主催:早稲田大学総合人文科学研究センター研究部門 「社会の複雑化・階層化の史的パースペクティブ」 共催:早稲田大学高等研究所
シンポジウム報告書
「権力の誕生―儀礼・祭祀からみる古代文明形成の考古学的アプローチ―」
日時:2016年2月20日(土)13:00〜18:00 会場:早稲田大学戸山キャンパス 36-681【プログラム】
●13:00−13:05 開会挨拶:近藤二郎(早稲田大学文学学術院) ●13:05−13:15 趣旨説明:馬場匡浩(早稲田大学文学学術院) ●13:20−13:45 発表1 城倉正祥(早稲田大学文学学術院) 「平城宮・京の思想と象徴性−漢唐都城との比較から−」 ●14:50−14:15 発表2 久保田慎二(日本学術振興会特別研究員 PD・東京大学) 「中国新石器時代末期から初期王朝時代における権力の出現過程」 ●14:20−14:45 発表3 上杉彰紀(関西大学) 「インダス文明社会の地域構造−広域社会の存立原理を権力構造から考える−」 ●14:45−15:00 休憩●15:00−15:25 発表4 小髙敬寛(東京大学総合研究博物館) 「西アジアにおける儀礼・祭祀の顕在化」 ●15:30−15:55 発表5 安倍雅史(早稲田大学高等研究所) 「葬制から見た古代ディルムンにおける権力の発生」 ●16:00−16:25 発表6 馬場匡浩 「儀礼・祭祀にみるファラオの起源」 ●16:30−16:55 発表7 長屋憲慶(金沢大学国際文化資源研究センター) 「稀少石器の消長にみるエジプト文明形成期のエリート層」 ●16:55−17:10 休憩 ●17:10−17:55 ディスカッション:発表者全員 コメンテーター :高橋龍三郎(早稲田大学文学学術院) :小泉龍人(国士舘大学イラク古代文化研究所) ●17:55−18:00 閉会挨拶:近藤二郎
【報告要旨】
趣旨説明
◆馬場匡浩:(早稲田大学文学学術院) 政治権力はいかにして誕生したのであろうか。人類史の大きな流れは、複雑化社会の過程と換言で き、とりわけ複雑化の度合いを高めたのが、権力の出現である。権力および階層化の生成はこれまで、 唯物論が理論的基盤にあるため、生産様式や生業文化、余剰といった経済的側面から語られてきた。 しかし、下部構造が上部構造を支え規定するとする唯物論的構図の見直しをせまる動きも出てきてい る。その1 つが「権力資源」という考え方である。社会は複雑に相互作用する社会的パワーのネット ワークで構成され、社会的パワーは経済、軍事、政治、イデオロギーの 4 つに分類される。中でも、 複雑化社会の研究において注目されるのが、イデオロギー的パワーである。なぜなら、地位や資源の 不平等を正当化させるにはイデオロギー(規範・価値)の創造と共有が必須となるからである。そして、イデオロギーを社会的パワー資源として機能するには可視化が必要となる。それが「イデオロギ ーの物質化」であり、その形態は主に、儀礼的イベント、象徴物、公共的記念物・景観、文字システ ムである。この4 つの物質化は、基本的にどれも儀礼・祭祀など宗教的コンテキストにあることから、 今回のシンポジウムのテーマ「権力の儀礼・祭祀からの考古学的アプローチ」を設定した。また、そ れぞれの社会で物質化の様態は多様であることから、早大考古の強みを生かし、世界各地の様々な地 域を対象として発表者を構成した。
発 表
