明治二十六年王治本の
陸前・器等における足跡と文藝交流(上)
全体の目次 はじめこ 弌青森より来仙、船越知事、松島行、饌歳の宴、その他 宮城県北漫遊 、 登矛 2 1原・気仙沼・佐沼・群谷 1 三、いろは・兵作心中未遂事件を巡って 四送別会兼仙台吟社春禾嘉集、その他 五、山形・米沢行、その他 上へ岩手叫市叢、その他 おわりに告
はじめに
私はこれまで、清国文人、王治本(号漆(黍)廻一八三五上九0△の日本各地における文藝一需の跡を追ってきたが、今回は (以上、今邑 ヒ\ 田 (以上、次号)継
明^伯一^十山ハ^(以下、一術を拓く恐れのない隈り、﹁明冶﹂という年号は竹くことにする)における^の^としてと^呂^^での^塾^ハ^^乢の^を明 らかにしてみたい。彼は同年一打末に仙台の地を踏んだ後、そこを本拠地とし下曾城県内の各地や山形県岩手県南割にも足 を延ばし、ほほ半年問にわたって地元の文人や名士たちとの、荒を行った。刈瑞期冏は、一年数ケ月にわたった瀬譜丙での それに及ぱぬものの、私か訓^且の詰果入^した宮城県鬨係の資利n^墜は,勒況県関^のそれをはる力に上回り砂^のところ、 殴も^力っ^^^"^判^^翊^^只^^りく 資斗の坐嵒さのΠ取火の要因は、当玲の呂城旧小の地方痢一・奥耶UΠ打開﹄(以}、﹁奥羽﹄と畍称)に彼の耐静力力なり三"細L判じ られていることや、地元文人たちとの一荒の中で詠まれた作品の掲載が少なくないことである。中でも、彼が山形県劼問のた め一時仙台を航れるに当たって催された、送別会を象ねた仙台吟社在の者区お様子を秤じる克明な記弓は、ψ尋全国各地 で行われていた七牙れる吟社の活動や、各地で催されていた霄四お目、<付ホな村相を知る九めの小左窪萪と一§ことかで きる。 ところで、私の王治本研究では、彼主需した人物のヂ直や行,器梨且か欠かせないのであるが、この点でも、宮城県につ てょ菊田、^モ劉一^、^7尿染、洪 n 八六六S.九二九) W^^の^Ⅲ力^人名^亦円^(以下、一州人乱.一と略称)とし、つ^めてー^津なノ名帝Ⅲ、 い があり、私の資料探索の測り知れぬほど大きな支えとなってくれた。{夫はこの辞沓に王治本も取り上げられており、その武載 内・茅私の今回の研究の出発点となったので、ここにそれを引用しておくことにする。 オージホン︻王治本︼油国儒名。漆園また捗黛辺人と号す、油国洲東の学士ル発ル文を以て国中に朋ゆ、陟治寸今頃卵 遊、遂に東京に駐り住し、当時の儒士文人仰いで泰斗となす、明治二十六年仙臺に来り、留まること鬮年、当時の知耶 ^^^窓、^^、^伯羽^、^条鵬^^寸^に之を^一^し、^酒^'^女^ね虚日なく^割^^片野^^ 4泉第洲^利 竹廩ザの文士、詩文の添削を受け、仙窒の文坪大に神益を待たり日希交努時一旦保巨し両国訥和後再びΠ本に平 マT
り明治四十年、七十餘歳にて長崎に残す、^園の仙臺にあるや、虎坊の^^国^蔀^^々喜家小助^を寵し、^ふるに書 画を以てす、艶名当時に一商す、小一活は信子、後ち従良して質寸女史と称し忽邑女流画家の目たり。 以上の叙述のうち、毛利竹南(名は穫。一八六OS一九9己については、仙台に来たのが二十七年であるため、それまでに仙 台を去った王治本との問にかかわりが生じるはずはなく、その名を削除すべきであるが、その他の人々は確かに王治本の仙台 四袈ヰに最も深く関わった面々である。中でも虎坊の禁凹小一江王治本の仙台荏在に、他の地域とは異なる特色をもたらした 女性であり、彼の宮城旧砺袈が長きにわたった理由として、自他ともに認めるところであった。王治本の女性とのかかわりが 最も色濃く出ているという点も、彼の宮城県一袈の火きな特色の一つである。 一十五年の八月から羽後の各地を没遊した後、年末に陸中の盛岡に移り、さらにニト六年の初めには野入の訓七剛をも訪れた ^治^は、一月^に仙台^移動した。二十六年二河一日の^,^羽^に^清客モ、治本^^という見出しの下、次のような、^^^ ^つている。ー^旧^より*一杲^岩^^^を^^中なりし^^園^伯^^は^^^^^^刀^の^^宗、^百にルX、^百し^^のモ而めに﹂^し て"曾る、由なり、尚氏は昨日県庁に出一器越知耶其他の人々に面談されしが近々当地の留条は氏を召侍して雅筵を開 くの訓画ありと^ハ近^は掲けて^日の^^内に右り^。詩削内に目^られた、^乍とは、^だ青木^一^山呉仏^屯卞乍^と陌^する^屯 四首である。その第二、三、四首を次に掲げることにしよう。
一、青森より来仙船越知事松島行、饅歳の宴その他
路是重梦羽略知路は是れ重ねて収発り約略︹おおよそ︺知れり雪痕厚過昨来時 ^^四川一^敬身臥 忍凍耐飢嫩作詩 夜事ヨ河欲催詩 玉地氷天冷艷姿 ^リ矛^沙Ⅱ^才 忽能写得剪夕奇 雪痕厚きこと昨に来る時に過ぎたり 力たむ
書を批ちて耶か復た身を敬けて臥し
凍えを忍び飢えに耐え詩を作るに嫩し まえ夜来雪月詩を催さんと欲す
玉地氷天艷姿冷ややかなり
枯膓の廿八字を捜索するも 忽でか能く写し得ん計多の奇を 、^匝^^^^,^、 飯穎如氷未可餐 ^^^^^^^,.^ 一千埋路夜呼残時ヰ車邪"たり
第二首と第四首の末尾には、それぞれ次のような自注がある。﹁<永自河初八馨岡奘口浦︹馨森市の地名︺回途﹂、﹁午前発合浦 到仙峯巳夜丑刻︹午前二"ごろご。 この王詩に対して、歓迎昇とも言うべき佐藤熱呈(一八五三S一九二E と北火禽所二八六六S一九0五の一河二十九日付の 次のような評が付せられている。 1﹁北辺鉄路、毎遇厳久\梨三所阻。二三等作、描写此問光景、宛如目賭。先生遂游萬里、足跡殆袈桑七道。今乃載筆●遊、啼倣于氷天玉地燭、註唖詠、令人一見傾倒。仙城鷲礼今得先生二慰応有添色再
、西^料岫︹肌寒い︺として,笑、に^えず ︹飯枝︺氷の如く米だ餐う可からず一千里の路夜将兵せんとす
飯穎 十 ー」ー ノ、上テ諸雋徹然款待。︹北辺の鉄路は、墜に遇う毎に}トお阻む所と乃る。、、三等の乍は、此の拐の光県を描写して、宛も目擶するが如し。先生は彬するこ と萬里足跡殆ど扶桑七近に逼し。今乃ち笵を枝せて●遊し、氷天玉地の問に媚倣し、註ハ頗る豪にして、人をして一たび見るや傾倒せしむ。山城の爺E、今先 小の一轍を得て、応に色を添うる有るべし。予将に、器と歓然として款待せんとす。︺^、^以^ロ。^^^{晶国^刀町^^^^^。^治^の羽ル^"、怖^時、 秋田地方裁判所駿邑記を務めていた謙荏、秋田において王治本と最も深い一荒をした人物の一人であったが、王の来山と 、 し 劃櫻して、仙台に釜貝一打二十八日村を以て出身地の宮城県属父榛)に任じ、内務部第一琴辰商'務を命ぜられたと (江7) ころであった。一力、鵬所は、東京の人、名は直方、字は方大、石岡一に珀航舎人。また、卯温生という別号もあった。外 国廼子校を出て、その斧街に航し、久しく上海に寓し、帰国後、若くして宮城控訴県国記長として仙台にあった。王治本と はかつて、共に﹃郵便穀知新開﹄の﹁文苑雅賞﹂棡を賑わした朋柄である。 ヱ 上引の二打一 Hの﹃奥羽﹄に﹁近々当地の憲条は氏を招待して雅筵を開くの計画あり﹂とあったが、資料から鰯ルできる 王治木と仙台文人との詩文﹂、需一姦も早いのは、それより前、県庁へあいさつに出向いた当日、一月三十日に喜多佳話亭で催 された{冬であった。出席者は王治本元太述のほか、迷呈西十歳)、鵬所(二十七歳)、並びに鈴木虫香西十六歳)、西山公屋(五 ト六歳くらい)、^^、西^^(四十歳)、^^^^(四十八歳)^^々^あった。 席上の詩は'六韻で謙堂←鵬所←鴎所←羽北の順に、川,先韻)で栗軒←王←王の順に、それぞれ詠まれたものと想定さ れる。懲お本瀕一律と、独香の二絶は詩句不明である。二河三日﹃奥羽﹄靴録に載る、鵬所の次の詩には、この日の出席 者への人物評も含まれている。 鴎所小史 癸巳一河川Π、 日関一鷲ヨ白於銀 同人魂響王君冶本於喜多佳四罵上、次佐藤鯉壽韻、率賦長句工早呈諸君 日嬰︹きらきら光る︺なる岳玉ヨ銀より白く
