近世肥後藩における名子について特に﹁肥後藩人畜改鯉およ
び﹁肥後国検地賭輝︺の分析を通しての考察は︑多くの先学の手が
けられた処である︒これら諸鍵羅によって︑同帳の時代すなわち近
世初頭の肥後藩農村における名子の存在形態は充分解明されたと言
えよう︒しかしこれら諸脱の見解は︑近世初頭の段階が中心とさ
れ︑従って近世全期におよぶ名子の存在形態が確麗され分析されい
ま坐に初期名子の性格が規定されている点に多少の問題を感じさせ
る︒たとえばこれら賭鎗稿におけるごく大まかな結鏡をあげれば︑
寛永加年の人畜改幌にみられる名子に︑⑩隷属的名子と②独立的
︵半独立的︶名子の二極がみられること︑このうち有力なものとく
に②の場合にはやがて独立本百姓化し︑また㈹の場合には没落して
奉公人︒下人化するに至るというのであ誠︾
しかし︑近世中・後期において︑肥後藩農村には少からず名子の
存在を見るのであって︑これらの見解については検肘の余地がある
槌に思われる︒素朴に問題点をめげれば︑
⑩肥後藩農村における名子の存在はどの程度であったか11時 はじめに 肥後藩農村における名子
I肥後国合志郡大津町斉藤家名子を中心として
代・地域I
②名子存在の社会経済的事憎
③藩政・村政における名子の地位
などがあり︑これら賭点についてはまだ充分に解明されていない
ように思われる︒
以上の諸点に関する史料はまだ充分とは云ひ難いが︑本穂では甑
って残存している︑熊本県菊池郡大津町斉藤家文番を中心に︑斉藤
家名子の事例を紹介すると共に︑若干の問題について考察したい︒
主たる史料は
﹁肥後藩人畜改帳三﹂⁝大日本近世史料
﹁元禄二年同拾年名子共影踏人数覚﹂から文政十二年ヱハ津手永
上大津町斉藤次右衛門殿名子之者切支丹人数御改帳﹂にいたる六
十五冊の宗門改吸︵以下﹁宗門改帆﹂と略称する︶と︑天保三年
の名子解放に関する史料約三十通である︒︵以上斉藤家所蔵文
宙︶
注︵1︶東大史料鯛墓所縞︑大日本近世史料﹁肥後藩人畜改帳﹂
︵2︶熊本県立図窃館蔵
概要は熊本史学会編﹁肥後国検地諸帳目録﹂︑森田賊一氏 松本寿三
郎
29
反﹃型△ロ手国
大津町は鮪本城下から東へ釦キロ阿蘇外輪山の南蹴に当り︑中世
には竹迫氏および合志氏の領する畑作中心の農村であった︒近世初
頭において相当に繁栄した村であったことは加護氏時代の状況を
︵5︶
伝えるとされる郷帳高で八○○石余の村高を一示していることから推
察され︑又細川氏入国直後の大津村が︑下大津・上大津・大沌出
分・大津付出しの四力村に分けられていることからも推定きれる︒
寛永九年細川氏入国以来︑参勤交代の要路に当り︑城下から才一番
目の宿場として栄え︑葦に瀬田の下井手・上井手の詮によって新
田畑の開発も進んだ︒ 合志郡は近世初頭に多くの出分・出村を有してい詮純特徴がある
識佃昧酔︾睡湿鐸響誰︾達睦鉛嘩埜録舜私謡融︾誕蓉︾↓毒誇調葎唾
地加がみられている︒大津町では第一表にみる禄に宝暦十三年の地
︵9︶
引合改見図帳の上知・本方・御給知の分のみで一五一二%の地加がみ ﹁肥後国検地諸帳について﹂︵熊本史学二号﹀
︵3︶原田敏丸氏﹁肥後藩農村における家族の椛成﹂︵大分大学
経済競集第二巻二号︶︑安藤網一氏﹁近世初期肥後国農村
の社会榊成﹂︵経済理論九号︶︑﹁近世九州における農民
層の分化﹂︵宮本又次氏編﹃九州経済史研究﹄︶︑宮川満
氏﹃太閤検地鏡﹄第1部所収︑第五後進地域における封建
制の展開1.
