国立歴史民俗博物館研究報告 第127集 2006年3月 ドけ ド ド ド が き
縫 1懸、・灘難r§織灘灘鑛鑛・難・「懸灘灘,灘・難
灘1雛灘難醗,灘・灘、難醗講灘難灘.1購・翻
AStudy on the Spatial Coml)ositio皿of the Towns D皿ing the Transition Pe亘od血om Medieval to Early Modern: ㎞Analysis Comp蜘g the Fom of Dwel血g Lots of the Towns in Koshu Area by Means of Kenchicho m the Early Edo Pe亘od伊藤裕久
はじめに 0宿・市の新設と屋敷地割 ②甲府城下町の再編 ③御師町の屋敷地割 おわりに 本稿は,甲州における近世初期検地帳による屋敷形態の分析を通じて,甲州街道の宿,市立を伴 う新宿,善光寺町,甲府城下町,御師町など,中近世移行期の町場の空間構成について検討を加え る。その事によって,従来,近世村落構造の解析にのみ用いられることの多かった検地帳を,中世 末期に成立した都市的な場の空間分析の基本史料として活用する方法の重要性を提示したい。 本稿で明らかとなった中近世移行期の町場の空間構成の特徴は以下の通りである。 1)中世末の武田氏領内では,市立を伴う新宿の場合でも明確な計画性をもつ短冊型地割が検出され ない場合があり,計画的な町割・屋敷地割は甲州街道の台ヶ原宿や善光寺町など重要な町場に限定 されていた。短冊型地割については,近世初期には間口6間を基準として奥行30間以下が一つの 基本形となっているが,中世段階に成立していた短冊型地割は,台ヶ原宿・善光寺町など総じて奥 行30間を超え,間口規模については中世段階ではそれよりも狭い傾向が認められる。 2)甲府城下町に関しては,周辺村落の検地帳の分析から惣構堀や町割の整備状況,戦国期城下町と しての古府中の近世的な改変や新府中住民の移住状況などが明らかとなる。また,周辺部の町で慶 長期に採用された計画的な屋敷地割は,広く在方町場の整備にも導入されたと考えられる。 3)御師町に関しては,前屋敷・門屋敷のような従属的な住民階層を内包した複数の住民で構成され る大規模な短冊型地割の存在が指摘され,中世末の宿における有力住民階層の屋敷形態の一類型と して捉えられる。また,前屋敷の自立・分解過程には近世初頭の伝馬役負担や市立方式などが影響 を与えていたと推定される。はじめに
近年,都市的な場として注目されている宿や市のような在地社会に広範囲に籏生した中世後期の 町場群に関しては,その町場が中世から近世へと連続的に継承された場合,近世において村方支配 とされたために検地が実施され,近世初期の「検地帳」が現存していることが多い。検地帳には, 簡略に検注されることの多い中世の土地史料とは異なり,面積・形状(間口・奥行)・位置(小字 名・配列順序)・裏地(前畑・裏畑・屋敷残畠)など個々の屋敷形態が丈量されており,町場の規 模や町割・屋敷地割の具体的状況を知ることのできる貴重な情報を提供してくれる。しかも検地帳 に記載された定量的データを広域的に比較分析することによって,領内における町場の発展段階な どについても総体的に把握できるのではないかと考える。 もちろん,検地は単純な土地測量とは異なり,あくまでも近世社会の所産であり,丈量された土 地の性格などについても慎重に吟味されなければならない。そのためには,検地帳から得られた数 値データを単純に統計処理するのではなく,それぞれの町場の近世を通じた展開過程に関する総合 的な検討が不可欠となるが,本稿では,中世都市の調査・分析方法において近世初期の検地帳を用 (1) いることの有効性を提示するために,それらの検討作業は別稿に譲り,主に検地帳による屋敷形態 の比較分析を中心に具体的な検討を行いたい。 (2) 甲州では,武田氏時代の市・宿などの町場の分布等が領内全体で解明されつつあり,また,山梨 県立図書館には,大久保長安を奉行とする慶長6(1601)年の三郡検地以降の数百ヶ村の検地帳が 所蔵されていること。とくに現存する慶長検地帳は,甲州街道をはじめ諸街道の整備が完了する以 前に作成されており,武田氏時代の町場の空間形態を分析するために有効と考えられること。さら に,寛文・貞享期の検地帳と比較することで,近世初期の宿駅整備による計画的町割の実施など近 世の町場としての整備状況を把握することも可能と考えられることから分析対象として取り上げた。 なお,本稿で引用する検地帳については,とくに断らない限り山梨県立図書館所蔵の史料を利用 している。0……一宿・市の新設と屋敷地割
1)宿の移転と屋敷割の変化
甲州武川筋の「台ヶ原宿」(現・山梨県北杜市白州町台ヶ原)は,釜無川・尾白川の合流地点, 信州往還と逸見路を結ぶ交通の要衝に立地している。永禄11(1568)年「武田氏伝馬口付銭掟書」 (3) に「従府中台原へ 四十文,従台原蔦木へ 十五文,(以下略)」とあるように,武田氏時代には, すでに府中より信州の蔦木に伝馬を継立するための重要な宿を形成していた。また,南側には尾白 (4) 川を挟んで武川衆の軍事的拠点であった中山砦が存在し「根小屋」地名がみられるなど,その山麓 に展開した宿の一類型と考えることも可能である。ただ,これ以上の具体的状況については文献史 料が残されておらず,不明と言わざるを得ない。[中近世移行期における町場の空間構成] 伊藤裕久 表1台ヶ原宿の屋敷規模分布の変化 智 慶長6(16°1)年屋㈱分布 斯 刷 寛文12(1672)年屋敷規模分布 蜘 ㈲ 嗣 働 州街道 ( 付替後︶ 図1 明治期の地割と小字名 鱗塁
難
懸難
鐵
墨
