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ライトノベルにおける「作家」の存在―複合メディアにおける創造性

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(1)

平 成 二 十 八 年 度

学 位 請 求 論 文

ラ イ ト ノ ベ ル に お け る

「 作 家

」 の 存 在

複 合 メ デ ィ ア に お け る 創 造 性

(2)

【目次】

序論………1

第一部メディアの変遷と「作家」の関係について

第一章ライトノベルの成立と変遷………5

、「

ライトノベル」の意味二、違和感の正体三、スレイヤーズに至るまで世界観の構築四、スレイヤーズに至るまで文体の構築五、黎明期の混沌六、ライトノベルからの越境現象七

、『

涼宮ハルヒの憂鬱』を巡るメディア展開八、アニメ化作品の支配的状況について

第二章メディアから見る作家の解体………

2 2

一、素朴な読解の中の作家二、挿絵の地位の低下三、ツリー的権力関係四、記号としてのマンガ五、アメコミ、バンドデシネ、そしてマンガ六、アニメーションの静止性七、イメージから触れられる世界への越境八、コミックマーケットによる市場構造の変化九、二次創作と記号性の浸透十、デ・ジ・キャラットの「キャラ」性十一、初音ミクのN次創作

(3)

十二、大多数の送り手から大多数の受け手へ

第三章ライトノベルにおける作家の主体性著者近影の分析………

4 2

一、文学における著者近影の役割二、ライトノベルの著者近影三、イラストを使用した著者近影四、スニーカー文庫の著者近影の消失五、電撃文庫の選択時雨沢恵一の登場六、ライトノベルの二〇〇五年問題七、二〇〇九年、MF文庫Jの著者近影八、顔の持つ魔力九、キャラクター化する作家十、非アウラ的な写真の使用十一、作家から「作家」へ

第二部ハーレム系ライトノベルの構造分析

第二部を始めるにあたって………

6 1

第一章ライトノベル批評の現在………

6 3

一、セカイ系概略二、セカイ系の問題点三

、『

涼宮ハルヒの憂鬱』という結節点四、ライトノベル批評におけるハーレム系

第二章セカイ系からの離脱

『俺の妹がこんなに可愛いわけがない

』に

ついて………

6 9

一、ハーレム系の基本構造

(4)

、『

俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の基本設定三、オタクとは誰か四、編集者との関わり五、作品の自己言及性六、母性からの離脱七、虚構か現実か八

、「

作家」が生むテーマ

第三章停滞の中の成長

『生徒会の一存

』に

ついて………

8 5

、『

生徒会の一存』の構成二、ハーレムという停滞三、恋愛の放棄四、サンプリングから生まれるキャラクター五、オリジナルの存在へ六、終わりを越えて七、ライトさの中の「作家」性

第四章ハーレムの中の心理

『僕は友達が少ない

』に

ついて………

9 8

、『

僕は友達が少ない』の特徴二、構造とテーマ三、ハーレムにおける「母性」四、停滞から踏み出すこと五、友情の描かれ方六、恋愛というロマンの失速七、ネットワークの中の「作家」

第五章作家の固有性と構造的テーマの交錯

『ヒカルが地球にいたころ……

』に

ついて………

1 1 1

(5)

一、読み手としての能力二、同時代に対する感性三

、『

ヒカルが地球にいたころ……』の基本設定四、ヒロインとの関係性五、依存の自覚六、恋愛の行方七、構造に導かれる「作家」

第六章共感の構造と批評的「作家」性

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている

。』

について…

1 2 3

、『

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている

。』

の基本設定二、夢の「男の娘」三、既存のキャラクターによる語り四、主人公の特性五

、「

他者」の不在とコミュニティの呼び声六、自意識の化け物七、共感の構造と受け渡される「作家」性

結論………

1 3 5

一、おわりに二、作品論の総括三、作品の記号性と市場の形態について四、集合体としての「作家」

参考文献一覧………

1 4 0

著者近影収集作品リスト

(6)

1

序論

本研究は、ライトノベルにおける作家の存在、作家というイメージの考察を意図するものである。ここでいう作家の定義については本論で詳述するが、まずは従来の研究史における本研究の位置づけについて確認したい。本研究は過去の作品の考察ではなく、創作者のための文藝理論の構築を目的としている。これは文学研究では難しい課題かもしれないが、文芸学という表現文化や表象文化を扱う広範な領域の中に、このような問題設定を位置づけていきたい。確かに様々な先人の作り上げた伝統の下に現在はある。しかし、創作は常に現在の問題である。自分達のいる現在を常に見直し続けることが出来なければ、新たな物語を人々に届けることは出来ない。本研究がライトノベルという表現分野に注目する理由もここにある。表現は時代時代の顏である。確かに、ライトノベルはかつての基準で言えばありえないほど軽薄に見える表現かもしれない。しかし、その軽薄に見える表現は時代に求められたものであり、読者の切実な願望に支えられている。考察する意味は大きいと思われる。また、ライトノベルは純文学と呼ばれてきた分野の研究では視野に入ってこない、アニメやマンガ、インターネットや、コミックマーケットを中心とした二次創作など、様々なメディアの影響を受けている。ライトノベル研究は、従来の小説、物語研究の方法だけでは不十分である。ライトノベルの世界は現在それ自体では自立しておらず、多数のメディアとの関係の中で生成され、変容している。ライトノベル研究では、そ のことを反映した独自の方法が要求される。このジャンルを読み解くことで、現在大きな存在感を持っている視覚的メディアが文藝創作の環境にどのように作用しているのかを考えることができる。ここに見える一断面からも自明なように、単にライトノベルというジャンルだけに留まらず、メディアやコンテンツ産業の変化の現代の姿を捉えていかねばならない。そのために、本論はライトノベル研究の中でも作家という存在に注目して論じていく。ここで言う作家とは、実際に創作を行っている生身の人間を指している訳ではない。作品から浮かび上がり、我々が読み取る意味での作家という存在を射程に含めていきたい。創作者が血の滲むような努力で作品を作り上げるのが事実だとしても、我々は作品からその内情を正確に読み取ることはできない。創作者の実像とテクストに込められた作家との間には超えることのできない溝がある。しかし

、テ

クストに浮かび上がる虚像だったとしても、その虚像は十分に注目に値する。作家はメディア環境の中で作られるのである。ロラン・バルトのあの有名な言葉が、我々に示唆を与えてくれるだろう。バルトは『物語の構造分析』の中で、次のように述べている。

作者 というのは、おそらくわれわれの社会によ

って生み出された近代の登場人物である。われわ

れの社会が中世から抜け出し、イギリスの経験主

義、フランスの合理主義、宗教改革の個人的信仰

を知り、個人の威信、あるいはもっと高尚に言え

ば、人格の威信を発見するにつれて生み出された

(7)

2

のだ。()

