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井上円了とカント 利用統計を見る

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International Inoue Enryo Research『国際井上円了研究』8

(

2020): 187–210 ISSN2187-7459

©2020by International Association for Inoue Enryo Research 国際井上円了学会

【 論文 】

(※井上円了没後 100 周年記念国際シンポジウムでの発表に基づく)

井上円了とカント

1

村山保史

はじめに

1903(明治 36)年 5 月 7 日、井上円了(1858-1919)は第二回の海外視察の途上で ドイツに入り、ケーニヒスベルク(現在はロシアのカリーニングラード)でカント の墓所を訪れている。じつはその前日にはヴィッテンベルクでルターの遺跡を、8 日後の 5 月 15 日にはフランクフルトでゲーテとシラーの遺跡を訪れているのである が、『西航日録』に残されたヴィッテンベルクやフランクフルトでの感想と比較す ると、ケーニヒスベルクのカントの墓前での言葉は際立っている。 この下に学界の一大偉人の永眠せるを思えば、粛然として、おのずから敬慕の情 禁じ難きを覚ゆ。左に所感のままをつづる。 プレゲルの水にうつれる月までも純理批判のかげかとぞ思ふ 不出郷関八十春江湖遠処養天真、先生学徳共無比、我称泰西第一人。 郷里の村を離れず、八十年の歳月を送る。江湖の遠いところで天然の性を養 う。カント先生の学と徳はともにくらべるものはない。私は西欧第一の人と 称している。) プレゲル〔プレゴリヤ川〕はカント先生の墓畔に流るる川なり。 (『西航日録』XXIII:214 2

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長く学んできたカントの墓前であれば感情が高ぶったというのはわからないでもな い。しかしそれにしても学生時代から広く東西の哲学に触れ、多くの西洋の思想に 触れてきた円了である。たとえカントの墓前でも「先生学徳共無比、我称泰西第一 人」とは、いささか盛り上がり過ぎのようにも思える。円了は『西航日録』で「書 中記するところの詩歌のごときは、抱腹に堪えざるもの多き」(同 XXIII:157)とし ているが、それでもこの紀行文は円了自身が公開を許したものである。円了はなぜ 「先生学徳共無比、我称泰西第一人」としたのであろうか。円了のカントとのかか わりを追いながら、この答えの一片を探したい。

1.フェノロサの哲学史講義

3 A.フェノロサの講義 カントとの最初の出会いを確認することからはじめよう。東京大学時代にさかの ぼる。 明治前期の東京大学では西洋哲学関係科目の大半は招聘外国人教師が担当してい た。明治期の東京大学で講義をした外国人哲学教師はサイル(Edward W. Syle,1817-1890)、フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa,1853-1908)、クーパー(Charles James Cooper,1849-1932)、ノックス(George William Knox,1853-1912)、ブッセ(Ludwig Busse,1862-1907)、ケーベル(Raphael von Koeber,1848-1923)の 6 人であるが、1881 (明治 14)年 9 月から 1885(明治 18)年 7 月にかけて東京大学に在学した円了が授 業を受けたのはこのうちフェノロサのみである。円了には東京大学入学までに長岡 洋学校や真宗大谷派の教師教校において広い範囲の教養教育を洋書や翻訳書をテキ ストにして受けた経験があり、教師教校では倫理学の内容を含むウェイランドの 『小修身論』4を使った授業を受けている。また大学予備門では論理学教師の千頭徳 馬〔清臣〕(1856-1916)から理財学(経済学)を学び、大学入学後は、第一学年次 にやはり千頭とフェノロサから論理学の授業を受けている。井上哲次郎(1856-1944) からは西洋思想との比較を随所に含む東洋哲学史の授業を受け、外山正一(1848-1900)からは英文学、史学(内容は社会学)、心理学、哲学の初歩といったしばし ばスペンサーを使用した授業を受けた可能性がある。しかしそれでも、こうした教

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師たちが一定の範囲の西洋哲学史を特定の観点から総括したような本格的な哲学教 育をしていたという記録はいまのところみえない。現時点では、円了の西洋哲学と の、そして西洋哲学におけるカント哲学との本格的な出会いはフェノロサの講義を 介したものであったと考えてよいであろう。

文学部で同級生であった金井延(1865-1933)―円了は哲学科、金井は政治学及 理財学科に属していた―筆記によるフェノロサの講義録(Beinecke Rare Book & Manuscript Library, Yale University 所蔵)から推測すると、円了がフェノロサから受け た可能性のある授業は下表のとおりである。

学年と講義時期 講義

第一学年(1881〔明治 14〕年度)

1882 年 3 月~? Lectures on Logic I~XI

第二学年(1882〔明治 15〕年度)

1882 年 9 月 21 日~11 月 17 日 Lectures on Sociology I~XXI5

1882 年 11 月 20 日~12 月 3 日 Lectures on Transition to Philosophy

1882 年 12 月 8 日~1883 年 2 月 20 日 History of Philosophy I~XVII 第三学年(1883〔明治 16〕年度)

1883 年 9 月 13 日~10 月 9 日 History of Philosophy―continued I~XII

1883 年 10 月 18 日~1884 年 6 月 16 日 The Logic of Hegel Chapter I~Chapter VIII (translated by William Wallace)

第四学年(1884〔明治 17〕年度)

1884 年 10 月 2 日~1885 年 2 月 26 日 The Logic of Hegel―continued Chapter VIII~Chapter IX

1885 年 ?~? Applied Philosophy I~IV

円了から 2 年遅れて 1883(明治 16)年から 1887(明治 20)年にかけて学んだ清沢 [徳永]満之(1863-1903)と高嶺三吉(1861-1887)によるフェノロサ「哲学(史)」 講義(授業名称は「哲学」であるが内容は哲学史)の講義録の解明が、筆者がかか わってきた科学研究費研究によって進んでいることからその成果 6を参考にしなが ら金井筆記による講義録から円了が受講したフェノロサの講義を推定すると、円了 は金井と同様に第一学年後期(前期は千頭から)に Logic において形式論理学を通

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じて論理的思考の基礎を学び、次いで第二学年で Sociology を 2 ヶ月ほど集中的に学 んだ後に History of Philosophy を学ぶための予備講義として Transition to Philosophy を 2 週間(講義は 4 回)受講したと考えられる。第二学年の History of Philosophy では デカルト、スピノザ、イギリス経験論、カント等―清沢と高嶺の筆記による講義 録ではカントに非常に多くの部分が割かれている―、続く第三学年の History of Philosophy―continued ではカントからフィヒテ、シェリング、ヘーゲルを学び、第

