一 五結語 四白居易 三韋應物 二陶淵明 言
一
言
いかなる「詩人」も「士人」である宿命を背負いながら、その大多數の士人は官界で辛酸をなめることになる。士人は、整然と序列
された頂點に向かって
えず榮 それが疑い得ない を求められ、
對是であった官界の
だからこそ、その 人であった。また 列から
ら自由となる機會が與えられたと見ることもできよう。そし した士人には、現世の桎梏か て、士人が詩作において、桎梏を
れた心境を、おのれの言 によって
べたとき、その自由な抒
見える詩 本稿では、陶淵明、韋應物、白居易の、それぞれの詩歌に きるのである。 を讀み取ることがで いは「得失」などといった價値の對立に 理を踏まえて、世俗を支配する「是非」、ある
その際の 詩人が價値對立をどのように解決しようとしたのか考察する。 (1) 目し、それぞれの 眼點は、彼らなりの問題解決の
いた「理」の役 の中にはたら
如何である。
二 陶淵明
生と死の根源
生きる人 な對立を基點として、死の側面から現世に
とその營爲を詠み
んだ陶淵明の作のひとつに、
210
「理」の
相
「是非」の價値對立における陶淵明、韋應物、白居易の
同
土谷彰男
「挽歌詩」三首(卷四)が
ついての、淵明の態度が、集 必有死」(其一)は、「得失」「是非」といった價値の對立に (2) げられる。そのなかでも「有生 に表明されたものである。
挽歌詩(其三)有生必有死生有れば必ず死有り早 非命促早
昨 は命の促まれるに非ず ちぢ
同爲人昨
今旦在鬼 同に人と爲れるに
今旦鬼
千秋萬 安くんぞ能く覺らん是非是非安能覺 復た知らず得失得失不復知 良友撫我哭我を撫して哭す良友 父を索めて啼き嬌兒嬌兒索父啼 空木に寄る枯形は枯形寄空木 散じて何くにか之く魂氣は魂氣散何之 に在り 後千秋
飮酒不得足飮酒の足るを得ざるを 但だ恨む但恨在世時世に在りし時 誰知榮與辱誰か知る榮と辱とを の後 幼子を殘して
この挽歌詩は、 くなったとされる淵明がみずからに捧げる うに、有限なる生の樣相を死の側面から 頭第一句「生有れば必ず死有り」というよ
き 値對立をそれぞれ 辱」と「「榮」との對立といった、人事にまつわる正負の價 、、 」と「との對立、および」非」と「「是との對立、」失「得 、、、、 とを知らん」というように、と辱「誰か榮(第六聯・第十二句) 、、 復た知らず、是まる。「得失(第五聯)非安んぞ能く覺らん」、 、、、、 こすことに始
か。ここでは、否定詞や反語表現が繰り 淵明は、これら價値對立にどのような態度を示しているの げる。
いずれも、淵明の關知する對象にはならない、ということが かるように、「得失」「是非」「榮辱」といった價値の對立が されることから分 に對し、それに關與しようとはせず、むしろ回 められよう。すなわち淵明は、世俗を支配する價値の對立
ところで、このような態度が、飮酒という行爲を るのである。 しようとす
て 提とし
り立つことに
の側に徹底して立つことで、すべての世俗 を飮むこと足るを得ざるを」(第七聯)というように、飮酒 目したい。「但だ恨む世に在りし時、酒 (3)
酒の優位性を誇示し、そのことによって世俗 價値に對する飮
價値の對立そ
「理」の
相(土谷)
211
のものを無效にさせてしまうのである (4)。また、ここで留意すべきは、この詩が自分自身への挽歌詩となっていることである。つまり、死
ら、いわば超越 という別格の立場か な 點に據って現世に言
できる、特
な
圖をとることによって、そのまま現世の個別 (5)
事件の制 を超越した、淵明の一般
かつ原理
看做すことができるのである。 な處世態度の表明と
このように、飮酒を機として價値對立の議論を持ち出し、飮酒の
對肯定を
して、世俗
效にし、超越しようとする淵明の な價値の對立そのものを無 は、
三)にも、繰り の「飮酒」詩(卷 して ところで、價値對立のうち、特に「是非」に められる。
のうちから「行止千 うな性格のものであるのかを明らかにしている。「飮酒」詩 と、「飮酒」詩ではさらに、價値の對立がそもそも、どのよ (6) 目してみる 端」(其六)を見てみる。
飮酒詩(其六)行止千萬端行止千