近代の文学において作者はあまりにも特別だった。作品の持つ意味は作者の意図に限定され、読者は受動的な位置に押し込まれてしまっていた。バルトはこのことに異を唱え、作品を言語学的なテクストへと読み替えることで、読者の手による創造的な読みへの道を理論的に切り開いたのだ。これは文学研究の基礎的な理論であるが、本論が改めて注目したいのは「作者は近代の登場人物である」という部分である。なぜ近代という時代において作者が重要視されるようになったのか。これは重要な問題であるが、本研究が主題とするところではない。本研究はあくまで

、創

作者の側からこの問題を考えていく。作り手の側からしても、作者という虚像が変化するという問題は重要である。しかし、立場は全く逆になる。作り手の側から見れば、読者が作家の意図を探ろうと努力してくれることは、決して都合の悪いものではないだろう。それが正確に伝わったものではなく、誤解に塗れたものであったとしてもである。勿論、作り手の側が古典的な権威や制度を全く無批判に受容してきたわけではない。既存の制度を疑うような作品は、数限りなく作られてきた。文学の領域においても同様であるし、前衛芸術と呼ばれるような領

域では特に顕著である

。マ

ルセ

・ デ

ュシャンMarcel Duchamp やアンディ・ウォーホールAndy Warhol などの名前を我々は知っている。しかし、制度への異議そのものが、作家という個人の名の元に理解されてきた歴史がある。作家という制度は強靭であり、それが制度であると知ってからもな お、依然として力を保っていた。近代という時代において、バルトの告げた「作者の死」は特殊な読みの中での出来事ではなかったか。読者は作家の意図を知りたがる。だからこそ、作家はある種、神話的な響きを持った権威として君臨してきた。作家はまだ生きていたのである。近代という時代において、作家は有効な権威として機能していた。だからこそ、権威として振る舞うことも、創作者側の戦略として選択され得た。しかし、バルトの言葉はやはり、一つの予言でもあったのだ。繰り返すが、本論が注目するのは「作者は近代の登場人物である」という言葉である。この言葉を字義通りに受け取るのだとすれば、近代が終わった時、作者はどのような位置に置かれるのだろうか。現在も文学や作家の権威が維持されている場所は依然として存在する。しかし、それはかつてほど自明のものではなくなっているのではないだろうか。今後の動向は分からないとしても、創作者はその動向に意識的でなければならないだろう。この点を考える上で、ライトノベルというジャンルは注目に値する。実際、一般的にライトノベルは、作品もその作り手も権威を背負っていない。その理由は作風の問題もあるが、メディアの性質やコンテンツ産業の構造自体にも原因がある。バルトの告げた「作者の死」は、ライトノベルにおいて読みの問題ではなく現実の問題として起こっている。勿論、ライトノベルの書き手も作家と呼ばれている。しかし、そこには権威としての機能が明らかに薄れているのである。本論は作家を巡る状況を整理し、背景と思われる周辺メディアとの関連の中で作家の問題を考察していく。

(8)

3

その上で現在のメディアに適応し、状況にコミットメントしていこうとする時、創作者がどのような立場に置かれるのかを考察していきたい。この目的を果たすために、本研究は二部構成となっている。第一部では作品外部の情報の検討を行う。これまでの研究を参照しつつ、アニメやマンガからライトノベルが受けた影響や、これまでの文学作品との外見的な違いに注目する。これらはライトノベルを論じる上で見逃すことの出来ない問題を孕んでいる。ライトノベルの作品、作家生成の土台の考察である。その上で

、第

二部では作品内部の分析を行う

。勿

論、先に述べたように読者は実際に創作を行う作り手の内面には踏み込むことはできない。このことは、ライトノベルの作家の場合も同様である。しかし、先行作品や他のメディアが与えた影響を読み取ることはテクストの上からでも可能である。本論が注目するのは作り手の内面ではなく、作家の置かれる状況である。そしてこの状況に対応する中で、物語は作られていく。作品分析を通して析出しようとするのは作家の存在、そのありかたである。このことを整理するため、第二部においては作家という言葉を一度括弧で括って考えていく。本研究が対象とする「作家」とは全てライトノベルにおける「作家

」 を

指している

。 「

作家

」 は

周辺のメディアであるアニメやマンガの影響を大きく受けている。アニメやマンガの持つ視覚性や再現、改変の容易さがライトノベルというジャンルを大きく規定している。ライトノベルの「作家」は個の存在としてよりも、現在の状況を多角的に吸収した存在であり

、 「

作家」の解明から浮かび上がってくるものは大きい。 それは実際に創作をしている作り手の意図を超えるものかもしれないが、ここに浮かび上がる「作家」を読み取ることで

、創

作者が如何なる時代状況に置かれ、如何に読まれうるかを知る手助けはできるだろう。それは自己を表現し、世に問うていく中での一つの指針になるはずである。本論の構成の概略は以下の通りである。第一部の第一章で行うのは、ライトノベルというジャンルの基本的な特徴の整理である。ライトノベルという名称が生まれ、認知される経緯や、どのような点が注目されてきたのかを先行研究での議論を参照しつつ確認していく。第二章ではライトノベルに影響を与えたアニメやマンガの持つ性質に注目し、二次創作を含めたコンテンツ産業の構造を読み解く。これらはライトノベルの読まれ方、消費のされ方を規定しているものである。第三章ではライトノベルの著者近影に注目する。著者近影は近代文学でも見られた装置であるが、ライトノベルではこの装置が変化し

、 「

作家」と読者との関係に近代文学とはまた違う効果をもたらすようになっていった。収集した著者近影の変遷を具体的に確認しながら、既存の文学の作家とはまた違う、ライトノベルの「作家」の在り方を考える。第二部では作品読解を行っていく。ただし、これは作品の内容自体を理解することが目的ではない。周辺メディアや先行作品からの影響を分析し、その結果作品の中にどのように「作家」が表れてくるのかを読み取ることを目的としている。そのために本研究が分析対象としたのはゼロ年代の後半から流行したハーレム系と呼ばれる作品群である。類似した構造を持つ作品

(9)

4

を取り上げることで、一つの構造が流行する中で作品の中に「作家」が表れ、また、個々の「作家」を超えてテーマが深められていく過程を確認していく。第一章ではハーレム系のライトノベルに対する先行研究の確認を行い、第二章から個々の作品の分析に入っていく。第二章で扱うのは伏見つかさの『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』である。ここでは、ライトノベルの制作環境の考察や他メディアとの比較を行う。第三章で扱うのは葵せきなの『生徒会の一存』である。同一の構造、テーマを扱いながら異なる帰着へと至った作品を比較し、ここに表れる「作家」性を考察する。第四章で扱うのは平坂読の『僕は友達が少ない』である。先行作品が意識されながら、どのようにテーマが深められていくのかを確認する。第五章では野村美月の『ヒカルが地球にいたころ……』という作品を扱う。この作品では個々の「作家」の持つ「作家」史と流行する構造が交差し、新しい物語が生まれることを読み取っていく。第六章では渡航の『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている

。』

扱う

。こ

の作品によって

、 一

つのテーマを複数の「作家」が語り継ぐ中で、どのような地点に辿り着いたのかを論じていく。情報メディアのテクノロジーが大きく変わったことで、創作者の置かれた環境は激変している。その変化に自覚的であることが、今後の創作者には求められるだろう

。 「

作家

」 も

メディア環境の中で生成され

、 変

容していく。作品も「作家」もメディアという大きなシステムによって規定されているのである。印刷メディ アから大きく飛躍し

、ラ

イトノベルはアニメやマンガ、インターネットや二次創作といった様々なメディアと競走し、併走している。本研究は、そのような表現を追い、メディア環境と表現との相互関係に注目する。特権的な作者は死んだが、メディアは次々と「作家」を誕生させている。メディア環境の中の表象文化、その典型例としてライトノベル研究を捉えていきたい。本研究は創作者が現代のメディアの状況の中、少しでも主体的に自らの表現を掴み取る一助となることを表用するものである。

Roland Barthes “La mort de l'auteur”, Manteia, V, fin 1968,pp61-67,61-62 花輪光

訳『

物語の構造分析』みすず書房、一九七九年、八〇頁

(10)

5

第一章ライトノベルの成立と変遷

、「

ライトノベル」の意味

ライトノベルとは何を指す言葉なのだろう。既存の小説とどこが異なっているのだろうか。本論はまず、そんな素朴な疑問から始めなければならない。アニメ・マンガ調の表紙を持ち、若い世代を中心に読まれている。恐らくそのような理解が多いと思われるが、馴染みのない人間からすれば、何か得体の知れないものに映っているのかもしれない。しかし、ライトノベルは日に日に無視できない存在感を持つようになっている。ライトノベルは低迷を続ける出版業界の中でも成長を続けている数少ない分野

である

。 下

の図1

ORICON エンタメ・マーケット白書2015

』で

発表されている

、ラ

イトノベルの年間売り上げの推移である。元々ライトノベルは文庫サイズでの出版が主流であり、文庫市場全体の二割前後を占めると言われてきた(1

)。

在では文庫サイズについては市場が飽和化し、微減が続いている。そのため、古くからあるレーベルに関しては少し苦しい状況となっているが、その結果多くの出版社が単行本サイズでのライトノベルの出版に力を入れていることになった。この試みは近年大きな成果を結びつつあり、ライトノベル全体で見てみると、二〇一二年以降、一貫して右肩上がりの成長を続けている。この傾向は今後もしばらくは続いていくだろう。また、このような大規模な調査でライトノベルの項目が設けられていること自体、ライトノベルが市民権を得ている証明でもある。このライトノベルと呼ばれるジャンルが一体何であ

243.7 236.7 231.6 230.1 218.6

63.4 62.4 74.6 99.7 132.8

307.1 299.1 306.2

329.8

351.4

0 50 100 150 200 250 300 350 400

1112131415

■図1、ライトノベル 年間売上額の推移

(単位:億円)

文庫 BOOK

O R I C O N エ ン タ メ ・ マ ー ケ ッ ト 白 書 2 0 1 58 1

※ 引 用 し た 図 の 詳 細 は 註 に 記 す も の と す る

(11)

6

るのかは

、近

年盛んに議論されてきた

。本

論ではまず、先行研究を参照することで、ライトノベルの実態を理解する助けとしたい

。本

章では議論の準備段階として、ライトノベルの起源や歴史、また顕著な特徴についての研究を整理する。そもそも

、ラ

イトノベルという言葉の発生は

、い

つ、どこで起こったのだろうか。幸いにして、名付け親ははっきりしている。神北恵太という人物である。彼は当時パソコン通信ニフティサーブというサイト内でシステムオペレーターという仕事をしていた。サイト内で行われる会話を円滑に進めるため、議論の進行を管理する仕事である。彼が担当していたのは「SFファンタジーフォーラム」というコーナーだった。ライトノベルという名称が生まれたのは、そのコーナーの中での出来事である。一九九〇年の初め、神北はSFやファンタジーではあるものの、他の作品と並べて議論するのが難しい作品群があることに気づく。そこで神北が便宜上付けたのが「ライトノベル」という名称だった。ライトノベルのフォーラムで取り上げられていたのは、出版社の区分で

は「

ヤングアダルト

」 「

ジュブナイル

」ま

は「

ジュニア小説」などの名称で呼ばれている作品だった。そういった出版社の区分けに読者側が不便を感じ、生み出したのがライトノベルという言葉なのである。しかし、それは当然一つのサイト内で細々と使われる言葉に過ぎなかった。ライトノベルという言葉がニフティサーブ外でも認知され始めたのは、およそ十年後、インターネットが本格的に普及し始めた二〇〇〇年代になってからだと言われている。使いやすい名称だっ

た「

ライトノベル

」は

草の根的に広まっていった。 その後、ゼロ年代の中頃に、相次いでライトノベルに関する批評本が出版されたことにより

、 「

ライトノベル」という名称は市民権を得るようになる。二〇〇四年の『ライトノベル完全読本vol1』

( 日経BP社、二〇〇四年) を端緒とし、榎本秋の『ライトノベル文学論』( NTT出版、二〇〇八年) や新城カズマ

ライトノベ

」 入

門』( ソフトバンク新書

、二

〇〇六年) など

、こ

れらの本は堂々と書名にライトノベルという言葉を使っている。言わば、ライトノベル批評ブームとでも言うべき現象が起こっていた。先に挙げたライトノベルの起源の話も『ライトノベ

ル「超」入門』に詳しい() 。ライトノベルとは何かを解き明かす、あるいは何も知らない人に紹介することを目的としたこれらの本は作家や編集者など当事者達の言葉で綴られ、生々しくも興味深い内容を含んでいた。加えて、その後の展開に大きな役割を果たすこととなる。ライトノベルはマンガのように見える外観を持っているが、中身としては小説である。そのため、書店員達は新しい形態の本を売り場のどこにおけばいいのか苦慮していたのである。そんな彼らは、積極的にライトノベルのコーナーを作っていった。こうして、ライトノベルという言葉は「特定集団におけるローカル言語

」か

ら「

作家や編集者など当事者にも使われる言葉」となり、最終的にそれ自体には興味のない人々の目にも止まる、広く使われる名称へと変わっていったのである。

二、違和感の正体

(12)

7

神北恵太の命名からライトノベル批評ブームによる一般化まで、ライトノベルという言葉は比較的スムーズに受け入れられた

。勿

、紆

余曲折はあったようだ。例えばライトノベルの源流を作った作家の一人と言われる平井和正は『ライトノベル完全読本』のインタビューでライトノベルという言葉を知っているかという問いに