◆城倉正祥(早稲田大学文学学術院) 「平城宮・京の思想と象徴性−漢唐都城との比較から−」 日本律令国家における権力構造が都城というハードにおいて、どのような思想的な背景の中で象徴 的に表現されたのか。特に、中国の漢〜唐代の都城の発展とその思想の変遷、そして律令国家の儀礼 舞台の出現過程を明らかにしつつ、日本の古代国家においては、どのような形で権威の象徴的舞台が 儀礼空間として導入されたのか、その歴史的意義を考えた。日本都城には、中国都城の礼制建築や皇 城が基本的には存在せず、中心軸も不完である。また、「周礼」で藤原京、「三朝制」で平城宮を理解 しようとする説にも限界がある。構造的特徴は、中国都城の思想の解体・再編成(日本の支配・統治シ ステムへの融合)を示している。内裏を中心として見た時、内裏-大極殿-朝堂の南北構造は日本都城に 通底する構造的特徴である。おそらく、古墳時代以来の伝統的な支配構造を基礎として、飛鳥・藤原 宮で発展した宮構造なのであろう。一方、平城京段階では内外勢力への権威誇示を目的として「劇場型 都城」を設計し、中枢部においては新しく含元殿型外朝空間を持つ大極殿院を創設した。その後、平安 宮では、共食儀礼の発達に伴って、閤門出御型空間を発展させ、豊楽院を創設した。すなわち、中国 都城の単純模倣ではなく、その思想の解体と再編成こそが、日本都城に象徴された権力構造の核心と いえる。古代日本の権力・支配構造の特質は、外来権力の「権威借用」と天皇権力の「伝統継承」の 二重性にある。 ◆久保田慎二(日本学術振興会特別研究員 PD・東京大学) 「中国新石器時代末期から初期王朝時代における権力の出現過程」 中国において、儀礼・祭祀と権力の関係を考えるうえ で欠かせない概念に「礼」がある。「礼」とは一種の社 会規範であり、考古学的アプローチでは特にその社会階 層に関わる規範が「礼」として扱われる傾向にある。中 国における「礼」は、時代ごとに認識が異なるものの、 一定の一貫性をもつ。つまり、ある社会が形成した規範 を後続する社会が継承し、さらに新たな要素を創出する ことで、その内容を変える。本発表では、「礼」とされ る社会規範がいかなる過程を経て出現したのかについて、 新石器時代末期から初期王朝期を対象に検討した。まず 一つの到達点として殷文化の殷墟の社会とその儀礼的規 範を紹介し、そこに至るまでの新石器時代末期の良渚文化・陶寺文化の墓を中心に、副葬遺物の規則性 やその空間的広がりを述べた。そして、それらの文化の儀礼的要素を継承し、独自化することで新たな 社会規範を形成した二里頭文化(夏王朝・初期王朝期)の二里頭遺跡における墓からみた階層構造を示 した。特に儀礼に用いる酒器の組成を中心とし、明確な階層的社会規範が存在したことを示した。さら に、その規範が二里頭遺跡だけではなく、二里頭文化の中でどこまで浸透していたのかを周辺遺跡の検 討から明らかにし、新石器時代末期に比べ、より一般集落まで浸透するだけでなく、空間的にも一定の 広がりを示すことを指摘した。一方、二里頭文化の影響圏外にある下七垣文化(後の殷文化)の社会規範を示すことで、二里頭文化の外側には異なる規範をもった社会が存在したことも指摘した。しかし、 下七垣文化をもとに成立する殷文化前期の二里岡文化の墓からは、下七垣文化にみられた社会規範を示 す遺物を出土する他に、二里頭文化を代表する酒器が出土するようになる。つまり、殷文化は自らの社 会規範に二里頭文化の要素を組み込み、それを継承することで新たな規範を創出したことが分かる。そ して、それが後続する時期に継承され、「礼」が成立するのである。新石器時代末期から二里頭文化、 そして殷文化という文化的・政治的交替の中で、一定程度の社会規範が継承され、それらが蓄積された ことで中国における「礼」が形成されるのである。そして、「礼」の継承を必要とした背景には、権力 の出現があり、複雑化した社会を調整するための一つの手段として形作られたと解釈できる。 ◆上杉彰紀(関西大学) 「インダス文明社会の地域構造−広域社会の存立原理を権力構造から考える−」 インダス文明には、都市は存在するものの王宮・王墓 など権力の明瞭な物質的顕在化はみられない。そこから いかに権力構造を読み解けるか、広域統合とその制度、 社会的シンボル、希少資源の開発・流通などから検討を 加えた。