北村透谷『井上博士と基督教徒』論 : メソジスト 的「ポジチープの道徳」に対する「学者」擁護論の 展開
著者 尾西 康充
雑誌名 三重大学日本語学文学
巻 9
ページ 59‑76
発行年 1998‑06‑28
URL http://hdl.handle.net/10076/6529
北村透谷『井上博士と基督教徒』論 1メソジスト的「ポジチープの道徳」に対する「学者」擁護論の展開‑
尾西
康充
「吾人の必らず記すべきことは、吾人は理想の中に清くる者に非ず、実地の世界に立つものなるこ七なり。所謂、改侮、救
趣、信仰後括の如きは総て想考的のものに非ずして、経験的のものたることなり。」 (山路愛山【信仰個燦なかるべからず二
序
一八九一(明治二四)年一月九日、東京第〓向等中学校の
講堂で、教員の内村鑑三が教育勅語に記された明治天皇の
「御島署」への「奉拝」を十分にはおこなわなかったと批判 されたことから、いわゆる「内村琴二不敬事件」が生じた。
そのような内村の行為の可否だけではなく、「基督教とは実
に日本に於ける猛劇なる破壊党なり」 (「天則」、同年三月
十七日)とキリスト教の存在そのものを非難しようとする強
硬なものまでがあらわれ、わずか二カ月のあいだに、五六種 類の紙誌にのべ一四三件以上もの記事が掲載された(一)。広範 な領域にわたった論者のなかでも、とりわけ浄土真宗をはじ めとする仏教系の機関誌が強い言辞で批判を展開したのは、 すでに排耶書の大量普及・結社活動・仏教講談会などの戦術 を用いて、本格的なキリスト教排撃の運動を繰り広げてきて いたためでもあった…;
やがて内村に対するバッシングは収まりかけたように見え
たのだが、なお社会の底流において棍強く存在した排耶論の
風潮を受けて、「耶蘇教を日本の国性に同化」させるべく、
その「無国家的」・「出世間的」な性質を改変することの必
要性を説いたのが井上哲次郎であった。その主張はまず言ボ
‑59‑
教と教育の関係に就て井上哲次郎の談話』 (「教育時論」第
二七二号、九二〔明治二五〕年十一月)において表明される。
雑誌発行元の開発社記者による談話取材という形をとったそ
のコラムのなかで、あえて記者が読者に注意を呼びかけてい
るのは、井上の所論がキリスト教を完膚なきまでに排撃しよ
うとする「Fanaticな感情」とは切り離された、あくまでも自
己の視点を冷静に東京帝国大学哲学科教授という「学者」の
立場において述べられたものであるという点であった。
博士は決して今の世の教育家などか、俄に騒ぎ立ちて、
耶蘇故国害論を唱へ、人心を煽動する者流とは皇然別に
して、.棲めて冷淡の心を以て、研究する者にて、Fana†
・icな流儀にあらざるやうに見受けらる〜ことは、玄に一
言し置かざるへからず。
当時、文学博士井上は芳川顕正文部大臣の付託により教育
勅語の注解書『勅語術義』を刊行するなど、いわば文字通り
の「御用学者」であった。そのため井上の発言の影響は当然
のように大きく、ただちに本多庸一・横井時雄らキリスト教
徒からの反論を招いた。すると再び井上は筆を執って『教育
と宗教の衝突』 (「教育時論」第二七九〜二八一号、九三 〔明治二大〕年一月十五日〜二月二五日)を発表し、あらた めて内村の「不敬事件」を取りあげて、彼を「固より取るに 足らさるの無腸漠」にすぎないと決めつけ、「耶蘇教の非愛 国主義」に対する駁論を徹底的におこなった。さらに井上は 弁明のための論説三篇と「横井時雄氏の報道」という記事と を付して補筆修正したものを『教育と宗教の衝突』 (同年四
月十日、敬業社)として刊行した。そのような井上の著述に
前後して、多くの論者によって応酬された議論は「教育と宗
教の衝突事件」として社会的にクローズアップされ、その経
緯は閑皐作編三井上博士と基督教徒一名「教育と衝突」顛
末及評論』 (正・続・収結篇、同年五・七・十月、哲学書院)
に整理されて、論争の全貌が容易に瞥見できるまでになって
いた。
ところが、キリスト教徒からなされた井上への反論は、彼
に真っ向から論破を挑んだ大西祝・植村正久・柏木義円など
の少数の例を除けば、それぞれ論点が微妙に異なりながらも
「キリストの愛国の志想」三〉は決して忠孝を否定するもので
はない、あるいはまた自分たちがこれから拡張すべきと考え
ているのは国家的見地に忠実な「生気活発なる精神的日本的
の基督教」垂であるとするなど、まさに国家主義に調和する
「逢迎主義」芸〉(高山樗牛)の要素を卒んでいたものが大勢
を占めていたのであった。ただ大西・植村・柏木等にしても、
教育勅語を権威付けているイデオロギー体制そのものへの根
本的な懐疑は持たず、むしろ「愛国」や「忠孝」について抱
かれたナイーヴともいえるほどの信頼感は、「井上に対する
反駁の論理を越えた心情」〈六)として共通していたものであっ
た。
この事件の全体を総括して、熊野義孝氏は「当事者らが思
想的未熟と視野の狭陰によって戸惑いした」ことが推察され