︵4︶主として前掲宮川氏の鎗文による︒
一︑大津町及び斉藤家の概観 られ︑出高・新地・諸開など現実の耕地は更に大きく展開してい
大津村(町)における百姓数と村高 第一表
︵卿︶
行なって来嘘が︑肥後でJもこの方針を.つけついでいる︒斉藤氏の登
用土︺か上る意味合いのものである︒ 聞雁.岡阿︾可T︾褐ロ 粕一個騨巳
拝挫氷脳政政 蒐〃宝寛虻 る︒このような耕地の地加に伴な って百姓数の箸るしい増加がみら れる.村の分化・百姓数の増加に ついては当面の問題でないので別
︵m︶
稿に腕りたいが︑合志郡原口村・ 玉名郡原皿秘の例からも裏付けら
れよう︒
次に名子主斉磯氏についてみれ
ば︑先祖は合志氏の枝葉で合志郡
古城村城主斉藤山城守と伝え︑母
方の田吹美濃守に関する古文窪を一 蔵している︒曾て大友氏麗下の武釦
将であったが︑大友氏の没落に伴一
なって帰擬し︑初代大津九郎右術
門は加藤清正によって大津大庄屋
として登用され︑ついで二代響兵
衛は細川氏によって大津惣庄屋に
任命された︒人畜改帳にみる喜兵
癒捗この人である︒細川氏は別任
地豊後においても旧族を地方役人
として登用し地方支配を効果的に
閲 l 雲 r r i i j I 蕊 ご 図曜胴
百姓 村 高 出 典
'酉、/室、
1312
、 、 ノ 、 画 ノ
注︵5︶郷土文化研究所編﹁肥後国郷帳﹂解題圭室諦成氏の説によ
る︒
︵6︶土木学会編﹁明治以前日本土木史﹂
︵7︶前掲﹁肥後藩人畜改帳﹂ その後惣庄屋役の性格が転換する宝暦期において七代次右衛門の 後︑養子幸助系が惣庄屋役を継承し︑実子丈助は幼少の故を以て宝 暦九年一領一疋兼大津御茶屋番となり︑以来この系統は一領一疋で 大津御茶屋番兼御山支配役として明治に至つ嘘四
名子史料を伝える斉藤氏は実子丈助の系統であるが︑このような
旧族郷士は近世初頭においては多分に名子主的農業経営を行った形
跡がみられる︒例えは杉本尚雄氏が紹介された玉名郡原加村庄屋古
庄家先祖付に︑慶長六年﹁五月自身之名子拾弐人江田畑壱枚宛遣申
候﹂とあり︑名子百姓の独立化を図つたものの如くであるが︑同じ
︵お︶
家と思われる庄屋喜兵衛は慶安二年五人の名子を抱えている︒また
筆者が調査した上益城郡矢部手永の大庄屋家の末畜で下馬尾村庄屋
井手家文飾か中には名子系譜︵表紙のみ︶が残存している︒
近世初頭における惣庄屋乃至庄屋クラス︵のちの旧族郷士︶の経営
は︑所謂初期本百姓経営と呼ばれる名子・下人などの隷農を使って
の経営であったろう事は︑肥後藩人畜改帳にみられるヘャ住名子の
︵畑︶
存在から推定される︒斉藤家の場合︑寛永十年の名子七人は後述の
ように庄屋喜兵術の高諦地に依存しているのであるが︑のちには独
唾副題雫癖毒擁噸蛙﹄↑率峰匪渉鑑︾密叫唖髭鋤蕊錘津承諾織諭唯・
た︒
/ 南 、 / 酉 、 ' 画 、 / 宮 、 / ■ 、
1918171615
、 ソ 、 画 ノ 、 、 ノ 、 ‑ ノ 、 画 ノ
︵皿︶
'画、〃宮、
1110
、−ノ、−ノ
/画、グ画、
9 8
, − ノ 、 − ノ
熊本女子大学歴史学研究部編﹃肥後藩の催村構造﹄所収
熊本県立図穏館蔵﹁宝暦十三年四月合志郡大津手永大津町
上知.本方・御給知・田畑地引合改見図御帳﹂による︒
肥後藩における本方は︑上知・御蔵納・給知をい弾︑延宝
五年以前の新地は古新地と称して本方に入れられたようで
あるが︑延宝六年以後の開発になるものは新地と称してい
る︵森田誠一氏編﹃原典による近世農政語蕊集﹄︶
原田敏丸氏﹁前掲論文﹂
杉本尚雄氏﹁近世初期肥後農村の家族と村落榊成﹂︵熊本
大学教育学部紀要才Ⅲ号︶
﹁肥後藩人畜改帳﹂3
拙稿﹁近世初期細川藩における農村支配﹂︵熊本史学勿 号︶
花岡輿輝氏﹁肥後藩初期における御惣庄屋の出自につい
て﹂︵昭和三十五年秋季西日本史学会発表︶︑森下功氏
﹁手永御惣庄屋一覧﹂︵熊本近代史史料第一集︶
斉藤家家譜 杉本尚雄氏﹁前掲論文﹂
熊本県上益城郡矢部町下馬尾︑井手久雄氏所蔵
原田敏丸氏・宮川満氏﹁前掲論文﹂
藩法研究会編﹃藩法集7熊本藩﹂に﹁在宅之面こ内作有之
分は村人数之ものを高主に被立置⁝⁝﹂︵井田桁義九○
九︶とあり︑田迎手永出仲間村竜数惣人数改帳にも地士平
野文八高主伝四郎が見え︵熊本県史料集成才一○集﹁肥後
藩の農民生活﹂︶その他各地の宗門改帳によって高主の存
在が知られる︒
31
15
まで詳細に系譜を辿り得ない︒本穂では名子の考察を㈲寛永十年の
段階︑目元禄年間︑㈲宝暦以後の三時期に分けて︑各時期における
特長と問題点を考えたい︒ ︐ 一寛永十年の段階 く 肥後藩人畜改帳において斉藤家は︑大津頭庄屋喜兵術として記戦