インダス地域における地域社会の発達と西方と の交流関係が両輪となってインダス文明社会が形成され た可能性があるが、特に西方との広域交流関係において は、その関係を強化しようとする集団が出現し、文明社 会の形成に大きな役割を果たしたと考えられる。また、 インダス文明の広域性からみると、広域社会の形成・維 持を志向する明確な社会的意志(権力)が存在した可能 性が高い。その中で、都市が一つのモニュメントとして、政治的・経済的な広域地域統合を実現するた めの拠点となっていたと考えられる。このことから、村落地域も含めたインダス文明社会の中で、都市 住民全体が相対的にせよ社会的高位者であった可能性が高く、その社会的地位・階層構造を維持するた めの権力が存在したとも考えられる。しかし、都市遺跡から出土する遺構・遺物からみると、特定・少 数の傑出した社会的高位者・集団が存在した可能性は低く、文明社会全体を維持するための都市間の連 合関係や都市内部の合議的統治・調整システムが存在した可能性がある。その後のインダス文明の衰退 は、都市社会を支えるための社会組織・権力の弱体化・消滅を意味しており、文明期以後の社会に継承 されることはなかった。以上の点から考えると、インダス文明期に発達した都市と、権力も含めた都市 を基盤とする社会構造は、定着性を欠くものであった可能性が考えられる。この点は、メソポタミアや エジプト、中国などの他の地域との大きな差異であり、都市社会と権力に関する比較文明史的考古学研 究に興味深い事例である。なぜ、都市とそこに基盤を置く権力が姿を消すことになったのか、インダス 文明社会における権力の特質を考える上でも一つの手がかりとなろう。 ◆小髙敬寛(東京大学総合研究博物館) 「西アジアにおける儀礼・祭祀の顕在化」 終末期旧石器時代から後期新石器時代にいたる儀礼・祭祀の考古学的資料をレビューし、「新石器化」 における人間集団の規模や社会秩序の発展との関わりについて考えた。最初の定住化を果たしたナト ゥーフィアン前期では、墓地が形成され、副葬品を伴う遺体が検出されている。その後期では、多様 な動物の特定部位の骨を伴う初老女性の埋葬がみつかっており、特定の人物に対して餐宴を伴う葬送 儀礼が執り行われた可能性が指摘されている。先土器新石器時代は、後氷期の温暖・湿潤化とともに、 再定住化、生産経済への移行、工芸技術の進展など「新石器化」の核が揃い出し、集落の固定化・肥 大化が進む。この時代、ギョベクリ・テペ遺跡などの巨大な祭祀センターが出現し、プラスター頭骨 や彩色人骨、神を表現したかのような像も出土するようになり、儀礼・祭祀の顕在化をみてとれる。
その後の後期新石器時代は、「新石器化」の完了に続く「新石器の崩壊」と位置付けられ、人間集団の 規模が縮小・分散する。それに呼応して、共同体単位での儀礼・祭祀の痕跡が希薄になる。こうした ことから、新石器化プロセスにおける人間集団の規模増大と儀礼・祭祀の顕在化は、巨視的にみれば 正の相関にあるといえよう。それは社会的秩序や紐帯を維持・強化する役割を想定できるからである が、しかし細部にまで敷衍できるほど単純ではない。また、階層性や身分差、あるいは権力の存在は、 解釈によって意見が分かれ、程度の問題も含まれよう。権力の生成理論としては、社会的側面だけで なく、経済的側面も従来通り注視するべきであろう。 ◆安倍雅史(早稲田大学高等研究所) 「葬制から見た古代ディルムンにおける権力の発生」 ディルムンは、メソポタミアの文献に登場する周辺国の 1 つであり、前 2000 年から前 1800 年にか けてペルシア湾の海上交易を独占し栄えた王国である。インダス産のカーネリアンや、砂金や象牙、 オマーンの銅などの商品が一度ディルムンに集積され、ディルムン産の真珠やサンゴや鼈甲などとと もに、ディルムンの商人あるいはメソポタミアのウルの商人の手によって、メソポタミアに運び込ま れていたことが知られている。