗族が地 域社会を越えた社会、あるいは国家に存在するという自己意識をも持ち合わせていたことを見出せないだろうか。 この点をさらに明確にするためには、 具体的にどのような族人が理想的な人物であったのかを考える必要がある。 族刊雑誌の﹁族聞﹂欄では族人のさまざまな経歴や事績、あるいはその身上を顕彰する記事が掲載されている。そ こで次に、 ﹃李族月鏡﹄の﹁族聞﹂における族人顕彰の記載から尊敬される人物を考察し、 族刊雑誌における宗族と 社会との関係性を考えたい。 登海地方審判庁・汕頭審判庁の庁官、広東高等審判庁推事を歴任し、汕頭広東銀行を創設しようとした矢先に脳 内出血で死去した李培 䦗 なる人物は、その職務態度が勤勉かつ聡明であり、生活もはなはだ清廉であったと紹介さ れる 。また、一九二四年にカナダより帰郷した李悦崇は、カナダ在住中に国民党の分部長として党務に尽力し、帰 郷後は公益事業に私財を投じ、教育・郷村防備・道路建設に従事したことが郷民より徳行として称賛されたと紹介 される 。李竹銘は教育手法を駆使した優秀な教師であり、尚又、郷里の係争解決に尽力し、郷民から尊敬されたと いう 。 以上三名の特徴として、第一に清廉潔白や大公無私といった人間性が描かれている。李悦崇と李竹銘の郷里の開 発や安寧を思う行動は、黄仲琪が言うところの社会に関心を持ち責任ある行動を実践した事例である。第二に三名
とも判事・党員・教師といった国民党に保障された職業に従事していた共通点があげられる。従来、明清期に編纂 された族譜においても族人の事績が記載されたが、それは科挙及第者が高徳者として皇帝から認められることによ り、 同族が儒教的世界に存在することを称賛するためであった。この点をふまえれば、 ﹃李族月鏡﹄が国民党によっ て保障される職位に就く族人を顕彰することは、自己の宗族が為政者である国民党あるいは国家と結びついている ことを族人に示していたのではないか。このように、族刊雑誌は社会・国家の中に存在する宗族を意識していない わけではなかった。 第二節 社会・国家とつながるための宗族改革 前節では、族刊雑誌が自己の宗族の存続のみを主張したのではなく、社会あるいは国家との関係性をも意識して いたことを論じた。では、宗族が団結し社会と結びつくために、宗族内部では具体的にどのような改革を行ったの であろうか。本節ではこの点について、開平司徒姓の族刊雑誌﹃教倫月報﹄をとりあげて考察する。 一九二七年初頭、開平司徒姓では、ある房内 ︵原文は﹁頭尾房﹂ ︶ が二派に分裂し、対立する問題を抱えていた。こ の対立は同房の阿宏の浩川に対する暴力事件に起因するが、この事件に関して、司徒鉄は論説﹁対于恃強凌弱之感 言﹂の中で、個人の喧嘩が房派分裂にまで至ったのは、この暴力事件を利用した﹁土豪・劣紳﹂の扇動に原因があ ると指摘する。そして、 鉄は房内対立の状況について、 人を憎んで房を憎むべきではないとし ︵原文は﹁不可謂憎鶏連 籠之説﹂ ︶ 、宗族の分裂は他の宗族による軽蔑を招き 、それは同族の生命と財産を害することになると述べる 。また 、 司徒道の﹁族人快些起来革新族務﹂と題する論説では、民族自決は叫ばれる今日において、我々はまず宗族として すべきことを為してこそ ︵原文は ﹁先要従家族里做工作﹂ ︶ 、国際情勢について発言できるのであるが 、現状 、我々の族
