組織の経済学に基づく
「企業と社会」論構築の試み "*
−ドイツ経営経済学における
R.
ヴァルトキルヒの 議論を中心として−柴 田 明
!
は じ め に近年の「企業の社会的責任(Corporate Social Responsibility : CSR)」論"や「企 業倫理(
Business Ethics
)」,あるいは「企業と社会(Business and Society
)」論 において重要なトピックとなっているのは,「企業が社会からの期待(要請)に どのように答えられるのか」という問題だと考えられる#
。
というのも,例えば英国シェル石油のブレント・スパー事件$やネスレ社の粉 ミルク事件
%
の例からもわかるように,企業自身が感じ取っている社会からの期
(*) 植木英治先生には,1年という短い期間ではあったが,研究面や教育面をはじめとし て様々な場面でご指導ご鞭撻を賜った。ここに感謝の意を表するとともに,先生の今後 のますますのご健康とご健勝をお祈り申し上げたい。
(1) CSRに関する包括的な説明としてはたとえば植木(2007)を参照。
(2) このような問題意識を持つ研究としては,たとえば小山(2003)を参照。
(3) 英国シェル石油は,ブレント・スパーと呼ばれるプラットフォーム型原油掘削施設の 解体処理に関して,科学的な検討の末に海洋投棄を決定した。自然環境への影響やコス トの観点からベストな選択だと表明したが,国際的環境保護団体であるグリーンピース が反対運動を展開し,ボイコット運動はヨーロッパ中に広がった。この結果シェルは売 上げを低下させ,結果的に海洋投棄をストップすることを決定した。詳細については梅 津(2002),51−52ページを参照。
(4) 1970年代に,粉ミルクと乳幼児の栄養失調,死亡率との関連が問題となった中で,ネ スレはアフリカをはじめとする発展途上国に対し積極的なマーケティングによる営業戦 略をとり,その粉ミルクが乳幼児の栄養失調の原因とされた。しかしネスレは当初対決 する姿勢を見せたため,世界中でボイコット運動に直面した。これについては高見
(2007),16−18ページを参照。
香 川 大 学 経 済 論 叢 第83巻 第1・2号 2010年9月 57−88
待と,企業に対する社会の期待そのものが乖離しているために,結果として企 業が社会的責任を果たしていないと見なされてしまい,業績の悪化に至るケー スが見受けられるからである。
企業は一つの組織であり,そこには企業固有の論理がある。しかし,企業組 織の存在やその正当性は,企業自身によって決められるのではなく,社会に よって決められるのであり,経営者は,企業がそもそも社会的な課題を解決す るために存在しているのだという認識を無視してはならないだろう。
以上のことはすでに広く認識されているが,しかしとりわけ上述の問題に関 する従来の経営学の議論では,企業の視点から見た「社会」に対する関係が規 範的な観点から論じられていることが多い。つまり,企業の視点から見て,「企 業は社会に対してどのような対応を取るべきか」といったことが主に論じられ ているのである。
そのような視点が重要であることはいうまでもないが,一方で,そのような 議論の中においては,企業はアプリオリに存在するものとして前提とされてい る。つまりそこでは,企業ははじめから存在するものとして前提した上で,そ こから企業が将来生き残り,発展していくには,企業は社会に対してどのよう に対応するべきなのか,という問題が議論されているのである。
しかし,「企業と社会」の関係を考える際に問われなければならないのは,
「そもそもなぜ企業が存在するのか」という問題である。というのも,企業を はじめとする組織は何らかの社会的課題を解決するために存在するのであり,
そのような見方が,たとえば前述の企業に対する社会的期待という問題を解く 重要な手がかりとなりうるからである。よって「企業と社会」論においては,
従来の規範的なアプローチに加えて,「そもそもなぜ企業組織が存在するのか」
ということに関する原理的,理論的な解明が必要だと思われる!。
以上の問題意識から,本稿では「企業と社会」の基礎理論の構築を試みてい る,ヴァルトキルヒ(
R. Waldkirch
)の2002年の著作『企業と社会 ―― 組織 の経済学の基礎付けに向けて(Unternehmen und Gesellschaft. Zur Grundlegungeiner Ökonomik von Organisation)
』を検討したい。−58− 香川大学経済論叢 58
ヴ ァ ル ト キ ル ヒ は,2006年 よ り 南 ヴ ェ ス ト フ ァ ー レ ン 専 門 大 学
(Fachhochschule Südwestfalen)の教授であり,企業論や制度経済学などの講義 を担当している"。専門分野は一般経営経済学や経済倫理,企業倫理などであ り,この著作は2002年にアイヒシュテット=インゴルシュタット・カトリッ ク 大 学(Katholischen
Universität Eichstätt-Ingolstadt)へ 提 出 し た 博 士 論 文
(Dissertation)である。彼の博士論文の指導教授は,ドイツを代表する経済倫 理・企業倫理学者のホーマン(K. Homann)であり#,本著作にも序文を書いて いる。ホーマンは経済主義的な立場に基づいた経済倫理・企業倫理論を展開し ており,ヴァルトキルヒもこの方向で「企業と社会」論を展開しようとしてい る。
とりわけ注目されるのは,ヴァルトキルヒが「組織の経済学」や「新制度派 経済学」と呼ばれるアプローチ$,特にその中でも取引コスト理論に基づいて,
「企業と社会」に関する基礎理論を構築しようとしている点である%。
取引コスト理論は,コース(R. H. Coase)の先駆的な研究を基礎として,ウ イリアムソン(O. Williamson)によって展開されたものであり(cf. Coase1988;