本発表では、このディルムンにおいてどのように権力が発生していっ たかを、形成期と文明期の古墳の比較から考察した。形成期(前 2200〜前 2050 年)は、ほぼ無人だ ったバハレーン島にアラビア半島から相当数の人間が入植してきた時代であるが、都市や神殿、王墓 が存在せず、階層化がまだ発達せず比較的平等な社会であったと考えられてきた。一方、文明期(紀 元前 2050〜1800 年)には、商業活動の発展を受け、城塞都市や大型神殿などが建設され、階層化も進 み巨大な王墓なども建設された。さて古墳においては、形成期は積石塚が基本である。しかし文明期 になると、墳丘墓となり、石ではなく土を盛る構造が一般的となる。文明期の王墓には周壁を伴うも のがある。周壁を築くという行為は王墓にだけ許された特権だった可能性が高い。しかし、近年、形 成期の古墳にも周壁付き古墳が存在することが判明し、発掘の結果、特別な被葬者(エリート)を埋 葬していた可能性が高まった。そのため、現在、比較的平等と考えられていた形成期の古墳にも格差 が存在し、形成期の周壁付き古墳が後のディルムン王墓へと発展してくと考えられるようになった。 形成期の周壁付きエリート墓と文明期の王墓の最も注目すべき違いはその立地にある。形成期の周壁 付きエリート墓を含む墓域は生活域から見えず目立たない場所すなわち涸れ川の奥に構築されていた。 また初期の墓域の主役は、周壁付きエリート墓ではなく、涸れ谷の最奥につくられた入植当初の始祖 たちの墓であった。一方、文明期になると始祖たちが眠る墓域が廃絶され、王墓専属の墓域を最も生 活圏から目立つ場所に定めていく。当時の人々は、日常生活の中で王墓を下から眺め、王の権力と威 光を感じていたのであろう。主役の座は、始祖から現役の王へと移り、王は王墓を通じてその権力を アピールしはじめたのである。 ◆馬場匡浩 「儀礼・祭祀にみるファラオの起源」 エジプト文明はファラオの誕生で幕を開ける。その ファラオの最大の役割は、マアト(秩序)を維持し、 イスフェト(カオス)を排除し、コスモロジー(世界 観)の安定につとめることであった。これが、ファラ オをトップに据えた社会のイデオロギーである。その ため、ファラオは神殿で神々への供物儀礼を通じてマ アトの維持を懇願し、カオスとみなす自然の脅威を排 除するためにカバなどの儀礼的狩猟を行った。こうし たイデオロギーの初源が、先王朝時代(紀元前四千年 紀)のヒエラコンポリス遺跡にみられる。エリート墓 地の 23 号墓コンプレックス(ナカダⅡB 期)では、カ
バやハヤブサ、矢尻や動物形石器など、野生動物や狩猟を対象とした特異な遺物が検出された。さら に 16 号墓コンプレックス(ナカダⅠC-ⅡA 期)では、実際に野生・家畜動物の埋葬を伴っていた。野 生動物骨の分析では、狩猟時の怪我や治癒、繋綱の痕が確認されることから、捕獲後一定期間飼って いたとされる。それを埋葬した目的は、当時すでに「墓は来世の家」の概念が存在し、邸宅の周りに 動物を飼い慣らしているその生前の環境を墓地で再現したものと想定される。つまりそれは、動物と いうカオスの支配をエリートが実践していたと考えられるのである。さらに、そうした動物の儀礼的 屠殺の場所も検出された。それは、楕円形の中庭と 4 本柱を持つ祠堂からなる初期神殿である。中庭 外の廃棄ピットから野生・家畜の動物骨が大量に出土し、ここでエリートが屠殺的儀礼を実践してい たと考えられ、エジプト文明のコスモロジー形成の始原とみなすことができる。こうした儀礼は、政 治的地位の安定と神聖さの付与、そして社会紐帯の強化が目的であるが、行為者であるエリートはい かにして誕生したのか。