図2安政7(1860)年「青柳村絵図」(小河内家所蔵)ここで,慶長6(1601)年「武川筋台ヶ原郷屋敷御縄打水帳」と寛文12(1672)年「甲州武川筋 台ヶ原村屋敷御検地水帳」によって慶長期と寛文期における宿の屋敷形態を比較してみたい(表1)。 まず,慶長期・寛文期とも表間口が狭く奥行の深い短冊型地割が成立してたことが明らかになる。 寛文期の屋敷地割は,個々の屋敷について部分的に分割・統合がみられるものの,幕末期の絵図や 明治期の地籍図を用いて地割復原することが可能であり,基本的には,近世を通じて継承された台 (5) ヶ原宿に比定される。屋敷地割には面積規模において階層差はみられるものの表間口は6間∼7間 が多数を占め,伝馬役を負担する本役(一軒役)屋敷の平均的な間口規模として割り付けられたと 推定される。 一方,慶長期の屋敷地割については,個々の屋敷の間口・奥行寸法を寛文期の屋敷形態と比較し ても対応せず,寛文期の屋敷に継承されたとみられる屋敷は存在しない。このことは,慶長期の屋敷 の平均的な表間口が4間前後であり,寛文期に比較すると約2間ほど間口規模が狭いことに端的に 表されている。つまり,慶長期の台ヶ原宿と寛文期の台ヶ原宿の空間的断絶が推定されるのである。 (θ 甲州道中の宿駅整備は,慶長7(1602)年頃とされているが,台ヶ原宿の慶長検地は,この甲州街道 の付替による宿駅整備以前の中世に成立していた台ヶ原宿を丈量したものと考えることができよう。 そこで,明治期の地籍図を用いて周辺の地割形態をさらに検討してみたい。図1は明治26(1893) (7) 年「北巨摩郡菅原村之内大字台ヶ原組全図」であるが,同図によれば,甲州街道に沿って両側町を 構成する近世の台ヶ原宿には字名「屋敷」とあるが,その東側,甲州街道から分岐した裏道に沿っ て「古屋敷」と称される地区があることが判明する。同地区は,近世以降は畑地となっているが, 現在も長大な短冊型地割が残されており,また,道路を挟んで対面する「西久保」「大畑」地区に も同様な短冊型地割が確認される。 この「古屋敷」こそが,中世の台ヶ原宿の位置に比定されるのであり,慶長検地はそれを丈量し (8) たもの,すなわち,慶長期と寛文期の屋敷形態の特徴の相違は,台ヶ原宿の宿移転を示すものとみ なされるのである。慶長検地では屋敷31筆と屋敷数が少なく,街道付替に伴う宿移転直前の台ヶ 原宿はかなり衰退していたことが窺われるが,それでも中世段階の宿の屋敷形態の特徴を留めてい たことは十分に考えられる。とくに近世の宿駅整備によって間口6問程度に均質化する以前にはさ らに表間口が狭かったこと。また,奥行規模については慶長検地帳では「裏地」等の地目の書上が ないため30間以下となっているが,地籍図等によれば,さらに裏地が伸びており最大で奥行80間 程度の短冊型地割であったことが想定される。これは,後述する上吉田宿の屋敷地割とも共通性が ある。裏地の大半は耕地として利用されていたのであろうが,中世段階の宿の屋敷地割は,長大な 裏地を付属させた,近世段階に比較するとはるかに奥行の長い短冊型地割が多く存在したことを示 すものではなかろうか。
2)新宿における市の開設と屋敷地割の計画性
次に,戦国期に市が開設されていた「新宿」について慶長検地と寛文検地で丈量された屋敷形態 を比較してみたい。このことによって,かならずしも宿・市立の時期と短冊型地割の成立時期が一 致しないという極めて興味深い事実が明らかになる。 ここでは,武田勝頼が一条信就に命じて建設させた甲州西郡筋の「青柳新宿」(現・山梨県南巨[中近世移行期における町場の空間構成]・…・・伊藤裕久 奥行 表2 青柳新宿の屋敷規模分布の変化 慶長6(1601)年屋敷規模分布 臭行 寛文12(1672)年屋敷規模分布 1劃
留
伽 刷 摩郡増穂町青柳町)を慶長6(1601)年「西郡筋青柳之郷御縄打屋敷帳」および寛文12(1672)年 「甲州西郡筋青柳村御検地屋敷水帳」によって比較検討してみたい。 青柳新宿では,天正8(1580)年9月には「於干青柳郷(ママ)可被新宿之由候條,除棟別井御 (9) 普請役,自辛巳至干丁未之年,三ヶ年之間,諸役有御免許之由被仰出者也」とあるように棟別と普 請役を除く三力年の諸役を免許され新宿に設定されている。また,同年12月には「青柳新宿市日 (10) 限,二日 七日 拾二日 拾七日 廿二日 廿七日 右以日限毎月可立市中者也」と,新宿の建 設とほぼ同時期に六斎市が設定されていることがわかる。 したがって,青柳新宿の場合,両史料による限り,戦国期の定期市の開設を伴った典型的な新宿 建設過程が推測される訳であるが,慶長期の屋敷地割の分布状況をみると(図2・表2),間口より 奥行が長い屋敷は34筆中19筆と半数強に止まり,必らずしも明確な短冊型地割が成立していない ことが判明する。 ところが,寛文期の屋敷地割では,間口より奥行の短い屋敷は1筆しかなく,短冊型地割が成立 していることが明らかである。つまり,街道沿いに短冊型の屋敷地割が並ぶ新宿の空間構成は,17 世紀前期の河内路の街道整備による町割と判断され,中世末段階では,戦国大名によって設定され た新宿でも計画的な町割・屋敷地割を伴っていなかったことが示されているのである。 なお,慶長・寛文期の検地帳の現存する青柳新宿に近い西郡路の古市場(大市)・荊沢(今宿・ く 今市)でも中世末期にすでに宿・市が成立していたことが明らかにされているが,屋敷形態を比較 するとまたっく同様の結果が得られる。甲州の多くの町場が,慶長期には未だこのようなルーズな 空間構成であったことが推定されるのである。3)善光寺町の町割・屋敷地割とその変容
次に,中世末にすでに領主権力によって計画的な町割と短冊型地割が形成され,近世へと連続的表3 慶長6(1601)年善光寺町の屋敷規模分布 奥行 馳 剛
表4
倫 4‘ 慶長6(1601)年板垣村の屋敷規模分布 需 0 ]00m 200m ㌔ξ雀長6(1601)年S ・∬善光寺町屋敷帳」 蝶『窪敷分布鯛 嵩 湾 マ ● ■ ● 熔 3 6 吟 ○ 右 扇 衛門 ■ 漕 南 麿 茂 右 左 又 右 断 之丞 基 臼 衛 衛 衛 三 七 部 【 門 市 【 郎 5.5 5 5 5.5 5.5 4 35 6 22 ………iii聾iiiil ’ 慶長6(16q1)年 「板垣村御縄打屋敷帳」 ,の屋敷分布範囲 〆・ 本 町羅く・
図3
惰町 ● 帳 町 漕 ㊨ ㊨ ’苫 二N 苦 W 唐 三 6 ・ N漕 三 郎 ●= N一郎 抱 口迎明抱 源右衛門 寮 院 菅 六 与 作 × 蔵 坊 35 7 5 85 5 65 3 ‘5 ll.横 町 “ ま ん , だ一、 茎105 2 ● 三 4.5 竺●三5 ψ⊃か一ね つ ●奮信5 :● 常ご三 慶35 7.5 lll.曼陀羅堂付近 善光寺1町と板垣村の屋敷分布(慶長期)と敷地類型 水帳」 図4 板垣村に編入された門前地区 に継承された町場の典型例として「善光寺町」(現・山梨県甲府市善光寺)を検討してみたい。 善光寺町は,永禄8(1565)年の武田信玄による甲斐善光寺の建立後に門前に形成された町場で あり,天正期には町屋敷は諸役を免許され,「六月之高棚,上町二打之者,諸法度以下,可為栗田 ロ 計事」と善光寺別当・栗田氏の管理下で門前市が開設されていた。慶長6年(1601)「善光寺町屋 敷帳」によって屋敷地割の特徴をみると,町屋敷は全体で191筆,平均表間口は約5間半で「大門[中近世移行期における町場の空間構成]・・…伊藤裕久 通」といわれる参道の両側に奥行35間を超えるような大規模な短冊型地割をもつ町屋敷群が分布 しており「本町」と称されていたことが判明する(表3・図3)。