誰知非與是誰か知る非と是とを 端 雷同共譽毀雷同して共に 是非苟相形是非苟も相い形るれば あらわ
三季多此事三季此の事多し 毀せん 士似不爾
且當從 咄咄たり咄咄俗中愚俗中の愚 士のみ爾らざるが似し しか
綺且く當に
綺に從うべし
四句は、「出處
だから、それを『 の絲口は數えきれないほどあるの い』(非)と『正しい』(是)とに
けられてしまえば、俗人はそれに付和雷同して、みな毀 することはできないはずである。しかし一旦、是と非とに分 斷 にも 貶をしはじめるのだ」という。「是」と「非」とは、本來誰 襃 か、といった固定した價値 斷できるものではないのに、「是」か、または「非」
とは 念が、世俗の中で、しかも淵明 く關わりのないところで形
そのような る。それに對して淵明は、「咄咄たり俗中の愚」と罵倒し、 される、というわけであ 況から、山四
!(
"
目立てて、身を を手本に公、綺里季ら) 、、
た價値の對立は、淵明においては、いわば世俗の こうとする。このように、「是非」といっ
# して、すでに固定したものと 念と
識されており、そのように固 中國詩文論叢第二十一集
212
定した對立である以上、淵明はそれらに對して無用の抵抗を試みることなく、むしろ關知せず、という回
の 世俗そのうえで、 味もなく固定された對立として存在していると看做せよう。 「是非」「榮辱」といった對立も、淵明においては、すでに意 このように見てみると、さきに「挽歌詩」でみた「得失」 のである。 勢を示す
價値の超越を
「飮酒」詩が、いずれもその議論の 題とするこれら「挽歌詩」
していることは重 提として飮酒を話題に ないことへの擔保となっていると看做せるのである。 酒という行爲は、すでに固定されてしまった對立には關與し であろう。すなわち陶淵明において、飮
三 韋應物
「陶韋」と
非」などの價値に關わる議論を展開する、理 稱される韋應物の詩歌にも、このような、「是
學の む詩篇が見える。この理性の共有は、韋應物と陶淵明の文 、、、 な表現を含 同を考察する上で、特に兩
ともに自然詩の系譜に
なる詩人として共
項が指摘されるだけに、いっそう重
な
いま、陶淵明における價値對立について見てきた。淵明に 點となり得るであろう。 ていないこと、また飮酒がその擔保となっていることを確 ものであり、そのような價値對立にはあえて關知しようとし おいては、價値の對立はすでに世俗の中で儼然と固定された
してきた。同じように、「是」と「非」との對立について、韋應物の場合を見てみる (7)。彼が蘇州刺史であったときの作である「郡齋雨中與
文士燕集」詩には、(卷一)
のようにある。
郡齋雨中與
宴寢凝 兵衞森畫戟兵衞畫戟森たり 文士燕集 香宴寢
香を凝らす
上風雨至
煩痾 逍遙池閣涼逍遙として池閣は涼し 上風雨至り 散煩痾
ごろ
嘉 散し
復滿堂嘉
理會是非 未だ覩ず未覩斯民康斯の民の康かなるを 自慚居處崇自ら慚ず居處の崇きを 復た堂に滿つ
理の會すれば是非は
性 り
形迹
性の
すれば形迹は
鮮肥屬時禁鮮肥屬たま時禁 たま る
「理」の
相(土谷)
213
蔬果幸見嘗蔬果幸いに嘗めらる俯飮一杯酒俯して飮む一杯の酒仰聆金玉章仰ぎて聆く金玉の章 歡體自輕
は 意欲凌風 びて體自ら輕く
意は風を凌ぎて
けんと欲す
中 文史
中文史
羣 んなり
今汪洋郡
方知大 今汪洋たり 地方に知る大
豈曰財賦疆豈に財賦の疆と曰んや の地
中の詩人である韋應物に至って、「是非」を捉える態度は變質しているといえよう。すなわち、陶淵明にあっては、對立する價値を乘り越えようとも、余りにも牢固として乘り越えがたいゆえに、飮酒による酩酊へと韜晦する一
があった。一方で韋應物は、同じ飮酒を(「燕集」) の流れ ながらも、「理の會すれば是非は (8) 況とし り、性の
すれば形跡は
章」(第七聯)、「 る」、「俯して飮む一杯の酒、仰ぎて聆く金玉の(第五聯)
は びて體自ら輕く、意は風を凌ぎて
けんと欲す」(第八聯)というように、飮酒という行爲、および價値對立についての言
は、それぞれ話柄の一端として
かれるにしかすぎない。特に飮酒については、まるで點
のように、飮酒の風景や感
を みられたような、飮酒を格別の地位に据えて、ここを べるのみであり、陶淵明に
提に、
對
價値の相對