、 「

言葉としては聞いたことはあります。むしろ最初に聞いたときは頭にきました」と述べている

。 「

小説にはライトもヘビーもない」というのが平井の考えであ

る(

)。

かに

、ラ

イトノベルにはシリアスな問題を扱った作品や重厚な設定を持つ作品も数多い。ライト=軽いというイメージに嫌悪感を持つ人間は多かった。けれど、何かしら新しい言葉が必要だということは多くの人が感じていたのである。新城カズマはその理由を「前向きな違和感」という言葉で表現してい

る(

)。

、ラ

イトノベルを既存の枠組みでは表せないと感じさせた違和感とは何なのだろうか。この議論の最も初期に提示された大塚英志

キャラクター小説の作り方』( 講談社現代新書

、 二

〇〇三年) での見解は

、や

はり無視できない重要な示唆を含んでいる。大塚英志が注目したのは、新井素子という毎日新聞の記事に掲載された「マンガ『ルパン』三世の活字版を書きたかったんです

」 (

)と

いう発言である

。 大

塚自身は新井の発言を「ルパンとは言うまでもなくアニメ『ルパン三世』のことで

」(

6)と読み替えており、議論としての難点はあるが、大塚の着眼点をまとめれば、次の通りになる。通常の小説の場合、そこに表れるのは生身の人間による物語である。しかし、新井素子の書きたかったも のが「ルパンの活字版」だったとすれば、表れるのはマンガ、アニメのキャラクターによる物語である。違和感の正体はここにある

。乱

暴に言いきってしまえば、従来の小説とライトノベルとの違いは

、「

実写ドラマ」と「アニメ」との違いなのである。もっとも、先の特に断りのない読み替えにも分かる通り、大塚の新井に対する読解は問題も多くある。大橋崇行は「少女の文体

新井素子初期作品における一人称」の中で詳細な検討から批判を行っている。大橋は新井素子を「まんが・アニメーションの枠組みを小説に取り込んだという以上に、純文学やエンタテインメント小説、さらには映画やマンガ、アニメーションとメディアを横断するかたちで物語に関わる領域をフラットに見て、それらを総体として小説執筆のリテラシーの基盤として持っていた、きわめて一九八〇年代的な作家

」 (

)で

あると位置づけ

、そ

こに過度

に「

まんが・アニメ的リアリズム」を読み込むのは誤読であると述べている。事実、大塚は後に新井の発言に依らずして、新井の文章がアニメ、マンガ的であることを証明する方向に論を転換している

。(

8)とはいえ、新井素子論としてではなくライトノベル論として見た時、その初期に大塚がライトノベルの特徴を、アニメを例に説明した意味は無視できない。ライトノベルがアニメ的な印象を与えるという点に関して言えば、それは正当な指摘であったからだ。勿論、実写ドラマとアニメの違いは微妙なものであ

。 例

えば

、 神

尾葉子

花より団子』( 集英社

、 一

九九二―二〇〇八年) や二ノ宮知子

の『

のだめカンタービレ』( 講談社、二〇〇一―二〇一〇年) など、アニメ化と実写化の両方が行われ、その両方で大きな成功を収

(13)

8

めた作品は数多く存在する。これらはどちらの手法をとっても比較的違和感の少ない作品群である。同様の例はライトノベルにも当てはまる。実際、初期のライトノベルには表紙がアニメ絵でなかったとすれば、ライトノベルとは呼ばれないであろう作品も数多く含まれていた。そのため、ライトノベルとは何かという議論が出始めた頃、表紙にアニメ、マンガ風のイラストがついているかが大きな判断の基準であった。イラストがアニメ調の絵だった場合、読者は自然とアニメのような絵柄で物語を思い浮かべる

。そ

れこそが、ライトノベルと一般のエンタメを分ける違いだった。ここで興味深いのは、書き手の側はこの変化に自覚的ではなかったという点である。新城カズマは『ライトノベ

」 入

』 の

中で

、 「

書き手も編集者も

、 単 に『

面白い小説をつくって出そう

』 (

)と

いう意識がまずあったわけで、自分たちで新しいジャンルを創ろうと考えてから創る、なんてことではなかった」と述べている。そもそも、初期の作家達はライトノベルという言葉が広まる前から執筆業を始めている。作り手たちは面白い小説を追求しているだけだった。そうして生まれた本にアニメ、マンガ風の絵柄が表紙につけられ、読者側から何か他とは違うと受け入れられていった。ここでは、本にどのような外観が付与されるかが大きな役割を果たしている。つまり、その初期において言えば、ライトノベルとは出版社による売り方、戦略の違いだったのである。そのため、特定のレーベルから出される本をライトノベルだとするレーベル論は確かに本質をついている。しかし

、ド

ラマとアニメの違いは画面だけではない。実写化するには、どうにも違和感があるアニメという のも確実に存在する。実写からアニメの場合も同様である。マンガらしいマンガがあり、アニメらしいアニメがある。そして、ライトノベルらしいライトノベルが生まれるのにも、それほど時間は掛からなかった。作品にアニメ風の絵柄が付くことで現れた変化が、作品の内部、文体にまで影響を及ぼし始めたのである。佐藤ちひろは「表現のパイオニア

ライトノベルが切り開く地平」の中で、そのことを具体的な文章を挙げて明らかにしている。次の四つの文章を見ていただきたい。

ドクロちゃんは親指を立てて、ウインクして見せました

。(

1 0

額に縦線を浮かべてうつむく朝比奈さん

に(

11

すばべしゃ!あたしは景気よくスープ皿に顔を突っ込んだ。

(

1 2)

僕の頭の上ではちっちゃくディフォルメ化した「見てはいけない!」と叫ぶ理性の天使と「もっとよく見て……」という誘惑の撲殺天使(もちろんドクロちゃん)が、ぱたぱたと回転。そしてドクロちゃんが隣を飛んでいる理性の天使に気が付き、砂目つぶしで奇襲して撲殺バットを振りかぶった時でした

。(

1 3

こういった表現は読者の頭の中でどのように再生されるだろうか。佐藤ちひろはこのような描写を「マン

(14)

9

ガ的な絵にすることはできても、現実で再現するのは不自然あるいは困難である

」 ( 1 4

指摘している

。 現

実離れした表現自体はライトノベル以外にも珍しくはない。幻想文学や神話など古今東西で見られる。しかし

、ラ

イトノベルらしいライトノベルの場合はマンガ、アニメの絵柄で想像した時にやはりしっくりくるように出来ている。ライトノベルはマンガ・アニメ的な世界を小説で表現したものとして徐々に確立されていったのである。

三、スレイヤーズに至るまで世界観の構築

アニメやマンガを意識させるパッケージが付けられ、ライトノベルというジャンルが形成されていく中で、一つ決定的な役割を果たした作品が存在する。神坂一の『スレイヤーズ!』というシリーズである。新城カズマは『ライトノベル超入門』において「神坂一の『スレイヤーズ!』が始まった一九九〇年こそは

