1.はじめに―根拠の原理としての「道」と「理」 「道理」という語の中国古代における成立を『韓非子』において考察した前稿*1の中で、 そもそも「道理」という語の初出は戦国時代中期の慎到(紀元前4世紀頃の稷下の学士) に見られると述べたが、その稷下の学において、原始道家思想の「道」「徳」の哲学によっ て儒家思想の「義」「礼」の礼楽文化を根拠づけようとする動きが起こり、その両者を媒 介する中間の根拠づけ原理として「理」が導入された、と説く荒牧典俊氏の論*2がある。 荒牧氏によれば、「理」の原義は、周王の礼楽文化を象徴する玉器を制作するに際し、原 玉の結晶構造の「理(すじめ)」に順って研磨し彫刻していって美しい文様をつくり出す ように、そのように帝王が礼楽政治を実現するに際し、君臣民の「情」に現れる共同体構 造の「理(すじめ)」に順って上下の分を分かち、それぞれの礼楽を定め、礼楽秩序をつ くり出すことである。すなわち「理」は、周朝の礼楽文化が衰亡した後に、帝王たるもの、 いかにして「天道」の「徳」にもとづいて君臣父子の「情」にかなうように上下関係の「義」 を分かち登降揖譲の「礼」を定めて礼楽秩序を回復すべきか、を教える帝王政治原理とし ての「理」である。この「理」は『孟子』『易伝』『礼記』『韓非子』などから、漢代の董仲舒、 三国時代の魏の劉邵、西晋の裴頠にも及ぶ。 荒牧氏の論の主題は、この古代の帝王政治原理としての「理」が次の中世(魏晋南北朝 隋唐)の実践哲学原理としての「理」へ「一大変」したことを辿り、「理」概念の「一大変」 により、中国古代の皇帝中心文化から中国中世の人間中心文化への「一大変」を説明する ことであった。その展開は魏晋老荘思想、初期中国仏教思想を経て、竺道生・謝霊運の仏 教思想において実現されると説かれる。 以上の荒牧氏の論には、『韓非子』の「理」の研究を踏まえて、疑問の点もある。 荒牧氏の言う、道家思想の「道」「徳」の哲学によって儒家思想の「義」「礼」の礼楽文 化を根拠づけることは、確かに『韓非子』に見られたことである。しかし、儒家の礼楽の 秩序を中心に置き、その礼楽秩序を回復するための帝王政治原理としての「理」という捉 え方は、『韓非子』においてはその一部として確かにあったが、「理」はもっと豊かに、世 界の万物に見られる筋目として、世界のあらゆる物や事を最もよく実現する手だてとなる キーワード:道、理、『後漢書』、「理惑論」、慧遠
中国初期仏教における「道」と「理」
倉 澤 幸 久
ものであった。『韓非子』の「理」から見れば、荒牧氏の儒家的な帝王政治原理としての「理」 はその一部であり、すでに当時「理」はあらゆる人があらゆる物や事において最もよく生 きることを可能にする「理(すじめ)」として考えられていた。 また荒牧氏が、帝王が「天道」の「徳」にもとづいて「義」を分かち「礼」を定めて礼 楽秩序を回復すると述べる点についても、「道」が「天道」とされているところに本来の 老子の道を儒家の道に狭く限定していることが伺える。老子の「道」は天地万物を生み出 す根源的な存在であり、形を超えた無であり、あらゆる物にいきわたる存在である。この 点については、老子の「道」と孔子の「天」との関係、また老子における「道」と「天」 との関係が考察されるべきであろう。『韓非子』では、天地の道が説かれ、天の道は生心(生 命を育み、生かそうとする心)をおこなうとされるが、天はさらに根源的な「道」の働き を受けて生心を持つのである。 さてしかし、荒牧氏の論で重要なことは、道家思想の「道」「徳」の哲学が中国思想を 根拠づけたこと、その際に「理」が導入されたこと、その「理」の展開として中国思想の 古代から近世までの歴史的展開を捉え、中国における仏教の受容もそれによって説明され る点である。すなわち、道家の世界の根源的根拠としての「道」に世界のあらゆる物と事 に見られる筋目としての「理」が結びつけられ、「道」と「理」が中国思想を根拠づける 原理となったのである。本論は、この荒牧氏の論に導かれながら、中国仏教思想における 「道」と「理」の概念を探る試みである。 2.中国における最初期の仏教受容―『後漢書』に見る 中国本土に仏教が入り受容され始めたのは後漢の時代であり、中国に仏教が伝来した最 初の頃、中国の人々が仏教をどのように理解し、どのような態度を取ったのか、それを伺 うことができる客観的資料は、『後漢書』を嚆矢とする。*3『後漢書』の成立は南北朝時代 の南朝宋の元嘉 9 年(432 年)で、後漢が滅びてから 212 年後であり、様々な伝説が混 入しているが、それでも先行する『東観漢記』や『後漢紀』などに基づいて編纂されてお り、伝説をつくり出した当時の人々の思いも含めて、中国の人々の仏教に対する最初の捉 え方を伺うことができる。以下、『後漢書』の関連記事を検討する。 中国への仏教の初伝―『後漢書』列伝 78「西域伝」 「世に伝えるところでは、明帝(後漢第2代皇帝、在位 57-75 年)が夢に金色の人を見 た。その人は長大で、頭頂に光明があった。その夢について群臣に問うと、或る者が言っ た、「西方に仏という名の神があって(西方有神、名曰佛)、身長が一丈六尺で黄金色をし ている。」そこで帝は天竺に使いを遣わして仏の道法を問わしめ(遣使天竺問佛道法)、つ いに中国において仏の形像を絵に描いた。楚王英がその術を初めて信じ、これによって中 国にその道を奉ずる者が初めて現れた。後に桓帝は神を好み、しばしば仏と老子を祀った。