韋應物は「理の會すれば是非は ここにはみられないのである。 、あるいは韜晦を試みるような態度は、
非との り」というように、是と に蟠りながら、それら對立する價値を
却(「
(9)」)しようとする。陶淵明が回
こで韋應物は、價値對立を回 した價値對立であるのだが、こ とする することなく、「理」を核心 識を徹底することによって、
のである。つまり、「理の會すれば」という 却をはかろうとする に、價値對立に關わろうとすることが 提條件のもと このような「是非」に對する對處の變 められるのである。
その は、是非を捉える
識方法の變
との關わりを示すものとして、さらに「答令狐侍 と對應するものである。韋應物と「是非」
五)を見てみる。 」詩(卷
答令狐侍
一凶迺一吉一凶迺ち一吉一是復一非一是復た一非 中國詩文論叢第二十一集
214
孰能 斯理孰か能く斯の理を
亮在識其 れん
亮に其の
親交を以て戀うるも但だ但以親交戀 當に庶すべし幾高賢高賢當庶幾 しよき に慍む無くんば故三黜三黜故無慍 ことさら を識るに在り 容 希
容 として希み のぞ
倶忻 況昔別離久況んや昔別離して久しく し 守歸倶に
守より歸るを忻ぶをや 宴方陪廁
山川又乖山川又た乖せり 宴方に陪廁せしも わずか
門 霧われは
門に
霧を
峽路凌 し
磯きみは峽路に
相 同會在京國同に會するは京國に在らん 磯を凌ぐ 涕沾衣相い
明時重 みて涕衣を沾す 才明時
當復列 才を重んじ
當に復た
拂拭 白玉雖塵垢白玉塵垢せらるると雖も に列すべし
光輝拂拭すれば
た光輝あらん
陶淵明では、是非そのものはすでに固定されたものとして、 「是」と「非」とに分けられたものであり、このような
の價値
固定し得ないものに變質していることが、まず れに對して、韋應物では、もはや「是」と「非」とがすでに 念には關わろうとしないのが彼の態度であった。こ
意される。
價値は常に流動し轉倒する可能性があるとする と考えられよう。 するものとして、韋應物が捉えていたことを示すものである 値の轉倒は、價値そのものは固定したものでなく、常に流動 は常に轉倒する可能性を含んでいるのである。このような價 頭・第一句「一是復た一非」というように、對立する價値
のほかの詩篇にも見い出すことができる。 識は、こ
至柔反
堅柔に至らば反りて堅を
す 安可恆
安くんぞ恆なるべけん(「酬韓質舟行阻凍」卷五)
至損當受
損に至らば當に
を受くべく
必生
に しめば必ず
(「登高 を生ぜん 洛
作」卷七)
「理」の
相(土谷)
215
「柔」は「堅」に、「損」は「
ることなく流動し、一方が常にもう一方へ轉倒することを 」にと、いずれもが固定す
べているのが
固定されず流動する可能性を含んだ價値の對立を正しく められる。
識する方法として、韋應物は「理」を提
「答令狐侍 するのである。
と「非」とが相互に容易に轉倒してしまうことを 」詩に、「一是復た一非」というように、「是」
「誰か能く斯の理を べた後、
れん、亮に其の
うように、是と非との轉倒は を識るに在り」とい 大事なことは、その「理」を踏まえて「 れられない理なのであって、
することにあることを 」(本質)を識別 いることと同時に、理によって對立の根底にある本質を の有り樣が、固定されたものから流動するものへと變質して とする自覺は、陶淵明と比較してみると、「是非」そのもの このように、轉倒する價値の對立を理によって捕捉しよう べるのである。
識しようとする態度においても、價値對立を
わろうとしなかった陶淵明と けてあえて關
擔保としていたのであったが、應物の場合は、理によって價 さらにこういった價値對立の議論は、淵明の場合、飮酒を ある。 にするものと看てとれるので 値對象を捕捉するようになり、いわば理知
克 に價値の對立を する方法を見い出すことによって、「飮酒」をもはや必 このように、是非の對立が理知 としなくなっているのである。
れていることから、さきに見た「郡齋雨中與 に解決される方法が拓か
では、飮酒も 文士燕集」詩 理もそれそれが詩中で話柄の一部として
