現代思想と教育実践 : 「差異」「異質・同質」は教育実践の有効論理になりうるか
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(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部C) 第48巻 第1号. 平成9年8月. l i Se i t t i i i fEduca lo fHokka do Un onIC)Vo t on( c journa vers ‐48 .1 yo ,No. Au罫ユ t s ,1997. 現代思想と教育実践 - 「差異」 「異質・同質」 は教育実践の有効論理になりうるか - 遠. 1. 藤. 芳. 信. はじめに. 60年代以降の実存主義, 構造主義, ポスト構造主義, などをさす。 本稿における 「現代思想」 とは, 主に19 3年以降に発刊された 『現代思想』 誌 (青土社) で取り扱われた思想も含まれるが, 本稿 そこには当然, 197 での考察の対象は非マルクス 主義思想である。 1960 と ころ で, 1960年 代 以 降, ア ジ ア ・ ア フリ カ ・ラ テ ンアメ リ カ にお ける 植 民地独 立 運動 が 隆盛 した (. 197 6年効力発生, 966年の国連総会で国際人権規約が採択された ( 年の国連の植民地独立付与宣言)。 また,1 9年に批准)。以上の民族の独立や主権の確立,人権をはじめとする諸権利の擁護・確立,差別撤廃, 日本は197 人間の尊厳と誇りおよび人格の尊重の国際的な流れと趨勢は, 諸国家の政治的経済的営為の民主的推進に重 要な影響を与えた。 同時に, 特に人権をはじめとする諸権利の擁護・確立, 差別撤廃, 人間の尊厳と誇りお よび人格の尊重は, 社会的諸関係の民主的な諸営みにかかわって (特に, 家庭生活, 職業生活, その他の社 会生活や社会的諸活動, 教育・文化・スポーツ活動など) , 重視されなければならない人間の把握や見方 (人 間観) の 基 本 を提 示 して き た。 しか し, 他 方,「差 異」「異 質 ・ 同質」 ある い は 「個 性」 な どの用 語の 強調 に よ っ. て, 教育実践や社会的諸関係の営みにおける子 ども・人間の把握や見方 (児童観・人間観) を解釈する傾向 99 1 6年8月) においては, 「異質なも も生まれた。 たとえば, 最近では, 第1 5期中央教育審議会第一次答申 ( のへの寛容」「差異を認め合う態度」「個性尊重」 などが出ている。 また, 民間教育団体の一部においても 「異 ) 本稿は これらの用語の強調にもとづく子 ども観・人間観の解釈 1 質共同」 なるものが強調されている( 。 , は教育実践の民主的な営みにおいてはたして有効であるか, 憲法と教育基本法さらに子どもの権利条約など を基本にした民主主義教育の推進において有効な論理や子 ども観になりうるか, を上記の現代思想という フィ ル ター を通 して考 察する も の であ る。. いうまでもなく, 資本主義的生産様式にもとづく経済活動は人間個々人の平均化・規格化をもたらすだけ でなく, 人間間の新たな序列化・差別と階級的支配関係を再生産する。 上記の 「差異」 「異質・同質」 ある いは 「個性」 などの用語の強調にもとづく人間観の解釈は, たしかに, 人間個々人の平均化・規ネ酬ヒに対す る一つの問題提起の意図を含もう と しているが, 上記の序列化な どの再生産 には積極的な問題提起をしてこ な か っ た。 ま た, 民 俗 学 ・文 化 人類 学 な どの 一 部 から も 「異 人」 「異 者」 「異常 な 人」 なる も の をめ ぐる 議 論 2 ) 他 方 以 上 の 序 列 化 な どを 異 な た 視 点 か ら 考 察 した の が ピ エー ル ・ ブル デ ュ ー の ディ が出 て いる( っ 。 , , ) の 理 論 で あ る。 本稿 で は, ま ず, ブル デ ュ ー の ディ ス タ ン ス タ ンク シ ョ ン (卓 越化, 卓 越 性 d i i i t t s nc on. クショ ンを中心と しする理論や思想が, 現代思想の中で どのような位置にあっ て, どのような役割をはたし て いる か を検 討 する こ とか ら は じめ たい。. 229.
(3) . 遠 藤. ロ. 芳 信. ブルデユーのディスタンクショ ンを検討することの意味. ( 1 ) フランス社会とディスタンクション (卓越化, 卓越性) 現在の日本では 「階級」 という言葉は後退して日常的・学問的 に使用されるのは珍しく 「階層」 という , いわ ばボヤけた言葉が使用されている。 しかし, フランスでは学問的にも階級の言葉が使われ, フランス社 会 は 階級 の用 語 に ピ ッ タ リ あ っ た 社 会 とさ れる。 富 永 健 一 によ れ ば 以 上 の フ ラ ンス 社 会 にお い て ブル , , ) さ て ブル デ ー は アメ 3 プ ュ 一 は, フ ラ ンス 社 会 学 を 「特 殊 フ ラ ンス 的」 な 方 向 に牽 引 した と さ れる( ュ 。 ,. 「支配階級」 リカ生まれの 「社会階層」 という概念.用語を拒否し,19世紀ヨーロッパの古典的な階級区別 ( , 「プチ ブル 「庶 民 階級 . 「労働 者 階級 ) と 階級 概 念 を自 己の研 究 方 法 に設定す る ブル デ ー によ れ ば ュ J 」 」 , 。 ,. そこでは, 上記の三つの階級間においては, 衣食住生活の様式 (生誕から死亡までの全生涯にわたる全生活 過程, 文化的財産の相続, 学歴, 職業生活, 交友・交際関係の確保・維持, などを含む) および身体の隅々 にまで染み込んだそれぞれ独特の動作・物腰・発声・会話・習慣・容貌・容儀・趣味などをめぐる微妙なわ ず かな相 違 に神 経 を集 中・ 緊張させる とこ ろ の, ディ ス タ ンク シ ョ ンの 営 み が貫徹 さ れている とさ れる。 こ. こで, 「神経を集中・緊張させる」 と述べたが, 正確には, そのような 「微妙なわずかな相違」 を自然に無 意識的に振る舞うことであり, 特に上流の支配階級には下級階級が真似できないような振る舞いがあるとさ れる。 もち ろ ん, フラ ンス で はこ の ディ ス タ ンク シ ョ ン につ い て は 国・ 政府 ・権力 が関知 ・ 公認 している とい , う こ と でなく, 国民各 階級 ・ 階層 間で行 わ れている と いう こ と で ある。 ヨー ロ ッ パ で は伝 統 的 に 「趣 味と色 につ い て は議 論 しな いも の」 と いう 諺 があ っ た が (趣 味 と色 の優 劣 はつ け難 い もの), ブル デ ュ ー の ディ ス. タンクションはこの諺に挑戦し, 趣味における 「好き・嫌い」 は個人の単純な暗好でなく, 階級の属性およ びその再生産と結合 していることを明確にしたものである。 そして, 趣味や好き嫌いなどなどをめぐる 「差 異化」 ・評価・選別・分類などの根拠・基準は本質的に漆意的なものにもかかわらず, 自然的・社会的・本 質的な 「差異」 の根拠があるかのように正当化・正統化され, 黙認.容認され, また, その根拠付けの窓意 性さ えも黙 認・ 容 認 させ ら れて いく という こ と が ディ ス タ ンク シ ョ ン である。 つま り そのよう な個 人の プ ,. ライ ベー トな諸属性を (無数に) 分類したり, あるいはカテ ゴリー化する発想は階級・階層秩序形成 (の再 生産) を補完・補強しあっている。 以上 の ブル デュ ーの ディ ス タ ンク シ ョ ンを検 討する ため に ブル デ ュ ー をめ ぐる 思想 ・哲 学 的背景 か ら検 ,. 討しよう。 @ ) ブルデユーと構造主義との対比 第一に, ブルデューの位置づけの問題がある。 もともと彼は社会学者であり, 思想家とは位置づけられけ 『 ていない面がある。 たとえば, 今村仁司編 『現代思想を読む事典』 ( 1 988年, 講談社現代新書) , 別冊 宝 『 『 島 44 現代 思想入門』 ( 1 98 4年, 宝島社) , 岩波講座 現代 思想』 (全16巻, 1993一94年), 現代 思 想 の 冒 険者 た ち』 (全31巻, 1996年 - -, 講 談社) な どで は, 「現 代 思 想」 と いう 書名 であ る が, ブル デュ ー は位 置 づ けら れて いな い。 しか し, ブル デ ュ ー は 「現代 思想」 の 重 要な 思想家として位置づけられる。というのは. ,. 70年代 以 降, ヨー ロ ッ パ の哲 学 ・思想 界 では, フラ ンス がお も しろ い動 向を しめ している が, そ の 中 で, ブ. ) この場合の構造主義は 当初 人文.社会科学分野におけ 4 ルデューは構造主義をかなり意識 している( 。 , , る 「科学 (の研究や分析方法) 運動」 「知的 (な思考や認識の態度.立場・方法をめぐる) 運動」 と して出 発 し, や がて, 一つ の思 想 と して受 けとめ られた。 そ の 後, ポス ト構造 主 義 が出 て きて, その 「ポス ト」 (後. の) という言葉によって, 構造主義自体はいかにも終鷺したかのように受けとめられるが, そうではない。 230.
