現代青年の生活世界認識と「狂気」観
一現象学的分析一
** *
ヨ藤 悟 ・吉田 昭久
(1989年9月9日受理)
Phenomenological Analysis into Lifeworld−Cognition and lnsanity View of Modern Youth
Satoru SAITo and Teruhisa YosHIDA
(Received September 9,1989)
は じ め に
現代社会の加速度的変化に伴い,新しい「狂気」が出現し, 「精神医学」を「狂気」が越えよう としている。先頃の幼女連続殺人事件に表出されたごとく,まさに,「狂気」が文化の反映である ことを示している。しかし,その文化を作っている社会や,社会を構成している個人の在り様はほ とんど問われることはない。一つの事象と日常の「わたくし」性とが切れた認識とさせられている ためである。このような意識の水準は,国際「障害」者年に如実に表われた。その在り方は別とし て,実態としては,国際「身体障害」者年であったと言えよう。つまり, 「健常」者の行動範囲を 逸脱することのない「身体障害」者ゆえに,諸々の「わたくし」は,自己の生活性を問わないで満 1)
ォ感の得られるボランティア精神を露出し得た,ということである 。
このような流れの中で「狂気」は,社会の表に出ることなく葬り去られて来ている。それはいみ じくも,「宇都宮病院事件」という形で露呈した2}。医療側の問題としては,それ以前にも数多く 言及され3)4剛,精神病院の内側もジャーナリズムの手によって多少なりとも表面化していた6)η。
にもかかわらず,「宇都宮病院事件」が大きく取り上げら江たのは, 精神病院 であったことが 重要なのではなく,司直の手が入るほどの 病院 で起きた 事件 であったからである8)。これ
は,我々の持つ「精神障害」者に対する意識を遮蔽し, 事件 を論ずるといった不毛な論議とな る危険性を持っている。宇都宮病院の医師,看護人の意識と,国際「障害」者年を国際「身体障害」
者年にしてしまう意識とは,本質的に同じであることを認識しなければならないであろう。このこ とは,逆にある「事件」の背景を「狂気」と置き換える我々の意識をも問題としなければならない。
一方,「精神障害」者をその呪縛から解放しようとする動きとして,精神病院変革運動9)や学会 レベルにおける闘争1°},地域運動としての,患者会運動11),家族会運動12)などがある。それぞれ質
*水戸地区精神障害者を守る会「水戸共同作業所 ひだまり一」指導員.
**茨城大学教育学部教育臨床心理学研究室.
176 茨城大学教育学部紀要(教育科学)39号(1990)
の違いや立場の違いはあるものの,一定の成果をあげて来ている。
しかし,それらの動きも我々の「精神障害」者観,「狂気」観を変革するには至っていない。「何 をされるかわからない」という堅固な「狂気」観の根は深い。「狂気」に対する意識は,意識の本 質からいって,日常生活世界の認識を基盤に持っている。
現代は,生産性重視の指向性の中で「豊かな生活」の追求が合理化され,多様化の表層のもとで 価値の画一化が進み,レジャー時代の喧伝の下で様々な「遊び」が進められながら,実態は,人間 の「あそび」13)が認められなくなってきた。それゆえ,「登校拒否」や「家庭内暴力」と呼ばれる 新しい「狂気」が現われ,「準ノイローゼ」14)や「境界パースナリティ障害」15)と呼ばれるものの 存在も表面化している。
文化や社会は本質的にポジティブなものとネガティブなものとが同次元に表裏一体となって構成 されるものであり,「狂気」はその文化自体のポジティブな表現16)と言われるように,「精神病」
といった診断も同様に文化的状況を背景に持つ。
そこで,本論文では,現代社会の変動に伴う現代青年の生活世界認識の変化と「狂気」観を現象 学的に分析し,かつ,我々の意識を呪縛する状況をも問題としたい。
1 現代社会の変動と生活世界
1−1 人間存在と生活世界
人間存在の特殊な在り方は実存という存在論的な概念として示されてきた。それは,世界一内一 存在という言葉に示されるように,単なる存在者ではなく,志向性を持つ生きる関心であり,世界 の中にすでに投げられつつ,自己存在に自らを投げかける自由存在である1η。しかし,M・ボスは,
根源的存在会得として同時に捉えなければ形式的であるとして,他者との関係において現存在は共 同世界である,とする18)。そのような生活世界の中で,あらゆる存在は関係存在であり!9),入間は 自ら「爲す」ことによって世界に参加し,その参加によって自己を拘束することなしには,どんな 自由も存在しないのである2°)。このような関係性世界は,フッサールによって生活世界として概念 化された。それは,誰もが知っているはずの日常性に貫かれて,生きられている根源的地盤であり,
簡単にいえば「あたりまえの世界」なのである。すなわち,生活世界とは,唯一の現実的世界であ り,現実の知覚によって与えられ経験されうる世界である。また,それは,先所与性をもつ,時,
空間的な事物(あらゆる「もの」や動植物および,人間と人問がつくる形象)の世界でもある21}。
また,メルロニポンティは,人間と世界とはそのく事実性〉から出発するのでなければ了解でき ない22》,とし,知覚を身体との関連において解明しようとした。そして,身体図式の視座から,複 雑な構造をもつ世界においては,いかなる世界体験も常に両義性をもつとした劉。メルロ=ポンテ
イの主張は,その立場から経験的諸科学に計り知れない影響を与えたのである。すなわち,「科学」
的世界とは生活世界から切り取られた二次的な世界にしかすぎないのである24)25)。
しかし,生活世界は思想,科学だけの問題ではない。我々は,日常生活の中で現前としてある世 界を身体で感じているにもかかわらず,それを直接に体験あるいは直観することなしに,ある一定
の枠(時に,近代科学的客観性であり,常識であったりする)に,呪縛されているのである。つま り,理念の衣をまとっている科学的常識的な世界像を,「生」の世界の実態だと認識させられてい るのである。