中虫.サ乳降翆 ^^^^、^^・^^^^ 、:リψ卯H牛,イ 不U仰分人五ナ ^"^河刃、^上1・r 、1,N1.h影1女、、一 樂々見他才絶倫 り〆﹂^-L11氏、臥 姉仟唯莚文字税 ノノ三吉N打'畔^^ノ 東長米だ到力さず紳陌︹美しい市街︺の鼬 奇笑も米だ放丹︹熈迭を磨す可からず 三杯の勘酒料利を叫く
捌せずして会す人契
︹辻H)沽歓羽あらず主と買と
町の勿く 王郎︹雨本のこと︺は尋冶にして [ そ 他の才絶倫なるを 央々︹衆に抜きんでるさま︺として見る迎臣虫否よ価訓を喜び
唯従う文字の親しみ 肺肝 広ム^よ肖.司こ印^汗よ^、、^ 人句の甫人を驚力す川かる可けんや 唯予のみ落々︹劣っているさま︺として久しく遇わざるも 紗乞迄しこU大り沖︹W︺廿に↓yなるをあゑ墾は時に及んで鴛水せんのみ
ぞ人ぶ人相洪て排倫わん悪品春︹酒の色
'司佃{ブ六ロメニル一ノ 唯予落々久不池 喪ノ包ト'ト日弓tq﹂ノⅡトー、、 ・H"斑い二ー^撰一]内井二 村^土介剛1^僻^ 赴Nに見える﹁独香﹂﹁松屋﹂﹁栗軒﹂は、それぞれ次の三人の雅号である。﹃仙人辞﹄にょりその人となりを示せば、独香上た人と
は鈴^亦人交八捌七S、八九七)、^^^後桜濱に之き、英除へポンに^て医井を研究し、帰りて^を似1^一に開^した^又詩文(ごU︺たかやーー
^俳に通じ、"取も詩に^^であった。^^は西山降共小二八三七?S一八九八)、^明治二年郡長となり、煕刀勿^二淵を管し、土^Ⅱ、玉乢廼二郡長に^^じた。^次で仙第県椛^属^神^官宣^^に^^られ、四年宮^県徐少^ノノ亊心得となり、尋で陸軍^ (キH︺ 刷に任じ}止七位に叙らせる、他載女血民となり、動一六等に叙﹂せられた。栗仟は片野栗軒交ハん三上九9 )。﹁当仮大分 (辻 町の人^で、^呂^皿役^油^長、柴田郡^に雁^し、吏^^ あつた つ さて鵬所はこの後、同じ靜を川い、かつ﹁仙1喜多佳脆︹N aくgぶ佳脆多きを︺﹂と聖み名を織り込んだ﹁酔中再 L人まん 用前敲、呈王先生^詩を詞んで王治本に則り、これに一^いて羽北、すなわち佐伯百一而も次のような詩空赤み、一^冶^に叩.^して いる。 ^・^^野央^印誰^^,︻一苧^旦子江羽^十予^伽^ ,尹、鵬光^削一痴釦,災擔︹打のこと︺^一勸たこ^流1んと^し 剖^血立・川右兜一耐^の血﹂、乎右^を炉^ ^^/含ケ.一^^^^^H^^^^門、﹃^R^^く 沙,紗ノ 淋嚇なる墨P
妙杣に入る
判一
;,川打白喜ぶ池外より同訓を得たるを
﹂嶢=、/ h ﹂气一羽 1 扣迩為主又為貧 相逢いて主と為り又賓と為る マフ ﹁÷ 火河^"、Ⅱ^目、き^ 綺莢革やかな゛句︺も用いず晧鞭(沓︺を煩わすを 酒問の佳誌︹うまい張︺も亦倫を超えたり 記1[^.司^.一川 ^斗^^^白、^巾^ 咲卞の人^身^一洛たり 干Π一斤而霄一.ム晃 肝胆 晒ハくる莎1 情 転た親し ^・ー^都指笏一ヌ 文字の飲と脂粉の気 (江、b) 0^此会風匹奴古人 一器以外無一累 ^態^^倖^真 人十ず県寸閑耳 殆^^剛^一、昂、^
此の会風流古人を徒ぐ
盃を銜む以外一累も無く狂態にも仍お看る爾我の真
人生の窮穫一南せんのみ
^^^^^^^^^^^
佐伯真満(一八泗五S一八九四は、﹃仙人辞﹄等に拠れば、﹁泥と号し、別号を全唐倫と去ふ、羽後国秋田郡小沢田村の人﹂、 ^明ソ^伯七^戸^^に出^し、昂^で^を^^、^心^二旧^に^じ一^に^呂^旧小に皿^り、^^を^智^して^^^^となり、^一^旧^ヤの ^任を受け^た。^後ち奥羽^唾^^会^長となり、貨物運^の業を^営す、一^た^ちて^^属となり、^旦^郡長に栄進^し、 この山碓も其の職にあった。また、﹁平生覗¥に耽り、喜んで文雅の士と交はり、唱和徴逐、大に仙臺の文述作興に貢献し、 髪n一六、矢士錦山、北火禽所、沽人王漆園箆白推して作家と称す﹂とも竺られている。珊沼という号も使うことがあっ 大会仙謬,村詩一第一樹、ニト四年) 嘉心の詩については、以上竺た通りである。 ではないかと思われる。 ^園^^^人、^^^之名^、^^^之寓^ム︹他郷に寓する大官︺、^問^加休、詞^^咲^、^ー^、^交仙^、^^加之、一^ (庄Π︺ ヨヒ鳳長句一篇、呈正並乞玉和佐伯
可ゴ壮游井礎東天壮游第を載す奥東の天
萬里翻田鴻爪縁萬里頻りに留む鴻爪の縁
ヱ 川麒の詩は、二月八日﹃,對﹄所載の羽北の次昇を皮切りとするの、満慢蚤綸H独秘 等身著述待人云 襟除磊^^玉門轍
桾綴築局偲
^岡^^^^,^一^ 一鞭祭ヨ弔厨川満腹羅綸独り秘するに甘んぜんや
等身夛夕くの︺の著述人の伝えんことを待つ ^懐石^^たり^門の^ ^展風流なり玉局の偲^蕪^のこと^ 腎ルす詩成りて客涙タタかりしならん一鞭祭ヨ厨川を弔いしとき
第五句の﹁<玉円隠﹂は漢の東方朔の故事(1﹂滑希列伝)に基づき、山林に隠遁しているわけではないにもかかわらず行い の高潔な人物を^える。また、末句には^先生客^、歴^血入羽諸^、^^川懐^之詩^との自{一赴^ある。^川は、^川^のこと 打ねとぅ さたと.? で、平{轟代に現在の盛岡市北西部、北上川西岸にあった柵。前九年の役の末期、安倍貞任・宗任が源頼義・聖お軍をこの ^に^えて^い、^れた。こ四^に^れ^、^治^は羽岳^から^岡に着いた一^^^^^、^川^を^れていたことになる。 さて、この詩は'字から見て、仙台の﹁仙﹂とコ号多川﹂の﹁川﹂にちなんだものと察せられるが、このように﹁天、 禄 伝、Ⅷ、川﹂を鯲了とする詩作は、王治本の陸煎袈中、詠詩の時と所が変わっても続行されていくことになる。また、二月 Ⅱ、 イ 四日﹁陶菊﹄所載の栗軒の次の詩も、こ倫の作であろうと見られる。 栗軒居士系森紗大束天
桾展来尋文一森 八十洲中游跡遍 応羽化・剛丁 松屋・独香・謙堂諸先、梨壁漆園先生于吸川亭、酒問畳川字覗以呈 ^雲冊^^たり^^の天桾展来り尋ぬ文字の課
八寸洲︹八十島の愆か︺中游亦遍く (注N) 、三千里外盛名伝
縛締逐乗枇客
蓬島重逢兎薬Ⅷ ^^^^^^^^、 台Uオ巾1^寸^h1 三千里外盛名伝わる、幾誰か逐わん様に乗れる客
蓬島匝ねて迩えり薬を尭むる仙
想うに先生 M裟重からん 宇内の幾山川を力烈し尻る "織の吸川1、+y川(北川)亭のことであろう。このNΥを開業した北川加作(一 九0 ? S 風 i J に焦皿する石赤﹂の出身であったことから、北上川水系の一つである吸川が亭の別称となったものか。直<相は不明。 H木側文人 (辻訂︺ たちの尚尉に対し、.士冶本も﹁﹂吊L込叫、早剛池君﹂詩を詞んでいる。 ところで、この契厶では、あ急{者が鴛於六紋捉すなわち清元の﹁北州千歳寿﹂を舞い、これに魅せられた王治木が次の よう六点を詞んでいる。 ︹於のこと︺ }一 1 ー,,、ー事袈曲打や犬挙長
歌扇偏隣我乏縁 丘作六1@九二世陀 '朝珂欧、^一肌云 柔恬未免榮孤客 王削可1学'ル 歌、扉偏に隣む我、綜に乏しきを 赤がに折つも空しく剣墜たり {、L勿 (1し少︺ 再用前麒 未だ免れず孤客に祭るを 情狂酔何ぞ妨げん油仙に学ぶを
上付こ河吹を^り匝く流云り カーー一Ⅱの^刈口剖舶村中