先王朝時代初期から、狩猟と軍事的勝利の図像が一緒に土器などに描かれる ことから、狩猟活動は社会的権力の象徴とされる。16 号墓周辺に埋葬された野生動物の種類から、そ の狩猟活動は広範囲で、特殊技術と組織化が必要と考えられる。既に農耕牧畜経済にあるこの時代に そうした特殊狩猟集団の出現は考えにくい。それを求めるならば、新石器時代後期サハラ砂漠のナプ タ・プラヤ遺跡を形成した遊牧・狩猟採集民しかいない。彼らは遊牧社会にもかかわらず、巨石モニ ュメントを造り、仔牛を盛土に埋納するなど祭祀活動も行っている。恐らく彼ら狩猟集団は、ナイル 川流域が農耕社会へと移行するなかで名声を得てのリーダーとなり、動物儀礼や祝宴により地位と神 聖さを獲得し、それが最終的に、マアトの維持という宗教的イデオロギーの形成と、その行為者であ るファラオの誕生をもたらしたのであろう。 ◆長屋憲慶(金沢大学国際文化資源研究センター) 「稀少石器の消長にみるエジプト文明形成期のエリート層」 紀元前4000 年からの約 1000 年間はエジプトの文明形成期に位置づけられ、王朝開闢に向けた社会 の胎動が加速した時代である。この時代エジプトの南部地域ではナカダ文化と呼ばれる先王朝文化が 花開き、エリート(高階層の人々)が出現した。エリート層は、自らの権力の誇示を目的とした様々 な儀礼・祭祀活動を行った。紀元前 3600 年頃になるとナカダ文化はその領域を拡大し始め、やがて エジプト全土がひとつの物質文化に統一される。本発表では、エリート層の権力の表象ともいえる美 しい儀礼・副葬用の稀少石器の特徴を、上述のナカダ文化拡張前後で比較した。そして、エリートた ちの権力の維持・強化の在り方やその広がりをとおしてエジプト文明形成の一端を論じた。ナカダ文 化拡張以前の稀少石器は、当時の中心遺跡であったヒエラコンポリスの石器文化に代表される。この 遺跡のエリート墓地では、動物やシンボルを象った石器、狩猟具、大型のナイフ等が盛んに作られ、 埋納された。これは、混沌たる自然を人間の統制下に置くことを象徴的に表現する行為であり、エリ ートの権力を維持・強化させる意義があった。また、神殿区域では、稀少石器を建物基礎部で燃やし て破壊する儀礼的活動が観察された。この点は、現代の地鎮祭や定礎に相当すると考えられた。その 後ナカダ文化の拡張期になると、ヒエラコンポリスの石器文化は突如として消失し、代わりに波状剥 取ナイフと呼ばれる両面加工石器がエジプト全土の墓から出土するようになる。復元製作実験の結果、 このナイフには1)製作に長時間を要するが、2)技術的な製作難度は比較的低い(職人を組織する 権力があれば製作可能)、という特徴があることがわかった。すなわち、領域の拡張に合わせて石器文 化が転換する背景には、より広範囲で石器の価値を共有させようというエリート層の需要から生まれ た技術選択が想定された。以上石器分析からは、権力の維持・強化への強い志向が窺い知れた。また 後にファラオに集約される権力構造やエジプト的な美術・工芸の在り方は、文明形成期におけるエリ ート層による試行錯誤の到達点と理解できる。
ディスカッションにおけるコメント
最後に、発表者全員と 2 名のコメンテーターによるディスカッションを行った。ここでは、コメン テーターの最終的なコメントについて記載する(録音からの抜粋)。◆コメンテーター:小泉龍人(国士舘大学イラク古代文化研究所) 本日のみなさんのご発表で、キーワードとして重要なのが「可視性」だと思います。西アジアの例 を紹介すると、まず都市誕生よりもはるか昔(新石器時代)で、儀礼は「見られる」ことはあまり意 識していなかったようです。つぎに、西アジアの中心のメソポタミアで、都市誕生に至るいわゆる都 市形成期になると、神殿は拝む空間としてだけでなく、次第に「見られる」場と化していきました。 