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公 布 の 本 質

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社会科学論集 109 2003.5

文≫

キーワー ド:公布,法律,法規命令

公 布 の 本 質 ( 1 )

三 宅 雄 彦

1. 序

一般 的法規範 は公布 を通過す る。 国会 の議決す る法律, 内閣の定立す る政令 は,天皇 によ り公布 され (憲法7条 1項 , 国会 法65‑66条), 地 方 議 会 の制定す る条例,地方 自治体 の長 の制定す る規 則 は, 自治体 の長 に よ り公布 され (地 方 自治 法 162項,5項),更 には, 国会 発議 と国民 投票 を経 た憲法改正 も,天皇 によ り公布 され る (憲法 7条 1項,962項)。 そ して, 公式 令 に代 わ る 戦後 の判例法 理 は, 法 律 と政令 の公 布方 法 を,

「官報」 による もの と し (例 えば,最大 判 昭和32 1228日刑集 11 143461頁 , 最 大 判 昭 331015日刑集12143313頁), ま た,各地方 自治体 の公告式条例 は,条例 と規則 の 公布方法 を,原則 と して 「都道府県報」又 は 「 示場掲示」 による もの とす る (例えば,埼玉県公 告式条例2条, さいたま市公告式条例2条。参照, 地方 自治法164項)。立法改革 であれ行政改革 であれ司法改革 であれ地方 自治改革 で あれ,或 い は,憲法改革 であれ, それ らは公布 を要す る上記 様 々な法形式 を通 じて実行 され る。 その意 味で, 公布 は, それ ら諸改革 を支え る枢要 な制度 である

と言 わなければな らない (1)0

しか し,公布 は今 なお謎 に満 ちた制度 である。

一つ めに,作用法 であれ組織法 であれ基本法 であ れ,公布 はなぜ全ての法律 に要求 され るのか,更 に,法律 であれ条例 であれ憲法改正 であれ,公布

はなぜ様 々な法形式 に要求 され るのか(2)。 二 つ め に,法律や政令 の公布 は,官報 とい う印刷物 の公 刊 によ り, 区市 町村 の条例 の公布 は,掲示板上 で の原本写 しの掲示 によるが,法形式 によ り公布 に なぜ異 な る方法が採用 され るのか(3)。三 つ め に, 法律 ・政令 ・憲法改正 は, なぜ,戦後憲法下でそ の権 限を縮小化 され形骸化 された筈 の天皇 によ り 公布 され るのか(4)。 これ らの問いへの満足 の い く 回答 は,我 々には,実 はない。公布 に関す る学説

といえば,法律拘束力 の発生 時 とい う技術 的論 点 へのそれなのであ って,公布 の対象,公布の方式, 公布 の主体,公布 をめ ぐるこれ ら本質 的論点 につ

いて,未 だ本格 的解 明はな されて いない(5) 本稿 の 目的 は,公布 の本質へ至 る道筋 を探求す ることにある。 中で も, ワイマール期 か らナチス 期 までの ドイツ国法学説 が参考 となろ う。何故 な ら, そ こには,法 の存立 を賭 けた勇敢 な試 みが展 開 され,法 の本質 に切 り込 む哲学 的思索が脈打つ か らで ある。 そ こで,以下 の順序で検討を進める。

第一 に, ヴ ェルナ一 ・ヴ ェ‑バ ー, ヘルベル ト・

ク リュガ一, エル ンス ト・フォル ス トホフによる 公布学説 を吟味 し,第二 に,公布学説 の背後 にあ る法哲学 ・法神学 ・教会法学 の思考 へ と, ギ ュン タ一 ・ホル シュタイ ンを辿 り,遡行す る。 この一 見迂遠 な手続 の履践 は,実在還元や規範還元 を峻 拒す る,法 の精神 的現実 を明 るみに出 し,公布制 度 に倫理 的本質 を呈示す る,形而上学 の源泉 を掘

り当て るであろう。

(2)

2.公布を通 じた法の現実化

まず本章 では, ワイマール期か らナチス期 まで の公布制度 の変遷を追跡 し(1), その公布実務を支 え る当時の国法学上 の諸学説 を検討 し(2),法律や 公布命令 に対 して公布が もつ二つの作用を呈示す

る(3)

0

(1)公布制度の展開 と諸学説

そ もそ も, ドイツ公布制度 の基礎 は,立憲 君主主義時代 に形成 され た。 19世紀 の ドイツ皇 帝 には,法律制定手続への参加 は制限又 は禁止 さ れるものの,法律認証 と法律公布 についてはその 関与 が維持 され,議会法律 の合憲違憲 の実質審査 まで も承認 され る。 この仕組みは, フランクフル ト憲法80条, ビスマル ク憲法17条 に登場 したの だが, ワイマール憲法70条 もこれを継承 す る。

つ ま り, ライ ヒ大統領 には,憲法 に基づ き正統 に 制定 された法律を認証す る権限, その当該法律を 一 ケ月以内に公布す る権限, この二つが付与 され たのだ(6)。法律以外 に も公布 は要 る。共和 国の危 機脱 出に濫発 され た憲法 48条 2項 に基 づ く緊 急命令で,公布実務 に混乱が生ず るも, この命令 に も公布原則 の射 程範 囲を及 ぼす わ けだ。 1923 1013日制定 の 「法規 命令公布法」 が それ , これ によ る と, 通 常 の ライ ヒ法 規 命 令 は