されてい弱︾この記載からは名子左介以下七人は屋敷︒人畜ともに
喜兵衛のもとに一括して記されており︑その家族構成については全
く明らかにされない︒屋敷については︑喜兵衛の名のもとに六カ所
が分布しているから︑名子達の家がこれらの屋敷に分散しているこ
とを推測させる︒名子の具体的形態を暗示する唯一の史料は家数の
第二表名子の戸数 衛門の手を放れるまで第二表に示すように十数戸が認められる︒現 もとに左介以下七名を記戦を初見とし︑天保三年に名子主斉藤次左 斉藤家における名子は︑肥後藩人畜改帳に下大津村庄屋喜兵術の
法から見て︑名子戸が一個の独立した生活世帯を営んでいるさまを
第 三 表 斉 藤 家 名 子 の 家
年 次 戸 数 | 出 典 二︑名子の存在形態
安永4(1775)
寛永10(1633) 71人畜改帳
元禄2(1689) 101宗門改帳
元禄10(1697)
10″″″〃″″〃
宝暦9(1759) 1 9
記戦であって︑こ﹄でも家数三十五軒が喜兵術のもとに現われる
が︑そのうち名子家数として第三表の如き記戦があり︑その記載方
17
寛政11(1799) 1 5
文化10(1813)
13文政11(1828)
16天保3(1832)
32
存するこれら史
料によって考察
すれば︑寛永加
年と元禄年間︑
元禄年間と宝暦
九年の間に約五
十年ずつの間隔
があって寛永十
年か鳥天保三年
間 間
2 × 31.5×3
1 5 × 2
2 × 4
1 5 × 3
2 × 4 2 × 4 1.5×3 1.5×3
2 × 4 1.5×3
本 や 左 介 か ま や
母 ノ ヘ や
本 家 太 郎 兵 衛 へ や こ し ぬ け
本 家 四 郎 左 衛 門
や屋や
ま か馬へ
本 家 半 七 馬 や
間 間
2 × 4 1 . 5 × 3 1.5×32 × 5 1.5×3 1.5×2 2 × 3 1.5×2
2 × 5
2 × 3 2 × 3 2 × 3
本 や 吉 左 術 門 か ま や
馬 や
本 家 勝 左 術 門 か ま や
へ や
お や ノ ヘ や馬 や
本 屋 勘 七
ややや
ま かへ馬
名子成立に共通点がみられるが︑ 窺い知るのである︒この名子の世帯のあり方を第鯛表に示した同村 内における名子・下人を有しない百姓と比較してみると家数や建坪
の点では大きな差異がないことが判る︒勿鐘高賭し人畜帳にも登録
された本百姓と名子とが全く同等の資格であったとは言えないが︑
生活世帯としては余り差異のない状態であった︒両者の根本的な差
異はいう哀でもなく法制的な立場にあり︑片や本百姓として他万は
名子として位魁づけられている点である︒
斉藤家名子は元来古城城主斉醗山城守の家臣が旧臣の訳を以て家
来として仕えたもので斉藤家の冊農に伴い百姓化し名子と呼ばれた ものであ麺碍玉名郡一領一疋︵先祖は坂下手永惣庄屋︶河野家の場
第四表名子下人を持たない百姓の家
33
れるが︑元来名子の唱は主家からの称呼で
あり︑村落社会における地位を表現するも
のではなかったのではないかと思われる.
しかし近世的農村支配体制の中で︑旧族と
は云え名子主の地位が本百姓として把握さ
れるようになると︑名子主に従属する名子
は︑他の本百姓よりも一層低い地位しか得
られなくなるのではあるまいか︒前にみた
原加村の慶長六年独立の名子が名子主と同
格の本百姓となっているのに対して︑斉
藤・河野両家の場合には名子として身分づ
けられるのは︑支配体制の把握の時期と名
子の独立の時期との相違によるものと考え
られる︒
j 二元禄年間︵詞︶ く 元禄二年の﹁宗門改帳﹂は善四郎以下十戸
の名子家が次のように記戦されている.
鶴四郎家内
商八石九斗九升七合
一男女六入内銅一一一
内 浄土真宗熊本西光寺 ︑自身
歳三拾弐善四郎 近隣二召瞳︑所之百姓二仕付囲名子之者と名付置申侯﹂とあって︑ 合も居城落城ののち﹁浪食之身二而数多之家来扶助誕誠︑蝦を出或
| | 百 姓 ・ 家 | 瀞 高
間 間
2 × 6 2 × 4 2 × 4
2 × 3本 屋 伊 兵 エ
か ま 屋 お や ノ ヘ 屋 牛鳩屋
23石1.3.9 ヤ8畝15
・ 2 × 4
2 × 4
2 × 31.5×3
本 屋 左 吉 へ 屋
か ま 屋 お や の へ 屋
13石43 ヤ9畝18
2 × 3 2 × 4 1.5×2.5
本 屋 久 作 か ま 屋
牛 屋
12石9.57 ヤ4畝15
2 × 4 1.5×3
本 屋 作 介 か ま 屋
10石1.4.8 ヤ2畝24
2 × 42 × 4 2 × 4 2 × 4
本 屋 久 介 かまや
馬 屋 く ら
