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以上のようなドイツ的発想とは異なり︑

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(1)

伝統的第三者効力論・再考(二・完) : 日本の憲 法学は憲法の私人間効力をどう考えてきたのか

その他のタイトル Rethinking the Third Party Effect Theory in the Old Age (2)

著者 君塚 正臣

雑誌名 關西大學法學論集

49

6

ページ 887‑922

発行年 2000‑02‑29

URL http://hdl.handle.net/10112/00024455

(2)

四アメリカ法的解決︵以下本号︶

日宮沢俊義説ほか

伝統的第三者効力論・再考︵ニ・完︶

ー日本の憲法学は憲法の私人間効力をどう考えてきたのか

I

伝統的第三者効力論・再考

(3)

以上のようなドイツ的発想とは異なり︑

ト・アクション論の展開の中で議論されてきていた︒日本でもアメリカ憲法の理論が継受されるようになり︑ドイツ

の議論に若干遅れたものの︑主に合衆国︵連邦︶最高裁の判例理論として︑それは紹介されていったのである︒

( 2 1 5 )  

この議論はウォルター・ゲルポンの翻訳書が出版されたことによって︑日本でも広く知られるようになったと考え

られる︒ゲルポンは︑やはりドイツと同様に︑アメリカにおいても私的な団体が憲法が保護しようとする自由を制限

するほどに勢力を得︑独占状態もかなりの程度に達していること︑労働組合もまた組合員の人生を左右するほど巨大

( 2 1 6 )  

化したことなどを指摘し︑合衆国憲法制定当時とは異なる状況が生まれていると述べた︒その中では︑個人が真の選

( 2 1 7 )  

択を許されず︑他人の選択に黙々と従わざるを得ないことが横行してしまうという︒そこで︑私的統治が憲法問題を

提起する場合がある︑とゲルボンは述べたのである︒しかし︑憲法の中の﹁広汎な禁止規定は︑﹂日本でもアメリカ

( 2 1 8 )  

でも﹁法的効果からいえば︑統治機関のみに対する制約として看倣さなければならない﹂という︒しかし︑政府が人

権が侵害されるのを傍観し︑何も策を講じないときはそこに﹁州の行為

( st a a ct e t io n

)

﹂があるのではないかと考えら

れるようになってきており︑裁判所が人種差別的な契約を有効と判断することは︑例えばそれに該当するのではない

( 2 1 9 )  

かということが言われるようになってきたのである︒

( 2 2 0 )  

また︑州の行為そのものはないとしても︑容易に行使できた州の権限が行使されなかった場合や︑統治機関から権 曰

学 説

アメリカ法的解決

︵ 八

八 八

アメリカでは︑私人間の人権侵害と憲法に関わる問題はいわゆるステイ

(4)

︵ 四

限を付与された私的団体が憲法上の基準に適合しない行動を採った場合にも︑連邦最高裁は憲法判断を及ぼすに至っ

た︒このほか︑統治作用の一部とも言える政党の指名候補者の直接予備選挙についても︑州の機能を私的団体に委任

2 2 3

2 2 4 )

したものであるので︑州の行為であると言えるとしたし︑市街電車を営業する企業にも︑いわゆる会社町にもこれら

( 8 )  

の法理が及び得ることが判例となっていったのである︒﹁州の行為﹂を認定することにより外見的に私的な行為に公

( 2 2 6 )  

的な責任の色彩が注ぎ込まれる結果になるが︑その際重要なのは︑私的行為が公に宣言された政策と明白に衝突する

こと︑それを放置することに公的見地から重大性があること︑裁判所がそれを解決することにより別の新たな衝突を

︵ 四

起こさずに終局的に問題が終結すること︑なのだとゲルボンは主張した︒

私的団体の巨大化や独占状態という彼の問題意識は︑ドイツ法的な議論とも共通していた︒しかしアメリカでのス

テイト・アクション論は︑私人を規制する法律を制定する連邦議会の権限を連邦憲法に列挙されたものに限定しなが

ら︑連邦裁判所が直接憲法によって私人の活動を規律することを認めず︑その分個人の自律を守ろうとする理論で

︵ 磁

あったとも言えよう︒この点はドイツ法的な議論とは異なる点だと言えた︒そこでは公権力こそが重大な人権侵害主

体であり︑他方で﹁模範としての政府﹂であることを求められる点で社会的権カ・私的権力とは異なるということが

( 2 2 9 )  

根底にあるとも言えた︒加えて︑多様な価値観を有する私人による私的な関係の構築が促進されるべきことにもその

( 2 3 0 )  

理由は求められるのかも知れない︒この理論は公私二分論を前提にしており︑アメリカにおける同理論に対する批判

( 2 3 1 )  

の多くもこの点を巡ってなされていると言えよう︒あくまでも憲法は公権カ・政府を拘束するものであり︑それに関

係するものをも視野に入れるだけのことであった︒即ち︑ステイト・アクション論から来る議論は︑従来のドイツ法

的な枠組からすると無効力説と出発点を同じにしている︑少なくとも直接効力説とは相容れないということが確認さ

伝 統

的 第

三 者

効 力

論 ・

再 考

︵ ニ

・ 完

︵ 八

八 九

(5)

日本では︑主としてこのようなアメリカ法的な手法によって︑私人による人権侵害問題の解決を図ろうとするもの

は少なかった︒数少ないものに鵜飼信成説があると思われる︒鵜飼説はまず︑直接効力説を否定しているものの︑間

接効力説も曖昧であると批判し︑労働基準法三条程度の内容であっても︑それによって﹁公の秩序の内容を一義的に

︵ 芭

決定してしまうというようにはいえない﹂と述ぺ︑民法九

0

条についてはましてやだと論じる︒そこでアメリカ流に

﹁私人間の問題に国家行為が︑どこまで︑どういう形で関連しており︑そうしてそれは右の憲法の原則の拘束をどの

程度までうけるかという問題として︑考えてみることができるのではなかろう力﹂と述べる︒例えば︑憲法一四条に

関して︑私人間での差別行為の是非が裁判所に持ち込まれたとき︑その差別行為を﹁裁判所が認めるならば国家が不

( 2 3 1 )  

平等な取扱いをしたことになり憲法一四条に違反するに至ることは否定できない﹂と言うのである︒

鵜飼は私人の行為が﹁国家行為﹂と見なされる場合を分類し︑連邦の立法機関が私人の差別行為を規制した場合に

﹁国家の代理人或いは機関﹂が差別をするとき︑国家が差別等を直接しなくともそれを許容するとき︑予備選挙など

国家作用の一部と考えられるとき︑独占事業︑私人の行為を司法が判断したときなどの場合には憲法問題となること

( 2 3 5 )  

