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グローバル地域研究としての国際日本学 : 日本を 超えて、日本をとらえる、思考と手法

著者 ?田 圭

出版者 法政大学国際日本学研究所

雑誌名 国際日本学

巻 18

ページ 3‑36

発行年 2021‑02‑26

URL http://doi.org/10.15002/00023757

(2)

髙 田  圭

1 はじめに

 地域研究をグローバルな視点からとらえることを目的としたプログラムは、

ここ 10 数年あまりのあいだに世界的な広がりを見せている。Global American Studies, Global China Studies, Global French Studies など国民国家を基礎とし たものからGlobal African Studies, Global Asian Studiesなどリージョンをベー スにしたプログラム、はたまた狭い意味での地域研究の枠を越えるかもしれな いが、Global Black Studies といった国境を越えたエスニック・グループを対 象としたものまで多種多様である。それらは、学部やプログラム名(たとえば、

Global Middle East Studies, UC Irvine)、研究所名(たとえば、The German Institute for Global and Area Studies, GIGA)、またフェローシップの名称(た とえば、Global Korea Scholarship)まで多岐にわたる。また、その対象地域 も、プログラムの置かれた自身の国・地域についてのものもあれば、国外の 他の地域についての研究・教育をおこなう機関の場合もある。こうした世界 各地につぎつぎと現れた「グローバル」をかかげた地域研究プログラムは、「グ ローバル地域研究(global area studies)」とも呼べるようなまとまりを持って 立ち上がってきている。一方で、これらの新しいプログラムは、従来の地域 研究を統合、改編しながら、そこにグローバルなよそおいを持たせ、再パッケー ジ化しているものも多いようだ1)。たしかに「グローバル」というかんむりを つけることは、それこそグローバリゼーション下における大学のマーケティン グ戦略として、カッティング・エッジなプログラムであるというイメージを与 える効果を持つだろう。しかしながら他方で、この流れは、単なる表層的な戦

グローバル地域研究としての国際日本学

―日本を超えて、日本をとらえる、思考と手法 ―

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略にはとどまらない知の再編にもかかわるより実質的な側面も持ち合わせて いると言えそうだ。グローバルな現象として立ち現れた「グローバル地域研究」

は、どのように生まれ、また、どのような地域をとらえる新たな視点を提示 しているのだろうか。

 そして、この「グローバル地域研究」の波は、日本にも押し寄せている。と りわけ 2010 年代に入ってから「国際日本学」「国際日本研究」と銘打った機関 がぞくぞくと設立され、一つの学問分野として認知されるようになった2)。今 や、それらの研究・教育機関をつなぐネットワークとして「国際日本研究」コ ンソーシアムの設立にまでいたり、今後さらなる発展が予想される3)。しかし ながら、日本における「国際日本学・研究」がその歴史的な発展をふくめて 十分に検証されて来なかっただけでなく(松田 2008)、上述した「グローバル 地域研究」の世界的展開と結びつけられ、論じられることもなかった。「国際 日本学・研究」とはどのような性質のものであり、それは地域研究という学 問領域とどのようにかかわっているのか、はたまたグローバル化がいっそう 加速化するなかで、その方法論は今後どのような発展が見られるのだろうか。

結論を先取りすれば、「国際日本学・研究」、とくに 21 世紀に入ってからのそ れは、地域研究のグローバル的転回に呼応するかたちで、日本を対象としな がら「日本を超えていく」思考と手法を発展させてきた。だが、日本研究を めぐる国際的な状況が変化するなか、今後より大胆な「日本を超える」アプロー チが求められてきている。

 こうした議論を展開にするにあたって本稿では、関係論的(relational)な アプローチを採用する(Emirbayer 1997)。地域研究、日本国外の「日本学・

研究」、日本国内の「国際日本学・研究」をおのおの独立したものと見なすの ではなく、それぞれの結びつき、そして相互関係のなかでとらえる視点に立つ。

そして、これら学問領域の質的変容をうながした主要な構造要因としてグロー バリゼーションを位置づける。以下では、まず地域研究としての「日本学・研究」

とグローバリゼーションとの関係をマクロな視点から概観し(第 2 節)「国際 日本学・研究」の特徴、とくにオリエンタリズムとナショナリズムの関係を法 政大学・国際日本学研究所の国際シンポジウムの実践からつかんだうえで(第 3 節)、近年の欧米における日本研究の動向をアジア研究協会でのセッション

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の事例から検証する(第 4 節)。そして最後に、「日本学・研究」をめぐる現状 をふまえて、さらなる「日本を超える」手法としてのトランスナショナリズ ムとセオライジングについて論じ(第 5 節)、「日本を超え」て「日本をとらえる」

可能性を探っていく(第 6 節)4)

2 「グローバル・日本」と「地域研究のグローバル的転回」

 「国際日本」の名称がつく研究機関や教育プログラムは、主に日本国内で発 展した5)。この言葉が使われはじめた 1980 年代当初は、この名称に違和感を 持つひとも多かったという(猪木ほか編 2012: 10)。たしかに「国際日本学」は、

「国際」と「日本学」という一見するとたがいに反発するような 2 つの単語が 結びつけられた言葉である。しかしながら、マクロな視点から見れば、この 結びつきは、ある種の必然性をともなっていた。ここでは、まずはじめに、「国 際」と「日本学」それぞれが立ち上がってきた大まかな構造的な背景から論 じていきたい。グローバリゼーションの起源は、古代から、資本主義創世記 から、あるいは現代からと論者によってことなるものの、一般的に 21 世紀に つづくグローバル化の新しい波は、1960 年代頃から部分的にはじまったと考 えられている(伊豫谷 2007: 63)。日本において国境を越えた活動の進展を指 し示す言葉として、1980 年代には主に「国際化」が使われていたが、1990 年 代からじょじょに「グローバリゼーション」という表現が広まっていった6)。 1980 年代末から 90 年代にかけて冷戦構造の崩壊と IT 化の進展によって国境 を越えた活動はますます加速していく。こうしたトランスナショナルな活動の 活性化は、社会構造の大きな展開をせまり、社会の流動化を推し進め、ある 意味では、ひとびとの不安を駆り立てる要因にもなった(Burgess 2015)。し かしながら、他方で、グローバリゼーションは、国民国家を問い直す契機で もあった。経済的ネオリベラルからは、国境を越えた経済活動が奨励された。

また、左派リベラルの立場からしても、グローバル化は、暴力装置としての 国家を乗り越える現象として肯定的に受け止められた側面もあった。したがっ て、広い意味でのグローバル化は、こうした「不安」と「可能性」の両義性 をふくみながら展開してきたと言える。

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 グローバリゼーションは社会のあらゆる側面に影響を与えるマクロな現象 であり、高等教育といった中間集団への影響も大きかった。そこでも同様に「不 安」と「可能性」をともないながら制度転換をせまってきた。米国の留学生 数は、1970 年代半ばから伸びはじめ、2000 年代初頭に飛躍的に上昇している。