我々が社会的文化的存在として,あるいは時間的空間的存在として,他者とくともに〉あるとい う事実性において,生活世界とは,他のヒト・モノとの関与において構築される世界なのである。
そこにおいて生活とは,人間存在が世界を構築し続ける作業であり,その日その日,その瞬間瞬間 を新しく生きることなのである。それが,人間としての歴史的連続性,個人としての時・空間的連 続性に基づいたことであることはいうまでもない。そして,その世界における人間性とは,世界内 存在の中で課せられた「出会い」をそのつど遂行することなのである26)。
したがって我々にとってフッサールの提起した生活世界とは,「わたくし」の具体的日常的な世 界を,いかに「わたくし」との関係性において捉え返していくのかということである。人間は役割
として存在しているわけではないが,現実に多様にグループ化されたなかで,さまざまな役割を演 じつつ生きている。そこでは,社会システムが複雑になることにより,多様な役割を担わなくては ならなくなる。それにより我々の生活性は規定され,関係性が変容してくることになる。
1−2 現代社会の変動に伴う関係性の変容
現代社会は加速度的に変化し27)28),これに伴い鯛々入の生活のペースも加速度的に早くなってい る。「時間を買う」という発想がまさにそれである。この社会の新しい力である加速度的なスピー ドを持つ生活においては,物の必要性は必然的に一時的なものとなちざるを得ない。今や何代にも わたって受け継いだ桐のタンスなどは骨董品であり,使い捨ての百円ライターやボールペンがあた
りまえであることにそのことはよく表われており,さらに建築物までが一時的なものになって来て いる。このような生活をすることによって,何が必要か,といった明確な考えを持たずに,何か変 わったものが欲しいという漠然とした感じを持つのである。これは,人間存在と物との連続性感覚 の喪失であり,消費過程における疎外である。E.フロムによれば,労働は抽象化した金銭と物の 性質や起源も知らないものとの交換の中で,具体的な本当の自己から疎外された幻想を遂行してい
るということになる29)。
入間と物の関係が一時的なものとなり,生きた(消費)行為を量化することは,世界に投げ出さ れ,生きられる体験をする人間存在の在り方ではない。物に対する生きられる体験とは,物として 独立した瞬間に,命をもつものとして捉え,自己存在との関わりにおいて物とくともに〉世界にあ るということである。
また,消費過程との関連における人間は,今や何の重要な意味も持たず,買い手としての意味を 持っているだけとなった現代社会においては,入間もモジュラー化していると言える鋤。八百屋,
魚屋など,なじみの店で物を買うことは,入間関係の場でもあり,物の新鮮さや,物の命を感じる 場でもあった。ところが,都市生活者の場合,スーパーマーケットでパックに入った肉や野菜を買
うといった事態の下では,当然物との連続性感覚は生れない。
物との関係ばかりでなく,入間関係の持続時間も短くなっている。ほとんどのサービス業関係が 典型的であるが,地域の人間関係についても同様である。都市のように,いつ移転するかわからな
い状況においては,地縁的な関係はもとより,2,3人の緊密な関係に基づいた安定した関係は期 待できなくなり,共通の関心を持った新しい親友型と,それに伴う不自由のない満足感を求めるよ
うになる。守屋らの調査によれば31),団地都市においては,地域的特性は崩壊しており,PTAや 自治会のつながりによる新しい人間関係やライフスタイルが形成されているという団地的共同性を 見い出している.しかし,それは,7肖賭主体性を帯びた・個・の方向へと動いている321ものなの である。
また,コミュニケーションも短時間に多量の情報が含まれる記号と化し,言葉に内実がなくなっ てきている33)。人間の情動的な体験や人間の生に関する話題は,「ネクラ」として排除され,人間 の生とは直接関係のない「おしゃべり」が「ネアカ」の会話となる。これは,空虚さ(emptiness)
に伴う孤独,不安の表出の一側面と言えよう。
このように,生活世界から抽象化された二次的世界の中で,人間は自然を支配することを目標と してきた。そこにおいて自然は生命なきものとされ,自然のただ中に入ったときの怖さ,偉大さ,
安堵感は失われた。しかし,これは,感1生がなくなったということではなく,状況として感性を失
@ 34)墲ケてしまったということである。そのような危機のもとに生れたのがエコロジー運動である 。 その主張の全体の基となっているのは「生態系との調和」であり,それはすなわち,「科学」を二 次的世界と謙虚に見すえた生活世界の意義の把握を意味し,意義づけようとするものである。
H 生活世界と「狂気」
H−1 「狂気」の意味とその社会的位置
「狂気」は,生活世界の中で生きているという意味において多彩なものである。「狂」という言 葉の持つ共通感覚35)が,近代精神医学によって概念化されるまでは,「狂気」に関する人々の体験
も日常的かつ多様なものであって,本質的には自由な状態として体験された36)のである。しかし,
西欧世界では17世紀以降, 「狂気」が生産性という基準からはずれたものとして隔離され,道徳的 37)
ミ会的に罪あるものとしての,すなわち,有罪性と攻撃性を中核とした歴史が続く 。そしてこの ことが,ただ一つの道徳体制の中で社会的予防措置と医学的術策という二種類の技術を混在させる ことになった。それにより「狂気」は,肉体と精神の双方に関係あるものとしてとらえられなくな 38}
閨C内面性の次元に刻みつけられたのである 。
宗教的側面からみても,西欧中世において「狂気」は,主に悪魔つきや神の声が聞こえるといっ た宗教病態であって,神的なものとしてとらえられていた。ところが,医学がそれに介入するよう になり39),19世紀に至ると,宗教は神経症の幻想的な力によるとされるようになるのである。
一方,日本において最も古いと思われるのは宗教的「狂気」,つまり巫女である。巫女とは神の 託宣を伝える女で,各地を歩いて文化を伝播する者でもあった。古神道などにも出てくるが,特に 巫女的性格だったのではないかと思われるのが卑弥呼である。卑弥呼は死者儀礼の最高の統轄者,
