ナバホの神話 と砂絵研究序論
加 藤 薫
は じめに
神奈川大学経営学部はカ ンサス大学学生交換 プ ログ ラム に基づき、 同プ ログ ラ ムで来 日す る米 国学生に対 して 日本語 ・日本研究 の短期 カ リキ ュラム を提供 して いる。1993年 には約二十名 の同プ ログ ラム交換学 生 を受 け入れ たが、そ の中 にナバホ出身で 「砂絵」制作 の資格 を持 つデニス ・リー ・ロジャースが いた。 (注 1)デニスは 日本文化 の吸収 に意欲 的で あった と同時 に、ナバ ホ を含 むネイティ ブ ・ア メ リカ ンの伝統 文 化 の紹介 に も熱心 で、砂絵 公 開制作 の企画 に応 じて も らった。
こうしておそ らく本邦初 の砂絵公 開制作が1993年6月18日に湘南ひ らつ かキ ャンパス61号館250番大教室 にて、約120名の神大学生 を前 に して実 現 した。画材 のほ とん どはデニス 自身が持参 して きた ものを利用 させて も らった が、支持材 の幾つかは 日本で用意せねば な らなかった。特 に下地 に使 う大量の白 い砂 につ いては、 日本では一般的な海の砂 (貝 の細 かい砕片成分)がナバホの伝 統 的砂絵 には使 えな い と判 明 し、川砂調達 のため に東京 ・横浜 の画材店 に片 っ端 か ら電話 した事 は今で も覚 えて いる。 この ことを除 いて も、筆者 も初 めて 目に し た砂絵 の制作実演場面は とて も印象的だ った。
筆者はそ の後1995年 にニ ューメキ シコ州 タオス市郊外 にある全米で も最大 の砂絵 コ レクシ ョンを持つ ウイール ライ ト・ミュージアム ・オブ ・アメ リカ ン・イ ン デ ィアンを訪れ、数人のナバホ ・アーチス トとも交流 し、あ らためて砂絵 の世界 と ナバホ神話、ナバホ文化への興味 をかき立て られた。 にもかかわ らず 主 として筆 者の怠慢で研究 は遅 々 として進 まず、研究 ノー トもなかなか埋め られないままで いる。本稿は事例 に基づ くナバホの砂絵研究 に入 る前段階の序論 として提 出す る ものである。
(45) 乃7
1.ナバホとは
<地理>
ナバホとは、全米では最大の リザベーション (居留地 :約二万九千平方マイル‑
約七百三十ヘクタール) を有するネイティブ・アメ リカンの一部族の名称である。
この リザベ ーシ ョンはア リゾナ州北東部、ユ タ州南東部、 コロラ ド州南端部、
ニューメキシコ州北西部にまたがる地域 を占めているが、地理条件か らくる気候 差は大きいo (注2) リザベーションに指定 された地域は、一部が今はナバホの 神話でのみ語 られる白人到来以前の支配地域 と重なるが、 この リザベ ーシ ョンが 設定された1868年に、それ以前の支配地域が全て認め られたわけではなかっ た。
ナバホ神話に依るナバホの世界 とは、四つの聖なる山に囲まれた空間であ り、
現在の地名に当てはめると、東端はコロラ ド州のシエ ラ・ブランカ・ピーク、南端 はニ ューメキシコ州 のマ ウン ト・テイ ラー、西端はア リゾナ州のサ ンフランシス コ・ピークス,北端はコロラ ド州のラ・プ ラタ・マウンティ ンズ (あるいはマウン
ト へスペラス) とするのが定説 となっている。 (注 3)
<人口>
ナバホ人口は, リザベーシ ョンの設立された1863年時で居留地内人 口は8 千人程度だったが、以後増加傾向を維持 し、1990年の国勢調査時には14万
6千人を越え (注4)、1998年時には22万人を越えた。年齢別人口構成比を 見ると30歳以下の人 口が約 60%を占めていることか ら依然増加傾向にあると いってよいだろう。ちなみに1960年か らの年平均人 口増加率は2.31%で ある。 このリザベーション内に住むナバホ人口は全ナバホ人の約 90%である。
残 りの10%は リザベーシ ョン外 に住み、中にはカ リフォルニア州 ロサ ンジェル ス市な どまった く地縁関係のない大都会で孤立 した生活 を送っている家族 もある。
<言語>
太平洋戦争時には 日本人に理解できない暗号用 にとナバホ語が米軍 に採用 され たが、ナバホ語は言語学的系統ではそれほど特殊 というものではな く、言語 ファ ミリーと確認されているアサバスカン語群 (注 5)の中で二十ほどある方言の一つ であ り、アパ ッチ系言語 も同一の言語群に属する。
