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パスカルにおける「中間」の問題

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パスカルにおける「中間」の問題

山 上 浩 嗣

**

パスカルは『パンセ』において、神の存在の必 然性、偉大さ、永遠さを直接間接に念頭に置きな がら、人間を、何よりもまず偶然で、卑小で、は かない存在であると規定する。だが一方で、彼に とって人間は、星々や動物にはない精神をもち、

みずからの悲惨さを知るという点で偉大な存在で もある。このように対立する命題を並立させるこ とで、パスカルは人間を、それだけいっそう悲劇 的な存在として描き出している。偉大かつ悲惨、

一義的な価値づけを拒む人間は、ひとつの「怪 物」、「混沌」である。

人間とは一体、なんという怪獣なのか。なんと いう珍奇な代物、なんという怪物、なんという 混沌、なんという矛盾、なんという驚異なのだ ろうか。森羅万象の審判でありながら愚昧なみ みずでもあり、真理の保持者でありながら不安 と錯誤の巣窟でもあり、宇宙の栄光でありなが らそのごみくずでもあるとは1)

こうした価値づけの不定さはすなわち、人間の 本質自体が不定であることを示している。そして この不安定なあり方から、パスカルは人間を「中 間」的な存在であると見なす。

われわれは広大な中間の海を航海しながら、つ ねにあてどなくさまよい、端から端へと押しや られている。いずれかの端に自分をつなぎ止 め、足場を定めたいと思っても、それはぐらり と動揺し、われわれから離れ去る。食い下がっ たとしても、それは捉えられることはなく、つ

るりと滑り、永遠に逃亡をくり返す。われわれ のためにとどまるものなど何もない。これがわ れわれにとって自然な状態であるのに、これほ どわれわれの願いに反した状態はない。われわ れは確固たる基盤と、揺るぎない決定的な砦を 見つけ、そこに無限にそびえ立つ塔を築きたい と熱望している。けれども、いかなる基盤も音 を立てて崩れ去り、地は裂けて深淵へと至るの だ2)

豊富な対句表現、生彩あふれる比喩、印象的な 韻律を備え、しばしば一編の詩にも比せられるこ の一節は、『パンセ』において、「中間」のはらむ 運命的な悲劇性をもっとも明確に表現した文章で ある。中間とは、不安、運動、未完成の状態であ る。パスカルにとって、このような不幸な状態か ら人間を救い出してくれるのは、無限で永遠の存 在である神以外ではありえない。にもかかわらず 人間は、みずからの置かれた状況を忘れ、気晴ら しにふける空しい存在であるとされる。「中間」

の主題はこうして、作者の護教的意図にとってき わめて重要な意義をもっている。実際、『パンセ』

において、人間の存在論、認識、価値、モ ラ ル は、すべてこの中間性の規定と密接に関係してい る。

本論では、第一に、「空しさ」(Vanité)の章に 収められた断章群から、「中間」という主題の重 要性を指摘し、第二に、中間者としての人間の存 在論、認識論、価値論を個別に検討し、第三に、

そのような人間はいかにふるまう必要があるかを 考察していこう。

キーワード:ブレーズ・パスカル、『パンセ』、無限

**関西学院大学社会学部専任講師 1)S 164−L 131, p. 221.

2)S 230−L 199, pp. 251−252.

March

(2)

!.

「中間」の主題とその意味

『パ ン セ』の「空 し さ」の 章 に は、直 接「中 間」(milieu)という語は使われていないが、上 で述べた中間の主題に関連すると思われる断章が いくつか含まれている。周知のように、『パンセ』

は、パスカルが晩年に構想した『キリスト教護教 論』(以下、『護教論』と記す)の草稿をなす断章 が大部分を占めていると考えられる。なかでも、

彼の死の直後に成立したとされる二つの写本のう ち、「第一写本」の最初の27章(「第二写本」では 第2〜第28章)については、目次 が 存 在 し て い る。パスカルの自筆・口述原稿には不在のこの目 次も、彼本人の手になることが今や定説となって おり、これがある時期(1658年6月か1660年秋)

における『護教論』のプランを示していることは 明らかである3)。したがって、これら27の章のそ れぞれに収録された断章群については、パスカル 自身が明確な一貫性を認めていることは疑いがな い。そして、「空しさ」のフ ァ イ ル は、「第 一 写 本」の第2章を形成しているのである。

まず、時間に関する次の考察は、人間が定めら れた中間の位置にとどまっていられないことを示 唆しているようである。

われわれは決して、現在という時にとどまって いることはできない。やって来るのが遅すぎ て、その歩みを早めようとするばかりに、未来 のことをあらかじめ考えたり、過ぎ去るのがあ

まりにも速いので、その歩みをとどめようと、

過去のことを振り返ったりする。こうしてわれ われは、粗忽にも、まったく自分のものではな い時間のなかをさまようばかりで、自分に属し ている唯一の時間のことを考えようとしない。

そしてまた、空しくも、なきに等しいような時 間のことをあれこれと考え、たった今存在する 唯一の時間を、何も考えずに取り逃がしてしま う。[...]各人が自分の思考をじっくりと検討し てみれば、そのすべてが過去と未来にとらわれ ていることを知るだろう。われわれは現在のこ となど、まったくと言ってよいほど考えはしな いのだ4)

人間は、もはや取り返しのつかない過去の過 ち、再び享受しえない過去の喜びを振り返るかと 思えば、本当にやってくるかどうかは不確かな未 来のできごとや経験について、不安と期待を抱い たりするばかりで、まさに実在のものである現在 の感情や行為に集中することはない。人間が現在 に生きながらも、未来のことばかり気にかけてい るという主題は、モンテーニュやラ・ブリュイ エールによっても扱われているし、パスカル自 身、『パンセ』の他の断章で繰り返し取り上げて もいる5)が、この一節では、次のような理由で、

ことさらに現在が、過去と未来に挟まれた中間項 であることが強調されているように見受けられる。

この一節は、『エセー』第1巻、第3章から想 を得たと見られている6)。モンテーニュの一節で は、現在と未来の対比だけが問題になっていて、

3)パスカルは、おそらく『護教論』のプランを作成し、それに含まれる27の章の記述に役立つと判断した断章群 を個別のファイルにまとめた時点で、プランに直接関係のない断章を脇に取りのけた。『パンセ』の写本は、整 理済みの27章のほか、これら未分類の断章群と、プラン作成以後に書き足されたと考えられる断章群を合わせ て、全部で60のファイル(「第二写本」では61)からなっている。なお、『パンセ』成立の経緯と現代における 本作品の批評校訂上の課題については、塩川徹也、『パスカル「パンセ」を読む』(岩波書店、「岩波セミナー ブックス」、2001年)第1章に、詳細かつ簡潔な説明がある。

4)S 80−L 47.