最高位の宗教的機能者だったといわれるように4°),シャーマンは降神的霊媒とも呼ぶべき性格をも ち,しかもトランス経験を経なければならない存在であった。そのような過程を経た巫女(シャー
マン)は,民衆にとってなくてはならない存在であり,深く濃い意味を帯びた聖なるものと位置づ けられていた。現代においても,シャーマニズムをひきついでいる東北地方のイタコ,沖縄のユタ などは,住民の要望に答えているといわれる。
巫女についであげられるのは,つき物である41)。 つき は,一時的に個人につくもので、家系 に伝わるものは 持ち といわれた。このような「狂気」は平安期ごろになると,仏教の影響もあ っておはらいや加持祈濤などによって体内から追い出すといったことも行なわれた。その流れの中 で,確かに 持ち は緑談の時など問題にされた。また,前世の因としての宿業という考え方もあ った。しかし,因果応報のうちは罪が軽かったというだけでなく,文化の中の不可欠な要素でもあ ったのである。現代のように近代科学によって提出された遺伝的素質という 結果 42)を受け入れ ることは,ネガティブなものとポジティブなものの止揚としての文化を破壊する方向と言って良い であろう。
ここで,上記とは違った意味で「狂気」の在り様をあげておこう。第一に,三島由紀夫に代表さ れる「狂猜者」である43>。「狂猜」とは論語によると,対象はなんであれ理想に走り,片意地で妥 協しないことである。第二に,良寛,一休等に代表される「隠者」である。「隠者」とは単なる世 捨人ではなく,狂った社会から「狂者」と呼ばれることによって,人間性を問う人である。彼らは 一所不在の徒であり放浪者であり,狂った社会に反抗しているものの,文化の中に受け入れられつ つ生きていたのである。
このように,中世あたりまでの日本でも「狂気」・は文化の中にとけこんでいたと考えられる。つ まり, 「狂気」は単なる逸脱ではなく,病として認められながらも集団内である一定の地位と役割 とを持っていた。それは,超自然の肯定,価値の多様性,社会システムとしての非「合理主義」に よるものと考えられる。ところが,歴史の流れの中で,生活世界の中で生きていた「狂気」が「科 44)
w」によって否定されること,すなわち,「狂気」が「精神疾患」という疎外された「狂気」 に 変化していくことになる。
これは,「科学」的知識の増大による法則性の解明,すなわち予測可能性が増大したということ を意味する。逆をいえば,予測からはずれるものを「異常」と見なすということである。このよう に「科学」によって支持された「異常」とされる基準は,量的基準と質的基準の二つに分節される。
しかし,いずれにしても,価値規範的目的論的なものの見方がはいりこんだ,多数者正常の原則な
45)46)
フである 。しかも,日常的には,「理性」からはずれたものに対して積極的に区別しようとい う意識があるため,そう深くは考えられていない。そこにおいては「理性」からはずれたものの実 在性は第二義的なものとなり,区別することが第一義的なものになって来る。これは,現代人の「健 康」への高い関心によく表われている。「健康」への執着は,必然的に「病気」を排除する医学へ の傾倒や信仰となる。そして,それは「痛み」の排除ということに特徴的に表出している。近代医 学は,身体一精神の分離不可能な有機体としての人間から「痛み」という人間的意味をうばいさっ たのである4 。
「精神医学」においても,量的,質的基準という「客観性」 「合理性」を前提としては割り切れ ない部分が現実的には大きい。それは,E・ブロイラーの「精神分裂病」の定義48)が 「正常」や
「精神的な健康」との比較の上で成立しているということによく示されている。また,逸脱という 言葉によっても示されよう。それは,結果として社会がその個人に対してどういう判断を下すかに
かかっている。社会が下す判断基準は日常生活の中の平均基準であり,常識という言葉に表わされ る49)。これはすなわち,「狂気」や「異常」は文化,社会によって規定されるということである5°)51)。
また,クレペリン,ブロイラーからの歴史の中で,未知の生物学的基準における有機体の障害を 想定した「内因性」という幻想は,現代精神医学の底流となっていることも見のがせない事実であ る。いずれにしても,このような精神医学への懐疑から「精神疾患」という概念を,社会からの逸 脱という基準に立った社会防衛的要素である,とする反「精神医学」が展開して来る。
反「精神医学」においては,「狂気」は個人にあるのではなく,レッテルをはられた関係システ ムの内にある,とする。そのラディカルな批判は,家族,常識などの変革を意図するものであり,
市民社会解体にたどりつく。そこでは「医学」のidentityが問われることになり,その意味におい て反「精神医学」のラディカリズムは,必ずしも成功したとはいえないが,「分裂病」への接近に 与えた影響は大きい52)53)54}。しかし,反「精神医学」,現象学的な「精神医学」が確かにア・プリ オリに「正常・異常」の区別はつけないとはいえ,「病的世界」と「正常人の構成する世界」とを 分けることは問われなければならないとして,構造論的に「狂気」に迫ったのがM・フーコーであ
る。彼は,「精神疾患」は単に疎外された「狂気」にすぎないとした55)。
これに対して「狂気」を主体とした立場から吉田おさみは,精神医学も反精神医学もその原因論 の前提には「精神病」を患者に帰属する「病」ととらえるネガティブな「狂気」観があると指摘す
56)驕@。そして,彼は,「正気」の世界も「狂気」の世界も一種の捉われの世界であるとし,彼にと って「狂気」とは,役割放棄を通して役割連関としての市民社会を根底から解体していくものであ り,日常的自己の解体一非日常の世界への突入によって,日常世界を根底から揺るがすものなので
ある57)。
このような意味において「狂気」とは,社会構造の矛盾をつく日常性からの離脱であり,平均基 準からの離反と言うことができる。
