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『滄溟先生尺牘』の時代

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『滄溟先生尺牘』の時代

      

──古文辞派と漢文書簡──

高山   大毅

一.はじめに─流行の証言

  江 戸 時 代 に 盛 ん に 読 ま れ た 初 学 者 向 け の 漢 文 選 集 と い え ば、 『 古 文 真 宝 』 や『 文 章 軌 範 』、 『 唐 宋 八 大 家 文 鈔 』 の 名 が 思 い 浮かぶであろう。だが、十八世紀、今日ほとんど忘れられている一冊の書物が、これらの本を上回る人気を集めていた。お そ ら く、 『 古 文 真 宝 』 な ど が 様 々 な 文 芸 の 領 域 に 影 響 を 与 え た の と 同 じ く、 そ の 書 物 を 源 と す る 水 脈 は 江 戸 中 期 の 文 芸 を 縦 横に走っていたに違いない。本稿は、その本流といくつかの支流とを辿り直す試みである。先ずは、徂徠学派の文人のある 逸話から、この流れに漕ぎ出すことにしたい。

  服部南郭の弟子の石島筑波は、徂徠学派屈指の蕩児である。彼の講釈には次のような話が伝わる。

  筑波、駒込にて舌耕したる時、書物はなし。唐詩選滄溟尺牘をば空にて説き、見台の上には浄留利本艸紙をのせて説き たり。又諸侯方に出講するに、大概書はいつも滄溟尺牘を見台に載せ空にて講ぜ り

(2)

南 郭 門 の 才 子 と も な れ ば、 記 憶 の み を 頼 り に『 唐 詩 選 』 を 講 義 し て み せ る ぐ ら い 訳 も な い だ ろ う。 し か し、 『 滄 溟 尺 牘 』 も そうであったというのには、奇異の念を抱かないだろうか。

派の稲葉黙齋は講説の席で苦々しげに語っている。 続 編 を 名 乗 る 大 神 景 貫( 校 )『 続 滄 溟 先 生 尺 牘 』 が 出 版 さ れ て い る。 こ の 本 は、 し ば し ば『 唐 詩 選 』 と 並 称 さ れ た。 闇 齋 学 享保十五年に嵩山房小林新兵衛から刊行された。巻頭の序文は服部南郭の手になる。宝暦元年には再刊され、延享三年には   『 滄 溟 先 生 尺 牘 』 は 陳 所 敬 の 編、 古 文 辞 派 の 領 袖 で あ る 李 攀 龍 の 書 簡 を 集 め た も の で あ る。 日 本 で は 田 中 蘭 陵 の 考 訂 で、

徂徠カ出タレハ日本モ文華ガ開ケタ抔云ハ片腹痛イコト。何文華カ開ケルコトゾ。 《中略》マタモ古文( 『古文真宝』─ 引用者注)三体詩ハ殊勝ラシキガ、ソレハヤミテ世説唐詩選滄溟尺牘トクル。ヒトツ葉モ役ニ立タヌコト ゾ

こ の『 世 説 新 語 』・ 『 唐 詩 選 』・ 『 滄 溟 尺 牘 』 と ほ ぼ 同 じ 組 み 合 わ せ は、 渋 井 太 室 の『 読 書 会 意 』 に も 見 え る。 太 室 は い う。 「 古 以 経 立 家。 今 以 世 説・ 蒙 求・ 滄 溟 尺 牘・ 于 鱗 唐 詩 選・ 明 七 才 詩 立 家( 古 は 経 を 以 て 家 を 立 つ。 今 は 世 説・ 蒙 求・ 滄 溟 尺 牘・ 于 鱗 唐 詩 選・ 明 七 才 詩 を 以 て 家 を 立 つ

)」 。 さ ら に、 江 村 北 海 の 言 に よ れ ば、 京 に 遊 学 し て い る 若 者 た ち は、 「 そ の 業 を こふも、唐詩明詩李王が尺牘などの書を出 ず

」というありさまであった。ここでいう「李王が尺牘」とは、李攀龍とその盟 友の王世貞の尺牘を指している。王世貞の尺牘集である『弇州先生尺牘選』は寛保二年に出版されている。山縣周南の弟子 の三浦瓶山も、 「李王ノ尺牘」を読んだだけで、文章を分かった気になっている者を指弾している。

近 頃 李 王 ノ 尺 牘、 盛 ニ 世 ニ 行 ハ レ、 黄 口 ノ 児 輩、 其 一 斑 ヲ 窺 ヒ 見 テ、 是 ヲ 文 章 ト 心 得、 纔 ニ 二 家 ノ 尺 牘 ヲ 読 テ 李 王 ノ

(3)

文、カクノ如シト思ヘル者アリ。甚拍笑スベキノ事ナ リ

このような流行は地方にも及んでいた。

近き頃東都に一士あり。はじめの程は文章軌範を 売

イコウ

講 せしに、ここかしこに文章軌範の売講の人多くなりて利を得るこ と少きにより、珍らしく 滄

サウメイ

溟 尺牘を講し出けり。本より新 奇

を好むの俗情に応して大に世に 行

ヲコナ

はる。惣して尺牘といふ 吾日本にて近処隣家などことを通ずる手紙の類なり。今片田舎此あたりのものを見るに尺牘を真の文章なりと心得て少 し素読にてもすれば滄溟尺牘を持たぬ者なきこそおかしけ れ

  こ れ ら の 証 言 が 示 す よ う に、 『 滄 溟 先 生 尺 牘 』 が『 古 文 真 宝 』 や『 文 章 軌 範 』 に 代 わ り、 漢 文 入 門 書 と し て 扱 わ れ て い た 時代があったのである(以下、本稿では『滄溟先生尺牘』を『滄溟尺牘』と略称する) 。

二.流行の要因

  (一)作文の捷径

  

  『滄溟尺牘』の流行にはいくつかの要因が考えられる。

  第 一 に、 短 文 の 尺 牘 は 比 較 的 に 容 易 に 書 け る の で、 初 学 者 の 作 文 学 習 に 向 い て い る と い う 見 方 が あ っ た。 「 書 簡 は 作 文 の 捷 径 也、 尺 牘 双 魚 の 類 に て、 入 用 の 字 を と り 覚 え、 総 体 は 欧 蘇 手 簡 を 法 と す る が よ し

」。 お そ ら く 往 来 物 か ら の 類 推 で あ ろ う。古文辞の書簡の見本は、 『滄溟尺牘』ということになる。

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文章ヲ学ブハ先ヅ尺牘ノ如キ易キモノヨリ入ルベシ。長崎の高彜(高階暘谷─引用者注)尺牘ハ滄溟ノ外ニ出テズト云 ヘリ。モツトモノ説ナ リ

。   (二)出版機構

  第二の要因は、当時の出版機構にある。

  荻 生 徂 徠 は『 古 文 真 宝 』 や『 文 章 軌 範 』 に 代 わ る 選 集 と し て『 四 家 雋 』 を 編 纂 し た

。『 四 家 雋 』 は、 「 達 意 」 に 秀 で た 韓 愈・柳宗元の文と、 「修辞」の模範たる李攀龍・王貞世の文を、文体別に配列した均整の取れた構成になっている。 『滄溟尺 牘』の地位は、本来この『四家雋』に占められるはずであった。しかし、享保五年に基本的な編集を終えた該書 は

((

、宝暦十 一年まで刊行されなかった。徂徠が李王の文の内三十余編に評語を附していなかった事情があるとはいえ、その増補は南郭 に遺嘱されており、不審であ る

((

。刊行が遅れた根本的な原因は、南郭の門人である望月三英の『鹿門随筆』に見える。

徂徠先生韓柳李王の文を撰びて四家雋といふ、 徂

徠の作 也

。先年嵩山房に申付板行させんとする時に、韓柳の板本より 突て公事となりて止申候。近年に成て板行に出たり、此書われら蔵本にもあるな り

((

屋側の史料からも確かめられる。京都書林仲間の紛争記録の目次である『上組済帳標目』に次のようにある。   『 四 家 雋 』 は「 韓 柳 の 板 本 」 か ら 類 板( 類 似 出 版 ) で あ る と 訴 え ら れ、 出 版 中 止 に 追 い 込 ま れ た の で あ る。 三 英 の 言 は 本

韓柳選ト申書江戸須原屋新兵衛板行願被申ニ付、通り町中間より京都元板難儀ニ成候旨、達て御願被申候ニ付、相止候

(5)