、 『

狭義のライトノベル』の発展方向が確定した年、まさに『元

年』と呼ぶべきでしょう」と語っている(

であることを考えると ライトノベルという言葉が生まれたのが一九九〇年 だ。 究者も『スレイヤーズ!』の重要性に異論はないよう 1 5) 。他の研

、 『

スレイヤーズ!』の出版が同年であったことは示唆的である。ただし

、 『

スレイヤーズ!』は最初のライトノベルという訳ではない。後から見ればライトノベルとしか言いようのないものが、それ以前にも数多く存在した

。 『

スレイヤーズ!』の出版時点で類似の作品が数多くあったからこそ、ライトノベルはジャンルとして受け入れられたのである。 では、ライトノベルはどこから来たのだろうか。言葉が生まれるより以前に存在したライトノベルの源流を探ってみよう。ライトノベルの源流として、まず注目すべきはSFとファンタジーである。神北恵太が名称を生んだ際の話を思い出して欲しい。ライトノベルは「SF・ファンタジーフォーラム」の中から枝分かれする形で誕生した。これらのジャンルは、ライトノベルの親とも言える存在である。理由はやはり、SFやファンタジーが現実離れした世界を描くジャンルであるからだろう。だからこそ、ライトノベルのようなアニメ的世界観が生まれやすかった。最も初期のライトノベル批評本である『ライトノベル文学論

』で

、ラ

イトノベルの特徴の一つ

に「

ファンタジックな要素が登場すること」というものを上げている(

れるのが小説 なり古くまで遡れる。最初期のものとしてよく挙げら SFにライトノベルの源流を見た時、その系譜はか 読み取れる。 ノベルがSFやファンタジーの一分派であったことが ほとんど必須の要素だった。このことからも、ライト 出てこないものも数多く存在するが、初期においては 1 6) 。現在のライトノベルには魔法やメカが

版『

宇宙戦艦ヤマト

』 (

朝日ソノラマ

、 一

九七四年)である。こういったアニメのノベライズは数多く存在し、特に『ガンダム』シリーズの小説版は

一九七九年

機動戦士ガンダム』( 朝日ソノラマ

、 一

九七九年) を皮切りに

、枚

挙に暇がないほど大量に生み出されている。もう一つ注目するべきは、高千穂遥の『クラッシャ

ージョウ』( 朝日ソノラマ、一九七七年) である。描き

(15)

10

下ろしの小説作品だが、表紙にはガンダムのキャラクターデザインである安彦良和が起用されている。破天荒な作風も合わせ、ライトノベルという言葉が出来た後から見れば、ライトノベルとしか言いようがない作品である。同様の、後からライトノベルだったのではないかと見なされたSF作品の内、最も大きなヒット作だったのは『銀河英雄伝説』( トクマノベルズ、一九八二年)である

。 累

計発行部数は一五〇〇万部を数え

、 ( 1 7

ニメシリーズも一九八八年から本編一一〇話、外伝五二話、劇場公開作品三本が制作されている。ライトノベルという言葉が出来る前から、その源流は大きな存在感を放っていた。アニメからの影響により、新城の言うところの「前向きな違和感」を引き起こす作品が多く生まれいた。しかし当時これらの流れはSFブームの一部として認知されていた。ライトノベルというジャンルが独立してまとめられるには、もう一つSF以外からの流れが必要だった。SFと共にライトノベルを作ったのがファンタジーである。ファンタジーの場合はゲーム、特にTRPGが違和感の大元である。TRPGとはゲーム機などのコンピューターを用いずに対話によって行うロールプレイングゲームである。プレイヤーはファンタジー世界の住人などを演じ、他のプレイヤーと協力してゲームを進める。ノートや方眼紙の上に書かれた洞窟や敵の基地などを探索し、GMと呼ばれる役目の人間が演じるモンスターとの戦闘などを行う。ゲームの目的は、即興の演技やサイコロの目によって紡がれる物語を楽しむことだ。七〇年代の終わり頃から徐々に広まりつつあったT RPGだが、より周知されるようになったのは一九八五年にリプレイと呼ばれる本が出版されるようになってからである。TRPGのプレイ風景を戯曲形式でまとめたこれらの本は文庫として出版され、TRPGのプレイヤーだけではなく一般読者にも受け入れられた。そして一九八八年、大きな事件が起こる。TRPGのリプレイを元に、戯曲ではなく小説の形式に書き直した水野良の『ロードス島戦記』( 角川書店、一九八八年)が大ヒットとなったのである。後に累計一〇〇〇万部を超えたこのシリーズはライトノベルを代表する作品となっ

1 8

。 一

九八八年はTVゲー

ドラゴンクエストⅢ

』が

発売され

、社

会現象となった年でもある。日本中にファンタジーブームが吹き荒れていた。その勢いに乗り

、 『

ロードス島戦記』のような小説が大量に生み出された。ファンタジー小説というジャンルの中に、ゲームの雰囲気を持った一分野が生まれたのである。SFとファンタジーという二つの異なるジャンルに生まれた流れは、新しいジャンルの影響を受けているという点で親和性を持っていた。読者の中で、いつしか二つの流れは織り合わさり、ライトノベルというジャンルで括られるようになっていく。

四、スレイヤーズに至るまで文体の構築

しかし、新城カズマが「狭義の意味でのライトノベル元年」とまで言った『スレイヤーズ!』と『ロードス島戦記』の登場が二年しか離れていないことに、両方を知る読者は違和感を持つのではないだろうか。どちらも長期に渡るシリーズであったため、完全に時期

(16)

11

が被っているとも言える。それにも関わらず

、 『

スレイヤーズ!』が現在にも通じる軽さを持っているのに対し

、『

ロードス島戦記』はどこか古臭い。理由は文体にある

。 『

ロードス島戦記』の冒頭は次のように始まっている。

マーファ神殿の白い大理石の壁が、ようやく訪れた春の日差しに明るく輝いていた。所々に白い毛布を残した褐色の地面にも、黄緑色の若草が顔を覗かせ、神殿から村の中心へと向かう街道の端々にも、野草が黄色い花を咲かせていた。ターバの村はロードス島最北の村である。白竜山脈の高い峰の間に広がるわずかな平地に、百人ほどの人間が住まっている小さな村だ。ここは氷の精霊たちの集う寒冷の地で、春の到来はほかの地域よりも遥かに遅い

。(

1 9

氷の精霊など

、 『

ロードス島戦記』は世界観こそゲーム的な要素が目立ち

、ラ

イトノベル的である

。け

れど、文章は翻訳小説のような固い文体なのである。これに対し

、 『

スレイヤーズ!』の冒頭は次のように始まっている。

あたしは追われていた。……いや、だからどーしたといわれると、とても困るんですけど……確かにこんなことは、世間様一般でもさして珍しいことではないわけだし、あたしにしてみればそれこそ日常茶飯事である。しかしそこはそれ、話には道筋とか盛り上がり とかゆーものがあるのだから、ま、仕方がないとでも思っていただきたい。それはまーとにかく、追手は間近にまで迫ってきているはずだった。野盗たちである。(