そもそ も 「ナバホ」の名称は、言語系統的には無縁なプエプロ ・イ ンデ ィアン
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語 のなかで もタノア語か ら派生 したテ ワ語の土地名称Navahuu(小川 に隣接 した耕 した畑)が、スペイ ン人修道士サ ラタ ・サル メロンの記録 に、プエプ ロ・イ ンデ ィア ンとは別個な集団を示す表現 として登場 してか ら一般化 した ものである。 (注6) ナバホは 自分たちのことをデ ィネ(Dine'=人々 )と呼ぶ.生まれ育 った故郷はデ ィ ネタ (Din6tah'=人々の間にあるもの)と呼んでいる。
<社会構成>
ナバホの リザベ ーシ ョンでは現在60以上のクランが確認 されているようだ。
(注7)そ の中には19世紀後半以降 に新た に加わ った、 メキ シコ系や プエプ ロ・
イ ンデ ィアン系のクランも含 まれている。ナバホ人全体 のクラン構造 を示すよう な見取 り図は未だ作成されて いないが、実生活では同一 クラン内での男女の結婚 は認め られず、 また結婚 に際 しては男性が女性側 のクランに組み込 まれること、
男女 とも社会生活では 自分 の属す るクラン以外 に、最低四つの血縁関係 にないク ランの人々と結びついた活動が求め られ ること、ただ し基本的な 日常生活では自 律的バ ン ド単位で行動す ることな どが確認 されている。 (注 8)
こういった不文律があるにもかかわ らず、近隣のプエプ ロ・イ ンデ ィアンと比 較 した場合、ナバホ人は極めて 「個人主義的」である と指摘 されている。 (注9)
その起源直後か ら定住 ・農耕生活が基本で、 「集団主義的」発想で文化伝統が築 かれてきたプエプロ・イ ンデ ィアンに対 して、起源は移動 と狩猟 ・採集 の民族であ り、農業や牧畜、定住 に伴 う生活技術な どは全てプエプ ロ・イ ンデ ィアンか ら学ん だ とされるナバホの歴史や価値観、行動規範の特色 を 「個人主義」 というラベル で表現 している。
1924年代以降、ナバホ人はアメ リカ合州国市民であると確認 された後、ナ バホ ・リザベ ーシ ョンはアメ リカ合州国内の‑ネ ーシ ョンとして独立 した統治組 織 をもつ ことが許 されてお り、 ア リゾナ州 ウイ ン ド‑・ロックに議会 と行政本部 がある。議会は四年任期の男女七四名の評議員で構成 され、選挙人名簿 に登録 し た二十一才以上の住 民の民主的な選挙 によって選 出され る。 (注10)このナバホ 全体 の行政組織が伝統的なクラン構成 とどのよ うな関係 にあるのか未調査である。
アメ リカ合州国市民 として認知 された ということは、 また市民 としての義務 も 生 じるということであった。徴兵あるいは志願 によって軍属 となったナバホ兵士 が義務 として海外での戦闘に参加 し、負傷 した り死亡す る例 も出て くるO ここで
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新たな神学的問題が発生 した。異国の地で非ナバホ人の手 によって埋葬、 あるい は火葬されたナバホ人の身体性や魂は どのよ うに扱われるべきなのか、近代的な 病院での医師 による医療行為がナバホの定義す る 「治療」 とどこまでが同 じで何 が異なるのか、手術な どによって失われた り、切除 された肉体 の一部 については どのように考 え、 どう対処すべきなのか、 という問題である。 このよ うな問題意 識はナバホの神話や ライ フスタイル、価値観、宇宙 と世界の認識 に由来す るもの であることは疑 いない。
2.ナバホの歴史
ナバホ語 を含むアサバスカ ン語は、現在ア ラスカか らカナダの太平洋沿岸地帯 に分布す る トリンギ ッ ト、エイアク、ハイダ といったネイテ ィブ・アメ リカ ンの言 語 と同一のナ ・デ ネ語族 に属す る。ナ ・デネ語族 はシナ ・チベ ッ ト語族や コーカサ ス諸語 と関連 し、広義のデネ ・コーカサス語族 の一部である。 (注11)アサバスカ 語は現在で もアラスカ (コユ ーコン語、クッテ ン語な ど)、カ リフォルニア州北部 (フパ語、 トラワ語)、東部のハ ドソン湾 (チペ ワイアン語)に残 ってお り、アメ リカ合州国の最南端で使われているのがナバホ語 とアパ ッチ語である。言語分布 ではさらに南のメキシコ共和国北部で も使われている。非常 に広範囲に分布 して いるわけだが、 これは民族移動の結果であろう。