日本においても 1983 年の中曽根康弘政権による「留学生受入れ 10 万人計画」

を皮切りに海外からの学生へのプロモーションを加速させ、2008 年の福田康 夫内閣による「留学生 30 万人計画」とその総数は違えど米国と時を同じくし て留学生政策に踏み切っている。また、留学生の増加とともに「グローバル 30」や「スーパーグローバル大学創成事業」といったように高等教育の再編 が推し進められ、2020 年代以降もその波はつづいている。またこうした流れ は、学部の再編にも影響し、1980 年代から誕生した「国際」を銘打つ学部は、

2000 年代になると急増した7)。このように、1980 年代からの日本をふくめた 世界の高等教育のグローバル化はめざましい発展をとげた。

 ひるがえって世界の「日本学・研究」の方はと言うと、奇しくもその急激な 発展は、現代のグローバル化と時を同じくしている。「国際日本学・研究」を めぐる議論でしばしば指摘されるように「日本学・研究」はそもそも日本の 外から生まれたものである。近世、近代初期において主に欧州で展開された「日 本学(Japanology)」は、戦中、戦後には米国へとその中心が移り、地域研究 の一つとしての「日本研究(Japanese Studies)」が飛躍的に発展した。そして「日 本学・研究」が隆盛期をむかえたのは1970年代から1990年代にかけてであった。

実際に、欧米の「日本学・研究」の主要な学会で言えば、ヨーロッパ日本研究 協会(European Association for Japanese Studies)は 1973 年に、英国日本研 究協会(British Association for Japanese Studies)は 1974 年に、豪州日本研 究学会(Japanese Studies Association of Australia)は 1978 年にそれぞれ設 立されている8)。日本研究が、それまで「アジア・東洋」として一まとまりに 括られていた地域から、一国で独立できるほどの人的、象徴的、経済的資源 があつまるようになったのはこの時期からであった。米国における最大規模 のアジア学会であるアジア研究協会(Association for Asian Studies)の会員 数は、1958 年から 1970 年の間に 1,022 人から 4,708 人と 4 倍以上となり、ア ジアを専門とする研究者が 1970 年代初頭までの時期に急増していた(Hucker

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1973: 103)。そのなかでも、とりわけ日本への関心は高く、1970 年代には、各 種教育機関で日本語を専攻する人の数はアジア諸言語中で第 1 位になったと いう(林 2005: 57)。

 この時期に、日本国外の「日本学・研究」が飛躍的に発展した理由は、非西 洋国である日本の異例の経済的成功という謎を解き明かすためであった。そ れは、こうした文脈で頻繁に参照される米国の社会学者エズラ・ボーゲル(Ezra Vogel)による 1979 年の著作

Japan as Number One: Lessons for America

象徴している(Vogel 1979=1979)。ただし、日本の力の源泉を経済のみに求 めるのではなく、政治・社会・文化構造まで広くとらえて明らかにしたいと いう欧米の研究者の欲求が「日本学・研究」のすそのを広げた。イスラエル の歴史社会学者シュメル・アイゼンシュタット(Shmuel Noah Eisenstadt)は 2000 年に「近代の複数性(multiple modernities)」という概念を提唱したが、

その背景には、彼の日本文明に関する研究があったことは、ある意味で自然 なことであった(Eisenstadt 1996, 2000)。欧米とことなる文明を持つ日本の「成 功」が、近代化の道筋は「単一ではなく多様である」ことを立証したのであ る(Ikegami 1995=2000)。もとより、こうした日本を礼賛する議論それ自体が、

西欧中心主義的であり、そこに欧米知識人の持つオリエンタリズムが隠され ている、という批判もありうる。それでも、広い意味では、非西洋国として の日本が、欧米研究者のあいだで「学ぶ」対象として立ち上がってきたとい う事実は、日本と欧米の関係のみならず、人文社会科学全体のより水平的な 関係をつくり出すにあたって重要な転換点であったと評価することができる。

 こうしたように、アカデミア・高等教育をふくめたグローバル化の進展と 欧米の「日本学・研究」の発展は、同時期に並行して進んだ。そして、大ま かに言えば、これら 2 つの流れが重なりあうことで日本における「国際日本学・

研究」は設立されていったと考えられる。ただし、グローバル化と「日本学・

研究」とのあいだには、もう 1 つ見落としてはならない重要な変数がある。そ れは、地域研究(Area Studies)と呼ばれる分野の存在であり、この地域研究 全体の質的な転換も、日本国外の「日本学・研究」ひいては国内の「国際日本学・

研究」に大きな影響をあたえた。ジェームス・シダウェイ(James Sidaway)

の図式にそくして言えば、地域研究にはこれまで 3 つの波があった。帝国主義

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下のヨーロッパでその植民地政策と密接に結びついたかたちで発展した「第 1 の波」、第 2 次大戦中から米国において社会科学を用いて他の地域、とりわけ

「敵国」を分析するために発展した「第 2 の波」、そして 1990 年代以降の冷戦 崩壊後に発展した現在の「第 3 の波」である。この「第 3 の波」は、社会理論、

文化理論からの影響、地政学的または地経学的な転換による多極的な世界象 やインターネットやデジタル化といった技術的な面での革新に特徴付けられ る(Sidaway 2017: v-vii)。

 地域研究が 1990 年代をさかいに質的な転換をとげたというのは重要な指摘 である。ただし「第 3 の波」の特徴としてより強調されるべき点は、むしろグロー バル化による影響ではないだろうか。国民国家の問い直しがグローバル化の 重要な作用のひとつであるとすれば、それが地域研究へ与えたインパクトは 絶大であった。人文社会科学においては、とくに 2000 年代から「グローバル 的転回(global turn)」という言葉で、国家を超えた視点から対象をとらえな おす必要性が訴えられてきた。たとえば、アンドレアス・ウィマー(Andreas Wimmer)などは、社会学が想定する「社会」が無意識に国民国家を前提とし ていたことを「方法論的ナショナリズム(methodological nationalism)」とし て鋭く批判した(Wimmer and Glick 2002; Urry 2000; Beck 2007など)。しかし、

地域研究という学問領域にとって、グローバルな視点からの国民国家批判は、

社会科学以上に、その存在意義を根底からゆるがす痛烈なものであったと言え る。それは、地域研究が、ある意味では社会学よりも直接的に、また明白なか たちで、国民国家を基礎として成立していたからである。ナオキ・サカイ(Naoki Sakai)らは “The End of Area(地域の終わり)” という刺激的なタイトルの 論考のなかで今や「西洋とその他(the West and the Rest)」といった図式や 国民国家という政体を前提とした従来の「地域(Area)」は終わったと評して いる(Walker and Sakai 2019)。地域研究は、人間の存在の諸側面をあつかう 社会科学とはことなり、ある地域とその地域に居住する集団自体を対象とする 学問領域である。もちろん、地域は、国民国家だけでなく、場合によってはリー ジョンやローカルを指したりするわけだが、とくに米国において「敵国を知る」