を︑アメリカの判例の展開を参考にして主張したのである︒このようなステイト・アクション論は︑国家の不作為に

遥 ︶

ついても︑私人の差別を許容しているという意味で及んでいくと鵜飼は予想する力究極的にはそのような広い解釈

︵ 加

によってこそ経済的不平等の問題を解決できるのだと主張した︒

鵜飼のように日本でこのような考え方によってのみ問題の解決を図ろうとする学説は︑これまでのところ殆ど見ら

( 2 3 8 )  

れない︒浦部法穂説が︑独占的公共事業に関してこれを﹁国の﹃代理人﹄﹂と解すべきことをも指摘するなど︑通説 れなければならないのである︒ 関法第四九巻第六号

(6)

発想を基準としては︑鵜飼説などの位置づけは難しかった︒

口 批 評

的見解の一部が補充的に用いようとする程度である︒公法学界が全体としてドイツ法的思考に馴染みやすく︑なおか

つより早くドイツ的解決方法が示され︑その一っが有力になる中で︑その一切を否定して全く別の考え方を進めるこ

とは確かにそう多くないであろうことは予想できるところであった︒

一定の私人間関係を︑国家と私人から成り立つ統治関係に類似のものと見倣し︑言わば憲法規定を類推適用する学

遥 ︶

説は︑間接効力説の一っと分類されることもあった力類推適用による直接適用を大幅に認めるものであると解する

( 2 4 0 )  

見解もある︒確かに結果的には規定の効力が私人間に直接及ぼされるという点からすれば直接効力説だとも言えよう

︵ 加

が︑人権保障規定があくまでも対公権力のものであると解されている点では無効力説の一っだとも理解できた︒学説

によってアメリカ法的解決方法の位置づけはまちまちであり︑混乱していた︒従来日本で有力であったドイツ法的な

日本では︑州権主義の弊害を何とか是正しようとするアメリカ特有の沿革的・制度的前提を無視する直輸入は疑問

( 2 1 2 )  

であるという批判があった︒ステイト・アクション論が﹁州との関わりあい﹂を持ち出さざるを得なかったのは連邦

函 ︶

制のためであり︑連邦制という要素がない国にこの理論は必要だったのかを疑問視するものである︒また︑アメリカ

︵ 加

でこの理論が人種問題を軸に発展してきたことも見逃せない︒鵜飼が例として平等権事例を取り上げたことはそのこ

とと関係があろう︒だがこの点は︑ドイツの理論を導入する際にしても︑ドイツでは憲法判断を憲法裁判所が固有の

( 2 1 5 )  

任務として行なっているため︑管轄の点で難しい問題が生じるという特殊性があることに注意せねばならないのと同

伝 統

的 第

三 者

効 力

論 ・

再 考

︵ ニ

・ 完

︵ 八

九 一

(7)

であるとも言えなくもなかったのである︒ リカ連邦最高裁でも︑ じだとも言える︒外国の理論を援用する際には︑何れにせよ比較法対象国の事情を検討の上︑我が国への導入を図ら ねばならないというだけの問題である︒ある私的行為に連邦憲法を適用できるかを決するために︑私的行為と公的行 為を区別する線引きを行ない︑広く一般的に︑憲法の拘束を受ける公権力行為の意味を定める理論は︑連邦制度を採

( 2 4 6 )  

用しない日本でも参考にし得るとは言えたのではなかろうか︒理論的に︑そもそも日本法への継受が無理だというま

での批判が当たっていたかは︑やや疑わしいように思われた︒

しかしステイト・アクション論は︑主体が公権力か私人かで憲法の適用の有無を決する機械的アプローチは排除し

( 2 4 7 )  

たものの︑﹁州の行為﹂か私的行為かを区別するための明確で完全な枠組を示すことには失敗したと思われた︒アメ

一度は私人の所有するショッピングセンターがこの法理の対象であるという判断がなされたが︑

( 2 4 8 )  

そのすぐ後に全く逆の判断を下している︒独占的な公益事業に関してもこの法理を適用しない判賑も下されるように

( 2 5 0 )  

なってきており︑﹁州の行為﹂であるか否かの認定は容易ではなく︑また安易に認めすぎることの弊害も認識されよ

( 2 5 1 )

2 5 2 )

 

う︒現実に国家が様々な形で市場・民間部門に関わっている中で︑国家行為と私的行為を峻別するのは困難であろう︒

こういった概念を広げすぎればあらゆることが憲法問題化しかねなかったのである︒だとすれば︑仮にアメリカ法的 解決方法を採用しても︑どの程度の国の関わりをもって憲法化したと考えるか︑大いに価値判断が入り曖昧さを残す ことは否定できないのである︒間接効力説などが残した曖昧さが︑これによって一掃されるという楽観論はまた批判 されてしかるべきだったのかも知れなかった︒実際にアメリカでの諸説は様々な要素を考慮しており︑複合的で︑内

︵ 磁

容も時代によって異なるということには変わりがなく︑総合的判断が必要となる点ではドイツ流のアプローチと同じ

(8)

そいかなる私人間の法律関係も︑ と言えなくはないのである︒

また︑人権規定は国家のみを拘束し︑私人間には及ばないとしながら︑裁判所の判決があると一転してそれが憲法

︵ 四

違反になることには批判もある︒当初私法の問題に過ぎなかったものが︑それに裁判所が判決を下し︑即ち国家行為

が加わることによって憲法問題となるという論理には確かに違和感がある︒だがそもそも私人間の紛争で︑裁判に持

ち込まれないものは︑仮に国から見て﹁人権﹂侵害だとしても憲法問題はおろか︑法律問題でもないのである︒ここ

で批判される点についても︑提訴段階から国により問題が認知されるところとなり︑裁判所は国家機関として憲法に

反する判断はできない︑と解すればそう不思議でもない︒それは仮に直接効力説に従っても同様のことは言えるので

あって︑妥当な批判だったかどうかは疑問の残る点であった︒逆に言えば︑同様のことは従来の学説でも︑無効力説

以外の学説は主張していたことだとも解され︑改めてアメリカ法の議論を継受せねば展開できないことでもなかった

また︑日本で紹介されたアメリカの判例は︑﹁日本に引き直せば︑憲法を持ち出すまでもなく︑民法九

0

条の問題

として処理すれば十頒﹂だとも言われた︒これまでの方法論で解決でき︑紹介する意味がないというわけである︒確

かに改めてアメリカ法的解決方法を日本で導入しなければならないという実践的動機は欠けていた︒しかも︑﹁およ

一たび裁判所の判断を通過することによって公的関係に転化し︑その結果﹂﹁憲法

( 2 5 6 )  

