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村 落 の 来 往 住 者 に つ い て
一 須 恵 村 の 場 合 一土 屋 貞 蔵
Immigrants and Emigrants in the Village
一in the case of Sue Village一
Teizo Tutiya 現 在 の 須 恵 村 須 恵 村 は現 在 石 坂 ・上 手 ・覚 井 ・今 村 ・屯 所 ・湯 ノ原 ・諏 訪 原 ・阿 蘇 ・平 山 ・浜 ノ上 ・竹 原 ・ 中 島 ・川瀬 ・松 尾 の14部 落 か ら成 り,戸 数350戸 r内 農 家289戸(80・2%),非 農 家61戸(19・8 %)入 口2.075入(内,男1,031入,女1,044入) で 村 民 の8割 まで が 農 業 を 営 ん で い る。 地 勢 本 村 は 人 吉 盆 地 の 中央 部 の 平 坦 地 を 東 西 に蛇 行 して い る球 磨 川 を 挟 ん で 中央 平 坦 部 か ら西 北 寄 り に南 ・北 に水 田 ・畑 ・山 と続 いて お り,北 方 の 山岳 地 帯 は800米 に及 ぶ 。 本 村 は 往 時 か ら米 作 を 主 と し,戦 前 まで は 養 蚕 を 副 と し て い た。 球 磨 地方 は 僻 遠 の 地 で あ るの で,他 地 第.1図 熊 本 県 球 磨 郡 ㎜
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山 江 笏 ( 球 磨 川 至 八 代 葦 北欝
㈱ 彪 協 岡 木 彫 ノ〃 上 拠 西 武 木 z 至 鹿 児 島 第2図 順 恵村 の部落 平 山 至 水 上 ・ 多 良 木 町/
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浜
土
評
諏 訪 原 ﹂ 中 島 阿 蘇 煩 型 ・村 川 瀬 覚 井 湯 原 上 手 松 尾 o 石 坂 タ キ ギ 橋 橋 道 路 至 免 田 町 至 人 吉 方 との 経 済 的 交 流 も,比 較 的少 く,又 本 村 は 鉄 道 沿 線 か ら離 れ て お り,米 麦 を 中心 と した 自足 性 の 高 い純 農 村 で あ る。 鉄 道 湯 の 前 線 が 球磨 川 の 南 部 を 東 西 に川 と平 行 して 走 り,鉄 道 に よ っ て 発 達 した 免 田町 ・多 良木 町 は此 の 附近 の物 資 の 集 散 地 で あ り,本 村 に対 して は市 場 町 の機 能 を 果 して い る。56 滋 大 紀 要 第 13 号 1963 第3図 第1表 土 地 利 用 (昭和34年) 須 恵村 の耕 地
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大 正 九 犀 昭 和 五 年 昭 和 一 五 年 昭 和 二 五 年 昭 和 二 七 年 昭 和 二 九 年 昭 和 三 四 年 昭 和 三 五 年 第 4 表 (須 恵 村 ) 総 人 口 の 増 減58 滋 大 紀 要 第 13 号 1963 諏 の農 村 の社 会 構 造 を 変 化 させ るま で の影 響 力 は 持 たず,従 って本 村 で は,農 村 社 会 の構 造 を 変 え る事 な く兼 業 の形 で 適 応 し余 っ た不 適 格 者 を 排 出す る と い う形 を とっ て漸 次 構 成 員 を ふ や しな が ら∫ 外 部 社 会 と間 接 的 な連 関 を 持 ち なが ら成 長 して 来 た と推 察 され る。 今 次 大 戦 直 後戸 数,人 口 の二 割 増 加 は 他 産 業 の 回 復発 展 が 進 む につ れ て兼 業 化 傾 向を 生 じ昭 和30年 以 降高 度 成 長 に よ る新 規 卒業 生 並 び に若 年 令 層 の離 村 の形 を と りなが ら挙 家 離 村 が 余 り 起 って い な い 事 を示 して い る。 とこ ろで 大 正 か ら昭 和 中期 に か け て漸 増 の形 を と り余 り顕 著 な 変化 が み られ ずcostantで あ る と云 っ た が,そ の枠 の 中 で は,出 生,死 亡, 転 出,転 入 と云 っ た形 で か な りの変 化 が み られ の で あ る。 先 づ 出生 に つ い て考 察 す る と,特 別 調 査 地 区 の三 部落 の 明 治6年 の戸 数83戸,人 口341人 で, 明 治14年 は82戸,359人,昭 和33年 は75戸,508 人 で あ り,一 戸 平 均 人 数 は それ ぞれ4.1人, 4.4人,6.7人 で あ る。 即 ち 明 治 の 初 期 に は 4人 以 下 の 家 が 多 か っ た の に 対 して,戦 後 は6入 以 上 の 家 が 多 い 事 を 示 して い る 。 第5表 三部落平均一世帯成員数 第 7 しか して 時 代 の 経 過 と共 に次 第 に病 院 や 医 療 設 備 も完 備 され,衛 生 思 想 も普 及 し,生 活程 度 も向 上 し,妊 産 婦 の 産 前産 後 の 休 養 や栄 養 の点 も可 成 り進 み こ う して 子 供 の を 沢 山 生 み,乳 幼 児 死 亡 率 も低 くな り,子 供 の数 も多 くな った も の と推 察 され る。 本 村 に於 け る乳 幼 児死 亡率 の 低 下 は 戦 后特 に昭 和27年 か ら顕 著 に あ らわれ, 以 前 の半 分 に低 下 し,こ れ と対 応 して死 亡率 も 昭 和27年 か ら2割 近 く下 っ て い る。 この 傾 向 は 本 村 のみ な らず 隣 接 の 多良 木 町 に於 い て も同様 で あ る。 今 次大 戦 直 後 は 復 員者,引 揚 者,疎 開 者 を 加 え て 婚 姻 数 が 急 激 にふ え,昭 和25年 ま で の 出生 増 加 は いわ ゆ る 「ベ ビー ・ブ ー ム」 旋 風 を ま き お こ した。 しか し昭 和26年 以 降 は婚 姻 数 も減 り, 出生 数 も戦 前 水 準 を 割 り,次 第 に 目 ざま しい 低 下 を 示 した。 これ は戦 后都 市 に お け るき び しい 食 糧 難 と悪 性 イ ン フ レの 生 活 難 か ら 自衛 手 段 と して起 った 出 生抑 制 の 風 潮 と一 そ の后 の一 般 的 表 出 生 明 治 6年 明 治14年 昭 和33年 4.1人 4.4人 6.7人' 第6表 須恵村全体の平均一世帯成員数 大 正 9年 昭 和 5年 昭 和15年 昭 和25年 昭 和29年 5.19人 5.6人 5.6人 6.0人 6.1人 ,( 須 恵 村 ハ) 死 亡 錐 8 表 (須 恵 村) 90 90, 昭 昭,'昭 昭.昭 ・昭 昭
睾嚢 聾 蕪
82 33 32 21 19 10 珊 昭 昭、
舞 舞 董
19 21 11 こ の理 由 につ いて 村 人 は 「明 治 の 初 期 に {ま乳 幼 児 の死 亡 数 が大 変高 く'そのた あ 世 帯 員 も少 なか っ たの で あ る。 戦 後 世 帯 員 の 多 い理 由 は戦 時 中生 め よ 殖 や せ よ と奨 励 され, 子 供 は子 宝 で あ り子 供 が 沢 山 い る事 は家 が さ か え る と考 え,子 供 を 沢 山生 ん だ ので あ る 。 」 と云 って い る。 ⋮三 四 三 三 三 ニ ゴ = 天 三 七 . 二 六 二 五 二 四 昭 和 二 三 年 3 3 . 2 三 四 三 三 三 二 昭 三 一 年 須 恵 村 死 産 第 9 表 2村 落 の来 往 住 者 に つ い て(土 屋) 59 民 主 化 的 風 潮 によ る,家 族 制度 の崩 瓦 に も とつ く,・家 族 生 活 の 近 代 化 と結 び つ い て,避 妊,出 .産制 限 が大 都市 → 中都 市 → 農 村 へ 普 及 して来 た の で あ る。 (消 費 中 心 の エ ン ジ ョイ型 へ) 本 村 に於 いて も先 述 の よ う に,戦 前,戦 中 は 「生 め よ ふ や せ よ 」 と子 供 を 多 く持 つ事 を政 府 に よ って 奨 励 せ られ,又,子 供 が 多 けれ ば 家 の 手 助 け と もな る し,家 は栄 え る と考 え られ て い た が,戦 后 は大 き い農 家 で も土 地 を ふ や す事 が 出 来 ず,分 家 と い う事 もなか なか む つ か し く, 小 さ な家 で も子 供 に た よ る考 え 方 も少 くな り, .