20石6.97 ヤ13畝15
2 × 5 2 × 4 1.5×3 2×3.5
本 屋 与 左 衛 門 尉 か ま 屋
へ 屋 牛 屋
19石7.4.5 ヤ5畝12
2 × 4
孫 介 7石5.192
右同宗 同廿七女房
右同同宗 同拾ヲ娘
りん 右同同宗同
同三ッすま
右同同宗親 同六拾九道休 右同同宗下人 同拾八庄助︵以下略︶
同年の宗門改帳によって名子が高請をしていることが判るが︑その
諮高・家族・労働力機成は第五表に示される︒この表に示されると
ころでは︑高舗の名子は七人で寛永の戸数と一致している︒これら
・高請名子は家族数六人以上で︑兄弟家や下人など附属労働力を擁し
ており︑特に元禄十年次右衛門家には名子理右衛門を抱えるなど再
生産可能な戸であった︒無高名子は主家の農業労働に従事したもの
であろうか存在が不安定だったようで︑元禄十年には吉兵衛は消滅
し︑甚兵術女房は孫助家内に繰入れられている︒元禄十年には消滅
した二戸の代りに熊本往生寺旦那の九兵衛と山本郡平井村専徳寺旦
那の手代甚助が新たに名子に登録されている︒このような名子戸の
補充は︑名子にも或種の夫役が陳せられ︑名子株といったものの存
在を思わせるものがある︒
元禄二年の名子高の総計は八三石七升一合で︑寛永十年の庄屋喜
兵術の高八三石七斗一升一一一鍵と比して︑極めて接近しておりこの点
第 五 表 元 禄 2 年 の 名 子 高 人 畜
34
から︑害兵衛の総高
を分ち与えられたか
のような感がある
が︑肥後藩法では在
御家人の高について
﹁在宅之面々内作有 ⑤●●●●● 之分は村人数之もの
︵路︶
を高主え被立徽﹂の
規定があり︑宝暦十
二年の地引合改帳
でも︑御茶屋床を含
む屋敷三反二十七歩
と田畠三町七反が小
百姓蕊次郎の高謂地
となっていることか
ら︑名子儲は主家た
る斉藤家の経営から
独立した高であるこ
とが判る︒
この宗門改帳は形
式的には人別改帳を
︵坊︶
兼ねるものであった
らしいが︑奥書は次
のように記戦されて
いる︒
名 子 総人数 女 房 男 子 女 子 1 5 以 下 兄弟家族 そ の 他
17石01.0 14ダ6.8.7
14ノ3.9.413'6.8.3
8 9.9.7 7ノ8.9.0 6タ4.1.0 無 高 無 高 無 高
次右衛門 五郎兵衛 藤 兵 衛 半 之 允 善 四 郎 七郎右術門
孫 助 徳 兵 術 甚 兵 衛 吉 兵 術
97.︐皿 689353 321223221
111111111
21弟家4 男子家3
{
〃 3〃 2
兄家4兄1
弟 2 弟
下人1 おじ1母1 親1下人1
{
勘助後家家3
杢之允後家家2
い と こ 1
母
六十下十五より上男
六十一より上十四より下男
老若共
一紙高八拾三石七升壱合 一人数七拾弐人
内 六拾壱人有人
第 六 表 斉 藤 家 名 子 戸 数 の 変 遷
− 3 5 −
名子戸数の基本数は宝暦9年宗門改帳。表中の数字は分家,
消滅時の人数。
宝暦12年頃の名前は宗門改帳。抱高は宝暦13年大津町田畑地 引合改見図御帳による。
ヤ.。…・屋敷持ち
i‑重 豆 wTうて頚 葱一蒜下評…Fi
内
男三拾壱人
十八人
十四人
女廿九人
※
N 0 L 1 弥 助 7 ヤ.
ヤ.2.2反4.12 ( 1 )
2 甚 七 7
1.65.121 0 5
枠5
3 平 助 7
1.53.274 勘 助
8 ヤ.1.51..125 徳 平 5
143.066 助 市
3 1.26.00 3ダ
/
7 次 右 衛 門
10ヤ.
ヤ.1.09.06弟 8 上 郎 古 衛 門
9 儀 七
6 61.06.06 95.21
6 / /
1 0 平 吉
6 ヤ.74.06 55
弟5 1 1 太 三 次
1 2 次 兵 衛
2
( 1 )
46.12
ヤ.38.12 ( 1 )
/一/ /|/ /一/ /一/ /|/ /|/
1 3 安 兵 術
3 38.001 4 叉 吉 4
16 27 105
弟5
1 5 弥 太 平
6ヤ . 6 . 0 3
1 6 醗 左 衛 門
3 4.181 7 三 次 郎 1 8 勘 七
3
一
2
ヤ . 0 . 0 0
−
2 /
1
一
/
/一/ /|/ /一/
1 9 吟 右 衛 門 ( 3 ) ( 3 )
2 0 浦 兵 術
52 1 甚 平 4
戸
数
19 19 17 16 15115 13 13 16/ 画 、 / 酉 、 グ 画 、 〆 向 、 / 画 、
2625242322
、 − ノ 、 画 ノ L ノ L ノ L ノ
十一人. 々口過井質奉公二罷出申候分
内
男九人 女弐人⁝⁝後略・⁝:
この記賊からみると︑︑名子戸のうち十一人が口過や質奉公に出て
いることが判り︑名子の経営が独立的に行なわれたことを示すとい
えよう︒このように名子が高舗をし︑独立して農業経営を営むこと
は︑どのように考えるべきであろうか︒この点は後に考察する︒ j 三宝暦以後の名子戸 く 宝暦以後天保三年の名子解放まではほとんど毎年の宗門改帳によ
ってその戸数の変遷をたどることができるが︑宝暦年間には十九戸
に増加したが︑安永四年以後十五戸前後に安定している︒︵第六表
参照︶
宝暦九年に三人以下であった戸は安兵衛家を除いて︑七戸が寛政
十一年までに消滅しており︑少家族名子家の不安定性を示してい
る︒また持高の多かった戸では分家の傾向がみられて︑名子数の維
持が行なわれた形跡がみられる︒家族数と耕地の多霧には多少の関
係があるように思われる︒宝暦十三年の﹁地引合改見図帳﹂による
名子の耕地と家族の関係についてみれば︑家族五人以上の名子は︑
九反余の儀七︑七反余の平吉を除いていずれも一町歩以上の耕地を
有している︒逆に四人以下の名子では一町二反を有する助市を除い
ていずれも三反以下の耕地しか有せず︑とくに︑三次郎・勘七・吟
右衛門後家は無高であり︑名子主斉藤家か叉は他の有力者に隷属す
る性格が強かったと見られる︒当時斉藤家の耕地は︵名儀上小百姓
嘉次郎が高主になっているl前述︶三町七反であり︑譜代家来も 唾越がそれだけでは充分な労働力たり得ず︑これら隷属性の強い名 子の労働力に負っていたものと思われる︒︵第七表参照︶
名子間に家族数.耕地ともに多く再生産可能な者と︑再生産に必
要などちらかの条件を欠ぐものとの階鰯的分化の萌芽は元禄年間に
見られたが︑宝暦期に入ってますますその傾向が明らかになってき
ている︒
注︵釦︶
︵劃︶
/画、
27
、、ノ
﹁肥後藩人畜改帳﹂3
斉藻家家譜︑文政九年八月﹁奉願覚﹂︑このような武士の
土蒜による名子については︑有賀喜左衛門氏﹃日本家族制
度と小作制度﹄参照
熊本県立図番館蔵﹁先祖付︑南関手永﹂
﹁元禄二年同拾年名子共影踏人数帳﹂
﹁肥後藩人畜改帳﹂
注過 大石慎三郎氏﹁江戸時代における戸籍について﹂︵福島正
夫氏縄﹃戸籍制度と﹁家﹂制度﹄︶参照
贈代家来は後述のように村人数を放れて斉藤家に隷属し
た︒彼らは斉醗家に属して在御家人の家来となったのであ
り︑武士の家来ということで明治初年には卒族に編入され
ている︵明治壬申四月の﹁旧倍臣身分之儀ニ付而者去年辛
未五月相伺候処猶伺候稜這左之通﹂に熊本県の回答が見え
るl斉醗家文密︶︒
36
上 知
見図鰻にみる名子の耕地
37
第七表宝暦13年
)内は畑のみの耕作者。ヤは屋敬持ち。名前の後の数字は家族数を示す。
(
蔚鯛
名舗反別 屋 敬 所 持
頭 小 (名) そ の 他
屋 敷 不 所 持
頭
小(名) その他
名 子
(諮謬調 術 考
町 反
3.73.1
2.9 2 . 61
11
1
嘉次郎(一領 一疋斉藤丈助 高主)
庄屋太郎次 (武田太郎次)
22222 54321 1121 11
1
1
¥ 次 郎右衛門8
21111 09876 111 1111
1
1 甚 七 6
1 . 5 1.4 1.3 1.2 1.1
2
1 3125卵
1
221 111
1
ヤ勘助10平助9
9徳平5 藤兵衛3
09876
●1
1
1 u1466
41
1 ( 1 )
1 3
躯1卵 11 11 ヤヤ
{ 次右衛門10 七 郎 右 エ 門 5
儀 七 6
ヤ両右衛門6
54321 ②4個閏
5661 ( 1 )
2
7 ( 6 )
3② 4卿 1 0 f 7 )
11
l ( 1 )
2 ( 1 )
1 ( 1 ) 又 吉
門 2 安兵 衛4
神田
1以下 3 ( 1 ) 1 ( 1 ) 4 ( 1 ) 1 ( 1 ) 2 ( 2 ) ヤ 磯 蕊 F ;
30 14
1 4 4 ヤ 兵 右 衛 門 2
11
頭百姓
85小百姓
7︵名子︶ その他
6頭百姓 1
53小百姓
10︵名子︶
6その他
三︑村政における名子の地位
斉藤喜兵衛殿
とある︒これによって名子は村庄屋の統轄の下に属するようにな
ったと云へ相である︒事実これまで名子の影踏には︑斉藤家から立
︵麹︶
会っていたのに︑この年からは立会わなくなっている︒従って逆に
見れば天明七年以前は︑名子は直接村と関連できない存在だったと
いうことになる︒
②しかしながら耕地の所有状態︑高請けの実態から見ると異なっ
た評価ができる︒即ち名子の高請けは元禄二年の宗門改帳に見ら
