ミヒャエル・パヴリック 『市民の不法』(9)
その他のタイトル Michael Pawlik, Das Unrecht des Burgers(9)
著者 飯島 暢, 川口 浩一, 山本 和輝
雑誌名 關西大學法學論集
巻 65
号 4
ページ 1344‑1371
発行年 2015‑11‑12
URL http://hdl.handle.net/10112/9620
『 市 民 の 不 法 』 (9)
飯島 暢・川口浩一(監訳)
山本和輝(訳)
目 次
監訳者まえがき 文 献 導 入
第
1
章 犯 罪 の 概 念A.
刑法学と実践哲学I .
刑罰強制の不快さI I
.
実践哲学と法の実定性 皿 実 践 哲 学 に 替 わ る 法 政 策 ?N.
出発点としての刑罰論B .
予防の道具としての刑罰?C .
協働義務違反に対する応答としての刑罰I .
予防思想の危険と応報理論のルネサンスI I
.
協働義務の正当化根拠:自由であるという状態の維持(以上,6 3
巻5
号)(以上,
6 3
巻2
号)(以上,
6 3
巻4
号)1. 政治共同体に奉仕する刑法?
2 .
自由の理念と市民の地位3 .
フーゴ・ヘルシュナーの犯罪概念 皿 応 報 理 論 と 刑 罰 賦 課N.
市民と外部者V.
法益侵害としての犯罪?1. 「啓蒙の最も豊かな成果」としての法益概念?
2 .
法益概念の批判能力?3 .
法益から法的人格へV I .
犯罪概念から一般 的 犯 罪論へ 第2
章 市 民 の 管 轄A.
管轄の体系I .
不作為犯の特別財?1 1
•
保障人的地位の理論の系譜学について 皿 管 轄 の 体 系1. 法の任務と管轄の根拠づけの諸形象
‑ 266 ‑‑ ( 1 3 4 4 )
(以上,
6 3
巻6
号)(以上,
6 4
巻2
号)(以上,
6 4
巻5
号)ミヒャエル・パヴリック
「市民の不法』 ( 9) 2 .
他の人格の尊重3 .
人格的存在の基本的現実条件の保証B .
被侵害者の優先的管轄I .
罪体から実質的構成要件概念へI I
.
構成要件と違法性の関係 皿 被 侵害者の管轄の体系1. 統一的な評価問題としての管轄分配
2 .
自己答責的な自己侵害及び同意(山本和輝)第3章 刑法的協働義務違反
A .
帰属可能的・管轄違反的行為としての刑事不法B .
帰属可能性の限界C .
義務違反の範囲m . 被侵害者の管轄の体系
1 . 統一的な評価問題としての管轄分配
(以上,
6 5
巻1
号)(以上,
6 5
巻2
号)(以上,本号)
刑法上の帰属は,規範に対する行為者の個別的な関係の確定に制限されるわけではな い。その場合に問題となるのは,むしろ,「一般的に保障された答責領域という座標の 前にあるコミュニケーション的に媒介された行為の解釈」である
401)。要するに,「刑法 上の帰属が特徴づけるのは,何が権利侵害として,誰の答責の下にあるのかということである」
402)。しかしながら,帰属論は,あらゆる法的人格の法的平等に配慮しなければ ならないがゆえに,ミューシックが断言するように,「一般的な帰属基準は,行為者の
管轄の基礎づけだけではなく,その管轄の阻却をも」導くのである403)。4 0 1 ) M i i s s i g , ZStW 1 1 5 ( 2 0 0 3 ) , 2 3 2 . 4 0 2 ) M
必s i g ,ZStW 1 1 5 ( 2 0 0 3 ) , 2 3 2 .
4 0 3 ) M
必s i g ,ZStW 1 1 5 ( 2 0 0 3 ) , 2 3 2 ; 同じく, d e r s . ,Mord, S . 1 6 1 , 1 6 6 f f . ; d e r s . , FS
J a k o b s , S . 408 f f . ; 類似の見解として, J a k o b s , S y s t e m , S . 4 4 . ーー クー レンも,
正当化理論を客観的帰属論の対象とすることに賛成する ( K u h l e n , 1 . FS R o x i n , S . 3 3 1 f f . ; d e r s . , FS M i l l i e r ‑ D i e t z , S . 4 3 1 f f . ) 。クーレンが証明しようとしているのは,
義務違反連関および危険連関の根拠づけのトポスは,従来の理解における客観的帰
属の範囲においてだけでなく,正当化論の内部においても妥当性を必要とし,また
行 為 者 の 態 度 に 対 す る 構 成 要 件 的 結 果 の 帰 属 を 阻 却 で き る と い う こ と で あ る
( K u h l e n , 1 . FS R o x i n , S . 3 3 2 , 338 f . ; d e r s . , FS M i l l i e r ‑ D i e t z , S . 4 3 2 , 4 3 4 )
。これに
対して,正当化事由が,既にそのような
一般的な管轄形象の現れになっていないかという体系的に
上位にある問いを,クーレンは検討していない
。それによ って,彼は,自らが客観的帰属論に関する従来の学説に対して行ったものと同じ批判に身を
さらす ( K u h l e n , 1 . FS R o x i n , S . 3 3 2 )
。つまり,彼は,中途半端なままなのである。それゆえに,
一方で,被侵害者の管轄は,尊重の思想から生じうるものである。これ まで,この思想の価値論 ( A x i o l o g i k ) は,もっぱら,行為者に着目して展開されてき た。それによれば,他者を尊重することは,他者の権利領域を侵害しないことを意味す る。 したがって,行為者が他者の権利領域内の損害に対して
責任を負うのは,損害が行為者の態度に帰せられうるからであり,またその限りである
。この答責の基礎づけのや り方は,それに劣らず重要な答責の限界づけの原理を含意する
。すなわち,被害が直接的ないし間接的に被侵害者の処分に起因する限りで,この者は被害に対する管轄を有す る。一方で,このことがあてはまるのは,被侵害者自身が変化を制御する場合,つまり は,外界での事象に顕現するのがその者の意思である場合である
。すなわち,自己答責 的な自己侵害および同意である ( 2 . ) 。他方で,被侵害者の優先的管轄が基礎づけられ るのは,この者が他者の権利領域への受忍義務なき介入によって,他者に適法な状況の 回復のために必要な防衛措置を講じさせた契機となる場合である
。すなわち,正当防衛および防御的緊急避難である
。この場合,他者は,それ自体,被侵害者自身がなすべき 事柄を遂行するにすぎない ( 3 . )
。これまで言及された双方の事例群に共通するのは,
被侵害者は,自らによ
って果たされるべき状況の形成に固定化されているということである
。つまり,被侵害者の結果への答責は,その形成の支配と対となるものである404)。― ー
クレー ( K l e e ) から借用された対概念を用いて述べると一
ー他者に対する物理的 侵害をもたらす態度は,この場合,その倫理的侵害をも意味するわけではない
405)。な ぜならば,その態度は,他者の人格性の承認の下で行われているからである
406)0他方で,行為者の管轄の阻却は,本来の職務権限に基づくにせよ,刑事訴訟法 1 2 7 条 1 項のように委任された職務権限に基づくにせよ,行為者が公共の代表者として活動し ているということから生じうるのである
。確かに,当該規範の大部分は,介入の名宛人によ
って帰属可能な態様で設定された介入の誘因に結びつくものである。しかし,この ことは,刑事訴訟法に含まれている,証人やその他の非関与者に対する強制権限が示す ように,
一貰して妥当するわけではない407)。当該受忍義務の法的根拠は,いましがた尊重思想の具体化を扱
ったが,その法的根拠とは基本的に異なっている。つまり,「共 4 0 4 ) J a k o b s , S y s t e m , S . 4 4 .