言語系統か らナバホの歴史 を再構成 を試みると次のよ うな ことが推測 されてい る。 (注12)すなわち、ある時何 らかの方法でベ ーリング海峡 を越 えて、アジア北 部あるいはシベ リアか らアメリカ大陸最北部 にデネ ・コーカサス語族集 団が移動 してきた。 さ らにアラスカ南部か らカナダへ と南 に移動 して行 く過程で幾つかの グル ープに分かれ, ことなる南下ル ー トをとった。 このうちロッキ ー山脈東側斜 面沿いに南下 してきたグル ープがナバホの祖先である。ナバホの祖先たちがサ ウ スーウエス ト地域 にた どりついた時期は、紀元1000年頃か ら1300年代 ま で続 くこのサ ウス ーウエス ト地域か ら大平原地域、そ して南の現 メキシコ領北部 を巻き込んだ継続的な民族移動の波の最終段階で、13世紀後期 に数回は記録 さ れている大洪水 によるアサバスカ ン語族登場以前 に定住農耕生活 を始めていたプ エプ ロ ・イ ンデ ィアンたちの祖先の社会崩壊の後、すなわち14世紀 中頃 と推定 されている。 (注13)アサバスカン語族 の南下の波は 16世紀初頭 まで続 き、その
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分布 もテキサス、カンサス、オクラホマ に広がった。 (注14)
こういった歴史 をナバホの創世神話か ら再構成す るのは容易ではない。ナバホ の伝承神話は基本的に 「空間スケ ープ」描写が中心で 「時間スケ ープ」の手がか りをほ とん ど示 していない ことに依 る。 (注15)すなわち 「〜のある ところ」 と か 「〜のいるところ」 というような描写 と、人間や動植物それに聖なる存在 との 出会 いの描写 にあふれているが、我 々の共有す る時間軸 に沿 って再構成す るのが 極めて困難なのだ。
ナバホの創世神話 において、時間系列 に基づ く手がか りといえば、現在 のナバ ホたちが存在す る 「第五の世界」 に至 る創造 と破壊のプ ロセスである。第‑の下 層世界か ら始 ま り、何 らかの理 由 (洪水が多 い)で世界が崩壊す るか犯罪行為 に よって前の世界か ら追放 され、その度 に空に上昇 し、上層にある次の世界 にしば らく安住す るという物語だが、 これが民族移動の歴史的時系列 に対応 している こ とは疑いないにして も、前の下層世界か ら次の上層世界への移行がいつ、 どこで 起 こった ことなのか まではわか らない というのが現状である。
レックス ・リー ・ジムは、第一の世界の記述 に見 られ る気象の物理現象が北の ツン ドラ地帯の状況 を反映 し、第二 の世界の記述 にでて くる生物描写がカナダ中 央部や西海岸 にいるもの と対応 して いると述べ、 さ らに第三の世界の山や平原、
川の描写 といった空間スケープが ロッキ ー山脈東側斜面か ら見た光景に対応 して いる、 とす る。 (注16) そ して第四の世界か らニ ューメキ シコ州北西部 に到着 し、
そ こを故郷(Dinetah')とす る記述が始 まっている と考 えているo (注17)
現在が 「第五 の世界」であるという認識は、 アステカやマヤ といったメソアメ リカの古代文明にも共通 して存在 した考 えである。 しか し例 えばマヤ人たちが時 間‑暦 を驚 くべ き正確 さで計測 し、 「第一の太 陽の時代」 の始 ま りを紀元前2万
3619年前後 (注18)としているのに比べ、 あいまいである。
ここで、マヤ人のように時間に対す る強迫観念が希薄であるというナバホ神話 の特徴が兄 いだされ る。その代わ りに土地 とか 自然環境の記憶が肥大化 している ようだ。そ して この 自然環境や土地への こだわ り、かかわ り方がナバホのライフ スタイルや思考 を形成 しているわけだが、 この点 を明 らか にしてゆ くのが次の作 業 ということになる。別な言 い方 をすれば、ナバホが把握 している空間‑大地が またナバホの精神世界 と一体化 しているということであろう。そ して この 「精神
