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『宗教研究』新第4巻第4号(*36号)

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(1)

――目次―― 1,口絵,日親上人八灘所 2,宗教闘争の動機因由,姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.1-14. 3,隠れたる日本のメシア教,一尊教の教団生活とその信仰内容,石橋智信,Tomonobu ISHIBASHI,pp.15-29. 4,印度古典の医方について,泉芳璟,Hōkei IZUMI,pp.30-59. 5,古英神秘文学について,柳宗悦,Sōetsu RYŪ,pp.60-78. 6,大雲経寺と国分寺(下),矢吹慶輝,Keiki YABUKI,pp.79-97. 7,浮世絵における宗教的要素,禿氏祐祥,Yūshō TOKUSHI,pp.98-108. 8,本朝声明沿革史小観,大山公淳,Kōzyun ŌYAMA,pp.109-130.

9,宗教の起源と共生感,K.Beth, Religion und Magie, 2te. umgearbeitete Aufl. Leipzig, 1927,宇野円空,Enkū

UNO,pp.131-139.

10,旧約に現れたる犠牲,松井了穏,Ryōon MATSUI,pp.140-149.

11,近代生活に現はるる宗教味,祭典一般について,浜田本悠,Honyū HAMADA,pp.150-154.

12,新刊紹介,pp.155-166.

(2)

■■

(3)

日親上人八難所

日親上人は京都lニ於ける日蓮宗の名刹本法寺の開山でちつて、そり偉記号し て言祝上人徳行記﹄二審︵資永元年刊︶が世に行はれてゐる。上人11﹃立正 治関論bみ作り盛ん−こ妙法ね弘め主から他の人lこ績音され、その結集ミLて永 一 事十二年二月摘草足利義教の命令で速lこ欝ゆ取られた上、す欝l=籍†る刑罰な 加へtミ博へられてゐる。その中でも焼鍋を冠らぜ手、ミほ比頼光与や尊号し て廣く知られてゐる。行刑か見張れる二人ほ幕府の役人、附託め文句托次の通 りでぁる。︵一︶薪鍬を火lニLて博脇に挑主†斉り併。︵二︶御口わ開一き青む引輝 かん斉のてい。︵三︶芝な積み火ふ掛け学−がさんミ†るてい。︵四︶竹か境尖ら L検車斉の併。︵五︶様に嬉り附けロに水を湛ゆる斎。︵六︶加賀風呂へ押入れ湯 気な織らぜる黄。︵七︶大綱を火に、して頭に打かづけろ質。︵八︶大木l=括り附け 破竹にこて打揮斉の所。

(4)

4S9

妨 崎 正 治

中和.調和.自由.救ひ、票数の目標は大磯此等の棲語に壷してゐる、此理想は、又幾多ユート ビア取の基調となり.現賓の人生が紛寧、分恕.衝突、麿迫の事象に満ちてゐるに封して、人間の

憧れをそゝら、努力精進を刺激する、而かも幾多の宗教がその威化を侍へ、人心に安慰を輿へ、又

幾分でも﹁紳の中和﹂一で訝らしたに係らす、世の中は依然として衝突固辞に克つるのみぢらす、人

類の歴史は稚々の形に於ける宗教固辞の跡を侍へ、塙り票数的動機が他の世俗的動横と寝ひついて

戟零や紛乱に垂加したのみならす、宗教そのものが間謬を事とし、票数信仰の焉と耕する戦争が幾

多の惨鯛一で流した、我等は此等の革質に射してどう取やうか、中和を理想とする宗致が闘辞を事と

するは、つまり堕落で、票数の自殺に外ならすとも見られやう、叉此と花反射に邪を伏し正を樹て

る焉には戦囲も巳むを得ないのみならす、必然曹然の事だとして、所謂る折伏主義打数埋を組織す

ることも出水やう、然しこゝに此問題を提出して一面の解繹一ぞして見やうとするのは、此の如き攻

華又は群議の眉でなく,又普否正邪の判断を加へる秀でなく、宗致と戦闘との聯絡一ぞ人心活動の事 宗敢闘辞の動機因由

宗教固辞の動機因由

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490 象について探究して見る焉、宗教闘謬の動機と因由とがどこにあるかを求めて見る虜である、他方 宗教岡謬が融合的事賓として蚤勒する場合には、政治や経済などの動機がそれに加はつて複雑な現 象を呈し、此が歴史の上で中々重要事項であ♭、宗教の盛衰にも大開係があるが、此の如き政令的 方面は、此虞には別問題としておく。 但し、僻は少し事例を奉げて問題の性感を明にしてか1らう、日本係数の中で、最も中和の信仰 を高調したのは、恐らく親梵で、敢て主義として棟梯はしハ仏いでも、先づ無所有と無抵抗とを重義と した道心着であつた、然るにその流れたる門徒は、宗租の後二盲除年文明天文の問には、天下に類 なき戦闘的囲億となり、六字の名境を庶じるしに、改悔文を出陣の合唱にして、他の宗門と戦った のみならす、封建的戦争を事とし汀、此の場合に、此の如き戦闘精神が親鸞の人格又はその信仰教義 に因由するかと尋ぬて見ると、それを螢見することは困難で、その凍由は連如の人格と︵又恐らく はそれ以上に︶曹時の赴曾状態が重きをなす、即ち一向門徒の戦闘気風は、その信仰それ自身の結 果といふよりも、その歴史と周囲の事情に因ると見るペきである、但し、一向一揆の結末が石山本 腰寺の龍城に爆馨し、その和議問題が一門の血牽湧かした遺侍は今も伺ほ本願寺︵特に東本願寺︶に 侍はつて、戦闘気分が門徒の中に諌ふてゐる一事は、燭♭赴食気風のみぢらす、宗教信仰の上にも 重大の関係がある、然し此一件の歴史的敢曾的事情因縁といふ問題は、今は立入ら氾こととし、戦 宗教闘霹¢断機田由 ∵

(6)

491 闘的宗教の一例として之を述べる。 .序論は此だけにして、研究の順序としては先つ具健的の事例について鯨納すべきであるが、叙述 の便宜上、その結果として奉げるべき見地を述べる。 宗教の敢曾的機能は、多くは散骨致囲の組織がぁつて、それが統合的目的を以て敢曾的に生存し 行動するにあ♭、而して宗教脚評の現象は、主として此の敢曾的行動の一面であ♭結果である、然 るに数園の組織はその根抵に於て個人の信仰に費探し、信者の抱く観念や、気風、行動が数囲の歴 史、追噂理想と、互に国と打了り果となる、太古の乗組織の宗教、又は特異な払燭行者の宗教は、 暫く別として、今日世に働いてゐる宗教は、その歴史や気風の囲憶的基本があると共に、その開租 やま尊者の性格経由等から戚化を受けることが多い、歴史邁倍と人格的威化とは敦囲を支配する重 大勢力で、数囲の現在活動は、此等の勢力が教徒を戚化し、而してその戚化が現代の周囲事情に反 應し、又丼凍の理想に開聯して動く活動に外ならぬ。 先づ此の人格的威化とその結果た各個人の信仰から見て、固辞の勒梯は、宗教的奮闘の経験を第 一の囚由とする。即ち開剋又ま尊者がその宗教的一生に於て自らの罪悪煽情と闘ひ、世間の窓と載 ったその経験が信徒を戚化し、信徒自らも多くは之に似通った戦闘の経験を経るに従ひ、此の経験 を出費鮎にして他と戟ふのを宗徒たるの義琴信仰の本義だとするに至る、罪悪の調伏は内の戦ひ、 宗教■■¢脚嶋田由 ∵ ∵

(7)

492 世間悪の封治は外に射する哉ひであるが、此のl一面にはいつでも聯絡の絶つべからぎるものがあり、

内に自ら戦ふと同じ態度で外と哉ひ、内外共に一聯の采として之に射する封治を行ふ、宗教の種類

と人格の天性とに應じて罪素敵の強くないのもぁつて、例へば細道の如きは罪悪覿が微弱でゐ♭、

神道家の多くは︵異住宗忠の如き︶自らの戟に関する経酔い少いから、その種の宗教には信仰として

の戦闘的線度が少い、然し大憶に於て宗教の進歩は罪悪貌の深刻一で件ひ、信仰の熱烈は殆ど必然に罪

悪の白壁を促す、此の白魔は罪悪に封する哉ひとして自己折伏の修行にわ†り、此の修行が場合によ

っては酷烈の苦行にもなる、その賓例は宗教史の中に充満し、偽陀の六年苦行.キリストの四十日 に亘る荒野の断食から、小にしては文登や〝ルpの突然の螢心苦行の如き、一々奉げるに暇ない。