(5)「企業と社会」論において基礎理論的な検討を行っている研究として,たとえば富永
(1971)や,谷本の一連の研究(谷本1987;谷本1993;谷本2002)が挙げられる。ここ でとりわけ注目されるのが谷本の研究である。谷本の問題意識も,従来のマネジメント サイドからの視点ではなく,「企業と社会の関わりを体系的にとらえる理論構築への努 力」(谷本1993,1ページ)が必要だという点で,本稿と方向性を一にする。また谷本
(2002)では,経済学をはじめとする様々な社会科学的アプローチが検討され,独自の 観点から批判されている。谷本は,システム論的アプローチ,とりわけ自己組織論的な アプローチに基づいてオリジナルな理論的枠組みを構築しており,本研究にとって取り 上げる価値のあるきわめて重要な研究である。これについては別の機会に論じたい。
(6) http://www3.fh-swf.de/meschede/waldkirch.htmを参照した(最終アクセス日2010年7月 24日)。
(7) ホーマンの議論については,たとえば岡本(2007);岡本(2008);万仲(2009)を参 照。またドイツの企業倫理全般については,たとえばSteinmann / Löhr / Suzuki(2003); 田中照純(1997);田中美紀子(2008);松田(2010)を参照。
(8) 組 織 の 経 済 学,新 制 度 派 経 済 学 の 概 説 書,入 門 書 と し て は,た と え ばDauma / Schreuder(2002);Picot / Dietl / Franck(2005);菊澤(2006)を参照。ま た 組 織 の 経 済 学の方法論的側面についてはたとえば渡部(1991);丹沢(2000)を参照。
(9) 特にウイリアムソンの議論に注目した論攷としては,たとえばWaldkirch(2000)を 参照。
59 組織の経済学に基づく「企業と社会」論構築の試み! −59−
Williamson
1975),「取引コスト」を軸として,市場と企業組織を代替的な資源 配分システムと見なすことで,企業組織の存在理由を解明したアプローチであ る。取引コスト理論では企業組織の存在は「市場」との関係から説明されている が,市場は現代社会において中心的な調整メカニズムであり,市場と企業組織 の関係を論じる取引コスト理論は,まさに社会的な観点からの企業組織の考察 を可能にさせてくれるものであると言え,本稿の問題意識からみてきわめて重 要なアプローチだと言えよう。
しかしヴァルトキルヒは,組織の経済学に全面的に賛同しているわけではな い。彼は,組織の経済学が社会政策的な問題,すなわち企業と社会の関係から 生じる問題に対する解決策という観点から見て不満足な理論だと見なしてい る。よって彼は,組織の経済学を批判的に検討し,欠点を明らかにしてそれを 克服することにより,「企業と社会」の問題,つまり社会政策的な問題の解決 や,企業の社会における存在意義の理解に適した理論構築を目指している。
その際彼は,ルーマン(N. Luhmann)の社会システム理論における組織論 を参照することで,組織の経済学の欠点を補おうとしている。ルーマンの理論 は,社会システムというマクロ的な観点から組織の社会的機能について考察し ており,市場の代替的資源配分システムとして組織を考察する組織の経済学と 類似の問題意識を持っている
!
。この意味で,彼の理論は組織の経済学とルーマ ン社会システム理論という2つのメタ理論を用いて基礎理論を構築しようとし ていると言えよう。
そこで本稿と次稿において,ヴァルトキルヒの提唱する「企業と社会」論を 取り上げ,その特質を検討する。本稿では,まず彼の学説を理解する前段階と
(10) ただしその方法論的出発点は異なるだろう。組織の経済学が新古典派経済学の方法論 的個人主義を出発点としているのに対し,ルーマン社会システム理論は個人主義的アプ ローチを否定している。ヴァルトキルヒは,後に見るように,組織の経済学の行為論的 なアプローチを批判し,新しい見方を提供しようとしている。この点で,彼の方法論的 な立場はルーマンに近いのかもしれない。しかしこれについて彼は明確な立場を示して いない。またルーマン理論と取引コスト理論の類似性を指摘したものとして,たとえば 春日(1998)を参照。
−60− 香川大学経済論叢 60
して,これまでの「企業と社会」問題を取り扱った代表的な学説をごく簡潔に 取り上げ,その理論的背景と問題点を検討する。続いてヴァルトキルヒ学説の 理論的出発点を確認し,その後で彼の主張の基礎となっている組織の経済学の 基本原理を検討する。最後に,組織の経済学の欠点を補うものとして彼が依拠 する,ルーマン社会システム理論における「組織と社会」に関する議論を検討 することで,ヴァルトキルヒ学説の理論的土台を確認したい。
Ⅱ 「企業と社会」をめぐるこれまでの代表的アプロー チとその理論的背景
具体的にヴァルトキルヒの学説を検討する前に,これまでの「企業と社会」
に関する代表的アプローチの背後にある理論的想定について,ごく簡潔に検討 してみよう。
たとえばアメリカのビジネス・スクールで用いられている,キャロル(
A. B.
Carroll
)とブッフホルツ(A. K. Buchholtz
)の『企業と社会:倫理とステイクホ ル ダ ー・マ ネ ジ メ ン ト(Business
& Society : Ethics and Stakeholder Management)
』(Carroll / Buchholtz
2008)では,ステイクホルダー論を中心と して,コーポレート・ガバナンス論,企業倫理など多岐にわたるトピックが取 り上げられているが,「マネジリアル・アプローチ」(ibid.,p.