H−2 現代社会と「狂気」
先述のように,現代社会の特長として地域性の崩壊があげられるが,日本社会の加速度的な産業 化に伴い,地域集団としてのムラが崩壊してきている58)59)。「狂気」はその中で自由であり,文化 の要素として価値を持っていたが,近代合理主義による産業化社会の波の中で「狂気」は姿を消し ていった。その要因として「仕事」の変容がある。「合理的」な機械の導入は,徒弟制度による職 人の存在価値を低くし,手仕事としての技術は要求されず,いかに「仕事」を管理できるかが問わ れるようになった。手仕事の時代には,「狂気」を含めた「弱者」の仕事は多様にあり,社会の中 で一定の役割をになっていた。しかし,機械化された労働の中では,「狂気」の仕事は減少し,人 間は自分自身を自分の力や豊かさの活動の担い手として経験できないという人間疎外にまで広がっ
ていくのである6°)。
社会や地域の変動に伴って家族も変容してきている。日本社会は第二次大戦後の急激な資本制再 編のために,住生活の再編を行なった。勤労者の都市集中を計るため,2DK政策が進められ,一 般にマイホーム主義といわれる新しい家族が生れた。そこで個人は,「近代的自我」に基づく個室 の必要性を感じ始めていく。ムラの中のイエとして持っていた機能は影をひそめ,生産機能は企業
に,教育機能は学校に移っていった。そして,個々の自我は未熟なうちに家族以外の人達や機関の 全体的な機構によって社会化されることとなった。そこにおいて家族は,共通理解がないままに維 持され,生活の軸が親子という血のつながりではなく,夫婦という軸を中心に回転し始めたのであ
る。
以上のような現代社会の変動は「狂気」の形態にも変化を及ぼす。加速度的な社会構造の変化は 関係性が一時的になることによって,過剰刺激に対する心理的な反応を引き起こす。A・トフラー は,急速な情報収集という条件のもとでは「分裂病」者に近い反応を示すという報告を例にあげ,
未来の衝撃 の犠牲者には帰っていくところがない,としている61)。宮本も現実への過剰な適応 にふれ,現代は,現実への適応を過剰なまでに強いていると同時に,他方で現実から遠ざからせる ことによって現実とのいきいきとした接触を失わせている,という相反する二面性を持っているよ
62)
、に見える ,としている。この状況の中の人間にとって大切なことは,自我が絶えず変化すると いうことであり,その変化の形を仮面のように取り替える63)ことが必要となる。そこにおいて,我 々は何らの努力もせず,社会によって描かれた一つの道が面前に開かれているのを発見し,それに したがって進むことになる64)。そこにおける人間存在の様式は,「もつ」様式すなわち「私はある
=私が持つものおよび私が消費するもの」となる。それは,自己と世界とが全体で語られない「わ 65)
鼈黷サれ」の様式なのである 。このような世界は非連続の世界であり,人間は記憶を喪失した,
発展なき刹那的な人間とならざるをえない。
66)
サれゆえに,核家族を対象とした精神医学的心理的アプローチが可能となる 。特に, 「分裂」
病の家族研究は,小児期以来持続する葛藤の帰結と見る原因論からの研究である67)。しかし,すで に述べたように,原因論の追及は「狂気」をネガティブに捉えるものである。「狂気」が日常性からの,
平均基準からの離脱である以上,家族を規定する社会状況に目を向けなければならない「境界型」
の出現は,分裂病が生理学的レベルに還元できるものではなく,関係性の「病」であることを示し ている。また,分裂病の「妄想」が時代に強く影響されることはよく知られており,現代は「分裂 病」像の輪郭が不鮮明になり,「分裂病」に特異な症状が存在しないとすらいわれている鰯9)7°)。
人間の間の情緒関係を喪失させた現代文化は,「分裂病」のような病気の形成を可能にする文化 であり,それは,経済的社会的条件に拘束され,自己活動の生産物中に人問的な生きた意味を認め ることができず,自己の言語の中に伝わることに対しても異邦人であり続けるという,正気でない
71)72)
ミ会なのである 。このように,現代社会が変動し生活世界認識が変容している中にあって,我 73)
Xは,関係の中に立っている人間 として,問われた者として体験され,正しい行為によって応答 74)
オなければならない 状況に生きているのである。
管理性が強調され,価値が画一化し,関係性が一時的かつ希簿なものとなった現代社会の状況に おいて,「正気」であり続けたい現代人は,平穏な日常生活を守ることに必死でいる。それは,生活 世界認識の幅が狭小化していることを意味する。つまり,日常生活に直接関わりを持ってこないこ とは「私には関係ない」ということになる。この生活世界認識においては,「私には関係ない」と いえる程度の「狂気」は社会の中に紛れ込んで比較的許容されていると思われる。また,「欝病」
などの「精神病」は,気味が悪いけれど,私の生活に直接関係してこない人ならどうでもいいとい う,許容とも排除ともいえぬ意識を構成しており,我々の「平穏な日常生活」や「市民社会」を攻 撃する「狂気」(この場合, 「正気」の側が攻撃されたと意識するレベル)は,徹底的に排除され
る方向に向かっていると思われる。
ここでは,このような状況を明らかにするため,最も当該の時代相と文化とを反映している「現 代青年」を対象とした調査を行ない,その現象学的検討を試みたい。
III現代青年の生活世界認識と「狂気」観に関する調査
皿一1 調査の手続き及び方法
1 調査視点の構造化
前述したように「狂気」は我々の日常生活から離脱しているという側面を持っている。そこで,
本研究の目的に従って,「正気」の側が捉える基準としての離脱レベルを設定する。第一に「何を されるかわからない」といった我々の日常生活を脅かす「攻撃」のレベル。第二に「精神病」にみ られる妄想・自閉等の症状や前述した隠者のような「異質」のレベル。第三に「正常」な日常生活 性や意識とは離れてはいるが,価値が多様化したように見える現代社会に紛れ込んでいる「遊離」
のレベルである。