5)例えば、「もし、確かなことのためにしか何もしてはならないならば、人は宗教のために何もしないだろう。な ぜなら宗教は確かなものではないからだ。だが、人は航海や戦争など、いかに多くのことを、不確かなことの ために行っているだろうか。それならば、何もしないほうがましではないか。確かなことなど何もないのだか ら。それに、われわれが明日という日を見ることに比べれば、宗教にはより大きな確かさがあると言いたい。

[...]ところで、人が明日のため、確かではないことのために働くのは、理にかなった行いである。なぜなら、す でに証明された取り分の規則に従えば、人は確かでないもののために働くべきだと言えるからである。」(S 480

−L 577)こうした主張は、「賭けの断章」(S 680−L 418)の議論へと発展していく。

6)Cf. Pascal, Œuvres, L. Brunschvicg éd., Paris, Hachette, « Les Grands Ecrivains de la France », 1904(Nendeln/

Liechtenstein, Kraus Reprint, 1976)14 vol. ; tome XIII(Pensées II), p. 90, n. 1.

第 91 号

(3)

過去への言及は、未来の不確定さを強調するため だけになされるにすぎない。

人間がつねに未来のことにばかり見とれるのを 非難して、「われわれ人間は未来のことには過 去のこと以上に無力なのだから、現在もってい る幸福をつかんで、それに満足せよ」と教える 人たちは、人間の犯す過誤のもっともありふれ たものに触れている。[...]われわれは決して自 分のもとにいないで、つねに自分の向こうにい る。不安や欲望や希望は、われわれを未来に押 しやり、将来のことに、しかもわれわれの死後 のことに、心を煩わせて、われわれから現にあ るものについての感覚や考慮を奪い去る。「未 来を思い煩う心は不幸である。」7)

また、『護教論』の執筆開始と同時期に書かれ たある手紙の一節でも、パスカルの関心の中心は 未来にとらわれる人間のあり方への反省へと向 かっており、過去に煩わされてはならないという 主張は、副次的なものにとどまっている。

過去に決して煩わされてはなりません。どうせ 罪を悔やむことにしかならないからです。それ にもまして、未来のことに心動かされるべきで はありません。未来は私たちにとってまったく 現存しないもので、それに追いつくことはおそ らく決してないからです。本当に私たちのもの である時間は現在だけですし、神の御心に従っ て私たちが用いるべきものも現在だけなので す。何よりもまず現在においてこそ、私たちの 思念は考慮に値するのでなければなりません。

なのに、人々はじっと落ち着いていることがで きず、そのあまり、ほとんどだれも現在の生活 と自分が現に生きている今の瞬間のことは頭に

なく、頭にあるのはただ、これから自分が生き ることになる瞬間だけなのです。その結果、ひ とはつねに未来を生きるという羽目になり、決 して現在を生きることはできません8)

このように、関連する二つの文章と比較して、

「空しさ」の章に収められたパスカルの時間論で は、人間の想念を占める時間として、過去と未来 が対等の地位を与えられていることが特徴的であ る。パスカルはここで、「自分に属している」唯 一の時間としての現在を、三項の中間項として意 識的に位置づけたのではないかと推測される。

次に、「空しさ」の章には、身体や精神の極端 な状態にあるとき、人間は正しい判断ができない ことを示そうとする断章が認められる。

量の多すぎる酒、少なすぎる酒。酒を少しも飲 まさずにおけば、人は真理を見いだすことがで きまい。多すぎるくらい飲ませてみても同じこ とだ9)

本を読むのが早すぎても遅すぎても、何も理解 できない0)

無理な禁酒は不自然ではあるが酒量節制が望まし いこと、熟読は大切であるが途中でやめてしまっ ては何もならないこと。正しい判断のためには、

身体にも精神にも、禁欲と快楽、集中と休息のほ どよい調和が不可欠であるとされる。どちらも、

誰もが日常の経験に照らしてうなずける常識的な 見解である。別の断章では、次のように述べられ ている。

齢が若すぎると正しい判断ができない。齢をと りすぎていても同じだ。(1°)

7)『エセー』、I−3、Essais, P. Villey, V.−L. Saulnier éd., Paris, PUF, « Quadrige », 1992, 1−3, p. 15.

8)「ロアネーズ嬢への手紙8」、Lettre 8 à Mlle Roannez, janvier 1657,MES. III, p. 1044.

9)S 72−L 38.

10)S 75−L 41.『パンセ』の未分類の断章群のなかに、本断章とまったく同じ文章の前に、「二つの無限、中間」

(« Deux infinis. Milieu. »)という文字が記された断章(S 601−L 723)が存在する。この点から、断章S 75−L 41 執筆の時点において、「中間」の主題が念頭にあったことは明らかである。Ph・セリエ教授は断章S 601−L 723 を、『護教論』のプラン成立時にその諸項目とは無関係とみなされた断章群のなかに位置づけている。同じ主旨 の断章のひとつを排除したと考えれば、これは納得のいく見解である。だが、なぜ短いほうの断章S 75−L 41が

『護教論』に生かされると判断されたのかは不明である。

March

(4)

思索が十分でなくとも、考えすぎても、頑固に なり、そのことに夢中になる。(2°)

自分の作品を仕上げた直後にそれを観察した場 合、まだすっかりそれにとらわれたままである が、あまりに時間が経つと、もうそこに入って はいけない。(3°)

絵を見る場合も同じことで、遠すぎてもいけな いし、近すぎてもいけない。真に適切な場所は 不可分な一点しかない。これ以外の点は、近す ぎるか遠すぎるか、または、高すぎるか低すぎ るかである1)。(4°)

これら四つの考察はともに、正しい判断を行うた めにはさまざまな中庸の条件が必要となることを 主張している。これらの文章は、作者によって偶 然に思いつくまま羅列されたものではないだろ う。それぞれが、別の観点から中庸の重要性に言 及しているからだ。身体の条件の中庸(1°)と精 神的平穏(2°)に続いて、判断に適切な、時間的 条件(3°)と空間的条件(4°)が挙げられている。

そして、パスカルは、正しい判断に不可欠な中 庸の態度には、至り着くことが困難であるとして いる。上の断章の結論部で彼は言う。

絵の技術においては、遠近法によってこの不可 分な一点を決めることができる。しかし、真理 や道徳においては誰がそれを決めるのだろうか。

パスカルはこれらの考察によって、ストア派の 哲学者たちに倣って、単に中庸や節制のモラルを 説こうとしたのだろうか。そうではないだろう。

本断章の主張が上の引用に見られる問題提起を引 き出すためのものであるとすれば、重要なのは、

人間における中庸の条件の必要性という命題それ 自体ではない。ここではむしろ、その観察事実を 前提として、人間にとってもっとも大切な課題で ある「真理」や「道徳」の探求において、それに たどり着くためのたった一つの足場(「不可分な 一点」)を定めることの不可能性と絶望が強調さ