4 0 5 ) K l e e , G A 48 ( 1 9 0 1 ) , 1 7 7 . 4 0 6 ) J a k o b s , Kommentar , S . 1 4 4 .
4 0 7 ) 刑事訴訟法 8 1 条 C 第 1 項,第 2 項 , 8 1 条 C と結びついた 8 1 条 e 第 1 項第 2 号[第 2
文の誤記か一翻訳者],8 1 条
C,8 1 条 h, 9 9 条, 1 0 0 条 a第 3 項 , 1 0 0 条
C第 2 項第 2 文 , 1 0 0 条 f 第 2 項第 2 文[第 2 号の誤記か一翻訳者]
,1 0 0 条 h 第 2 文 , 1 0 3 条を参照。
‑ 2 6 8 ‑ ( 1 3 4 6 )
ミヒャエル・パヴリック「市民の不法』 (9)
通の国家における法の目的」
408)に対する彼らの共同答責に基づいて,原則的に,あら ゆ る 市 民 は , 比 例 性 の 範 囲 内 で 犯 罪 行 為 の 解 明 に 関 与 す る こ と を 義 務 づ け ら れ て い る
409)。その際,事柄の本質上,無罪推定が認められていることから,訴訟上の犠牲が 強 い ら れ る 義 務 が 問 題 に な る
410)。もっばら,介入権限の「程度 ( W i e v i e l ) 」は,それ が要求される者に対して存在する嫌疑の強度とその重大さに依拠する
41I)。たいていの 場合,複雑に構造化されているわけではない一 ー そこでは,本質的には,
一般的な管轄 による考慮をなぞっているにすぎないー―—一
般的な緊急権と比べて,この領域では,議会の立法者の規制の優先権には,きわめて大きな重点が置かれているのである
412)0しかしながら,伝統的な職務権限だけが,介入の名宛人に対して,その市民の役割にお いて要求をなすのではなく,正当化攻楚的緊急避難もまた要求をなすのである
。この緊 急避難は,いわば刑法 3 2 3 条
Cによ
って把握された事情の裏面を構成する。後者では,規範の名宛人は,対策を講じるべき他人の緊急状況に直面する
一方で,前者では,行為 者としては,生死にかかわる危険を芋む緊急状況にあり,その回避のために,彼は,同 胞たる市民には,より重要ではない,
一定の利益の放棄を要求する ( 4 . )
。本書の区分は,近時の文献において,既に頻繁に主張される正当化の諸原理の体系化 と広範囲にわた
って合致する413)。それは,その場合,「あらゆる自由権的な秩序一 般の 基本原理」が問題となり,それゆえに,その原理は「あらゆる権利の基礎」に属すると いう評価とも
一致する
414)。しかしながら,その際,この区分は全く同じというわけで はない
。むしろ,それには,管轄分析の
二つの部分構成要素ー 一行為者への観点と被侵 害 者 へ の そ れ ― は 価 値 論 的 な 統一 を構成するという認識が基礎に置かれている
。すな わち,同じ管轄形象に根ざしているので,それらは,相互に補い合いながら,当事者の 法的平等が考慮されるという形態で,人格の答責領域を相互に限界づけるという法の任 務を考慮する
415)。確かに, (関連する犯罪構成要件をもとにして具体化された)行為
4 0 8 ) K o h l e r , ZStW 1 0 7 ( 1 9 9 5 ) , 2 0 .
4 0 9 ) K
りh l e r ,ZStW 1 0 7 ( 1 9 9 5 ) , 1 9 f f . ; L e s c h , GA 2 0 0 0 , 3 6 4 .
4 1 0 ) H a a s , S t r a f b e g r i f f , S . 47 F n . 2 1 7 ; K o h l e r , ZStW 1 0 7 ( 1 9 9 5 ) , 2 0 . 4 1 1 ) その限りで一致する見解として, H o r n l e ,FS Tiedemann, S . 3 3 0 .
4 1 2 )
一般的な緊急権に基 づく公務員の正当化が考慮されていないことは,このような 事情に負っている
。個別の点については,P a w l i k ,N o t s t a n d , S . 1 8 6 f f .
4 1 3 ) 上述 S .2 1 5 Fn . 398 の文献を参照。
4 1 4 ) 例えば, Merkel , JZ 2 0 0 7 , 3 7 7 .
4 1 5 ) この脈絡に鑑みれば,エンギッシュにならって,正当化の欠如の場合において,/
者の出発点となる管轄が確認された後ではじめて,場合によってはありうる被侵害者の 優先管轄に言及することは,事理にかなっている ( s a c h g e r e c h t )
416)。それについての....
理由は,いま問題になっているのが,その者の可罰性であるという事情にある
。一ーそ のことから,従来の,狭義における構成要件の機能は,とりわけ,それによって,「人 間の多数の行為から,最初の選別にとって,およそ刑法上重要であるものが選び取られ る」という点にある
。これを基礎にして下される判断は,
一応のものである( p r i m a f a c i e ) という性格を有する
4]7)。我々が何かを一応の義務と名付けるとき,それによって,ロールズによれば,「我々は,それまで
一定の諸原理を考慮に入れてきたに過ぎないことと,我々は諸理由のより大きな枠組みの下位区分だけに基づいて判断を下してい る」ということを,我々は明らかにする
418)。我々が一般的な管轄形象を被侵害者にも適用した後にはじめて,我々は,自らの判断に対して,「それが完全なる正義の観念に よって特定され,かつ数え上げられている……関連するすべての特徴」
419)を考慮した ことを主張することができる。
\構成要件該当的な態度は,「おのずから ( e oi p s o ) 構成要件に該当する不法」であ るとする主張は,少なくとも誤解を招くものである ( E n g i s c h ,U n t e r s u c h u n g e n , S . 1 2 ; 実質的に
一致している見解として,NK‑P u p p e , Vor§13 R n . 1 9 f f . ; d i e s , . FS O t t o , S . 3 9 1 ; G r o p p . , AT, §6 R n . 1 8 ; J a k o b s , AT, 6/59; d e r s . , Kommentar, S . 1 4 5 F n . 1 ; S c h m i d h i i . u s e r , AT, 6/12; de
瓜,FSE n g i s c h , S . 4 3 6 f f . ; d e r s . , Form, S . 5 6 ; d e r s . , FS L a c k n e r , S . 89 f . ; d e r s , . JuS 1 9 8 7 , 3 7 6 ; Hardwig, ZStW 68 [ 1 9 5 6 ] , 32 F n . 2 6 ; O t t o , ZStW 87 [ 1 9 7 5 ] , 5 8 9 ) 。不法とは,
一定 の 態 度 の 存 在 の 質
( S e i n s q u a l i t a t ) ではなく,この態度に関する判断の表明である
。しかしながら,
ある検討の枠内で定められるべき結果は,既に重要なメルクマールの単なる
一部を包 摂 し た 後 で 確 定 す る と い う こ と は , 論 理 法 則 に 反 し て い る ( R i n c k , D e l i k t s a u f b a u , S . 3 1 4 )
。それゆえに,行為者の態度が構成要件該当的であるとする確認は,根拠づけの論理的な構造によれば,決して行為者の態度の不法に関する判 断と
一致するのではなく,正当化事由には干渉しないとする所見を伴って,さらにそれに基づいて判断が下されうるところの諸前提の
一つを構成する(同様に,R i n c k , aaO) 。
4 1 6 ) Arthur Kaufmann, JZ 1 9 5 6 , 3 5 5 ; d e r s . , ZStW 76 ( 1 9 6 4 ) , 5 6 9 f
. ―同旨の見解 として, Hardwig(ZStW 7 4 [ 1 9 6 2 ] , 40 f . ) 。それゆえに,彼は,構成要件の「選 択的意味」について述べる
。4 1 7 ) ガラスの言葉によれば ( ... C a l l a s ,B e i t r a g e , S . 3 5 ) , その判断は,「不法と責任の
一般的概念をもとにした……消極的な修正 ( n e g a t i v eK o r r e k t u r ) の留保の下に」ある
。4 1 8 ) R a w l s , T h e o r i e , S . 3 7 7 .