れているのであり、さらにまた「答令狐侍 か ように、もはや飮酒の行爲そのものを必 」詩にみられる ると理解できよう。 としなくなってい いま、韋應物に見られる「理」を見てきたが、陶淵明における「理」とはどのようなものであったのか。「雜詩」十二首(卷四)から「代
本非 」を見てみる。(其八)
雜詩(其八)代 本非
代
は本より
みに非ず 業在田桑業とする
躬親未曾替躬親ら未だ曾て替らざるに みみずか は田桑に在り 餒常糟糠
餒常に糟糠(粗 かんだい
豈期 たり) 滿腹豈に期せん滿腹を
ぐるを 中國詩文論叢第二十一集
216
但願 粳糧但だ願う粳糧に
御 き
足大布
を御ぐに大布足り ふせ
以應陽
そ ち 以て陽 なつに應ぜんことを正爾不能得正に爾 しかることを得る能わず哀哉亦可傷哀しい哉亦た傷むべし人皆盡
宜人皆な盡く宜しきを
且爲陶一觴且く爲に一觴を陶しまん しばらたの 理や理也可奈何奈何すべき 拙生失其方拙生其の方を失う みち るも
淵明は、
さと るが、そのような淵明自身の窮 えに耐えかねて悲の聲を漏らすのであ
は對比
に 皆盡く宜しきを かれる。「人
「宜しきをうように、 るも、拙生其の方を失う」とい(第六聯)
」た他 と「(榮
の)方(方
失った」自己の立場を對比 )を に示すことによって、他
る。「失」の側に身を置く淵明は、結果を測りがたい利 己とが「得失」という對立に置かれていることを明らかにす と自 というように、「理」を人(第七聯) 失にあって、「理や奈何すべき、且く爲に一觴を陶しまん」 得 ることもできないものと に超越した、奈何とす いかん
め、かくして「理」に訴えること をあきらめ、代わりに飮酒に
ういった對立を といった價値對立を「理」によって解決しようとはぜず、そ ろうとするのである。「得失」
詩に見たものと同じであることが確 ないこのような淵明の態度は、すでに「挽歌詩」や「飮酒」 にして、飮酒を擔保として關與しようとし
このような陶淵明の できよう。
と對照
な
「九日上作寄崔 が韋應物に見られる。
倬二季端繋」詩を見てみる。(卷二)
九日上作寄崔
淒淒感時 倬二季端繋
淒淒として時
に感じ 臨 として
に臨む 嶺明 秋
嶺 川 高天澄遙滓高天遙滓澄む 秋明るく 流愈
川
くして流れ愈いよ
林 霜交物初委霜交りて物初めて委つ お く 索已空林
晨禽飆 索として已に空しく
!
晨禽飆をえて
時 !つ
"乃盈泛時
"
乃ち泛に盈ち濁醪自爲美濁醪自ら美と爲す良
#雖可
$
良
#
$むべしと雖も
「理」の
%相(土谷)
217
殷念在之子殷念するは之の子に在り人生不自省人生まれて自ら省みざれば營欲無 已營と欲と
孰能同一 に已むこと無からん
孰か能く同に一
陶然冥斯理陶然として斯の理を冥らん さと し
水のほとり、時
の變 を目の當たりにし、悲愁の
季 る
にあってその感
をべる。このような感
が、詩中に散見される「時 を支えるの を襲う措辭であり、さらにまた「一 」や「濁醪」といった、陶淵明 ように、陶淵明の色 」や「陶然」と見える く同に一 が濃く窺えるところにある。「孰か能 が不可缺であることにおいても、陶淵明の影 「理」るように、を見つめることに當って、飮酒という行爲 し、陶然として斯の理を冥らん」(第八聯)とあ さと
その「理」をもって積極 というように、ん」「理」を捕捉可能の對象としてとらえ、 らうとしなかった一方で、韋應物は「陶然として斯の理を冥 さと 爲に一觴を陶しまん」と、飮酒を擔保として「理」に關わろ たの ことが分かる。しかしながら淵明が「理や奈何すべき、且く を受けている ことが に「營欲」を解こうと努めている
められる。 ここでは特に、「陶」字の使われ方が淵明と
なることに
意されよう。ここでの「陶」は、兩
は一線を畫そうとする立場が の行爲に陶醉・酩酊を結び付け、その分、理と關わる態度と ある。陶淵明の場合、「一觴を陶しむ」というように、飮酒 「陶然」の意であり、對象に向かって正の意味を持つもので いずれも「陶醉」
場合は、「同に一 く示される。一方、韋應物の を たる心境のもとに「理を知りたい」というように、「陶然」 」することによってもたらされる「陶然」
機としてさらに、「理」を積極
度が示されているのである。陶淵明の影 に捕捉しようとする態 韋應物の影 「理」に對するこのような變容が見られることは、陶淵明と を受けながら、