処、又々当度古来在板之抜書類書卅七品之例書上ケ、再往願被申ニ付、通り町中ヶ間御召被成、仲ヶ間法義御尋被遊候 ニ付一々返答有之候へ共、為念、京大坂之法義書付下シ申参候、則相談之上、相認メ下シ申候ヘハ其書付江戸表ニて御 役所へ被差出候由ニ候   享保十一年八月也委細帳面ニ 有

((

こ の 須 原 屋 小 林 新 兵 衛( 嵩 山 房 ) が 板 行 を 願 い 出 た「 韓 柳 選 」 と は、 『 四 家 雋 』 前 半 の 韓 愈・ 柳 宗 元 の 巻( 「 韓 柳 雋 」) を 指 すと見て間違いない。

  か く し て 一 度 刊 行 が 頓 挫 し た『 四 家 雋 』 は、 宝 暦 十 一 年、 素 人 蔵 板( 餐 霞 館 蔵 板 ) で 出 版 さ れ る。 『 上 組 済 帳 標 目 』 の 同 年の項には「柳韓雋   蔵板之噂有之付、秋田屋平左衛門被申出候事」 、「韓柳雋ニ付、秋田屋平左衛門より口上書被差出候に 付、 江 戸 表 へ 指 下 し 候 書 状 之 事 」 と あ る

((

。『 唐 柳 河 東 集 』 と『 唐 韓 昌 黎 集 』 の 板 元 で あ っ た 秋 田 屋 平 左 衛 門 は『 四 家 雋 』 の 刊 行 を 警 戒 し て い た。 明 和 三 年 に は、 京 都 書 林 仲 間 は『 四 家 雋 』 を「 売 止 メ 」( 販 売 禁 止 ) と し て い る

((

。 よ う や く『 四 家 雋』が広く流通するようになるのは、安永六年に小林新兵衛・秋田屋平左衛門を含む三都書林の相合板(複数書肆の共同出 版)で刊行されて以降のことである。既に徂徠が没してから五十年に近い歳月が流れていた。

  これほどまで『四家雋』の出版が難航した背景には、上方の書肆(及びその江戸の出店)と江戸の新興書肆─小林新兵衛 ら須原屋一統はその典型である─との対立がある。そして、その対立の根幹にあるのは、板株(出版権)の問題であ る

((

  板株の確立は海賊版の横行を防ぎ、出版業の安定的な発展に貢献した。しかし一方で、たとえば韓愈や柳宗元の文集のよ うな古典的な著作であっても、板木を手放さない限りは最初にその本を出版した書肆に板株が帰属する仕組になっており、 新規参入者には不利な制度であった。しかも、類板と認定されるものの範囲が広く、選集内の詩文や注釈書内の本文にも、 当 該 作 品 の 板 株 所 有 者 は「 差 構 」( 出 版 権 侵 害 ) を 訴 え る こ と が 出 来 た。 江 戸 中 期 以 降、 本 文 抜 き の 注 釈 書 と い う 読 者 に 不 便な書物が増えるのは、これが一因となっている。板株問題は、上方の老舗書肆と江戸の新興書肆の間の最大の火種であっ

(6)

た。

  享保十一年八月の『四家雋』の紛議に先立ち、同年二月、京都の書肆の田原勘兵衛は、小林新兵衛刊の『唐詩選』を『唐 詩 訓 解 』 の 類 板 で あ る と 訴 え、 公 事 沙 汰 と な っ て い た

((

。『 四 家 雋 』 の 一 件 は、 東 西 の 書 肆 の 関 係 を さ ら に 険 悪 に し た に 違 い ない。これらの衝突が契機になったのであろう。享保十二年、須原屋一統を中核とする江戸の地店は、中通組を離脱し、新 たな書物屋仲間の南組を作る。これによって江戸の書物問屋仲間のうち、通町組及び中通組は上方系列の本屋、南組は江戸 の地店─という基本図式が出来上がる。両勢力の抗争は寛延三年に再燃してい る

((

    以上のような東西の本屋の激しい紛争に巻き込まれ、 『四家雋』の刊行は停滞した。徂徠学派の視点に立てば、 『唐詩選』 に関して小林新兵衛との提携が効果的であったことが、 『四家雋』に関しては裏目に出たといえる。 『唐詩選』の板株をめぐ る 田 原 勘 兵 衛 と 小 林 新 兵 衛 と の 争 い は、 小 林 新 兵 衛 が 勝 利 し、 『 唐 詩 選 』 は『 三 体 詩 』 や『 瀛 奎 律 髄 』 を 圧 倒 し て い っ た。 同 じ 過 ち を 文 章 選 集 に お い て 繰 り 返 す こ と は、 京 都 の 書 肆 た ち に と っ て 絶 対 に 避 け ね ば な ら ぬ こ と で あ っ た ろ う。 彼 ら が 『四家雋』の刊行に神経を尖らせたのも頷ける。かくして、文章の刷新は徂徠の計画通りには行かなかった。

  も っ と も、 古 文 辞 の 文 集 は『 四 家 雋 』 の 李 王 の 巻 に 限 ら れ て い た わ け で は な い。 『 滄 溟 先 生 集 』 や『 弇 州 山 人 四 部 稿 選 』 などの書もある。しかし、これらの本も類板規制に翻弄された。

  『滄溟先生集』は、初め宇野明霞の訓点で出版が計画されたが、この企画は実現しなかっ

((

。その後、延享元年に、 『補注 李滄溟先生文選』が刊行され る

((

。しかし、この本は六篇の文章の本文が削り取られている。他書との重複を避けたものと推 測される。延享五年には関南瀕(校訂) 『滄溟先生集』が上梓されるが、詩の巻のみである。

  『弇州山人四部稿選』は延享五年に芥川丹丘の校訂で刊行されてい

((

。ただし、 『上組済帳標目』延享三年に「丸屋市兵衛 板 行 御 願 候 ニ 付、 四 大 家 文 抄 文 範 ニ 差 構、 抜 キ 被 申 相 済 則 証 文 有 之

((

」 と あ る よ う に、 次 に 見 る『 四 大 家 文 抄 』・ 『 四 先 生 文 範』に載る文章を削除している。

(7)

  大 潮( 編 )『 四 大 家 文 抄 』 は 元 文 三 年 の 刊、 四 大 家 と は 李 夢 陽・ 李 攀 龍・ 王 世 貞・ 汪 道 昆 の 四 人 を 指 す。 本 書 は 各 種 の 文 体 を 採 録 す る も の の、 「 碑 」・ 「 墓 誌 」 な ど の 文 体 に は 李 攀 龍 と 王 世 貞 の 文 を 採 ら ず、 物 足 り な い 選 集 で あ る。 ま た、 徂 徠 の 李夢陽と汪道昆への評価は高くないため、その点でも不満が残る編集となってい る

((

  寛 保 元 年 刊 の 焦 竑( 編 )・ 大 内 熊 耳( 点 )『 四 先 生 文 範 』 は、 『 四 大 家 文 抄 』 と 同 じ 四 人 の 文 章 を 収 め る。 し か し 本 書 は、 施訓した大内熊耳自身も疑っているように焦竑の名を借りた偽撰の可能性が高い。それにも関わらず、熊耳が本書を刊行し たのは、深刻な「明文」 (明代の文章)不足への応急処置のためであっ た

((

  以上のように、 『四家雋』以外の本にはどれも欠点があり、古文辞の模範文集とするのは難しい。 『四家雋』の刊行が遅れ れば、早くから刊行され、入手も容易な『滄溟尺牘』に人気が集まるのは当然の流れであった。

  (三)南郭の序文     流行の第三の要因は、巻頭に附された南郭の「重刻滄溟尺牘序」である。南郭は、この文章において先ず尺牘の歴史を次 のように述べる。

  尺 牘 は「 古 人 」 も こ れ を 用 い た。 し か し、 そ れ は 文 章 と し て の 体 裁 は 具 え て い て も、 微 小 な も の で あ る と 見 做 さ れ て い た。そのため大事に関しては、 「尺牘」を用いず、 「書疏」の二文体を用い、長文を雄弁に代え、文采に心を砕いた。もし相 手 か ら 尺 牘 が 送 ら れ て き た 場 合 に は、 返 信 は す る が、 そ れ ら を 後 世 に 残 し、 尺 牘 を「 一 不 朽 之 具( 一 不 朽 の 具 )」 に な そ う という考えはなかった。古の尺牘が今日まで伝わっているのは、作者が著名であったか、筆跡が優れていたかのどちらかに よ る。 し か し、 明 代 に 至 っ て 変 化 が 起 こ る。 「 明 人 始 多 用 巧 於 此、 作 者 維 競。 片 玉 必 取 諸 崑 岡、 一 枝 必 取 諸 桂 林。 斯 可 称 創 体 矣。 創 体 則 滄 溟 其 選 也( 明 人 始 め て 多 く 巧 を 此 に 用 ひ、 作 者 維 れ 競 ふ。 片 玉 必 ず こ れ を 崑 岡 に 取 り、 一 枝 必 ず こ れ を 桂 林 に 取 る。 斯 れ 創 体 と 称 す べ し。 創 体 は 則 ち 滄 溟   其 れ 選