牙・ オく 刈 "、 ノ\ 四小^一止、ー^カ^^仙タ 匝Y溌在^以1飢^Ⅱ 第、二句の厶疑は唐代の有名な歌妓、札娘のことであるが、ここでは造兀の仙を辧っている藝妓を言う。第四句は、白居易 か利挙に及第したとき長安の妓女阿彰に蠣った絶句かいつしか伝誠されて、ト五年後、彼の親友元板の赴任地通州(今の四川省 (生) 逃にまで^わっていた^*を吾う。もしこの蕪^^冒頭に引いた^仙人^^に一^言及された小蔀であるならぱ、^一見鍾^^ の 倫剛を示す作となるため、引いた仇冷である。 旅一穫荒凉として 、瓜厶削占^力以^ 一月八Bの﹃奥羽﹄雑録に屈王松窓松明府﹂と題する生伯本の作二首が姿ている。これは一月.二十日とは別の日の作 と考えられる。第二首を掲げよ、つ。 徒らに曲署るのみ 1榔火川︹仕牧のこと︺ アよ侍*の勿く恵よチの刈く 制^^^^^^^^J^を^う 熈Rす五城︹仙台のこと︺赤色暖かきを 価聴す萬E 墾戸伝わるを 民を愛する心は茲怨仏に似たり 逸小もて歓聯す壯満の卿
鹸国の倹知る久Wるを
^^^^U^^打^広島市内を一一乢れる猿猴川^を^^き、^^リ^ ジ勿W斥徳如ヲ 箱二^即、永^叩^水 ^N只、^^^^、^ 頃^、削^^ノ曾乞 愛民心以慈恕U ^一,影爺す酉野 故坪仏凌力久闇 "^^,中凹司・、、思哀H二月四日以前案日、登米伊一豪の十四代、如山侯伊達基券来仙、その日のうちに北川亭五会か開かれた。基{券宿泊 したのは、^治^と同じ^^、^久であった。羽^・鴎一^を^刈して如山^と^^を乍^た^治^は﹂^^、次のような詩(二月十日 ↓奥巴を赤んでいる。
染飲吸導颪贈︹"︺王治本
如山侯来游仙城、適芋余同{馨舘。一翁北・鵬所二兄為介遂得識荊。一見如故、硯熊合而藹々、敘李度之刷々 匝雅宜人、謙村^物、刈花酌酒、^ワ坐^^。汲^亨災ホ、旅空窒統画。^^^愛、頻^清^。用^^害十、以期、^^。是 ﹂ ^^動^^^^^・化^^^^^^■^^。^如山候仙城に*勘し、適たま余と同に客舗に寓す。羽北・陽所二兄に籍りて介を為さしめ、 弓ヒ ヨ﹄ J﹂やー 逐に澁荊するを得たり。たび見ゆるや故の如く、儀芥の藹々たるを硯い、平度の棚々たるを欽う。風邪人に宜しく、謙沖にして物に接し、花 を^^。ル^^タ、^^^^^し^^^^^^・^^^^^、^^^^^^り。^ 村誇^^^^^此、^^ H汽^^^^^^^^^^の、﹂と^^^^ 萬戸^對三^"^萬戸^に對^られ三^英でたり 壌接鰹雰閥鬮壤は偶呈︹仙台︺に接して閥開︹名門の家柄︺を分かち派^式^訓勲名派は式^を^けて勲名を訓る
種瓜問寄東陵跡瓜を種えて闇に寄す東陵の跡
楽酒歓追北海恬酒ナ棄しみて緻んで追う北海︹劣当条捗のこと︺の情剣第堆空"圧架剣笏床に堆くして沓架を圧す
風流韻那玉堂卿^流韻半玉堂︹富貴四委の卿
に対して油をMみ、琴耶聯吟す。水を汲みて茶を烹、蕪心に画ミ,乢む。判愛を承くるJ'くし、却りに沽歓を獲たり。用て短章を蹴し、以て、水好 しとやよ首句の﹁甘山襟蔭﹂は亘酷召南・甘業の詩句を踏まえ、人民が立派な為政者を心から琴ていることを表す。これを含 む前半は、登米役家史上、最も有名な第四代(第三代とも)一潘主式部宗倫の事を中心に、登米建家のこれまでの栄光をたたえ、 後半は当時の当主、如山の風流な生活を描いているものと解釈される。第五句は、漢の東陵侯召平の故事(迅記罵相国世家) に基づき、風雅懇逸なる生活ぶりを表す。伊達鷲芋二八室<S一八九六)は﹁常に心を殖産興業に用ひ、父老に諭して農桑を勧め、 資を書生編して実学に就かしめ﹂たと言われている。また、﹁清客王漆園、巖谷古梅佐伯羽北、北条鵬所士肥石武等諸名 (注怨 流を其の如意窟に延きて文酒の遊をな﹂したとも牙れている。 さて、王詩に対し、如山は次のような詩を返している。 (止部) 即席答韻 軽車今夜入仙城 、^纛徳ヌリ、仙日一.L↓ノ 環璽門山呈秀色 当年白社擅詩名 新春烟旦襟欣賞 故国関河脹H情 紅燭両一暴一曲 伝甥我欲倩卿々 伊達如山
軽市今夜仙城に入り
^宇^^瑞^^一^^町^ ﹂廓を環る青山秀色を呈し 当年の白社詩名ナ'にす新春の烟景欣賞長え
故国の関河日情を脹む紅燭両行歌一曲
鯛を伝え我卿々を倩わんと欲す
第二句の﹁抽■は、謂一の︼傑の﹁壇姑﹂の誤りであろう。第四句の白社は、二十四年創立の仙台吟社を指すものと見られる。末句の^^々^は、ここでは^^または^しい男^開の^友^塑恵に^るのか最も自然なように思われる。この時まだ二 十代であった如山が、^^燭両行^一曲^の雰囲気に染まり、ついおどけて吐いた言早^ポか。なお、この時、羽北と剛一^も、と もに﹁込俄呈謝如山侯﹂と題する詩を詠んでいる。 マ﹁ さて、三月七日﹃奥羽^の^王漆叩俗本氏同氏は松,島游覧として赴かれし処一昨日偏Ⅷ﹂とい、フ記耶に拠れぱ、士治本 は二打^日より^剛に^島^莞に赴き、^Πに樹側したことになる。同行したことかWヲ冊できるのは^^日大けである^ほかに も同行者はあってもおかしくはない。そのときの独香の作か三打一日の﹃,晶﹂に掲載されている。§田系遠先生游松鳥、 (n詐) ,州1劉川才級﹂と越する川諦のヒ中一首と、﹁到原器一内尋、 1前誰﹂と題するーの七律一首及びこれに付随する尤 談の七絶三直ぐある。ここでは、尤誠の七絶三首を掲げることにしよう。 萬頃煙汲二米例 f 、、寸姓'ー、ニメニゴπ 西湖冶ム"庭河 比校広洲卯孰優
#島浮沈して杉士仇れんと徹し
ー^立^^^く^ム^^^^^^奮主当日禦水を尋ね
此の青蝶︹古山︺萬点を探りしやいなや 松洲と比較して果たして孰れか優れる 内湖の春色血庭の月吟1驫せて名沈を什う
・畿の畑波一牟の舟 ^^^゛・ゴ^ー・上ソ^↓刀 J ,﹁立1 召、ノム十 奈呈当H尋似薬 朶七ヒ阿県^^一、一一^古、"イ^々火^・署製 ^{限爪光学上灰 雄島飛嵐松島打 ^,^^、J^^^^、^^ 、^治本は^島で^紀勝七絶五首^を一^んだらしい^、^念な^ら、^マに^わるのは、そのうちの二句1^釆^^難窮島^百、 只^歴歴鎖^煙︹悉く数えんとするも窮め鄭し,局八百、只石る疑疑として松煙に鎖さるるを︺^のみである。これは皮が十九年の高知訪 問をきつかけとして親交を結んだ、彼の地の詩人、三浦一竿二八一西上九09 が二十七年もしくは二十八年に松島を劼れて 詠んだ﹁松島八冉需﹂に附載されている王治本の評の中§及されていることにょり、知られるものである。一吉本は一竿に ^^マ読君吟、猶覚^霞^目︹今おの吟を読み、猶お煙険の訂に在るを覚ゆ︺﹂とい、つ述懐の弓巣を、^として与えている。 さて、松島から帰仙した五日の夕刻には、如山にょる招宴が、霜構宏壮数名の内塾名も居て、泉岳四肌の眺めを恋にしな がら、酒を招ぶこと﹂のできる、﹁市内里等の劃倉﹂である桜ケ岡市公△蚕、すなわち群益で開かれ、さらにその答礼 として^^^^の^'^^六日に開か^た。次に引くのは、それを^える一^河七日^^^羽^の^^である。ー^^^珀^、^の召{^ ^Π来仙^られたる^^^密勺^には一^日^後^時より^叩^^に^て^^^^を^め^^当^^目川^^曾^長^参^^月左白^^ 述一儒長友部伸吉北条鵬所の諸氏を招き懇親会を催されたり、尚船越知事には右の答礼として咋夜同氏始め二三の知友を其 訂因に尋開して契工を開かれしよしなり﹂。三月六日の船越知事の招宴の様子を次に見てみょう。
琴博判々として官樅に奇る
