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根底としての自然 -シェリングの悟性と無規則的な存在-

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全文

(1)

1.はじめに

朝の海と夜の海は違う輝きを持っている。朝 日に輝く水平線をみて美しいと思えるのは,暗 い夜の海の静けさを知っているからだろう。そ の海の中で,真珠母貝は朝の海と夜の海の両方 の存在からつくられる。貝の表面は黒く,内側 は白い。貝の中には美しい和珠が誕生する。ま き貝のあわびも,内側が虹のさざ波のように白 く表面は黒い。貝の表面と裏面の両方により,

初めて綺麗な和珠は誕生する。その貝の黒い表 面は,海と直接繋がって出来たものである。ご つごつとした岩にも似た表面は,太陽の光も月 の光も全て吸収しながら静かに眠る。静かな海 の中でも荒々しい海の中でも海底の中を移動さ せられながら,そして,あらゆる自然と直接触 れながら力強い黒い表面を形成する。黒い表面 を持つ貝ぬきには,綺麗な和珠は生まれない。

このように,自然の内では常に反対のものが調 和している。そして,根本となるものが備わっ ている。花弁の下には茎があり,土に根が張り 巡らされているように,である。そこには,常 に,対立・分裂,そして,統一とされる原理が ある。母貝の例で考えるならば,貝の表面は常

に,海水の中にいる生物と対立し,生き残る。

海底の中で,常に,分離・統一が行われ,その 結果,美しい和珠が生まれる。それはシェリン グの悟性としても例えられる。暗い海の根底に ある母貝が,分裂・分離・統一を経て,悟性へ と進んでいく過程と重なる。

シェリングの悟性は,根底から,そして,憧 憬(1)から始まっている。憧憬は自然である根 底という海をどのように泳ぎ,どのような船に 乗り,何処へいくのだろうか。そして,その 根底の諸力と存在は何だろうか。本論文では,

シェリングの予感する意志という「憧憬」につ いて考察することから始まり,「悟性」へと繋 げていく。憧憬は自然の中ではっきりと意志を 持たずにあらゆる可能性を含みながら動いてい る。最後に,悟性の根源となる「根底」につい て追究する。そして,根底内においても,悟性 においても,常に同一性の原理との関連におい て考察が進められる。

シェリングの憧憬から始まり,悟性へ,そし て,その根底となる自然を,同一性,体系に関 係を繋げて,現代の生命について考察していく ことを目的とする。

*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程2年 論 文

根底としての自然

-シェリングの悟性と無規則的な存在-

髙 橋 眞由美

(2)

2.同一性

「創世記」で,蛇はエヴァを誘った。そして,

今度は,エヴァがアダムに禁断の木の実を食べ れば知恵がつく事を伝え,誘うのである。アダ ムはエヴァに誘導された,とも考えられる。ア ダムの肋骨から造られたエヴァは「知恵」へと アダムを誘惑する。つまり,自分がもうひとり の自分に誘導される,ということである。この アダムとエヴァの関係は同一性として次のよ うに考えられる。

A

という自己自身を理解する には,自己自身である

A

以外の他者を必要とす る。他者を通して自己自身を理解する。「同一 性は,A=Aという同一が言い得るためには,

Aではない0 0ものが必要であるというものであっ た」[那須2012

:

142]。アダムがひとりでいた ら,禁断の木の実にも興味を示さず,見向きさ えしなかったかもしれない。しかし,アダムに は自分の分身であるエヴァというもうひとりの 自分の存在があった。アダムだけがエデンの園 にいたとしたら,禁断の木の実とは無縁に暮ら し,「知恵」という「自己意識」の存在すら分 からなかっただろう。そして,豊かな緑溢れる 楽園で何も考えず,何も悩まずに暮らしていた かもしれない。こうして,禁断の実を食べたア ダムとエヴァは,いままで見たこともなかった 別の世界を知ることになる。その世界とは,自 己の中のまったく知らなかった「別の自分」,

或いは,「もう一人の自分」であり「自己の中 の広大な未知なる別の0 0世界」とも考えられる。

シェリングはもう一人の自分を持つことに よって,もう一人の自己と闘わなければならな いと言う。「すなわち,根源存在者はそのよう な絶対的同一として自己を顕示し実現しなけれ

ばならず,また現実存在において,本質上実在 的なものと観念的なものとの絶対的同一である ようなものとして自己を示さねばならないので ある」。「ただ,われわれがつまり本質から現実 存在へ到ろうと思えば,分離,差別が定立され ねばならないということ0 0についてのみ語ってお きたい」[

Schelling

1810

:

Ⅶ425岡村2011

:

190]。

根源存在者は,絶対的同一として,「私はこの ようにして一つに成り立っているのだ」として 実現されなければならない。今,ここにいるの は,二重化された,しかも重なった二重ではな く,分裂した,分離したものである(2)。それ は,別の何者かとして,或いはまったく別の違 うものとして差別されてしまうものである。同 一のひとりの人であるのにかかわらず,であ る。シェリングは言う。「われわれは,A=A を自己のうちへ飲み込まれた存在の状態として 定立する場合,このA=Aのうちにすでに三 様のものを認めねばならない。すなわちそれ は,(a)客観としてのA,(b)主観として のA,(c)両者の同一である。しかし,これ らすべては現実的に区別することはできない」

Schelling

1810

:

Ⅶ426 岡村2011

:

191]。このよ うに,シェリングは,

A

A

のうちに,三様の ものを認めなければならないと言う。

まず,シェリングの同一性の原理を考えて みる。「(b)さらに明確に,この原理は実在0 0 的なもの0 0 0 0と観念的なもの0 0 0 0 0 0との絶対的同一とし て表現された。ここではその考えは実在的なも のと観念的なものとが数量的にあるいは論理的 に一様であるということではない。或る本質的0 0 0 統一0 0が考えられているのである。確かにまった0 0 0 く同じ0 0 0事柄が両方の形式のうちへ定立されては いるが,しかしそれはこれらの形式のそれぞれ

(3)

においては固有のものであって,一様のもので はない」[

Schelling

1810

:

Ⅶ422岡村2011

:

187]。

シェリングはこの原理について,実在的なもの と観念的なものが同時に存在すると表現する。

その両者が絶対的同一として表現された。しか し,この考えは実在的なものである真実の姿そ のもの,そして,観念的なものである目にみえ ないものが,それぞれが数値や数量的に同じで あるということではない。或いは,論理的に 言っても同じであるということではない。その 両者を通して,はじめて或る本質的な統一が考 えられる。つまり,実在的なものだけでも,観 念的なものだけでも本質的統一は成り立たない のである。植物で例えたら,植物そのものが成 り立つために包みこまれている部分全体であ る。目に見える姿形美しい花そのもの,そし て,その花が太陽に向かって成長をする過程が ある。その花が太陽に向かって成長する過程は 目に見えることができない。しかし,花そのも のと,成長する過程の両者を成り立たせる,両 者を包み込む全体的なものとして本質的な統一 がある。しかし実在的なものと観念的なものは それぞれ固有なもので同じものではない。それ ぞれは互いに溶け込むこともないまったくの別 の存在で個別的なものである。シェリングは,

実在的と観念的なものの両者があって,初めて 本質的統一が考えられると言う。つまり,二元 論であり,このことをシェリングはフィヒテに ついて述べている。「フィヒテは,まず,自己0 0 自身に対する0 0 0 0 0 0もの以外には何者も現存しない と言う」[

Schelling

1810

:

Ⅶ423岡村2011

:

188]。

このことをアダムとエヴァにも例えることがで きる。アダムが禁断の木の実を食べることに なったのは,エヴァという存在があったからで

ある。エヴァという存在は,アダムにとって

「数量的にも論理的にも」一様ではないのであ る。フィヒテは自分自身の他者(自分と異なる もの)との関係のうちに現存を見出すことはで きなかった。

では,この同一性を『色彩を持たない多崎つ くると,彼の巡礼の年』の多崎つくると沙羅を 例にしてみよう(3)。沙羅という女性は,つく る自身が抱えている「もうひとりの自己」をつ くるに見出させようとする。それは,エヴァが アダムに自己意識を目覚めさせる木の実を食べ ることを勧めているのと同じようである。エ ヴァである沙羅を通して,つくるは別の自己B を発見する。沙羅と会う前のつくるは,次のよ うになる。A=Aは,客観としての(A)と主 観としての(A)である。そしてその両者の同 一としての(A)である。このA=Aは,自己 において絡んで作られた重複した存在として考 えるとき,「別の何か」が必要となる。沙羅に よって,巡礼の最終地であるフィンランドに行 かされる。そこで,つくるの自己意識は変わっ た。自己意識の中で分裂,区別,そして差別が 起こるのである。別の意識を持った自分(B)

「鏡」が発生するのである。つまり,A=Aは A=Bへと変化する。或いは,

A

A

A

B

を産みだすと言ってもよい。このA=Bは分裂 され,分離されたものであり,その上で,A=

Bの統一であるAが存在するのである。A=B の分離,Aの統一,となる。つまり,その全体 である統一のAは,シェリングがいう根源存在 者となるのである。A=Bへの変化の意味する 事は,もう一人の自己との闘いということにな る。戦わずして,もうひとつの自己意識Bを獲 得することはできない。

(4)

シェリングは言う。「われわれが自分を意識 する場合,つまりわれわれのうちで光と闇が分 離される場合,われわれはまさにそのことに よってわれわれから外へ0 0 0 0 0 0 0 0出るのではない。両原 理は依然としてそれらの統一としてのわれわれ のうちに留まっている。われわれは自分の本質 の何も失わず,今や二重の形態においてのみ,

すなわち一方では統一において,他方では分離 において自分を所有するのである。神もそうで あ る 」[

Schelling

1810

:

Ⅶ425

-

Ⅶ426 岡 村2011

:

190

-

191]。このようにA=Bは,自己自身の内 で起こることであり,外にでるのではない。外 にでることはないために,傍からは何が起こ り,何が生じているかわからないのである。な ぜならば,ひっそりと自己の内に他者という鏡 をもったからである。目には見えない大きな動 き,運動,分裂,そして分離が起こったとも考 えられる。したがって,A=Bの分離が起こ り,鏡を持ち,分離してしまったとき,結果と して,Aは対立と分離の統一となる。その新た な統一としてのAは,かつて予想もしていな かったものであり,A=Bがもたらした新たな る世界とも考えられる。

シェリングは続ける。「

A

B

は分離,

A

統一であり,その全体が一緒になって生きた現 実的根源存在者である。

A

A

B

のうちに客 観,鏡をもつのである。このようにして自体的 には根源存在者はつねに統一,すなわち対立と0 0 0 分離の統一0 0 0 0 0である」[

Schelling

1810

:

Ⅶ426岡村 2011

:

191]。

 A   統一

A=A  主観としてのA=客観としてのA

 A   統一〈対立と分離の統一〉

A=B  分離〈AはA=Bのうちに客観,

鏡をもつ〉(4)

一にして二(

Eins und Zwei

)がある

Schelling

1810

:

Ⅶ426岡村2011

:

191]。

こうして未知なる別の世界へと誘うのが同一 性の原理であるが,次にシェリングの『人間的 自由の本質とそれに関する諸対象についての哲 学的研究』の第一章 「実存するものと実存の 根底」を中心に憧憬について考察する。

3.憧憬

シェリングの憧憬は次の通りである。「した がって憧憬はそれ自身として見られるならば意 志でもある。しかしそのなかに悟性が存在しな い意志である」。「意識を伴った意志ではなく,

予感する意志である。そしてその予感すると ころが悟性である」[

Schelling

1809

:

Ⅶ359藤田 2011

:

107]。この憧憬は,そのもの単独として みられるならば,意志である。意志とは,「ど こかへと」向かっていきたいと進んでいく欲望 であり,願望ともいえる。シェリングは「すな わち悟性の憧憬であり,欲望である」[

Schelling

1809

:

Ⅶ359藤田2011

:

