消極的 一自 自由︵三︶
由 論︵五︶一
大
谷
恵
教
三 J・S・ミルの自由観︵二︶
︵1︶ J・S・ミルの社会の﹁多数者の専制﹂からの自由︵承前︶
b J・S・ミルの大衆観と世論観
J・S・ミルの人間観に関しては︑後に改めて述べることもあると思うが︑それは一口に簡単にいえば︑筆者が指
摘するような侮蔑的な悲観主義的な人間観ではなくて︑﹁人間は不完全ではあるが︑同時に無限の向上性をもつ﹂と ︵1︶いう建設的な相対主義の民主主義的人間観であって︑むしろ︑たとえば﹁それでは︑なぜ︑全体として︑人間の間で
合理的な意見と合理的な行為が優勢なのであろうか︒⁝⁝それは︑人間の精神の一つの性質によっているのである︒
すなわち︑その性質とは知的ないしは道徳的な存在としての人間のなかにある尊敬すべきあらゆるものの源泉である ︵2︶ところの︑人間の誤謬は訂正されうるということである﹂といっているように︑楽観的ですらある点もうかがえるほ
どである一もっとも︑これは人間の無限の向上性の面をいっているのであるが︒
︑しかしながら︑ミルの入間観の出発点は︑まずなんといっても﹁人間の平冠性﹂と﹁人間の不完全性﹂をはっきり
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と認めた点にあるといってよい︒とくに﹃自由画﹄においては然りであって︑1・ハーリンも﹁ミルの議論が納得の.
ゆくものとなるには︑次のような想定−彼自身気づいていたかどうかは別とし︑ミルがあまりにもはっきりやって
いることですが一に立ってのみ可能です︒その想定とは︑人間の知識というものは原則的に完壁であったことは
なく︵冒︒ぼ昌9豆Φ昌Φ<o鴇8筥覧①8︶︑絶えず誤まるものであること︵巴妻麸ω富≡巨①︶︑普遍的に知られる唯一の
真理というものは存在せず︑各人︑各国民︑各文明はそれぞれのゴールに向ってそれぞれの道をとり︑他の選んだ道
とは必ずしも調和しないこと︑入びとは新しい経験や自分の行動i彼が﹃生活体験﹄︵Φ二季一ヨ︒算ωぎ賦く冒σq︶と
呼んでいるものtによって変わるし︑彼らが信じている真理も変わること︑従ってアリストテレス学派や極めて多
くのキリスト教スコラ学派︑それにまた無神論的唯物主義者に等しく共通する確信︑つまり認識できる基本的な人間
性というものがあり︑これはすべての場所︑あらゆる時代︑すべての人間において全く同じものである1変化する
外見の奥にある不変の静的実体であり︑発見できる唯一の目的ないし目的のパターンによって支配され︑人類すべて
に共通な不変の欲求をもつ一とする確信は誤っていること︑またこの確信と結びついている観念︑即ちいかなる場
合にもすべての人びとに救いをもたらす唯︸の真なる教義があり︑それが自然法のなかとか︑聖典の啓示のなかと
か︑天文の洞察︑通常人の普通の知識︑あるいは人類を支配するために選び出された功利主義的科学者のエリートた ︵3︶ちが行なった計算のなかに含まれているという観念︑こうした観念もまた誤まりであるということ︑であります﹂と
主張している︒
以上のような人間の〃可謬性と不完全性について︑ミル自身︑﹃自由論﹄のなかで次のように述べている︒
﹁人間は無誤謬ではないこと︵ヨ鋤昌閃一昌O 鰭Φ 昌Oけ 陣旨︷簿一一一げ一Φ︶︑ かれらの真理は︑大部分は︑半真理︵げ巴h−#二9V
86
いF匡
消極的自由(三)
にすぎないこと︑意見の一致は相反する意見のもっとも十分でもっとも自由な比較から生じたものでない限りは︑望
ましいものではないこと︑また︑真理のあらゆる側面を認識する人類の能力が現在よりもはるかに増すまでは︑多様
性︵巳く︒邑蔓︶は悪ではなくて善であること︑以上のことは人間の意見に対するのと同様に︑その行動様式に対して ︵4︶も適用しうる原理であ・る︒L
﹁人類が不完全である︵ヨき臨巳霞Φ一日燈2h8け︶限りは︑いろいろな意見が存在すべきことが有益であるのと同様
