駒澤大學佛敎學部硏究紀要第七十一號 平成二十五年三月 四五
はじめに
関 山 和 夫 の 名 著『 仏 教 と 民 間 芸 能 』 ( 白 水 社、 一 九 八 二 年 ) で は、 声 明・ 唱 導・ 和 讃・ 御 詠 歌 な ど に 始 ま り、 琵 琶・ 浄 瑠璃・浪曲・万歳・講談・落語など様々な分野が仏教系の芸能として解説されておりながら、物真似は独立した項目と して立てられていない。そうした状況は現在も続いている。仏教芸能史の分野だけではない。芸能史一般においても、 物真似芸の研究は進んでおらず、通史は書かれていないのが現状だ。本稿では、日本芸能史における物真似芸の源流と 系譜を追い、それがいかに仏教と関係深かったかを示したい。一
仏像の物真似をして笑わせる伝統
戦 前 か ら 戦 後 に か け て 活 躍 し た 幇 間 の 富 本 半 平 は、 得 意 芸 の 一 つ と し て、 「 淀 の 川 瀬 」 を 半 平 流 に 踊 っ た。 女 形 の 振 り で 踊 り 始 め、 「 淀 の 川 瀬 は 水 ゆ え 回 る。 あ た し ゃ 悋 気 で 気 が 回 る 」 と い う 曲 に 合 わ せ て 踊 っ て い く う ち に 娘 が 仁 王 様 に変わっていき、上半身裸になって仁王の阿吽の姿で決めるという芸だ。嫉妬心に駆られた女性が恐ろしい姿に変わる 舞 踊 と し て は、 「 娘 道 成 寺 」 な ど 有 名 な 例 が あ る が、 半 平 の「 淀 の 川 瀬 」 の 方 は 笑 い を 誘 う 内 容 と な っ て い る。 こ の 芸 は、養父であった初代富本半平から受け継いだものだとい う )( ( 。幇間は、後述するように、歌舞伎役者の声色専門のプロ や落語家とならんで、江戸時代における物真似芸の主要な支え手だった。 半平のこの芸は、実は仏像の物真似をして笑わせる長い伝統に基づいている。直接の手本は狂言の「仁王」などかも物
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物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 四六 し れ な い。 「 仁 王 」 は、 博 打 で 財 産 を す っ て し ま っ た 男 が 仁 王 に 化 け、 供 物 を 盗 み と ろ う と し た が、 目 が 動 く の を 不 審 に思った参詣人がくすぐってみたら仁王が笑ってしまい、露見してしまったという筋だ。この仁王の物真似は、早い時 期に浄瑠璃の間狂言や歌舞伎に取り入れられている。そうした一人であって元禄歌舞伎で活躍した又男三郎兵衛は、仁 王 や 十 六 羅 漢 や 観 音 の 三 十 三 身 を 演 じ る こ と で 有 名 だ っ た。 と り わ け、 そ の 不 動 の 真 似 は 人 気 が 高 く、 歌 舞 伎 の「 見 得」の元となったと推測されているほど だ )( ( 。 仏像ばかりではない。菩提達磨の物真似もある。狂言の世界で秘曲として重んじられている「花子」がそうだ。地方 から出てきた遊女の愛人と密会しようとした主人が、嫉妬深い奥方を騙すために、持仏堂で坐禅して夜明かしすると称 し、 太 郎 冠 者 に 一 晩 中 坐 禅 し て い よ と 命 じ た う え で、 愛 人 の も と に 出 か け て し ま う。 そ し て、 持 仏 堂 に 戻 っ て 来 く る と、 坐 禅 衾 を か ぶ っ て 坐 禅 し て い る 太 郎 冠 者 に 向 か い、 の ろ け 話 を さ ん ざ ん 聞 か せ た と こ ろ、 実 は そ れ は 奥 方 で あ っ て、ひどくとっちめられるという話だ。これは、能の「班女」のパロディだが、禅の流行も踏まえていよう。禅画で良 く 描 か れ る 達 磨 の 姿、 つ ま り、 坐 禅 衾 を か ぶ り、 沈 黙 し た ま ま 面 壁 し て 坐 禅 す る 達 磨 の パ ロ デ ィ ー で あ っ た と 思 わ れ る。それも、よりによって女性に真似させることによって客を楽しませる趣向であったことは明らかだ。実際の演出で は、奥方については、太めの人物が演じるなどして笑わせることが多い。 このように、仏像や高僧の真似をして笑わせることは、物真似芸における大事なレパートリーの一つとなっている。 これは偶然ではない。滑稽な物真似芸は、初めから仏教と関係が深かったのだ。二
インド仏教における伎楽
まず、初期仏教における出家と伎楽の関係について、主に佐々木閑の「比丘と伎 楽 )( ( 」に基づいて整理しておきたい。 佐々木によれば、律蔵諸文献には以下のような変化が見られるという。 第一段階: 「比丘は伎楽を見てはならない」という規定がまだなかった。 第二段階:第一段階の不備を訂正するため、後から禁止条項が挿入された 第三段階:仏陀供養のためなら伎楽鑑賞も許されるという特例が設けられた物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 四七 佐々木はこれ以上の段階については図式化していないが、同論文が引用している種々の律文献では、 ○比丘が寺内で菩薩(釈尊の前身)像を鼓楽で供養しても罪にならないとされる ○大会では信者が菩薩像をかついで鼓楽を奏でて練り歩き、僧俗がつき従った ○比丘が仏供養や仏塔・声聞塔供養のために伎楽をしても罪にならない など、さらに程度が進んだ記述が見られる。すなわち、伎楽を見ることが容認されるにとどまらず、比丘自身が伎楽を 演じることも次第に認められるようになっていったことが知られる。 しかも、注意すべきは、その「伎楽」は供養のためのものばかりでなく、滑稽な面を持つものも有ったと思われるこ と だ。 伎 楽 と 仏 塔 崇 拝 や 大 乗 の 起 源 の 関 係 な ど を 追 っ て い る 佐 々 木 論 文 で は、 こ う し た 点 に つ い て は 着 目 し て い な い が、同論文で紹介している義浄訳『根本有部律毘奈耶』巻三十九「著不壊色衣楽処第五十八」を現代語で要約すると次 のようになる。 影 勝 王 は、 仏 の 説 法 を 聞 き に き て い た 二 人 が 自 分 に 敬 礼 し な い こ と に 腹 を 立 て て 追 放 し た。 こ の 二 人 は、 実 は 龍 王 で あ っ た た め、 以 後、 雨 が 降 ら な く な っ た。 仏 に 尋 ね て そ の 理 由 を 知 っ た 王 は、 二 人 の 龍 王 の た め に 二 つ の 神 堂 を 建 て、 毎 年、 盛 大な祭りをもよおすことにした。 そ の 大 祭 に 来 た 女 の 楽 人 た ち は、 人 気 を 集 め て 稼 ぐ た め に、 誕 生 か ら 成 道 に 至 る ま で の 仏 の 一 生 を 伎 楽 に し よ う と し た。 そ こ で、 六 衆 比 丘 の と こ ろ に 行 き、 仏 の 伝 記 を 詳 し く 教 え て く れ る よ う 頼 ん だ が、 鄔 陀 夷 比 丘 は、 仏 の 素 晴 ら し い 事 跡 を 伎 楽にするなどとんでもないと叱り、追い出した。 