4 1 9 ) R a w l s , T h e o r i e , S . 3 7 7 .
2 7 0 ‑ ( 1 3 4 8 )
ミヒャエル・パヴリック
「市民の不法」
(9)
したがって,被侵害者の管轄という視点のどの部分が,既に述べられた構成要件の枠 組みにおいて,またこれから先に述べる違法性の枠組みにおいて論じられているかは,
慣 例 ( K o n v e n t i o n ) と目的適合性の問題なのである
420)。「こうしてみると,手続きの 順序 ( Ordnungd e s V e r f a h r e n s ) と事案の解決のための実践的な
一時しのぎのものとし ては」,構成要件と違法性の区別は, ――—ダームの言葉を借りれば一 「実践的な賢慮( W e i s h e i t ) の現れと見なし」てよい
421)。しかし,それ以上の,本来の犯罪体系上の意 義はその区別には存在しない。
2 . 自己答責的な自己侵害および同意
a ) 自律原則 ( A u t o n o m i e g r u n d s a t z ) の内容と射程
...
人間とは,哲学者フォルカー・ゲルハルトの
言葉によれば,「その者にとって固有の
根 拠 ( s e i n ee i g e n e n G r t i n d e ) を有する動物である」
422)。法的な自己決定が意味するの は,他者の法的地位によって限界づけられながら,この根拠を行為として実効的にする ( h a n d l u n g s w i r k s a m ) と い う こ と で あ る 。 「 自 己 決 定 は 自 由 を 発 動 さ せ , 実 行 し ( v o l l z i e h e n ) , いわば自由を執行する ( v o l l s t r e c k e n ) のである」
423)。その裏返しとして,
4 2 0 ) 多くの基礎づけ理論的な水準が達成不可能であることを示すのは,刑法における 被害者の自己答責 思想に対するムルマン (Murmann) の分析に示される
。正当にもムルマンは,自己を処分する決定の外見上の形成に基づく区別ー一 つまり,被害 者が他人の態度を援用するにすぎないのかどうかにつき,他人の救助を用いている のか,それとも行為の実行の全てを第
三者にゆだねているのか一 ーは,規範的に重 要ではないということから出発する
。それにもかかわらず,ムルマンは,
一般的な 三段階犯罪論体系を維持することで,自己侵害を構成要件段階で取り扱いながら,
同意については正当化段階ではじめて取り扱おうとしているが ( a a O ,S . 3 6 8 f f . ) , 彼は,それについて単に「有意義な概念形成」というプラグマティックな観点に依 拠するのである ( a a O ,S . 3 7 4 )
。すなわち,「原則的に―処分以前に
一一存在している法的地位(およびその侵害)を特徴づける,明確化する潜在能力を与えるこ と」は,当を得ていないとする ( a a O ,S . 3 7 5 )
。「ある態度が最終的に法関係を侵 害するのか,それともしないのかという決定的な規範的なデータ」は,ムルマンが はっきりと強調するように「犯罪論体系のどのレベルで同意という意思態度に意義 があるのかには依存していない」 ( a a O ,S . 3 7 9 )
。4 2 1 ) Dahm, V e r b r e c h e n , S . 9 0 .
4 2 2 ) G e r h a r d t , S e l b s t b e s t i m m u n g , S . 7 .
4 2 3 ) H o l l e r b a c h , S e l b s t b e s t i m m u n g , S . 1 8 . —ー
ロクシンは(
Roxin,FS Amelung, S . 2 8 2 ) , 自律思想は,「まず第一 に,その身体の完全性および所有において損なわれ
ないままである人間の権利」を含み,「第二 のものとしてはじめて,……その身/
自律的な行為者には,その自己決定の結果を引き
受ける責任が課せられるのである
。す なわち,自己決定の裏面は,自己答責 なのである
424)。自己決定して行動する者は,そ の行為の帰結に対して責任を負わなければならない
。確かに,自らがなそうとすることを行う,あるいは行わないことができるが, しかし,結果の責任を引き受ける必要がな い者は,真摯に受け取られず,子ども扱いされているのである
425)。ある行為が自己決 定的(自律的)であるということから,その行為が違法である場合には,その行為を行 為者に責任がある者として帰属するということが可能になるのである
。すなわち,答責が,負責 ( H a f t u n g ) をひき起こすのである
426)。もっとも,自己決定思想は,他者に 加えることに対してだけでなく,自らに加えることに対しても,行為者の答
責性を基礎づける。刑法を自由な共同生活の条件の保持に限定する法共同体は
427),他者の利益の 侵害だけを処罰することができるので,被害者自身の完全に答責的な意思に基づく侵害 は,刑法上の禁止の契機 ( A n k n i i p f u n g s p u n k t ) にされてはならない
。つまり,刑法的にいえば,自己答責的な自己侵害の場合,被侵害 者 の 内 面 O n t e r n a ) が問題になる
。したがって,自発的に,自らの法領域内での序列換え (Umschichtung) を行うことを 決意する者は,自らにとって不利益となる,その態度それ自体の結果に関しての管轄を 有する。その者は,他者を
責任から免除するのである。自身の法的地位による自己決定的かつ自己答責的な扱いには,その際に,他者による 援助を利用する可能性も含まれる
。援助者に割り当てられた役割は,行為の準備ないし\体あるいは所有を,自己の意思にしたがって処分する権利」を内容にすると主張す るが,実際上の体系的関係を転倒させるものである。放
っておかれるといぅ消極的権利は,その正当化のために,固有の現存在の自己規定された形成の要求という形 ....
式での積極的な基礎づけを必要とする
。4 2 4 ) MK‑Schlehofer, Vor§§32 f f . R n . 56; G e i l e n , E i n w i l l i g u n g , S . 2 9 , 1 5 1 ; G o b e l , E i n w i l l i g u n g , S . 2 2 ; Gschwend, Verantwortung, S . 2 8 9 , 3 0 6 ; J a k o b s , S y s t e m , S . 3 5 ; d e r s . , S c h u l d p r i n z i p , S . 3 4 ; Ronnau, W i l l e n s m a n g e l , S . 5 3 f . ; Stemberg ‑ L i e b e n , S c h r a n k e n , S . 3 9 , 1 1 3 Fn . 1 9 7 ; B i c h l m e i e r , J Z 1 9 8 0 , 5 4 .
ー 一民法的な側面から,F l u m e , R e c h t s g e s c h a f t , S . 1 5 9 ; Oh l y , Vol en t i , S . 6 4 f . , 7 7 .