立命館東洋史學 第 39 號 務は日々衰微しているとする。そして、 その原因は﹁無用な悪勢力﹂が族務を担当していることにあると主張する 。 司徒炎宋も司徒道と同様に、 ﹁老成者や旧習に固執する族人﹂による族務は、 族閥の専制、 公を掲げた私利の奪取で あり、族閥を追放し、族内から推挙された族人による族務が必要であると論じる 。 以上三篇の論説の主旨は、族務執行の障害となる人物に対する批判であった。その人物とは﹁土豪・劣紳﹂ ・﹁ 無 用な悪勢力﹂ ・﹁老成者や旧習に固執する族人﹂といった一部の族閥であり、彼らは宗族の団結を阻害する利己主義 者として描かれた。そこからは ﹃風采月刊﹄ が論じた新旧の知識の融合による宗族団結ではなく ︵第二章第二節︶ 、﹁新﹂ が﹁旧﹂に代わり族務を担当することを主張しているように看取できるが、司徒鉄が﹁我々は決して一般の老成者 を排除するのではなく、 青年であっても頑迷であれば廃物であり、 ︵排除の対象は︶ 年齢によって判断するものではな いことを理解しておかなければならない﹂と述べるように 、それは、 ﹁ 旧﹂の排除ではなく、 ﹁ 新﹂を族務に参加さ せない一部の族閥の排除であったと解釈すべきである。一方、 ﹁新﹂がいかなる人物であるべきかについては、 三篇 の論説では明記されていないが、各論説中において﹁土豪劣紳を打倒する﹂や﹁家族革命を実行しよう﹂ 、あるい は﹁革命の精神により社会を改良すべし﹂といった標語が散見されることから 、彼らが国民党員であったかは確証 を得ないが、国民党に与する意識を有していたことは想像に難くない。 開平司徒姓では実際に族務改革を実現すべく、一九二六年の下半期に、族人より選出された十四名の委員からな る十三甲族務委員会 ︵以下、 族務委員会︶ を組織する。そして、 翌年一月二日には族務委員だけでは速やかな族事処理 が困難であるとの理由から、族人大会を開催し、各甲一名からなる監察委員を組織する 。族務委員会について、司 徒鉄は委員が族人の意思 ︵原文は﹁公意﹂ ︶ に反することがあれば、 我々族人は委員を糾弾し族務委員会の会章に照ら して処罰することで、一部の族人による横行を防ぐことが可能になると説く 。司徒道は、族人が選出した委員によ
る族務は公開・公平であるとし 、司徒炎宋は、将来は各郷村に委員分会を組織し、分会とその上部組織である族務 委員会とを密接かつ系統的な組織にしなければならないと述べる 。このように、族務委員会は族人の意志を会章に より保障し公平性と公開性が担保された組織であることを目指していた。さらに、彼らが全国統一を成し遂げつつ あった国民党を意識していた ︵あるいは支持していた︶ ことを加味すれば、 族務委員会は国家組織に組み込まれる、 換 言すれば、宗族が国家に統合されることを考慮していたのではなかろうか。 では、 族務委員会は一部の族閥 ︵すなわち利己主義者︶ をいかに排除しようとしたのだろうか。一部の族閥が族務を 独占しようとする主たる目的は、同族の共有財である族産が生む利益の専有であった。そこで、族務委員会は族産 の管理方法を改定することを通じて、彼らの排除を図ろうとした。族務委員会では、族産の管理者である値理を抽 選により決定し任期を一年と定めた。その際、現任の値理は一九二七年一月十四日に族産の決算を行い、翌日に値 理を交替するとの声明を発表した 。ところが 、当日になると ﹁紳耆﹂数十名 ︵すなわち 、一部の族閥︶ が密かに集り 、 族産の利益は各甲で分配すべきであるとか、値理の任期は三年にすべきであるなど、族務委員会の決定を無視した 議論が行われ、結果として、今回は値理を第七甲から出すことを決議した。現場には族務委員もいたが、一部の委 員が大声で罵るのが精一杯であったという 。結局、一部の族閥による族産の専有は解決できず、民意や公開といっ た近代性を備えた﹁新﹂による宗族改革は、一九二七年の時点では失敗に終わったのである。 以上、本章での議論は以下のようにまとめることができる。族刊雑誌は、社会に関心を持ち、責任ある行動をと る族人の姿を示すことにより、社会あるいは国家における族人を意識させようとしていた。そして、そうした族人 から民主的に代表を選出し、公開組織において族務を運営することが、宗族団結に必要であるとした。これを実現 するためには、従来からの一部の族閥による族務の独占を排除する必要があり、そのためには中国人である族人こ