24)の下に,冒 頭で述べたように,企業あるいは経営者の観点から見た,企業の社会に対する 関係やステイクホルダーへの対応策が検討されており,そこでは経済学や社会 学のような社会科学的基礎理論に基づいた分析はなされていない"
。
一方,ローレンス(
A. T. Lawrence
)とヴェーバー(J. Weber
)による『企業 と社会:ステイクホルダー,倫理,公共政策(Business and Society : Stakeholders,Ethics, Public Policy)
』(Lawrence / Weber
2010)では,「システム・パースペク ティブ」が取られている(cf. ibid., p.
5)。ここで企業組織は,環境である社会,(11) 榁田(2009,203−204ページ)は,「企業社会責任論」の展開を簡単に振り返り,それ が規範論的アプローチと社会即応論的アプローチに分けられると述べているが,キャロ ルらの「企業と社会」論は後者の社会即応論的アプローチに含まれるという。
61 組織の経済学に基づく「企業と社会」論構築の試み! −61−
あるいはステイクホルダーと相互作用することで存在するオープン・システム だというのである。ここでは一般システム理論のオープン・システム・モデル が理論的基礎とされているが,それ以上の理論的な検討がなされているわけで はない。
しかし,もし一般システム理論に基づくのであれば,「企業と社会」の関係 から生じる問題は原理上起こりえないだろう(柴田2009,218ページ)。とい うのも,環境とのインプットとアウトプットのやりとりから企業を制御すると き,環境と企業システムの均衡を達成するためには,企業システムは環境のあ らゆる状況,情報を完全に察知できるという仮定を置かなければならないから である。そこでは企業は,環境の要求をすべて認識することではじめて環境と の均衡を達成できるのであり,その場合,企業と社会の間の軋轢は原理上発生 しないことになってしまうのである。よって,一般システム理論による「企業 と社会」論の基礎付けには問題があると言えよう。
一方,企業の社会的な側面への取り組みに否定的な論者の代表格としてあげ られるフリードマン(M. Friedman)によれば,企業が
CSR
のような社会的活 動 に 取 り 組 む 必 要 は な い し,む し ろ 取 り 組 ん で は な ら な い と さ れ る(cf.Friedman1
962)。企業の責任はあくまで所有者の利潤最大化であり,それ以上でもそれ以下でもない。CSRや社会貢献は,所有者の利益を損なうものであ り,所有者に対する責任を果たしていないことになるのである
!
。
このような発想の背後にあるのは,新古典派経済学的な考え方,あるいはそ れに基づく古典的企業観だろう。つまりそこでは,完全合理的な人間観を想定 した,完全競争,完全情報などが成り立つ市場が唯一効率的な資源配分システ ムであり,企業はそこで,企業家(所有者)の利潤極大化を志向する,あたか も物質的な点のような存在だというのである(菊澤2006,2−3ページ)。
よって新古典派経済学の世界では,企業は市場で評価されたものだけが生き 残ることができるのである。市場は企業のあらゆる評価を可能にするのであ
(12) フリードマンの他に,ハイエク(F. A. v. Hayek)も同様にCSRに消極的である。これ らについては,たとえば森本(1994),38−46ページを参照。
−62− 香川大学経済論叢 62
り,新古典派的な世界では,社会的期待に応えられない企業,あるいは不祥事 の種を抱えるような企業は,市場ですぐに淘汰されることになる。よってここ でもまた,「企業と社会」の問題は原理上発生しないのである。このような新 古典派経済学の均衡論的なアプローチは,一般システム理論の均衡論的アプロ ーチときわめて類似しているといえる。
しかし,現実には「企業と社会」の問題,例えば企業不祥事の問題は頻発し ており,さらに企業活動を見れば,例えば
CSR
報告書のような形で,企業の 社会的活動への取り組みは実際に行われているのである。市場は,新古典派経 済学的な意味での最適な資源配分システムではなく,不完全な部分を持ってい るのであり,そこに「企業と社会」の問題が生じる一因があると考えられるの である。また,一般システム理論の主張するような,システムによる環境の完全な認 識も不可能である。現実には,システムがそれぞれ固有の認識を行い,環境に 適応しようとしているのであり,その認識の相違が,「企業と社会」の問題を 発生させているのだと考えられるのである。
以上のことから,「企業と社会」の基礎理論として,一般システム理論や新 古典派経済学は不十分である。その代替案として,ヴァルトキルヒが依拠する 組織の経済学やルーマン社会システム理論が考えられるのである。次節以降 で,ヴァルトキルヒの学説を詳細に検討しよう。
!
理論的出発点としての「デザインを導くイメージ」ヴァルトキルヒは,「新古典派経済学の方法は社会政策的な問題を適切に再 構成することができないのであり,…現代社会の社会政策的議論のための適切 な方向付けのポイントを用意することができない」(
Waldkirch
2002, S.
27f.