三学年から第四学年にかけてはヘーゲル『小論理学』のウォレスによる英訳 7をテ

キストとした The Logic of Hegel や、ヘーゲルの論理学を応用しようとする Applied Philosophy を受講したと推定される。 今後の議論の参考となる可能性を考えて、「哲学(史)」講義にみられるフェノロ サ哲学の特徴と、カント哲学の取り扱いの特徴を、やはり科学研究費研究の成果を 参考にして確認しておこう。 B.フェノロサの哲学観8 (1)科学(ないし科学的方法)と哲学(ないし哲学的方法)を峻別する フェノロサの哲学史は、科学と哲学(ないし宗教)を区別することからはじまる。 フェノロサによれば科学は帰納的で現象を因果法則によって説明するのに対し、哲 学は演繹的で科学が前提としている(科学が説明できない)ものを原理とする。例 えば「雷鳴は空気中の放電現象の結果として生じる」という判断は科学的であるが、 そういった判断が前提している「原因」「結果」「因果性」「空間」といった個々の 概念を科学は説明できない。哲学や宗教はスペンサーが考えたような「不可知なも の[不可知的] the Unknowable」に関係しているのである。 すべての科学は単なる科学の手段によっては説明されえない前提から出発する。 科学を超えた分野があるに違いないのである。ゆえに、すべての科学はそれがま ったく説明することができない一定の想定に依拠している。…… ハーバート・スペンサーのような偉大な著述家もまったくの不可知であると宣言 したものが存在する。(Fe 1139 この意味で「哲学的方法、つまり根本的な方法あるいはむしろ深い方法は科学的方 法の基礎となる」(Fe 128)。

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(2)人間の本性に本質的な二元性があると考える

(1)でも人間に科学と哲学(ないし宗教)という二つの立場への志向を認めた ように、フェノロサは「人間本性の本質的二元性 essential duality of human nature」を さまざまな観点から想定している。例えば、人間は自然界にある対象を能動的に意 識する(含む)が、他方で私は自然のなかに受動的に含まれている。私は自分の頭 で空間について考えることができるが、私の頭自体は空間のなかにある。このよう にして自己の内なる意識と自然の外なる対象は関係する。 だが、こう問われるかもしれない。二つのものがバラバラに変化して両者の対応 関係がなくなることはないのかと。フェノロサはないと答える。なぜなら自然は下 図(Fe 16)のように私の心を含みつつ全体として進化しているからである。人間は 「進化の産物」であり、人間の心は「進化の結果」なのである。 フェノロサにとっては一つの有機体としての人間の心(思考)が発展することは周 囲の世界(存在)が発展することと軌を一にする。 こうした考え方にいたったことには、有機体・有機的世界の発展については、フ ェノロサがしばしば言及するスペンサーの社会有機体説や社会進化論 10からの影響、 またフェノロサの招聘に尽力した動物学者エドワード・モースらを介した進化論か らの影響があったと思われる 11。また人間の心の発展については、カント哲学が残 した二元論的対立(フェノロサは本質的二元性の対立と考える)を克服しようとす るフィヒテ、シェリング、ヘーゲルといった意識の展開の哲学からの影響があった。 おそらく円了や金井とともに受講していた阪谷芳郎(1863-1941)―阪谷は金井と 同じ政治学及理財学科に属していた―が筆記した 1883(明治 16)年度のフェノロ サの「哲学(史)」の講義録(History of Philosophy―continued の講義録)に含まれる 次の言葉は、そのような事情を表現していると理解してよいであろう。 もしわれわれがスペンサーの進化論とヘーゲル哲学とを結合できれば、われわれ は完全な哲学をもつことになるだろう。そしてわれわれはこれがこれから 30 年か

Evolution man, product of evolution content, or consciousness

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40 年のうちになされるであろうと信じる。ただしヘーゲルの唯一の弱点は、彼が 科学の知識に乏しいことである。両者の哲学は互いに補い合う。スペンサーの学 説はヘーゲルに機械的進化が欠落している点を埋め合わせる。スペンサーとヘー ゲルはまったく異なるようにみえるが、じつは最も密接に結びついているのであ る。ヘーゲルの学説なしにスペンサーの進化はまったく考えられない12 (3)人類の歴史を知的(理性的)発展の歴史としてみて、四つの段階を分ける 人間の心を進化の結果と考えたことにより、フェノロサは人類の理性的な発展を 「知的発展の四段階 the four stages of intellectual progress」として考えることになる。 おおよそ次のような段階である(Fe 125-126)。 (a)周囲を意識することのない獣のような未開状態の段階 (b)周囲を意識して社会組織や社会制度をつくりはじめるが、なぜ組織や制度に したがっているのかは理解していない段階 (c)社会組織のなかで意識的に行為する段階。なぜ組織や制度にしたがっている かも理解している段階 (d)組織や制度が暗黙のうちに前提しているものを疑いはじめ、そうした全体が もとづいている、科学が説明できない真の原理を探し求める段階 (d)でいわれる「真の原理」が、(1)で哲学や宗教がかかわるとされたスペンサ ー的な「不可知なもの」としての原理であるが、フェノロサはこれを「哲学(史)」 講義の後半では、おそらくドイツ観念論を論じていることもあってしばしば「論理 の力 the logical force」と呼ぶ。すべての哲学とすべての宗教―キリスト教であれ仏 教であれ―はこの原理にかかわり、そしていずれはこの原理によって統合される はずのものなのである。 (4)哲学を哲学史として考える そして(1)~(3)の結果として、フェノロサは哲学(宗教)を、下図(Fe 43) のような、時に行き止まりや停滞を経ながらも前段階を継承しながら進む漸次的な 発展、つまり哲学史(宗教史)として考える。