無限の風光Ⅷ1に収む ー'、^0 ^^,^、^^'^とも^^^^亟プム^^^^ 春,、肖例せて双咋に入るるを得たり 六日の船述知亊の招宴の出席名は、船越・伊一研山・王治本のほか亘墜儒・友部鉄軒 た。一一辻一^^^伯二八四九S一九一△は^四回、^呂^県^五一^員に^手^られ、一^叟^ハの^^となり、 北火応所・佐伯羽北の而々であっ 饗敵院逃貝に挙げらる、こと前後二回、而して仙帯長たること三次、身を以て政治に従ふこと四十餘年、而して其の功傍最も伝ふべきもの、多くは市政の 靴にあ﹂つた人物。友誤軒(一八五六上九一七)はもと常柴戸藩士で、﹁標伸吉(初め新士巳鉄軒また介洞﹂等と号し、﹁仙 L プ 臺に来り操飢に従事﹂し、﹁十四年車駕東巡、鄭を仙臺に駐﹂めたとき、﹁松平県令に代りて賀表を草﹂し、﹁其の文謹厳粛雅、 文名一時に喋﹂いだ。﹁輪花仙史の名を以て仙苓妓伝を茗﹂し、﹁其の文流暢血匝成島柯北の松乳四秋一鴛十(大槻 、 し 一^^^の^西湖佳話と^び^^られ、当時の^白生小^^一^々之を背訥するに至^つた。^十九年^羽苅聞の聡に﹂^じて編^を^ 理す﹂るや、璽命に当り、社務を叔堂し、紙幅を拡張し荷も東北文化に資すべき者あれぱ、知りて言はざるなく、一言ひて ^さざるな^<、^加議明侠■ル^正^、,^入羽^開の名^^示以^に一^た^らしめた。^又^条鵬一^、^伯羽^^フ泉質^洲^と仙臺 (主能) 吟社を興し、盛に文梦七鼓吹﹂したとも一1れている。 さて、この纂席で詠まれたと見られる詩はすべて川誤で、詩題は左記のとおりである。 告論霜邪治・磐友部鉄軒・北条鴎所二兄席上畳邑
佐伯泥﹁二月六日鴛明府染荏牙如山・王系園
.、士治^^^窓明﹂附招^^次前一^^羽^・^^ニ^同^^。 北久両所﹁全席次池。 速警勝﹁全日偶得﹂。但し七絶で、靜字も異なる。 友割鉄軒﹁全席和ι■(以上みな二打十四H ﹃奥羽﹂所載) ここでは、一嶺詩膓而治)と友部鉄軒の作を掲げることにしよう。 (注幻) <工日長号一暖詩珍落哘工W一一卜f 畑Ⅱ才﹁司了前・啄 4 ,勺卜f 、二匝Υ". 努力斬奘詩一篇 だ右は吾うまでもなく札牧の﹁造懐﹂詩の起句が一'きであり、 R田性ヒ卯邦との禄がまだ刀1て、よ、ことを言、つ0 江湖に治^して二寸乍 米だ得ず前縁をΥするを 加化 4 ,智似大ま判えり・爪汁の・グ・・ 努力して漸く成す詩一 .●1﹂ 工一1 1 冒1 ーーー﹁ノ 斗一司ι1X布回犬 ^"^H^イhW吋メ^ .ム﹂U﹁ι"区Ⅱ心一、 y^ ー, 1 ●一 r "、 1 一^ ホ門F九、*尤1河西 YLゾし"H四了1Ⅱ ・^・^J^口Lゞ仁^U^^小 玉朽吸尽尹西Ⅱ
J
ψ一一年孤剣火を可らさんことを示み 長甜の町^劫一^しに獣を・邪し^ 伊"^の策は巾心尓こ因り火元し 膨十めりは汗肖︹兜冉︺に霜りて云わる 辻π上一﹂尤り この詩は、この.纂のホストであった船趣のことを赤んだもので、而半は述打の祭までの拾越ⅧⅡ)Ⅱ亦をそ児して、窃0 右の﹁擇西川﹂には﹁当夜一川供酒是共1酸。牧云﹂とのR主がある。なお、述藤の乍こーするnyTのt沼のやこーーー京 政治の餘闇仏Ⅲを孚ぶⅡのタベル璽窒課こ培す
玉^^し^、く^ g、川のⅡ ゞ、 牙 11 」 q ゾK 二1 f r ,君亦有和作今失之﹂とあり勿Ⅱも導燧に和して詞んだこと力勿力る 二31力Πの﹃N人羽﹄には﹁金分氏乃●品﹂としう見Hしの,ト﹁U十q引寸金クが,足ι淵右寸なるが客1仏Ⅱ部←力部"バ"t 遅矣浣罷詩、^心頁八仏ご'耶^の為めに胖,まれし行R記はL父,,子喨^帯耐"ソyL近"dナ竹なり^との・而目カホリそのノヨ.^力乎1 、,、 q ーマL ふ.り.0 :!:.ー、、、."﹁. i''.'、、.、↓,ー;、 1 一,.主 さーている0 <心貝ハリ三⑪二八岡二?、一八九波)は、一一削ノ側﹄に^村二.秀工二L訂を以て削ゆ杠一二良,叫も1師ι上ーノ袿、iιt、 こ^^たり存て一鴨円を則^鼎些に^じ、噛旨^六^に^^らる、^^て学とす川治ブ十下司タタ在痢拶^の亙g^ι侃りり・が﹁轟 ︹●隔) 員に勅任せらる﹂と研されている人物である。 、十治本が全唄松三耶のために批した内容は十四仟ブ月天宗四M島"1打↓¥の際ヲカーのロタ壮!f筥を釘1ιオことしょり、 天.1皮J愚労して、﹁金赦岩十円新和■一寸匹﹂を賜っ大勧の司柄で、﹁壬1除前三Π﹂すなオち問ル一上1 一Πの﹁ず" Nどと記されている。 怜磨の大みそかこψコたった、この年の一'"十人Hには、十汁木力匁友を肺鮪に招きナみそ力に辿村を伊えて、1 0邱{竹っ
.、".゛.﹂;,一、ー、;上 1丈、、司一ι一一 1、 a
た詩を処小ったというル'(川本1人)の攷*に倣い川謡の多儒し大次に弓くのは、その小を判じるき寸 fの﹂,斗.の ﹁^^一ぐある0 1^揺^^^^^^^﹂^に滞^中の油グ^^^佃^^は^タ什^^除L^に^当^るを^てψL^の釘ブー久オ卿ル金 ^虫^以^^^何左藤別小Π^^剖^^^^川^を村ハ^^に"郡して^^が^邪Y女を^きー^刃加U^"を塑,レ^らーが、Ⅲ父Aの郵・あ{ヤ^ 耽こし興昧深き{業なりし﹂。この席で契三れた詩臣認される八首の、つち、L凹はやはり川剖のfで二打ーソΠの〒,ヨ﹄ に鴎折の二首と王寸県・鉄軒・栗軒・独霄の各一首か載り二打二ーニ日の同赴に誹堂の一首か非ってしる以上のうちこ こでは逃呈の作を挙げることにしよう。ムⅡ心牙^^.t^^^^に^リJ、^^^^^"^^ノ一^
征鞍御井扣中天征桜暹かに旨す,兇東の犬
da^^Ⅲ^^^弓^し^^く.^田^一^^^^^ "タ.而膨倫ール一>小物夕の,訂戸^︹世俗を超越した・哘荷な丁'︺よ奇Hて小1冷、し一^ Nq剣、砧^見^削^^ー^も^云、つるこ荘、^^リ 砕身万通同1柄 浪迹還舌似地仙 ^,j 凸羽、三一オyノΠ﹁﹂ ノ一●、ー¥削歩一yイ,イN N叶ルノΠ^^^、^^^^印アノ^^ル^^^丁、,吊・一^ソ^河〆止、 H一寸ヒレJ ^¥レ、示師^^河^上^才^四、、\Uこ誓Ⅱ圭虐、署△棚 の'み、﹁佳諜、倫りとぢぇられる。また 第七句は﹁あなた倫Rむ弟の仕方二ままだと分かってはいるけれども﹂ 、 とい、つよ、つな漕^と^^られる。末句の^杣川^は化^川の上Ⅲ^小であり、^t上呼1明Π赴釜之左召乎^^との目、二こ 通り王治オカ翌Π北1Ⅱ汾或の登米・佐沼へ出かける予もこなって、ることを÷ー、つものであ゛0 ノ首のうちのもう工Hは、王治本鳶土に題した四織)を用いた、このΠのξ厶名こよる次のよう 1田(一・打一↓、・ヨ一・1刈 であった。 閑身道らざりき如柄︹局納︺に同じからんとは 浪迹四考看る地仙︹人制界に住む仙人︺こ以たるを ^﹂^^ムら^^る^^^U凡^を采る^ ι7一肖Ⅲ^^^刀^^^^る^ら^ 辻九 ⅡL Y﹂^侍Π十 1 川.、",,^Ⅱ工山ヌー^^、訶^ 身.、刀市^りフノ.L 劃咽 ゞツ^心^羊一一^蔀 長^^U丁^m ^剛動^
配袈光会勿為︹譜︺
ⅡⅡ﹁[打一が^^訊止四 ザ〒町丸↓ J^E 止^ 琴丸は由来励肺を後ぎ ^^^^^^^^^^^し 愁いを溌ぐに独り二杯の記右るのみ 梦七振いて千仭の岡に登るに好し 泓,妥の光徐は梦の勿く鴛く Ⅱ^^・、弓^^^^^^<^^^^、^^ 一たび杵かぱ新胴︹Ⅲ年と斬年︺分かる .}ル加 汐^力こ・、^"を打^し,旧吟^元HL飲む村"牙仔をつしナ仟︺を^え^ やι■.秀N云柏吟大'悴 首川は、冲珀として励堂(帽廷)に祭られるより生き大屯として向ルな一生を瓢誓し六しとい才^附二^手万 1 戸ι・・﹁ の^^を踏まえた^^か0 第三句は^白^月^^^^共の一の^一一^迎ゾ道^を^まえているガろう卸PノΠ{^田^の^市﹁ 詩^共、^の^^衣^仭岡^の句を踏まえ W仔の名利を払てて憾迦することを戸っこの示{付せら1六・詩{^撃物. b,リ ,、 J 司肌●'、﹂\示^目、^夫戈、§目 1ψ乎^H^・ 4V一メf勿^^一ドψイf制U戸N羽"プ訂仟ノノ g"乎;レ" U拠, N山叫ノノノ市 岡畷 絵まりて一地と成り、レUこ加<かたき役>末<小年の男役>趾<女仏>Ⅱ<迫イ佐>一斤にUルし'紗月訂州U mオを同しくして対1 訪'力4 冷rノノ 加Π (t三 と、、つものであるが、小国の云銑一織の用勃川を使っての升孚力ら上て、仟NⅧ力糸好dある師砂の乎1"るもの力六お次 ^H寿の妾^^^^^^士^^^一へ^詩則^^^・^^Ⅲ^タ^^似竹^県^^^圷.先^Π叫金^とし、つ卞三訂ιよー、、・一ド^ι 詠まれた詩のあったこと力知られる ところで、上に題を掲げた彫所訥第一 ー^^田の^J^μ^^町^油●^打︹妓はー101く 惰の第q田^毎L芭"じゞ汀川云︹詢ヒ四一詑 MイⅢ伝わる︺^令油1●r﹂ 11絢のが女の点)ハ止中 酒は川の二し︺﹂、独禾晶綴聯﹁支杉<杉>呼酒<笵>訥先就、紅1<仟>杯Υ巳<己>(剛子) 一ν IK {・二奪><二>