るだけで、何ら「特記すべき」成果をあげられなかったとす
るが(七〉、ここで取りあげて考察したいのは北村透谷の『井上
博士とキリスト教徒』 (「平和」第十二号、九三〔明治二六〕
年五月三日)という論文である。そのなかで透谷は、つぎの
ように論争の経緯を紹介している。
教育と宗教の撞突一篇世に出で〜宗教界は忽ち雲雷を駆
り来り平素沈着をもて聞えたる人々までもロを棲めて博
士を論難するを見る。日頃ポジチープの道徳を以て世に
立てる愛山、蔽日二子の外に、学者の名高き高橋五郎は
民友社に於て、内村、植村、其外済々たる名士は各自便
宜の雑誌に於て井上博士に加へたり。博士も亦多幸なる
人かな、其の一文は遂に天下の輿論を惹起するに至れる
この説明は、当時の争論の状況を簡潔に整理できていると
也。いえよう。ただ「博士も亦多幸なる人かな」という透谷の言
葉には、猛烈な反論を招きながらも「天下の輿論」を喚起さ
せることのできた井上に対する、透谷の複雑な感情があらわ
されているのである。
しかしその一方で、民友社の高橋五郎が井上を「曲学阿世
の徒輩」 〓偽哲学者の大僻論』、「国民之友」第八五号、
九三〔明治二六〕年三月二∧日)であると攻撃したことに関
して、透谷は「彼れ果して曲学着流の筆を弄せしか」といい、
むしろ「井上博士の哀情」を察せざるを得ないとする。「多
年の究学」を積み重ねてきた井上が「学者」の立場から発言
したものには、決して敬意を失ってはならないと擁護するの
である。
‑61‑
麦に至りて却て憶ふ、天下学者を礼せざるの甚しきを、
而して学者も亦た自らを重んぜざること宏に至るを思ふ
て嘆息なき能はず、
これでは、開発社記者の報道が井上の「学者」としてのオ
‑ソリティを巧みに利用していたことに、透谷がすっかり乗
せられてしまっていたかのようにも読める。なぜ一見このよ
うに同調とも受けとられる見解を示したの.だろうか。その理
由を考えるうえで重要なカギになると考えられるのは、透谷
は当時、山路愛山との人生相渉論争の渦中に投じられていた
ことである。そのなかで文学作品を創造する営みが「空の空
なる事業」であると強く訴えていたことを視野に入れれば、
『井上博士とキリスト教徒」でも、「萄くも人生に梓補する
ところあらんとせば(学者として)我が所説が当世に容れら
る〜と否とを顧みざれ」と述べていたことの意味が、ほぼ同
じ論理のコンテクストを当てはめる作業を通じて、おそらく
明らかにされるであろう。
そこでさきの引用に戻って、そのなかで透谷が「日頃ポジ
チープの道徳を以て世に立てる愛山、蔽日二子」という表現
を用いて言及していたことに着目し、愛山と蔽日が「教育と
宗教の衝突事件」に際し、どのような発言をおこなっていた
のか、またそこで彼らが信奉していたとされる「ポジチープ
の道徳」とは何であったのか、あらためてそれらを検証する
ことで、井上に対する論駁の場から一線を画して「学者」擁
護論ともいえる主張を展開した透谷の意図を明らかにしたい。 「教育と宗教の衝突事件」における愛山の発言は、つぎの
三つの論説記事に見られる。ちなみに彼がメソヂスト三派合
同の雑誌「護教」の創刊時に、その主筆として任じられたの
は九一(明治二田)年七月のことであり、またその後、民友
社には九二(明治二五)年八月に入社して、「国民新聞」紙
上で本格的に筆を揮うようになっていた。
「田口卯書君と共著述」
(『詩人論』所収、
三月十二・二六日)
『高橋五郎君に与ふ』 弄上覧扉に与ふ』
日)
」
「福沢静香君及び共著述」
「国民新聞」、九三〔明治二大〕年
(「国民新聞」、同年四月十一日)
(「護教」第九三号、同年四月十五
愛山はこれらの論説記事を通して、井上が他の知識人たち
にくらべ広く海外の語学や知識に通暁していたがゆえに見せ
た不遜な態度を強く諌めていた。その典型的な一例として、
「博学畢寛拝むべき者なりや否や」という疑問を投げかけた、
つぎのような「学者」批判があげられる。
天下の人、指を学者に屈すれば必らず井上哲次郎君を称
し、必らず高橋五郎君を称す、吾人は幸にして国民之友
紙上に於て二君の論争を拝見するを得たり、井上君拉旬
語、伊太利亜語、以斯班牙語を引証せらるれば高橋君一
々其出処を論ぜらる、無学の拙者共には御両君の博学あ りくと見へて何とも申上様なし。去りながら博学畢寛
拝むべき者なりや否や。若しもシエーキスビアを読まず
んば戯曲の消息を解すべからずとせばシエーキスビアは
何を読んでシューキスビアたりしや。若しも外国語に通
ぜずんば大文最たる能はずんば、未だ外交の開lナざる国
に生まれたる文家は三文の価値なき者なりや否や。二君
の博学は感服の至りなれども博学だけにては余り難有く
もなし、勿論こはくもなし。然るに奇なをかな世人は此
博学の人々を学者なりとてエラク思ひ、学問は二の町な
れど智慧才覚ある者を才子と称して賞賛の中に腔す。定
量衣装を拝んで人品を忘るゝ者に那ずや。