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フェノロサは哲学史を古代哲学ではなくデカルトからはじめるが、これは込み入 った長い過程を踏まえようとして誤解を生じる危険を犯すよりも、これまでの失敗 を発展過程のうちに織り込んだ近世(代)哲学からはじめようとするからである。 哲学はデカルトによってはじめられた。だがそれ以来、哲学は成長し続けた。た しかにデカルト以前にもさまざまな哲学はあった。しかしエジプトの哲学、ペル シアの哲学、インドの哲学、それにギリシアとローマの哲学、これらすべては、 いま私が知る限り近世哲学に、つまりデカルト以降の哲学の発展に含まれている。 そのうえ古代哲学は理解するのが難しい。(Fe 145) フェノロサの哲学観からすれば近世のデカルト哲学のうちには古代哲学や中世哲学 における長い試行の歴史が含まれているのである 13 さてフェノロサの哲学観ないし哲学史観は以上のとおりであるが、補足しておき たいことが一つある。それは、一哲学者としてのフェノロサの西洋哲学史が近世以 降の哲学史を重視して古代哲学と中世哲学にほとんど触れなかったことは事実であ るにしても、同時に学生たちを前にした一教師としてのフェノロサは古代哲学史や 中世哲学史をまったく無視していたわけではないことである。フェノロサは講義の 参考書として古代哲学からはじまるシュヴェーグラーやルイスらによる通史の西洋 哲学史本 14 を指示しており、おそらくはこうした指示もあって学生は不足した部分 を―読んだり、抜粋したりする―自主学習で補っていた。この種の自習の形跡は 近年の研究によって明らかになってきており、円了の『稿録』や学生時代のノート 群、清沢の学生時代のノート 15 にもそうした自習の際の抜き書きが多く残っている ことがわかっている。そしておそらくはこうした自習によって習得されたものが、 円了や清沢自身が講師となって行った初期の大学における講義でもすでに素養とし て生かされていたと推定される。われわれはこうした事情についても銘記しておこ う。 stonewall. signboard.

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C.カント哲学の扱い

次いでフェノロサの哲学史におけるカント哲学部分の特徴をみてみよう。

カントの哲学は「批判哲学」と呼ばれ、いわゆる三批判書と『単なる理性の限界 内における宗教』(『宗教論』)をはじめとする多くの著作を通じて扱われる哲学テ ーマは多岐にわたるが、フェノロサが扱うカントの著作には次のような偏りがある。 (1)その導入部分(さらに「超越論的方法論」の「純粋理性の規準 der Kanon der reinen Vernunft」)において批判哲学の意味や全体像を概略し、本論で知識(真理) の起源や権利づけといった認識論を扱っている『純粋理性批判』は重視する。同書 のうち感性の原理を扱う「超越論的感性論」と悟性の原理を扱う「超越論的論理 学」、つまり認識論の中枢部分は詳しく論じる。これはボウエンの『近世哲学史』 のスタイルと同様である。一方で、 (2)古今、カント哲学において重視されてき た倫理(実践、道徳)を扱う『実践理性批判』(や『道徳形而上学の基礎づけ』)、 カント以降、さまざまな文学や歴史理論に影響を与えてきた美学や目的論を扱う 『判断力批判』にはわずかしか言及しない。(3)その他の『宗教論』を含む著作に はほぼ言及しない。 思想家がなにに言及しようとしなかったのか、あるいは軽視したのかは、なにに 言及したのか、あるいは重視したのかに劣らず重要である。若きフェノロサの哲学 がどのようなものであったかを踏まえたうえで、次いでわれわれは円了自身の思想 をみることにしよう。

2.四聖

円了とカントとのかかわりのなかで最もよく知られているのはカントを四聖の一 人として選んだことであろう。周知のように円了は 1885(明治 18)年 10 月 27 日に 行われた第一回哲学祭においてインド哲学から釈迦、中国哲学から孔子、西洋古代 哲学からソクラテス、西洋近世哲学からカントを選んだ。そして 1904(明治 37)年、 哲学堂のうち最初に落成した四聖堂に四聖の名の額を収め、聖典としてソクラテス から『ソクラテス伝記』、カントから『純粋理性批判』を選んでいる。フェノロサ であればソクラテスを選ぶことはなかったであろう。ここで円了は自身の考え方か

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らソクラテスやカントを選んでいるわけである。 この選択の際の四聖観がわかれば自ずと円了のカント観の一半もわかるのである が、四聖についての言及は文脈によってアクセントに違いがあり、容易には整合的 に読み取れない。そうしたなかで、1913(大正 2)年に出版された『哲界一瞥』の 「哲学堂の由来」にある以下の説明は総論的な意味をもっている。 しかしてその[哲学堂を置く]目的は宗教的崇拝の意にあらずして、教育的、倫 理的、哲学的精神修養の意に外ならぬ。すなわちここに奉崇せる聖賢はその人物 人格、その性徳言行、いずれもわが輩の模範とし手本とすべき人なれば、時々こ れに接近して各自の修養をなさしむるためである。(『哲界一瞥』II:69) 哲学堂を置くのは「宗教的崇拝」のためではなく「教育的、倫理的、哲学的精神修 養」のためである。では四聖は、とりわけ四聖のなかでもカントは―円了は四聖 それぞれがすべての精神を兼ね備えているとは明言していないが―いかなる意味 で教育的精神をもち、倫理的精神をもち、哲学的精神をもち、そのゆえに修養の模 範となるのだろうか。円了の著作に散在する言葉から確認してみよう。 A.哲学的精神 円了が並べた順を逆にして、四聖がもつ哲学的精神から確認してみよう。哲学的 精神の説明は三つの精神のうち円了が最も分量を割くものであり、これを説明する 際にはさまざまな表現が使用される。それらの表現は別のことを表現しているわけ ではないが、やはりアクセントの位置が微妙に異なる。ここでは、(1)中庸、(2) 中興、(3)統一といった表現について順にみていこう。 (1)中庸者 1886(明治 19)年に出版された円了の最初の(哲学概論の前半部分としての)哲 学史的な著作である『哲学要領(前編)』では、次のようにいわれている。 リード氏の外にヒューム氏の説に反して一派の哲学を起こすものをカント氏とす。 氏はただに虚無論を排するのみならず、ロック氏の経練学[経験論]、ライプニッ

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ツ氏の元子論[単子論/モナドロジー]の不当を論じてその中庸を取り、別に一 種の原理を立つる者なり。その原理は人知の一半は経験よりきたり、一半は本来 存す[先天的/ア・プリオリである]というものこれなり。(『哲学要領(前編)』 I:140) 近世哲学におけるイギリス経験論が経験的な感性的原理に偏り、大陸合理論が先天 的な悟性的原理に偏っているとし、これに対しカントが両者の中庸をとったとされ ている。ここで円了は哲学について「哲学の組織は有機体の組織を有し、その発達 は三断法[正断、反断、合断]の規則に従う」(同 I:148)と考えている。したがっ てフェノロサと同様に哲学とは自ずと発展する哲学史であり、後続する哲学は先行 する哲学を織り込みながら進むと考えることになるわけであるが、その「合断」を 「中庸」と表現するのが西洋哲学と並んで東洋哲学を重視して「余が意、古今東西 の諸説諸論を合して哲理の中道を立てんとするにあ」(『哲学一夕話』I:48)るとす る円了の志向から生じていることはいうまでもない。「事物の一部分を実験するも の、これを理学と称し、事物の全体を論究するもの、これを哲学と称するものあり」 (同 I:34)とし、「純正哲学は哲学中の本部にして論理、心理等はこれに属するもの なり」(『哲学要領(前編)』I:89)とする円了からすれば、部分的な立場しかとれな い哲学というのは矛盾した概念なのである。この意味で、われわれは四聖がもつ哲 学的精神を〈純正哲学的精神〉であると考えてもよいであろう。 (2)中興者 「三断法」自体は時間的プロセスを意味する言葉でも善悪の価値判断を意味する 言葉でもない。中庸という言葉の意味もほぼ同様であろう 16。しかしそれを明確に 時間的プロセス(時系列)のなかに入れ込み、より劣った時間的位置からよりすぐ れた時間的位置への移行であることを強調する場合には、しばしば「中興」という 表現が使用される。最初の本格的な宗教哲学書として出版された『宗教哲学』をみ てみよう。 氏[カント]は近世哲学中興の祖と称せらるる人にして、自家独得の見をもって 従来の哲学を論破し、新たに一機軸を出だして確固たる基礎の上に一家の哲学を 組織したるものなり。もちろん氏が哲学の起因はその以前の諸説に基づきたるも