すぐ

れ た り )」 。 明 人 は、 尺 牘 に 技 巧 を 凝 ら し、 そ の 妙 手 を 競 い 合

(8)

い、 わ ず か な 表 現 も 古 典 に 材 を 取 っ た。 こ れ は 事 実 上、 新 た な 文

体 の 創 始 で あ る。 こ の 新 た な 文 体 に 取 り 組 ん だ 人 々 の 中 で、李攀龍は最も優れている。

  明代になって尺牘は本格的な文芸に生まれ変わったという南郭の説は非常に重要であ る

((

。第四章で詳しく見るように、古 文辞派の文人たちは尺牘を熱心に作ったが、彼らの多くは、このような認識のもと、他の文体同様の真剣さでその制作に取 り組んでいたのである。

  南 郭 は 李 攀 龍 の 尺 牘 の も と づ く 所 を 四 つ 挙 げ る。 こ の 四 つ に つ い て、 南 郭 は「 我 思 古 人、 実 獲 我 心( 我 古 人 を 思 ひ、 実 に我が心を獲たり) 」と述べており、それらは同時に南郭自身の尺牘観と一致している。

  第一に、 『春秋左氏伝』である。

   夫敬於幣之未将、寓其実於赫蹏之間。非辞命以為潤色、何以厳如端章甫見大賓。蓋取諸左氏。

夫れ幣の未だ将らざるに敬し、其の実を赫蹏の間に寓す。辞命以て潤色を為すに非ざれば、何を以てか厳たること端章 甫して大賓を見るが如くならん。蓋しこれを左氏に取る。

尺牘と「辞命」─すなわち外交の際に使者が語る言辞─とを結びつける論は、王世貞「尺牘清裁序」の「夫書者、辞命之流 也(夫れ書は、辞命の流な り

((

)」を踏まえている。

  ま た、 「 修 辞 」 と「 端 章 甫 見 大 賓 」 と い っ た 礼 の 威 儀 と を 類 比 的 に 捉 え る 発 想 は、 徂 徠 学 に 特 徴 的 な も の で あ る。 徂 徠 は 「 古 之 君 子、 礼 楽 得 諸 身。 故 修 辞 者、 学 君 子 之 言 也( 古 の 君 子、 礼 楽 こ れ を 身 に 得 た り。 故 に 辞 を 修 む る は、 君 子 の 言 を 学 ぶ な り

((

)」 と い っ た よ う に、 修 辞 と 礼 楽 と を 密 接 な 関 係 に あ る と 見 る。 南 郭 は 徂 徠 の 説 を 受 け 継 ぎ、 「 夫 礼 楽 皆 得、 謂 之 有

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徳。 有 徳 必 有 言。 得 之 礼 楽 之 旨。 故 辞 約 而 旨 微。 得 之 礼 楽 之 観、 故 言 文 而 観 美( 夫 れ 礼 楽 皆 得 る を 之 を 有 徳 と 謂 ふ。 有 徳 は必ず言有り。之を礼楽の旨に得。故に辞 約にして旨 微なり。之を礼楽の観に得。故に言 文にして観 美な り

((

)」という。 南郭にとって、技巧を凝らした李攀龍の尺牘は、燦然たる礼楽を想起させるものなのである。

  第二に、曹植と建安七子の劉楨である。

親交不薄、言期断金、蔚矣其文。概略其人、則鄴中之八斗、或助之才。蓋取諸曹劉。

親 交 薄 か ら ず、 言 断 金 を 期 す。 蔚 た る 其 の 文。 其 の 人 を 概 略 す れ ば、 則 ち 鄴 中 の 八 斗、 或 い は 之 が 才 を 助 く。 蓋 し こ れを曹劉に取れり。

「 親 交 不 薄 」 は 曹 植 の 五 言 詩「 贈 丁 儀 」 の「 親 交 義 不 薄( 親 交、 義 薄 か ら ず

((

)」 の 句 に よ る。 お そ ら く「 曹 劉 」 に 限 ら ず、 建安期の詩文に描かれている友誼が南郭の念頭にあろう。李攀龍の友人宛の書簡には、 「握手」や「傍若無人」 (友人と熱く 語りあい、周囲を気にしない)といった言葉が頻出す る

((

。このような友情の表現は建安文学に遡ると南郭は見るのである。 南郭自身も平野金華らと「断金」の交わりを結んでいた。彼らは詩文の中で自らを建安七子になぞらえてい る

((

  第三に、 「二王」すなわち王羲之・王献之である。

   知己其聴、何必繁音。小言詹詹若有若亡、則二王之唯墨是存。適足以効其真率。

知己   其れ聴かん。何ぞ繁音を必せん。小言詹詹、有るが若く亡きが若きは、則ち二王の唯だ墨のみ是れ 存

する 。適に

(10)

以て其の真率を効ふに足る。

省略の多い王羲之の書簡は難解である。たとえば草書の典範とされる法帖「十七帖」には、数種の注釈が存在す る

((

。李攀龍 の尺牘も同様であり、次章で取り上げる『滄溟尺牘』の注釈書は、難読箇所には二つの解釈を併記することも少なくない。

  ここで南郭が「真率」というのは、王羲之が、 「比者悠々、如何可言( 比

このごろ

者 悠々たり。如何ぞ言ふ可けん や

((

)」─このごろ 心が晴れず、この気持ちをどう言い表せばよいだろうか─といったように自己の心境を繕わず述べていることをおそらく指 している。李攀龍は、尺牘の中で好悪どちらの感情も、かなり明け透けに吐露する傾向があり、確かに「真率」であ る

((

  第四に、 『世説新語』である。

   正始之旨、莫逆於彼此。雋永於短詞、俾人一唱而三嘆、則二劉之富清言、亦可以仮之尺一之技。

   正始の旨、彼此に莫逆す。短詞に雋永にして、人をして一唱して三嘆せしむるは、則ち二劉の清言に富むも、亦た以て 之を尺一の技に仮す可し。

「 正 始 之 旨 」 は、 何 晏 や 王 弼 ら の 玄 学 を 指 し、 「 二 劉 」 は『 世 説 新 語 』 の 編 者 の 劉 義 慶 と 注 釈 者 の 劉 孝 標 と を 指 す。 「 清 言 」 は、 『 世 説 新 語 』 言 語 篇 や 文 学 篇 の 寸 鉄 人 を 刺 す 名 言 が 念 頭 に あ ろ う。 『 世 説 』 に は 及 ば な い か も し れ な い が、 『 滄 溟 尺 牘 』 にも警抜な表現は見える(たとえば「平生善臥。是称病隠。造化其奈我何(平生善く臥す。是れを病隠と称す。造化も其れ 我 を 奈 何 せ ん

((

)」 と い っ た 語 )。 南 郭 自 身 も『 世 説 』 風 の 機 智 に 富 ん だ 表 現 を 好 ん だ。 一 例 を 挙 げ れ ば、 「 懐 仙 楼 」 で の 会 合 の欠席を告げる書簡に次のようにある。

(11)

   不佞喬雖有忝属仙籍、時乃不得厠三清之坐列、飽沆瀣之餘酌。故応見嗤凡骨未化 耳

((

      不 佞 喬( 南 郭 の 名 ─ 引 用 者 注 ) 忝 く 仙 籍 に 属 す る 有 り と 雖 も、 時 に 乃 ち 三 清 の 坐 列 に 厠 り、 沆 瀣 の 餘 酌 に 飽 く こ と を 得 ず。故より応に凡骨の未だ化せざるを嗤はるべきのみ。