) と述べ,これまでの新古典派経済学の考え方が「企業と社会」のような「社会 政策的問題」の解決には適さないと批判する。先に述べたように,新古典派経済学では「経済人仮説」に基づき完全合理的 な人間観が想定されていた。ヴァルトキルヒは,この完全合理的人間観から導 63 組織の経済学に基づく「企業と社会」論構築の試み" −63−
き出されると考えられる,従来の経済学的分析において取られてきた「共有さ れたメンタル・モデル」を批判する(Waldkirch2002
, S.8
8)。「メンタル・モデル」という用語から読み取れるように,これは人間の主観 的なイメージを表す概念である。「共有されたメンタル・モデル」が意味する のは,新古典派経済学における完全合理的な人間は完全な情報収集・処理能力 を持つとされているため,経済学的分析において各人の主観的なイメージの違 いを考慮する必要がないということである。
しかし,現実には各人の主観的イメージがすべて同一ということはあり得な い。高度な分業社会となっている現代社会を見ればわかるように,「メンタル・
モデル」,つまり人間の主観的イメージは同質的なものではなく,それぞれ まったく異質性をはらんでいるのであり,またそれはアプリオリに存在するも のではなく,社会の中ではじめて作られるのである!(Vgl. Waldkirch2002
, S.
88)。
このことは,「企業と社会」問題にとってはきわめて重要である。というの も,「共有されたメンタル・モデル」が仮定されるのであれば,企業と社会の 構成員の主観的イメージに相違がないのであるから,企業は社会の期待を完全 に認知でき,それに沿った行動ができるはずだからである。しかし現実に起 こっている問題をみれば,そのような想定が誤りであることは明らかである。
以上のことから,ヴァルトキルヒはこの「共有されたメンタル・モデル」と いう非現実的仮定を批判し,「メンタル・モデル」を「デザインを導くイメー ジ(gestaltungsleitende Vorstellung)」という表現で言い表すとともに,これを 理論的出発点としている(Vgl. Waldkirch2002
, S.1
6−21,
23ff.)"。この用語は(13) これは,ルーマン社会システム理論における機能分化の議論とも整合する。現代社会 は経済,法,宗教などの固有の機能を持った多くのサブシステムに分化しており,それ ぞれは相互に重なり合うものではないし,それらを包括するようなシステムも存在し得 ない。またその中では,個人がひとつの包括システムのみに属するということはなくな り,個人化の傾向が強まっているのである。つまり,「生活世界の統一性は現代社会で は崩壊することが不可避であり,『普遍的方向付けに関するコンセンサス』はもはや存 在しないのである」(Waldkirch2002,S.89)。ルーマン社会システム理論における機能 分化の議論については,本稿Ⅴ節を参照。
−64− 香川大学経済論叢 64
きわめて解釈の困難なものだが,「デザイン(Gestaltung)」という言葉が意味 するのは,意思決定主体が取引などの社会関係を結ぶ際に,制度やルールなど の社会秩序を形成する(gestalten),ということであると考えられる。このこ とは,社会秩序が人々の主観的イメージによって大きく影響を受けていること を示しているのである。
ヴァルトキルヒによれば,この概念はサイモン(H. A. Simon)の「限定合 理性」の原理と関わるものだという。限定合理性の原理は,「各々の意思決定 行動が,社会秩序の条件に関して意思決定主体が持つ,デザインを導くイメー ジに依存するということの示唆として解釈できる」(Waldkirch2002
, S.1
7)。新古典派経済学においては,完全合理性の仮定の下で,客観的な状況と主観 的な状況は原則的に一致するものと想定されていた。これが「共有されたメン タル・モデル」の意味するところなのだが,しかし,たとえば個人の投資行動 は,イデオロギーや信念体系などの主観的なイメージに依存するのであり,そ のような主観的世界から離れた,純粋に客観的な世界は存在し得ないのであ る
"
。
以上のことは,「企業と社会」の問題に対してきわめて重大な帰結を及ぼす。
というのも,限定合理性の仮定の下では,社会の側での企業に対する主観的イ メージと,企業側の主観的イメージが異なるケースが発生するからである。た とえば前述のシェルのケースでは,シェルの行動は「「前もって設定された社 会(vorgegebene Gesellschaft)」というフィクション」(Waldkirch2002
, S.2)
, すなわち,「社会は,企業が…自己の利害関心に従って活動しうるという,法 的に成文化された枠組み秩序(Rahmenordnung)にすでに表れているような,明確に特定され,大幅に安定した要求を企業行動に向ける」(Waldkirch2002
, S.2−3)というイメージに基づいた行動であったが,しかしそれは社会の期待
(14) 経済史家のノース(D. C. North)もまた,経済学において,この「デザインを導くイ メージ」のような主観的な信念体系やイデオロギーの重要性を説いている。ノースの議 論についてはたとえばNorth(1990)を参照。
(15) 近年の行動経済学の発展も,このような問題意識を出発点としているように思われ る。行動経済学については,たとえば菊澤(2006),250−260ページを参照。
65 組織の経済学に基づく「企業と社会」論構築の試み! −65−
を見誤ったものだったのである。
またこのようなイメージの相違は,企業の「境界」にも関わる。社会が認識 する企業の境界と,企業自身が想定する企業の境界が異なる場合!,企業は社会 的な方向付けを誤る可能性がある。この場合,企業は企業の外部関係と内部関 係を区別し,それらが相互依存的であることを考えなければならないだろう。
つまり,外部から「統一的なアクター」と見なされる企業にとって,組織の内 部関係をデザインする際にそのような外部の企業に対する見方が大きな制約と なるのである(Waldkirch2002
, S.5)