(4) . 現代思想と教育実践. ポスト構造主義は, 構造主義のいわば 「知的運動」 を批判的に継承したわけであり, 構造主義自体を乗り超 えたり, 構造主義の外枠に出たわけでもない。 そういう点で構造主義は現在も生きている。 ◎. 構造主義の意昧. 第二に,以上の構造主義の流れと系譜は多様なものがあり,一概に定義づけることはできない複雑さをもっ て いる。 そ の 中で, 構造 主 義 の 形成 の代 表者 は, や はり, 人類 学 を 中心 に した フラ ンス の レ ヴェ ニス トロー ス であ る。 この 場 合, 「構 造」 ( ) と は, マ ルクス 主 義 にお ける 史 的唯物 論の 中 の 「上部 構造 .下 部 t t s ruc ur e 構 造」 のよう な 意 味での 構 造 ではなく, ま た, 物 理 的な 実体 自体 で はない。 彼 は 「構 造」 を ソ シ ュ ー ルの 言. 語学からの把握から出発させ, 「構造とは, 変換を行っ ても不変の属性を示す諸要素と, その諸要素間の関 5 ) 俗 ぽい 具 体例 で は た と え ば 人 間の 顔 を例 にあ げる と 人 係 の 総 体 で あ る」 と 簡 潔 に 定 義 づ ける( っ 。 , , ,. の数とおなじだけの多様な変化を見せているが, 目・鼻・耳・口などの要素間の関係としては常に 「顔」 で あ り 続 ける と いう 事 実 が 「構 造」 と いう こ と になる。 つま り, 要 素 は様々 に変化 しても, そこ か ら一 般 的 な・ 普 遍 的 な 規則 . 特 性 を発 見す る 方 法 と して 「構造」 を位 置 づ けた。 こ の 場 合, 特 に, レ ヴェ =ス トロ ース は,. 人類学において, 社会集団や文化行為における意識されない普遍的な 「構造」(社会を律する無意識的な 「構 「未開」 なるものの) 人間社会 (それぞれの多様性を 造」 ) を強調・提起している。 たとえば, どのような ( 示しているが) にも普遍的に見られるインセスト (近親相姦) の禁止・タブーである。 ま た, 構 造 主義 を 一 つ の思 想 と して 高 める 重要 な契 機 にな っ た レ ヴェ =ス トロース の 『野生 の思 考』 (原 ・ 1962年) があ る。 『野 生 の 思考』 は, 訳者の大橋保夫 によれ ば 「未開性の特徴と考えられてきた呪術的‐神. 話的思考, 具体の論理は, 実は 『野蛮人の思考』 ではなく, われわれ 『文明人』 の日常の知的操作や芸術活 動にも重要な役割を果たし, むしろ 『野生の思考』 と呼ぶべきものである」 と解説されるように, 文明人の 思考と本質的に異なる 「未開の思考」 なるものが存在するという幻想の解体を主題にしたものである。彼は, その最終章でサルトル批判を展開した。 この批判が重要な契機になり, 実存主義は退潮した。 その批判の意 味はともかく, まず, 「現存の地球上に共存する社会, また人類の出現以来いままで地球上につぎつぎ存在 した社会は何万, 何十万という数にの ぼるが, それらの社会はそれぞれ, 自らの目には 一-- われわれ , 西欧の社会と同じく 一-- 誇りとする倫理的確信をもち, それにもとづいて 一-- たとえそれが遊牧民の -小 バ ン ドや 森 の 奥深く に かく れ た- 部 落 の よう にさ さ や かなも の であ ろう とも -- 一 目 らの社 会 の 中 に ,. 人間の生のもちうる意味と尊厳がすべて凝縮されていると宣明しているのである」 と述べていることは重要 ) レ ヴ = ス トロー ス の 以 上 の よう な 人 間 把 握 ( こ 6 で あ る( の そ で の個 々 の 社 会 内部 にお ける 支 配・ 被 支 ェ 。. 配関係の存在の検討はしないが) は, 子どものとらえかたにも参考になる。. ◎ 構造主義と実存主義 と ころ で, レ ヴ ェ =ス トロース によ っ て批判 さ れたサ ル トル や 実存 主 義 である が サ ル トル を含め て ヨー , , ロ ッ パ の知 識 人 は ナチス ・ ドイ ツ の 武力 支 配・ 暴力 的な 抑 圧 (フラ ンス 占領 な ど) を経 験 してい た そう し 。 た 抑 圧 ・ 支 配 の 「極 限」 の 中 で, 「自 由」 が奪 わ れ た とき に 人 間 はい か に 生 きる べ き か い か に行為 す べ , ,. きが哲学・ 思想 の テ ー マ に なり, そ こ か ら, サ ル トル は 「主 体 性, 主 観主 義」 の哲 学 とも いう べ き 実存 主 義 をい わ ば最 後 に継 承 した。 と ころ が 第二 次 世 界大 戦 では もう 一方 でマ ルクス 主義 が レジス タ ンス 運動 な , , どを 組織 した業 績 があ り サ ル トル はマ ルクス 主 義 を無 視 でき な か っ た 無 視 でき な か っ た と同 時 に ある , 。 ,. いは, 戦後の 「スターリン批判」 などや旧ソ連の大国主義的干渉・覇権主義を目撃しつつも 結局 サルト , , ルはマルクス主義を乗り超え不可能な思想と見た。 しかし, マルクス主義哲学は基本はやはり客観的世界の 法則 (世界の合法則性) を対象にする哲学・思想である。 それ故, サルトルは, 旧ソ連な どにあらわれた当 231.