という国際政治の文脈から発展した地域研究の「第 2 の波」にとっては、そ れは第一義的に国民国家を想定していたし、欧米の地域研究プログラムもそ

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のように編成されてきた。したがって、地域研究にとって国民国家を前提と した知の枠組みを問い直すグローバル的転回の視点の採用は、ある意味では、

自殺行為であったとさえも言える。

 こうした学問的な文脈にそくして言えば、本稿で論じる「グローバル地域研 究」とはグローバルに転回した地域研究のことを指す。むろん、日本国外の「日 本学・日本研究」は、この一部を成している。さらには「国際」=グローバル と「日本」=国民国家という 2 つの言葉の組み合わせである日本の「国際日本学・

研究」も、この地域研究の大きな流れの一環として位置付けられるだろう。こ れまで大まかに、グローバル化、日本研究の世界的発展、そして地域研究の 質的転換という一見ことなる現象が、実は、1960 年代後半あたりから 90 年代 にかけての同時期に、めざましく発展してきた現象であることを示してきた。

グローバル化と日本という非西洋国の世界でのプレゼンスの高まりは、「日本 学・研究」の勃興のみならず、西洋中心主義的なそれまでの地域研究のあり方 にまで大きく影響を与えたと考えられる。そうした意味で、これらの現象は相 互に連関しており、次節では、日本の「国際日本学・研究」もこの連関の一 部として生まれ、発展してきたことを具体的な事例にそくして見ていきたい。

3 「国際日本学・研究」との対話

 地域研究と同じようにその発展を「波」でわけるとするならば、「国際日本学・

研究」は、これまで 2 度の大きな波をむかえたという。(宇野田 2018: 51)。第 1 の波は、1980 年代、世界各地で日本研究に対する注目が高まるなか、日本 側からもそれに呼応するかたちで生まれた。第 1 波における代表的な機関は、

国家主導の大々的なプロジェクトとして 1987 年に設立された国際日本文化研 究センター(日文研)である。哲学者、梅原猛ら当時の名だたる研究者らによっ て設立された同センターは、国内外の日本研究者をつなぐ機関として、国際的 な日本研究の中心的な役割を果たしつづけてきた。また、日文研設立の同じ年 には、大阪大学内にも同名の国際日本文化研究センターが設置されている(宇 野田 2018)。日本国外の「日本学・研究」が制度化されはじめる 1970 年代に その着想をえて、日本が経済バブルをむかえる時期に、国立の機関として立ち

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上がったのが第 1 波の「国際日本学・研究」の特徴であったと言える。しかし、

1990 年代には、新たな機関の発足等「国際日本学・研究」に関する目立った 取り組みは、あまり見られなかった。日本における「国際日本学・研究」の 第 2 の波と言えるものは、21 世紀に入ってからおとずれ、それは研究所、学部、

領域などのさまざまな形態をとりながら、新たな制度や機関がつぎつぎと設立 されていった。その数、規模から言っても、第 1 波を凌駕する大きなうねり になっている。その発展の理由としては、第 1 波の先駆的、プロトタイプ的 な試みが、グローバル化の進展による機会構造の開放によって急激に伸びて いき第 2 の波につながった、というのが 1 つの解釈となりうる。しかしながら、

1980 年代の「国際日本学・研究」の性質がそのままに、規模だけ拡大していっ たのかと言えば、そうとは言い切れない。むしろ、第 1 の波で設立された機関は、

そのアイデンティティを緩やかに転換させながら、そして第 2 波に設立された 機関は、時代の変化にあわせた「国際日本学・研究」の新たなかたちを模索 しながら、それぞれ発展してきたように思われる。それでは、第 1 と第 2 の 波にどのような断絶があり、どのような質的転換をとげていったのだろうか。

 ここでは、21 世紀以降の第 2 波「国際日本学・研究」の特徴を 1 つの事例 からひもといてみたい。2002 年に設立された法政大学の国際日本学研究所は、

第 2 波のなかでもっとも早い時期に設立された機関の 1 つであり、したがって、

本研究所の初期の活動や議論を見ることで、この時期の「国際日本学・研究」

の一端を明らかにすることができるだろう9)。文部科学省 21 世紀 COE プロ グラムの支援のもと設立された本研究所は「国際日本学」という新たな学問 分野の創出を目指して設立された10)。そうした新規性ゆえに、発足当初から 生じた課題は「国際日本学」というアイデンティティの構築であったという。

研究所が発行した初期の著作群からは「国際日本学とは何か?」という問い、

そして「国際日本学」独自の方法論の確立を目指すさまざまな議論が展開され ていたことが垣間見える。研究所の設立者たちは、これらの問いを解き明かす 方法として「メタサイエンスとしての国際日本学」というアプローチをとった。

それは、端的に言えば「外国人が『日本』・『日本人』をどのようにみているか を研究すること」であった(中野 2003: 11)。この「異文化研究としての日本学」

は、日本国外の「日本学・研究」の動向を調査、分析し、そして、国外の日

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本研究者の視点を日本の日本研究のなかに取り入れていく作業であった。第 2 代所長の星野勉も国際日本学設立の趣旨を以下のようにまとめている。

外国の研究者が日本の文化を研究する場合、当然それを「異文化」とし て取り上げるわけであるが、そうした外国の研究者の外からの視点を取0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 り入れることによって、私たち自身の内からの視点を相対化し、自文化0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 研究が陥りがちな狭隘さからの脱却をはかるのである0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0。さらに、私たちは、

外国の研究者の外からの視点を私たち自身の内からの視点と摺り合わせ、

内と外の視点の差異、日本文化という同一対象についての内と外からの理 解の差異を際立たせながら、この差異の意味をそれぞれの視点や文化理 解の背景にまで目を配りながら明らかにすることに向かう。それは、日0 本文化に関する内と外との開かれた「学問的な対話」が成立0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0する条件を 抉り出し、内外の日本研究者がそこで相互に対話し合うことのできる共 通の場を設定するためである(星野 2005a: 4、強調は筆者)。

 ここで述べられている、外国の日本研究を学ぶことを通じて「自身の内か らの視点を相対化し、自文化研究が陥りがちな狭隘さからの脱却をはかる」

くわだてにこそ「グローバル地域研究」としての「国際日本学・研究」の特 徴が表れており、また 1980 年代の第 1 波との差異もここに見られる。第 1 波 の「日本学・研究」は、日本語学習者や世界から寄せられた関心に対して「日 本」を端的に提示するためのものであったとされる(宇野田 2018: 52)。また、