そして、都市段階になると、神殿は「見られる」ことを前提としたパフォーマンス空間としても機能 します。神殿に安置されている神像が御輿で担ぎ出され、神殿に直結する目抜き通りをねり歩くなど、 わかりやすいセレモニーが行われるようになりました。つまり、都市段階になると、コミュニティー で生活している被支配者側に見せるための様々な工夫がなされていったのです。 同時に、メソポタミアの都市で特異な点は、「神ありきの街づくり」の伝統です。街の主は王ではな く守護神であり、都市では神殿が最も重要でした。ですが、そこにはからくりがあり、都市誕生の段 階に、神殿の背後に新しい性格の建物、いわゆる支配者の住む宮殿の祖型が出現しました。当初、目 抜き通りから見えにくい奥まった所に宮殿の祖型は築かれました。メソポタミアでは神を頂点とする 秩序が創出されていて、王は神の代理として街を支配する構図になっていました。都市誕生の段階で は神が前面に出されて、支配者はどちらかというと控え目でした。 まもなくして、メソポタミアで都市国家の段階になると、徐々に世俗的な支配者が表舞台に出てき ます。王の住まいである宮殿も立派な建築様式で建てられるようになります。世俗的な支配者が自ら の政体(国家)を維持するために権力を誇示しなくてはならず、私はここで明確なかたちで権力が露 出してくると考えています。やがて数百年後、都市国家が統一される領域国家の段階になると、安定 した社会でジッグラト(聖塔)が建立されて、神殿と併せて祭礼が実施されました。国家の秩序を維 持するための祭礼は、もはや憚ることなく人々に「見せつける」までになったのです。メソポタミア では都市の出現以前に権力の存在を想定することが難しい。つまり、都市の出現によって支配者の足 場が確保されて、秩序を維持するために権力を行使していくことになります。 さらに、権力の行使において重要なアイテムが、冶金と文字です。メソポタミアの都市以降の冶金 は、青銅器などの武器を鋳造することを主な目的としていました。冶金技術だけでなく、様々な祭礼 を恒常的に繰り返して伝達するためには、文字記録システムが必須となります。たとえば、上杉さん が話されたインダス文明では、絵文字が文字に羽ばたく前の中途半端な状態にあったため、都市はあ るが国家の姿が見えない、権力のにおいがしないのです。また、久保田さんの中国の話で、青銅器や 玉器という希少な資源・威信財が倉庫に納められているのは重要な点で、その開発には冶金技術が必 要であり、恒常的に生産するためには文字の伝達も不可欠になってきます。やがてこれが完成される のが、城倉さんがお話しされた時代です。 したがって、もともと「見られる」ことをあまり意識していなかった儀礼が、いつのまにか「見せ つける」祭礼へ特化されていくというのが、社会の複雑化の変遷を通時的に辿る目安として注目でき るのではないかと考えています。 ◆コメンテーター:高橋龍三郎(早稲田大学文学学術院) 縄文時代研究の立場からお話しいたします。まず、縄文時代には「神」はおらず、霊(スピリッツ) の世界です。神霊は、ある程度社会の進化とともに進化しますが、日本では、霊→カミ→神という順 序で変化します。人格の付与が関わっています。城倉先生のご発表にあった 8 世紀の都城が築かれた 時代は、漢字の「神」にあたる時代です。その時に初めて「天皇」の名前が出現します。その前の、 例えば卑弥呼の時代では、近年纒向遺跡で独立棟持ち柱をもつ高床構造物が検出され、それが今の伊 勢神宮の建築に似ていることから、それが古事記・日本書紀にある「保玖羅(ほくら)」であり、そこ に神を祀ったと考えられています。その神は、「倭大国魂神」と「天照大神」の二神です。この二つを 宮殿中に祀るのが申し訳ないので、垂仁天皇は娘(倭姫命)に「天照大神」を持たせて遷祀する場所 を求めて各地を行脚させます。そして最後に伊勢神宮に落ち着くこととなります。ですから、伊勢神 宮の祭殿と独立棟持ち柱(祭殿)が共通するのです。天皇以前の大王が住む場所が宮殿とすれば、神 の住む場所が神殿となります。大王が代わると宮が変わるが、それに合わせたように神殿も場所がか わります(遷宮)。そして最後に天皇の宮殿が固定されたのが藤原京なのです。ここでようやく「神の 住む」神殿も伊勢神宮に固定され、ここに日本の都城制がはじまるものと思います。ですから卑弥呼