さて此の如き自己折伏の戦闘は、弘く云へば人間天性の根本易粘に封する征伏であり、又各箇人

特別の罪悪戚に封する煩悶苦岡である故、内に射する戦である、然るに人間は自己内心の心象捏アワ

威情を外に投影する傾向を有し、内心煩悶の房申ぞ客観的に恵歴と見ることがあり、特に信仰や神

話の■侍統がそれを助ける場合には、悪魔が如何にも具債的の形状や性能を具へて、人間を陥れ、檎に

し、又は攻め凍るといふ感じ■で生する、此に於て心内の戦闘は外敵に対する哉聞となる、而して此

の如き外部投影は戦闘的熱情一軍昂めるこ4が多く、単にま観的戦闘だといふ威じょりも、一層的確

に外部に仇敵を目ざしての戦になる、王陽明が﹁山中の賊を破るは易く、心中の勝一曾破るは難し﹂と

宗教闇#の動機凶由 四

(8)

4日3 云ってゐるのは碓に一申い異仰望ごはあるが、心中の賊を単に心中の革ま観−り輩と見す、それに宇宙 的悪童を見︵陽明の﹁心﹂にも宇宙的言童がある︶、従って心の窓を征般するのを単に個人ま駁の間組 ′lヮL と見す、その征服は如ち宇宙の窓を征服寸る所以だといふ影土而的軌念又は信念が加はる、此の信 念が抽象の形而上取だけでへい了、、勅許的に具髄の志茂となつて乗れば、戦闘も亦具髄的の意暁を濃 厚にする、倍陀に封する蔚魔波句 キリストに封するサタンは︰ソpアスクーの見た魔王アーブ† ソとHじく、宇宙的意義のみろ紳詐取念で、それに封する戦闘は、それだけ的確の敵一で目ぎし、そ れだけ弘く深い意妹があト′、又それだけ深刻熱烈になろ。 此の如き征服昭閉の経験は、宗剋や主導者の人格的拝駿として、宗徒を感化し、又その征股の合 菩する宇尉望思量は数理として二宗信仰の基になる、数理は二間信仰の内容を鹿田するが、それと 共に二ポ組織の銃刑工於て法持の役自一で勤めるから、そのたは次に数理の事を諭する場合に譲わ、 班長にはその聯絡のあるをホすに留9ら、人格的威化と数理とは合して二宗の侍統となら気風を作 卜流し、宗徒はその気風一り中に信仰一で凍り人格を鍛へ∵且つ多くの人にとつては同棲の煩悶奮闘を 自らに・与持瞼′して、倍故に婁書し気風を常長する、此も亦宗教史上に賓例の多い事で、正統魚信の キリスト教着の中にほ、宗励のサタン征服の跡を追ひ、自らもサタンと哉ふ熱心に充たされ︵その 間には又サタンに射する畏怖の心も加はhノ︶、特にその東風が中世紀の倍院に多かったは、史上顕著 宗釈闘押の勧如由由 五

(9)

494 妻t︳の愴■オ由

の事でぁる、日蓮宗に於ける折伏の侍統は−外敵に対する方面が多く、それは事ろ数理問題に属す

るが、宗租の多難な一生といふ模本がその威化と二宗の戦闘的気風を養ったのである。

苺穂額偶に射すろ戦闘は、此の如き感化カの源泉になるが、それが心中の故に止まらす.或は忍

魔として投影せられて客観的になり、又は宇宙的意義ぁる質在勢力と見られる様になれば、その心

持と信仰とは.ぁらゆる外敵と戦ふ精細になゎ、その給果進むで外敵を求めて挑戦する事になる、日

蓮上人の人格的繹勝とその二宗の折伏気風とは、質に進むで挑戦し、又その点王こ好むで迫撃で忽受

する一面を宿し、外敵を時の政府執樟にも又他宗悌致の付侶にも求め、且つ又此等の外敵と戦ふの

も、人間自らの忍徳と戦ふのも、同じく元品の無明︵根本慈︶を自他一切の衆生に挑馨して、之を征服

する折伏の戦になる、此の折伏重義は又同時に迫専私費の精神であ♭、殉教殉難の魂となつた、キ

,スト故に於てり迫害忍受にも.又異端征伐︵此は後に再び諭する︶にも、サタンと哉ふといふ辛が

その日棲となつてゐた事も、一々細説するまでもない位でるる、致徒を迫書したネロ帝やその他の

迫害者がサタンの現れアンチキリストだと見られ、又諸の異鵡には皆サクソがついてゐると見て、

貞に払受殉難又はその反対に異端征伐に、何れも異常のカを螢拝し.戦闘的態度を養成したのは賓

に常識には不思議な佗の熱情のこもつた現象であつた、受難の熱情と征伐の熱心とは相互に激賛す

るが常であるが、それは別に追啓の研究に譲り、兎に角此の如き熱情が悪魔といふ観念と結び付く

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4鈍 のも、治局その心現的枚抵は、宗敦家白身の内心に焚ける苦悶の経鴇にあるので.信仰の甲胃を纏

ふとか、慈悲の利釦を帝するといふ様な戦闘的形容が信仰経験の表明として多いのも此に因由する。

内心の経験から進むで組績ある数理の勢力々見れば、亨−にも問辞征戦の困由が備はる、一偉人 間精鋼の活計で−成臆は沫動的でぁゎ鼻樽窮hエはい方面が多いが、之に反して概念は心象の結晶と して同定し堆穣する傾向が多い、而して教理七は畢葦.内心経論の概念表明ド外ならす、先に悪魔

についで過ペた内心経桧の宇宙的意義といふ革も、個人の経瞼が形而上的に根抵を有し宇宙的聯絡

あるといふ串を概念的に︵即ち一般に通する凄に︶言ひ表はしたもの、その反対の耐性彿性について も同じ軌寮を施し得る、さて数理の性質を此の方向から見て︵他の方面の観察もあり得るが、今は 問題外とする︶、そこに岡ほ二つの方面を分別し得る、即ち概念的表明の焉に時代時代の思想、哲畢 や科串と結びつく事が一つ.〓室数信仰の概括的表明として数合流凋の役目を勤めるがその二、此

の南方共に、内外に劃する宗教間辞の因由動機を具へる、哲畢や科畢に結汎ついても、その批評的

精神の方面でなくて、正否を定めうとする定詭宗養の唐度で之を利用するのであり、所謂る紳串の

奴♯として哲学を用ひるのであるから,論理ま義の正否判定になる、そこで正を樹てる焉には邪を

伏すろといふ態度が数理確立由一要素となゎ、此に先に述べた内心の経給も加はり∵破邪顕正とい

ふ凍じるしか出水る、此の放じるしは即ち一宗統制の制裁カであつて、教理宗義に法療的要素が加

♯敢闘︳の主因由 七

(11)

496 入 宗教餅浄の動機因由 はる因由もこゝにある︵法枠本位の宗敷から凍た遣侍も勿論之に参加して︶、即ち破邪顕正の征戦は、 数理を矛として、外故に草しても行はれろが︵此は一々叙するまでもなからう︶.又致内統制の焉に は二宗内の異端征伐に適用されるのは自然の勢である。 異端征伐の事跡を尋ねて見るに、その動機は一様でなく、因縁事情も多くは複斑である、即ち致 養魚凰の相違、階級の別、私情の軍 制害の衝突ハ与ど世俗的動機が多少とも畠加しへ八一いものはない が、而かもその動緩や事情の如何に開せす、軍鮎は数理の寄に集中して論議を闘はせ、正邪の別を 軍ひ、極めて些細ぢ様な諭鮎すら.それが軍鮎になれば、数理上の重要事として取扱はれる、異端 征伐が数理鞠明一どその手績の一要素とするは此の馬であつて、それから進むで贅嘩 迫害、破門、 征戦、剃滅等色々騎辞の方法を執って、歴史上の大事件をも惹起す、勿論数理の統制が必す常に此 の結末に到るといふのではないが、正統と異端との衝突が此虞に至るには、数理の正邪といふ問題 が有力なる一要素となるを常とする、而して零鮎の表はれとしては一二語の零ひでぁつても、その 聯終には数理全髄に亘る外、素養や傾向の蓮ひやその他の動機も加はる、キリスト教の初三百年問 等鮎になつた FOmgu訂ip の季ひの如きiの一字があるとないとの相違ではぁるが、それにあらゆ ろ動機が加はり、政治問題にも結び付き、結果に於ては異端者の追放にも及び、結局は正統教義の 確定となり、それから以後一千除の歴史を支配すべき大事件であつた、又東数台と函数皆の分裂に

(12)