そ こ で、 楽 人 た ち が 尼 寺 に 行 き、 多 聞 で あ っ た 吐 羅 難 陀 比 丘 尼 に 頼 む と、 餅 の 代 金 と 引 き 替 え で 教 え て く れ た た め、 こ れ を 伎 楽 に 仕 立 て た。 楽 人 た ち は、 仏 教 信 者 に 対 し て は こ の 演 目 で 良 い が、 不 信 心 な 者 た ち も 喜 ぶ よ う な 演 目 を 用 意 し た い と 考 え た。 楽 人 た ち が 面 白 い ネ タ を 探 し に 寺 に 行 く と、 闡 陀 比 丘 が 昼 食 を 終 え て だ ら し な い 格 好 を し て い た。 そ こ に、 信 者 が物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 四八 布 施 の た め に 素 晴 ら し い 食 べ 物 を 持 っ て き た た め、 闡 陀 は 大 徳 で あ る 鄔 陀 夷 の と こ ろ に 行 き、 食 事 で 満 腹 し た 後 に さ ら に 食 べ て よ い か ど う か 尋 ね た。 ま だ 食 事 を と っ て い な か っ た 鄔 陀 夷 は、 そ の 素 晴 ら し い 食 べ 物 を 二 三 口 だ け 食 べ た 後、 「 こ れ は 汝が得た食べ物なのだから、好きに食べるが良い」と言った。 楽 人 た ち は、 こ れ を 見 て 喜 び、 お 笑 い 伎 楽 に 仕 立 て た。 す な わ ち、 一 人 が 闡 陀 役 と な り、 一 人 が 鄔 陀 夷 役 を な っ た う え で、 闡 陀 役 が 陶 器 の 椀 に 灰 を 盛 り、 そ の 上 に 砂 糖 を 置 い て、 鄔 陀 夷 役 に 食 べ て 良 い か ど う か 尋 ね る と、 鄔 陀 夷 役 は 上 の 砂 糖 の 部 分 を 食 べ、 灰 の 入 っ た 椀 を 闡 陀 役 の 頭 の か ぶ せ、 「 こ れ は お 前 の も の な の だ か ら、 好 き に 食 べ る が 良 い 」 と 言 っ た の だ。このため、不信心な聴衆たちは大笑いしてその伎楽を讃え、楽人たちは多くの財貨を得た。 そ の 噂 を 聞 い た 六 衆 比 丘 た ち は、 「 無 知 な 俳 優 ど も が 我 々 の 物 真 似 を し( 摸 我 形 状 )、 戯 場 で は 人 々 が そ れ を 珍 し く て 面 白 い と 言 っ て い る。 我 々 も、 仏 が 菩 薩 で あ っ た 時 の こ と を、 こ の 楽 人 た ち と 珍 し く て 面 白 い 芸 に し よ う 」 と 相 談 し、 楽 人 た ち の と こ ろ に 行 き、 「 有 名 な 高 臘 婆 と い う 楽 人 が 世 尊 の 菩 薩 行 を 歌 に し た も の を 作 曲 し た が、 我 々 は 覚 え て い る 部 分 と 覚 え て な い 部 分 が あ る 」 と し て、 一 緒 に 歌 い、 共 に 二 神 堂 の 所 に 出 か け た。 そ し て、 二 神 堂 か ら 遠 く な い と こ ろ に 青 や 赤 の 布 で も っ て 舞 台 を 仕 立 て た。 鄔 波 難 陀 が 俗 服 を 着 て、 色 の 布 で 頭 を く る ん で 鼓 を 叩 き、 他 の 比 丘 た ち も 舞 楽 を 素 晴 ら し く 見 事 に 演 じ た た め、 楽 人 た ち の 戯 場 に い た 聴 衆 た ち が そ ち ら を 捨 て て 殺 到 し、 楽 人 た ち ま で 集 ま っ て 来 て 絶 讃 し た。 六 衆 比 丘 は、 集まった銭を持って去っていった。 楽 人 た ち は、 後 で そ の 伎 楽 を 演 じ た の は 六 衆 比 丘 た ち だ と 知 っ て 謝 り に 行 っ た が、 鄔 陀 夷 は、 我 々 を 滑 稽 な 形 で 真 似 る の は 許 せ な い と 告 げ、 お 前 た ち が 稼 い だ 財 貨 を す べ て 寄 越 せ、 そ う し な い と、 ど こ に で も お 前 た ち に つ い て 行 っ て 横 で 伎 楽 を 演じ、客をすべて集めてしまって邪魔するぞと脅したため、楽人たちは困惑した。 楽 人 た ち が 悩 ん で い る 様 子 を 見 た あ る 人 が、 事 情 を 聞 き、 比 丘 が ど う し て 俗 服 を 着 て 伎 楽 を 演 じ て よ い も の か と、 六 衆 比 丘 た ち を 非 難 し た。 そ の 話 を 他 の 比 丘 た ち が 耳 に し、 世 尊 に 申 し 上 げ た た め、 世 尊 が 比 丘 た ち を 集 め て 尋 ね る と、 そ の 非 難 は 事 実 で あ っ た。 そ こ で、 世 尊 は、 比 丘 が 新 た に 衣 を 得 た 際 は、 ( 俗 人 で な い こ と が わ か る よ う ) 三 種 の 暗 い 色 に 染 め な い と「波逸底迦」の罪となると定められた。 (大正二三・八四二下~八四五上) 以上である。佐々木が指摘するように、伎楽に関する部分は不自然な形で挿入されており、伎楽の鑑賞を禁止する律物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 四九 の条目は定められていない。上の記述で注目されるのは、比丘たち自身が伎楽を演じていること、それもきわめて上手 かったことだ。これにより、実際にはそうした芸達者な比丘たちがおり、教化のためや布施集めのために伎楽を演じて いたらしいことが推測される。また、プロの楽人たちが仏伝を歌芝居にしていたほか、弟子たちの愚行を大げさに演じ てみせて笑わせるような滑稽劇をやる楽人もいたことが分か る )( ( 。これは、佐々木が言う第三段階より大幅に進んだ段階 だ。いつ頃からどの地方でこうした状態になったかは不明だが、ここでは、義浄がインドに渡るかなり前には、そのよ うな状況になっていたことを確認すれば足りる。 仏伝や仏弟子に関する伎楽は、滑稽なものが含まれていたばかりでない。色っぽいものもあったことが推測される。 仏陀跋陀羅訳『摩訶僧祇律』巻三十三では、伎楽について、こう説いている。 仏 が 王 舍 城 の 加 蘭 陀 竹 園 に お ら れ た 時、 六 群 比 丘 た ち は 伎 児 た ち が 演 じ て い る と ろ こ に 行 き、 聴 衆 が 笑 い 喜 ぶ と ろ こ で 黙 り こ く っ た り、 聴 衆 が 笑 い お わ っ た 後 に な っ て 拍 手 し て 大 笑 い し た た め、 注 目 が そ ち ら に 集 ま っ て し ま い、 伎 児 た ち は 見 料 を 得 ら れ な か っ た。 そ こ で、 彼 ら が 六 群 比 丘 を 非 難 し た と こ ろ、 噂 を 聞 い た 初 比 丘 が 仏 に 報 告 し た た め、 仏 は 六 群 比 丘 を 呼 び、 伎 楽 を 見 る こ と を 禁 じ た。 