また曼陀羅堂付近にも町屋敷が分 (13) 布しており,近世の境内地が山門の建設によって門前町と厳然と区画されていたのと対照的である。 一方,甲州街道の付替・整備によって成立した参道入口の板垣村の屋敷地割を慶長6(1601)年 「板垣村御縄打屋敷帳」(表4)によって比較すると,台ヶ原宿の移転の場合と同様,平均間口規模 はやや大きく逆に奥行は30間以下に押さえられ奥行規模が小さくなっていることが分かり,近世 の屋敷地割と中世の屋敷地割との差異を示すものとして興味深い。 ところで,善光寺町では17世紀後期の状況を示す貞享元(1684)年「甲州万力筋板垣村御検地 屋敷水帳」が現存しており,善光寺町における近世初期の変容が明らかとなる。 同史料によって屋敷の丈量範囲を復原すると(図4),文禄3(1594)年「浅野幸長寄進状」に 「善光寺小御堂・坊中・大門左右屋敷方弐百九拾壱俵八升,井爲毎日之仏供田七拾俵之所,於板垣 (14) 之内令寄附言乞,仏法興隆・寺家破壊之再造,無油断可被申付者也」とあるように,近世初頭まで善 (15) 光寺の所領とされてきた善光寺町が貞享期には板垣村に編入されていた事実が判明する。 また屋敷分布では,山門前の上宿と甲州街道沿い本宿・板垣宿との二箇所に分かれて屋敷群が分 布していたと推定される。上宿は,慶長期の屋敷地割を踏襲しており奥行35間を超える屋敷が多 数存在し,表間ロが10間以上と大きく屋敷も複数筆を所持する板垣村の有力住民層(年寄・大工 (16) 棟梁)と表間口が4∼5間と小さく屋敷も大半は1筆のみ所持かつ僧侶名をもつ二種類の住民層が集 住している。上宿は,中世に門前市の開催された上町に比定され,17世紀後期には板垣村の有力 住民層の居住地区として,また善光寺を支える供僧・平坊主層の居住地区として存在しており,戦 国期の上町の特殊性を継承したものと考えられる。 なお,こうした町場の二極分解によって消滅した参道の中間部分に立地した町屋敷については, 慶長期には伊勢町,連雀町,八日市場町などに居住する名請人が含まれており,後述の様に,甲府 城下町の再編に伴って建設された新府中に集団的に移転したものと判断される。 このように,近世初期の検地帳の比較分析によって,武田信玄による信州からの善光寺移転・建 設が大規模な中世町場を伴ったものであり,甲州街道沿いの都市的核として計画的に配置されたこ と,その具体的な町割・屋敷地割の特徴,また近世初期の町屋敷の境内からの分離や門前の街道か らの分離,新府中建設に連動した町場住民の移住など,中近世移行期の町の空間構成の変容を具体 的に推定できるのである。 ②・・ ・
岬府城下町の再編
1)建設期の新府中
主に文禄年間(1592∼95年)における近世城下町の整備によって成立したとされる甲府・新府 中の町割は,三の堀内に東西6本・南北4本の明確な格子状の街路形態をもち,正方形街区を中心 くユの とした両側町が形成されている(図5)。ここでは,城下町周辺村落の慶長期検地帳を用いること によって直接的史料の少ない建設期の新府中の状況について判明する事実を考えてみたい。−L\ 元八層 ∼ 、\㍉\、 、、 、t 1、. 、 へ、 ﹂ 古府中﹀ 、 、 古府中村 」} 一 へ 、) 、、., −1 ..、 ㍉ \1 ∼」 図5 甲府城下 1 \輪一乙.一..、、 ∨, 信玄公 . 〔ノ )))ノ ぶミミ,∵ン_.〆
心ご縁1うフ“
§二鷲17
冶 、. .「「 一^.) 塩部村 ^7 iO 「一?_‘ 5 4−」3 .2‘ !花讐射諺慰繋∵
‘≡門 1’ ∫, ∫ × . ﹂4 1∫ ∫ 20 召 η、, 72 1 ︶ 5 5 ∼」 5イ 2∫ 1 2 ∼‘ σ5よ5‘ ξ 累 碧;
ε 〃 博栢ウ裟
て
● ∼ 二の項 御城内 ◎ 87 ’ 1‘ ⊥、 .v\、 1 ; 、 西青沼村 ‘1 3, 1 4 ‘] 2 “ 板垣村 7 ‘9 ‘7 38 , 4 4 11 (垣田村 50 三の竈 † 1 ‘‘6 ,4 , i 1i ‘ 1 47 毎■師“に一量す硬路・水路 1 4 貰 〃 立 蔵田村 光沢寺 一工奇 新府中 東青沼木 い A .違些奇 遠光寺 † ﹁ ﹁ ト 甲府城下町復原図(宝永期) 0 50 100 ヒ======一(間〉 復原図には条里坪割線のグリヅドを重ね、周辺部で条里坪割線 に一致する道路・水路を破線で示し、とくに城下町の街路・堀 で一致する箇所を矢印(①∼⑥)で示した。 町名一覧 口町人地 [古府中] 1)広庭町(2間3尺3寸) 2}横田町(3間2尺) 3}古川尻(元緑)町(3間2尺) 4}古(元)穴山町(3間8寸) 5)六方(窪)町(3間) 6)手子町(2間2尺8寸) 7)御崎町(2間3尺) 8)八幡町(2間3尺) 9)古(元)城屋町(3間2尺) 1旬古(元)柳町(2間2尺) 11)大工町(3間) 12)古(元)連雀町(3間3尺) [新府中] 27)境町(4間3尺) 28)横近習町〔3間5尺} 29)伊勢(山田)町(3間3尺6寸) 30)八日町(3間5尺6寸) 31)三日町(3間5尺) 32)上連雀町(4間3尺) 33)下連雀町(4間5尺) 34)鍛冶町(5間) 35)桶屋町(4間4尺) 36)竪近習町(3間) 37)柳町四丁(4間3尺) 38)魚町五丁(4間) [その他]50)飯田新町 武家地 [内郭]52)森下小路 53)橘小路 55)御先手小路 56)一番町 58)三番町 59)四番町 6D六番町 64)追手先 65)追手脇 67)東小路 68)中小路 [外郭]70)八番町 71)九番町 [郭外]72)増山町 73}同心町 75)新立町 76旧 町 78)代官町 79)堀江町 茅ふ島 茅ふ● 茅ふ● 13)畳町(4間} 1引立町(3間1尺) 15}細工町(3間3尺) 16)広小路(4間1尺) 17)白木町(3間半} 18)袋町(3間2尺} 19)新紺屋町(3間3尺) 20)古(元)紺屋町(2間) 21)愛宕町(3間2尺) 22)古(元)三日町(3間2尺) 23)上横沢町 24)下横沢町 25)相川町 26)青沼町 表5 板垣村の他町からの出作状況 数字は面積(歩) 39)穴山町五丁〔4間} 40)工町三丁(4間) 41)金手町(3間4尺) 42)上一条町(4間1尺) 43)下一条町(4間2尺) 44)和田平町 45)城屋町 46)川尻(緑)町(3間1尺) 47)西一条町(3間3尺} 48)片羽町 49)西青沼町 62)馬場先小路 口康o句門日 医●粛 妙遠寺 長 人 町 名 人数 田 畠 総計 本 町 10 1311 540 1851 横 町 11 1572 1752 3324 善光寺 10 1656 1210 2866 [城 下] 城屋町 7 1177 2028 3205 城屋小路 11 和田平 33 8638 3020 11658 一条町 27 2901 2923 5824 一条小路 2 金ノ手 9 3165 1722 4887 伊勢町 16 5263 1594 6857 八日市 4 678 1456 2134 八日町 2 三日市 1 80 80 柳 町 2 2368 105 2473 魚 町 2 194 194 穴山小路 1・ 209 工 町 1 168 168 立 町 1 104 104 長 人 侃葡3年古庸ロ町へ汚転) 浄土来 尊躰寺跡 (文橡隼田金手町へ■転) ■“③■● ■“命■門荊■集印■3340博 古穴山町 畳 町 ..:... ...::フ.... 