慶州南 山塔谷磨崖塔 についての建築的研究 箱 崎 和 久
1.研
究 の 背 景―問題 の所在 ―
2.磨
達塔 の意匠―概要 と観察成果 ―
3.磨
崖塔 の分 析一 日本 の木塔 との比較 ―
4.磨
崖塔 の特徴一七重塔・九重塔復元の可能性 ―
5.磨
崖塔 の評価一共 同研究 にむけて 一
要
旨
日本 には、古代 (ここでは7〜 9世 紀
)の
木造の三重塔や五重塔 が比較 的多 く残 っている。しか し東アジアを見わた して も木造の七重塔や九重塔は現存 しない。 したがって文献や発掘成果にあ ら われる木造の七重塔や九重塔の意匠を具体的に知るには、建築遺構 だけでな く、絵画資料・彫刻・石塔 などにみえる七重塔や九重塔 の造形 を検討する必要がある。韓国慶州南山の塔谷第 2寺址 には、巨岩の 北面に七重塔 と九重塔の浮 き彫 り(磨崖塔
)が
施 されている。その意匠を検討す るとともに、塔身や軒 の逓減率、相輪の規模 などについて数値的な升報 をおこなって磨崖塔の特徴 を抽出 し、 日本古代の木造 塔 と比較 した。その結果、相輪部分が精緻 なこと、軒先ラインが上下に連続 して彫 られていることなど か ら、塔の造形 は全体 のプロポー シ ョンと細部に凝縮 されていると考えられる。九重塔の相輪頂部は、経lR熙氏が指摘 したように追刻があると考えられるが、 日本の木塔 と通 じる部分 も多い。軒先の風招の 形状か ら日本の年代観では8世 紀初頭 までの造形 と考えられる。塔身や軒の逓減率、軒の出、積み上げ 高 さなどの分析か ら、磨崖塔 は巨大 な平面 をもつ塔の意匠を伝えている可能性が大 きい。 この意匠は日 本に現存する三重碁や五重塔 の層数 を増や して積み上げる方法では得 られない。以上の分析か らみて、
この磨崖塔は失われた七重塔や九重塔の意匠を知る建築資料 として第一級の価値 をもつ と考えられる。
キーワー ド
慶 州
南 山
塔 谷
磨崖塔
九重塔
七重塔
相 輪
奈 良文化財研 究所
都 城発掘 調査部
う25
研 究 の背景 一問題の所在 ―
よ く知 られているように、木造の仏塔 は、東アジアのなかで とりわけ 日本 に数多 く残 っ ている。いずれ も三重塔や五重塔、多宝塔 であ り、屋根 を近接 させる塔 (権塔
)で
ない形式 の塔 (多重塔)と しては、本造の七重塔や九重塔 は現存 しない1。 中国 。韓国にも純粋 な木造 の塔 はほ とん どな く、中国山西省の応県木塔が、初重 に裳階 をもつ巨大な人角五重塔 とし て、特異 な形式 を残 しているにす ぎない。 日本 に現存す る三重塔や五重塔 は、後世 になる と中心の心柱 を礎石 (心礎)上
に立てず に、初重天丼上 に立てる例があるものの、ほぼ間違 いな く方 3間 の平面で、中心 に心柱 を立て、四天柱4本
と、側柱12本か らなる形式であ る。いっぽう文献 をみると、中国・北魏の永寧寺九重塔 (516年寺創建)、 韓回 。新羅の皇龍寺
九重塔 (645年完成)、 日本・百済大寺九重塔 (639年寺発願
)な
ど、中国が先行す る ものの、新羅や 日本ではほぼ同時に木造の九重塔が建 て られた ことがわかる。その後 も少な くとも 日本では、大官大寺九重碁、大安寺七重塔、東大寺七重塔 など、7〜8世紀 にかけては、五 重塔以上の高塔があいついで建設 されたことがみえる。
また発掘調査で高塔の追跡が検出された例 に、永寧寺九重塔跡 (基壇一辺382m、 台桝建築)、
皇龍寺九重塔跡 (方7間、基壇一辺約
32m)が
礎石 を含む明確 な形態で発見 されてお り、日本 の大官大寺九重塔跡 (方5間、四天柱なし、完成直前に焼失)、 大安寺西塔跡 (=七 重塔、方3間、 基壇一辺約
21m)も
遺存状態が よい。 また基壇規模が判明す るものの、柱位置が不明確 な も のに百済・弥勒寺木塔跡 (=九重塔?、 基壇一辺185m)、 日本 。東大寺西塔跡 (=七 重塔、基壇 一辺238m)が
ある。 日本・百済大寺跡 は、所在が不明だったが、1997年か ら5ケ年にわたる 発掘調査であ きらかになった吉備池廃寺 に比定で きる。塔跡 は柱位置が不明だが、基壇一 辺が32mと
推定 される。中国 。河北省臨淳県で2002年 に発見 された東魏北斉期 (6世紀)の
塔跡は、地下式心礎 をもち、方 5間 と推定 され、基壇一辺は約30mと考えられる。なお、 こ の塔跡は中国で初めて発見 された地下式心礎 をもつ例である。この ように平面が巨大だった り、五重碁 よ りも高い木造の塔 に関 しては、遺跡で発 見 さ れる塔跡 の柱配置が、 日本 に現存す る三重塔や五重塔 と異 なる場合 もあることか ら、 その 構造や意匠 (外観
)が
いかなるものか、検討する類例がないというのが実態である。ところで、古代の本造の七重塔や九重塔 の意匠を知るための素材 には、① 塔が描か れた 絵画資料 (壁画を含む
)や
、② 具象的な彫像資料 (明器や石窟寺院を含む)、 ③ 石塔、 といつ た、直接、塔の造形 をかたちづ くる もののほかに、④ 日本に現存する三重碁や五重塔 な ど か ら、 さらに積み上げて七重塔や九重塔 を想定する方法 などがあるだろう。① o②の場合、実際の建築でないために、デフォルメされ る部分 もあ り、建築的に同視点で とらえ られな い ものや、あるいはどこまで建築的 な視点で とらえていいか悩む もの もある。③ は木造 を
326
慶州南山塔谷磨崖塔についての建築的研究
模 した造形 も見 られ、参考 にすべ き部分 も多いが、石塔独特のデザ インソースや構造的特 質が どのあた りか、十分 な検討が必要だろう。④ は もっ とも妥当性が大 きいように見 える が、先述の ように、平面が大 きかった り柱配置が違 った りする場合 に、単純に積み上げた り、平面の比例 に もとづいて各部 を拡大 した りす ることはで きない と考えられる。この点 について、筆者 は東大寺七重塔の復元にあた り考祭 したことがある2。 したがって、七重塔 や九重塔 の意匠 を考 える場合、建築的にあるてい ど妥 当性 を認め られる資料 について分析 してみることが最 も近道だろう。
韓国慶州南 山に残 る塔谷第2寺 址 には、その北壁 に仏像、天女、獅子などのほか九重塔 と 七重塔 を浮 き彫 りに している。七重塔や九重塔 は木造塔 の意匠を写 した もの と考えられ、
とりわけ九重塔 は皇龍寺九重塔 を模 した可能性 も指摘 されている。9世紀の作 と見 られ、 日 本のみな らず東 アジアにも現存 しない、古代 (ここでは7〜 9世紀とする
)の
七重塔や九重塔 の意匠を伝 えている可能性がある。この塔の浮 き彫 り(以下、磨崖塔とよぶ
)に
関 しては、F慶州南山の佛蹟』で小場恒吉氏が 1940年に紹介 して以来 (第1図)、 F慶州 南 山 塔谷・l四
