3
2009
NO. 192
大沢敏郎さんを受け継ぐ①∼③ 続く道 吉田浩司 一本の道を歩む 石川 千幸 識字学校との出会い 竹 村 早 織 映画の現場一写真と文 小 林 茂 日(毎月l回25日尭行)ISSN 0919 4剖3 こぺる刊行会写 真 ・ 肘 井 勇 文 ・ 小 林 茂 「人間も罪っくりだぜ、あれは。なんぼサカナ(鮭)とはいえどもああやって 気分よく子どもを産卵するに、それを目当てにして、みな獲っちまうんだから な、舗で。罪作りだと思うなあ、オレは」(長谷川芳男) 一一一f阿賀に生きる|(長谷川さん夫婦の家、 1991年) 新潟水俣病患者でもある鹿瀬lllfの長谷川芳男さん(78)とミヤエさん(81)夫婦は、豊 一う 't."...)ol"'よA .,
e
完な阿賀野川で鮭ゃ入百鰻を獲り、山を守り、段々回んぼを耕し、子どもたちを育て、生 きてきたO 自然と共生してきたからこそ公害の惨禍が襲ったのだ。私たちは問んぼでf
十を 流し、 j凶を酌み交わしながら、川l筋で暮らす人々の心模様に近づこうとした。私にとって は嫌で逃げ出した故郷との出会い直しのようだ、った。 芳男さんの戦争の話がひとしきり済むと、鹿瀬発電所の土方仕事ーをやったことがあるミ ヤエさんの歌が始まったor
.t>土方坑夫に品全あらば∼電信柱に花が咲く、焼いた魚も泳 ぎだす、コリャ、絵に描いたダルマさんも歩き出すへトロッコバッタン」。自然は大らか お ぶ で粘り強い人|剖を造る。人生の達人たちであった。芳男さんは亡くなり、旧んぼも薮に返 った。 f味恥責くらいあっから、まんま(飯)食って、泊まっていきなっせん 老人施設にミヤエさんを訪ねると、いつもの声が響いた。大沢敏郎さんを 受け継ぐ①
続く道
吉田浩司︵小学校教員・横浜市在住︶ニ
OO
八 年 一O
月二四日、長い間、横浜・寿識字学校 を続けてきた大沢敏郎先生が亡くなった。 が ん 大沢先生は、昨年四月に会ったとき﹁癌が見つかった が、何とかのりこえられる﹂と話していた。識字学校の 再開を目指していたが、治療が入ったり体調が崩れたり で、できなかった。それでも、月に一回の﹁民衆駅﹂と いう学習会には、入院先から参加して、変わらない﹁教 えと学び﹂の姿勢を見せ、七月の神奈川県解放教育研究 大会では、揺るがない思想を参加した教師達に示してく れた。その後の交流会では、好きなお酒を少しずつ飲み ながら、最後まで座っていてくれた。解散のときには、 いつものお決まりポl
ズ、右手親指をぐっと立てながら ﹁ありがとう!﹂と言って帰って行った。それが最後だ ず に い た 。 私 が 識 字 学 校 に 初 め て 参 ノ 加 し た の は 一 三 年 前 、 一 った。体力は衰えても、気力は充実していた大沢先生だ ったので、﹁まだまだ大丈夫﹂と思っていたから、とて も 残 念 で 悲 し い 。 大沢先生と出会って私の生き方は変わった。 ﹁ 識 字 ﹂ は 私 の ﹁ 生 き な お し ﹂ に出会う の 場 に な っ た 。 ﹁ 識 字 ﹂ ま で の 私 は 、 自分が冷たい人間であることにさえ気づけ 二 三 一 歳 の と き だ っ た 。 大 学 で 教 職 課 程 を 取 っ た も の の 、 試 験 勉 強 に 身 が 入 ら ず 、 横浜の中央市場でアルバイトを し な が ら 、 暇さえあれば酒を飲んで時間を食いつぶして いた。現実と向き合うことから逃げていた。ネパl
ル に 滞在していたとき、そこで出会った日本人が﹁林竹二の 本を読むといい﹂と教えてくれて、日本に帰って読んだ ら、寿識字学校のことが少しだけ出ていた。人間の温か さというか、熱に出会いたいと思った。冷たい人間だっ たからこそ求めたのかもしれない。私は寿識字学校に行 っ て み る こ と に し た 。 毎週金曜日、午後六時から始まるので、少し早めに行 くと、大沢先生はすでにいた。﹁勉強させてもらっても いいですか﹂と聞くと、﹁ああ、どうぞ。好きなところ こぺる 1に座ってください﹂と非常にあっさりしていた。私はネ パ
i