。また新古典派的な「共有されたメンタル・モデル」では,完全合理性に基づ いて,社会の複合性を,つまり将来何が起こるかわからないといったカオス的 問題を完全に処理できると想定されるため,ルールや制度のような社会秩序の 問題は起こりえないのに対し,組織の経済学において「デザインを導くイメー ジ」が考慮される,つまり限定合理性の下では複合性の処理に限界があると想 定されるため,その限界を補うものとして,ルールや制度などが生み出される のである。このルールや制度は,意思決定者によりよい決定を下すことを可能 にするものであり,そのことで他者に行動の期待を与えることができるのであ る
"
。そしてこのことが,「企業と社会」のような社会政策的な問題ときわめて 関連を持っているのである。
Ⅳ 新古典派批判のための6つの原理
「デザインを導くイメージ」に基づく組織の経済学の分析には,たとえばコ ースの限界費用論争における自然独占の規制の問題や社会的費用の問題,灯台 のような公共財の問題などが挙げられる(Vgl. Waldkirch2002
, S.2
4−26;cf.(16) シェルのケースの場合,社会からシェルは子会社も含めて同一の組織,同一の行為主 体と見なされた一方,ドイツ子会社は自身が親会社とは独立の主体と見なしていた
(Waldkirch2002,S.4)。
(17) 制度は,「現在の相互作用問題のみならず,あり得る協調利得を潜在的に取得しない という,すでに今日際だっている,典型的な将来の相互作用問題に対する標準的解決」
(Waldkirch2002,S.69)なのである。
−66− 香川大学経済論叢 66
Coase
1988)。ヴァルトキルヒは,以上のコースの分析からの帰結として,従来の新古典派 経済学が最適な資源配分を望ましい状態としていたのに対し,「経済学は望ま しい社会状態という基準から,社会秩序問題という基準へと置き換えられるべ きである」(
Waldkirch
2002, S.
70)と述べる。つまりここでは,社会秩序の現 状の問題,すなわち,これまで実現されていない協調利得の状況と,その状況 において制度を確立することで協調利得を獲得する可能性に関する問題がレ ファレンス・ポイントとして規定されなければならないというのである。ヴァルトキルヒによれば,先のコースやウイリアムソンの議論の背後には以 下で検討する6つの原理があるという。このうち,
!
の比較制度分析が最も重 要なものであり,他の5つは比較制度分析の原理から導き出される下位原理で ある。これらは,社会秩序の問題を解明する経済学にとってきわめて重要なも のだとされる。!
比較制度分析(komparative Institutionen-Analyse)の原理コースは,新古典派経済学を批判するための方法として比較制度分析を提唱 した
"
。この原理は,社会政策の問題が制度の代替案の選択問題に帰されること を示したものである。新古典派経済学では組織の存在はほとんど想定されてお らず,また国家による市場への介入に関しても否定的な見解が導き出されてい たが,実際の市場システムをみれば,規制や組織,戦略的提携や長期契約な ど,数多くの制度が同時的に投入され,それらを支える形で市場が成り立って いるのであり,経済学は,社会政策の観点からそれら制度を比較することを試 みなければならないのである。
ヴァルトキルヒによれば,「経済学の分析の中で社会制度が所与のものとし て仮定される場合には,そもそも社会政策の経済理論の重要問題が全く提起さ れない」(
Waldkirch
2002, S.
30)のである。このことは,「企業と社会」とい(18) 比較制度分析についてのわかりやすい説明としては,例えば菊澤(2004),4−6ページ を参照。
67 組織の経済学に基づく「企業と社会」論構築の試み! −67−
う社会政策的問題にとってはきわめて問題のある見方であり,「企業と社会」問 題の解決を目指して「現代社会の制度体制を形成するためには,原則的には多 数の機能的に等価な代替案」(Waldkirch2002
, S.3
2)を考えなければならない のである$
。
!
関連する制度的代替案(relevante institutionelle Alternative)の原理 コースは1960年の論文「社会的費用の問題」の中で,「アプローチの変更」というタイトルのもとで,従来の新古典派経済学の分析が「自由放任状態とあ る種の理想世界との比較によって進められる」(Coase1988,邦訳171ページ)
ところに問題があるとしている。「比較される二つの対象の性質がはっきりと していないので,このアプローチでは思索が曖昧になってしまうことは避けよ うがない」(ibid.)ため,望ましい方法として次のように述べている。「まず現 にある状況の近似状況を分析することから開始する。次いで,提案された政策 変更の効果を検討し,続いて,新たな状況が,全体として,当初の状況よりも 良くなったか悪くなったかの判定を試みる。このような方法をとるならば,政 策 上 の 結 論 は,現 実 の 状 況 と 何 ほ ど か は 関 係 を 持 つ も の と な る だ ろ う」
(ibid.)。
つまりこの原理は,制度を比較する際に,あらゆる制度的代替案が考えられ るのではなく,「比較制度分析を重要な代替案に制限することが求められてい る」(Waldkirch2002
, S.3
3)ことを表しているのである。ここで強調されるのは,!関連する代替案が時間的,社会的安定性を示し,
それによって行動期待の調整が相互にメリットのある形で実現すること,つま りインセンティブ適合性を持つこと,
"
現状が重要な制度的代替案となるこ と,#
制度的代替案が現状から出発して達成可能なものに限定されること,で ある(Wadlkirch2002, S.3
5)。(19) またコースは,企業の存在理由が不確実性吸収の際の企業家の比較優位に帰されると いうナイト(F. Knight)の主張を,比較制度分析がなされていない点で批判している。
Coase(1988),邦訳51−55ページ。
−68− 香川大学経済論叢 68
つまり,従来の新古典派経済学では理想的な代替案が規範的基準として比較 の対象に加えられてきたのに対し,ここでは,現状の制度を出発点として,そ こから社会的政策措置によって到達できるような制度的代替案を選択しなけれ ばならないと考えられているのである(Waldkirch2002
, S.3
4)。!