一般の人々の中にも奉ずる者が現れ、その後しだいに盛んになった。」*4 まず仏は普通の人の二倍の身長、体は黄金色、頭頂に光明がある神である。仏教は「仏 の道法」と呼ばれる。明帝、明帝の異母弟である楚王英、桓帝が最初期の仏教と関わりを 持った人々である。次にそれぞれの箇所を検討しよう。 楚王英の仏の斎戒祭祀―『後漢書』列伝 32「光武十王列伝」楚王英伝 「楚王英(生年不詳 -71 年)は若いときには遊侠を好み、その徒を食客として交わって いたが、年を取ってからは黄老の学を喜ぶようになり、浮屠(ブッダの音訳、仏)の斎戒 祭祀を為した(晚節更喜黄老學、為浮屠齋戒祭祀)。永平 8 年(65 年)詔が発せられ、天 下の死罪に当たる罪人に絹布を納入させて罪を贖うこととした。英は絹布を奉じ、楚王の 位にあって罪過が積み重なっているから贖いたい、と言った。明帝は詔して、楚王は黄老 の深遠微妙な言葉を誦し、浮屠の仁祠を尚び、3ヶ月の潔斎をして神と誓いを立てている (楚王誦黄老之微言、尚浮屠之仁祠、絜齋三月、與神為誓)。何の嫌疑があって、悔いたり 吝(おし)んだりすべきことがあろうか。贖い物を還して伊蒲塞(優婆塞、在家の男性仏 教修行者)と桑門(沙門、出家の仏教僧)の盛饌(立派なご馳走)の助けとせよ、と言っ て、諸国の中傅に分配した。」*5 明帝の永平年間、王族にも仏教を受容している者がおり、それは身を清らかにして罪悪 から離れていることとして好意的に評価されている。またすでに仏教の出家と在家の修行 者が存在し、彼らに食事を寄進することも諸国で行われていた。仏は黄老と並び称され、「浮 屠の仁祠」に神として祀られており、その神に対して心身を清めてお祀りすることが仏教 の信仰の実践であった。黄老は黄帝と老子であるが、黄老君という黄帝と老子が一体化し た神格が祭られ、長生の福を求めることがあった。*6これは後に成立する道教の源流の一 つと目されるが、この黄老の祭祀と仏の祭祀は一体のものとみなされている。また仏寺は 「仁祠」と称され、この呼称は後に日本でも用いられたが、仏は儒教の最高の徳である「仁」 と結びつけられる。 桓帝の黄老、浮屠の祠の祀り―『後漢書』列伝 20 下「郎顗襄楷列伝」襄楷伝 後漢の第 11 代皇帝桓帝(在位 146-167 年)の代、朝廷では宦官が専権をふるい政治と 刑罰が暴虐非道であり、皇子の夭折が相次ぎ、災異が多発した。延熹9年(166 年)、襄楷(天 文 ・ 陰陽の術をよくする好学博識の学者、生没年不詳)は意見書を上申した。 「天体の現象が常道をはずれている。これは天子の身が危うく、継嗣も失われる予兆で ある。これは宦官の譖りにより酷薄な刑罰がおこなわれていることによる。他にも天・地・ 人に異変が現れ、容易ならざる事態である。前に私は琅邪の宮崇がその師干吉から受けた 神書(道家の『太平清領書』)を奉ったが、聴かれなかった。この神書は、専ら天地を奉 じ五行に順うことを以て根本とし、また国を興し嗣を広めるの術がある。その文はわかり やすく、儒教の経典に参同しているのに、最初献上された順帝は行わず、その後胤は興ら
ず、後継の冲帝と質帝の世は短かった。 また、宮中に黄老、浮屠の祠を立てていると聞いた。この道は清虚であって、無為を貴 びあがめ、生命を生かすことを善しとし殺すことを悪として憎み、欲を省き減らし奢りを 去るというものである(此道清虚、貴尚無為、好生悪殺、省欲去奢)。ところが今陛下は 嗜欲を去らず、殺罰は理を過ぎて、既にその道と乖離している。どうしてその祚(さいわい) を獲得することができようか。或る人が言うには、老子が夷狄に入って浮屠となった、と のことである。浮屠は桑の木の下にも3日続けて宿ることをしない、それは久しくして恩 愛を生ずることがないようにとのことである。これは精の至りである。天神が美しい女を 遣っても、浮屠は「これはただ革嚢に血を盛ったもの」と言って、遂にこれをちらとも見 なかった。その一を守ることがこのようであって、はじめてよく成道することができるの である(其守一如此、乃能成道)。今陛下は婬女艶婦は天下の麗しきを極め、甘肥飲美は 天下の味をたいらげつくしている。どうして黄老のようになりたいなどと言えるだろうか。」*7 桓帝は黄老と浮屠を一緒にして祀り、襄楷も両者を区別していない。「孝桓帝紀」には、「黄 老を濯龍宮に祀る」*8また「濯龍の宮をかまえ、華蓋を設けて浮図と老子を祀る」*9と記され、 最初に見た「西域伝」もそうであったが、黄老は老子とも言い換えられる。そして老子が 夷狄に入って仏となったという説が紹介され、老子と仏は結局同一人物であり、その教え も同一であるとされている。その教えの内容としては以下の諸点があげられる。 一、この「道」は、「清虚」であって、「無為」を貴ぶ。 二、生命を生かすことを善しとし、殺すことを悪とする。 三、欲を除き、奢りを去る。同じ家に住み恩愛を生ずることを禁じ、美しい女性も不浄 なるものに過ぎないと遠ざける。 四、「守一」により「成道」することができる。 以上の教えは、黄老の「道」、仏の「道」の教えであり、目指すところは「成道」である。「清 虚」「無為」「守一」は道家の用語である。老子の弟子とされる文子の著『文子』に「老子 曰く、清虚は天の明なり、無為は治の常なり」*10とある。「守一」は老子では「抱一」であっ たが、荘子に「守其一」とあり、万物を生み出す根源である「道」ををさして「一」と言い、 そのはたらきと一体化することであるが、道家、神仙道では養生、不老長生の修行法とし て行われていた。すでに仏伝の知識が伝わっており、仏の出家修行(黄老のそれも)が現 世の色欲や食欲を捨てることであると襄楷は理解しているが、桓帝は黄老、仏という神に 長生の福などを願っていたと思われる。 『後漢書』「襄楷伝」の続く箇所で、神書『太平清領書』百七十巻は、その言が陰陽五行 説に基づき、巫覡の雑語が多く、担当の役人は妖妄不経であると奏上して収蔵してしまっ た。後に張角(黄巾の乱の首謀者)はこの書を大いに用いた、と記される。*11『後漢書』「皇 甫嵩伝」によると、張角は「黄老道」に奉事し、弟子を育て養った。跪き礼拝して罪を懺 悔し、お札と聖水と呪文で病気を治療し、多くの人々が信じるようになった。弟子を四方 に派遣し、善道を以て天下を教化し、十余年の間に衆徒は数十万人になった。*12『三国志魏書』