41打 なつてゐる崇○呂eの寄の如きも、此一語の有無が翠鮎で、その結果の及ぶ所今日に及むでゐる、 但しその密接には種々の勢力が参加し.哲畢諭と共に人種威情や文化の相違が加はつてゐる。偶数 の浄土門に於ける信行相関の卒論の如きも同棲で、大京振の分裂と臼果和助け、その上威情や利害 の衝突が加はつてゐる。数理の整理は思想統一、正法久住を目的とするが、それが又同時に分裂の 田となゎ、固辞の具になり、悲惨な異端征伐や政治的陰謀にすら走る、宗教のパラドクスであるが、 此亦人生に含まれる必然なる一柁の悲劇である。 此外、固辞の田由としての数理問題には、戦闘をま或とし折破を数理とする宗教︵.ヘルシヤ敢、 同数、日蓮宗の如・き︶の革もあ♭、又票数と科挙との衝突といふ問題もあるが、後者は時代を異に した科挙誼が宗歓の宗棄とへ.アノて踪失す・︹造り合が多い。 教理と共に敢匪の統制に替る大野刀㍑位薦綴式でぁる、儀祀は要す一〇に内心信仰が外形に表れた ものでぁるが、此の外形表現が又内心緯唸一ぞ刺激し養成する串も周知の事賓、今一々叙説しない、 こヽに必要とする餌は、儀超が一教団の侍統となるには、その宗教の根本信仰から出て、而かむそ の歴史回線事情に應して一定の形一で取るに至るといふ事にある、既に固定した榛準があ♭、それが 統制のカになり又習慣統侍にぢる、それに違背するものは邪と見られるか、又邪でなくとも鼻だと 見られる。特に儀経じ形式は教理概念と違って、直に耳目に訴へ、動作に表はれて、その異同は些 宗教闘絆の動機田由 九

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498 宗教︻陣の敵機困由 一〇 未の鮎でも人の直璧に止る、香を焚かない宗教の人が焼香の香のある殿堂に入ると建ぢ寛がする、 器奨を用ひない数曾の老が器欒のある儀式に接すると異様に威する、三本の指で胸に十字架を書く に、右から始めると左から始めるとは、外間者には何の問題にもならないが、その左右を法則とし て定めた散骨にとつては正邪の別、又は有効無効の問題になる、その他斬りの言葉、経文の讃方、 説教の話しぶり、常各停統があつて、自他の臨別を立て、その間に嘗否又は正邪の判別がつく、法 界といふ字をホツカイと読むかホブタイと凄むか、教組の名をキリストといふか♪リストスと撃管 するか、此等些事と思へる事が宗派分裂のしるしとして、又軍の種になる、その他服装、動作、装 飾、建築、神像、記恍、菅各々同棲で、それ等が絶て宗派別をぢし、風俗、起居勒作の差は別稚の 人間だといふ戚じを養ふ。 此の如き外形上の差別は何でもないと云はゞそれまでであるが、宗派の立場からは中々そう片肘 けられや,一宗教の中での宗派分裂が、此等の差典に促され、又それを埼長して、可なり深い威惜 の衝突を凍し.それと数理問題その他の連ひが結びついて.一団一致の中にも激烈な零を起した事 は多く、而して闘詩の場合にはそれ等の外形を日に見える放じるしとして戟間気分を故吹する、十 字軍の場合の十字架と半月旗との戦ひや、一向門徒と法華宗の戟に六字名放と七字の題目とが旗じ るしとなった如き.嘗その適例である、紳傭分離、暦彿菓澤の場合に、細道家が葬式のやり方にカ

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499 こぶを入れ、救世軍の太故が他のキリスト教徒の怒を激した如き、奉げて凍れば限がない。 儀殖外形の邁ひは、一票数が人穐風俗を異にする外囲に侍遺する場合に、一層著しい差連となり、 間許の原因一で作る、此場合には偶成としての差逮と人種威情や文化の相違などが互にこんがらかつ て時には激烈昼軍を起す、従って又宗教に関係のない婆まで、軍の巾に引き込まれて聞評を汲賛し 増進する、︵その反射に好奇心から典俗を歓迎する場合もぁるが、それは別問題とする︶、天ま敦の日 本侍道に際しては、寺で用ひた鏡が嫌疑の種になり、教師が牛肉一ぜ食ふ事が排斥の一国になつた如 き、日本でも支那でも、倍侶の禿頭が反対者の憎悪又は軽蔑を招いた如き、印度でも、西数量教師 の牛肉食が同棲に、但し一層激しく反射を招いて、政治問題と結びついた如き、此亦事例は一々畢 げる追のない位である、兎に角、儀式の外形、些未の整にすら分裂固辞め由由があり、その為に惨 嘗に生する事は少くない、三ホ統制の用一ピなす犠式が、此の如き分裂間藤の動機にも結果にもなる、 此亦一つのパラドクスである。 数理と偶式とを統制のカとし、その他の制度と粕合して散骨の組織が出琴組織の中心は通常一 定の教権と汀†り、信仰の内容と生活の棟準を示して、服後を要求する、教権の確立した宗教が他の 宗教又は宗派に封して、それだけ強く排斥折伏の鰻皮に出るのは、必然の勢で、衝突の因由はこゝ にもあるが、此の封外的の方面は今略して、封内的に政権組織から出る闘評を観察して見たい、敬 宗教内陣の勧旬日由

(15)

500 宗教闘繹の散れ田由 ︼二 稽の確立は必然に異鹿征伐を惹起す、此鮎は先に数理の項に述べておいたのに轟きるが、此には特 に教職の教権を尊重する焉に生じた異端征伐の例を出す、ロマ軟骨では法王が前の代理で、その任 命を受けた教職者は教職者たるの所以を以て前垂と見られ、其の執行する儀式には紳秘的に救のカ があるとする、それで教職にある宕はその個人的資格や品行を離れて.その職務を加重の事として 行ひ、信者は之を尊重奉行する義務がある、そこで洗頑、婚姻から告解︵懐悔︶.臨終等の秘蹟授輿 に関して、之を行ふ教職が如何なる人物であらうとも有効だといふことになる、然るに少しでも疑 を起す信者の立場からすれば、如何に秘蹟でも又架蔵でも、局に雷る人が見す/\つまらない人間 乃至悪徳の人間でぁれば、その人のお世話になつて救ひを得たくない、又得ることが疑はしくなる、 そこで﹁汚れたL敢職かもは和琴好授かrら臣いkr転勤が起った、其に封して散骨は、此の如きは 教職を蔑成するもの、歓職の新堂を侮辱するものだとして、此の詑を異端として、之を迫著した、 此が有名なアルピゼンス串僻であるが.それには教権思想と道徳的常識との衝突が明かに現れ、衝 突は段々に深刻に迫害と封抗となり、信仰靭悶、異端征伐の悸碗を百年以上も節けた、此のどちら の言分が正しいかといふ事は見方によつてどちらにも見られ、又その間の事情を精査すると、撃方 共に引くに引けないま張があつたのであるが、兎に角、教権思想から出た異端征伐の重大事例であ 一〇〇

(16)

与J アルピゼソス事件に似た隅謬は何れの宗致にも多くの貰例を費見し得るが、印度で婆薙門族がそ の血統の紳垂といふ寧で根城にして要職を司ったに封しで、傭敢が徳なき者は聖職にあらすとした のは、婆羅門から見れば異論でぁる、此等の事例はこれだけにして、次にはもつ上世俗的動機の加 はつた数摺閑静・ぜ観察する、数稽思想は必然に致階組織を生する、即ち致棺把住の高下を定め、上 長の命令・軍閥空とし、軍隊に見る如き上下の順序と、その間に於ける命令と服従の関係を定める、 此の組織の中には又信仰問題以外に樗力学ひが倖ひ、それが私情利害ともつれ合ひ.政権軍奪と同 し様な軍になる、此はロ†数骨に多く出た現象で一々賓例を寒げないが、法王の樺カが親族関係と 結びつき、日本の天ま数樽造にも、偽造者囲鰻間の零ひが法王の命令権に関する季と一緒になつて 現はれてゐる、此の闇諸に家族関係の加はつたのが東西木南寺の分裂、稽力渾の恒駒主瀧滴れた勿 が山行甚叙︶と寺︵≡井︶1Jの軍、而して此等ゆ背旗車厄紅顔問題も加はるが多い.又鐙済利嘩の事は 封建時代の領地関係にも結び付く、此等も宗教信仰又は致骨致稽の名目一で表面に立てての辱であつ て、やはり宗敢闘諦の二川である。 中和・で目的の宗教が闘軍に徒事すをは予盾の楼だが、此等の動機囚申で税務して、その一々の事 情.斐方の主張呼野で吟味して見ると、人僧り自然巳むを待ない詣もやり︵それが人情の窮鮎であ る革も勿論多い︶、又宗政信仰執藤山赴く所、一々に非難のみの出盛七い串もある、倍此等の鮎を致 宗敢闘辞の動機面由