又子 供 を 育 て る には だん だん 金 もか か り,学 校 に も上 げね ば な らず,分 家 も させ られ な い の で 子 供 は 少 な く生 ん で よ く育 て る,よ りよ い 生 活 を 送 る ため に は子 供 の数 も少 な くて よ い,そ ん な 苦 労 は した・くな い と い う小 家 族 化 へ の 欲 求 が ,本村 に も起 って 来 た し,特 に女 子 の 婚 姻 年 令 も た か くな り 女 子 に そ の 考 えが起 って 来 て,講 習 会 も開 か れ,三 子 以 上 は 望 まな くな りそ れ 以 上 生 め ば 人 に笑 わ れ る と い う風 で避 妊 の実 行 も 二行 わ れ るよ うに な った の で あ る。 但 し避 妊 は二 子,及 三 子 が 生 れ て か ら問題 にな り若 い女 子 が 避 妊計 画 を考 え るまで に は 至 って い な い。 この よ うに して 昔 の 多産 多死 型 の時 代 か ら少 産 少死 型 へ推 移す る ので あ る。 昭 和10年 エ ンブ リは本 村 に つ い て過 去 数 年 間 に 総 人 口 は大 差 な く死 亡 数 を こ え る 出生 は移 住 によ って 解 消 さ れ た と云 って い る。 明 治 の 初期 に は死 亡 数,出 生 数 共 に高 く,交 通 機 関 も発 達 して お らず,交 通 不便 な小 農 村 で あ るの で,他 町村 へ の 移 住 や移 入 も少 なか っ た と考 え られ る。 エ ンブ リは又 「農 村 で は生 活 安 定者 は移 動 しな い。 移 出人 は大 抵 生 活 不 安 定 な 貧 困 の者 に多 い,.即 ち土 地 の な い者 か 店 屋 等 の 不安 定 な者 が鉱 山 や都 市 へ 移 っ て行 く,又 移 入 者 も大 抵 土 地 の な い者 や店 屋 で あ る。 」 と述 べ て い る。 こ れを 特別 調査 地 区 の三 部落 に於 け る大 正6 年 の県 税 戸 数 割等 級 表 の60戸 が 昭 和32年 まで の 40年 間 に ど れ だ け転 出 したか を 調 べ る と,1位 ∼10位 まで20%,41位 ∼60位 まで55%が 転 出 し て い る。 第4図 人 口構成 願 意村 の男女及年令別人 口(昭 和35年) 年 令 70一 以 上 65-69● 60-64 40 53 55-59 50-54 18 27 45-49 27 39 40-44 37 39 35-39 39 46 30734 46 56 o 25-29 37 52 20-24 52 男 女 62 15-19 74 76 ユ0-14 79 78 9-5 66 82 ,0-4 86 85 '1ぢ2 , 145 149 155 ユ60 ユ40, 120 100 80レ 60 40 20・ 0 20 40 60 80 100 120 140 ユ60 サ 人数
60 滋 大 紀 要 第 13 号 1963 又大 正15年 の 店 屋 や 職 人 は30年 間 に そ の2分 の1が 転 出 し,3分 の1が 農 業 に転 職 して い る 事 が わ か る。そ して 村 へ の 移 入 者 は 店 屋,職 人, 土 地 の な い者 で不 安 定 で あ るが成 功 す れ ば土 地 を 買 い永 住 しよ う と し,地 盤 を きつ く事 に失 敗 す れ ば 数年 后 に は村 か ら姿 を 消 して しま う。 戦 後 は 引揚 者 や疎 開 者 が 親 戚 を 頼 って 沢 山 来 た が,非 農 者 が 多 く,数 年 経 た な い 内 に,転 出 し た者 が 多 いが,最:近 新 規 卒 業 生 の若 年 令 層 の 移 動 がふ え,挙 家 離 村 は 少 く兼 業 農 家 が 多 くな っ て い る。 4図 は 須 恵 村 の 昭 和35年 国 勢 調 査 年 令別 人 口 で あ る。 これ に よれ ば 年 令0∼4に 於 て激 減 し て い るが,こ れ はべ ピー ・ブ ー ム も終 り産 児 制 限 が 進 ん で い る事 を 示 す もの で あ る。 年 令15∼ 19,20∼24の 人 口が 急 激 に減 少 して い るが,こ れ は 昭 和32年 頃 か ら中 学 校 の新 規 卒業 生 が 都市 へ 就 職 しは じめ た事 を 示 す もので あ る。 年 令40 一44の 人 口が 急 激 に減 少 して い るが ,こ れ は特 に 今次 戦 争 の影 響 と考 え られ る。70以 上 の 人 口 が 多 いが,こ れ は戦 後 医 薬 医 療 の 発 達 によ って 長 寿 者 が ふ え た た め で あ る。 通 婚' 圏 こ こで は 天 保 時 代 か ら昭 和34年 ま で の間 の 川 瀬,阿 蘇,諏 訪 の原3部 落 の地 域 的通 婚 圏 を 戸 籍 によ って考 察 す る が,こ の場 合,地 域 を 部 落 内,村 内,近 接 町村,郡 内,県 内,県 外,に 分 ・ け,十 年 毎 の 変遷 を 調べ た結 果 は 次 の10表11表 の通 りで あ る。 こ の表 か ら三 部落 の通 婚 に関 して次 の よ うな 傾 向が うか が わ れ る。 1 各 年 代 を 通 じて,嫡 出,婿 入 と も近 接 町 村 との通 婚 が 多 い。 2 各 年 代 を 通 じて,部 落 内婚 も含 め て 村 を 範 囲 とす る通 婚 も多 い。 3 婚 出 につ いて は,明 治 末 期 まで は近 接 町 第10表 婚 出 (%) 6 1890-1889 1900-1909 1910-1919 1920-1929 1930-1939 1940-1949 1950-1959 1部 落 内 25 30.7 30.7 20 14.3 16.2 122 1村 内 0 462 0 26.7 23。8 10。8 9.8 1近 接町村 75 23.1 53.9 33。3 19.0 29.8 19.5 郡 内 0 0 7.7 13.3 19.0 16.2 31.7 [県 内 0 0 0 6,7 14.3 8.1 4.8 県 外 0 0 7.7 0 9.6 18.9 23.0 合 計 100 100 100 100 100 101 100 明23∼ 明32 明33∼ 明42 明43∼ 大8 大9∼ 昭4 昭5∼ 昭14 昭15∼ 昭24 昭25∼ 昭34 第11表 婿 入 (%) 1830-1839 1840-1849 1850-1859 1860-1869 1870-1879 .1880-1889 1890-1899 1900-1909 1910-1919 1920一 一・192) 1930-1939 1940-1949 1950-1959 部落内婚 45.4 38.1 26.0 17.9 24.3 33.4 20 38.9 20 15.1 19.3 9。5 8.9 村 内 婚 9.1 4.7 4.4 14.3 12.1 13。3 20 27.8 24 20 32.2 21.5 15。6 近接町村 36.4 47.6 47.8 46。4 36.4 20.0 30 33.3 36 35 16.3 35.8 40.0 郡 内 9。1 9。6 13.0 21.4 27.2 26.7 20 0 16 15 22.6 23。8 17。8 県 内 4 PO O 7 4 0 0 4 0 0 0 0 0 0 7 3 2 4 県 外 0 0 4.4 0 0 6.6 10 0 4 7.5 6.4 7.1 13。3 合 計 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 明3一 明12 明13一 明22 明23一 明32 明33一 明42 明43一 大8 大9一 昭4 昭5一 昭14 昭15一 昭24 昭25一 昭34
村落の来往住者について(土 屋) 61
第5図
五 木 村 ・ 四 浦 村 深 田 村 近 接 町村 遣接町村登
村
黒
肥
囎
蒙
須 恵 村鋤
齋
免 田 町 岡 春 村 村 の範 囲 内 で通 婚 が 行 わ れて お り,大 正 以 后 郡 内,県 内県 外 へ とそ の範 囲 が 拡大 され る。 4 婚 人 につ いて は,明 治 末 期 まで は殆 ん ど 郡 の 範 囲 内 で通 婚 が 行 わ れて い たが, (特 別 の 場 合 を 除 き)大 正 中 期 以 后 県 内,県 外 に も拡大 さ れ る よ う にな った。 5 以 上 の通 婚 圏 の変 動 は,明 治40年 肥 薩 線 が 開通 して 八 代 一人 吉一 鹿 児 島 に鉄 道 の便 が生 じた頃 か ら県 外 と の通 婚 が 現 わ れ,大 正13年 湯 前 線 が 通 じた頃 か ら県 内他 部 との 通 婚 が 見 られ るよ う に な り,昭 和8年 に幹 線 県 道 にバ ス が 走 るよ う にな った 頃 か ら,近 接 町 村 まで の近 距 離 婚 が 減少 し,従 って また 遠 距離 婚 の 増 加 の 傾 向 を 展 示 して い るの で あ って,こ れ は 交 通 が便 利 に な る につ れ て村 民 の 移 動 も多 くな り,遠 距 離 地 域 との接 触 交渉 の増 加 が,県 内他 郡 及 び県 外 と の通 婚 を 多 か ら しめ た と考 え られ る。 婚 入 婿 入 の 地 域 範 囲 は大 正 の 初 期 まで は殆 ん ど郡 の 範 囲 内 に限 られ て い たが,大 正 十 三 年 湯 前 線 の 開 通 の 頃 か ら,通 婚 圏 は 県 内,県 外へ と拡大 す る。 しか し郡 を 範 囲 とす る通 婚 は 昭 和 の 初 期 一以后 も85-90%を 占 め,戦 後 も80%と 大 き な 比 :重を 占 め て い る,県 内県 外 へ の拡 が りは,戦 前撒