ルでしたように、手伝いをさせてもらうつもりでい たのだが、そのお願いをするタイミングを失ったまま、 その日の﹁識字﹂が始まった。 先生は一杯のお茶を出してくれた。そして、一本の鉛 筆と消しゴム、文章を書く用紙と教材である詩のプリン ト数枚を渡してくれた。人が集まってきて、教室の机に 人がたくさん並んだ記憶がある。識字学校を﹁手伝わせ てもらおう﹂という私の考えは、すぐになくなった。寿 町で簡易宿泊所を経営している成且善︵ソン・チヤソ ン︶さんが鉛筆の先をなめながら書いている姿に圧倒さ れ た 。 私は、自分の今までのことを短い文章で書いた。その 中にたった一文、精神障害のあるおばちゃんのことを書 いたと思う。私は、いちいち声が詰まり、なかなか読め なかった。私は今まで学校で声を詰まらせて文章を読ん だことがなかったのに、初めて参加した識字学校では自 然にそうなった。先生は﹁うん・:、うん・:﹂とうなずき ながら、読めないでいる時間もじっくり待って、聞いて くれた。そして、﹁きっかったね﹂と受けとめてくれた。 関係を切って生きていた。おばちゃんは母の妹で、彼女一 たちの両親は早くに他界し、精神病院での生活がすでに− 長かった。私達の家族がおばちゃんにとって唯一の肉親一 だった。母が姉として、おばちゃんの病院に面会に行き、一 差し入れ等をしていたのだが、家の中ではおばちゃんの一 ことは語られなかった。病院から電話をかけられる時間一 帯が決めらがていて、その時間は電話がかかってくるの一 がいやだった。おばちゃんが話すことの意味がわからな一 い ら だ け ん か い。母は苛立ち、陪一嘩になる。そんな夜がずっと続いて一 いた。私の父が亡くなり、後を追うように母が亡くなっ一 た。日中、時間のある私がおばちゃんに会いに行くよう一 になった。それからしばらくして私は識字に通い出した。一 私はおばちゃんに、本当のことを何も伝えられずにい た。父が亡くなったこと、おばちゃんの実の姉である母一 が亡くなったことも。兄の婚約者の家族におばちゃんの一 った。なぐさめでもない。つくろってもいない。そのま 今になって思うのだが、あの﹁きっかったね﹂はすごか 2 ま私の心に届いたことばだった。また、おばちゃんと向 き合うように、励ましてくれた。 私は冷たい人間だった。精神障害のあるおばちゃんと存在が明らかになったとき、破談になった。 私は識字に参加するまで、自分の家を﹁かわいそう﹂ と思っていた。しかし、識字の席に座って、おばちゃん のことを書き続けるうちに、自分が差別者であることが 分かってきた。大沢先生は﹁隠していたことを全部話し て み た ら ﹂ と 言 っ た 。 おばちゃんと嘘のないところで向き合うのはしんどか った。本当の関係をつくるには、自分がおばちゃんをど う思っていたのかを隠すわけにはいかなかったからだ。 私がおばちゃんを差別していたことをはずさず、全部話 した。間違いなく、おばちゃんが一番しんどかったはず だ。それでも、おばちゃんは受けとめてくれた。その頃、 おばちゃんは以前から患っていた癌が再発した。末期だ った。﹁私の病気は何?﹂と聞くおばちゃんに、癌であ ることと命が残りわずかであることを伝えた。 おばちゃんはそのとき﹁一二つのお願い﹂をした。その うちの一つが、﹁死ぬときはお別れがしたいから、そば にいてほしい﹂ということだった。おばちゃんの病状は いよいよ悪化し、痛みを緩和するモルヒネを投与した。 医者に﹁もう意識はありません﹂と言われた最後の日の 朝のこと。私がおばちゃんに話しかけると、口を何度も一 動かした。何か話しているその口の動きは﹁ありがと一 う﹂だった。それが、おばちゃんのお別れの言葉だった。一 私は取り返しのつかないことをしてきた。おばちゃん一 に対してだけでない。それでも、私が差別してきたおば− ちゃんの本当の力と出会わせてもらった。おばちゃんと一 の出会いなおしの時間は、ありがたかった。人と向き合− うことから逃げ続けた私が、おばちゃんとの出会いなお一 しから逃げずにすんだのは、識字があったからだ。一 おばちゃんの最期を識字学校で報告したとき、大沢先一 生は﹁吉田さんもおばちゃんのおかげでゼロに近づけた− ね﹂と言った。そのときは本当の意味は分からなかった一 が、今は少し分かる。自分を都合よく見ず、卑屈にもな一 らず、ありのままの自分でいること。人と向き合うこと。一 それが﹁ゼロ﹂なのではないか。﹁ゼロ﹂は難しい。一 一 門 べ U 私は小学校の教師になった。現在一
O
年目である。こ れまでに出会ってきた子どもたちゃ親たちとの関わりを 振り返って見ても、納得のいく関わりができたことがな い。私は、かなりの長きにわたって﹁差別﹂﹁被差別﹂ のフィルターを通してのみ、子どもを見てきた。子ども こベるや親から学ぶというよりも、私の枠の中でしか見られな かった。そこには、多分に私の差別意識があった。 私は今、六年生の担任をしている。中国につながる子 がいる。日本式の名前で生活している。昨年四月、初め てクラスに入ったら、その子が孤立していることがすぐ に分かった。私は﹁中国﹂をはずさずに、その子と向き 合おうと思ったが、差別は見えなかった。彼は夏休み、 中国で過ごした。夏休みの報告会で、彼は中国のあまり よくないところばかり発表した。