一 ー公法の見地から,Kube, J Z 2 0 1 0 , 2 6 5 , 2 7 2 .
ー 一哲学的な視点から,G o s e p a t h ,G e r e c h t i g k e i t , S . 3 6 7 ; Heidb
ガn k ,Autonomie, S . 2 7 1 f .
—一社会心理学の観点から, Prinz,W i l l e n s f r e i h e i t ,
s . 6 1 .
4 2 5 ) O h l y , V o l e n t i , S . 7 7 . 4 2 6 ) Ohly , V o l e n t i , S . 7 7 . 4 2 7 ) 上述 S . 1 0 1 f f .
‑ 2 7 2 ‑ ( 1 3 5 0 )
ミヒャエル・パヴリック『市民の不法』 (9)
遂行の際に,権利領域の主体 (Recht s k r e i s i n h a b e r ) を手伝うという点につきる。しか
しながら,その役割は, ー一それ自体としてみれば,侵害的な—行為の自らの手によ る実行をも含みうる
。自ら設定した目的のために他者の能力を利用するこれらの態様の 間で,規範的に重要な相違は存在しない
428)。「双方の同意によって行われる行為」は,4 2 8 ) 1 9 世 紀 の 文 献 で は , こ の 見 解 は , 長 い 間 支 配 的 で あ っ た ( 例 え ば , S t i i b e l , T h a t b e s t a n d , §106 [ S . 1 3 4 ] ; S c h r o t e r , Handbuch, §52 [ S . 9 3 ] ; Hen
如,Handbuch,B d . 1 , S . 232 ; K o s t l i n , R e v i s i o n , S . 6 8 5 ; d e r s . , S y s t e m , S . 1 0 4 ; K e B l e r , E i n w i l l i g u n g , S . 68 f . ; R o e d e n b e c k , Zweikampf, S . 3 3 ; L i s z t , L e h r b u c h , S . 1 4 8 f . ; K l e e , GA 48
[ 1 9 0 1 ] , 1 7 9 参照)
。その見解に否定的な立場をとっていたビンディングさえも,1 8 8 5 年の時点ではなお,自己侵害と同意に基づく他害行為は同
一であるとの主張が原則を構成するということを認めざるをえなかった ( B i n d i n g ,Handbuch, S . 700 Fn . 1 8 )
。一ー今日の文献においても,この立場は,かなりの賛同を得ている。すなわち,基本的なものとして, J a k o b s , Tatung, S . 1 5 f f . ; d e r s . , S y s t e m , S . 4 4 ; d e r s . , FS Arthur Kaufmann, S . 4 6 6 . 同旨, D e r k s e n , H a n d e l n , S . 2 4 1 ; F i e d l e r , S t r a f b a r k e i t , S . 1 5 9 f . ; 1 7 0 f f . ; G
りb e l ,E i n w i l l i g u n g , S . 9 9 f . ; H i l l g r u b e r , S c h u t z , S . 8 5 ; Kampfer, S e l b s t b e s t i m m u n g , S . 3 5 0 ; K i o u p i s , Notwehr, S . 1 2 3 F n . 8 ;
K r a c k , L i s t , S . 1 0 9 f . ; K u b i c i e l , JZ 2 0 0 9 , 6 0 1 ; KuBmann, E i n w i l l i g u n g , S . 1 2 8 f f . ; M.‑K. Meyer, A u s s c h l u B , S . 1 4 8 f f . ; M o s b a c h e r , S t r a f r e c h t , S . 1 2 1 ; Murmann, S e l b s t v e r a n t w o r t u n g , S . 3 1 5 ; d e r s . , FS Puppe, S . 7 7 8 , 7 8 1 ; Ronnau, W i l l e n s m a n g e l , S . 52 f . , 6 6 f . , 1 4 3 , 1 8 8 , 2 2 3 , 2 4 5 f . ; R o s e n a u , 2 . FS R o x i n , S . 5 8 2 ; Z i p f , E i n w i l l i g u n g , S . 2 9 f . ; von Hirsch/Neumann, P a t e r n a l i s m u s , S . 8 1 ; Arthur Kaufmann, MedR 1 9 8 3 , 1 2 4 ; L u d e r s s e n , JZ 2 0 0 6 , 6 9 1 ; S c h m i t t , FS Maurach, S . 1 1 5 ; W o l f s l a s t , FS S c h r e i b e r , S . 9 2 3 .
‑―これまで,キントホイザーも,この立 場を取っていた ( K i n d h i i u s e r ,AT, 1 2 / 4 ; d e r s . , FS H o l l e r b a c h , S . 6 4 6 ; d e r s . , FS R u d o l p h i , S . 1 4 2 f . , 1 4 8 )
。しかしながら,近時,彼は,マニャリク ( M a n a l i c h , N o t i g u n g , S . 8 0 f f . ) にならって,その見解を変更した。同意は,態度に対する答 責をある人格から他の人格へと完全に移す帰属ルールではなく,規範廃棄事由 (Normaufhebungsgrund) であるとする
。つまり,刑法は,既に根拠づけられた答責性が,免除的に,ある人格から他の人格へと移し替えられうるという原則を有し ていないとする ( K i n d h i i u s e r ,GA 2 0 1 0 , 5 0 1 f f . ; d e r s . , FS Maiwald, S . 4 1 2 f f . ) 。し かしながら,有効な同意の場合において,これまで実行者の自主的な行為答責性は 基礎づけられてきたのであろうか。むしろ,実行者は,規範的に考慮すれば,いか
なる時点においても同意者の手中にある道具であったのではないだろうか。一~自己侵害の本質に関する問いと同意者の侵害に関する問いは,相互に何の関係も
ないとそっけない判断をするビンデイングにならって ( B i n d i n g ,Handbuch, S .