\
鰯
( 除 郡 内 ) 県 内 、 県 外 第 6 図 婚 出 の 地 域 別離
縷
麓
漉
雛
難
第 7 区 婿 入 の 地 域 別 (昭 和 二 五 年 -昭 和 三 四 年 の 通 婚 圏 調 ) 15%一10%程 度 で,戦 後17.7%と 増 加 したが, 婚 出 と較 べ て少 い。 近 接町 村 の範 囲 内で 行 わ れ る通 婚 は天 保 時 代90%前 后 で あ っ たが,明 治 時 代 に は80%一70%と 次 第 に減 少 し,現 在 は65% で あ るが,嫡 出 の40%に 較 べ る と,近 隣 町 村 を 範 囲 とす る通 婚 の 比 重 は大 き い。 部 落 内 婚 も昔 は30%一40%の 比重 を 占 め て い たが,大 正 の 初 期 には20%,戦 前 戦 后 を通 じて 10%程 度 を 占め て い る。 婚 出 婚 出は 明 治末 期 まで は 近 接 村 の範 囲 内 で行 わ れて い た が,大 正 の初 期 頃 か ら郡 内,県 外 外 に まで 拡 が り初 め た,こ れ は上 記 の如 く大 体 明 治 40年 の 肥 薩 線 開 通 に続 く時 期 で あ る。 大 正13年 湯 前 線 の 開 通 後 は 県 内 県 外 へ とそ の 範 囲 は 拡大 す る。併 し,近 接 町村 との 通 婚 は大 正 の 初期85 %,昭 和 に入 って も80%と そ の比 重 が大 き か っ た が,昭 和 の 前半 に は53%,戦 前戦 后 に か け て 55%で,現 在 は40%と 減 少 し,婿 入 の65%と 比 較 して,近 接 町 村 を 範 囲 とす る通 婚 の 比 重 は 小 で あ る。62 滋 大 紀 要 第 13 号 196と ・
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,。。近接町村の範囲 100 ●∠ へ90 、\
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60・ 50: \ し・口へ40・ 、、 ・3Q. 20: 鞭 職 町村、 〆 ご ・ ・ ら ク ヤ へ り 10% \ ノ \県内。県外(隙 郡内) 、 o 、 鴨隔舳 げ !10α 90 '8〔) 70 601 50 40 30 20. 10% 碩 二 二 ー 昭 三 四 紹 一 五 一 昭 二 四 昭 五 -昭 一 四 大 九 1 昭 四 明 四 三 -大 八 胆 三 三 一 明 四 二 明 冒 { 三 一 明 三 二 ) ㈲ 内 村 落 除 部 ( 内 除 村落
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-1 一 ﹂村 内 ︹ 部 落 内 . ・ 一 ・ 8 巳 3 近 接 町 村 ( 除 部 落 内 ) ( 除 村 内 、 部 落 内 ) 球 磨 郡 を 範 囲 と して み る と,明 治時 代 は全 部 近 接 町村 の 範囲 内 で あ った。 大 正 年 間 は90%, 昭 和 の 初 め か ら初 め か ら現 在 まで は約75%を 示 して お り,婿 入 の80%に 較 べ る と郡 を 範 囲 とす る比 重 は少 し低 くな って い る。 部 落 内婚 は大 正 の 初 期 まで は 最 高30%で あ っ た が,昭 和 の初 期20%,戦 前15%,現 在12%と 減 少 して い る。 昭 和25年 一34年 の 婚 出 は 婿 入 の 場 合 に較 べ て 近 接 町 村 の 範 囲 内 の 比 重 が 少 く,む しろ 郡 内 へ 県 内,県 外 へ と外 に向 って 行 わ れ る通婚 の比 重 が 高 く,遠 心 力 が 大 きい。 これ らは主 と して村 人 の遠 い都 市 に移 動 す る 者 が 漸 増 し,行 先 で 妻 を め とっ た 男子 は郷 里 で 届 出て も,他 郡 や 他 県 の 者 と結 婚 した 女 子 は 皆・ 婚 出者 とな る と い う事 情 によ る と思 わ れ る。 ,昔 は本 村 で は二,三 男 の 養 子 に行 く者 が: 大 変 多 か った の で あ る。 昔 は大 き な農 家 で は土 . 地 の 拡大 も可 能 で あ り,従 って 分 家 も可 能 で あ、 つた が,戦 後 は大 き な農 家 で も土 地 に 限度 が あ、 る の で 分 家 も段 々む つ か しくな っ た。 併 して 昔 は二,三 男 の 分家 もあ った が,む しろ養 子 の方 が 多 か った の で あ る。 そ の理 由 は 出生 に対 して 死 亡 率 が 高 く,子 供 の数 が少 なか っ た事 の外 に子 供 の な い家 が 多 か っ た。 こ の事 につ いて60才 位 の村 人 は,明 治, 大 正 の初 期 に は村 に は鼻 の な い人 も多 くい た 事 等 か ら推 察 して 性 病 の 関 係 も大 きい 一 因 で あ ろ村 落 の来 往 住 者 につ いて(土 屋) . 63 .第9図 婿入(地 域別) 接 町村 の範囲
磁
内(除 近接町村) 内、県外(除 郡内) 0 0 0 0 .0 0 0 0 0 0 0 9 8 7 6 5 4 3 2 1 1 一 : -, i ﹁ 県 内 、 県 外 ( 除 郡 内 ) I l l I ﹂ 郡 内 ( 除 近 接 町 村 ) ー ー f 近 接 町 村 の 範 囲 弓∼
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近 接 町 村 村 内 ( 除 部 落 内 ) 部 落 内 部 落 内 ( 除 村 内 ) ・ -ー -1 官 一 1 9 0% う と 語 っ て い る。 通 勤 者 12表 の よ う に,本 村 に於 け る通 勤者 の数 は58 名 で,そ の 内,38名 の 勤 め 先 は 村 内 にあ り近 接 町 村 へ の通 勤 者 は17名,遠 方 通 勤 者 は3名 に過 ぎず,村 内 通 勤 者 は全 体 の3分 の2を 占め る。 これ は周 囲 の広 い 山岳 地 帯 の外 へ の 通 勤 は 問 題 に な らず,狭 い人 吉 盆 地 内 には大 工 業 は 起 り得 な い事 か らの必 然 的な 結 果 で あ る。 通 勤 者 を 男 女 別 にみ る と,男44名,女14名 で,男 は全 体 の四 分 の3で あ る。 女 の 通 勤者, 14名 の 内11名 約8割 は 村 内 勤 あ で あ る。 男 の 通 勤 者44名 の 内27名 約6割 が 村 内 で,17名 約4割 が 村 外 に勤 め て い る。 これ ら通 勤 者 の 勤 務先 は 表 に示 され て い る通 りで あ って,公 務 学 校 農 業 団 体,公 社 現 業 と い っ た もの で 大 部 分 を 占め, 製 造 業 も林 業,印 刷 関 係 の 微 々 た る もの に過 ぎ な い。 村 外 の 勤 あ の場 所 も殆 ん ど隣 接 の 免 田 と 多 良 木 で 毎 日 自転 車 で 通 って 居 り,遠 方 通 勤 者 3名 中2名 は 湯前 と人 吉 へ 汽 車 で 通 い,八 代 だ け は下 宿 して い る。 三 部落 の通 勤 者 は13表 の よ うに な って い る。 続 柄 に つ い て み る と,世 帯 主7名,長 男4名 次 三 男2名,長 女2名 で あ る。 並 帯 主,長 男 の・ 多 い の は,家 ぐる み の離 村 は な か なか む つ か し い ので2,3男 が 出稼 を し,家 に留 って い る世 帯 主 や長 男 が 通 勤 す る と い う事 を 示 して い る。 世 帯 主 の通 勤 者 に は村 内通 勤 者 が 多 く,彼 ら はす べ て 第一 種 兼 業 農 家 で あ る。 村 外 通 勤 者 は 殆 ん ど世 帯 主 以 外 の者 で,第 二 種 兼 業 農 家 か 又 は非 農 家 で あ る。64 滋 大 紀 要 第 13 号 1963 第12表 須恵村 の通勤者 村 内 村 外