彼のことを理解したか った。たくさんその子と話した。親とも話した。民族名 についての話もした。彼は自分の民族名を教えてくれた。 歴史﹁創氏改名﹂の授業の中で、彼は自分の民族名を 明らかにした。授業後、それまできつく接していた子が ﹁先生、長い付き合いだったけど初めて知ったよ﹂と蹴 しそうに言いに来た。授業の感想の中には、﹁︵彼を︶中 国人だから差別していた﹂と正直に書く子が数人いた。 お母さんに来てもらい、水鮫子作りを教えてもらった。 彼は友だちが楽しそうに作っている姿に接し、初めてと 言っていいほどの笑顔を見せた。これまで差別はあった。 それはベ日本人の子どもたちが正直に教えてくれた。彼 は差別を肌で感じながら、これまで学校に通ってきた。,一 4 差別があったから、お母さんの固の料理を友だちが楽し一 んで作っていることに強い喜びを感じた。今までよく踏一 ん張ってくれたと思う o 彼の姿から分かった o 彼のこだ一 わ り は 、 や は り ﹁ 中 国 ﹂ に あ っ た 。 一 クラスでは彼を中心に据えて話し合いを続けてきた。一 そんな中で日本人の子どもたちは、自分の感じたことを一 正直に書いてくれる。ある子どもは、今までの彼の姿を一 思い出して泣いていた。私は、そんな姿に感動する。一白 人と向き合うと、他の一人と向き合うことができる。一 クラスの現状を母親に伝えた。お母さんは、じっくり一 と話を聞いてくれた。そして、自分の体験を話してくれ一 た。日本で生活していて、外国人であることに対して心一 ない言葉を投げかけられたこともあった。それでも、そ一 あ い さ つ の相手に対して自分から挨拶をしていくお母さんであっ一 た 。 強 い 人 だ と 思 う 。 一 彼には民族名で生きることを選んでほしい。日本で生一 まれ育った中国人であることを、隠さないで生きてほし一 いのだ。彼は今までいろいろなことを話しても、﹁別に一 ︵どうとも思わないこという反応しか返してこなかった。一
それが、﹁こういうはなしをすると、なんだかむねがい たむ﹂と返してきた。初めてのことだった。揺れていい。 揺れるのは、彼が自分の問題として引き寄せたからだと 思う。差別に屈しない人に育ってほしいから、私が揺る がない位置にいて、励まし続けたい。 大沢先生は、神奈川の解放教育を識字という地道な実 践によって支えてきた。大沢先生の報告を聞いていると 学習者の姿が見えてきた。一緒に学習することへの喜び が感じられた。大沢先生は識字で、文章の奥にある思い や声にならない声を受けとる力を大切にしていた。﹁教 える﹂のでなく﹁学ぶ﹂ことを大切にしていた。大沢先 生は、自分自身に厳しかった。これらの全ては、人と向 き合ううえで大切にしたいことだと思う。私は教師の仕 事を選んだ。大沢先生が教えてくれていたことを、実践 を通して考えることが、私の﹁識字﹂なのである。 ﹁もし、ぼくが死んだら、ぼくの前で大いに飲んで、 食べてください﹂と生前から先生は話していた。大沢先 生が亡くなった次の目、その﹁お別れの会﹂が聞かれた。 成且善さんにそのことを伝えると、﹁用があっていけな ぃ。どうしよう﹂と困っていた。しばらく経ってから且 善さんから連絡が入り、会いに行くと、別の用事を断っ て﹁お別れの会﹂に行くという。﹁一つの道の終わりだ から行かなければならない。さあ、行きましょう﹂と且 善さん。帰りの車の中で、大沢先生の話をしながら、道 が終わってしまうことの寂しさを話していた。大沢先生 が亡くなった後も、学習会﹁民衆駅﹂に人が集まった。 且善さんには、その前に挨拶に行った。﹁民衆駅﹂を今 後どうするか等を話していると、且普さんが部屋に入っ てきた。足が痛む且善さんが階段を上がってくるのは数 年ぶりではないか。大沢先生の識字学校は続けられない が、一人ひとりの﹁識字﹂を続ける。﹁識字﹂から何を 学び、これからどうするのか、を共有・確認する場をつ くる。且善さんの前でそんな話をした。且善さんは﹁道 は終わっていなかった﹂としみじみ話してくれた。 先日、大沢先生の師、柴田道子さんの本をようやく手 に入れた。東京や長野の被差別部落民の語りがあって、 それを読むと、大沢先生の語りや識字と重なる。自分も 大沢先生に続きたい。続く道に自分がいることに感謝し こぺる ’ − ミ O ナ ム 、 v 大沢先生、ありがとうございました。 5
識字学校を見守った時百|。 よくなくなるので、 E善 さんが見えるところに名 前を書いたら、だれもと らなくなった 毎週、小さな会議室が識 字学校になった 横浜・寿識字学校主宰 大沢敏郎さん ーー・胸骨 この紙にことばを書いて いく 自分と向き合う識字生