れ︑宝暦九年以来名子は五人組成員︵但し名子のみで三組をなして 大津町のうち名子に関する宗門改帳が斉藤家に残されたのは︑こ れら名子が斉醗家に隷属し︑斉藤家を通じてのみ藩政︵より具体的 には郡方の地方支配︶を受けたからであろう.元禄二年から天明六 年までの宗門改帳は別帳を以て影踏に行なったもので︑村庄屋が別 帳の写を斉藻家へ送付した際奥書に﹁右者御格之通紙而二而御座 困︶ 候﹂との妃賊がみられる︒ ①天明七年に至って︑斉藤家名子は影踏に際して惣人数に加えら れたことが︑同年の宗門改帳にみえる︒即ち奥脅に
右者阿方様名子之者共天明七年より奉願大津町惣人数之内二被召
江影踏被仰付侯二付前会影踏別帳を以仕来申候名子人数帳面毎年
影踏御達申上候様二被仰付侭候二付則帳面相調御達申上侯以上
大津町庄屋 天明七 二月太郎次⑳ いる︶となり︑宝暦十三年の地引合改帳では頭百姓α小百姓百六十 九人のうちに十七人の名子がいずれも小百姓として署名しているの である︒これらの賭噸情のみを見ると既に賭先学の明らかにされた 如く名子の本百姓化という指摘と合致するが︑やはり身分的な問題 が残るように思われる︒肥後藩における年貢割当に関して︑寛永十 ●●︒︵釦︶ 二年の法は﹁此儀小百姓迄承届﹂とあるのに対して寛文十年には ●︒●○○︒● ﹁小百姓名子以下迄密附相渡︑免割帳面を得斗読聞せ銘点判形を仕
︵副︶
せ申候﹂︵傍点鉦者︶とあるように︑高附けの名子の存在も否定し
難い︒名子放れを経なければ︑前述のように一応本百姓の条件を充
足しても︑それ丈では本百姓とは云えないのではなかろうか︒
③但し︑斉藤家名子の取扱いについて︑藩政︵郡方︶において
は︑﹁其元名子之者者影踏帳奥二別稜二立有之事二候得共平日御郡
︵型︶
取扱者外之御百姓同様二有之候処⁝⁝﹂として︑本百姓並みに取扱
っているようであり︑また現実に︑宝暦十二年には︑勘助の伴杢右
衛門︑次郎衛門の伴供三次が御仕立馬口付に︑弥太平が大津手永会
所小頭︑兵右術門が会所の走番を動峰鍾いて︑本百姓並みの地位に
あった︒とくに弥太平の勤める会所小頭は︑単に能筆であるだけで
なく︑村役人と同格あるいはより高い家格が要求される堪睦である
だけに︑名子の本百姓化が事実として漣められよう︒しかし身分的
には弥太平も名子であり︑名子放れしなければならなかった︒宗門
改帳の付紙はこの件について次のように述べている︒
此弥太平隈宝暦十三年二月会所詰二可被仰付旨二付拙者手放し申 候様掠梨角兵衛殿より所望二付同二月十五日名子手放申侯
④斉藤喜兵術は天明二年に大洋町御蔵納無高十左衛門を名子分か
ら譜代家来として召抱えたいと申出ているが︑御郡方はこれに対し
38
天保三年に名子庄七が斉藤家に無断で寸志を差上げて在御家人化
︵具体的にどの地位を得たか不明︶するに至って︑名子の処遇が問
題になった︒この事件は幕末における肥後藩名子に関する藩側の立
場を示すものとして興味あるものである︒以下繁雑になるが全文を
掲げ検肘する︒
口上之覚
減譜代名子之内庄七と申者去冬寸志銭差上候由漸此間承侯間御問
て此儀双方願上被差免候尤追て様子も有之譜代家来差放候節は他支
︵弱︶
配二相成候儀は難叶元を之通村人数二加リ申筈二候
と答えている︒
これら史料からみると︑名子の取扱いについて︑藩政︵御郡方︶
では本百姓並みで村人数に入れ自らの支配としているのに対して︑
斉藤家としては村人数たるを否定してないが身分的に自らの支配と
しているものの如くである︒このような斉藻家の名子支配は︑制度
的に宗門改めに踏襲されただけでなく︑︵年末詳︶三月十三日名子
宇七の早手小頭登用に際して︑﹁在勤中は名子の手を差離可申候尤
万一機子も有之候ハ︑御掛合仕候間其節は元之名子一一御返し下さる
︵艶︶
べく﹂とのべて︑名子の帰趨に斉藤家の発言力があることを主張し
ているのでも示される︒そこでは両者の意向が相容れ難いものを含
んでいながら︑尚相互の了解の上に事が運ばれているのは︑一つに
は斉藤家がもと惣庄屋家という家格を有すること︑さらには先祖以
来の駅という歴史的条件があることに支えられていたものと思われ
る︒ 合候通二御座候処存寄有之候ハ︑其訳紙面二而貴所樺申進候棟左 候ハ︑夫を以御伺一一も可相成旨被仰越候趣承知致候則左之通二御 座侯 一寸志餓差上候砿私江者一向間合も不仕者主従之間柄其上不寄何事
相尋受差図侯筈二相極樋候処一向何之沙汰一一も及不申段落兼申候
︹付紙︺﹁本行庄七儀寸志銀差上候儀次左衛門江答不申儲届兼候間吃
卜相断候様可被申付候率﹂
一依寸志苗字帯刀被仰付候ヘハ帯刀之応対勿論二候処是迄家来筋之
名子一一而甚承知無本意奉存候間被為叶御儀一一御座候ハ︑今迄之通
閣被下候奉願度奉存候事
