」を繋ぐものを求めて
著者 外山 悠
雑誌名 社会科学
巻 49
号 4
ページ 191‑207
発行年 2020‑02‑28
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000639
もう一つの “Aesthetic Turn”
─ 「日常」と「美学」を繋ぐものを求めて ─
外 山 悠
ヴォルフガング・ヴェルシュとリチャード・シュスターマンの “Aesthetic Turn” で は「日常」の直接的「唯美化」が主張されているに過ぎず「日常」と「美学」とを繋 ぐ媒介概念が見当たらないと本稿は考える。2000 年代米国に生まれる日常美学の立場 からは,この日常の直接的唯美化の傾向が批判の対象になるとともに,日常美学独特 の方法論が探求される。日常美学者である斎藤百合子は,日々の平凡な出来事や雑用 を「いかに」によってすなわち現象学的に記述することで美的経験が成立すると主張 するが,それによって直ちに日常と美学との間が媒介されているのではない。そこで,
日常と美学との媒介概念を,ルドガー・シュヴァルテが「美しき日常のイデオロギー としての美学」(2009 年)でのハイデガー解釈の中で主張した或る概念に求めてみた い。シュヴァルテは,美学はウィトゲンシュタインによる批判によって美的満足の普 遍伝達と芸術の考察の役割を失ったが,この影響は「日常の美学」にも及ぶと考え,
「日常的なものの時間性」を新たな考察対象とする。この概念によって,斎藤の日常美 学では「場の感覚」でしかフォローできなかった突発的出来事が一連のシークエンス として解釈される局面が新たに開かれる。
は じ め に
“Aesthetic Turn” とは,2000 年に,ドイツのポストモダンの美学者でありトランス・
カルチャー(越境文化)論で知られるヴォルフガング・ヴェルシュ(Wolfgang Welsch, 1946-)と,米国のプラグマティズムの美学者であり「ポピュラー芸術の美学」論で知ら れるリチャード・シュスターマン(Richard Shusterman,1949-)が,ともに唱えた概念 である。論者は,この「エステティック・ターン」が,2000 年代に入ってからドイツな らびに米国で独立した美学の学問分野として認められ始めた「日常美学(Everyday Aesthetics)」に間接的にせよ影響を与え,さらに後の米国での日常美学はこの概念を変 質させ独自に発展させたのではないかとの考えを持っている。ヴェルシュとシュスター マンの議論では,ヴェルシュの場合はライフスタイルという,シュスターマンの場合は
倫理的なものという「日常」が「唯美化」されたとも想定できる。では米国で発展した 日常美学も同様に「日常」を「唯美化」した事例であるのかと論を進めて行くうちに,次 第にそうではないのではないかとの考えの方が大きくなっていった。以下,本稿の立場 は,「エステティック・ターン」では基本的に「日常」の直接的な「唯美化」を主張され ているに過ぎず,副題にあるように「日常」と「美学」とを繋ぐ媒介概念がそこには見 当たらないとするものである。
序 論
本稿の先行研究には以下がある。(1)カルチュラル・スタディーズの研究者であるベ ン・ハイモア(Ben Highmore)の「家事:日課,社会美学そして日常生活の曖昧さ
(“Homework: Routine,Social Aesthetics and the Ambiguity of Everyday Life”)」(2004 年)1)。デューイが平凡な経験の特徴とした「漂う(drift)」の語に注目し,そこでの議 論の抽象性をフランスのリュス・ジアール(Luce Giard)による日常生活の実践研究「料 理をすること」(“Faire-la-cuisine”)2)を具体例事例とすることで補ったものである。以 後ミシェル・ド・セルトー(Michel de Certeau,1925-1986)に代表されるそれら日常生 活の実践研究は日常美学者らの注目を惹くこととなった。(2)ドイツのルドガー・シュ ヴァルテ(Ludger Schwarte)の「美しき日常のイデオロギーとしての美学(Ästhetik als Ideologie des schönen Alltags)」(2009 年)3)。本稿の主張の根幹に関わる,「日常」
と「美学」の間を繋ぐ「媒介概念」に相当する「日常的なものの時間性」が示される。(3)
日常美学が一定の規模を持った美学運動となっていることを示すものとして,米国の論 集『日常生活の美学(The Aesthetics of Everyday Life)』(2005 年)4)。日常美学者であ る斎藤百合子の第一作目の著作『日常美学(Everyday Aesthetics)』(2007 年)5)の書評
「芝生の外見(“Look of Lawns”)」6)が『タイムズ文芸付録』に掲載(2009 年)。スタン フォード大学がオンライン上に公開の「哲学事典」中の「日常生活の美学(aesthetics of
the everyday)」の項目(2015 年)7)。(4)論者による,ハチスンのいう美と道徳の観念
との比較の観点から,斎藤の日常美学で論じられた「道徳的−美的判断(“moral-aesthetic judgement”)」を解明する試み8)。
本論は以下の構成から成る。第一章では,ヴェルシュとシュスターマンが「エステ ティック・ターン」として示す「美的(感性的なもの)の変容」が,米国の日常美学に おいてより発展させられたということを明らかにする。第二章では,ヴェルシュとシュ