「張魯伝」に引用される魚豢の『典略』には、光和年間(178 年 -184 年)に「東方に張 角があり、漢中に張脩があり、角は太平道を為し、脩は五斗米道を為した」とある。*13張角 の太平道、張脩の五斗米道は道教の起源とされ、太平道は黄巾の乱が鎮圧される時に滅び たが、五斗米道はその後天師道と呼び名を変え、さらに正一教として現在まで続いている。 「黄老道」は道教の源流であり、一方で巫覡により神の託宣がもたらされ、呪術で病気を 治療し、多くの人々を信者とする宗教的活動であり、他方で『老子』の奥深い、清虚無為 の「道」の教えに基づく、「成道」の思想でもある。 黄老道は漢初の政治理念として、自主に任せる寛容な無為の政治を唱道し、秦の過酷な 法治主義に対抗したが、武帝が儒教を採用して以後、政治の面からは斥けられ、宗教的な 面で行われるようになったと言われる。*14後漢における黄老は隠遁し山に登り神仙を目指 すことが主になり、その神仙を仰ぎ見る人々により、鬼神を使役して神秘的な技をおこな う、神々の世界に通じる術として尊崇され、養生や長生、様々な利益の実現をもたらすこ とが期待された。仏教はまずこのような黄老と性質を同じくする「道」の教えとして受容 されたのである。 3.「理惑論」における仏教理解 『弘明集』冒頭に収められている牟子(生没年不詳)の「理惑論」は、中国に仏教が伝わっ た当初、その教えに触れた中国人の当惑が質問の形で述べられ、それに対して撰者とされ る牟子が答えるという問答形式で語られている。牟子は後漢の人とされ、この論の成立は かっては後漢末とされていたが、現在は三国呉の中頃とされている。それでも中国人の仏 教についての説明として最も早いものであり、ここに中国思想と仏教との出会いの原初の 様子が見られる。「理惑論」の標題はもともと「治惑論」であったが、唐の高宗の諱であ る治をさけて「理惑論」と称したとされる。*15 仏伝 最初の問答で仏伝が語られる。仏は(ジャータカ(前生譚)に語られているように)仏 になるまでに数千億年にわたって「道徳」を積み累ねてきた。「得仏」の時は、天竺に生まれ、 王夫人が白象を夢みて受胎し、右脇から生まれ、地を七歩行き、「天上天下に我を踰える 者はいない」と言った。三十二相八十種好を有し、身長丈六、体は皆金色、頭頂に肉髻が あった。項(首の後ろの部分)には光があり万里を照らした。17 歳、父王が妃を娶らせ た。坐るときも寝るときも別であったが、天道がはなはだ明かであって陰と陽とが通じて、 遂に一人の男の子を懐妊し6年して生まれた。父王は立派な宮殿、妓女や宝玩を備えた が、太子は世楽を貪らず、意は「道徳」にあった(太子不貪世樂、意存道徳)。19 歳の夜 半、鬼神がささえて空を飛んで宮を出て出家した。後を追った父がとどめるも、「万物は 無常である。存在するものは必ず亡ぶ。今、「道」を学び十方(の衆生)を度脱(渡し救う)
することを欲する(萬物無常有存當亡、今欲學道度脱十方)」と言って去った。「道」を思 うこと6年、遂に成仏した(思道六年遂成佛)。仏は不寒不熱のよき季節に生まれ、天地 の中央であり中和の気を備えた天竺に生まれた。著すところの経は 12 部合計8億4千万 巻。仏は天下に教を授け、人民を度脱し、泥洹(涅槃)して去った。その経と戒は存続し ており、よく履行すれば「無為」を得て、福を後世に及ぼすことができる(得無爲、福流 後世)。五戒をたもつ在家の優婆塞と二百五十戒をたもつ出家の沙門がおり、沙門は毎日 斎戒し、その威儀進退は中国の古の典礼と異なることがない。終日終夜道を講じ経を誦し 世事には預からない。老子の言う「大いなる徳をもつ者の様子はただ道に従っている(孔 徳之容唯道是從)」とは、このことである(1 頁下)。*16 ここで説かれていることをまとめると、 一、 仏 は 超 人 的 存 在 で あ る。 数 千 億 年 に わ た っ て 前 世 で「 道 徳 」 を 積 み 累 ね、 8億4千万巻の経巻を著し、体は金色、項の光は万里を照らし、空を飛ぶ。 二、「道徳」「学道」「思道」の語が表すように、仏が求めたのは「道」であった。それ は老子の「道」と結びつけられる。 三、「度脱十方」「度脱人民」、人々を救うことが目指されていた。 四、経と戒にもとづきよく履み行えば、「得無為、福流後世」が実現される。「無為」は 老子の語、「福流後世」は『弘明集研究』の注に言うように、インドの仏教を中国 的に解説しようとの意図が察せられる。*17 五、中国が世界の中心であるという中華思想は相対化され、天竺が中心とされる。 「仏」とは何か 続いて第2問答で、「仏」とは何か、が説かれる。仏は道徳の元祖、神明の宗緒である(佛 乃道徳之元祖、神明之宗緒)。「仏」という語の意味は「覚」である。仏はおぼろげで奥深 くとらえどころなく変化し、あちこちに変化自在に出没する(恍愡變化、分身散體)。存 するかと思えば亡く、亡いかと思えば存ずる(或存或亡)。小と大、円と方、老と少、隠 と彰の相対的区別を超えて、自在にそれぞれでもある(能小能大、能圓能方、能老能少、 能隱能彰)。火にも焼けず、刀にも傷つかず、汚れにあっても辱(はずかし)められず、 禍にあっても殃(わざわい)なしである。行かんとすれば空を飛び、坐っていれば光を放 つものである(2 頁上)。 仏は、「道徳」すなわち老子の万物の根源とその実現、「神明」すなわち神々、それらの 最も初めに位置する、最も根源的な存在である。「恍惚」「能円能方」の語は、『老子』『列 子』の「道」を形容する語を踏まえており、「仏」は「道」と同じあり方をしている。仏 は道を実現している根源的存在、神々の中の最も根源的な神である。また仏はもともとサ ンスクリット語で buddha を漢字の音で写して仏陀と表記したことに由来し、buddha と は目覚めた人という意味であるが、ここでは仏が覚であることも知られている。 また第5問答では、仏は広大な宇宙の外まであまねくおさめ、そのかすかな奥深い内ま