關係を考察するにあたって、見
きない點であると考えれられる。 ごすことので
相對する價値に對して、陶淵明と韋應物の兩
の中で儼然として固定された、いわば否定しがたい てきた。陶淵明にあっては、對立する價値そのものは、世俗 について見 知しない態度を取るという、いわば として示され、それに對しては、飮酒の行爲を擔保として關 念 極
た。しかし、韋應物にあっては、對立するかに見える價値は な抵抗でしかなかっ 中國詩文論叢第二十一集
218
常に轉倒する可能性を帶びた、流動
その「理」を踏まえて對象の うな價値對立に對しては、對立の根底に潛む「理」を捕捉し、 なものであり、そのよ わば理知 識を深めることによって、い の對立に、もはや背を向けようとはしていないのである。 は「理」によって乘り越えられており、世俗を支配する價値 に對處しようとする。そこでは、「飮酒」の擔保
三 白居易
ところで白居易には陶淵明の詩に倣う「效陶潛體詩」十六首(卷五)がある。淵明の生きざまへの思
飮酒による酩酊がもたらす にもとづき、
憂や快樂といった感覺を
にして、飮酒の快樂が 旋律 詩では、飮酒という行爲を提として に貫かれている。陶淵明「飮酒」
理 價値の對立について言 れることを見てきたが、白居易のものにも、陶淵明と同樣に、 言辭が持ち出さ しているところがある。
一
發好容一
再 好容發し
開愁眉再
愁眉開く 四五
四五
酣暢入四肢酣暢四肢に入る 忽然
我物忽然として我と物とを
誰復分是非誰か復た是と非とを分たん(其四) れ
一杯復兩杯一杯復た兩杯多不
三四多きも三四を
便得心中 ぎず
便ち心中の
盡 を得れば
身外事盡く
更復 る身外の事 一杯更に復た一杯を
陶然 いれば
萬累陶然として
累を る(其五)
歸來五柳下歸り來る五柳の下
以酒 眞
た酒を以て眞を
人 う
榮與利人
擺 榮と利と
如泥塵擺
して泥塵の如し(其十二)
彼憂而此樂彼(屈
)憂にして此れ(劉伶)樂なり 理甚分明
勿思身後名身後の名を思うこと勿れ(其十三) 願君且飮酒願くは君且く飮酒せん 理は甚だ分明たり
「理」の
相(土谷)
219
貴賤與貧富貴賤と貧富と高下雖有殊高下殊なる有りと雖も憂樂與利
憂樂と利
是以 彼此不相踰彼此相い踰えず と 人觀是を以て
人
萬 ず
同一
同一の
但未知生死但だ未だ生死を知らず なりと 負兩何如
且以酒爲 遲疑未知遲疑未だ知らざるのに 負兩つながら何如
且く酒を以て
と爲さん(其十五)
其十二「歸り來る五柳の下、
た酒を以て眞を
榮と利と、擺 う、人 にこだわらない境地を、己れのものにしたいと願 このような、陶淵明に向かうまなざしから、白居易は、名利 「榮利」が「泥塵」と同じ、無價値なものとなることをいう。 のひとこまである。飮酒による保身を肯定し、飮酒によって して泥塵の如し」は、白居易が見た陶淵明像
ことが、まず していた その陶淵明は名利が死後には無價値となることを繰り められる。
て言う一方、白居易も、其十三では故事を引きながら、名利 し の無價値を言う。野に下りながら「憂」「樂」を
を である劉伶の生きざまを喩えとして、白居易は、飮酒の快樂 の士人、すなわち憂國の忠臣である屈原と、竹林七賢の一人 てた二人 對 に肯定する側に身を置く。ここでいう「
優位性を示すと同時に、飮酒によってもたらされる快樂が 「願くは君且く飮酒せん」と、「憂樂」の對立において飮酒の 理」は、
對是であることを示すものとして
ところで白居易は、陶淵明と同じように、飮酒の優位性を 意されよう。
提にして、世俗に
對 自己の飮酒という行爲によって相對 に存在する價値對立そのものを、
明との差 よく檢討してみると、價値對立への關わり方において、陶淵 する。しかしながら、
まず、陶淵明は、「生」と「死」の境界を重 が見られるのである。
て「是非」「得失」「榮辱」といった樣々な價値對立を、生 する。そし
にのみ固有の桎梏として「生」の世界に歸屬させ、死後には、あらゆる價値の對立はいずれも何ら意味を持たないものとする。第二
一方、白居易は、自己の「 「挽歌詩」などに明らかであった。
」と「外」との境界を重
る。そして價値對立を、自己の外 す 四には「忽然として我と物とを 、、 に押しやるのである。其