スターマンのいう日常の「唯美化」およびセルトーによる日常の「行いの技法」からは 日常と美学を繋ぐ概念を見出すことができないとの中間的な断定を行う。第三章では,本 稿の主題が「もう一つのエステティック・ターン」となっている理由を明示する。これ まで「日常」を直接的,無媒介的に「唯美化」する傾向が少なからずあったと考える論 者は,部分的にせよ日常美学の理論的枠組みを持った研究成果を検討の対象とする。そ こで選ばれたのがシュヴァルテの「日常的なものの時間論」およびフランスのシャンタ ル・ジャケ(Chantal Jaquet)の「嗅覚哲学」にみられる「近感覚の連続」の概念であ る。
1 何に向けて発展する “Aesthetic Turn” なのか
1.1 ヴェルシュとシュスターマンによるエステティック・ターン
ヴェルシュとシュスターマンは,2000 年にスウェーデンのウプサラ大学の人文社会科 学部によって開催された「人文学復興の共同プログラム」に招かれ,共同討議「文化分 析と現代批評」で「エステティック・ターン」について講じている。本章では同大学美 学教授のラーシュ=オロフ・アールバーグ(Lars-Olof Åhlberg)の論文「美学,文化哲 学と「エステティック・ターン」(“Aesthetics, Philosophy of Culture and “the Aesthetic
Turn””)9)から,この語が現代の美学におけるいかなる状況を指しているのかを確認す
る。さらに 2000 年代に米国で起こった日常美学またはそれに類する美学にエステティッ ク・ターンに類する動きが見られるのかを考察する。この 2 人の美学者は以下の文章で 同一の語り手となって,エステティック・ターンとはどのような状況を指すのかについ て述べている。
今日の哲学的美学において頻繁に用いられる語が「エステティック・ターン」であ る。換言すれば,美的(感性論的)側面を私たちの現実の知覚と経験の構成の主要 かつ根本的なものと見なす傾向が高まっている。その傾向とは,例えば,より美的
(感性論的)な反省を伴う文化分析が必要であるところの,私たちがその中で暮らし ている文化の激変の結果生じたものである。芸術の伝統的な範囲の外へと向かう美 的(感性論的)な次元のこの深化と拡張は,新しく重要な研究課題を伴う美的(感 性論的)な諸規範(the aesthetic disciplines)にまで及んでいる(AP, 27)10)。
両者の見解をまとめてみると次のようになるだろう。すなわち,エステティック・ター ンとは,私たちがそこに暮らしている現代の文化の中では「美的(感性論的)側面」が 知覚や経験の基礎となっていて,その結果今日の美学において「美的(感性論的)次元」
の領域に広がりが見られるという状況を指している。さらにそこで問題となるのは「美 的(感性論的)」という語の意味であるとして両者は続ける。
モラリティとライフスタイルの唯美化(aestheticization)11)は現代文化に独特の特 色であるとたびたびいわれる。伝統的な美学理論では……その範囲がファイン・アー トや純文学に制限されていた一方,現代の美学はそれらと同様に日常生活(everyday life)や大衆文化を含むためその範囲を広げている。このことはまさに「美的(感性 的)なもの(the aesthetic)」12)という観念が或る変容を経たことを意味する(AP, 28)。
ここでは,2 人の美学者が,現代の美学が「日常生活や大衆文化」にまでその適用範囲を 広げているということを,「美的(感性的)なもの」という観念の変容と呼んでいること を確認するに留める。引用中に新たに登場する「モラリティとライフスタイルの唯美化」
については第 2 章で考察する。ところで,「日常」を扱う米国の美学にも,このような「美 的(感性的)なもの」という観念の変容は見られるのだろうか。
1.2 「日常」を扱う米国の美学による「the aesthetic」の広がり
本節では,米国を中心とした日常美学研究者ら,トーマス・レディ(Thomas Leddy),
アルト・ハーパラ(Alto Haapala),シェリー・アーヴィン(Sherri Irvin),そして斎藤 の美学の他に,日常生活を自らの美学の対象の一部とする社会美学者であるアーノルド・
バーリアント(Arnold Berleant)の美学を扱う。彼らは既存の「美的(感性的)なもの
(the aesthetic)」の範囲を広げているように見えるが,彼らが美学的考察の対象とするそ れの範囲はそれぞれ異なっている。
まず,レディは論集『日常生活の美学』で,カントは「エステティックな経験(aesthetic
experiences)を二つに区別した,つまり快適(agreeable)な経験と美の経験である」13)
としている。一般にカントの純粋な趣味判断の対象はレディのいう二者のうちの「無関 心な美」であるが,ここでレディは「感性的なもの」という幅広い感覚領域から議論を 始めている。そして彼は「日常美学はカントの「快適(the agreeable)」の概念と関連づ
けられるかもしれない」として,日常美学は日常的な領域における「快(the pleasure)」
や「快適さ」を伴う経験を扱うものであるとの立場を示す14)。同様の立場を取る日常美 学研究者は他にも見られる。ハーパラは,「日常美学」は「日常の「快い諸側面(pleasurable
aspects)」により意識を向けるべきである」15)と主張する。またアーヴィンは「私たち