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のなれども、従来の哲学たるその基礎の鞏固ならざるがために、往々論点の動揺 を免れざりしかば、氏は更に堅牢なる基礎の上にその哲学を築きたり。(『宗教哲 学』VIII:446) 中興とは、特定の時間プロセスのなかでいったん衰えた物事を盛んにすることであ る。さきの『哲学要領(前編)』の箇所(I:140)と同様のことを指しながらも、こ こではカント哲学が、いったんは「基礎の鞏固ならざる」ものとなってしまった先 行の諸哲学を刷新して「堅牢なる基礎の上に」築かれた哲学となったことにアクセ ントが置かれている。 晩年の 1916(大正 5)年に出版された『哲窓茶話』での次の中興の使用例は興味 深い。 哲学者を選ぶには、あるいは古代にあってはアリストテレス氏をとり、あるいは 近世にあってはスペンサー氏をとるものもあるけれど、私は特に孔子、釈迦、ソ クラテス、カントの四聖を選ぶのである。四聖はいずれも哲学の中間に起こりて、 前歴史を統一し、また後歴史を開成したるものであるからして、中興の主とすべ きである。(『哲窓茶話』II:102) 講話のテーマは「東洋のカントは果たしてだれか」である。「東洋のソクラテス」 でもよさそうなものだが円了はそうはいわない。古代には古代の哲学の発展プロセ スがあってそこではソクラテス以前の古代哲学に対してソクラテスが中興者であり、 近世には近世の発展プロセスがあってそこではカント以前の近世哲学に対してカン トが中興者であるとするのは西洋哲学史における各論としてはそうなるわけである が、西洋哲学史全体を発展するものとする限り、西洋哲学史の総論としてはソクラ テスよりもカントの方がより進んだ段階となるからである。ここでも「しかしてギ リシア哲学前後、両世期の諸説異論を分合取捨して、一大新組織を哲学界に開くも のこれを近世哲学とす。ギリシアの三断論ここに至りて始めて大成を得たり」(『哲 学要領(前編)』I:127)という考え方が基礎としてある。 若きフェノロサがデカルトについて考えたのと同様に、晩年の円了からしてもカ ント哲学のなかにはソクラテス以前の哲学の停滞状況や、それを乗り越えたソクラ テスの哲学が織り込まれている。ここで円了は、西洋哲学史におけるカントの段階

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に相当する東洋哲学史における哲学者を求めて学生に話しかけているのである。こ こには円了がカントを西洋哲学者として重視する第一の理由が示されている。 (3)統一者 中庸にいたる際の能動性が強調されるときには「折衷」という表現が使用される 場合がある。能動性に加えて能動の結果が「一」であることにもアクセントが置か れるときには「統一(一統)」や「統合」という表現が使用される場合がある。『哲 窓茶話』の「文武の功は一のみ」での表現をみてみよう。 戦国騒乱のときにあたりて、有形上の軍事に力を尽くすのも、異説百端の中にお いて、無形上の文事に心を尽くすのも、その理その功は同一である。学問はその ものが、もとより無形であるといえども、その世間人事に関するの大なることは、 何人もすでに知るところである。さればかのナポレオンが有形の武略をもって欧 州の大陸を一統したるも、カントがその無形の学問をもって、近世哲学を一統し たるも、その功績は同じといわなければならぬ。故にナポレオンをもって一世の 豪傑となさば、カントもまた一世の豪傑となさざるを得ないのである。西洋哲学 は、カント以前にありては、あるいは唯物論を唱うるものがあるかと思えば、あ るいは唯心論を唱うるものがあり、あるいはまた虚無論を唱うるものがあり、ほ とんどその定まるところを知らなかったのであるが、カントはひとたび出でて、 四方の異説を排除し、これ統合分解して、その長短を斟酌折衷し、そして純然た る一個の批判哲学を大成したのである。(『哲窓茶話』II:108) ここでは中庸という結果にいたるまでの能動性とその結果としての「一」にアクセ ントが置かれ、カントが西洋近世哲学の統一者であることがナポレオンのヨーロッ パ統一に向けた動きに喩えられているのである。 さらにここには注意しておいてよいことがある。カントの哲学が「純然たる一個 の批判哲学」とされることである 17。「批判」に相当するドイツ語の“Kritik”は「切 る」「分ける」を意味するギリシア語に由来する。批判哲学は感性や悟性といった 人間の心的能力の過度の肯定的主張や否定的主張―その結果がカント以前の例え ばホッブスのような唯物論であり、バークリーのような唯心論であり、ヒュームの ような虚無論である―を切り分け、切り捨てて、人間の権利が及ぶ範囲と及ばな