(5) . 遠. 藤 芳. 信. 時の マ ルク ス 主 義 の マ イ ナス イ メ ー ジを 目撃 しつ つ, 「主 体性, 主 観 主 義」 の 実存 主 義 によ っ て マ ルク ス 主. 960年。平井啓之他訳,1962一65年, 義を補強あるいは鍛え直そうとした。 それが 『弁証法的理性批判』(原・1 人文書院) の刊行である。 しかし, サルトルもやはり基本は形而上学であり, ヨーロッパの形而上学の伝統 的なコギト (考えるわたし) をそのままにしており, 考えること (理性をもつこと) に貫かれる 「理性」 (超 越 的な 理性, 歴 史 的な 理性 な ど) も ヨー ロ ッ パ を 基準 に してい た。 つ ま り, その 理性 とは, 暗黒 ・蒙 昧・ 「未. 開」 「野蛮」 な どの非合理性に対して自覚化されるべきもので, 理性という名のもとにヨーロッパの優越性 を無意識的に前提化し, 「未開」 なる民族の文化は無知・迷信の所産と見る人間観をもっ ている と見なされ て い た。 ま た, サ ル トルの 人 間把 握 は, 孤立 した バ ラ バ ラの原 子 論的 な 人 間の見 方 である。 そ れで, そう し. た原子論的な人間を 「集団」 「連帯」 などの中でとらえるためにマルクス 主義に接近したことになる。 これに対して, 構造主義の人間把握は, 人間を 「合理的人間」 とか 「非合理的人間」 の二分法や, 原子論 的な人間把握に対立した。 つまり, 合理的や非合理的とを問わず, 人間は, 自分自身のなかに, そして, 他 の 人 間との あ い だ に, あ らゆる レベ エ ルで の情 報 伝達 を通 じて, ひとつ の, 深い 強 固 な 辞を持ち, 人々 は そ. の辞を無意識にたぐりよせては, 他の人間を認識し, 社会を認識し, そこに記されている記号を解読するこ 7 ) 以上のよう とによっ て世界の意味を知り, ひいては自分自身の生の意味を味わっ てき たと, とらえた( 。 にして, 第二次世界対戦後, ヨーロッパの形而上学を代表してきた実存主義は構造主義によって批判され, 特にフランスでは 「打倒」 されたことになっ た。 大まかな流れでは, 厳密ではないが, 構造主義は客観的な 世界を対象にする立場や客観主義側に立っ たということができる。 なお, 補 足する と, サ ル トルの 言葉 に 「地 獄 と は他 人の こ と だ」 と いう も の がある。 こ れは戯 曲 『出口 な し』. 4年であった。 戦後日本でも文学座で演じられた。 戯曲全体 における終末部分のセリフの一つで, 初演は194 の テ ー マ は,他 者 と の対 決 にお い て生 き ね ばな らな い 人 間的実存 の 苦 悶 を描 いて いる が,世界 にお ける「汚 れ」 「不 純 「恐怖 「苦悩 な どのい わ ばマイ ナス 要素 は常 に 「他 者」 か らや っ てく る という 思想 を 反 映 して いる。 」 」 」 こ れ に対 して, レ ヴ ェ =ス トロース は, 「地 獄 と は わ れわ れ 自 身の こ と だ」 と 主 張 した。 サ ル トル の哲 学 に. 943年。 松浪信三郎訳, 1958年, 人 おける重要概念として 「他者の眼差し」 がある。 『存在と無 =』 (原・1 文書院) に出ているが, 人間は他者からの視線を意識することによって自分が世界の中で唯一の主体である という感覚を失うことである。 他人から見られるということは, 自分が他人にとっての対象物として現れて いることの認知であり, 他人の視線はそれまでの「自由」な主体としての自分の存在を奪い(差恥心の発生), 他者の自由を告げ知らせることである。 いわ ば, 市民内部の 「内なる抑圧・被抑圧関係」「内なる支配関係」 の発生である。以上のサルトルの人間のとらえ方の根本には,他者・他人と自分とは相入れないものがあり, その 「相入れないもの」 (他者の生と交換できない, 人間の一回限りの生) とは, 今日の言葉 (上記の第15 期中央教育審議会第一次答申など) で言え ば, 「実存的差異」 とか 「実存的異質性」 「実存的個性」 というも のになる。もちろん,そうした人間の一回限りの生は「個性」なるものを超越している という議論も出てくる。 ただし, 上記の 「他者の眼差し」 は社会心理学的に見た場合, いろいろ変形される。 「視線の心理学」 など がある。 「晩む」 などというのは, 一種の権力的行為として解釈されることもある。 そ れ は と も かく, レ ヴ ェ =ス トロース の サ ル トル 批判 にも どる と, 『野 生 の思 考』 にお い て, 自 我 は他 者. に対立するものでもないし, 人間も世界に対立せず, 人間を通じて学 ばれた真理は 「世界に属する」 と強調 さ れる。 そ して, レ ヴェ ニス トロース は, サ ル トル は弁 証法 を 強調 す る け れ ども, 「歴 史 な き 民 族」 は どの. ように扱われるのか, と反論する。 また, 彼は, サルトルの思想 は 「発育不全の奇形」 の人類をともかく人 「未開社会」 )が歴史ある人類(ヨー 間の側にいれることであり,そこでの人間としての存在は,歴史なき人類( ロ ッ パ) の 歴 史 を 自 己 の 中 に 取り 込 む こ と によ っ て 成 り 立 つ にす ぎな い と指 摘 し, 「未 開社 会」 の ヨー ロ ッ パ 化 を主 張 している の で はな い か, と批判 した。 232.
(6) . 現代思想と教育実践. 6 ) 構造主義とマルクス主義, およびポス ト構造主義 次 に, 構 造 主 義 と マ ルク ス 主 義 と の 関係 であ る が, レ ヴェ =ス トロ ース は 『構 造 人 類 学』 (原 .1958年) の な かで, マ ルクス の 「人 間 は 自分 で歴 史 をつ くる, け れ ども歴 史 をつく っ て いる と いう こ と を知 らな い」. という文章を引用し, 後半の文章が民族学の研究 (社会生活の無意識的要素の研究) を正当化していると指 8 ) また 『野生の思考 においては 上記のマルクス主義の上部構造・下部構造の関係把握を 摘している( 』 。 , , 踏まえ, 「私は, マルクスがほんの少し素描をしただけのこの上部構造の理論の確立に貢献したい」 と記述 ) 他 方 レ ヴ ニ ス トロ ース の 『構 造 人類 学 9 して い る( ェ 』 や 『野 生 の 思 考』 が 出 た 頃 は, ヨー ロ ッ パ 諸 国 。 , はそ れま で の植 民 地 を失 い, ア ジア ・ ア フリ カ ・ラ テ ンアメ リ カ の 植 民 地 国の独 立 が加 速化 さ れた 時期 であ る。 ア ル ジ ェ リ ア は1962年 にフラ ンス か ら独 立 した。 ヨー ロ ッ パ の 植 民地 経営破 綻 と 構造 主 義の 流行 ・台頭. との結 びつきに関してはいろいろな見方があって, 単純ではない。 植民地解放・独立は加速化されたが 旧 , 植民 地 国の 「未 開」 の 人々 (リ ー ダー層 ・ エリ ー ト層 で な い) が自 己を ヨー ロ ッ パ に向 か っ て 語る 言葉 を 未. だ持ち得なかっ た時期 に, ヨーロッパは構造主義の人類学者に 「野生の思考」 を語らせた ということにな ,. 0 ) こ の見 解 によ れ ば 70年代 に 発 展 途上 国 が 1 る とい う 見 解 も あ る( 国連 . ユ ネス コ な どの 国 際 機 関 な ど 。 , ,. での発言権を確立・拡大強化するに至り, 構造主義の流行は消えるという 流れに結びつく。 もっ とも それ , 以前に19 68年のフランスの 「学生反乱」 があることも留意 しなければならない。 いずれにせよ 構造主義に , おける反・脱ヨーロッパ中心主義は明確であるが, 30数年前に今日の国際理解教育などの一部にリンクする ような思想が出てきたことは注目してもよい。 第三に, 構造主義の流行に代わってポスト構造主義が出てきた。 構造主義自体の批判については 構造主 , 義が, 反・歴史主義ということで変化を扱えないこと, ヨーロッパの伝統的な形而上学の批判を掲げつつも 「構造」 は研究の方法と して提出されたが 自己の頭の やはり形而上学的思考批判が不徹底であっ たこと ( , 中に閉じ込められている) , 反発生主義 (自生主義) である, などがまとまっ たかたちでないが出てきた。 ポスト構造主義は, 構造主義を担っ た世代の後に (ポスト) 出てきた哲学者・思想家対してジャーナリズム 的 に 呼称さ れた名 称 である。 代 表 的 に は フラ ンス の ジ ャ ッ ク ・ デリ ダ ジル ・ ドゥ ルー ズ な どである , , 。 ,. 彼らは, 構造主義において不徹底であっ た形而上学批判 の徹底化を目ざすが 特に 「理性と政治」 「知と , , , 権力との内在的共犯関係」 を自覚し, 形而上学的思考と 「支配権力の論理」 の同 ー性を暴こうとしていると ) 11 さ れ て い る(. ( 6 ) ブルデユーの構造主義批判 第四 に, ブル デ ュ ー は, 構 造 主 義 に対 して 「行為 者 という も の を 構造 の 単なる 付 帯 現象 に して しま い 「主 , 」. 体なき構造主義」「主体の破壊者たる構造主義」などと称している。そして 彼は 構造主義との関係では 「構 , , , 造」 自体がどのように構築されなぜ発生するのかを問い返し 自己を 「発生構造主義」 と 「レッテル がは , 」 1 2 ) なぜなら 構造主義はやはり客観主義である それ故 られてもよいと述べる( 。 , 。 , 構造主義に反対すると いう図式は主観主義というように単純に受けとめられやすい。 しかし 彼は絶対的な主観主義に陥ることな , く, 彼は客観的諸構造の分析のため に, いわば, 客観化する主体を 「客観化」 しようとし 「生物学的個体 , の内部における心的諸構造の発生の分析,および社会的諸構造それ自体の発生の分析と 不可分で あり 「個 一 , , 体における心的諸構造は, ある点では社会的諸構造の身体化の産物であり 一方 社会的空間とそこに配置 , , ) 1 3 さ れている 諸 集 団 と は, 歴 史 的諸 闘争 の 産物 な の で あ」 る と考 える( 。. そして, そう した主体や生物学的個体と しての 「行為者 ( t-- 遠藤) の実践, その考案能力, 即興 a en g で 手 立 て をす る 案 出 す る 能力」 を 導 入 す る。 こ の 場 合 の 「実 践」 と は プ ラ ク シス ( rx s 主体の意思 的 p i , 行 動) でなく, プラ チ ッ ク ( i t pra que 慣習 行 動) を意 味する。 ① プラ チ ッ ク と は, 訳者 の 石 井洋 二郎 は, 「人 233.