7 0 0 ) , とりわけドイツ刑法 2 1 6 条からの印象に基づいて,依然として,代表的な論
者たちが,同意に基づく他者侵害と自手的に実行された自己侵害を同置することに
反対する。もっとも,その基礎づけのために挙げられた論拠は,あまり説得的な/
\ものではない
。同意の場合,被害者自身と並んでさらに別の人格が当該事象に巻き込まれ,それゆえ,法的規制から免れた,被侵害者の内部領域を越えてしまってい るとする指摘は
(この意味において,例えば, H i r s c h ,FS W e l z e l , S . 7 8 0 ; d e r s . , ZStW 8 3 [ 1 9 7 1 ] , 1 6 7 ; 刑 法 2 1 6 条との関連でまた, LK‑Jahnke, §216 R n . 1 ; S t e r n b e r g ‑ L i e b e n , S c h r a n k e n , S . 2 8 3 [ただし,逆方向の主張として, s . 4 1 f . , 1 1 4 , 2 2 6 f f . ] ; R i s s i n g ‑ v a n S a a n , ZIS 2 0 1 1 , 5 4 9 も同様である
。実質的に一致する見解として,既に Hepp,T h e o r i e , S . 6 3 ; Hartmann, G r i i n h u t ' s Z e i t s c h r i f t 2 7 [ 1 9 0 0 ] , 7 2 6 f . ; N a g l e r , FS B i n d i n g , S . 2 9 1 ) , 侵害事象の規範的意義を不当にもその外的な 現象像から導くのである
。被侵害者自身が自らに加える侵害について刑法上の非重要性も,そのような外的な経過ではなく,刑法が当該態度を自由答責的なものとし て評価するという点を根拠としている
。その場合,逆に,被侵害者が他の人格を巻き込んでいるという事情それ自体から,このような事象を刑法上配慮すべきことを 導き出すことはできない。さらに,匹敵性に対しては,すべての他者侵害において
—同意に基づく場合であってさえも一ー,自己侵害の場合には存在しない行為不
法があると反論されているのである ( G e p p e 1 ‑ t ,ZStW 8 3 [ 1 9 7 1 ] , 9 6 3 )
。しかしなが ら,このような主張は,
― ‑伝統的な見解と同様に正当化事由であると理解された
-— 同意が,あらゆる他の正当化事由と同様に不法阻却効果を有することから,論
理的ではない
。つまり,いかなる点において,承認された他者による侵害の行為不法は存在するのだろうか
(同旨の見解として, M. ‑K.Meyer aaO, S . 1 4 6 )
。最後に,
当該の法益所持者に対する潜在的危険が,両者の場合では異なっていると主張され ている
。自己の行為による危殆化にどの程度,身をさらすかは,常に自らの支配の 下にあるとされている
。これに対して,他者に起因する危険の単なる許容は,これ に対して被害者を予測不能な展開 ( u n i i b e r s e h b a r eE n t w i c k l u n g ) に身をさらすが,
それを制御しながら介入すること,あるいはそれを中断することは,自らを危険に さらす者がこれを行いうる場合であっても,可能性はもはや存在しないとされる ( R o x i n , FS G a l l a s , S . 2 5 0 ; d e r s . , JZ 2 0 0 9 , 3 9 9 )
。しかしながら,彼によって同意さ れた介入だけが実行されえ,加えて彼がその同意をいつでも撤回することが許され るのであるから,「予測不能な展開」の危険は,既に同意者に対して差し迫ったも のではないのである (A m e l u n g ,VerantwortungsmaBstab, S . 2 5 2 ; Gobel aaO, S . 1 0 1 ; KuBmann aaO, S . 1 3 3 ; Murmann, FS Puppe, S . 7 8 6 Fn . 8 9 )
。法益の放棄の決断の変更の場合に,自損行為者は単に中止するだけでよいが,同意者は,その者 によって
一旦授権された者( E r m i i c h t i g t e ) がさらに続行するというリスクにさら されるという事情は,重要ではない。「いずれにせよ,同意の撤回がなされても,
その行為を続行する者は違法に行為をしていることが確定されるのであり,同意者 の保護に関する基準が問題となる場合には,事実上残っている可能性ではなく,こ の規範的な事情だけが重要なのである
。いずれにしても,法的禁止を定立する以上のことは,法秩序には不可能なのである」 (AmelungaaO, S . 2 5 2 )
。その他の点では,不法な行為の被害者となるリスクは,このような状況では,それ自体,あらゆ る他の生活領域におけるものよりも大きくはないのである
。結局のところ,最も/‑ 2 7 4 ‑ ‑ ‑ ( 1 3 5 2 )
ミヒャエル・パヴリック
「市民の不法』( 9 )
既にフンボルトが認めたように,「完全に,あ広人間
一人だけで,他者と直接関連することなしに行うものと同じである」
429)。つまり,外部に現れた姿からすると,他者の手によるしわざとして現れるもの一一被害者の同意に担われた,被害者の権利領域内への 他者の介入ーー は,「被害者の立場からすれば……自己侵害となる」
430)。このような立 場は,基準となるものである。すなわち,外界での事象は,権利領域の主体の決定権に 服し,かの者は,「企ての中心 ( S e e l ed e s Unternehmens) 」であり
431),実行者は,そ の「延長された腕 ( v e r l a n g e r t e rArm) 」にすぎないので
432),事象をもたらすことは,
管轄の観点の下では,自らの権利領域の主体のしわざとなる。「他者の意思は,自らの
意思に吸収される。 一— 同意によって生じるのは' ...:... うの意息なのである」
433)0もっとも,この原則が果敢に前面に登場するにつれて,その正確な射程は不明確とな
...
る。 まず明らかにする必要があるのは,自己規定的な決定の存在に対して, どのような 要件が課されるかということである。諸決定に関する自律は,「本質的に確認可能,経 験的に測定可能ないし心理学的に診断可能ではなく,偶然的かつ規範的な構成を示 す 」
434)。自律概念について要求が高く捉えられれば捉えられるほど,そのように捉えら
\重要な同意の事例の一つである麻酔下での手術において,患者が,それ以前に与え た同意を撤回する事実上の可能性を失うということも重要ではない。しかしながら,
こ の こ と は , 自 損 行 為 の 場 合 に も 生 じ る の で あ る (Amelungund KuBmann, j e w e i l s aaO)
。そのうえ,患者は,既にあらかじめ,そのことを知っており,彼の同意の決定の際に考慮することができたはずである。唐突な意見の変化に関わる自 己の傾向を処理することも,自己答責に属する
。4 2 9 ) v . Humboldt, I d e e n , Kap. XI ( S . 1 3 3 ) .
4 3 0 ) K l e e , GA 4 8 ( 1 9 0 1 ) , 1 7 9 .
—ーアメリカの哲学者ジョエル・ファインバーグ( J o e l F e i n b e r g ) の言葉によれば,「道徳的観点から,彼の行為に対する私の同意 は,あたかもそれが私自身の行為であったかのようする」 ( F e i n b e r g ,Harm, S . 1 0 0 )
。一「被侵害者の同意」というのは,確かに普通そのようにいわれるが, し かしながら,全く問題がないというわけではない。というのも,既にケスラー
( K e B ! e r ) が指摘したように,それによって,「あたかも,同意があるにもかかわら ず,ある侵害が存在し,それはもっぱら例外命題に基づいて犯罪ではない,つまり,
可罰的ではないかのような」イメージが促進されてしまうのである。「……権限者 の同意の方が,ずっとふさわしい専門用語になるであろう
。」 ( K e B l e r ,E i n w i l l i g u n g , S . 1 f . )
4 3 1 ) R o e d e n b e c k , Zweikampf, S . 3 4 .
4 3 2 ) そのような見解として例えば, Ronnau,J u r a 2 0 0 2 , 5 9 5 . 4 3 3 ) K l e e , GA 48 ( 1 9 0 1 ) , 1 7 9 .
4 3 4 ) Fateh‑Moghadam, G r e n z e n , S . 2 7 .
れた閾値に達せず, したがって,自己決定思想の形式的には完全な配慮の下で,刑法
上の禁 止の契機にされてしまう決定の数がますます多くなる
435)。大きな違いが認められるのは,自律をミルになら
って,ある人格がある一定の時点で現に欲しているものの総体 と 解 す る か
436),そ れ と も カ ン ト に な ら っ て , 純 粋 実 践 理 性 の 立 法 と 解 す る か で あ る
437)。自律をカント的意味で理解する論者は,例えば,自殺をそれ自体 ( p e rs e ) 非理 性的であり,またその理由から自殺者の自律要求と矛盾する行動であるとみなす
138)。4 3 5 ) A
叫 社e i d e n u . a . , E i n l e i t u n g , S . 1 ; E l l s c h e i d , P a t e m a l i s m u s p r o b l e m , S . 1 8 7 ; G u n v a l d ,
Autonomie, S . 8 2 ; K i r s t e , JZ 2 0 1 1 , 806; Mayr, Grenzen, S . 5 0 ; Klimpel , Bevormundung, S . 2 8 ; T e n t h o f f , S t r a f b a r k e i t , S . 1 0 3 ; V o s s e n k u h l , P a t e r n a l i s m u s , S . 2 8 0 .