磯前順一はより直接的に、初期の日文研を支えた価値観を「ナショナリスト 的近代化論(nationalist modernization)」と呼んでいる。それは「国際社会に 復帰した日本が経済的にも世界の一等国となり、それに相応しい文化的な位 置づけを試みるなかで出現した価値観のひとつ」であったという(磯前 2018:

143)。すなわち、1980 年代の「国際日本学・研究」における「日本」は、ナショ ナリスト的な感性に裏打ちされており、そうした意識のもとで日本を「国際的」

にプロモートしていくのが「国際日本学・研究」であったと説明する。さらには、

この「国際」の意味も、冷戦構造に深く規定されていた。「国際」という言葉は、

そもそも国民国家の分離を前提としており、それぞれの独立した国民国家同

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士の接触といった意味である。そして日本国と世界とのつながりにおいても、

当時の「国際日本学・研究」は、アメリカの政治傘下という「国際」状況の なかに埋め込まれていた(磯前 2018: 144-5)。ただし、こうしたアメリカの傘 のもと発展したナショナリスティックな第 1 波「国際日本学・研究」の特徴は、

当時の地域研究の状況と日本国外の「日本学・研究」の性質をかんがみれば、

しごく当然であったとも言える。前節で論じた地域研究の分類で言えば、1980 年代当時は、いまだ「第 2 波」にあり、地域研究は、他の地域=国民国家を研 究する学問であった。また、当時の国外の「日本学・研究」は、欧米とはこ となる日本の能力と可能性に惹かれて発展したことはすでに述べた。したがっ て「国際日本学・研究」の性質が、地域研究の枠組みと、国外の「日本学・研究」

の動向と深い関連性があるという本稿が依拠するテーゼからすれば、第 1 波 のそれは、おのずと日本という国民国家のプロモートという性質を持つこと になる。

 しかしながら「失われた 10 年」と呼ばれる 1990 年代に「日本」や「国際」

をめぐる言説構造が大きく転換したことで「国際日本学・研究」も変容した。

すでに述べたように、冷戦構造の終焉、グローバル化と西洋中心主義への批 判がこの時期の構造転換の要素であったが「国際日本学・研究」もこの大き な流れに巻き込まれていくことになる。地域研究が「第 3 波」をむかえ、グ ローバル化していくと、それはさまざまな変化をもたらす。1 つには、前節で 論じたように、国民国家を前提とした地域研究の枠組みが崩れていった。また、

より実践的な側面から言えば、グローバル化はそれまで断絶していたウチとソ トの研究をつなげる作用も持つ。長らくの間、日本国外、とくに西欧社会にお ける日本研究と日本における日本研究との間には亀裂があったと言われる(島 田 2008: 69)。もちろん、こうしたアカデミアの国民国家間の断絶は、どんな 学問分野にも存在してきたが、とりわけ地域研究においては、その固有の性質 ゆえに、溝が一段と深かった。その性質とはすなわち、地域研究にとっては避 けられない「眼差す者」と「眼差される者」とのあいだの緊張関係のことである。

 人文社会科学のディシプリン(分野)において、ことなった国、地域の研究 者同士が対話する際、両者をつなぐ多くの概念装置がある。たとえば、近代化、

資本主義、階級、教育、家族、労働、貧困、市民社会等々。こうした問題を学

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問的に論ずる場合、政治的なスタンスが分析やアプローチに影響を与える場 合はあるものの、建前上は、ここに所有の意識は生まれない。もとより、近 年では、これまでの社会科学諸概念は、偏狭な西洋的普遍主義であったとし て西洋、非西洋の研究者を問わず、さまざまに問い直されてきた11)。それでも、

人文社会科学の諸概念はことなる地域・文化的背景を有するもの同士が共有す る議論の出発点としての機能を果たしてきた。理念型的にとらえれば、社会 科学系のディシプリンにとって、第一義的にあるのは広い意味での理論であ り、説明されるべき対象(地域やグループ)は、どちらかと言えば後衛にお かれる。それに対して、地域研究にとっての主要な関心は、地域そのものと なる12)。ゆえに、地域研究における理論的な道具立ては、むしろ副次的な意 味合いにとどまる。ここで重要なのは、地域それ自体が学問的な共通項となっ た場合には、それ特有の問題を抱えるということだ。その理由は、地域をめぐっ て学問的対話をおこなった場合、そこに誰がふくまれるのかという問題が大 きく影響を与えてしまうことにある。対話をする研究者のうちに対象地域の 出身者をふくまない場合は、その地域はある程度ニュートラルな学問的な共 通項として機能するだろう。たとえば、アメリカの日本研究者とオーストラ リアの日本研究者が対話をした場合の「日本」は、人文社会科学の概念装置 と似たような機能を果たす。しかしながら、そこに対象地域の研究者が加わ ると、独特の緊張関係が醸成される。すなわち、その対象「地域」をめぐる「眼 差し」の問題が浮上してくるのである。その「眼差し」は、理性的な議論を 超えたかたちで「眼差されるもの」自身のアイデンティティへと突き刺さる。

それが西洋と非西洋の場合には「眼差す側」のオリエンタリズムと、「眼差さ れる側」のナショナリズムとのあいだの緊張関係として表れる。言い換えれば、

それは、他者についての学問である地域研究(area studies)と自分たち自身 の学問である国民史(national history)とのあいだに生じるテンションだと言 える。星野は、こうした緊張関係に関して「眼差される側」である「日本人」

の心性を下記のように説明する。

こうした海外での「日本研究」に対して、日本人研究者の対応はきわめて アンビバレントである。一方で、日本人は自国や自分たちが海外からどう0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

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見られているかということにきわめて敏感である0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0。(中略)持ち上げられ れば自尊心をくすぐられ、叩かれれば自虐的な歓びを感じる。その評価 が肯定的であれ、否定的であれ、「日本研究」が増加し、日本や日本人に 関心が向けられるようになること自体が嬉しいのである。しかし、他方 で、日本人研究者はこうした「日本研究」に対してきわめて冷淡でもある0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0。 日本、日本人、日本文化、日本社会についての研究は日本人のものであっ て、日本のことは日本人にしか分からないという、内向きの意識が根強0 0 0 0 0 0 0 0 0 く存在している0 0 0 0 0 0 0からである。(中略)このような姿勢が優れた「日本研究」

に対して真摯に向き合うことを妨げてきたのである(星野 2005b: 17、強 調は筆者)。

 こうしたように、星野は、海外、とりわけ西洋からの「眼差し」に対して至 極敏感でありながらも、国外の日本研究に対する学問的な評価になると冷淡に なるという日本人研究者の二重のナショナリズムを的確にとらえ、それを批判 的に分析している。地域研究につきまとうオリエンタリズムへの自己批判は、

ポスト・コロニアリズムやカルチュラル・スタディーズからの影響を受けなが ら、「第 3 の波」の 1 つのプロジェクトとして 1990 年代以降、欧米の地域研究 の研究者に広まった。批判理論に依拠する地域研究者にとっては、オリエン タリズムへの自己批判と抑制という政治的に正しい態度がデフォルトとなっ ていったのである。それは、欧米に限らず日本人研究者にとっても、アジア、