勤 務 刺
陣
場 協 校 校 挙 挙 役 農 中 小 検 校 局 場 場 店 署 所 場 院 所 所 署 社学
学
便
班
林
轟
意
義
小 小 郵 印 銀 歯 営 製 制 病 難 土 営 林 計 村 内 村 外 木 田 田 田 田 田 木 木 木 木 前 吉 代 地 良 良 良 良 良 肥 多 深 免 先 先 免 多 多 多 多 混 入 八 黒 15 6 2 4 1 4 2 1 1 0 1 1 1 0 1 1 1 1 44 7 8 7 り 臼 -女 ﹂ 4 n Q 1 3 1 0 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 14 11 3 計 9 9 ハ﹂ 7 u 1 2 4 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 58 8 0 ∩0 2 第13表 三部落の通 勤者 勤 務 先 男 女 計 続 柄 村 役 場 4 1 5 世 帯 主4長 女 1 農 協 1 0 1 世帯主1 内 小 学 校 1, 0 1 世帯主1 印 刷 所 免田 1 0 1 長 男 1 製 材 所 免 田 1 0 1 :二男 1 村 郵 便 局 免田 1 o 1 世帯主1 商 店 免 田 0 1 1 二 女 1 電 力 会 社 多良木 1 0 1 長 男 1 林 業 会 社 黒肥地 1 0 1 二 男 1 小 学 校 深 田 1 0 1 世帯主1 外 ダ ム 建 設 工 事 事務 所 湯前 1 0 1 三 男 1 土木事務所 人吉 1 0 1 長 男 1 営 林 署 八代 1 0 1 長 男 1 計 15 2 17 村内 6 1 7 村外 9 1 10 通 学 者 最:近本村 に於 いて も,中 学 校 を 卒 業 して その ま \家 に留 り,家 の 農業 の手 伝 を す る者 が 非 常 に少 な くな って 来 た。 俗 に新 卒 と呼 ば れ る中学 校 卒 業 者 は 引続 き 上 級学 校へ 進 学 す るか卒 業 后,直 ち に他 へ 就 職 す るか,二 つ の 道 の 何 れ か を 選 んで い る。 こ の事 は,戦 後段 々農 業 に も機 械 や 農 薬 が 導 入 され る よ うに な り現 在 の 経営 に は 必 ず しも子 供 の 労 力 を 必 要 と しな くな った事 情 に支 え ら れ,教 育 程 度 が 勤 務者 の 待遇 を基 準 とす る一 般 の給 与 体 制 に鑑 み,子 供 の 教 育 につ いて は 少 な く共 高 等 学 校 位 に はや らね ば な らな い と,中 位 の経 済 力 の あ る家 で は,本 人 の 能 力 さ え あ れ ば男 も女 も高 等 学校 へ や る よ うに な っ た事,ま た特 に2.3男 につ いて は財 産 は分 け て や れ な い の でせ め て学 校 へ あ げて 他 の処 へ 就 職 させ な け れ ば な らな い と考 え る よ うに な って き た事 更 に経 済 力 の低 い家 で は,ど うせ 子 供 を 上 の学 校 に あ げ られ な い の だか ら,早 くか ら外 で よ い収 入 を 得 る と共 に将 来 まで の職 を確 保 す る のが よ い とい った考 え方 が 高 ま って き た事 な ど の 日本 全 般 に支 配 的 に な りつ ∼あ る 傾 向 の現 れ で あ る。 高 等 学 校 へ 進 学 す る者 につ いて は,高 等 学 校 が 村 内 にな いの で,多 良 木 町 か免 田 町 の学 校へ 通 学 す る事 に な るが,長 男 は 将来 の 仕 事 を考 え て 免 田 の球 歴 高 等 学 校 の 農 業 コー スを 次3男 は 将 来 の 就 職 を 考 慮 して林 産 乃 至 農 産製 造 コー ス を 選 び,女 子 は昔 女 学 校 で あ った 多良 木 の高 等 学 校 へ 進 み,家 庭 科 を 選 ぶ の が 普 通 で あ る。 其 他 女 子 には 人 吉 家 政 学 校 で 洋 裁 を 習 う者 もあ る。 簿 記 学 校 へ 通 う男 子 は2,3男 か 田の な い 家 の長 男 で あ る。 14表 及 び15表 は最 近 の須 恵 中学 校 の 卒業 生 の 進 学,就 職 状 況 で あ る。 出 稼 者 三 部 落 の 出 稼 者 の数 は現 在43名 で あ る 16表 で知 られ るよ うに,こ れ らの人 々の 出稼 先 は,近 くは 隣 接 町 の 免 田 ・多良 木 か ら,遠 く は京 阪 神 ・中京 方 面 に ま で 及 ん で い る。 こ れ を 地 域 別 にみ る と,男 子 で は 京 阪 神10人,中 京方村 落 の 来 往 住 者に つ い て(土 屋) 65 第14表 須 恵 中学 校 卒業 生 の進 学,就 職 状 況(昭 和35年 調) 卒業年度 昭 和31年 昭 和32年
1
昭 和33年1
昭 和34年 男女別 進学就職 別 男 女 計 男 女 計 男 女 計 男 女 計 上 級 学 校 9 11 20 12 10221
15 13 28 8 9 17 郡 内 4 2 6 2 3 5 0 0 0 1 3 4 就 熊 本 1 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 北 九 州 0 0 0 1 0 1 0 0 0 2 0 2 京 阪 神 2 0 2 0 4 4 2 4 6 1 5 6 中 京 3 0 3 5 0 5 1 1 2 4 2 6 職 京 浜 0 0 0 1 0 1 5 0 5 0 0 0 計 10 2 12 9 7 16 8 5 13 8 (其 他1} 11 〔其 他1} 19 第15表 昭 和34年 度 須 恵 中 学 卒 業 生(男19・ 女23) b 職 業 訓 練 所 家 事 従 事 者 人 吉 簿 記 人 吉 家 庭 多 良 木 高 校 球 磨 高 校 進 学 者 六 四 三 四 四 二二 (普 一 、 家 庭 三 ) (農 四 、 定 二 ) 就 職 愛 愛 大 大 兵 岐 山 福 福 滋 多 免 阿者
良
知 知 阪 阪 庫 阜 口 岡 岡 賀 木 田 蘇 紡 工 組 毛 筋 窯 家 販 梨 紡 バ 壁 床 備 作 立 織 業 事 売 園 ス( 屋 自 動 裏 男 男 男 女 女 男 女 男 男 女 女 男 女 九 ' 客 第16表 三 部 落 の 出 稼 者 出 稼 先 男 子 女 子 1方 面 神 哀 別 県 刺 熊 阪 除 本 双 列 東 中 九 簾 中 京 九 州(除 熊本県) 熊 本 県 府 県 別 、 但 し熊 本 県 の み 地 名 大阪5 兵庫3 京都2 愛知5 静岡1 福 岡7 長崎1 宮崎3 鹿児 島1 熊 本2 八代3 球磨郡内4 (人吉1 多良木1 免 田1 湯前1) 愛 知1 福 岡1 熊 本1 八 代1 球 磨盤 内3(熊 本2 木 上1) 1計 10 6 12 9 1 1 F ◎ 面6人,九 州 一 円(熊 本 県 内を 除 く)13人,県 内15入 で あ る。 九 州 で は 北 九 州北 九 州 工 業 地 帯 に行 って い る者 が 多 い,男 子 出稼 者 の 半 数 以 上 は 京 阪 神 ・中京 ・北九 州 の 工 業 地 帯 へ 行 って い る。 女 子 の 出稼 先 は名 古 屋1人 ・博 多1人,熊 本 1人,八 代1人 多 良 木1人,木 上1人 で,男 子 と比 較 す る と近 接 町 村 や 県 内 が 多 く,そ の数 も66 滋 大 紀 要 第 13 号 1963 極 めて 少 い。 職 種 につ いて み る と,男 子 は店 員,工 員,大 工,鉄 道 員,郵 便 配 達,工 事 入 夫,事 務 員,下 男,陸 上 自衛 隊 員,海 上 自衛 隊 員 等 で,現 業 的 な もの が 多 く,県 内 出稼 者 は特 に店 員,ダ ム工 事 人 夫,下 男 等 で,最 近 日本 経 済 の成 長 が 特 に 重 化 学 工 業方 面 に 目 ざま しい もの が あ り新 規 中 学 卒業 生 が 各 工 業地 帯 で,次 第 に 製 造 業 や 機 械 工 業 方 面 に集 中 しよ う と して い るの とよ い対 照 を な して い る。 女 子 は7人 の 内5人 が 女 中 で,2人 が店 員 で あ る。 最 近 の 女子 中学 新 規 卒業 生 は紡 績 工業 が 多 くな って い る。 普 は 日本 全 休 と して 労 働 市 場 が 狭 く,小 学 校 卒業 后 男 子 は 商 業 で 身 を た て, 女 子 は家 事 使 用 人 とな り,も っと年 を とって か ら製 糸 工 場 や紡 績 工 場 へ 行 っ た もの で あ るが, 近 頃 は 中学 校 は も とよ り,高 等 学 校 を 準 え る者 も多 くな り,こ れ ら卒 業 生 の 遠 隔 地 に就 職 す る 者 が 増 加 す る傾 向 にあ る。 