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元寇と神風

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Academic year: 2022

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

元寇と神風

長沼, 賢海

https://doi.org/10.15017/2344443

出版情報:史淵. 4, pp.1-55, 1932-07-15. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University

バージョン:

権利関係:

(2)

榊風は閾史上の偉大なる締祁的存在である︒寛仁刀伊の入造︐文永.弘安蒙古の製來︑應永高皿の來犯︑江戸

幕末洋夷の騒擾等︑いづれの場合に於てもこの粘耐的存在の活動を見ないことはなかった︒而して明治維新以來

の宗教的教育の荒廃とともに.この精榊的存在を口にし︑筆にするものはあっても︑眞に柵得する務は進だ抄

く︑史蜜としては榊もすればこれを輕んがるの側向さへもある︒而して文水︑弘安の際に於ては︑︑肺風は単に精

祁的存在ではなくして︑踵に稀有の天愛であり︐而も弘笈の役に及ぼした影響は定仁悲大であった︑國史上に於

ける肺風といふ精祁的存在もこの時先全にせられたといってよいのである︒而してこの天愛を仰ふる史料の大方

元遥と別風 元冠と卿風

緒言︵一︶元冠史料としての八蛎鰻童訓と筑紫本同井︵二︶東路車の出勧と迩岐對馬

︵三︶志衝島戦の漁莪及ひその後の元軍の退却地︵四︶所訓元軍の根擦地肥前概島︵五︶

江南瀬羅若の時期QC稚雌今職の意義と平戸島︵七︶元史に見仰ろ對馬の煮義及元

軍の行如と非が所禧史料︵八︶筑紫本愚童訓と公卿の記録との比較︵九︶前風の時刻

と風位︵十︶郷風の影響と鷹島の合職

1

長沼賢海

'’

(3)

元志と群風二

は信仰化せられ︑精仰化せられてある結果︑自ら仲風を多く信仰的存在︲として取扱ひ︑歴史上の東大堺涯として

の認識が不足してゐるのではあるまいか︒以下弘安四年Ⅲ七月一日に於ける北九州の一大天鍵は︑時川と絡姑し

て如何なる結果を生み出すのであらうかを研究しふ﹄いと恩ふ︒順序として︑まづ元の東路︑江南咽車の動き姑あ

て已來︑大風直前に至る經過忽老へたい︒元潅の研究については螢蠅抄︑同附錐及び家古諸軍記辨疑等はいふま

でもなく︒近くは山川甥榮氏の伏敵細あり︑扱近には池内宏博士の元准の新研究あり︑いづれも不朽い↓名将であ

る︒今参考する所遊だ多く︑深く敬意ぞこ蚤に表するものである︒但し惣考は必ずしも諸先韮の商諭に一致しな

い︒誠宥上記の名将について元憲を研究せられるに際し︑本研究も亦多少の参考ともならば幸遊である︒既に前

記の如き研究に所收せらる画史料の本文を引用することを避け︑止むを得ざるもののみに限った︒それも多くは

伏敵細斯收のものに擦った︒

八幡魁童訓は蒙古蒲軍記辨疑に.すでに之れを以て元送に開する画録であるとし︑伏敵繩にも之れを承認して

ゐるやうであり︑元定の新研究に於ても︑その記事蒙古の日本催略に開する支那側の史料と一致する所多曹を指

摘して︑此の書の元潅記事が戦史として価値多蓉ことを承認してある︒木諜は勿論戦史を主眼として背はしたも

のでなく︑八幡ことに荷清水八幡及び純崎八幡の敵國降伏の艸威を識堕し懸童に示すことを目的として作られた

ものであらう︒而してその紳威の雌も顯著であったのは文永弘安︑就中弘安の役であった・自ら祁威發揚の資證

二︶元冠史料としての八幡愚童訓と筑紫本愚童訓

1

(4)