上)毎年恒例の花見 右)書いたことばを声にする、声をき〈 下)第30回神奈川解放教育研究大会後の交流 会で。大沢さんの最近の写真。左から、 石川、竹村、大沢さんの向かつて右どな りが吉岡さん。
,
,
・
園田直盟担
大沢敏郎さん 1945年、 l岐阜県に生まれる。出版社勤務を経て1980年より、日本三大前易宿 泊所(ドセ)街のひとつである横浜・寿町において、十分な学校教育の機会にめぐまれなかっ た人々との識字実践活動に従事した。 2008年10月24日逝去。著I'}に [生きなおす、ことば書 くことの色から 横浜寿町からJ(太郎次郎社エディタス、2003年)がある。 (写真は石川千幸さん提供)大沢敏郎さんを 受け継ぐ② 石川千幸︵小学校教員・川崎市在住︶
一本の道を歩む
私が初めて横浜・寿識字学校のことを知ったのは、二OOO
年七月、神奈川県解放教育研究大会で、大沢敏郎 先生︵私の師だと思っているのであえて先生と書きた い︶の実践発表を聞いたときだった。その時、私は教師 二年目で、やる気に満ちていたが、分からないことだら けで何を信じていけばいいか不安な時だった。発表を聞 いて、日本に字の読み書きができない人がいることに驚 くとともに、そんなことを想像もしなかった自分を恥じ た。また、字の読み書きができなかった人たちの文章と 書いた文字に圧倒された。そこには、人生を生き抜いて きた人だからこそ書けるであろう、深くて強くてやさし い言葉がつづつであった。私には想像もできない人生を 歩んできた人の文章はどうしてこうもすごいのだろう、 と思った。また、その学校は、大沢先生が一人で、無償− で行っていることにも非常に驚いた。言葉にならない衝一 撃を受け、その年の九月、識字学校に初めて行った。一J
R
石川町駅から中華街や元町とは反対側を歩いてい一 くと寿町がある。初めて行った時は、アジアの町に来た一 気がした。日本もアジアだからこの表現はおかしいのだ一 けど、本当の日本を知らない私はそう思ったのだろう。一 たくさんの日雇い労働者・おじさんたちが生活している一 ド ヤ 街 の 一 室 に 横 浜 ・ 寿 識 字 学 校 が あ っ た 。 − 私はその日から行ける限り、金曜日の夜、識字学校に一 通った。私はいろんなことにほとんど無知で、今思えば一 どうしょうもないくらい何も知らずに教師になっていた。一 でも、ここで自分のことを振り返り、人から学んでいっ一 たら、きっとまともな人間になれる、そんな希望をもっ一 8 て通い続けようと決めた。正直、はじめのうちはあせっ た。あまりに知らないことだらけで大学を卒業して先生 になっていることに、いらだちも覚えた。目の前には今 を生きている子どもがいるのに、私はあまりに大事なこ とを知らなさすぎる。とにかく、学、はなくてはと必死だ った。そして、書き続けた。家族のこと、今まで出会つた人のこと、今思っていること、心にひっかかる思い、 そして、今向き合っている学校の子どものこと:・。書い ていくうちに少しずつあせりはなくなった。今までを否 定することはない、そう思えてきた。﹁あせることはあ りません。学ぶことはたくさんあります。 一 生 学 ん で い けばいいのですから﹂と大沢先生にも言われた。ゆっく りでいい、少しずつ見えてくればいいではないか、そう 思 え て き た 。 六 年 前 、 前 任 校 で 、 一人の在日朝鮮人の男の子と出会 った。私にとって初めての在日の子どもだった。識字学 校にきていなかったら気にもとめなかったであろうその 子がとても気になった。学校には通称名で通っていた。 本人は自分の民族名を知っているのだろうか、親や祖父 母の歴史を知っているのだろうか、親は在日のことを息 子に話しているのだろうか・:。いろんなことが気になっ た。そうして、私は四年生からっ一年間、その子の担任と なった。分からないことだらけの中、私は子どもとも親 とも話し合い、私の思いを伝えていった。親から教えて もらうこともたくさんあった。そのころ、毎週のように 識字学校に通い、自分がやっていることを明らかにしな がら、大沢先生に支えてもらい、実践を進めていった。 私は不安でいっぱいだったが、かかわりたい思いはすご くあった。中途半端なかかわりほど相手に失礼なことは ない。かかわるなら心を決めて、と思い、かかわり続け た。始めは、オモニ︵母親︶が﹁私は日本人で何も知り ません﹂と言った。でも、何ヶ月かいろいろ話し合うう ちに、﹁私も在日です。先生に言ってませんでしたつ け?﹂と、出会い直すことができた。そうして、オモニ は私に自分の民族名を話し、私への手紙に民族名を書い てくれるようになった。アボジ︵父親︶やハラボジ︵祖 父︶・ハルモニ︵祖母︶とも会って話し合い、私は多く を学んだ。もちろん、本人とも大切な話をしていった。 私自身、日本と朝鮮の歴史を勉強し、九州や韓国にフ ィールドワークに出かけ、日本と朝鮮、在日について考 える授業を何回か試みた。正直、たいした授業ではなか ったと思う。でも、﹁今の石川さんの精一杯でやればい い﹂と大沢先生に励まされ、私なりの授業を行っていっ た。結局、六年の終わり頃、親は、家族そろって日本国 籍取得を選んでいった。私は自分の無力を感じたが、最 後の最後に彼は大きなことをやってのけた。彼は社会の こぺる 9