蛾 眉経 済 の 急速 な復 興 と,そ れ に続 く最 近 の 経 済 拡大 に伴 う顕 著 な 雇 用 増 加 は,中 学 校,高 等 学 校 の 新 規 卒 業 者 につ いて の 求人 難 の現 象を ひ き お こ し,な か んづ く中小 企 業 方 面 で は却 々 必 要 労働 力が 充 足 で き ず,京 浜,名 古屋,京 阪 神 方 面 か ら,遥 々 この 球 磨 の 奥 地 に も求 人 の 手 が 入 って き た。 父 兄 に お い て も,二 三 男 女 子 を 中 学 卒 業 后, 上 級 学 校 へ 進 学 させ な いの な らば,な ま じ農 業 の 手 伝 いを させ て も 家 全 体 の 収 入 が ふ え る訳 で もな い し,本 人 の先 の見 込 も立 た な いの だ か ら,外 で就 職 した方 が よ い と考 え,本 人 達 もみ な 外 に出 て 就 職 す る事 を 望 み,卒 業 后直 ち に就 職 す る者 が ふ え て来 た。 しか し長 男 で は就 職 す る者 は少 な く長 男で 就 職 す る者 は 田 の少 い家 の 者 で あ る。 昭 和33年 以 后 全 国 的 傾 向 と して は, 後 継 の長 男 ま で大 部 分 農 村 を 去 りは じめ て 出て い るが,本 村 で は未 だ この 現 象 は 余 り一 般 化 し て い な い。 須 恵 中 学 校 の話 によ れ ば,昭 和30年 頃 よ り本 村 の 農 業 も次 第 に機 械 化 し,人 手 が 段 々余 り始 め た。 各 農 家 で は2,3男 対 策 を 真 険 に考 え 始 め るよ う に な っ た。 即 ち2,3男 は た とえ,家 に置 い て も,将 来 農 業 で 立 って 行 け な いの だ か ら早 く就 職 させ て 一 人 立 ち させ よ うとす る親 が 多 くな っ た。 そ れ で 中 学 校 で は ゴ 職 業 相 談 票 (本 人 の 職 業 適 性 につ いて の所 見 を 学 校 が 書 き 入 れ る)を 人 吉 の 職 業安 定 所 に出 して お くと, 各 会 社 か ら安 定 所 に採 用 の 試験 に来 る。 就 職 志 願 者 は所 定 の 臼に 人吉 へ 行 って 学 科及 び面 接 試 験 を受 け る と,そ の 日の 内 に 採 用 が 決 定 さ れ る。 こ の事 は求 人 難 の ため 少 しで も早 く労力 を 確 保 す る た あで あ る。 採 用 さ れ た熊 本 県 下 の全 中学 の新 規 卒 業 生 は,4月 に な る と熊 本 に集 結 して,臨 時 列 車 で 各 地 に集 団で 北 九 州 京 阪 神, 名 古 屋,京 浜 工 業 地 帯 へ 運 ば れ て 行 く。 この 集 団 就 職 列 車 は 昭 和32年 頃 か ら東 北 や 九 州 の 各 府 県 で 始 あ られ て い る。 併 し,本 村 の 出 稼者 を全 体 と して見 れ ば,学 校 を 通 じて 就 職 した 者 は ま だ 多 くは な い。 即 ち 三 部 落 の 調査 の 分折 に よ れ ば,就 職 の手 づ るは 次 表 の よ うに,男 子 は 組成7人,知 人12人,学 校8人,職 業 安 定 所1人,募 集1人,新 聞広 告 2人,其 他3人 で,女 子 は す べ て 親 戚,知 人 の 紹 介 によ る もの が 多 い。 最 近 中学 校 の新 規 卒業 生 は 殆 ど学 校 を通 じて 職 業 安 定 所 の斡 旋 を受 け て い るが,新 規 卒業 生 以外 は親 戚,知 人 等 の 紹 介 で就 職 す る。 こ の事 実 は 日本 の産 業 が 学 校 を 出 た ばか りの若 年 の新 しい質 の 労 働力 を求 め て い る が,そ れ 以外 の者,特 に年 配 者 は チ ャ ンス の少 い事 を 示 す もので あ る。 云 わ ば過 剰 の 中 の 不 足 が 新 規 若 手 の 労 働 力 な ので あ る。 な ぜ 新 規 労 働 力 が 求 め られ るか と云 え ば,日 本 経 済 の 拡 大 が 終 身 雇 用,年 功 序 列 賃 金 と い う 独 特 の雇 用 制 度 と,賃 金 体 系 に基 づ いて 行 わ れ て い るか らで あ る。 そ して,日 本 の 労 働 市 場 の 狭 さ が 今 ま で 農 村 の 過 剰 労 働 力 を 主 と して 第 三 次 産 業 や 中 小 企 業 へ 向 わ した の で あ る。 出 稼 に 出 る年 令 は,17・18表 の よ うに,男 子 は,長 男 で は16才 か ら19才 まで が 三 割,20才 以 上 が7割 次 男 以 下 で は ほ ゴそ の 反対 の 率 にな って い る。1 女 子 につ い て は,長 女 はす べ て16才 以下 で あ る の に対 して,次 女 以下 で は20才 以 上で あ る。 し たが って 出 稼 者 の 出稼 に 出 る年 令 を19才 に線 を ひ いて み る と,長 男 は 比 較 的 遅 く次 男 以 下 は 比 較 的 若 い内 に,長 女 は 若 い内 に,次 女 以 下 は遅 べ,出 稼 ぎ に 出 る傾 向 が み られ る。 ♂ ノ 鰐
村 落 の来 往 住者 につ い て(土 屋) 67 第17表 三部落の出稼 者の続柄 続柄 性別 続 柄 人 数 男 r子 長 男 二 、 三 男 10 26 女 子 畏 女 二 女 5 2 第18表 出 稼 ぎに は じめ て 出 た年 令 年 令 男女別 19才 以 下 20才 一25才 26才 以 上 男 子 長 男 3 PO 2 ll男 1女 子 1長 女 16 5 80 00 ll女 0 2 0 第21表 三部落に於け る出稼 者の 家への通信状況 0回 1 2 3 4 5 6 10 12 20 25 男 2 4 3 3 1 4 1 4 2 1 1 1 女 4 1 2 0 4 併 し本 村 で も最 近 若 年 の 中 学 校 の 新 規 卒 業 生 の 就 職 が 男 女 と も 目立 つ よ う に な った の は,上 記 の 全 国 的 な 新 しい 事 態 か らの 自然 の 傾 向 で あ る。 但 し最 近 後 継 者 で あ る長 男 まで 農 村 を 去 っ て行 く処 が 増 加 して い る が,本 村 で は ま だ そ の よ うな現 象 は 目立 って い な い。 本 村 か ら出稼 に外 へ 出 る意 味 は親 の生 活 の補 助 の た あで は な く,外 で 独 立 す る 事 なの で あ る。 最 近 は民 法 改正 や個 人 主 義 の発 達 に伴 い家 中 心 の考 え方 か ら個 人 単 位 の 考 え方 に移 っ て き た し,ま た この 村 が 比 較 的 他 村 よ り裕 福 で あ る か らで も あ る。 第22表 三部落に於ける出稼者 の 年 回帰村回数及 滞在 日数 年 間 帰 村 回 数 な し 1回 2 3 4 6 10 12 男 10 9 0 2 0 3 1
女ll雛 霰
1 1 な し 1回 2 3 4 5 7 8 9 10 12 男 2 4 3 2 4 2 0 0 4 2 女 0 1 3 0 0 0 0 0 0 0 第19表 三部落 に於け る出稼 者の 小包送付状況 し 回 回 一 二 な 年 年 男 28 5 3 女 FO 2 0 第20表 三部落に於ける出稼者の 家への送金状況 し 回 々 回 一 一 月 な 毎 時 年 男 33 1 1 1 女 ハ0 1 0 0 出稼 者 で家 へ 送 金 して い る者 は,次 表 で 知 ら れ るよ うに 男子36人 中値 か に3人 だ け にす ぎず 毎 月 送 金 す る者 は一 人 だ けで あ る。 女 子 も7人 中1人 が 毎 月 送 金 し て い る だ けで,親 の生 活 を 扶 けて い る者 は 僅 か に2人 で あ る。 小 包 を 家 へ 送 る者 は次 表 で 知 られ る よ うに,男 子8人,女 子2人 で あ る。 出 稼 者 が 最 近段 々遠 方 に出 るよ う に な る につ れ て 帰 村 回 数 も少 くな って きて い る。 帰 村 回 数 の 多 い の は 県 内 に い る者 で あ る。 滞 在 日数 の 長 い者 は 自衛隊 や工 事 関 係 の者 で,休 暇が 長 い と か,仕 事 あ くか らで あ る。 多 くの者 は盆 や正 月 に帰 る程 度 で,滞 在 日数 も2日 か ら4,5日 位 で あ って,そ の際 若 干 の手 土 産 を 持 参 す る。