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い範囲を区切る、区別しようとする。そしてこれによって権利づけられた一つの領 域を確保しようとする。したがって「純然たる一個の批判哲学」という言葉には、 人間能力の及ぶ領域を確保するためにはその前提として緻密な切り分け作業として の区分、分断、否定といった分析作業が必要であることが示唆されている。ナポレ オンのヨーロッパ統一の試みも、ヨーロッパ諸地域の緻密な分析、分断、対立とい った作業を含みながら目指されたものであった。こうした批判の意味を円了が理解 していたことは、続く文章からも明らかである。 これを例えてみれば、一個の果物があって、人々これについてその一部分一部分 を味わっておりしを、カントはたちまち鋭刀をもってこれを割き、もってその全 体の真味を味わったというようなわけであるから、これを近世哲学史上の一大功 績といわざるを得ないのである。(同) ここでは批判哲学の切り分け作業が「鋭刀」による作業とされているが、刀による 「解剖」と表現される場合もある。「したがってカ氏[カント]は心の本体を解剖 して、本体中に物象と心象との二つがあって、物の本体はまた別に心体以外に存在 しておると唱えた」(『仏教通観』V:132)。「解剖」という表現を使用した次の箇所は さらに重要である。 ここに東洋哲学の真相を述ぶるにさきだち、西洋哲学の長所短所を一言してみた い。すべて西洋学の長所は物質実験の方面にありて、その方面の研究は実に至れ り尽くせりである。……この学風が哲学に波及し、精神を解剖し、真理を分析し、 物質的研究の方法を哲学の上に応用したるは、西洋哲学の長所なるがごとくにし て、その実短所である。…… 更に顧みて東洋哲学を一瞥するに、哲学を精神の基礎の上におき、分析解剖の方 法を用いず、総合直観の大道により、単刀直入の門を哲学界に開きたるものであ る。西洋哲学は牛を割くに鶏刀を用うるがごとき観あるが、東洋哲学は牛を割く に牛刀を用うる風がある。余がかつて西洋哲学は分析的なるをもって、平地を跋 渉して実地を踏査するがごとき趣あり。東洋哲学は直観的なるをもって、山頂に 登りて大観を放つがごとき趣ありといいたるも、この点を示したのである。 ……かくするには近来西洋より輸入せる分析解剖的研究をひとたびわが哲学界よ

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り除去して、東洋哲学の本来の面目を開発すると同時に、今日の時勢に適合する 方法を案出するを要するはむろんである。(『奮闘哲学』II:226-229) 西洋哲学の長所であり短所でもあることが「分析解剖的研究」であることとされ、 東洋哲学の長所が大観をみようとする直観的研究であることとされる。もし西洋哲 学の特徴が分析解剖的研究であることなら、分析作業を特徴とするとされる「純然 たる一個の批判哲学」としてのカントの批判哲学が西洋哲学の理念であり雛形であ ることになる。ここには円了がカントを西洋哲学者として重視する第二の理由が示 唆されている。 B.倫理的精神 (1)高等なる精神 哲学的精神に続いて倫理的精神をみることにしよう。ソクラテスについては「孔 子の人倫を本とするはソクラテス氏の主義と似たり」(『哲学要領(前編)』I:98)と され、「ソクラテス氏は、主として人の知識思想を論究して始めて倫理学の基を開 く。故にその学、道徳をもって諸善行の基本とし」(同 I:118)たとされている。こ のように円了はソクラテスについて倫理思想がその哲学の核心部分だと度々述べる が、その倫理思想がどのようなものであるかは詳論しない。カントについても『哲 学要領(前編)』と『宗教哲学』において―特に後者において―その倫理学につ いて一定の説明をしているが、そこでも三批判書の概説の範囲からは出ない。むし ろ強調するのはカント哲学の核心が批判哲学であることである。批判哲学と倫理と の関係について、さらにみていこう。 四聖が「唯心主義者」であるとされる場合がある。『哲窓茶話』に収録された 「唯心主義をとるべし」と題されたものをみてみよう。 吾人が平素尊崇しているところの孔子、釈迦、ソクラテス、カントの四聖は、共 に唯心論者である。すなわち釈迦の大事業をなして、万世ののち、赫々たる光明 の下より、尊敬さるるゆえんは全くこの唯心の理を信じて、これを事業に努めし によることは疑いない。孔子も常にこの心を根基として、心正しければ身修まり、 身修まれば家斉う、家斉えば国治まり、国治まれば天下平らかなりとまでいって おる。ソクラテスの当時においては未だ唯物だの、唯心だのという説が判然と区

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別のないときであったが、氏が知すなわち徳なりといいし一言は、純然心を本と せしもの、すなわち唯心論者なることを知るに足る。カントは近世唯心論の祖で ある。イギリスにバークリーという人があって唯心論を唱えてはいるけれども、 極めて浅近なるものであれば、カントの高尚なる唯心論には、とても及ばないの である。その後にカントの論が十分にならずして、唯心論者のフィヒテが起こっ たけれど、畢寛はカントに呼び起こされたものである。…… 当今世人の多くは……ただ現在の一世のことのみを知り、わずかに目先における 肉体の快楽にのみ汲々として……世人がかかる唯物主義を信ずるに至りたるは、 ひとりその物の不幸のみならず、それが一国一社会に及ぼすところの不幸は、実 に大なるものがある。それ故に唯心論によって、精神中に別世界を形成し、外界 における肉体の痛苦と困難とのいかんに頓着せず、奮発興起して大功業を成さな くてはならぬ。(『哲窓茶話』II:159-161) ここでは二種類の唯心主義(唯心論)が区別されている。一つ目は、物体の存在を 一切認めない西洋哲学の学派としての「極めて浅近なる」唯心主義であり、この例 は近世哲学者のバークリーである。二つ目は、自らの精神を修養することによって 「外界における肉体の痛苦と困難とのいかんに頓着せず、奮発興起して大功業を成」 す唯心主義であり、これのみが高等なる精神によるものとされる。円了は四聖が二 つ目の意味での唯心主義者であり、ソクラテスは「知すなわち徳なり」で自身が唯 心主義者であることを表現したとし、カントの唯心主義は「高尚なる唯心論」であ るとしている。すでにわれわれは、哲学的精神では純正哲学的な精神が問われてい たことをみてきたが、この倫理的精神では〈倫理的な学問〉のみならず、〈実生活 上において緩やかな意味での倫理的価値を実現する心のあり方〉が問われていると 考えるべきであろう。実生活において外界の事物や身体のうえに実現される価値は 官能的な欲望の意味での快楽とはいえないにしても、一種の快であり幸福である。 「決して純正哲学を目して無用の長物となすことを得ず。なんとなれば、人の幸福 とは肉身五官の快楽のみを義とするにあらずして、精神道理上の快楽をもあわせ称 すればなり」(『純正哲学講義』I:230)。円了からすれば、哲学的な精神が純正哲学 的な精神である限り、そこから自ずと倫理的精神が生じるようなものなのである。 逆にいえば、そこから倫理的精神が生じないような精神は厳密には純正哲学的な精 神とはいわれない。