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世界 としての大地」 というコンセプ トが また大地 をキ ャンバス代わ りに使 う 「砂 絵」制作 という行為 と深 く結びついているのだ。 (注19) しか しこの点 もまた明 らかにしてゆ く作業の前 に、 まず 「第五の世界」 の後半に対応す る、最初の白人
‑スペイ ン人 との出会 い以降の歴史 を概観 してお こう。
ナバホ創世神話の 「第四の世界」 の記述か ら、サ ウス ‑ウエス ト地域で先に定 住 と農耕生活 を始 めたプエプ ロ・イ ンデ ィアンの文化か ら様 々な ものを学び、人 口も増 えてゆ く様相が読み取れ る。 (注20)そ してナバホの思考方法 を理解す る 上で鍵 となる、「対立する二つの要素の調和」という二元論的原理 も確立 されてゆ く。 「第五の世界」 の記述 になるとナバホ傘下 に次々 と新 しいクランが吸収 ・同化 されてゆ くプ ロセスが明 らか にされ、合わせてナバホのデ ィネタの空間範囲も明 確 になってゆ く。
「第五の世界」の物語記述はある程度解読が可能である。我々の用 いる時間軸 に 沿 って歴史的フェーズ に再構成す ると、1650年頃までは狩猟 と採集、移動 と 略奪 といった伝統的 ライ フスタイル を維持 しつつ、近隣のプエプロ ・イ ンデ ィア
ンの生活文化 を観察 し、有用なものをア レンジしなが ら取 り入れていったフェー ズであ り、 クラン同士の融合 (近親結婚の忌避や生活技術 の共有、分化)な ど社 会制度構築 を模索 していた。共 同作業 による濯概工事な どの試み も始 め られた時 代である。
スペイ ン人 との接触か ら新たな文化要素の習得が始 まったのは 1650年代以 降 と考え られる。新 しい動物である羊や馬の飼 い方、伝統 の綿織物 に加え新たに 羊毛を使 った織物の手法、銀やターコイス を使 った装飾品制作 を学び、ナバホの 神話や儀式の中に組み込 んでいった。1680年の 「プエプ ロの反乱」と 1692 年のスペイ ン人 による 「レコンキスタ」 の結果、スペイ ン人 とは政治的敵対関係 に陥ったが、スペイ ン人の報復 をさけるために多 くのプエプ ロ ・イ ンデ ィアンた ちがナバホに合流 してきたため、ナバホの文化水準が高 まるという効用 もあった。
1775年か ら1863年はキ ヤニオ ン ・デ ・シャイ (CanyondeChelly)フェ ーズ と定義 されて いる。 (注21)南 のメキ シコか ら移住 して くるスペイ ン人系植 民者 (実際にはメステ ィーソが多数だった と言われ る)、東の平原部か ら襲 って く るコマ ンチ人、北か ら略奪 を繰 り返す ウテ人 との抗争 に疲れ、西の現 ア リゾナ州 北東端 に大移動 した。 この約 90年間 にナバホ文化は芸術面で も宗教面で も大発
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展 した。生活基盤は農業 と牧畜 中心 となったが、急激 な人 口増 に対応す るため馬 や動物の供給 を増やす必要があ り、 また奴隷 として売 るため発生す るナバホ女性 や子供の強奪 に報復す るため もあって、近隣社会への略奪行為 も頻繁化 した。 当 時のナバホ社会は対等な クランの連合体 であ り、部族全体 よ りもクラン毎,バ ン ド毎 の意 向が優先 したよ うだ。そ して この政治的脆 弱 さが1864年 の悲劇へ と つながる。
1846年 のアメ リカ ‑メキ シコ戦争の結果、 メキ シコか ら新 た にサ ウス ウエ ス ト諸州地域 を獲得 したアメ リカ合州国連邦政府 は、ナバホ と条約ベ ースで和平 関係 を築 こうとした。 しか しこういった条約 を結んだナバホの指導者は 自分 のク ランやバ ン ドのみ を代表す る立場で しかな く、条約 を結ばな い他 のクランやバ ン ドの反 アング ロ的敵対行為 まで拘束で きなか った。そ のためアメ リカ合州国側 に は、条約が破棄 された と判断 された。
市民戦争 (南北戦争)終結直後 か らアメ リカ合州国陸軍 によるナバホ攻撃がは じま り、1864年 に全ナバホ人 口の約 半分 といわれ る9000人近 くのナバホ 人がボスケ ・レ ドン ド(フオー ト ・スムナ ー)に捕虜 と して強制収容 された。 キ ヤ ニオ ン ・デ ・シャイか らボスケ ・レ ドン ドまでは約500キ ロあるが、 この道 を 徒歩で歩か された。 この 「死 の行進」 で足手 まといにな る病 人、 けが人、老人、