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-d.一^^^^^^^^^^^ ^^、^'^^・^、^^^,1Lι^^、= r'} 浅水mルN ︹誹︺ ,1昇,﹂・^Ⅱ1内陽一^ ψ^0^、^・^^a[^^、^目^﹁^^ 孤征雁賑畑璽ツ︹漆︺ 4閣獄^誘沙^^圃^ ^^^^^^^,^^^^^^ 剃来U路歎分岐︹羽︺ 喜君于我垂古慢︹栗︺ 当代何人号白眉︹漆︺ ("心) 咋夜は枳を敲き今夜は忌 庁カコの﹂^も加W^川なり迺令手に仟り春泓、つに見え大り
打に祭わり老いて更に珀れ大り 歌扇 L父小^は須く指^の一丸︹女々しい気分︺を除く、^きも 上よざ 雲山好に冷妖︹優邪で美しい︺なる姿村り 肱讐愈なるル,,L︹紬易布︺罪おΦ三残れるも 浅水の勿花円寝を放つ笑県良朋町び辿い朔し
冉、L n^1 削、﹁も1L^^ 孤征の雁岻聖汐を驚力L 凖閣の"川ア︹""力栄竹りL剛しる四ψ刑を¥"る 、、大涯を游<遊>遍して身健在世路を開し来りて分岐を歎く
我に町眼を垂るるを 汎 、業 左人びと 当代何人力,U眉と号する^、寸:﹂H 一ψ一﹁ー^, 山仙^^Ⅱ小^可リ、勺ワ,ハ^^ ^^^^日^^サ,^デ^^^^ 価 ↓.ば^噛仞^H代宰益寸山^ h
笑必令厳金ハ今§邑
還応閑把玉補吹︹鵬︺ ⅡΠ制ノー・爪^"ー^ 河是瓜汾総万知︹沙︺ 吐罷して欣ぶ名下の上︹噺を9人︺多きを 愁いJ衞すも奈ともする無し影辺の絲爰に洸じる白髪︺ 炯 舌川に消え琴宇まる後匠川侈風に沸き盆・すー
純笑ぞ必ずしも金谷倫臣を厳しくせしめんや
遂た﹂心に閑かこf飾をぱ次く、^し ⅡのⅡ"g力にU大り瓜汁の赳 足れ風流ならずんば竺て知らざらん また五打寸一 Hの﹃,尉﹄*き咸る、楽馴 即ご所 汀ヒ N土にょる﹁吸川亭聯句三十i﹂(一河北1 にも掲械)も、﹁聿 汀1 血春尚浅﹂(羽北)という句があるところから見て、同じころの乍ではないかと恐っーる0 この問の亊として、他に'二つの小柄ナ繕介しておきたい。第一に、二珂十五日の可菊﹄雑示に王治本の﹁二村句一 y、画 ず人戈阿d条席^仍用川附、凡^^肝^生^と^する、次のよ、つな乍^^つて、る。血^人篇は失軒セと思っτる0 U、イ﹂ⅡヒⅡハム﹂^ ^^^、^^ノ・^、イJ1^り. 占メや1千1#ノ ー,秀^寸^リ剣 造化d先︹器︺火を如到し 淵に椚^りて^人ひ酬ましたり谷階のや^ 鱗小を鼎り来れぱ千鈞の力 ^司^を郷^・^リ^^^云う Hゴ^ヅが^ XW.^剣 雜取大川剛 fiτ1 ゾ寸 Π」 -1f美人幻杣仙中偲 、一^三^"﹂^・、1・Ⅱμ 丁上ぎ一]"を";リー この後、鵬1、﹁全上、次一削﹂、鉄軒,﹁全上、漆園鵬所二鄭祠先成乃併張呈1﹂と紕くもちろんいずれも川 談である。 第二に、二打十七日以前のあるH、松本允恭と木叡が王治本をその逆旅に劼問している丁打二十二日の予N$﹄に松オ 、 し 允共小の次のような詩か載っている。一首あるか、第一首のみ弓くことにする 美人の玄判画片の偲 Ⅷ一'︹勿 壁 心、 試みに看よ 壬さん爾が磯獣の川を楢打するに 一1 く寸f内、 -U"士Yロカイy ヤ^'桐も札^一^ 一Ⅱが、ヒノ,'一イ訂勾ジ: 、L τ一]角卞﹁一、 ^^ノ^虻^県一ム 俗了人多似銅仏 亟^例寸^暢/^一訂 L 名イソ日溺訓右 一紹二"σ^牙^ノ一 川 ^二一且1,一、ゾ、、ヨνザ J^・しげー^Ⅱ'ーー J^ω'Ⅱ^ 四国需郷︺の長祚水に火府り 可ぞ姑げん益を何けて因峡,衍、力を 、心・父は早にヨ司1に入りて得られ 蹄Wは全く1恕より仏わる ^Υの人︹俗化してしまった人︺は多く姉Uに^たり ^^一^^^^^く^^を^^9 名イソH リ研右り 川
首腎はネの唐庚の﹁リ江到﹂局の前半﹁何辺不"老浮山1Ⅲ親。況田謡山歳、四、玉有長赤﹂が1敷き。末田よ﹁戦月分明﹂ (水の溢んた淫河と、濁った渭河は人り溢じらない。二つのことがはっきり川八なっている)と^、つ^^川^^^^^る0 ハム^^^小?八人四S?・)^^ (注ど 総の人で、莵洋また瓊浦とタノし、ニト五年一呂城目小中学校教諭となった。木司敏二八hoS 九0八)は、字は子消、化寸とロケし、 {辻ど 官立宮城師一坐健楽後教職をーした人である。 マフ 瓊浦の詩の第二首も川緻であるか、その後に鵬所の筆に成るか、次のような評か付されている。 1﹁川一器梨町唱和、巳至 ^、,し^松 4ザ久^タル^匁^万冷^呼お付゛リ疋血、Π,外^ケ割一^゛東^.右・^冠影^開上^。・^タ^ーカ、μタタ*。^UⅡ^Π^ロ^^ ﹂一、 ^ム町﹂ノ一1々一ⅡΠ、ー!寸ヨ"^^山﹂^ m 々^1附の才ヒ"n川Ⅲト^して、巳こ一1U人啄七川こ一了り^0 '允久^^、本として打らさるは伽し。一片浮k、私こ逆 、て,断くもⅡd竹は" 0 て苔r刷,'にして、・"心に柳に牛Mを川力んと徹す、ああL父.智力可そ多小なる。,H形千川、'す上^の.^々として、可ルのΠこ七北く即"kこ 況り到るを得るかを知らがるなり。河々︺^。この^浦の訥竹の時間杓な位匙、づけは^明であるものの、この^にょり、川脚の符^百楴 以上作られていたことか知られるのである。 "牙三に、その後^削人^一を嬬^した、当侍まだ、一ト^後半の^7呆(川姓若林)竹^捌か干冶不を^れた祭こ永んだ^^、一^月 ニー五日の一,奥羽﹄絲録に枝っている。 ^^仟一^^一ψ^^4^^火劃父^阿'呂・^^告^刈^^^のこと^^上^^一^^小"Π^ν"、^一煕河^・^ト、^口E^^^ ^^別^ソ^打川釦成^四^ー、^打^の如し 約将良友朧社墜良友と約して上鷹を叶"む
歩入勝処逸呉北勝処に少み入りて器父元し
^^一^佃^^^^^^一^を^^^^^^る相迩一咲無網我柳迩いて一咲︹一苫すれぱ爾器一く
竹.^^^右木彪^^吐^^﹂L鴬十上^貪 ^、^^^^^,P^^^^ 、一舌臼七、一柳^^小ι朋 客感頻従吾外・寄 L^dト^上一1^^.^ 劇倒雪打法共.^ 引対火泌t"各人 ^^云川U^烈オ噂 人剛リ',^b]上U卜←、 t←"平立島多*U搭 .ー.一ι﹁﹂﹂.、ー、上゛,.与.三0 狂態凡く忘る主と,買と
剣琴懇然として河東に客たり
^^ロ.、^^、^^^^^^^^ 客感は打りに言外より寄せられ 一希は多く湧一より親しむ 劇だ洛れむ雪河法村公寒く城しい︺なる夜判対す天心添落の人
峡く休かれ 村 冷熱すと靴も 7只笑)を同^る 情奥 ム佃落の中 ^^Ⅱ^/ム,、^^^^^^ 憂^し^^^く屯H^カ^佃一一一^^^^ "洲かゾ仇桜した迷お討は、一月=十Πの,タ佳川¥の宴堕ぐ詞まれたものであるガ前述のとおり、詩句は汁明である それにしても、賑伯本を江州に逃剤小の白楽火に擬するのは何ゆえか。そのように受け取れる身の上話が、王からなされたの だろうか。竹洲はこの時、﹁席上U示漆園先生、次鱸独香蔀轍﹂と題する七絶二首、誘んでいる。﹁如、虚、冉﹂をN丁とする 第一首は、鈴木独香が松島で計んだ上引の詩に漆Wしたものと見られるが、﹁匁時、邑を鯉十とする(支鹸)第二首は、そ の次瓶の対象となる作か不明である。後でりく^如ル背十店記^にも明元されているように、伊達如山の招きに﹂心じ、二珂ト^日、モ治本は^午前六貯四十か^北の (江振) ー、^中にて^"^岡^赴^いた。そ四伽、陸前北^の各地を峡^巡って再び仙台に戻ってくるのである^、その陶のモ、治本の動靜や 0 その時々の>^定は、^■ルのとおり、随時^咽入羽^に蛾じられている。これらをもとに、この冏の彼の^^を町能な隈り細かく 推し測ってみょ、つ。