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円了が倫理(実践、道徳)の価値を重視することと倫理学(実践哲学、道徳哲学) を重視することはイコールでは結べない。この点は重要である。もし倫理的研究を していることや倫理学の著作があることが倫理的精神の持ち主であることの証左な ら、『ニコマコス倫理学』を書いて「中庸はすなわちアリストテレス氏の立つとこ ろの道なり」(『哲学要領(前編)』I:121)と円了が理解したアリストテレスや、『法 の哲学』を書いたヘーゲルが四聖に数えられていてもよかったであろう。円了にと ってソクラテスの生涯は純正哲学的であってかつ倫理的であり、カントの『純粋理 性批判』は自ずとカントのケーニヒスベルクでの倫理的な生き方を生じたものなの である。カントの倫理学は批判哲学であることによってはじめて倫理学である。円 了の考える倫理的精神がこのような意味であるなら、聖典として選ばれたカントの 著作が倫理学的著作としての『実践理性批判』ではなく、純正哲学的な批判哲学の 原理を確定した『純粋理性批判』であったことも理解できるのである18 (2)清浄無垢なる精神 さきに進む前に「高等なる精神」についてもう少し確認しておきたい。重ねてい えばこの精神が指すのは倫理的な学の内容だけではない。いつの頃からか自分を縛 り、汚してしまった外界の事物や自らの身体(の快楽)とは一定の距離を置いて鍛 錬修養するという、やや常識的ともいえるような倫理的価値としての純粋無垢とい ったことを含意している。円了は『哲学堂案内』の「四、四聖堂の内容」でいって いる。 四聖堂は四方正面の建築にして、中央に本尊を安置するも、其本尊は宗教的偶像 にあらずして哲学的理想である、抑も哲学の起点となり基礎となり骨目となるも のは、物と心との外にあるべき筈はない、依て先づ此二者を形に示すことに頗る 工夫を凝らし、心即ち精神は円形赤色透明にして、且つ光あるべきものならば、 球燈を中央に懸けることに定めた、其周辺にハートの形を顕はしたるは其為であ る、次に物即ち物質は其正反対なれば、方形黒色不透明と為し、而も心を汚すべ きものなれば、方形の香炉を燈下に置くことに極めた、其周辺にマツター及び物 の字を入れたるは其故である、我々の本心は清浄無垢なるも、我感覚が外界の物 質に誘起せられて、色々の欲情妄念を引き起す点は透明の球燈が香炉の煙により て曇らせらるゝに譬へ、一たび曇りたる球燈も時々拭ひ且つ琢けば、本来の透明

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を持続することを得る如く、我心が一たび物欲によりて穢されんとしても、間断 なく修養の功を積まば、決して其清浄性を失ふことなきに比したる意匠である 19 もともと「清浄無垢」な精神は「外界の物質に誘起せられて、色々の欲情妄念を引 き起」して曇らされることがあるが、それでも「間断なく修養の功を積」んで磨け ばもとの清浄さを取り戻せるとされている。 そうであるなら、われわれはここで円了のケーニヒスベルクでの七言絶句の起句 と承句を思い出してもよいだろう。「不出郷関八十春」はカントが「郷里の村を離 れず、八十年の歳月を送った」ということであり、「江湖遠処養天真」は前句を受 けて「都から遠く離れたところで生まれながらの、自然のままの純粋な性質を養っ た」ということであろう。カントが生きた 18 世紀のケーニヒスベルクは、カントが 『実用的見地における人間学』に記したようにプレーゲル川の河川交通のおかげも あって、そこに居ながらにしてさまざまな知識を得ることのできる東プロイセンの 一大都市であった。カントもそうした知識を用いてケーニヒスベルク大学で遠くア ジアや南アメリカにまで言及する「自然地理学」を講義することができた。しかし 一方で、ヨーロッパの一都市としてみればケーニヒスベルクはヨーロッパの中心か ら離れた、後進国とされたドイツのなかでも北東の外れにあった。そこはかつてソ クラテスが闊歩していたギリシアの中心地アテネから遠く離れ、神聖ローマ帝国の 境界外にあってポーランドやロシアに近い辺境の地であった。円了にとって往事の カントが暮らしたケーニヒスベルクは田舎町のイメージだったのであろう。そして カントがこの町で自らを啓蒙することによって養った純粋な性質が円了の望む高等 な情操でもあったのである。 カントの倫理は幼時に養われたピエティズム(敬虔主義)に由来するとされる。 それはいたずらな知識偏重を避け、純朴で善良であった両親や地域の人々の心情の 裏づけでもあった。七言絶句の起句と承句によって円了は、カントが都心から離れ たケーニヒスベルクの地で地域社会とかかわりながら高等なる精神を養ったという ことをいおうとしたと思われる。 C.教育的精神 最後に、円了が三つの精神のうち最初にあげていた教育的精神をみることにしよ

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う。教育ということが教育機関の教員として授業を担当して学生を教えたというこ となら、カントには当てはまるが、ソクラテスには当てはまらない。一方、学問や 思想、生き方を引き継ぐ学派や弟子をつくったということであれば、ソクラテスも カントも当てはまる。円了の意図は後者にあったと思われる。 今この四聖を比較してみると、はなはだ相似たるものがある。すなわち釈迦の門 派には達識ある馬鳴、竜樹があり、孔子の門派には、大賢孟子・曾子があって、 その孟子は竜樹に比すべく、曾子は馬鳴に比ぶべく、またソクラテスの門派には アリストテレス、プラトンがあり、近世カントの門派にはフィヒテ、へーゲルが あって、いずれも曾子、孟子、馬鳴、竜樹に比すべく、霊心敏腕なるものである。 吾人は右の四聖の祭祀を興し、この儀式を挙ぐるに当たり、これを記念として、 朝夕その情を抱き、この学を研究し、その一部一部を補いつつ、もって後の学者 を待たんとするのである。(『哲窓茶話』II:103) ソクラテスやカントに学問的な後継者があったことは度々言及されるが、アリスト テレスやヘーゲルについてはほとんど言及されない。円了にとって哲学的精神をも つことは四聖であることの十分な条件ではない。「知徳完備の人」(同 II:114)とい われるように、哲学的精神に倫理的精神と、おそらくさらに教育的精神をもつこと が加わってようやく四聖であることが認められる。このことは「真正の哲学は実に 国家を益し、社会を利し、人間世界に無常の幸福を与うるもの」(『純正哲学講義』 I:225)として「純正哲学といえども、もとより有用有益の学なり」(同 I:228)とし、 社会で哲学を応用しやすい職業として教育者と宗教者を考える円了からすれば当然 のことなのであろう。哲学的な精神はそれが純正哲学的な精神である限りそこから 自ずと倫理的精神が生じるはずのものであったが、そうした倫理的精神が実生活上 において実現されるような価値であれば、純正哲学者であって一人の社会人として 社会を利することができないというのは矛盾なのである。ここには、目立った弟子 をもたない―と円了が考えた―アリストテレスとヘーゲルでなく、ソクラテスと カントが四聖であることの理由が示されている。 会って直接に教えを受けたわけではなくても、その思想や、思想から生じる生き 方によって多くの人々に影響を与える人がいる。円了にとってもカントはそのよう な存在であった。ケーニヒスベルクでの円了にとってカントは一貫して「カント先