「懐仙楼」にちなみ、自分たちを「仙人」になぞらえているのである。

  『滄溟尺牘』についての南郭の論には、彼の詩文一般に対する好尚が強く反映している。南郭の序を読み、

『滄溟尺牘』を 学べば古文辞の精髄を理解できると考えた読者は多かったに違いない。

三.注釈書

  『唐詩選』の注釈書が多く編纂されたように、

『滄溟尺牘』も多くの注釈書が編纂された。渋井太室は「関東之学(関東の 学) 」の特徴について語った中で、次のように述べる。

   相伝曰、某精唐詩。某熟世説。某嫺于鱗尺牘。進聴其講説、退捜其訓註。童習白粉、以求一語之所出、与一字之所拠。 有不得則不惜時日、不憚行露、必窮而止矣。以此成 家

((

   相伝へて曰く、 「某は唐詩に精し。某は世説に熟す。某は于鱗尺牘( 『滄溟尺牘」─引用者注)に嫺ふ」と。進みて其の

(12)

講説を聴き、退きて其の訓註を捜る。童習白粉、以て一語の出づる所と、一字の拠る所とを求む。得ざること有れば則 ち時日を惜しまず、行露を憚らず、必ず窮めて止む。此を以て家を成す。

このような講説と熱心な典拠探しの中から注釈書が生み出されていった。

  これは「関東」に限られた現象ではなかった。既に紹介した江村北海の言にあったように、関西でも『尺牘』は流行して い た。 た と え ば、 『 難 波 土 産 』 の 著 者 で、 近 松 と の 関 係 で 有 名 な 大 坂 の 儒 者、 穂 積 以 貫 は、 『 滄 溟 尺 牘 国 字 解 』( 写 本

((

) を 残 している。伊藤東涯の門人である以貫も、時流に応じ、 『滄溟尺牘』を講説の席で取り上げたのであろう。

  最 も 早 く 公 刊 さ れ た 注 釈 書 も、 関 西 の 儒 者 の 手 に な る。 武 田 梅 龍 の『 李 滄 溟 尺 牘 便 覧 』( 宝 暦 二 年 刊 ) で あ る

((

。 板 元 は 山 田 三 郎 兵 衛・ 河 南 四 郞 右 衛 門・ 上 坂 勘 兵 衛・ 中 西 卯 兵 衛 ら 京 都 の 本 屋 で あ る。 『 滄 溟 尺 牘 』 の 板 元 は 小 林 新 兵 衛 で あ る た め、 『 便 覧 』 は 本 文 を 有 さ ず、 注 釈 の み で 構 成 さ れ て い る。 『 便 覧 』 の 注 釈 の ほ と ん ど は 典 拠 を 引 く の み で あ る が、 「 五 斗 」 の 注 に は 徂 徠 の『 度 量 衡 考 』 の 説 を 挙 げ

((

、「 風 塵 」 の 注 に は、 宇 野 明 霞 の 考 証 を 引 用 し て い る

((

。 梅 龍 は、 徂 徠 学 を 上 方 に 導 入した宇野明霞に師事しており、彼の学統が表れた注釈といえよう。

  続 い て 出 版 さ れ た の は、 村 井 中 漸( 閲 )・ 有 馬 玄 蔵( 著 )『 李 滄 溟 尺 牘 国 字 解 』( 明 和 二 年 刊 ) で あ る。 村 井 中 漸 は、 算 学 に 秀 で た 京 都 の 学 者 で、 有 馬 玄 蔵 は 彼 の 弟 子 で あ る。 「 国 字 解 」 と 銘 打 つ 通 り、 そ の 注 釈 は カ ナ 交 じ り 文 で 著 さ れ て お り、 典拠を挙げるとともに、訳文に類した説明が随所に入る。 『便覧』同様、注釈のみからなり、本文はない。板元は、 『便覧』 と 同 じ で あ る が、 『 上 組 済 帳 標 目 』( 宝 暦 十 三 年 五 月 ~ 九 月 ) に「 同 国 字 解、 山 田 三 郎 兵 衛、 か ゝ や 卯 兵 衛、 両 人 相 合 之 一 件

((

」と見え、本屋間で揉め事があった可能性がある。

  明和五年には、 『滄溟尺牘』の板元である小林新兵衛も注釈を刊行する。高橋道齋『滄溟先生尺牘 考

((

』である。 『便覧』の 板 元 は 本 書 の 出 版 に 危 機 感 を 抱 い た ら し く、 明 和 六 年 に 江 戸 の 書 物 屋 仲 間 に 本 書 に 関 し て 問 い 合 わ せ て い る

((

。『 尺 牘 』 本 文

(13)

は無理でも、せめて注釈の利益を確保したいという思惑であろう。小林新兵衛はそのような意図をおそらく見抜き、わざと 『考』を注釈のみの構成にしたのだと考えられる。そうすることで、 『尺牘』自体の売り上げを維持しながら、注釈書の利益 を奪取しようとしたのであろう。

  著者の高橋道齋は、上毛下仁田の素封家で、井上蘭臺に師事し た

((

。井上蘭臺は、林家員長を務めた後、備前岡山の池田家 に仕えた儒者である。その学風は徂徠学に接近し、本稿の冒頭で紹介した石島筑波など徂徠学派の人士とも交際があった。 ま た 洒 脱 な 人 柄 で、 『 唐 詩 笑 』 や『 小 説 白 藤 伝 』 の 戯 著 を も の し た。 蘭 臺 の 門 下 に は、 い わ ゆ る 折 衷 学 の 泰 斗 と し て 知 ら れ る井上金峨や、書法における「復古」の主唱者であった澤田東江がいる。道齋は、金峨及び東江と莫逆の仲であった。蘭臺 門周辺─とりわけ蘭臺と筑波の間の人脈─には、尺牘に深い関心を持った人物が多い、

  先ずは井上金峨である。 『金峨山人考槃堂漫録』には、 『滄溟尺牘』中の「王舎城二頃種秫」という一節を考証した条があ る。金峨は、その末に次のように述べる。

   二十年前、講帷家奉李王二家集以詩書、謬以伝謬。近来此風少衰。可為後生賀之。可不謂純卿与有力焉 哉

((

   二 十 年 前、 講 帷 家 李 王 二 家 の 集 を 奉 ず る に 詩 書 を 以 て す、 謬 り 以 て 謬 り を 伝 ふ。 近 来 此 の 風 少 し く 衰 ふ。 後 生 の 為 に 之を賀す可し。純卿 与りて力有りと謂はざる可けんや。

  かくいう金峨自身も、若い頃はこのような「風」に染まっていた。彼が徂徠学派の文人と交わり、古文辞に夢中になって い た こ と は、 『 病 間 長 語 』 で「 懺 悔 ば な し 」 と し て 語 ら れ て い る

((

。 ま た、 彼 の 蘭 臺 に 宛 て た 書 簡 は、 典 型 的 な 李 王 風 の 尺 牘 であ る

((

。かつて親しんだ『滄溟尺牘』の語句は、反古文辞に転じた後にも、金峨の脳裏を去来していたのである。

(14)

  次 に 鈴 木 澶 洲 で あ る。 『 逢 原 記 聞 』 に よ れ ば、 澶 洲 は も と は 浪 人 学 者 で あ っ た が、 感 応 寺 の 富 籤 に 当 た り、 旗 本 与 力 の 株 を買ったとい う

((

。金峨は彼の著作に序文を寄せており、澤田東江とも交流があったと伝わる。彼の随筆『撈海一得』には、 『滄溟尺牘』の難語( 「致暦」 ・「于浙」 ・「投枚記里」 )を論じた三条があ る

((

。「投枚記 里

((

」の考拠において彼は『中山伝信録』 の一節を引き、同書の挿絵の「玻璃漏」 (砂時計)と「針盤」 (羅針盤)をあわせて掲載する。これと同じ『中山伝信録』の 部分と「玻璃漏」の絵とが、道齋の『滄溟先生尺牘考』巻上附録にも載る。直接的な影響関係の有無は不明であるが、二人 の関心の近さが窺われる。

  高葛陂もこの列に加えて良いであろう。葛陂は、大坂の人。明末に日本に逃れた唐人の子孫という。江戸に出て、始めは 篠崎東海の門に入り、東海が卒すると石島筑波に師事し た

((

。澤田東江と親しく、東江を介して金峨とも交際が開けてい る

((

。 明 和 年 間 以 降 は、 京 都 に 居 を 移 し、 そ の 地 で は 次 章 で 取 り 上 げ る 田 中 江 南 と 交 友 し て い る。 彼 に は、 『 弇 州 先 生 尺 牘 選 』 の 注釈『弇州尺牘国字 解

((

』の著がある。跋によれば、越後滞在中にその地の弟子に与えたもので、尺牘流行の地方波及の一証 となる。

  こ れ ら 一 群 の 人 士 は、 厳 格 な 儒 者 な ら 眉 を ひ そ め る 振 る 舞 い が 多 か っ た。 井 上 金 峨 は 若 い 頃「 客