立命館東洋史學 第 39 號 そが族務に参加でき、かつ族務執行組織の国民党政権への統合を暗示することで、組織の正統性を提示した。しか し、それは当時においては容易なことではなかった。
おわりに
本稿では、一九二〇年代前半期広東省の五邑地域で創刊された族刊雑誌における宗族のあり方に関する論説の読 解を通じて、伝統的な宗族の近代における変容を宗族内部からの視点として考察した。ここで、本稿で得られた知 見をまとめておきたい。 作り手と読み手とがともに同族により構成される族刊雑誌で論じられたあるべき宗族の姿には、ふたつの特徴が 看取できた 。ひとつは強固な宗族結合という意識改革であった 。これは革命運動や新文化の思潮による宗族批判 、 宗族間の械闘が国民党から問題視されていたこと、さらには宗族自身の結合の希薄化といった宗族存続の危機を克 服しなければならないことに起因した。実際の社会においても宗族を単位として学校や病院、 自衛組織 ︵ 碉 楼︶ が作 られており、宗族結合は個人の財産 ・ 生命を守る組織として、基層 ・ 地域社会における不可欠かつ自明の存在であっ た。何よりもこれが同族華僑の送金によって成り立っており、よって理論の筋道として他姓よりも、より強固な自 己の宗族団結が強調された。 しかしながら、自己の宗族の存続を独善的に主張するのでなく、宗族批判の中で、社会に適応した宗族形態を企 図したことがもうひとつの特徴であった。すなわち、族刊雑誌は、族人に対して、社会への関心・責任を負う﹁中 国人としての族人﹂を意識させることで、宗族が社会に存在していることを示した。そして、それは一部の利己的な族人を排除し、中国人としての族人による民主的かつ公開された、当時の思潮にも適合する宗族形態に再編する 組織改革であった。前節でとりあげた開平司徒姓の族務委員会は、正統な族人による宗族組織を目指した実践例で あり、委員会が国民党との関係を意識していたことは、宗族が為政者である国民党から問題視されていたことに対 する返答にもなりえた。 国民党による国家・国民統合が進む一九二〇年代にあって、宗族はその存在意義を問われていくことになる。伝 統としての宗族結合を維持しつつ、社会や国家に適応する、あるいは包含されることが、自己の存続に必要である ことを認識し、その団結と変革の方法を模索した。族刊雑誌における宗族のあり方に関する議論は、伝統宗族の近 代における自己改革を象徴するものであった。 註 ① 瀬川昌久﹃中国社会の人類学
︱
親族・家族からの展望﹄世界思想社、二〇〇四年、一二二∼一二四頁。 ② 地域社会における指導者を指す用語として、 王朝体制下では郷紳という用語があるが、 十九世紀以降の社会変化により、 本来の 郷紳概念にとどまらない地域社会の指導者が生れた。これを地域エリートと称する ︵田中比呂志 ﹃近代中国の政治統合と地域社会︱
立憲・地方自治・地域エリート﹄研文出版、二〇一〇年、九十八∼九十九頁︶ 。 ③ 例えば 、西川喜久子氏は順徳羅氏をとりあげ 、宗族結合の維持発展の過程を明らかにしている ︵西川喜久子 ﹁﹃順徳北門羅氏族 譜﹄考︵上・下︶ ﹂﹃北陸史学﹄第三十二 ・ 三十三号、一九八三 ・ 一九八四年︶ 。 ④ David Faure,. Stanford University Press, 2007, p. 341.