(17)

宗教軌跡の動機因由 一四 硯 職といふ階級の心琴信者としての信念の立場、時代の風潮、赴骨組織との聯紡−文化潮洗の交叉 捜閻、文化の変遷など色々併せ考ふべき事情は甚だ多く極めて竣詳である、此等の鮎は右に述べた 事例にも時々細れておいたが、今は暗示に止めて、今J∼にはその囚由りまなるものを列馨し駁察 するに止める。

(18)

603 中保老としての死である。受難のメシアdcニeidendeE乳芸としての死である。 畷れtろ日本のメシア教

石 橋 智 信

今を亨匂約盲年、文政九年︵−00運五月二日、尾州熱田の片田舎、新川の佗住居で、氏もなき一 老女﹁きの﹂は、此世を果てんとした時r ﹁あゝじゆつない。ころいてお呉れの。どうせるでやよくどうぞしておくれの。さうでやさ 、、、、、、、、、1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 ヽ 1 1 1 1 1 ヽ ヽ 1 ヽ ヽ ぅでや、みんなの苦しみをおれ山人して引誇るのでや。さうでや′1。みんなの代りを己一人 、、、、、、1 1 1、、1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 ヽ ヽ 1 1 1 ヽ ヽ 1 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ してせ るのでや。我身一分ならこんなくるしみはないが、みんなの苦みぉおれ一人で苦しむの ヽヽヽヽヽヽヽヽ でや。さうでやく。娘が多ふござうますで罪が多ふござります。こちらにも居ぅます/\お 滅し下されましよくく∼−﹂ と叫びつゝことぎれたのであつた。不思議にも近似したメシアの姿ではないか。確かに、購非主、

隠れたる日本りメシア敦

−一食敦の敦囲生活とその信仰内容 −

一五

(19)

504 覆れ上ろ日本のメシア軟 一六 恰も、頗罪の救世主、ノンヤを以て白魔したイエスが、没後、子写Q碑クリスト主崇められて、 そこにそのメシア︵=クリスト︶・ピ拝み斬るクリスト数︵=メシア致︶が出来上って居るやうに、 此にも亦、購罪ま.安雄のメシアとして世を果てた﹁きの﹂女、別名、瑠姶が、今は﹁溜姪如殊﹂ に崇められ、拝まれ、祈られて、現在、我国に隠れたるメシア致が行はる∼に至って居るのである。 賓に、不思議な酷似である。而も、それが、勿論のこと、何等.基数の影響亨フけす、純粋に和製、 国産であるのが一層、宗教の比較研究上の興味を唆る。よつて、此に、その宗教の大健哲紹介した いと考へる。先.つ ︵上︶この票数の外面生活を叙述し、次ぎに︵下︶この宗致の内面思想・・信仰の 内容としてしらべ得たところを纏めて論述したいと考へる。

上 教 圏 生 活

世間には、全然、障れて知られない宗教である。然し.この宗教が有する数曾︵﹁末庵﹂︶は六十二 箇所もあるらしい。而も、北は北海道から西は、四国に至るまで全国的に演がつて居る。信徒の数 は巳に教萬に及んで居ると云ふ。而して借侶の教は総計.約二百。現在、熱田の本山︵﹁御本元﹂︶に 居るものだけでも六十名ぁる。 この宗教には名がぢい。最琴卜亨っまで名々っけようと云ふ考へもなかった一事程その凡てが原

(20)

805 始、素朴である。生えたま∼な弓衰e︼1身な委である。最近︵本年正月︶思ひついて﹁如乗数﹂と 云ふ名をつけた︵が、然し、名・ぞつけるなら、或は﹁一食数﹂とでも云った方が、より適切ではな かったかと思ふ。﹁一食﹂と云ふのは歌風﹁きの﹂女の又の名である。在世中この名一ぎ以て教組l=宛て

られた手紙さへ現存する。モハメッドのモハメッド敢、日蓮の日蓮宗、クリストのクリス一致と云

ふやうに、一食の一食致とよぶ方が更に一般的であつたかとも思ふ︶ 教組﹁きの﹂女は賓暦六年︵−謡の︶尾張熱田に農夫、長四郎の三女として生れ、夙く父母兄弟に 死別し.八歳の時より伯父の下に育てられ、十三歳の時−丁り下碑奉公に入り、二十三歳の時、隣村 の一農夫︵庄次郎なるもの︶に嫁いだ。然し、夫の不身持よりして幾何もなく其家を出で、後ちは 再び奉公の身となゎ、四十歳にして、初めて郷里︵熱田鹿屋町︶に庚♭、一家を成して農作を事と

した。かくすること七年、即ち﹁きの﹂女が四十七歳の夏、特別なる婁戚を待たりとし、起って道

を説くに至ったのであつた。爾壊、道を説くこ主‡五年。後ちには多くの締依者のうち、尾州藩

士のものも粕督、多数を占めた壊し思はれる。かくて、文政九年︵−00g︶五月二日、熱田在新川の 一 陽居所に他界したのであつた。そのさ∼やかなる障居所は、今に、なは、この致臥によつて保存さ

れて迫って居る。また、その致剋の生誕の地であり、本務の郷土であつた熱田鹿屋町には現在、こ

の致園の本山︵所謂﹁御本元﹂︶が設けられて、この敦囲の中心地をなして居る。 はれれろ日本のメシア軟

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如6

喋れたる日本のメシア敦

一入

教祖没後の教囲は、敦剋の養女によつて先づ蟄は弟、次ぎに日行、一夢、大拙とつぎつがれて現

在の長老に及んで居る。

一喝この数囲の教職には階寂差等が無い。職制なぞは未だ思ひつかれて居らぬ。たゞ、最年長

者二人を﹁おしさま﹂とか﹁老師﹂とかよんで居って︵その一人が全数囲代表の長老︶他は一様に

﹁徒弟﹂と云はれて居るだけである。徒弟の順位は、ただ単純に、然し、最格に入信の順次によつて

居る。徒弟と老師とのほか、本山並びに末庵のそれぞれに﹁庵主﹂と云ふのが置かれて居る。これ

は、特に、数剋の婁に仕へる﹁教戒の御守役﹂と云ふことに定められて居る。教組が女であつただ

けに庵まも月伶がつとめることになつて居j。 長考庵主の選定等凡て数囲の大事は所調﹁御閲﹂をひいて定めることにされて居る。︵教戒、イ

三の没後、生れたばかりのクリスト数が、例の使徒ユダの後任を選ぶ場合・闊をひいてこれを定

めたと云ふ使徒行博一ノー五−二六を聯想する。蓋し、宗教螢生期に於ける雷i註賢の一致でも あらうか︶

教職がかく中等無階放であることは、最も明らかに服装の上に表はれて居る。長老でも、庵圭で

ヽヽヽヽ

も、でも、

やうに組のついたもの︶を着けて居る。法衣は、無論一斉に本山が支給する。 丁■

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507

その更衣も簡単に本山に於ていとなまれる。と云ふのは、一喝この数囲では年二同、

に本山に於て夫々七日間の修養のための集り︵﹁琉心﹂と云ふの︶が催される。全国の徒弟全部が信

徒と共に本山に集る。集るもの毎同、千人から千二、三富人であると云ふ。その際、徒弟は自分の

着て行った冬着を夏着に、夏着を冬着に、時季に應じて着吏へさせてもらつて締るのである。つま

り、この時期までに、本山に於て、奮き衣が、男借によつて洗はれ.月館によつて縫はれて備へら

れてめるわけなのである。

高車に自給自足の簡易生活が、敦園内での徒弟の生活である。徒弟は賓によく働く。如来接の御

用をつとめるのだと云って喜んで働いて居る。殿堂や庭の掃除は云ふに及ばず、不浄厨の掃除まで

平気で行って居る。水汲もやれば、洗濯もやる。御勝手元の料理番と縫ひものとは尼何がやると云

ふやうになつて居る。而も、全国二百の徒弟の殆ど一人のこらすが・−主に、家庭事情なぞからし てー自ら費心、出家した者だと細く。︵現に.金の知る一徒弟も、昨年までは某銀行の支店長を勤 めて居った相皆の年輩のひとであ.るが、家庭事情に憾みぬい.た揚句昨年出家して、この歌鳳に入 ♭、今はやはり一切の掃除や水汲なぞを手樽ったりして居る︶