れ、誰か復た是と非とを分 、、 中國詩文論叢第二十一集
220
たん」というように、飮酒によって「物と我」が
散した
長には、また「是と非」といった對立も分別されないことをいうのである。ここでは、「物」と「我」の對立を言うところから、自己の「外
」と「
」の對立への自覺が
れよう。さらにまた其五にも繰り めら して「便ち心中の 、、
れば、盡くる身外の事」というように、自己の 、、 を得 (「心
中」)と外
(「身外」
)が示されているのである。「心中」には「
を得」た一方で、「身外」には、その
れる、を盡くということになる。飮酒によって、 からも明らかなように、「榮利」「是非」といった世俗の係累 容が其四など
「 は
」に滿たされ、外
として、 は價値對立が、ここでは却の對象 自己の外 て置かれていると看做せよう。
ものを直 に價値對立を置くことはまた、價値の對立その し 識する て屈原と劉伶の二 機となる。其十三では、故事によっ を比較し、「憂樂」の差
五では、「南巷の貴人」「北里の を示す。其十 士」「東
の富
貧 」「西舍の
によって、「貴賤」「貧富」のそれぞれに差 」といった、人物の屬性と實際の價値とが轉倒する比喩
を明確に示し、「憂樂」「利 が存在すること
」の實相を正確に
する。ここでは故事や比喩といった、現實を寫し出す鏡面を 識しようと 用いることによって、價値對立をそれとしてまず自己の外
に置き、そうしてそれら價値對立の實相や本質を
價値は生 とするのである。陶淵明に見られたような、死後に無意味な 識しよう を知らず、 がたく儼然として存在する。其十五にはまた「但だ未だ生死 己そのものが立脚する「生」と「死」の對立は、奈何ともし しかしながら、こうした白居易の方法をもってしても、自 はもはや見られない。 にあっても無意味であるといった論法は、ここに
は乘り越えることができない。「且く酒を以て 負兩つながら何如」というように、生死の對立
といい、飮酒の と爲さん」
對 まず な快樂を擔保とし、生死の問題をひと 非」などの價値の對立を、飮酒の行爲を擔保として 上げにするしかないのである。陶淵明は、「榮辱」「是
た一方で、白居易は、それら價値の對立を自己の外 上げし
「生死」の對立に行き て乘り越えてみせたものの、しかしその對立の根本にある に置い 一觴を陶しまん」ということから明らかであったように、 「雜詩」陶淵明においては、に「理や奈何すべき、且く爲に 「理」はどのようなものなのか。それでは白居易において、 る快樂を求めたのである。 くときになってはじめて、飮酒によ
「理」の
相(土谷)
221
「理」は、世俗を支配している原理であると理解できよう。淵明は「理」に訴えるのをあきらめることによって、對立する價値を
いては、「九日上作寄崔 けてあえて關わろうとはしなかった。韋應物にお
に一 倬二季端繋」詩に「孰か能く同 かであったように、「理」は、己れと共有できる、 し、陶然として斯の理を冥らん」ということから明ら
根本原理として 續した このように、うとしたのであった。「理」そのものが 「理」によって、對立する價値の根底にある本質を捕捉しよ 識されるものである。應物は、そういった
する、その方法に 對象であると同時に、「理」をもって價値對立に當たろうと 識の ち これに對して白居易は、「理」に自分の得する解釋を持 いが見られたのである。
て此れ樂なり、 み、「理」を自分の味方に付ける。其十三に「彼憂にし
二つの相 典型とする他事の憂煩と、劉伶を典型とする飮酒の快樂の、 理は甚だ分明たり」というように、屈原を を、「
信に獨善たり、
志竟に何をか
や」(第五聯)というように、「 さん その 濟」と相對する「獨善」を 理に据えて、飮酒の快樂を
酒を肯定する便法としての「理」の 對肯定するのである。飮
飮酒の行爲が展開されていると理解できよう。 識と活用を基地として、 白居易において、飮酒が直接
に作用するのは、
境地を呼び 然たる むことにあった。自己の
に「自
とき、價値對立が自己の外 」を得た に である。陶淵明においては、飮酒を て置かれるのであったわけ 應物においては、飮酒に直接 い價値對立に、淵明は超克するすべを見いだせなかった。韋 り越えようと試みた。しかしながら堅固として乘り越えがた 提として價値對立を乘