方佛巖』(199o年)で
拓本が示 され、また F慶州南 山 °
l佛
教遺蹟 Ⅲ』(1998年)で
図を掲 げてお り(第2図)、 『慶州南山』(2002年)で も紹介 している3が、建築史的な観点か らと りあげた ものはほ とん どない と思 う。2004年 に桂瑕熙氏 は相輪部分の改変 を指摘 し、北壁全体の造像 についての解釈 を試みているコが、
第1図
小場恒吉氏 による磨 崖塔 のスケ ッチ
(註3『廃州商山の佛蹟』図版第83)
第 2図
『慶州南山皇1佛教遺蹟 Ⅲ』掲載図面
(註3、 120頁)
塔 の形態的な視点で さらに検討す る余地がある。本稿 では上記の ような視点 に基づ き、 こ の塔谷磨崖塔 (七重塔・九重塔
)に
ついて、建築史的な側面か ら検討す ることを目的 とする。まず磨崖塔 自体の概要 と観察成果 について述べ、つづ いて磨崖塔の塔 身、軒の出、積み上 げ高な どについて数値的な分析 をお こない、 日本 に現存す る木造塔 と比較検討する。その 上で、磨崖塔の特徴 と七重塔・九重塔復元への可能性 について述べてみたい。
なお、本稿 のための調査旅行 を2006年11月 にお こなった際、磨崖塔 を写真測量 によって 実測 し図面化 しようと考 えていたが、諸 々の事情 によ り実現 しなか った。以下 にお こなう ような分析では、実物 か らの実測や正確 な実測図を根本資料 とすることが不可欠だが、前 掲の先行研究では十分 な図がで きていない。近い将来、精密 な図が完成することを祈願 し て、本稿 はそのための予備研究 ととらえていただければ幸いである。
2.磨 崖塔の意匠 ―概要と観察成果―
北面 の様相
磨 崖碁 は、北 面 す る壁 面 (幅6m、 高さ10mほど
)の
むか って左側 (東方)に
九 重塔 を、右側 (西方)に
七 重塔 を刻 み込 んでいる。2塔の あいだ には天蓋 を備 えた座像 を線 刻 し、 また2塔の下方 には獅 子 が相対 す る (第3図、以下の写真はいずれも筆者撮影)。 九重塔 上部には飛天2体
が右方 (西)を
むいて彫 り込まれているが、九重塔の頂部が飛天の胸部を 一部破壊 している。第 3図
塔谷第 2寺llL北壁の全景
328
慶州南 山塔谷磨崖塔 についての建築的研究
九重塔
九重塔 は二重基壇上 に 反 りの ない屋根 を重 ね、軒先 に は風鐸 を造 り出す (第4図)。 各 重塔 身 は
2区
に分 け、扉状 の柱 間装置 を彫 り出 している。九重 の屋根上 には精緻 な相輪 を造 り 出す。九重塔 には、左 下 と右端 部分 に垂直方 向の深 い割 れが入 つてお り、塔 の右端部がその影 響 を受 けてい る。 ただ し、割れ 日付近 に も軒先 や基壇縁 を彫 り 出 した形跡が認 め られ ることか ら、 この割れ は当初か ら存在 し た もので、 あ るいはこの割 れ を 基準 として崖面 にお ける九重塔 の配置が決 め られたのか もしれ ない。右軒 に刻 まれた風鐸がや や風蝕が激 しいのは、割れに添 って雨水が伝 うためだろ う。右 軒で割 れの影響 を受 けていない第 4図
磨崖九重塔全景
第 5図
軒先 ラインの連続性 第 6図
法隆寺金堂の二重基壇
329
のは上部の七重〜九重で、左端のような上下の軒先 を連続 させ る彫 り込みを確認できる (第
5図)。 造形は左端 と大 きな違いはな く、割れによる九重塔の理解 には大 きな支障がない と考 えられる。
平滑 な崖面 を選んで、あるいは平滑 に したのちに磨崖塔 を刻 んでいるが、左端で明瞭な ように、軒先お よび風鐸 をつ な ぐライ ンは上下 に直線的に連続す るため、おおむね外形 を 彫 り出 してか ら、内部 を刻 んでいるようだ。 したがって作者の意図は、全体 のプロポー シ
ョンと細部に凝縮 されていると理解で きる。
つづいて細部 を見てみ よう。基壇 は二重基壇で下成基壇 を初重の軒 よ りも小 さく納め、
高 さは下成基壇 を上成基壇 よ りも若干高 くする。 これを日本の法隆寺金堂や五重塔 に現存 す る二重基壇 (第6図
)と
比較す ると、初重の軒 よりも下成基壇幅 を小 さ くする点は共通す るものの、上成基壇 を高 くす る法隆寺の二重基壇 とは異 なる。塔 身は各重 とも上方で幅 を 狭めてお り、絵画あるいは線刻で安定感 をもたせ るための表現か もしれないが、側柱 を内 方に倒す内転 びの技法 を表 した可能性 を視野 に入れてお きたい。基壇 の立 ち上が りはわず かに傾 きがあるようだが、塔身ほど垂直線の傾斜はないか らである。各重塔身は内部を2区 に分け、それぞれの中心部 に垂直線が入 り、扉状の表現 をとるが、何 を表 した ものか明確 でない。屋根 は九重の屋根 を除けば各重ほぼ同 じ表現で、軒先 を厚 くし先端 に風鐸 を吊っている。
九重の屋根は上下2段に造 り、軒先 に他の層のような厚みがな く先端部 をとが らせ るが、 こ れが何 を表現 した ものか明確でない。各重軒先 に吊 られた風招 は、なで肩で反 りをもたず、
下縁 を連孤状 につ くる形態で (第7図)、 日本奈良・ 山田寺 出土品 (第8図
)に
類例がある。日本にも類例 は少ないが、 日本の年代観では8世紀初頭 までの形態 と考 え られる。
相輪部 (第9図
)は
、現存す る 日本の木塔 とおおむね同 じ構成 をとり、その大 きさや各部 の間隔、 プロポー シ ョンも現存木塔 とよく似ている。先端の宝珠 は頂部 を擬宝珠状に若千 とが らせ、その下 にほぼ同径 の竜車 を連ねる。水煙 は中心 に球形 を備 え、下辺部につぶれ第8図
日本 。奈 良 山田寺 出上の風招 (7世紀末、奈文研所蔵写真) 第 7図
磨崖九重塔二重左軒の風鐸・風招
慶州南山塔谷磨崖塔 についての建築 的研究
た二等辺三 角形 をつ くり、 その上方 にや や浅 く葱頭 形 を彫 り出す。水煙 頂部 と擦 管 との交差 部分 に も小 さな球形 を造 り出 してお り、水煙部分の構成 は特異 であ る。
これについては後に詳述 しよう。九輪 は、
宝輪 を少 な くとも9つ 以上重 ね てお り、
13輪だろ うか。下方の宝輪 を大 きくして 上下の間隔 も広 くし、上方 を小 さ くして 間隔 も狭 くする。上方 にい くにつれて明 瞭でな くなるものの、宝輪 には風鐸・風 招が下げ られてお り、最下部の宝輪 には 6つ が彫 り出 されていて、 きわめて精緻 な造形 となっている。九輸下 には、 日本 の木塔 で は請花 が くるが、 こ こで は 日 本・薬師寺東塔 にも見 える平頭 を置いて いる (第10図)。 これは韓国の石塔 に比較 的 よくみえるもので、平面四角の隅部分 に請花状 の花弁 をつ くる場合 もあるけれ ども、 ここでは上面に何 もつけず水平 に している5。 平頭下には優頭形の伏鉢 をお き、その下 に露盤を配するが、通常 の露 盤 の ような四角 の箱 を伏せ た形状 で な く、板状 の盤 をおいてその下 に四角の箱