かうした簡素な生活は居住の上にもよくうかいはれる。岬インベラ三枚あれば我々の居住は足トる

とは.この数社が常にロにするところである。確かに、それは彼等の理想であるらしい。然し−こ kれ余る日本¢メシア敷

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808

二〇

覆れ上る日本のメシア敬 の理想を賓現したものは、先年物故した前きの長老、大拙その人だけかも知れない。長老、大拙 一 は先きに礎宗で鍛はれ、後ちこの数へに改宗して、終りに数囲の長老に推された人である。この長 老は、繹人的人格者であつたらしい。澤山な奇行、逸話がのこつて居る。今でも、こ打数囲の教徒 が集ると直ぐこの長老の苗が出る。今だに、この歌圏にその人格は活きて居り、その人格はこの歓 囲を活かして居るやうに思はれる。長老の晩年、信徒は増し、数囲は盛になつてきた。ところが、 信徒の一人が、長老に、やはらかい網のきものゝ綿の入ったのを進せたと云ふ。長老は欣び、受け て着て居った。すると.間もない最笈の一日.外出した長老が橋祥一故になつて﹁あ∼塞かつた﹂ と云って締ってきた。﹁おしさま、どうなさつたのですか﹂と云ふ徒弟に答へて﹁なあに、そこであ んJ→りかわいそうなやつが居ったから着せてきた﹂と微笑んで居ったと云ふ。又、時には、長老が 締庵したと思ふと月外が騒がしい。出て見ると.よくも集め凍ったと思ふほど大勢な乞食。やがて、 長老は全徒弟を促がして、それらに雄琴ぞ蜜ふ。﹁まあい∼ではないか、まあい∼ではないか﹂とそ の乞食連に雑煮を強ひ、自分も中に混って、乞食の用ゐたその碗で食ひ、そこに云ひ知れぬ悦び一ぞ 見出して居ったのだと云ふ。ぁとでは、とうとう、熱田から六里隔ったところに自分の任ひを、本 ヽヽヽ 皆の乞食小屋を雛型に造りあげてしまつた。即ち、それは、先つ、地面の上に籾がらを一寸位厚く 抱き、その上にアン.ヘラを数枚敷き並べ、四国に蓮をっるしたもので ー それは、いまだに、その

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509

まゝ大事に放射で保存して居る。そのうちに老呵大拙は一年紛ら住んで居ったのであつた。異に、

三界無庵一所不住の賓行者であつたわけであらう。

この長老を退去して、その命日には、今でも、致囲の徒弟全部が熱田から一里ばかりある一つの

小高い山の中腹の栓林の中なる長老の墓−それは高サ一尺四、五寸、直径四尺位もあらうかと思 はれる土饅頭の上に、澤庵石ぐらゐな石ころ︵文字一つ書いてない石ころ一つ︶置いただけのもの ーーその慕前の地べたに仝徒弟が端坐したま∼夕方から翌朝⊥まで通夜する。敦園はこれを座席とよ

んで居る。﹁座躍﹂と云っても専念に如凍を念じ通す意昧合ひだけのものである。丁度クエーカー

の獣念数倍の類であらうか。但し、青天井、否、屋壷の下での黙念であるだけに翌朝、柁が明けて

見ると衣の肩や袖に霜がおりてを.るこ1が珍しくないと徒弟の一人が云って居った。

かうした儀祀を行ひ、さうした長老に審はれた数囲だけに、年二阿木山に集る全問からの徒弟が、

それを時期王他地に特任を命せられた際、本山に集ったその足ですぐ新任地へ赴くのが例になつて

居る。蕾任地へ先つ戻って、荷物を撮めて、更に新任地へ赴任するぢぞと云ふことは無上の恥とな

って居る。賓際、まだ誰一人そんなこと針したものは一度もないと云って居る。つまり、各自の会

所有は風呂敷包みにでもして本山に自分で背負って行ける程度でなければならぬと云ふつもトなの

でぁらう。三界無庵の簡易生活を徒弟各自が事賓に於て示し得ねばならぬ様になつて居るわけなの

陰れ㍗る日本のメシア敷

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610

でぁらう。

全国に散在する政令︵所謂1束庵﹂︶・で建てる時なぞ徒弟自らが大工もやり、佐官もやり、経師屋も

やる。この遽は直ちに修道院の生活を思はせる。かくの如く極めて簡素へ仏自給自足の教囲生店には、

宗教殺生期の原始妹、乃至▼ 中世風の修道院生活を侭ばすものが多い。

食事は菜食。食事の際は倍堂の一室に、片側は男何 片側は尼付、相対して坐る。席次は即ち入

信、剃髪の塀。

先つ、歌風の生碍 殊に徒弟の生活の大髄は以上の援なわけでぁろ。ちよつと見たところ、徒弟

の要は頭をまるめ、衣を着、肉食せす、妻帯せす、純粋に倍数式でぁる。彿式としても.殊に、硬

派に近いのであらう。

然し、数理信仰の内容︵委細、本稿下参照︶から見て、この致園は確かに沸教とはちがふ。外形

としても彿式に則ったのは稜ちのことである。殊に、蕨的になつたのは前きの長老、大拙が輝宗の

出であるところから、牌涯の形式を移入したのに過ぎぬ。これは、全然、この宗教にとつて新しい

現象である。この宗教本務のすがたではない。頸をょるめ、法衣を鍵ふに至ったのも、ぁとのこと

である.。改組自らは剃髪もせぬ在家の家庭人であつた。 偶数ともつかす.神道ともつかぬこの宗故に於て、徒弟が、かくも偶数的生活を螢むに至ったの tれ上ろ日本のメシア款

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6】1 は、この宗教の歴史上、度び重なる法難から凍て居る。この宗教は、一時.キリシタンの疑ひをうけ た。疑ひは、この宗教が神道でもなく、傭法でもないところよりしてであつた。それと、今一つ ー この宗教では病人を大建大事にする。従って病めるものが大に集まる。病める信徒は教組が使って . ゐた井戸の水を盛に用ゐる。この数囲では守札の類は一切、出さぬ。然し、御水は大分、用ゎられ て居るらしい。治癒が、この宗教とは極めて嫁が深い。この連にも、嘗藩時代でプレソと疑はれさ ぅな側は充分l存する。づ7レンと疑はれて、安政五年︵−00芸︶七月には尾州薄から布教が禁止され、 殿堂は破壊され、土地さへ没収されて、信徒中の有力者、金木市之正と云ふものなぞは三宅島に流 されて了つた。其彼、長考 二夢の苦闘によつて敵勢、沓に復した戚があつたが一夢の没接、やゝ ぁって明治十七年︵−0000ふ︶太政官七りの紳彿分鵜巌蓮に曾ひ、この数回も愴憧として男伶を臨顔遍の 帰籍に付け、尼宗空曹洞碓の付籍に入れ、恰もよし隣接の地に曹洞宗の寺院、白鳥山一やり、所謂﹁和 本元﹂境内に自畠山所屈の境地戴の建つあるを幸ひ、本山を曹洞宗法持寺詮敢併域地裁堂てふ名義 に届けて串誼に虞し、そのま∼今日に及んで居るのである。をれ故、この宗教 − 紳傭既成宗教か ら全然、狗丑に自費したこの宗教も、かゝる事情よりして、β籍面だけは曹洞宗に登鎖されて屠る わけなのである。そのため、戸籍面では曹洞宗内の一束寺、否、一寺中の一堂、域地液堂なるもの が、賓は、重囲に六十ニケ所の未庵を有する璃立宗教の本山であると云ふ様な珍現象を呈してをる 離れtる日本のメシア敷

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512 覆れtる日本のメシア軟 二日 わけ㌔のである。かくして、賓は、紳傭二敢よらの狩立宗教たるこの票数致囲が本務の性質に背い た彿寺.備堂とな♭、また、そこに傍式生活を螢む係数数囲らしい現はれを呈するに至つてをるわ けなのである。賓に、度び重った取締が、この猫立宗教を傭式に塗らつぶさねば措かなかったので ある。白鳥山に付した昏睡なぞ、白鳥山にとりいつて、ことさら、白鳥山の僧侶に境内の掃除なぞ をしてもらひ、以てキクシクソの疑ひやら、紳備混清の疑ひやらを晴らすに力めたとのことである。 かくして、在家蓄髭の俗人一で教戒としたこの致囲の徒弟が、あわてて安をおろし、法衣を琴フて純 然たる俳徒の如く仕草しられたわけである。が、教義を見ると係数とは相容れぬものが数多い。以 下、その教義を論述したいと思ふ。が、その前に、一喝 この宗教の祭式また塑具に関して二言せ ねばならぬ。 本山に於ても.末庵に於ても、夏は三時、冬も三時竿から御勤めが行はれ・サリ合従弟がこれに列 するのは勿論、寒風身を切る眞冬の朝の三時竿、眞暗字フちから既に塵詣人あつてこれに列するに は驚く。教組、娼姶を頑とあがめて﹁瑠姶如来﹂と塁黒々と大書された位牌︵敦囲の本尊︶の前にね かづいた庵主が、大音撃に﹁南無瑠絶食﹂と叫びをあげて農勤が始式される。最初に﹁南無妙法蓮 華経﹂と題目され、最後に﹁南無阿摺陀偽﹂と碑名される。八宗の内に在るが如くにして、賓は、 八宗、十二宗の外に出て了したるものか。