そ し て、 仏 の 誕 生 日 や 成 道 の 日 な ど の 大 会 時 に、 在 家 信 者 が「 一 緒 に 見 ま し ょ う 」 と 言 っ た ら、 一 緒 に 見 て も よ い が、 「 染 著 の 心 を 起 こ す よ う な 様 々 の 伎 楽 が 有 っ た ら、 す ぐ に そ の 場 か ら 立 ち 去 ら ね ば な ら な い( 有 種種伎楽生染著心者、即応起去) 」と告げられた(大正二二・四九四上) 。 この場合、仏教の大会で信者が一緒に見ようと比丘を誘うのだから、仏や仏弟子の伝記、あるいは仏などを讃えるも の だ ろ う。 仏 だ け で な く、 仏 弟 子 た ち を 供 養 す る た め の 伎 楽 が 行 わ れ て い た こ と は、 『 法 顕 伝 』 が 伝 え て い る と こ ろ だ (大正五一・八五九中) 。 注 目 す べ き は、 「 染 著 心 を 生 ず 」 る よ う な 伎 楽 が あ り、 そ う し た 場 面 に 出 会 っ た ら 座 か ら 起 っ て 去 ら ね ば な ら な い と さ れ て い る こ と だ。 「 生 染 著 心 」 と い う 表 現 は 仏 典 に は 多 く 見 ら れ、 執 著・ 欲 望 を 起 こ す の 意 で 用 い ら れ て い る が、 性 に関する欲望を指す場合も多い。仏や仏弟子の伝記などで考えられるそうした場面は、出家を願う悉達太子を引き留め るために浄飯王が美女たちをあてがって快楽にふけらそうとする場面、成道時における魔王の娘たちの誘惑、仏弟子と物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 五〇 女性に関する事件など、いくつもあろう。実際、広く読まれた仏伝『仏本行集経』では、美女たちに命じてなまめかし く誘いかけて悉達太子に欲望を起こさせようとするところで、 「生染著心」 (大正三・七二六)の句が用いられている。 伎楽でそのような場面を演ずれば、濃厚な恋の描写を好むインドの聴衆は多いに喜んだことだろう。三
中国と西域における百戯の流行
中国では、秦や漢の時代以来、宮中の宴会などで百戯、すなわち「曲芸・手品・幻術・戯劇等を音楽伴奏で行う」芸 能 )( ( が行われていた。その一つとして、かぶりものをかぶった鳥などの動物物真似も披露されていたことが、文献史料な らびに漢代の画像石から推察されてい る )( ( 。『漢書』 「礼楽志」では「常従倡三十人、常従象人四人」と記し、皇帝が常に 「 倡( 道 化 役 ) 三 十 人 」 と「 象 人 四 人 」 を 従 え て い た と し て い る が、 こ れ に つ い て 顏 師 古 の 注 で は「 孟 康 曰、 象 人、 若 今 戯 魚 師 子 者 也 」 と 述 べ て い る。 す な わ ち、 孟 康 に よ れ ば、 「 象 人 」 と い う の は、 現 在 の「 戯 魚・ 師 子 」 の よ う な も の だというのだ。大きな魚や師子など、動物のかぶりものをかぶって芸をする者たちを意味するのだろう。滑稽戯を演ず る「優」と結び付けて「倡優」と言われることの多い楽人の「倡」と並べ称されているところから見て、滑稽な振る舞 いをしてみせたことが推測される。百戯のうち、動物・鳥・魚などの張り子やかぶりものを使って行なう芸は、奇術風 な内容が多かったようだが、滑稽なものもあったようだ。 た と え ば 後 漢 末 に 生 ま れ、 孫 権 の 学 友 だ っ た 朱 然 ( 一 八 二 ~ 二 四 九 ) の 墓 か ら 発 見 さ れ た 案 ( 低 い 卓 ) に は 百 戯 が 漆 絵 で描かれており、そのうちに猿のぬいぐるみをかぶって行なう芸が見える。この絵では、皿回しをしたり、逆立ちをし たり、がっちりした男が肩で支えている十字形の竿の上で3人の子供が芸をしていたりする様子を初め、様々な曲芸が 描かれているほか、ひどく背の高い男が子供なみに小さい男の頭を押さえてからかうなど、笑わせる芸もいくつか見え ている。 この漆絵では、芸の場面の横に説明が書かれているのが特徴である。動物物真似芸については、左に大きな亀が立ち 上がっている姿、右に猿が後ずさりするような姿を描いた絵があり、横に「 作鼈 ( 鼈となる) 」「 蜼見鼈驚時 ( 蜼が鼈を見 て 驚 く 時 ) 」 と い う 文 字 が 見 え る。 「 鼈 」 は す っ ぽ ん、 「 蜼 」 は 尾 長 猿 だ。 寝 て い る す っ ぽ ん に 猿 が ち ょ っ か い を 出 す と、すっぽんが立ち上がって、首と手を出して脅し、猿がびっくりして後ずさりするなどといった様子を演じ、見てい物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 五一 る者たちを笑わせたのだろ う )( ( 。 猿 と 他 の 動 物 と 組 み 合 わ せ る 物 真 似 芸 は、 早 く か ら 人 気 だ っ た よ う だ。 『 漢 書 』 巻 七 十 七「 蓋 諸 葛 劉 鄭 孫 毋 將 何 伝 第 四十七」によれば、長信少府の職にあった檀長卿は、権勢を誇っていた許伯の宴会で、酒がたけなわになって演奏が始 ま る と、 立 ち 上 が っ て 舞 い 始 め、 「 沐 猴 と 狗 の 闘 う を 為 し、 坐、 皆 な 大 笑 」 し た と い う。 こ の 場 合 は、 と っ さ の こ と で あるため、本格的なぬいぐるみはかぶっていなかっただろう。同座していた蓋寬饒がこれを見て怒り、礼を失している と し て 皇 帝 に 上 訴 し た の は、 檀 長 卿 (?~ 六 ○ B C ) が 列 卿 の 身 で あ り な が ら 芸 人 の 真 似 を し、 猿 と 犬 が ケ ン カ す る 様 子を演じてみせ許伯にへつらったためだろう。 高官ですら物真似芸を好んで素人芸の物真似を披露することは、三国時代や六朝時代になっても続いていた。越智重 明 は、 『 芸 文 類 聚 』 巻 九 五「 猨 」 条 で は、 西 晋 時 代 に 御 史 中 丞 そ の 他 の 役 職 を 務 め た 傅 玄 ( 二 一 七 ~ 二 七 八 ) が、 自 ら 滑 稽な散楽を演じたことを描いた「猿猴賦」を引いていることに注意する。 。 それによれば、傅玄は、宴会で酒がたけなわになって自分も酔った頃に、赤い頭巾をかぶり、赤い布の靴下を履き、 唇を赤く塗って猿そっくりの様子で登場し、眉をあげたり、顔をしかめたり怒ったり、眠る様子をしたり、悲しげに鳴 いたりしたほか、 「老公」や「胡児」に似た振る舞いをし、手を拍って「胡舞」したという。 おそらく、猿の様子を真似るとともに、猿が老人や西域の曲芸芸人の真似をする様子、また、ぐるぐる回る西域の舞 の真似をやったりする様子を演じてみせたのだろう。猿の物真似は、猿そのものを真似する場合と、猿が人真似をする と こ ろ を 真 似 を す る 場 合 が あ る こ と に 注 意 す る 必 要 が あ る。 こ れ は、 日 本 の 散 楽 ( 猿 楽 ) 、 お よ び「 靱 猿 」 な ど の 狂 言 の場合も同様だ。 さ ら に、 越 智 は、 『 北 斉 書 』 巻 三 七 魏 収 伝 に よ れ ば、 文 人 と し て 名 高 い 魏 収 ( 五 ○ 六 ~ 五 七 二 ) は、 身 が 軽 く、 音 楽 を 好 み、 胡 舞 を 得 意 と し た う え、 文 宣 帝 ( 五 五 ○ ~ 五 五 九 ) の 末 に、 「 数 々、 東 山 に 於 て 諸 優 と 獮 猴 の 狗 と 闘 う を 為 」 し て いたことを指摘する。