を伏せてお り、 これ も薬師寺東塔 の露盤 第10図
日本・薬師寺東塔の平頭 と同形態 であ る。す なわち、露盤 か ら平頭 まで薬 師寺東塔 と同 じ構 成 で、 日本 に現 存 す る 塔 か らみ る と特異 な形態 とい え る。
七重塔
七 重塔 も二重基壇上 に建 ち、 反 りのない屋根 を重 ねて頂部 に相輪 をあげ るが 、 九 重塔 ほ ど状 態 が よ くない (第11図)。 崖 面 に凹凸が あ り、 また垂直方 向の割 れが塔 の 中央 下 部 か ら上 昇 し、五重付近 の水平 方 向 の割 れ と
T字
状 に交 差 してい る。 さ らに右 下 に は崖 面 の剥 落 に よる と考 え られ る垂直 方 向の段 差 が あ る。割 れが進行 した部分 はあ るか も しれ な いが、段 差 の上下 で塔 の線刻が連続 す るので、 これ らの割 れや段差 は製作段 階か ら存 在 し た らしい。 この ように、七重塔 の壁面 は九重塔 ほ ど好条件 ではない。細部に関しては、調査 した2006年11月 6日が曇だったこともあり、斜光を利用するな どの 第 9図
磨崖九重塔の相輪全景
第桐 図
磨崖七重塔全景
十分 な調査 をお こなうことがで きなか った。風蝕 な どに よって 線刻 の残存状況 も九重塔 ほ どよ くない。 この ため、前述 の各資 料 や論文 を参照 した。それに よ れ ば、基壇や塔 身、屋根 に関 し て は、最上層 の屋根が他 の層 と 同様、あ る程度の厚み を もって 彫 り出 されてお り、その点が九 重塔 と異 なる。 しか し、基壇 の 規模 や高 さ、塔 身 に内転 び状 の 表現 が あ る点、各重 の塔 身 を 2 区 に分 ける点、屋根 の軒先 に風 鐸 と風招 を下 げる点 な ど、九重 塔 と共通す る。相輪 の造形、 と りわけ水煙部分 は九重塔 ほ ど複 雑 で な く、上か ら宝珠・竜車 ・ 水煙 ・九輪 と 日本 に現存す る木 塔 に一 般 的 な構 成 とな る よ う だ。 ただ し九輸部分が9つの宝 輪 か らな るか どうかは明確 でな い。九輪下の造形 も明確 で ない が、少 な くとも請花状の花弁 に相当するものはなさそ うで、九重塔 と同様の平頭 と理解 し てよいだろう。伏鉢 と露盤に関 しては九重塔 と同 じと認識できた。
以上の ように、九重塔 と七重塔の造形 は、 と りわけ九重塔の相輪部が精緻であ り、相輪 の部材相互の大小関係 も適当で、 まった くの素人による制作ではないだろう。 また、崖面 に彫 られた造像の場合、下か らみるとつぶれた ように見 えることか ら、それを避けるため に垂直方向 を若干長 くつ くることもあるが、 この塔 の場合は、そのような技法を使ってい ない と思われる。す なわち、現在み られる塔の造形 は、造像当時に実際に立っていた塔の イメージをよく伝 えている可能性が大 きい。
相輪 に対 する考察
先述 の ように、九重塔 の相輪、 なかで も水煙以上の要素 に関 しては、
宝珠・竜車が飛天を貫いてお り、 また水煙の造形など不 自然 と感 じる部分がある (第12図)。
桂眠熙氏 もそれを指摘 し、氏 は水煙以上が追刻 と考 えている (第13図)。 その根拠 として、
Э32
慶州南 山塔谷磨崖塔 についての建築的研 究
第12図
磨崖九重塔相輪頂部
第 13図
樫眠熙氏 に よる当初 の 相輪頂部復元 図 (註4論文より、
大線が追刻以前の当初形態)
宝 珠 ・竜車が飛 天 を買 くこと、飛 天 の摩耗 が大 きい こ と、飛 天胸 部 の彫刻 を一部 利用 して 竜 車 上 部 の ライ ンが造 られ た と見 られ る こ と、水煙 の彫 り込みが他 の部分 よ り浅 い の は、
当初 部分 に追刻 したため と考 え られ る こ と、七重塔 は九重塔 の ような変更が ない こ と、 な どをあげた。 そ して九重塔 当初 の相輸 は水 煙 を もたない形態 であ り、七重塔 は九重塔 の相 輪 追刻 の際 な ど、九重搭 よ りも遅 く彫 られた可能性 が高 いこ とを示唆 したのである。
た しか に水煙 以上 の造形 に関 して は、桂 氏 の考 察で ほぼ説 明で き、氏 の観察力 の鋭 さ に 感服す る次第であ る。つ ま り、相輪頂部 は、九輪上 に二等辺三角形 の彫 り込み (①
)が
あ り、その上 にや や大 きな球形 (②)、 さ らにそ の上 に小形 の球形 (③ :獲 氏はこの部分も小 さく彫 り なおされた可能性があると述べている
)が
重 な る形状 となる。 この部分 を修正す るため に平 滑 面 を造ろうとす ると、 ここだけ凹んで しまうため、上記①〜③ をほぼ残 したまま、水煙 と 竜車・宝珠 を追刻 した、 と私 も考えたい。じつは日本にこれ と似た相輪頂部 をもつ現存遺構がある。奈良の室生寺五重塔である (第 14図)。 この相輪 は特異で、 日本で も室生寺五重塔以外 に例はないが、その類例や理解 に関 する考察はほとん どされたことがない と思 う。その詳細 は、九輪以下の露盤、伏鉢、請花、
九輪の構成は一般的だが、九輪上 に水煙がな く、その代わ りに蓮華座 を備えた宝瓶が乗 り、
その上 に平面八角で各隅に風鐸 を下げた宝蓋がつづ く。その上 には、竜車、宝珠 を重 ね る が、竜車・宝珠 にも蓮華座 を備 えている。 これ らは少 な くとも当初の材料でな く後の改修 によるようだが6、 形態は当初の状態 を保つ ものだろう。
その視点で磨崖九重塔の相輪頂部 を見 る と、上記①部分 は、桂氏 も想定す るとお り宝蓋
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333
と見てよい と思 う。その宝蓋下部に彫刻 ら しきものが見 えるのは、 あるいは風 鐸・風招ではなかろうか。その上部の②、
③ は通常の想定だとそれぞれ竜車、宝珠 だが、② に比べて③が小 さく、桂氏が想 定するように、③ は彫 り直 されて小 さく なったと考えたい。
3.磨 崖塔 の分析
一日本の本塔 との比較 ―
分析 の素材
つづ いて磨崖塔 の数値的な 分析 を試み よう。 第
1表
は磨崖塔 と日本 の主要 な木塔 について、塔 身の規模 (A)と軒の規模 (B)、 また上層 に上 るにつれ て どれだけ小 さ くなるか とい う近減率、
軒の出の大 きさ
(c)と