が 日 常 的 な 経 験(everyday experience) の エ ス テ テ ィ ッ ク な 諸 側 面(the aesthetic
aspects)に注目するならば,私たちの生活は……より満足なものとなる」と述べる16)。
斎藤によればここに見られるのは「美学とポジティヴな経験との同一視」である(S2, 27)17)。この「ポジティヴな経験」とは,論者が思うに感性にとって「快い」あるいは
「快適な」経験である。
これらの感性にポジティヴな感覚を中心とする日常美学に異を唱えたのがバーリアン トである。彼は著作『感受性と感覚:人間世界の美的な変容』(Sensibility and Sense:
The Aesthetic Transformation of the Human World)の第 9 章で「日常生活のネガティ ヴ・エステティクス(the negative aesthetics of everyday life)」を主唱する18)。そこで 彼は「感性的な経験(sensory experience)は常にポジティヴなものであるのではなく
……そのエステティックなもの(the aesthetic)は私たちをネガティヴなものの領域へ連 れていく」19)と述べ,エステティックなものの領域にネガティヴな感性的経験を含めて いる。
レディらやバーリアントとも異なる立場をとる日常美学者が斎藤であり,自らの日常 美学が示すものについて次のように述べる。「私が主張しようとしていることは日常美学 の 核 心 を 形 成 す る, つ ま り そ れ は 平 凡 な も の(the ordinary)」,「 身 近 な も の(the familiar)」,「日課(routine)」という私たちの生活の諸側面である」(S2, 11)。この日常 生活の三契機は,感性にとって快適でも不快でもない(ポジティヴでもネガティヴでも ない)。斎藤は,そのような日々の雑用(chore)が「私たちを高尚な思考や深遠な美的 経験へ導くものと見なされることは確かにほとんどない」(Ibid., 120)と認めながらも,
それらは「現象学的記述(phenomenological descriptions)」(Ibid., 59)をされ得る経験 である限り,つまり「感性に訴えかける(sensuous)」」経験である限り,すべて日常美 学の対象となり得るとしている(Ibid., 122)。
これら日常美学における感性にとってポジティヴでもネガティヴでもない平凡なもの への注目は,ヴェルシュとシュスターマンによるエステティック・ターンでの「感性的 なもの」への回帰には殆どと言ってよいほど見出されない。論者は,この感性にとって 快適でも不快でもない日常生活の平凡さ,身近さ,日課等の諸要素の感性への訴えかけ
から,日常美学の新たな問題意識が生まれているのではないかと考える。
2 「日常」への不徹底なアプローチ
―「日常の唯美化」と「日常のタクティクス」―
本章では,まずアールバーグの説に従う形で,ヴェルシュとシュスターマンによる「モ ラリティとライフスタイルの唯美化」は,「日常の直接的な唯美化」を意味するという,
論者による解釈が示される。次に,シュヴァルテの見解を基に,セルトーの『行いの技 法(Art de Faire)』20)で考察対象となる日常の事例が日常美学の既述の三要素と重なる 特徴を持つことを明らかにする。
2.1 日常の「唯美化」―ヴェルシュ,シュスターマン
ヴェルシュは「モラリティとライフスタイルの唯美化」が示す事態について明確に述 べていないが,「美的なもの(the aesthetic)21)は,全てではないとしてもほとんどの
「私たちのポストモダンの現代世界」の生活や文化の領域に広がっている」と指摘する
(AP, 39)。この「美的なもの」の広がりについて,ヴェルシュは 1996 年の日本での美学 会全国大会の講演で次のような具体例を挙げている。「美容院やフィットネスクラブで彼 らはその身体の美的完璧化を,瞑想コースや新世代セミナーではその精神の美化を推し 進め,マナースクールでは美的に望ましい立ち振る舞いを訓練」22)する。論者はこれを ヴェルシュのいう「ライフスタイルの唯美化」と結びつける。彼は現在の日常生活にお けるさまざまな美化の形式を示すことで,それによって「生活や文化の領域」がいわば 直接的に唯美化されているということを示していると解される。
次に明らかにされなければならないのは「モラリティの唯美化」である。アールバー グによれば,シュスターマンは「「倫理的なもの(the ethical)」23)のみを「唯美化」の 対象とし,「主に価値観や良い生活に関わる倫理学」と「主に義務に関わる道徳」24)を区 別している。それにもかかわらずアールバーグは,シュスターマンの議論において「道 徳的義務もまた「唯美化」され得」(AP, 32),「モラリティ」と「倫理的なもの」は同様 の唯美化の対象となっていると述べ,その根拠を「倫理的なものの唯美化」を経た世界 についてのシュスターマンの見解に見出している。「もはやそれは,より一般的な義務や 義務のグループからの演繹……でもない。同様に,倫理学的正当化が美学的説明に似て くるようになるのは……知覚による説得的論証に訴えるからなのだ」25)。ここで最初に述
べられている「義務」とは道徳的義務を指している。このことからアールバーグは,こ こに「「道徳的」(道徳的義務における)から「倫理的」(倫理的正当化における)への転 換」(AP, 32)が見られるため,シュスターマンは「道徳的なもの」を「倫理的なもの」