アフリカ、第三世界(あるいはグローバル・サウス)を「眼差す」際には気を つけなければならない態度として、さまざまな議論をへて、内面化、制度化さ れていった。しかしながら、その一方で、日本人がどのように国外の日本研 究者から「眼差されている」のか、という受動的な点について直接向き合う ことは、長らく避けられてきた。気になりながらも直視をしないという態度が、

星野が指摘した二重のナショナリズムを生み出す源泉であったと言える。そ して、こうした国外の日本研究者からの「眼差し」に向き合うことへの忌避が、

先に挙げた日本国外の日本研究者と日本人研究者とのあいだの断絶の大きな 理由でもあった。第 2 波の「国際日本学・研究」は、このような日本語ネイティ ブの日本研究者の盲点をつき、彼(女)らを二重のナショナリズムから解き放

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つことを通じて、新たな日本研究の可能性を探求しようとする試みであったと 解釈できる。欧米の「日本学・研究」をふくめた地域研究者たちが、オリエン タリズムを克服していく流れに呼応するかたちで、ウチからの地域研究である

「国際日本学・研究」は、自らのナショナリズムを乗り越えることを目指して いった。

 こうした第 1 波から第 2 波の「国際日本学・研究」の質的変容をまとめる とすれば、第1波の冷戦構造下の近代的・ナショナリズム的な「国際日本学・

研究」から第 2 波のグローバリゼーション下の再帰的・コスモポリタン的な「国 際日本学・研究」への転換だと言えるだろう。ただし、こうした試みは、日本 の「国際日本学・研究」の固有の発展というよりも、広い意味では、前節で論 じたより大きい地域研究全体のシフト、すなわち地域研究の「第 2 波」から「第 3 波」への移行とも連動するものであった。ここにも、日本の「国際日本学・

研究」を日本特有なものとしてではなく、世界の地域研究とのつながりのな かでとらえるべき理由がある。それでは、そうした新たな「国際日本学・研究」

の挑戦は、具体的にどのように実践されてきたのであろうか。それは、一方で、

国外の日本研究の視点を取り入れることで、そして他方で、日本のなかの「異 文化」に目を向けることで、「自文化」をあえて「異文化」視する実践であっ た。とりわけ、前者の点について重要だったのは、コスモポリタンな対話の 空間であった。日本国外に拠点をおく日本研究者と直接顔を突き合わせなが ら、彼(女)たちの日本への眼差しを真摯に受け止めることで、それまで持っ ていた自らの日本像を突き崩す作業がおこなわれた。

 法政大学・国際日本学研究所の初期の活動を見てみると、こうした意識の もとでさまざまな越境的な対話の場が設けられていたことが分かる。そのな かでも 2005 年 12 月にパリ日本文化会館で開催されたシンポジウムの役割は 大きかったようだ。「日本学とは何か-ヨーロッパから見た日本研究、日本か ら見た日本研究」と題するこの国際会議は、19 名もの欧米、東アジア、日本 からの第一線の日本研究者たちが発表をおこなう大規模なものであった(星 野 2007: 5)。本シンポジウムは、タイトルが示すとおり、日本に対する「『外 からの視点』と『内からの視点』がうまく釣り合わないという、両者の非対 称性の問題」を前提として、その「日本研究を内外で分かつ溝は何であるか、

(15)

そして、その溝を架橋することは可能であるか」という問いに直接向き合う 実践的な試みであった(星野 2008: 291)。実際に、シンポジウムでの報告・討 議をもとにした論文集からは「日本を拠点とする日本語ネイティブの研究者」、

「日本国外を拠点とする日本語がネイティブではない日本研究者」だけでなく、

「日本国外に拠点をおきながらも日本にルーツを持つ研究者」と多様な位置に いる研究者たちによる刺激に満ちた議論と対話の様子がうかがえる。

 立場や属性を問わず、日本に対するウチとソトの視点のあいだには溝があ るという点については、多くの論者が同意するところだったようだ。たとえば、

日系アメリカ人で人類学者のハルミ・べフ(Harumi Befu)は「外国人によっ て、外発的に展開された日本人論(中略)は、日本人によって、内発的に展 開されたそれとは、内容の点でも、それを生産する動機の点でも、異なって いるということである」と論じている(ベフ 2008: 7)。これは、研究者はそれ ぞれがナショナルな構造に埋め込まれており、そのナショナルな枠組みによっ て視点や動機が一定度規定されるということである。また「日本国外に拠点を おきながらも日本にルーツを持つ研究者」や国外での滞在経験の長い「日本を 拠点とする日本語ネイティブの研究者」から指摘されていたのは、それは単に、

視点の相違だけでなく、そこには権力的な非対称性が認められるということで あった。それは、一方で、先に論じた「眼差す者」と「眼差される者」とのあ いだのオリエンタリズムをめぐる非対称であり、また、他方で、より制度化さ れた知の体系をめぐる権力関係であった。桑山敬己は、後者のそれを「知の世 界システム」と呼び、欧米の研究が支配する「中心」に対して日本の人類学が「周 辺」に置かれている点を鋭く批判した(桑山 2008: 33-6)。さらに、越境的な対 話の空間として意義深いのは、こうした「日本側」の批判に対して「欧米側」

からの反論も見られたことであった。主催者の一人であるフランスを拠点と するジョセフ・キブルツ(Josef Kyburz)は「日本人研究者」からおうおうに して発せられる「外国人は本当のところ日本を『理解』できないという主張に、

少しでも妥当性はある」のかと疑問を投げかけた13)。またイギリスの人類学 者、ジョイ・ヘンドリー(Joy Hendry)は、桑山の指摘に対して日本は「周辺」

というよりもその「中間的」な立場に独自性と存在意義があると反論してい る(ヘンドリー 2008)。たしかに、一方でシンポジウムは、ウチとソトの溝は

(16)

厳然として存在していることを顕在化させたが、他方で、いかにその溝をつ なげていくのかということも論じられた。ドイツを拠点とする社会学者のシ ンゴ・シマダ(Shingo Shimada)は国、地域間の「文化的差異の過度の強調 は問題である」と指摘し、文化間のことなる意味コードの関係を考察してい く必要性を訴えた(島田 2008: 85)。また星野も「溝を架橋」する一歩として「外 からの視点の存在を認め自分の視点が 1 つの視点であることを自覚」し、自 身の視点を相対化する手法として「比較」が重要であると結論づけている(星 野 2008: 310-1)。

 国際日本学研究所では、ここで紹介したシンポジウム以外にも、日本と日 本国外の研究者とのあいだの国境を越えた刺激的で真摯な対話の場が継続的 に設けられていった。こうした空間は、もちろん日本研究をめぐる学問的な 鍛錬の場であった。ただし、それと同時に、越境的な対話を通じて、それぞ れのナショナルな文脈から一時的に自身の認識を切り離し、反省的に自らを とらえなおす契機となることが目指され、その意味では、ある種政治的な実 践をともなうものでもあった。いずれにしても、ここで重視された手法は、「他 者」との出会いを通じての文化の「比較」であったと言える。こうした「他者」

との出会い、対話は、ここで取り上げた欧米に限らず、アジアを中心とした 非西洋の研究者とも積極的におこなわれ、また、琉球やアイヌといった日本 のなかの「異文化」との出会いを通じて「日本を超える」実践が展開されていっ た。

4 「日本学」は死んだ?