塔身に対する軒の出の割合 (c/A)を示 した ものである。 また第2表は磨崖塔 と日本古代の主要 な塔について、
初重平面規模
(a)と
、塔の総高 (b)、 お よび相輪の長 さ(c)を
比較 した ものである。 こ れ らのデー タの もととしたのは、磨崖塔 に関 しては『慶州 南山 塔谷̲61四方佛巖』所載の 拓本 とした (第15図)。 そのほか候補 とした ものには、『慶州南 山の佛蹟』所載の小場恒吉氏 によるスケ ッチ (第1図)、『慶州南山刺 佛教遺蹟 Ⅲ』所載の図面 (第2図)が
あるが、いず れ もその表現か ら見て、数値的な分析 に耐 え られる精度 を有 しているか どうか疑問だった ためである。ただ し、拓本 も九重塔初重右軒の風鐸が ない ことや七重塔が左 に傾いている な ど、計測 にやや不安 な面 も残す。冒頭で も述べ た ように、 この ような計測にも活用で き る正確 な実測図の作成が待たれる。いつぽう、 日本の木塔 に関するデータは、『日本建築史基礎資料集成
H塔
婆I』7掲載図面 を用 いた。分析 の対象 とした現存遺構 は、9世紀 までの法隆寺五重塔、海竜王寺五重小塔、元興寺五重小塔 、室生寺五重塔、法起寺三重塔、当麻寺東塔、同西塔のほか、10世紀 に降 る ものの、 日本・平安時代の塔の代表例である醍醐寺五重塔、1426年の再建だが創建は8世 紀 とな り、当初の平面形態 を残 している興福寺五重塔、同様 に創建が8世紀末〜9世紀初頭 で現存す る 日本最大の塔である東寺五重塔である (第16図)。 このほか濱島正士氏 による現 存遺構 に関す る膨大 な研究成果8を参照 した。薬師寺東塔 を加 えなかったのは、三重碁であ りなが ら裳階つ きの意匠 としたためにやや特殊 な形態であ り、数値的な検討か ら傾向を読
334
相 輪頂部
詳細図
(註7、 130頁)
第 14図
日本・ 室生寺五重塔 の相輪 相輪頂部
慶州南山塔谷磨崖塔 についての建築的研究
提 曜 解 ぽ
335 第15図
『慶州 南山 塔谷 皇十四方佛巌』所載の拓本 (註3)
み取 るには不 向 きと考 えたためであ る。 なお、 巨大 な塔 の事 例 と して、筆者が以前 に復元 を試 み た東大寺七重塔 も表 の末尾 に入れてみた。。
計測 の条件
先 述 の よ うに、 九重塔 は垂 直方 向の割 れ に よって右端 の軒先 部分が影響 を受 けて い る。 九重塔 の相輸 と上成 基壇 を二等分す る垂 直線 で塔 を左右 に分 け る と、軒 だけで な く塔 身部分 にお いて も左 半 の水平 幅が若干大 き くなって い る。 また割れ の ない七重〜九 重 の屋 根 で も左 半 が大 きい。計測 に当たっては、理想 的 な仕 事 がで きた可 能性 の大 きい左 半 を計測 し、それ を2倍して塔 身や軒の大 きさを検討す るの も一手法であろ う。 しか し計測 に用 いた『慶州 南 山 塔 谷 引 四方佛巖』 の拓本 は1ン/25縮尺 で掲載 されてお り、小 さい部 位 を計測す る よ りも、確 認 で きる全体 を計測 した ほ うが誤 差 を小 さ くで きる こ と、 また制 作 者 は全体 の プ ロポー シ ョンを意識 してい るので、全体 を計 測 した方が制作 者 の意 図 を読 み取 れ るか も しれ ない こ と、 な どか ら全体 幅で計測 した。 なお線刻 が拓本 に写 っていない 部分 な どは、筆 者 が撮影 した写真 な どか ら復元 的 に計測 した。七重塔 に関 して も、割 れの ため五重 と六重 の塔 身が明瞭でないが、 これ も復元的 に計測 した。
磨 崖塔 の計測部位 は、塔 身規模 (A)に関 して は各重 の下端 部 とし、軒の規模 (B)は各重 の屋 根 の下先 、す なわち屋 根 の最大 幅 を とる位置 と した。軒 の出は、軒の規模 か ら塔 身の
海竜王寺五重小塔 元興寺五重小塔
宣生寺五重塔
醍醐寺五重塔
︲0
︒ r 田 出 日 劇 趾 T EI EI H 削 L ω
Э36
法隆寺五重塔
第16図
比較の対象 とした日本の木造塔
1:600
慶州南山塔谷磨崖塔 についての建築的研究
規模 を減 じて2等分する方法 ((B―
A)/2)で
求めた。 また高 さに関 しては、屋根上面の間 隔、すなわち塔身部に穿たれた2区 の扉状表現部の下辺を屋根上面 と理解 して、その間隔を 各重の高 さ (D)と した。最上層は露盤立ち上が り部 と屋根が接す る部分 を上辺 とした。総 高 (b)は基壇部分 を除 く初重下部か ら宝珠頂上 までの高 さとし、露盤下端か ら宝珠頂上 ま での長 さを相輪長 (c)と した。なお、先述のように、九重塔 には追刻があると考 えられる ため、追刻以前の当初の高 さを第2表では「磨崖九重塔2」 として掲げた。日本の木塔 に関 しては、磨崖塔 と計測部位の整合性 を図るため、塔身規模
(A)は
各重の 柱外側 どうし、すなわち立面図における側柱外側 どうしを図上で計測 し、軒の規模 (B)は 断面図に表れる左右の軒丸瓦間の距離 (室生寺五重塔では軒付の先端)を
図上で計測 した。高 さ関係 は、基壇上面 (礎石上面)か
ら宝珠頂上 までを総高 (b)と し、相輪長 (c)は 英斗瓦を 含 まない露盤下端か ら宝珠頂上 まで とした。各重の高 さ(D)は
、立面図における隅降棟上 面 と高欄 とが接す る位置の中央間で計測す ることとした。 なお、後世の改造 によって五重 に桔木が入 る法隆寺五重塔 などは、全高 を復元 して計測 しなければな らないが、当初か ら 桔木の入 る興福寺五重塔や東寺五重塔 も分析対象 としたため、ひとまず現状で比較す ることとした。
興福寺五重塔 東寺五重塔 当麻寺東塔
当麻寺西塔
(註7よ り。海竜王寺五重小塔 と元興寺五重小塔は10倍)
法起寺二重塔
337
第 1表 ЧЭ
磨崖塔 と現存木塔の比較1
塔身規模:A 軒 の 規 模:B
計 抑 結:mm 窯 大:mm 逓 減 率 計測値:mm 実大:mm 逓減率
磨 崖 九 重 塔
初重 二重 二重 四重 五重 六重 七重 八重 九重
515 1288 1000 475 1188 0922
44 1100 0854 39 975 0757 37 925 0718 33 825 0641 30 750 0583 26 650 0505 23 575 0447
74 1850 1000 695 1738 0939 665 1663 0899 625 1563 0845 595 1488 0804 555 1388 0750 53 1325 0716 495 1238 0669 465 1163 0628
磨 崖 七 重 塔
初 重 二重 三重 四重 二重 六重 七重
375 938 1000 33 825 0880 295 738 0787 245 613 0653 225 563 0600 20 500 0533 16 400 0427