と同様に「唯美化」の対象と見なしているとする。論者はこの解釈に従い,シュスター マンは「倫理的なもの」と「道徳的なもの(モラリティ)」を同様に「唯美化」の対象と 見なしていると結論づける。
では,倫理的なものの唯美化とは何を指すのか。シュスターマンの「それはおそらく われわれの毎日の生活やわれわれの文化の中の大衆的想像力の中にこそ明らか」26)とす る言葉を引いてそれを説明することができる。アールバーグは引用していないが,論者 はシュスターマンが挙げる唯美化の具体例に注目する。「われわれはキリストのまねびを しようとはあまりしないけれど,マドンナの化粧やファッションをまねしようとはする だろう」27)。このような状況を受けて,シュスターマンは現代の人々にとって「自らに もっとも訴えかけてくるもの」とは何かという問いは「究極には美的な問題,すなわち,
もっとも魅力的で完全なものとしてわれわれを打つのは何かという問いである」28)とし ている。しかしこのように「自らにもっとも訴えかけてくるもの」の選択が「美的な問 題」となるとき,「倫理的なもの」はどのような位置にあるのか。アールバーグは,この
「自らにもっとも訴えかけてくるもの」とは,「道徳的観点から」訴えかけてくるのか,そ れとも「美的観点から」であるのかという二者択一を迫り,「その答えが「道徳的観点か ら」であるのならば私たちはトートロジーを扱っている……「美的観点から」であるの ならば「そのとき私たちは唯美化された倫理学またはモラリティを持っているのではな く,倫理学またはモラリティを完全に放棄している」と結論づける(AP, 33-34)。
つまり,シュスターマンは現代の世界において唯美化がモラリティの役割を果たして いると主張しているのに対して,アールバーグはモラリティという概念がそもそも存在 せず日常は直接的に唯美化されているとしている。論者はこれに従い,ヴェルシュが日 常生活の直接的な唯美化を示したように,シュスターマンもまた日常の直接的な唯美化 を示していると結論づける。
2.2 セルトーの「日常生活の創作」
シュヴァルテは,セルトーの著作の題名『行いの技法』からも明らかであるように,セ ルトーが示したのは日常的行為の技法であり,そこには「日常の理論は含まれない」(ÄI, 222)とする。セルトーが研究対象とするのは「もろもろの日常的実践や日常的な「もの
のやりかた(manière de faire)」」29)である。そこでは,「日常」はどのようなものとさ れているのだろうか。それは「繰り返しや無意識的な行いからなるもの」であり,その 行いの典型は「消費」とされているとシュヴァルテはまとめている(ÄI, 222)。そして彼 は日常の行為の実践について,セルトーを引用しながら次のように結論づける。「あらゆ る行くこと,旅すること,物語ること,話すこと,書くこと,考えること,読むこと,利 用することは,一つのTun(行い,行為)であって,これは,所定のプロダクトデザイ ン,サービスの指導並びに商売の指南書と単純に一致しないところの,我が物にするこ との一つの形式である」(Ibid., 223)。ここでは,あらゆる日常的な行為が「一つの形式」
を持つものとされている。そしてシュヴァルテは,セルトーにおいてこの「形式」とは
「慣習の中や消費の中に創造的な手腕がふるわれる」ことであるとする(Ibid.)。この日 常における「創造的な手腕」とは,どのようなものであるのか。私たちを「日常的なる もの」から離れさせるものについてのシュヴァルテの論述を参照することで,それを明 らかにすることができる。
私たちをそこ[日常的なるもの]から離れさせるものとは何かというと,私たちが 一般に創造性として,自由として,あるいは祝祭性として体験されうるものである が,それでもやはり,それは,祝祭日あるいは休暇つまりは勤務時間外にとる休息 とは別種のものであるならば,日常の現象であり続けられる。それ故,日常とは,仕 事日と休日との入り交じり合いのことであり,突発的出来事を繰り返す規範……の ことである(Ibid.)。
つまりシュヴァルテは,セルトーの日常生活の創作あるいは技法の理論は,それから最 も縁遠い一般に創造性,自由,祝祭性とされているものを扱わないと論を立てる。だが それらが祝祭日あるいは休暇でのそれでない限り,つまり「仕事日と休日との入り交じ り合い」での「突発的出来事を繰り返す規範」であるならば,それらはセルトーの日常 生活の技法に含まれるのである。しかし確かにまたこのような日常の創作は,自由な芸 術的創作の対極にあるだろうし,セルトーのいう日常のそれは,従来の美学の枠組みで 論じられているものではないとしても,米国における日常美学が主要な問題としている
「平凡さ」や「日課」から成るものとしての日常生活の特徴との重なりを有しているよう に思われる。
3 「日常」と「美学」を繋ぐもの―シュヴァルテ,ジャケ,斎藤―
3.1 シュヴァルテの「日常的なるものの時間性」による媒介
本節ではシュヴァルテの「美しき日常のイデオロギーとしての美学(Ästhetik als Ideologie des schönen Alltags)」論から,日常と美学との間の媒介概念に相当するもの を提示する。シュヴァルテは,ハイデガーの『存在と時間』における実存論的時間概念 に対して,「日常的なるものの時間性(Zeitlichkeit des Alltäglichen)」(Ibid., 222)を,