の「氏神」から発展したのが「天照大神」であり、元来は氏族を守る「祟神」から出発したのでしょ う。この段階を経て漢字の「神」となり、最後に国家神となったわけです。その霊から神への長い移 行過程はどうであったのか、これに関して、小髙さんが言及された「トーテム」がキーワードとして 重要となります。そして、人口増加が起こったときに儀礼・祭祀が盛んになるとも言われました。ま た馬場さんや長屋さんのエジプトの例では、動物を象った石器、そして動物埋葬が注目されます。こ れは動物を食料以外の目的で屠殺するという「動物供犠」なのです。中国の久保田さんの話でも出た ように、動物を供犠することにより、先祖の霊と氏族集団、特定動物の三者の紐帯を深めていく。こ れがトーテミズムです。トーテミズムについて、『セム族の宗教』を著したロバートソン・スミス、そ れを受け継いだエミール・ディルケムによれば、「動物を大事にするからこそ殺し、それを先祖集団に 捧げ、生きている氏族集団との紐帯を強める」と考えています。その動物は、自分たちの統合のシン ボルなので、大事にしなければならない。例えば、ある集団はワニを、ある集団はヒヒをシンボルと するなど、そうした特定の動物種が集団の統合のシンボルとなります。こうしたトーテムが出てくる 社会状況は、氏族社会に変わったときです。氏族社会とは、ある特定の血縁系譜関係が認識された社 会です。日本では縄文時代中期末から後晩期にあたります。つまり、社会の変化と神霊の変化は連動 しているのです。ホカートの『王権』には「神なくして国家なし、国家なくして神はなし」という言 葉がありますが、それはつまり、国家と神がお互いを支え合っていることを意味します。王が権力を 持てるのは、それを支えている神がいるからなのです。国家という段階で神が顕在化しますが、それ 以前の首長制社会では、例えば日本では、弥生・古墳時代ではカタカナの「カミ」が該当とするので しょう。縄文時代では「霊」です。そして、地域、年代、生態環境、それらが違っても、それらを超 越して驚くように似たような社会制度が出てきますが、それは宗教的イデオロギーをコントロールす る点が最も重要だからであり、ディルケムが指摘するように、ある程度高みに達した社会ではトーテ ムが必要だからでしょう。そういった意味で、宗教が権力の源泉であり、権力をバックアップする力 であったのです。このように、トーテムまたは神をキーワードとして、それらがどのように生成され ていったのか、それと社会との関係はどうであったのか、今回のシンポジムを通じて、こうした研究 が今後も継続できると感じました。経済や政治だけでなく、こうした宗教やイデオロギーからの社会 研究の有効性を本日は確信いたしました。 最後に 今回のシンポジウムは、権力という不可視なものを考古学的に認識しやすい儀礼・祭祀の側面から 切り込み、権力を生み出すメカニズムとそれを支える宗教的イデオロギーについて、様々な時代と地 域を例に検討いたしました。そのため内容は多岐にわたり、まとまった見解を最後に提示することは できませんでしたが、さらなる課題も見つかり、次のステップを踏み出す良い機会でありました。当 日は、雨という悪天候にも関わらず、90 名ほどの方にご参加いただきました。ここに記して御礼を申 し上げます。 (文責:馬場匡浩) (とりまとめ:張 勝蘭)