また,「狂気」には平均基準からの離脱という側面もある。我々の日常生活性のなかでの平均基 75)
?ニいう観点で見ると ,第一に比較的論理的な準拠枠があげられる。価値から純粋に独立した準 拠枠はない,という意味で「比較的」なのだが,本論文においては準拠枠として独立して日常的に 受け入れられているもの,生命や精神崩壊から自己を守るための準拠枠とする。第二に日常生活性
における価値がある。価値とは,行為や感情の指針であり,人間独自の能力のより大きな「発展」
76)
ノ寄与し,生命を促進するものであり,我々の日常性の中に顕著に表われているものである 。第 三に,日常生活性における感性があげられる。感性とは,感覚的知覚によって生ずる外界の刺激に 対する心的体験の全体である,とされる。しかし,現代人の感性が理性に呪縛されているため,現 実場面においてその分離は難しいと思われる。そこで,本論文では,比較的理性に左右されない日
常性の中での精神的な相として捉えるこ とにする。
第1表 調査視点の構造
以上のような日常生活性からの離脱,
独 立 変 数 レ ベ ル 平均基準からの離脱に加えて,それらの
X.日常生活性からの離脱 a・攻撃b・異質 c・遊離 表出形態(思考・行為・感情)を独立変 Y.平均基準からの離脱 d・論理 e・価値 f・感性 数とし,Qテクニックにのっとって構造
Z.表 出 形 態 g.思考 h.行為 i.感情
第1表に示す変数の組み合わせ27に対 応させ,それぞれに3個の項目を配し,81個の項目を作成した(Appendix 1参照)。各項目の作成
は,変数として布置した視点の現象記述に依っている。このようにして作成した項目に関して,白 いカード(7.5cm×12.5cm)に黒いペンで手書きしてQカードを作成した。尚,項目番号はa−d一
gを1,a−d−hを4… c−f−iを81のように,構造的に配列した。
2 手続き・方法
調査協力者に対して,81の項目を第2表のように分類するよう求めた。 (尚,調査協力者には氏 名を公表しないことをあらかじめ知らせた。)
また,分類するCriteriaとして研究目的にしたがって2つを設けた。 C1は生活世界認識を, C2 は「狂気」観を調査するためのものである。
C1……カードに書いてあるようなことを自分自身の日常生活の中で受け入れていますか。
C2……カー ドに書いてあるような人を自分の日常生活の中に受け入れられますか。
[8]の段階には, あたりまえに受け 入れている(C2は受け入れられる)項目
第2表 forced distribution
を置き,[0]の段階には,まったく受
受け入れていない 受け入れている け入れていない(C2は受け入れられない)
分 類 一一一一一__曹一一置曹一一一一一一
i受け入れられない) (受け入れられる) 項目,[4]の段階には,どちらともい
Score 0 1 2 3 4 5 6 7 8 えない項目を置くように求めた。尚,各 段階に置かれる項目は,ほぼ正規分布さ
Frequency 4 6 10 12 17 12 10 6 4 れるように強制される。また,両端の項 目は調査協力者にとって重要なものであ るので,特に注意して分類するように求めた。
カードの分類を行なうにあたって,まず,トランプのようによ 第3表調査協力者
くきるように求めた。次に,得点[0・1・2],[3・4・5],
[6・7・8]の三種類に,各20,41,20枚ずつ分類し,その後, C°de 性別 年齢 出身県 A 女 21 茨城県 9段階に分類するよう求めた。その際,三等分に線を引いた画用 B 女 21 千葉県 77)
?i27cm×39.1cm)を用意した 。 c 女 21 茨城県 D
氓ノ,[0]と[8]の段階に分類された項目について,その E 女女 20 Q1
茨城県 理由を問う面接調査を行なった。両端に分類された項目が調査協 F 女 20 ?骭ァ熊本県 力者の特徴を最もよく表わしているからである。 G 女 21 茨城県 H 女 21 茨城県
調査の手順は次のとおりである。 ……− J 一一一一一圓1
@男 一一一一一一■Q3
一_,一一一,,一一一一一
1)Clの分類 K 男 21 結椏s秋田県
2) C1についての面接調査 L 男 23 茨城県 M 男 21 愛媛県 3) C2の分類 N 男 21 福島県 4) C2についての面接調査 o 男 22 茨城県 5)C1の分類で[0]もしくは[8〕の段階に分類された項目 P 男 21 福島県 Q 男 20 茨城県 が,C2の分類で同じ段階に分類されなかった場合,およびその逆
の場合,その理由を問う面接調査
調査は,1984年12月中旬,表3に示す大学生を対象とし,茨城大学教育学部教育相談室,面接室 で行なった。所要時間は調査協力者1名あたり約2時間である。
調査協力者は,茨城大学教育学部教育心理学科の二年次生以上から16名を無作為抽出した。本調 査では「人間」について興味があり,しかも,ある程度「人間」についての知識のあるものと限定 するため,教育心理学選修生に協力を依頼した。その際同じ事由により一年次生は除いた。
青年期を対象としたのは,青年初期の自分の快楽を満足させるタイプの行為の模倣から,多様化 する関係を通じて個人的野心や生涯の目標などを自分のパターンとの調和に持ち込む時期であるか
78)79}
轤ナある 。
皿一2 調査結果および整理
Qカード分類結果の平均点は, 第4表項目別平均値 表4のとおりである。面接結果
はカセットテープに納められた 受け入れの
@水準 Cl C2
ものをそのまま記述し,表出さ 黷ス「言葉」に反映された意識
日常生活性
@ 表出 からの平均櫛 形態 離脱からの離脱
攻 撃 異 質 遊 離 攻撃 異 質 遊 離 80}現象学的に分析するため , 1 2.81 28 4.13 55 4.44 1 2.18 28 4.19 55 4.38
思 考 2 2.81 29 3.88 56 3.69 2 2.50 29 4.13 56 4.63