規範による審査に服することが予想され︑私法に革命をもたらすとも解され﹂るという弊害も語られるに至った︒裁

( 2 5 7 )  

判になりさえすれば︑いかなる法律問題も憲法問題に転化することになりかねないからである︒もしそうなれば主に

直接効力説に対して向けられた非難が︑ここにも向けられることになろう︒

国家権力と同一視できる団体については人権規定の効力を認めようとする学説については︑﹁憲法解釈としては安

伝統的第三者効力論・再考︵ニ・完︶

(9)

﹁社会的権力﹂の定義が困難を極めたのと同種の問題が︑ここには発見できよう︒

このように︑国家行為か私的行為かで区分する︑アメリカ法的解決は︑

易過ぎる﹂もので︑またどの程度の機能を有する団体が何を基準に国家類似と判断されるのか曖昧であるという批判

︵ 磁

がなされた︒これを画定する基準はアメリカでも十分展開されていないように思われたし︑日本でもそうであった︒

ら︑実はこれまでの方法論に対して言われた曖昧さを払拭できていないのである︒また︑いかに巨大でも国家と何ら

の関係も有しない団体には憲法が及ばないという結論に︑従来の憲法学説は意義を認めなかったと言えよう︒とすれ

ぱ︑このような学説を当時採用する実践的意味も確かにあまりなかった︒巨大企業が何らかの形で国の庇護を受けて

いるということは学説ではあまり展開されず︑その巨大さそのものや独占状態から﹁憲法﹂問題が生じると度々論じ

られてきたならばなおさらである︒また間接効力説からしても︑国と関わりの強い私人の行為は﹁公序﹂による拘束

が強まると考えれば︑必ずしもアメリカ法的解決方法導入の必要性はなかったのかも知れない︒

残るは︑この学説が理論的に優れていることを主張することであろう︒従来の考え方は︑憲法が国家の基本法なの

か︑﹁全ての権力﹂を拘束する法なのか︑社会の基本法なのか曖昧にしていた︒もし適切にアメリカ法的学説が論を

展開すれば︑憲法が国家の基本法であるという原則を守りながら妥当な解決が導け︑憲法の﹁効力﹂が間接とは何か

という不明朗な議論に巻き込まれない可能性はあった︒しかし︑この考え方によれば日本では︑

されることになろう︒ 一度国家行為の問題

だとされれば私法の一般条項は活用されないことになる︒逆に私的行為であれば︑憲法とは無関係に一般条項が活用

一般条項は︑純粋私人間の紛争に限定して適切に解決するため裁判官に急に広汎な裁量を憲法

と無関係に与えたものだということになる︒そうなると︑その他違憲の私法の規定が無効とされることとアンパラン

一見明確な基準であるかのように見えなが

(10)

さて日本の憲法学界でも︑

介された︒そしてこれらを取り上げる場合︑なぜそれらを取り上げるのかについての問題意識を明確にすることが問

( 2 5 9 )  

われるようになってきたのである︒そして︑解釈論を展開する実益︑具体的適用の結果を考えると︑直接効力説と間 接効力説の違いは相対的なものではないか︑という考え方が次第に有力になっていっ店︒また︑これまで述べたよう

( 2 6 1 )  

に︑間接効力説でも一部の条文には直接効力を認めていたのである︒訴訟法上の効果の点でも︑両説の間に大きな差

( 2 6 2 )

2 6 3 )

 

が生まれないように説かれていた︒そして通説は︑ドイツとアメリカの理論を両方採り入れる傾向を強めていった︒

憲法条文の中には︑国家の存在を前提とするものもあることが説かれ︑その部分に関しては言わば無効力説が当然の ごとく主張された︒要するに︑これまで紹介した様々な考え方は︑全て活用されるようになっていったのである︒

まず︑先に無効力説に分類した宮沢俊義説が︑間接効力説への傾斜を強めることとなったことを挙げる必要があろ う︒宮沢は一九五五年の著作の中で基本的には無効力説を採りながら︑しかしそれに続けて︑憲法の精神を否定する

︵ 加

ような﹁内容をもつ契約は場合によっては公の秩序に反すると解される可能性もあろう﹂と述べていたが︑その後寧

ろこの但し書きの部分を主たる主張にするようになってきたのである︒

宮沢は後の著書で︑﹁人権宣言における人権の保障は︑国と私人との法律関係において︑公権力が人権を侵害する

伝 統

的 第

三 者

効 力

論 ・

再 考

︵ ニ

・ 完

曰 宮 沢 俊 義 説 ほ

スさを残すことになろう︒果たしてこの帰結が説得力を有しているのか︑疑問がなくはなかったのである︒

一九六三年の公法学会を機に︑第三者効力論におけるアメリカやドイツの理論が広く紹

(11)

ことを排除するだけではじゅうぶんではなく︑私人相互間の法律関係において︑私人による人権の侵害をも排除する

( 2 6 5 )  

ことによってはじめて完全となる﹂と述べ︑その力点の変化を表した︒そして︑﹁社会国家の理念に立脚する憲法の 趣旨からいって︑勤労者の生活の根底を危うくするような効果を有する制約は︑まったく合理的な理由を欠き︑強く

( 2 6 6 )  

排除されるべき﹂とも述ぺるに至る︒そして︑このほか奴隷契約や生まれに基づく私人による差別は︑﹁日本国憲法 下では﹂﹁民法にいう﹃公の秩序﹄に反する行為と見るべき﹂であるとするのである︒宮沢は基本的には間接効力説 の立場に立ったと考えられよう︒しかし︑憲法が戦後変わったとき︑民法のこの部分の解釈が変わるというメカニズ ムは明確ではない︒もしそうならば宮沢が当初無効力説的な立場であったことは説明できまい︒或いは宮沢説は︑三 菱樹脂事件での姿勢と併せ考えると︑なおかなり無効力説的理解に近いままだとも考えられなくはない︒宮沢は憲法 一八条や社会権規定についても間接効力説的解決を主張しており︑部分的に直接効力説的解決を図るべしという主張

