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近世前期松江藩における農政の展開 : 岸崎左久次の村落類型観を通して

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Academic year: 2021

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(1) 近世前期松江藩における農政の展開 一岸崎左久次の村落類型観を通して一 専攻    教科・領域教育専攻 コース    社会系二1一ス. 物番号   M10189J 氏名    銭野草. 1.研究の目的. 落類型を試みた人物だからである。.  我々日本人は、大抵の人が平野部で過ごし、平野. 2.論文構成. 部が国士の大部分を占めていると思いがちである。.  緒言. それは日本人が米を主食にし、周りを見渡せば田が.   第1章 松江藩前期における藩政の動向. 広がっている風景を誰もが抱いており、それはそれ.    第1節 松江藩の経済事情. で至極当然ことなのかもしれない。.    第2節 万代重兵衛事件.  だが実際は、日本は周囲を囲まれた島国であり、.   第2章 近世前期における松江藩の地方行政と. かつ、山地や森林が国土の6,7割を占めている。.       岸崎左久次. 言い換えれば、多くの人がどこかしらで海や山に関.    第1節 岸崎左久次の登場と農政観. わる生活しているということになる。しかし、従来.    第2節 松江藩における地方行政の変遷. の日本史学において、「山村」や「漁村」の視点、いわ.   第3章 松江藩の地方行政の実楮. ば環境史的な歴史観で捉えて研究する者は少数であ.    第1節 堀尾検地と松平検地. ると言わざるを得ない。.    第2節 松江藩の年貢徴収の実態.  そこで、筆者が本研究で先行研究として掲げるの.  緒言. は、歴史地理学者である米家氏の『中・近世山村の 景観と構造』の「第七章 地方書にみる近世の村落. 3.研究の概要. 類型観一里方・山方・浦方」である。米家氏は、こ.  第一章では、藩全体の石高は増加していたが、年. の章において、地方書から近世の役人が村落を類型. 貢の不足を見ると、直政期から財政は悪化し始め、. 化する視点を明らかにしたが、それはあくまで素描. 寛文後期以降はより一層財政が逼迫するようになっ. の域にとどまっていた。そこで、筆者はこれを踏ま. た。これに対する藩の対応策は、新田開発による収. え、米家氏が踏み込んでいなかった、村落類型的な. 入の拡大、財政の整備と確立など、経済政策の実施. 貢租操作を藩側が実施していたのかという問題を検. である。その一環として、大梶七兵衛の荒米浜開拓. 証し、加えて、それを「里方」の検地帳で実証して. が施行されたが、そこに内在していたのは恒衛的な. いくことを課題とする。本論文では、松江藩の地方. 藩財政の逼迫、それに伴う百姓の藩政に対する不満. 役人であった岸崎左久次の村落類型観を通して、藩. であった。その例として、万代重兵衛事件が挙げた。. の法令から年貢徴収に関する藩政の方針を探り、岸. しかし、この事件は岸崎登場から約二〇年後である. 崎左久次が地方役人として活躍する前後の藩の農政. が故、直接、この事件が岸崎登場の必然性とまでは. の動向を検討することを目的とする。. 云えないが、藩がこれらの問題を対処する必要に迫.  この俸崎左久次を取り上げた理由は、近世で初め. られていたことは事実であり、そこに岸崎登場の必. て、明確に村落を対比する形でr里方」を用い、村. 然性が内在していた。. 一264一.

(2)  第二章では、岸崎の農政観を探ることから始めた。. 針から安定的に年貢を確保したいという方針に至っ. r免法記』に示されていたのは、等級ごとに色相を. た転換期であったと考えられる。このように、百姓. 決定し、それは土地の生産性に応じられたものであ. の経営維持や年貢を安定的に収納させたいという意. った。ただし、当時の岸崎は内高が増加すると想定. 図が藩側からも窺え、つまり、岸崎の農政に対する. していたため、年貢収奪を中心に据えていた点は、. 考えは藩政の方針た多大なる影響を与えていたとい. 否めない。結局、岸崎は、百姓への農の精励を強い. える。また、藩の村落類型観に触れると、岸崎のよ. て、年貢を収奪し、藩の財政に取り込もうとしてい. うに「里方」と対比する形で「山方」を把握してい. たのである。一方の『田法記』では、土地の生産費. なかった。. を考慮、土地の作柄に注意を向ける、若干ではある.  第三章では、岸崎登場前後の藩の年貢収取の仕組. が百姓の保護も唱われるようになってきた。それは、. みを検討した。従来堀尾検地のみが苛酷であったと. この頃に藩の年貢収入が減少し、歯止めが効かなく. 指摘されていたが、実際は松平直政初期検地もそれ. なったことを如実に表現している。その一方で、役. を踏襲していた。しかし、岸崎登場後、再度、検地. 人に対しては検地を実施する際の心構えを諭してお. を検討する必要があり、寛文年間に土地生産性を考. り、確実性と実直さを求めていた。それは、安定的. 慮した検地を実施したものの、藩も岸崎も内高が増. な年貢収取が藩にとっての課題であったことを示唆. 加すると想定していたことが影響し、藩の年貢収入. し、その確立を目指すことが重要であったことを主. は減少の一途を辿った。岸崎の農政に関する主張と. 張している。さらにr田法記』では、この当時とし. 藩側の方針を鑑みると、寛文期では年貢収奪を意図. ては珍しい視点をしている日それが村落類型的視点. して検地の再検討を促し、一方の天和期以降では安. で、それによって貢租額を決定しようとした。だが、. 定的な年貢収取のために辻見輪切法への移行を奨励. それは藩政では実施されず、結局のところ、「農」中. した。つまり、岸崎と藩の両方の意向が合致したこ. 心的な考えから脱却はできなかった。ただし、岸崎. ともさることながら、岸崎の農政に関する考えが卓. は「山方」に対する知識の幅が窺え、その点は評価. 越したものであったからこそ藩の方針に多大な影響. すべきであろう。他方、藩政の農政観は「耕作専一」. を及ぼしたといえる。しかし、岸崎が唱えた村落類. を基準に、百姓の経営の維持を企図していた。また、. 型観を通した貢租額の決定は、藩では実施されず、. 藩の年貢収取仕法の方針は、まず藩政当初には披見. あくまで、土地柄、村柄に適応した石盛と免の調整. 法、明暦元年(1655)より小立見・当見仕法に. に留まっていた。とどのつまり、藩も岸崎も農耕を. 移行した。だが、この仕法では、年貢量が減少して. 基準とした方針や考えからから脱却できなかったと. きた上に百姓の生産意欲も下向したため、藩は安定. いう結論に至った。. 的に年貢量を収取する必要に迫られた。そこで、辻.  以上、粗雑であり、第三章で「山方」「浦方」など. 見輪切法が施行されることとなった。『国会』を検討. の検地帳を考察するまでには至らなかったこと、岸. した結果、岸崎の『田法記』に記載されていた内容. 崎のさらなる農政に対する考えを検討することで新. と通底する部分が多分に存在していた。小立見・当. たな視座を示すことが今後の課題である。. 見、辻見の内容が多く記載されていた時期は元禄二 年∼元禄四叩’けて下あ?・それらを踏まえると・. 主任指導教員. この時期は藩が年貢を出来る限り収奪するという方. 篶導教員. 上265一. 原田誠司 原田誠司.

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