畳8し= 浄土京 浄興寺 大【 大工 l v , 艮 人蔓人‘1 × 工 4 月行事 錯■ 畳8し 受さ」 古川尻町 \ 六工’ 大工 . ×工 工 干吻厨 、 長人ー
長人 員人 縛子 座●粛 法華寺 六 工 灯 荘 人 長 工 × さや し . さや し 艮人鵡 8やし 金良■ ° と■や .き 繁
金白坊 ‘ 8 畳 ● と8や‘ 行●‘ 1 , 広小路町 ‘ 1 ,冑田 1蛍貝一 畳さし・ ●冶 匂 さやし 8やし 1●やし .金民師 “金具師 村 金員師 長人 長人 一 細工町 一 喰吻筒 と臼 (二丁目) 54)桜小路 57)二番町 60)五番町 63)追 手 66)見崎り、路 69)西小路装
74)穴切町 77)佐渡町 茅六工 茅大工 古 柳 町∼
■済察 ⑰門爾 大 翁 西昌院 前 門 寺 薩 明 尭」
コ脚
封
横器 田蹟前 町 ぺ[ 広庭町 註)城屋町と城屋小路、一条町と一条小路、 八日市と八B町は同一町で集計 立 町L﹁
﹂司﹁
(三の堀) び さやし .と●や ハと●や封
長人 一真泉 金真師 と■や と●や さやし‖
長 人 と色や . と・やi
古連雀町 __」一 細工町 (一丁目)数字、俵間口.間1 図6 寛文2(1662)年古府中の町割・屋敷地割[中近世移行期における町場の空間構成]・一・伊藤裕久 a.惣堀の整備と町割 まず,町方から周辺村落に出作した名請人の肩書によって新府中の町名をみると,慶長6(1601) 年には,東西の町では伊勢町,八日市(場)・八日町,三日市(場),連雀小路・連雀町,南北の町 では工町,穴山小路,魚町,今柳小町(路)・柳町など三の堀内の主な町が記載される。また,三 の堀外の甲州街道沿いの各町としては,金手,一条小路・一条町,和田平,城(条)屋小路・城 (条)屋町が確認され,慶長6年における徳川氏(城代・平岩親吉)再領時には,すでに新府中の 各町が町共同体として成立していたことが窺われる。 次に,慶長6(1602)年「中郡筋東青沼村御縄打之水帳」より新府中の整備状況を探ってみよう。 同史料では,末尾に「133間×10間・上田・4反4畝10歩・惣かまい堀二成」および「上田・4町3 反6畝歩・新屋敷二成」という注目すべき記載がなされている。「惣構堀」とは,言うまでもなく 町人地を取り囲む三の堀のことであり,東青沼村の位置からすると条里坪割線に一致する南側の惣 堀であったと推定される。また新屋敷の位置は明らかではないが同様に南の堀周辺と推定され,4 町3反6畝歩は街区幅60間を想定すると町長は218間となり,新府中における東西街路の一本分に 相当する大規模なものである。さらに,慶長6年「北山筋塩部之内御縄打水帳」でも「154間×60 間・上畠・3町8畝歩・河尻・屋敷二成・熊御縄之内」との記述がある。これは天正17(1589)年 の伊奈熊蔵検地の時に畠地として丈量された土地が屋敷に変更され,その規模や形状が示すように 城下の町屋敷分として供出されたものである。「河尻」という名称から柳町の南に連続する三の堀 (18) 外の川尻町に相当するとみられる。 このように新府中南側において,三の堀や町屋敷用地が条里制に規定された周辺村落の耕地から 供出された具体的状況を知ることができるのである。また,新府中の町割が完成した時期を直接的 に示す一次史料は現存していないが,検地帳によって判明する慶長期の周辺村落の状況からみると 慶長期まで城下町整備が継続しており,慶長6年をその下限として考えることができよう。 b.新府中住民の移住状況 さらに,周辺村落の慶長期検地帳によって新府中における町立時の住民の状況を検討してみたい。 表5は,慶長6(1601)年「万力筋板垣村御縄打水帳」から集計した他町からの出作状況である。 板垣村は,他村に比較して出作が多いことが特色であるが,城下では和田平町が名請人・耕地面積 とも最大であり,一条町(小路),金手町,城屋町(小路)など近接する甲州街道沿い・三の堀外 の各町から大量の出作が認められる。さらに三の堀内では,これらの外町の西に連続する伊勢町が, 名請人で16人と第4位,耕地面積では2町2反8畝17歩と第2位の規模を占めている事実が注目さ れる。慶長段階では,これらの大量の出作が町成立後の土地集積によるものとは考え難いことから, 元々,板垣村の耕地を所有した住民達が伊勢町に多く移住した結果と考えられるのでなかろうか。 そうした観点から前掲の慶長6年「万力筋善光寺町屋敷帳」を見直すと,善光寺町屋敷の所持者 にも伊勢町居住の者が5名と最も多く,彼らもやはり新府中の中心的な町として新設された伊勢町 に移転したことが想定される。従来,新府中の住民層については戦国期の城下である古府中からの 移住のみが強調されているが,伊勢町や甲州街道沿いの各町ではむしろ周辺部からの移転が主であ ったとみられるのである。また短期間にこれだけの町が成立した背景として,善光寺町を含め甲州
街道付近に既に発展していた中世段階の町場住民の再編があったと捉えられる。
2)古府中の再編と周辺部の町割・屋敷地割
一方,武田氏時代における町屋地区の旧態が残されたとされる古府中に関しても,城下町周辺村 (20) 落の慶長期検地帳や寛文2(1662)年「甲州古府中町数家数間数改帳」によって町割・屋敷地割レ ベルまでを詳細に検討すると,近世城下町として積極的に改変・再整備された側面があることが判 明する。 a.城地・堀の整備と町割 まず,慶長期の町名をみると,慶長16(1611)年には愛宕町・古横田町・古柳町・細工町・立 町・広小路・御崎町・袋小路・古三日市場・下横沢など三の堀内外の主だった町が成立してたこと がわかる。 古府中整備の状況に関しては,慶長6(1601)年「北山筋塩部之内御縄打水帳」が,その一端を 明らかにしてくれる。同史料には小字名「三日市」(古三日町)に「120間×15間・下々畠6反 歩・堀二成・沢右衛門」とみえ,末尾には①72間×30間・上畠7反2畝歩・横沢かたまち町屋敷二成・熊御縄之内,②22間×18間・下畠1反4畝6歩・うら切・古府中(村)へ渡,③12間x11