⑤ 拙稿﹁民国初年広東的地方自治与郷村精英﹂ ﹃孫中山研究﹄第三輯、 中山大学出版社、 二〇一〇年。同﹁一九二〇年代初頭の広東 郷村社会
︱
宗族からみる陳炯明の地方自治政策︱
﹂﹃史林﹄九六巻四号、二〇一三年。立命館東洋史學 第 39 號 ⑥ 程維栄﹃中国近代宗族制度﹄ ︵北京︶学林出版社、二〇〇八年、二〇七頁。 ⑦ 銭杭﹃血縁与地縁之間 中国歴史上的聯宗与聯宗組織﹄上海社会科学院出版社、二〇〇一年。馮爾康﹃十八世紀以来中国家族的 現代転向﹄上海人民出版社、二〇〇五年。 ⑧ 黄海妍﹃在城市与郷村之間清代以来広州合族祠研究﹄ ︵北京︶生活・読書・新知三聯書店、二〇〇八年。 ⑨ 程維栄前掲書 、一八九∼二二七頁 。袁紅涛 ・ 張穎 ﹁試論 〝五四〟前後対宗族文化的重新審視﹂ ﹃唐都学刊﹄第二十一巻第二期 二〇〇五年。袁紅涛﹁在〝国家〟与〝個人〟之間論二十世紀初的宗族批判﹂ ﹃天府新論﹄二〇〇四年第五期。 ⑩ ここでの地域社会とは、おおむね郷村レベル以上、県レベル以下の地域を指す。 ⑪ 四誌はすべて広東省立中山図書館に所蔵されている。その所蔵状況は以下の通りである。 ﹃風采月刊﹄ 第一年第一期︵一九二五 年︶ ・第六年第一期∼第十二期︵ ﹁邑聞﹂欄のみ、一九三〇年︶ ・第十三年第九期・同年第十期︵一九三六年︶ 、第十六年第二期・同 年第五期 ︵一九四〇年︶ 。﹃李族月鏡﹄ 第三年第十一期 ︵一九二五年︶ ・第八巻 第四期 ︵一九二八年︶ ・第十二巻 第一期 ・同年巻 六 巻 ・第七巻 ︵一九三三年︶ 。﹃黄氏月報﹄ 第一期第八冊 ︵発行年未詳︶ ・第二期第四冊 ︵一九二八年︶ 。﹃教倫月報﹄ 第六巻第一号 ︵︹第五十一期︺一九二七年︶ ・第八十五期︵一九三〇年︶ ・第八十八期︵一九三三年︶ 。 ⑫ 台山県は民初期までは新寧県と称されていたが、湖南・四川・広西の三省にも新寧県が存在したため、一九一四年三月に台山県 と改称された︵ ﹁︵省令︶令各庁県知事遵照部頒現行行政区域一覧表文﹂ ﹃広東公報﹄第五四四号、一九一四年五月十四日︶ 。 ⑬ 五邑地域は現在の行政区画では江門市に相当する。新会は江門市の下部行政単位の﹁区﹂に属し、 その他は県級の﹁市﹂となっ ている。 ⑭ 例えば、開平関姓を分析した Y uen-fong W oon ︵温婉芳︶ , . ︵ Center for Chinese Studies, the University of Michigan, 1984, p . 23. ︶や新会趙姓を分 析した Helen Siu, . ︵ Y ale University Press, 1989, pp. 43-44. ︶も宋代に移住したと論じる。 ⑮ 王伝武﹁清末民初新寧的地方自治及其影響︵一九〇九︱一九一四年︶ ﹂﹃学術研究﹄二〇一三年第十一期、一一八∼一一九頁。
⑯ 土客械闘の専著として、劉平﹃被遺忘的戦争咸豊同治年間広東土客大械闘研究﹄ ︵︹北京︺商務印書館、二〇〇三年︶がある。 ⑰ 直隷赤渓庁の設置過程については 、﹃ ︵民国︶赤渓県志﹄巻八 ﹁赤渓開県事紀附﹂ ︵﹃中国地方志集成 ︵広東府県志輯︶ ﹄第三十五 冊、上海書店・巴蜀書社・江蘇古籍出版社、二〇〇三年、一六〇∼一八八頁︶に詳しい。 ⑱ ﹃︵光緒︶新寧県志﹄巻八﹁輿地略下﹂六葉裏︵同上、二八四頁︶ 。 ⑲ 五邑地域からの移民とゴールドラッシュ ・ 鉄道敷設との関係については、園田節子﹃南北アメリカ華民と近代中国
︱