整理視点の構造化を行ない,表 3 3.13 30 5.75 57 5.81 3 2.88 30 5.25 57 5.56 出された「言葉」を分類整理し 4 4.81 31 2.50 58 4.69 4 4.25 31 3.38 58 6.81 た(表5,Appendix 2〜5)。 論 理 行 為 5 1.44 32 4.56 59 5.00 5 2.50 32 4.13 59 2.81
6 1.80 33 5.06 60 6.13 6 0.69 33 4.19 60 6.94
「日常生活性からの離脱レベル」 7
2.94 34 4.75 61 2.50 7 1.25 34 4.88 61 1.50
は前述の構造化に基づくもので 感 情 8 2.31 35 3.94 62 4.00 8 1.34 35 4.00 62 3.38
あり,判断基準は調査協力者が 9 3.44 36 3.44 63 1.88 9 3.31 36 343 63 3.81
10 3.13 37 3.88 64 3.88 10 3.06 37 7.38 64 7.13
生活世界や「狂気」をどのレベ
思 考 11 3.19 38 5.75 65 5.00 11 L94 38 4.69 65 3.63
ルでとらえ,判断したかを分類 12 4.31 39 2.56 66 6.81 12 4.69 39 3.44 66 7.19
するものである。 13 5.75 40 5.25 67 3.88 13 5.81 40 4.75 67 4.25
価 値 行 為 14 2.00 41 3.50 68 4.19 14 2.44 41 4.56 68 3.81 15 3.75 42 4.75 69 4.25 15 4.94 42 4.38 69 4.19
帖 16 4.25 43 5.50 70 4.69 16 3.38 43 2.69 70 5.50
第5表 構造化された整理視点 感 情 17 2.75 44 4.38 71 4.44 17 3.44 44 4.44 71 5.13 18 2.25 45 4.94 72 5.31 18 1.50 45 5.婆4 72 5.50
麗 感情 価値 規範 19 1.38 46 4.44 73 5.13 19 1.31 46 4.19 73 5.56
思 考 20 2.50 47 4.19 74 4.25 20 1.13 47 4.31 74 5.50
日常生 ● ● ●
活性か 21 3.56 48 4.19 75 4.06 21 3.75 48 3.88 75 2.69
らの離 項目
感性 倫理 論理
脱レベル No. 22 3.13 49 5.31 76 3.88 22 5.06 49 6.13 76 5.ユ9
攻撃 感 性 行 為 23 2.81 50 3.56 77 4.13 23 3.63 50 4.31 77 3.31
24 0.44 51 2.19 78 3.81 24 0.81 51 3.13 78 3.06
異質 25 5.13 52 4.19 79 6.69 25 4.25 52 4.13 79 6.50
感 情 26 4.25 53 3.00 80 6.56 26 3.06 53 4.44 80 4.56
遊離 27 5.38 54 4.56 81 3.94 27 3.94 54 4.19 81 4.25
注)C1は生活世界認識, C 2は「狂気」観を示す。
】V 現代青年の生活世界認識と「狂気」観の構造
IV−1 「狂気」観に反映する反人間性
「狂気」観(C2)において受け入れられると分類された項目は,平均と得点8([8]と示す)
の人数と分布を考慮すると,37・49・58・60・64・66・79である。(Appendix 2参照)
項目79(たくさんの人といるとかえってひとりぼっちでさみしいと感じる)のように,「自分と 同じ」 (項目別全反応語中の特徴的反応語数を6/7のように表記,以下数字のみ表記)と思って いる項目は,66(5/16)・60(5/12)である。しかし,「他人がどこに住んでようとかまわな い」し,「自分に不都合はない」(項目66・4/16)のである。なぜなら「その人はその人だから」
(項目79・5/5)「個人の自由」 (項目58・11/14)であるし, 「他人の干渉できる問題ではな い」 (項目37・5/17)からである。であるから, 「子どもをつくる義務はない」が「ほとんどの 人が子どもはいる,それがあたりまえ」ではあるが,それなりの理由があるならそう思う人がいて
も「別にいい」 (項目64・4/15)のである。
C2を「あたりまえに受け入れている」(以下[C2=8]と表記)理由の全反応語の中で,「感 性・感情」に分類されたのが34.6%(47/136),「価値・倫理」が58.8%(80/136),「規範・
論理」が6.6%(9/136)である。「感情・感性」の中で「自分(の感性)と同じだから」という のは36.2%(17/47)をしめるが,「価値・倫理」の中の「その人の自由」という意味の反応語は 36.3%(29/80)をしめ,「〜は,いけないことじゃないんだから」という意味を含めると,ほと んどがこれに分類される。また,[C2=8]の項目は,「攻撃」が1/64,「異質」が18/64,「遊 離i」が45/64となっている。
これは,前述の我々が日常生活を脅かさないと判断できる「遊離」した「狂気」の許容である。
また,攻撃していると認識できない「異質」な「狂気」の許容の傾向といえる。しかし,それは許 容の前提に「私とは無関係」であることが必要なのである。
次に,受け入れられないとされた項目についてみてみる(Appendix 3参照)。平均点,分布,得 点0の人数において,最も受け入れられないとされた三つの項目(6・24・20)において,その判 断理由は, 「感情・感性」が52.3%, 「価値・倫理」が30.8%, 「規範・論理」に16.9%分類され た。 「感情・感性」の中で「怖い」という内容の反応語は13/34あり,特に,項目20においては「こ ういう人は怖いし,絶対逃げる」という反応語が11/18をしめている。「カッとすると人を殺した くなる」人間は,「自分を殺すとは思わない」が「命の危険を感じていなければならない」ので「怖 くて近づけない」のである。そして,そのような人間は「人間ではない」と思われているのである。