として此の役に開する史的叙事が岐も詳らかである︒八幡肺の信仰は武家時代を降るに随ひ︐敵國降伏︑武運長

久︑國土擁謹の脚として︑益々尊信せらる塗とともに︑此の評も益々流布したと思はれる︒自然夙やくから異本

が相樹に多かったやうである︒群番顛從本︑螢蠅抄本︑正唯本︑文明本等︑その他にも極々あるやうである︒予

一昨年醤肺崎八幡宮の座主坊であった筑紫氏家藏心古潟本の伺瞥を見︑其の書風及び内容が航る原本に近きもの

であらうと恩ひ︑以上の諸本と比較して︑参考源平盛表記にならひ︑参考八幡憩童訓を作らうと思ったが︑肝腎

な文明本及び正應本といふものの全本を見る機禽を得ない︒今僅かに伏敵細に收むる服雌本といふものと︑それ

に繩して異同を示せる文明本とに微して︑こEに筑紫本を紹介して︑元遥史料としての本書の個値を史らに進め

本諜の著考については正雄本といふものに﹁正應二年巳八矧繩崎宮祇官剛捉唾允定秀誌︵花押ごとあり︑蒙古諸

瓶把辨疑にも︑之れを信じてあるやうだが︑伏敵細には後人潤色の跡歴々として事衝の上に存せりと云って︑そ

れ〃信じてゐない︒剛書允定秀は文水の役に︑祁岫八幡が火急に瀕するや︑祁罷を宇美に奉遜せる同肚の耽官の

中に︑此の人の名を學げてある︒正應本には本井は︐親しく戦役に辿遇した春が書いた祀錐の柵となす爲め︑作

粁を定秀に假托したのであらう︒本神中には碓雁以後の郡に及べる記那あh︾︑則ち永仁年中石清水八幡の肺价が︑

河野彦三郎の謀叛に與みして刑せられたと見えてゐる︒正唯以後の記録なるz明らかであるc本神が確かに後二

條天皇の御代の醜に作られたものであらうと忠はしめることは︑評中に﹃八幡之御方便一一一プ︑速疾二滅亡シ給へ

︑00Oバー九十四代ノ朝廷異姓史不交﹂と見えてゐることである・L︑

元冠と刺風三

推脹︐と忠ふ︒

1

1

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V

rh

L

元潅と脚風四

韮荷は行清水八僻開係の人であることは︑︑清水八幡を以て溌祗といへる所が︑多い鮎を以て見ても明らかで

ある︒けれども文永.弘安の岱畔は紺崎八幡は石清水八幡の別寓となってゐた︒︵石満水文書︶建保五年石清水別

常宗印が緬崎宮を執務することシなるや︑山法師等の蛛起することがあった︒︵吾妻鏡︶文永以来数度の縮崎祇建

立のことなども.一切石清水肺の管する所であったことは︑布満水文書に詳らかであるC弘安五年二月十九日︑

組山上皇は箱崎宮進螢の功を以て︲尭浦法服を石清水八幡の樅別常に袖せらる芦院宣を下さしめられた︒かうし

たことで︲桁崎︲迄石清水との間に︐術時は人の従来も多かったであらう︒故に本書は鎭酉からの報告のみを元L﹂

して書いたもの←し断中ろ課にもゆくまい︒八幡の降伏の艸威を説くに就ても︑石清水よりは寧ろ細崎の方に力を

入れてゐるやうに恩はれる︒本書の製作年代と忠はれる後二條天皇の御代は小弘斐四年を降ること二十数年に當

る︒或はその頃曾ては総崎にあって元冠を親しく兇剛せるか︑或は筏際見聞した人について聞き︑博多︑箱崎の

地理をも知悉した人が書いたものではなからうかと思ふく次章参霜︶

文水の役に少武大友等の敗走したことを誘った落背が本書にのせてあるが︑皇軍敗走の如きとがあったとは老

へられない︒諸將の水城敗退の如きことも信ずるに足らぬといふ抗もめるやうである︒思ふにこの蒋首は大局を

知らぬ徴時の一般民衆のいひが遣りであって︑恰も日露戦争中︑一時上村彦之丞將軍を誹るものがあったと同じ

やうな事で︑此の如き藩肯を像へてゐる所に︑却て本書の便値があるものf一信守る︒水城の大勢を述べる條の如

きも︑予の水城の賃地踏森の進むにつれて︑追々その確奮性を認めなければならぬやうになった︒

筑紫本はもと一巻であったのを︑二巻となしたものである︒外題に八幡大菩薩態童訓と今のり.同筆で表紙の中

I

(6)