ニ、宮城県北漫遊
一打二十八Π﹁王漆悼先牛先生は先日来伊達氏の邸内に咲乱し迎宅に従小し晉られしか依頼者非常に多く其上当地文 邪の士の仟珊頻々にして吟詞に多忙を極めリ枝殆んと寝食を安んするに力ぷき程なるが明後日気山召へ向け八張の由こ開 けり﹂ ^河.込H ^^^仁^^目^徹^町^^中なる^^^^一る^^日^六,^を^し^^^こ^き^^日^尹^^^突^^P、辻^ し^^ハΠ怖地を^して狂刀坤に^り二Π滞^什^日^丸仙沼に至り司一^帯^中にて司也より上^^川左W好田^ロ^^﹂の^他を巡 遊して仙璽に^る筈の心算なれば来仙は多分四打上句なる、、^しと気仙沼の旅^より^社の^軒^^宛て申越されたり^三打二1<日ヌ馨王ソ栗氏登米郡佐沼の糊轡楼に一袈せし同氏織秀依頼者非常に多き為め出立延引したり
し力呉々他に渉村もあること故咋廿五Πを以て佐沼を出発し登米の伊達如山君方に一泊什六日に小魚拾にて右の深﹂へ赴き 伊ルには凡そ寸Π闇も滞在し且ハより涌ハ介へ廻りて四洲日沸在仙聖へ来る迂疋なりと云ふ﹂ 四月十ご H ﹁王治本氏同氏は志田捌涌谷町に博く"心姉毫中の処咋日来仙国分町針上旅店、亢X百さーしか凡そ一 一土口 Ⅲ酬冷在打発のb而に応せらるふ舌なり﹂以上の﹃鞍内・草,ξ合わせて考えてみると、吐駕のところ、ほぽ砕,灸厶のは、二月十八Π午前六時台9車で仙台を出発 して、そのHの、つちに^N^に一^川いたル^、,^^一力Hま一C何一^勿Ⅱ^の川内に・^陽し、一^↓^<H、同^を出^北(そのΠの、?ちL) 東に新いて二日岡滞^、一.ト^Hに会佃沼に到濳¥くとも三旦^Πまでは当地に淵^その後ルートは、イ呼大力 U沼^行っ て珊W桜羽北宅)に滞在し、,一1五Πにそこを出て、円g米の如山侯酬に一油(?・)、二十,入日に深﹂へ赴き(?・)、そこ (?・)、凶打十二日に仙六に戻ったことになる。ただ、とはい に約寸U岡滞^し^?・^、その後河<^ロ^行って、四、 y 1ⅡU訂イ うものの、登氷と狼川原と佐沼とは、いずれも当時の登米捌に屈し(現打では崟米也 hしに延接した地域である力ら大弌す く行き来かできたはずで、登米での父流に仏沼の人か加わったり、逆もまた然りという状況であったに述いない。以上想定し た旅郡に基づき、以ト、一士治本の各地での詩文一荒の鋤を誓てみることにしよう。 登米 1 t河一十二Πの"奥羽﹄に﹁.十漆係氏﹂という見出しの下、次のよう寵小力載っている。 1﹁過H登米地力へ赴きし王治 本粂剛^はJ辻ωⅡ^^兆愉'氏の号^に.陽し村祁刀^則証大印ズ像等の^利客とΠ夕討氾徽逐し佃の川字鹸のリ和炉1^炉々、窃々 流れて巳まさること北上の水のωくなり側城の邪客柴配剣誹の捗"に楸し速にし詮の東北を指すを待つと同地の文友より木村 ち心み仁 の鉄軒へ信冉ありし奥見米の心途隆盛を御小べし、囲云王氏は什五日頃帰仙の筈なりと﹂。ここに見える人名のうち、﹁秋判Ⅱ﹂ は秋山杣川、﹁佐珊淵﹂は佐伯羽北のことであるが、﹁火卯創﹂は米許である。秋山訓川(乳は岐。一八三八S一九、し)はかつて脊 々・﹂圷) 米邑主伊達^に家^としてⅡえ、当Wは旧小会^員を務めていた。一力、^勢^は片野孕軒、^漣^は北久オ風所^訓^は佐府誹 (辻ど 堂に述いないか、﹁剣﹂はずざ指すか不明である。 さて、ヌ見米利史一に﹁佐化羽北の本刑に美るや八徐留一に優遊し珊沼吟社を改け後巡ナ驫"し又時々戸人を会して唱酬し、 ^ν^^此し^吟村と^^^に女Ⅲを一^じ^^恕^カ^削二り、吟^と村・^^一<^に^^カ,^坪^^^^、ノロ^^ノヰ^^リー^'^ド^坐匝
友部紗判△γ号生洲北久両索寸踵を妾して来往し一時倫Π々沢鋸臣以浴倒て見ざるところな、つ﹂と記されている通り、例 北力登米淵長を務めていた片捌、佐沼には珊沼吟村か、登米には豊成吟社かそれぞれあり、巨圧の来訪もあって、当也の詩列 は緋乢を呈していた。そのような中、王治本の来訪にょりますます拍車がかかり、仙台の詩埴に対しても対抗するような気,分 が眺り上かっていたわけである。この冏の作品と思われるものに、一一'月寸九Π﹃,お﹄一礎の羽北と王治本との匝迦米ハ京 一よ碕︺ 六倫句﹂と﹁轡矮夜半研句﹂がある。それぞれ.西氾の杉を成す聯句である。<1 (祚)の汁こよると、詞ヒと王冶本は径米 において﹁偶然器﹂であったという。 ところで、王治本か登米で寄寓した伊迷氏邸につい五した﹁如山苧朧記﹂という一'が、一一片二十三誹﹃奥廻に織つて 、 し おり掲げることにするガ、秒杣と思われる箇所か老下あるので、ここでは基本御に登米尹達哉乳介(卿山の弗)・秋上唆罰﹁如 山遺艸﹂一、(.ト午)に拠ることにする。 灯1凸イ広北.上楽匝1Π本 川札■↓^^勿辻好"^*リ^川^岩力父^才し何、^^永'^山成,^口司F微。料吽論西、、^血七比瀞、^^一^,U弐。武段←^子斗上^^。 朧卿紗期拐乞吋一ず"ノ地鬮U /寸^で、為心1 沼過四歓^、ド豺ゾ火^断。 eLⅢ、サm例刈1片十嚇^。 1日、^日匠肴之^、,ψ^ 内愉、二泌所小口尚^冷以司乢之。^Υ論属^^生^。<永阿、^^^能文、当勉為之。然不^君之名凡L詩^、釆可佼也那^。君日^' 述所之﹂。余H ﹁吾知之矣。想港白先世以来、世守領内、徳沢噺乢、人民畴仰、殆如上斗。牧以1名之乎﹂。君日、﹁否否﹂。 秀レ^砂所ハ^バ以村<^^以"ハ方川天Πオ之芦小オ、如山如甲如岡川裟^、^上,L酒'之念^。士公Π1凹E名之乎^。沼又日 ^、色^以^。^永Π、^^一^吽励^^、^^^*^。^<^^^^コ^^山^。^^^日^名ウ^^^。^円^﹂^川、^,一矢。^二則^^ロ^佼^一^ ^^リソ^名七川^肖誥リ仏^^、●如為山^ム^H^、^佼^土凶欣叉牧一徹人火詩、血^^自口々当。意^凶自^同因^^t^、而丁ヒ入マー、 ﹂︻' 司力^加強^功^^枕'止所卸、川近則為山、^則平地。,一^U不自稟々哉^。^永朋上^井、 1J詮歌^之吹玉円子ツ,^^。犬レ﹂で石門
巨^、^<^^^タタ^^一^,呂、^内拠影^吻^^^^ホ、¥ノ^加。^世^"^六^^^由^^,^川山^^^^^^国^"々舛 由々砂""寸己W業妾物以孜 Y^f1詩卯t1邪牧^冷N<篇北寸"チヨ山万罪辻ノ多材之^啄弓深耳浮同4^之一リ四^屑牙日 ^、折粥^小ル^詩^■﹁泗列^辻<,局^和如咲呪村^・^^^U^^幻当^^^^勺^・^、4^^冶国 fジ野野膨^ザトー^リ 業之逢、正^司批^。一時Ⅷ^^岩仰梨山斗、^剛^名知,^用山誘功君之・葱中^耳。君呂、^"^^之^固^口勿仏徳殆之り^、 判、玉足吼攸挑^一・刀ア^^琉 1酔^十小凶ツ^^、ゾ上,見^^ωⅡ"Y岐は契Ⅱ烈の冉斎なり。汎は瞥才の仟領、ヨ大り野化城に客たりしとき、 始めて扣轟るを得たり。沿は汁涌池にして、川にモじ'を能くし、風流向ら力す。謡し賢にして学を好む者なり。別れにmんて期を約し、余キニやえて一た び北の地に前び、訂を剃せしめんとす。人永やτ鳳みて乃に井く' U蹄泗して款迎し、"ハの断仁下粥す介Hめてくれた>。足れ川ち莎■ω"Y城なり。乃内く、 ﹁足の介の都は、長内嚇三削の古きし所たり。 Mお心た以て之に'す打らず。△1U、つ1売ル兀斗に鵬せん﹂と。余内く、﹁能文ならずと槻も当に勉めて之を 乃すべし。然れども杉のΠ心の所に名つくるは、栄たして何L取丸るかを辧らかにせす﹂と。 ^^、つ^^^^より^^、Ⅲよル雌^﹂^÷.^り、^^^上^、^、^.U、^^^^伯^^一^と^^^^^^H^^門ヒU^、^^^し。^^劃.^オナど^^L,^^^^^し力^と、 4日く、﹁否舎﹂と。