59 54 52 48 44 41 37
475 1000 350 0915 300 0881 200 0814 100 0746 025 0695 925 0627
五 法 重 隆 塔 寺
7世紀末
初重 二重 三重 四重 五重
47 7116 1000 415 6284 0883
36 5451 0766 31 4694 0660 245 3710 0521
99 14990 1000 90 13627 0909 825 12492 0833 755 11432 0763 685 10372 0692
8世 紀 初 海 竜 工 寺 五 重 小 塔
初重 二重 二重 四重 五重
41 335 1000 36 733 0878 30 611 0732 245 499 0598 孔95 397 0476
845 1720 1000 76 1547 0899 675 1374 0799 615 1252 0728 55 1120 0651
五 ̲
重題
毯専
8世紀後期
初重 二重 二重 四重 五重
34 1036 1000 315 960 0926
28 853 0824 255 777 0750 225 686 0662
66 2012 1000 615 1875 0932 58 1768 0879 55 1677 0833 505 1539 0765 8
0 0年 頃 室 生 寺 二 重 塔
初重 二重 三重 四重 二重
365 2747 孔000 33 2484 0904 285 2145 0781 25 1882 0685 225 1693 0616
84 6322 1000 81 6096 0964 77 5795 0917 74 5569 0881 72 5419 0857
五 醍 重 醐 塔 寺
9 5 2 年
初重 二重 三重 四重 二重
48 7342 1000 43 6577 0896 38 5812 0792 335 5124 0698 30 4589 0625
1015 97 92 87 83
552 483 407 330
269
1000 0956 0906 0857 0818
五 興 重 福 塔 寺
1 4 2 6 年
初重 二重 二重 四重 五重
8357 1000 7793 0932 7115 0851 6437 0770 5873 0703 37
柄
箭 26
81 18296 1000 77 17392 0951 735 16602 0907 70 15811 0864 66 14908 0815
軒 の 出:C 積み上 げ高:D
(B一A)/2 C/A 討 測 値:mm 実 大:mm D/A 0218
0232 0256 0301 0304 0341 0383 0452 0511
28︲
275 28︲
294 28︲
28︲
288 294 294
550 300 288 263 275 263 250 263 250 22
︲2
∝
︲1
∝ 10 05
︲0
0427 0253 0261 0269 0297 0318 0333 0404 0435 269 0287
263 0318 281 0381 294 0480 269 0478 263 0525 263 0656
18 450 0480 11 275 0333 105 263 0356
10 250 0408 9 225 0400 12 300 o600 10 250 0625 3937 0553
3672 0584 3520 0646 3369 0718 3331 0898
405 6132 0862 265 4012 o639 255 3861 o708 25 3785 0806 335 5072 1367 443 0530
407 0556 382 0625 377 0755 361 0910
40 814 0976 26 529 0722 25 509 0833 24 489 0980 25 509 1282 488 0471
457 0476 457 0536 450 0578 427 0622
255 777 0750 21 640 0667 20 610 o714 195 594 0765 215 655 0956 1787 0651
1806 0727 [825 0851 t844 0980 1863 1100
40 3010 1o96 265 1994 0803 25 1882 0877 245 1844 0980 38 2860 1689 4092 0557
4130 0628 4130 0711 4092 0799 4053 0883
435 6654 09o6 29 4436 o674 28 4283 0737 26 3977 0776 415 6348 1383 4969 0595
4800 0616 4743 0667 4687 0728 4517 0769
34 7680 0919 235 5308 0681
23 5195 0730 225 5082 0789
36 8131 1385
慶州南山塔谷磨崖塔についての建築的研究
分析の成果
まず第
1表
か ら平面的な 規模 をみ よう。塔 身の通減 (第 1表左)は、九重塔 で最上層 が初層 の約45%、
七重塔 で は
43%で
あ るが、軒 の近減(第1表 中左
)は
九重塔・七重塔 とも最 上層が初層の63%で
ある。つ まり、塔 身 よ りも軒 のほ うが近減 していない。これは塔 身に姑す る軒の出の割合 (第
1表 中右
)が
上層 ほ ど大 きい ことと同 じ意味だが、注意 しなければならない のは、軒の出の実寸法 じたいはあまり 変化がない とい うことである。つ まり 軒の出は各重ほぼ一定で、塔身が近減していることを示す。 これを現存す る 木塔 と比べ てみると、やは り塔身の近 減 (第1表左
)よ
りも軒の近減 (第1表 中左)が
小 さ く、上層 ほ ど塔 身に対す る軒 の出の割合 (第 1表 中右)が
大 き くなっている。 これは現存木塔で見 る か ぎり、初重か ら最上重 まで軒 をささ える組物がいずれ も三手先であ り、塔 身を逓減 させ ることにより軒 も逓減す るが、組物 による手先部分は大 きな逓 減がないことを示 していると考え られ る。つ ま り磨崖塔 もその特徴 を考慮の うえで彫 られたことがわかる。それで は九重塔 の45%、 七重塔 の
43%と
い うよ く似 た塔 身の近減率 は、どう評価 で きるのであろ うか。三重、
五重の逓減 をみると、九重塔 では三重 が85%、 五重が72%、 七重塔 では三重 が79%、 五重が
60%で
ある。現存塔の 最上重の碁 身近減率 をみると、元興寺第 1表引②
磨崖塔と現存木塔の比較1
塔 身 規 模:A 軒 の 規 模:B
計 測 値:mm 実 大:mm 逓 減 率 計 測 値:mm 実 大:mm 逓 減 率