(「福沢諭吉君及び共著述」) 外国語に通じて得た知識が学識のすペてであるとするかの ような、社会の弊風に対して愛山が語気を荒げ、それができ なければ「大文豪」になれないのか、もしそうなら「未だ外 交の開けざる国」に生まれた「文家」はみな「三文の価値な き者」であるというのかと問う。そのうえで「博学だけにて は余り難有くもなし、勿論こはくもなし」と断言し、現在の 学者がおよそ浅薄で、傾聴すべき意見を持つものが少数なの は、彼らの知識が決して「自得する所なく、中より発」した ものではないからだとする。本当の学問とは何なのか、それ は何よりもまず「中より発」した動機に従って始められるべ きものではないのか。実のところ愛山はそのような極めて根 本的な問題提起をおこなっていたのであり、机上の空論をた だ積み重ねるような学究生活を送るのではなく、ひたすら 「事実の中に清くる」姿勢に徹することが「時世を敦へ、時 勢を解する」という「古今文学上の英傑に欠くべからざる一 特質」につながる重要な意義を持つと説くのである。
また『井上哲二郎に与ふ』でも、冒頭からこれと同じ趣旨
の批判が展開されている。
63
博士たる足下の栄誉に対しても予は敬意を以て足下を見
んと欲せり、然れども足下の議論の余りに浅薄にして、
余りに独断なるが為めに予は足下を慢るの心を生せり、
予は実に之を悲しむ、予は足下の学者なるを信ぜんと欲
す、然れども教育と宗教との衝突を書きたる井上哲二郎
氏は無学無識普通の智識をも有せざる者なるが如く見ゆ、
予が実に之を悲しむ、
愛山は歯に衣を着せぬ言い方で、「博士」たる井上があま
りにも「浅薄」かつ「独断」な議論しかなさないため、まる
で「無学無識普通の智識をも有せざる者」のようにしか見え
ないとする。このような痛罵の背景には、そもそも旧幕府直
参の「落映せる士族」{∧〉の子弟であった愛山が正規の学校数
育としては、私立小学校の壌頭学校で学んだはか、わずかな
期間しか静岡美学校や東洋英和学校に在籍しなかったという
恵まれない境遇におかれていたことが考えられる。しかし、
そのことが結果的に愛山自身の「思想の兢制原理である『独
立』と『抵抗』の精神の原型」(九) (岡利郎氏)を形成する強
い原動力となっていたのである。それゆえ、井上の「下界の
無学者を笑ひ給ふが如き」 (「田口卯書君と共著述」)態度
に対して嫌悪を感じたのは、至極当然のなりゆきであったと
いえよう0 ではつぎに愛山とならんで取りあげられていた蔽日の所説
を検討する。蔽日という筆名は高木信威(伊作、一八七二
〔明治五〕〜一九三五〔昭和十〕年)のものだが、これまで
彼は研究史において登場することの極めて少なかった文筆家
である王。愛山と同郷の静岡出身の高木は、「護教」創刊時
には主筆愛山を助ける働きをしており、また愛山の推薦によ
り九三(明治二五)年三月に民友社に入社している。早い時
期からその実力が買われ、民友社が.「当時の文界に向て、革
新の祖鞭を著」(十=るべく刊行を試みた「十二文豪」シリー
ズの『ゲーテ』 (第五巻、九三〔明治二六〕年十一月)の執
筆者に選ばれるなどの活躍を見せている。当時、『ゲーテ』
の書評として、「文学界」第十二号(同年十二月三十日)誌
上では、高木の筆力が高く評価され、「氏が八而是限の才筆
を以て八面是限の社風に倣ふて而かも此八面是限の文豪を紹
介することまことに不可なるべき筈なし」至)という賛辞が
送られている至二)。
「教育と宗教の衝突事件」における高木の発言は、『文学
博士井上哲次郎氏』 (「国民新聞」第九六四号、九三〔明治
二六〕年三月十九日)・『再び井上哲次郎氏』 (同紙第九八
二号、同年四月二三日)に見られる。彼もまた井上を「俗学
欺世の学者」と決めつけ、その「無責任の言論」や「卑屈な
る振舞」について激しい口吻で非難する。
吾人は寧ろ社会の寛大なるに驚く。抑圧暴戻の政治家が
決して寛恕すべき者にあらざることを承知しながら、俗
学欺世の学者に対して、敢て大に寛仮する所あらんとす
る、社会の良心は死したるか、真に痛痔を感ぜるか、吾
人甚だ之を怪しむ、吾人甚だ之を悲む。
高木は皮肉を込めて、井上が「文学博士」としての「名声」
を博したがゆえに、あらゆる言動に「社会の寛大」な態度が
もたらされている状況に驚きを感じざるを得ないという。も
う「社会の良心」は死んでしまったのかとまで述べ、そのう
えで「俗学欺世の学者」の「無責任の言論」や「卑屈なる振
舞」は決して見逃すことのできない重大な社会問題であると
する。そしてさらに高木は、つぎのように述べる。
吾人は何の名声をも有せず、又た何の地位をも欲せず、
随つて此等を得んことを願はず、又之に対して何とも思
はず、故に吾人は好んで此の不快なる攻撃者の地位に立
ち得し也。是れ敢へて真理は人に依りて曲ぐべきものに
あらず、社会は俗学者に依って欺むかるペきものにあら ざることを明にし、以て幾分なりとも人生に益する所あ らんを靡へば也。 高木は自分が何ら一切の「名声」や「地位」を欲しないか らこそ、井上に対する「不快なる攻撃者の地位」に立つこと ができたという。ただ人間の慈意によって「真理」が曲げら れてはいけないことや、社会の良識は「俗学者」に欺かれる ようなものではないことなどを明らかにして、いかほどかの