に︑さまざまな生活の体験︵窪跨興Φ三Φ巻ΦニヨΦ巨ωoh一凶く冒σq︶があるべきこと︑他人への危害がない限り性格の多
様性︵<舞δ鉱Φωo︷oげ母餌9臼︶に対して自由な余地が与えられるべきこと︑およびさまざまな生活様式︵島自段Φ葺
ヨ︒αΦωoh﹄ho︶を試みるのが適当であるという人がいれぽ︑実際にやってみてその価値を立証させるべきことが有益
︵5︶である︒﹂
右のような観点から︑J・Sニミルは﹁無誤謬性の仮定﹂︵き霧ωニヨ冨一〇ロohぎh巴一一三一一ξ︶に対して︑﹁わたく
しは次のように述べることを許されなけれぽならない︒すなわち︑わたくしが無誤謬性の仮定と呼ぶものは︑ある学
説︵たとえそれがなんであろうとも︶を確信することではない︒それは︑他人に代わってその問題の決定を引き受け
て︑かれらには反対の立場にある人たちの言い分を聞くことを許さないことである︒そしてわたくしがもっとも厳粛
に確信している事柄に反論を許さないというような勝手な主張がなされたとしても︑わたくしはそれを告発し非難す
ることには変りはな胞と述べ・無誤謬性の仮定による犠牲者である・クラテスやキリストの死や︑聖パウ・やマル
クス・アウレリウスなどのキリスト教に対する迫害などの例を挙げて︑強く反対している︒
・また︑﹁世間〃一般の無誤謬性﹂︵夢︒一昌貯一嵩σま信oh..誓︒≦oユO︑︑ぎαqoづ︒三一︶の間違いであることをも指摘す
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ると同時に︑その〃世間冶なるものの実態をも分析・暴露して︑次のようにミルは主張している︒
﹁絶対的君主や無制限の恭順に慣れている他の人びとは︑ほとんどすべての問題に関するかれら自身の意見に︑通常
このような完全な確信を感じるものである︒もっと恵まれた環境にあって︑時々自分たちの意見が反論されるのを聞
き︑そして自分たちが間違っているときにそれを訂正されることにまったく慣れていないわけではない人びとは︑か
れらを取りまいている人びとや︑あるいはかれらが常にその意見に従っている人びとと共通している部分にのみ︑同
様に無制限の信頼をおくものである︒なぜならば︑入は︑自分自身ひとりだけの判断に対する確信のなさに比例し
て︑普通は〃世間〃一般の無誤謬性に暗黙の信頼をおいて安心するものだからである︒そしてその〃世間〃とは︑各
人にとっては︑かれが接触する一部の世間︑すなわちかれの党派︑かれの宗派︑かれの教会︑かれの社会階級を意味 ︵7︶するものである︒﹂
なお︑〃可凝性〃といえぽ︑それに関連してJ・S・ルミは﹁時代の牛王性﹂についても︑﹁しかし︑時代︵㊤αq①ω︶
もまた個人と同様無誤謬でありえないということは︑.どんな僅かな量の議論でもそれを証明できるほどにそれ自体明
白なことである︒どの時代も︑後の時代がただ単に間違っているだけではなくて︑また馬鹿気ているとみなした多くの
意見を抱いていた︒そして︑かつては一般的であった多くの意見が現代によって拒否されているのが確かなのと同様 ︵8︶に︑現在一般的な多くの意見が未来の時代によって拒否されるであろうこともまた確実なのである﹂と述べている︒
この﹁時代の可謬性﹂もまた︑﹁人間の可謬性﹂に由来しているものであることは︑いうまでもない︒
以上のように﹁人間の可謬性﹂や﹁人間の不完全性﹂をはっきりと承認するならぽ︑大衆や世論も決して無誤謬で
完全なものではなく︑やはり可謬論かつ不完全なものであり︑しかもそれらは〃多数者〃あるいは﹁多数者の意見し
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消極的自由(三)
であるだけに︑個人の場合よりも大きな欠陥と弊害に陥りやすいことは︑当然である︒J・S・︑ミルもそれをはっき
り認めている︒
まず︑かれの〃大衆〃観からみてみると︑﹃自由論﹄において次のように主張している︒
