川端康成『伊豆の踊子』論(二〇〇九年度卒業論文要旨集)
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(2) 開高健﹃裸の王様﹄論. 近代文学研究室 六四七一千菓 悠登. 川端康成﹃伊豆の踊子﹄論. 近代文学研究室 六四七四 宮田 七瀬. う言葉にどのような意味がこめられているかを考察したもので. 研究では、自然描写は事実ありのままであり、特別な象徴的意. の心理描写の関係を捉え直すことをねらいとしている。従来の. 本研究は、川端康成の ﹃伊豆の踊子﹄ の自然描写と、﹁私﹂. ある。﹁裸の王様﹂が、誰の、どのような棟を表した言葉なの. 味は含まれていないと考えられている。しかし、自然描写が事. 本研究は、作品のタイトルにもなっている﹁裸の王様﹂とい. かということについては、これまでの先行研究が不十分であっ. 分析した。その結果、﹁私﹂の心理描写は、気分からくるものと、. 本研究では、作中の自然描写と﹁私﹂の心理描写を一つ一つ. とはいえないので、再考の余地があると判断した。. 実ありのままであったとしても、象徴的意味が含まれていない. 帝の新しい着物﹄と比較し、どのような点が骨格として本作に. 研究方法としては、最初に、本作晶中にも登場する童話﹃皇. たので、詳しく分析していった。. 導入されたのかを分析し、次に本作の独自に着想された部分と、. 童話からの導入であった。一方、独自の着想として、﹁創造主義﹂. 主人公の﹁ぼく﹂が社長の大田氏に反発するという構造は、. ている。それは、﹁三﹂で﹁私﹂が心に清水を感じたことを契. また、﹁三﹂ の途中から﹁七﹂にかけて心理描写は少な︿なっ. 分と、﹁一﹂から﹁三﹂の途中までの自然描写が照応していた。. ﹁私﹂ の気質からきているものとがあり、心理描写のうちの気. の導入がある。それにより、主張の異なる二者の対立構造が出. いが、無いわけではなくテクストの空自として存在しており、. 機としていた。﹁三﹂ の途中から心理描写は文中では見られな. それが表現されることの効果について考察した。. 来上がり、大田氏が社長であることから、権力を振るい争いに. ﹁七﹂ で踊子と別れ涙することで、﹁私﹂は﹁孤児根性﹂ で. とは、﹁私﹂の青年期の心の葛藤が消えたことを意味している。. 自然描写と照応していた。踊子の姿を見て心に清水を感じるこ. 参加せず.にその静いを眺めるという構造が出来たと考えられ. る。 本作における﹁裸の王様﹂像として、社長という権威を楯に、. である。最後まで﹁私﹂のエリート意識は残るのだが、自炊州描. 歪んでいる気質が素直になったと感じる。涙によるカタルシス. 誰にも自らの恩を指摘されず争いを傍観している孤高な権力者 が見出せた。争いの末﹁ぼく﹂が持っている画が太郎のもので. 写と﹁私﹂の心理は密接な関係があるといえる。. あることを暴露したことは、権力者が﹁皇帝L ではなく社長で あるからこそできたことなので、﹁ほく﹂ の行為に、資本主義 における権力者の独裁体制への警鐘と改善の願いを見出した。. 62.
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