で分析し(佛悉彌綸其廣大之外、剖折其窈妙之内)、億年前の過去の事を説き、万世の後 にわたる要点を述べる、万巻に及ぶ膨大な経典を残している(2 頁中)。 また第 14 問答には、仏経の説く所は天地宇宙の上下四方にあまねく至り、生命ある物 はすべて仏に属する(仏経所説上下周極、含血之類物皆属仏)とされる(3 頁下)。 また第 15 問答では、仏経に記される、仏が前世に太子須大拏 ( しゅたぬ、スダーナ ) であった時、父の財物を縁もゆかりもない遠い人々に施与し、国の貴重な戦力であった象 を敵に賜い、妻子を自ら他人に与えた、という布施の行を取り上げ、これは不孝不仁であり、 儒教的観点から認められない行いであるという批判に対し、「成仏」に至って父母兄弟が 皆済度(世を渡る、度世)されたのであり、それこそが孝であり仁である、というやりと りがある(4 頁上)。この、すべてを与える、自分の命さえ他のために与える、敵に与える、 妻子さえ与える、という仏の教え、行いは中国の人々に衝撃を与えたであろう。 さて以上のような、超常的な存在である仏は「得道」者とされる。第 21 問答では、中国で 始めて仏道を聞いたのが、明帝の夢に神人が身に日光を有して飛来したことに発することが 述べられるが、そこで仏は天竺の「得道」者とされている(天竺有得道者號曰佛)(4 頁下)。 「得道」という語は、『老子』には用いられず、「得一」という語が代わりに用いられて いるが、『荘子』以後の道家の文献には頻出し、「道」と一になって無為自然のあり方を体 現し、為さざることなし、自由自在に世の中のすべてを実現していく聖人のことである。 さらに黄老道や神仙道では、「雲の上に飛び上がることもできれば、川や海の底に潜るこ ともできる(得道者、上能竦身於云霄、下能潛泳於川海)」*18とされるような、超常的能 力を身につけている神仙のことである。上で見てきた仏の超常的あり方は神仙的であると 言ってよいだろう。 仏は「得道」者であるが、得道者は不老、不朽であると第 32 問答で説かれる。『老子』に「物 がさかんであれば則ち衰える。これを道にかなっていないと謂う。道にかなっていないと 早く終わってしまう(物壯則老、是謂不道、不道早已)」とあるが、ただ得道者だけが不 生であり、不生であれば不壮、不壮であれば不老、不老であれば不病、不病であれば不朽 であるので、老子は身を以て大いなる患いとしたのである(6 頁中)。ここで説かれてい ることは、得道者は不生であり、そうであるならば不老、不朽であり、神仙道的な不老不 死が実現されているかのようである。 ところが「理惑論」は老子・仏と道家・神仙道を切り離し、道家・神仙道を否定する。 第 37 問答では、堯舜周孔そして孔子の 72 弟子が皆不死で仙であるという道家の説は妖 妄の言であり、聖人の語ではない、人が不死ということはありえない、と経伝を証拠とし て批判する(7 頁上)。第 29 問答では、王喬や赤松子、八仙の符籙、干吉の神書 170 巻 はいずれも長生の事を説いているが、これは言っていることは壮大であるが、効験はなく、 老子や仏の「大道」が取らない所であり、「無為」が貴ばない所である(是以大道之所不取、 無爲之所不貴)。「道」には 96 種類あるが、その中で仏道が最も尊く大なるものである(道 有九十六種、至於尊大莫尚佛道也)(6 頁上)。第 30、31 問答では、神仙道の辟穀(穀物
を断つ)の法を否定する。『老子』に辟穀の事は記されず、牟子自身未だ「大道」を解さ ない時学んだことがあったが、無効で無徴であったので廃した(吾未解大道之時、亦嘗學焉。 辟穀之法數千百術。行之無効爲之無徴、故廢之耳)(6 頁上)。また第 36 問答では、神仙 の術は秋冬食べず、室に入って数十日も出ないという行をするが、これを老子の言う憺怕 (澹泊、淡泊)無為の至りではないかという問に反論し、蝉が食べず、 蛙や蟒(大蛇)が穴 ごもりをしてもこれを貴重とはしない。『孝経』に孔子が「天地の性、人を貴しと為す」と言っ ている(6 頁下)。第 30 問答で、物類にはそれぞれ性がある(物類各自有性)、と説くように、 人には人の性があり、その性(もともと備わっている性質)に順って生きるべきである。神 仙道は人間の本性に反するのに対し、仏道は人間の本性に基づく教えとされる。 さらに、神仙道はこの身のまま不老長生を実現することを説くが、それはあり得ない。 第 12 問答に、得道であっても身は滅びるのみ(得道身滅耳)と説く。身は滅びるが神(魂 神)は不滅である。そもそも人の死後、身は滅び神は残り、神は新たな身を得て更生(再 生)するのである。仏教の輪廻転生の考え方が示される。そして有道の者は死すと雖も神 は福堂に帰し、悪を為した者は死すれば神が必ず禍を受ける(有道雖死神歸福堂、爲惡既 死神當其殃)という、因果報応*19が説かれる(3 頁中)。ここには、死後身は滅ぶが、神 は不滅であり、その神が善因善果、悪因悪果の因果報応を受けることが説かれている。こ の点は後に神滅不滅論争として盛んに議論される争点となる。また有道の人は神が福堂に 帰するとされるが、福堂は、当時すでに訳されていた『六度集経』(呉の康僧会訳)に「仏 を奉じ経を読み、悪を離れ善を行うならば、長く泰山の地獄・餓鬼・畜生の三悪道に生ま れ変わることがなく、無極の福堂に安んずるようにする」*20とある。やや時代が下がるが、 道教天師道文献『赤松子章暦』に、道士の上章儀礼により死者を地下世界から解放し福堂 へ昇天させることが説かれているとのことである。*21仏教が説く六道輪廻(天・人間・修羅・ 畜生・餓鬼・地獄の六世界を輪廻)の中の天上世界は、神仙道の天上のイメージで捉えら れていると思われる。 さて以上見てきて、もう一度第 32 章で説かれていた、得道者が不老不朽であるという ことの意味を考えよう。有道者は天上に生まれるが、得道者すなわち仏は不老不朽である。 仏はもはや生まれ変わってこの世に戻ってくることはない、輪廻転生を脱け出す、という のが仏教本来の説であるので、ここではその説は明確に説かれないが、仏は不生、不死、 不朽の存在となり、滅びる身に囚われることなく、不滅の神(たましい)に生きる者とな る、と考えられていたと思われる。 「道」とは何か さて改めて「道」とは何かが説かれる箇所を検討しよう。第3問答で、道の言葉の意味 は「導」である。人を導いて「無為」に到達させるのである(道之言導也、導人致於無爲)。 道はこれを牽けば前なく、これを引けば後なく、これを挙げれば上なく、これを抑えれば 下なし、である(牽之無前、引之無後、擧之無上、抑之無下)。すなわち前後上下これ以