言 巨
1 6 4 3 年
重 重 重 重 重 初 二 三 四 五
40 10372 1000 37 9594 0925 335 8687 0838 31 8038 0775 29 7520 0725
8 4 筋 7 7 鶴 7 0
み1782 1000 20874 0958 [9966 0917 19059 0875 18151 0833 70
3年 法 起 寺 二 重 塔
重 重 重 初 一一 三
6899 1000 5204 0754 3631 0526
115 985 86
[3919 1000 t1922 0857
!0409 0748 8世
紀末 当 麻 寺 東 塔
重 重 重 初 一一 三
48 6098 1000 38 4827 0792 305 3874 0635
13156 1000 11562 0879 10272 0781 9世
紀初 当 麻 寺 西 塔
重 重 重 初 一一 三
47 38
32
5687 1000 4598 0809 3872 0681
102 12342 1000 925 11193 0907 84 10164 0824
8世 紀 後半 箱 崎 案 東 大 寺 七 重 塔
重 重 重 重 重 重 重 初 二 三 四 五 六 七
425 17000 1000 38 15200 0894 35 14000 0824 305 12200 0718 275 11000 0647 24 9600 0565 2X5 8600 0506
66 26400 1000 615 24600 0932
57 22800 0864 52 20800 0788 485 19400 0735 46 18400 0697 435 17400 0659
五重小塔 の逓減率 は
66%と
他 よ りも大 きい けれ ども、磨 崖塔 の三重、五重 の近減率 は、 こ こに挙 げた三重塔 や五重塔 よ りも総 じて大 きい。 これ は、少 な くとも現存 す る古代 の 三重 塔や五重塔 の近減率か ら七重塔や九重塔 を復元 して も、磨崖塔のような塔 にはならない ことを意味する。
三重、五重の逓減率が現存塔 よ りも大 きいにもかかわ らず、磨崖塔が安定 した意匠 を示 すのはなぜであろうか。つづいて積 み上げ高 (第1表右
)を
みてみ よう。磨崖塔各重 の塔 身 規模 に対する各重の積み上げ高の割合(D/A)は
、初重は九重塔が43%、 七重塔が48%で
、 九重塔の二重〜人重は25〜 40%、 七重塔の二重〜六重 は33〜60%で
ある。同様 に、現存塔 の割合 を見 ると、法隆寺五重塔の二重〜四重が64〜81%と
ともに元興寺五重小塔の二重〜四重の67〜
77%が
小 さな値 を示す例 だが、磨崖九重塔 ・七重塔 にはるかに及ばない。つ ま り磨崖塔の積み上げ高は塔身規模 よ りもず っ と小 さいことを示 している。 なお、磨崖塔最 上重の積み上げ高の害J合は、桔木が入 らない海竜王寺工重小塔や元興寺五重小塔のあ り方 と比べて も小 さい。磨崖七重塔 。九重塔 の屋根勾配は、九重塔最上重上段が20%ほ
どなの を除けば、磨崖九重塔・七重塔 とも30〜35%で
造形的な統一はとられている。九重塔 最上 重の値が小 さいのは、軒先 に厚みが ないの も一因だろう。なお、当初の屋根勾配 を保 つ元 興寺五重小塔では、最上重の屋根勾配が45%、 初重〜四重では50%と
総 じて磨崖塔 よ りき 34o軒 の 出:C 積 み 上 げ 高:D (B―A)/2 C/A 計 測 値:mm 実 大:mm D/A
50 88 49 85 07 05
40 40 Ю l6
863 7︲6 776 823 397 0 α o a
■
3 4 2 6 2 6 蠅 邪
8946 6872 6742 6612 10502 3510 0509
3359 0645 3389 0933
51 6173 0895 39 4720 0907 485 5870 1617 3529 0579
3367 0698 3199 0826
52 6606 1083 36 4573 0947 485 6161 1590 3328 0585
3297 0717 3146 0813
515 62315 1096 335 40535 0882 49 5929 1531 0276
0309 0314 0352 0382 0458 0512
4700 4700 4400 4300 4200 4400 4400
185 7400 0435 16 6400 0421 15 6000 0429 15 6000 0492 145 5800 0527 145 5800 0604 175 7000 0814
慶州南山塔谷磨崖塔 につ いての建築的研究
つ い。元興寺五重小塔 最 上 重の積 み上 げ高 の割合 が小 さいの は、屋根 に対 し 露盤が大 きい こ ともそ の要 因 と考 え ら れ、 これは磨崖塔 に も当 て は まるだろ う。 これ らか ら、磨崖塔 最 上重 の積 み 上 げ高が小 さいの は、塔 身 の高 さ自体 が低 い ことのほか に、屋根 勾 配の緩 さ、
露盤 の大 きさな どが関係 してい る と見 られ る。
つづ いて再 び軒 の 出 をみ よ う (第 1
表中右)。 磨 崖九重塔 の塔 身規模 に対す る軒 の 出 の割 合
(C/A)は
、 初 重 が 22%と もっ と も小 さ く、 九重が51%と
もっ と も大 きい。 同様 に七 重塔 で は、
初重が29%、 七 重が
66%で
あ る。 これ を現存塔 と比べ てみ る と、もっ と も小 さな値 を示す元興寺五重 小 塔 で、初重 が47%、 五重が
62%で
あ り、つづ いて東寺五重塔 の初重55%、 五重71%と
つ づ く。つ ま り 塔 身 に対す る軒 の出の割合 は現存碁 よ りも磨崖塔 の方が小 さい こ とがわか る。ところで、元興寺五重小塔 は実際 の
1/10縮
尺 の模型 と考 え られてお り、 10倍 して実際の 塔 の規模 と して比較 す る と、現存 す る 日本最大 の塔 であ る東寺 五重塔 よ りも初 重 の平面規 模 は大 きくなる。いっぽ う屋外 に立つ最 も小 さな塔である室生寺五重塔の軒 の出の割合を みると、初重で65%、 五重で110%と大 きい。 ここか ら、平面規模の大 きな塔 で塔身に対す る軒の出が小 さく、逆 に規模が小 さければ塔身に対する軒の出が大 きくなることがわかる。したがって、磨崖塔 は塔 身の規模が大 きい、す なわち平面規模の大 きい塔の意匠を示 して いると考えられる。先 に分析 した磨崖塔の積み上げ高が塔身規模 に比べて小 さい という事 実 も、磨崖塔 は平面規模が大 きな塔 の意匠を表 していることを裏づ けるデー タと言えるだ ろう。