107] と述べている。悟 性そのものになるには,まだ不完全であり,悟 性に近づこうとする意志である。憧憬は,意識 を伴った意志ではないということは,まだ明確 な方向性や目的を持っていない状態である。憧 憬は,欲望の中の意志である。その予感すると ころが悟性である,とは,上に向かうことがで きるのではないかという期待が,つまり「予感」

である。はっきりと行きたいところに向かうこ

(5)

とができるのではないか0 0 0 0 0 0 0 0 0という確信,その先は 悟性である。この憧憬について,ハイデッガー は次のように言う。「この意志のうちでは,意 欲がまさにまだ自分自身のもとに存在している わけでも,自分にとってわがものになっている わけでもない0 0のであり,まだ本来的には自分自 身ではない以上,この意志は依然として非本来 的な意志のままです」[

Heidegger

1971

:

木元・

迫田1999

:

283]と言う。

「すべての誕生は暗闇から光への誕生である。

種子は地のなかに埋められ,闇のなかで死なな ければならない。そうすることによってより美 しい,光輝く姿が現われでて,陽光のもとで花 開くのである。人間は母胎のなかで作られる。

悟性なきものの暗闇から(認識のすばらしい母 である感情や憧憬から)光輝く思想がはじめ て生い育つ」[

Schelling

1809

:

Ⅶ361藤田2011

:

109]。生命の誕生も,意識の誕生もあらゆる誕 生の源は,暗闇から光へと進むとされる。種は 湿った深い森の源泉である土地に埋められ,闇 の中であらゆる微生物や植物の菌と闘いながら 死を向かえる。そのような暗い地の中からの美 しく輝く姿とは,暗闇の土があるからこそ生き 生きと美しい花が開くことを暗示している。そ の美しい花は,暗闇と光,両方の存在を通じて 生命の誕生へと導かれる。この原理は人間にも 置き換えられる。人間は母胎で作られる。子宮 の中は静かで暗い状態であり,あらゆる生命へ の慈しみに溢れる女性の母性豊かな感情や憧憬 から,光輝く思想がはじめて生まれ育てられ る。生命が誕生する。

シェリングは,根源的な憧憬を次のように言 う。「つまり根源的な憧憬は,―ちょうどわれ われが憧憬のなかで未知の,いまだ名前をもた

ない善を求めるように―いまだ知ることのな い悟性へと向かう」[

Schelling

1809

:

Ⅶ361藤田 2011

:

109]。根源的な憧憬は,まだはっきりと した名前をもたないもの―しかし,「最善のこ と」であると確信しながら求める。それは,最 も良いことではないかと考える。その「最も良 いもの」が欲しいがために,正しい方向と思わ れる真っ白なキャンバスに向かってつき進んで ゆく先にあるもの―それがまだ出会っていない

「悟性」である。では,カントの悟性とシェリ ングの悟性とはどのように違うのだろう。カン トは,「さきに我々は悟性を消極的にのみ定義 して,『悟性は非感覚的な認識能力である』と 言った」[

Kant

1787

:

92篠田1961

:

141]。この ようにカントは,悟性は,人間内において,認 識する能力であると言う。人間の中における限 られた機能である。「それだから悟性は判断の0 0 0 0 0 0 能力0 0と考えられてよい,悟性は―上に述べた通 り―思惟の能力だからである」[

Kant

1787

:

94 篠田1961

:

142]。このように,カントは悟性を 人間の思惟能力であるという。それに対して,

シェリングの悟性とは,人間がさしあたりまだ 出会っていないものとする。

「つまり根源的な憧憬は,―ちょうどわれわ れが憧憬のなかで未知の,いまだ名前をもたな い善を求めるように―いまだ知ることのない悟 性へと向かう。そしてまた,プラトンの質料に 似て,波打ち,荒れ狂う海のように,暗い不確 かな法則に従って,そしてそれ自身ではなにか 持続的なものを形成する力なく,予感しつつ 動く―このように思い描かなければならない」

Schelling

1809

:

Ⅶ361藤田2011

:

109]。「予感し つつ動く」とは,海を航海している人が,きっ とこの方向にいけば島に辿り着くことができる

(6)

のではないか,と波にゆられながら辿り着くこ とを期待しながら船を漕ぐ様子である。自分が 進む方向は,水平線しか見えないが,きっとこ の方向に向かって漕いでいいのだろう,と予感 しながら動く。或いは,森の中にひとりさま よってしまい,どこに行けば民家があるのかわ からない状態にある時である。日はどんどん落 ちて暗くなっていく。森には霧も立ち込めて先 が見えない状態である。しかし,きっとこちら の方向に歩いていけば,民家があり冷えた体を 温められる暖炉があるかもしれないと予感しつ つ動いて歩いていく状態である。海の上も森の 中も「暗い不確かな法則」と呼べる状況であり,

持続的なものを形成する力なく,足元がふらふ らしながらも進んでいく姿である。

では,更に,この予感する意志である憧憬に ついて,『色彩を持たない多崎つくると,彼の 巡礼の年』での,つくるとエリの会話からみ てみよう(5)。ここで多崎つくるを取り上げる のは,つくるはユズの中にある憧憬を,自分自 身の生へと繋げようとしたからである。エリは つくるに,生きていく意欲を失いかけているユ ズの事を思い出しながら話した。「あの子は昔 と違っていた。心からいろんなものがぼろぼろ とこぼれ落ちて,それにつれて外の世界に対 する興味も急速に後退していった」[村上2013

:

298]。ユズは暗い根底から,生命に対して,プ ラトンの質料(6)に似て,波打つ荒れ狂った海 のなかで,暗い不確かな法則をみつめながら,

つき進んだのだろう。それは,一寸先も見えな い夜の湖の中から,暗い夜の森の中をさまよい 歩き,月の明かりを頼りに,「良き方向へ」と ゆっくりと手探りで生きていこうと進もうとす るように,である。もう一度,シェリングの言

葉を聴いてみよう。「つまり根源的な憧憬は,

―ちょうどわれわれが憧憬のなかで未知の,い まだ名前をもたない善を求めるように―いま だ知ることのない悟性へと向かう」[

Schelling

1809

:

Ⅶ361藤田2011

:

109]。このように,名前 のある善ではないが,未知なる世界,それは,

予感として「正しいだろう」と思う方向へと進 んだのである。自己の生命は暗闇から,予感し つつ動き,名前をもたない善を求め,悟性へと 向かった。そして,それ自身には,なにか持続 的なものを形成する力はなく,予感しつつ動く のである。暗い不確かな法則は,再び暗い夜の 森の中へと戻るかもしれないし,夜の暗い湖に 戻らされるかもしれない。ユズの中の憧憬は,

自然の根底という深い森の中の湖で,生と死の 間を行ったり来たりした。憧憬は,闇の中に静 かにかすかな光を放っているかもしれない。し かし,そのまま,静かに光が見えなくなるこ ともある。憧憬が高まっていけるかどうかで,

「心から多くのものがこぼれ落ちること」に深 く関連してしまうのである。また,憧憬が高 まっていけるか否かで,「外の世界に対する興 味」にも関連してしまう。しかし,憧憬は深い 森の中の湖の中にもかすかな光があるために,

最後まであきらめずに生命を見続けている。憧 憬から悟性への移行は,こうして自己の神の方 向へと進もうと,どうにか力を振り絞ってい く。弱いが,消え入る前の強い生命力である。

広がる世界へと飛び立とうとするひな鳥のよう な状態である。夜の森の湖の中,或いは,湖の 水面から少し水中に入ったひな鳥はどのような 状態なのだろう。暗い夜の湖の中でもかすかな 光を見出そうと力を振り絞ったのだろう。「根 底の暗黒は,神の光から切り捨てられたりはし

(7)

ないのである。シェリングの論理は,根底の暗 黒にも光があるから,神からの光に反応すると いうのである」[那須2012

:

188]。このように,

夜の森の湖の中にも光があり,神からの光に反 応するのである。

では,次に,神と憧憬の関係について目を向 けてみよう。「人間の意志は,まだやっと根底 のうちにあるにすぎない神の萌芽,永遠の憧憬 のうちに隠された萌芽である。あるいは,神が 自然への意志を抱いたときに認めた,深みのな かに閉じ込められた神的な生命のきらめきであ る」[

Schelling

1809

:

Ⅶ363藤田2011

:

112]。 間の意志は,自然の中にある小さな芽のひとつ である。それは神の芽と考えられるもの,神が 自分自身を自然の中にある芽を通して自己発見 する前のものである。神が自然への意志を抱い たとき,とは次のことである。神は実存するか ぎりの存在者であり,自然は実存の根源である かぎりの存在者であるという神にとってまった くの他者である。もちろん,同時に同一とも考 えられるわけだが,自分ではないものとしての 他者である。神の中の自然が憧憬という小さな 意志を持ったときに初めて,深い夜の中に閉じ 込められた生命のきらめきが発生する。きらめ きとはいっても,やはり,自然の深く暗い場所 に存在するわけなので,普通に想像するキラキ ラとした輝きとは違う。深い夜の自然は,やは り,深い夜のままである。しかし,ここでシェ リングが伝えるきらめきとは,意欲であり,前 に向かっていこうとするもので,光の卵のよう なものである。その深みのなかに閉じ込められ た生命のきらめきは,悟性のきらめきとは違 う。深い夜の海に閉じ込められた状態の生命の きらめきは,これから生まれ出ようとするきら

めきである。それは,悟性のきらめきに向かう 前段階である。「憧憬はその悟性の統一に向け て自らを高めようとするのである。そしてその 悟性の統一的あり方は,光として比喩されるの である。しかし悟性の光は神の光とは異なる。

それは悟性もやはり根底をその出所としてい るからである」[那須2012

:

186]。このように,

憧憬は,悟性が統一に向けて自らを高めようと する前段階である。陸上の競技で,スタート地 点に立ち,走ろうとする寸前の選手の気持ちの 鼓動のようなものである。その根底の中にある 深い夜のきらめきは,悟性の輝くきらめきに対 して,他者である。

ここで,シェリングの体系について触れよ う。「哲学は神を同時に万物の最高の解明根 拠とみなし,したがって神の理念を他の諸対 象のうえにも広げるというところにである」

Schelling

1810

:

Ⅶ423岡村2011

:

188]。「しかし,

かの真の体系もその経験的0 0 0全体性においては見 出されえない」[

Schelling

1810

:

Ⅶ421岡村2011

:

186]。シェリングは神の理念を,神の中だけに 留めておかず,つまりは,神の理念を固定せ ず,あらゆる対象に向けて広げていくことを言 う。絶対的なものの固定は,他の概念すらも固 定させてしまう。風の如く概念を,まだ行った ことのない地球の裏まで考察することができる と世界は広がるのではないだろうか。神が万物 の最高の解明根拠とすることで,見えなかった 他の世界や概念がみえてくることに繋がるのだ ろう。真の体系は「経験的」全体性においては 見出されないということである。経験するとい うことだけで理解ができるとは言い切れない。

経験を超えたところから見出されるもの,それ は,世界体系を「経験」という枠を超えて考察

(8)

するところから始まる。人間は経験を重要視す ることがあるが,人間以外の万物にとって経験 がどれほど大切なことなのだろうか。また,経 験は全ての諸概念を解明することに繋がるのだ ろうか。真夏の太陽の下で,今日咲いた向日葵 が,去年咲いた向日葵の経験から何かを学び,

何を解明するのだろうか。

では,そのような体系の中で,神はどのよう に憧憬を見出したのだろうか。シェリングは言 う。「彼(つまり人間)のうちにおいてのみ神 は世界を愛したのである。憧憬が光との対立状 態に入ったとき,憧憬を中心において捕らえた のは,まさにこの神の似姿であった」[

Schelling

1809

:

Ⅶ363 藤田2011

:

112]。彼(つまり人間)