れていると理解すべきであろう。人間は、さまざ まな現象と経験から、正しい判断が、身体的・精 神的中庸の状態と、時間的・空間的中間の位置に よって与えられるという事実については容易に納 得する。だが、その位置は、遠近法の消失点のよ うに微細な一点である。この点を見つけだすこと は、人間には事実上不可能である。

上に引用した諸断章が、作者によって「空し さ」と題された同じひとつのファイルに綴じ込ま れてあったことに注意したい。有名な「想像力」

の断章を含むこの章の主題は、人間の理性の無力 さである。本章には、次のような一節が見いださ れる。

正義と真理はきわめて研ぎすまされた二つの先 端であって、われわれのもちあわせの道具はひ どく摩滅しているので、そこに正確にあてがう ことができない2)

わ れ わ れ は、真 も 善 も、保 持 す る 能 力 が な い3)

実際、同じく「空しさ」の章に収められた次の 断章は、人間が中庸の位置にとどまることの困難 をはっきりと言い表しているようだ。

われわれは、ちょっとしたことにも苦しめられ れば、ちょっとしたことにもなぐさめられる4)

人間の精神や身体は、正しい中庸をいつも目指 すが、すぐに極端へと振れる。快楽が放蕩にな り、節制が禁欲となり、休息は怠惰を導く。かく て、われわれの状態は「不安定」である。

人間の状態。

不安定、倦怠、不安5)

これまでに見たように、パスカルにとって、人 間は、過去・現在・未来からなる時間のなかで、

11)S 55−L 21. 番号は筆者。

12)S 78−L 44.

13)S 62−L 28.

14)S 77−L 43.

15)S 58−L 24.

第 91 号

(5)

つねに中間である現在に定められた存在である。

だが人間は、その運命づけられた位置から逃れよ うとし、過去の回想と未来への配慮に身をやつし ている。一方で、人間は、正しい判断のために身 体上・精神上の中庸の状態を必要とする。それば かりではなく、ときには空間的・時期的な中庸が 要求される。だが、そのような一点に身を定める ことは人間には不可能である。日本語でいう位置 的な意味での中間も、比喩的な意味での中間、す なわち「中庸」も、ともに«milieu»という語の意 味領域である6)。こうして、「空しさ」の章に見 られる、一見とりたてて独自性の感じられない考 察の数々のなかに、実は「中間」という潜在的な 主 題 が 込 め ら れ て い る よ う に 思 わ れ る の で あ る7)。中庸を求めつつもたどり着けず、中間を与 えられつつもそこにはとどまっていられない。こ うした人間の矛盾したあり方は、パスカルが人間 に認めた「中間」的性格から説明されるであろ う。

このように考えると、同じく「空しさ」の章に 収められた次の断章も、人間の中間者としてのあ り方を示唆しようとしているように思えてくる。

人間の本性は、いつも前へ行くものとは決まっ ていない。前へ行くこともあるし、後戻りする こともある。

熱病にも、寒気のするときと身体の熱くなると きとがある。寒気がしても、熱っぽい場合と同 じように、熱の温度が高いことを示している。

時代から時代へと人間は次々に新しいものを発

明して進んでいくが、その進み方も同じであ る。一般に世の中がよくなっているか悪くなっ ているかも同じである。

「多くの場合、貴顕は変化を好まれる。」8)

たえざる変化、前進と後退の両方向への運動。こ うした主題は、冒頭で確認した「中間」の含意と 重なり合う。第二段落で語られている、寒気と熱 の共存という現象は、まさに偉大と悲惨という、

中間者たる人間の両価性と不安定さを暗示してい るようだ9)

それでは、パスカルは『護教論』で、人間をい かなる点で中間的存在と定め、そのことで何を主 張しようとしたのだろうか。「人間の不均衡」と いう断章に即して具体的に考察していこう。

! .

「人間の不均衡」の断章

「中間」は、『護教論』の「人間を知ることか ら神への移行」と題された章で、明確な主題とし て扱われる。なかでも、「人間の不均衡」で始ま る、『パンセ』のなかでもっとも長大な断章は、

人間が「二つの無限」の中間的存在であるという 本章の中心的な命題を提示している。以下、この 断章の記述をもとに、中間に定められた人間の存 在論と認識論を検討してみよう。

1.「中間」の存在論−人間の大きさ

人間が中間的存在であるとされるもっとも明ら かな根拠は、人間の大きさを、「自然」の事物全

16)1690年に出版された、A・フュルティエールの『万有辞書』(Antoine Furetière, Dictionnaire universel, Genève, Slatkine Reprints, 1970, 3 vol.)は「中間」(milieu)という語を、次のように説明している。「(1°)両端から等距 離にあるもの、(2°)同じ性質の複数の事物に囲まれているもの、(3°)時間に関する中断、(4°)二つのものの 間に置かれる分離、分割、(5°)比喩的に、精神的あるいは道徳的なことがらについても言われる、(6°)こと がらを調整するために見つける手段」(番号付けは筆者)。

17)「空しさ」の章では、実際に一カ所だけ« milieu »という語が使われている。「古くからの印象だけが、われわれ を欺くわけではない。新奇なものも魅力も同じ力を発揮する。この点から、人間のあらゆる論争が生じた。

人々はたがいに、幼年時代の誤った印象に従っている、とか、むなみに目新しい印象ばかり追いかけている、

などと非難し合っている。正しい中間(« le juste milieu »)を守っている者がいるだろうか。そんな人がいた ら、出てきてそれを証明してほしいものだ。」(S 78−L 44, p. 177)

18)S 61−L 27.

19)パスカルはここでもモンテーニュを参照している。『エセー』、「レーモン・スボンの弁護」の章には、「私は、

前進したり、後退したりしているだけだ。私の判断も、いつも前に行くとは決まっておらず、揺れ動き、さま よう」という文章が見える。また、本断章末尾にある原文ラテン語の格言は、『エセー』第1巻、第42章に引用 されているホラティウスの文章である(Cf.Pensées, éd. Ph. Sellier, Paris, Bordas, « Classiques Garnier », 1991, p.