(7) . 遠 藤. 芳 信. が日常生活のあらゆる領域において普段おこなっ ている様々な行動。 政治・宗教活動のような意識的実践か ら食事, 会話, 趣味, スポーツ, さらにはちょっ とした立居振舞いまで, およそ日頃習慣的におこなわれて いる こ との ほと ん どす べ て を 包括する 広 範 な概 念」 と説 明する。 さ ら に, こ の プラ ッ チ ッ ク の 上位 概 念 (フ. hab i t ラチック を規定するもの) として, ②ハ ビトゥス ( us , 身体技法・身体的感覚にまで高められた性向 体系) を設定する。 ハビトゥス とは, 上記の石井によると, 「もろもろの性向の体系 として, ある階級・集 団に特有の行動・知覚様式を生産する規範システム。 各行為者の慣習行動は, 否おうなくこれによっ て一定 ( 4 ) そ して こ れ らの プラ ッ 1 の 方 向 づ けを受 け規 定 さ れな が ら, 生産さ れて ゆく こ と になる」 と 説 明さ れる 。 , 「 チ ッ ク とハ ビト ゥ ス を 基 本 に して (もう 一つ, 戦 略」 が加 わる が), ディ ス タ ンク シ ョ ン (卓越化, 卓 越性) が再生 産 さ れる こ と にる。. ブルデユーのブラチック, ハビトゥスの意味. m. ( 1 ) ハビトゥス・ ブラチツクと 「分相応」 の行動 以 上 の 「実践」 の意 味 を若 干補 足する こ と になる が, ブル デ ュ ー のハ ビ ト ゥ ス や プラ チ ッ ク は, マ ルクス 「フォ 主 義の 「実践」 と関係 は 次の よう になる。 す な わち, ブル デ ュ ー は, マ ルクス の 『フォ イ エ ルバ ッ ハ 論』(. イエルバッハも含めて, これまでのすべての唯物論の主要な欠陥とは, 対象が単に知覚の対象というかたち ) に大いに助けられた でのみ考えられ, 人間的活動 として, 実践として考えられていないという点である」 と述べ, 「実践的認識の 『能動的側面』」 (これまで, 観念論に委ねられていたとされる) を観念論から取り 返 す 課 題 を 指摘 した。 そ して, ハ ビ ト ゥ ス の 概 念を, 「知 覚 と評 価 の カ テ ゴリ ー」 「行 為 の 組織原 理」 「ラ ン ( ) 以 上 のよう に ブル デ ュ ー はマ ルクス の議 論 に注目 する が 1 5 ク 付 けの原 理」 と して 構築 する こ と を 目 ざす , 。 「 問題 は, た とえ ば, そ こ にお ける 取 り返 し方」 である。 結 論 的 に言 え ば, ブル デ ュ ー は, 人間のライ フ・ ス タイ ル にお ける, 俗 っ ぽい 言い 方 になる が, 「分相 応」 の行 為 ・行 動 に落ち 着く という か, 「場 所 をわきま. えた」 行為・行動に落ち着く, ということの獲得・再生産やその商品的価値 (象徴資本・文化資本) や権力 ) この種の研究に近いもの は ブルデューも述 1 6 関係 (見えない象徴権力) の問題を提出したことである( 。 , べ て い る が, ア ー ヴ ィ ン グ ・ ゴ ッ フ マ ン の senseofonesp l c e (自分 の場 所 の 感 覚) がある。 a ‐そ して, その. ようなハビトゥスを通して, 「我々は, 共通感覚の世界, 自明と思われる社会的世界を持つ」 と述べる。 1960年代 以 降の非 マ ルク ス 主 義 の思 想・哲 学 にお い て は, その 思想・哲学が何を対象に考えてきたかとい うことになる と, 人間から見て, おおまかには, その主体 (実存主義), その客体 (構造主義・ポスト構造 主 義), その 主 体 (ブル デ ュ ー), という こ と になろう。 た だ し, ブル デ ュ ー の場 合 は, その主 体 に客 体・客 観 のノイ ズ が入 っ て いる。だ か ら,そ のノ イ ズ の 分 だ け,いわ ば,現 状世 界の 認 識 と して は比 較的 にリ アリ ティ があ る。. @ ) ブルデユー理論の役割 しか し, ブル デ ュ ー の ディ ス タ ンク シ ョ ンの 理 論はニ ヒリ ズ ム ある い は 現状 追 認主 義 という 印象 を 受 ける。 フラ ンス は フラ ンス と して, フラ ンス 社 会 (諸 問題 の解 決) を どう する かいう テ ー マ がある。 そ の場 合, ブ ル デ ュ ー の 理 論 は 「社 会学 的 運 命論」 だ, という 指摘 も ある。 ブル デ ュ ー の ディ ス タ ンク シ ョ ン は, 本来, そ の 本 人個 人の プライ ベ ー トな こ と に属 す る。 「趣 味 と色 につ いて は議 論 しな い も の」 と いう ヨー ロ ッ パ の. 諺を紹介したが, たとえば, ある一つの社会的なテーマの解決や政策などをつくりあげる ときに, そのよう なプライ ベートの世界に属するディスタンクション (の理論) がいかなる積極的な役割を果たすのか否かを 考えた方がよい。 その場合, ディスタンクションを取り上げること自体あるいは取り上げる主体自体を 「客 234.