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さて、それらの儀鰭が一通り終ると所謂﹁御経接の聴聞﹂が始まる。その経典なるものこそ・愈、

この票数に猫特なものである。それは﹁御紅楼﹂とも云はれ、﹁御説教﹂とも呼ばれて居る。要する

に、数別の説教の速記なのである。

ところで︰その経典の朗訝が、この教固に於ける唯一の請鮮でもJのり、唯一の説教.法許でもある。 敢剋の説教速記の朗讃、それは、よし、口語のま∼の速記餞のよみあげではあるにしても、なるほ

ど﹁如是我聞﹂の併設修多雁の讃経ぢぞと異るないわけである。また、他面た於て、敦剋の口語の

まゝの速記録のくりかへし、それはそのま∼最も邑︼1en許︵ilな詮教、法話にちがひあるまい。これ. 戟剋の説教速記の朗讃が、この数囲に於ける唯一の讃紅たb、唯∴爪ェ婆請たるに伍へして居る所以 であらうか。さうしたわけあひで、この敦園に自然に欝現されて軍q詩経と詮款、法話との融合不 二、未分一致−・この遊にも、宗致発生期の原始暁が如賓につきつけられて而白い。

さて、その紆典の成耳即ち、数融の説数連記の事情についても委しい由雄が列然、倍へ造され

て居る。教組が琴官設き初めてよ・り什扁九年、そこに説教を速記し永存せしめんとの議がおこり、む

のため﹁御琵り蓮﹂なるものが玉名、選ばれたのであつた。選ばれた玉名のうち一名︵稽垣惣兵衛 と云ふの︶は、特に党えがい∼人だと云ふので∵ただ、獣然と軽へ聞く役にされて居ったと云ふ。 ︵速水三郎氏芳と云ふのを筆頭に︶他の四名は、教組の説法を急ぎ速記する役。夫れ夫れ一本づゝの 産れ㍗る日本りメシア数

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514 二大 ■れたる日本¢メシア数 巻紙を用意して速記するのであつた。一座の説法が速記されて.先づ︵第一次︶出来上った四本の 巻紙が、次ぎに︵第二次︶比べ勘へられて、四種を総ぎ合せて見た一本が出奔、吏らに僻ほ︵第三 次︶四本共に放けた部分に射して聞き役の稲垣惣兵衛に問うて、束字を以て禰ふことになつて居っ たらしい。そして愈出来上ったところわ二應︵第四次︶浄書して、致嵐の前で読みあげ、その上︵第 五次︶書きあげたものが現在、敦囲で用ゐて居る経典︵所謂﹁御経接﹂の現形︶になつて居るらしい。 幸ひ、第一次から第五次までの説法速記の原本が熱田の所謂﹁御本元﹂に完全に揃って促存され て居る−1歎の上では完全でない、大分、散逸して全部は遣ってをらぬ、然し、柁類の上では第一 次からの凡ての稗類の現物がすつかり揃って保存されて居る。 第一次の史料、即ち、説教のすぐさまの速記銀の用紙には小道帳をほごした紀や.障子紙のフル なぞが用ゐられて居る。速記の蕃に何首文、阿品ぢぞと金成の出納をつけたのが残ってをつた♭、 用紙の具申に帳面にとぢた穴が残ったらして居る。さうした反古に先.っ速記されたのでぁる。第二 次からのには普通の巻紙が用ゐられて居る。 宗教史料としては勿論であるが、言語の研究資料としても.今から盲年前の口語の眞の速記なぞ とは珍しい、得難い資料であると思ふ。 一嘩 今から百年も前にどうして速記なぞ一里試みょうと考へたのであらう。教組がことはど蕾時

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515 の教養あるものだったのであらうか。否、教戒は全然、無単文旨のものだつたのでぁる。にも係ら す、その説敦を速記する気になつたのは ー それは速記者、即ち所謂﹁御綴り蓮﹂の筆頭となつた 速水三郎氏芳と云ふ者が、もと洋室、尾州侯の前畢役であつたところから察するに、議は恐らくそ の速から出て居らうと思ム ー それは如何にも前筆役らしい思ひつきでぁるから。 此の如くにして、この敦囲は教組の説教の言葉通ゎの速記を経典として恵まれることになったの である。若し、同棲に、滞今の、また、クリストの説法の速記がそれぞれの致囲に遺されてでも居 ったなら・・例へば、ワギア︵﹁基督語銀﹂︶てふ根本史料qrquっ︼le なぞ原文批評上の永遠の憶説とし てとyまらないでも、すんだであらうに! 原文批評が研究の結果、憶説としてのみ祥ち得る根本史料ヨque︼︼eなるものか﹁この敦囲は事賓 として紆典と持ち待て居るのでぁる。そこで、吾人は、この敦固の経典を介して、憶説としての根 本史料を、質物としての根本史料︵上記、第一次から第五次までの根本史料の貨物︶と比較槍姦し 得る研究上無二の便宜を得るのである。原文批評の理論を、原文の貫物について賓地に瞥って見る 便宜を得る。 背約の原文批評は憶説して云ふ︵ことに、琴富者の書なぞについて︶前書きと巻尾とは根本史料 ヽヽヽヽ− には無い、後代結集者の撃である、ほんものecl一汁ではないと。然し、また、近頃︵殊に申せu︼︼m︰ 、 ■れたる日本のメシア散

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516 怒れtる日本のメシア軟 二八 A=m邑ハull∽en2denZ象一rP−・旦−ete−1は︶云ふ、前書きだからとて必ずしも全文、後代からの創作 のみと限つたわけでなからう。その筆致は薪らしいにしても、その材料︵まとして、地名、人名等 固有名詞︶は古いec︼1↑なものであり得ると。ところが、この一食敦の根本史料の質物が革質、その 通りであるのは面白い。その愈出家上った経典︵名づけて第末次資料としたもの︶には立派に前審 . きがついて居る。然し、ほんの速記したばかりの第一次資料には前書うはない。それでゐて速記餓 の初まりには必ず﹁何年何月何日、何研︵にての御説教︶﹂と云ふ履哀訴ついて居る。細かい鮎まで は偶然の一致も手樽って居らうが、全憶が、丁度、U已自の憶説通りになつて居るのは大に参考に なる。 また、一瓢一封も犯すペからすと云ふ聖典についての信念は、原本によし同じ語句が誤って二連. 書かれて居ると思ひながらも祝宴に際してその一つを別、り得ぬ念慮である。時には、この思念が手 侍って原本に附記された読者の挿証さへ、捨て得す後篇して丁ふ。そこで複宕に際しては意味の上・ 時には字句の上の坂寄 Dii︸1。gr旦1ieと云ふことが起り易いと原文批評が憶説するが、この二等致 の経典には、この憶説が事賓となつて示されて居る。即ち、同じ一つの説法についての四迫りの︵第 一次的︶速記錬から元水ならば、やはト1一通りの記法のことばが、拾ひ出さるべきであるのに、 四迫りを四通りのま∼視点して其結果、極めてくどい説法となつて経典のぅちに約められて居るの

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517 を見る。 以上は、はんの一、二の例に過.ぎの。とにかく、第一次から第玉突までの根本資料の質物と.原 文批評上の根本史料の憶説との比較研究には趣味津々たるものがある。 さて、その根本史料の貨物たるこの敢囲の経典は約三富巻ある。毎写 それぞれl座の説教一ざ納 めたものである。それらは敢租が道を説いてから第九年目より弟二十五年、即ち、臨終の時に至る 説法の凡てである。試一けに、それらのうちに現はれた教組の信仰を鍾め得るだけ経めて論述してみ ︵﹁下、信仰の内容﹂の部は吹披に︶ たいと考へる。 怒れれろ日本のメシア敢