気 に ま か せ て さ わ ぎ 立 ち

((

」、無頼の日々を過ごした。鈴木澶洲は「若キ時ハ放蕩ノ人」で、 『吉原細見』を終生集めていたとい う

((

。高葛陂は、十八 大通の一人、 「女郎買の稽古 所

((

」と呼ばれた大和屋の文魚と交わっ た

((

  彼 ら に と っ て『 滄 溟 尺 牘 』 は、 文 章 だ け で な く、 文 人 生 活 の 模 範 で も あ っ た の で あ ろ う。 「 与 宋 子 相 」 の 次 の 場 面 な ど は、宴席での「意気慷慨」のよき見本である。

   帰復雷雨。乃歌黄楡諸篇、以敵其勢、則響振大陸、秋色漂颯。頽乎就酔、遂極千載、品物五子於中原。

(15)

   帰 れ ば 復 た 雷 雨 す。 乃 ち 黄 楡 諸 篇 を 歌 ひ、 以 て 其 の 勢 に 敵 す れ ば、 則 ち 響 大 陸 に 振 ひ、 秋 色 漂 颯 た り。 頽 乎 と し て 酔 に就きて、遂に千載を極め、五子(王世貞ら五人の同志─引用者注)を中原に品物 す

((

  また、 「夫玩世之為大於辟世也邈矣(夫れ世を玩ぶの大なりと為ること世を 辟

さく

ることよりも 邈

はる

かな り

((

)」と李攀龍はいう。 ここでの「玩世」は俗世を見下しながらあえて官途に就くことを指すが、江戸の文人はあえて時流に迎合し、俗世を楽しむ ことも「玩世」と呼ん だ

((

。自己の才知を認めぬ世の中へ不満を抱き(あるいはそのふりをし)ながら享楽的に生きるのは、 隠棲よりも風流だと思った人々も少なくなかったであろう。

  話を注釈書に戻すと、道齋の『尺牘考』が出た翌年、明和六年に新井白蛾『滄溟尺牘児 訓

((

』が同じく嵩山房から刊行され た。新井白蛾は易学者として知られ、徂徠学の影響を受け、 「古易」を唱えた人物である。 『国字解』が部分訳であったのに 対し、 『児訓』は、一部分節略はあるものの、ほぼ全訳である。本文は、 『尺牘考』と同様掲載しない。

  本 書 に は、 偽 板 と 呼 ぶ べ き 本 が あ る。 北 越 山 人『 滄 溟 尺 牘 諺 解 』( 明 和 四 年 刊

((

) で あ る。 両 書 の 関 係 は 複 雑 で、 巻 上・ 巻 中はほぼ同内容であるが、巻下は大きく異なる。 『上組済帳標目』の宝暦十三年の項に、 「滄溟尺牘児訓と申書   江戸須原屋 新 兵 衛 方 板 行 催 ニ 付

((

」 云 々 と あ る と こ ろ を 見 る と、 『 児 訓 』 の 企 画 は か な り 早 い 時 期 か ら 始 ま っ て い た よ う で あ る。 お そ ら く 刊 行 に 至 る 前 に、 『 児 訓 』 の 巻 下 以 外 の 原 稿 が 流 出 す る と い っ た 事 件 が あ っ た の で は な か ろ う か。 庭 川 庄 左 衛 門 は「 割 印 帳」に一度も名の見えない素性の怪しい本屋で、 『唐詩選国字解』の偽板の一つ『唐詩選諺解』を出版してい る

((

。『唐詩選』 と『滄溟尺牘』はしばしば並称されたが、この二書は海賊版でも一対となっていたのである。

(16)

四. 尺牘の制作

(一)指南書  

は編纂された。   『 滄 溟 尺 牘 』 の 流 行 は 尺 牘 の 実 作 へ と 人 々 を 駆 り 立 て た。 こ れ を 受 け、 尺 牘 制 作 の 手 引 き と な る 書 物 が 和 刻 さ れ、 あ る い

  もっとも、この種の書籍は、 『滄溟尺牘』流行以前から既に出版されている。王宇(撰) ・陳瑞錫(注) 『翰墨全書』 (寛永 二十年刊)や熊寅幾(編) 『尺牘双魚』 (承応三年刊)がその代表である。また、 『尺牘諺解』 (延宝八年刊) ・『名公翰墨便蒙 書 』( 延 宝 九 年 刊 ) の よ う に カ ナ 交 じ り 文 の 解 説 書 も 刊 行 さ れ て い る。 し か し、 こ れ ら の 本 は 点 校 者 や 撰 者 の 名 が 不 明 で あ る こ と が 多 い。 こ れ に 対 し、 『 滄 溟 尺 牘 』 以 後 は、 点 校 者 や 撰 者 の 名 が 明 示 さ れ る。 ま た、 唐 本 の 和 刻 で あ っ て も、 新 た に 日本人の序を付すことが増える。尺牘に対する認識の変化がこのようなところにも見て取れる。

  尺牘作成の手引書は、その内容から数種に分かれる。仮に分類すれば、①尺牘で用いられる語彙や定型表現を集めた尺牘 語集、②架空の文例を集めた文例集、③封書や宛名書の作法を記した作法書の四つに分けることができよう。今日の手紙の 文例集がそうであるように、一書が二つ以上の内容を具えることもある。

  先 ず、 『 滄 溟 尺 牘 』 以 後 の 日 本 の 学 者 の 手 に な る 尺 牘 語 集( ① ) を 年 代 順 に 見 て い く こ と に し た い。 類 似 の 内 容 で も 構 成 や内容にそれぞれの編者の見識や工夫が見えて興味深い。

  最 も 早 い 時 期 に 出 版 さ れ た 尺 牘 語 集 に は、 上 柳 四 明『 尺 牘 活 套 』( 寛 延 二 年 刊 ) が あ る。 四 明 は、 木 下 順 庵 門 の 向 井 滄 洲 に 師 事 し た 人 物 で あ る。 「 発 端 」・ 「 結 尾 」・ 「 叙 疎 潤 」 と い っ た 項 目 別 に 見 本 と な る 語 句 を 挙 げ る。 た だ し、 本 書 の 中 に は、 李王の尺牘への言及が見られず、 『滄溟尺牘』の流行とは関係のない可能性がある。     こ れ に 対 し、 宝 暦 五 年 に 刊 行 さ れ た 田 中 道 齋『 尺 牘 称 謂 辨 』 は 明 ら か に『 滄 溟 尺 牘 』 を 意 識 し て い る。 田 中 道 齋( 仲 道

(17)

齋)は、若い頃から徂徠・春臺の学問を好み、無相文雄に師事し た

((

王 を 真 似 し て 尺 牘 に 難 解 な 語 を つ ら ね る「 童 学 」 の 風 を 改 め る こ と に あ っ た

((

  『 尺 牘 称 謂 辨 』 は 書 名 の 通 り、 自 他 の 呼 称 や 進 物・ 文 房 具 の 別 称 が そ の 内 容 の ほ と ん ど を 占 め る。 道 齋 の 編 纂 意 図 は、 李

。 し か し、 そ の 一 方 で 彼 は『 弇 州 尺 牘 紀 要 』 (宝暦六年刊)及び『滄溟尺牘辨疑』 (未刊)を著している。このような李王の尺牘への複雑な態度は、これから取り上げる 本の著者にも見られる。

  明和六年には、大典顕常『尺牘式』が刊行される。本書の第一巻と第二巻は「尺牘語式」と題し、第三巻は「尺牘写式」 と題す。 「尺牘語式」は①に入り、 「尺牘写式」は③に入る。大典顕常は、大潮元皓及び宇野明霞に就いて学んだ当代随一の 文人僧であり、その学問は古文辞派の詩文研究の集大成といえる。広い学識に裏付けられた解説書の作成は、大典の得意と するところで、 『尺牘式』にもそれは遺憾なく発揮されている。

要を得ており、本書に従って言葉を拾っていけば、機械的にある程度の尺牘は書ける。 素 に 当 た る )、 そ れ ぞ れ の 構 成 要 素 に つ い て 語 例 を 挙 げ る。 下 巻 は「 称 呼 」 と 頻 用 の 表 現 の 語 例 を 補 足 す る。 説 明 は 簡 潔 で   「 尺 牘 語 式 」 の 上 巻 は 尺 牘 を 構 成 要 素 に 分 か ち( 今 の 手 紙 で い う な ら「 頭 語 」・ 「 時 候 の 挨 拶 」・ 「 安 否 の 挨 拶 」 と い っ た 要