(8) . 現代思想と教育実践 観化」 する と いう こ と が重要 である。 筆 者 と して は, 一歩 譲 っ た と しても, せ いぜ い, 取り 上 げる こ とも 取. り上げないことも自由である という寛容な態度が重要であると考える。 た だ し, 山 本哲 士 は, ブル デ ュ ー 理論の 中 で, 特 に プ ラ チ ッ ク を高く 評価 し, 個 人と か 「わ た し」 の存在 意 味の 確 認 と いう こ と か ら積 極 的 に位 置 づ けよう と して いる。 た と え ば, 「個 人化さ れた存 在 『プラ チ ッ ク』, 『わ た し』 とい う 全 体性 が今 いち ばん 問 わ れてい て ま た いち ば ん意 味をも っ て き ている 今ま で 『わ た し』 。 , という の は ほ と ん ど意 味 を も た さ れて いな か っ た ん で す が, どんな 小 さ な 存 在 でも, 『わ た し』 の 言動, 行. 動がす ぐ意味をもっ てしまう - - そう いう 状 況 にな っ て き た ん じゃ な い か と いう こ と で, 僕 は 非常 に楽 観 的なんですが……。 外在的な, 規範や構造や客観性・全体性は, もう問題ではない。 ただ放っ ておいても崩 ( 1 ) 7 れていく。 」 と述べる 。 筆者自身は山本の議論に賛成することはないが, 山本の議論は国民・被支配者 内部におけるいわば「内なる権力関係」「抑圧・被抑圧関係」に引き龍もりがちであると考える。筆者自身は, 政府・行政権力などの政策における客観的な支配・被支配関係を解明することおよび政府の政策遂行をめぐ る責任の追求が重要であると考える。 つまり, 客観的世界のシステムを解明することを踏まえた論理等の体 系の構築である。外在的な規範・構造・客観性・全体性などは自動的に自己崩壊するのではない。 ただし, ブル デ ュ ー 自 身の名 誉 の ため に指 摘 しておく こ と がある。 第一 は, ディ ス タ ンク シ ョ ンは, 筆者 の位 置 づ け. ではプライ ベートな世界に属するが (かつ, 彼はそこにおける階級との関係を明らかにしたが) , 社会生活 にお い て プ ライ ベ ー トな こ と 自 体 を どの よう に扱う かと いう こ と に関 して, 一 石 を投 じたこ とである。 従 来,. その本人自身のリアルなプライ ベートな行為・行動の意味が法律や公の世界で公開的に議論される場合とし ては, 犯罪学や刑法の世界 (犯罪の確定と刑罰の適用) があっ た。 犯罪学の世界では, 国家権力としての権 力の行使・作用 との関係が問題になるのに対して, ディスタンクショ ンは象徴的な権力に対する対決・闘争 が問題になる。第二は,ブルデュー自身がいわば政府の政策作成に関与してきた経験がある。たとえば,彼は, ジ ョ ス パ ン文相 の 諮 問 に応 え て, 1989年 3月 に 「教 育 内 容 の 検 討 の ため の 諸 原 則」 (ピ エー ル. ブル デ ュ ー. とフランソワ・グロを委員長とする教育内容検討委員会の答申, 『世界』1 99 0年5月号‘ 邦訳) をまとめた。 そして, 来日した時の堀尾輝久・加藤晴久との座談会において, ブルデューは, 教員における生徒に対する ) まさにその通りであると同時に 実際問題としては実 1 8 人格にかかわる価値判断の排除を発言している( ‐ 。 , 際には生徒同士の間では価値判断や評価をしているわけであるから, それらの価値判断や評価をどのように 扱うか, を考えなければならない。 つまり, 教育行政作用から発する権力関係からはなれて, 子 どもたち自 身が自分たちの価値判断・評価の世界をどのよう に作るか, あるいはどのように価値判断・評価するか, を 学ぶことが重要な課題になる。 ◎. 「フ ラ ンス 思 想 ・ 哲学」 VS 「ドイ ツ 思想 ・哲 学」. 次 に, ブル デ ュ ー と ドイ ツの哲 学 ・思 想 と の 対 比 を検 討 しよう。 ブル デ ュ ー は 自分 の仕 事 につ い て 歴 , , 史主義 的, 政治 的 に問題 を 立 てる の に対 して, ドイ ツや ユ ル ゲ ン・ハ ー バ マス な どは 普 遍 的規 範と いう 問 , 題 を立 てる と指摘 する。 そ の 問 題 の 立 て 方と は, ブル デ ュ ー も 紹 介 して いる が マ ルク ス ・ エ ン ゲルス の 『共 ,. 産党宣言』 ( 18 48年) にも対比的に記述されている (フランスの革命的ブルジョア ジーの意思表示や社会主 義的文献は支配権力を握るブルジョア ジーの圧迫のもとで, そこでの闘争のもとで生まれたものであるが , ドイ ツに輸入されると,ドイ ツの哲学者は,フランス革命をめぐる政治闘争・階級闘争や諸要求を「実践理性」 「純 粋 意思 「真 に 人 間 的 な 意 思 の法 則 を 意 味す る も の と して 「去 勢 して しま た と マ ルク ス ・ エ ン っ , 」 」 」 ゲルス は 述 べ る)。 こ れに対 して, ブル デュ ー は, た と え ば, ① 「普 遍 的利 害」 は存 在 する か否 かと いう 問. 題設定に対しては, 普遍なるもので得をするのは何者か, という問い方を立て, ②普遍的理性に関しても, 理性とは一個の歴史的生産物であり, 一定の型の歴史的条件 によっ てうみだされるものである, と指摘す 235.
(9) . 遠 藤. 芳 信. ) ブル デ ー は 自 己 の 議 論の 組 み立 て を ドイ ツ と 単 純 に対 比 さ せ て いる が ブル デ ュ ー の 以上 の議 論 1 9 る( ュ 。 , の 組み立 て は ブル デ ュ ー 自 身 に跳 ね返る べ き だろう。 た とえ ば, ブル デ ュ ー が提示 した ディ ス タ ンク シ ョ ン ) 同 様 に ブル デ ュ ー 2 0 の 問 題 設 定 によ っ て 「得 す る の は 何 者 か」 と いう 議 論の 組 み立 て が なさ れてよ い( 。 , は フラ ンス (政府) の 一 つ 一 つ の (特 に社 会・経 済) 政策 にコミ ッ ト して いる よう に は考 え ら れな い。つ ま り,. 上記のように学校制度については述べるが, その時々の特定の具体的な社会・経済政策がディスタ ンクショ ンを は た して強 める の か弱 める の か につ い て は言 及 して いな い。 そう 意 味で は, 歴 史 主義 的 に, 政治 的 に問 題 を立 てる と言 いつ つ も 達 観 者 的な 立場 に立 っ ている。. W 通約不能としての 「異質性」 なるものに対して ( 1 ) バタイ ユの 「異質性」 の定義をめぐって 以 上 の ブル デ ュ ー の ディ ス タ ンク シ ョ ンの研 究 を若 干補 足する ため に, ジ ョ ル ジ ュ ・ バタイ ユ の 「異 質 性」 の研 究 を検 討 してお こう。 バ タイ ュ に関 して は, す で に, ハ ー バ マス がバタイ ュ の エロ ティ シ ズ ム と一 般経 2 ) 本稿 で は バ タイ ユ にお ける 「異 質 性 のカ テ ゴリ ー と そ の 定義 を検 討 1 済学 と の 関係 で 批判 して いる( 」 。 , する。 バ タイ ュ の 「フ ァ シ ズ ム の 心 理構造」 ( 1933年) は, 「異 質 性」 のカ テ ゴリ ー 化 とその 定義 か ら展 開 したも の で, そ の 「異 質」 「同質」 のカ テ ゴリ ー研 究 は 現代 思 想 の な か でも 比 較 的 に初期 に属 する の で は な い か と. 考えられる。 バタイ ュ は, 第一に, 「異質的」 という用 語自体は, そこでの問題設定が 「同化不能の分子」 に かか わる も の である こ と を示 し, ま た, こ の 「不 能性」 が 「社 会 的 同化」 の 根底 にある という こ と は 「科. 学的同化」 も同時に不能であると述べる。 第二に, 「異質的」 という用語の定義のために必要な考察内容と して以下のものを指摘する。 すなわち, ①宗教社会学におけるマナ (霊力) ・タブー (禁忌。 死骸な ど) と いう用語が聖なるものというより一般的な形態を個別的適用 に収蝕した諸形態をさすのと同様に, 聖なるも のは異質なものの制限された形態であること,②上記のような聖なるものの欝外における「異質」的世界とは, 非生産的な消費の結果全体を包括し, その全体とはそこでの残り津として超越的な優れた価値を含むとして も, 生産的な有用な社会としての 「同質的」 社会が拒絶するものすべてであること (人体の排他物, 汚穣, ③ 「異質的分子」 は, 姐虫, 暴力的とか規律を拒否する人々 -- 「狂人」 「煽動者」 「詩人」 な ど -- それに触れるところの各人によって強さの異なる感情的反応を惹起するから, あらゆる感情反応の対象は必 然的に「異質的」であること,④暴力・奇行・妄想・狂気は「異質的分子」を様々な段階で性格づけているが, 個人にせよ群衆にせよ,活発なそれらは社会的「同質性」の法則を破壊することによっ て出現すること,⑤「異 質的分子」 の現実は 「同質的分子」 のそれと同次元のものでなく, 「異質的現実」 は力あるいは衝撃のもつ 現実であること, ⑥要約すれ ば, 「異質的存在」 は, 普通の (日常的) 生活にくらべてまっ たく別のもので あり, 通 約不 能 なも の である こ と。 第 三 に, 「異 質 的 分子」 の例 と して は, フ ァ シ ズ ム の煽 動 者 (ム ッ ソリ ー ニ, ヒ ッ ト ラ ー), イ ン ドの 「不 可融 民」 な どを述べ, ま た, 「異 質 的存在」 と しては, 「優 越性」 「高 貴 性」. ズ などに彩られた王権な どの 「命令的主権」 , 軍隊と将軍, 宗教的権力, ファシズムとファシ ム国家, など 2 2 ) を指摘 する( 。 以上 の バタイ ュ にお ける 「異 質 的」 のカ テ ゴリ ー 化 と定義 の 発想 は, 第一 に, 「無用 な 分子」 の 排 除と 「優. 2 )で示した, 「差異」 「異質・同質」 関係をめぐる民 越性」 や 「至高の心理的権威」 を含む点では, 本稿の注( 俗学・文化人類学の一部からの発想とブルデューのディスタンクショ ン研究の発想を兼ねそなえたものに近 い。 第二に, 「同化」 「通約」 不能な状態・存在・営みが本質的に 「異質的」 ということの定義になる。. 236.
