近世前期松江藩における農政の展開 : 岸崎左久次の村落類型観を通して
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(2) 第二章では、岸崎の農政観を探ることから始めた。. 針から安定的に年貢を確保したいという方針に至っ. r免法記』に示されていたのは、等級ごとに色相を. た転換期であったと考えられる。このように、百姓. 決定し、それは土地の生産性に応じられたものであ. の経営維持や年貢を安定的に収納させたいという意. った。ただし、当時の岸崎は内高が増加すると想定. 図が藩側からも窺え、つまり、岸崎の農政に対する. していたため、年貢収奪を中心に据えていた点は、. 考えは藩政の方針た多大なる影響を与えていたとい. 否めない。結局、岸崎は、百姓への農の精励を強い. える。また、藩の村落類型観に触れると、岸崎のよ. て、年貢を収奪し、藩の財政に取り込もうとしてい. うに「里方」と対比する形で「山方」を把握してい. たのである。一方の『田法記』では、土地の生産費. なかった。. を考慮、土地の作柄に注意を向ける、若干ではある. 第三章では、岸崎登場前後の藩の年貢収取の仕組. が百姓の保護も唱われるようになってきた。それは、. みを検討した。従来堀尾検地のみが苛酷であったと. この頃に藩の年貢収入が減少し、歯止めが効かなく. 指摘されていたが、実際は松平直政初期検地もそれ. なったことを如実に表現している。その一方で、役. を踏襲していた。しかし、岸崎登場後、再度、検地. 人に対しては検地を実施する際の心構えを諭してお. を検討する必要があり、寛文年間に土地生産性を考. り、確実性と実直さを求めていた。それは、安定的. 慮した検地を実施したものの、藩も岸崎も内高が増. な年貢収取が藩にとっての課題であったことを示唆. 加すると想定していたことが影響し、藩の年貢収入. し、その確立を目指すことが重要であったことを主. は減少の一途を辿った。岸崎の農政に関する主張と. 張している。さらにr田法記』では、この当時とし. 藩側の方針を鑑みると、寛文期では年貢収奪を意図. ては珍しい視点をしている日それが村落類型的視点. して検地の再検討を促し、一方の天和期以降では安. で、それによって貢租額を決定しようとした。だが、. 定的な年貢収取のために辻見輪切法への移行を奨励. それは藩政では実施されず、結局のところ、「農」中. した。つまり、岸崎と藩の両方の意向が合致したこ. 心的な考えから脱却はできなかった。ただし、岸崎. ともさることながら、岸崎の農政に関する考えが卓. は「山方」に対する知識の幅が窺え、その点は評価. 越したものであったからこそ藩の方針に多大な影響. すべきであろう。他方、藩政の農政観は「耕作専一」. を及ぼしたといえる。しかし、岸崎が唱えた村落類. を基準に、百姓の経営の維持を企図していた。また、. 型観を通した貢租額の決定は、藩では実施されず、. 藩の年貢収取仕法の方針は、まず藩政当初には披見. あくまで、土地柄、村柄に適応した石盛と免の調整. 法、明暦元年(1655)より小立見・当見仕法に. に留まっていた。とどのつまり、藩も岸崎も農耕を. 移行した。だが、この仕法では、年貢量が減少して. 基準とした方針や考えからから脱却できなかったと. きた上に百姓の生産意欲も下向したため、藩は安定. いう結論に至った。. 的に年貢量を収取する必要に迫られた。そこで、辻. 以上、粗雑であり、第三章で「山方」「浦方」など. 見輪切法が施行されることとなった。『国会』を検討. の検地帳を考察するまでには至らなかったこと、岸. した結果、岸崎の『田法記』に記載されていた内容. 崎のさらなる農政に対する考えを検討することで新. と通底する部分が多分に存在していた。小立見・当. たな視座を示すことが今後の課題である。. 見、辻見の内容が多く記載されていた時期は元禄二 年∼元禄四叩’けて下あ?・それらを踏まえると・. 主任指導教員. この時期は藩が年貢を出来る限り収奪するという方. 篶導教員. 上265一. 原田誠司 原田誠司.
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