上ない前後上下まで広がっている。これを視れど形なく、これを聴けど声なし(視之無形、 聽之無聲)、すなわち感覚を超えていて感覚では捉えられない。広大な四表(四方にひろ がるこの世界)の外まで広がり、細小な毫釐(小さな細毛)の内にも至っている(四表爲 大蜿蜒其外、毫釐爲細間關其内)(2 頁上)。 また第4問答では、「道」は老子の「道」の説明を借りて説かれ、孔子の道の教えと違 うことはないとされる。老子の「物有り混成し、天地に先だちて生ず。以て天下の母と為 す可し。吾、其の名を知らず、強いて之に字して道と曰う」を引用し、「道」が万物を生 み出す、根源的で無限定な存在であり、言葉で限定できないものを敢えて「道」と名づけ ていること、その根源的「道」の具現化として、儒教的な、家における事親、国における 治民が可能になること、さらに独立して治身することも可能になること、「道」を履行す れば天地のあらゆる所に充ち、廃して用いなければ消えるけれど離れることはないこと(道 之爲物、居家可以事親、宰國可以治民、獨立可以治身、履而行之充乎天地、廢而不用消而 不離)が説かれる(2 頁上)。*22ここで説かれる「独立可以治身」は、「浩然の気」を説く 孟子にもあてはまる面もあるが、「治身」の語は『荘子』に「道の真髄は治身であり、そ の余りで国家を治め、その残りかすで天下を治める、と言われる。これで見ると、帝王の 功業は聖人の余暇の仕事である(道之真以治身、其緒餘以為國家、其土苴以治天下。由此 觀之、帝王之功、聖人之餘事也)」*23とあり、道家及び神仙道の道の修行の核心を示す語 であり、仏教もまた独立して治身するものと考えられていたと思われる。ただ仏道の治身 はこの身心において不老不死を実現することではなく、この身心の無為清虚によって無為 を実現することである。無為は道のあり方であり、道を得ることである。また上の『荘子』 の引用には聖人の治身が帝王の治国家に優先することが説かれていたが、道家の教えが儒 家の教えより根本的であるとされ、そのような根本的な「道」の教えと仏教は重ね合わせ られるのである。 このような「道」のあり方と上で見た「仏」のあり方は重なる。仏が得道者であるとは、根 源的で無限定な道と一体になり、不可思議な道のあり方を体現する。仏は不可思議な存在 として、光を放ち空を飛び、人間には不可測の、神々の中の最高の神とされる。「理惑論」に おいて、仏は道の体現者であり、仏教は老子の道と同一視される道の教えとされたのである。 しかし、「理惑論」において、「理」は「経伝を以て仏説を理する」(第 25 問答)、「詩 書を以て子に理する」(第 26 問答)などいずれも「説明する」という意味の動詞として 用いられており、「道」と組み合わせられる「理」の用例はない。 4.慧遠における「理」 三国呉の「理惑論」の後、晋南北朝時代に中国仏教は知識人たちに広く受容されるよう になり、まず「理惑論」のように、仏教の思想を類似した中国の思想、とりわけ老荘思想 に当てて理解する格義仏教が行われた。これを批判して仏教が本格的に理解されるように
なったのが、東晋の道安(312-385)、後秦の鳩摩羅什(344-413)からであるとされる。 しかし、格義仏教を広義に取り、道安、羅什はもちろんその後の中国仏教全体に格義仏教 的性格を認め、「正しい」仏教理解という観点から批判したのが、伊藤隆寿『中国仏教の 批判的研究』*24である。本論では、この伊藤著では論じられることの少ない、道安の弟子 慧遠(334-416)における「理」の用法を検討したい。慧遠の弟子であった道生(355-434) は後に羅什の弟子となり、「理の哲学」を展開する。序論で触れたように、この道生にお いて「理の一大変」が荒牧典俊氏により説かれる。道生の「理」を検討する前に、慧遠の 「理」を見ておきたい。 慧遠の師道安には、20 余部の著書があったが今は失われ、10 数種の経序が残されてい るが、そこでは「理」という語は文章の義理という意味で用いられ、「道」と結びつけら れる「理」の用法は見出されない。 慧遠は初め儒家・道家の古典を学んだが、戦乱の世に道安の下で 21 歳で出家し、師事 すること 25 年道安仏教継承の第一人者となり、その後廬山に入山して 30 余年山を出でず、 多くの僧俗の求道者を指導する教団の師主となった。慧遠が 67 歳の時、羅什が長安に到 着した。慧遠は門人を百数十人も擁する大教団の主であったが、年下の羅什に教えを請い、 書を交わし、弟子の道生等を羅什の下に送り、その問答は「大乗大義章」としてまとめら れている。*25 「三報論」における「理」 仏教の因果報応論を説いたこの論文は、博学の文人、琴・書画・彫刻にも巧みであった 戴安(戴逵たいき 335 頃 -396)の「釈疑論」を巡るやりとりを機縁に書かれた。戴安の 主張は、仏教の善因善果・悪因悪果の因果報応を否定するのみならず、老子の「天網恢恢 疎にして失わず」や『中庸』の「隠れたるより見るるはなし」の教えも聖人が方便として 設けたもので、本来的に定まっている究極のもの(本定之極致)ではない。人の善悪は生 まれつき既に性分として定まっている。挫折と達成、善と悪、愚と智、長寿と夭折、すべ て運命として世界の初めから定まっている(分命玄定於冥初)。玄妙な推遷すなわち造化 の推移に根源的な大本が在ること(妙推之有宗)を悟らない限りこのことは分からない(69 頁)。これは「自然の定理」であって変えることができない(此自然之定理不可移者也)。 聖人は「神道」に因って教を設けるので、その理は神妙で教化があまねく行われる(聖人 之救其弊、因神道以設教、故理妙而化敷)。賢者はこの教えに依って志を成就し、不肖者 は努力して過ちを免れる。君子たる者は己を行い心に処するに一瞬たりと善を離れないの である。このように自分の「分命(運命)」を審らかにし、それに順って努力を積み重ね るならば、心の滞(まど)いを解いて、神々に祈ることもなくなるのである(65-66 頁)、 と説いた。戴安はこの世界の冥初からの展開の根底に「神道」と「自然の定理」、すなわ ち「道」と「理」を置いている。 これに対し慧遠は、戴安が仏弟子になりながら聖典に留意していないのが残念である、