時間の中で、クラスのみんなに自分が在日であることや 民族名があることなど、大切な話をしてくれたのだ。彼 は自分で自分を語ったのだ。私は本当にうれしかったし、 きっとクラスのみんなも受け止めたと思っている。そう して卒業していった。その三年間は、識字に通い、大沢 先生と二人三脚で何とかかかわり続けられたと思ってい る。大沢先生は﹁ゃったのは石川さんです。家族で石川 さんを育ててくれたのです﹂と言った。私は言葉の通り、 その家族に支えられ、やってきたのだと思う。彼は、今、 高校一年生になっている。時々、電話をしたり、読んで ほしい本を送って感想を聞いたりしている。彼が最初に 読んだのは、李仁夏︵イ・インハ︶先生の﹁歴史の狭間 を生きる﹄︵日本キリスト教団出版局︶だった。彼のこ れからの生き方がとても楽しみである。これからもかか わり続けようと心に決めている。 彼以外にも、気になる子どもたちのことを識字で書い た。書きながら自分の課題を見つけていった。大沢先生 はいつも激励し、知らないことを教えてくれ、道しるべ になってくれた。識字がなければ、私の実践なんてなか ったし、何も気にならない教師になっていたと思う。 また、識字学校を通して、私は多くの大切な人と出会一 うことができた。識字学校に行かなければ出会うことが一 できなかったであろう人たちだ。被差別部落の人、南米一 に移住した人、在日一世の人、奉公をして学校に行けな一 か っ た 人 : ・ 。 私 は 多 く の 人 か ら 学 ん だ 。 部 落 と い っ て も 、 一 その一人ひとりに人生があり、生きてきたことを改めて一 知った。話を聞くたびに、自分には何もないから分から一 ないのではないかと思ったり、情けなくなったりもした。一 被差別の側に立つってどういうことだろうと考えさせら一 れた。でも、人のあたたかさに救われた。私が出会った一 10 人たちは、無知でどうしょうもない私に人生の大切な話 をしてくれたのだ。大沢先生は﹁石川さんの質問にしっ かりと答えてくれたのです。石川さんに話したんです よ﹂と言った。私に話してくれる、そのことをもっと大 切に受け止めればいい、そう思えた。目と耳と心と、体 いっぱいでその人の声を聞けばいいんだ、そう思えるよ うになった。そして、私は日いっぱい、その人の生き方 から学べばいいのだ。識字学校には、人から学ぶ、人間 の生き方を学ぶといった大切な学びがあった。 また、私は大沢先生主宰の﹁横浜・寿識字学校ゼミ
民衆駅﹂に月一回参加し続けた。本を読みなが ら学んでいく場である。学校では教えてもらえなかった 大事なこと︵自分でも何も勉強してこなかったから学校 のせいだけではない︶を、本を通して学んだ。部落や在 日、障がい者、沖縄、アイヌ、と場・:など、被差別の側 の歴史や思いを、本を通して考え、学んできた。そして、 勉強しながら、前には見えなかったことも少しずつ見え てきて、想像できるようになってきた。被差別の側にあ る親子のことが気になり始めた。その親子にどうかかわ るか、何が課題かを考えるようになった。もちろん、ま ナ l ル だまだである。やっと、共にやっていくスタートライン に立てた段階だと思う。 また、始めのころ、字の読み書きができないことが自 分とは関係のないことと思っていたけれど、歴史を勉強 していくうちに大いに関係のあることだと気がついた。 遠い世界のように感じていたが、違っていた。そう思っ ていたこと自体、私は差別者だったのだ。空気のように 肌にはいっていった、その感覚こそが、差別するという ことだ、と今は思う。学校教育の中で切り捨てられた人 が識字学校で出会った大切な人たちだった。ならば、学 校教育で切り捨てずにやっていくこと、大切に思い、そ− の人たちから学んでいくこと、それが学校教育でやらな一 ければならない︵やっていきたい︶私の仕事だと思う。一 大沢先生がとても厳しく人を問いただす場面にも何回一 か立ち会った。その人の差別性を問いただす場面である。一 ﹁前に進もうとしてもずるずると後ろにひっぱられるの一 で言うのです﹂と大沢先生は言った。