相互作用論理的インセンティブ分析(interaktionslogische Anreizana- lyse)の原理これは,コースが先の論文「社会的費用の問題」の中の「問題の相互的性質」
という節において論じたものである(cf. Coase1988,邦訳112−113ページ)。 従来の新古典派経済学では,社会的に不利益をもたらす現象について,「外部 効果」の名の下に「内部化」しようとする,すなわち害を引き起こした人に社 会的費用を負担させるという議論が展開されてきた。そしてそれに対する国家 による介入が正当化されてきたのである。
しかしコースはこのような議論が一面的であると批判する。たとえば負の外 部性を抑制すべく,当事者の一方が損害を与えることを抑制されたら,そのこ とによってその当事者は影響を受けるのである。つまり「社会問題は原則的に あらゆる関係者に共通の問題」(Waldkirch2002
, S.3
6)であり,つねに相互作 用的で互恵的なのである。"
改革の制度的コスト(institutionelle Kosten von Reformen)の原理これは,コースが論文「社会的費用の問題」の第8節と第9節で,ピグー(A.
C. Pigou)の『厚生経済学』における鉄道会社の噴煙被害補償を例とした,社
会的純生産物と私的純生産物との乖離問題を批判した部分に関わる。コース は,このような問題を論じる際に,列車の追加運行や防煙装置の装備が望まし いかどうかということが問題ではなく,鉄道会社に保証させる制度が望ましい のか,責任を免除する制度が望ましいのかを選択するという比較制度分析が重 要であり,私的生産物と社会的生産物との比較ではなく,「それぞれの制度の もとで生み出される社会的総生産物を比較秤量すること」(Coase1988,邦訳 69 組織の経済学に基づく「企業と社会」論構築の試み! −69−157−158ページ)が重要だと述べている。
つまり,新古典派の分析がある特定のコストのみに注目し,別のコストには 注目していないことは問題があるということである。制度の改革には多数の行 為者が関わるのであり,特定の行為におけるメリットは,他の行為におけるデ メリットと相対しているため,「追加的な」関連するコストを考慮しなければ ならないことになる(Waldkirch2002
, S.4
0)。言い換えれば,社会政策的な推 奨を導き出す際には,関連するあらゆる制度的コストを考慮すべきだというこ とである。!
社会的埋め込み(gesellschaftliche Einbettung)の原理この原理は,取引がつねに,それが属する制度的コンテクストに関連して組 織(統治)されているという社会的事情を考慮することを求めるものである。
たとえば新古典派経済学では,契約の係争に関する有効な法規定があらかじ め存在すると仮定され,裁判所によってコストなしで解決されると仮定されて いるが,これは結果的に孤立した二人きりの取引を想定しており,社会的な文 脈を無視した形となっている(Waldkirch2002
, S.4
3−45)。つまり新古典派の 分析では,特定の制度や,相互作用やそのガバナンスに関する特定の定義が最 初から存在するものと前提されており,問題のないものとして見なされてし まっているのである。「社会的埋め込みの原理」は,上記の新古典派的な見方を批判し,取引や契 約における社会的文脈の影響を考慮することで,経済学が社会政策的問題に対 応できるようにするものである。
この原理が表れている例として,たとえば「特殊投資」の議論がある。新古 典派の完全市場の想定では,市場が行為者の相互作用に必要な調整をすべて実 現すると仮定されていたが,例えば特殊投資を行うような状況では,市場のみ では取引の成立に必要な条件が満たされず,追加的制度として組織が設立され ることで,当事者同士のインセンティブがうまく合う形で取引が実施されるの である。またウイリアムソンの「雰囲気(
Atmosphere
)」の概念(cf. Williamson
−70− 香川大学経済論叢 70
1975,邦訳61−64ページ)も,人間のコスト・ベネフィットの計算が社会的文 脈を離れて計算できるものではないことを表している。
ヴァルトキルヒはさらに,「社会的埋め込みの原理」において重要な概念と して「ルールの階層(Regelhierarchie)」に注目する。これは,ルールや規則,
規制などが社会において幾重にも重なって存在しており,それが社会のガバナ ンスを果たしていることを表した概念である
"
。
ヴァルトキルヒによれば,社会の中でルールの階層が形成されていること は,「契約がもつ体系的な未確定性(systematische
Offenheit)に対する合理的
な対応の結果」(Waldkirch2002, S.4
8)として理解できるという。このコンセ プトは,従来のオーソドックスな取引コスト理論において論じられていたよう な,制度的代替案を制度の代替関係と見なす見方を修正し,諸制度の関係を「相互の上昇能力(wechselseitige
Steigerungsfähigkeit)
」という関係で置き換え ることを可能にする(Ebenda
)。それはたとえば,近年の市場と組織の間の「中 間的な形態」,例えば戦略的提携やネットワーク組織の発展に表れているとい う。従来のコースやウイリアムソンの取引コスト理論では,市場か組織か(ある いはその中間的形態か)という形で,より取引コストの低いガバナンス構造を 選択するという提言がなされていた。つまりそこでは,社会政策の問題は「社 会的総生産物」,あるいは「取引コスト」という,あらかじめ設定された社会 目標に関する合理的な手段の選択問題に帰されるとされていたのである。
しかしここで制度が相互的な上昇能力の関係にあると見なすのは,社会政策 の問題において「問うべきなのはむしろ,ルール階層の相異なるレベルで市場 と組織が細かな調整によって同時的に投入されることで,参加者が,搾取され るかもしれないという懸念から投資レベルを実現値以下に下げないようするた めには,どのように相互作用を方向付けうるのか」(Waldkirch2002
, S.5
0)」(20) 別の例としては,たとえば人々は,裁判のプロセスがあまりにもコストや時間のかか るものと見なす時には,それを最後の手段として取っておき,「私的な調整(private
ordering)」によって取引をガバナンスしようとするかもしれない(Waldkirch2002,S.45
f.)。
71 組織の経済学に基づく「企業と社会」論構築の試み! −71−
ということなのである。
例えば近年盛んに議論されている戦略的提携などの中間組織は,市場と組織 の働きをさらに高めるものなのであり,制度やルールを代替的に見るのではな く,相互に補強し合うものとして見なければならないのである
!