のうちにおいて神は世界を愛した。それは,神 が,人間という他者を通して世界を愛したこと になる。神は自らの内に人間というもうひとり の自己を見出した。そして憧憬が光と対立する 状態に入ったときに,憧憬を中心において捕え たのは,この神の似姿(人間)だった。神の似 姿(代理人)である人間が根底において主人公 になる。この「似姿」とは,神のもう一人の自 己であり,根底にある憧憬から悟性へと向かっ てゆくもうひとりの姿,つまりは,人間の姿を した神自身である。光へと力強く向かっていく 人間の姿を,神は自己の鏡として捉えた。根底 から出発して,中心が光へと高まることができ るのは人間である。人間においてだけ,そのよ うな運動が起こる為,神はそれを遠くから眺め るだけである。悟性の光は神の光とは違うため,

神は根底から出発した悟性の光をただ眺める。

ここで,同一性の原理に戻ってみよう。同一 性の原理から考えるとき,神もまた,人間とい う他者を通して

A

A

A

B

の対立,分離を

見出した。神は光そのものであることから,固 定された光として常に輝くと考えられる。この 場合の固定とは,常に光を保持している立場と しての固定である。神が人間の悟性を眺めて

A

B

という対立・分離が起こるという視点か らは,もちろん固定的ではなく流動的であり動 きがある立場になる。人間には「二つの中心」

が存在する。それは,深淵と高い天である(7)。 このことを,あくまでもイメージとして捉える ならば,人間は,空高く宇宙に向かって昇り詰 めることも,海底を突き抜け地球の奥深くへ潜 ることもできる動きが豊かで自由な存在であ る。そして,人間は,根源である自然から出て きているために,神との関係においても独立し ているとも言える。神と人間とは区別される別 の存在者である。また,神と自然も区別され,

別の存在者である。人間は神から独立している と同時に,神にとっての他者である。それは,

アダムとエヴァの関係と同じである。エヴァが アダムの肋骨から造られたという同一性を保持 しつつも,アダムとエヴァは区別され,独立し た存在である。

このように,根底である闇からのぼろうとす る憧憬に自己意識

B

が生じて,神は根底である 自然からのぼってきた憧憬が悟性となり,この ようにして,新たな生命力を放つ動きを見つめ る。それは,目にみえない戦いである。また,

その戦いを,神自身もみつめ,自己の中に自己

B

を見出すのである。神は,同一性の

A

A

そして,

A

B

を他者である人間の悟性の光か ら知ることになる。

(9)

4.根底

「この自然のなかでの悟性の最初の動きは諸 力の分開(

Scheidung

)である。この諸力の分 開を通してのみ悟性は,ちょうど種のなかに含 まれているように,自然のなかに無意識に,し かし必然的に含まれている統一を展開すること ができるのである」[

Schelling

1809

:

Ⅶ362藤田 2011

:

110]。シェリングは,この自然のなかで の悟性のまず一番始めの動きは,諸力の分開で あるという。悟性の最初の動きは,自然という 根底の中にあるものを分開する。自然という根 底の中にある諸力へとこまごまと分けてしまう のである。それは,真夏の太陽が,土に向かっ て光を放ち,湿っていた土の中の微生物や成分 が光の力と強さによって活性化されて動き出し ていく様子と似ている。種は無限の可能性を含 んでいる。それは自然のなかで,つまり根底の 中で,無意識に,必然的に一つにまとめられて いる。種は,ただ無意識に太陽からの光を浴び ているだけである。しかし,種として一つにま とめられている。統一は太陽によって分開され る運命である。更に聴いてみよう。「ここで悟 性,あるいは原初の自然のなかに置かれた光 が,自己自身のなかに戻ろうとつとめる憧憬を 刺激し,諸力の分開へと(暗闇の放棄へと)促 す。しかしまさにこの分開のなかで,分かれた もののなかに閉じ込められている統一を,言い かえれば隠された光のきらめきを浮かび上が らせる」[

Schelling

1809

:

Ⅶ362藤田2011

:

110]。

ここで悟性である光が,憧憬を刺激する。光が 上へ引っ張ろうとする。しかし,憧憬は根底の 中に戻ろうとする。悟性は諸力へと分開しよう とする。分開されたものの中に統一が浮かび上

がる。その統一とは,隠された光であり,分開 された諸力の中に埋もれた光である。その光が 浮かび上がる。根底は,いままでどおりであり 続けようとする。根底は悟性に飲み込まれない のである。悟性も,根底自身を必要としてい る。ここでの憧憬は,悟性の光にもなれるし,

根底に留まり引き戻らさせられる自由な立場で あるから,分開によって,分かれたものの中に 滞在する統一,隠されたきらめきが浮かび上が る。更に詳しく述べるならば,根底に向かった 光は,根底内で対立に出会う。悟性が憧憬を刺 激して,自然の中にある諸力への分開を促して いく。その分開のなかで,根底において0 0 0 0 0 0隠され ていた光0がきらめくのである。それが,「隠さ れた光のきらめき」である。従って,根底の中 で悟性と根底との対立,分離,分別が起こり,

その対立と分離が,根底自身に存在する「根底 に存在する光」をきらめかせるのである。「闇 としての根底が光を得て(これも外部からでは なく自らのうちにある光と考えてもよいのだ が)悟性へ向けて上昇するというときに,まだ 一部は0 0 0闇の中にとどまるものもあるのである」

[那須2012

:

187]。このように根底は光とまだ 一部は根底にとどまるものがある。そこで,こ の対立と分離において,以下の通りに同一性が 成り立つと考えられる。

 A   統一〈対立と分離の統一〉

A=B  分離〈AはA=Bのうちに客観,

鏡をもつ〉

Schelling

1810

:

Ⅶ426岡村2011

:

191]。

A

B

A

は悟性の光である。

B

は根底にお いての光,つまりもうひとつの根底に残ってい

(10)

る夜の中できらめく光である。自然の中のきら めきである。悟性へとのぼるきらめき

A

B

根底におけるきらめき,根底に残るきらめき を確認する。また,

B

の根底に残るきらめきは

A

の悟性へとのぼるきらめきを確認する。

A

とって

B

は鏡となるのである。「根底の構造は,

実存としての神の光に呼応できる(光を吸収で きる)ほどの光との親和性をもちつつ,光(悟 性)によって根底から離れるのである」[那須 2012

:

188]。このように,根底の構造は,実存 としての神の光に呼応できるほどの親和性を持 ちながら,悟性の光により根底から離れる。悟 性の光と根底の構造には強い親和性がある。