﹁その意見が世論という名で通っている人びとは︑必ずしも常に同一種類の公衆であるとは限らない︒アメリカで
は︑かれらは白人であり︑イギリスでは主として中産階級︵夢Φヨ乙巳oo一三ω︶である︒しかし︑かれらは常に大衆
︵僧一β鋤ωω︶︑すなわち集団的凡庸︵8一δ9ぞ①目Φ陛︒︒葺楓・凡庸な人びとからなる集団の意味一筆者註︶である︒そ
してはるかに一層奇妙なことには︑この大衆は今日その意見を︑教会や国家の高い地位にある人びとからも︑表向き
の指導者たちからも︑あるいは書物からも︑とらないということである︒かれらの思考は︑かれら自身に非常に似
た人びとによって︑かれらに代ってなされるのであり︑そしてそれらの人びとは︑その時次第のはずみで︵8葺① ︵9︶呂ξoh夢Φヨ︒ヨ〇三︶︑新聞を通じて大衆に語りかけたり︑大衆の名において話したりするのである︒﹂
すなわち︑J・S・ミルは︑イギリスにおける大衆を〃中産階級とみなしており︑しかもそれは〃凡庸集団で
あって︑大衆の世論といっても︑その実態はかれらのなかの誰かが大衆の名において︑いろいろな手段を通じて︑一
貫性のないその時々の偶然なはずみによって︑世論と称するものをつくり上げることを指摘しているのである︒そし
て︑それに引き続いて︑民主政治が陥りやすい欠陥が〃凡庸性であることを︑次のように表現している︒
﹁わたくしは︑このことすべてについて苦情をいっているのではない︒一般的原則として︑現在のような人間精神の
低い状態と両立することができるもので︑これより良いものがあると︑主張しているのではない︒しかし︑現在のよ
うな状態では︑凡庸者の政府︵αqo<①遷9①90hヨ①隻︒自一高︶が凡庸な政治になることを阻止することはできない︒
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主権を有する〃多数者〃が︵その最良の時代にはかれらは常にそうしたのであるが︶︑かれらよりも高い才能と教養
を与えられた〃一入あるいは〃少数者の忠告と影響によって導かれなかった場合を除けば︑民主政治あるいは
多数者貴族政治︵︼口ρ旨P①円〇一﹂ω 簿﹁一ω一〇〇口笛O︶N︶によるいかなる政府も︑その政治的行為においてであれ︑それが奨励す
る意見︑特性︑精神的傾向においてであれ︑凡庸以上に出ることは決してなかったし︑またそうなりえなかったので
︵10︶ある︒L
また︑社会が個人の行為に干渉するとき︑大衆の陥りがちな欠陥についても︑次のように論じている︒
﹁社会は︑個人の行為に干渉する際︑社会とは異なった行為をしたり感情を抱いたりすることを極悪︵窪︒民ヨ諜鴇︶だ
と考えること以外にはぽとんどなにも考えない︒そして︑この判断基準が︑少し変装して︑あらゆる道徳家と思索的
著述家たちの九割までによって︑宗教および哲学の命令として︑人類に明示されている︒これらの入びとは︑物事は
正しいがゆえに正しいのであり︑われわれが正しいと感じるがゆえに正しいのだ︑と教えている︒かれらはわれわれ
に︑われわれ自身の精神と心の奥底から︑われわれ自身と他の人びととを拘束する行為の法則を求めるように命じて
いる︒哀れな大衆はそれらの教えを適用し︑そしてかれらの間で善悪に関するかれらの個人的感情がかなり良く﹁致 ︵11︶しているならぽ︑それらを全世界に対して義務的なものとすること以外に︑なにをすることができるであろうか︒﹂
ついで︑︑ミルは︑あらゆる人間には個人の自由を犯す普遍的性向があることを︑﹁道徳取締り機関︵旨︒随一〇〇一一8︶
とでも呼ばれることができるようなものの領域を拡大して︑個人のもっとも疑う余地のない不当な自由を侵害するま
でにいたるのは︑あらゆる人間の性向のなかでもっとも普遍的なものであるということを︑豊富な実例によって示す ︵12︶ことは︑難しいことではない﹂と指摘して︑種々の宗教的タブーやアメリカの奢修禁止法や社会主義普及の場合の高