仏教は精微であり、「事」を以て問い詰めることが難しく、表に現れた数の奥に理が玄な るものとしてあり、経の中に義が隠れているということが数え切れないほどある(佛教 精微難以事詰。至於理玄數表義隱於經者、不可勝言)、として「三報論」を説く。(69 頁) ここで説かれる「理」は義理の理であるが、表面に現れている数(理のことである)と区 別される玄なる「理」が言われる。 「三報論」は、善悪の行為に報応が本当にあるかという疑問に答えて、報応には、この 世で受ける、次生で受ける、次々生以降に受けるという3種があると説く。孔子の一番弟 子顔淵が貧しく短命であったのも、禍福をもたらす勢いは遥か昔に定まっており、冥々の 中に定められた宿命はひそかにめぐりめぐって続いている(倚伏之勢定於在昔、冥符告命 潜相迴換)ことに因るのである。このことは人々に疑惑を引き起こし、ついに大道が小成 (小さくまとめてしまうこと)によって隠されてしまった(遂使大道翳於小成)。しかし正 しい言で善く誘い、心に応じて実を求めるならば、必ず至理においてこの疑惑はない(以 正言爲善誘、應心求實、必至理之無此)。中国の聖人はこの一生の中で報応を説いて、そ の外を明らかにしなかった。中国の理の探究は見たり聞いたりできる範囲内で終わってし まったのである(尋理者、自畢於視聽之内)。もし外を重んじる儒教と内を重んじる仏教 の二つの道を合わせて、教えを広めたこころを求めるならば、理会が必ず同一であること を知り、多くの途があることに惑わずその異に驚かないだろう(如令合内外之道、以求弘 教之情、則知理會之必同、不惑衆塗而駭其異)。出家し世の外に出ている者が、妙法を身 につけ奥深い仏門で心を洗い清め、一挙に感得し上の位に超え登ることがあれば、このよ うな人々は昔からの罪が積み重なっていても、治めようと努力しなくても理が自ずから安 らかに消え、三報を受けることはなくなる(有方外之賓、服膺妙法洗心玄門、一詣之感超 登上位、如斯倫匹宿殃雖積、功不在治理自安消、非三報之所及)。仏経が儒教の名教に優 越し他の諸思想に超絶している所以は、神(心)を洗い要に達し、霊府(心)を鍛錬し、 源を窮めて変化を尽くし、万像を無像において鏡に映すからである(佛經所以越名教絶九 流者、豈不以疏神達要、陶鑄靈府、窮原盡化、鏡萬像於無像者也)。(70-71 頁) 以上の論の要点を挙げると、 一、禍福の原因は遥か昔に作られ、見通すことのできない宿命であるが、理の至極へま で探究し、隠されている大道を明らかにすれば、因果報応の確かなことは疑問がな い。中国の教法における理の探究は感覚できる形而下の世界に留まっている。 二、儒教の道と仏教の道はそれぞれの理を探究していくと必ず同一の根源に会する。両 者は同一の根源から現れている二つの異なった道である。 三、仏教の修行が達成されれば因果報応の理が消え、三報を受けることはなくなる。 四、仏教は儒教や中国の諸思想より優れた教えである。仏教は心を清らかにし、心を鍛 錬し、根源に帰し、根源からすべてを顕現させる。それは無の上にあらゆる存在を 映し出すことである。 以上の戴安の「釈疑論」に発して「三報論」に至るまでの論の中で、「理」についてい
かに考えられているか。戴安は根源的な「神道」とそれに基づく「自然の定理」を述べて、 根源としての「道」とその根源に拠る「理」によってこの世界の展開を説明している。慧 遠においても隠されている「大道」とそこへ達する「至理」が説かれている。あらゆる物 と事に「理」があり、その「理」はそれをそれたらしめる根拠として働いている。儒道と 仏道はそれぞれの「理」を至極まで探究していくと一つに会する。一つに会するところは 根源的な「道」であろう。「理」についても、表の数(理)に対して「玄なる理」が説か れ、これは「深い義理」であり、根源に達する理、根源に発する理であろうが、「玄なる理」 という言い方に一つに会する根源自体が「理」と呼ばれる可能性が見られる。 「明報応論」における「理」 当時の東晋朝廷の有力武将、後に一時東晋を滅ぼして皇位を簒奪した桓玄(369-404) に答えて書かれた論文である。「三報論」と同じく因果報応を論じているが、異なった視 点から問題が提示されている。問題は二つで、第一の問題は、人間存在は身(肉体)と神(精 神)から成っているが、地水火風の四大から成る物質的な身に対して、神は身とはその理 が全くかけ離れた別次元のもので(其理天絶)、身を滅ぼすことはできても神を滅ぼすこ とはできないのであれば、殺傷され得ない神は地獄の罰を受けることはあり得ないのでは ないか。第二の問題は、仏教の「自然の道」とは何か。万物の心は愛欲を持つのが自然で ある。それに対し、仏教は情と感が報応を受ける因になるとして、情と感、愛欲を滅する ことを説くが、この仏教の説は反自然ではないか。 第一の問題については、道と一つになり深く悟る(泯一玄觀)という境地において、神 は傷つけられず殺されない。罪罰を受けるということもない。しかし、神と身とはそれぞ れ異なっているが相共に変化するもので、内なる神と外なる身はまことに異なっているが 渾然一体をなしているものである。悟りに達した人でなければ誰がその関係を見極めるこ とができようか(夫神形雖殊相與而化、内外誠異渾爲一體、自非達觀孰得其際耶)。未だ 悟りを得ていない人はますます迷いに迷いを重ねるばかりである。迷いの根本が抜かれな い限りこの世に心身を以て生まれてくる理(理由、根拠)はいよいよ堅固になる(滯根不 拔則生理彌固)。 第二の問題については、因果報応の関係においては、理がその根本において会すること があって理が自ずからに冥々の中に対応し、兆しが微であっても勢いが極まれば発現する のである(會之有本則理自冥對、兆之雖微勢極則發)。この故に、心の善悪が報の罪福と して必ず発現する。根本である心が情によって感ずると報応が自ずからやって来るのであ る。冥界の役人(幽司)などという者がいてその道を失った者を制御するのではない。そ うであれば、罪福の報応は心の感に因るのであり、感が然らしむる故にこれを「自然」と 言うのである。自然とは我の影響ということだけである。かの造物主もこのことについて は何の働きもないのである(然則罪福之應唯其所感、感之而然故謂之自然。自然者即我之 影響耳。於夫玄宰復何功哉)。(76-78 頁)