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生」であり、円了はカントの弟子であり学生であった。もう一度、冒頭に引用した 箇所をその直前の箇所とともに確認してみよう。 五月七日、早朝ベルリンを発し、午後七時、ドイツ北部の一大都会たるケーニヒ スベルク[カリーニングラード]に着し、ここに一泊す。当地は碩学カント先生 の郷里なり。翌八日午前、まず大学前の公園に至り、カント先生の銅像に拝詣し、 つぎに古物博物館をたずねて、先生の遺物を拝観す。その中には、先生在世中所 携の帽子、杖、手袋、懐中鏡等あり。いずれも質素のものにて、田舎の老爺の携 帯せるもののごとく見ゆ。大学内には八十歳前後の半身像ありと聞けども、校内 を参観する時間なかりき。午後、先生の墳墓に参拝す。墓所は市内なる大寺院 (昨今建築中)の本堂に接続せる小室の内にあり。その広さ、長さ三間、幅二間 くらいなり。室外に板塀ありて、みだりに入ることを得ず。その傍らに中学校あ り。これ、カント先生在世のとき教授せられし大学の跡に建設せるものなり。墳 墓はこの中学の管理に属すという。余のここに至るや、校内より校長らしき一紳 士の出ずるに会し、これに依頼したれば、氏はたちまち校僕を呼びて墓所へ案内 せしむ。室内の東方に墓標あり、西方に碑銘あり。この下に学界の一大偉人の永 眠せるを思えば、粛然として、おのずから敬慕の情禁じ難きを覚ゆ。左に所感の ままをつづる。 プレゲルの水にうつれる月までも純理批判のかげかとそ思ふ 不出郷関八十春、江湖遠処養天真、先生学徳共無比、我称泰西第一人。 (『西航日録』XXIII:213-214) カントの持物は質素であり「田舎の老爺の携帯せるもののごとく見」えたが、ケー ニヒスベルクの人々はいまもカントゆかりのものを守っていた。それは、前日に訪 れたヴィッテンベルクにおいて、ヴィッテンベルク大学の神学教授であったルター が宗教改革の際に教皇レオ 10 世からの勅書(大教勅)を焼き捨てたこと―「憤然 焼棄法王書」(同 XXIII:212)―を知って驚きつつも、いまは「余のほかに一人の参 拝者を見ざるは奇怪なり。また、ルターの銅像の周囲に、牛肉、野菜等の露店を設 け、実に殺風景を極む」(同 XXIII:213)と落胆したこととは大違いであった。ルタ ーがたどったこの轍を円了は踏むわけにはいかない。だとすれば円了にはなにが必 要になるのか。

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大寺院の本堂に接する小室にあったカントの墓はケーニヒスベルク大学の跡地に 建てられた中学校が管理しており、墓所を案内するように使いを送ったのはその校 長らしき人物であった。もしかすると、このとき円了は一学生として一足先に、カ ントだけが祭られる四聖堂に参ったのかもしれない。

むすびに代えて

四聖が備える三つの精神を手がかりとして、円了が「先生学徳共無比、我称泰西 第一人」としたことへの答えの一片を探してきた。われわれは、円了が理解するカ ント哲学と三つの精神の関係性のなかにそのような表現をとることの可能性をみた のである。三つの精神と各哲学者との関係をまとめると、以下のような表になる。 理学的 < 倫理的価値の実現 われわれは以上で問いへの一解答を提出したと考えるが、最後に付言しておきた いことがある。四聖として選ばれるには哲学的精神が重要であるにしても、それに 加えてなお倫理的精神と教育的精神が必要であったことを確認したが、それにして もやはりカントの墓前で目立っていたのはカントの教育的精神への円了の並々なら ぬ共感の強さである。周知のように円了はケーニヒスベルクを訪れる 4 ヶ月ほど前 哲学的精神 A 中庸者 B 中興者 C 統一者 倫理的精神 倫理学的 倫理的価値の実現 教育的精神 (※哲学館事件) ソクラテス ○ ○ ○ アリストテレス ○ △ 倫理学の著作はあり。 × カント ◎ B と C が強い。 ○ ○ ヘーゲル ○ △ 倫理学の著作はあり。 ×

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にロンドンで、哲学館の教員資格認可を取り消す通知が文部省からあった旨の報告 を受けている。「江湖遠処養天真」の「江湖」は「官」の対義語であって民間の意 味でもある。官に迎合するのではなく、民間にあって自己を啓蒙して人を育てた先 人はこのカントではなかったのか。ケーニヒスベルクにおける円了の漢詩の内容に は、哲学館事件の推移も無関係ではなかったように思えるのである。 注 1 本稿は、2019 年 9 月 6 日に東洋大学で開催された「井上円了没後 100 周年記念国際シ ンポジウム「国際的視野から見た円了哲学」」での発表原稿に最低限の補足と修正を加 えたものである。 2 円了選集からの引用にはローマ数字で『井上円了選集』全 25 巻、東洋大学、1987-2004 年の巻数を書名の後に示し、コロンを挟んで続くアラビア数字で頁数を示した。引用に おける〔 〕内は選集編集者による注記である。また、円了選集からの引用における [ ]内は引用者注、同じく……は引用者による中略を示す。 3 ここでの議論は拙論「日本における西洋哲学の初期受容―東京大学時代の清沢満之を 中心にして―」(『現代と親鸞』第 37 号、親鸞仏教センター、2018 年)と一部重複する。 資料等の詳細はそちらを参照されたい。円了の長岡時代と東京大学時代の詳細な軌跡に ついては三浦節夫『井上円了 日本近代の先駆者の生涯と思想』教育評論社、2016 年の 第一章と第二章を参照されたい。

4 『小修身論』は、Francis Wayland, The Elements of Moral Science, Cooke and Co., 1835 の縮

約版の翻訳である。

5 Sociology と Transition to Philosophy 部分には翻刻がある。秋山ひさ編『フェノロサの社

会学講義』神戸女学院大学研究所、1982 年である。 6 以下の 3 件の科学研究費研究とその成果である。 (1)2010~2012 年度 基盤研究(c)「日本における西洋哲学の初期受容―清沢満之の東 京大学時代未公開ノートの調査・分析―」(研究代表者:池上哲司)とその成果の『フ ェノロサ「哲学史」講義』、2013 年。これは清沢と、清沢と同級の選科生であった高嶺 の講義ノートに残されていた 1884(明治 17)年度のフェノロサの「哲学(史)」講義録 の翻刻・翻訳である。 (2) 2013~2015 年度 基盤研究(c)「日本における西洋哲学の初期受容―フェノロサの