彼の日常美学を根底で支えるものとした。ここで,彼の論におけるもうひとつの美学の 根本概念である「イデオロギー」は,本稿の立論の範囲外にあることをことわっておく。
論者は,シュヴァルテのこの二概念のうちの前者について,日常と美学との間を仲介す る役割を有するものであるだけでなく日常生活の中で近感覚に次々に現れる出来事に或 る種のリズムと繋がりを与えるものであると推測する。シュヴァルテによる日常的なる ものの時間論は,フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』での,いわ ゆる「いかに」の立場からの学問的地平の探求とは対照的なものである。後者に登場す るのは超越論的「生活世界(Lebenswelt)」であるが,シュヴァルテはむしろそこからは 除かれていた「日常生活」や「自然的態度」を,いわば「何を」の立場から取り上げる。
ハイデガーの『存在と時間』において実存論的な「現存在の時間性」が明らかにされ「世 人(das Man)の日常性から現存在は引き離されてしまった」ことはよく知られている が,シュヴァルテはここに「日常生活」からの解釈を加え,そこでは「諸々の決断が現 存在をカタパルトで日常的なるものの時間性としての別の時間性へ脱出させることが示 唆され」ているとする(Ibid.)。彼によれば,実存論的な現存在の「決断に特例が生じる ことがあり」,これにより「転機が訪れる」(Ibid.)。さらにそれによって「日常性の内部 に各々の違いの分かるシークエンスがはじめて形づくられ」(Ibid.),そこには「日常の リズム」が生まれる。彼のハイデガー解釈は「祝祭,休日がいわば日常にある程度まで のリズムを生じさせる」という主張により締めくくられる(Ibid.)。論者の知る限りこの
「日常の時間性」はシュヴァルテ独自の発想であるが,「日常」を「リズム」(そしておそ らく「シークエンス」)と関わらせることには,フランスのセルトーらによる日常実践研 究の成果が組み込まれている。前章で述べたように,シュヴァルテによればセルトーの 日常とは「仕事日と休日との入り交じり合いのことであり,突発的出来事を繰り返す規 範のこと」であった。またそれは「生活を製品として享受することを可能にする持続の リズムを与える……瞬間のこと」とされている(Ibid., 223)。論者が考えるには,この
「リズム」概念はアンリ・ルフェーブル(Henri Lefebvre, 1901-1991)にまで遡る。ハイ モアはルフェーブルの未完の「リズム分析プロジェクト(“rhythmanalytical project”)」
(1985 年)をフランスにおける日常美学の最初の例としたが30),かかるリズム論はシュ ヴァルテの論に繰り返し登場する「リズム」概念の遠源となっているようにみえる。ま た,ルフェーブルがマルクス主義の思想家としてかつて「日常生活」を社会批判の場で あると考えていたことが思い起こされる。シュヴァルテは,ウィトゲンシュタインの美 学批判以来の(日常の美学を含む)現代美学は美的満足の普遍的要求の学でも芸術解釈 の一致の学でもなくなり,かつての学的規範の中身を失ってしまったとの結論に至る。そ のため彼の日常の美学の考察対象として「美しいイデオロギー」が選ばれたのであろう と論者は推察する。彼は論の前半部でハイデガーとセルトーの説を基盤に独自の「日常 的なものの時間」論を展開するが,後半部ではイーグルトンの文化論的美学の学説を受 け継ぎ,「日常」と「美学」の間を繋ぐものは「イデオロギー」であるとしている。
3.2 「諸感覚の統合」による媒介
本節では新たに,フランスの美学者シャンタル・ジャケ(Chantal Jaquet)が,古来 より哲学や美学でほとんど検討されたことのない近感覚の一つである嗅覚を哲学的美学 の主題としたことに着目する。それとともに斎藤の日常美学の中に日常と美学を媒介す る概念を求めてみたい。ジャケの『匂いの哲学―香りたつ美と芸術の世界―』31)は 嗅覚と例えば文学といった芸術作品との関わりを主な対象とするものであり,日常美学 の立場とは異なるもののように思える。しかし近感覚に何ができるかを問うジャケの試 みは,これまで日常美学で一度も解析されなかった問題の位相を明らかにすることにな る。ジャケはコンディヤックの彫像モデルによる思考実験を用いて諸感覚が統合されて いく過程を論じる。その彫像は,始めはいかなる感覚も持っておらず,コンディヤック はそこに一つずつ感覚を付与していくが,普通は初めに付与されるべきはヘルダーの彫 塑論のように触覚であると考えられる。しかし彼は嗅覚のみを持つ認識の分析から始め る。ジャケは,これは「嗅覚のみからある人間の全ての能力を派生させる」試みであり,
また「この虚構が作られた目的は,生来の思考への偏見に闘いを挑み,どのようにして 認識が形成されるかを示すこと」であるとしている32)。ここで論者にはこの「偏見」と は一体何かが気にかかった。しばらくジャケによる,コンディヤックが最初に嗅覚を付 与した理由が書かれた箇所に注目してみたい。コンディヤックは最初に嗅覚を付与した 理由を,まず「あらゆる官能のなかで嗅覚は人間精神の認識に寄与することもっとも少
ないと思われるからである」としている33)。もちろんここでコンディヤックは「嗅覚は 最も精神の認識に貢献しない感覚だ」と言おうとしているのではない34)。ジャケは,コ ンディヤックは「嗅覚にとって言えることは他の感覚にとっても言えるがゆえに」,嗅覚 と他の感覚は「同じ地位におかれている」ということを示そうとしたのだと結論づけ る35)。従来,諸感覚はそれぞれ等級差を持つものとされ近感覚である嗅覚はしばしば偏 見の目を向けられほとんど哲学的美学の対象とされることはなかった。ジャケがここに 示しているのは,嗅覚も含めた諸感覚が同様に統合されることを支持する立場である。