 これまで述べてきたように 1980 年代に誕生した「国際日本学・研究」は、

21 世紀に入ると、第 2 波として、その性質を変容させながら発展してきた。

そうした新たな「国際日本学・研究」をめぐる活発な議論が展開されてから 15 年あまりが経過している。この間、状況はどのように変わってきているの だろうか。まず、アカデミアあるいは高等教育のグローバル化という側面で言 えば、国境を越えたひとびとや知の交流はいっそう活発化している。また冒頭 で論じたように、「グローバル地域研究」全体としても制度化が進み、世界的

(17)

な広がりを見せている。日本における「国際日本学・研究」もその流れのな かで発展し、また国外の日本研究者との交流は進んだため、日本の研究者と 国外の日本研究者とのあいだの「溝」は、以前に比べると埋まってきたよう にも思える。しかしながら、21 世紀初頭の状況に比べて、もっとも懸念され るべき違いは、日本研究全体、とくに国外の「日本学・研究」の盛衰であろう。

主に米国で活躍した文学研究者のマサオ・ミヨシ(Masao Miyoshi)は、1990 年代後半に “Japan is Not Interesting(日本は面白くない)” という挑発的な タイトルの講演をおこない「アメリカ内部では日本文化と社会に関して言え ることは言い尽くされたという感覚が生まれている」と「先駆的」に日本研 究の衰退を指摘してみせた(Miyoshi 2010: 196)。それでも、ミヨシの言説は、

依然米国の地域研究における代表格として君臨する「日本学・研究」に対す るアンチテーゼであり、その意味でも、ミヨシの論考は、むしろ当時の「日本学・

研究」がいまだに影響力を保持していることの証左であった。2000 年代なか ばの時点においても、日本研究に従事する多くの研究者にとって「『ジャパン・

アズ・ナンバーワン』ともて囃された日本の経済力にこのところ翳りが見ら れるものの、外国から日本や日本文化に寄せられる関心は依然として高く、『日 本研究』は衰えを見せていない」という星野の実感に共鳴するものが多かっ たであろう(星野 2005b: 17)。むしろ、日本研究の衰勢が広く指摘されるよう になるのは、もう少し時を経てからで、とりわけ 2000 年代から韓国研究が、

2010 年代以降は中国研究が躍進していくなかで、じょじょに地域研究として の「日本学・研究」の相対的地位低下が認識されていくようになったと言える。

 ただし、こうした認識は日本研究共同体内部での危機意識として、ひっそ りと、しかし、じわじわと醸成されてはいたものの、大々的に喧伝されては いなかった。そのような状況のなか、日本研究の現状と未来を深刻な問題と して受け止めている若い世代からの直接的な問題提起がおこなわれた。2019 年のアジア研究協会の定例会議において “The Death of Japan Studies(日本 研究の死)” と題するセッションが、100 名を超える参加者を集めて開催され た。主に北米、欧州、豪州を拠点とする日本研究者たちが集まり、それぞれの 地域で日本研究の置かれている状況を語り合った。地政学のインパクトと「中 国の台頭」、地域研究に対するポスト・オリエンタリズム批判や人文学一般の

(18)

衰退などについて活発な議論が交わされたが、挑発的なセッション・タイトル に面食らった参加者も多かったと言う。それでも、セッションの主催者であり、

博士号を取得したばかりの若手研究者で日本中世史を専門とするパウラ・カー ティス(Paula Curtis)は「第 2 次大戦後のニーズ、冷戦下の意識、そして『クー ル・ジャパン』をベースとする日本研究が、死んだとするならば、その『再生』

が求められる時期に来ているのではないか」と訴えた(Curtis 2020a)。

 たしかに、これからテニュア(終身在職権)を目指す研究者にとって自身の 学問分野の盛衰は切実な問題である。カーティスは「日本学・研究」の現状 をさし示す実践としてこうしたセッションの催しにくわえて、自身のウェブ サイトにおいて日本研究関連の研究・教育ポストについて調査したデータセッ トを公開している。そこではアジア研究協会の公募情報ページをはじめとす る主要な英語の公募サイトが分析され、他のアジア地域を対象とした公募と の比較のなかで、日本研究関連のポストの動向が明らかにされており、興味 深い(Curtis 2020b)。2019 年 6 月 1 日から 2020 年 4 月 29 日の 1 年弱のあい だにさまざまなサイトに掲載されたアジア関係の公募情報を分析すると、最 多は中国専門家に対する募集で、130 弱あり、日本関連ポストはそれよりも 3 割ほど少なく 90 弱であったものの 2 番目に多い数となっている14)。「東アジア」

あるいは「アジア」で募集をかけている公募が次に多く、80 程度、つづく韓国・

朝鮮の専門家をターゲットとした募集はかなり減り、20 強にとどまっている。

この結果に対して、中国研究の公募数が多いのは、あまり驚くべきことでは ないだろう。むしろ、日本研究に関しては、意外にもその数は少なくないよ うな印象を受ける。ただし、この点に関しては 2 つの点で留意が必要そうだ。

第 1 に「東アジア/アジア」というリージョンをベースとした募集において、

どれだけ、日本を主な研究対象としている応募者が、他のアジア地域の専門 家を押し退けてポストを獲得しているのかという問題がある。この点につい ては、明らかにされていないが、リージョンでの募集数は多く、ここでの採 用数が日本研究の競争力を指し示す 1 つの指標となる15)。また 2 つ目に、国、

地域とは別にどの領域のどのようなトラックでの募集かという点である。ここ で興味深いのは、日本研究の場合「文学/文化」と「日本語」といった専門 分野の募集が、歴史学や社会科学に比べて圧倒的に多く、その数にはかなり

(19)

の偏りがある。「文学/文化」に限って言えば、この分野での日本研究のテニュ ア・トラック・ポジションは中国研究のそれを超える。しかしながら、歴史学 となるとその数は圧倒的にへり、中国史が 13 のテニュア・トラック募集があっ たのに対して、日本史での募集はわずか 2 つにとどまっている。こうしたこと から考えられるのは、学部を中心とした教育現場においては、とりわけポピュ ラー・カルチャーをはじめとした日本文化研究の一定の需要があるというこ とだろう16)。しかしながら、研究レベルの議論で、日本について論じることで、