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東大時代未公開講義録の翻刻・翻訳―」(研究代表者:村山保史)とその成果の『フェ ノロサ「哲学史」講義(続)』、2016 年。これは清沢と高嶺の講義ノートに残されていた 1884(明治 17)年度と 1885(明治 18)年度のフェノロサの「哲学(史)」講義録の翻 刻・翻訳である。 (3) 2018~2020 年度 基盤研究(c)「西洋哲学の初期受容とその展開―井上円了と清沢 満之の東大時代未公開ノートの公開―」(研究代表者:村山保史)。継続中のこの研究 では、1885(明治 18)年度のフェノロサの「哲学(史)」講義録の残る部分(フィヒテ からヘーゲル哲学)を清沢の講義ノートから翻刻・翻訳する作業と、1886(明治 19)年 度のブッセの「哲学」(内容は古代哲学史)講義録を翻刻・翻訳する作業が行われてい る。また円了の学生時代のノート群の翻刻作業と、円了が受講したと思われる 1882(明 治 15)年度と 1883(明治 16)年度のフェノロサの「哲学(史)」講義録の金井の講義ノ ートからの翻刻作業が進められている。以上の『フェノロサ「哲学史」講義』について 問い合わせがある場合は、筆者までお願いしたい。

7 William Wallace, The Logic of Hegel, OUP, 1873.

8 ここでの議論は上掲の拙論「日本における西洋哲学の初期受容―東京大学時代の清沢

満之を中心にして―」と一部重複する。

9 以下、注 6 で取り上げた『フェノロサ「哲学史」講義』からの引用には Fe に続いてそ

の頁数を示す。なお引用に際して一部訳文を改めた。

10 講義の参考書として度々あげられるスペンサーの The Principles of Sociology を参照。

11 フェノロサが 1878(明治 11)年に行った講演「宗教ノ原因及ビ沿革論」の聴講記(山 口靜一編『フェノロサ社会論集』思文閣出版、2000 年)を参照。ここではフェノロサは スペンサーの社会進化論の立場からキリスト教を批判している。 12 フェノロサ講義「哲学史―ヘーゲル論」(阪谷芳郎筆記)、日本ヘーゲル学会文献資 料委員会、山口誠一(解読・解説)・守津隆(解読・翻訳)『ヘーゲル哲学研究』第 15巻、 日本ヘーゲル学会編、2009 年、159 頁。なお引用に際して一部訳文を改めた。 13 哲学史をデカルトからはじめる講義形式は、フェノロサがハーバード大学時代に講義 を受け、自らの講義でもしばしば言及するボウエンの『近世哲学』(Francis Bowen,

Modern Philosophy, from Descartes to Schopenhauer and Hartmann, Scribner, Armstrong & Co.,

1877)を参考にしたと思われる(Fe 146 参照)。ただしそれ以前にそもそも能力的な問 題として、引用の最後で「古代哲学は理解するのが難しい」とフェノロサ自身がいうよ うに、哲学史の知識からしても、その語学的な能力からしても、フェノロサが古代哲学

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と中世哲学を詳論することは困難であったと思われる。

14 Albert Schwegler, Handbook of the History of Philosophy, tr. James Hutchison Stirling,

Edmonston & Douglas, 1867 や George Henry Lewes, The History of Philosophy from Thales to

Comte, Longmans, 1807 等である。 15 円了については、ライナ・シュルツァ「井上円了『稿録』の研究」(『井上円了センタ ー年報』Vol.19、2010 年)や、最新の研究成果である柴田隆行「井上円了の若き学習ノ ート」(『東洋大学社会学部紀要』第 57-1 号、2019年)等を参照されたい。清沢の自習の 詳細については、西尾浩二「明治前期の東京大学外国人哲学教師の資料調査―日本に おける西洋哲学の初期受容に関する調査・分析のために―」(『真宗総合研究所研究紀 要』第 29 号、2012 年)を参照されたい。 16 シンポジウムでの発表後、中庸という言葉の理解のためには円了の中国哲学古典につ いて見解を参照する必要がある旨の指摘を台湾大学の佐藤将之氏より受けた。しかし筆 者の能力不足から今回の原稿ではこのご指摘を生かせなかった。今後の課題としたい。 17円了がカントの批判哲学の精神を哲学の精神として読み取ったこと、それゆえ四聖の 一人としてカントを選んだことは、すでに柴田隆行氏によって、本稿より広い視点から 論じられている(「井上円了とカント、再考」『井上円了センター年報』Vol.20、2011 年)。 18 かつて福鎌忠恕氏は「円了におけるカントは、カントその人ではなく、十九世紀末葉 におけるイギリス新カント学派を介して捉えられたるカントである」とし、「この視点 〔実践哲学〕こそカントの真意であり、『純粋理性批判』はそれ自体価値を持つのでは なく、第二、第三批判の基礎としてのみ評価されるべき」とするこの学派の影響によっ て円了のカントもまた実践的であるとした(「円了における西洋哲学」、東洋大学井上円 了研究会第二部会、齋藤繁雄編著『井上円了と西洋思想』、1988 年、21-22 頁)。もし福 鎌氏の解釈が正しいなら円了はカントからの聖典としてそのまま『実践理性批判』を選 んだであろう。また氏が指摘するように 19世紀に哲学の基礎を学んだ円了がイギリス経 験論やスコットランド常識学派に目を配っていたことはそのとおりであるにしても、 「円了におけるカントは、カントその人ではなく」とまで極論するなら、『哲学要領』 における哲学者名の引用回数だけでなく、円了のカント哲学理解に含まれるスコットラ ンド常識学派の特徴を具体的に指摘すべきであった。円了のカント解釈は―若い学生 やそれほど哲学に詳しくない人に話しかけていることを念頭に置いているからであろう ―フェノロサ流の哲学史に類似する点があることを除けば、ほとんど特徴や偏りのな い論述になっている。

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19 井上円了口述『哲学堂案内』哲学堂事務所、1920 年、6-7 頁。なお引用に際して旧漢

字は引用者が適宜、新漢字に改めた。

※本研究は JSPS 科研費 JP18K00024 の助成を受けたものである。 (村山保史:大谷大学文学部教授)

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