間・上畠4畝12歩・同・城二成,④21間×9間・上畠6畝9歩・同・同(城)成,⑤94間×7間 半・上畠二反3畝15歩・同・古府中へ渡,⑥100間×13間・上畠4反3畝10歩・城二成・熊御縄之 内,⑦154間×60間・上畠3町8畝歩・河尻・屋敷二成・熊御縄之内,⑧100間×6間半・上畠2反 1畝20歩・古府中二渡,⑨144間×65間・上畠3町1反2畝歩・白木町二成,と9ヵ所の土地の移 譲・利用形態の変更が書き上げられている。これらから,主に西側において塩部村の耕地が城地や 堀として供出されたことが判明する。とくに注目されるのは,大量の耕地(上畠)が①横沢かたま ち(72間×30間)と⑨白木町(144間×65間)という町屋敷となっていることである。これらの 町は,天正17(1589)年伊奈熊蔵の検地以降,慶長6年までに新たに町立されたことが判明するの であり,とくに城郭の西北側では武家地や二の堀・三の堀の開馨と併せて大幅に町人地が拡張され, 既存の古三日町などの町場も大きく改変されたことが推定される。 b.古府中の町割・屋敷地割の特徴 図6は,古府中の中心に位置する広庭町・横田町・古川尻町・古穴山町・古柳町・大工町・連雀 町・細工町・畳町・立町・広小路町という三の堀内外の各町について,寛文2(1662)年「甲州古 府中町数家数間数改帳」より推定復原した寛文2年段階の町割・屋敷地割復原図である。 戦国期より存在した寺院群が町屋地区に混在し,かつ大規模な寺院が街区中央にあって門前を成 し町屋地区の中核を構成するという新府中と対比的な空間特性は,中世からの連続性をもった部分 とみなすことができる。一方,屋敷地割に注目しながら町割を見直してみると,三の堀内では西側 の広小路・畳町・立町で地尻が整然と揃えられており,とくに広小路では奥行30間の明確な背割 線の存在が確認される。西に隣接する白木町が新設されたことは前述したが,南に隣接する新紺屋 (21) 町も城下町の再整備によって新設された町であったことが指摘されており,当地区も同様であった[中近世移行期における町場の空間構成]・… 伊藤裕久 可能性が高い。最も旧態を留めているとされる三の堀外でも,屋敷地割は地尻を揃えた整然とした ものとなっており,とくに古柳町の北側では茅葺大工が集住しているが奥行30間に地尻を揃えた 町屋敷が両側に整然と並んでいることが注目される。 これに関連して,慶長16(1611)年「中郡筋遠光寺村之再縄水帳」をみると,屋敷筆数97筆の 内で60筆が奥行30間に揃えられ,その内,表間口6間が27筆・8間が16筆と圧倒的に多く,中道 往還の城下町への入口に遠光寺町が成立し,計画的な屋敷地割が施されていたことが判明する。同 (22) 様の奥行30間の短冊型地割による屋敷地割は甲州街道沿いの一条町・城屋町でも確認されるが, 慶長期までに,こうした計画的な屋敷地割によって城下町周辺部における各町の整備が進展したこ とは疑いない。 古柳町は,呈鄭燭ヶ崎館の大手筋に位置する古府中の中心的な城下宿であり,天正2(1574)年に (23) は武田勝頼によって町並整備が奨励されているが,町割は,そのまま近世に引き継がれたものでは なく,近世初頭にける周辺部の町としての位置づけのもとに同様な計画的な屋敷地割がなされたこ とが推定されるのである。 ③・・ ・
御師町の屋敷地割
中世末に多数の富士参詣道者を吸引した御師町は,中世段階の宿の典型的な形態でもあり,また, 御師家の存続によって近世以降にその形態を継承せしめたという点でも貴重な素材とすることがで きる。ここでは,そうした事例として「上吉田宿」(現・山梨県富士吉田市上吉田)および「河口 宿」(現・山梨県南都留郡富士河口湖町河口)を取り上げ,中世末期から近世初期における屋敷地 割の特徴について比較検討してみたい。1)屋敷地割の継承と変化
上吉田宿は,元亀3(1572)年に集落移転し,新宿として新たな町割・屋敷地割が施されている。 (24) 元亀3年「屋敷割覚」によって復原される中世末の御師屋敷の地割は,表間口が東町で平均約14間, 西町で平均12間,奥行は80間を超える大規模な短冊型地割であり直線道路の両側に整然と並んで いる。また近世以降も基本的にこうした大規模な短冊型地割を継承しており,地割内は「前屋敷+ 本屋敷(主屋)+裏地(耕地・墓所)」という特徴的な空間構成を取っていた。ここでは,寛文9 (25) (1669)年「郡内上吉田村御水帳」および慶長5(1600)年「甲州都留郡上吉田御検地帳」によっ て屋敷地割の特徴と変化について検討してみたい。 まず,寛文期の検地帳を検討すると,町場内において屋敷以外の地目として「裏地」が丈量され ていることが注目される。裏地の石盛は6斗5升代であり,新町分屋敷6斗代や横町分屋敷4斗5升 代など周辺部の町屋敷よりも高率に設定されており,裏地が中心部の屋敷に準ずる重要な存在であ ったことが窺われる。しかも連続する屋敷と裏地はほとんど同一名請人であり,小規模な屋敷→大 規模な屋敷→裏地の順で反復して記載されることから,前屋敷+本屋敷+裏地の構成をもつ短冊型 地割を表から裏へと順に丈量したことが容易に推定される。検地帳の記載が面積のみであるため正 確な屋敷地割は判明しないが,平均的な街区の奥行80間を想定して矩形で近似することで推定復図7
寛文9(1669)年「検地帳」の屋敷・裏地構成と 元亀期の屋敷地割との対応関係 東 町 元亀屋敷 番号恥. E22 E21 E20 E19 El8 E17 E16 数字は、敷地面積(歩) 劫左りiド弓2‘7助左衡門1S1● 乎飽21 平童【21 ● 七兵衛212 ●七 衛, 与五兵衛 治兵噺2」2 ●治兵衛3 ●11, 多兵翻31 多兵衛U4 ● z44 治部左衛門1‘ 皐《 ‖di郎左袖円z 市部左 r ・7 市島左衛門1‘5 市鄭左衛門口 ホ昂兵衛1‘0 治郎兵緬1附 ■ 顧右衛F¶23 三左肋門1,, 三左湾i門3」1三左諭i門3‘1● 太后兵剃17 与■左衡門1日 ・人lo・2 与惣左衛門30‘ 与惣左衛門4力● 0 5 寅右衛P∼215 右 佐治右諭 佐冶右 門14‘ 衛門 匝L 佐治右衛門 ●180 門, 七郎左衛門)Z8七節左斯門9.七郎左衡門19’ ● 与四盲爾門“ 与四右”1門ll‘’据踏Σ⇔ 弥五左祷i門1‘ 【2‘・‘6, 六兵衛3囲 ● 戊左衛門‘12 庄左術i門‘39 門備諭門252 口右●i門 “右否i Z” 門川 ぱ右妬門3日 ●︵山