「人生に益する所あらん」と願うだけであると結論する。
このように愛山と蔽日の所説を検討してきたが、両者の共
通性として、井上におけるエリート「学者」ゆえの倣侵さを
批判するモチーフがあったといえよう。その意味からも、論
争の相手を弾劾する言葉こそ違え、同じ民友社に所属した高
橋五郎の『偽哲学者の大僻論』を含めて、それらは基本的に
は論調を均しくするものであったのである。さらには作家が
「事実の中に清くる」ことに徹する意識を通じて、文学が有
益な「事業」となるべきだという愛山と、ジャーナリズムに
おいて社会の良識を弁護するための議論が何よりも必要だと
いう高木の論点は、透谷により「日頃ポジチープの道徳を以
て世に立て葛愛山、蔽日二子」という言葉で表現された「事
業を重んずるの精神」が鮮明にあらわされたものであったと
‑65‑
見なせるであろう。そこで再度、その「ポジチープの道徳」
という概念に着目することを通して、あらためて透谷の批評
の位相を検証したい。
二
『哲学字彙』
〈毒
(井上哲次郎・和田垣謙三他編、八一
〔明治十四〕年四月、東京大学三学部印行)によれば、「ポ
ジチープ」 (POSiti扁)とは「説正、正面」、また「ポジチ
ビズム」 (POSiti三s日)とは「実験理学」であると説明され
ている。すなわちそれらは今日、「実証主義」と呼ばれる概
念と符合するような言葉であって、経験における事実(fact)
の背後に擬制的(fictiOnaこな存在者や抽象的な実体を全く
仮定せず、現象を現象自体によって説明することで現象間の
法則を見いだそうという思惟方法を意味するものである。
西周は早く『人生三宝説』〈董 (「明六雑誌」第三八号、
七五〔明治∧〕年六月)のなかで、西洋哲学史のうえに「ポ
ジチビズム」を位置づけ、それをコントの厳密な実証主義か らベンサム‥、「ルの功利主義(ut≡tarianis已への思想的系 譜に照応させながら説明している。
然トモカノ彩郵緊〔仏ノ妙恋数琳卦〕起リテヨリ頗ル
世間ノ耳目ヲ一新シタリト見工誇大家ノ説モ漸ク実理二
猷ツキタルコト多キカ中ニカノ敷乳鉢ノ利学ノ道徳論
〔是亦希腺ノ註乱酔ノ学派ナリト見ユ〕ヲ
絆蓋氏ノ拡張㌢フレタルハ近時道徳論上ノ
一大変革ナリト見ユ
(一)
ベンサム・ミルの十九世紀√ギリス功利主義は、懐疑論・
不可知論などの神学的思考(negatiくis日)と扶を分かち、コ
ントにはじまる実証科学の合理主義の方法に影響されながら、
l三1トンの自然哲学およびヒユームの人間学の成果を跨ま
えて形成された近代ブルジョアジーの市民社会理論であった。
人間による行為の真価は、その動機ではなく帰結から、すな
わち主観的快=効用の尺度から測られるペきもので、個人の
快を集計した社会全体の幸福を最大化する「最大多数の最大
幸福」の追求を自らの社会改革の原理にすえる。実際、それ
は具体的には選挙法・救貧法の改正や穀物条例の廃止など、
十九世紀のイギリスにおける社会改革の運動理念となったの
である。そのようなイギリスの功利主義に強い影響を受けた
西は『人生三宝説』のなかで、人間の社会生活における
「一般福祉」を最大の眼目とした「健康」・「知識」・
「官有」という「三宝」の効用を説いたのである。
しかし透谷は西が信奉するような「ポジチビズム」の効用
に対しては、つねに懐疑的な態度を示している。
欧州のポジチープの思想は、欧州の休息なき心性の棄物
にして、英独仏等近世の欧州国は、何れも此の種の心性
によりて成り立たぎるなし。
(『エマルソン』、九四〔明治二七〕年四月、民友社)
「ポジチビズム」が西欧の「休息なき心性の禁物」である
とする批判は、「活動世界の事業を以て、人間の功壊を度刺
せんとするの弊」 (『文界時事』 〔三〕、「評論」第四号、
九三〔明治二六〕年五月二十日)などの表現を通じて、繰り
返しおこなわれている。これらは愛山との人生相渉論争のな
かで発言されたものであるというコンテクストを当てはめる
ことで適切に理解されるものであろう。そのなかでも決定的
なものは、やはり人生相渉論争のなかで記された『内部生命
論』
(「文学界」第五号、同年五月三一日)の「先覚者は知
らず、未派のポジチビズムに於て、文学をポジチープの事業
とするの余りに、清教徒の誤謬を繰返さんとするに至らんこ
とを恐る〜なり」という言葉である。文学を「ポジチープの
事業」と見なすことの適否が論争の核心であったことは、あ
らためて確認するまでもない。この時期の透谷がマシュー・
アーノルド(夢tth①考ArnO‑P‑∞N?ト00誌)の評論のロジック
を援用しながら自らの批評文体を構築していたことは、すで
に佐藤善也氏の周到な論考があるのだが責〉、アーノルドが
その主著『教養と無秩序』 (CULTUREANDA声RCHゴー巴望の