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消極的自由(三)
︵13︶額財産所有や肉体労働以外による所得の不名誉︑労働者階級聞の悪平等化傾向などを挙げている︒
次に︑民衆の意思︑世論の陥りがちな弊害を︑J・S・ミルはどうみているであろうか︒やはり﹃自由論﹄のなか
で︑次のように指摘している︒
まず︑アメリカ合衆国の民主主義を例にとって︑﹁選挙による責任政治﹂︵①δ︒8α︒︒巳おωbo千路三Φ㈲o<Φ9日Φ暮︶
が事実にともなう観察と批判を受けるようになったことを︑﹁しかしながら︑やがて一つの民主的共和国︵アメリカ
合衆国を指すi筆者註︶が地球の表面の大きな部分を占有するようになって︑国際社会のもっとも強力なメンバー
の一つとして感じさせるようになった︒そして選挙にもとずく責任政治が一つの偉大な事実にともなう観察と批判を
受けるようになった︒いまや〃自治︵ωΦ罵−σqo<oヨヨ①三︶とか〃民衆のかれら自身に対する権力︵爵①bo≦臼︒︷
夢①b①○覧Φo<嘆夢①ヨωΦ一く①ω︶とかいうような言葉では︑事態の真相を表現することはでぎないということが︑認め
られるようになった︒権力を行使する〃民衆は権力を行使される民衆と必ずしも同じ民衆ではない︒またいわれる
ところの自治は各人が各人自身によって統治されることではなくて︑各人が他のすべてのものによって統治されるこ
︵14︶とである﹂と論じて︑自治の実態を鋭く分折して明らかにしている︒
それに引き続いて︑ミルはまた〃民衆の意思〃︵夢①≦≡oh9ΦO①o覧①︶の実情をも︑﹁さらには民衆の意思とは
実際には︑民衆のなかのもっとも数の多い︑あるいは活動的な〃部分〃の意思︑すなわち多数者あるいは自分たちを
多数者として一般的に認めさせることに成功する人びとの意思なのである︒したがって︑民衆がかれらのメンバーの
一部を抑圧しようと欲することはあり〃うるのである︒それゆえ︑これに対しては他のあらゆる権力の濫用に対し ︵15︶てと同じくらい︑十分な畑野が必要とされるのである﹂︑﹁伺じ多数者の意見が︑自己一身上の行為という問題に関し
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て︑少数者の上に一つの法として課されるならば︑それは正しい場合もありうると同じくらい間違っている場合もあ
りうる︒というわけは︑そのような場合︑世論が意味するものは︑せいぜい︑他の人びとにとってなにが良いことで
なにが悪いことであるかということについての若干の人びとの意見にすぎず︑そのうえ︑それさえも意味しない場合
すら非常にしぼしぼあるからである︒また大衆は︑完全な無関心さで︑かれらが非難する行為をなす入びとの快楽や
便宜を見過ごして︑かれら自身の好みのみを考えるものである︒どんな行為でも︑自分たちが嫌いだと︑それは自分 ︵16︶たちに害を与えるものだと考えて︑それを自分たちの感情に対する侮蔑だとして憤る人びとが多い﹂と述べている︒
すなわち︑J・Sニミルは︑社会の発展にともなって︑それまで〃人民とか〃民衆という言葉で包括的にとら
れていたものが︑実はそうではなくて︑権力を行使する民衆は権力を行使される民衆とは必ずしも同一ではなくて︑
この二つの部分に分かれうるもではあり︑また民家の意思あるいは世論といっても︑多数者あるいは多数者を借称す
るものの意思であったり︑さらにそれをも意味しないこともあるので︑民衆がその一部を抑圧する可能性が十分ある ︵17︶ゆえ︑ロック流の単なる﹁絶対専制権力からの自由﹂や﹁専横で不法な違憲の愚昧な抑制からの自由﹂のみではなく
て︑﹁からの自由﹂をさらに拡大して﹁多数者の専制﹂︵爵︒蔓鑓毒︽o︷夢Φヨ80同一な︶からの自由を強調するので
ある︒それゆえにこそ︑かれは﹁政治を考える際に︑多数者の専制は︑今日では一般に︑社会が警戒することが必要 ︵18︶としている害悪の一つのなかに含まれているのである﹂と主張しているのである︒