( 2 6 8 )  

はしていないのである︒

しかし宮沢はこればかりではなく︑アメリカ流のステイト・アクション論も﹁非常に参考になる﹂として紹介して いる︒宮沢はこの考えを日本でどのように用いるかについては明確にしていないが︑﹁私人の行動であっても︑それ が公権力によって︑裏書されるかぎり︑そこに国家行動

( s t a t e a c t i o n )  

の要素が含まれると見るべきであり︑そうし

( 2 1 0 )  

た行動によって人権の侵害がある場合は︑国家権力による侵害がある場合と同じに扱うべき﹂という考えに与してい るように見える︒宮沢は︑間接効力説を基調にしつつ︑国家行為と見なせるものについてはアメリカ法的考え方を適 用しようとしたのではないかと考えられた︒このほか︑長谷川銹治説もまた間接効力説を基調としながら︑﹁その内

( 2 1 1 )  

容があいまいになるおそれ﹂もあり︑これを﹁私的統治説で補強することが望ましい﹂としているが︑これは宮沢説

五四︵八九六︶

(12)

圏谷勝男説は別の意味でこれまで紹介した学説を混和させるものとなっていた︒圃谷は例えば︑﹁今日も一部で︑

直接適用かそれとも間接適用かで議論のあるところであるが︑それは人権規定の適用に関する原則的態度の外見上の

( m )  

問題であって︑実際上の差異は少ない﹂と述べている︒そして﹁直接効力説か間接効力説かと単純に二者択一的に割

り切るべきではなく﹂︑﹁いかなる基本的人権が︑いかなる私的関係に︑いかなる範囲で適用可能かどうか︑具体的

マ マ

( 2 7 3 )

ケースで︑いわば対社会的効力に︑﹃しぼり﹄をかける理論的構築が要請される﹂とするのである︒この説では︑直

接効力か間接効力かという問題は相対化できるとして論点とはされず︑後は分類と適用の問題だと割り切っているこ

とが特徴的である︒但しアメリカ法的方法論の余地は語られなかったのである︒

覚道豊治説も︑無効力説も含めて三つの説は﹁原理的な点から一応区別されるとしても︑実際の適用の上ではさほ

︵ 芭

ど大きな相違があるわけではない﹂としたし︑佐藤幸治説も︑機械的に考えるのではなく︑﹁基本的人権の侵害が問

︵ 加

題となる私法的関係の性質や事情に即して︑法律の解釈などを通じて調和のある合理的解決がはかられるべき﹂とし

ている︒また︑浦部法穂説は︑直接効力説か間接効力説かは﹁美的感覚﹂の問題に過ぎず︑間接効力説を妥当としな

がらも︑この問題は﹁理論構成上の解釈技術の問題に解消してしまったほうが︑非本質的な本質論による議論の混乱

( m )  

を避け﹂られるとしているのである︒

間接効力説と直接効力説に相対的違いを認めない学説や︑間接効力説を採用しながらアメリカ流の解決方法を加味

する学説はこのように多い︒また︑間接効力説として紹介される学説の殆どは︑部分的に人権規定の直接効力を承認

するのであるし︑直接効力説に分類された学説の多くも︑全ての憲法条文・場面でそれを貫くものではなかったので︑

伝 統

的 第

三 者

効 力

論 ・

再 考

︵ ニ

・ 完

に近いものと言えよう︒

︵ 八

九 七

(13)

出発させていることを窺わせるものだと言えよう︒ 考えようによってはここに分類すべき学説とも考えられる︒つまり殆どの学説は︑純粋に分類される学説そのもので はなく︑その複合体になっていたわけである︒憲法の第三者効力に関する学説は︑このように︱つの学説の中に多様 な要素が︑ときには原理的違いを無視して︑ときにはそれが妥当な結論を優先して同化されて混じり合うことが普通

芦部信喜説

宮沢に始まる方向性を推し進めたのが芦部信喜である︒芦部は︑憲法の第三者効力の問題に早くから取り組み︑学

界をリードしてきたと言って過言ではなかった︒芦部は以上のような考え方の代表とされ︑その意味で通説とされる

ことが多いのであるが︑その学説は長い年月の間に若干変遷しており︑また注意深く読まねばならない点も多々ある

ように思われる︒このため︑ここでは時代を追って芦部説をより詳細に考察することにしたいと思う︒

芦部は︑戦後早々に﹁公法関係上または私法関係上の職務契約がいかに相手方の自由意思による同意にもとづくと

はいえ︑憲法上の権利の保障が変容をうける程度は無条件であるとはいいがたい﹂と述べ︑更に﹁私人相互間におけ

る契約といえども︑契約関係の性質からみて著しく不合理で憲法の精神を蹂躙するごとき場合は︑基本的人権の保障

そのものが公共の福祉に合致することを前提としているこの憲法の建前からいって︑いわゆる公序良俗違反として無

( 2 7 8 )  

効な契約と解しなくてはならない﹂と記した︒これは芦部説が︑基本的には間接効力説的発想をベースにして学説を

次に芦部は一九六三年の公法学会の報告で︑様々な﹁学説のうちいずれが妥当か︑現行憲法のもとでいかに解する

二 )

のことになっていったのである︒

(14)

五 七

のがもっとも適切かを論ずる﹂のがよいとし︑﹁精緻な解釈を加えるアメリカの判例・学説︑﹂﹁多角的な論議をたた

かわす西ドイツの学説の動向を概観しつつ︑それとの対比の上で検討をこころみるのが︑実り多い結果を導く﹂と述

( 2 7 9 )  

へた︒その理由として︑ドイツ的発想では憲法でも民法でも救われない領域があること︑現代福祉国家では国家活動

が多岐にわたるため︑ある種の特権や権限を私的団体に委任・付与することが発生するのでアメリカ法的発想が参考

に な る こ と を 挙 げ て い る ︒

その上で︑芦部はドイツ流の直接効力説をまず批判した︒﹁公序を構成する憲法原則の存在から︑その原則を具体

化した人権規定の私人間の行為に対する直接的効力をなぜ直ちに論結できるの力﹂という疑問を提示したのである︒

﹁人間の尊厳﹂や﹁平等﹂が公法・私法を通じての法原則であり︑言論の自由が優越的地位を認められても︑そのこ

とが私法上の一般的人格権と同視して議論できるか︑それが﹁私法の自己放棄﹂にならないかは疑問であるとして︑

( 2 8 2 )  