なかで、イギリス清教徒・新教的非国教徒にあった偏狭さ、
すなわち自己の教会紀律の正当性に拘泥するあまり、人間の
精神を十全に発達させるペき努めを全く忘失してしまった態
度に筆誅を加えていたことに通じるモチーフが見いだせるで
あろう。
このように透谷の「ポジチビズム」に対する批判の論脈を
整理したうえで、つぎの評言に着目してみたい。
山路愛山 愛山生の名は近頃尤も多く世に知られた
り。彼はクリードに於てメソデストなると共に文学に於
てもメソヂストを去るを好まざるが如し。其の評論は往
67
々にして甚だ専断に失することなきにあらざるも、着眼
非凡にして、紙背常に声あるが如きを覚ゆ。「護教」は
彼が基督教を代表するものにして、始めより実際的道徳
を重んじ、主戦的観念を退け、平坦なる倫理を布かんこ
とを希望するに似たり。吾人は彼が純乎たる英国流の思
想家なるを認む、我邦の如く古へより形而上想に縦なる
土地にありて、彼の如く実際的道徳を唱道するは時勢の
上より大なる必要あるを知るべし。吾人は彼が益々此主
義の上に立ちて雄視せんことを欲するものなり、唯だ彼
に惜むべきは余りにメソヂストに涜れて、個人的生命を
存外軽視するの傾あることなり。
(
『今日の基督敏文学』、「聖書之友雑誌」第六四号、
九三〔明治二六〕年四月十五日)
江湖の好評を博した愛山の活躍に触れつつ、「クリード」
(信仰箇条)のみならず「文学」においてもメソジストを信
条とした愛山が「我邦の如く古へより形而上想に縦なる土地」
に居ながらも、「実践道徳」を唱道するのは「時勢の上」よ
り「大なる必要」のあることなのだという。しかしながら、
彼が「実際的道徳」の普及を重視するあまり、本来、意を尽
くすべき「個人的生命」の表現を軽視してしまっていた傾向 が取りあげられている。彼が主筆であった「護教」は{十七}、 その創刊号の巻頭に掲げられた社説『護教の希望する処』 (九一〔明治二四〕年七月)において、雑誌発刊の理由とし て「務めて何人にも解し易き文体」・「唯平民的の文字」を 用い、多くの読者に「メソヂスト諸派の主義及び現在の恐々 と将来の希望」を明快に知らせることが説かれている。そこ ではさらに「我傍は文学者として此紙上に立つ者にあらず」 と注意が呼びかけられていたのだが、あくまでも「文学」の 自律的領域を意識しようとする透谷の限には、そこに愛山が 過剰な宗教的モティーフを持ち込もうとしていたように見え たのである。
ただ愛山の立場は透谷のみならず、キリスト教徒からも十
分には理解されておらず、植村正久は後年になって、「護教」
における愛山の執筆姿勢が少なからず曖昧なものであった事
実を回想している(『キリスト教徒の新聞雑誌及びその記者』
「福音新報」第一六七号、九八〔明治三こ年九月九日)。
植村によれば、愛山の「文学的伎備」が「顕著」であったこ
とは十分に認められるものの、宗教雑誌の主筆としては「キ
リスト教の伝道と全く心身を一つにせず、その職掌より己を
得ず書く」といったあり様で、彼の「『舌鼓』における地位
は、少なくともアブノーマル」なものであったというのであ
る享∧〉0
そこで問い直したいのは、愛山や高木が入会しており、植
村が「メソジスト諸派は新教各派の中最も響多き団体にして、
彼らは伝道界の騎兵隊なり」(十九〉とその勢力の活発さを評価
したメソジスト派とは一体、どのような特徴のある信仰組織
であったのかということである。明治の日本社会に伝道活動
を展開していたメソジスト系の教会は来日順に並べると、ア
メリカのメソジスト監督教会(穿thOdistEpiscOpa‑Churcb)
カナダのメソジスト教会(房tbOdistChurch)、アメリカの 南メソジスト監督教会(芳th邑stEpiscOpa‑Church.SOuth)
となる。このうち愛山や高木を含む、いわゆる「静岡バンド」
三十)(太田愛人氏)と深い関係があるのは、カナダのメソジ
スト教会であった。周知の通り、明治初期の静岡には、維新
の敗北によって減封移住を強いられた旧幕府の旗本直参八万
人が窮乏の生活を余儀なくさせられていた。七四(明治七)
年四月、カナダから派遣された外国人宣教師D.マクドナル
ド(Da三dsOnぎcdOnald)が静岡英学塾賎機舎の英語教師と
して赴任したことがキリスト教伝道の濫勝となったのである
が、それは多くの「戦敗者の心に負へる創痍」を癒しっつ、
自己が投げ込まれた(負)の情況をとらえ返すことで世俗権
力に抵抗する可能性を自覚させた、愛山が総じて「精神的革 命は時代の陰より出づ」…=と呼ぶ現象を生じさせる種子が 撒かれたことを意味する。
メソジスト派における教義の主な特徴は…ニ〉、それが十八
世紀ヨーロッパの信仰覚醒運動(謬ま.遥li5日)のなかで形成
された歴史的な経緯からも明らかなように、聖霊の働きによ
る個人の「回心」 (indiくidua‑cOn扁r巴On)という情動的・
神秘的な宗教体験を非常に重視するものであった。青年1.