4 3 6 ) M i l l , F r e i h e i t , S . 2 1 参 照。
4 3 7 ) K a n t , Kp V , S . A 59 参照
。4 3 8 ) K o h l e r , AT, S . 2 5 5 ; d e 1 ‑ : s . , ZStW 1 0 4 ( 1 9 9 2 ) , 1 9 f f . ; d e , ‑ : s . , JRE 1 4 ( 2 0 0 6 ) , 4 3 6 f f . ; d e r s . , FS K u p e r , S . 2 7 7 ; 同 旨 の 見 解 と し て , K a h l o , P a t e r n a l i s m u s , S . 2 6 6 f . ; M a a t s c h , S e l b s t v e r f t i g u n g , S . 2 1 7 ; 結 論 に お い て , 類 似の見解として, Klimpel , Bevormundung, S . 7 2 , 9 8 : カントによって想定された,自らの人格のうちにある人 間性の権利から ( K a n t ,MS, Werke, B d . 7 , S . 3 4 4 参照),理性的な存在 ( E x i s t e n z ) を自己保存することについての法的義務から生じる
。もっとも,法的な実直さへの 法律上の義務の想定は,既にカント的諸前提の下で全く問題がないわけではない
。なぜならば,そのような想定は,それ以外では妥当している権利と強制権限の分析 的 な 関 係 を 破 壊 し て し ま う か ら で あ る
(同旨の見解として, F a t e h ‑Moghadam, E i n w i l l i g u n g , S . 1 2 0 f f . ; d e r s . , G r e n z e n , S . 2 9 ; l n g e l f i n g e r , G r u n d l a g e n , S . 1 7 4 ; M u l l e r , Y e r h o t , S . 4 3 f f . ; E l l s c h e i d , P a t e m a l i s m u s p r o b l e m , S . 1 9 6 f f . ; H o r n l e , GA 2 0 0 8 , 7 0 8 f . ; J o e r d e 1 z , Grund, S . 3 7 4 ; Vossenkuh~Patemalismus, S . 2 8 1 f f . )
。しかし
ながら
,仮に,カントにならって,「他者との関係で,人間の価値としてのその者の価値を
主張し」,そしてそれによって,自らを他者にとって単なる手段としないという内容の法的義務を想定するとしても (Kant , MS aaO), そのことからは,単に,
自己が,引き続き人間であり続けるにもかかわらず,自らに認められている法的価 値を失うという状態をもたらすこと
(奴隷契約)は許されていないということが明 らかとなるにすぎない
。しかしながら,人間の存在 ( m e n s c h l i c h eE x i s t e n z ) と人格 の尊厳 ( p e r s o n a l eW t i r d e ) との間にあるそのような相違は,自己が自らの人格とし て自己決定に基づいて,人間としての自己の存在を終わらせる決心をする場合には
表れない。(同旨の見解として,Fateh‑Maghadam, E i n w i l l i g u n g , S . 1 2 4 ; d e r s , . Grenzen , S . 3 0 ; M o s b a c h e r , S t r a f r e c h t , S . 1 5 8 ; J a k o b s , FS Arthur Kaufmann, S . 4 6 4 f . ; K u b i c i e l , AL 2 0 1 1 , 3 6 3 ; 結論的には, ..... Karg! , S t e r b e h i l f e , S . 3 9 1 も同様であ
る。
);「それゆえに,それ自体,終局的な権利行使と認められる権利行使は,矛盾な どしているのではなく,反復することができないだけである」 ( F a t e h ‑Moghadam,/'
‑‑ 2 7 6 ‑ ( 1 3 5 4 )
ミヒャエル・パヴリック「市民の不法」 ( 9)
さらに,未解決であるのは,いつ,すぐ上で説明された意味における純粋に私的な決 定について語りうるのかである
。自身を侵害する者の処分の自由は,その者に,
_民 法上の用語で言えば_ 彼によって放棄された利益に対する制限されていない権利 ( u n b e l a s t e t e s R e c h t ) が属する限りでのみ及ぶ。これに対して,その者の法的地位に,
第三者, とりわけ公共に対する義務が賦課される場合,その者の態度は,単なる自己侵
害であるという性質を喪失し,しかも他者侵害という性格ずら示すのである
439)。しか しながら,その態度がとにかくその者の意思に合致するという理由だけでは,いかなる 者も他者の法的地位を処分してはならない
。その限りで,処分の自由の限界についての問題は,その他の義務の拘束による負担についての問題と
一致する。個別の人間を社会的に束ねることは,その者が行ったほとんどすべてについて,他者の利益の間接的な侵
害を認めることを可能にするHO)。それゆえに,自らの生命及び健康を国家のために保持するという国家市民の義務を承認する者は,自殺すら,死のうとしている者の固有の 関心事とみなさないだろうし,またそれゆえに自殺未遂か,少なくとも自殺関与を処罰 するだろう
441)。したがって,その適用条件の可変性に鑑みれば,自己決定思想に対する原則的な支持
ヽ E i n w i l l i g u n gaaO)
。自己が他者の力を借りて自殺する限りで,自己は,まさに他 者の手段となるわけではなく,他者を手段として自らの目的を実現するとされる
(ケーラーでさえ (KohleraaO [ J R E ] , S . 4 4 4 ) , 間接的臨死介助の場合に対して,
自己保存についての名目上の義務の例外を認めざるを得なくなっているのである
。)。このような理由から,以下のようなクーヘンバウアーの主張も的外れなものである
。すなわち,自殺は,自身の価値を喪失させ,また自身を道具化する行いである
。自 殺を通じて,権利主体は,撤回できないような形で,人間としてのその主体の質を 放棄し,そしてそれによって人間の尊厳を自ら放棄することになるとする主張であ る ( K u c h e n b a u e r ,ZfL 2 0 0 7 , 9 8 )
。完全に同じというわけではないが(Cumgrano s a l i s ) , 他者に自らを殺す可能性を認める者は,既にこのような行動によってだけ,
他者の処分対象とされるが,それは殺されかけている者の尊厳に反するものである というヴィルムスと Y . イェーガーによ
って立てられたテーゼも同様のことがあてはまる ( W i l m s / J a g e r ,ZRP 1 9 8 8 , 4 4 )
。実際には,事情は逆である
。すなわち,殺害の要求は,自山な行動である ( I n g e l f i n g e ra a O , S . 1 7 5 ) 。ある者が手段とされる 場合,それは実行者なのであって,同意者ではない。
4 3 9 ) より古い文献から, K l e e ,GA 48 ( 1 9 0 1 ) , 1 7 8 .
‑最近の文献から, S t e r n b e r g ‑ L i e b e n , S c h r a n k e n , S . 285 ; さらに, L i i b b e ,Verantwortung, S . 1 8 6 .
4 4 0 )
最終的にこのことを指摘するのは,Hilgendorf (NK 2 0 1 0 , 1 2 6 )
。4 4 1 ) いまだにこのような趣旨のことを述べているのは, S c h m i d h a u s e r ,FS W e l z e l , S .
810 f f .