170, n. 8.)。

March

(6)

体の大きさと比較することから得られる。自然に は、極大、極小の「二つの無限」が存在するが、

人間の大きさはその中間である。この観察は、自 然において無限という驚異が存在するという事実 を賛嘆するためになされるというよりは、人間の 置かれた位置の不安定さを強調し、その存在の価 値に対する疑問を喚起するためになされている。

外界への視線は、つねに自己のあり方への問いと 結びついている。パスカルはここで、自然科学者 ではなく、人間学者である。

彼はまず、宇宙という極大の事物の存在へと読 者の注意をふり向けることから始める。

さあそこで人間に、大自然を残りくまなく、そ の高大な、みちみちた威容のうちに眺め渡させ てみよう。人間を取り巻く、この地上のさまざ まなものから、その目を離れさせてみよう。宇 宙を照らす永遠の灯火のように座を占めた、あ の輝かしい光を見つめさせよう。あの星が描く 広大な軌道に比べたら、地球はひとつの点とし か見えないであろう。さらに、この広大な軌道 すらも、天空をめぐる幾多の星に取り囲まれた 円周に比べるとき、針の先ほどのぽつんとした 一点にすぎないことに、驚かされるであろう。

ところで、われわれの目に映る世界がそこで尽 きるのなら、その先へは、想像力を馳せていっ てみよう。自然の供給する種が尽きてしまうよ り前に、想像力の方が思いをはらんでいくのに 疲れてしまうであろう。この目に見える世界の 全部も、自然の豊かな胸に抱かれてみれば、ど こにあるかわからない線の一筋にすぎない。何 を思い描こうと、これには近づくことはできな い。想像できる限りの空間のかなたに自分の思 いをふくらませていっても無駄である。われわ れの生み出すものは、現実のものの姿に比べた ら、極致の原子にすぎない0)

「点」「円周」「空間」「線」「原子」といっ た、幾 何学の用語の頻用が印象的である。作者はここ で、「地球」、「あの星」(太陽)が描く「軌道」、

「天空」、そして「その先」という、大きさの異な る空間を名指し、そのそれぞれが、より大きな空 間に対して「点」の位置しか占めないことを指摘 する。地球は太陽の円軌道に対して一点であり、

その軌道は天空にくらべると針の先ほどの大きさ であり、これら目に見える世界のすべては、「そ の先」に対して「一筋 の 線」、あ る い は「原 子」

でしかない。点は零次元、線は一次元、円周は二 次元、空間は三次元である。パスカルの幾何学に おいて、「根は平方に対し、平方は立方に対し、

立方は四累乗に対して、計算には入らない。よっ て、低次の数はいかなる値もないものとして無視 す る こ と が で き る1)」。つ ま り、n次 元 の 数 量 は、n+1次元の数量に対して無である。後にも 見るように、そもそもパスカルにとって、次元の 異なる事物はたがいに比較の俎上に載せることす ら不可能なのである。あえていえば、n+1次元 の数量はn次元の数量に対して「無限」という ことになろう。すると、天空全体の「その先」は

「地球」にくらべれば、「無限」の十数乗もの大き さになる。

彼はそのような、文字通りはかり知れない大き さのもの(そのものを「宇宙」と名づけることす ら躊躇しているようだ)を指して、「無限」と呼 ぶほかはない。同時に、この無限の空間に囲まれ たみずからの発見は、人間に実存的な不安を引き 起こさずにはいない。

このような無限のなかにあって、人間は一体ど れほどのものだろう2)

以上のように無限大の空間のなかに人間を置い たあと、パスカルは極小の事物へと目を転じる。

「一匹の壁蝨」である。その小さな壁蝨ですら、

脚をもち、血管をもち、血液をもち、体液をも つ。体液はまた一滴一滴に分解されるだろう。そ の一滴にも蒸気があるに違いない。そして、

なおもこの最後のものを分解していくならば、

20)S 230−L 199, p. 247.

21)「数の冪の和を求めることについて」(『数三角形論』の付属論文)(Potestatum numericarum summa,MES. II, pp.

1271−1272, traduction du latin par J. Mesnard). 22)S 230−L 199, p. 247.

第 91 号

(7)

人間はそれを思い描くだけで力を使い果たして しまうにちがいない。こうして、人間のたどり 着く最後のものが、今われわれの論議の対象と なるであろう。そして、それこそ自然の極限小 と考えてよいであろう3)

壁蝨の体液が発する蒸気ですら、不可分の物質で はない。それすらもまだより小さな物質の集積で あると考えられる。われわれにはそれがどのよう なものかはわからないが、その存在を思い描くこ とは許される。そして、その想像が至り着く最後 の粒子が、物質を構成する最小単位として定義さ れ、デモクリトス、エピクロス、ルクレティウス らがその実在を信じた「原子」である。だが、

「空間が無限に分割可能であることを信じない幾 何学者は存在しない4)」と考えるパスカルは、物 質の本質を「延長」であると規定し、延長は必ず 複数の部分に思考の上で分割可能であると考える デカルト5)と同様、原子論には与さない。パスカ ルはかくて、「原子の縮図」の世界を描き出す。

私は、その内部にまた新たな深淵があることを 人間に見せてやりたい。極限の原子のそのまた 縮図とも言うべきこの内側に、目に見える宇宙 ばかりでなく、自然のなかでおよそ考えつくか ぎりの広大な世界を描いてみせたい。人間はそ こにも、無限の宇宙があり、そのおのおのが、

それぞれの天空、惑星、地球を、この見える世 界と同じ割合でもっているさまを見るであろ う。その地球上にも動物がおり、ついには壁蝨 がいるのが見えるであろう。その壁蝨のなかに も、最初の壁蝨が示したのと同じものを、再び 見いだすであろう。こうして、その次の壁蝨の なかにも限りなく、休みなく同じものを見つけ だしていくと、人間は、この不思議さに茫然自

失せずにいられないであろう。もうひとつの驚 異がその大きさによるものであったように、こ れはその小ささにおいて、やはり驚くべきもの なのだ6)

パスカルが「原子」のなかに認めるのは、驚くべ きことに、さきほど見た無限大の宇宙である。極 小のように思えた空間が、われわれにとっての

「天空」や「その先」を「同じ割合」で包摂して いるのである。あらゆる物質が分割可能であって みれば、このような想像も論理的には可能であ る7)

パスカルは再び問う。このような大小二つの

「無限」の連鎖としての「自然」のなかで、人間 とは何か。いずれの無限の先端をも実際に見るこ とができない人間は、自己が自然のなかで占める 位置も知ることができない。彼が知ることができ るのは、自分がこれら二つの無限の「中間」であ るということだけである。ここでは人間が、その 大

!

!

!