どれだけ interesting なことが言えるのかは、また別の問題となる。また、日 本研究全体をどのように「復活」させていくのかというこの分野に従事する 研究者にとって悩ましい問題は依然として残る。

 そこで、日本研究の「危機」をなげいて終わらせるのではなく、今後ど のようにそれを「復活」させていくのかについて論じるセッションが、翌 年の 2020 年に同じくアジア研究協会の年次大会にて企画された。あいにく COVID-19 がもたらしたパンデミックによって学会全体はキャンセルとなった が、“The ‘Rebirth’ of Japanese Studies(日本研究の「復活」)” と題する本セッ ションは、ヴァーチャルなラウンドテーブルというかたちでオンライン開催 された。米欧日の大学でテニュア(トラック)にて日本研究に従事する若手 5 人の討論者がそれぞれの論考をウェブサイト上に掲載し、それに対する読者の コメントや質問を併記するという斬新な形式がとられた(Curtis 2020c)。そ こで論じられているのは、主に教育と研究ポスト探しについての実践的な面で あったが、今後の日本研究全体を考えるための示唆的な論点も多く提示され た。共通した意見としては、現在、欧米の大学でシニアのポジションにある日 本研究者が若手の頃に置かれていた状況と、現在の若手が直面している状況 はだいぶことなり、アドヴァイスをする側も受ける側もその点について強く 意識する必要があるということ。そして、日本研究に未来があるとするならば、

狭い意味での「日本性(Japaneseness)」を対象とすることから脱却していく 必要性があるという点であった。こうした共通認識のもと、より具体的な提案 がいくつか出された。まず、教育に関しては、自身の狭い専門分野を超えて 教えられる能力を身につけることの重要性が指摘された(Miller 2020)。それは、

一方では、国を越えたトランスナショナルあるいは、リージョナルな教育で

(20)

ある。米国ウェズリアン大学で教えるタケシ・ワタナベ(Takeshi Watanabe)

は、自身の専門に照らし合わせて、たとえ日本美術が専門であったとしても、

中国、韓国、インド、場合によってベトナムの美術についても講義ができる能 力が求められていると述べる(Watanabe 2020)。また、別の論者は、地域的 な拡大だけではなく、組織的に、他のプログラム、他の専門分野、他の大学と の連携をはかることの重要性を指摘する。たとえば、カリフォルニア大学アー バイン校の「サステイナブルな日本(Sustainable Japan)」プログラムは、日 本研究と環境学を組み合わせたプログラムを設置している(Miller 2020)。実 践レベルで提示されたもう一方の論点は、人的なレベルでのグローバルな流 動性に対応していくことであった。米国のアジア系学部は、「他者」について 学ぶ場から「自身」について学ぶ場へと変化しているという。1990 年代にお いては、米国のアジア系学部に入学するアジア系の学生は少なかったが、と くに 2017 年以降、留学生を中心にアジア系の学生が多数を占めるようになっ た。そして、そうした学生たちは、自身の母語や英語だけでなく、他の東アジ ア言語をもマスターし、リージョナリズムを意識している(Watanabe 2020)。

さらに、現在日本の大学で教鞭をとる報告者は、アカデミック・ポストのグロー バル化はよりいっそう進んでおり、出身国や出身大学院の所在国を越えてポ ジションを探していくことも、もっと強く意識されるべきであると主張して いる(Gaitanidis 2020)。

5 「日本を超える」方法論トランスナショナリティとセオライジング

 「日本研究の死」というのはいささか大袈裟な表現であり、人数から言って も、プログラム数から言っても、「日本学・研究」は欧米の地域研究のなかで はいまだ影響力のある領域である。少なくとも学部教育のレベルにおいては ポピュラー・カルチャーが一定の興味を惹きつけている。それにもかかわらず、

こうしたセッションが開催され注目を集めるのは、「今はそうでも未来は?」

という若手研究者の切実な声に対して、すぐにこたえが出ないからであろう。

日本の歴史、文化、政治、社会をそのまま提示するだけでは interesting とみ なされなくなった今、どのようなアプローチが求められるのだろうか。アジ

(21)

ア研究協会での議論に耳を傾けてみると、そこで提示された打開策は、思考、

方法論において「日本を超えていく」ことであった。たしかに 2000 年代以降 の「グローバル地域研究」としての日本研究は、日本国内、国外を問わず「日 本を超える」ことを要請してきた。それは「第 3 節」で「国際日本学・研究」

の事例を通じて論じたとおりである。アジア研究協会での議論も、基本的にこ の路線の延長線上にあるように見える。ただし、グローバル化がより一層進 展していくなかで「日本を超える」方法も深化、多元化している。「国際日本学・

研究」においては、これまで、主に日本に対するウチとソトのイメージをぶ つけ合いながら、また日本のなかの多様性の問題を通じて、従来の日本イメー ジを解体していく作業が進められてきた。それ自体、終わりのない試みであり、

今後も継続されていくべき方法論であることには違いない。しかし、アジア 研究協会で発っせられたのは、また別の角度から、より大胆に「日本を超えて」

いくことを求める声であった。それが、一体どのようなものなのか、未だコン センサスはえられていないが、ここ 10 年あまりの人文社会科学をめぐる動向 をふまえて、1 つの視座を提示してみたい。それは、端的に言えば、分離から 接続への転換である。文化主義的な比較の方法論においては、日本とそれ以外、

ウチとソトというかたちで、はっきりとしたネーションの境界を前提にして いた。また学問的な方法論としての比較は、一般的に差異を浮かび上がらせ るための手法である。そして、そこに文化本質主義的な視点が組み込まれると、

いわゆる日本人論的な日本の絶対的固有性へと回収されていく危険性をとも なう。それに対して、接続の視点は、日本を世界とつなげていくようなイメー ジである。そして、その接続には 2 つの側面がある。第 1 に、日本と国外とい う明確な境界を前提とするのではなく、むしろ境界を揺るがすような日本と世 界のつながりをさぐっていく視座。もう 1 つは、一見日本に特殊だと考えら れている性質や現象をふくめて、日本の事例から他の国、地域にも応用可能 な普遍性を持った概念を生み出していくというセオライジングの作業である。

以下では、この 2 つの点から新たな日本研究の方法論的可能性を探ってみたい。

 まず、1 つ目の視座は、日本と世界のつながり(とその方法)に着目するも のである。これは、一般的にはトランスナショナルと言われるアプローチで、

人、モノ、情報、資本が国境を越えていくプロセスを分析する方法論として知

(22)

られる。こうした視点自体は、1990 年代に生まれ、2000 年代から本格的に着 目されるようになった17)。たとえば、歴史学の分野であれば、一方で、国民 国家を基礎としたナショナルな歴史を乗り越え、また他方で長い歴史を有す る world history(世界史)の西洋中心主義的な側面を批判しながら、世界が グローバル化していく過程を描いていく global history(グローバル・ヒスト リー)が生まれた(Conrad 2016)。Transnational history(トランスナショナル・