「明報応論」で問題にされたことをまとめると、 一、人間存在は神(精神)と身(肉体)とから成り、物質的な身は滅するが、身とその 理が隔絶する神は不滅である。これは「理惑論」でも説かれたことであった。その 神=心=我が善悪の行為をなしそれに応じて報いを受ける主体である。神は「泯一 玄観」(老子の「抱一」「玄覧」に拠るか)、すなわち道と一体化し深く悟ることにより、 因果報応の連鎖を脱け出すことができる。それはもはや輪廻転生をも受けないこと になろう。神は身体的要素、感情的要素を切り離し、超越的存在となる。 二、自然は、もともと老子では「道」のあり方を形容し、道は自然に法(のっと)り(道 法自然)、為すことなくして為さざるなし(無為而無不為)とされ、万物の本来の あり方に任せて自分から何かをすることはない(以輔萬物之自然而不敢為)ので、 人々は皆言う、我々は自ずからこうである(百姓皆謂我自然)というものである。 *26自然とは、自ずからそうであること、他から何の力も及ぼされることなく、そ れ自体でそのようであることである。ここでは、万物の心は本性の自然として愛欲 を持つという自然観と万物の心の善悪に応じて禍福の報いが必ず生じるということ が自然であるという自然観が対立するが、前者は本性としての自然、後者は作用が 外の造物者や幽司を待つことなくそれ自体でそのようであることとしての自然であ る。後者の主体としての我の作為した結果が自然に成るという説は、我の作為に発 する自然であり、我が道と一体化し、超絶的存在となると、その自然は超えられて しまう。その先に無為而無不為の自然があるのか不明であるが、「自然とは我の影 響ということだけである」という言い方に、我の作為により自然が超えられるとい う主張が感じられる。 ここでの「理」の用例は、第1に、神と身にそれぞれの理があり、神の理は身のそれを 超絶しているとされる、それぞれをそれぞれたらしめる理、第2に、人間の生存を生じさ せる根拠となる生理、第3に、因と果の関係が因と果のそれぞれの理を窮めていって会す る根源の点から基礎づけられるという、根源に達する理、であったが、「三報論」で考察 した理の用例と重なる。 慧遠におけるその他の用例 ①「大道淵玄、其理幽深。」(75 頁) これは桓玄の手紙の語「至道緬邈、佛理幽深」(74 頁)に対して慧遠の返信に出る 語である。桓玄が「究極の道(仏道)は遠く遥かで、仏理は幽玄深遠である」から、 よく習い求めることができようか、還俗するのがよいと慧遠に勧めたのに対し、慧遠 は「大道(仏道)は奥深く、その理は幽玄深遠である」から固い志を持って道を求め ていると答えた。 ②「幽宗曠邈、神道精微。可以理尋、難以事詰。」(87 頁) これは「沙門不敬王者論 體極不兼應第四」の中の語である。桓玄が沙門も王者に
敬礼すべしと求めたのに対し、慧遠が反論して書いたものである。「幽玄な根本の道(聖 人の奥深い道)は果てしなく深遠で、神道(聖人の神妙な道)は精緻微妙であるから、 理を以て尋ねることはできるが、事を以て問い詰めることは難しい」という意味で、 上で「三報論」を検討した時にも出てきたが、ここで「理」と「事」が対になって用 いられている。具体的事物の世界を超えて理の探究の意味がある。 ③「天地之道功盡於運化。帝王之徳理極於順通。若以對夫獨絶之教不變之宗、故不得同 年而語其優劣、亦已明矣。」(88 頁) 同じく「沙門不敬王者論第四」の一節である。「天地の道もその功績は万物の生成 化育に尽き、帝王の徳もその理は道に順い通じることに極まる。もしかの独絶の教・ 不変の宗(仏道)に対するならば、優劣を同じ水準で語ることができないということ は明かである。」 ここでは天地の「道」、帝王の「徳」「理」による道徳・道理の中国の道を遥かに超え る、独絶・不変の仏道が説かれている。一方で仏道と中国の道がその根本に遡って一 であるとされ、他方仏道は中国の道を遥かに超えて優れているとされる。仏道は「道」 「理」の教えとして受容され、また「道」「理」を超えていく。もちろん、老子の「道」 も無限定のそれに敢えて名づけられたものではあった。 ④「形以左右成體、理以邪正爲用。(中略)形理相資、其道微明。(中略)袒服既彰、則 形隨事感、理悟其心。」(95 頁) 「沙門袒服論」の一節である。袒服とは僧の袈裟が右肩をあらわにする肌脱ぎであ ること、これが中国の礼法から疑問とされたのに対し答えた。「形は左右があって体 を成し、理は邪正をもってその用とする。(中略)形と理が相たすけることにより、 その道が微妙で明らかである。(中略)袒服がすでに彰かであれば、形は事に随って 心を動かし、理はその心を悟るのである。」僧の服装について形と理という二面から 説かれる。形-左右-事という目に見える面と理-邪正-心という目に見えない働き の面が相まって、道を明らかにする。 ⑤「理玄數廣、道隱於文。(中略)理有行藏、道不虚授。」(101 頁) 「廬山出修行方便禪經統序」の一節である。「理は玄(奥深く)で広大な数(理)の 奥にあり、道は文の中に隠れている。(中略)理は行われる時と蔵(かく)れる時があり、 道は虚しくは授けない。」仏道が「道」と「理」で説明される。 ⑥「理玄於萬化之表、數絶乎無名者也。若乃語其筌寄、則道無不在。」(103 頁) 「佛影銘」の一節である。「理は一切の変化を超えて奥深いものであり、数は無名者 (道)においては絶えてしまうものである。もし筌寄(捕らえ寄る辺となる形あるもの、 仏影)について語れば、道はそこにある。」法身とその影である仏像の関係を「理」と「道」 によって説明する。「奥深い道に達する理」と「道それ自体を数えることはできない 数(理)」とがあり、その二重のあり方に対応して「奥深い道」と「影現している存 在に在る道」とが説かれる。