以上のような恐れがある結果︑世論の統治はどのような結果をもたらすかということについて︑ミルは﹁世論とい
う現代の統治体制︵爵①ヨoO①三みσQ一ヨΦoh三げ一一〇〇嘗三〇旨︶は︑中国の教育および政治の制度が組織化された形態
で行なっていることを︑非組織的な形態で行なっているにほかならない︒そして︑個性がこの範に対抗して︑成功裡
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消極的自由(三)
に自己を主張することができなけれぽ︑ヨーロッパは︑その高貴な祖先とそのみずから公言しているキリスト教とに ︵19︶もかかわらず︑第二の中国になる傾向があるであろうしと論じている︒
さらに︑社会がもつ﹁世論の権威﹂︵夢①き夢︒﹁団受oh潜お︒Φ一く①Oo嘗三〇旨︶と︑それに対して強く警戒すべきこ
とを︑次のように強調している︒
﹁社会は︑教育の全権で武装されているだけでなく︑また世論の権威が独力で判断することにもっとも適していない
人びとの上に常に行使する支配力をもっている︒また︑知っている人びとの嫌悪や軽蔑を招来させる人びとの上に落
ちかかるのを阻止することができない〃自然的な〃罰によって︑援助されている︒それゆえ︑社会に︑これらすべて
のほかに︑個人の一身上の事柄において命令を発したり服従を強制したりする権力を社会が必要とするのだなどと︑
勝手に主張されてはならない︒個人の一身上の事柄においては︑正義と叡智のあらゆる原則にもとずいて︵o昌︒=
冒冒06一①ωoh甘ω島8薗巳bo一一〇団︶︑決定は︑その結果に忍従する人びとの考え次第にまかせるべきである︒また︑
行為に影響を与える悪い手段は︑それに頼ってしまうと︑これほど︑良い手段の信用をも失わせ︑またそれを挫折さ ︵20︶せてしまうものはないのである︒﹂
なおまた︑ミルは﹁意見の統一し︵ぎ①8房︒二9畝自︒剛︒官吏︒⇔︶の功罪︑とくに後者についての懸念を︑﹁人類
が改善されていくにつれて︑もはや議論や疑いの余地がなくなってしまう学説の数は︑不断に増加の道を歩むであろ
う︒そして人類の福祉は︑論争の余地のない点にまで到達した真理の数と重さとによって︑ほとんど測られていると
いってよいのかもしれない︒重大な論争が次から次へと止んでいくことは︑意見の統一には必ずともなう出来事の一
つなのである︒そして︑意見の統一は︑正しい意見の場合には有益であるが︑しかしそれと伺じくらい︑意見が間違
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︵21︶っているときには︑危険かつ有害なのである﹂と主張している︒
そしてその真理に関して︑たとえぽ数学的真理と︑その他の真理︑とくに道徳︑宗教︑政治︑社会関係︑生活上の
事柄の真理との相違に関して︑次のように指摘している︒
﹁数学的真理の証明の特徴は︑あらゆる議論が一方にだけ集中しているということである︒そこには反論も全然なけ
れぽ︑また反論に対する回答も全然ないのである︒しかし︑意見の相違が可能なあらゆる問題に関しては︑真理は相
衝突する二組の理由の間にみられる差︵σ巴︒旨8︶いかんにかかっているのである︒⁝⁝しかし︑われわれが無限に
もっと複雑な問題︑すなわち道徳︑宗教︑政治︑社会関係︑生活上の事柄の問題に眼を向ければ︑論争されているす
べての意見を支持する議論の四分の三は︑それとは異なるなんらかの意見に有利な状況を消散することから成立して
いる︒一人置除いて︑古代の最大の雄弁家は︑常にその論敵の主張の内容を︑自分の主張の内容よりも一層熱心にと
まではいかないまでも︑同じような熱心さで研究したと︑記録に残している︒キケロが弁論の成功手段として実践し
たところのものは︑真理に到達するためになんらかの問題を研究するあらゆる人びとによって︑見習われる必要があ