その うえで、磨崖塔最上重の塔 身の逓減率が、九重塔で45%、 七重塔で
43%と
ほぼ同様 の値 を示 し、 また現存塔 で も海竜王寺五重小塔では五重が初重の48%ほ
ど、法起寺三重塔 では、三重塔身の初重塔身に対す る割合 は53%ほ
どЮと現存する五重塔、三重塔 と比較 して もさほど変わ らない事実は、平面規模や塔 の層数にかかわ らず、古代の塔の近減は、最上 重が初重の40〜50%に
なることを示 していると考えられる。Э41
第 2表
磨崖塔 と現存木塔の比較2
初 璽 塔 身 :a 耐 言 :b
計 測 値:mm 実 大:mm 計 測 宿:mm 実 大:mm b/a 磨崖九重塔1
磨崖九重塔2 磨崖七重塔 法隆寺五重塔 海竜王寺小塔 元興寺小塔 室生寺五重塔 醍醐寺五重塔 興福寺二重塔 東寺五重塔 法起寺二重塔 当麻寺東塔 当麻寺西塔 箱崎実東大寺七重塔
515 1288 515 1288 375 938 47 7116 41 835 34 1036 37 2785 48 7342 37 8357 40 10372 57 6899 48 6098 47 5687 425 17000
183 4575 3553 168 4200 3262 128 3200 3413 215 32554 4574 197 4010 4805 1805 5502 5309 214 16106 5784 2495 38163 5198 198 44723 5351 2115 54843 5288 2005 24267 3518 192 24390 4000 199 24079 4234 1665 66600 3918
総 高 と相輪
こん どは塔 の総高 と相輪 につ いて分析 しよう (第2表)。 初重 の塔 身規模 に対 す る総高 の割合
(b/a:第
2表 中)は
、値 の大 きい ほ ど細長 く、値 の小 さいほ どどっ しりとした 印象 の塔 であ ることを示す。磨崖塔 は326〜3.55ほ どで、現存 す る五重塔 な どよ りも小 さ く、法起寺 三重塔 (3.52)と 同程 度 であ る。法起寺 三重塔 は初重平面の最 も大 きな現存三重塔 と して知 られてお り、それ と同様 、磨 崖塔 は どっ し りとした意 匠の塔 であ るこ とが わか るW。
これ は先述 した積 み上 げ高 とも関連 し、平面規模 が大 きい こ とを示す と考 え られ る。
つづ いて相輪部 をみ る と、総高 に対す る相輪長 の割合 (c/bi第2表 右
)は
、水煙・竜車 ・ 宝珠追刻以前 と考 え られる九重塔2では36%、 追刻後 に高 くなった九重塔1では41%と
な り、七 重塔 で は
37%で
あ る。 これ を現存 碁 と比 較 す る と、元興 寺五重小塔 の40%と
同程 度 で 、 もっ と も大 きな グルー プ に分類 で きる。 日本 に現存 す る塔 の網羅 的分析 をお こなった濱 島 正士 氏 に よれば、五重塔 の総高 に対 す る相輪 の割合 は、元興寺五重小塔 を最大 として、 時 代 とともにわずかに小 さくなるとい う。磨崖塔 も総高に対 して相輸が大 きく、 日本 に現存 する古代の塔 と同様の特徴 を備 えていると言えるだろう。いっぽう初重塔身に対する相輪長の割合 (c/a:第2表右
)は
、九重塔 1で146%、 九重塔2 では117%、 七重塔では127%で
あ り、現存す る古代 の五重塔 よ りも若干小 さ く、三重塔 と 同程度かやや大 きい程度 と言 える。ただ し、 これ までの分析 によ り磨崖塔 は平面規模が大 きい と考え られたか ら、現存塔 を含めて平面規模 を同 じに して立面 を比べれば、磨崖塔 の 相輪 は他 の塔 よりも長 くなるはずである。やは り濱島正士氏 は、現存する五重塔・三重塔 とも初重規模 に対す る相輪長は時代 による大小がな く、ほぼ一定であることを指摘 してい るが、磨崖塔 もまたその特徴 に合致する例 と言 えるだろう。Э42
慶州南山塔谷磨崖塔 についての建築的研究
計 測 値:mm 霙 大:mm c/a c/b 75 1875 1456 0410 60 1500 1165 0357 475 1X88 1267 0371 9685 1361 0298 1156 1385 0288 2221 2143 0404 4537 1629 0282 12835 1748 0336 15089 1805 0337 15241 上469 0278 7333 1063 0302 6670 1094 0273 7763 1365 0322 555 22200 1306 0333
相輪後補
4.磨 崖塔 の特徴 ―七重塔・
九重塔復元の可能性 ―
磨 崖塔 じた いの観 察 と現存塔 との比 較 か ら、磨崖塔 の特徴 が あ きらか にな ったと思 う。まず磨崖塔の彫 りかたか ら、塔全体のプロポーションを決めた うえで、細部を刻んでいることがわか る。塔の造形、なかでも相輪部は精緻 であ り、塔の細部形態に通 じた人物に よる制作か、制作者の周辺にそのよう な人物 が いた こ とを推測 させ る。 このため、塔全体 の形態 も、制作 当時 に比較 的 よ く日に す るこ とがで きた九重塔 や七重塔 の形態 を伝 えている可能性 が十分 にある。
九重塔相輪の水煙以上 は、桂JR熙氏が指摘す るように追刻があると考 え られ、当初 は水 煙がな く宝蓋だったようだ。 これは 日本の室生寺五重塔の相輪頂部 によく似 ると考 えられ、
ここか ら竜舎・宝珠 。水煙 を備 えた、現存塔で一般的な相輪頂部に変更されたことになる。
したがって相輪の形態 に先後関係があるが、少な くとも日本では室生寺五重塔 (800年頃)よ りも古い薬師寺東塔 (730年
)で
はすでに水煙があ り、 これが時代的な傾向なのか どうかは、さらに検討すべ き課題である。 また相輪部分では平頭 と露盤が特徴的である。 日本の現存 碁では薬師寺東塔 にのみこの形態があるが、韓国の石塔では比較的 よく見 られる形態 とい
う印象がある。
塔の細部意匠で時代 を考察で きるのは、九重塔・七重塔 の軒先お よび相輪の九輪 に下が る風招で、上縁 に反 りがな く、下縁 を連弧状 につ くる点は、 日本では8世紀初頭 までの造形 と考えられる。韓国における年代観 と合わせて考察する必要があるだろう。
磨崖碁各部の数値的な分析か らも特徴 を抽出す ることがで きた。磨崖塔 は塔 身規模 に対 す る軒の出の割合や、塔 身規模 に対す る積み上げ高の割合 な どか ら、平面の大 きな塔の意 匠を伝 えている可能性が高い。 これ まで も指摘 されているように、皇龍寺九重塔 を模 した 可能性 をます ます視野に入れて、 さらなる考察を深めるべ きと言えよう。