又右衛門川 又右術門156 又右衡門260 ● ‘灘1(, 胞兵術‘8‘ 冶 次右勘門1Z‘ 92 腺 兵郎左衛門24, 兵部左 祷i門238 兵部左衛門556 ● 兵郵左櫛}門21, 茂右衛門50i 茂右律i門 211 茂右妬門‘ロ● 牢布衛門2・1 半右衛”半石漸門・・ 断左漸門‘“ 斬左衛門1ロ 新左衛門213 ● 金右剃門“・ 衛|ll、,伊右衛r川伊右祷i目 ‖鐵酷 民部4” 民諭3‘● 民厚|47 后郎八旧 冶郎八190 宿郎八301 ● 孫右禎iFl1597 孫右祷i門255 ● ’人聞右鴇iF3,91’、郎右『FF寸1‘2 外記452 外紀315 外紀5s7 ■ ) 1 117 ’ n 宏女2〒9 采女363 ● 采女‘62 女∼ 中 与左衛門3‘o 与左妬門 ●1η 武 《, 韓↓「1‘]3‘〒 ≠、{」葡」!F‘「172 ● 北 (248∼354筆目)貞享5年 本御師 E15 E14 唐や 鷹や (塩や)(注連や) 注連や 猿や 川口坊西
町 伊勢129 南 (1∼135筆目} 彦兵緬19‘ 壇兵衛92 平右衛門L“ 平右湾}門‘2● 五右衛門132 与五右衛門321 ● 元亀屋敷 番号恥. 遍 与五右衛門27 新屋敷分 鯵・←一A−一一一一一一 W1 九兵衛255 九兵衛1陥 ● 助五郎322 助五郎180 ● 勘盲衛『T8 凹右勘門n 勘右衛門511 与右衛門胴 勘右司i門512● 貞享5年 本御師 〔小菊や) 大橘や 団扇や 小沢坊 大珠数や 田 W2 爵右衛門415 鶴右衛門Z1‘● W3 苗右衛門,9$ 口右衛門2ハ● 10 W4 口人‘臼 ■人i3. 口人1“● 5 W5 喜右衛門, 彦左衛門3 左衛門6・ 彦左衛門川 彦左衛門z‘o ● 兵衡, 頁左衛門川 与兵剃92 W6・7 W8 幽已勘右衛与左衛醗‘[05 長三郎}力 頃兵・分民部240 左 . 左近川左近)84 ● W9 弥兵妬4射 弥兵衛川 ● 1懐訂毘沙門や小竹や大竹や W10 治部左断門‘田 冶郎左衛門311● W11 内記ZOl 内記20, 内妃2,4 ● 小丘穐i・市兵司128 口兵衛川 市兵衛209・23 ● 小兵衛131・川 ● W12遭 W13・14 直 門右衛門1‘S 七郎兵衛2‘, 七郎兵衡口 ∫し右祷i円2 九右爾門“ 七郎兵衛]M 九右衡門157九右’.門157 蕉麗門1。,六左衛門・矩衛門1・。● 小兵衛1口 式郎25‘ 式郎12‘ ’、 W15・16 弥 助‘2 弥之助2【, 弥之肋M ● “ W17 這 5‘伊右衛 治餌右衛門¶ 1“ 宿昂右衛門2,T ● 后郎右衛門2, 逼 伊左衛門‘o W18 甚西鋤o‘ 弥之助4η ● 弥之助27 衛門・5 巨左衛門‘‘‘・19 的や 大文字や 〔同) (同) 番匠や 小沢坊 鍛冶や坊 (虎や) ×猿や (猿や} (友や) 上文字や (小摸や) 績や 伝左衛門・式醐 W19 逼 W20 7 惣兵衛障居‘o《 厨之助11‘ 樋之脈85 団之肋‘13● ’ のiF 83‘ 七兵衛259 七兵衛13,● W21 弥兵衡252 弥兵筒i‘3‘● W22 躍右衛門29‘ 晴右衡門145● 門十飽82 門十蜘ユ9● 面三郎71 W23 兵部之助 122 兵部之助川5 兵部之助2‘‘● ‘9 四 ・ W24 仁兵衛】86 仁 衛” W25 4. 蒲右袷i門73 閲右衛円2,‘ ば右槍i門20,● 弥左●iF¶27‘弥左衛㍗りlt’ W26 W2丁 新之丞101 賠糖、。 蠕・,門1・? 宮内3ぱ 宮内111 ● 信左衛 5 右近1U 右近3‘4 石近∼12● 事例A 元亀3年(1572} ]..吟くマ巨NN 小林内膳 柏N (町御師 堀内庄左衛門) 友や 塩や 山直 冶右祷i門・七間郎・ 賂兵緯i‘」・s2 大鶴や《名主) (小口や) 大黒や (堀端や) 毘沙門や 大玉や菊や (大菊や) 雁丸(名主) 雁丸 大雁丸(名主) 慶長5年(1600} 大しか頷兵衛45歩 山作日右衛門‘5歩 次兵緬6渉 ×註るかと七郎左衛門‘5歩 大さるかと 二鄭左衛門65歩 し◆くし孫七郎65歩 寛文9年⑪669) 大さるや 390歩 {W2旬 大さるや 330歩 E13 E12 Ell E10 Eg E8 E7 E6 E5 E3・4 事例B 市兵衛Tl歩 与四右衛門73歩 惣兵衛阻居川歩 匂之助55歩 鑓之助n6歩 縫之助485歩 ●裏地 縫之助473歩 八郎左衛門63歩 元亀3年(1572) 禰き屋敷 u− 「 ≡ El E2 「新 丁 側 ) 南 注連や 小沢 大瓶子や ●裏 地 0 10 50 60一{闇)
一〉国 N謡葺舟宴 卜匝く: 善酒 口L 欄紅§ o 悟 馨 F ← 千ミば蚕惑 鱈匝く= ぱ﹀国↓ ’ 吉3葺酎撤 [掲週篇 匝く≡ ← 斗」ぱにN 匝く一 一 宕﹀回o 臼蝋即 酬量烏喝 匝く竺 τ“ 旧 旧 :﹀回M ‘ :謡章田旨輿 図 倹: 匝く≡ =〉回 :ユヨ潰灘 m ト ぱ模米竺 嫁×蝋: 一匝く二 二〉可 N雲 河 :﹀国o o ♀s…日這臣3 ひ匡く: ≡〉回 三〉国 8唇ll膳o o 迫 対: Φ匝く: 電 一 β〈ぱ這三 ひ匝く嵩 o 〔 奪h>串)ト評 ×ぱ芭三 一 〇 ;﹀回A K 一に: ](ぱ葺二 F −〉回 冊葺泊帝 置く: N 一 一 竺〉回 芸玉蚕師ヨ萌 “粗ば亘: e匝く: :〉・・ → 蚕 臼 犯㎏筆臣一N 匝くo ご〉国 ^窃剃ll N 1口 芦>OE 凸 . 11 マ 〔 マFO :〉回 “ L白奮 肩 9》回 一謡奪用中 縛ぱ桓 三 匝く合 一 :〉回 ㊤則 取 爬蕪 匝く≡ べ〉回 :L■邑耐二 恥昧這ご 匝く二 :〉回 m… 蒲 ∈量網違圧← 匝く: =〉回 ⇔葺瀬口山:﹀回⇔ 竺爾 侮岡 ●超胆㎏這虻: 匝く竺 ×鴨聡 匝く≡ 三〉回 竺■翻団グ o ㊨ {(㎏桓臣: 匝く: lE20) 旧貝1左衛門 120歩 慶長5年(1600) 北 治郎左衛門390歩 寛文9年(16 ●裏 1綿ぽ門1四 治郎左衛門2網歩 ●襲鋲劇渉 多兵衛234歩 図8 屋敷構成の変化、
斡辱.醒
下図は、寛文9年屋敷地割復原図。 年代は「河口御師過去帳」(蓮輩寺所蔵} によって判明する当主没年 ④大黒谷(2)弘治2年で天正年間以前の屋敷を示す。 卍香西寺 (大玉谷) .嚢.嚢.. 天正、緊蒲運 ③大友谷一鑛 8魂. 輪 嚢語 察 新丁︵西側︶ き蕊
ぺ壽§
θ .鎌
卍桂久寺(大関谷) ⑤大閲谷 .‘‘ 天正19年(2代目〉 ..饗. 肯せ噺.ド きミ雲 ..輪だe’ 田台句・・⑭ 聾⇔.、 輪・ 竜婿 ・ 舗 ⑥大瓶子谷 天文7年 ⑩大上野坊 慶安3年(3代目)。.。谷。▲灘
ワ 〈).. ④大黒谷(1}天文5年 s ①大駒谷(2)永禄年中.