ライ ヒスゲ ゼ ッ ツ プ ラ ッ ト ライ ヒス ミニス トリアルプラ ッ ト ライ ヒスア ンツァイ

「ライ ヒ法律公報,ライ ヒ各省公報,ライ ヒ官報」, この三つの媒体の うちの一つで公布が義務づけ ら れ る(7)。 ところで, ナチス政権樹立 と共 に, 法律 と法規命令, この, 国民 の権利義務 を規律す る自 由主義 の枠組が崩壊 したことは,周知 の ことであ ろう(8)0 1933323日のいわ ゆ る 「授権法」

レギ‑ル ンクスゲゼ ソ は,議会でな く政府が制定 す る 「政 府 法 律」

の範 噂 を創 出 し,「議 会法律」 の意 義 を徹 底 的 に破壊す る(9)。 また,1934 130日 「ライ ヒ イアウフバウ

新編成法」 は, ラ ン ト議会 の廃止 によ りラ ン ト

政府法律」 の存在 のみを許 し, ラ ン ト閣僚人事 イヒスシュタットハルタ‑

権 を持つ 「ライ ヒ地方長官」派遣 によ り,「ラ ン ト法律」 を中央 の意 のままにす る(10)。更 に,1934 81日 「国家元首法」 は,首相 と大統領の両

92

職務を ヒ トラーに一元化 し,法律や命令 と同等の7ユ‑ラエアラス 地位なが ら,制定手続が全 く簡略な 「総統発令」

まで も容認す る(ll)。だが しか し,公布 に関 して, これ ら新 しい規範形式の取扱 いに変化 は,実はな い。「政府法律」 はライ ヒ宰相 によ り,「ラン ト法 律」 は地方長官 によ り,絵続発令」 は総統 によ り,それが独裁者 によるもの と して も,兎 も角, 公布 されなければな らない(12)

尤 も, ドイツ憲法 に伝承 される公布制度 の この推拝 は,実 は,市民的法治国家原理 による。

つ ま り,国家活動の予測可能性,市民活動 の法的 安定性,公布制度の究極 目的はここにある。帝政 時代 も革命以後 も, この事情 に根本的変化はない。

19世紀国法理論の完成者, ラーバ ン トはい う。

あ らゆる法律 は主権 国家 の命令である, あ らゆる 国民が この命令 の名宛人である,故 に, あ らゆる 国民 にこの命令の告知が保証 される, と。国家権 力か らの 自由財産 の保護,古典的 自由主義のこの アイデアが,法律が公布 され ることを求める。つ ま りは,法律公布 の必要 は,法律概念 にその基礎 を持つ(13)。 けれ ども,法律公布 の必要 は,法律本 質 に由来 しない。 同 じくラーバ ン トの指摘では,●●●●

彼の時代の法律制定 は, ライ ヒ議会の法律議決,●●●● ●●●●

連邦参議院の法律裁可, ライ ヒ皇帝の法律認証,●●●●

ライ ヒ皇帝 の法律公布, この四段階による。だが 法律 は,議決を もって内容を もち,裁可を もって 命令 とな り,認証 を もって完成 に至 る。即 ち,認 証 されない法律 は未だ法律でないが,認証済みな ら公布 されぬ法律 も既 に法律 である(14)。 この法実 証主義の法律観か らすれば,公布制度 は,法律執 行の便宜の為の,単な る 「行政措置」 に過 ぎぬわ けだ(15)。つま り,典型的法治国家の下での公布は, 法律 の本質要素 ではない(16)0

そ うな らば,難点 を抱 えた19世紀 的国家 の原 理が,20世紀的国家 を 自称 す るナチス国家 に, 通用す る筈がない。つ ま り,公布の原則 には様 々 な例外が追加 されてゆ く。最初 の例外 は,公布の 遅延 とい う事態である。例えば,軍事要塞建設の

ソユツツベ ライ ヒゲセ ッツ

ための土地所有権制限な どを行 う 「要塞地帯法」

は,1935124日に制定 されなが ら, 同年4 9日に公布 され る。 しか し,国防 と戦争遂行 の

(3)

公 布 の本 質 (1) ための特別犯罪を定め刑事手続 を簡略化す る 「

時特別刑法命令 と戦時刑事訴訟命令」に至 っては, 制定 は1938816日に も拘わ らず,公布 は何

と一年以上後の翌年826日で あ る。 一 ケ月以 内の公布の要請 は有名無実 となる()7)。続 いて,法 律公報以外 の,別の公布方法 も採用される。即ち, 航空監督法施行令 は,緊急の場合,且つ, ライ ヒ 官報での事後通知がある場合 には, ライ ヒ航空相