表
明は,さまざまなルールモデルと調和しうる
。特に争われている臨死介助の問題群にあてはめると,問題になっているルールの多様さは,極端自由
主義的な構想から,ハー ドパターナリズム的な,あるいは国家に結び付けられた構想にまで達する
。ドイツでの 展開は,かなり昔から自由化の方向を示している
。自律概念が,超個人的な理性の基準 から解放されていることについては,ほとんど見解が一致している
。その自律的な性格 の保持のためには,決定は,自らの価値秩序との
一致でのみなされなければならないとされる
442)。決定の際には,「処分することができない決定の前提条件に対する,自らの観点からの正しい「答え』」が重要にならなければならないとされる
443)。それとともに生じるのは, 超個人的な義務の拘束に対して増大する懐疑である
。自らの生命と健康を
国家のために保持するという国家市民の義務は,啓蒙哲学者であるクリスティアン・ヴォルフ以来,それどころか
2 0
世紀に至ってもなお受け入れられていたにせよ444),今 日では,
一致して拒絶される。確かに,自由な国家であっても,危険に満ちた公的な任 務を任せられた者は,自身を傷つけることによって,その任務から逃れることは許されていない
。そのような態度は,兵役回避 ( D e s e r t i o n ) として処罰の対象となり(軍刑
法(WStG) 1 7 条,刑法 1 0 9 条),また緊急避難によら七正当化ないし免
責されえない
(刑法
3 4
条第2
文,同3 5
条1
項第2
文前段第2
選択肢)。しかしながら,公共のために自己を保持するという包括的な個人の義務は,人格の自由の優位と相いれない
445)04 4 2 ) 網羅的なものとして, G k o u n t i s ,Autonomie, S . 1 0 1 f f . , 1 3 2 .
4 4 3 ) G o s e p a t h , G e r e c h t i g k e i t , S . 3 7 4 .
4 4 4 ) 例えば, Wolff ; P o l i t i k , §370 S . 2 8 1 ; F e u e r b a c h , L e h r b u c h , §241 S . 4 0 4 ; S t i i b e l , T h a t b e s t a n d , §106 S . 1 3 4 ; d e r s . , NACrim 1 0 ( 1 8 2 8 ) , 5 6 9
(違警罪( P o l i z e i v e r g e h e n ) としての自殺); Trummer, C r i m i n a l i s t i s c h e B e y t r i : i g e , B d . 3 / 2 , S . 1 3 8 ; B r e i t h a u p t , V a l e n t i , S . 4 2 , 5 5 参照
。 _同時代の反対説についで情報を提供するものとして, L . G u n t h e r , A. f . K r i m i n a l ‑ A n t h r o p o l o g i e 28 ( 1 9 0 7 ) , 2 6 0 が 参考になる
。一一比較的新しい文献からは,S c h m i d h a u s e r ,FS W e l z e l , S . 8 1 7 ;
基本的に同様のものとして, J e s c h e c k l W e i g e n d , AT, §34 I I I 2 ( S . 3 7 9 ) ; E n g i s c h , FS H . Mayer, S . 4 0 8 ; E s e r , JZ 1 9 8 6 , 7 8 6 ; Weigend, ZStW 9 8 ( 1 9 8 6 ) , 6 2 f . , 6 5 f . 4 4 5 ) この論拠の古典的な
主張は,v . Wachter , NACrim 1 0 ( 1 8 2 8 ) , 6 5 7 f f . に見出される
。ー一比較的新しい文献からは,
B o t t k e ,S u i z i d , S . 49 f . ; C h a t z i k o s t a s , D i s p o n i b i l i t i : i t , S . 2 2 7 f . ; D o l l i n g , GA 1 9 8 4 , 8 5 ; H. D r e i e r , JZ 2 0 0 7 , 3 1 9 ; E F i s c h e r , R e c h t , S . 260 ; C a l l a s , B e i t r i : i g e , S . 1 6 8 , 1 7 9 ; G o b e l , E i n w i l l i g u n g , S . 3 3 ; Grunewald , T o t u n g s d e l i k t , S . 2 9 3 f . ; H i l l g r u b e r , ZfL 2 0 0 6 , 7 5 ; l n g e l f i n g e r , G r u n d l a g e n , S .
1 8 3 f . ; K a r g l , S t e r b e h i l f e , S . 3 9 6 ; Arthur Kaufmann, MedR 1 9 8 3 , 1 2 4 ; d e r s . , l . FS R o x i n , S . 8 5 1 ; K i r s t e , JZ 2 0 1 1 , 8 1 0 ; K l i m p e l , Bevormundung, S . 6 2 , 7 2 f . ; / '
‑ 2 7 8 ‑‑ ( 1 3 5 6 )
ミヒャエル・パヴリック「市民の不法」 (9)
b ) 特に,刑法 2 1 6 条の正当化について
他人の利益のために,個人に向けられたより厄介な要求が,刑法 2 1 6 条をめぐる議論 によってよく知られているタブーの保護及びそうでなければダムの決壊 (Dammbruch) が差し迫るという論拠の基礎にある
。伝統的な見解によれば,刑法2 1 6 条は,人間の生 命の尊重の保持への公共の利益の保護に資する
。要求に基づく殺人が禁止されることによって,「生命に対する畏敬の念」が,社会心理的な殺害タブーとして定着するとされ る
446)。しかしながら,人間の生命は,決して,タブー違反論拠が示唆するほど不可侵 なものではない。すなわち,何故,正当防衛における攻撃者の殺害は, ドイツ法(刑法 3 2 条)によって比例性の検討に基づかないことすら許されており,殺害タプーに触れな いにもかかわらず,同意者の殺害は,「民衆の社会倫理観における,生命に対する価値 評価を失墜させる」
447)という危険を基礎づけるのかは,適切には理解しがたい
448)0そのうえ,タブー違反の阻止に関する公共の利益によって正当化される刑法 2 1 6 条は,
もはや,通常の意味における
一一犯罪によって侵害された者の個人の生命として理解されるような 生命に対する犯罪ではない。というのも,死のうとする者は,個別の生
" ‑ , . K
りh l e r , ZStW 1 0 4 ( 1 9 9 2 ) , 2 1 f . ; K u b i c i e l , JZ 2 0 0 9 , 6 0 0 ; d e r s . , JA 2 0 1 1 , 9 0 ; M a a t s c h , S e l b s t v e r f i i g u n g , S . 4 4 f . ; M o s b a c h e r , S t r a f r e c h t , S . 1 7 7 ; F . M u l l e r , V e r b o t , S . 3 7 ; R o x i n , FS D r e h e r , S . 3 3 7 f . ; S c h m i t t , FS Maurach, S . 1 1 7 ; S t e r n b e r g ‑ L i e b e n , S c h r a n k e n , S . 1 1 4 f . ; T e n t h o f f , S t r a f b a r k e i t , S . 1 4 7 f . , 2 2 8 f . ;
V o h r i n g e r , Tatung, S . 3 3 , 6 2 .