:「68 滋 大 紀 要 第 13 号9 1963 来 住 者 三 部 落 に於 け る来 住 者 につ い て み る と,戦 前 .来住 して 引続 いて 住 ん で い る家 は7戸 で,戦 后 に来 住 し た家 は12戸 で あ あ る。 戦 前 の来 住者 は 現 在 す べ て 本 籍 を 本 村 に持 って お り,全 部 農 業 に従 事 して い る。 彼 等 の住 んで い る 部落 はす べ て 諏 訪 の原 で あ るが,彼 等 が 何 時 頃 この 土 地 へ 来 た かを 部落 民 に尋 ね て も,殆 ん ど こ れ に答 え られ る 者 は な い位,諏 訪 の原 に は 来 住 者 が 多 く,又,彼 等 が 外 来 者 の子 孫 で あ る事 を 一 般 村 民 が 知 らな い位 彼 等 は村 人 とな りき って い る の で あ る。 そ れで は三 部 落 の 内 なぜ 諏 訪 の原 に だ け戦 前 来 住 者 が 多 数 あ っ た の で あ ろ うか。 こ の事 は, .川瀬 や阿 蘇 は古 くか ら開 墾 され,農 耕 地 がす べ て 古 くか らの居 住者 に よ って 占有 さ れ て い た の に対 して,諏 訪 の原 は土 着 の人 が少 な く,原 野, .荒廃 地 が 多 く,明 治 か ら大 正 初 期 に か け て新 た に開 墾 さ れ た新 田 の地 価 が安 く,比 較 的 容易 に 耕 地 を購 入,乃 至 借用 す る事 が 出 来 た か らで あ る。 彼 等 は多 く近 接 町村 の 出身 で,自 分 の私 有 地 を売 って安 い此 処 の土 地 を購 入 した り,自 村 で 分 家 す るの に土 地 が な か った り,電 源 開 発 で ダ ムが 出来 て 土 地 を失 った り した の で,須 恵 村 に来 て耕 地 を入 手 した 人 々,又 山 の 関 係 で此 処 へ 働 き に来 て,荒 地 を 開 墾 した り,土 地 の な い 人 々が 仮 令小 作 しな が ら農 業一 す ぢ に進 ん で い る人 々で あ る。 戦 后 の来 住 者 は,広 義 には復 員者,引 揚 者, 来 住 者 に分 け られ る。 三 部 落 につ い て これ らの 人 々を戦 前 の来 住 者 と比 較 して 異 る共 通 の 特 徴 は,戦 前 の 人 々が 主 と して 近 接 町 村 の 出身 で 村 に血 縁 者 が なか っ た の に対 して 戦 后 の人 々 は妻 が 本 村 出 身 者 で あ るか,夫 が 本 村 出身 者 で あ る か,又 は 村 内 に何 等 か の類 縁 者 の あ る人 が 多 い 事 で あ る。 次 にみ ら れ る特 徴 は戦 后 の人 々 は 仮 令 な にが しか の土 地 を手 に入 れ 得 た と し て も農 業 だ け で 生 活 が 出来 な い の で,農 業 を 副 と し て兼 業 につ くか,農 業 以 外 の他 の 職業 につ い て い る 事 で あ る。 彼 等 は この土 地 に 裸一 貫 で 帰 った り,戦 后 の 食 糧 事 情 で 親戚 関 係 を 辿 って 疎 開 して 来 た人 々で,財 産 の あ る人 々で は な い。 彼 等 の 唯一 の 財 産 は外 界 に於 け る長 年 の 経 歴 即 ち腕 で あ る。 この 腕 に よ る彼 等 の 生 活 の 具 体 相 を う か が え ば,復 員 者 は 平 山 の 人 で,若 い時 か ら多 良 木 に 出て 保 健 所 に勤 め て い たが 応 召 し,戦 后 復 員 し て 阿 蘇 に雑 貨 食 料 品 店 を 開 き,こ の 店 を 妻 が 受 持 って,本 人 は過 去 の経 歴 を生 か して 役 場 に勤 めて い る。 川 瀬 に い る 引揚 者 が あ る。 一 入 は 岡 山 で農 協 に勤 あ,後 満 洲 で 国 策 会 社 の事 務 を 担 当 して い た。 引揚 げて 親 の耕 地 の一 部 を 小 作 し 妻 が 農 業 を 担 当 し,本 人 は事 務 的 才 能 を 生 か し て 役 場 に勤 め て い る。 も う一 人 の 引揚 者 は元 こ の村 の教 員 で,こ の村 の有 力 者 の娘 と結 婚 し, 後 満州 に渡 り,引 揚 げ て再 び教 員 として 勤 め て い る。 こ の よ うに,こ れ らの人 々は実 家 や妻 の さ と の援 動 を 受 けて,過 去 の経 歴 を 生 か して い る の で あ る。 別 の 引揚 者 で,朝 鮮 で巡 査 を して い た人 が い る。 この 人 は 本 村 出 身 で は な く,此 所 に 親戚 も 無 い し,土 地 も持 た な い の で,畑 三 反 を小 作 し な が ら 日傭 を して 暮 ら して い る。 来 住者 は 川 瀬2戸,諏 訪 の原8戸 で あ る。 彼 等 は2戸 以外 は 殆 ん ど土 地 も無 く魚 の行 商,豆 腐 屋,乾 物 行 商,日 傭,農 協 職 員,出 稼 とい っ た職 業 に従 事 して お り,そ の 子 供連 も働 きに 出 た り中 学 卒 業 后 直 ちに 出 稼 に出 て い る。 以 上 は 特 別 調 査 地 区の 三 部 落 の 来 住者 につ い て 記 した の で あ るが,本 村 に於 け る来 住 者 の 多 い部 落 は 湯 原,諏 訪 の 原,覚 井,屯 所 で あ る。 湯 原 は 山 の 傾 斜 地 で大 正 時 代 に他 村 か ら入 植 し た人 々 に よ って 作 られ た部 落 で あ り,諏 訪 の原 は先 述 の よ うに,大 正,年 間 新 し く開 墾 され た 処 で あ っ て,全 戸 数38戸 の 内,戦 前7戸 戦 后9. 戸 計16戸 が入 村 し て い る。 湯原 は 山 の 傾斜 地 で 大 正 時 代 に他 村 か ら植 し た人 々に よ って 作 られ た 部 落 で あ り,覚 井,屯 所 は県 道 に 沿 った 交通 の 中心 地 帯 で,役 場,農 協,学 校,診 療 所 な ど が あ り,商 店 が 並 ん で い る。従 って 耕 地 の 無 い 来 住 者 の多 くは この 附 近 に住 ん で農 業 外 の業 務 を営 ん で い る。
村 落 の 来 往住 者 に つ い て(土 屋) 69 例 え ば,雑 貨 食 料 店,自 転 車,鍛 治屋,石 屋,大 工,産 婆,僧 侶,巡 査,医 師,看 護婦, 教 員 等 々の如 く,こ の業 務 は種 々雑 多 で あ る 。 他 の各 部 落 に も数 戸 つ つ の 来住 者 が い る が,何 れ も土 地 も少 な く,非農 家 乃 至 兼 業 農 家 で あ る。 平 山 に は木 炭 山 や 山 働 き の関 係で 日傭 人 夫 と して 来 た入 が 沢 山 い る。 昭 和30年 頃 か ら この地 方 で も山林 景 気 が 高 ま り,山 村 地 帯 な る平 山 に こ の種 の人 々が 多 く入 り込 ん だ ので あ る。 しか し これ ら来 住 者 は殆 ん ど財 産 も な く土 地 との結 び つ き も少 な く,な か なか 生 活 が 安 定 し な い の で 数 年 の 内 に他 の チ ャ ンスを 求 めて 村 を 去 る人 が 多 い。 離 村 者 阿 蘇,諏 訪 の 原,川 瀬 三 部 落 につ いて,大 正 6年 の県 税戸 数 割 等 級 表 にの って い る60戸 の 家 が 昭 和32年 ま で の40年 間 の 才 力 の 内 に どれ だ け 没 落 した り,死 に絶 え た り,転 出 し た か を 考 察 しよ う とす るの で あ る。 大 正6年 の60戸 を大 正6年 の 等 級 表 に よ って 1位 一10位,11位 一20位,21位 一30位,31位 一 40位,41位 一50位,51位 一60位 と6階 層 に分 け る。 こ の40年 間 に三 部 落 か らい な くな った家 が32 戸 あ りそ の 内,死 に絶 え た家 が4戸 あ る。 そ の 内,転 出 し た家 につ い て み る と,41位 一60位 ま で の下 の層 が11戸(55%)転 出 し て い る。 こ の 事 は 農 村 社 会 で は 土 地 や不 動 産 を 持 た な い家 は なが く安 定 し に くい とい う事 を 示 し て い る。 又 死 に絶 え て な くな った 家 は3戸(15%)と も40 位 以 下 の層 で あ る。 こ の事 は土 地 や財 産 が な い の で 養 子 に来 る者 もな く,外 に 出 た息 子 達 も親 が 死 ん で も村 に集 って 来 な くな って,結 局 絶 え た と考 え られ る。 