ドイチュラン トゼ ンダー

による 「ドイツ放送」 での命令公布を容認する(18)0 そ して遂 には,公布を不要 とす る秘密命令が登場

して しまう。例えば,新生児や幼児の重度先天疾 患事例の申告を医師 ・助産婦 に義務づ ける,1939 818日のライ ヒ内務省令, 遺 伝病 患者 や精 神病患者 な ど 「生 きるに値 しない生命」 の抹殺 を 命令す る193910月の総統命令(19),或いは,ポー ラン ド侵攻後獲得 した東方 占領地域で東方ユダヤ 人の虐殺 を命令 す る1941513日の指令,

「ユダヤ人問題の最終解決」 の実行権 限をその実 行部隊に授権す る1941731日の総統命(20), オイタナ ジーベフェール エ ン

な どがそ うである。 これ ら 「安楽死命令」や 「

ト レ ー ズ ン

終解決策」 は全て公表 された ものではな く, また これ に依拠す る活動が裁判 とな って も 「事後 的公 布」 で決着 はつ く。要す るに,公布 は もはや法律 の本質ではな く,便宜 に左右 され る手段 に成 り下 が る(21)。

これを受 け, こうした公布制度か らの逸脱 は, その残忍な帰結への意識 は別 として, いわゆ るナチ ・イデオ ローグが正 当化す るだろ う(22)。例 えば, ケル ロイターは次 のように述べ る。法律 ・ 法規命令 ・条例を公布す るのは,法的安定性 を確 保す る為である,故 に,法規範 は全て公開される べ Lとの原則 は維持 される,だが, それは慣習法 的な原則であ り,必要 に応 じて例外措置が承認 さ れよう, と(23)。或 いは, ケ ッ トゲ ンの説 はこうで ある。実務運用か らは,法律 と法規命令 の必要的 公布が帰納 され るが,総統発令 はそ うではない, それは,一般規範である前二者 と違 い,後者 は個 別行為か組織規範であ り,予測可能性 を保護す る 必要がないか らだ, と(24)。 けれ ども,彼 らの論理 は市民的法治国家の延長線上 にある。 そ うではな い, 自由主義の公布学説 の戴滅, 出鱈 目なナチス

法実務 の裏書, これはヨハ ンネス ・ヘ ッケルの仕 業 による。 まず最初 に軍事命令が, その公布義務 か ら解放 され る。何故な ら,軍隊組織 は閉鎖秩序 を成 してお り,命令告知 は当事者 に行 き渡れば十 分 だか らだ(25)。 だが この主張は,法命題 その もの へ と全面拡張 され る。法 内容の公表 は権力 の 目的 に従属 し,公表の要否 は権力の 目的が決定す る,

うしろくら

故 に,後 暗い法 な ら公布 の遅延 や脱落 は何 ら問 題 はな く,有益な法 な ら制定前 で も宣伝 しなけれ ばな らない, という訳だ(26)。 だか らこそ,ユダヤ 民族絶滅命令 は秘密だが,ニ ュル ンベル ク人種諸 法 は公開 となる。 ここで公布の要否を決定す るの

は, もはや法の本質でな く,人 の窓意である。

要す るに, 19世 紀 の産物 た る ドイ ツ公布 制度 は,合法革命以降の法形式 の多様化 ・複雑化 に浸食 され,遂 には, ナチス戦争政策 と人種政策 による公表制限又 は公布省略で破壊 され るのであ るが,公布制度 の こうした衰退傾 向は,実 はその 基礎 たる市民的法治国家原理, とりわけ, その主 要部分である法実証主義的法律観 によ り,予め折 込み済みだ といえ る。

(2)共同体的現実 としての法

しか し, こうした公布制度 の相対化 には, 潜行す る犯罪への認識 とは別 に,例外的な否定的 態度 も存在 した。例えば,ヴェルナ一 ・ヴェ‑バー の主張はこうだ。 まず第‑ に,公布原則か ら逃れ る法命題 は認 め られない。法命題を全てを公布 し なければ,法定立機関の判断の慎重 さは確保でき ず,多様なが らも統一的な全法秩序 も維持できな い。議会法律,政府法律,総統発令,全ては公布 されな くてはな らない (27)。更 に加えて,公布媒体 は法律公報 に一元化すべ きである。前述 の三媒体 は法律上対等であって も,各省公報」 は各省担 当の特定領域をカバーす るのみで,「官報」 も法 文の普及 に貢献す るもののテクス トの公権的確定 に十分でない。法命題公布の正式専 門雑 誌,「法 律公報」 をまずは優先すべきである(28)。 また,ヘ ルベル ト・ク リュガ一において も公布 は欠かせな い。つ ま り,立法者が法的意思表示 を行 う場合 に は,常 に公布が必要である。 この公布義務 は,市

(4)

社会科学論集 民的法治国家の立法者であろうと,ナチス政権下

での立法者であろうと, その妥当性 に変わ りはな い。 ここで も公布 の原則 は,議会法律,政府法律, 総統発令,全てを射程 に入れ る。従 って, ただ総 統意志の存在を もって,法規命令 の公布原則の例 外承認を導 くヘ ッケルは, ク リュガ一にとり 「 計」 に映 る(29)。彼 らの主張を真筆 に見 る者 は,た とい暴虐 の時代 とも一色 に塗 り潰 された国法学界 はない, そ う実感す るであろう(30)0