央に下巻とあり︑うら表紙の僅かに遺ってゐるとぢめの所に幸岩記とあり︑標題と同筆である︒下巻は上巻の誤

りである︒下巻︵即上巻︶のうら表紙はきれて失はれてゐる︒今一巻の表紙も裏表ともに失はれてゐる︒上下雨

巻の分け方も︑類從本と異り︑伺本の上巻の経6一二枚が筑紫本では後巻につけてあるb則ち﹁情思上代佛法王

法盛ナレ︾ハ天下幸甚一一〆國家可安全﹂︵筑紫本には﹁抑上代ヲ恩へ︾ハ佛法盛ニノ︑天下幸甚二國家全可成﹂の文か

ら︑筑紫本では下巻に入れてある︒同本の汝巻の妓初の一葉だけ筆者が逮ひ︑此一枚及表紙の紙は︲其の質全磑

のものと少し異るが︑年代は同じやうである︒但しその一枚の最後の一行は︑字詰が非常に多いから︑此の一枚

はあとでとりかへたものかとも思はれる︒恐らく本書を書癌して間もない頃一巻本を二巻に分け︑後巻の始りの

書き出しが前巻の経りにか麓てゐろので︑之れぞ後巻の初頁に篇しよせたものであらう︒本書の内題に﹁八幡大

菩薩患童訓降伏支﹂とある︒本文の書風︑漢字の字謹の異なる黙︑片假名の形禮等から察して︑文明以前の篤

本かと思はれる︒之れを伏敵締に於て僅かに見る文明本に比ぷれぱ.大艘同系統の本ではあるが︑文明本の方が

より整って居り︑添削せられた跡が見られる︒

文明本は全巻を見てゐないからわからないが.類從本等には記事の出典をあげた箇所は雀だ少ない︒下巻に一

箇所︵類從本四八一頁︶﹁智諭﹂とある所がある︒筑紫本には︑史記.莊子︑老子︑臣軌︐帝範.家語︑論語§樂

府︑貞槻政要︑琉伽論︑理趣分︑天台尺︑此相尺等︵巻頭より出るに從って拾ふ︶の出典をあげてゐる︒巻末に

﹁八幡大菩薩禺童訓﹂とあり︑その下に﹁夫興︵奥ヵ︶俊二云寂大可レ密與︑書付罪﹂︵畢字不明︶とあり.以

下次頁︵裏の牛頁︶がきれてゐて奥書がつざかないo︐或は故意に切取ったものではあるまいかとも思はれる︒文

元志と稗風五

1

(7)

前考は後者に比してたしかに添削叉は整頓せられし跡を見る︒文︑水の役に少式︑大友等が敗退せる際.時人が

不滿を訴へた訴首が文明本にはなく︑︵伏敵細︶筑紫本には類從本等に見ゆるが如く存してゐるのは古い形であら

う︒普く諸本を集め︑詳かに筑紫本に比較することは︑これを後日に謎り︑以上の考察により︑大方愚堂訓の諸

本中︑現在世に出てゐるものでは︐筑紫本は最も原本に近いものとして︑本考に参考したところが多い︒弘安役

に開する條の如き︑他の諸本の妖鮎を柿ひ︑ひいては弘安役の経過を考ふるに︑妙かちぎる新しき注意を發見し

たのである︒猶ほ正應本を文明本の類本とする説は首肯し難い︒ とあり︑筑紫本に

元冠と利風六

明本に比して文章の相逮せる一例を示す爲め︑雨沓を比較せんか︑文永役に皇軍敗退の欣を文明本︵伏敵締に樵

ろ︶に

○○○○迷モ思知テ悲シカリケリ 了ヤシ

○O

博多笛崎ヲ打捻テ︑多之大勢一日之車二絶ヵ子テ落真.何卜可成トー佐ノ民二至及泣歎カヌハ無リケリ︑.