る︒問題の自分自身の側だけしか知らない人は︑それについてほとんどなにも知っていないのである︒かれの理由は
正しいかもしれないし︑そしていかなるものもそれを論破できなかったかもしれな塾︒だが︑もしかれが同じように
反対側の理由を論破できないならば︑そして反対側の理由がどんなものなのかをすら知らないとすれば︑かれには︑
いずれの意見を選ぶべきかについての理由は全然ないのである︒その場合︑かれにとっての合理的な立場は︑判断の︑
停止であろう︒そしてもしかれがそのような立場に満足できないならぽ︑かれは権威によって導かれるか︑さもなけ ︵22︶れぽ︑世間一般と同じように︑自分の好みにもつともよく合うと感じる側をとるかのいずれかである︒﹂
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右のような道徳︑宗教︑政治︑社会関係︑生活上の事柄に関する真理観からも︑
きなマイナス面に非常な危惧感を抱いていたかがわかるであろう︒ ミルがいかに﹁意見の統一﹂の大
消極的自由(三)
前回の拙稿からここまで述べてきたことからわかるように︑J・S・ミルは︑ω物質文明の発達と大衆社会化状況
の開始にともなう人間の一様化︑画一化︑平等化︑利己主義化がもたらす個人の自由の減少や消失︑世論や社会制度
への依存化傾向とそれらの優位や支配︑多数者の専制︑社会的権力の増大化傾向︑大衆のなかへの個人の埋没化︑個
人に対する社会的不寛容︑②イギリス人における伝統的思考や習慣や社会的掟や世論などの異常な強さ︑自己中心主
義︑閉鎖性︑知的道徳的レベルの低さ︑平等化や一様化や画一化の傾向︑㈹大衆民主主義が陥りやすい欠陥や弊害に
関しての︑トクヴィルの﹃アメリカの民主主義﹄についての研究とそれからの影響︑ω人間の可野性や不完全性を出
発点として︑無誤謬性や世間一般の無誤謬性の間違いであることのみならず︑同時に時代の群峰性の指摘︑自然科学
と人文・社会科学の真理性の相違と︑後者における半真理性ないし部分的真理性︑大衆の凡庸性と民主主義が陥りが
ちな凡庸性︑それに由来する世論や民衆の意思の実態の解明︑人間には個人の自由を犯す普遍傾向があること︑自
治の実情の鋭い観察・分析とそれにもとずく権力を行使する民衆と権力を行使される民衆が必ずしも同一ではないこ
と︑それに由来する多数者の名における民衆のその一部に対する抑圧の可能性︑世論の統一の弊害面の大きさ︑等を
指摘・主張して︑﹁多数者の専制﹂︑﹁世論の専制﹂︑﹁習慣の専制﹂などに対して鋭く批判すると同時に強く反対して
いる︒・次に︑それらの専制に対する批判・反対とその論拠に関するJ・Sニミルの主張をみてみたい︒
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︵1︶ 拙著﹃政治理論の基礎としての人間性論﹄︑昭和四十三年︑第二部を参照されたい︒ 註
︵2︶ 旨ω●二一=O⇒ζげΦ﹁蔓眉目茸︒Φ国ωω曙ωげ団冒げ昌qQε碧け竃≡層↓﹃①≦oユ血ωΩ器巴︒ω﹁8幽這昭O●ミ.
︵3︶ 一・ゆ︒﹃一一P聞︒霞国ωω錯︒︒o昌い一び震蔓噂お弓.目㊤刈ρ戸H︒︒G︒.バーリソ著︑生者敬三・小川晃一・小池鈍訳﹃自由論﹄
昭和四十六年︑四一八−九頁︒
︵4︶旨ω■竃博=O昌=σ︒ユざ8・9け戸刈O.
︵5︶ぎζ弓●δ.
︵6︶冨ζ弓.曽.
︵7︶旨置暑●卜︒や9
︵8︶ 一三F曽戸謡.
︵9︶H三亀署.︒︒学卜︒●
︵10︶ 一び置二PG︒卜⊇■
︵11︶ 一三傷こOP一〇ωム■
︵12︶ 旨置二弓●HO心齢
︵13︶ ヨ筐;OO・δ令○︒・
︵14︶ 一σ置こ℃.Qo●
︵15︶ 一σ置こ戸9︒︒
︵16︶ Hび乙こ戸H8●
︵17︶ 拙稿﹁自由論﹂︵三︶︑﹃早稲田社会科学研究﹄︑第十八号︑昭和五十三年︑=一三頁︒
︵18︶ 9ω9竃≡.O⇒二げ①ユざoP9けこづ●O.
︵19︶ ぎ置;b.Q︒O.