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618 印度の文化−印度野方の朋みられざりJ理由−沸教の経典中に現はれ上ろ撃方−欧洲に由度昏方の紹介ぜられ・し顕末−ヘル ンレ敏捷の楽節−印度億万り原典−チャヲカ集録−スシェルタ集録−印度皆カり根本原理1オーユ、ビック、カブハの牢し い忠義−薬物1相物質−動物曾T⊥塀物箕−水銀の征服 ∴ 舌代印度の文化の程度はその徹底性に於て、その燭創カに於て、賓に驚嘆に伍し、世界何れの国民 に射しても.誇♭得べき偉大さを有してゐる。例へば天文単に於ては、紀元前三千年の舌に於て已 に暦を定め、日月の蝕はもとより、天健星宿の遅行の現象は明かに記載されて居る。現今では須弼 天文などゝ一種の軽侮一で受けてゐる傾向もあるが、或る畢者の詮では、歳差の考察に於てはブトレ ミーの天文よりも迄かに正確であるとのことである。数単に於ても驚くべき進歩を示して居る。十 進法、微分.積分の貴明、記教法、幾何撃三角術.の如きが巳に存在する。蓋し。ピタゴラスに 典へられし孝巷は却て舌代印度民族に鯨せしむるが正普であらう。膏薬も亦大なる費達を蓬げた。 全音階の費明は世界に於て印度が最初である。建築は印度に於て其の美観の極度に達して居ると言

印度古典の専方に銑て

印度古典の馨方に裁て

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519 って過言でない。固頂簡あり、半球閣あり、尖塔あり、到る庭現に奪え立つ殿堂宮軌の美は沈獣の維 持を以てこの消息を物語る。勿論舌代ギリシャの建築が接式に於て印度建集に影響したことも事賓 でぁらうが、或る畢者の説︿夙に従へば−アレキサンダー大王が印度建築の様式を母国に縁入せん がために技師を印度に残留せしめたことも事賓でぁる。給芸彫刻は固より建築に不可離の関係を有 し、その螢達は言を侯にぬ。文典は.ハーニニ等によつて、尉典はアマラシソハ等によつて、共にア ーリアの国語の科挙的分析に成功し.永く東洋畢研究者のために軌範となつてゐる。化撃の智誠に 於ても印度民族の造詣は決して浅くはない。硫酸、蹄酸−蟻酸を虞置し、又軸、餞、鉛、錫.亜鉛 等の・酸化物、其他の唾化物、碑酸墜、硫酸堕−果敢艶類の如きを熟知し、時宜に應じてこれを使用 した。又戦法を攻究した古典にド♪ヌル吠陀なるものがある。武器を論じ、且つ歩兵、騎兵、戦車 兵、象兵を記載して居る。法典はマテを始としてヤジェニヤプルキヤ︰ハラーシヤ等みな燦然として 輝いて居る。哲畢宗教に於ては世界何の国土も古代印度の惟系に到底追随を許さぬ或ものがある。 ニヤーヤにせよ、ゲイセージカ・にせよ.サンクアヤにせよ、ヨーガにせよ、儀諒に於けるミーマー ■ ソナー、思索に於けるデューダーソク、殊に世界的影響を千載の後に清けてゐる沸教の如き、何れ として東洋文化の花でないものがあらうか。 かくの如き文化の花咲く中に、如何して欝方のみが進歩してゐない道理があらう。 印度古典の専方に銑て

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520 〓 然し賓際に於て今日まで吾人は印度の啓方に関してはあまら多くが諭せられたのを聞かね。これ には少︿とも二偶の主要なる床由がぁる。第一は先入の偏見を有する征服者の無関心、第二は技縮 老と材料文献等の漸減性でぁる。 他の諸問題、例へば哲畢宗数等に関しては今日まで畢界を賑はす種々の論議が現はれ、世一宮稗益 する研究結果も可なり公表せられて居る。然し番方の如きは恐らく一種の侮蔑を以て過せられしに 非すんば、十分満足すべき程度の研究に進み待すして単著が手を引いたやうな形にある。かのウイ リアムジョーソスの如き畢者すら﹁アジアの言語に於て科撃と見徹すに足るべき督方の原典の存在 せし澄憑なし﹂と断言してゐる。勿論畢老のうちには印度の傑方に研究を向けようとしたものはぁ らう。然し何分指導する婆凝門が多くは容方の原典を庭理する資格が無い。その食め侮蔑を以て遇 せざみしまでも、それと殆んど同一の結果に陥ってLまつたものである。 それに又一方回教徒は幾分征服者の立場から.自己の昏方一ざ以て印度固有のものに置き香えた形 跡もゐト、近代では軟風の播紡が赴骨全般を支配して梵語原典の嘗方の研究は益々顧みられなくな った。それと同時に借方に関する梵語原典そのものも愈々得難くなり、葛本は無智の人の手に渡っ て無用な書き入れや馬扱が出来る。これらの過誤や詑侍は他の原典に於けるよりも一骨重大且つ有 印度古典の轡方に就て

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521 書な結果一宮招凍して蓬にそれを役に立たぬものたらしめる。それのみならす柴品の高債にして純粋 なるもの∼得難きこと、随て古典に規定せられたものを使用する能はぎるため、廉侶な代用品で間 に合はさうとすること、そのために古典の虞方に射する信用は益々失はれる。思うした不注意の結 果は普然、嘩羅門の間にすらも古典の欝術に信を置かぬやうになら、つまらない迷信やおまじない に走るに至る。思うした風で古典の塔方は日に日に衰煎の悲運に向ひつ∼ある。 現在印度でも、極めて少数ではあるが、都骨一で離れた地方には富豪bお抱へと云ふやうへ㌧督者が 属る。その督者の家には家偶の暫方の古典一ざ寂して居って、父祖代々これを没承して畢習し、彼等 は特別の尊敬をその古典に対して有して居り、又家柄、位置、富の程度の優秀なる彼等に射してほ 金でその古典藍月ふことは到底出水ることでもぢく、借り出すことは固より、時としては其の家で 葛本を勝馬することすらこれを許さハ甘い。それは紳が唯その家にのみ賦奥した特権である所のその 効験が無資格のものに侍へれば無くなつてしまふといふ信仰から凍てゐる。 さへ与きだに気候風土の関係から古典の質料たる貝尭などは枝接し易い。現今でも巳に侍はらなく なつたものも若干ぁる。その上に正確な焉本を得ることの困難は年と共に加はる。琴フ⊥た事情の 下に印度古典の塔方の研究は最も緊急へ㌧るものゝ一であらねばならぬ。 三 印度古典の轡方に放て

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6】訟 三督 印よ古典の書方l二銑て 一方に於て吾人悌政経典の研究に徒事するものにとつては、経典中に引用される欝方のことに全 く無知であつては済まぬ謬である。例へば華厳経の入法界品に善財喜子が歴訪する善知識の第十七 人目に曹る普限長者と云ふのは裔着であつて、嘗方のことを詑き立てる。四十華最第十一には次の やうになつてゐる。 r要子上、我れ書芸悪制童子の伊豆於て、病の起る根本む修学し了知苛。︵卯︶此に胃三芸生の種々の病慧 丁知・して、悉く能く救療†。謂ふミ、ろの魅、黄、疾熱、鬼魁、塾畢、カ至水火の惨事†る併、見り如き一切内外の諾疾、品 韓無浪花り。︵耶︶善男子、一切衆生鴎大橋和合にょりて書写。四大冨よ品畠監事。所謂嘉、心病、客病及び 倶有病たり。月病ごは凰、糞、疲療養其の主亡兄す。心病ミいふlェ顕狂、して心乱一わゝふ其の主ご兄†。事柄寸Jいふに刀杖の傷 く所、動作過労ね其の主寸売†。保有病ミは飢洛、寒熱、書架、菱憩わ其の士言雲,。其の飴曾桐頸ほ展轡して和田る。能く 衆生賀して男心の苦な受け・しむ。善男子、是り知手衆病は腎鳩の人に少・し、労役多きが故に、常長の人に草し、侵璧−こ過ぐる が故に︵耶︶戎け二三弼に約Lて分つ三ハ時毒す。肝謂啓時、無暗、雨時、歌時、寒時、雪時光り。是の故に智者托病の埠楓右 知り.書く方滅、わらゅる諾時に蓮†。謂く、春、雪時にほ病疫病動く。軌刷、雨の際にほ風病教生す。秋、零時にー‡黄熱埠長 †。慮集病l‡斑時に埠長†。﹂ 又金光明経には除病品なる一品がぁる。今最膠王経巻第九によつて左に若干の文を引用する。 r我れ今苫仙のわらゆる療病法に俵<次東lこ汝の悠カに訊く.へ−し。尊く涯きて衆生ね救へ。lニ月l‡足れ春時、三月ほ名けて要 吉光†。三月lェ秋分ミ名く。三月は謂く冬時、此lミ一年の中に撥りて三々而も別祝す。二々を一都寸J写し、便ち歳竺ハ時み戌 ナ。初の二は是れ麗時、三、四な熱際寸長く。五、六な雨際ミ名く。七、八な秋時ミ謂ふ。九、十に見れ考時、後の二な氷雪