滑稽な芸人たちと一緒になって、猿と犬が戦う様子を真似することをよくやっており、皇帝もこ れを好んでいたというのだ。プロの芸人たちのものまね芸が面白すぎたので、好きになってしまい、自分もやってみた いと思ったのだろ う )( ( 。 猿 と 犬 の 争 い を や っ て み せ る 芸 に つ い て は、 越 智 は、 唐 の 段 成 式『 酉 陽 雜 俎 』 巻 第 四 の 亀 茲 国 条 に、 「 元 日、 闘 牛 馬物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 五二 駞為戱。七日、観勝以占一年羊馬減耗蘩息也。婆羅遮並服狗頭猴面、男女無昼夜歌舞。八月十五日、行像及透索為戱」 とあることを指摘し、 「婆羅遮」については不明としている。 「婆羅遮」は「波斯」と同じでペルシャのことだが、確か に こ の ま ま で は 文 意 が 通 じ な い。 た だ、 「 元 日 に は 闘 牛 と 競 馬 を 楽 し み と し、 七 日 に は 吉 兆 を 観 察 し て 一 年 間 の 羊 馬 の 増減繁殖を占う。 ……八月十五日は、行像し、集団での縄跳びで遊ぶ」という文脈を見る限り、 「 婆羅遮の日には、皆が 狗の頭のかぶりものや、猿の面をつけ、男女が昼となく夜となく歌い踊る」という意味のように見える。西方起源の祝 日に、男女が「狗頭猴面」を付けて歌い踊るのだろう。そうした風習が盛んであれば、当然のこととして名手も出るだ ろうし、猿と犬が争う滑稽な様子や、雄雌のからみを演じて笑わせるプロの芸能者たちも出てこよう。 西域では早くから歌舞曲芸が盛んであったことは、中国における音 楽 )( ( や雑 伎 )(( ( には亀茲楽を初めとして西域由来のもの が多いことからも知られる。実際、猿の物真似をやった先の二人については、ともに胡舞を好んでいることが注目され よ う。 そ の 西 域 で は、 ま た そ の 文 化 を 受 け た 中 国 で も、 行 像 が 盛 ん で あ り、 仏 教 関 連 の 祝 日 に は 巨 大 な 山 車 ( 機 か ら く り 関 付 き も 有 り ) が 街 頭 を 練 り 歩 き、 寺 院 近 辺 の 道 路 で は 様 々 な 芸 能 が 披 露 さ れ た の だ。 北 魏 の 洛 陽 で は、 そ う し た 祭 り の 際 は 混雑して毎年死者が出るほど賑わったという。つまり、ある時期からは、芸能は仏教と結びついた形で西域から伝わる ことも多かったのである。 ここで、仏教と芸能が結びついていた具体例を見ておこう。 永徽中有人無目、不知何来。弾琵琶誦法華一部。向望人山、手弾口誦、以娛此山。亦不測其然。 (『続高僧伝』 ・六○三下) す な わ ち、 永 徽 年 間 ( 六 五 ○ ~ 六 五 五 ) に、 盲 目 の 人 で、 琵 琶 を 弾 き な が ら『 法 華 経 』 を 誦 す る 人 が い た。 そ の 人 は、 望 人 山 に 向 か っ て 演 奏 し、 こ の 山 を 楽 し ま せ て い た が、 な ぜ そ う す る の は 不 明 だ っ た と い う。 「 人 」 と あ る た め、 僧侶ではなかったことが分かるが、これは後述する新羅の琵琶居士のようなものであって、門付け芸として家々を回っ て琵琶を弾きながら経典を誦したのではなかろうか。 盲人が生活のために琵琶を弾くことは、六朝時代後期にはかなり見えており、そうした盲人が僧となった例もある。 北斉の文宣帝の代に巧みな講説で知られた真玉がそれである。物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 五三 釈 真 玉。 姓 董 氏。 青 州 益 都 人。 生 而 無 目。 其 母 哀 其。 及 年 至 七 歲。 教 弾 琵 琶。 以 為 窮 乏 之 計。 而 天 情 俊 悟 聆 察 若 經。 不 盈 旬 日 便 洞 音 曲。 後 鄕 邑 大 集 盛 興 斎 講。 母 携 玉 赴 会。 一 聞 欣 領 曰。 若 恒 預 聽 終 作 法 師。 不 憂 匱 餒 矣。 (『 続 高 僧 伝 』 巻 六、 大 正 五 ○・四七五中) これによれば、生まれつき目が無かった真玉は、哀れんだ母に七歳になるまで生活方法として琵琶を教えられ、たち まち身につけたものの、後に斎会で経典の講義を聴くと大いに喜び、常に聞いて講釈を体得して説法師となれば、飢え る心配はなくなると母に告げると、母は風雨をものともせず毎日講釈を聞かせに連れて行ったため、後に有名な講釈僧 となったという。このことから、斎会における一般信者向けの講釈は、琵琶芸人が自分もやれると思うような性格のも のもあったことが知られる。つまり、節をつけて歌ったりする部分や笑わせたり泣かせたりする部分を含むなど、芸能 色の強い場合もあったのだろう。 唐代には、そうした講釈の芸能化が進んだことが知られているが、一○世紀半ばの敦煌では、葬式で「戯僧」が挽歌 に よ っ て 歌 舞 を す る 例 も あ っ た と い う。 ま た、 「 設 斎 文 」 に よ れ ば、 「 所 以 年 常 発 願、 毎 歳 戯 僧 保 護 家 門、 無 諸 災 障 」 (P三五六六) とあるように、そうした戯僧は毎年、家々を回って芸能を披露し、家内安全を祈ったようであ る )(( ( 。つい最 近まで九州に残っていた日本の盲僧琵琶の例から考えると、伴奏付きで経典を誦したりするほか、仏教がらみの面白い 逸話などを歌舞を交えて演じてみせたりしたのではないか。四
韓国の百戯・琵琶居士・仏像の物真似
韓 国 で 注 目 さ れ る の は、 高 句 麗 の 古 墳 の 壁 に 描 か れ た 相 撲 の 図 だ。 長 川 一 号 墳 ( 中 国 吉 林 省 集 安 県 ) に は、 腰 の 部 分 だけに衣をつけた裸の男二人が組み合っている図がある。楽器を弾く者やお手玉のような曲芸をする人物が描かれてい る横にあるため、百戯の一つとして描かれていることが分かる。注目すべきは、同じ地域にある角抵塚に描かれた二人 の力士の場合、そのうちの一人が明らかに「胡人」と呼ばれる西域系の顔立ちをしていることを、門田誠一が指摘して いることであ る )(( ( 。この相撲は、単なる格闘技ではなく、お手玉のような曲芸と並ぶ類の西域由来の芸能なのである。お物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 五四 そらく、今日の日本の相撲で行われている滑稽な「しょっきり」の元祖と見るべき芸能と思われる。 なお、高句麗古墳に描かれたこうした力士像は、単独で描かれているものと、二人の力士が組になって格闘技をおこ なっているものがあることが知られているが、単独のものについては、藤原明衡『新猿楽記』の冒頭で滑稽な散楽を列 挙 し た 部 分 に「 八 玉、 独 相 撲 」 と あ っ て お 手 玉 と 並 記 さ れ て い る こ と が 示 す よ う に、 『 新 猿 楽 記 』 が 滑 稽 芸 の 一 つ と し てあげる「独相撲」を指すと思われる。 