けれ ども, こうした彼 らの主張 と伝統的公 布学説 の主張は, 同 じものとは限 らない。 まず, ヴェ‑バ ーが法の公布を義務づ けるの も, 市民的

フォル クスゲマイ ン・/ヤ7 ト

法治国家の精神でな く,全 く別の 「国民共 同体」

の理念が彼 にあるか らだ。つ ま り,法 は, それが

「国民共 同体 の法」 であるか らこそ, 公布 を必要 とす る。 もっとも, ヴェ‑バーの 「国民共 同体」

と,悪名高 さナチスの 「国民共 同体」 とは,注意 深 く見分 けておかねばな らない (31)。彼 のいう 「国 民共 同体」 とは

,

血液 と大地」 或 いは 「人種 と 空間」で予め決定 された,何人 の疑問 も受 け付 け ぬ, 自然的で固定的な可視的共同体ではな ((32), 指導者 と国民の不断の往復運動で初 めて立 ち現わ れ る,不安定且つ不確実 に見え る,精神的で流動 的な不可視の共 同体の ことである(33)。 この共 同体 が不断 に創造 され るの と同様 に,法 も国民 によ り 常 に担われ保たれ創 られねばな らない。 この意味 で法 は

,

「公共の秩序」 であ り 「生 の秩序」 で あ る。 この公共性が法の尊厳を生むだろう。つまり, 法命題が公布 されるか らこそ,法への国民の尊重 が生 まれ,法の創造 と維持へ と国民の参加が促進 され る(34)。要す るに,公布 は法律への単なる追加 ではな く,立法行為 その ものの 「統合化的構成部 分」 にはかな らない。法定立は常 に且つ必然的 に 公布 によって行 われなければな らない(35)0

また, ク リュガ‑の公布説 の背後 に も, スメ ン トか ら継承 した独 自の法本質論が伏在 している。

つま り,法 とは, 固有の意味での法現実であ り, 公布を不可欠 の要素 とす る。純粋の現事実性や単 なる規範性ではない,事実的な価値づ けと価値的 な諸事実の包括的で弁証法的な連関の中で,法を 見なければな らない。事実が価値化 され,価値が

事実化 されて初めて,法 は法現実 となる。価値を 脱現実化 し,現実を脱価値化 しては,法本質 は見 失われて しまう(36)。 この,価値を事実へ と変え, 法 を法現 実 た ら しむ もの こそ, 法 の公 布 な の だ。つ ま り,法 は,第三者 に可視的で認識可能 な 形象を得て,或 いは,命題 として語 られ文書 と し て記 されて,理念の世界か ら実在 の世界へ移動 し なければ,その法 はまだ成立 も存立 もしていない。

フェアオイセル ン 法定立者が, 己の意志を実在 に載せ 「 化」 し

エ ン トオ イセ ル ン

出 」 して初めて,法 は成立 へ と至 る。 判 決 は言渡 され,行政行為 は告知 され,法律 は公布 される。 この 「外化」 と 「放 出」 こそ法の生命で あ り,法を現実化す る 「公布」 こそ法律の本質を (37)0

だが, ヴェ‑バ ーとク リュガ‑では, ナチ スの野蛮暴虐 を阻止できない。 その公布理論 に備 わ った抜穴をナチスは易 々と潜 り抜けるであろう。

つ ま り,総統発令 につ き, ヴェ‑パーはこれに公 布 を必要的 と断定す るが, そ こには実は,総統発 令 には総統 の権威 と重要性 が 内在 す るか らとい う,親ナチス的論拠が追加 されている(38)。勿論, 彼 にはナチスの圧力があったとの報告を想起すれ ば,総統権力へのこの迎合的態度 に防禦的な意味 合 いを想定す るの も許 されよう(39)。 しか し

,

「総

統意志が公布を要求す る」 との命題 と

,

「総統意

志が公布を不要 と した」 との命題 との距離 は, ほ んの僅かな ものだ。 その意味で,全法形式を総統 意志 の下 に相対化す る公認学説 と,径庭はない(40)0 他方で,公布を法律の本質要求 とす るク リュガ‑

理論 も,暴政 の防波堤 にはな らな い. 彼 日 く,

フェアキュン ドゥン フェアエ ツ7ェン トリッヒュン

布 」 と 「 表 」 は同一ではない。

公布」 は,或 る指令 をその関係者 に通知 す るこ とだが

,

「公 表」 は, 或 る指令 を あ らゆ る人 に 通知 して これを交付 す ることだ。 つ ま り

,

「公

布」 は 「公表」 の上位概念であ り

,

「公布」 は必

ず しも 「公表」 でな くともよい (41)。権限ある者の

正式」 な意思表示であること, その公布実施者 が公布 の意 図を もっ こと, この公布の客観的要素 と主観的要素 さえあれば, ラジオ放送であれ 口頭

7ェアキュン ドゥン

渡 」 であれ, 通常 の公布公報以外 の形式 逸脱 も容認 され るのだ(42)。つま りは, ヴェ‑バ ー

(5)

公 布 の 本 質 (1) とク リュガ‑の理論 は,実践的,機能的 には全 く

妥当な もの とはいえない。'どんなに無謀 な法定立 ら, それは総統の意志である,未公表だが公布済 みである, こう付 け加えれば,全ての問いは退却 を余儀な くされ る。