において中間であることが確認されたにす ぎない。だがこの事態は、パスカルにおいて、そ のまま人間が占める位!!が両極に挟まれた中間で あることを表している。

結局、自然のなかで、人間とは何者なのだろう か。無限に比べれば無、無に比べれば全体、無 と全体との中間。両極端を理解することからは 限りなく隔てられているため、ものごとの終わ りと始めとは、人間にとってはどうしようもな く、底知れぬ神秘のなかに隠されている。人間 は、自分が引き出されてきた無をも、自分が呑 み込まれていく無限をも、等しく見ることがで きない8)

言うまでもなく、位置的な「中間」は決して

23)S 230−L 199, p. 248.

24)「幾何学的精神について」、De l’esprit géométrique,MES. III, p. 404.

25)『哲学原理』II−20.

26)S 230−L 199, p. 248.

27)パスカルは、「幾何学的精神について」のなかで、このような想像に反論する者たち(シュヴァリエ・ド・メレ など)に、次のように答えている。「もし彼らが、小さな空間が大きな空間と同じだけの部分をもっていること をおかしいと思うのであれば、部分の方も比例してより小さくなっていることもまた理解するがよい。そし て、このような認識に慣れるために、小さなグラスを通して天空を眺め、グラスの各部分に天空の各部分を見 ればよい。」(MES. III, p. 406.)

28)S 230−L 199, p. 249.

March

(8)

「中心」ではない。13世紀からルネサンスまでの 西欧思想を支配した、地球と人間を中心に据える アリストテレス主義的な宇宙観は、パスカルの時 代にはすでに崩壊していた。

中世からルネサンスの時代、スコラ哲学者たち は、宇宙は閉じた空間であり、地球がその中心に あることを信じていた。地球は同心円状の球体に 取り巻かれ、その円に沿って、月や太陽を含むさ まざまな星々が回転する。土星が中心から数えて 第七番目の円を描き、宇宙の外周には、不動の 星々がきらめいている。そして、ミクロコスモス としての人間の運命は、マクロコスモスとしての 宇宙の動きによって規定される。二者の間には、

安定的なアナロジーの関係が成立し、宇宙は調和 と単一的秩序が支配していた。天文学はいまだ占 星術と明確に区別されていなかったのである。

16世紀中葉、コペルニクスが地動説を唱え、プ トレマイオスの有限で安定的な宇宙観に衝撃を与 える。同時代のモンテーニュがすでに、コペルニ クス説が、それ以前の三千年間も疑われなかった 天動説と同じ程度に信憑性がある意見であると述 べている9)。16世紀末、火刑に処されたジョル ダーノ・ブルーノは、宇宙が無限の球体であり、

「無限の球体には、中心がいくつもあり」、「限界 はどこにもない」と主張した0)。これにより、中 世的な宇宙観は完全に崩壊する。17世紀になる と、ケプラーがいくつもの星を発見し、日蝕の現 象と惑星の軌道を解明する。ガリレイはまた、発

明されたばかりの天体望遠鏡を用いて、コペルニ クス説により強靱な数学的根拠を与えた。宇宙か ら生命的要素が追放され、人間は星辰の影響を被 らずに生きる自律的存在となる1)。世界が数学的 言語で記述されるにおよび、ミシェル・フーコー が言う「エピステーメー」の転換が生じる。知の 形 態 は「類 似」に よ っ て で は な く、「表 象」に よって特徴づけられるようになるのである。

パスカルはこのような知の傾向の変化と無縁で はいられなかった。星辰に理性の存在を仮定する モンテーニュの観察2)を、パスカルは受け継がな い。彼 は、宇 宙 か ら「思 考」を 剥 奪 す る3)こ と で、それを「沈黙」する無機質な「空間」である と断じる一方4)、真空に関するさまざまな実験を 通して、「自然は真空を嫌う」という擬人的な自 然観を否定し、「空間」に対するあらゆるアニミ ズム的見解を排除し続けた。彼はまた、コペルニ クス説には慎重な態度を取るが、ローマによるガ リレイ断罪には断固たる反対を唱える。断罪が、

「地球が静かにとどまったままでいることを証明 するわけではない」からだ5)。もはや人間は宇宙 に保護された存在ではなく、自然と対峙する孤独 な存在である。地球は宇宙の中心の位置を失って 久しい。

「人間の不均衡」の断章では、ジョルダーノ・

ブルーノの宇宙観と酷似した観察が述べられたあ と、人間が「自然の辺鄙な片隅」に位置づけられ ている。

29)Essais, II−12, éd. cit., p. 570.『エセー』の「レーモン・スボンの弁護」の章における宇宙観と、「人間の不均衡」

における宇宙観の関係については、前田陽一、『モンテーニュとパスカルとのキリスト教弁証論』(新版)、東京 創元社、1989、pp.126−141に先駆的な着眼が見られる。

30)Axiomata Sphaerae, cité par P. Magnard, « Infini rien », dansL’Infini entre science et religion au XVIIesiècle, éd. J.- M. Lardic, Paris, Vrin, « Philologie et Mercure », 1999, pp. 83−93.

31)ルネサンス以降の宇宙観の変遷と、モラリスト文学に対する当時の宇宙観の影響については、次の二著を参考 にした。Micheline Grenet,La Passion des astres au XVIIe siècle. De l’astrologie à l’astronomie, P aris, Hachette,

« La vie quotidienne », 1994, pp. 19−40, 75−106 ; Jean Mesnard, « L’âge des moralistes et la fin du cosmos », dansLa Morale des moralistes, Jean Dagen, éd., Paris, H. Champion, « Moralia », 1999, pp. 107−122.

32)「どうしてわれわれは天体に精神も生命も理性もないと考えるのか。そこに動きも感覚もない愚鈍さを認めたと でもいうのか。われわれは服従以外に、それと何の交渉ももたないではないか。」(Essais, II−12, éd. cit., pp.

451−452.)

33)「人間は、自然のなかでもっとも弱い、一本の葦にすぎない。だがそれは考える葦である。[...]宇宙が人間を圧 しつぶしても、人間はそれを殺すものよりもずっと気高い。なぜなら、人間は自分が死ぬことを知っており、

宇宙が自分に対してもつ優位を知っている。そのことについて宇

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。」(S 231−L 200)

34)パスカルは、「人間の不均衡」の断章と同じ「移行」の章に収められた別の断章で、「この無限の空間の永遠の 沈黙は、私を恐れさせる」と記している(S 233−L 201)。

35)18elettre desProvinciales, éd. L. Cognet, G. Ferreyrolles, Paris, Bordas, « Classiques Garnier », 1992, p. 377.

第 91 号

(9)

そのものは、中心が至るところにあって、周縁 がどこにもないひとつの無限の球体である。

[...]