(10) . 現代思想と教育実践 2 ( ). 「異質共同」 なるものの自家撞着・形容矛盾. 以 上, ブル デ ュ ー と バタイ ュ を 現代 思想との関係で検討してきたが, 筆者の見解をまとめなければならな. い。第一に,特定具体的な当該個々人の実体的なあれこれの多様な諸属性(もしくは当該の本人まるごと全体) に対 して, 「差 異」 「異 質・ 同 質」 なる も の お よ び 「異 人」 「異常 な 人J 「異 者」 「異 質 な人」 なる も の の 呼称 ・. 規定・評価・形容・選別・分類することは, ①狭い閉鎖的な空間・世界における営みであること, ②支配的 な多数者側からの処置や対応であること, 逆にいえば, 被支配的な少数者側が自己をそのように処置・対応 しても らう こ と を 積 極 的 に要 求 したも の でない こ と, ③ 「差異」 ある い は 「個 性」 なる も の の認 め 合 い は, ブル デ ュ ー の ディ ス タ ンク シ ョ ンや プラ チ ッ ク を補 強 ・ 整 合 し, 「分相 応」 の 行 動 や 生 活様 式 へ の順 応 にも 導く こ と, ④特 に, 「異 質」 「異 常」 なる も の の 呼称 ・ 形容 は, 「正 常 者」 「正 統者」 なる も の が自 己を絶対 的. な基準にした処置・対応であっ て, 呼称・形容された当該個々人の諸属性・」ふ性などは絶対的に理解不可能 であ る と いう 前 提 が潜 ん でい る こ と, ⑤ 同様 に, 特 に バタイ ュ の議 論 か ら は, 「異 質 的」 なる も の は, 通 約. 不能であるという前提が含まれていること, ⑥ 「異質」「異常一 なるものと呼称・形容された者 (たち) が, そのような呼称・形容に対して自己の意見を表明したり, 異議を申し立てる機会の設定な どに関しては何も 考慮しない。 考慮しないだけでなく, そのような意見表明の権利や呼称・形容などに関する自己決定の権利 を当初から抹消・剥奪しているという前提がみられる。 第二 に, 「差 異」 「異 質・ 同質」 なる も のお よ び 「異 人」 「異 常 な 人」 「異者」 「異 質な 人」 なる も のの よう に,. 「差異」 「異質」 などの呼称・形容による対応・処置の固執傾向は 現代思想の中の非マルクス主義思想に , 特有であり, 「権力 (性)」 などの用語を併用・多発することが多い。 しかし, そこでの 「権力 (性)」 なる ものは, その時々の特定の国家機関・行政政府 (の政策行使・行政作用) をめ ぐる 「権力 (性)」 でなく, 一般国民と市民社会の内部 における 「抑圧・被抑圧関係」「内なる支配関係」 をめぐる 「権力 (性)」 である。 そこでは, 「抑圧・被抑圧関係」 「内なる支配関係」 などにかかわる言葉の修辞や新奇さが注目されることは あっ ても, ①国家機関・行政政府における支配権力作用・政策行使の体系や論理が注目されることはなく, ②社会的諸事件・事故や種々の社会的病理の発生・増大な どにかかわる国家機関・行政政府の責任関係は問 われることなく, ③それどころか, 社会的諸事件・事故.病理の発生を国民・子どもの 「自己責任」 と して 処 理さ せる こ と につ な が っ て いく。 と ころ で, 本稿 の注( 1 )の拙 稿 で述 べ たよう に, 民 間教育 団体 の 一 部 による「異 質 共 同一なる もの の 強調 者 は ,. そもそもの 「異質」 (性) (的) 自体に関しては定義をすることはない。 しかし, 上記のバタイ ュの指摘など をみれば, まさに, 通約不能, 理解・了解不能としての存在や営みこそが 「異質的」 ということになる。 す な わち, ハ ー バ マス も 指摘 す る が, 個々 人主 体 が自 己お よ び世 界 と交 わり ある い は様々 な か かわり あ い を ,. 持つ時, そこで主体が慣 れ親しみあるいは主体を安心させていた諸々のありようをめぐる諸カテ ゴリーが崩 壊する 瞬 間 が 「異 質 的」 と いう こ と である。 つ ま り, バ タイ ュ によ れ ば 通約 や 理解 ・了 解 が不 能 であ り , ,. 「共同一なるものの不能やそれらの通約. 通約や理解・了解自体にかかわる諸カテ ゴリーが崩壊し,そもそも( 「 了解にかかわる諸カテ ゴリーの崩壊が 「異質的」 であるが故に) , 異質共同」 なるものの強調は, 自家撞着 や形容矛盾.論理矛盾になる。 「共同」 な どは通約可能性や理解・了解可能性を前提にするのに対して, 逆 に 「異質」 なるものは通約不能性や理解・了解不能性を前提にしているからである。 ここ で, バタイ ュ と 民 間教 育 団 体の 一 部 によ る 「異 質共 同」 なる も の の 強調 の 共通 性 がある そ れは 第 。 ,. 一に, 両者ともに, 非実体的で相対的関係を示す形容的・修辞的・評価的用語としての「異質」(性)(的)を , あたかも実体的な概念(実体として, それ自身固有の諸々の営みを有する) であるかのように見せかけつつ , また, 同用語を先行・優先させつつ, 諸々の実体とその関係をカテ ゴリー化し, 分類し 議論を進めること , である。 第二に, 両者ともに, 仮に (狭い閉鎖的な世界において, 諸々の先入観・偏見な どに基づくことが 237.