。
またルール階層のコンセプトは,現代社会のルールや制度がすべて合法的な わけではなく,部分的に非合法的であることを容認する(Waldkirch2002
, S.5
1f.)
。つまり,ルールはひとつの全体として,それが正しいものとして存在し ているのではなく,幾重にも折り重なった制度のうち,不的確なものは少しず つ修正,改革していくという「漸次的社会工学」(cf. Popper1957)に沿うもの なのである。!
開かれた将来(offene Zukunft)の原理これは,社会が終わりなき進化のプロセスであるという事実から導き出され るものである。ここでは,進化プロセスに適応するための社会的な「学習能力」
あるいは「適応能力」が重要となる
"
。
こ の 原 理 は,目 的−手 段 図 式 に 基 づ く「孤 立 的 な 将 来(abgeschlossene
Zukunft)
」の原理とは厳密に区別される(Vgl. Waldkirch2002, S.5
6)。「孤立的な将来」では,あらかじめ目的を設定することで将来の特定の社会 状態が固定化され,問題ありとされる事前の局面と,問題なしとされる事後の 局面に区分される。このような分析上の区別のもとでは,契約は「一度限りの
(21) 例えば生産投資を制度的に防護することによってさらなる協調利得を実現するために よりよい制度的代替案を選択するというケースを考えると,このケースでルールの階層 というコンセプトが指摘するのは,この問題がたとえば市場か組織かといった「あれか これか」という形ではなく,社会的ガバナンスの様々なレベルで様々なガバナンス形態 を同時に投入することによって,どのように取引をより適切に調整できるのかという問 題として生じるということである(Vgl. Waldkirch2002,S.50)。
(22) ヴァルトキルヒは,ウイリアムソンがこの適応能力に注目したのは,ハイエクとバー ナード(C. I. Barnard)の影響だと述べている(Vgl. Waldkirch2002,S.55)。ハイエクは,
市場が中央集権の計画経済よりもより適応問題を解決できると見なし,バーナードは組 織の生存能力という問題を,組織の環境変化への適応の問題と見なしたのである。ヴァ ルトキルヒによれば,ウイリアムソンは両者の中間的な立場に立つという。
−72− 香川大学経済論叢 72
契約(once-for-all contract)」の問題とされ,相互行為にまつわるあらゆる問題 は事前の交渉においてすでに解決しており,契約の締結時には相互行為の困難 は生じないとされてしまう。
また,新古典派の分析のように望ましい社会状態という目標が最初に立てら れると,制度の機能は,望ましい社会状態に到達できるよう,あらゆる行為余 地を閉め出すことにあると見な さ れ て し ま う の で あ る(Waldkirch2002
, S.