ウェスレー(JObn君s‑ey)が一七三八年五月、ロンドンの敬
虞派の集会において、ルター冒‑マ人への手紙の序文』の
朗読に体が震えるような感銘を受け、突如として「回心」を
体験したのがメソジスト運動のそもそもの始まりであった。
「回心」を通して神との絶えざる応答をつづける人間には、
さらに「聖化」 (SanctificatiOn)のプロセスを実践するこ
とが要求される。「メソジスト」とは本来「凡帳面屋」とい
う締名に由来する名称であったのだが、小さなグループに分
けれられた信者たちは、巡回説教師による教えに耳を傾けな
がら、厳格な規律にもとづく生活を送り、日々の営みのなか
で「キリスト者の完全」
(ChristianPerfecti邑に到達し
ょうと努める。すべての人間の救済・それを信仰において待
ち望む自由意志を肯定するのは、正統的カルヴィニズムから
は異端と見なされたアルミニアニズム(キ日inianism)の思想
69
であったのだが、メソジストはむしろそれを積塩的に受け入
れ、「救いの確かさを獲得するための生活の『方法的』組織
化」…蓋を断行したのであった。M.ウエーバーはその特質
を正統的カルヴィニズムと比較して、つぎのように述べてい
る。
感情的でしかも禁欲的な宗教意識と、カルヴァン派的禁
欲の数理的基礎への無関心の増大ないしはその排斥との
結合という特質を示すものは、大陸における敬度派のイ
ギリス=アメリカ的対応物ともいうべきメソジスト派で
ある…四)。
産業革命以後、イギリス社会で急速に拡大した下層中産階
級を勢力の基盤としたメソジストは、個人の宗教的な感情に
決定的な意味を持たせつつ、禁欲的生活の方法の厳格さを要
求するという独自の教義を確立したのであった。
ところで日本における信仰覚醒運動は八三(明治十六)年
五月、東京新栄教会を中心会場として開催された第三回全国
基督教信徒大親睦会から始まったとされている。十四日より
五日間の予定でおこなわれた大説教会は、いずれも満場立錐
の余地のないほどの盛況を博し、極めて深い感動を聴衆に与 えるものとなった。当時、日本基督組合数会の牧師であった・ 小崎弘道によれば、そのときの白熱した雰囲気は来会者一同 が「十年ならずして我国は基督救国となるであらう」と語り 合い、「二十三年に開かれる最初の国会に選出さるべき代議 士の多数は基督信徒であらう」との確信を十分に抱かせるも のであったという…五〉。八六(明治十九)年三月、愛山が静 岡メソジスト教会において、雄弁で知られた平岩憶保牧師か ら洗礼を受けたのは、そのような信仰覚薩運動が全国的に波 及して行く時期に当たっていた。愛山は自分が体験した「回 心」の決定的な瞬間に関する発言を残してはいないのだが、 キリスト教を歓迎する時代の熱気に包まれて、彼が「戦敗者 の心に負へる創痍」を癒しながら「時代を批評し、時代と戦 はんとする新信仰を懐抱する青年」妄}となって見事に新生 することができたのは、エモーショナルな「回心」の紛うこ となき所産であっただろう。
さらにメソジストにおける「聖化」の教義において、「キ
リスト者の完全」を目指して営まれる禁欲的生活の方法は、
旧幕府の旗本直参の家系に生まれた愛山がそれまで自分の素
養でもあった、「聖人の教」を規範として修養する儒教道徳
から無理なく置き換えられるものであった。人間の救済が
「キリスト者の完全」に到達する段階的なプロセスのなかで
換算されるという現実志向は、「ポジチープの道徳」として
儒教の此岸主義的な発想に通じるものであると考えられる。
余は儒教の教理を捨てたり、されど人道と天道とを結合
し、道義感情の基礎を不易の位置に据ゑたる儒教の甘味
に至っては遂に全く忘る〜能はぎる所なりき≡七〉。
これは愛山の宗教意識をあらわす言葉としてよく引用され
るものだが、そのなかで彼が告白しているのは、キリスト教
への入信のために「儒教の教理」を捨てたものの、「人道と
天道とを結合」して「道徳感情の基礎」を「不易の位置」に
確保しようとする「儒教の甘味」は、全く忘れられなかった
ということである。愛山の真意を十分に押さえたうえで、そ
の表現に従って言い直せば、彼にとってのメソジスト信仰と
は、神の恩恵とそれに対する人間の応答という「聖化」のプ
ロセスにおいて「人道と天道とを結合」するものであり、ま
た聖霊の働きによる「回心」を絶対視することにおいて「道
徳感情の基礎」を「不易の位置」に確保するものでもあった。
すなわちそれは巧く「儒教の甘味」に調合できるような性質
を体現していたものと考えられていたのである。すでに岡利
郎氏も指摘しているように、愛山をキリスト教に導いたのは 「道義感情を不易の位置」に措定しようとする強い欲求なの であって、「決して個人的な魂の救済といったものではなか った」(二∧〉ということができるのではないだろうか。そのよ うな欲求は愛山独特の強い「文章=事業」意識に由来すると ころのものであり、まさしく透谷が「唯だ彼に惜むべきは余 りにメソデストに流れて、個人的生命を存外軽視するの傾あ ることなり」