⑦「道窮數盡、理無所出」(8 頁) 「大乗大義章」の語である。「道が窮まり数が尽き、理の出る所がない。」法身を巡 る問答で、法性が身を生ずるという理(理由、根拠)があるのか、と慧遠が問う。慧 遠は、いろいろな理由を考えてみても分からない、これは「道理」がないということ ではないか。羅什の答えは、法身菩薩は生死がなく、存亡が自在で、どこにでも現れ、 さまたげられることがない(無有生死、存亡自在、隨所變現、無所罣礙)であった。 法身は分別を超えており、道理を超えている。 ⑧「法身菩薩者、經亦不了了説有法身國土處所也。但以理推之、應有法身。」(18 頁) 「大乗大義章」の一節であり、これは羅什の言葉である。「法身菩薩について、法身 の国土場所があると経にはっきりと書かれていない。ただ理をもって推していけば、 法身はまさにあることになる。」「理」は姿形のない奥深い存在へ達することはできる。 ⑨「雖云有信、悟必由理。理尚未通、其如信何。」(32 頁) 「大乗大義章」の一節である。『法華経』に「阿羅漢が仏となる」というのは、経典 に出ていることなので信じない訳にはいかない。しかし、「信じていると言ったとこ ろで、悟りは必ず理に由る。理が未だ通らないので、信じようもない。」ここでは、 信と理に由る悟りが対立し、理が通ることが求められる。 以上、慧遠における「理」の用法を見てきた。慧遠において、既に中国思想において用 いられていた「道」と「理」によるこの世界の成り立ちあるいはあり方の説明方式が取り 入れられ、仏道の説明がなされていた。仏になることは「道」と一つになることである、 これは「理惑論」で既に言われていたことであるが、さらに「理」が導入され、目に見えず、 形の世界を超えた形而上の根源である「道」に達することのできるのが「理」であるとさ れた。さらに、従来の中国思想における理の探究は具体的事物の世界の内でのことであっ たが、仏道の理の探究はそれを超える。しかしまた、仏道における理の探究も根源それ自 体を捉えることはできない。ここには「道」と「理」の説明方式の限界が示される。仏道 は「道」「理」の教えとして受容され、また「道」「理」を超えているとされる。 5.結び 本論は、中国における仏教の受容において、当時中国思想の世界観の枠組みとなってい た「道」と「理」の思想が基盤となったことを考察した。『後漢書』において最初期の仏 教受容のあり方、「理惑論」において最初の理論的理解の試み、慧遠の諸論文において「理」 の導入を見てきた。仏教の受容が最初から「道」の教えとして受けとめられ、得道すなわ ち道と一体化することが成仏であるとされた。当初老子と仏は老子化胡説のように同一視 され、『老子』の言葉がふんだんに引用され、仏道の教えを正当化した。儒家の思想はそ の根本においては老子・仏の思想と異ならないとされ、同時に、老子・仏の思想が儒家の
それより広大であり、優越するとされた。「道」の思想に「理」の思想が加わったのは、 現存の文献で辿る限り、慧遠からと思われる。中国の知識人や政治的覇者とのやりとりの 中で、相手が老荘に発し、儒家にも取り入れられた「道」と「理」によって構造化された 枠組みをもって問いかけてきた時、慧遠はその枠組みを用いて返し、「道」「理」を肯定し、 同時に「道」「理」を超える面も見せた。 この後、慧遠の弟子、後に羅什の下でも学んだ道生において「理の一大変」が言われる ことになる。「理」は本体となり、「道」「法身仏」そのものとなる。『易伝』の「究理尽性」 の語も用いられる。稿を改めてさらに考えていきたい。 注 *1 拙稿「『韓非子』における「道理」」『桜美林論考 人文研究』第2号、2011 *2 荒牧典俊「中国における仏教受容―「理」の一大変―」『日本語・日本文化研究論集』第4輯、 大阪大学文学部、1988 同「謝霊運―山水詩人における「理」の転換―」日原利国編『中国思想史上』ぺりかん社、 1987 *3 木村清孝『中国仏教思想史』世界聖典刊行協会、1979、12 頁参照 *4 吉川忠夫訓注『後漢書第十冊列伝八』岩波書店、2005、225 頁 *5 吉川忠夫訓注『後漢書第六冊列伝四』岩波書店、2003、13 頁以下 *6 同書 442 頁。「愔辭與王共祭黃老君、求長生福而已、無它冀幸。」 *7 吉川忠夫訓注『後漢書第四冊列伝二』岩波書店、2002、449 頁以下 *8 吉川忠夫訓注『後漢書第二冊本紀二』岩波書店、2002、120 頁 *9 同書 124 頁 *10 『鄧析子・鬼谷子・文子』四部備要子部、臺灣中華書局、1965、下 8 頁右 *11 前掲『後漢書第四冊列伝二』463 頁 *12 吉川忠夫訓注『後漢書第八冊列伝六』岩波書店、2004、349 頁以下 *13 『三国志Ⅰ』世界古典文学全集第 24 巻 A、筑摩書房、1977、256 頁。「光和中、東方有張角、漢 中有張脩。(中略)角為太平道、脩為五斗米道。」 *14 浅野裕一『黄老道の成立と展開』創文社、1992、442 頁、701 頁参照 *15 『弘明集研究 巻中(譯注篇上)』京都大学人文科学研究所、1974、7 頁 *16 『弘明集』の原文は、『大正新修大蔵経』第 52 巻に拠り、本文中に頁数を示した。また『弘明集 研究 巻上(遺文篇)』京都大学人文科学研究所、1973、及び前掲『弘明集研究 巻中(譯注篇 上)』を参照した。 *17 前掲『弘明集研究 巻中(譯注篇上)』12 頁 *18 葛洪『抱朴子』内篇「對俗」、四部備要子部、臺灣中華書局、1965、3 頁左。本田濟訳注『抱朴 子内篇』東洋文庫 512、平凡社、1990、52 頁参照 *19 通常「因果応報」と言われるが、本論文では次節で検討する慧遠の原典の「報応」に合わせて「因 果報応」で統一する。 *20 『六度集経』『大正新修大蔵経』第3巻、40 頁中。「奉佛覩經。(中略)遠離三惡。心念善。口言善。 身行善。仰上三惡。永興三善。長不令更太山 ・ 地獄 ・ 餓鬼 ・ 畜生窮苦險處。安以無極之福堂。」 *21 森由利亜「道教と死―天上の権威と死者世界」、吉原浩人編『東洋における死の思想』春秋社、 2006、79 頁 *22 『礼記』「中庸」に「道也者、不可須臾離也。可離非道也。」市原・今井・鈴木著『礼記下』全釈 漢文大系 14、集英社、1979、232 頁
*23 『荘子』雑篇「讓王」、金谷治訳注『荘子第四冊』岩波文庫、1983、65 頁 *24 伊藤隆寿『中国仏教の批判的研究』大蔵出版、1992。中国における仏教受容の基盤に「道・理の哲学」 を見るこの著は、本論にとって最初に言及すべき重要な先行研究であるが、この著に対する全体 的な評価は次の課題としたい。 *25 慧遠の著作は、木村英一編『慧遠研究 遺文篇』創文社、1960、にまとめて収録されている。 引用はこの書に拠り、その頁数を付した。またその現代語訳、訳注を参考にした。 *26 蜂屋邦夫訳注『老子』岩波文庫、2008、第 25 章(116 頁)、第 37 章(174 頁)、第 64 章(291 頁)、第 17 章(79 頁)