4 4 6 ) 基礎的な見解として, E n g i s c h ,FS Hellmuth Mayer, S . 4 1 2 . ー一同旨の見解と して, NK‑Neumann, §216 R n . 1 ; U l s e n h e i m e r , A r z t s t r a f r e c h t , R n . 2 7 5 ; G o b e l , E i n w i l l i g u n g , S . 4 2 f . ; l n g e l f i n g e r , G r u n d l a g e n , S . 2 1 7 ; S c h o r k , S t e r b e h i l f e , S . 2 1 8 f f . ; S t e r n b e r g ‑ L i e b e n , S c h r a n k e n , S . 1 1 7 f f . ; T a g , K o r p e r v e r l e t z u n g s t a t b e s t a n d , S . 2 9 1 f . ; D o l l i n g , GA 1 9 8 4 , 86 ; d e r s . , MedR 1 9 8 7 , 8 ; E s e r , S t e r b e h i l f e , S . 6 9 ; H e r z b e r g , NJW 1 9 8 6 , 1 6 4 4 ; d e r s . , NJW 1 9 9 6 , 3 0 4 7 ; H i r s c h , FS W e l z e l , S . 7 7 9 , 7 8 2 , 7 9 0 f . ; d e r s . , FS L a c k n e r , S . 6 1 2 f . ; d e r s . , FS Amelung , S . 1 8 9 ; Kuchenbauer, ZfL 2 0 0 7 , 1 1 2 ; K u t z e r , FS R i s s i n g ‑
℃an S a a n , S . 3 3 9 f . ; L e o n a r d y , DRiZ 1 9 8 6 , 2 9 0 ; L i n d n e r , JZ 2 0 0 6 , 3 7 9 ; L o r e n z , JZ 2 0 0 9 , 66 ; O t t o , J u r a , S . D 5 4 ; d e r s . , FS T r o n d l e , S . 1 5 8 ; R o x i n , FS D r e h e r , S . 3 3 9 ; S c h r e i b e r , FS Hanack, S . 7 3 8 ; S t r a t e n w e r t h , FS Amelung, S . 3 5 8 f f . ; d e r s . , FS Puppe, S . 1 0 2 0 ; 結論的には,
Der
如e n ,H a n d e l n , S . 2 4 4 f . ; S c h r o e d e r , FS D e u t s c h , S . 5 1 0 . も同様である
。4 4 7 ) 例えば, D o l l i n g ,GA 1 9 8 4 , 8 7 .
4 4 8 ) 同 旨 の 見 解 と し て , He,
辺b e r g , NJW 1 9 8 6 , 1 6 4 4 ; d e r s . , NJW 1 9 9 6 , 3 0 4 5 ; H o e r s t e r , NJW 1 9 8 6 , 1 7 9 1 ; M
叫e r ,V e r b o t , S . 6 6 ; T e n t h o f f , S t r a f b a r k e i t , S . 1 6 5 ;
W o l f s l a s t , FS S c h r e i b e r , S . 9 1 6 .
命を,意識的に,また意図的に放棄したからである /4~9
) 。
死のうとしている者は,むしろ,名目上,そうでなければ危殆化されるであろぅ他の人格たちのために,殺害タブー を強固にすることへと用いられている
450)。つまり,彼は,この世での生の末期にあっ 4 4 9 ) これに対応することは,学説の
一部によれば,タブーの保護という思想によって同様に正当化される刑法 2 2 8 条に妥当する(例えば, G
砂e l ,E i n w i l l i g u n g , S . 5 4 ; H i t ‑ s c h , FS W e l z e l , S . 7 9 8 f . ; d e m s . , ZStW 8 3 [ 1 9 7 1 ] , 1 6 8 ; O t t o , FS T r o n d l e , S . 1 6 8 f . ) 。
確かに,身体に対するタブーの著しい違反によって根拠づけられた行為の公序良俗 違反 ( S i t t e n w i d r i g k e i t ) は,同意に影響を及ぼすかもしれない
。しかし,公序良俗 違反は,「被害者の意思に対応した財の変更から,実際に想定されなければならない,
あるいは仮定されるべき,完全性の保持へと向けられた意思の侵害と想定されなけ ればならない財の変更を導き出すこと」はできないのである ( F r i s c h ,FS H i r s c h , S . 4 8 9 ) 。というのは,「道徳違反的な同意ですら,ー一 ‑ t : . . とえ,まさに道徳違反で あっても
一 一人格の自己表現なのであり,その自己表現に従う者の処罰は,身体の傷害としては根拠づけられえない」からである ( J a k o b s ,FS S c h r o e d e r , S . 5 1 1 )
。4 5 0 ) J a k o b s , T a t u n g , S . 1 9 .
ー一同旨の見解として,G o b e l , E i n w i l l i g u n g , S . 3 9 f f . ; LK ‑
Ronnau, Vor§32 R n . 1 8 8 ; d e r s . , W i l l e n s m i i n g e l , S . 1 6 4 ; H e r z b e r g , NJW 1 9 9 6 , 3 0 4 7 ; K u b i c i e l , JZ 2 0 0 9 , 6 0 2 ; d e r s . , JA 2 0 1 1 , 9 0 ; O h l y , FS J a k o b s , S . 4 6 0 F n . 52 .
—ー
レーデンベック (Roedenbeck) は,既に 1883年の時点で,刑法が, 216条において,「特別な性質をもつ軽罪 (V e r g e h e n ) , 風 俗 犯 ( S i t t l i c h k e i t s v e r g e h e n ) 」を 規定したということを認識していた ( R o e d e n b e c k ,Zweikampf, S . 4 4 ) 。「刑法典が このことを規定したのは,殺人の違法性が,同意によってそれ自体阻却されるから である。しかしながら,行為は,それでも道徳に反するものなのであって,しかも それによって市民社会の道徳的な生活を
一般に危殆化するようなものなので,そのような行為を処罰することは, 目的に適っていた」とするのである ( a a O ,S . 4 4 f . )
。―インゲルフィンガーによれば, ( / n g e l f i n g e r , G r u n d l a g e n , S . 2 1 7 ) , タブー化に よる他の人間の生命の保護は,「刑法 2 1 6 条の規定には,その規定の不法的性格を歪 曲するような財が存在しないということ」である。しかしながら,それによって,
インゲルフィンガ
ーは,そのつどの具体的な主体の生命という法益を抽象化しているのである(そのようなやり方に対する批判については,上述 S . 1 4 7 f . )
。刑罰規範は,現実の被侵害者を保護すべきなのか,それとも,場合によっては起こりう る将来的な損害から他の人格を守るべきなのかは,その不法の性格にとって重大 な相違をもたらす
。ところで,わずか数ページ前で,インゲルフィンガーは,こ のような相違を自ら強調するのであるが ( a a O ,S . 1 8 8 ) , その
一方で,行為者が同時 に そ の 具 体 的 な 被 害 者 の 生 命 を 軽 視 す る 場 合 に の み , 生 命 と い う 財 の 種 類 ( G u t s g a t t u n g ) への配慮の損害 ( A c h t u n g s s c h a d e n ) について語り得ることを強調 する
。すなわち,「その場合,個別の不法が問題とされなければならない」というのである ( a a O ,S . 1 9 6 )
。インゲルフィンガーが直後に自らのよりすぐれた洞察に 反する記述を行う理由は,不明確なままである
。‑ 2 8 0 ‑ ( 1 3 5 8 )
ミヒャエル・パヴリック「市民の不法」 ( 9 )
ても,なお社会的に義務を負わされるのである
451)。公共に対する義務をますます認めようとしない社会においては,そのような不当要求が共感を失っていくということは,
驚くに値しない452)0
もっとも,頻繁に「次の段階の危険」が呼び起される
453)。すなわち,罪に問われない積極的安楽死の要件の忍び寄る拡大の危険は深刻であるとされる
。坂道論法が好まれているが
454),しかし,その論法は,その使用者の多くが認識している以上に要求過多 である
455)。そのような論法に依拠する者は,第一 に,その論法によって支持された禁 止によって防止されるべき危険が正確にはどこにあるのかを述べなければならない
。...
第二に,その者は,自らが指摘した危険の緊急性を,実証的に説得的であるものにし
なければならない。第三 に,その者は,自身の懸念の規範的重要性を,それがよりに よって刑法の投入を正当化するということを明らかにし,また実証しなければならな
し
゜
一方で,坂道論法