赤 ん坊は容赦な く殺 され、収容所到着後 も病気や食糧不足で1年間 に2000人 が死亡 した と言われ る。 (注22)
この非人道 的扱 いは さす が に問題 とな り、1868年 には現 リザ ベ ーシ ョン (当初 の面積 は350万エ ーカ ー程 だった)への帰還が許 された。 また クラン毎 に独 立 した いナバ ホ集 団のため に この主 リザ ンベ ‑シ ョン とは別 に、 ラマ ‑、
キ ヤニ ヨンシー ト、 アラモの3か所 に小 さな リザ ベ ーシ ョンが設定 された。疲弊 したナバホ人の心 には、拠 り所 とな るエスニ ックなアイデ ンティテ ィーの最構築 が急務であったが、その面で貢献 したのは、 ボスケ ・デ ・レ ドン ドに収容 されず、
数十 人か ら百 人単位 で逃亡生活 を送 って いたナバホ集 団であった と言われ る。 ( 注23)こういう集 団のほ とん どが リザ ベ ーシ ョン設定後 にボスケ ・デ ・レ ドン ド 帰 りのナバホ人たち と合流 したわ けだが、逃亡生活 の間 に伝達可能かつ強固な も のに作 り替 えた神話 ・伝承 を持ち帰 ったのだ。 これが現在我 々に理解 可能なナバ ホの神話 ・伝承 の世界である。
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ナバホ とアング ロの出会 いの悲劇的な結果は、一方ではアング ロのナバホ文化 への興味をかき立てた。その 目的が少数民族 に対す る帝国主義的支配 と支配者文 化への同化 を確実 に促進す るものではあった ことも確かだが、失われてゆ く文化 へのロマ ンティ ックな想 いも作用 した。 いずれ に して も19世紀第三四半世紀頃 か らナバホ と直接接触す る機会の多かった職業軍人を中心 にナバホ文化 の記述が 増加 し、二十世紀 のアメ リカ民俗学や人類学の基礎 となった。 (注24)
問題は現在 に至 るまでナバホ人がナバホ語で記述 した文献が存在 しない ことで あ ろ う。 ここで翻訳、通訳 の問題 が 生 じて い る。ナバ ホ の神 話 ・伝承 に関す る フィール ド・ワークのほ とん どは英語 ので きるナバホ人の通訳 を介 して英語で収 録 された ものである。数少ないナバホ語 を理解す るア ング ロ人による記録 も英語 で表記される。イ ンフォーマ ン トや通訳者、記録者が意識す る しないにかかわ ら ず、言語の支配構造が成立せざるを得ない。 また我々の使用す る言語 にか らめ捕
られた認識の枠組みか ら逸脱 した要素は、 どこかで捨て去 られている可能性 もあ る。だか ら我々の理解す るナバホの物語なるものは、最終的には全て 「.‥ とい うことだろう」というレベルのものだ。 またナバホの神話 ・伝承、儀式 口上な どは チ ャン ト (口話) の形式で伝 え られ るものだが、そ この発生す る リズムや間合 い、
声の強弱高低な どは文献か らは とらえることができない。
こういった制約や限界があるにもかかわ らず、ナバホの精神世界 を探 るという ことは、そ こに人類の知性がかかわる限 り、 いつかは理解可能な道が開けるとい う楽観主義が存在す る。 しか し、わか らない ことをわかろうとす る努力の先に何 があるか定かではない。そ してナバホ人の理想 とす る 「調和」 の世界 に導かれ る ものなのか、それが幸せな ことなのか もわか らない。 ただ、ナバホの精神世界 に 脈 うつ 自然や大地、ひいては宇宙 との 「共生」観 とそ こに人々を導 くための 「知 恵」 には、何か未来の指針 になるものがか くされているとの予感があ り、砂絵研 究はその糸 口となれば と思 っている。
<脚注>
(1) カ ンサ ス州 トピー カ市 にある ウオ ッシ ュバ ー ン大学学 生 (当時)のDennis LeeRogersの こと。ハスケル ・イ ンデ ィアン ・ジュニア ・カ レッジ卒。 ア リゾ ナ州北東部 にあるナバホ ・ネイ シ ョン(リザベーシ ョン)出身で、 メデ ィス ンマ
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ンの家系に育つ01991年に部族伝統 のキュアラーの資格 を取得 し、特定の治療 目的のために ホンモ ノの砂絵制作が許 されている。