人間に、自分自身に立ち返らせ、存在するもの にくらべて、自分が何者であるかをとくと観察 させてみよう。自然のこの辺鄙な片隅にさまよ う自分の姿を注視させてみよう。自分のこもる この小さな土牢――つまり、宇宙のことである

――から見て、地球や国々や町や自分自身の真 の価値がどれほどのものかを評価することを学 ばせてみよう6)

このようにして、身体の大きさについて言われ た中間性は、位置的な中間性をも表し、人間に実 存的な不安を抱かせることとなる。中心も周辺も ない空間のなかでは、自己が占める位置が、全体 のどこなのかがわからない。それはどこであって も辺境である。均質で無言のこの空間全体のなか においては、あらゆる場所が特権を失う。では、

自分がほかならぬこの場所にいるのはなぜか。ま た、位置的な中間性は、時間的な中間性とも結び つく。空間的な無限は時間的な永遠である。自然 がもつ無限の時間の持続のなかで、われわれが存 在していられる時間は、ほんの一瞬にすぎない。

「自然は永遠に続き、しっかりとその存在を保持 しているのに、人間は移り行き、死すべき存在で ある。事物はすべてそれぞれに刻一刻と腐敗し、

転変していく。人間はそれらをちらっと見ながら 通り過ぎていくだけである7)。」自分がほかなら ぬ今、この時に生きているのはなぜか。

私の人生の短い時間が、それに先立ちまたそれ に続く永遠のなかに、「一日で過ぎて行く客の 思い出のように」のみこまれ、また、私が占め るこの小さな空間、あるいは私が見渡すかぎり でも小さい空間が、私の知らない、また私を知 らない空間の無限の広大さの中に沈められてい るのにつくづくと考えをおよぼしてみると、自 分があそこではなくてここにいるのを見いだし て恐ろしくなり、驚きを感じる。あそこではな

くここ、あの時ではなくこの時に私があること には何の理由もないからだ。誰が私をここに置 いたのか。誰の命令と誰の指図によってこの場 所とこの時が私にあてがわれたのか8)

無限の空間、永遠の時間のなかで、この場所、こ の時という一点を占めることの必然性はどこにも ない。自分はたまたまここにいるにすぎない。こ うして、存在論的な中間性は再び、自己の実存が 偶然の産物であるという認識を生じさせる。だが この認識は逆に、ほかならぬこの一点にいること の不思議さとも結びつく。別の時間でも別の場所 でもなく、今ここにこうして自分が生きているの には、何らかの理由があるのかもしれない。誰か が自分をこの場所に定めたに違いない。そうだと すればそれは、永遠、無限の存在である神でしか ありえない。人間の中間性は、神の存在論と対立 した属性である。ここで「無限」の別名は神であ る。

2.「中間」の認識論

さて、ここで、これまでに見てきた断章の題名 と 思 わ れ る「人 間 の 不 均 衡」(Disproportion de l’homme)という表現について考えて み よ う。

「不均衡」とは、今や無限であることが明らかに なった「自然」と、大きさについても定められた 位置についても「中間」的な存在にすぎない人間 との間の対立関係を指して言われている。本断章 冒頭の削除された箇所には、次のように記されて いた。

私は、人間に対して、自然のより大いなる探求 に取りかかる前に、自然を一度真摯な態度で心 ゆくまでゆっくりと眺め渡し、また自分自身を も観察し、自然と自分という二つの対象が示す であろう対立を考慮して、一体自分が自然と何 らかの釣

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をもっているかどうかを判断し てみることを望んでいる9)

36)S 230−L 199, pp. 247−248.

37)S 230−L 199, p. 255(パスカルによって抹消された一節). 38)S 102−L 68. Cf. S 227−L 194.

39)S 230−L 199, pp. 246−247.

March

(10)

上の「釣り合い」という語の原語は«proportion»

であり、「不均衡」の対義語であることは言うま でもない。上の一節は、人間と自然の間には極端 な「不均衡」が存在するという事態の反語的表現 である0)

17世紀のフランス語辞書は、「釣り合い」とい う語を、「二つのことがらがお互いにもつ関係、

快い調和」、「同じ性質をもつ二つの事物で、それ らのすべての部分が、その二つの間で等しくはな くとも、同じだけの増加や同じだけの減少を示す もの同士の間について言われる」と定義してい る。一方、「不均衡」は、「調和のとれていないこ と。非常に隔たった関係しかもたず、非常に異 なった性質しかもたないもの」である1)。パスカ ルの用いる「釣り合い」の語を、同じ性質のもの 同士の適合関係であると理解することができるだ ろう。この関係を決定的に欠く相手を「探求」す るのはまったくの無謀である。なぜなら、彼によ れば、認識の可能性が成立するためには、主体と 客体の間に何らかの「釣り合い」が不可欠だから である。中間者たる人間は、みずからと同質性を もつ「中間」の事物しか認識しえないのである。

それなら、人間はさまざまなことがらのうちで 中間にあらわれているものを認識する以外に何 をすることがあろうか。そうしたさまざまなこ とがらの初原の原理も最終目的も、永遠に知る ことのできない絶望のなかにいるのだから。あ らゆることがらは虚無から発して無限に至るま で運ばれていく。誰がこの驚くべき行程につき したがっていくことができるだろうか。この驚 異を作り出した人にはそれが理解できる。それ 以外の者にはそれはできない2)

自然という無限を理解できるのは、それと同質性 をもつ神だけだということになる。こうして中間 者たるわれわれは、認識能力についても限界を定 められている。大きさと場所に関する地位、すな わち存在論的地位について言われた中間は、人間

の認識論的地位にも対応するものとなる。

われわれの知性が認識可能なことがらの段階の なかで占めている地位は、われわれの身体が自 然の広がりのなかで占めている地位と同じであ る。

あらゆる領域にわたって限界づけられ、両極端 の中間を占めるというこの状態は、われわれの 力にことあるごとに現れる。われわれの感覚 は、極端なものは何ひとつ感じない。あまりの 騒音は、われわれの耳をふさぐ。あまりに多く の光は、目をくらませる。遠すぎても、近すぎ ても、ものは見えない。長すぎても、短すぎて も、話はわからなくなる。あまりに真実なこと には、途方 に 暮 れ て し ま う。[...]最 初 の 原 理 は、われわれにとってあまりに明白でありすぎ る。多すぎる快楽は、煩わしい。多すぎる和音 は、音楽では不快である。あまりに多くの恩恵 は、人を怒らせる。[...]極端な熱さも、極端な 冷たさも感じない。よい性質もいきすぎると、