57)。
その背景には「完備契約(vollständiger
Vertrag)
」という考え方があるだろ う。完備契約では,契約の文書化の際に,重要な将来の出来事がすべて先取り されており,第三者の協力が排除される形で契約が締結されると想定されてい る。ウイリアムソンによれば,このような考え方は,構想の上で連続的な交渉と いう事実が考慮されておらず,将来が未確定であるという事実に逆らうが故に 問題のあるものである。ウイリアムソンによれば,これらは時間次元,すなわ ち時間の変化を考慮していないのである
"
。むしろここでは,時点に関する
(zeitpunktbezogen)パースペクティブから,時空間に関連する(zeitraumbezogen)
パースペクティブへの問題移動が必要なのである(Waldkirch2002
, S.5
5)。 ヴァルトキルヒによれば,このような問題意識は,特にウイリアムソンの取 引コスト理論において中心的に論じられている「ホールド・アップ」問題にも 現れているという。彼によれば,ホールド・アップ問題の議論では,連続的な 交渉の考え方が不十分にしか反映されていないのである。ウイリアムソンの議論は,少数間取引による特殊投資がもたらす,一方の当 事者から他方の当事者への搾取可能性と,それに基づく投資インセンティブの 変化に主眼があると考えられがちだが,ヴァルトキルヒによれば,むしろウイ リアムソンはそれに加えて,特殊投資によって引き起こされる拘束(Bindung)
と,そこから生じる,少数者主体間の取引状況で環境変化に対して後続的に適
(23) ヴァルトキルヒによれば,この批判はエージェンシー理論(プリンシパル―エージェ ント理論)にも向けられる。Waldkirch(2002),S.58を参照。
73 組織の経済学に基づく「企業と社会」論構築の試み! −73−
応するためのインセンティブ問題に重きを置いているという(Waldkirch2002
, S.6
2)。つまりウイリアムソンは,時間的に見れば,特殊投資をする時点と搾 取(非搾取)の時点の間の時空間ではなく,特殊投資とその後に続く適応プロ セスに関心を向けているのである(Ebenda, S.63)。ここでのウイリアムソンの意図は,「連続的な交渉」という考え方を経済学 に取り入れることである。この目的を果たすために,彼は契約締結の事前局面 と事後局面を区別し,従来の経済学が持つ欠点を指摘するために,後者の事後 局面を強調する。従来のホールド・アップ問題に関する議論では,後者の事後 局面があまり考慮されていなかったのである。これにより,たとえば事後交渉 は単に特殊投資をする側の搾取と見なされるのではなく,相互の適応に向けた プロセスが相互のメリットをもたらしうるとも見なされるのである!。
このように連続的な交渉における適応プロセスを考慮に入れると,事後交渉 のコスト,たとえば適応の遅れや,不履行のコストなども考慮に入れなければ ならなくなる。このことからヴァルトキルヒは,ウイリアムソンの取引コスト 経済学の基本問題を「投資を実現し,制度的に支持された期待の確実性と,制 度的に規制された適応能力との間の弁証法」(Waldkirch2002
, S.6
4)と見なし ている。このような時間的次元を考慮に入れた概念が,現在組織の経済学において盛 んに議論されている「不完備契約」の理論である(cf. Hart1995)。「不完備契 約」の理論は,とりわけ時間経過におけるインセンティブの変化を考慮するも のなのである
"
。
(24) ヴァルトキルヒは,GMによるフィッシャー・ボディー社の買収の事例に関するコー スの見方,つまり組織の経済理論を公式化する上での特殊投資の意義が過大評価されて おり,買収が間違って評価されているという見方(cf. Coase2000)を批判している。ヴァ ルトキルヒによれば,コースの見方は「開かれた将来」の原理を考慮していないが故に このような見解に至ったのだという(Vgl. Waldkirch2002,S.65ff.)。つまり,契約期間 の途中で急激な環境変化,すなわち需要の急激な上昇があったのであり,このような将 来の予見不可能性を考慮していなかったということである。しかし,この事例について は清水/堀内(2003,288−292ページ)においても紹介されているが,彼らはコースの 解釈に賛同している。
−74− 香川大学経済論叢 74
以上のように,ヴァルトキルヒは組織の経済学の中でも,コースやウイリア ムソンによって展開された取引コスト理論の主張を中心として,「企業と社会」
問題にとって重要な組織の経済学の基本原理を明らかにしている。その基本原 理は,名称こそ目新しいかもしれないが,これまで広く理解されてきた組織の 経済学の考え方から大きく外れたものではないだろう。
しかし,「はじめに」で述べたとおり,ヴァルトキルヒは組織の経済学に全 面的に賛同して議論を展開するわけではない。彼は,いくつかの点でウイリア ムソンの議論を批判的に検討しているが",特にウイリアムソンの議論において 行為論的な影響が見られ る 点 を 問 題 に し て い る(Vgl. Waldkirch2002
, S.8
2ff.)
。行為論的アプローチとは,ここでは組織や企業があたかも一人の大きな個人 として活動すると想定するアプローチである。たとえば組織論における行為論 的アプローチとは,目的―手段図式の形で展開されているような還元主義的ア プローチだといえる。
ヴァルトキルヒによれば,ウイリアムソンの議論では強力な社会的アクター という行為論的な幻想の虚構が仮定されており,社会における相互作用の帰結 が,最終的にはアクターの利害関心や人間の行動仮定に帰されてしまう点で非 常に問題があるという(Ebenda, S.83)。
これは,社会問題が原則的にあらゆる人々に共通の問題であるという,先の 相互作用論理分析の原理に矛盾するだろう。そこでは,あらゆる関係者の協力
(25) クライン(B. Klein)はこの概念を「開かれた契約(offener Vertrag)」と呼んでいる(cf.
Klein1988)。「開かれた契約」とは,「所与のレピュテーション資本の状態が,相互利益
に対する予期せぬ偶発性を扱うには十分でないような状況においても,契約の取り決め を自ら守るという互いのパートナーの能力を強めることに役立つ」(Waldkirch2002,S.
67)ものである。またクラインは,組織は長期的な市場契約とは違い,契約上では詳細 に述べられない組織体制の残余(das vertraglich unspezifizierte Residual der Organisations- verfassung)がかなり大きいため,市場に比べ適応の優位ないし柔軟性の優位を持ってい ると見なしている。組織は,文書で書かれた,法的に履行可能な契約の詳細な記述を取 引デザインの際に必要としないので,契約によって導き出されるホールド・アップの可 能性が少なくなるのである。つまり,「相互作用に特殊な投資の規模とともに増大する,
不完全な長期契約期間の法定の履行と関連づけられた硬直性コストを回避すること」に 組織のメリットがあるといえる(cf. Klein2000)。
75 組織の経済学に基づく「企業と社会」論構築の試み! −75−