次 に注 目す べ き事 は,1位 一10位 層 が2戸, (20%)転 出 した 事 で あ る。 この 事 は村 の 上 位 の 檀 那 衆 が段 々勤 労 精 神 を 失 い,農 業 以 外 の 事 に 手 を 出 して 祖 先 伝 来 の 土 地 を 抵 当 に入 れ て 金 を 借 り,株 を や った り,工 場 経営 を や っ て失 敗 し,文 人 に騙 さ れ て 田,畑 を 失 い,す っか り落 ち ぶ れ て,今 ま で の 生 活 や 附 合 に 較べ て わ が身 .,を恥 じ,村 人 か ら軽 蔑 の 目で 見 られ る事 に堪 え られず 村 に い た た まれ な くな り,家 屋 敷 を売 り 払 って部 落を 去 った の で あ る。又,別 に 終戦 后 の土 地 収 用 に よ り没 落 した家 もあ る 。 以 上 の よ うに部 落 を 去 る の は上,下 の層 に多 い事 は通 説 と もな って い る が,本 村 で は,教 育 を 受 けた 上 層 が 挙 家 離 村 す る事 は な い。 之 に対 して 中 間 にあ る11位 一20位,21位 一30 位,31位 一40位 の 層 で は 合 計3戸(10%)と 転 出 す る家 は少 い 。 これ は これ 等 の 屈 が 最 上 層 程 で は な い が僅 か な が ら多少 の 土 地 や 不 動 産 が あ り,贅 沢 は で きな い が,唯,毎 日ま じめ に勤 勉 に働 か な けれ ば 生 活 で きな いの で泥 に まみ れ て 農 業 を 一 途 に や っ て い れ ば続 い て い る よ うで あ る。 こ れ らの 層 の 転 出 理 由 は 農業 以 外 の 事 に手 を 出 した り,詐 欺 にか か った り,男 の 働 き手 を 失 っ た り,一 家 不 和で あ った り病 人 が 出 た り し て生 活 で き な くな って 村 を 出 て 行 くが,一 番 多 い の は地 味 な農 業 一 す ち の 道を 歩 ま な か った か らで あ る 。 次 に外 来 者 は土 地 や 不 動 産 が な い の で この よ うな 農 村 社会 で は た え ず 不 安 定 な生 活 を 送 り, 従 って そ の 土 地 に結 び つ く必 然 性 が な い の で生 活 の 安 定 の た め に機 会 を 求 め て外 へ 出 て 行 こ う とす る。 こ れ を 職 業 か らみ る と村 で は 日傭 乃 至,農 業 以 外 の 仕 事 と い う事 に な る。 そ こで こ れ を商 売 と職 人 に分 け て考 察 す る。 エ ンプ リ氏 は 商 店 は 農 民 よ り移 動 し やす く土 地 に結 び つ い て い な い,そ して 店 屋 は金 持 旧地 主 の よ う に高 く評 価 され て い な い。 こ れ は幾 分 は 商 売 の た め で もあ り,:又,村 の 生 れ で な い も の が 多 い こ とに もよ る。 ( 訳) と述 べ て い る。 須 恵 村 の事 務 報 告 に よ れ ば,大 正 五年 の 商 業 税 一 覧 表 に は 商 業戸 数45戸,内 訳 物 品 販 売 業35 戸,牛 馬 商(売 買)7戸,仲 買 業2戸 。 木 賃 宿 1戸 で あ る。処 が大 正15年 の 商 業 税 一 覧 表 に よ れ ば,大 正6年 の45戸 が24戸 に激 減 して い る。 こ の24戸 の 内 訳 は,物 品 販 売業12戸,木 賃 宿1 戸,家 屋 貸 付 業1戸(新 し く転 業)で あ る。 こ れ は大 正5年 と較 べ る と46.7%の 減 で あ る。 し か も大 正5年 の45戸 の 内 その ま ∼大 正15年 まで
70 滋 大 紀 要 第 13 号 1963 ひ き続 いて 商 売 を して い る店 は14戸(31%)で ・ あ との31戸(69%)は 商 売 を 止 め て し ま って い る 。そ し て そ の 代 りに新 しい 店 が10戸 で きて, 古 い店 と新 しい店 と合 わ せ て 大 正15年 総 数24戸 とな って お り,新 し い店 の10戸 は24戸 の41.7% に あ た る の で あ る。 これ らの 事 か ら,大 正5年 一 大 正15年 の10年 間 の 内 に 古 い商 店 が70%余 り な くな って 新 し い 店 が40%も で きた と い う事 が わ か り第 一 次 世 界 大 戦 を 中心 とす る この 大 正 の 時 期 が 如 何 に商 業 に 変 動 を 与 え た か そ の 一 端 を 窺 う こ とが で き る。 須 恵 村 の 商 業 はそ の 後 大 し た発 展 も衰 微 も な く,昭 和29年 の 統 計 によ る と,商 店 の 数 は30戸 と な って い る。 数 量 的 に見 れ ば,こ れ は大 正15 年 と昭 和29年 の 問 に は24戸 と30戸 で 殆 ん ど差 は な い が,こ れを 内 容 的 に見 る と,大 正15年 か ら 現 在 に至 る まで 続 け て商 業 を 営 んで い る家 は全 くな い 。 大 正15年 の24戸 の 内,現 在 在村 し て い な い家 13戸(54.2%),農 業 に 転業 した家8戸(33.3 %)そ の他 に 転 業 した 家3戸(12.5%)内 訳 ∴ 教 員,雑 貨屋,石 屋 で あ る。 ・ 以 上 は僅 か30年 前 村 で 商業 を 営 ん で い た家 で 引 続 い て 商 業 を 営 ん で い る家 が 一 軒 もな い事 を 示 して お り,須 恵 村 に 於 け る商 業 の 不 安 定 性 を 物 語 って い る。 これ らの 事 は 日本 の 商 業 が 如 何 に小 さ く,大 正 一 昭 和 にか けて 飽 和 状 態 に来 て お り,産 業 構 造 の 底 辺 で,絶 えず 浮 ん で は消 えて 行 く泡 の よ うな存 在 で あ る事 を 示 して い る 。 こ うして30年 前 に商 売 し て い た もの 、半 分 は 転 出 し,3分 の1は 農 業 に転 業 し',8分 の1は 農 業 以 外 に転 業 し て い る。 次 に職 人 につ い て,三 部 落 の工 業 税一 覧 表 を 考 察 す る。 大 正5年 の 工 業 戸 数20戸 の 内,大 正15年 ま で つ づ いて 同業 を営 ん で い る家9戸(45%),廃 業 した 家11戸(55%)で あ る。 これ を 同 期 間 の 商 業 戸 数 の 廃 業70%に 較 べ る と まだ 低 い。 次 に大 正15年 の 工 業 戸 数18戸 の 内,30年 後 の 現 在 も尚同 業 を 営 ん で い る家 は2戸(11.%) で あ る。 この 期 間 に特 に 目立 つ 事 は石 工 が3戸 減 り, 大 工 が3戸 ふ え て い る。 石 工 が 減 った の は,以 前 は 山 か ら石 を 出 し て そ れを けず って 石 臼,石 風 呂,墓 石 を 作 った り,建 築 資 材 と して 使 って い たが,交 通 の発 達 と共 に機 械,セ メ ン トや他 の 資 材 道 具 美,等 が 入 って 来 て,石 の 需 要 が少 くな っ た事 が 大 き な原 因 で あ らう。 大 工 につ いて は球 磨 川 の 水 路 交通 が止 ん で 舟 大 工 が3名 減 った が,村 の 中 の 自給 自足 体 制 が 次 第 に破 れ て,分 業 が 進 み,家,納 屋,風 呂等 の 建 築 を 始 あ 公 共 施 設 や製 材 等 に 大 工 とい う専 門 業 の 需 要 が 多 くな った 事 を 物語 って い る。 併 して 大 正15年 の 工 業 戸 数18戸 の 内,30年 後 の 現 在 まで 在 村 し て 同業 を 営 ん で い る家 は2戸 (11.1%)現 在 在 村 して い な い家9戸(50%) 現 在 在 村 し て農 業 に転 職 し た家6戸(33.3%) 現 在 在 村 し て他 に 転業 し た家1戸(5.6%)雑 貨 商 で あ る。 即 ち この30年 間 に工 業 戸 数 の半 分 は転 出 し, 三 分 の一 は農 業 に転 業 し,9分 の1は 他 に 転業 して い るの で あ る。 専 業 ・兼 業 別農 家 本 村 に於 け る農 家 数 は23表 の よ う に,戦 前 に は 殆 ん ど著 る し い増 減 を見 な か った が,戦 後 急 激 な 増 加 が 認 め られ る。 これ は 復 員 ・引揚 者 及 び 都 市 其 他 か らの 来 住 者 によ る急 激 な 増 加 の た め で あ る。 終 戦 直 後 は,他 産 業 が崩 壊 しな か な か立 直 れ ず,こ の 部 門 の雇 用 の 機 会 も少 な く,反面 異 常 な 299 2き9 281 277 230 , 220 219 ' 214 213 大 正 七 大 = 一 昭 四 昭 一、 九 昭 二 二 昭 二 五 昭 二 七 昭 三 三 昭 三 五 第 二 三 表 .農 家 数 の 推 移