︵20︶ ぎ置こOO●HO〒P
︵21︶ ぎa;℃O■望ふ. 2︑
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︵22︶ぎζ噛やまp 消極的自由(三)
c ﹁多数者の専制﹂に対するJ・S・ミルの批判と反対
一〃政治的専制〃と〃社会的専制の区別1
︑ミルは〃多数者の専制︵誓①加護口昌oh夢①ヨε自一¢︶1それはまた﹁支配的な世論と感情の専制﹂︵けげ①
け覧p暮楓oh9①冒︒く9︒一一一昌◎qo鳳三8碧傷h①o一畔σq︶でもある一が︑﹁今日では︑一般に︑社会が警戒することが必
要となっている害悪の︸つのなかに含まれている﹂と厳重な警告を与えていることは前述した通りであるが︑それを
〃社会的専制︵ω099=胃き身︶と呼んで︑その実態を﹃自由論﹄のなかで次のように述べている︒
﹁他の専制と同様に︑多数者の専制は︑最初のうちは︑主として官憲の行為を通して作用するも.のとして︑恐れられ
たし︑そして依然としていまも一般にはそのように恐れられている︒しかし︑思慮深い人びとは︑社会それ自体専制
者であるときには︑すなわち社会が集団的に︑社会を構成する個々の人びとに対して専制者であるときには︑その専
制手段は︑政治的役人の手によってなしうる行為のみに限られてはいないということに感づいていた︒社会はそれ自
身の命令を実行することができるし︑また事実実行する︒そしてもし社会が正しい命令の代わりに間違った命令を発
したり︑あるいは社会が手をつけてはいけない事柄にいやしくもなんらかの命令を発したりする場合には︑社会は多
くの種類の政治的抑圧︵唱︒寮一〇巴8只霧ω一〇昌︶よりももっと恐ろしい社会的専制︵僧切8鐙一旦墨旨ξ︶を行なうこと ︵1︶になるのである︒﹂
・ζのようにして︑政治的専制︵唱9三〇工面ζ︒勺O属吻ヨ︶もしくは政治的抑圧とは区別さ判る〃社会的専制が前者よ
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りもはるかに恐ろしい理由を︑引き続いて次のように指摘している︒ −
﹁その理由は︑社会的専制は︑通常は︑政治的抑圧のような極端な刑罰によって支えられてはいないけれども︑社会
的専制から逃れる手段をほとんど残さないで︑生活の細部にまで滲透して︑魂そのものを奴隷としてしまうからであ
︵2︶る︒﹂
右のような︑逃れる手段はほとんどなく︑魂そのものまでをも奴隷としてしまう〃社会的専制から身を守るべき
必要性に関して︑J・S一・・ルは左のように力説している︒
﹁それゆえ︑行政官の専制︵けゴΦ け団脱拶旨旨瑠 Oh けげO b口山oq一ωけH鋤一Φ︶から身を守るだけでは十分ではないのである︒すな
おち︑支配的な世論や感情の専制からの防衛も必要とするのである︒ つまり︑社会が︑法的刑罰︵良く鵠℃o昌巴江①ω︶
以外の手段によって︑その考えや慣行を︑それらに同意しない人びとに対して︑行為の規則として課そうとする傾向
や︑社会のやり方と調和しない個性の発達を阻止︑もしできれぽ︑そのような個性をも妨げて︑社会自身のを模範と
してかれら自身のすべての性格を形成させようと強いる傾向に対して︑防衛することも必要である︒個人の独立に対
する正当な集団的干渉には︑限界がある︒その限界を発見して︑侵害からそれを守ることは︑政治的専制からの防衛 ︵3︶と同様に︑人間の好ましい状態にとって不可欠なのである︒﹂
このような社会的専制からの防衛は政治的専制からの防衛と同様に不可欠であるとするJ・S・︑・・ルの主張は︑単
に政治的自由のみならず︑かれが正に力説する〃社会的自由〃をも説いているものと︑いえよう︒
また﹃代議政治に関する考察﹄のなかでも︑〃多数者の専制〃に関して︑﹁民主政治が︑普通考えられているよう
に︑数的な多数者の支配︵夢①同E①oh窪Φ巨ヨ①ユ8一ヨεo葺矯︶として考えられるならぽ︑支配的権力があらゆる
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消極的自由(三)
人びとの利益に対する公平な尊重によって命令されるような行為とは異なる行為を指向する部分的あるいは階級的な ︵4︶利益の下に支配されているような場合も確かにありうるのであるしと批判して︑多数者の白人対少数者の黒人︑多数
者の旧教徒対少数者の新教徒︑多数者のイングランド人対少数者のアイルランド人などの場合︑およびそれとは反対 ︵5︶の場合に︑﹁多数者は少数者に平等の公正を認めるであろうか﹂と︑反語的表現で否定的な態度を示している︒