斎藤もジャケと同様に,日常的な感性的経験の特徴は,あるものが諸感覚により一度 に受け取られることにあるとしばしば語っている。「選手の身体の動きや接戦のスリルや 記 録 を 打 ち 破 る ホ ー ム ラ ン の ド ラ マ と い っ た 準 芸 術 的 な 諸 要 素(quasi-artistic elements)に加えて,ファンの騒々しい歓声や首を照らしつける日差しやホットドッグ の匂いも野球の試合の見物のうちであるかもしれない」(S1, 19)。ここでは興奮を与える
「準芸術的な諸要素」に,従来の美学的観点からすれば相当格差のある諸感覚が,騒音,
気候,匂いなどの知覚により加えられている。しかしまさにこのような経験が枠組みを 持たないという点にこれまで斎藤の美学への批判が集中している。グレン・パーソンズ
(Glenn Persons)とアレン・カールソン(Allen Carlson)は,「美的鑑賞には多かれ少 なかれ明確な枠組みが必要であり枠組み無しにはその意義ある批評的言説を発展させる ことはできないだろう」と主張する(S2, 48)。
斎藤からの反論を紹介するならば,「絵画,茶道,生け花,俳句,能,武道」といった 日本の伝統的な芸術活動による美学は「芸術の実践者による著作」を中心としていて,ま たそれらの著作において「作品と聴衆の関係」や「芸術批評」への言及はほぼ見られな い,となる(S2, 51)。斎藤は日本の伝統的な芸術活動の美学を鑑賞者と実践者について の明確な枠組みを持たない美学と見なすことで,枠組みもそれによる批評的言説も持つ ことのない美学の存在を示している。しかしまた先に見た批判は,斎藤による野球の観 戦の記録には枠組みによる空間がないという点と,それ故に批評的言説が発展しないと いう点に向けられているが,この斎藤の反論は直接的あるいは間接的に野球場での経験 の記述の枠組みを美学的に弁護するものではない。ここで,この野球場でのホームラン のドラマ,ファンの騒々しい声援,ホットドッグの匂いなどが,単なる時間の経過では ない別の何かとして経験されていることを示すことによる反論を行うことはできるだろ うか。その意味では,シュヴァルテの「日常的なるものの時間性」が日常と美学との間 を繋ぐものとなり得るという前節での議論を再び思い出すべきである。斎藤はこの記述
のすぐ後にニューヨーク市の街中を歩く行為を挙げている。「ニューヨーク市の「場の感 覚(“sense of place”)」は,焼けたプレッツェルやクリの実の匂い,地下からもたらされ る振動と蒸気の気配,タクシーの無秩序な警笛の音……これらから切り離され得ない」
(S1, 19)。ここに示されている諸感覚による経験のそれぞれは街を歩く際の「突発的出来 事」であり,その連続によって「場の感覚」が作られている。しかもそれは「祝祭日あ るいは休暇」ではなくニューヨークで人々がさまざまに活動する「日常」の時間である。
ここにシュヴァルテのいう「日常性の内部に形づくられるシークエンス」の形成による 見方を加えることが出来ないであろうか。斎藤がいう感性に日常の諸感覚が「いかに」訴 えかけてくるかの「現象学的記述」によって,日常生活での突発的出来事の記述を「場 の感覚」としてまとめられるのかには再考の余地がある。斎藤の日常美学にはジャケの いう諸感覚の統合に類似するものが見られ,そこでの近感覚の連続から,時系列的説明 並びにその表象化ともいうべきシークエンス概念による新たなそして重層的な日常生活 の美学的解釈が成立する可能性がある。
3.3 「もう一つのエステティック・ターン」としての「エステティック・パラダイム・シ フト(aesthetic paradigm shift)」
本稿は「もう一つのエステティック・ターン」という題名を掲げている。論者はこれ を,「エステティック・ターン」つまり美学的規範の転換が,「日常」と「美学」の間に 媒介概念を求めて見直される中で新たに生まれたものと規定する。この第三章の最終節 は,その「もう一つの」あり方を,米国の日常美学,特に斎藤の美学の中の或る概念を 通じて問うことを目指している。
斎藤は第二作目の著作で「エステティック・パラダイム・シフト」(S2, 104-108)とい う独自の概念を示しているが,それは自然環境保護の文脈において論じられているため,
そのシフト(転換)が影響する範囲は限定されたものと言わざるをえない。斎藤によれ ば,現代の世界では,例えば「緑の芝生を好む」という「大衆的な美的趣味」を満足さ せるために大量の農薬が用いられている。つまり「緑の芝生を好む」というエステティッ ク・パラダイムが存在し,その優越のために自然環境保護がおろそかになっている。斎 藤はこの既存のエステティック・パラダイムを,より自然環境に配慮したもの,つまり 見た目には鮮やかではない芝生を支持するものへとシフトさせる方法を推奨する。そこ で斎藤は新たなエステティック・パラダイムとして,デイヴィッド・オア(David Orr)
による「どこか別の場所あるいは後の時代で醜さを引き起こさないもの」36)を示す。斎