(『今日の基督教文学〓と指摘したことに符
合する事態であったのである。
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「教育と宗教の衝突事件」のなかで、愛山や高木らは、井
上がエリート「学者」ゆえに持っていた倣侵さを徹底的に責
め立てたのであるが、それに対して透谷は「学者」擁護論と
もいうペき主張を展開していた。「公衆の多数は盲目なり」
と言い放ったうえで、「萄くも人生に枠補するところあらん
とせば(学者として)我が所説が当世に容れらるゝと否とを
顧みぎれ」とまでも断言したのであった。そのうえで透谷は
時代と切り結ぼうとする自己の視線を「天際」に投じて、つ
ぎのように述べている。
人は死なず、事業の内に活きて千万歳に到ることを得べ
し。人は死なず、事業の内に活きて、天際の或る場所に
於て確かに永遠の生命に入ることを得るなり。
透谷によれば、「事業」のうちに託された人間の崇高なる
精神は、「千万歳」の時間を経てもなお活きつづけ、やがて
「天際の或る場所」において「永遠の生命」の輝きを手にす
る。それゆえ文章に携わる人間の「事業」は、世俗社会の此
岸的な価値意識によって判断されるペきものではないという。
このような主張は、いうまでもなく人生相渉論争のなかで提
唱された「空の空なる事業」という透谷の持論に重なるもの
であった。そのことを考慮に入れれば、『井上博士と基督教
徒』に見られた「学者」擁護論の本当の狙いは、キリスト教
徒の個人的な中傷から井上を守ることではなく、人間の魂の
救済すらも所定の宗教的なメソッドの到達度に従って測るよ
うな「ポジチビズム」の思考に対して、彼が異論を唱えるこ
とにあったとい.えよう。ただし注意を十分に払っておく必要
があるのは、透谷は愛山のことを一方的に「小汚い実証主義 をかつぎ廻った」俗学者と決めつけていたわけではないこと である。そのことに関わる重要な論拠として、先に検討した 『今日の基督敏文学』をあらためて引用しておく。
吾人は彼が純乎たる英国流の思想家なるを認む、我邦の
如く古へより形而上想に縦なる土地にありて、彼の如く
実際的道徳を唱道するは時勢の上より大なる必要あるを
知るべし。吾人は彼が益々此主義の上に立ちて雄視せん
ことを欲するものなり、唯だ彼に惜むべきは余りにメソ
ヂストに流れて、個人的生命を存外軽視するの傾あるこ
となり。 「形而上想に縦なる土地」に住まう愛山が「実践道徳」を
唱道するのは、「時勢の上」より「大なる必要」のあること
で、メソジストに走るあまり「個人的生命」が軽視されてし
まう傾向には留保がつくものの、彼が「益々此主義の上に立
ちて雄視」するのは望ましいことであると、透谷は愛山の
「ポジチビズム」にある一定の理解を示しているのである。
そこには冷静に時代状況を分析する透谷の鋭い眼光が存して
いるのだが、その彼がメソジストの如き「ポジチビズム」に
よっては実証できない無限のものを→個人的生命」のなかに
発見していたということが、さらに重要な要素となるのであ
る。
滝瀬爵克氏は「教育と宗教の衝突事件」をめぐる透谷の発
言から「我が国の近代における真の愛国者」 (完)の一範型を
見いだそうとしているが、たしかに透谷の「衝突又衝突」
(『文界時評』、「評論」第八号、九三〔明治二六〕年七月
十五日)には、「自ら建国の精神に於て他の邦と相容れぎる
ところあらんとす」という言葉があり、そこには近代ロマン
主義的な国家意識にも通じる彼独特のモティーフが卒まれて
いたといえる。しかし、ここで透谷が「真の愛国者」であっ
たか否かということ以上に注目したいのは、彼が「個人的生
命」のうちに拡がる無限の想像力の世界について、信仰と呼
んでもよいほどの絶大な信頼を寄せていたことである。
何ぞ知らん、人間と称する此二足動物の上に、激雷の廉
かに震ふが如く、諸天群がり落ちて、火焔忽ち起りて、
一指を投ずるの暇に於て、この終古依然たる天地は、黙
示録の約翰が「われ新らしき天と新らしき地を見たり先
の天と先の地は既に過ぎたり海も亦たあることなし」と
言ひたる言葉の空の空にあらざることを実証するの時あ
らんを。 (『頑執妄排の弊』、「文学界」第五号、九三〔明治
二六〕年二月二八日)
いつ黙示録の預言が成就されるときが訪れるのか、それを
悠久不変の「天地」ですら「実証」することはできないであ
ろう。まして人間の合理主義的な思考に可能であるはずがな
い。透谷がここで引用しているのは『ヨハネの黙示録』第二
一章第一節に当たる部分であるが、それは「歴史の裂け目に
立った迫害下の信徒たちが、ユダヤ教黙示文学の表象を用い、
最も強く訴える文学類型によって、緊急な信仰の使信を伝え られた記録」享〉の集成からなるものである。黙示文学では、
神のアポカリブシス(首OCal遥Se)による幻視を通じて未来
の時間が語られ、人間を支配している世俗権力に対峠するた
めの超越性が獲得されているのであるが、透谷もまたいかな
る「甘味」を潔しとはせずに、世俗社会の此岸的な価値意識