要す るに,公布制度 の復権 を力説す る理論 に,公布を精神的現実たる法律の本質要素 とする, ヴェ‑バーの国民共 同体 の理論 とク リュガ‑の法 現実の理論があるが, そこには,総統意志 を費美 し秘密命令を容認す る,ナチスの窓意 を見逃す重 大 な亀裂が残存 している。 ここでは,理論 的徹底 を完遂 し真正 の公布を樹立す るための,法形而上 学の確立が待望 され るのである。

(3)現実化 し倫理化する公布

実は, この肝心の法形而上学 は同時代 に形 成 された。 それはフォルス トホフの公法理論であ る。 ヴェ‑バーとク リュガ‑の不完全,即 ち, 国 民共 同体や精神的現実 としての法 とい う思考 は, 理論的徹底を経て初 めて,実践的に妥当 となる。

つま り, フォルス トホフによると,法 とは,言語 の中に獲得 された精神形象,言語 を通 じて結合す る精神世界, いわば,精神 の現 実」 で あ る。 理 念 としての法 は媒体 としての言語 を通 じて初 めて 我 々に呈示 される。音声であれ活字 であれ身振で あれ,法が現実 となるには, まず実在的形象を獲 得 しな くてはな らない(43)。 そ して, この法一般 を

7ェアキュン ドゥンク

現実化 し現実化す るものこそ,実 は, 布 」 である。 公布 され るの は法律 だ けで ない。 裁判

フェアキュン ドゥンク

官 の判 決 も 「 渡 」 さ れ る。 行 政 行 為 の

ベカ ン トガーベ エアクレール ンク

知」(44),法律行為 の 「 」(45)に も同 じ意 味があるとすれば,全ての法が 「公布」 されるこ とになる。 そ して,法律 に関 していえば,立法者 の単 なる内部意思だけでは法律は完成 していない。

立法者意思 は,公布 を通 じ実在的形象を獲得 して 初 めて,真正 の法 とな る。 この意 味 で法律 は,

現実的文化言語」 であ り,文化現象」 や 「客観 的文化財」 なのである。公布 された もの,即 ち, 共 同体的な もの と現実的な もののみが,法律であ

る, これがフォルス トホフの意見であ(46)

しか し,ここには,給統権力を援用するヴェ‑

バーの迎合的姿勢,ナチ実務を裏書するクリュガ‑

の妥協的態度 は,実 はない。法律の公布 を要求す るのは, ただフォルス トホフの言語哲学の帰結 で ある。 この形而上学か らすれば,公布制度 の名 に 値す るのは, ただ法律公報 による伝統的な制度 に 限 られ る。 この言語媒体の上 に化休 された精神現 出を読み解 く為 に, フォルス トホフが選択 したの

インステイ トゥテ ィオネー レメ トー

,制 度 的 方 法」であ った。 つ ま りは, 捕 象的法それ 自体 の把握ではな く,歴史性 と有効性 の結合,伝承的遺産 と新規獲得物の融合か ら,磨 史的法 を了解す るための方法である。その意味で,

ここには, ヴェ‑バーとク リュガ‑が徹底できず にいた方法態度が全面的に展開 される(47)。確かに, 実体 と法則 に拘 る自然科学的思考を退 け,現実 自 体 と現実運動 を 「任務」 とし,「政治倫理学」 と しての国法学の基礎づ けを図 るク リュガ一に,そ の教授資格論文を指導 したスメ ン トの痕跡を見 る のは容易である(48). また,独 自哲学の 自覚的展開 はないとして も, ヴ ェ‑バーの精 神哲学 は,「精 神的諸連関の開明」 に向けたスメ ン トの生涯への 好意的論及,実証主義論駁や哲学的解釈学 に向け たヴェ‑バー門下 の国法学の伝統, これ らの中に 確かに根づいている(49)。 しか し,軽率 に も事実優 先 の爽雑物を混入 され,二人 によ り軟禁 された文 化哲学の潜在性が, フォルス トホフを通 じて全面 的に顕在化 された と理解すべ きか もしれない。 だ か らこそ, フォルス トホフは,公布制度 の効能を 力説す る。戦後 に判明 したナチスの暴虐 について 彼 はいう。精神病患者 の抹殺 も, ライ ヒ法律公報 で公布 され る法律で規律 されたな らば, それが本 当に実行 されたかは,疑 問視せ ざるをえない,或 いは,法律公報 という法実証主義の残余が, ヒ ト ラーの意 図を現実 に阻止 しえていた事実を,忘却 してはな らない, と(50)。 ここで彼の主張 に推測 さ れ るのは,法律の倫理性である。つま り,法律 は 公布 によ り倫理的な もの とな り, この倫理的な法 律 は反道徳的な現実を矯正す る。

尤 も, この公布 の,法律 を倫理化す る作用 は,その偶有的要素ではな く,本質的要素である。

それ どころか, この公布 は,法律 のみな らず, あ らゆる法への倫理化作用を持 っている。 フォルス

(6)