十九世紀 トランスナショナル・マイグレーション﹄ ︵東京大学出版会、二〇〇九年︶に詳しい。 ⑳ 梅偉強・張国雄﹃五邑華僑華人史﹄広東高等教育出版社、二〇〇一年、三十四∼三十五頁。 具体的な出稼ぎの増加数については、同上書、三十七∼四十四頁を参照。 園田前掲書、一三七∼一三八頁。 新寧鉄道に関しては、劉玉遵・成露西・鄭徳華﹁華僑、新寧鉄路与台山﹂ ︵﹃中山大学学報﹄一九八〇年第四期︶を参照。 司徒尚紀﹃僑郷三楼華僑華人之路的豊碑﹄広東経済出版社、二〇一五年、八十八 ・ 一一二∼一一三頁。 余仲山﹁発刊詞﹂ ﹃風采月刊﹄創刊号、一九二五年一月。 同医院は、 余姓同族の出資によって荻海鎮に設立されたが、 誰もが受診できた︵ ﹁宏済医院辦情形﹂ ﹃風采月刊﹄創刊号、 一九二五 年一月︶ 。 ﹃︵民国︶開平県志﹄巻五﹁輿地略下﹂十一葉表︵ ﹃中国地方志集成︵広東府県志輯︶ ﹄第三十四冊、上海書店・巴蜀書社・江蘇古 籍出版社、二〇〇三年、三〇九頁︶ 。 族刊雑誌とは別に僑刊雑誌と称されるものが存在する 。僑刊雑誌はその発行母体が同族とは限らず 、僑務団体や同郷会である 。 僑刊 ・ 族刊雑誌の定義については、吉原和男﹁僑刊 ・ 郷訊を利用した僑郷研究の可能性︱
広東省開平県の場合︱
﹂︵可児弘明編 ﹃シンポジウム華南︱
華僑 ・ 華人の故郷﹄慶応義塾大学地域研究センター、一九九二年︶ 、梅偉強﹁富有特色的〝集体家書〟 五 邑 的僑刊郷訊﹂ ︵﹃五邑大学学報 ︵社会科学版︶ ﹄ 第一巻第三期、 一九九九年︶ 、周 堃 ﹁論僑刊的地方特色﹂ ︵﹃湖南教育学院学報﹄ 第十九 巻第六期、二〇〇一年︶を参照。立命館東洋史學 第 39 號 陳山鷹﹁広東僑刊郷訊概況及其在海外功能﹂ ﹃僑史学報﹄第二十一期、一九九〇年。 その他の目的として、僑郷への送金、移民先での医療や旅店、海運船舶、文化活動に関する広告 ・ 告知があった︵姚 䆾 ﹁僑刊中 的僑郷社会与〝僑〟 〝郷〟網絡基于一九四九年前﹃新寧雑誌﹄ 〝告白〟欄目的分析﹂ ﹃華僑華人歴史研究﹄第四期、二〇一一年︶ 。 ﹁風采月刊社分発行代理処一覧表﹂ ﹃風采月刊﹄第六年第五期、一九三〇年。 ﹁捐助本月刊経費芳名録﹂ ﹃李族月鏡﹄第三年第十一期、一九二五年。 余仲山﹁発刊詞﹂ ﹃風采月刊﹄創刊号、一九二五年一月。 ﹁余碩士学歴優秀之証﹂ ﹃風采月刊﹄創刊号、一九二五年。 ﹁劉栽甫撤任消息﹂ ﹃香港華字日報﹄一九二七年五月十四日。 ﹁台開余譚闘案已告了結﹂ ﹃香港華字日報﹄一九二八年六月十一日。 ﹁台山公民促進自治之会議﹂ ﹃国民日報﹄一九二五年九月三十日。 ﹁秉持敬修之道、宗祠興学九十載 台城李氏後嗣綿誕七百年、興学興医興商、成当地慈善大族﹂ ﹃南方都市報﹄二〇一二年六月八 日。 例えば、 ﹃李族月鏡﹄は﹁論説﹂ ・﹁族聞﹂ ・﹁邑聞﹂ ・﹁省聞﹂ ・﹁国聞﹂ ・﹁文献﹂ ・﹁学林﹂ ︵﹁学校成績﹂に相当︶ ・﹁告白﹂ ︵﹁ 広告﹂と 同義︶から構成されている︵第三年第十一期、一九二五年の場合︶ 。 その他の論説は、自治・道路、学校や図書館といった公共施設の必要性に関するものが多い。 ﹁中国宗法社会略論﹂ ﹃東方報﹄一九〇六年十二月十一日。 ﹁中国宗法社会略論︵続前︶ ﹂﹃東方報﹄一九〇六年十二月十二日。 ﹁論族制﹂ ﹃民立報﹄一九一二年四月十一日。 呉虞﹁家族制度為専制主義之根拠論﹂ ﹃新青年﹄第二巻第六号、一九一七年二月一日。 従心﹁改革宗族制度之研究﹂ ﹃南方﹄第一巻第三号、一九二〇年。 清朝末期から一九二〇年代半ばにかけては、 宗族間の械闘だけでなく、 同族内の房間械闘に関する記事も数多く見られる︵ ﹁官竇 械闘寝息﹂ ﹃広州民国日報﹄一九二六年三月四日。 ﹁譚村又将醞釀械闘﹂ ﹃広州民国日報﹄一九二六年四月二十八日︶ 。