を には依らずに、「理」の捕捉 超克において、「理」を捕捉することがその武 提とすることによって乘り越えられていた。價値對立の
陶淵明とは明らかに相 値を超克しようとすることにおいて、それを果たせなかった なるのであった。このように見てみると、白居易は、對立價 のひとつと する點が
するのに對し、白居易に至っては、「理」をもはや必 では、その超克する方法において、韋應物が「理」をもって められのであるが、ここ
せず、自己に とは 在する「
」によっていることが
う。そしてそれは、韋應物が「理の會すれば是非は 意されよ 端 いったところにあるように、「是非」の價値對立において、 り」と 立は「 に現れているのである。白居易において、「是非」の對
」によって、
のように乘り越えられている。 中國詩文論叢第二十一集
222
身 、 四支身
すれば四支を
心 れ
、 是非心 、、
すれば是非を
る 又 、 、
に たるに又た
を 不知吾是誰知らず吾是れ誰なるかを(卷六「隱几」) れ 彼此各自 、
、
彼此各おの自ら
不知誰是非知らず誰か是非なるを(卷八「晏 、、 すれば
」)
樂雖不同樂しむ
同歸 同じからざると雖も 其宜同に歸りて其の宜しきに 、
(卷二九「詠 與非況論是況や是と非とを論ぜんや 、、 不以彼易此彼を以て此を易えず す 樂」)
足
已 、 履足
すれば已に履を
身 れ
已 、 衣身
すれば已に衣を
況我心又 る
、
況や我が心又た
するをや 是與非 、、
ねて是と非とを
三 る
今爲一三 、
怡怡復熙熙怡怡として復た熙熙たり 今一と爲る (卷二九「三
友」)
また一方「閑」についても、
のように見られる。
身外無羈束身外羈束無く心中少是 、非 、心中是非少なし(卷二五「
出」) 、 是 、非 、愛惡銷停盡是非愛惡銷停すること盡く唯寄空身在世
唯だ空身を寄せて世
(卷三七「 に在り 居」) 、
「閑
」は、白居易が指向する意境のひとつである。「
が自己の 」
の外 に求める自足であれば、一方で「閑」は、自己 に求める
安ということであろう (
越えていこうとするとき、こういった自己に求める「閑 。價値の對立を乘り )
の意境によって、現世の桎梏を超克していくことになる ( 」 居易はまた、より「閑」に、そしてより「 かしながら唯一超克しえない「生死」の對立においては、白 。し )
解決をはかろうとした、それが 」となることで 年の閑
詩に 作につながったといえるのではないだろうか ( する詩の多
。 )
「理」の
相(土谷)
223
五 結語
「是非」を中心とした對立する價値の超克を、「理」をめぐるそれぞれの詩人の態度に
價値對立の超克を「飮酒」「理」「 目しつつ考察した。ここでは、
價値對立に向かおうとするとき、飮酒がひとつの 」からまとめる。
る。陶淵明においては、價値對立の 機とな 對 爲によって相對 存在を、飮酒の行 世俗を支配する對立價値それ自體が、いわば て、對立する價値を無效にさせてしまうのである。そもそも し、さらに飮酒の優位性を示すことによっ
はなく、むしろ淵明はそれに關與することを回 固定したものとして存在していたものであり、抵抗するので 念として、
に至って影を潛める。飮酒によらず、「理」を 價値對立を無效にする方法としての飮酒の行爲は、韋應物 る。 したのであ げ、己れに 續するものとして價値對立を捉えようとするように、變
が見られるのである。價値の對立は流動
たいものであるからこそ、そこに であり、把握しが
「理」による價値對立の超克は白居易に至って、自己に たと考えられよう。 底する根本原理を見据え
在する「
」に取って替わられた。自己の
には自足自
の境地を
き、價値對立を自己の外
いて飮酒は自 に押しやる。ここにお
の念が促される
機のひとつにしか
「閑 なる。「生死」の根本對立にむかうとき、白居易はなおも ぎなく う。 」によって乘り越えようとするのであると考えられよ
(
(1)陶淵明および白居易の詩歌にみられる 釋)
論は 理性についての先 の のポイント―詩 りである。松浦友久「陶淵明理解のためにひとつ 理」(『六