  「尺牘写式」は、便箋の用い方や封筒の様式など尺牘の体裁について解説する。冒頭に、

『朱氏談綺』の朱舜水の説に基づ き、高泉和尚や陳元贇、あるいは「近代華人華僧」の説を斟酌して編纂したとある。この種の本では、小宮山謙亭(昌世) の『 発 蒙 書 柬 式 』 が 宝 暦 五 年 に 既 に 刊 行 さ れ て い る

((

。『 発 蒙 書 柬 式 』 は、 中 国 の 書 式 の み な ら ず、 日 本 の 古 来 の 書 式 に つ い て も 検 討 し、 野 宮 定 基 や 伊 勢 祐 和 に 故 実 を 質 し て い る。 こ の よ う に『 発 蒙 書 柬 式 』 が 考 拠 の 書 の 色 彩 が 強 い の に 対 し、 「 尺 牘写式」の内容は簡潔で、実用に特化している。

  大 典 は、 さ ら に 天 明 四 年 に「 語 式 」 未 収 の 語 と「 儀 物 雅 称( シ ン モ ツ ノ 名 )」 な ど を 集 め た『 尺 牘 式 補 遺 』 を 上 梓 し て い る。

(18)

  尺牘関係書の編纂に熱心だった文人に田中江南がいる。江南は徂徠学派の大内熊耳の門人で、古代中国の遊戯である投壺 を復興し、普及させようとした人物であ る

((

  江 南 の『 書 簡 啓 発 』( 安 永 九 年 刊 ) は、 序 に 代 え て「 答 列 子 榮 」 を 載 せ、 漢 文 の 横 に 同 内 容 の 候 文 を 配 す る。 本 書 の 特 徴 は、 漢 文 尺 牘 と 候 文 書 簡 と を 対 比 さ せ る こ と に あ る。 そ の「 答 列 子 榮 」 で 江 南 は、 「 舌 講 家 挑 標、 售 媿 王 李、 控 生 徒、 可 則 可 也( 舌 講 家 標 を 挑 げ て、 媿 を 王 李 に 售 り、 生 徒 を 控 く、 可 は 則 ち 可 な り

((

)」 と 述 べ た 上 で( ち な み に 対 応 す る 候 文 に は 「講釈師共李王尺牘と看板掛入ヲ取も尤可宜候へ共」とある) 、初学者がいきなり李王の尺牘を学ぶことの困難を説き、本書 に集められた尺牘の「常 語

((

」に先ず習熟すべきであるという。

  こ の よ う な 主 旨 で 編 纂 さ れ た『 書 簡 啓 発 』 は 九 部 門 に わ た り、 候 文 書 簡 の 常 套 句 と そ れ と 同 義 の 尺 牘 の「 常 語 」 を 挙 げ る。 た と え ば「 未 御 目 見 仕 」 の 項 に は「 未 展 望 塵 之 拝( 未 だ 望

トオリガケ

塵 の 拝

メミヘ

を 展 せ ず )」 ・「 雖 未 挹 龍 光( 未 だ 龍

オメ下サル

光 を 挹 ま ざ れ ど も) 」・ 「未奉謁(未だ謁を奉ぜず) 」の三つが載 る

((

。この例からも分かるように、適宜傍訓が附され、読者の理解を助けてい る。これは、陸九如(纂輯) ・田中江南(訳) 『新刻簡要達衷集時俗通用書柬』 (安永五年刊、外題『尺牘簡 要

((

』)にも共通し た 特 徴 で あ る( 該 書 は ② の 文 例 集 に 属 す )。 江 南 は、 『 六 朝 詩 選 俗 訓 』・ 『 唐 後 詩 絶 句 解 国 字 解 』 の 著 が あ り、 い ず れ も「 俗 言」の傍訓を施し、本文を「訳」している。彼はこの手法を尺牘手引書に対しても用いているのである。

  江 南 は、 こ れ ら 以 外 に も 尺 牘 関 係 の 著 作 が あ っ た よ う で、 『 新 刻 簡 要 達 衷 集 時 俗 通 用 書 柬 』 の 巻 末 に は「 江 南 先 生 編 集 尺 牘類書」として、 「尺牘簡要」 ・「尺牘啓発〔前編 後編〕 」( 『書簡啓発』 )のほかに「尺牘 綿

ママ

裁」 ・「尺牘軌物」の書名が見える。

  前 章 で 紹 介 し た 鈴 木 澶 洲 は『 尺 牘 筌 』( 天 明 二 年 刊

((

) を 著 し て い る。 本 書 は 明 人 に 加 え、 日 本 の 学 者 の 尺 牘 中 の 語 も 採 録 している。興味深いのは、 「時令風雨類」などと並び「雑事語笑類」の項があることで、 「 舞

フシャウセツトウ

掌絶倒 (テヲウツテワラヒタヲ レル) 」や「 鬨

キャウトウイチロ

倒一路 (ミチ〳〵サワギアルイタ) 」といった語が見え る

((

。この種の放埓な行動は、本書の読者に模倣された に違いない。

(19)

  天明四年には、岡崎廬門(閲) ・岡崎鵠亭(輯) 『尺牘断 錦

((

』が刊行されている。岡崎廬門は、龍草廬の門人で初学者向け の 解 説 書 や 詩 語 集 を 多 く 編 纂 し て い る。 岡 崎 鵠 亭( 元 軌 ) は、 廬 門 の 子 で あ る。 本 書 は、 「 函 書〔 ハ コ ニ 入 タ 書 簡 〕 辱 ‐ ‐ 之賜〔王百 谷

((

〕」といったように、語・解説・用例の三つを具え、簡便ながら行き届いた編集がなされている。

  天明七年に刊行された岡鳳鳴(閲) ・山呉練(輯) 『和漢尺牘解 環

((

』は、尺牘頻用の故事の原典を引き、続いて名家の尺牘 中 の 用 例 を 示 す 構 成 に な っ て い る。 こ の 本 は、 故 事 の 自 在 な 活 用 が 尺 牘 執 筆 の 上 で 不 可 欠 で あ っ た こ と を 端 的 に 示 し て い る。

  ② 中 心 の 著 作 に は、 岡 崎 盧 門『 尺 牘 道 標 』( 安 永 九 年 刊 ) が あ る

((

。 こ の 本 の 最 大 の 特 徴 は、 そ れ ぞ れ の 文 例 に 典 拠 の 説 明 ま で 含 む 丁 寧 な 訳 解 を 付 す こ と で あ る。 『 翰 墨 全 書 』 や『 尺 牘 双 魚 』 な ど の 和 刻 本 と 比 べ る と『 尺 牘 道 標 』 の 分 か り 易 さ は 際立っている。     一 連 の 指 南 書 の 棹 尾 を 飾 る の は 戸 崎 淡 園『 尺 牘 彙 材 』( 寛 政 元 年 刊 ) で あ る

((

。 淡 園 は、 水 戸 徳 川 家 の 分 家 筋 で あ る 守 山 松 平家の武士である。守山松平家は、三代松平頼寛(頃公、号は黄龍)以来、徂徠学を尊崇し、淡園もその学風を守った。歴 代当主の信任が厚く、寛政十年には老中職に昇っている。前出の田中江南は守山松平家に一時期仕えていたので、淡園と江 南とは親交があっ た

((

  本書は五巻から成り、一巻と二巻は①の尺牘語集に属する。三巻は「布置」と題され、候文書簡と漢文尺牘の構成上の異 同 を 示 す た め、 同 内 容 の 候 文 と 漢 文 を 二 十 八 組 併 載 す る( こ の 部 分 は ② に 入 る )。 ま た 末 尾 に「 書 柬 箋 式 」 を 附 し、 簡 略 で はあるが③を載せる。四巻は「歴代名家尺牘」 、五巻は「蘐園諸家尺牘」であり、小規模な尺牘選集となっている。

  以 上 検 討 し た 多 種 多 様 な 尺 牘 指 南 書 は、 主 に 十 八 世 紀 後 半 に 出 版 さ れ た。 こ の 時 期 に な る と 古 文 辞 派 も 全 盛 を 過 ぎ て お り、 尺 牘 指 南 書 に も そ の 変 化 が 見 て 取 れ る。 前 述 し た よ う に、 田 中 江 南 は 李 王 の 文 章 を 尊 崇 し な が ら も、 「 常 語 」 の 習 得 を 優 先 す べ き で あ る と 説 い て い た。 こ の よ う な 平 明 さ へ の 配 慮 は、 容 易 に 反 古 文 辞 へ と 転 化 す る。 岡 崎 廬 門 は「 尺 牘 道 標 自