村 落 の来 往 住 者 に つ い て(土 屋) 71 農 村 好 況 の み られ る時 期 で あ っ たの で,一 時 的 に専 業 化 を示 して いた が,そ の 後 他 産 業 の 回 復 発 展 が 進 む につ れ て,農 家 の 労 働 力 が 農 業外 に 雇 用 され る機 会 もふ え た 。先 づ零 細 農兼 業 化 が 進 み,更 に農 業 と他 産 業 との 間 の 格 差 は農 業 労 働 力 の他 産 業 へ の雇 用 を 促 進す る。 又 戦 後 の 消 費 文 化 の農 村 へ の 流入 に よ る消 費 水 準 の上 昇, 生 活 高 度 化 に よ る家 計 喪 の上 昇 は,一 方 農 家 の 商 品 化を 促す と共 に他 方 農 外所 得 の 依 存 度 を 強 あ る事 と な る。 換 言 す れ ば戦 後 商 品 化 の 一 層 の 浸 透 は,専 業 農 家 と兼 業 農 家 の 分 化 を もた らし た。 し か し て本 村 は 僻 村 で村 内 や近 接 町 村 に居 宅 の ま 、,他 産 業 へ の 雇 用 機 会(季 節 的 出 稼 も告 む)は 全 国 平 均 に較 べ て少 く,兼 業 化 率 は 低 位 に止 ま り,勢 い離 村 の 形 が 多 くと られ る。 と こ ろで 日本 の 労 働 市 場 の 雇 用 需 要 が 若年 令 層 に集 中 して い る事 は 挙家 離 農 を 抑 制 して お り,挙 家 離 村 は主 とし て 戦 後 に新 し く農 家 に な った移 住 者 ∼ 飯 米 農 家 に多 く,又 一 般 に兼 業 化 が 進 み 農 外 収 入 の 道 を 得 て も決 して 農 地 を 手 放 さな い 傾向 が み られ る。 174 178 177 193 197 第 二 四 表 戦 後 専 業 農 家 数 48 戦 后 の 専 業 別 農 家 数 の 変 遷 を み る と専 業 農 家 は,24表 ・25表 の よ う に,昭 和22.25.27.27. 33.35年 に 於 い て,197戸,193戸,177戸,178 戸,174戸 と 農 家 総 数 が230戸,277戸,281戸, 289戸,299戸 と 増 加 す る の に 対 し て,漸 次 減 少 の 傾 向 を 示 し て い る。 兼 業 農 家 は 専 業 農 家 の 減 少 と は 逆 に,33戸, 84戸,104戸,111戸,125戸 と 増 加 し て い る 。 こ の 事 は,戦 后 農 家 数 の 増 加 に よ っ て,1戸 当 り の 耕 地 面 積 が 狭 少 に な り,そ の た め 農 家 収 入 は 相 対 的 に 低 位 に 止 ま る 反 面,そ の 低 位 を 兼 業 に よ る 収 入 に よ っ て 補 う家 が 多 くな っ た 事 を 示 し て い る 。 兼 業 を 第 一 種,第 二 種 に 分 け て,戦 后 の 農 家 数 の 変 遷 を み る と26表 の よ う に,昭 和22.25. 2733.35年 に 第 一 種 兼 業 は そ れ ぞ れ8戸,45 戸,70戸,79戸,77戸,と 漸 次 増 加 の 傾 向 を 示 し,第 二 種 兼 業 も25戸,39戸,34戸,32戸,48 戸 と増 加 の 傾 向 を 示 し て い る 。 32 34 ・第 .二 種 兼 業 農 家 数 の 推 移 25 一 9
31
第 二 六 昏次 .第 一 種 兼 業 農 家 数 の 推 移 8 5 4 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 70 .79 77 昭 二 二 昭 二 五 昭 二 七 冊 三 二 昭 三 五 125 111 104 84 33・ 昭 二 二 昭 二 五 昭 二 七 昭 三 三 昭 三 五 第 二 五 表 戦 後 兼 業 農 家 数 :専兼 別 の 割 合 は10図 の よ う に,:専 業 農 家 は そ れ ぞ れ86%,70%,63%,62%,58%と 漸 次 そ の 比 重 を 減 少 し,兼 業 農 家 は14%230%,37 %,38%,42%と そ の 比 重 を 漸 次 増 加 し て い る 。 兼 業 を 更 に 詳 し く み る と,第 一・種 は3%, 16%,25%,27%,26%と な り,第 二 種 は11 %,14%,12%,11%,16%と な っ て い る 。 こ れ を 全 国 の 統 計 と 比 較 す る と 》27表 の よ う に,本 村 に 於 い て は 既 に 昭 和33年 に 於 い て 専 業 62%兼 業38%と 戦 后 の 著 る し い 兼 業 化 へ の 変 化 ・ は 見 られ る と は い え,全 国 の 昭 和30年,専 業34 %兼 業66%と い う著 大 な 兼 業 化 の 傾 向 に 比 して 兼 業 化 率 は ま だ 遙 か に 低 い 。 こ の 低 さ は 本 県 の72 滋 大 紀 要 第 13 号 1963 25 昭 二 七 63 専 業 口 笙 襲 業 囮 第 二 種 肇 国 、、.笏16 26 昭 二 五 70 58 昭 三 .五 27 昭 一 86 62 第 一 〇 図 専 業 別 農 家 数 の 比 率
)
昭
三
第27表 昭 和30年 全 国 昭 和30年 熊 本 昭 和31年 多 良 木 昭 和33年 須 恵 1事 業1兼 業1第 ・種[第 ・種 34.8% 43.4 64.0 62.0 65.2% 56.6 36.0 38.0 37.7% 34.1 19.0 27.0 27.5% 22.5 17.0 11.0 み な らず 球磨 地方 に共 通 の もの で あ る事 は 昭 和 31年 に於 け る隣接 の 多 良 木 の専 業64%兼 業36% が 須 恵村 の統 計 に,ほ ゴ等 し い 事 か ら も推 察 さ れ る。 こ の 事 は 球 磨 郡 が 僻 遠 の 地 で 近 くに大 都 市 や み るべ き産 業 の な い 事 に もよ る と と もに, 須 恵 村 の一 戸 当 りの 耕 地 面 積 が,平 均1町1反 で,全 国 平均8反 に較 べ て 比 較 的 広 く,農 業 専 従 者 を必 要 とす る規 模 で あ る事 に も一 因 が あ る 1と考 え られ る 。 以 上 の 考察 で は専 兼 別 の 割 合 に於 て本 村 と多 良 木 町 と の問 に は余 り差異 が 見 られ な い ので あ るが,尚 詳 し く分 析 し て み る と,第 一 種 兼 業 と 第 二 種兼 業 の構 成 比 に 於 い て両 地 区間 に顕 著 な 差 異 が認 め られ る。 即 ち本 村 に於 い て は,表 の よ うに,第 一 種 兼 業 は27%と 多 良 木 の19%に 較 べ て高 く,第 二 種 兼 業 は11%と 多.良木 の17%に 較 べ て低 くそれ だ け農 村 た る須 江 村 で は農 業 を 主 とす る者 の 多 い事 を 示 して い る。 昭 和35年 の 農業 セ ンサ ス に よ って 本 村 の専 業 第 = 図 専 業 兼 業 馴 農 家 数 の 比 率一
昭
三
五
年
ン サ ス 別 農 家 の耕 地 経営 規 模 を分 析 す れ ば28表 が 得 ら れ る。 こ の表 の示 す よ うに,本 村 の専 業 農 家 は比 較 的経 営 規 模 の大 き い一 町以 上 の農 家 に高 い。 彼 等 は機 械 化 に よ っ て労 力 を 節約 し,そ の 余 った 労力 を 経 営 の 多角 化 に 向 け て,商 品 化 を お し進 あ よ うと して い る。又 経営 規 模 の 小 さい 専 業 農 家 に は家 族 数 が少 な い家 や老 人 婦人 の家 が 多 い 第 一 種 兼 業 農 家 に は7反 一1町 の家 が 多 く,第 二 種 兼 業 農 家 は3反 未 満 の家 が そ の3分 の2を 占あ て お り,そ の大 部分 が5反 未 満 の家 で あ る。 こ の事 は戦 后 増 加 し た農 家 と 関係 が あ りそ の 多 くは 新 しい分家 や 来 住 者 で あ る。 こ れ らは 農村落の来往住著たついて(土 屋) 73 第 一 種 兼 業 唱 第 二 極 謄 業 事 業