さて,根底のなかで分開された後はどのよう になるのだろうか。シェリングは次のように言 う。「それに対して,分開のなかで,したがっ て自然の根底の深みから,諸力の中心点として 成立してくる生き生きとした紐帯は,霊魂であ る。根源的な悟性は,自分からは独立した根底 から霊魂を内的なものとして浮かび上がらせる のであるから,霊魂はまさしくこの故に,それ 自身一つの特殊な,自分だけで存立する存在 者として,根源的悟性から独立して存在する」

Schelling

1809

:

Ⅶ362 藤田2011

:

110

-

111]。分 開のなかで,自然の根底の中から成り立つ中 心は霊魂(

Seele

)である。それは生き生きと した紐帯である。その根源に潜りこんだ悟性 は,この中心的な存在である霊魂を,根源の内 的なものとして際立出せる。悟性が霊魂にス ポットライトを当てるように,「ここが根源の0 0 0 中心0 0である」と呼び起こす。自然にイメージを 託して,このことをみてみたい。想像を自由に 働かせて考えるならば,空高く飛んで日本の上 空を眺めるとき,富士山が日本の際立つ自然で

あると捉えられる。そして,富士山が諸力の中 心として例えられるだろう。更に想像を膨らま せてみよう。この悟性と霊魂の関係をイメージ してみるならば,悟性の光を朝日と考え,朝日 に照らされる富士山(霊魂)として考えること ができる。富士山に朝日を照らし,「ここが自0 然の中心0 0 0 0である」と際立たせるように,であ る。「シェリングは霊魂を「諸力の中心点」と 考えていた。シェリングが霊魂のことを「生き 生きとした紐帯」と言うように,霊魂は根底に おけるネットワークの中心として存在するもの

Wesen

)なのである」。「つまり生命的なもの

(あるいは生き生きとしたもの)のネットワー クは自然であり,その自然が統一されて一つの 存在者になると,それが生き生きとした紐帯と しての霊魂なのである」[那須2012

:

190]。 のように霊魂は,根底における中心のリーダー 的存在としても考えられるだろう。また,その 中心的リーダーは多くの分子を保有している。

悟性の光を捉えられたら統一へと高められる分 子,或いは,不透明な欲の意志としての分子で ある。善へとも悪へともつながる分子である。

「自然のなかに生じた存在者はすべて,それ自 身のうちに二重の原理を含んでいる」[

Schelling

1809

:

Ⅶ362藤田2011

:

111]。「(光をまだ捉えて いない)かぎりでは,単なる欲動ないし欲望,

すなわち盲目的な意志である」[

Schelling

1809

:

Ⅶ363藤田2011

:

112]。このように,善へとも 悪へともつながる二重の原理がある。いずれに しても多様なあらゆる可能性を含んでいる。そ して,富士山のように際立ち,非常に特殊的で もある。また,そのもので存立する特別な存在 者でもある。その為に,霊魂は悟性から完全に 独立して存在する。

(11)

さて,悟性と根底の関係を再びみてみよう。

悟性の光によって根底からのぼっていく憧憬

(意志であり力)は,上に上にと行こうとする。

しかし,簡単に根底に引き戻されることも十分 にありうる。林檎の木から落ちる葉が空に向 かって上下するように,風に吹かれて上に舞い 上がる。或いは,地面に落ちて行く。一度,悟 性の力で浮かび上がっても,再び根底へと引き 戻されることもある。そして,その根底の更に 底にあるもの,生き生きとした紐帯が霊魂であ る。自然の深み,つまり根底の更に深い底に諸 力がある。その力は中心として,自然である根 底と霊魂を結んでいる。この中心は,独立して おり,内的なものとして押し上げる力がある。

そのために,その中心は,悟性から独立した存 在である。悟性の光によって高められなけれ ば,再び,根底へと戻る。では,根底と人間の 関係はどのようなものだろうか。

シェリングは言う。「人間は,根底から出て きている(被造物である)ということのために,

神との関係において独立した原理をそれ自身の うちに含んでいる。しかしまさにこの原理は,

光へと変容されているのであるから―だからと いってこの原理がその根底に関して暗いもので あることをやめるわけではないが―同時に人間 のなかにある高次のものが,すなわち精神0 0が立 ち現われる。というのも永遠の精神は,自然の なかへと,統一ないし言葉を語りだすからであ る」[

Schelling

1809

:

Ⅶ363

-

Ⅶ364藤田2011

:

112

-

113]。人間は根底から出てきている。誕生してい る。神は光そのものであるために,自然である 根底とは別の存在であり,独立しているという 原理である。ところが,この独立した根底が光 へと変化し,光の容器へと入り込み統一される

原理がある。根底である自然(人間)の中にあ る高次なものが現れてくる。それが精神である。

もちろん根底が明るくなるわけではない。根底 は暗いままである。その高次な精神とは,自己 自身で,或いは神自身で語り出す「言葉」であ る。人間の中にある高次なものである精神0 0が現 れる。言葉は憧憬を響かせ,暖かく包み込み,

その響きが憧憬から悟性へと変容させる。

根底にも同一性の論理が貫徹しているはずで ある。その論理とは自由を選択し得ることがで きるという深い自然の根本である。この自然の 根本には,「むすび」として繋がっている自然 の集約された存在者がある。自然の中の根底は 無底という一元論に支えられている。シェリン グは言う。「その根底にはつねになお無規則的 なものがある。いつか再びそれが突如としても う一度現われでるかのような仕方で」[

Schelling

1809

:

Ⅶ360藤田2011

:

108]。根底を無規則的0 0 0 0な ものとして,シェリングは捉えている。無規 則的なものが規則的なものをつくっている(8)。 根底の底とは,自然の根底を造り出している 規則的ではない自然である。根底を支えてい る山々であり,無底から押し上げられている 山(のようにかたどったもの)である。この山 は予測が不可能なものである。この山々につい て,更に詳しく表現するならば,次のようなも のである。この根底は自然が根本である。それ は,ネットワークの中心の霊魂,つまり,自然 の根源としてのリーダー的存在者の出発地を支 えている富士山のような山でもある。或いは,