2 0)

主人公の一人称として「あたし」が使われ、地の文も非常に口語性の強い文体で描かれている。これと似た文体を持っているのが、先にも触れた新井素子である

。 彼

女のデビュー作

、 『

あたしの中の……

』 の

冒頭は次のように始まっている。

「次の満月まであと三日」山道を走るバスの中。あたしはそう呟くとゆっくりとのびをした。火曜日の午後二時、時間のせいだがバスの乗客はあたしをいれて二人しかいない。「さてあと三日間、どうやってつぶそうかな」ふっと自分の言ったことのおかしさに気がつく。莫迦ですね、あたしゃ。これから三日間、あたしは地球連合軍とかいうのに命を狙われることになるんだっけ。時間をつぶすのなんだのって言っている場合じゃないんだ

。(

2 1

一人称が「あたし」であるという表面的な一致もあるが、注目すべきは口語性の強い文体が使われているという点である。新井素子の文体が当時大きな反響を呼んだことは先に指摘した通りである。全体的に改行が多く、主人公は等身大の女子高生であり、同年代の読者に向けて対等に話しかけているような雰囲気を持

(17)

12

っている。その文体は読者から新鮮な驚きを以て受け取られた。新井自身はこのような文体が生まれた理由として「マンガよりも速く読める文体をつくろうっていうわけのわからない動機のもとにできた文体なんですよね」(

やまんがのような気持ち良さを読者に感じさせる小説 その代表とも言える大塚英志は、新井素子を「アニメ はまるでマンガを読んでいるようだと受け取られた。 った。しかし、皮肉にも新井の文体は読者の一部から だとしても、マンガの再現を意図していた訳ではなか 2 2)と語っている。マンガを意識していたのは事実

家」と評している(

てはならない 的』だとしてきた言説については根本的に見直さなく ている。大橋の意見は「新井素子を『まんが・アニメ が形成された過程については大橋が詳細な検討を行っ このような、新井が意図しなかった「読み」の言説 2 3)

」 ( 2 4

いうものである

。 大

橋は新井素子の文体が新しいものだったという定説にも懐疑的である。彼女の作品に見える〈少女の文体〉が少女向けの雑誌など、男性の目に入らない場所で徐々に形成されてきた可能性を大橋は指摘している。これらは重要な問題を含んでいるが、一方で誤謬であったとしても、新井素子の文体がアニメ、マンガ的な印象を与えたという点は無視できない。事実、スレイヤーズの例からも分かるように

、 〈

少女の文体〉はライトノベルにおいて、アニメ・マンガ的な世界を表現するために採用されていったのである。ここには

、 〈

少女の文体〉がどのようにライトノベルに輸入されていったのか、という大きな問題が存在し、今後の研究が待たれる部分である。ただ、現時点で言えることがあ るとすれば

、 『

スレイヤーズ!』はアニメやゲーム風の世界観を、アニメのような気持ち良さを感じさせる文体で表した小説だったという点である。その上で

、 『

スレイヤーズ!』は累計二〇〇〇万部を達成するような圧倒的な大ヒットであったことにより、一つの金字塔となっ

た(

2 5

。 こ

れぞライトノベルだと読者に知らしめるのに、十分なインパクトを持っていたのである。

五、黎明期の混沌

『スレイヤーズ!』や『ロードス島戦記』の大ヒットにより、出版社はアニメ風のイラストのついた小説を売れるジャンルとして考え始めた。ライトノベルは以前にも増して出版されるようになる。その中心となったのが、スニーカー文庫と富士見ファンアジア文庫という二つのレーベルである。この二つのレーベルが創刊された経緯については、

山中智省

ライトノベ

・ フ

ロントライン1』( 青弓社

、二

〇一五年) に掲載された連載の中で簡潔にまとめている。スニーカー文庫にはその前身として「角川文

・ 青

」 が

存在した

。 こ

緑帯」( 現代日本文学)や「赤帯」( 外国文学) に並ぶものとして生まれたものである

。 「

青帯

」 創

刊に先立ち

、 雑 誌

野生時代

』 の

九八七年十二月号( 角川書店) に掲載された広告では、その特徴が「若い読者を主な読者対象とした人気作

家・作品を中心に新しいジャンル( 青色帯) が、今月より誕生します

」(

二十二作同時刊行の「書下ろし・オリジナルファンタ 角川書店では、青帯誕生の前年、一九八六年八月に計 新分類誕生に対して山中は次のように分析している。 2 6)と説明されている。

(18)

13

ジーフェア」というものが行われていた。山中はここで取られたイラスト重視の販売戦略に角川が大きな手応えを感じ、新分類誕生の背景になったのではないかと読み解いている。その後、一九八九年に大々的な読者公募によって「角川文庫・青帯」は「スニーカー文庫」と名称を改められ、角川文庫からは徐々に独立していくことになる。こういった角川の積極的な展開に対抗する形で一九八八年には富士見ファンタジア文庫が創刊された。この事業に携わった小川洋

は「

創刊の一つの背景として、当時巻き起こったゲームブックブーム」があったと語ってい

2 7

。 山

中はこういった小川の発言に

書下ろし・オリジナルファンタジーフェア」の影響がはっきり伺えるとしている

。(

名称で呼ばれるようになっていったのである。 出そうと切磋琢磨し、それが後にライトノベルという 言とも繋がる。業界全体が手探りで面白い小説を作り 考えてから創る、なんてことではなかった」という発 新城カズマの「自分たちで新しいジャンルを創ろうと 間は一人もいなかった。このことは、先に取り上げた だとしても、誰に何を書かせればいいのか、分かる人 ゲームやイラストといったヴィジュアルに注目するの イトノベルという言葉も認知されていない時代である。 い形態を作り上げていたことは事実だろう。当時はラ 点である。当時の人間がほとんど暗中模索の中で新し はライトノベルがある程度形を整えた現在から見た視 形に繋がる流れを明確に示している。とはいえ、それ 注目している点である。これは現在のライトノベルの ゲームといった視覚的な要素と小説との新しい融合に どちらのレーベルも共通している点は、イラストや 2 8) こうと志した者 た者。指輪物語などを読んで正統派ファンタジーを書 例えば、SFブームが去って応募する賞の無くなっ 達だった。 庫を彩っていたのは、他ジャンルから入ってきた作家 書きは存在しない。当時の富士見文庫やスニーカー文 んでいた時期である。ライトノベル作家などという肩 年は、ライトノベルというジャンルが最も多様性に富 た。一九九〇年から二〇〇〇年代の中ごろまでの十数 しかし、この混沌とした状況は一面で幸福でもあっ

。他

にも元マンガ家やアニメの脚本家、十八禁ゲームのライターなども大量にライトノベルの書き手として参入していた。誰もがライトノベルのイメージを掴んでいた訳ではない

。 『

スレイヤーズ!』のような狭義の意味でのライトノベルが段々と増えていく中で、他のジャンルやレーベルに収めても違和感の無さそうな小説にアニメ絵を乗せただけの、広義の意味でのライトノベルも平然と発刊されていた。何か新しいことが起きているが容易には見通せない。ライトノベルはそんな懐の広いジャンルであった。しかし、状況に変化が現れる。二〇〇〇年頃から『スレイヤーズ!