ヒストリー)は広い意味でのグローバル・ヒストリーの一部を形成するものと してみなされることが多いが、とくに国境を越えるミクロなプロセスに着目し ていくことにその特徴がある。これに近い概念としては、connected history(コ ネクテッド・ヒストリー)、entangled history(エンタングルド・ヒストリー)

または entangled modernity(エンタングルド・モダニティ)といったものが あるが、いずれにせよ、国境を越えた人、モノ、情報のつながり、とりわけ、

その結節点や相互の複雑な絡み合いに着目する研究である。こうした視点を 通じて、ウチとソトという明確な境界を前提とした国民国家の枠組みを乗り 越える試みだと言える。

 こうした国境を越えるアプローチは、歴史学に限ったものではない。先に 論じたように、社会科学においても、21 世紀に入ってからは、グローバル的 転回という言い方で、国民国家を超えた視点での分析が求められるようになっ ている。たとえば、歴史学にもっとも近い領域では、社会学におけるグローバ ル歴史社会学がある。近年、それまで歴史社会学において主要なアプローチ であった国家間の比較(Skocpol 1979; Tilly 1989 など)や国家間の経済的なつ ながりとそれにともなう権力関係の分析(Wallerstein 2011=2013 など)といっ た国民国家を主要な変数とするマクロな歴史的構造分析を乗り越えるいくつ かの新たな方向性が提示されてきている(Adams, Clemens, Orloff 2005)。そ のうちの 1 つであるグローバル歴史社会学は、国民国家を基礎としたこれまで の実態論的(substantialism)な世界観を持つ歴史社会学に対して、関係論的

(relational)な視点からどのように国民国家をふくめたさまざまな近代的プロ ジェクトが越境的な相互行為によって形成されてきたのかに焦点を当てる(Go and Lawson 2017: 22)。これは、国境を越えたつながりに着目するという意味 では、トランスナショナル・ヒストリーと重なるが、歴史学のそれと比べると、

(23)

より理論、構造パターンや因果メカニズムに重点を置く特徴を持つ(Go and Lawson 2017: 5)。

 また、より現代的な事象に関心を持つ社会学者たちによってもトランスナ ショナルなアプローチは進展してきた。とくに 1990 年代から展開された移民 研究を中心とした国際社会学(international sociology)は、21 世紀に入るこ ろにグローバル社会学(global sociology)としてよりダイナミックに加速す る越境的な動きをとらえる手法を生み出してきた(たとえば Buroway 2000)。

それは、一方で理論的にモビリティ(Urry 2007)やネットワーク(Castells 2009)といったトランスナショナリズムとの親和性の高い概念を援用、発展 させつつ、また他方で、トランスナショナルな研究のための方法論も洗練さ せてきた。資料調査をメインとする歴史学(Zimmerman 2013)にしても、エ スノグラフィーなどのフィールド・ワークを展開する社会学・人類学(Faist 2012)にしても、複数の国境を越えたフィールドで、自らが移動をしながら、

調査をおこなうマルチ・サイテッド(multi-sited)な手法をベースにさまざま な議論、実践がおこなわれている。日本を対象とする研究においても、とり わけ移民・ハーフ、文化・メディア、ツーリズム、市民社会・社会運動など の領域において進展を見せている。

 また、こうしたグローバル・トランスナショナルなアプローチの延長線上に あるのが、リージョナリズムへの注目である。国境を越えた動きに着目する研 究は、EU 統合とそれにともなう移民の流入がさまざまなかたちで日常生活に 変化をおよぼしている欧州でとくに盛んである。そのなかでも、リージョナ リズムの視点からの研究が、量、質とともに充実しているのは不思議ではない。

こうしたリージョナリズム研究の豊富な蓄積を持つ欧州、とりわけドイツの 地域研究者たちからは、近年、日本を含むアジアをリージョンからとらえて いくパラダイムを積極的に提唱する論者も出てきている。たとえばカトジャ・

ミールケ(Katja Mielke)などは、トランスナショナリズムとモビリティの議 論に大きく影響を受けながら、地域を明確な境界線を持つ「容れ物(container)」

と見なすのではなく、緩く定められたリージョン内(場合によってはリージョ ンを越えた)でのさまざまな越境的な相互行為やコミュニケーションとそれ が展開される具体的な「細分化された空間(differentiated spatiality)」を対

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象に研究をおこなうという “Crossroads Asia(クロスロード・アジア)” のパ ラダイムを提唱している(Mielke and Hornidge 2014; Mielke and Hornidge 2017a)。またこれと似たように、オーストラリアの日本研究者、テッサ・モー リス・スズキ(Tessa Morris-Suzuki)もモビリティを主軸に新たに地域研究 をとらえなおすアプローチを “Liquid Area Studies(液状的・地域研究)” と 呼んでいる(Morris-Suzuki 2019)。これらのアプローチは、トランスナショ ナルな相互行為が展開される空間を探し、その場で生じるダイナミズムを分析 するために必要な知識を 1 つの国、地域を越えて方々からかき集めていくよう なイメージであろう。いずれにしてもトランスナショナルなアプローチにおい て共通するのは、日本という国民国家にせよアジアというリージョンにせよ、

それを実態的にとらえるのではなく、それ自体が、さまざまな国境を越えたつ ながりによって、固定的でなく、流動性をともなったものとして形成されて いるという前提に立つものである18)。そして、国境を越えた対話が織りなす 空間や現象をつかまえ、それを明らかにするために必要な複数の地域(multi- sited)の言語や知識を習得し、自身が移動しながら、調査を進めていく方法で ある。

 ここで提示するもう 1 つの手法は、理論化を意味するセオライジング

(theorizing)あるいは理論作り(theory making)と言ったものである。これ は、ディシプリンと地域研究との悩ましい関係の問題とかかわる19)。欧米の プログラムにおいて、外国地域についての研究トレーニングを受けようとし た場合、その地域の政治、社会、文化、歴史を横断的に学ぶ地域研究の学科と、

政治学、社会学、人類学、歴史学、文学、哲学などの各ディシプリンの専攻 からある地域に特化して学ぶという 2 つの方法がある。地域研究においては、

対象地域の言語習得から出発し、幅広くその地域の性質についての知識を習 得する。それに対して、当然ながらディシプリンでの研究においては、まず 各分野の基本的知識を習得することが求められ、さらにその下位分野の専門 家として独り立ちすることになる。たとえば、社会学であれば、基礎知識と しての社会学の理論と方法、そして比較歴史社会学、教育社会学、労働社会学、

文化社会学といった下位分野固有の議論やアプローチに精通する。そして、そ のディシプリンの基盤の上に、地域固有の知識が組み込まれていく。したがっ

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