藤は彼のエステティックの新規範を支持する際,「醜さ」をどのようなものと捉えている のであろうか。一見するとここでは視覚によって知覚される芝生の外観のみが問題とさ れているようである。しかし斎藤はこのように日常美学を自然環境保護にとって有益な ものとする際に,感性にとってネガティヴなものをネガティヴなものとして受け取るこ とを重要視する。それがいかなる意義を持つのかを明らかにすることで,日常美学にお けるエステティック・パラダイム・シフトの議論が及ぶ範囲をさらに拡大することがで きる。つまり「工場からの悪臭」や「絶えず拡大する廃品投棄場」の持つネガティヴな 感覚的質に気づくということがエステティック・パラダイム・シフトを経た美学には必 要であるとされているのではないだろうか(S2, 206, 216)。ここでは諸感覚にそれぞれ同 等の地位が与えられ,諸感覚を同様にはたらかせることが重要になる。ここから,斎藤 が避けようとしている「醜さ」とは視覚のみに依るものではなく,その背後には諸感覚 の統合によるネガティヴな感覚的質の知覚が存在していることが明らかになる。さらに 視覚が他の感覚と統合される過程について,コンディヤックはその他の感覚に対する視 覚の優越を認め,目は触覚や味覚のように近接を必要としないため他の感覚の不完全性 を補うとしている。ジャケはこれについて「目は場所を動かす面倒なしに,体を遠くま で運んで行く。想像と抵抗せず,目は手には届かないものを見せることで,想像と同じ 高みにたつ……こうして想像は目と敵対するというより,その延長線上にあるのであり,
目は感覚と想像,現在の観念と記憶された観念の間に懸け橋を渡すのである」37)と述べ る。これに即して斎藤のいうエステティック・パラダイムに考察を加えるならば,「鮮や かな緑の芝生」という目による情報が,記憶された観念,つまりその芝生の外観の維持 によって生じる環境的犠牲を想起させるということになる。
お わ り に
ヴェルシュにとって今日の世界とは越境文化的なライフスタイルが行き渡ったもので あり,彼の「日常(のライフスタイル)の唯美化」では越境文化概念が一種の媒介項の 役割を果たしていたが,本稿の「エステティック・ターン」における「日常の唯美化」の 文脈は特にその越境文化論を媒介概念とする必要性を持たなかった。では日常美学がこ の媒介概念を持っていたのかというと,それを日々の平凡な出来事や雑用を「いかに」の 観点から記述し美的経験を成立させる現象学的方法と解することも可能であろう。しか し本稿が「日常」と「美学」との間を繋ぐ媒介概念とするものは 2 種類の概念だけでは
ない―(1)美学的方法論(日常的な行為の現象学的記述),(2)媒介的概念(シュヴァ ルテによる「何を」の観点からのハイデガー解釈に基づいた「日常的なものの時間性」,
「シークエンス」)。このうちの後者が「日常」と「美学」を媒介する概念であることが指 摘されるだけではなく,そこでは突発的出来事がいかに或る種のシークエンスとして伻 るのかが記述されなければならないであろう。近感覚が他の感覚といかなる連合を結べ るのかを問題とするジャケの「嗅覚の哲学」は,その点では斎藤と今後の課題を共有す るところがある。最後に,本稿が「もう一つのエステティック・ターン」とした「エス テティック・パラダイム・シフト」は,バーリアントの「ネガティブ・エステティック ス」にも通じるものであり,それは(日常的に私たちに押し寄せてくる)「不快」をその まま受け容れ,「快」にのみ目を向ける美学に反省を迫るものでもあることを述べ,論を 閉じる。
謝辞
この場を借りて本稿執筆にあたり岡林洋先生より受けた指導に謝意を表します。とりわけ現 代ドイツのデュッセルドルフ芸術アカデミー教授のL.シュヴァルテの「日常生活の美学」に 関する貴重な知見提供と独語原典資料の解読とその理解での先生からの指導がなければ,本 稿を論文に仕上げることはできませんでした。
注
1 ) Ben Highmore, “Homework: routine, social aesthetics and the ambiguity of everyday life”, in Cultural Studies, 18(2-3), 2004, pp. 306-327.
2 ) Luce Giard, « Faire-la-cuisine », dans Michel de Certeau, Luce Giard et Pierre Mayol, L invention du quotidien, II, habiter, cuisiner, Paris: Gallimard, 1994, p. 214.
3 ) Zeitschrift für Ästhetik und Allgemeine Kunstwissenschaft, hg. v. Josef Früchtl und Maria Moog-Grünewald, Band 54. Heft 2, Hamburg: Felix Meiner Verlag, 2009, S. 59-74.
[ÄI] 「美学と日常経験(Ästhetik und Alltagserfahrung)」を統一テーマとした第 7 回ドイ ツ 美 学 会 大 会(VII. Kongress der Deutschen Gesellschaft für Ästhetik, 29.09.2008 - 02.10.2008)での発表内容に基づく。
4 ) Andrew Light and Jonathan Smith(ed.), The Aesthetics of Everyday Life, New York:
Columbia University Press, 2005.