民法規定を介さないで基本権規定が直接的に適用されるという主張を否定したのである︒また︑憲法が社会国家性を

( 2 8 3 )  

有することが︑それだけで私法的効力の根拠になることはないなどとも述べ︑結局﹁直接効力説の論拠に少なからぬ

疑問があるとすれば﹂︑憲法の基本権規定は﹁国家権力に対する防禦権としての人権という伝統的観念を維持しなが

ら︑私法は基本権の諸原則にしたがわねばならぬという﹃人権規定の私法秩序への現実化

(A

ct

ya

li

si

er

un

g)

または輻

︵ 加

射的効力

(A us st ra hl un gs wi rk un g)

の理論﹄を展開した意見がより妥当﹂であるとするのである︒この点は︑消去法的

に間接効力説を唱えた多くの学説と共通するものだと言えよう︒

そして︑日本でも民法九

0

条を媒介に憲法が間接的に適用されるという理論構成が妥当であり︑その際に上告審で

( 2 8 5 )  

下級審の民法解釈の違憲を争うことは許されるとする︒﹁具体的事件の解決は︑二つの権利・自由を慎重にして導か

伝 統

的 第

三 者

効 力

論 ・

再 考

︵ ニ

・ 完

︵ 八

九 九

(15)

︵ 九

0 0

)

れなくてはならない︒裁判所は︑したがって︑国が法律によって制限を加えまたは違法とすることができるような事

項かどうか︑という点を︱つの基準とし︑権利の性質および事案の具体的事情をふまえた上で︑個別的に妥当な解決

︵ 廊

を見出してゆくことが望まれる﹂とするのである︒

芦部は︑ドイツ流の間接効力説だけでは不安を感じたのか︑﹁もしある種の強力な私的団体の行為が本質的に国家

権力類似の権力を行使すると考えられる場合︑それに憲法規定を直接に適用する︑という理論構成が許されるかどう

( 2 8 7 )  

かは︑別個に検討されてよい問題である﹂として︑アメリカのいわゆる国家類似説を紹介している︒ここで芦部がこ

の理論を﹁アメリカにおける直接効力説﹂と紹介していることには注意が必要であろう︒しかし芦部は︑﹁強力な団

体﹂のうち﹁巨大な権力﹂を持つ﹁組織体の構造も著しく国家に類似﹂する事例全部が憲法的制限に服することは

﹁憲法解釈としてはかなり問題である﹂として︑現行の実定法体系︑憲法の適用結果︑憲法以外の方法での解決可能

( 2 8 9 )  

性︑国会が適切に解決可能かなどを考慮すべきであるとしたのである︒結論として︑このような国家類似説の理論構

しかしこのほかのアメリカ流の理論に関しては︑﹁ある種の私的行為を種々の解釈技術によって国家化し︑広汎に

憲法の規制に服せしめる判例理論﹂は﹁日本国憲法の解釈論に大きな示唆を与える﹂としている︒確かに憲法の規制

に服する国家行為とそれ以外との区別は難しく︑アメリカの判例も定式化を試みるというよりも極めて個別的なアプ

ローチを採用しているとす紅︒芦部はその例として︑州の施設の中で行なった私人の行為︵国家財産の理論︶︑国から

財政援助や土地収用権・租税免除などの援助を受けている場合︵国家援助の理論︶︑性質上純粋に統治機能を有する私

人の行為︵統治機能の理論︶︑私人が国から特別有利な特権や権限を与えられ︑国がまるで私人の事業に関係している 成は排除されている︒

(16)

とまで考えられる場合︵特別の特権または権限付与の理論︶︑ある特定の形態の私的な人権侵害行為に司法が介入して司

法的な執行がされた場合︵司法的執行の理論︶を挙げ︑これらについては︑いくつかの理論的な問題点も見られるが︑

( 2 9 1 )  

考慮する価値があると認めたのである︒

芦部は一九六八年には︑第三者効力論が勃興した理由について︑資本主義の発達のほかに︑自然権思想の再生と共

に基本権が公法・私法両方を覆うものと考えられるようになったこと︑人権宣言が社会と国家を建設するための形成

函 ︶

原理と観念されるようになったことを挙げて論を進めた︒ここでもやはりドイツ流の直接効力説を批判し︑更にこの

( 2 9 3 )  

説が自由権を変質させてしまうこと︑私的自治の原則が脅かされることを批判の理由に加えている︒日本の裁判所が

( 2 9 4 )  

一九条︑ニ一条などの直接適用を認めたことにも批判的であ いくつかの判決で︑理由を殆ど示さないで憲法一四条︑

( 2 9 5

る︒その上で芦部は︑﹁私的行為といえども︑それが巨大な団体によりに︑かつ行なわれ︑その行為によって重大な

)  

影響をうける市民が他に選択する余地をほとんど閉ざされてしまうような場合には︑人権規定の直接適用を認めるこ

とは可能だという解釈は︑わが国でも解釈論として成り立ちうることを私は否定しない﹂とし︑ゲルポン説は﹁わが

( 2 9 6 )  

国でも広く賛成されてよい﹂とするのである︒ここでアメリカ流の議論を︑国家類似説を除いて導入することに積極

的な姿勢が明確になってきたのである︒そして︑私的な人権侵害が︑酷使虐待︑村八分︑差別待遇などの純然たる事

実行為に基づく場合については︑間接効力説では憲法問題として扱えないが︑アメリカの種々の理論を導入すれば何

( 2 9 1 )  

らかの憲法上の保護を与えることも可能であると述べたのである︒アメリカでのその後の判例動向とは逆に︑芦部は

( 2 9 8 )  

﹁国家行為の範囲をできるだけ広く解釈することが妥当﹂であるとも主張した︒

更に芦部は続けて︑﹁間接効力説が原則として正当だとしても︑﹂﹁私人相互の関係に直接適用が一般に認められて

伝 統

的 第

三 者

効 力

論 ・

再 考

︵ ニ

・ 完

︵ 九 o

I )  

(17)

︵ 九

0

二 ︶

( 2 9 9 )  

いる条項︑または直接適用の可能性が理論上かなりある条項﹂があると言うのである︒特に社会権規定︑その中でも

( 3 0 0 )

3 0 1 )

 

労働三権いついては肯定的にそれを認めた︒このほか二七条三項についてもその可能性を示唆している︒参政権︑憲 法一八条については直接効力を認める説が一部にあり︑殆どの事例では間接効力説によって解決ができるのであまり その実益は認めていないが︑﹁選挙人は︑その選択に関し公的にも私的にも責任を問われない﹂とする条文について