私はそれから来な一 くなった人を多く見ている。私はそんな場面に立ち会う一 と自分の中にもありそうなその差別性におどおどした。一 正直、次に言われるのは自分ではないかと心配もした。一 それくらい、自分には自信がない。きっと、大沢先生は一 分かっていたと思う。私のそういうところをすべてお見一 通しだったと思う。大沢先生が亡くなる半年前くらいに、一 ﹁石川さんにはきついことを言わなくてはならない﹂と一 言い、私はたくさん問いただされた。厳しく、やさしく、一 確かな言葉で。揺れていてしっかり立っていない私に、一 具合の悪くなった体で話してくれた。大沢先生の厳しさ一 であり、真の優しきだった。自分の一番弱い部分に触れ一 られることはすごく嫌なことでもあるけど、人間として一 避けては通れない部分でもあると思う。避けて通ったら一 こベる 11
そこで終わり、先には進めないのだと思う。そこに大沢 先生は一直線に問いかけてくれた。それは人間対人間の かかわりだった。あとは、私がしっかり立って、行動で きるか、だ。本当にやれているかを自分で問いただし、 立て直すしかない。前を見てやるだけなのだ。 横浜・寿識字学校は大沢敏郎先生という一人の人聞が 開いた、世界でもまれな学校だと思う。文字の読み書き ができる、できないに関係なく、自分の意志でその学校 に通うことができた。また、そこにいる人はみな、共同 学習者だった。教える人も教わる人もボランティアもい ない。そこではみなが学んでいた。それを大沢先生は命 をかけて守っていたのだ。 私にとって、横浜・寿識字学校は人聞を学ぶ場だった。 自分とは何か、人間とは何か、どう生きていくかを考え る場だった。自分以外の人のことを考える力を育てる場 z − コ , − o J ’ ’ J 一 ふ ー ’ 自分と向き合うとは、自分の過去を、自分の今を、自 分のこれからを、その生き方を、問うことだと思う。そ して、自分以外の人を想い、どうかかわれているか、ど うしていきたいかを決めていくことだ。言葉にすること 声 る で し と 思 て カf つ 、 で て 自 き い 分 る る を 。 こ よ 識 と り 字 や 明 を 考 ら す え か る て に と い し い る て う こ こ と 人 と を 聞 は よ を 、 り 学 言 明 ぴ 葉 ら に か 生 し に き て す 12 ていくということだと思う。 識字学校の共同学習者の一人である成且善さんは、大 沢先生が亡くなったことを、﹁一本の道が終わった﹂と 言った。その後、吉田さんや竹村さん、私が集まって ﹁自分にとって識字とは何か﹂を話し合う場を設けよう と話しているのを聞いて、彼女は﹁一本の道は終わって なかった﹂と言った。一本の道、人聞が生きるその道に 共に歩んでいくことこそ、横浜・寿識字学校があり続け ることだと思う。大沢先生が生きた一本の道の精神、そ の精神をもって、一人ひとりがその人の生きる場所で識 字をすることだと思う。すなわち、人聞を学び、生きて いくことではないか、と思う。横浜・寿識字学校という 場所はなくなったとしても、それぞれの場所で識字をす ることはできる。私なら、学校現場で、識字の精神を貫 けるか、一本の道を歩めるか、だ。二一
O
代、人生の土台 を作り、逃げずに一歩一歩、歩んでいきたい。大沢敏郎さんを 受け継ぐ③
識字学校との出会い
竹村早織︵東京都東久留米市在住︶ 寿識字学校と大沢敏郎さんに出会ったのは一九歳の時 づ だ。私は勉強浸けの受験の末、生まれ育った長野から東 京へ出てきて一年経ち、目的や目標が持てずにいた。何 をすればいいか、何をしていけばいいかわからずにいた。 ただ、人と関わる何かがしたい。自分を必要としてくれ る場を求めていた時だった。 識字学校に通うにつれ、それまで受けてきた﹁学校教 育﹂と明らかに違うことがだんだんわかってきた。毎回 席に着くと、大沢さんが温かいお茶を出して下さった。 ほっと一息つけた。そして、詩や短歌等が書かれたもの と用紙を渡された。三時間のうち二時間程それらを読み、 読んで感じたこと、近況等を思い思いに用紙に書く。後 の一時間程で一人ひとり書いたものをみんなの前で読み、 話した。私はこういった時間を新鮮に思うと同時に戸惑 いすら感じていた。それは、自分自身と向き合う時間だ一 ったからだ。それまで、がむしゃらに点数をとるための一 受験勉強をしてきた中で、自分自身と向き合ったことが一 なかった。しばらく、どうしていいかわからなかったが、一 あ ん ど 一 不思議と識字学校にいると心静かになれ、安堵感があっ一 た。大沢さんが渡して下さる詩や短歌は、その日の一人一 つ 一 ひとりに合うそれぞれ違ったものを渡していた。