織
数字は面積(歩)で、同人とある敷地は「裏地」と記載される。 図10 新町の屋敷地割(寛文9年段階) ⑤.ぶ 讐 蕊総 斌....鷲 醗購鋪
藻螺.. ミミ)天文年中(2代目) 喜 ぐ6鷲㌔ ⑦大申谷(不明) 墜 卍観音寺 謬噸翻大猿谷) ⑧大俵谷 (元和頃大破谷預・正保2年再興) ㌔ ⑫大取谷 文安3年 ④大黒谷(3)天文14年 ⑨大額谷(2)慶長9年(2代目) 大駒谷(1) 永禄2年 卍善応寺 (大黒谷) 0 10 50”戸
100 ヒェ=====コ=======」(間) 図9 寛文期の屋敷構成と十二坊の分布[中近世移行期における町場の空間構成]・一・伊藤裕久 原したものが図7である。 同図によって①前屋敷が存在せず屋敷・裏地のすべてが同一名請人であり短冊型地割がそのまま 継承されたもの…30件,②屋敷・裏地が同一名請人であり,かつ前屋敷が分筆されたもの…11件, ③前屋敷に相当する部分の一部で他の名請人がみられるもの…14件,④前屋敷に相当する部分の すべてが他の名請人によって占められ前面には引込路(タツミチ)のみを所持していたと推定され るもの…10件,が確認される。したがって,大規模な短冊型地割の敷地利用として,前屋敷+本 屋敷+裏地という空間構成が寛文期には成立していたこと,そして過半数に前屋敷の分筆がみられ 別名請人となっていることから,前屋敷に居住した従属的な住民階層が寛文期までに地借・店借層 から屋敷持層へと自立していたことが窺われるのである。 さらに遡って慶長検地帳で注目されるのは,「誰々門」という肩書をもつ屋敷の存在であり,寺 庵を除く総筆数212筆の内31筆を占めている。こうした「門屋敷」の屋敷規模は60∼90歩をピー クとしていつれも小規模であり,従属階層の居住する前屋敷を構成していたとみられる。ただし, それ以外にも小規模な前屋敷は多数存在しており,寛文期の屋敷構成は基本的に慶長期まで遡るも のと考えられる。 つづいて元亀3(1572)年・慶長5(1600)年・寛文9(1669)年について個別の屋敷地割を比較 検討したい。図8の事例Aは,大規模な短冊型地割の典型事例であり,表間ロ22間4尺5寸を有す る大猿屋の屋敷で,慶長5年には前屋敷が6筆に分筆されており内2軒は大猿屋の門屋敷であった。 この門屋敷のみが寛文期に大猿屋(縫之助)所持に戻っている。他の前屋敷は一般的な町屋敷とし て譲渡・売却されたものと推定される。また事例Bは,表間口9間と比較的規模の小さい短冊型地 割が間口方向に2分割された事例であり,分家の輩出など御師屋敷の分解過程を示す事例とみなさ れる。 以上,慶長・寛文期の検地帳の分析によって大規模な短冊型地割をもつ中世末における御師屋敷 の屋敷地割と門屋敷や裏地をもつ内部の敷地利用,および近世初期における前屋敷の析出過程など を抽出することが可能である。
2)上吉田宿と河口宿の比較
上吉田宿と並んで,富士信仰の拠点となった中世以来の御師町として河口宿が存在する。河口宿 の場合,慶長期の状況は明らかでないが寛文9(1669)年「郡内領川口村検地水帳」によって屋敷 地割の復原が可能である(図9)。同図をベースとして復原的考察を加えることで,中世末期の河 ロ十二坊(大駒谷・大玉谷・大友谷・大黒谷・大関谷・大瓶子谷・大猿谷・大俵谷・大額谷・大上 (26) 野坊・大梅谷・大靱谷)の分布が微高地を選んで浅間神社の南側に集中していること。十二坊の 屋敷は,地籍図などと比較することによって,上吉田宿と同様に奥行80間程度の「前屋敷(前 畠)+本屋敷+裏地(護持寺)」の構成をもつ大規模な短冊型地割が確認されるが,寛文検地帳には 裏地が屋敷と連続して記載されていないために,奥行30間を超える屋敷が多数存在するものの40 間程度までしか丈量されていないことがわかる。表間口も平均約5間半で上吉田宿に比較すれば小 規模となっている。 地籍図に比定すると寛文検地帳に記載された屋敷間に若干の隙間が生じるので,余歩のような丈量時における寸法の低減が考慮されねばならないが,それでもこの大きな差異は当時の地割形態の 相違とみなければなるまい。すなわち,河口宿では,集住形態が自然形成的な段階を留め,裏地ま でを計画的に配分するような短冊型地割が明確に施されなかったため屋敷の一部として認識されな く カ かったこと。また,上吉田宿の御師層が元亀期段階に49軒を数える(新屋敷を除く)のに対して, 河口宿ではおそらく十二坊に相当する程度の御師数の規模であり,その後十二坊から分家屋敷が周 辺部に輩出され街道沿いに両側町が形成されたとみられるが,上吉田宿の図7の事例Bの様に,そ れらがいずれも比較的規模の小さい御師屋敷であったことが掲げられるであろう。 さらに上吉田宿との比較で注目されるのは,前屋敷の存在形態であり,河口宿では寛文期には短 冊型地割の一部で前後に分割され始めているが,分割されていない屋敷が大半を占めているのが特 徴である。すなわち,上吉田宿では寛文期までに前屋敷が分筆され,独立性の高い町屋敷(主に御 師層とは異なる住人が居住)に利用され両側町を形成し,同時にタツミチと称される格式的な引込 路が形成され,本御師層の居住地と町屋地区という前後の屋敷での階層格差が顕在化しているのに く ハ 対して,河口宿では寛文期以降に前屋敷が分筆され,主に分家層の町御師屋敷に利用されており前 後の屋敷の階層差は少ないのである。こうした差異は,どこから生じたものであろうか。 上吉田宿では,天正20(1592)年の「吉田宿伝馬引付」によって,東町92名,西町89名が書上 げられているが,すでにその中には前屋敷に居住した住民階層が数多く含まれていた。このことは, 道路に面した前屋敷が伝馬役負担を挺子として短冊型地割の奥に居住する御師家から自立しつつあ ったことを示唆しており,それはやがて表間口3間∼6間×奥行30数間程度の短冊型地割をもち道 路に面して町屋が建つ近世的な町屋敷形態の成立へと繋がっていったと考えられる。そして,こう した広範な前屋敷の自立過程を促進した理由のひとつに市立が掲げられよう。 慶長2(1597)年「浅野氏重判物写」には「毎年六月於吉田諸国之商人立来候町場之事,自当年 く 者上中下二年別を以高町平町共二打来候之様二可被申付候也」とあり,富士参詣道者を対象に毎年 六月に開催されてきた吉田市の市立について,市日のみ道路に店棚を出す「高町」の他に,一年中 店を構えた「平町」=店商いの存在が示されており,前屋敷の中に常設店舗化が進展しつつあった くヨの ことを示している。そして,市立の範囲については,新たに「上・中・下」と3地区に区分し年別 に巡回することを規定している。それは,おそらく町場の一部分に限定されていた自然発生的な市 の場を,町場全体の繁盛を考慮して全域に再配分したものとして注目される。新宿に取り込まれた 市の場の再編成によって上吉田宿の屋敷形態も近世的な形態へと変容していったとみなすことがで きるであろう。そうした意味では,河口宿では,前屋敷の自立を促すような市や町屋の展開が少な かったのではないかと推定されるのである。 また,上吉田宿では,慶長11(1606)年「新町御師中」宛の「鳥居成次判物写」に「新屋敷へ 罷出候者共,本屋敷如前々相違有間敷候,井役等之儀,両年令免許,来年町之儀,新屋敷二相立候, く 屋敷役之儀者,上吉田本町並二可致之候者也」とあるように,元亀期の町割によって成立した「本 町(東町・西町)」から輩出された本御師家の分家層等によって「新町」が新設されている(図10)。 そこには自立性を強めた前屋敷居住者層の町屋敷も新設されており,寛文検地帳で判明する屋敷 規模をみると,奥行が約60間と深く裏地をもつ構成であることなど元亀期の屋敷地割を継承した 部分もみられるが,全体としては間口規模が小さく,必ずしも複数の前屋敷の付設を前提としない
[中近世移行期における町場の空間構成]・一・伊藤裕久 近世的な町屋敷形態が体勢を占めていることがわかる。河口宿における寛文期の状況も同様な近世 初頭の御師屋敷の分家輩出の過程を経て形成された屋敷形態とみなすことができるのではなかろう か。 このように近世初期検地帳によって上吉田宿と河口宿の屋敷形態を比較検討することによって, 中世末期の御師屋敷にみられる大規模な短冊型地割の内部状況や近世初期にかけての屋敷分解の過 程,そして,それぞれの町場における差異を解明することができるのである。