(11) . 遠. 藤 芳. 信. 多いが) 「異質」 なるものと形容・修辞・評価されたものに対して, そもそもの当該の形容・修辞・評価さ れたもの自体が本質的・絶対的に 「異質」 であるか否かな どを客観的に解明し理解することはない。 そうし 2 3 ) なお 近年 某宗教団体にお た解明・理解の不在・放棄という点では, 両者は不可知論的傾向を含む( 。 , , 「 いて, 自分達の宗教の教義および教祖の能力こそが 異質」 であり優れていると自己認識し, あるいは信じ こまされていることもみられる。 逆に当該宗教団体の外部においては, そう した宗教や教祖自体が 「異質」 である という評価・形容もみられるとともに,信者のそれぞれの「異質性」が認められていないという指摘・ 評論もある。 いずれも, 「異質」 という用語の便利さと無責任性を示しているが, 同用語の発話・記述だけ で 「納得」 しあうにとどまり, それ以上の踏み込んだ言及・探索を脱落させ, あるいは断念している。 そこ で は, 「原 理 的・ 本 質 的 に異 質 な の?」 「何 が異 質 な の?」 な どと 問い つ つ, 「異 質」 な る も の の 形 容・ 評価. に対して, 原理・本質をめぐる議論と相対化・対象化することの脱落・放棄・断念がある。 以上に対して, 筆者は, 学校などの狭い閉鎖的な世界において (諸々の先入観・偏見などに基づき) ,仮 に子 どもたちが特定個々人を「異人」「異常な人」「異者」「異質な人」などと規定・形容・評価することがあっ た して も, そ の よう な 「異 質」 「同 質」 なる も の に か かわる 規 定o 形容・評価などの処置や営み自体に関し. ては, 教師は広大多様な世界 (自己および他の教師の過去の体験, 過去の歴史的事件・人物や文学作品な ど を含む世界) との対比と, さらに既知の知識や他人による分析・考察の援助などを基軸にした対話・討論を 2 4 ) この対話.討論を基軸にした客 通して解明・理解し, 客観化.対象化することが可能である と考える( 。 観化・対象化が, 筆者の強調する社会的判断力批判の営みである。 したがって, また, 偏狭な閉鎖的世界を 前提にする 「差異」 「異質・同質」 なるもののは教育実践の有効論理になりえないと考える。. V 教育実践における評価のシステム ( 1 ) 閉鎖的な共同体的関係の世界における 「評価システム」 をどうするか ただし, 本稿の注( 2 )の拙稿で述べた社会的判断力批判の営みとしての対話・討論のマニュアルな どは, そ の時々の特定の諸事件や出来事を想定し, 主として, 教師の指導性を基本にして組み立てたものである。 こ 2 )でも指摘したように, 学校のなかでも, 教師の 「眼」 「視野」 が届く範囲で, あ れに対して, 本稿の田の( るいは届かない「裏」の空間(地下的世界)で, 子 どもたちは日常的に各々相互に, あるいは一方的に「好き・ 嫌 い」 「優 れて いる .劣 っ て いる」 「美 しい . 醜 い」 「関 心 意 欲 が高 い ・ 低 い」 な どと 形 容 し, ある い は評価 し批判 しあ っ て いる。 ま た, 「バカ にす る」 「侮 辱する」 な どの行 為 も 行 わ れる。 もち ろ んそ こ に は, 偏 狭な. 地下的世界での営みでもあるがゆえに, あるいは今日の社会的環境・教育政策や様々な生活境遇を背景にし ているがゆえに, 偏見・先入観・差別視なども含まれている。 これを, 本稿では, 閉鎖的な共同体的関係の 世界における 「評価システム」 (カギカッコを付けた) と記述しておこう。 しかし, 偏見・先入観・差別視 なども含まれているからと称して, 地下的世界などでの評価・批判の営みに対して, 教育行政作用や学校管 理政策として権力的に介入・統制・禁止することは本来的にはなじまない。 ところで, 以上のような閉鎖的な共同体的関係の世界における 「評価システムJ に対して, また, 学校な どにおける子 どもたち相互の(あるいは一方的な,打撃的な)日常的な評価・批判・形容な どの営みを含めて, 人間の諸属性に関して, 誰のどのような要求によっ て 「差異」 「異質・同質」 なるものの評価・形容および それらの基準・規格化・分類化がなされ, それらに どのように対応するかという問題がある。 すなわち, 第 「指導要録」 の作成な ど) に属する ような いわ ば所与 一に, 国家権力や市場原 理あるいは教育行政作用 ( , としての 「上から」 の評価・判別化・分類化およ びそれらの基準o根拠・規格設定な ど (これらは, 市民大 衆や子どもたち自身が好んで要求している という思想が一部にある) に関する評価システムにどう対応する 238.
(12) . 現代思想と教育実践 か という こ と がある。 第二 に, い わ ば 「下 か ら」 という か, 市 民大 衆 内部 の評 価 シス テム を どう する かと い. う問題がある。 この第二のものは, もちろん, 市民大衆 (内部) 自身のものであり, 学校においては子ども たち 自 身の もの である。. 本稿は, 第二の評価システムを学校を基本にして考察するが, これは複雑な問題を含むけれども, 上記の ように現実には子どもたち自身の間でなされている相互評価・相互批判 (あるいは一方的な評価・批判) な どが発生・存在するがゆえに,放置できないだろう。放置できないだけでなく,民主主義教育において,名誉・ 誇りを守り, 正義の実現を基本にしつつ, 相互評価・相互批判のあり方をどのように学ばせるか, また, 主 権者・主人公としての対等平等の人格・人権の尊重と擁護を基本と した相互評価・相互批判の能力をどのよ うに形成するかは重要な課題になる。 以上の相互評価・相互批判の学び方や能力形成については, 学校教育 では伝統的には生活指導の分野で実践されてきた。 すなわち, 生活指導の実践では, 自治的集団の独自指導 を基本にした集団づくりの実践で行われてきた。 すなわち, 自分たちで共同の目標・利益・理想・理念など をつくり, その実現を目ざし, 議論し決定し, 実践し, それらがどのように実際にどこまで達成・実現され た かを 明 らか にする こ と に 随伴 して の評価 や判 別 な どの シス テム である。 集 団 づ く り で はもち ろ ん 公の 世 ,. 界 (学級会, 児童会.生徒会など) で何を議論し, 何を決定し, 何を評価することができるか, できないの か (あ る い は な じむ か, な じま な い か), と いう こ と は 明確 にさ れて き て いる。 簡 単 にい え ば み んな で 決 ,. めてみんなで実践することに伴う自治的な評価システムである。 基準なども自分たちで議論して決めるので ある。 第一 の評 価 シス テ ム (いわ ば, 行 政的評価 シス テム) は 自 分 たち で 基準 な どを 含め て決め れな い。 し. かし, 第二の評価シス テム の経験と見識などを積み上げるなかで, 第一の評価システム自体を相対化・対象 化 できる こ と につ な がる。 ま た, そ れ ら によ っ て, 出 身 階層 .思 想 信 条 な どの相 違や そ れら を 「異 質. 同質」. なるものなどに分類したり偏執・固執する傾向を後景に退かせることができる。 ( 2 ) 自治的な民主的公共の世界における評価システムの意義 すなわち, 第二の評価シス テムは, 学級会・児童会・生徒会を基盤にして形成される自治的集団の発展に 応じて, その自治的集団としての学級集団・全校集団が, 教育行政作用の末端的単位組織・機関としての学 級・学校 (法定学級・法定学校) という制度的枠組みの外の世界に相対的に独立し 子どもたち固有の自治 , 的な民主的公共の世界として成立することを基盤・背景にして営まれる。 これによっ て 子どもたちが地下 , 的世界な どで営んでいたところの偏見・先入観・差別視などを含んだ相互評価・相互批判が 主権者・主人 , 公としての対等平等の人格・人権の尊重と擁護を基本とした相互評価・相互批判にとっ てかわられていく 。 したがって, 自治的集団の独自指導を基本にした集団づくりを, 子どもたちの世界を教育行政作用の未端的 単位組織・機関としての学級・学校という単一の制度的空間にとどめるものとして把握することは 明白な , 誤解であり, 歪曲である。 つまり, 当初は, 教育行政作用 の末端的単位組織.機関としての学級.学校に依 拠しつつも, 自治的集団の独自指導を基本した集団づくりによって その学級・学校は 大別すれば 少な , , , くとも, 二つの (二重の) 世界・空間から構成されることになる。 すなわち ①文字通り教育行政作用 の末 , 端的単位組織・機関としての学級・学校の世界・空間, ②自治的集団としての学級集団.全校集団を基盤に した民主的公共の世界・空間, である。 教育行政機関・学校教職員はまさに ②の自治的集団と民主的公共 , の世界・空間の形成・成立を目ざして, 指導および支援・援助・激励することが重要である 。 以上の第二の評価システムにおける特に②の形成・成立は 一方では上記のように第一の評価システム自 , 体を相対化・対象化するとともに, 他方では, 子どもたち自身が偏見・先入観・差別視などを含めて作る偏 狭な地下的世界などでの相互評価・相互批判 (一方的評価・批判) の営み自体に対する 関与と対 象化・客観 化 を可 能 にする。 ま と め て みる と, 学 校 ・ 学 級 に は 大別 す れ ば 第 一 に 「上 か ら」 の 評価 シス テム と し , , , 239.