なお、門田は、高句麗のこのような古墳には仏像が描かれるなど仏教色の強いもののもあり、その壁に描かれたこう した芸能は、北魏で盛大な行像の際に演じられていた百戯を背景とするものであるらしいことを、指摘している。 続 い て 興 味 深 い の は、 先 に 触 れ た 琵 琶 を 弾 い て 各 地 を め ぐ る 芸 人 を 思 わ せ る 存 在 が 新 羅 に 見 ら れ る こ と で あ る。 『 三 国異事』巻第二「文虎王法敏」条には、次のようにある。 公 曰。 陛 下 若 以 小 臣 為 宰、 則 臣 願 潛 行 国 內、 示 民 問 徭 役 之 労 逸、 祖 賦 之 軽 重、 官 吏 之 清 濁、 然 後 就 職。 王 聽 之。 公 著 緇 衣、 把琵琶為居士形。出京師……巡行里閈。 (大正四九・九七二下) す な わ ち、 文 虎 王 の 代 ( 六 六 一 ~ 六 八 一 ) に、 宰 相 と な る よ う 請 わ れ た 庶 弟 の 車 得 公 は、 そ の 前 に 国 内 を 微 行 し て 巡って民情を知りたいと申し出、黒い衣を着て琵琶を持ち、居士の形となって各地を探ったという。むろん、仏教系の 芸能をしながら旅したことになる。これは後代に生まれた伝説であったとしても、そうした伝説を生みだすような琵琶 居士ないし琵琶法師たちが存在し、自分たちの起源を伝説として創り出したことになる。 そのことを推測させるのが、この話と同じ時代の著名な学僧、元暁に関する有名な説話である。 『三国異事』 「元暁不 覊」では、次のようにある。 暁 既 失 戒 生 聡。 已 後 易 俗 服、 自 号 小 姓 居 士。 偶 得 優 人 舞 弄 大 瓠。 其 狀 瑰 奇、 因 其 形 製 為 道 具。 以 華 厳 経 一 切 無 礙 人 一 道 出 生 死、 命 名 曰 無 礙。 仍 作 歌 流 于 世。 嘗 持 此、 千 村 萬 落、 且 歌 且 舞、 化 詠 而 帰。 使 桑 樞 瓮 牖 玃 猴 之 輩、 皆 識 仏 陀 之 号。 咸 作 南 無 之称。 (同、一○○六中)物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 五五 元 暁 は 破 戒 し て 息 子 の 聡 を も う け、 還 俗 し て 小 姓 居 士 と 号 し た。 た ま た ま、 「 優 人 ( お ど け 芸 人 ) 」 が 舞 い あ そ ぶ 際 に 用 い る 大 き な 瓠 を 得 た と こ ろ、 変 わ っ た 形 だ っ た の で、 教 化 の 道 具 と し た。 『 華 厳 経 』 に「 一 切 無 礙 人、 一 道 出 生 死 」 とあることから、その瓠を「無礙」と名付けた。そこで、歌を作って流行させ、この瓠を持って各地をめぐって歌い舞 い、歌を詠じて教化して帰ったため、無識な者たちは仏の名を知ることができ、皆な「南無」と唱えた、と讃えるので ある。 すなわち、居士が仏教関連の歌を歌ったり舞ったりして各地を巡ったことになる。これももちろん日本各地に残る弘 法大師伝承などと同様、後代の説話であって、そうした仏教系の芸能活動をしていた者たちが、各地を旅して民衆教化 の活動もした元暁を自分たちの芸能の元祖とする伝承を作り上げたのだろう。問題は、なぜ大きな瓠を持ち歩いたかと いう点だが、その理由を知るうえで参考になる図を発見した。初期の歌舞伎において滑稽な物真似を演じた「猿若」と 呼 ば れ る 芸 人 の 扮 装 で は、 瓢 箪 を 腰 に さ げ て い る こ と に 注 目 し た 郡 司 正 勝 は、 『 丹 後 峯 山 領 風 俗 問 状 答 』 が、 近 辺 の 祭 礼で滑稽な役を演ずると記している「しんぼち」の扮装と同じであることに着 目 し た。 つ ま り、 丹 後 峯 山 領 に あ る 愛 宕 権 現 そ の 他 の 神 社 の 祭 礼 で は、 「 し ん ぼち」と呼ばれる者をひとり選ぶが、その「しんぼち」はあみ笠で「団扇を持 ち、長き瓢箪を笹にて包み竹にさし……太鼓を前に結付打申、何かおかしき哥 の如き事を申出」るという。祭礼の司会者的存在であり、采や団扇でもって音 頭 を と る 少 年 こ そ が、 本 来 の 猿 若 の 姿 で あ る こ と を 論 証 し た の で あ る )(( ( 。「 し ん ぼち」は、むろん「新発意」であって、この音頭取りの道化役が仏教から派生 したことを示唆している。 郡司のこの考察を評価した信多純一は、三井寺周辺で間狂言を演じている様 子 を 描 い た「 三 井 寺 図 屏 風 」 に 着 目 す る。 そ の 絵 で 滑 稽 な 様 子 で 描 か れ た 男 は、上端に笹の葉と瓢箪を付けた竹を持った男が「猿若」役となって露払いの 芸能を演じ、ついで、その司会口上のもとで浄瑠璃操や間狂言としての狂言人物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 五六 形が演じられたのだとし、さらに、笹・瓢箪と道化方の結び付きについて、左に掲げる元禄の『芝居百人一首』に見え る西国兵五郎の扮装に端的に見ることができると指摘してい る )(( ( 。 こ れ ら の こ と か ら 考 え れ ば、 居 士 と な っ た 元 暁 が 大 き な 瓠 を 持 っ て 各 地 を 歌 い 舞 っ て め ぐ っ た と い う 説 話 は、 右 の 「 し ん ぼ ち 」 や 猿 若 と 似 る こ と に な る。 後 述 す る よ う に、 こ の 猿 若 こ そ が 日 本 近 世 に お け る 物 真 似 芸 の 重 要 な 柱 で あ る ため、右のような歌舞を演ずる仏教系の遍歴芸能者たちの中には、物真似芸もやっていた者がいた可能性が高い。 新羅の段階で仏教の芸能化が進み、中には仏教関連の物真似芸も含まれていたことは、 『三国異事』 「憬興遇聖」の奇 術からも推測される。 神 文 即 位、 曲 為 国 老、 住 三 郎 寺。 忽 寝 疾 彌 月。 有 一 尼 来 謁 候 之。 以『 華 厳 経 』 中 善 友 原 病 之 説 為 言 曰、 「 今 師 之 疾。 憂 労 所 致。 喜 笑 可 治 」。 乃 作 十 一 様 面 貌、 各 作 俳 諧 之 舞。 巉 巖 成 削、 変 態 不 可 勝 言。 皆 可 脱 頤。 師 之 病 不 覺 洒 然。 尼 遂 出 門。 乃 入南巷寺〈寺在三郎寺南〉而隱。所将杖子在幀畫十一面円通像前。 (同、一○一二下~一○一三上) すなわち、神文王が六八一年に即位すると、父である文武王の遺命により、憬興に無理に頼んで国老となってもらっ た も の の、 憬 興 は 病 で 寝 込 ん で し ま い、 な か な か 直 ら な い。 そ こ に 尼 が や っ て 来 て、 『 華 厳 経 』 の 文 句 に 基 づ い て、 師 の病気は気疲れによるため、喜び笑えば直ると告げ、十一の様々な表情をなし、それぞれ滑稽な舞を踊ったが、とんで もない様子だったので、皆が大笑いし、憬興の病気もたちまち治った。尼はすると門を出て隣の寺に入っていったが、 持っていた杖が十一面観音の画像の前に置かれていた、という話である。 この説話は、南巷寺の十一面観音像が尼に化身して現れ、病気を治したという霊験譚と見ることができるが、そうし た仏像の物真似を滑稽な形でやって笑わせる半僧半俗の芸人、ないし、芸能を得意とする僧尼がいたことを示すもので もある。そうした伝統が、この論文の冒頭で述べたような日本における仏像物真似芸へと流れていったのだろう。五