トホフ日 く,公布 には二つの特徴がある。第‑に, 公布 は現実化作用を持つ。 そ もそ も言語 は,個人 的思考を精神的現実‑ と変換す るものである。裁 判官の単 なる思考 が口頭 の 「言渡」 によ り変更不 能で普遍妥当な判決‑ となること, これ は, その

言語 の形而上学的現実」の例証である。口頭であ れ書面であれ,理念か ら現実へ, その対象の論理

7ェアヴァンデル ンデ

的性質を徹底的に変更す る作用,即 ち 「変更す る

ヴィル クン

作用」 こそが,公布の特徴である(5)。第二 に,公 布 の倫理化作用が これに追加 され る。一 口に言語ミ′トルン

にも,様 々な態様があるのだが,公布 は 「 達」

ベカントマヅヒュンク

や 「通 知 」 ではない。「通知」 は単 な る特定 事実の通告であ っ.て, それを行 う者の個性や特徴 を問 うものではない。 だが,「公布」 はそ うで は ない。公布 は,公布 され る対象を,その公布者の 人格 ゆえに,責任のあるもの,信頼 に足 るものに す る。信頼 に足 る人物が特定の認識 を公的に確証 し保証す ることによ り,その確証 され保証 され る ものは,責任を もたれ信頼 を持 たれ る。即 ち,認 識 を倫理‑, その対象の論理的性質を徹底的に変 更す る作用,即 ち別の意味での 「変更す る作用

7ェアキュン ドゥンさえ も, 公布 の特 徴 とな る(52)。 「 布 」 と

フェアキュン ドゥン フェアキュン ドゥン

渡 」,つ ま り 「 知 」 は,法 や法律 を 現実化 し倫理化す る, フォルス トホフはこう述べ ているのである(㍊)0

要す るに, フォルス トホフの理論によると, 公布 とは,法律 に限定 されず,法理念を法現実へ と転換す るための,法安当の前提条件であ り, し か も, あ らゆる法思考ではな く,道徳的な法思考 のみを現実化す る,法倫理の前提条件で もある。

つま り,公布 には,法 の現実化作用のみな らず, 法の倫理化作用 も, その本質的要素 と して備 わ っ ているのである。

(4)

結局の ところ, ワイマール期及 びナチス期 にお ける法令公布 をめ ぐる議論 は,大略以下の とお り となる。つ ま り,帝政時代 の国法学通説を受けて, 新生 ワイマール共和国は, 自由主義的要請 に従 っ た公布制度 を設 けその運用を拡充するのであるが, ナチス政権の樹立後 は, この法令公布の原則 は,

当初 は公布時期 の遅滞や別公布手段の利用により, 遂 には公布 それ 自体の省略 によ り,骨抜 きにされ 破壊 され るに至 る。 この公布衰退 の背景 には,公 布伝統を支え る自由主義 に反逆す るナチス指導者 原理 の浸透 もあるけれ ども,反面,国民共同体原 理や精神科学的方法 による,別方向か らの公布正 当化の試 み もある。 とはいえ,混乱の実務傾向に 妥協せず,理論 と実践の真 の統一 を 目指す もの, それは, フォルス トホフの,精神哲学 と言語哲学 による正 当化 を受 けた,公布理論である。 この公 布 の形而上学的基礎 を探究す ることこそ,我 々が 次 に行 うべき課題である。

けれ ども, フォルス トホフの公布理論 は,法学 内在的な論及で完結す るのではない。彼 は法学者 であるが,聖職者 の子で もある。つ ま り, フォル ス トホフによれば,公布が法思考 を現実化す るよ うに,告知」或 いは 「宣教」或 いは 「説教」 は 神の言葉を肉化す るものである いわば,法学的

フェアキュン ドゥン フェアキュンデ ィダン

布 」 は,神学的 「 知 」へ と通ず る。

この重大 な論点を迂回 しては,公布の本質 に至 る 道 は,実 はない(54)。尤 も, この公布 と告知の連関 に向か う, フォルス トホフ自身 による指摘は,莱 は簡略に過 ぎる。 ここでは,法学 と神学の連関 に 隠 された,公布 の形而上学への道筋を, ある補助 線を引 くことにより探索 してみたい。ギュンタ一 ・ ホル シュタイ ン教会法学の検討が,それである(55) この提案 は,法学 と神学 とを媒介す る役割を教会 法学 に期待 できること, もう一つには,文化哲学 と精神哲学 による革新がホル シュタイ ンに実行 さ れた こと, これによる。

3.神学的告知 と法学的公布

そ こで次 に, この公布 の形而上学的実体の端緒 を探索す る作業 に移 ることに しよう。 ここでは, ホル シュタイ ン教会法学 は告知を どう把握 してい たか(1), この告知論 は公布の現実化作用 と倫理化 作用 にどう接続 しうるか(2), その告知論は法理論,

とりわけ公法学 にどう継承 され うるか(3), この順 序で議論 を進 めていこう。

(7)

公 布 の 本 質 (1)