﹁台山近事﹂ ﹃香港華字日報﹄一九二八年六月一日。 ﹁台開余譚両姓械闘之省批﹂ ﹃香港華字日報﹄一九二八年六月十八日。 ﹁陳済棠巡視西区後之施政計画﹂ ﹃広州民国日報﹄一九二八年十月四日。 ﹁宗法社会的遺毒﹂ ﹃国民新聞﹄一九二七年一月十九日。 姚 䆾 前掲論文、二十六∼二十七頁。 当時の台山僑郷の家庭状況については、 Y uen-fong W oon ︵温婉芳︶ , . ︵ MacGill-Queen s University Press, 1998. ︹日本語訳 ユエンフォン=ウーン著 ・吉原和男監修 ・池田年穂訳 ﹃生寡婦 ︿グラスウィドウ﹀
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広東からカナダへ 、家 族の絆を求めて﹄風響社、 二〇〇三年︺ ︶が参考になる。同書は小説の体裁をとったエスノグラフィであるが、 著者は華僑 ・ 華人研 究者であり、本書の記述は豊富な調査に基づいている。 仲山﹁改造我広義的家庭之商榷﹂ ﹃風采月刊﹄創刊号、一九二五年。 放任﹁吾人不可無正確愛家族的観念﹂ ﹃李族月鏡﹄第三年第十一期、一九二五年。 孫文﹁民族主義﹂黄彦編﹃孫文選集﹄上冊、広東人民出版社、二〇〇六年、四六五頁。 Maurice Freedman, . Athlone Press, 1966, pp. 96-116. 黄仲琪はその後 、一九三二年に郷里の台県立中学の代理校長を務めた ︵﹁梅景細烈士事跡﹂台山第一中学ウェブサイト http:// www .tsyz1909.com/Disp.Aspx?ID=3556&ClassID=19 ︶ 。 黄星甫は一九二七年当時、 広東省台山県黄氏家族学会の会誌 ﹃黄化日報﹄ の編集長であった。 ﹃黄氏月報﹄ との関係については未 詳だが、同論説が掲載された﹃黄氏月報﹄第三年第十一期には、星甫が同報編輯室にて執筆したという巻頭語が掲載されている。 仲琪﹁告黄氏小兄弟﹂ ﹃黄氏月報﹄第二年第四期、一九二八年。 ﹁李君培 䦗 已作古人﹂ 、﹁李君道朝千古族誌﹂ ﹃李族月鏡﹄第三年第十一期、一九二五年。 ﹁李悦崇誠善人哉﹂ ﹃李族月鏡﹄第三年第十一期、一九二五年。 ﹁李竹銘為郷人所重﹂ ﹃李族月鏡﹄第三年第十一期、一九二五年。 鉄﹁対于恃強凌弱之感言﹂ ﹃教倫月報﹄第六巻第一号、一九二七年。立命館東洋史學 第 39 號 道﹁族人快些起来革新族務﹂ ﹃教倫月報﹄第六巻第一号、一九二七年。 炎宋﹁誰是将来族務的執行者﹂ ﹃教倫月報﹄第六巻第一号、一九二七年。 同注。 同注。 留省学生樹勛﹁新旧派﹂ ﹃教倫月報﹄第六巻第一号、一九二七年。 ﹁族人大会之詳情選挙監察委員﹂ ﹃教倫月報﹄第六巻第一号、一九二七年。 鉄﹁時評﹂ ﹃教倫月報﹄第六巻第一号、一九二七年。 道﹁十三甲委員会成立以後﹂ ﹃教倫月報﹄第六巻第一号、一九二七年。 同注。 ﹁十三甲交数之波折﹂ ﹃教倫月報﹄第六巻第一号、一九二七年。 ︹付記︺ 本稿は、 公益財団法人 J FE二十一世紀財団二〇一四年度アジア歴史研究助成﹁近代中国の郷土意識と地域文化に関する社会史 研究﹂ ︵代表研究者佐藤仁史教授︹一橋大学大学院社会学研究科︺ ︶による研究成果の一部である。 ︵本学文学部准教授︶