(20)

序」で次のようにいう。

   夫尺牘也、古之折簡而已。及至明人用巧于茲、採片玉一枝於崑山鄧林、唯啄彫維競。卒為一種之体也。逮于近世、彼厭 常搆奇好勝誇多之徒、亦頗傚之、有屹崛獒牙険渋而難通暁者。余謂若欲為童蒙則可採平易之文而教 之

((

夫 れ 尺 牘 や、 古 の 折 簡 の み。 明 人 に 至 る に 及 び て 巧 を 茲 に 用 ひ、 片 玉 一 枝 を 崑 山 鄧 林 に 採 り、 唯 だ 啄 彫 を の み 維 れ 競 ふ。卒に一種の体と為るなり。近世に逮びて、彼の常を厭ひ奇を搆へ勝を好み多を誇るの徒も、亦た頗る之を傚ひ、屹 崛獒牙険渋にして通暁し難き者有り。余 謂らく若し童蒙の為にせんと欲せば則ち平易の文を採りて之を 教

ゆ 可し。

    この廬門の議論と大典の「欧蘇書簡序」の次の論をあわせて見ると、時代の趨勢が浮かび上がってくる。詩における宋詩 再評価に対応する変化が、尺牘にも起こっているのである。

夫 明 文 之 郁 々、 工 尺 一 者 亦 多。 務 在 菁 華、 動 失 核 実。 妝 飾 之 辞 溢 而 宛 転 之 致 乏。 所 不 取 也。 《 中 略 》 秦 漢 也、 古 文 也、 雖多亦奚以為。皆以其不求於切近故 已

((

夫 れ 明 文 の 郁 々 た る、 尺 一 に 工 み な る 者 も 亦 た 多 し。 務 む る は 菁 華 に 在 り て、 動 も す れ ば 核 実 を 失 ふ。 妝 飾 の 辞 溢 れ て 宛 転 の 致 乏 し。 取 ら ざ る 所 な り。 《 中 略 》 秦 漢 や、 古 文 や、 多 し と 雖 も 亦 た 奚 を 以 て 為 さ ん。 皆 其 の 切 近 に 求 め ざ るを以ての故のみ。

(21)

明人の尺牘の装飾過剰な傾向を補正するために、欧陽脩や蘇軾らの書簡を学ぶのも有益であると大典はいうのである。

(二)尺牘集

  指南書に加え、尺牘執筆の上で参考になるのは名家の実作である。

  古文辞派の尺牘の総集は、顧起元(彙選) ・李之藻(校釈) ・三浦瓶山(考訂) 『盛明七子尺牘註解』 (延享四年刊)や、王 世貞(編) ・王世懋(校) 『尺牘清裁』の明人の部が林東溟の校訂で出版されている。

  興味深いのは別集である。

  『 滄 溟 尺 牘 』 に 続 き、 王 穉 登・ 王 世 貞・ 李 夢 陽・ 汪 道 昆・ 徐 中 行 な ど の 尺 牘 集 が 刊 行 さ れ て い る

((

。 彼 ら は 広 義 の 古 文 辞 派 に 属 す る 人 物 た ち で あ る が、 王 世 貞 以 外 は、 個 人 文 集 も 個 人 選 集 も 和 刻 さ れ て お ら ず、 尺 牘 の み が 出 版 さ れ て い る。 し か も、 文 集 の 尺 牘 の 巻 を 切 り 出 し、 尺 牘 集 と し て 刊 行 し た も の が 多 い。 王 世 貞 の『 弇 州 先 生 尺 牘 選 』 は 沈 一 貫( 編 )『 弇 州 山 人 四 部 稿 選 』 の 一 部 で あ り、 李 夢 陽 の『 李 空 同 尺 牘 』( 延 享 五 年 刊 ) は 序 文 で 文 集 の 全 書 刊 行 を 謳 っ て い な が ら、 結 局 尺 牘 以 外 の 巻 は 上 梓 さ れ て い な い。 ま た、 村 瀬 櫟 岡 の 校 訂 に な る『 明 徐 天 目 先 生 尺 牘 』( 天 明 七 年 刊 ) は、 櫟 岡 の 有 す る 某 氏 秘 蔵の文集の写本から、尺牘の部分を抄出し、注釈を施したものである。櫟岡は、跋で「蓋自物夫子祖尚李王、而李王之文、 昭 昭 乎 掲 日 月 而 行 也。 尺 牘 亦 各 孤 行。 而 至 於 天 目 之 話 言 希 見 也( 蓋 し 物 夫 子 李 王 を 祖 尚 し て よ り、 李 王 の 文、 昭 昭 乎 と し て 日 月 を 掲 げ て 行 は る な り。 尺 牘 も 亦 た 各 々 孤 行 す。 而 し て 天 目 の 話 言 に 至 り て は 見 る こ と 希 な り

((

)」 と い う。 李 王 の 尺 牘 の盛行が念頭にあった彼は、稀覯の徐中行の文集の中でも、尺牘を真っ先に公刊すべきであると考えたのである。

  反古文辞の人々も当初は尺牘を重視していた。尺牘という文体は、古文辞排撃のためにいち早く確保すべき橋頭堡と認識 されていたからである。山本北山の門人たちは、古文辞批判の序を冠した『袁中郞先生尺牘』を安永十年に校訂出版してい る

((

。さらに、彼らは天明四年に、韓愈の書簡を集めた『韓文公書牘』を刊行している。

(22)

  日本の文人騒客でも、文集とは別に尺牘集が上梓されている例がある。順を追ってみていくと、宝暦四年に、無隠道費の 書簡を集めた『金龍尺牘』が刊行されてい る

((

。無隠道費は、曹洞宗の僧で、大潮元皓と交流があった。道費は『心学典論』 に お い て 徂 徠 学 を 論 難 し て い る が

((

、 詩 文 の 好 尚 は 徂 徠 学 派 と 極 め て 近 い。 『 金 龍 尺 牘 』 は、 一 連 の 尺 牘 集 の 刊 行 を 意 識 し た も の で あ ろ う。 宝 暦 六 年 に は、 田 中 道 齋『 道 齋 先 生 尺 牘 』、 宝 暦 七 年 に は 同『 道 齋 先 生 承 諭 篇 』 が 刊 行 さ れ る

((

。 道 齋 は 李 王 の古文辞を否定するが、彼は尺牘を優先して出版するという発想の枠内にいたのである。宝暦十一年には、徂徠学派と関係 の深い大潮元皓の『西溟大潮禅師魯寮尺牘』が出版されてい る

((

  大 典 顕 常 は、 自 分 の 尺 牘 集 を 次 々 と 世 に 送 り 出 し た。 『 小 雲 棲 手 簡 』 は 何 と 四 編 に も 及 ぶ( 初 編 安 永 六 年 刊、 二 編 天 明 七 年刊、三編寛政六年刊、四編寛政七刊) 。『小雲棲手簡』で面白いのは、少々不謹慎と見えるような場面でも、大典が機智に 富んだ表現を用いることである。たとえば、借りた本が見当たらない際には「未嘗出諸戸外、豈有翼而飛(未だ嘗てこれを 戸外より出さず、豈に翼有りて飛ぶこと有らん や

((

)」と詫び、便箋が墨で汚れてしまうと、 「林風一陣、毛生衝突楮生、塗抹 白 面( 林 泉 一 陣、 毛 生〔 筆 の 擬 人 化 ─ 引 用 者 注 〕 楮 生〔 紙 の 擬 人 化 ─ 引 用 者 注 〕 に 衝 突 し、 白 面 を 塗 抹 す

((

)」 と 記 す。 お そ らく当時は、凝った表現の背後に書き手の心づくしを読み取り、その才智を称嘆しながら、過失を笑って赦す─といった感 覚があったのではなかろうか(これは次章で見る漢文尺牘が可能にする親密な交際の問題と繋がる) 。

  日 本 人 の 尺 牘 集 の 出 版 は、 寛 政 九 年 刊 の 龍 草 廬『 艸 廬 尺 牘 』 を 最 後 に 跡 を 絶 つ。 重 野 成 齋 は、 「 尺 牘 双 魚 約 解 叙 」 に お い て次のようにいう。