(2)居留地 の標高は1600mか ら3800mと起伏 に富んでいる。植生を見 ると、標高 3000m以上の場所ではボ ンデ ロサ松 とダグ ラス ファー、 アスペ ン、スプロース で 占め られ、標高2500m以下の場所ではどこ ョン、 ジュニパーな どが茂 るが、
大地は砂岩地 とな り、標高が下がるにつれ、セイジな どのプ ッシュしかみ られ な くなる。
雨量は標高2500m以上 の高地では雪が降 るため年 間40‑170cmに達す るが、
それ以下の低地では年間15cm以下 の砂漠が広がる。年間平均気温は標高2500m 以上の高地でマイナス20度Cか ら4度Cと低 い一方、それ以下の低地では 0度 Cか ら11度Cである。統計の魔術だが、低地では 日中気温が35度摂氏 を越え ることもめず らしくない。夜間には急激 に気温が低下す るので平均す ると低 く なる。
(3)NativeAmericainthe20thCentury‑anencyclopedia,GarlandReference LibraryofSocialScience,vo1.452,1994,p.379参照。同様の記述はナバホ神話
関係の文献のほとん どにでて くる。
(4)残念なが ら2005年度版(2004年集 計)のデータは まだ未確認である。統計上の 問題は常 につきまとい、ナバホの リザベーシ ョンに住む非ナバホ人 口の区別、
ナバホ リザベーシ ョン以外 の全米各地 に住 むナバホ人の正確な実数は 自己申告 なので推定である。国勢調査ではおおざっぱなネイティブ ・アメ リカンという 区分 まで しか公表 されない。1990年 の国勢調査時の選挙人登録者は約10万5千 人で平均年齢は18.7才。ナバホ語 を母語 と登録 した人数は11万5千人弱。 この うちナバホ語 しか使えない/使わないと申告 した人数は約2万7千人だった。
NativeAmericaninthe20thCentury‑anEncyclopedia‑, ibid.,P.382.参照o
(5) TheAthabascansの こと。 ここの記述は主 にBerthaP.Dutton,American lndlansoftheSouthwest, Unil′erSityofNewMexicoPress,1983(rev. ed.),pp‥63‑64を参照。
他 に NationalGeographicSocietyeds.,TheWorldofAmericanIndian, p.150な どo
(53)62
(6)多 くのナバホ文献 に同様 の記述が見 られ、定説のようだが、最初 にこの記述の で て くる文 献 は まだ 特 定 で き て い な い。本 稿 の た め にCeliaTaylor,The NativeAmericans,theIndigenousPeopleofNorthAmerica,p.55を再確認O (7) TheGaleEncyclopediaofNativeAmericanTribes,vol.H,1998,pp‥217‑
218を参照 したが、人類学者の調査時期、 クランやバ ン ドの定義 区分 の違 いに よ り数字は微妙 に異なって くる。ゾルブ ロッ ドの再編集 したナバホ神話 の 「第 五 の世界」の記述 か ら推察 され るク ランの数 は30‑40にな る。 (Zolbrod,Paul G‥Din6Bahane'TheNavajoCreationStory,TheUniversityofNewMexico Prees,1984.邦訳 :金関寿夫 ・迫村裕子訳 「アメ リカ ・イ ンデ ィア ンの神話 ‑ ナバホの創世物語,大修館書店,1989.」 )
(8)TheGaleEncyclopediaofNativeAmericanTribes,ibid.,p.217.参照。
(9)この点 を強調 した ものにMirceaEliadeed,TheEncyclopediaofReligion, vol.10,Macmillall Pub.,1987,pp‑337‑339,が あ る。 現代 ナバ ホ の治療行 為が結果 として個人の長寿や個人の救済 をもた らす ものである ことは知 られて お り、 この側面か らの結論である。
qo) 加藤薫著、 「ニ ュー メキ シコ第四世界の多元文化」、新評論、1998、p.153.