受け入れられないとされた項目(2・6・7・8・11・14・18・19・20・24・61)は,項目61を 除いてすべて「攻撃」のカテゴリーの項目である。また,全体で[C2=0]とした人数は,「攻撃」
の項目が87.5%をしめている。つまり,「理性を持てない」人間は,「もう人間じゃない」し,心 も体も「傷つけられるのがいや」だから,「できれば関わりを持ちたくない」ので,「攻撃的な人」
からは「絶対逃げる」のである。
これは,生活世界認識(Cl)との差にも表われる(Appendix 6参照)。項目5の[Cl=0,C2
≠0]の理由の全反応語が「他人だから」「好奇の目で見るだけ」という内容であり,項目22・37・
53・58の特徴的反応語を見ても,「遠い存在」だけれども「本人の考え」や「好みの問題」だから と割きり,「その人が好きならば」その人の「自由」なのである。
現代青年の「狂気」観は,日常生活性を脅かさないものは,〈ともにある〉ことはゆるしていな いが,〈ともにいる〉ことは一向にかまわない「その人の自由」で「私には関係ない」が,我々の 日常生活性を脅かす「狂気」に対しては,私にとって「迷惑だから」「存在して欲しくない」し,
「怖くて近づけない」ような「常識をはるかに越えている」人間は, 「それ(常識)に従わないっ てことはほとんどすべておかしい」ので「受け入れられる領域の外にある」,という「狂気」観を 持っているのである。
次節で触れるが,現代青年は「人間はひとりで生きているのではない」という観念は持っている が,それは,具体的な世界を捨象したものである。それは上述したように,日常生活性を脅かすと 思われる人の存在そのものを否定していることに表われている。現代社会の中で,やさしく,明る く生きようとする青年81)82}にとって,攻撃性は抑圧されねばならないものであって83),「人に迷惑 をかけないで」人間性を抑圧して「仲良く生きる」ということが最重視されているのである。もち うん,攻撃性の是非の問題ではなく,それを自己の意識の中に対象化できないことの問題なのであ 84)
驕Bまた,自由とは現実的な拘束の中でいかに関わりあうかということであり ,「その人の自由」
の自由とは本質的に異ったものである。
IV−2 「狂気」観を規定する生活世界認識と自己存在との乖離性
生活世界認識(C1)において,前節と同様の基準で,受け入れていると分類された項目は,57・
60・66・79・80である。項目別に検討してみよう(Appendix 4参照)。
項目57(年をとって人に迷惑をかけるくらいなら早く死んだほうがよいと思う)の選択理由とし て,自らの「老い」の否定が10/24,人に嫌がられるというのが12/24,その中で他人の時間をと るというのが5/25であった。項目10の倫理的な判断を考慮すると,「生きていて苦しみより楽し みのほうが多い」時までが自己の「生」と考えられている。「老い」とは,その語源が示すように
「生きる」ということである。「老い」も苦悩も生命に属しているのであり,人間の実存とは「老 85}
「」や苦悩や死によって一つの全体となるのである 。それゆえ,「みじめ」,自分が「崩れてし まう」という「老い」の否定は「生」の否定である。また,人間は歴史的時間的な存在であり,時 問は生きられる時間であり,それは出来事の意味による86)。しかし,現代青年にとって時間とは「他 人の時間を取って… 」や「自分の時間も取られたくない」という反応語に表われるように,切 り売りできるものであり,それは,現代社会に特徴的な「時給」という言葉によく表われている。
87}
アのことは生産活動における疎外を反映しているのである 。
項目60(昼と夜の生活が逆転している)が選択されたことは,対象が大学生であったことが大き いと思われる。しかし,それは「人間が活動するのに昼間じゃなきゃいけないってことはない」と いうことや「社会的に受け入れられない」ということでもなく,人間が夜活動する機能を持ってい ない生物として,あるべき姿ではないのである。夜の生活を可能にした「あかり」が,日常生活と 離れたところで生産されていることは知識の上では知っていても,それは同時に金銭と交換できる ものという認識になっているためである。これは,前項目と同様に,資本主義の経済特徴の一つで ある量化と抽象化による消費活動における疎外である。このような意識が「原子力発電」というも のを作り出したといっても過言ではない。
項目66(人里離れたところに住みたいと思う)は,得点4以下に分類したものがなく,最も受け 入れられている。「人とのつきあいにうんざり」したり,人間関係が「不安」というものが9/16
「人間らしさを求める」と「自分の信念で生きていける」がそれぞれ2/16である。これは,現代
社会が互いに利用し合う必要のため,結合された微分子によって構成されていること劉,そして「月 曜から金曜までの友人」89)関係があたりまえになっていることを感じ取っているからに他ならない。
それゆえに「人間関係みたいのがもっと密で,あったかみがある」ことを求めるのであろう。しか し,孤独の不安から他人と「うまくやっていこうとかやたら気を使っている」のである。だからこ そ「ちょっとしたことにも感情の起伏が激しい(項目80)」ことを受け入れてはいるが,「まわり
をまるくおさめよう」と「表面にあまり出さない」 (8/10)のである。このような状況の中で,
「わかりあえるってことはそうない」ことを感じ,「自分が埋没して」「存在感あまりない感じ」
をもち, 「たくさんの人といるとかえってひとりぼっちでさみしいと感じる(項目79)」のである。
次に,受け入れていないと分類された項目(5・6・8・14・18・19・20・24・31・51・61・63)
の中で特徴的反応語を検討してみる(Appendix 5参照)。
項目5(町の中を裸で歩く)においては,「はずかしい」という判断が5/21で,「常識からは ずれている」という規範的な判断が13/21であることから,いかに常識という規範に縛られている かを示している。