胸を衝一 かれるもの、見抜かれているかのような鋭いもの、時に一 はふるさとを思い返すようなあたたかなもの:・。一 話をきく一時間程の中で、よく大沢さんから﹁どうで一 弘 吉 すか﹂と訊かれた o 正直、困った o なぜ困ったのか o 大 一 沢さんから、というより、話をされた方から問われてい一 たから、返すことばが自分の内にないことに気づいたか一 らだ。返そうとしても、表面上の体裁のいいことばしか一 出てこない。普段口にしている﹁おしゃべり﹂のことば一 とは明らかに違う。そのうち、話すべきことばを持たな一 い私はことばが出なくなった。識字学校の席に着く方の一 ことばに圧倒された。そして、書く姿に圧倒された。消一 しゴムを一切使わず全身からことばを紡ぎ出すかのよう一 に一気に書く男性がいた。﹁俺には必要ないからよ﹂と一 おっしゃった。私は何度も何度も書いては消し、一 消して こべる 13わ は 書 き ・ : の 繰 り 返 し 。 書 き た い こ と が 内 か ら 湧 き 上 が っ てこない。文字が書けても書きたいことや書くべきこと がなかった。話すことばが出なくなったことと同じだっ せ い ひ っ た た ず た。静誼な件まいで静かに穏やかに書く姿。辞書が反 り返るほどことばを引きながら他国語である日本語で書 き続ける姿。私はそういった方たちと出会い、書くべき ことがない自分に気づいていった。きくことの大切さも 教えられた。私のそれまでの﹁きく﹂は﹁聞く﹂だった。 こころで﹁聴く﹂ということ、ことばの向こう側にどん な情景がありどんな人たちがいてどんな思いがあるかに 思いを巡らしながら、ことばになっていない何かをさら に想像しながら﹁聴く﹂ことを初めて知った。他の方の 話をきき、自分も話をし、きいてもらう中で、私は今ま でこんなに人と話をしてきたことがあっただろうか、お 互 い に ﹁ 聴 い て ﹂ き た こ と が あ っ た だ ろ う か : ・ と 思 っ た 。 ずっと心の奥の方にしまいこんでしまっていたいろんな ことを少しずつ思い出すようになった。ずっと誰かと話 したかったし、聴いて欲しかったし、注意や批判をして 欲 し か っ た の だ 。 識字学校に来なければ出会えなかった一人ひとりの生 きてきた中での数々の困難、苦労、哀しみ、喜び:・をき く度に一人ひとりの、人の存在が﹁歴史﹂なんだと実感一 した。歴史の中に人がいるのではない。人がいるから歴一 史がある o それまでの﹁勉強﹂の中での﹁歴史﹂は﹁知一 識﹂だった 0 年代や事象を暗記することが歴史の﹁勉− 強﹂だと思ってやってきた。﹁人から学ぶ﹂﹁人を学ぶ﹂一 大切さの中で、今まで自分が失ってきたもの、踏みつけ一 てきてしまった人たち、自分さえよければいいと見ない一 ようにしてきたこと・:がたくさんあることにやっとたど一 り着いた。成績・点数・偏差値・人からの﹁評価﹂でや一 ってきた価値観が大きく揺さぶられ、今までの自分が何一 な の か に 立 ち 返 ら ざ る を 得 な く な っ て い っ た 。 一 ずっと﹁勉強﹂は私にとって﹁安心﹂を得るための手一 段・方法だった。小学校の頃、同級生が教師に殴られ、一 意味がよくわからないことで怒られ、時には無視され、一 という状況が三年続いた。最初の衝撃の強さは大きかっ一 た。が、その後何も変わらない状況︵変える術をしらな一 ま ひ 一 かった︶の中で感覚が徐々に麻痔していった。自分の身一 を﹁守る﹂のは、勉強をしてよい成績をとることと解釈一 していた。成績がよければ、怒られず、痛い思いもせず、一 言いがかりもつけられないはず、と自分の身を守ること一 しか考えられなかった。本当はたくさんの、よくわから− 14
ないこと・やってしまったこと・つらかったことがあっ たが、それを誰にも話さなかった。話せなかった。誰か に意見をきくこともなかった。おかしいと思うことにつ あ ら が いても最初は抗えず、徐々に抗わずに、そのうち流れ に身を任せる方が少しずつ﹁楽﹂になり、﹁罪悪感﹂も 少しずつ薄れていった。安心を得るために勉強していた はずが、すればするほど不安になっていた。すればする ほど、大切な家族・周りの人たち・大好きなふるさとか らどんどん離れていったからだった。自分が本当は大切 にしたかったものは何だったのか。決して周りから強制 されたわけではなく、自らが選ぴ進んできた中で、たく さん間違え、それによってたくさん失ってきた人たちゃ、 たくさん失ってきている大事なことと向き合い始めた。 ﹁これまでの自分とこれからの自分を細かく丁寧に出来 るだけ思い返し、検証すること﹂が私の責任であり、 ﹁嘘なく本当の自分を生きていく﹂ことが課題となって いった。識字学校に通い、書き・話し・聴くことを通し て 。 同じ時期、私は﹁障害﹂をもっ女性に出会った。その 方の介護を通して、識字学校と同じように鍛えられ、鍛 えられ続けていると思う。さらに彼女から始まった介護 の現場で出会ういろんな方に鍛えられていると思う。一 在宅で、一人暮らしで生活をする﹁障害﹂者の介護は、一 基本的に一対一だ。相手から間われ、自分を問うことを一 続けていかないと成り立っていかない。何を大切にする一 のかを問い続けることを学ばせてもらっている。介護も、一 全身が問われ、全身が判断される。顔の表情・声の調一 子・話し方:・。私は主に身体障害をもっ方の介護が多く、一 それゆえ体と体がじかに触れ合うので、緊張や焦りや不一 安など様々な感情が伝わってしまう。嘘やごまかしがき一 かない。そういうところだからこそ、今までやれなかっ m た自分を取り戻し続けたくて、やっていきたいと思うの一 だ。自分に嘘やごまかしゃ言い訳がある限り、相手との一 関係は、嘘・ごまかし・言い訳でしかない。﹁本物﹂に一 していくにはどうしていくか、を考え続けなければなら一 ない。相手のどこが大事か理解し、わかりたいと思い、一 よくないところは批判し、対話を重ねてお互いに存在を一 認め合おうとしていく過程が人を大切にしていくことに一 なると思う。介護で︵他の人との関係においても︶私が一 気をつけていかないといけないのは、自分は、流されて一 生きてきたので、人からの﹁評価﹂を気にして相手に合一 やさしくしたり、自分を正直に素直に出せな一 こぺる わ せ た り 、 15
い時がまだあるところだ。嫌われるのがこわくて人にや さしくするのはやさしさではない。結局自分を守ってい るだけで何も変わらない。そうやっていたら、相手との ゆ が 関係は歪んでいく。何年介護をしていても状況が日々変 ず る わり、その度に多くの失敗と反省がある。私の狭さ・弱 さを歪んだやさしさの中に隠してしまわないように、目 の前にいる人と向き合いながら関係を作っていきたい。 それには、私が変わり続ける努力をしていくことだと思 う。﹁守る﹂とはどういうことか。﹁誰を守り﹂﹁何を守 り﹂﹁誰の何を守りたいか﹂をはっきりさせること、自 分に問い続けていくこと、そして自分の中の﹁加害性﹂ と向き合っていくことしかないのだと思う。 家族でも知り合いでもない、ある一つの﹁場﹂として 様々な人に出会う﹁識字学校﹂と﹁介護﹂。自分自身と しんし 真撃に向き合い、闘い続けている人がたくさんいる。本 当にありがたいと思う。そういう場での出会いを必要と していたのは、必要だったのは、自分だと思った。 識字学校で学んだ﹁自分自身を明らかにしていく﹂作 業は生きているかぎりずっと続く。私は、﹁学校の卒 業﹂を何年経てば終わりというように考えていた。その 結果、その場しのぎになり、それが私の生きていくうえ での習い性になっていた。でも、何年経つでも卒業がな い。終わりがない。続けていくしかないということを学 んだ。それが生きていくということなのだとわかった。 大沢さんは、私にとって、私の人生において恩師であ り、存在をまるごと受け止めて下さった方だ。一人の人 として真剣に向き合って下さった。﹁何がよくて何がよ くないか﹂、嘘なく﹁本当とは何か﹂を正しくたくさん のことを学ばせてもらった。大沢さんや識字学校のみな さんに出会えていなかったら、大切なことに気づくこと も な く 、 相 変 わ ら ず 嘘 と ご ま か し の 中 で 人 の 目 ︵ 評 価 ︶ − だけを気にして生きていったと思う。﹁本当の自分﹂を 生きるということを学ばせていただいた。この一五年で やっと一歩。取り戻していくのはこれからもずっと時聞 がかかるかもしれないが、私にはとても大きな一歩で大 切 な 一 歩 だ 。 大沢先生、識字学校のみなさん、本当に感謝していま す 。 あ り が と う ご ざ い ま す 。 16
ごうど 鴨 水 記 さ ん は 生 前 語 っ て い る o ﹁僕は︿おかマ岐阜県神戸町・真宗大谷派信願寺の マ﹁日雇い労働者が集まる横浜・寿町。さん﹀という字に︿あ﹀が抜けている、報恩講︵ 1 ・ 1 ︶で卯歳の男性に﹁元 毎週金曜日の夜に﹁寿識字学校﹂を主ということをやろうとしていた L 。大気で話を続けてください﹂と励まされ、 宰した大沢敏郎さんが叩月、臼歳で亡事なのは言葉を介して人と出会うこと。神戸幼児図では年長組の叩人が静かに くなった。葬儀に駆けつけた同い年の以来、文字や文章を直さなくなった。話を聞いてくれました︵ 1 −