學 九)、また、松浦友久「白居易における陶淵明―詩 學會報』第一集、一九九
一九八六、一九八七)。本稿でいう詩 の繼承を中心に―」(上、下)(『中國詩文論叢』第五、六集、 理性 の 理、あるいは詩歌 らに、價値對立という 理性は、これら先論を踏まえるものである。本稿ではさ
點から、陶淵明から影
た白居易に影 を受け、ま なお、底本として、陶淵明については、陶 を與えた韋應物を、あらたに加えて考察する。
『陶 集』、韋應物については、陶 先生 ・王友
『韋應物集校
』(上 古 易集』を用い、 出版、一九九八)、白居易については、學頡『白居
(2)陶淵明には、本稿で言 宜校勘を付したところがある。
!する「得失」「是非」「榮辱」のほ 中國詩文論叢第二十一集
224
かに、「貞脆」「
」(いずれも「榮木」卷一)、および「
「 」
」(「 不 、 至、
影 亦易來」、「命子」卷一)、「善惡」(「形 、
「形影 」卷二、また「飮酒」卷三)「老少」「賢愚」(いずれも 」卷二)、「窮
」(「 士」卷四)、「衰榮」「窮 和張常侍」卷二、また「詠貧
(「雜詩」卷四)「貧富」(「詠貧士」卷四)、「 」(いずれも「飮酒」卷三)、「衰」
負」(「讀山
經」卷四)、「美惡」(「感士不
ほかにも、が見られる。「形影 「是非」については、「覺今是而昨非」(「歸去來兮辭」卷五) 賦」卷五)、が見られ、また
(3)飮酒による相對 不營營以惜生、斯甚惑焉」とある。 」の序文に「貴賤賢愚、莫 、、、、
陶淵明―詩 については、松浦友久「白居易における
(『陶非牽障語、第乘謔云耳」 合である。本詩に王世貞が「云『但恨在世時、飮酒不得足』 (4)これは、飮酒の行爲から價値の對立との關わりからみた場 叢』第五、一九八六)に見える。 理性の繼承を中心に―」(上)(『中國詩文論
王世貞)と 先生集』卷四「挽歌詩」引
(5)王世貞「陶 「韜晦」ということになろう。 世に立って見れば、飮酒という行爲は「諧謔」、さらには するように、價値對立が儼然として存在する現 士自祭預挽、超
人累」(
また陶淵明は、「身 書)とある。
名亦盡、念之五
熱」(「形影
「吁嗟身後名、於我 」卷二)、 」(「怨詩楚
示
治中」卷二)、 ように、生 「去去百年外、身名同翳如」(「和劉柴桑」卷二)などという
ものが死後、なんら意味を持たないことを繰り の立場にあっても、現世の名聲・名といった
(6)なお、 !し言う。
"(2)に
(「形影「老少同一死、賢愚無復數」 #げたもののうち、「老少」「賢愚」は
死を 」卷二)というように、
にしてはぞれぞれに差
榮は「 は「衰榮無定在、彼此更共之」(「飮酒」卷三)、また「衰」 $がないことをいい、「衰榮」
「窮 いずれも本來は定まった形をもつものではないことをいい、 %&久居、衰不可量」(「雜詩」卷四)というように、
」は「
不委窮
、素 榮」「窮 うように、否定されるべきものとして示される。さらに「衰 '深可惜」(「飮酒」卷三)とい 」は、その詩題から明らかなように、飮酒と關
(
するものである。(7)韋應物詩に見える價値對立は、「是非」のほかにも、「貞脆」(「擬古詩」卷一)、「工拙」(「秋集罷
)*中作
卷二)、「 +獻壽春公黎公」 識」と「昧機」(「寄柳州韓司
答庫部韓(「 ,中」卷三)「榮辱」
(8)陶淵明と韋應物の飮酒については、赤井 ,中」卷五)がある。
備部四)9( 』、一九九四)。誌雜學院『國」(居』閑應物に見る『 -久「白居易と韋 .本『韋江州集』は「
( /」に作る。
10)白居易の閑
る『 0の意味については、松浦友久「白居易におけ 0』の意味」(『中國詩文論叢』第十一集、一九九二)、
「理」の
1相(土谷) 225
また、埋田重夫「白居易の閑
の―」『白居易 詩―詩人に復元力を與えるも 究
( 座』第二卷、一九九三)。
11)白居易の閑
詩における
浦友久「白居易における陶淵明―詩 理性については、松浦友久「松
( (下)(『中國詩文論叢』六集、一九八七)。 理性の繼承を中心に―」
12)白居易の
年における閑
詩の多作については、
論文參照。 埋田 中國詩文論叢第二十一集
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