逆 に平面が大 きい塔 は、塔 身に対す る軒の出や積み上げ高の割合 は小 さ くなるとい うこ とが言 えるだろう。 これは平面規模が大 きくなって も、それにともなって軒の出や積み上 げ高が大 きくなるわけではないことを示 してお り、 日本 に現存す る三重塔や五重塔か ら、
平面比 を求め、それによって各部の寸法 を拡大 した うえで層数 を増や し、七重塔や九重塔 を復元す るとい う方法に大 きな危険性 をはらんでいることを暗示 している鬱。 また現存す る
343
三重塔 。五重塔各重の通減率の割合か ら、それを延長 させて七重塔や九重塔 を復元す るこ とはで きない。
平面規模 の比例で各部の寸法 を決定で きない とい う先述の原則 に乗 らないのが相輪で、
相輪は平面規模 とともに大 きくなる可能性が大 きい。そ して古代の現存塔 は総高に対す る 相輪の割合が大 きい という特徴が、磨崖塔 にも適合すると考えられる。
初重の塔 身規模 に姑す る最上重の塔身規模 は、現存す る古代の三重塔・五重碁、そ して 磨崖七重塔・九重塔か ら、おおむね40〜
50%と
考 えられる。 ここか ら最上重が初重 に比べて
40%以
下に復元 される木塔は、その層数を再考 してみる必要があると思われる。以上の ような特徴 を抽出で きたことは、2004年 に筆者が復元 した東大寺七重塔の復元が 妥当であるか どうかを検証する機会 ともなった。筆者がおこなった東大寺七重塔の復元は、
元興寺五重小塔 をモデル としているB。 そ して初重〜五重の平面 を方 5間 とし、六・七重 を 方3間としたが、その際、各部は
1/10模
型 と考えられる元興寺五重小塔 を10倍しただけで、それ以上の拡大縮小 はお こなわなかった。それによって得 られた復元図か ら計測 した値 を 第1・ 2表の下段 に掲 げたが、軒 の出や積 み上 げ高 と塔 身規模 の割合 の特徴 は、磨崖塔 と似 た傾 向 を示す。相輪 の長 さに関 しては、元興寺五重小塔 を10倍 したのみで拡 大 しなか ったが、方法 的 には相輪 長 は拡大 した方が よか ったということが今回の検討で判明した。この相輪長の 部分を除いては、数値的にみてももおおむね妥当な復元 であったと言えると思う。
5。
磨崖塔の評価 ―共同研究に向けて一
以上 、塔谷第2寺l■北壁 の磨崖 九重塔・ 七重塔 につ い て、その意匠的特徴 について述べ、磨崖塔 が建築的 に見 ても表現がほぼ的確であることを確認 したうえで、数値 的な分析か ら日本に現存する木造五重塔・三重塔 との比 較 を試みた。その結果、磨崖塔の軒の出や積み上げ高、
塔身の規模、総高など、相互の比例か らみて、巨大な平 面 をもつ九重塔・七重塔の特徴 を有 していることが判明 した。そ してそのような九重塔や七重塔 を復元するため には、現存する三重塔や五重塔の各部 を拡大するという 方法は、適当でないことを追認することがで きた。 この 分析 により、磨崖塔 は単に九重塔・七重塔 を彫 り込んだ 第17図
箱崎案東大寺七重塔
立面図
1:600(註
歩①)344
慶州南山塔谷磨崖塔 についての建築的研究
絵画的作品、 というだけでなく、失われた九重塔や七重塔の様相 を知る建築資料 として、
じゅうぶん活用できる文化財であることがいっそう明 らかになったと思 う。冒頭でも述べ たとお り、七重塔や九重塔の造形に対する建築資料はごく限られてお り、なかで もこの磨 崖塔は第一級の価値をもつと評価 していいと考えている。
今回の研究は、磨崖塔について、 日本に現存する三重塔・五重塔 との比較を、いわば日 本建築史の流れと照 らして評価 したにす ぎない。韓国に資料が豊富な石塔の意匠や構造 と 比較することができるのかどうか、また石塔の影響が及んでいる部分がないのか どうかな ど、さらに視点を変えて、磨崖塔に対する分析 と理解を深化させていきたい。そうすれば、
たとえば磨崖九重塔最上重の屋根の特異な造形のように、現時点で解明できていない点に も糸日が見つかるだろう。共同研究の醍醐味は、相互の視点から同一の対象物を観察 して 解釈や理解をぶつけ合い、対象物 自体に隠れている情報を引 き出すことと、それによって 自分の視野を広げてい くことだと思う。拙稿がこれに足 るものかどうか不安だが、筆者 自 身もさらに研鑽を積んでいきたい。
言主
1
2
権塔形式では、談山神社十三重塔 (奈良県桜井市
)が
ある。① 拙稿「東大寺七重塔考JF東大寺創建前後』ザ・グレー トブッグシンポジウム論集 第 2号 、法蔵 館 、2004年 。② 拙稿 「 7〜 8世 紀 の 日本 にお け る巨大 な仏塔 の立面 と構 造 につ いて On the elevation and structure of big Buddhist Pagoda at 7th〜 8th century in Japan」 『第5回 アジアの 建築交流国際 シンポ ジウム 5th lnternational Symposium on Architectural lntecha nges in
Asia』 日本建築学会 ,大 韓建築学会・中国建築学会、2004年。③ 拙稿「 日本古代寺院における木
塔 の柱配置 と立体復元」『東 アジア6〜 7世 紀仏教寺院塔基壇の考古学的研究』中国社会科学院考 古研究所漢唐研究室・東北学院大学大学院文学研究科 '同 大学オープ ンリサーチセ ンター、2005年。
③ は2005年 3月に中国社会科学院考古研究所 (北京
)で
お こなった研究集会の予稿集で、中国語・韓国語の翻訳がある。なお、研究集会の成果は、④ 「日本古代寺院における木塔の柱配置 と立体復 元」『東アジア6〜 7世 紀 における勅願寺高層木塔の考古学的比較研究J(東北学院大学論集
歴史
と文化
第40号別冊、東北学院大学、2006年)と して 日本語で出版 された。
『慶州南山の佛蹟』朝鮮宝物古蹟図録第2、 朝鮮総督府、1940年。黄壽永・金吉雄 『慶州 南山 塔 谷 引
四方佛巖』通度寺聖費博物館、1990年。F慶州南 山 引 佛教遺蹟 Ⅲ ―東南 山寺址調査報告 書 ―』国立文化財研究所、1998年。『慶州南山』国立慶州文化財研究所、2002年①
獲瑕 熙「 君千 甘社 「 甘詈 Hl‐・B至せこ I」 号今dtt lal.H9孝啓
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4考
君刊 ユせ (Ⅱ)―」『慶州文化論叢』第 7輯 、2004年 。 この論文 につ いては、筆者 を研究代表者 とする科学研究費 (若手研究B「古代東アジアにおける木造塔の構造 と 意匠に関する研究」2005〜 2007年度)に
よって、慶北大学に留学中の諌早直人氏 による日本語訳が 完成 している。小場恒吉氏 によるスケ ッチ (前掲註3『慶州南 山の佛蹟』