( 3 0 2 )  

は︑直接的効力を示唆したのである︒

そしてこういった論の展開を踏まえて︑﹁問題を﹃直接適用説か間接適用説か﹄の二者択一で割り切るべきではな い︑というのが私の基本的な立場である︒権利・自由や人権を侵害する私的行為の性質上の相違に応じて︑個々具体

( 3 0 3 )  

的に多様な角度から︑人権保障の精神を実現するような法的構成をこころみることが必要であろう﹂という主張がな

︵ 珈

されたのである︒対立する筈の様々な説は一体のものとなったかのように見える︒

︵ 瑯

芦部説は︑よく﹁直接効力説と間接効力説の対立図式を柔軟に理解﹂したものなどと評された︒そればかりかアメ リカ法的手法も導入しており︑その意味では最も﹁通説﹂らしく︑あらゆる考え方が混然一体となっているかのよう な印象を持たれかねなかった︒しかし芦部は直接効力説と間接効力説を同化させているわけではない︒確かに結論に おいて両者は相対化されるとは言うものの︑憲法観や国家観は別にしても︑直接効力説によれば利益衡量の基準が公 権力によるときのそれに近いものになり︑より厳しくなるのではないかと指摘している︒﹁決して両説の区分一般ま

( 3 0 6 )  

で否定する趣旨ではない﹂として︑理論上は間接効力説を基本とすることを明示しているのである︒直接効力説には 一貫して批判的でさえあった︒直接効力を認める場合は︑必ずそれを示唆する憲法条文があるときに限っている︒ま た︑アメリカ法的解決もあくまでも補助的なものにとどまった︒間接効力説が救済できないと考えた︑事実行為など

六〇

(18)

曰 批 評

かれるべきように思われるのである︒

にそれは限定的に用いられた︒芦部説は︑やはりその出発点から間接効力説の守備範囲が非常に広い説であると言え そうである︒芦部批判とは別に︑芦部通説に対する︑ときとして持たれているように見えるある種の誤解は早々に解

このような考え方はほかにも多くの支持を得るに至っている︒こうなると多くの学説は︑

残りで間接効力説を説くものということになり︑両説の間の﹁対立﹂などという表現は無意味になっていった印象も

深い︒確かに︑棟居が指摘しているように︑ドイツでも直接効力説と間接効力説の間には﹁その思考形式に︑意外な

︵ 瑯

ほどの共通点﹂が見られたのであった︒ドイツの間接効力論者も︑直接効力論が従来の﹁国家からの自由﹂のみを念

頭に置いた一元的基本権理解を打破したことに肯定的であった︒例えば︑両者とも価値体系という概念を用い︑第三

者効力の問題を法欠鋏の際の法発見または意味補充の問題と捉え︑また対等な当事者間では私的自治ないし契約自由

の原則が妥当すると考えているのである︒まさに問題は私的自治と﹁人間の尊厳﹂の対比の間での価値判断の相違

( 3 1 0 )  

だったということもできるのである︒日本でも無効力説を否定することに関しては両説は共同戦線を張っていたと考

えられるし︑その上でどこまで伝統的立場を修正するかで対立が生じただけだとも考えられた︒芦部もまた︑ドイツ

( 3 1 1 )  

の間接効力説が︑表現の自由に関しては直接効力説と変わらないほどのものであったことを指摘していたのである︒

( 3 1 2 )  

各説の違いは︑対立する権利の比較衡量をどのようなルートで調整するかだけの違いであるという指摘が多くある︒

無効力説さえ排除すれば︑残る二説の間には大差がなく︑細部の議論には実益がないと考えられる傾向が強かったの

伝統的第三者効力論・再考︵ニ・完︶

一 部

で 直

接 効

力 説

を 説

き ︑

︵ 九

0

三 ︶

(19)

︵ 九

0

四 ︶

関 法

である︒無効力説を採った場合だけが︑もし法律がないときには憲法による人権保障の趣旨は全く及ばないことにな

( 3 1 4 )  

り︑民事立法の不作為について言及するものでもないから︑民間の人権侵害的行為には憲法は無力だという結論にな

るのであった︒だが無効力説は殆ど省みられず︑論点は間接効力説と直接効力説なのであった︒そして︑何れを採用

したかは論を決めつけるものにはならないことになっていった︒そうなると学説の多くは間接効力説を基調としなが

( 3 1 5 )  

らも︑法原理的な論争は具体的な問題解決にはさして有益ではないということになり︑理論的な論争はあまり目立た

なくなった︒効力を相対化させた学説では︑例えば︑専断的判断の排除は判断形成者が公的か私的かに関係ないもの

( 3 1 6 )  

であり︑﹁この憲法のルールは﹂﹁私的団体における判断形成の際にも尊重されねばならない﹂とされるなど︑学説の

しかしこういった学説の傾向については︑理論構成の違い︑そもそも憲法が誰を拘束するのか︑どういう法なのか

という議論を捨象するものにほかならず︑それによる結論の違いも見落とされていることは指摘されねばなるまい︒

私人間の権利保障が基本権理解の根本に関わる問題を含んでいるため︑理論構成になお重要な意義があるように思わ

( 3 1 7 )  

れる︒直接効力説と間接効力説では基本的な発想が異なるのである︒間接効力説的発想では︑個人の自由は憲法の価

値とは別にそれに縛られずに自己の意思によって行動するものということを基調にしている︒これに対して直接効力

説的発想では︑個人の自由は憲法規定で直接制約されたものであり︑言わぱ正しい国民としての生きる方向があると

( 3 1 8 )  

いうことになるのである︒裁判官主導の社会秩序形成を常時許す寵接効力説と︑国民主権原理の下︑抽象的な形であ

( 3 1 9 )  

れ議会主導が必要とする間接効力説の違いは大きい︒私人による人権侵害が違憲となるとする直接効力説と︑その可

︵ 珈

能性が排除される間接効力説とでは明確に区別されるべきではなかろうか︒もし憲法の名宛人が国家であるのならば︑ 対立はあまり意味のないものになったのである︒

第四九巻第六号

(20)

れ る

( 3 2 1 )  

私人や私人の行為それ自体が憲法違反となることは考えられない︒間接効力説は︑直接効力説とこの点が決定的に異

なるはずである︒そこでは︑私人間の争いで︑裁判官は実体的基本権に間接的にしか拘束されないし︑私人に対して

( 3 2 2 )  