5 ) Yuriko Saito, Everyday Aesthetics, Oxford: Oxford University Press, 2007. [S1]
6 ) David E. Cooper, “Look of Lawns”, Times Literary Supplement 5525(February 20, 2009). 7 ) Stanford Encyclopedia of Philosophy - Aesthetics of the Everyday < https://plato.
stanford.edu/entries/aesthetics-of-everyday/ > (2019.08.27 閲覧)
8 )外山悠「斎藤百合子『日常性の美学』における「道徳的美的判断」に関する一考察―フ ランシス・ハチスン『美と徳の観念の起原』を比較の対象として―」(『美学芸術学』第
32 号, 2017 年)。その他論者による先行研究には「斎藤百合子による「日常美学」と「を
かし」の美学」(岡林洋・清瀬みさを編著『カルチャー・ミックスⅡ』,晃洋書房,2018 年)
がある。
9 )“Aesthetics, Philosophy of Culture and “the Aesthetic Turn””, in Filozofski Vestnik 2001 Number2, 2001. [AP]
「エステティック・ターン」の語について,ブリジット・シアー(Brigitte Scheer)は,ウィ トゲンシュタインのいう「言語論的転回(linguistic turn)」との比較によってこのように 述べている。「「言語論的転回」が……私たちの世界の見方の言語的特徴やそれらの言語に 依った特徴への意識の高まりをもたらした一方,美学は私たちの世界の感覚や知覚の解釈 的および構造的特徴を持つので,今日「エステティック・ターン」について語ることは適 切である」(AP, 25)。
10)ヴェルシュとシュスターマンのいう「エステティック・ターン」とは,美学を「感性的認 識の学」へと引き戻そうとする動きと,現代の文化の中であらゆるものが「唯美化」され ているという動きとを指すため,論者は本引用中のaestheticの語には,「美的」と「感性 論的」の意味が含まれているものと考える。
11)「唯美化」の訳語は大森淳史に従うものであり,大森はこの訳語によって「非-美的なもの が美的につくられる,ないし美的に受け取られる」ことを示す(ヴォルフガング・ヴェル シュ,大森淳史訳「美学を越えた美学Ästhetik außerhalb der Ästhetik―この学問分野 の新たな形のために―」,『フィロカリア』第 15 号,大阪大学文学部,1998 年,p. 28)。
12)この変容は日常が唯美化されるという動きと,美的なものから感性的なものへ,という動 きを指す。
13)The Aesthetics of Everyday Life, p. 5. ここでは感性にとって快い経験でだけでなく身体に とって「快適」な経験までもがaesthetic experiencesとされている。そのためaesthetic の語が,従来の美的,感性的とは異なる意味をも含んでいると論者は考える。以下本稿で は,そのような意味で用いられているaestheticを適宜エステティックと表わす。なお,レ ディの見解にはカントの説に矛盾する点がある。カントにとって美的な趣味判断とは美の 無関心の満足を判断し,一方,快適とは関心と結びつく満足であるため,それはその判断 には含められず美的な経験も成立しない。
14)Ibid.
15) Alto Haapala, “On the Aesthetics of the Everyday: Familiarity, Strangeness, and the Meaning of Place”, in The Aesthetics of Everyday Life, p. 52.
16) Sherri Irvin, “The Pervasiveness of the Aesthetic in Ordinary Experience”, in British Journal of Aesthetics 48(1), 2008, p. 41.
17) Yuriko Saito, Aesthetics of the Familiar: Everyday Life and World-Making, New York:
Oxford University Press, 2017. [S2]
18) Arnord Berleant, Sensibility and Sense: The Aesthetic Transformation of the Human World, Exeter: Imprint Academic, 2010, pp. 155-174.
19)Ibid., p. 155.
20) Michel de Certeau, Art de Faire, Paris: Union Générale D'Éditions, 1980.(山田登世子訳
『日常的実践のポイエティーク』,国文社,1987 年)。
21)このaestheticは唯美化されたものを指している。
22)「美学を越えた美学Ästhetik außerhalb der Ästhetik―この学問分野の新たな形のため に―」, p. 5。
23) Richard Shusterman, Pragmatist Aesthetics: Living Beauty, Rethinking Art, Oxford:
Blackwell, 1992.(秋庭史典訳,『ポピュラー芸術の美学 プラグマティズムの立場から』,
勁草書房,1999 年)。
24)Ibid., p. 243.(同書,p. 239)。
25)Ibid.(同書)。
26)Ibid., p. 238.(同書,p. 226)。
27)Ibid.(同書,p. 227)。
28)Ibid., p. 243.(同書,p. 239)。
29)Art de Faire, p. xxxvi.(『日常的実践のポイエティーク』,p. 10)。
30)“Homework: routine, social aesthetics and the ambiguity of everyday life”, p. 322.この
「リズム分析プロジェクト」では「生物学的リズムが,いかに[仕事など社会的な力による]
線状のリズムによって組織化され,またいかにして組織化を超えるのかを認識する」こと で日常生活を把握できるとされる。
31) Chantal Jaquet, Philosophie de L' odorat, Paris: Presses Universitaires de France, 2010.
(岩﨑陽子監訳『匂いの哲学―香りたつ美と芸術の世界―』,晃洋書房,2015 年)。
32)Ibid., 367.(同書,p. 240)。
33)Ibid., 369.(同書,p. 241),(加藤周一,三宅徳嘉訳『感覚論』(上),創元社,1948 年,p.
34)。
34)Ibid.(同書)。
35)Ibid.(同書)。
36) David Orr, The Nature of Design: Ecology, Culture, and Human Intention, Oxford: Oxford University Press, 2002, p. 134.
37)Philosophie de L' odorat, p. 403.(『匂いの哲学―香りたつ美と芸術の世界―』,p. 260)。
参考文献
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