を超越するための基点を、無限の想像力が奔出するところの
「個人的生命」、すなわち「内部生命」のなかに措定したの
であった。
‑73‑
注、論文中、旧字体は新字体にあらためている。なお北村透
谷に関するテクストの引用は『北村透谷集』 (『明治文学全
集』第二九巻、一九八九年二月、筑摩書房)からおこなって
いる。 (一)小沢三郎『内村鑑三不敬事件』 (一九六一年九月、
新救出版社、一三〇頁)
(二)坂口満宏〓八八〇年代・仏教系の反キリスト教運動 1排耶書の普及と結社・講談会活動‑」 (同志社大学人
文科学研究所編『排耶論の研究』、一九八九年七月、教
文館)参照
(三)本多庸一『井上氏の談話を読む』 (「教育時論」第二
七七号、一∧九二年十二月二五日)
(四)横井時雄『徳育に関する時論と基督教』 (「六合雑誌」
第一四四号、九二年十二月十五日)
(五) 「基督教徒の達迎主義」 (「太陽」第三巻第二十号、
九七年十月五日)
この論文のなかで、樗牛は「最近の半年に於て基督教
徒の語調に著しき変化」があったといい、「非国家非国
民をすら唱ふるを慣らざりし基督教徒が、国性民情を考
ふるに至増しは争ふべからざるの事実」なのであり、そ
れを名付けて「基督教徒の逢迎主義」であるという(引 用は『改訂註釈樗牛全集』、一九八〇年三月、日本図書 センター、四六六貢)。
(六)土肥昭夫「近代天皇制とキリスト教」 (宮坂キリスト
教センタ1編『近代天皇制の形成とキリスト教』、一九
九六年四月、新教出版社、二八五真)
(七) F日本神学思想史』 (一九六∧年六月、新教出版社、
四六真)
(八) 『命耶罪耶』 (「国民新開」、九三年四月一日)
(九) 『山路愛山研究序説1「惑溺」と「凝固」その二)
1』
(「北大法学論集」第二五巻第四号、一九七五年三
月、三三七頁)
(十)高木の経歴について、宮武外骨・西田長寿『明治新聞
雑誌関係者略伝』 (一九八五年十一月、みずず書房、一
二一〜一二二頁)では、つぎのように紹介されている。
「静岡県城西村の人。号は静蔭。新聞記者、政治学者。
静岡中学、静岡英語学校に学び、また哲学を仏人リギョ
ルに教わる。明治二五年、民友杜に入り『国民新開』
『国民之友』記者。その後一時『静岡新報』の主輩とな
ったが、東京に帰り、第二次『めさまし新聞』改題『東
京新聞』の記者となる。明治二九年十月、松本君平とと
もに『大日本』を創刊、ついで『憲政党党報』 (明治三
一年十二月創刊)主幹。明治三七年十月『東京日日新聞』
編集長となり、四十年五月理事となる。ついで『やまと
新聞』主筆兼理事、『中央新聞』主筆兼理事をつとめた。
大正三年渡欧、ロンドンに於て政治経済問題を研究、同
五年帰朝。大正十年にはロンドンのロイヤル・ソサイテ ィー終身会員に推着せられ、フェロー・オヴ・ロイヤル
・ソサイティ・アーツの称号を受けた。大正十一年九月、
中央大学講師となりのち教授となり穀時に至った。著書
に『最近列国の外交政策』 (後に『世界の改良と大日本』
と改題)、『有為生活』 『ビット』 『ゲーテ』等がある。」
(十一)並木仙太郎『明治二十二年創立 民友社三十年史』
(一九一七年九月、民友社)。引用は和田守・有山輝雄
編『良友吐息想文学叢書』第一巻(一九八六年十二月、
三一書房、四十王)からおこなった。
(十二)引用は復刻版『文学界』 (日本近代文学研究所、一
九六三年十月)からおこなった。
(十三)そのような賛辞とは反対に、山田博光氏は『ゲーテ』
が「専らゲーテの外面的履歴、人間関係ばかりにべージ
を費やし」ており、「これでは日本人のゲーテ理解に、
どの程度寄与したかわからない」という疑義を表明して
いる(「民友社と外国文学‑『十二文豪』を中心にして ‑」、平林一・山田博光編『民友社文学の研究』、一九 八五年五月、三一書房、四二真)。
(十四)引用は『哲学字彙』 (一九七九年十月、笠間書院、
六∧頁)からおこなった。
(十五) 『明治哲学思想集』 (『明治文学全集』第八十巻、
一九七四年六月、筑摩書房、六八頁)
(十六) 『マシユⅠ■アーノルドと北村透谷‑人生相渉論争
の一背景‑』 (「立教大学日本文学」第三五号、一九七
六年三月)・『明治二十六年以前の透谷におけるマシュ
ー・ナーノルドの受容』 (「立教大学研究報告(人文科
学)」第三五号、一九七六年三月)
(十七)引用はマイクロフィルム版「護教」 (日本図書セン
ター、神戸松蔭女子学院大学蔵)からおこなった。
(十八)引用は『植村正久全集』第三巻(一九六六年六月、
新教出版社、一四八貢)からおこなった。
(十九)同右書、一四七貢。
(二十) 『明治キリスト教の流域‑静岡バンドと幕臣たちー』
〓九七九年三月、築地書館)参照
(二こ 『現代日本教会史論』 (一九〇六年七月、警醒社書
店)。引用は『基督教評論・日本人民史』 (一九六六年
三月、岩波書店、二四〜二六頁)からおこなった。
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