Q l )
バーナー ド ・コム リー、ステ イ‑ ヴン ・マ シューズ編、片 山房訳、 「世界言 語文化図鑑」、東洋書林、1999、.130,p.139参照。(12) ここの記述はDutton,ibid.,p.63.を参照O
個 Dutton,ibid.,p.64,EncyclopediaofWorldCulture,vol.Ⅰ,1991,p.250な ど参照。
(14) Dutton,op.°it.,pp‥64‑65.バーナー ド ・コム リー他、ibid、p.130,な ど参
照 C
(15) 見 出 しにSpaceScape,TimeScapeとい っ た用 法 が 採 用 され て いた の は、
NationalGeographicSociety,TheWorldoftheAmericanlndian,ibid.,第 1章 である。
06) この仮説はEncyclopediaofMothAmericanlndians中収録 のRexLeeJimが担 当したナバホ神話 の記述 に登場す る。
考古学 的根拠 を加 えて 当該 説 を紹介 した文献 に TheGaleEncyclopediaof NativeAmericanTribes,ibid.,p.217がある。
♂ノ (54)
07) ゾル ブ ロ ッ ド、ibid.,p.79か ら第五 の世界 の記述 が始 まるが "Din6tahHと い う言葉が登場す るのはp.435になってか ら。
(18)マヤの長期歴 による と現在 は紀元前3114年 に始 まる 「第五 の太陽」の時代で、
2012年 に終蔦す ると計算 して いる、 ここか ら「第‑ の太陽」の始原 を逆算す ると この概略数字がでて くる。
(19)砂絵 という用語で統一表記 して いるが、邦訳 としては 「砂 のオル ター 」、 「砂 のモザ イ ク絵」、 「地表絵」、 「地 上画」な どの使用 も可能。 ナバ ホ語 HiikまahM を直訳す る と英語 では Hdrypainting日とな るが、意味は 「聖な る人々<精霊 た ち > が 来 て 去 っ て 行 く 場 所」 で あ る。NativeAmericaninthe20th Century‑AnEncyclopedia,pp..170‑171に定義 にか んす る詳 しい記述 が あ り、
参照。
e o
) ゾルブ ロッ ド、ibid.,p.79以下 の記述 の要約C(21) 英語読みではキ ヤニオ ン ・デ ・チ ェリー とな るがあえてナバホ語 の読みで表 記。 こ の 時 代 区 分 の 用 語 は TheGaleEncyclopediaofNativeAmerican Tribes,ibid.,p.217に登場。
( 2 2
) この出来事 に関す る記述 は様 々な文献 で語 られ て きて いる。数字 につ いて も 様 々なデー タがあるが、連行 されたナバホ人 の人数 は8000人か ら9000人の間 に 収 まってお り、死亡者 の数 も1200人か ら2500人 と計算 されて いる。どう考 えても少ない人数ではない。
鋤
この点 を指摘 した唯一の文献 はTheGaleEncyclopediaofNativeAmerican Tribes,ibid.,p.218.(24) アング ロ白人側 の学究的な調査 の歴史や アメ リカ合衆国の民族学、民俗学、
人 類 学 発 展 へ の 貢 献 に つ い て はNationalGeographicSociety,TheWorldof theAmericanlndian、第二章 に詳 しい記述がある,J
(55) ♂♂