われわれに逆らうものとなり、感じ取れないも のとなる。それを感じ取るのではなく、そのた めに苦しんでしまう。若すぎても、齢をとりす ぎても、精神の活動は制限される。あまりに多 くの教育も、あまりに少ない教育も同じであ る。つまり、極端なものは、われわれにとって は存在しないのも同然である。われわれも、そ れらと肩を並べては存在しない。それらはわれ われから抜け出す。でなければ、われわれがそ れらから逃げ出してしまう3)

無限の「極端」は、人間とのあまりの不均衡のた めに、われわれにとっては存在しないも同然であ る。それどころか、ふだんわれわれが求めてやま ない光も快楽も恩恵も、少し過剰に与えられれ ば、逆にわれわれの認識の障害になったり、不快 や疲労の原因になったりする。人間の判断には身 体的・精神的な中庸が求められるというこの観察 は、前章で見た「空しさ」のいくつかの断章と、

40)Cf.「こうした無限をよく見つめることが足りなかったために、人間たちは向こう見ずにも、自然の探求に乗り 出した。まるで自分たちが自然と何らかの釣り合いをもっているとでもいうように。」(S 230−L 199, p. 249)

41)Furetière,op.cit., « proportion », « disproportion »(extrait). 42)S 230−L 199, p. 249.

43)S 230−L 199, p. 251.

第 91 号

(11)

内容の上でも表現の上でも、明らかに呼応してい る。ここでは、このような主張が、だから人間は 中庸の徳をもたねばならない、といったモラルを 説くこととは無関係であることは言うまでもない だろう。むしろ、人間はきわめて限られた条件の もとでしか正しく認識できず、ひいてはそのよう な状態のもとでしか生きられないといった悲観的 な考察に主眼が置かれている。中間という地位に は、もはや何も積極的な価値はない。

パスカルはこうして、これまで、極小と極大に 挟まれた地位として中間を規定してきたのに対 し、中間を極大・極小の「二つの無限」に直接対 立させ、その特徴を「有限」へと還元させるよう になる。つまり、これまで念頭に置かれていた

「虚無」「中間」「無限」という三項の関係を、「有 限」と「無限」という二項の関係へと還元し、そ の対立を強調するのである。

パスカルにとって、「こうした無限から見るな ら ば、す べ て の 有 限 は 相 等 し い4)」。わ れ わ れ は、「無限に対しては虚無、虚無に対しては全体」

つまり、「虚無と全体の中間」5)であったが、「虚 無に至るのも、全体にまで達するのと劣らぬ能力 が必要である。どちらに対しても、無限の能力が 必要なのである6)。」

一方は他方に依存し、一方は他方へと通ずる。

この両極端は、たがいに触れ合い、遠ざかって いるがゆえにかえって結びつき、そして、神に おいて、ただ神においてのみ出会う7)

結局、極大と極小の「無限」は、神を直接指示 している。これに対立する「有限」とはここで、

もっとも端的な人間のあり方の表現である。「二

つの無限」と「中間」の対立は、「無限」と「有 限」との対立へと転換されたのち、神と人間との 対立へと帰着する。そして、上で見た通り、どの ような「有限」も「無限」に対しては「無」と同 じである。この二者の差異は、より大きい数とよ り小さい数の間にあるような相対的な差異とは全 く異なり、絶対的かつ存在論的な差異である。有 限と無限とでは、「次元」が違い、高次の段階か ら見ると、低次の数量はすべて無視できるので あった。いわゆる「賭けの断章」にはまさに、

「無限に一を加えても、無限は少しも増えない。

無限の長さに一ピエを加えても同じことである。

有限は、無限の前では消滅し、無そのものになっ てしまう。われわれの精神も、神の前ではそうな る。われわれの正義も、神の正義の前ではそう だ8)」との一節が見える。

こ の よ う に 考 え る と、「賭 け の 断 章」の 冒 頭 句、「無限 無」は、そのまま神と人間を表してい るといえるだろう9)。この断章では、賭けになぞ らえられた信仰の必要性の議論に入る前に、人間 には神を認識することが不可能であることが述べ られる。

もし神が存在するとしても、それは無限に理解 できないものである。というのも、神は部分も 限界ももたないので、われわれとは何の関!!も ないからだ。だから、われわれは神がどういう ものかも知ることができないし、神が存在する のかどうかも知ることができない。このような ときに、一体誰がこの問題を解こうとあえて乗 り出そうとするだろうか。それはわれわれでは ない。われわれは神に対して何の関!!ももたな いのだから0)

44)S 230−L 199, p. 252.

45)S 230−L 199, p. 249.

46)S 230−L 199, p. 250.

47)S 230−L 199, pp. 250−251.

48)S 680−L 418, p. 467.

49)P・マニャール氏は、人間の認識が決して神に到達できないというパスカルの主張から、この「無限」を、神を 指すというよりはむしろ、人間にとっての「神の不在」(« vide de Dieu »)、かつて神によって満たされていた はずの人間の無限の幸福の跡、すなわち「無限の空隙」であり、「無限 無」は人間の認識能力をともに表現す る(無限の空隙と認識能力の無)オクシモロン(撞着語法)であると推論する。この主張に異論はないとして も、結局のところその「無限」は「神」そのものであるという解釈を退けないと思われる(Voir P. Magnard, art. cit.)。

50)S 680−L 418, p. 468.

March

(12)

さきほど確認したように、「人間の不均衡」の断 章において、中間的存在である人間は、無限の大 きさをもつ「自然」に対して「釣り合い」をもた ないがゆえに、その理解は不可能であると言われ ていた。上の一節では、人間は神に対していかな る「関係」をももたないために、その認識にたど り着くことができないと述べられる。先の辞書に よると、「関係」(rapport)という語は、「二つの 事物がたがいにもつ類似性、類縁性」と説明され ていて1)、「釣り合い」とほとんど同義語である ことがわかる2)。パスカルの認識論においては、

認識する主体とその客体の間には、類似性や適合 性が存在していなければならないのである。「人 間の不均衡」と「賭け」の二つの断章の内容から すれば、ここでの類似性は、大きさや延長の有無 といった、存在論的な同質性を指すと考えられ る。パスカルにおいて、人間の身体の大きさによ る中間的地位がそのまま認識論にも適合し、人間 が中間の事物しか理解することができないとされ たのは、この原則に基づいてのことである。

このような推論の正当性は、現代のわれわれに とって必ずしも自明のものではないが、パスカル はそれについて、幾何学的な真理に対するのとほ とんど同様の確信を抱いていたと推察される。彼 と親交の深かったアントワーヌ・アルノーとピ エール・ニコルが著した、『ポール=ロワヤル論 理学』では、「無限を理解することができないこ とは、有限の精神の本性に属する」という命題 は、「大きな真理に供する原理となりうる」「重要