』や

ロードス島戦記

』な

どを読んで育ち、小説を書き始めた作家達が現れ出したのである。『スレイヤーズ!』が出版されたのが一九九〇年である。二〇〇〇年代にデビューした十代、二十代の作家達にとって、ライトノベルはもう当たり前のものだった。純正ライトノベル作家とでも言うべき作家が誕生する段階が到来する。電撃文庫やスニーカー文庫を始め、各レーベルは自前の新人賞を設けるようになっていた。他ジャンルか

(19)

14

らライターを呼び込んでいたライトノベルは十年の時が経ち、自前の新人が中心となり始めていた。そんな中、ライトノベルで描かれる内容にも変化が訪れる。二〇〇〇年代の初期頃まで、ライトノベルにはメカや魔法など、何かしらファンタジックな要素が入っていなければならないと考えられていた。しかし

、 『

半分

の月がのぼる空』( メディアワークス

、二

〇〇三―二〇〇六年) を始め

、 『

とらドラ!』( メディアワークス

、 ア

スキー・メディアワークス、二〇〇六―二〇〇九年)

生徒会の一存』( 富士見書房

、 二

〇〇八―二〇一二年) など

、極

めて日常的な光景を描く作品が目立ち始める。これらの作品はファンタジックな要素がなくとも、ライトノベルの読者に受け入れられた。SFやファンタジーの非現実的な設定を使わずとも、ライトノベルらしさを失わない作品が生まれたのである。大げさに言うならば、他ジャンルの模倣から始まったライトノベルは、独自の文法を獲得するまでになっていたのである。しかし、一方で失われていくものもある。他ジャンルから常に新しい血が入り続けていた頃に比べると、ライトノベル全体での作風の幅は段々と狭まっていった。ライトノベルらしい作風が色濃くなる中で、かつてのような多様性は消えていったのである。

六、ライトノベルからの越境現象

「ライトノベル

」と

いうジャンルが広く周知された頃、ライトノベルから一般文芸へと越境する作家の存在が注目されていた。この現象に注目することは、出版業 界でのライトノベルの位置取りを考える上でも有用だろう。現在で言う「ライトノベル」レーベルからデビューし、一般文芸と呼ばれる領域に移った作家は古くから一定数存在し、よく挙げられる例としては『海色の午

後』( 集英社、一九八四年) で第3回コバルト・ノベル大賞を受賞し

、 二

〇〇一年

肩ごしの恋人』( マガジンハウス

、二

〇〇一年) で第126回直木賞受賞した唯川恵などがいる。しかし、この時期はライトノベルというジャンルは知られておらず、境界線も曖昧だったため越境現象として注目されることは少なかった。ライトノベルからの越境として話題を集めた最初期

の事例は橋本紡

の『

流れ星が消えないうちに』( 新潮社、二〇〇六年

)だ

ろう

。 『

半分の月がのぼる空

』に

おいて、電撃文庫を代表する作家の一人となっていた橋本の一般文芸への移行は印象的な出来事だった。その後

、 『

の男』( 文藝春秋、二〇〇七年) で二〇〇八年に第138回直木賞受賞した桜庭一樹

、『

図書館戦争』( 二〇〇六―二〇〇七年) にて二〇〇八年

、第

39回星雲賞日本長編作品部門を受賞し、その後一般文芸に活躍の場を移しつつもライトノベル作家を自称し続けた有川浩、日本SF大賞や吉川英治文学新人賞、山田風太郎賞などを相次いで受賞した冲方丁などが続いた。彼らはライトノベルでデビューし研鑽を重ね、一般文芸でそれぞれに成功を収めた作家達である。彼らの活躍は『編集会議』などライトノベルとは直接関係のない雑誌でも特集が組まれている(

を浴びるようになっていった。この時期、ライトノベ 者層、あるいは業界人などにも、ライトノベルは注目 により、ライトノベル自体にはそれほど興味のない読 2 9) 。これ

(20)

15

ル作家が一般文芸の読者にも訴求する力を持つことが印象付けられた。一般文芸がライトノベルからの越境を受け入れる一方で、ライトノベルレーベルの方もこの動きに対応していた。自前の作家がより広い範囲に売っていけるのであれば、ライトノベルレーベルの側からしても、このチャンスを生かさない手はない。そうして二〇〇九年、電撃文庫から枝分かれする形で生まれたのがメディアワークス文庫である。この新たなレーベルは、対象読者の年齢を上げたいと考える電撃系作家の受け入れ先として機能している。表紙の絵柄も電撃文庫と比べると落ち着きがあり、一般文芸と一緒に並べても違和感が少ない。電撃文庫はマンガ本のコーナーに、メディアワークス文庫は一般文芸の文庫棚に置いている書店も見受けられる。もう一つの興味深い例として

、 『

謎解きはディナーの

あとで』( 小学館、二〇一〇年) や『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』( ダイヤモンド社、二〇〇九年) などが上げられる。前者は一般文芸から出たミステリーであり、後者はビジネス書である。ライトノベルからは遠いジャンルだが、これらの作品の表紙にはライトノベル的なアニメ、マンガ調の絵柄が採用されている。また、設定なども、ライトノベルに近い発想がある。ライトノベルと一般文芸の境界線は現在、多くのヒット作が生まれる巨大な鉱脈となっている。一般文芸とライトノベルの両側から腕が伸ばされ、パイの奪い合いとなっている状況だ。しかし、そもそもなぜ、越境現象は起こったのだろうか。言い換えれば、なぜ彼らはライトノベルを出て行かなければならなかったの だろう。その答えは境界線上の作品が盛り上がりを見せる中、ライトノベルで起こっていた変化を見れば、明らかになる。

、『

涼宮ハルヒの憂鬱』を巡るメディア展開

一般文芸への越境は、ライトノベル作家が広い層に訴えかけるだけの力を持っていることを明らかにした。しかし、ライトノベルというジャンルが発展した方向を考えた時、一般文芸への越境は部分的な動きに留まっている。ライトノベルがより力を注いだのは同じ小説という同じメディアではなく、アニメやマンガといった他のメディアへの進出だった。人気作品がアニメ化されるのは

、『

スレイヤーズ!』や『ロードス島戦記』の時代から定番であり、新しい現象という訳ではない。それでも、二○○六年に行わ

れた『涼宮ハルヒの憂鬱』( 角川書店、二〇〇三年―)のアニメ化は一つの事件であった。この作品の時代的な位置づけは後の章で詳しく述べることになるが、まずは『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品のメディア展開が与えた影響について考えたい。このアニメシリーズは質の高い映像と相まって、爆発的な売り上げを記録した。しかし、様々な偶然からライトノベルのある一面を暴き出してしまったのである。谷川流は二〇〇三年三月に『電撃萌王』に掲載され

た『電撃

! !