(13) . 遠 藤. 芳 信. ての行政的評価システム, 第二に, 自治的集団と民主的公共の世界・空間における評価システム, 第三に, 所与としての偏狭な地下的世界での 「評価システム」 (いわ ば, 内輪話的な, 閉鎖的な共同体的関係の世界 )で述べた対話・討論を基軸にした客観化・対 2 ) がある。 すなわち, 本稿の皿の( における 「評価システム」 象化としての社会的判断力批判の営みと, 自治的集団と民主的公共の世界における評価システムの成立・展 開は, ハーバマスにおける対話的行為の理論と自律的公共性の理論を部分的に実現する。. { 1 ) 本稿で取り扱う 「差異」 「異質・同質」 なるものな どは, 人間に対して, すなわち, 特定具体的な当該個々人の実体的なあれこれ の多様な諸属性 (もしくは当該の本人まる ごと全体) の現れに対して強調されたものであって, 思想 (体系) ・学説・理論・政治体 制や物品・機械装置な どの機能などの説明・紹介において形容されたものではない (拙稿 「教育実践における分類主義の克服と社会 48 的判断力批判」 北海道教育大学函館人文学会編 『人文論究』 第61号, p 。1996年3月)。 なお, 本稿は, 全国生活指導研究協議会 . 6日) 「学習2」 の筆者の発言資料 「座談会 朝日野実践記録と生活指導実践の課題」 と全国生活指 19 96年5月2 第2回全国委員会 ( 1996年7月31日) の筆者の報告資料 「座談会 近年の 『現代思想』 と生活指導の課題」 をもと 8回大会研究者集会 ( 導研究協議会第3 に作成したものである。 いうまでもなく, 憲法・教育基本法および子 どもの権利条約などを基本にした民主主義教育や公教育実践に おける子 ども観や教育方法において重視すべきことは, 多様性の尊重であり, 多様な思想・信条・出身階層な どの背景・境遇をもつ 子どもたちを学校・教育の (諸権利行使の) 主権者・主人公として認め合い, 育てることである。 つまり, 類的存在しての人間がそ れぞれの多様性を越えつつ相互に働きかけあい,社会的諸関係の総体としての人格を形成し,主人公として生きることである。政府・ 文部省や教育行政機関などは,第15期中央教育審議会第一次答申等のように,今後も「異質なものへの寛容」「差異を認め合う態度」「個 性尊重」 などの文言を出すだろうが, 最後まで, 拒否しあるいは譲らないのは, 子 どもを主権者・主人公として認め合うことの文言 であろう。「生きる力」 なるもののも,「主権者・主人公として生きる力」 として育てることが重要なのである。 なお, 小浜逸郎は,「個 性」 という言葉には, 子 どもたち相互における評価・形容対象のリアリティ を隠蔽する機能があることを指摘するが (小浜逸郎 「個 「 「 20 995年, 世織書房) 性という強迫」 森田尚他編 『個性という幻想 教育学年報4』 p , 個性」 ・ 個性を認め合う」 という言 . ,1 と たとえば 体育の授業で い方は今日の学校などではかなり無責任的営みを助長する用語 しても機能している。 , 跳び箱が跳べない , 「 「 子どもが出てくることがある。 この場合, ある教師たちは, 跳べないのは本人の 個性」 であるから, 本人の 個性」 として尊重し ましょうと主張する。つまり,子 どもが跳び箱を跳べるようにするのは本人の「個性」を押しつぶしてしまうと主張する。この主張は, 教師の指導放棄であり, 子ども側からみれば, 権利放棄を黙認させられたというべきである。 つまり, 跳び箱を跳べる権利とか上達 することができる権利の理解や行使 を放棄させたり,跳び箱を跳ぶ学習・練習の面白さを認識させることに敵対している。もちろん, なぜ学校で跳び箱を跳ばせるのかという教育内容設定の意義・理由を検討することは重要である。 いずれも, 近年, 学校教育等にお いて, 人格の概念とその尊重の意義に関する基本的考察が後退していることの反映である。 )の拙稿および, 拙稿「北海道の生活指導実践に求められるもの -- 分類主義の克服と社会的判断力批判のマニュアル化 --」 ( 2 ) 注( 1. 9 9 6年1月, 所収) は, 「異質共同」 などの強調者が 8回北海道生活指導研究大会要項』1 (全国生活指導研究協議会北海道支部 『第2. 無批判的に導入し前提にしている ところの, 子 どもたちの世界における 「異質・同質」 なるものの分類やその分類への固執・偏執傾 向を批判的に検討したものである。 特に学校・教室という狭い閉鎖的な空間になりがちな世界において, 「異質・同質」 なるものの 分類に固執‐偏執する子 どもたちの傾向に対して, 対話・討論を通して客観化・対象化する 手段・方法のマニュアルな どを示してお いた。 これに対して, 本稿は 「差異」 「異質・同質」 なるものに関する分類と関心が現代思想の どのような文脈から提出されている かを考察するものである。 なお, 民俗学.文化人類学な どにおいても 「差異」 「異質・同質」 なるものが強調されることがあるが, それらの規定・呼称や形 容によって利益を得るのは誰なの かを検討する必要がある。 周知の通り, 古代から東アジア世界でも海を越えて広範多様な人民大衆 の交流がある。 もちろん, 国境線も明確でなかっ た。 そこで, 多種多様な人々が出会っ たときの認識のテーマは, 「異質・同質」 な るものの認め合いや認識ではなく, 社会的生産の分業と協業の相互尊重・不可侵であり, それらはいかにある べきかという認識とみ たほうがよいだろう。 しかし, しだいに支配者側・支配階級側の支配政策・イ デオロギーとして, 分業に優劣を作り, やがて分業に 合わせた身分な どを作り, それぞれの 「差異」 「異質・同質」 なるものを 「認め合い」 させたのである。 これに対して, 民俗学・文 化人類学などでは, 民間伝承や神話研究を通して, 自己所属の社会の外部や定住地域外に存在する者を 「異人」 視し, 種々の呼称を 付けると同時に 「畏敬と侮蔑」 の両義的な混合的心態が生まれたことの指摘 (岡正雄な ど) が紹介されている (小松和彦 『異人論』 12 85年, 青土社)。 武者小路公秀によれ ば, 日本人の場合, この種の 「異人」 観 (自然主義的異人観) を支えている基盤は封 p 。19 . 「日 鎖的共同体であって, 「宗教的‐文化的な差異によらず, むしろ直観的に 『異人』 を 『異常な人』 としてとらえる異質感である」 ( 「 づ 90 本人の対外意識」 『思想』 1961年6月号, p 。 岩波書店) とされる。 他方, 今村仁司は 現代の思想を特徴 けるものは, 異者と . 「 ポイン こと これが現代思想を考える場合の 異質的なもの 絶対に他なるものを探求する であります の出会い, 異者への驚き, 」 , ,. 240.
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