(1)告知を志 向する教会法学

(か まず,法学的公布が神学的告知 に連なると すれば, それは,両者 の舞台 となる法学 と神学の 接合 も要求す る。 まさに, ホル シュタイ ン教会法 学の出発点 はここにある。彼 によると,教会法上 の問いを解明す るには, まず特殊宗教的 ・教会的 な問いの解明を行 う必要がある。生諸関係の議論 か ら法学的な議論 を孤立化可能 とす る形式法学的 考察 は,誤 りである。特別な精神的諸基礎 を事前 に省察せず して,教会法の法学的考察を行 うこと はできない。 その限 りで,教会法理論 は,特殊意 味での法学理論であるだけでな く, 同時に神学理 論 の一部分なのである。従 って,教会法学 は,信 仰 と教会 についての ドイツ的 ・福音主義的な基礎 据えを, まずは展開 しなければな らない(56)。 そ う なれば,教会法学 に最初 に要求 され るのは,教会 法の解明ではな く,教会それ 自体 の解明である。

法学的概念の検討 に対 し,「一般 的 な社会学 的概 念規定」,本来的な意味での前法学的諸事実」の 検討, これが先行す る。法がな くとも在 る,法 に 形成 される前 の,教会概念 その もの,或 いは,法 概念 との混交か ら逃れ,視界が狭陰化す る前の, 教会概念 その もの,法実証主義 に反対す る教会法 学は, ここか ら出発 しな くてはな らない。法概念 を取 り除いて初めて,教会現実を在 りのままに見 ることができる。神学的教会概念を,法学的教会 概念 と法学的教会法概念の前提 と理解 しな くては な らない(57)0

それでは, ホル シュタイ ンにおける教会, 或 いは,教会法学 の参照すべ き神学的教会 とは, 一体何か。 それは端的には,「言葉 の教会」 で あ る。 これ こそが教会法学の出発点である。 ところ で,神学 における神 とは, ホル シュタイ ンによれ

ヴ ォル

ば, それは 「言葉」である。 その言葉 とは,神の 意志 に他な らない。つま り, それは, キ リス トの 救済 と,人間全体 と個人其 々への神 の意志 とで示 され る,音 づれ の全体 の ことで あ る。 しか も,

ソユ リフ ト

言葉」 は 「聖書」 で もある。 その聖書 とは, 神 の意志を記 した ものだ。つ ま り, それは,教会が 権威づ け戒律が保護す るが故 にではな く,聖霊が

その賢慮 と秘密を言葉 にまとめ文書 に啓示 した故 に,神 の言葉 なのである。「神御 自 ら語 られ た」

か らこそ,聖書 は言葉 となる(58)。 そ して, この神 の言葉 は,人間にとって も 「言葉」である。だが, 言葉 とは,概念把握 され正確実行 され るのではな

く,直観 され告知 され るものだ。 ホル シュタイ ン 日 く, カ トリックは,言葉を人間悟性で概念把握

し,合理思考で強制執行 しようとす る しか し,

ェル ター

それは法学 と神学 を無理 に直結す る 「単語」の思

ヴ ォル ト

考である。「言葉」 の思考か らす れ ば, 本 当 は, 神 の言葉 には,矛盾 と緊張が残存 し,人 間の思考 を拒絶す る筈だ。福音主義 はこう考 える。言葉 は その神的な力で人間を捉え, その神的な力で人間 に証言せ しめる, と。 この神郷 自らが意志 し,辛 物本質 に由来す る,言葉 の非合理性 を,信仰の中 で直観 し,現実の中に化体す ることこそ,人間に 任 された職務 なのである(59)0

それゆえ,言葉 は, 信条 と教義 によって人間の

ベケ ン トニ

ものになる。 この,信条」 とは, 言葉 の力 の体 験 を完全な意識 の下へ高め,確実な神の権威 に人ドグマ 間の意志 を振 り向けることであ り, また,教義」

ベズ ィッ

とは,神 の 「葱依」を他者に了解可能な思考手段 ・

ドグマーテ ィ

形式で定式化 し,続 いて 「教義学」へ と思考必然 性 と内的関連性の観点か ら統一 的に体系化 される ものである。神の言葉 は,「認識 し思考 し行為 す る人間」 の信仰 によ り内面化 され,「感得 し思考 し行為す る人間」 の教義 によ り現 出化 され る。言 葉 と聖書 に形を与え, これを証言す るのは, まさ に人間であ り, その信条 と教義なのである(60)。 そ して, この神 の言葉 を実現 す る人 間の言葉 が, フェアキ ュンデ ィグン フ ェアキ ュンデ ィグン フェアキ ュンデ ィダ ンク

教 」又 は 「 教 」 又 は 「 知 」 と して登場す る。 中で も,牧師は,職務 として委 託 された 「説教」 と 「秘蹟」 を もって,神の力を 実現す る。教会が規定 した信条 に従 って,神 の言 葉を告知す ること, そ して,教会が規定す る秩序 に従 って,聖餐 を執 り行 うこと, これが牧師の職 務である。教区教会 と教区代表 による命令があろ うとも,ただ只管 に,言葉 の絶対性 に平伏 し,神 の言葉卜 と奉仕 しな くてはな らないo まさに,牧 師の言葉の執行 こそ,神 の言葉の 「告知」 なので ある(61)0

(8)