おわりに
以上,甲州を対象として,近世初期検地帳に記載された屋敷形態の分析を中心に,中世末に存在 した甲州街道の宿,市立を伴う新宿,善光寺町,甲府城下町,御師町の空間構成について具体的に 検討を加えた。従来,近世村落構造の解析にのみ用いられることの多かった検地帳を,中世末期に 成立した都市的な場の空間分析のデータとして活用することの重要性の一端は開示できたのではな いかと考える。 最後に,本稿で指摘した中近世移行期の町場の空間構成の特徴を列挙しておきたい。 まず,中世末の武田氏領内では,青柳新宿のように市立を伴う新宿の場合でも明確な計画性をも つ町割や短冊型地割が検出されず,こうした計画的な町割・屋敷地割は,甲州街道の台ヶ原宿や善 光寺町など重要な町場に限定されていたとみられる。そして,明確な短冊型地割をもたないルーズ な空間構成の街道沿いの多くの町場も寛文期までには一様に短冊型地割に整備されている。 これらの町場の短冊型地割については,近世初期には間口6間を基準として奥行30間以下が一つ の基本形となっているが,中世段階に成立していた短冊型地割は,台ヶ原宿・善光寺町など総じて 奥行30間を超え,一方,間口規模については中世段階ではそれよりも狭い傾向が認められる。こ うした近世における屋敷規模の基準は,甲府城下の周辺諸町で慶長段階に確認され,おそらく城下 町整備のための計画的な屋敷地割が在地の町場の整備にも導入されたものであろう。 また甲府城下町に関しては,周辺村落の検地帳の分析を通じて惣構堀や町割の整備状況の一端が 解明されると同時に,戦国期城下町としての古府中の改変や新府中住民の移住状況などが明らかと なった。その際に特に注目されるのは,従来あまり指摘されることのなかった城郭東側の条里制の 存在する地域の中世町場・集落と城下町建設過程との密接な関係であり,中世段階の甲州街道や善 光寺町との関係を含めて再検討されねばならないであろう。 最後に,中世段階の御師町に関しては,上吉田宿・河口宿ともに前屋敷・門屋敷のような従属的 な住民階層を内包した複数の住居で構成される大規模な短冊型地割の存在が指摘されるが,これは く 中世的な「構」の発展した屋敷地割として注目され,中世末の宿における有力住民階層の屋敷形態 の一類型として敷桁して考えることが可能であろう。ただし,上吉田宿の場合は,こうした大規模 な短冊型地割が町場全体に及んでおり,その意味では御師集団の並列的な共同体組織が象徴された 特殊な町割・屋敷地割と言えるかもしれない。また,前屋敷の自立・分解過程には近世初頭の伝馬 役負担や市立方式などが影響を与えたとみられ,ふたつの御師町においても一様ではなかったこと が指摘できる。註 (1) 戦国期段階の市・宿・町の分布状況に関して は,すでに平山優「戦国期甲斐国の市・宿・町一武田 領国経済研究序説」(『武田氏研究』第7号,1991年), 同「戦国期甲斐国の市・宿・町一都留郡・河内谷中を 中心として」(「甲斐路』第70号,1991年)によって 武田氏領内の網羅的な分析が行われ分布図が示されて いる。 (2) 第1節については,伊藤裕久「中世末から近 世初の町と市」(都市史研究会編『年報都市史研究4一 市と場』山川出版社,1996年),第2節については, 伊藤裕久・渡辺洋子「近世甲府城下町の空間形成一中 近世移行期の都市空間の変容」(植松又次先生頒寿記 念論文集刊行会編「甲斐中世史と仏教美術』名著出版, 1994年),第3節については,伊藤裕久「戦国期上吉 田宿の町割・屋敷地割とその変容」(五味文彦・吉田 伸之編『都市と商人・芸能民』山川出版社,1993年) を併せて参照いただきたい。 (3) 『新編相州古文書』172号。 (4) 『甲斐国誌』巻之四十八古蹟部第十一。 (5) 近世の台ヶ原宿の町並の変容過程に関しては, 平成9年度刊行予定の『山梨県史一建造物編』を参照 されたい。 (6) 『新編武蔵風土記稿』巻之九十三。 (7) 北原新次家文書。 (8) 台ヶ原宿には根小屋から移住したという伝承 があり,宿移転は,単純な古屋敷のみからの住民移動 ではなく,周辺住民の広域的な再編を伴ったものと考 えられる。 (9) 「武田勝頼印判状」(『新編甲州古文書』1804号)。 (10) 「穴山信君判物」(『新編甲州古文書』1805号)。 (11) 前掲註(1)平山論文などに拠る。 (12) 栗田文書(善光寺大本願所蔵)「信濃史料第 十五巻』33頁。 (13) 山門は,万治2(1659)年の建立(『善光寺 記録』)であり,善光寺では,正保2(1654)年本坊取 立(触頭)以降,寺庵・堂舎の整備が進展し境内地が 明確化している。 (14) 栗田文書(善光寺大本願所蔵)『信濃史料第 十八巻』96頁。 (15) 甲州街道からの入口に設けられた木戸内の参 道(間口5間×奥行8丁)のみが「大門通」と称され 御朱印境内となっていた(『善光寺古記』)。 (16) 上宿には,連雀商人頭であった玉屋・長瀬甚 兵衛や前掲註(13)の山門造営の大工棟梁であった川 口小右衛門尉善正など,中世からの系譜をもつ有力家 が居住している。 (17) 慶長6年「万力筋善光寺町屋敷帳」(1冊), 同年「北山筋塩部之内御縄打水帳」(5冊の内4冊現 存),同年「万力筋板垣村御縄打水帳」(11冊の内10 冊現存),同年「中郡筋東青沼村御縄打之水帳」(2冊) 慶長16年「北山筋古府中再縄水帳」(12冊の内7冊現 存),同年「中郡筋遠光寺御再縄水帳」(11冊の内10 冊現存)。 (18) 塩部村は城下町の西に位置しているから城下 町南端の川尻町と確定するには疑問が残る。ただ 町の形状・規模が近似していることから,ここでは川 尻町に比定しておきたい。 (19) 「文禄の比より伊勢町四九の市場立」(『甲州 古府中新府中聞書』)とあり,伊勢町には八日町・三 日町と並んで城下町市が開設されていた。 (20) 「甲州文庫史料 第二巻甲府町方編』山梨県 立図書館,1973年所収。 (21) 波多野純「甲府城下町の建設・整備に果した 甲府上水の役割について一江戸との関連をふまえて一」 (「生活文化史』8号,1985年所収)。 (22) 享和3(1803)年「上下府中各町家数間数改 帳」(前掲『甲州文庫史料 第二巻甲府町方編』所収)。 (23) 「武田勝頼定書」(『新編会津風土記』巻之三 提要之三)。 (24) 「吉田新宿帳」(『新編甲州古文書』2413号) の他,佐藤なつ家文書・小沢鯉一郎文書・大友セヰ家 文書などに元亀3年「屋敷割覚」が現存している。 (25) 刑部自生家文書(『富士吉田市史資料叢書6 検地帳』富士吉田市史編纂室,1989年所収)。 (26) 慶長10(1605)年「富士浅間社御師衆連署 書状」(「新編甲州古文書』2153号)に拠る。 (27) 河口宿では,寛文検地において屋敷の裏地の 畠は耕地地区として別に丈量されたと推定される。 (28) 文化7(1810)年「当時居屋敷細改水帳」に よって寛文期以降に前屋敷の分筆が急速に進展した ことが窺われる。元禄10(1697)年に十二坊の相分 83人の御師職が認可されており,安永2(1773)年に は御師数108名となってる(『本庄八重家文書』)。 (29) 田辺四郎家文書。同史料は井野辺茂雄「富士 の研究。富士の歴史』名著出版,1973年復刻にも掲 載されている。
[中近世移行期における町場の空間構成]……伊藤裕久 (30) 堀内真「富士に集う心一表口と北口の富士信 仰」(網野善彦・石井進編『中世の風景を読む3』新 人物往来社,1995年)が,土橋里木他『日本の民俗・ 山梨』(第一法規,1974年)の高町・平町の記述など を引用しながら,吉田市の具体的状況を考察している。 (31) 『甲斐国志草稿』(『新編甲州文書』2204号)。 (32) 御室浅間神社の神官であった小佐野越後の屋 敷について弘治2(1556)年「小山田信有印判状」(『新 編甲州古文書』2085号)に「其方構之内,棟別家五 ッ,如前々令免許者也」とある。 (東京理科大学工学部,国立歴史民俗博物館共同研究員) (2005年5月17日受理,2005年7月15日審査終了)