○0つ○時間僻キ雷ノ命トテ︑妻子ヲ引具シ︑老ダル父母ヲ助ヶ︑幼ヲ懐テ︑何地トモ無ク落行消恩ハ︑中有ノ放之 博多宮崎ヲウチステ︑︑多クノ大勢一日合戦タヱカネテ︑落葹ル事︒ソロ腓ケレ︑アャシノ民二至マテ︑歎カヌ肴コソナヵリヶレ︑時間モヲシキナラヒノ命トテ︑老ダル・ヲ助ケ︑幼ラーイタキテ︑イッチトモナク落チュクナルハ︑中有ノ族ニモカクャト兇へ︑カナシキコ・トカキリナシ llr

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(8)

東路軍は凡そ兵四寓︑船九百腿.弘安四年五月三日朝鮮合浦を發して諸所に寄港し︑ついで我が剛に襲来し

た︒高麗史世家に擦れば︑五月二十六日諸軍一岐忽稗勿塔に向ひ︑商歴史節要に擦れば同月同日對馬世界村大明

浦に至り次で壹岐に向った︒︵元進の新研究︶恐らく此の日元軍の主力が勝本に向2L出發したのであらう︒我が

國の史料には︑五月二十二日壷岐︑對馬に打入るといひ︵弘安日記抄︶或は二十一日對馬に襲来すといひ︵歴代

皇記︑一代要記︑韮公大師年譜︶或は壹岐︑對馬の名をあげずして此日仁冒襲來すといふ︒︵皇年代略記︶察する

所束路軍の壷岐對馬の海上要路にあらはれ.鳥人がこれを發見せるは五月二十一︑二日の間であぢう︒思ふにそ

の主力の合浦を發したるは派月三日でその前軍は餘提早やくから合浦を發船してゐたのであるc戦艦九両舷は前

後の間隔十間をおき︑三列縦隊をなすとして︑猫ほ五十町の長きに逹す︒かくの如き艦隊が一時に列をなして襲

繋せんとすることは不可能であり.航行する事すらすでに不可能であるまいか︒今般五十艘を隊となすも︑既に

これが統禦容易にあらず︑恐らく二十舷三十舷隊をなし順次發船して日を亘りしなるべく︑軍の行動の日附けの

一浄一取って他を捨てるは大に眞祁を誤るものである︒高野山文書正雁六年三月二十八日の太政官牒に︑蒙古の生

瞬は弘安四年四日發船すと見え︲元の宙車上百戸張威の墓碑銘及び汎海小錐には四川合汕を發すとある︒恐らく

之等は東路軍の雄も早く合浦を蕊船したるものなるべきか︒弘斐四年剛七月十七日附けの所年穀奉幣の宣命﹁去

◎C夏以降蒙古襲來︑稗浩一壷岐︑對馬一雌し鰐二九州官車乙︵自兼本勘仲記︶と見えてゐる・途中寄港して軍を整へ︑す

元潅と跡風七 ︵二︶東路軍の出動と壹岐對馬

I

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元冠と稗風1入.