日本古代の物真似芸
文 献 か ら 見 る 限 り、 日 本 最 初 の 物 真 似 芸 は、 推 古 天 皇 二 十 年 ( 六 一 三 ) に 来 朝 し た 百 済 の 味 摩 之 が 伝 来 し た と さ れ る物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 五七 伎 楽 で あ る。 伎 楽 狛 近 真 ( 一 一 七 七 ~) の『 教 訓 抄 』 巻 第 四 の「 妓 楽 」 条 に に よ れ ば、 聖 徳 太 子 の 時 に 百 済 か ら 伝 わ っ た と し て、 獅 子 舞・ 呉 公・ 金 剛・ 迦 楼 羅・ 婆 羅 門・ 崑 崙・ 力 士・ 大 孤・ 酔 胡 な ど が 列 挙 さ れ て い る。 こ の う ち、 「 婆 羅 門 」 は「 ム ツ キ ア ラ ヒ 」 と も 言 う と あ る た め、 襁 褓 ( お し め、 褌 ) を 洗 う 様 子 を す る 滑 稽 な 芸 な の だ ろ う。 後 の『 新 猿 楽記』が列挙する芸の中に「妙高尼ノ尼ガ襁褓乞ヒ」とあるのは、これの変形と思われる。 「 崑崙」と「 力士」については文章に乱れがあるが、 「 崑崙」がマラカタ ( 大きなはりぼての男根) をつけて美女に懸想 し て 言 い 寄 る と、 力 士 が マ ラ カ タ に 縄 を か け て 引 い て 打 ち 折 る と い う 猥 雑 な も の で あ っ て、 「 外 道 崑 崙 ノ カ ウ 伏 ( 降 伏 ) す る マ ネ 也 」 と 説 明 さ れ て い る。 大 孤 ( 老 婆 の 参 詣 ) は 老 女 が 子 供 二 人 を 連 れ、 や っ と の こ と で 仏 前 に 参 詣 す る 様 子 だ と い う。 「 酔 胡 」 は 酔 っ た 胡 人 の 振 る 舞 い を 誇 張 し て や っ て み せ る も の で あ り、 両 方 と も 滑 稽 な 物 真 似 芸 と 考 え ら れるが、大孤は仏教がらみの物真似となっていることが注目されよう。日本最初の大がかりな芸能は、実は仏教の伎楽 であって、猥雑滑稽な物真似が重要な役割を果たしていたのである。 つ い で 着 目 す べ き は、 天 武 天 皇 の 時 期 で あ る。 天 武 天 皇 四 年 ( 六 七 五 ) 二 月 に は、 全 国 に 勅 を 発 し、 「 能 く 歌 ふ 男 女、 及 び 侏 儒・ 伎 人 を 選 び て 貢 上 」 せ よ と 命 じ て い る。 「 侏 儒・ 伎 人 」 と は、 古 代 以 来、 中 国 の 宮 廷 で は「 優 倡・ 侏 儒」と称される芸人たちと小人たちが、滑稽な言動や曲芸で君主を楽しませたことにならい、そうした者たちを集めた のだろう。 注 目 さ れ る の は、 そ の 天 武 天 皇 が、 朱 鳥 元 年 ( 六 八 六 ) 正 月 十 八 日 に、 「 御 窟 殿 前 に 御 し て、 倡 優 等 に 禄 」 を 賜 わ っ て い る こ と だ。 直 前 の 十 六・ 十 七 日 に 宴 を も よ お し、 謎 か け な ど し て 遊 ん だ り 酒 を 飲 ん だ り し た 直 後 の こ と で あ る た め、 「倡優」たちは前日ないし前々日に滑稽な芸をしたことと思われる。 『日本書紀』の古い部分でそうした芸を思わせ るものは、二つある。 一 つ は、 「 神 代 下 」 第 十 段 の「 一 書 」 に 見 え る 山 幸・ 海 幸 に 関 す る 記 述 だ。 溺 れ そ う に な っ た 兄 が、 救 っ て く れ た ら 自分の子孫は永くお前の側で「俳優之民」となろうと誓い、助かると、弟の怒りを解くために、褌ひとつになって赤土 を顔に塗り、 「吾、身を汚すこと此の如し。永るに汝の俳優者たらむ」と言う。そして、 「溺苦びし状を学ふ」とあるよ う に、 溺 れ る 様 子 を 滑 稽 な 形 で 演 じ て み せ た の で あ る )(( ( 。「 初 め 潮、 足 に 漬 く 時 に は、 足 占 を す 」 と は、 足 で 探 っ て み る こ と で あ っ て、 『 新 猿 楽 記 』 が 列 挙 す る 滑 稽 な 散 楽 の う ち、 「 漉 舎 人 ガ 足 仕 ヒ 」 に 当 た ろ う。 現 代 に 残 る 芸 能 で 言 え物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 五八 ば、 「泥鰌すくい」である。 こ の 溺 れ る 様 は、 隼 人 舞 の 起 源 と さ れ て い る が、 実 際 に は、 「 俳 優 ( 道 化 役 ) 」「 俳 優 者 」 の 語 が 示 す よ う に、 隼 人 服 属 の 伝 承 を 物 真 似 の 形 で 滑 稽 に 演 じ て み せ る も の だ。 「 学 其 溺 苦 」 の「 学 」 に つ い て は「 な ら ふ 」 と 訓 ま れ、 真 似 す る の 意 と さ れ て い る が、 中 古 中 世 に は「 物 学 」 は「 も の ま ね び 」「 も の ま ね 」 と 訓 ま れ て い る こ と を 考 え れ ば、 こ の 「 学 」 も「 ま ね ぶ 」 と 訓 ま れ て い た 可 能 性 が あ ろ う。 現 代 の 中 国 で も、 「 学 鶏 叫( 鶏 の 鳴 き 声 を 真 似 る )」 な ど と 言 う の と同じ用法だ。 も う 一 つ、 俳 優 の 類 が 関 わ っ た と 思 わ れ る の は、 「 神 代 上 」 第 七 段 で 天 照 大 神 が 天 の 岩 戸 に 籠 っ て し ま っ た 際、 猨 女 君 の 遠 祖 で あ る 鈿 女 命 が、 「 天 石 窟 戸 の 前 に 立 た し て、 巧 み に 作 俳 優 」 し た と 記 さ れ て い る こ と で あ る。 天 武 天 皇 が 「 御 窟 殿 」 の 前 に 出 御 し て 俳 優 た ち に 禄 を 賜 っ た と い う の は、 天 の 岩 戸 を か た ど っ た 建 物 の 前 で 行 わ れ た 男 女 の 道 化 役 たちによる滑稽な神話もどきに対する褒賞ではなかろうか。朱鳥元年正月十八日の記事は、天武天皇時に種々の神話が 整備され、それに関する儀礼や滑稽に演じてみせる芸能もかなり整備されたことを示唆するように思われる。 律令では、 『令集解』巻四所引の「別記」によれば、 歌 人・ 歌 女・ 笛 吹、 右 三 色 等 男、 直 身 免 課 役、 女 給 養 丁 也。 不 限 国 遠 近 取 能 歌 人 耳。 伎 楽 四 十 九 戸、 木 登 八 戸、 奈 良 笛 吹 九 戸、右三色人等、倭国臨時召、但寮常為学習耳。 とあるように、奈良時代に舞楽が盛んになる前に、滑稽な面を含む伎楽が保護されている。