イージス5盾と羊と』( メディアワークス

、二

〇〇三年) という作品でデビューした

。し

かし、谷川の名前がライトノベルの読者に広く知られたのはこのデビュー作によってではない。同じ年の六月に谷川は二つの作品を同時に刊行している。片方は、第8

(21)

16

回スニーカー大賞にて大賞を受賞した『涼宮ハルヒの憂鬱

』。

してもう一つが

、電

撃文庫から出版され

た『

校を出よう!1Escape from The School( メディアワークス、二〇〇三年) である。スニーカー大賞は受賞作であっても金賞や奨励賞に留まることが多く、大賞受賞作が選ばれることは稀である。それだけでも話題性を持っているが、谷川は同時に電撃文庫からも作品を刊行している。そして、この特異な出自が興味深い現象を生むことになる。谷川の作品で人気を呼んだのは、スニーカー文庫から出版された『涼宮ハルヒの憂鬱』の方だった。ハルヒのシリーズは順調に巻数を重ねていたが、電撃文庫

学校を出よう!』( メディアワークス

、 二

〇〇三―二〇〇四年) シリーズを全六巻

、『

ボクのセカイをまもるヒト』( メディアワークス

、二

〇〇五―二〇〇六年)のシリーズを全三巻刊行している。しかし

、 『

涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズが二〇〇六年のアニメ化を機にライトノベル史に残る巨大なヒットとなっている最中、谷川が電撃文庫で刊行していたシリーズは全く注目されなかったのである。そんな中、決定的な事態が進行する。出せば売れる状態

の『

涼宮ハルヒ

』 の

続刊が出ない中

、 『

涼宮ハルヒ

ちゃんの憂鬱』( 角川コミック

・ エ

ース

、 二

〇〇八年―) というマンガがスタートする

。こ

の作品はハルヒのキャラクターが使われているということ以外、基本的に谷川流はタッチしていない。ストーリー、及びギャグはマンガ家である「ぶよ」のオリジナルである。このマンガは売れた。売れてしまった。つまり、谷川流が書いた他の作品よりも、他の人間が描いた『涼宮ハルヒ』の方を読者は圧倒的に求めて いたのである。この事件から見えてくるのは売れているのは作家ではなくキャラクターだということである。そしてもう一つ、アニメ化やマンガ化によって作品が元の作家の手を離れたとしても、キャラクターが魅力的であり充分に面白ければ、読者は気にしない、という点である。人気シリーズがアニメ化されることは、ライトノベル業界では珍しいことではなかった。だが、この時期を境にして、人気のあるシリーズがアニメ化されるというよりも、アニメ化によって人気を高め、売上を伸ばすという形にビジネスモデルが変化していく。谷川流の意志とは何ら関わりなく、彼の作品はそのことを告げる象徴的な作品になってしまったのである。

八、アニメ化作品の支配的状況について

アニメ化によって原作の売り上げが伸びるということはよく指摘される点であるが、オリコンが発表した二〇一二年度のライトノベル売上ランキングはその実態が窺える興味深いものとなっている。下の数字は期間内の想定売上部数である。

一位『ソードアート・オンライン1アインク

ラッド』川原礫368,089 二位『ソードアート・オンライン2アインク ラッド』川原礫317,124 三位『ソードアート・オンライン9アリシゼーション・ビギニング』川原礫304,731 四位『ソードアート・オンライン3フェアリ

ィ・ダンス』川原礫299,319

(22)

17

五位『ソードアート・オンライン

1 0 アリシゼーション・ランニング』川原礫286,781 六位『ソードアート・オンライン4フェアリ

ィ・ダンス』川原礫286,031 七位『新約とある魔術の禁書目録3』鎌池和馬 256,812 八位『氷菓』米澤穂信 256,003 九位『ソードアート・オンライン5ファン

トム・バレット』川原礫 249,531 一〇位『ソードアー

・ オ ンラインプログレッシブ1』川原礫248,944 一一位『僕は友達が少ない8』平坂読 238,096 一二位『ソードアート・オンライン6ファ

ントム・バレット』川原礫234,235 一三

カゲロウデイズ -in a daze-

』 じ ん

自然の敵P)225,343 一四

位『

俺の妹がこんなに可愛いわけがない10』伏見つかさ221,681 一五位『新約とある魔術の禁書目録4』鎌池 和馬213,382 一六位『ソードアート・オンライン7マザ ーズ・ロザリオ』川原礫211,803 一七位『ソードアー

・ オ ンライン8アーリー・アンド・レイト』川原礫206,810 一八位『バカとテストと召喚獣

1 0』井上堅二 203,672 一九

位『

俺の妹がこんなに可愛いわけがない

11

伏見つかさ196,364 二〇位『愚者のエンドロール』米澤穂信 187,129 集計期間:2011/12/5 付~2012/11/26 付オリコン調べ(

3 0)

一位から二十位の作品の中で、二〇一二年時点でアニメ化されていたものは一九作含まれている。ただ、人気のある作品がアニメ化されるため、この数字自体はさして重要ではない。実際、唯一の非アニメ化作品

だっ

『 カゲロウデイズ-in a daze-( エンターブレイン

、二

〇一二年) も二〇一四年にアニメ化が行われた。注目すべきなのは、二〇作のうち実に一一作を数え

ソードアート・オンライン』( 電撃文庫

、 二

〇〇九年―) の巻数の並びである

。同

作は二〇一二年の七月から十二月にかけてアニメが放送され、好評を博した。ランキングの集計期間中に発売されたのは九巻と一〇巻のみである。しかし、ランキングでは一、二巻の方が上位になっている。元々のシリーズの読者がアニメ化を機に一、二巻を買うということは考えにくい。一、二巻を購入した読者のほとんどはアニメによって興味を持ち、購入した者と考えていいだろう。全ての巻がランクインしていることから、一気に全巻揃えた人間も相当数居たことが伺える。加えて、二〇一一年度のランキングを見ると、同年出版の六、七、八巻が一〇万部前後でランクインしている(

いう数字が近いだろう 3 1) 。アニメ化以前の読者の数は、この十万人と

。 つ

まり

、 『

ソードアー

・ オ

ンライン』はアニメ化によって元々居た読者のおよそ三倍以上の読者を新たに増やしているのである。このランキングを見ただけでも、アニメ化によって読者が如何に増えるかが理解できる。

図 2 カ ー ト ・ ビ ュ シ ー ク 著 ア レ ッ ク ス ・ ロ ス 絵 『 M ARVELSマーヴルズ

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(注)

・ 化学設備等の改造等の作業にお ける設備の分解又は設備の内部 への立入りを関係請負人に行わせ

本案における複数の放送対象地域における放送番組の