な公理」のひとつに数えられている3)。そしてパ スカルにとって、「公理」とは、あまりにも明ら かに真であるために論証が不要であるような命題 を意味していた4)

実際、「類似性」を含意する「関係」という語 は、パスカルの認識論においてきわめて重要な役 割 を 果 た し て い る。「人 間 の 不 均 衡」の 断 章 で は、この点がことさらに強調されているように見 受けられる。

たとえば、人間は、自分の知っているすべての ものと関

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がある。人間は自分を入れるための 場所、存続するための時間、生きるための運 動、自分を作り上げる元素、自分を養う熱や食 物、呼吸するための空気を必要とする。人間 は、光を見、物体を感じる。ついには、すべて のものが人間と結びつくことになる。そこで、

人間を知ろうとするには、人間が生存していく ためにはなぜ空気を必要とするのかを知らなけ ればならない。空気がいかなるものかを知るた めには、それが人間の生命とこのような関!!を もつのはなぜかを知らねばならない5)

あるものごとを知るためには、それと関係するこ とがらを知ることから始めなければならない。こ のような「関係」の連鎖をたどれば、必ず目的の 事物の認識にたどり着くことができる。だが、逆 に言えば、自分とあらゆる関係を絶たれた事物を 知る手がかりは何もないことになる。

51)Furetière,op.cit., « rapport ».

52)デカルトは、「推論の長い連鎖」(« longues chaînes de raisons »)をたどるために、「関係」「釣り合い」に着目 する必要性を主張している。彼は、真理を探究するために数学者が扱ったのと同じ問題から始めるべきだと 語った後、次のように述べる。「だからといって、ふつう数学と呼ばれている、あの個々の学科すべてを学ぼう とするつもりはなかった。これらの学科が、対象は異なっても、そこに見いだされるさまざまな関係つまり釣 り合いだけを考察する点で一致することになるのを見て、こう考えたのである。これらの釣り合いだけを一般 的に検討するのがよい、その際そうした釣り合いを、私にいっそう容易に認識させてくれるのに役立つような 対象があれば、そのなかにだけ想定し、しかもそうした対象にだけ限るのではなく、それが当てはまるような 他のすべての対象にも、後になっていっそううまく適用できるようにする、と。」(『方法序説』、第2部、Dis- cours de la méthode, dans Descartes,Œuvres philosophiques, tome I, éd. F. Alquié, P aris, Bordas, « Classiques Garniers », 1988, pp. 587−589)

53)A. Arnauld et P. Nicole,La Logique ou l’art de penser, éd. P . Clair et F. Girbal, 2eéd., Paris, Vrin, 1993, pp. 320−

322.

54)「幾何学的精神について」、De l’esprit géométrique,MES. III, pp. 396−398.

55)S 230−L 199, p. 253.次の一節では、複数の事物の間の「関係」は「類似」に基づくことが示唆されている。「こ の正しいモデルに基づいて作られた歌と家には、たがいに完全なる関係がある。もちろん、それぞれに種類が 異なっても、これらがこの唯一のモデルに似通っているからである。」(S 486−L 585, p. 379)

第 91 号

(13)

ルネサンス期にはまだ、マクロコスモスの動静 から、それに対応するミクロコスモスとしての人 間のあり方を知るような、いわば万物照応の観念 が認められた。16世紀末の詩人デュ・バルタス は、次のように書いていた。

われわれのなかに、火、空気、大地、波が見え る。

つまり、人間は世界の縮図にほかならない。

この縮図をこそ、もうひとつの宇宙の上に、

私の詩を書くこの筆で、描き出してみせる6)

モンテーニュにもまだこうした思想の残滓がうか がえる。

この世界こそは、われわれが自分を正しい方法 で知るために、自分を映して見なければならな い鏡である7)

この思想はもはやパスカルには不在である。有限 者たる自分と、無限なる自然との間には、いかな る調和も類似も存在しない。自己に「関係」のあ る「部分」の探求を重ねても、決して「全体」の 認識には至り着くことはない。「どうして部分が 全体を知るなどということが可能だろうか8)。」 よって、神を知ることは人間には永遠に不可能で ある。パスカルによる「中間」の認識論からは、

このような悲劇的な主題を読みとることができる だろう。

3.身体と精神の混成−人間の構成上の地位 パスカルにおいて、人間の身体の大きさが自然 のなかでもつ中間の地位が、同時にその認識能力 の限界をも定めていた。だが、彼において、認識 能力は、認識する主体の構成にも依存している。

もし人間が純粋に物質的な存在であるとしたら、

ものごとをまったく知ることはできないだろう。

だが、われわれは中間に位置づけられ、自分と関

係のあることがらについては知!!!!!のだから 精神をもつことは確かである。よって、われわれ は物質と精神の両方からなると考えられる。しか しまた、このような異なった種類の組成をもつ人 間は、純粋に物質的な事物を認識することはない。

さらに、ものごとの認識にあたって、われわれ の無力を決定的なものにしているのは、ものご とがそれ自体においては単一であるのに対し て、われわれが、たがいに対立し、種!!!!!!!二つの性質、すなわち魂と身体から成り 立っているということである。われわれのうち にあって思考する部分は、精神的なもの以外で はありえない。また、われわれが単に身体的な 存在にすぎないと主張するとすれば、物質が自 分自身を認識するということほど想像もつかぬ ことはないのだから、われわれはいよいよもの ごとの認識から遠ざかることになる。物質がい かにしてみずからを認識するのかを知ること は、われわれには不可能である9)

同じく、われわれには純粋に精神的な対象をも 認識しえない。「われわれは身体をもち、おかげ で重さを増し、地へと向かわされているというの に、いかにして精神的な実質をはっきりと知るこ とができるというのか0)。」主体を構成する実質 と対象のそれとが異なれば、前者は後者を認識で きないという命題もまた、パスカルにおいてはひ とつの公理であるようだ。この命題は証明され ず、直観によって真とされている。

しかしこの直観はここでも、彼の確信に深く基 づいている。『パンセ』の諸断章は、それぞれひ とつずつ取りあげると、埒もない思索や根拠のな い警句のつらなりと見えないこともないが、使わ れている語彙や、語られる内容のうえで関連のあ る他の断章と対照して考察してみると、それぞれ の主張がきわめて精緻で一貫した思索の結果にほ かならないことが理解できる。身体と精神の両方

56)Du Bartas,La Semaine, extrait cité par J. Mesnard, art. cit., p. 110.

57)Essais, I−26, éd. cit., p. 157.

58)S 230−L 199, p. 252.

59)S 230−L 199, p. 253.

60)S 230−L 199, pp. 253−254(パスカルが削除した一節).

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