伎楽を伝承する楽戸があっ たのは、大和国城下郡社屋村であって、後には東大寺領だ。その西は、秦庄および秦河勝創建の伝承があって古面を伝 え る 秦 楽 寺 で あ っ て、 こ の 近 辺 は 興 福 寺 領 と し て 維 摩 会 や 春 日 若 宮 祭 礼 の 料 所 で あ っ た こ と は、 山 路 興 造 の 指 摘 が あ る )(( ( 。 山 路 は、 奈 良 時 代 に 盛 ん と な る 唐 の 舞 楽 や 三 韓 の 楽 は 雅 楽 寮 の 楽 人 が 伝 習 し た の で あ っ て、 楽 戸 は 延 暦 元 年 ( 七 八 二 ) 廃 止 さ れ て い る こ と を 指 摘 す る 一 方 で、 世 阿 弥 が 土 地 を 寄 進 し た 補 巌 寺 も こ の 近 く に あ る 社 屋 村 は 大 安 寺 の 南 に あ た る こ と に 注 目 し て い る。 大 安 寺 は、 外 国 僧 や 留 学 か ら 帰 国 し た 僧 が と ど ま る 寺 で あ り、 当 時 の 国 際 セ ン タ ー で あ っ た。物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 五九 『 日 本 書 紀 』 の 次 に 注 目 さ れ る の は、 滑 稽 な 歌 や 酒 宴 の 歌 が 多 い『 万 葉 集 』 巻 十 六 で あ る。 こ の 巻 で は、 仏 教 関 連 の 滑稽な歌もまとまって見えることが知られている。 香、塔、厠、屎、鮒、奴を詠む歌 香塗れる塔にな寄りそ川隅の屎鮒喫める痛き女奴(三八二八) 白鷺の木を啄ひて飛ぶを詠む歌 池神の力士舞かも白鷺の桙啄ひ持ちて飛びわたるらむ(三八三一) 高宮王詠数種物歌二首 婆羅門の作れる小田を喫む烏瞼腫れて幡幢に居り(三八五六) 「 香 塗 れ る 」 の 歌 は、 指 定 さ れ た 物 を 読 み 込 む 宴 席 で の 遊 び の 歌 で あ り、 そ れ を 仏 教 関 連 の 語 で や っ て い る。 「 池 神 の」の歌は、普通の表記では「池上の」であり、枝を加えて飛んでいく白鷺の姿を、力士が矛を手にして衣をひるがえ し て 舞 う 伎 楽 の 力 士 舞 に な ぞ ら え た も の だ。 市 村 宏 は、 「 婆 羅 門 の 」 の 歌 も、 瞼 が 垂 れ て い る 烏 と は、 両 眼 の 瞼 が 垂 れ 下 が っ た 伎 楽 で 用 い ら れ る 迦 楼 羅 ( Garu d.a) の 面 の イ メ ー ジ に 基 づ く も の で あ っ て、 婆 羅 門 も 婆 羅 門 僧 正 と 呼 ば れ た 菩 提遷那だけでなく、伎楽の婆羅門のイメージがあることを指摘している。そうした烏が、寺院の幡幢にとまっていたと するのであり、こちらも「香塗れる」の歌と同様、徹底して仏教関連の語を読み込んで遊んでいるのであ る )(( ( 。 この他、巻十六には、鹿や蟹を主君に献上するに際して、そうした動物の動作を真似てはやしたてたと思われる歌が 並んでいる。 弥彦神の麓に今日らもか鹿の伏すらむ裘着て角付きながら(三八八四)物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 六〇 などもそうだが、献上される鹿が自らのあり様を詠う三八八五や、蟹が横ばいする描写などを含む三八八六では、実際 にかぶりものをかぶるか、その動物らしい衣装を着て、滑稽な物真似を演じたものと思われる。六
平安時代から中世の物真似芸
平 安 期 に お い て 最 も 重 要 な 記 録 は、 む ろ ん、 見 聞 し た 滑 稽 な 猿 楽 を 記 し た 藤 原 明 衡『 新 猿 楽 記 』 ( 一 ○ 五 二 年 前 後?) だ。 呪 師、 儒 侏 儛、 田 楽、 傀 儡 子、 唐 術、 品 玉、 輪 鼓、 八 玉、 独 相 撲、 独 双 六、 骨 無 シ、 骨 有 リ、 延 動 大 領 ガ 腰 支、 漉 舎 人 ガ 足 仕 ヒ、 氷 上 専 当 ガ 取 袴、 山 城 太 御 ガ 指 扇、 琵 琶 法 師 ガ 物 語、 千 秋 万 歳 ガ 酒 祷、 飽 腹 鼓 ノ 胸 骨、 蟷 蜋 舞 ノ 頸 筋、 福 広 ノ 聖 ガ 袈 裟 求 メ、 妙 高 ノ 尼 ガ 褓 襁 乞 ヒ …… 東 人 ノ 初 京 上 リ、 况 ン ヤ 拍 子 男 ド モ ノ 気 色、 事 取 ル 大 徳 ガ 形 勢、 都 ベ テ 猿 楽 ノ 態、 烏 呼 ノ詞、腸ヲ断チ頤ヲ解カズトイフコトナキナリ。 ここには、伎楽の系統の物真似芸と、中国の散楽由来の物真似芸が含まれており、いずれも滑稽な芸である。琵琶法 師がここに見えるのは、彼らが滑稽な語り物をやっていたことを示すものだ。現在では『平家物語』を語り、諸行無常 を詠う琵琶法師のイメージが強いが、早い時期の琵琶法師は、経典を誦したり、仏教説話を語ったり歌を唄ったりした ほか、滑稽なことを演じてみせたりもしていたのだろう。このことは、琵琶法師の初心者練習用とされていたおかしい 早口の早歌が人気となり、各地の民間芸能に残されていることからも知ることができる。数年前まで九州に残っていた 盲僧琵琶の場合も同様であって、家内安全の祈祷と娯楽芸能を兼ねている。 な お、 右 の 引 文 の「 事 取 ル 大 徳 ( 頭 取 役 を す る 高 僧 ) 」 の う ち、 「 事 取 ル 」 に つ い て は、 『 枕 草 子 』 に「 傀 儡 の こ と と り ( あ や つ り 人 形 を 演 じ る 者 た ち の 頭 取 ) 」 と あ り、 そ う し た 旅 芸 人 た ち に つ い て 用 い ら れ る 言 葉 で あ る こ と が 知 ら れ る。 し か も、 『 新 猿 楽 記 』 で は、 そ の 頭 取 役 を す る 者 を「 大 徳 」 と 呼 ん で い る た め、 僧 形 な い し 半 僧 半 俗 の 変 則 的 な 姿 で あ っ物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 六一 たことが知られる。芸能の音頭取りが滑稽なことをやる伝統については、冒頭で述べた。 日本の物真似芸が仏教と関係深いことは、これまで述べてきた通りだ。むろん、物真似をして笑わせることは早くか らあっただろうが、プロないしそれに準ずる芸人による芸として磨き上げられるに当たっては、仏教が大きな役割を果 たしたのだ。そうした場は、修正会その他の大がかりな法会の際、あるいは延年などであったろう。 たとえば、藤原実資『小右記』の永延元年 (九八七) 正月六日条では、円融寺修正会についてこう記している。 未 時 許 参 院。 於 御 堂 前 啄 木 舞、 江 州 法 師 也。 舞 間 有 楽、 又 弄 玉 者、 皆 賜 疋 絹。 還 御。 初 夜 又 出 御 堂 前、 有 音 楽・ 呪 師・ 啄 木 舞・雑芸等。後夜畢還御。 ここでは、御堂の前で伎楽由来の「啄木舞」を舞っているのは、大和猿楽と並ぶ江州猿楽の芸を身につけた「江州法 師 」 で あ る。 そ の 芸 は、 「 弄 玉 ( お 手 玉 ) 」 と 並 記 さ れ る よ う な も の、 つ ま り、 中 国 で 言 え ば 百 戯 の 一 つ と さ れ る よ う な も の で あ っ た こ と に 注 目 し た い。 