海のようなものである。穏やかで静かであった と思えば,時には津波のような激しい動きに変 貌する海のようなものである。または,森のよ うでもある。その森の根底には無数の細菌や生

(12)

命体が,暗闇のなかで静かに,しかし力強く 眠っている。その生命体が集合して静かな動き を始めるとき,根底全体を左右するだけの大き な力を持った森になる。更にこの根底の底につ いて表現するならば,無底から押し上げられて いる全ての生命を愛しむあらゆる母の乳房のよ うなものでもあり,エヴァの情熱と気のような 炎と風のようなものである。従って,根底の底 は,無底によって根底が押し上げられている無0 規則的0 0 0な動きがある自然が根本である。

さて,更に説明を続けるならば,シェリング の体系は,自然-人間-神の視点から考える必 要がある。根底という自然,善も悪も選択がで きる人間,そして実存するかぎりの存在者であ る神である。根底から生まれる存在者である憧 憬は悟性の光を受け止め,言葉を自らのものと して包み込む時,精神として上へと昇ってい く。その様子を受け止めて,客観的に眺めてい るのは,実存するかぎりの存在者である神であ る。神は他者を通じて根底から生まれる光をみ つめている。ここで同一性の

A

A

A

B

なる。この憧憬は悟性の光を受け止められなけ れば,再び根底へと沈んでしまうが,同一性と して,浮かび上がる光と根底へと向かうものと に分かれている。ここでも,分離・対立の同一 性の原理が働く。人間は根底に滞在する憧憬 を,上に昇らせることも昇らせないこともでき る自由な存在である。悟性の光の速度を速める ことも,また逆戻りして引き戻されることもで きる。人間は実存するかぎりの存在者(神その もの)と実存の根底であるかぎりの存在者(自 然)の中間にいる。そして,実存するかぎりの 存在者と実存の根底であるかぎりの存在者に は,同一性の関係が常に働いている。体系的な

原理を考えるとき,実存するかぎりの存在者か らの視点,自然である実存の根底であるかぎり の存在者からの視点,そして人間からの視点の 三つの視点からの同一性の原理が可能になると 考えなければならない。

5.おわりに

「精神0 0とはその本性上存在するもの,自己自 身から燃える炎である」[

Schelling

1810

:

Ⅶ466 岡村2011

:

238]。シェリングが,精神とは本性 上存在するものであり,自分自身の中から燃え る炎であるというように,真の自らとなるもの がある。自然の根底から,暗い根底の中にある 憧憬に悟性の光が当てられて精神へと昇ってい くと考えられる。それを例えるなら,暗く湿っ た森の中に,無数の生命体の光が存在する。そ んな夜の森で,ひとつの光をどうにか見出し て,消えないように火が灯され,空に向かって 燃えていく炎の様でもある。精神は,このよう に限りない力強い自然の力を経て,分離し,対 立して,一つになり,そして存在への道を辿る のだろう。

同一性の原理では,統一された

A

には

A

A

があるが,

A

A

であるとされうるには,他者 性が必要となる。それが

A

B

である。アダム がアダムであるためには,エヴァが必要であっ た。エヴァを通じて本来のアダムとしてのアダ ムになる。その同一性の原理はあらゆる場面に て発生する。シェリングの体系の中でも,根底 の中にある憧憬が悟性という光に包み込まれ,

昇っていく過程においても,常に同一性が働 く。ミクロな部分にでさえ,常に

A

A

A

B

の原理は働いている。

(13)

シェリングの憧憬は,自然の中に滞在してい る。闇の中にある。意志を持っていない状態で ある。つまりどちらの方向に自分は進んでいこ うかと定まってはいないが,漠然とこちらに行 くことが良いのではないだろうかという予感す る意志である。その予感する意志は,悟性の光 によって方向性がはっきりと定まり,力強く自 立したものになっていく。その自立した意志に 至るまでは,根底において,消えそうな光の中 で弱々しく輝く力である。深い根底の中で,そ のまま消えてしまうこともあるが,それでもか すかに輝いている。憧憬が悟性の力で自立して 昇っても,もちろん途中で根底に引き戻されて しまうこともある。それほどまでに根底は,奥 深く,「場」として考えるならば広大である。

このように奥深い根底とシェリングの悟性は まったく別の存在者である。根底と悟性の関係 には常に同一性が働くのである。闇に消えそう な憧憬と,光に包まれて昇っていく意志へと変 化する憧憬との関係でも

A

B

なのである。悟 性に昇る光と,根底に留まる光との関係でも

A

B

である。憧憬が悟性の光に包まれて昇っ ていくことを,体系の原理から考えるならば,

神-人間-自然のそれぞれからの視点において 見えてくるものがある。憧憬が悟性の力によっ て,意志として上昇していく生命力を,神は自 己自身の似姿としてのもう一人の他者と見な す。このことを,シェリングは「反省的な表象」

Schelling

1809

:

Ⅶ361藤田2011

:

109]と言って いる。

A

A

のためには,

A

B

の他者性が生 じなければならないのである。また,人間は根 底に留まることも,悟性の光に当てられて昇っ ていくことも可能な自由な存在である。その自 由である人間は,神にとって他者として眺めら

れている。実存するかぎりの存在者は,他者性 において世界を愛することが可能となる。なぜ ならば,他者性を通して,いくら目の前にあっ てもみえなかったものが見えるようになるから である。

根底の更に底には,無底という無限の世界が ある。根底が二元論であり,無底は一元論であ る。根底は二元論を生み出す自然の根本と考え られる。その根底は無底という目が眩むような 広大な原理を持つ一元論に支えられている。根 底のネットワークの総指揮者である霊魂は悟性 から,完全に独立した存在者である。その総指 揮者は,根底を隔てて,同一性の世界へと飛び 立つ生き生きとした紐帯である。無底に支えら れている根底を構成している基盤は動く自然0 0 0 0と して捉えられる。その根底は無規則的なもので ある。その動きは,無規則的な盛り上がりがあ り,つまり無規則的な自然であり,山のような,