そしてミルは︑コント︵﹀轟房けΦOoヨけΦしお︒︒あα刈︶からは歴史の段階的発展説について影響を受けたが︑その
﹃実証政治学体系﹄︵ω楓ω8ヨΦら①℃o一一二ρ⊆o勺︒ω陣二くP砦2ωごH︒︒αH一継︶のなかで展開されている個人に対する社会 ︵6︶の専制政治確立の意図に対しては︑厳しく反対している︒
また︑〃習慣の専制︵夢Φ島①ωb9置目oho⊆ω8日︶に関しては︑J・S:・・ルは﹃自由論﹄において︑﹁習慣の専
制は︑いたるところで人達の進歩に対して常に妨害物となっていて︑.習慣的なものよりなにかよいものを目指そうと
する性向に対して絶えず敵対している︒その性向とは︑状況に応じて︑自由の精神とか︑進歩あるいは改善の精神と ︵7︶か呼ばれるものである﹂と述べて︑強く反対している︒
以上のような〃社会的専制〃を到来させないようにするために︑個々人のうちに誰もがもっている〃知的︑道徳的
本性〃を︑〃個性を呼びおこすことが︑﹃自由論﹄執筆の重要な目的の一つであったのである︒
さて︑J・S二・・ルは︑そうした〃社会的専制からの自由を守るために︑﹃自由論﹄の第二章において﹁思想と
討論の自由﹂︵夢︒一ま臼蓋oh甚︒⊆σqげ門下巳島ω〇二ω巴︒昌︶のテーマの下に︑それを強調している︒もちろん︑かれは︑
その冒頭で﹁腐敗した︑あるいは専制的な政府に対する保障の一つとしてq出版の.自由﹄︵90一ぴ①白図oh夢︒買︒ωω︶ ︵8︶に関するなんらかの擁護が必要である時代は過ぎ去ったものと︑好意的に考えたい︵げobΦ︶﹂といって︑ 一応はイギ
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リスの立憲国家時代以降の民主主義下の出版の自由の状況について肯定的態度を表しながらも︑﹁好意的に考えた
い︵言℃Φ︶﹂という言葉が示すように︑なおも民衆やその政府の言論統制の可能性を非常に懸念しかつ警戒して︑﹁し
かしわたくしは︑民衆が︑かれら自身によってであれ︑あるいはかれらの政府によってであれ︑︵意見の発表を統制す
るために1筆者挿入︶そのような強制力を行使する権利を︑否定する︒そのような権力自体が不当なのである︒最 ︵9︶良の政府ですら︑最悪の政府と同様に︑そのような権力を行使する資格はないのである﹂と述べ︑かつそのような権
力が世論と 致して行使されるときの非常な有害さを︑﹁そのような権力は︑世論と﹁致して行使されるときには︑ ︵10︶世論にさからって行使されるときと同じくらい︑あるいはそれよりももっと有害である﹂と指摘して︑民衆自身やそ
の政府には意見の発表を統制するために強制力を行使する権利はないとし︑﹁たとえ一人を除いた全人類が同一意見
で︑ただ一人の入間のみがそれに反対の意見であるとしても︑人類がその一人の人間を沈黙させることが正当化され ︵11︶ないのは︑その一人の人間が力をもっていて︑人類を沈黙させることが正当化されないのと同じである﹂と論じて︑
〃少数者擁護〃の態度を示すと同時に︑﹁意見の発表を沈黙させることの特有の弊害﹂は﹁それが人類から︵精神的幸
︵12︶福一筆者挿入︶を奪うことである﹂と断じて︑﹁人類の精神的幸福﹂︵葺ΦヨO巨巴≦O一〒げO貯σqOhヨ碧江建言︶1
これにこそかれらの他の幸福が依存している〜のためには︑意見の自由と意見の発表の自由一すなわち﹁思想と ︵13︶討論の自由﹂が必要だと主張するのである︒
100
ハ註1
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匂・ω・言≡噌O質=げ臼ξ.名.9r℃・⑩・
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(w) (o) (o)
(ts.) (oo)
(a) (9) (:)
(st) (se)
lbid., Ibid., J. S.
Ibid., J. S.
Ibid., Ibid., Ibid., Ibid., Ibid., Ibid., Ibid.,
p. 9.
p. 9.
Mill, Considerations on Representative p. 239.
Mill, On Liberty, op. cit., pp. 19‑20.
p. 8Z p. 22.
p. 23・
p. 23.
p. 23.
p. 24.
p. 65.
Government, ̀OP. Clt., PP. 238‑9.
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