余Πく、﹁熱らば則ち虻<の徳を以てせず、或いはⅡ<の町を以てすること、天保のJ (一'n 小邪所収>の'む所の、﹁山のωくり くWの如く陵の如し"の如き打は、亦士民,認の点なり。乢れ発と是れ表以て之LMdけしか﹂と。料又朧く﹁密﹂と。余Ⅲく、一熱らぱ則ち性愉の好 む所、名おの逸楽力り。Ⅱハれtの川を楽しむに取る勺らん力。乃ち遂に足れを以て之に名づけしか、と。 4日く﹁患は則ち近し。然れども仁は則ち白力赦 えて望む所に非ざるなり。 IUの点に新づくるは、窃かに件て冉へ冊の誓えば山を為るか勿し, "びに以て,Πらロゲせり。轍うLN"は内らⅢ恩に泳し、亢柴を小けて、此くのごとき今"冷るも午力に蛾"にして、り業木た糺らすⅡに拶計﹂近めば則 ち山を為り、退けば則ち地を干かしする一なり。安くんそΠら涼心たらざるを得んや﹂と。余此のゞ乞開き、乃ち弓の賢にしてテを好むキ磊歎す。大れ1H *名門巨族は、Ⅱ<の子弟類多く塔凸にⅡkし、彩衿命貝放のf弟力服する判絹の汎>に斗Πいて、沫するに汁乳"のυを以てせず。此れ﹁Ⅲ袮の家<代々楳" を受けている家>は、光く礼に山ること鮮なし﹂にして、史の山りて隣りを爪れし所なり。烈は列り足れに反し、扣々然、山々然として己を井するに八小を 以てし、物に援するに敬を以てし、礼を敦くし聖﹂悦びて邦t利なり。峨には或は以を一肩・門'に寄せΠ水を摸万するも、狭おNの多Uの佐小とするのみ。 上上しb 二れ ハヨく ^﹂Ⅲ、つ試みに,Zを."わん﹂と。<永日く^五口之を匁れり。 '↓を,市みて、喪りて以て・Uら圖バめしか故仁論に頴して、 の
^^N^^^る一^^リバし^H^^り、^川、^^^小^^^を北^ら^し^^リ^^^d^きを^^^^キLn^^と^^、可ぞ^こ^、^,^をΠ^ること^^らし^0 也口、 別くして学び以て村にしてh、つL木つき、家を,.介しくするを推して以て倒キ﹂治めぱ、二尺竹リX <広く布く>し、 N1hHι料し、力業の完ならしこと、 f ﹂太 だ門やる、川力らK、るなり一叫^同呼に^威を川武るる肌"山斗を仰剖Lし、恩こ喪くX御山を類%せんよ、京こ亦君の点小の小のみ0 ト﹂聨く、^゛ξ.、の斑υ゛は、 矧よりる,カ.う仏なるも、徳力の臻るは則十?五吋豈敢えてせん。然りと靴も、亦段えて勉めゞ﹂、一んや。'、つ先生とをルYさー(﹂ヤ.﹂こUげし)よ、と0︺ 長"怜三洲は、此後小、まれ四目僚にして轡.予芦獣.永・迷付人でもある長而n 八三工S九.h)のこと。﹁二之楽山﹂は﹃倫避 1篇の﹁仁名1﹂を承ける。﹁曾倫'為h 一章﹂とは、こーも﹃途治一子心.L'の﹁峡.Π●h、太成一乍、上1也0 宅, 如乎地、雛復一笠、誓口往也﹂を指す。行動はあくまで自己の努力に噛で、,W己の女壬こ邪することを説く嵜卜である0﹁世示 ↓,゛.ι、 人1 '^{^^一^々は^沓^^^^叩一ぐ^^^^.^ムに^叩った.詩^乢水の中に同^える。^^^能^^は^上云^宮公^、トヒ手こ同Lえる^兒心ホ^ ^仰剖^詩^N^という^川句を綸めたもの。^^小山^一{法^^^云々は^史氾^^f斯云こ同^える^f^のk"こある^^山^譲武^、^ r成制<^^を指す。^幼膨^以剥一^^は^一^肌子^泌太市^一^下の^人^而乢子ウ、士m汰一丁ン︹人幼くしぐとを熊U、ルLして之を行っしと欲小︺^ をー^きにした表リ。^南山^は^毛註斥^に^買を得るを楽しむなり。成只を旦寸1ぱ、刈ち能く予,ネを◆め、又Fの'を住つ^ とずかれる﹃製註小邪の 7用山有邑を踏まえた表現であろう。 0︺
この文に対する誹業の﹁欝完如織句県气逐裂全人身分。
余開以 十進百尺顕竿一歩 ^^Ⅲ^^^^山^^^^山^^^^一 、 L^ H^打^一^田画ン阿^明旦tと^許^法列々右条、旅^一^糸。内倒^ヒ厄圧^下︹岐包先ず艦田かの川谷を没ナ、"を逐って心\)1jを父、ナ0﹁' ^^タ下^リU^一凱^寸一^ナ七^^、^^^^^^^^艸^^^'^と、^^.^こ剤、L、^^0 ^^^よ修広Lgウ^、^と^^、サ.、こJ鋤^"^^毛LJ^L1﹂ 00 カレ上一卞 Jとしぐ^三﹂り、,示 U 茶れす。的らかにルれ錨娠老手なり︺^との^(三刀一 一奥羽しは見小な^刀^であり、的を中^たもの七^爵ってょい。なお、この^中ーブ
に弓力れた川ルの一一^水に^徳治"^^^、^一^N豈^^とある^、^^^の方はこの謙伴四^りとなり、川山は三中後の一^トL.仁こ三十益成で夫逝することになる。 ここで、その他、登米における一荒の跡として、 八五五S 九三)が王治本に噌った竹口Ⅲ(三河、 十九日 ︹往む) 伊呉剛長などを務めた人である。 務課長、 田 呈干1係、ー 一μ圷一リUりヲ ^田田^り八獣 プ↓ 辨区游巳W
沸冷山人
一梁の天 ^し、^田^一^^^^ψ^ 倚区︹以色のすぐれた所︺游ぶこと巳に遡く Y'小の i、つるこ社えたり 文采は城老︹・靴︺を追い (風欣巴 は 、枯 1 d﹂,- J﹂"く ーー一 J 1 一ノ そ.ワけ人 '﹁u ﹂ 丁1 一 1﹁ 1 一' 文一一釡城老 §牟げておく。まず、登米の豊城吟社のメンバーであった草翅尓軒二 一奥羽﹄雑餘)である。{f二兇瀋の士靜で一右と号し、{呂城旧却、一阿讐 女1ι荊辻%^" i ^ト一π、.、﹂ー 半袖 また、王治本は宗^の^^笑^ψ^^社^^^詩に^して計を加えている。 一九)との六えである。賢万劇は微"需または松"と号し後に"仔 ^^^岳^し^^き^^^^少慨、^・^^、^則^ 八 S 一九 の号をもつて俳人として名を成した人であるが、王治本とのかかわりとしては、﹃Ⅷ人剛﹂に﹁丹青を善くし火ホを噌む、 、']﹂ 客モ、治^北^のΠ、為めに竹瑜茶,寮礼を竹る^七礼されているの力ご目される^念な^ら^NU隆ツH劣i^は牙ーノである知る港糾製爪からん
幾山1を力Uえ待たる ーー、 _: ゼ 1: J{:'、 」 ノ、ところで、さねとうけいしゅう氏の一九六八、六九年ψ畔の調査にょると、当時の国立宮城癒俳長畠山辰夫氏交九0四S ) からの^告で、^旦^町の、れっきとした家につたわった^^、白隔で、^治^^師^のために^、白いた^為那^^二兄^^属^大巳 春正月﹂という鰈叩の付されたものがあるということであったが、その後、畠山氏が執筆した﹁王治本の遺ぎの一^にょり、 それは﹁鈴烹一屑社長(藁屋の鈴木彦治)所持のきで、﹁春柳﹂と題する次のような作品であることが明らかになった。 麥肌華独占先、江南江北早春天。斬新煙鍵■日、可愛器似少年。碧眼愁隣征馬0、翠条氏稜埜鴎恨。古陪不願0鑑 折、唯有陶業忠毛辺。 抑絲軽払0風柔、嫩撚笈古畿。一搦0肢経雨冷、 0尖眉様繪鞍心。労人淫歩牽芳駅、少婦離恬倚尽楼。遮莫長是墜斤 史〒把酒且材材。 、 耶 ︹辻弧) ^^^^・聚、^^^^^^^^^ 獣荏仁兄大雅属癸巳春正月四朝
0園賑条
﹁正月四﹂は陽,村二十日で、登米に着いて三日目。﹁0﹂で示されているのは、畠山氏にょると、︹古い漢字で今は使わ れていない﹂ものということである。ゴチック体で示した字は、筆者(柴田)が畠山氏の筆者Rりか、あるいは印刷上のミ スかと疑っているもので、順にそれぞれ﹁未﹂﹁纓﹂六在﹂﹁旧(芭﹂﹁柳﹂︹画電﹂(﹁尽﹂の正字は需﹂)に改めるべきと考える0 また、最後の﹁0﹂は膨または膨であろうと思われる。以上の推測§づい璽理し、訓める範囲で訓んでみると次のようになる。 1﹁未だ煤華の独り先を占むるを許さず、衡江北早券天。斬奏よる煙纓晴日に宜しく、愛す可き風流少
年に似たり。碧眼愁倫れむ征馬0、翠条低く洪て林商眠る。古曙願わず 0怪折、唯在り陶潜旧宅の辺に0
/柳絲督く払いて 0匝柔ら力に、嫩緑、聳典古四艘野一拶の0股凡を経て冷やや力に 0リ眉お矛灸絽ιる