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5幻 ま名く。既に長の如きの別わ知り.葉む授けて養わら・しむろ勿れ。嘗l二此の時の中lニ駁って飲食む調卑し、腹1二人つて柑散壱 去・へL。宗則星亨。︵耶︶病に四種の別ぁり。謂く凪、熱、碧、及び璧の病苛。醸妄動り監知.ニ・し。琴り 中に疾撥動き、夏の内に風病生す。秋時に黄熱堵L、冬前に三倶起→。春1Ⅰ温熱辛を草し、夏ほ賦熱醸弊一望草し︶、秋時ほ冷 甜廣︵を写し︶、冬lI酸温既甜︵わ食†︶。此の四時の中に於て服琴し及び飲食†ろに、草し是の如き疎−ニ依らば、衆病生する−ニ 由亨し。食後、病11怒l=由る。食滑†る時、︵病に︶熱にこ由る。滑後、︵病1Ⅰ︶見より起ろ。時に准ごて感官′、病み試古.へこ。銑 に痢据わ試り己れば病に駈て費空旺、㌔仮令患欺殊冗るも先づ其の本わ撃,.へ・し。風病−Ⅰ油賦な服亡、熟み忠ふろに利わ亨、 発す。廠病は壁吐乍しむ.へ︺。捜集は三襲を須ゆ。凰、熱、瘡倶に有ろ見れな組集ヾJ伍†。病の越時中知ろミ錐も、鹿に其の 本性嘉すべ・し。是の如く君畠り。時に零し妄轟く。飲食彗ふこ孟ミ斯を善智者ミ名′、。︵耶︶

この中に現はれて凍る六季と病の関係でも、風、責、淡とか、或は風、熟、鱒 絶集とか云ふこ

とでも印度欝方の術語であつて、印度塔方の智誠に依らねば到底解辞し去ることはできぬものであ

る。これらの術語の正確な意義は今日まで世界に知られてゐないらしい。而もこれは印度借方に於

ける病理の基礎をなすものでゐ♭、此の術語の意義すらが明確に知られてゐない翁めに、印度の欝方

に対する誤解と軽侮は結局取り除かれないのである。何れは下に至ってこの術語に就て言及するが. 今は単にこれが根本的に重要なぃのたJQことを注意して置く。琴フした督方に関する文献は僻は経

典中に諸虞散見すると思ふが、それと共に吾人は歴史的に辞令の昔時裔方の達人であつたジープカ

帥ち者婆のあつたことも忘れてはならぬ。巻婆は洋食や、頻婆沙羅王や、其他の王者富家の病気を

︵,−竺︶ 手にかけた昔時の有名へ仏嘗着であつた。彼はタクシラでアトレーヤに就て畢んだ主ヲで︼とが博へ 印度古典の撃方に就て

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524 られてゐる。アトレーヤは印度の幣方界︺大立物で現存の常書の一なるチャラカ集錬は彼の孫弟子 にへ与るチャラカの所侍であト㌧ 而して印度−い・欝書中最古のものである。又これと同時代か若くは少 し遅れて編成せられたスシェルタ集諒と云ふものがある。これは人憶解剖に基いた外科療法を室と した啓書であ・るが、その後段にクックラタントラといふものが添加されて居♭、これはシヤーラキヤ 即ち頚部以上の治療に関するものだが、こり部分はナーガールジュナ即ち寵樹の書いたものだと註 秤老の一人グルラナほ云ふてゐる。若しこの龍梯・ぜかの密度論などの作者の龍樹と同一人だとすれ ば頗る興味あ了Qことで、侍、ふる所にしよitば瀧樹は壮年時代極めて熱心に厚術を習ひ、或は裸身の法を 革んで王の後宮に忍び入り、宮女に戯れたと云ふから、この柁の著作も有h■得べきことゝ思は.れる。 四 さてこの顧みられへ甘かった印度の塔方に指を染めて徹底的に研究の歩武一軍進めようとしたヨーP ツバの第一人者、或は唯一入着は即ちヘルソレ ︵A=g一lSt=ニーー■乙eric−どd篭︼l茎1=lつ︶其の人でぁる。 彼はもと梵語単の亘匠、覇逸人を父母として印度アグラに生れ、礪英の間に教育せられ、殊にロン ドンに於て梵語をゴールドスチユッカーに畢び、久しく印度にありて教育事業に従ひ、功績の奉げて 挿すべきものは砂くはないが、就中この撃方薬物の研究一で印度原典に就て始めたことは特記すべき ものである。彼がこの研究に取玲った動機とも云ふべきものが面白い。それは例の西域地方から螢 印度古典の撃方にこ就て

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525 推された梵語の古鮮典に関係する。この西域蓉掘の梵語古典を最初に解讃したのが即ち彼であ畠。 即ち今を距ること三十有七年前・山人九〇年英国の壷人︵皆暗中尉であつた︶パワー︵︼r.iぎe■t︶ 荘三︺ 注︵二︶ が印度政府の機密の要件を苛んでクチャル地方へ兼行したが、其虞で樺皮に書いた経典イで待た。パ ワーはそれを印度へ携へ綜−リ、同年九月︵昔時大佐であつた︶クオクー∵クス ︵tr W旨ユーCu召︶に 迭ト、それからこれら文書の研究は奉げて昔時カルカッタの†ドラナ畢院長であつたヘルンレ教授 に委ねられたのであつた。而してその結果それは非常に古い梵語文書であることが断定された。従 妹法隆寺具菓が世界長舌の璽審を占有してゐたけれども、この樺皮文書に比すれば速く譲らねばな らぬので.これこそ貰に世界長舌の梵語文書な一モ﹂とが確定せられ、教見者の名によつてこれがメ 江︵田ノ ァ一文書と命名せられた。これが濫勝となつて其後畢界に西域.或は東方士耳其の呼び孝は高ま♭、 性︵五︶ 正二〇 所謂伊規文書の品防が畢垣の方向を一欒したのである。 笹王︶ ヘルソレが周到にして緻寧 水も洩らさぬ研究の結果は疑ってあの清浄なパワー文書考索引を加 へて三谷の大著となつて現はれた。この著述の準備に彼は二十年程の歳月をかけて居る。パワー岩 音ハ八︶ 経は全部七鮨に分れ、第一から第三までは倦方柴物に開するものであつた。それで彼は全欧の学者 が未だ骨て一指を染めしことなき印度の閏方に執する研究一ぞ始めたのである。 彼は其の間一方にスタインの一九〇六年から一九C八年に官有探険の牧獲たる幾多の梵琴 南戒 印度古典の轡方に放て

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626 三入 印度古典の野方lこ就て 語、干喝煙草等り言語で書かれ 註︵九︶ てその解語に徒事し、西域音程断片第一幕を出した。 予は畢窓にぁつてこれらの菜蹟を見聞し、如何にもして一たびは後に面接する機を得たしと望ん でゐ化ので、一九一入年航西の途に上るに降し多少計劃する所もめつたが、予が南印度†イソール に滞在してゐる頃、■この梵語畢の亘匠ヘルソレはオツクスウォードの寓に永眠した。予は翌年カル 荘二C︶ カッタに遮るに及び彼の訃を耳にした。その年十月予は英国に至り、翌年はオックスフォードに晩 年の彼が居常を忽び、綾かに教月の差を以って永遠に相脅するの機を逸した遺憾の情を慰めた。 然るに越えて三月、偶々ケムブリツデを訪ひ、書卑ヘップフーの店頭に彼の遺書七有朋あまりを 費見したので、直に買入れの交渉に着手し、事は幸に順序よく運んで先つせめて彼が書斎の一部分 を日本に新し得たことを以て渇望の漫分一ぎ癒するを得た。 註︵一一︶ 彼の遺書の中に衛方薬物に関するものは六拾八部八拾六鞭を算する。その中チャラカ集叙に関係 するもの入部、スシェルタ集錬に関係するもの拾式部.其他の常方に関する梵語原典、ヒソデイ一 語.ベンガーリー語原典塵拾九部.英濁語の著作九部といふことになる。 以上は従妹顧みられざりし印度の貫方が如何にして欧洲の畢界に紹介せらろゝに至ったかの経歴 を、ヘルソレの遺書に対する予の止み難き責任の念から、煩雑ではあつたが一應叙べたのでぁる。

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