︹付紙︺﹁御用二付寸志被召上候間為冥加寸志銭差上寄得之者共被賞
苗字帯刀差免候得者身分相当の応接者勿論二候得共古今駅も有之
事二付庄七儀仮令結榊二被召上候共旧恩忘却者致間敬候右之通一一
而寸志茂夫々被召上候間是迄之通二被閣候儀難叶候事﹂
一名子之者ハ役人二者難成由一一て頭百姓も申付無之五人組茂名子者
名子同士組合せ一一相成居候処寸志銭差上之儀何程|一て有御座哉之
事
︹付紙︺﹁名子之者寸志差上候儀不苦候事﹂
一名子より寸志銀差上候儀不苦且叉主家二も相伺不申勝手次才寸志
差上候儀も不苦筋一一て結榊二被賞候儀一一御座候得者可仕様も無御
座候得共代替り継目不仕村人数二為成候節者本之名子一一返シ可被
下哉之事
︹付紙︺﹁本行前条之通二候事﹂
﹁其節之御詮儀次オニ候事﹂
一名子より寸志支不申候得ハ跡之難渋者榊不申田畑一一而も売払何レ
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志を藩側が承認したという事実である︒肥後藩の財政困難が農民か
らの寸志に期待するようにな起墨︑百姓・名子の別なく寸志を差出
し得るものぞ求めているのである︒
こうした村政における名子の地位は︑小百姓として貢租を負担
し︑或いは会所役人になり︑更には寸志によって在御家人の資格を
得るものも現われるなど︑他の本百姓並みに取扱われる存在であっ
たといえよう︒
注︵配︶﹁元禄二年同拾年名子共影踏人数帳︶
︵調︶斉藻家家贈巻之三︑文政十二年二月﹁御受申上覚﹂
︵釦︶前掲﹁藩法集7熊本藩﹂井田衛麓一二九条
︵証︶全右井田析羨六七一条
︵犯︶文政十二年一一月七日﹁釦﹂︑﹁御受申上覚﹂
︵調︶宝暦十二年﹁宗門改帳﹂
︵鋤︶城南町史縞墓会鯛﹁城南町史﹄﹁会所の機柵﹂参照
︵弱︶斉藤家家贈巻之三
︵錨︶三月十三日詫毎謂笹之如
︵説︶前掲﹃城南町市﹄﹁寸志制度と城南﹂による
︵調︶拙緬﹁元禄以来御双場釦﹂
︵調︶前掲﹃城南町史﹄︑森田誠一氏﹁近世の郷士制︑特に金納
郷士の性格﹂︵法文論叢才二○号︶ |も寸志差上専名子之手を切り候儀者必定二而湛家一一も不敬之振捌
仕ものと相見江候事
︹付錘︺﹁無理成ル才覚を以寸志差上跡電離渋二及候程之者者御惣庄
屋より相達不申筈二候左槻之寸志ハ勿験不被召上候事﹂
右之通二御座候尤先祖より之訳も不相分候而者貫兼可申と名子之
訳霞付壱通宝暦十三年二月御達写弐通相添掛御目申候間宜敷御願
申侯以上
︵天保三年︶
辰二月十日斉 次左衛門
布田太郎右衛門殿
庄七は天保二年の関東筋川逼御普請御手伝御用寸志の募集に応じ
て貯えていた鳥目を寸志として出したものである︒御郡方の見解は
付紙に示されるが︑この口上覚から問題とされる点は︑⑩名子庄七
が斉醗家の了解を得てない率である.このことは庄七が斉藤家の厳
璽な統制の下になかったことを示している︒庄七の経営は独自の手
で営まれ︑だからこそ蓄財することも可能であったと考えられる.
当時の寸志額は百姓から地士へは五負目の寸志が必要であ霞.米
一升が錨一匁三分余約百二十海陸であるから五黄目では約四石余に
当り相当な経営でなければ寸志は捻出できない.庄七の経営が相当
に大きかったことを示すものである︒②次にこの覚醤で藩側︵御郡
方︶も斉藤家も名子の右のような独立的な経営について一言もふれ
ていない事が指摘できる︒この点については前述のように大津町惣
人数として把握していることのあらわれであろう︒③名子は役人に
はなれないが五人組を栂成していて︑村内では百姓として位置づけ
られている︒㈱名子の地位を決定的に位樋づけるものは︑庄七の寸 前述のように村内においては本百姓並みの取扱いをうけている が︑それでも尚竣終的には御郡方をして︑庄七が斉藤家に無断で寸 四︑斉藤家と名子
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志を差上げたことは不可としているのであり︑斉藤家の名子主の地
位は保証されているのである︒彼ら名子の斉藤家への賦役は三月節
句のよもぎ取り︑冬のす狸掃い︑餅つきが主であった︒御郡方から
名子の賦役への間合について
よもぎ 一一二月節句女相払申候事
但柳二而相済候二付小者二取過候而茂宜候得共先祖より之仕来
二付至而少食宛相払せ申候
一す程掃井餅摘召仕申候
但当時二而者巳前より者人数半方二相減せ申候
右年々定規二召仕来申候其外吉凶礼之節叉者無余儀筋二者召仕申
候得共当時二而者餅摘人数茂相減候二付す坐掃・餅摘二不罷出者 より召仕勿論農繁之時分者用捨仕惣鉢可成丈ケ者仕方仕様心
を.⁝⁝・⁝・平日格別召仕候用筋茂無之一ケ年二両日完叉者四五年
之内二者三日完位二相当候茂御座齢︶⁝..