国家に対抗する権利であるところの基本権を直接には適用することができないということになる︒基本権規定から判

断せねばならないとする直接効力説とは異なるのである︒憲法の公法性を承認する限りは無効力説か間接効力説しか

採り得な"ということが真であるのならば︑直接効力説と間接効力説は同一視できないものと考えられる︒自由権的

基本権に直接効力を認めるか否かが学説の分類となっているが︑少なくとも私的自治を憲法がどのように考えている

かは個々の事例で大きな違いを招くであろうし︑これは相対的程度問題と片づけるわけにもいかなかったように思わ

また︑日本の間接効力説が私人間の契約的侵害を問題にしているのに対して︑直接効力説は社会的権力の事実的侵

︵ 訊

害を問題とし︑もともと議論がかみ合っていないという指摘もなされる︒意識している﹁人権﹂侵害事実が︑市井の

市民間のものか︑巨大団体と従属する従業員等との関係かで異なっていた︒だからこそ︑中にはそこにある力関係に

より︑間接効力か直接効力か分かれるという考え方もよく主張されたのであった︒もし﹁権力﹂関係が直接効力説の

根拠になるのであれば︑権力関係の存在しない部分ではいわゆる無効力説的に処理されるべきであろうと思われたが︑

このような傾向は見られず︑理論的に一貫しているとは言えなかった︒

加えて今日︑﹁夜警国家﹂的に国家の役割を最小にとどめようとする考え方が台頭してきている力そのような国

家観の変化により︑憲法の効力が私人間関係にどのように及ぶのかという問題も影響を受けるであろう︒国家の役割

を最大限に考えれば直感的には直接効力説に近づこう︒逆に︑国家の役割を最小に抑えるならば︑無効力説に近づく

伝 統

的 第

三 者

効 力

論 ・

再 考

︵ ニ

・ 完

︵ 九

0

五 ︶

(21)

一八条に﹁犯罪に因る場合を除いては﹂ 一八条などについて直接効力説を採用する と考えるのが自然である︒日本国憲法が国家の役割をどの範囲と考えているのかについて︑再考されなければなるま い︒そしてその直感が︑理論的にどう表現されるべきかは本来問われるべきではなかったのだろうか︒ カ・大部分間接効力という通説的立場は︑日本国憲法の予定する国家像とどう結びつくのかはよくわからない︒或い はこのような点を考慮することは無意味なのかも不明のままであった︒

ところで︑間接効力説を基本とする論者であっても︑参政権︑社会権︑

一 部

直 接

ことは多い︒当然に私人間適用を予定している条文についてはそれが当然であり︑私人間効力論が問題にすべき人権

3 2 7

は自由権であるなどと主張された︒しかし︑その根拠が不明であるとの疑問も呈されている︒原則として間接効力説

であるが︑明文の規定があるときは直接効力をその条文は持つという解釈は︑憲法を誰と誰の関係を規律するものと

考えるのかをやはり曖昧にしたきらいがあるのである︒仮に一般的にそれを認めたとしても︑では﹁明文で﹂とはど

う記載されたときを指すのか︑不明である︒もし間接効力説がベースであるならば︑ 一部直接効力を認める以上相当

の例外規定がなければならないと考えられるが︑日本国憲法には直接効力性を指示する明文の規定はないようにも思

われる︒逆に直接効力説が基本であれば論理は逆になろうが︑その考えには問題が多い︒

個別に検討しよう︒殆どの学説は憲法一八条に直接効力を認めるが︑奴隷的拘束が憲法により禁止されたとはいえ︑

函 ︶

それは実際の事件では労働基準法五条や人身保護法︑民法九

0

条によって無効にされるだけなのではなかろうか︒逆

に︑国による奴隷制︑奴隷制の容認は論理的に考えられないわけではなく︑

などの文言があるように︑同条は最初の矛先を公権力に向けていると見るべきではなかろうか︒奴隷制や﹁苦役﹂を

認める法令を制定できないし︑またそれを容認する解釈も許さなければ︑私人による人権侵害行為は結果禁じられよ

六四︵九

0

六 ︶

(22)

う︒圃藤真一説が示したように︑別段例外を設けなくとも問題解決は十分可能なのである︒そうなると︑通説がこう

いった憲法条文に直接効力を認めたことは︑必ずしも必要なことでも当然なことでもなく︑無用であり︑かえって理

論的にすっきりしなくなっただけなのではないかとの批判もあるかも知れない︒

( 3 3 0 )  

間接効力説を基本とする学説は更に︑憲法一五条や二七条︑二八条については直接適用を認めるのが普通であるが︑

( 3 3 1 )  

実際にそのことから何が引き出されるのか︑不明な点も多い︒しかし︑もし憲法制定権力が︑憲法を原則として国家

の基本法とし︑例外的な条項について社会の基本法とするのであれば︑相当の手当︑即ち相当明文の規定を置くので

はなかろうか︒これらの条文に関しても︑具体的法律がないときに限定して︑憲法が特殊な法理を部分的に求めたも

のとはますます考えにくいのである︒漠然性の強い社会権規定が直接効力を有することの意味も︑既述したように不

明な点が多い︒だとすれば部分的な直接効力容認論は︑ここでも議論を混乱させるだけであり︑基本に回帰すべきだ

と も

言 え

よ う

なお︑ドイツの間接効力説と芦部説との間にはいくつかの違いが指摘できるようである︒例えば︑芦部説は日本国

憲法の包括的人権規定を間接効力の根拠条文とは考えず︑より個別の人権条項にその根拠を置いているのである︒ま

( 3 3 2 )  

た︑対国家的防禦権としての人権という点を論拠としていることは芦部の特徴である︒芦部は︑個別の基本権と私的

︵ 斑

自治との事例毎の衡量を︑私人間効力論の問題と考えているのである︒この点は︑日本で間接効力説を基調とする通

説的な見解にほぼ共通して見られる点のように思われる︒当初︑日本国憲法一三条からは具体的に人権が主張できる

と意識されていなかったこともあるが︑勤労者の権利や精神的自由が︑経済的自由に対して重視されるべきであると

いう考え方からすれば︑条文個別に私人間効力を考える方向に傾きがちになることも自然であった︒そのことが論争

伝 統

的 第

三 者

効 力

論 ・

再 考

︵ ニ

・ 完

︵ 九

0 七 ︶

(23)