そ して, この神 の言葉 を告知す る人 間によ り, 教会が築 き上 げ られて くる。 だか らこそ,教会 は

キル ヒェ デス ヴォルテ

言葉 の教会」 と呼ばれ る。つ ま り, キ リス トを 中心 に組み上 げ られた社会的有機体 こそが,教会 の本質である。 まず,教会 には,主 とその権威‑

の絶対性要求,或 いは,言葉 の中に現われ る神 の 霊 的力, これが直接 にな くてはならない。そ して,

この神の力を受 けて,主への絶対性要求を実行 に 移 し現実化す る,複数の人間がいな くてはな らな い。従 って,教会 は,永遠 なるものを今 ここにあ るもので実現す るとい う意味で,精神的共 同体」

なのである。 そ うなれば,教会の活動その ものが

言葉の告知」 である(62)。 そ して, 教会 は, この 意味において,見えない教会」 で もあ り 「見 え る教会」 で もある。一方で,教会を形成 し創設す る本質が,人間感官では把握できない霊的生であ るが散 に,教会 は 「不可視的教会」の呼称を持ち, 他方で,牧師による言葉 の預言や聖餐 の授与 とい

う,認識可能な外的徴表を教会が持つ ことか ら, 教会 は 「可視的教会」 の名称を持つ。 だが,二つ の概念 は, キ リス トを信ず る人間か ら成 る, 同一 の共同体を呼称す るものだ。両者 の違 いは,言葉 を告知す る教会を, 内面か ら見 るか社会学か ら見 るかにあ り,結局 は同一の教会を指示す る, こう いわな くてはな らない(63)0

そ こで,精神的共 同体 とい う教会概念が神 学 によ り構成 され るな らば,法学の前で停止 して いた教会 は,今 こそ,神学か ら法学へ,前法学的 概念か ら法学的概念へ と,進展 してよい。 だが, ここでの法 の役割 も,やは り言葉を告知す ること にある。言葉 は,法 に関与す る人間の活動 によっ て,理念世界か ら現実世界へ とや って くる。 しか

し, この現実世界 には,神 の力を志向せぬ者,志 向 して も罪 を犯す者がいる。教会の可謬性 を承認 しつつ も,教会の超個人的な精神生の展開を,個 人 に影響 されず純粋 に言葉へ と方向づけるような, 法的な共 同体形式が, ここで与 え られ るのだ(64)0 そ して, ここには,霊的教会」 と 「法 的教会」

ガイス トリッヒュ キル ヒ の区別が,登場 して くる。つ ま り, 教会」

とは,神 とキ リス トに結ぶ人 々の共 同体であ り, 且つ,預言 と聖餐 の下 に・集 う人間の集合体である

ところの, 可視的且つ不可視 の教会のことである。

レヒツキ ル ヒ

そ して,法的教会」 とは, このキ リス ト共 同体 をその周囲か ら境界づけ, その行動を規律すべ く,

社団」や 「財団」 とい う思考形式 によ り枠付 け られるところの,法 的形式を もった教会の ことで ある。 この霊的教会 と法的教会の一体的な二重性, これ こそが福音主 義教会 の本質 を刻 印づ けて い る(65)0

尤 も,以上 をそのまま採 ると, ホル シュタイ ン 教会法学 の探究対象を,法の 「公布」 と見 るのは 困難である。言葉 は告知 されて教会 とな り,教会 は法化 されて法的教会 となる。す ると,法 は告知 す ると して も,告知 されることはない,故 に,結 論 は奇妙 に も,法律 は公布す るとして も,公布 さ れることはない,となろう。だが しか し,ホルシュ タイ ン理論が,我 々の 目指す ものであることは, 疑 いな く彼 自身が断言 している。つ ま り,彼の教 会法理論 は, ただ単 に教会法 を問 うのでな く,

公法 と法体系学の基礎的諸 問題 その もの」 を根 底か ら問 うもの,教会法を題材 に法学の精神史的 方法を探 るものなのである(66)。 その証拠 に,彼の 教会法学の成果 は,福音主義的な法理解へ と結実 している。彼日 く,法 とは,神 の世界秩序 の維持 に向け られた人間秩序である。つま り,実定法 は それ 自体で存在 しない。正義 に適 った もの又 は理 性的な ものが,国民精神 の特殊本来性 と民族の国 民的諸状況を通 じて,具体的に適用可能で法的に 決定可能な規範へ と転化 して初 めて,実定法 は出 現す るわけだ。全ての法形成 には,神 にとり必然 的な要素 (自然法的要素) と人間にとり自由な要 秦 (実定的要素) との,不可分で統一的な,二つ のモメン トがある。 ここには,神的な ものが人的 になるとい う意味で,特殊福音主義的な事態が登 場 している, ホル シュタイ ンはこう見ている。要 す るに,言葉 も法律 も,告知 される(67)

結局の ところ, ホル シュタイ ン告知理解 の 概略は以下の通 りとなる。 まず,教会法学 は,莱 証主義法学ではな く,神学探究成果を応用 して展 開すべきであ り, しか も,教会を,神の言葉の下 に集 う人間の精神的共同体 として理解すべきであ る。 この可視的且つ不可視 の教会 という発想 は,

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