海のような,森のような,そして母なるような ものによって支えられている。従って,根底は 自然であり,目には見えない自然として捉えら れる。

「種子は地のなかに埋められ,闇のなかで死 ななければならない。そうすることによってよ り美しい,光輝く姿が現われでて,陽光のもと で花開くのである」[

Schelling

1809

:

Ⅶ361藤田 2011

:

109]。自然の根底で,憧憬が息づき,悟 性に向かう。悟性の光に当てられる。言葉に包 まれ,上昇する。その動きの始まりは,根底で ある自然から0 0である。そして,根底の基盤は無 規則的なものと考えられる。実存の根底である かぎりの存在者が,つまり,自然の根底自体が 上に向けられることで,自然は神へと近づく。

更には,神との関係を持つ。ここでも,

A

A

(14)

が,

A

B

となり,

B

である根底の自然が

A

鏡として他者になる。それは,他者である

B

つまり根底の自然の存在によって,

A

A

でい られる。つまり,実存するかぎりの存在者に力 強く支えられた根底としての自然が開花する。

さて,シェリングの『人間的自由の本質とそ れに関連する諸対象についての哲学的探究』は 1809年に執筆された。その後,1812年に『クラ ラとの対話』が執筆された。このことを同一性 の

A

A

A

B

である原理に基づいて考える ならば,『自由論』が

A

であり,『クララとの対 話』が

B

としても考えることができる。

この同一性をもう一度,アダムとエヴァに戻 してみよう。

A

A

であるには

A

B

が必要で ある。創世記で知恵の木の実をアダムに勧めた のはエヴァであるが,シェリングの憧憬と根底 の概念についてどのように考えるのだろう。現 代のエヴァはアダムにこのように言うかもしれ ない。「私の中にある根底の自然から生まれる ものが,あなたを見つめているのかもしれない わ。そして,すでに太古からあなたを愛しつづ けているのかもしれないわ。」このような対話 がなされる可能性もある。この対話の続きを聴 くには,更にシェリングの一元論と二元論を追 究していく必要があると考えられる。

〔投稿受理日2013.8.23/掲載決定日2014.1.23〕

(1)『人間的自由の本質とそれに関連する諸対象につ いての哲学的研究』において,シェリングは憧憬 を「人間的」に身近に分かろうとするとき,永遠 の一者が自分自身を生みだそうとするものである と述べている。諸事物はその根底を,神自身でな いもののうちにもつと言う[Schelling 1809:Ⅶ359 藤田2011: 107]。

(2)シェリングは同一から差別への移行は,本質の

二重化(Doublirung)であると述べている[Schelling 1810:Ⅶ425岡村2011: 190]。

(3)『色彩を持たない多崎つくると,彼の巡礼の年』

において,沙羅は,つくるの過去と現在とを繋げ てようとする。カントの構想力として考えると,

「記憶は今において思い出されなければならない。

そして思い出された記憶は今と綜合されなければ ならない」[那須2012: 35]。このように,記憶と 今とを綜合させ,新しい意識を見出そうとする。

(4)A=Bは分離,Aは統一であり,その全体が一緒 になって生きた現実的根源存在者であるとシェリ ングは言う[Schelling 1810:Ⅶ426岡村2011: 191]。

(5)多崎つくるは,フィンランドに住むエリと会う。

そこで,ユズの「憧憬」を,つくるは知る。「音楽 に対する興味もすっかりなくしてしまった。……

ただね,子供たちに音楽を教えることだけは,以 前と同じように好きだった。その情熱だけはなく ならなかった」[村上2013: 298]。とあるように,

悟性に向かおうとする姿である。

(6)『人間的自由の本質とそれに関連する諸対象に ついての哲学的研究』の注釈において,プラトン

『ティマイオス』51A-Bなどを参照とされる。

(7)シェリングは,人間は深い闇と高い天,または この二つの中心が存在すると言う。「人間のうち にはもっとも深い深淵ともっとも高い天とが,言 いかえれば,二つの中心が存在する」[Schelling 1809:Ⅶ363藤田2011: 112]。

(8)シェリングは,我々が今眺める世界においては,

全てが規則であり秩序であり形式であるが,最初 にあった無規則的なものが秩序へともたらしたよ うに見えると言う[Schelling 1809:Ⅶ360藤田2011: 108]。

参考文献

Heidegger, Martin Schellings Abhandlung über das Wesen der menschlichen Freiheit (1809), herausgegeben von Hildegard Feick, 1971, Max Niemeyer, Tübingen

(邦 訳:木田元・迫田健一 1999 『シェリング講義』,

新書館) 

Heidegger, Martin 1927 Sein und Zeit (邦 訳:原佑・

渡邊二郎 2003 『存在と時間I』中央公論新社)

Kant, Immanuel 1787 Kritik der reinen Vernunft(邦 訳: 篠田英雄 1961 『純粋理性批判(上)』,岩波書店)

Schelling,F.W.J. 1809 F.W.J.Schelling’s philosophische

(15)

Schrifte. Landshut 1809,S.Ⅶ-Ⅻ, 397-511. (=SW Ⅶ, 331-416)(邦 訳:藤田正勝 2011 『人間的自由 の本質とそれに関連する諸対象についての哲学的 探究』,燈影舎)

Schelling,F.W.J. 1810 Stuttgarter Privatvorlesungen.

SWⅦ, 417-484(邦  訳:岡 村 康 夫 2011 『シ ュ トゥットガルト私講義』,燈影舎 1810)

Schelling,F.W.J. 1812 Clara, or, On Natur’s connection to the spirit world trans. Fiona Steinkamp 2002(State University of New York Press)

Schelling,F.W.J. 1812 Clara (邦  訳: 中 井 章 子1993

『キリスト教神秘主義著作集 クララとの対話 - 自然と霊界の関連について-』,教文館)

樫山欽四郎 1977 『悪』,創文社

旧約聖書 関根正雄訳 1969 『創世記』,岩波書店 那須政玄 2012 『闇への論理』,行人社

村上春樹 2013 『色彩を持たない多崎つくると,彼 の巡礼の年』,文藝春秋

参照

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