そ れ 以 外 に も 様 々 な 芸 が 披 露 さ れ て い る が、 天 皇 が 夜 遅 く ま で そ れ ら を 観 覧 し て い る。 そ う し た 長 時 間 の 観 覧 に 堪 え る 芸 が 寺 の 修 正 会 で 披 露 さ れ て い た の で あ り、 「 江 州 法 師 」 と 呼 ば れ る 僧 形 の 芸 能 者 ないし芸能僧が重要な役割をしていたのだ。 こ う し た 例 は、 以 下 に あ げ る よ う に 非 常 に 多 い。 た と え ば、 藤 原 宗 忠『 中 右 記 』 保 安 元 年 ( 一 一 二 ○ ) 四 月 十 一 日 条 では、 「 近代散楽法師」 、『 東大寺続要録』 「 拝堂編」仁治二年 ( 一二四一) 十月延年記事には、 「 色衆遶之、振狂言綺語之 才 芸、 狂 僧 乗 興、 廻 雪 秀 句 答 弁 之 風 情 」 と あ っ て「 狂 僧 」、 『 東 大 寺 雑 集 録 』 巻 三・ 西 南 院 十 講 に は、 「 開 口 猿 楽 法 師 親 尊法師」とあって「 猿楽法師」 、 ( 興福寺支院) 「 内山永久寺記録」の文永七年 ( 一二七○) 八月二日条では、 「 召田楽法師 令遊之」とあって「 田楽法師」 、藤原兼仲『 勘仲記』弘安六年 ( 一二八三) 二月十日条では、興福寺の延年について「 次 遊 僧、 随 身 楽 器 群 参 」 と あ っ て「 遊 僧 」、 『 春 日 若 宮 臨 時 祭 記 』 貞 和 五 年 ( 一 三 四 九 ) 二 月 十 日 条 で は、 禰 宜 衆 の 田 楽 に ついて「ヲカシホウシ春忠スル」とあって「ヲカシホウシ」という役名だ。すなわち、寺院の法会や様々な催しにおい て、滑稽な歌舞や物真似芸をしたり、音頭をとって芸能を仕切る者は「江州法師」 「猿楽法師」 「狂僧」 「田楽法師」 「遊 僧」 「ヲカシホウシ」などと呼ばれる芸達者な者たちだったのである。 「ヲカシホウシ」は、高足駄その他の曲芸もやっ物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 六二 ているため、百戯・散楽の流れを受けていることになる。 そ う し た 催 し が 盛 ん に な る に あ た っ て は、 そ れ な り の 理 由 付 け が い る。 右 に あ げ た『 東 大 寺 続 要 録 』「 拝 堂 編 」 仁 治 二年 (一二四一) 十月延年記事では、 色衆遶之、振狂言綺語之才芸、狂僧乗輿、廻雪秀句答弁之風情。 とあり、 「 色衆 ( 職/式衆) 」がぐるりと囲んで「 狂言綺語の才芸」を振るったとあるため、 「 狂言綺語」と言うべき彼ら の滑稽な才芸は、平安貴族が白居易の「願以今生世俗文字業狂言綺語之誤、翻為当来世々讃仏乗之因転法輪之縁」とい う 名 文 句 を 和 歌 な ど に も 用 い た よ う に、 「 讃 仏 乗 之 因、 転 法 輪 之 縁 」 と な る と 合 理 化 さ れ る よ う に な っ た こ と が 知 ら れ る。 文 保 三 年 ( 一 三 一 九 ) の『 玉 林 苑 』 に 収 録 さ れ た 明 空 の 早 歌 集「 善 巧 方 便 徳 」 で も、 「 狂 言 遊 宴 の 戯 れ、 賛 仏 乗 の 因」とあ る )(( ( 。 ここで言う「狂言」とは主に「秀句」その他の言葉遊びや滑稽な言い立てを指すが、能・狂言としての「狂言」につ いても、同様の合理化がなされている。江戸初期に伝承されてきた狂言を集成して大蔵流を大成した大蔵虎明の『童子 草』八十九段では、 え い ざ ん 玄 恵 法 印( ~ 一 三 五 ○ ) と 云 人、 狂 言 綺 語 の た は ふ れ も、 讃 仏 乗 の 因 縁 な り と 云 事、 か れ こ れ ま さ し き 狂 言 を つ く りいだせる也。 と述べ、比叡山の玄恵がこの言葉を用い、いわゆる狂言を創作したと主張している。その真偽はともかく、十三世紀か ら十四世紀には、そうした理由付けが確立され、寺院での芸能はそれまでにもまして盛んになったことが知られる。 そ の よ う な 催 し で の 芸 能 に は、 酒 が つ き も の で あ っ た こ と は 言 う ま で も な い。 そ の 代 表 例 は、 『 徒 然 草 』 第 五 十 三 段 の有名な逸話だろう。物真似芸の系譜
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仏教芸能との関係を中心にして―
(上) (石井) 六三 こ れ も 仁 和 寺 の 法 師、 …… 酔 て 興 に 入 る あ ま り、 傍 な る 足 鼎 を 取 り て、 頭 に 被 き た れ ば、 つ ま る や う に す る を、 鼻 を お し 平めて、顏さし入て舞出たるに、滿座興に入事かぎりなし。 これについては、抜けなくなって大騒ぎになるわけだが、 『梁塵秘抄』の有名な今様、 「我を頼めて来ぬ男、角三つ生 ひたる鬼になれ。霜雪あられ降る水田の鳥となれ。さて足冷たかれ。池の浮き草となりねかし。と揺りかう揺り揺られ 歩 け 」 に 基 づ き、 鼎 を か ぶ っ て 角 が 三 本 生 え た 鬼 に 扮 し て 舞 っ た の で あ っ て、 「 水 田 の 鳥 と な れ ……」 や「 池 の 浮 草 ……」の部分では、寒さに身を縮める鳥やゆらゆら揺れる浮草の仕草、つまりは物真似をしたのだろ う )(( ( 。 註 ( () 舘 野 善 二『 思 い 出 の 邦 楽 人 』「 桜 川 忠 七 さ ん と 富 本 半 平 さ ん 」、 明 治 書 院、 一 九 七 四 年。 悠 玄 亭 玉 介『 た い こ も ち 玉 介 一 代』 、草思社、一九八六年、二三頁。 ( ()武井脇三「狂言の『仁王』 、ゆうなんの物真似、荒事の見得」 (『園田学園女子大学論文集』一七、一九八二年十二月) 。 ( ()佐々木閑「比丘と伎楽」 (『仏教史学研究』第三四巻第一号、一九九一年七月) 。 ( ()永井義憲「伎楽散楽傀儡子考―
経典に現れたる演劇史資料―
」( 『日本仏教文学研究』第一集、一九六六年十月) 。 ( ()越智重明『日中芸能史研究』 、中国書店、二○○一年、六○頁。 ( ()傳起鳳・傳騰龍著、岡田陽一訳『中国芸能史』 (三一書房、一九九三年) 。 ( ()原田三寿「朱然墓出土宮闈宴楽図漆案に描かれた百戯について」 (『立命館文学』 (0 ( 号、 (00 (年 ((月) 。 ( () 越 智、 注 1 前 掲 書。 な お、 同 書 が 傅 玄 に 関 す る 記 事 の 出 典 を「 『 芸 文 類 聚 』 巻 八 五 」 と 記 し て い る( 三 ○ 九 頁 ) の は、 巻 九五の誤り。 ( ()吉川良和『中国音楽と芸能―
非文字文化の探究―
』 (創文社、二○○四年) ( (0)傳、注( ()前掲書。 ( (() 荒見泰史「敦煌の喪葬儀礼と唱導」 (『敦煌写本研究年報』第六号、二○一二年三月) 。 ( (()門田誠一『高句麗壁画古墳と東アジア』 「第五節 高句麗壁画古墳の角抵図について」 、思文閣出版、二○一一年) 。物真似芸の系譜