項目63(自分の体を売ってお金をためるのが楽しい)は,「世間がいけないことだっていうふう にいっているから」という消極的な否定もあり,自己と身体が分離している傾向も見られる。これ は,売春が現実には公然と行なわれている日常世界であるため,生活世界は分断された構造を持つ
ものとして認識していることを示している。
項目61(自分のためなら友人を踏み台にしても平気でいる)では,「自分だけよければいいって いう考え方がいや」,「振り返らずにいけるほどの神経はない」という反応語が特徴的なものとして あげられる。しかし,学歴社会を乗り越えてきた大学生は,否応なしに人を蹴落としてきた者であ る。その認識が欠けており,生活世界認識が狭小化しているがために,自己の行為を対象化できな いのである。判断基準が「いやだ」という感性的なレベルでも,それが具体的世界と切れた理念的 なものになっているのである。しかし,その感性がなくなったわけではないことは,ステユーデン
ト・アパシーという形で表出していることによって示されているように思われる9°)。
項目8(いつも嘘を言って人をだまして平気でいる)と項目18(金もうけのためなら人をだまし て平気でいる)は,「人とのつきあいは正直に」というように,「人をだます」というレベルで反 応があったと思われる。また,「ひとりで生きているのではないから,まわりの人たちに支えられ ている面があるから」という認識を持っている。しかし,「人に迷惑をかけることはいや(項目57)」
なのである。これは,「支える」ということの裏が「支えられる」ということであり,それは「迷 惑をかける」ことに他ならない以上,実感として,人間の生活を現実的なものとして認識していな い倫理的な判断なのである。
項目20(カッとすると人を殺したくなる)においては,「狂気」観と同様に,「殺したくなる」を
「殺す」と同じに考えている反応語が8/11あった。人間の攻撃性が社会規範により抑圧されてい ることを示しており,それは,「日常怒ることはしなくなった」に示される。そして,「自分をひ くっていうこと」によって現代社会に「適応」していくことなのである。また,[C1=0, C 2≠
0]の判断理由で,反応語が明確ではない(4/7),つまり,[Cl≠0]としたことを対象化で きないことも,抑圧の影響と考えることができる。
項目6(見ず知らずの人でもいきなり暴力をふるう)も,「社会全体が維持されない」から「暴
力は否定」される。しかし,[Cl≠0, C2=0]の理由を見ると,自分の場合可能性がないわけ ではないという反応語が6/7をしめ,自己の内なる攻撃性を否定はしないが,それを抑圧し,他 者の攻撃性を否定している。また,「理由があることも認めたい」というように,「狂気」による理 解できない行為というものは存在しないとするのであるが,積極的に区別する必要性から,それを
「わけの分からないこと」として排除するのである。[Cl≠0, C2ニ0]の理由から,項目7・
11についても同じことがいえる。また,項目75(遠慮というものを知らない)と,項目80(ちょっ としたことにも感情の起伏が激しい)の[Cl=8, C2≠8]の理由からも同じことがいえると同 時に,どうやって他の人に合わせていくかという気くばりも浮かび上がってくる。
項目19(犬や猫ならばひき殺してもかまわない)は,感性・感情レベルの判断が2/11と少なく,
「大切にすべき」という倫理的な判断が多く,「生きていくために,牛や豚を殺すこととは違う」
という「食」との関連もある。「食」に関しての項目22(肉を生のままで食べる)は,平均3.13と 比較的高いが, [Cl=0]が三人である。選択理由として「野蛮」 「品がない」という反応語が
4/6あり,魚を生で食べることはあたりまえで,肉の場合は野蛮であるという価値観を持たされ ている。それは,生活世界を自己存在との関連で認識していないことを示している。
現代青年の生活世界認識は,以上のように,現代社会の変動の中で狭小化している。心の空虚さ と生活の意味の喪失が強化されている。それは,生活世界を認識する上で身体と自己が乖離してい ることを意味する。その疎外感から自己を守るため,内的な自己を堅固にしていこうとする。その ことが「みんなとうまくやっていく」ことなのである。引き裂かれつつある自己にとって,肯定的 91)
ネ配慮を求める欲求は ,重要な意味を持つ。しかし,「認めてもらいたい」という思いが充足さ れることは少ない。現代社会において認めてもらうためには,社会的規範に従うか,社会的権威に 依ることが必要条件である。だからこそ,心身ともに「他人を傷つけたくない」のである。攻撃性
は自己が存在することを体験する一つの方法であるにもかかわらず,それは社会的に受け入れられ ない。「食」というレベルの攻撃性においても,現代青年は,「他の動植物を殺して」食べるとい う実体験がない。個性的な貯蔵,加工,料理の技が食事作りであり,「食べる」という人間の営み をあれこれの「料理」として自然から切り離してしまうことが92),人間から「食の意味」を奪い去 った。これは,生きるということ,生きるために「為す」ことを体験できないことであり,自己の 存在感の希簿化をもたらし,他者が「わたくし」とくともにある〉ことを直観できないことに連な
る。
「感情の起伏は表に出さないほうがよい」というのは,感情の交わりがないということであり,
それによって,自らの感情に反応する能力を発展できないのである。
このように生活世界認識が狭小化した自己にとって,社会規範からはずれてしまえば,すべて無 に帰する。「人に嫌がられるまで自己主張する必要はない」し,されたくもない。それが,自分の 日常生活や自己存在を揺るがすと思われる「狂気」の排除なのである。しかし,「異質」,「遊離」
の「狂気」は,現代青年の持つ不安定な自己に比較的近い存在である。しかし,規範に呪縛された 感性,感情に共感できない「狂気」は,一時的な人間関係の波を体で感じ取っている現代青年にと
っては,「他人事」となるのであろう。