   我邦学漢文之士、攻柬牘者、独蘐園之徒為然。而其餘多遺焉。豈謂無用於我歟、将為不足習 歟

((

我邦   漢文を学ぶの士、柬牘を攻むる者、独り蘐園の徒を然りと為す。而して其の餘は多く焉を遺す。豈に我に無用と

(23)

謂へるか、将た習ふに足らずと為すか。

尺牘の流行は古文辞派と消長をともにしたのである。

五.おわりに

け、主導したのではなく、予期せず起こった流行が文学の方向を規定したのである。 に よ っ て 尺 牘 の 文 体 中 の 地 位 は 上 が り、 尺 牘 の 制 作 は 盛 ん に な っ た。 つ ま り、 特 定 の 人 物 が あ る 展 望 の も と で 流 行 を 仕 掛 牘』がこれほどまで読まれるようになるとは、徂徠学派の学者も書肆も、当初予想していなかったであろう。しかし、それ 版 業 者 内 の 対 立、 さ ら に 南 郭 の 力 の 入 っ た 序 文 の 三 つ が た ま た ま 組 み 合 わ さ っ た こ と で、 こ の 流 行 は 起 こ っ た。 『 滄 溟 尺   『 滄 溟 尺 牘 』 の 流 行 は 複 数 の 要 因 が 偶 然 的 に 重 な り 起 こ っ た も の で あ る。 書 簡 を 文 章 学 習 の 導 入 と 見 る 当 時 の 通 念 と、 出

とも対応している。 ることである。このような交遊へ傾斜した文学観は、十八世紀後半、各地で詩社が結成され、詩の唱和が盛んに行われたの う。また、第二章(三)で見たように南郭が「重刻滄溟尺牘序」で力説するのは、李攀龍の尺牘が「古人」の交遊に淵源す 流 を 志 向 す る の は い う ま で も な い が、 古 文 辞 の 尺 牘 で 頻 用 さ れ る 表 現( 「 吾 党 」・ 「 握 手 」 な ど ) は、 人 々 を 交 流 へ 強 く 誘   『 滄 溟 尺 牘 』 を 入 口 に 文 章 を 学 ん だ 読 者 は、 交 遊 こ そ が 文 学 の 根 幹 で あ る と 考 え た に 違 い な い。 尺 牘 を 書 く こ と 自 体 が 交

  古文辞の尺牘を介した交際とは、およそ次のような類のものであった。

吾党・攘臂・扼腕・側目・睥睨など、明七子輩の詩文に多く用るとて、吾国の人もこれを用るは軽薄ぞ《中略》平生親

(24)

昵する友にてもなく、唯時節に宴会し、其席散じては、路人同然の交なるをも、吾党といゝ、書生仲間、師家の講席に て、面を見おぼへたるまでの輩まで、吾党々々といふこと、軽薄にあらず や

((

これは「軽薄」かもしれないが、古文辞の定型表現によって、親密な交流が形の上であっても実現しているともいえる。仮 に内実が伴っていなかったとしても、形から入ることで、このような表現は実際の交遊を支援する力となったであろう。     さらに考えれば、内実の有無は副次的な問題といえるかもしれない。人は個々の友人関係の親疎をどれほど正確に把握で きているであろうか。友情の一方通行や不均衡はしばしば発生する。かといって、親しさの度合や上下関係を逐一確認すれ ば、交際の心理的負担は増大する。ならば、いっそのこと、相互を親しい仲間と 見なす

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擬制が存在した方が、活発で、安定 した交際が可能になるのではなかろうか。古文辞派の詩文、とりわけ尺牘の修辞はこのような擬制の機能を果たしていたと いえる。古文辞の尺牘を用いれば、 「路人同然」の間柄でも、双方が過度な警戒心を抱くことなく、 「吾党」の一員であるか のようにつきあうことができる。新たな交遊の可能性は広がり、文人社会の拡大は促進される。

  古文辞派の好む典拠表現が、それを理解できるものの間に仲間意識を生み出すことについては別稿で論じ た

((

。抒情性や個 性 と い っ た も の を 基 準 に 評 価 す れ ば、 古 文 辞 派 の 詩 文 は 興 趣 に 乏 し い か も し れ な い。 し か し、 社 交 の 媒 体 と し て 見 た 場 合 は、放蕩無頼へ人を導きやすいといった欠点はあっても、それが優れていたことは確かである。とりわけ、交流の媒体も機 会も今日より少なかった時代において、前述のような古文辞の尺牘の機能は非常に重要であったと考えられる。この点に関 して、理論的な考察が十分になされないまま、漢文尺牘が衰退したことは、漢詩文を軸とする文人社会にとって大きな損失 だったのではなかろうか。おそらく、書画会の盛行や作詩人口の増大に見られる文人社会の繁栄は、文人社会の存続を自明 視させ、その制度的な基盤に対する思考を妨げてしまったのであろう。

こ の よ う な 議 論 は、 現 代 か ら 振 り 返 っ て 過 去 に 対 し 無 理 な 要 求 を し て い る よ う に 見 え る か も し れ な い。 だ が、 遡 っ て 考 え

(25)

れば、徂徠は当代の漢詩文の状況を緻密に分析した上で、新たな文学の世界を計画的に作り出そうとした。冗漫な文章に流 れがちな日本人の傾向や、理屈ばった宋代の詩文が人々の心性に与える影響、それらを助長する『古文真宝』や『三体詩』 などの書物─これらの一連の悪弊を克服するために、徂徠は『訳文筌蹄』や『四家雋』 、『唐後詩』を編纂し、従来とは異な る 詩 文 学 習 の 階 梯 を 示 し た の で あ る

((

。 こ の 徂 徠 の 企 図 は、 人 間 や 事 物 の 傾 向 性 や 法 則 性 を 洞 察 し た 上 で、 「 礼 楽 制 度 」 を 設 計する徂徠学の「聖人」像を思わせ る

((

(既に見たように、 『四家雋』の刊行の遅滞によって、徂徠の計画は頓挫した) 。徂徠 の試みに倣い、古文辞の尺牘の問題点を視野に入れながら、その長所を生かした文学上の制度設計が再度試みられても不思 議はなかった。尺牘指南書には、そのような関心の萌芽が見られる。だが結局、文苑の「聖人」は出現しなかった。

うな感慨を抱くに足るほど大きかったのではないだろうか。   「 制 作 」 の 蹉 跌 と「 聖 人 」 の 不 在 と を 嘆 く の は、 徂 徠 学 派 風 の 陳 腐 な 感 慨 で あ ろ う。 し か し、 失 わ れ た 可 能 性 は、 こ の よ

註(

  『1)

蘐園雑話』(『続日本随筆大成』第四巻、吉川弘文館、一九七九年)、七六頁。(

(  2)稲葉黙齋(講)・篠原惟秀等(筆録)『小学筆記』嘉言(東京大学総合図書館蔵)。

( 蔵集・四方のあか』、新日本古典文学大系第八四巻、岩波書店、一九九三年〕)、二五頁。 畝「寄古文辞」にも『滄溟尺牘』の名は見える(『寝惚先生文集』巻一、〔中野三敏・日野龍夫・揖斐高(校注)『寝惚先生文集・狂歌才  3)渋井太室『読書会意』巻中、四十オ(寛政六年刊、〔長澤規矩也(編)『影印日本随筆集成』第五輯、汲古書院、一九七八年〕)。大田南

(  4)江村北海「藝苑談序」(清田儋叟『藝苑談』、明和五年刊、〔池田四郎次郎(編)『日本詩話叢書』第九巻、文会堂書店、一九二一年〕)。

(  5)三浦瓶山『閑窓自適』、二十九オ(安永五年刊、〔長澤規矩也(編)『影印日本随筆集成』第五輯〕)。

(  6)塚田旭嶺『桜邑間語』巻二(長澤規矩也(編)『影印日本随筆集成』第四輯、汲古書院、一九七八年)、一九〇頁。

(  7)梁田蛻巖『答問書』巻上(浜田四郎次郎・浜野知三郎・三村清三郎(編)『日本芸林叢書』第二巻、鳳出版、一九八二年復刊)、二〇頁。

( 〇年〕)。  8)平賀中南『日新堂学範』巻下、十一ウ(安永八年刊、〔長澤規矩也(編)『江戸時代支那学入門書解題集成』第三集、汲古書院、一九七   9)荻生徂徠「四家雋例六則」(『徂徠集』巻十九、二十二オ〔平石直昭(編集・解説)『徂徠集徂徠集拾遺』、近世儒家文集集成第三巻、

参照

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