︵虹︶
と答えている︒名子役は伊藤兆司氏の研究になる北九州の名子に比
してよほど軽い︒これら仕事の性格からみると︑名子は斉藤家の農
業経営における労働力を櫛成したものでなく︑従って彼らを名子と
して規制しているのは先祖以来の身分的拘束であり︑極めて現実性
に乏しいものになっているように思われる︒だからこそ庄七が斉藤
家に無断で寸志を差出すという行為も可能になるのであろう︒
このような名子の独立化は元禄二年の高請け以降の推移であり︑
天明七年宗門改帳上で大津町惣人数への編入によって︑日常生活で
はすでに独立した百姓となり︑斉藻家の支配力はよほど薄れている
のである︒
藩側︵郡方︶の名子把握はすでに本百姓なみであったけれども︑ 天保三年の庄七の事件に際して︑斉藤家の名子支配は認めざるを得 なかった.このことは名子とは言え余力ある農民へ寸志を期待する 藩当局にとっては少なからぬ衝撃となったようである︒そのことは 斉藤家の名子解放が同年中に実現したことから推測される︒名子解 放の過程は次の順序で進められている︒
L五月惣庄屋による名子閥ぺ 2七月郡代へ名子放れ願圃提出
3八月大沌町庄屋へ町人数繰入れの報知
4八月︵鋤飛躍雛渡し
名子解放は惣庄屋布田太郎右衛門の発議によるものであるが︑斉
藤家の積極的な反対もなく順調に進められた︒その奥には名子の独
立化の傾向がつよく︑斉藤家の支配が薄れている状況も反映してい
ると思われる︒
身請銭の決定は各人の経済状況を参考にしたらしく﹁文吉ハ娘一
人持居候迄一一て高地家屋敷二て三百目位二も出入二てハ成かね可申
候間文吉よりハ立助方餓才覚いたし能御座候﹂﹁此改七儀者弟清吉
と申者塔迫村太平義子二相成居候得共未タ名子を放し不申此節者此
者も加勢可仕左候ヘハ改七も馬弐疋持百姓相勤文吉より者よほど宜
候其上鱗ハ取居侯事二付文吉同樺か叉ハ三百位二而ハ何程可有御座
哉﹂など各人の砺補を調べている︒その結果十五人の名子が総計四
貫目の身舗銭を支払うことになった︒
覚 一銭三百五十め上大津久兵衛 一同三百五十め同所庄七
41
以上見て来た斉藤家の名子は︑私たちが学界共通の財産として持
っている名子の概念と箸るしく相違するように思われる︒例えば古
島敏雄氏の﹁隷農制度としての御館被官制度﹂や伊藤兆司氏の﹁小
倉領中津領及び日田幕領食境地帯に於ける隷農制度﹂あるいは有賀
喜左衛門氏の名子︵﹃日本家族制度と小作制度﹄︺をはじめとする
所謂隷農としての名子と斉藤家名子を比較する場合︑㈹高謂けをし
ている事︑従って検地帳には貢租負担者として登録されていたであ
ろう︒②五人組の樹成員となっている事︑この点から村の法的櫛成
員として把握されている事が推察される︒③名子屋蚊は名子主屋敷
内または名子主屋敷をとりまく︵形の上で隷属を示すと思われる︶
のでなく上・下の両村に分散している︒㈱名子主に奉公する者もい
る反面他の家に奉公したり︑会所役人として勤めるものもいる︒な
ど︑隷農とは思えない数多くの特色をもっている︒
しかしそのような独立的性格を持ちながらも︑江戸時代のほ箕全
期に豆って︑隷農の代表的名辞とされる名子の呼称をもち︑実際に
斉藻家の了解なしに行動できない面を併せ有したのである︒
肥後藩農村において郡方によって本百姓並みに取扱われながら︑
なお名子が存在したことは︑斉藤家の例で実証できようが︑このよ 一同三百五十め同所寿七・ 一同百五十め同所儀平 一同百五十め同所平七 一同弐百目同所源助 一同弐百目同所改七 一同百五十め 所形右衛門
合四貫目 この場合必らずしも全部の名子が同一歩鯛でなかったらしく︑の
ちに三百五十目を出して独立した下大津町孫七について︑﹁混合壁
一一居候名子孫七と申者ハ御先役衆巳来名子共追食之願事仕候節も同
意不仕二付此節之取組二茂外之者共より孫七二者知せ不申哉又者知
侯而も只今通二て居候筈二御座候哉本紙二名前相見江不申侯間御間
合申上候﹂とあって︑名子放れが名子の意志によるものであること
を示している︒
身鯖銭は同年八月十八日から翌天保四年一月二十五日までに支払
われているが︑これは名子が会所に提出し︑会所から斉顔家に届け られており︑その際名子は頭百姓と共に斉藤家を肪れて鮪印﹄︒
この舗印によって名子放れが完了するのである︒ 一同三百五十め同所武 一同三百五十め同所勘 一同三百五十め同所藤 一同 め同所立 一同三百 十め 大津幾 一同弐百五十 同所文 一同三百五十 同所藤
吉 吉 平 助 七 助 ・ 平
{
注︵⑱︶文政十二年二月﹁御受申上覚﹂
︵虹︶伊藤兆司氏﹁小倉領・中津領及び日田領領地帯に於ける隷
農制度﹂︵農業経済研究四巻三号︑七巻四号︶
︵妃︶天保三年八月﹁名子共身舗銭受取一巻﹂
結び
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うな名子が肥後藩に普遍的に見られるか否かの問題については今後
の史料採訪に委ねるほかないように思われる︒更に今後考究すべき
問題として原田敏丸氏・杉本尚雄氏︵前掲雷︶によって提唱されて
いる高持名子の本百姓化︵無高名子の奉公人化と表裏の関係にあ
る︶の問題があげられよう︒寛永年間にすでに高持名子と無高名子
の分化がみられるが︑これらの詳細な追求によって肥後藩農村にお
ける名子の実態が明らかにされるのではなかろうか︒
︹付妃︺ 本稲作成に当って史料所蔵者斉藤喜興氏の御好意を得︑また県史
編蕊室花岡典輝氏の御協力を得た︒深く感紺したい.
尚︑本稿は昭和四十一年度奨励研究﹁肥後藩における村政の研
究﹂の一部であることを付記する︒
43