さもあらぱあれ 画^に奇る。 W^莫^^隆^Ⅲ瀞吉^丁泗を^りてー<^^大り^ 雛情 ^^^ Y、^^^^一^^ガ^、^ さねとう氏が受け取った止屏の登米町の古物商首藤直則力らの手紙にょると、﹁王治本は(小略)登才田の菅P只五則即ち(注一Ⅱ).''ー,ー、、、
師竹の家に大八郁留していた﹂という。また、上述の品山氏からの乎紙にょると、畠山氏の祖父、畠山源右律門が王治本§ てもらった次のような七ヨ様があり、その泡御きが 7品山判人邪属、宮島紀勝文一、一齒王治本﹂となっていたとのこと い 仰右衛門の甥の嫁が登米町の耶竹の好で師竹を辿じて轡いてもらっ大ものという bq 一^N、一^瑞到.局岡^永^,^脚^封^。醜タ^^^帛謬ψ↑薊^ム^浴^^^斗^,^^ノ^ノ^川判堺^力勃Ⅱ日^Ⅱ司^ 雪蓮柴客槻.む衾 (主'︺ 畠山記^^再^呂自1^^コ^^^悼^1ω^ これにも誤りがあると思われる。ゴチック体で尓した字は、順にそれぞれ﹁如﹂臣﹂﹁宮﹂に改めるべきとぢぇる。この推 訓に"いて整理し、訓んでみると次のようになる。 1﹁五層の臣"・局岡§し、議の楼台老枯の傍ら陶夕の煙波帯の如く続り、*倫の那而屏の若く張る。呼び来れぱ偲鹿人に随いて米ノむ石よ判川万を掠めて男るをⅡの日
(注陽)
満山^雪飛び、一^莢の宮樹玉を装いと為^^。^飛凍雪^ともあるように、王治本か最初に{^塾を訪れたのは十八年の年末 であった。その安藝の宮局を詠んだ詩を畠山源右衛門か所望したのは、松島との日本气票の関係からででもあろうか。 ここで再び如山との六洗に一尻るが、王治本が如山一叢を去るに当たっ工献んだ詩(三打三H ﹃奥羽﹂讐)を掲げ、登米の項を 終えることにしたい 0留別如山草鷹 討打^^"沙^^立^ ^^円^一^^,^庖ル^﹂レ︹、^
鑾獣教題稔土
、L,艮刃允・^正包 宵紗竺^羽他^唱 游歴又将逐邪,瑚 "・ズΠサ刀叫司乍天、 川荘白零↓巾愁蚤漆園王冶本
祁川は淋伽として玉山︹業にある山︺は高し 見るを得たり元龍愆気﹂深なるを ^一^^^^^^^項^^し^ ^・^^^^旅人の屑る長衣^^^^るを、^^^ {肖診はル^に雛の唱、つを聴くに到り 游歴は又将に雁の卿けるを逐わんとす 数日肺迎して情尽きず那ぞ堪えん白髪愁いを帯びて掻くに
笆句の﹁一龜必桑﹂は﹁元韓饗﹂の典故今面志﹄魏古・撃伝)を踏まえ、性格烹永放であることの形容である。なお、 如山とのその他の交流の跡としては、王治本が﹃如山遺艸﹄の﹁送某校長之士難川﹂詩に付した栗ある0 2.狼川原・気仙沼・佐沼・涌谷 ①狼川原登米の如ル背十雁に別れを告げた王治本は、如山の弟、子斌(伊逑希)こ半わーて,艮川原へ向か、、そのΠは不老 Ⅲ鯲に泊まった。不老仙館は、狼河原村(現米川地区)に嘉永五(一八五.こ年、伊導尓1三弌慶邦が北部巡見時の{百泊用こ建築 おいのがb ら したものと伝えられている。狼河原村は、﹁おいぬがわら﹂とも器れていた。否仙傍名は︹おいぬ一を﹁不老﹂に当て て何けられた。三河三詔のデ詩﹄に、王治本がこの地で詠んだ次のよう壽鳶載されている0^噌^^Π^相︺^同一^。日^タ{^^川原^^仙^。^^ロ^N如山^之弟^。 於夕小希未尽恬晨夕盤桓︹扣乎をする︺して未だ情を尽くさず
又労相筑郊行又労す相送り郊を出でて行くを
野匝料哨知寒重野匝料岫として・張、の迅、なるを知り 少鄭網削肖路平沙雪消え融けて路の平ら力なるを↓号ぶ 同一隊 ヨ硝、パ ^ロ^橋"^^^^ー^匹一山璽見食忽双鳴山禽食を兎めて忽ち双鴫す
,^肖^^^乍^^^・、肖^^^^ー^瑪'材^^を^、、^て・^ての^^不老舗小燈火明不老剣ヰ燭人川ら力なり
なお、王治本がなぜ狼川腺に立ち寄ったかについて、畠山辰夫氏は、井家の分家のうち一番駿ルであった﹁北源﹂ 1)に は 7父人黒弄が集まっていました。一方源右工門の妹四怠子に登米の菅儒竹の娘みょしを嫁に迎え、北中という呉肝店をや らせました。こ人な関倭すので師竹の力からの紹介で源右工門が王治本を招待したものと思います﹂と述べている。氏の郷叉、イ 6
塑の米川村の実家には﹁耕仁W巽。﹂という禦あり、染、Xには﹁癸巳春↓男畠山君大邪属削4園王治オ﹂とーいてあっ ︹、'6︺ 大ともしう その他、四河二十三日の﹃・肘﹄に曾次の作品も、﹁不老仙﹂の栗あることにちなみ、とりあえず狼川原でのものとし て扱っておく。作者大槻北岻については未学あるが、﹃仙一謬社詩﹄第三輯 9十八午二旦緑題詩四首の掲載がある﹁大槻 、 し 北涯﹂と岡一人物かと思われる。耆釜王治本先生大槻北岻
^日^^^得古山^^にΠ^^^場乍勺宮^の.、^一笑絶塵縁桁花一笑塵縁を絶つ
栃花d桟相会匝淋上小樅相会す臣流の士
ヰ冷奪牛老似ヰに奪來不老削有り
れ川吟夕碧湾深し
②気仙沼狼川原を去った王治本は次に、百十八年後の二0一一年三打の束北地方太平洋沖地震にょる津波で甚大な被害を 受けた気仙染得を訪れた。彼が気仙沼f泳んだ詩で、詩句が鵄⑩できるものは計八首あるが、そのうち、三月七日の﹃奥羽﹄ に﹁鼎湖紀勝二首﹂という塑載っている、 鼎が浦、 すなわち気仙沼湾を詠んだ作品を米手げることにしよう。 叫湖モ排二酋 リ^^^・W^ヌ鷲木^ 孤客ザ"丹一断 三・局平分底加足 片珊一升泌赤淌、乢 ^^岫ル^玉隹・災^ 波而愉嶬煉ソH金 力巳地J号民山E次淵 糾川^ノ^^ヤ一北オ岑京モ冶本
璽千高き処ル希交り
孤客奇を拝り一臨を侠くす
三島平らかに分かれて鼎足を成し
片呪飛ぶがごとく渡りて湖心を或つ昆頭準ヨ牙玉隹く
波面晴陵︹口光︺砕<寺煉る 咋^鴨は閑力に恨り伽能は咏力んとν^^安波山色映波蛎 牙州一哨田長ψ 卞庶丹沙媒鉄冶
空斗匝永雫陸
永杉恰北U北樂杉¥ t.^口吋て上、化 fⅡ川 俳¥削ノ牙4一拜 あ人げさ人 {姦山色波に映じて剣なり東川西崎断えて後た迎なる
^・^^^^"カ^^^ 空中の香祭^を^火るの煙象形恰も佶るかことし妥小︹危四の影
銘稲遊た謙る雄子の錚るを
朋く仙人来りて会^する^りと
カナ﹂ L寸^,^一^^、^^・.U^^^^、ト^ソU、^^^^ ('嚇) h﹂.ル、小町一八↓^フ゛シ ︹dⅢ︺ 町湘社陸印湖斗●刊υ硝・柏碕 第二首は、呈周一^四^んだ而^浦勺ル^百詞^にもほ^祠じ^句で^つている^ 恕は、 峅^、簾塒嚴成三口^。故Π贈洲。々剛有音鴫菰々斗冶磁走夘成削仏ザ喝^犬,消沖之片相^以為仙弊也^となってしる券一首は、可都泥勝百舒﹄では題が﹁登判明碕掛観川誥。日告天朗匝桃煙波如両欣賀之餘走第郵爾蜘ブ割以獣買胖
八句かそれぞれ﹁利明碕外昇泌休﹂﹁孤・#奇灰一吟﹂﹁片帆飛渡過製﹂ '、 、 四 元竹前二日﹂となっており、また、第一、一 (注備︺ ﹁辺十霄弐藥林﹂となっている。 かむえが、つら 一.^,^肖^剛一^日^^.^^ニ^打^日^^る。^^^^^^^^^小^^山^^り力ら^励^^^、^^き辻^^^^^^^^^^^^ 当たる部分。他山は、気仙染何の入りΠにある島、大島の北側にあり、眼下に大島瀬戸を望む自然の展望ニロ。{姦山は市往地 の北に屏^のように屹立している山。残りの六首は、五月二十八日﹃陶血所腎﹁音峠■廼
大力大ね ^^^.^1仙^は^^-Cは、^^百^裂牙小邸^側の^戸泌・^情二 及び同紙六河二1四日号一松の﹁鼎浦謬。四首﹂である。 古鹿山人。号二江)の築いた邸宅、古庇山房を訪 、0 八倒八S一九 ﹂ノ^登米郡史^にその時の、次のような詩^^つている。^リ能山房は、維新後佐沼城^廃され、二十五年に^てられたも 0 オオ ので、降吊力雋佃城力ら移り住んだ。 偶成 癸巳祥付述訪.二江t兒大人蔭仇斌此以翠届山房"冏オ詰政之削東漆弱王冶本時游次ヒ美山ド 古鹿山房築乍成十リ地山房築くや乍ち戎る ほねお 球化リ、石弘浮呂、巳を救え石を娜め ヤニ呂こ史る