を理論的にしなくなってきたことも指摘されるかも知れない︒

︵ 九

0

八 ︶

更に︑多くの学説がドイツ的な考え方とアメリカ的な考え方を接合させているが︑両者は思想的基盤が違うのでは

︵ 認

ないかという指摘がある︒特に間接効力説や直接効力説とアメリカ法的手法との間には︑違いがあることは既に述べ

た通りである︒そして︑両国と異なる基盤を持つ日本法への継受を行なう以上︑それぞれの国と日本との事情の違い

︵ 蕊

を慎重に検討しなければならなかったのではないかとの批判も寄せられた︒通説的立場では︑憲法は原則として国家

を拘束するものでありながら︑ときとして私人も憲法によって直接拘束されることになり︑場合によっては間接的に

︵ 瑯

拘束されるものとなるという結果になり︑憲法とは何であるのかについて混迷をもたらす危険がやはりあった︒事実

行為などでは間接効力説が用いにくいためこのような考え方を補助的に用いるというのが多くの論者の意向のようで

あるが︑もし憲法がある種の意図を有しているのなら︑不法行為の条文に効果を与えないと考える方が不思議である︒

﹁公序﹂に関する議論であるから︑法律行為以外は別途考えなければいけないかのような理解はする必要がないので

3 3 7

︶ 

はなかったかということにもなろう︒民法九

0

条に﹁公序﹂とあることに振り回されて︑上位規範である憲法の出番

( 3 3 8 )  

が決まるというのは︑論理的ではなかろう︒

これに対して芦部は︑米独何れの理論も﹁伝統的な人権は第一次的には国家権力に対するものと考えながらも︑人

権は全法秩序の基本原則であり︑できる限り広く私人間の人権侵害を規律する効力を認めなければならないとしてい

る点では︑同じ方向を目指すものだと﹂述べ︑﹁憲法論として争えるいろいろのルートを残しておきたいという思い

がありまして改説しないで﹂きたとし迂︒しかしこの反論は︑日本の憲法学界が︑憲法の第三者効力論について︑理

論的一貫性よりも︑広い救済可能性︑或いは結果を重視していたことをよく示している︒芦部説が︑間接効力説では 関法第四九巻第六号

六 六

(24)

六 七

一 般

条 項

が 用

救済できないとして他の考え方を導入した部分が︑果たして間接効力説では全く救済不可能であったかはなお疑問で

あるし︑憲法上不可能ならばそう語ればよかったのかも知れない︒後は民法の解釈問題となろう︒しかし民法学界で

の﹁公序良俗﹂論の展開はこのような憲法学界の問題意識と異なるためか︑この問題を民法の解釈に委ねることは︑

( 3 1 0 )  

憲法学界は一貫して考えてこなかったのである︒また︑芦部がアメリカ法的考え方を﹁巨大な団体﹂のときに導入し

ようとしているのは︑何らかの意味で国家︵州︶との関わりを考えている本来のアメリカでの議論とも異なるもので

あり︑果たして矛盾なく理解できるか疑問な点であった︒国家と無関係の﹁巨大な団体﹂の不法行為は︑この考えを

推し進めても︑憲法上は如何ともし難いというのが本筋ではなかったのだろうか︒

だとすれば原則を貫いて︑間接効力説なら間接効力説で一本化すればよかったのではないか︑という考えも頭をよ

( 3 4 1 )  

ぎってこよう︒例えば小山剛は︑保護義務論の観点からすれば原則として妥当なのは間接効力説であると述べている︒

別の角度から考えてもそうとも言えよう︒間接効力論の手法は︑憲法適合的解釈の要請にほかならないのであって︑

( 3 4 2 )  

一般条項についての解釈が特別であるわけではないのである︒裁判所が私法のある条文を違憲と判断することはあり

得るが︑その場合︑それに代わって憲法を直接適用して救済を図るわけではない︒類似の条文を類推適用するとか︑

より一般法的条文を活用するなどするのである︒即ちこのことは︑第三者効力論の文脈であえて当てはめるならば︑

無効力説的解決も直接効力説解決も排除されていることを示す︒ある私法の条文に憲法が影響を及ぼすことによって

結果として私人を救済するのであるから︑言わば間接効力説的な手法だと言うことができる︒ならば︑

いられるときでも原則は間接効力説だと考えてよかったのではなかろうか︒この点は﹁第三者効力﹂︑ましてや﹁間

接﹂効力という名称に誤解を招くものがあったとも考えられ酎︒そもそも国家対市民の関係において︑国家の行為が

伝 統

的 第

三 者

効 力

論 ・

再 考

︵ ニ

・ 完

︵ 九

0

九 ︶

(25)

︵ 九

0 )

︵ 組

違憲無効になると言ってもそれは︑そういった効果を憲法九八条一項により生じさせるというものである︒﹁効力﹂

という語を用い︑我々はこの場面だけ特殊な憲法論を展開してきたきらいもあるが︑本当に特殊だったのか見直すべ

きなのかも知れない︒間接効力説の曖昧さは︑この議論に執着してその先に進めなかったことに起因していたと言う

戦後︑ほぼ三菱樹脂事件直後までの学説と判例の変遷を考察してきた︒通説は形成されたものの︑数多くの謎を残

したのがこの第三者効力論であったことは否定できないように思われる︒無効力説ははじめから黙殺され︑直接効力

説の是非の議論に相当のエネルギーが投入されたこと︑逆に間接効力説については消極的理由から支持が集まったこ

とをなるべく多くの論稿を取り上げて検討した︒憲法学界が結論指向であったことは否めないようである︒その証拠

に通説が様々な説を混合したものになっていった︑と言えるかも知れない︒しかし︑通説の代名詞とされてきた芦部

説が間接効力説に相当の比重を置いていることは確認されねばならなかった︒しかしそれでもなお原理の異なる学説

を接合することの問題点は指摘されてもよく︑しかも理論的にも矛盾なく解することによっても問題が解決されるの

であれば︑その方向が模索されるべきだったのかも知れなかった︒よく見れば︑なるべく間接効力説で解決しようと

する傾向は︑最近に近づくほどまた強まってきたような印象もあるのである︒

その後の学説展開は︑必ずしも以上の図式ではなされていないと思える︒第一に間接効力説と直接効力説が相対化

されたことが原因であったが︑それ以外の方法による問題解決を図る学説が︑アメリカやドイツの新たな学説展開を

お わ り に

のは言い過ぎであろうか︒

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