でにして五月二十一二日前後より葎りに二烏に向って出陣したものであらう︒對馬の世界村壹岐の忽稗勿塔は︑

合浦沌多間の二島に於ける要路に常b︑忽稗勿塔は勝本なるべく︑世界村は嵯誰郷であらう︒海東諸國記には嵯

謹郷を佐苦郡とあり︑津島紀事に囮尽細︑登型必究に挫油︑︵挫崎郷︶︑佐誕浦︑佐須奈浦︵以上何れも嵯誰郷内︶

を以て日本の船︑朝鮮に赴く三鼻と爲すと見ゆとあり.寛文年間以後宗氏は佐須奈を以て朝鮮往来の津となし︑

開所をこ心に世いた︒その以前は佐郷洲︵湊︶の方が寧ろ朝鮮渡海の要港であったかと恩ふ︒文永の役元軍襲來

してまづ︑衛突の起りしも.こEなるが如く︑同上書に︑湊村に蒙古骨塚丘あり︑文永入定の日斬推座埋の所な

りと見ゆ︒↓大明浦は.盟崎郷富浦に常らん︒富浦は海束諸幽記に頭未浦とある︒盤崎︑嵯護相隣して︑對馬北端

の要地を占めてゐるので︑嵯謹郷富浦といひしものであらう︒世界村を佐蛮︑或は志賀に充つるは理由少し︒大

明浦を大明肺沌と解するは更らに無理ではあるまいか︒浦の意は演の意ではなや部落といふことであって︑明神

の鎮座する海演の意ではない︒

猫ほ汎海小録に合浦より志賀島に至る道程を委しく書いてゐる︒東路軍の或る者の行程と認むくきである︒そ

れには 明年︵弘安四年︶次二合浦縣西岸一入し海︑東行約一青里︑過二拒濟島﹃又壬一言里至一吐刺忽苫﹃倭俗呼レ島爲レ

苫︑叉一手七両里抵二對馬島﹃叉六百里職二一岐島﹃又四百里入二雰市口↓茎青七十里至二三神山﹃其山峻削

群峰環三繧海心︷望し之縛然爲二鉾芙蓉一也︑上無二雑木﹃惟梅竹霊藥松櫓抄雑等樹︑其俗多徐姓者︑自云一皆君

屍之後幅羅徐海中諸喚此寂秀歴︐方康十洲記所謂海東北岸扶桑蓬丘.漉洲周方千里者也.又説洋中之物莫レ

I

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合浦I︵二○○里︶11拒濟島I︵一三○○里︶I吐刺忽苫I︵二七○○里︶I對馬島I︵六○○里︶l壹嶋

I︵四○○里︶l容甫口I︵二七○里︶l三川山I︵二○○里︶l志賀島・⁝

此の道稚中︑不明なのは.吐刺忽苫︲三祁山の二地鮎である︒老ふるに明治四十五年巌隙町稻垣キク發行の對馬

島の十寓分の一の地脚に佐須奈濁の入口西南岸の突崎を﹁トロク崎﹂とある︒トロクの意明かでないが︑吐刺忽

と全く符合し︑この時の寄港候補地としての資格も十分である︒儒裕島を苫といふとあるのは︑島でなく崎のこ

とではあるまいか︒若し右の考が正しいならば︑高麗史節要の世界村は嵯峨郷に比定すべき一の理由が農すわけ

である︒次に對馬とあげたのは其の里数から考へて對馬の南端の豆酸か淺藻の逢であったらう︒そして壹岐の武

生水の趣についたのであらう︒さうでないと對馬登岐の間が六百里とあるのが︑他の寄港地間の里程との比例に

あはないのである︒零而口は呼子なるべく︑三神山は糸島郡の西部海岸唯一の湊である︒加布里の北に立ってゐ

る小宮士のことであらう︒勿論加布里の海上に催油したのであらう︒以上の如き道稚は可なり正確に記鋒せられ

て居6.︑九洲の地方から朝鮮に亘る航路は文橡座挺の役の我が牌士の渡韓路の逆航路に一致して届る︒更らにこ

鷺に参考すべきは膳永二十七年・妙朝鮮使の日本紀行︵老松堆凶本行録︶である︒之れに擦れば次の如き族程が知 錘し於レ魚︑其背猿鍛砕

此の道程を簡略に示さば︑ 其背猿鍛然

られる︒

○○O

草梁昨岬岻ハ對馬島北面也音非梁︵鰐浦か︶粁牲叩鋳對馬東面利新梁︵網代︶叶識愁美要時︵住吉即ち惑知浦︶

○COO

・元冠と辞風︒九

山立︑彌亘不議︑所吟經海波雨堺︑不し合者数日.又東行二百里艤二志賀島下﹃

P

I

(11)

弘安一一一一年之夏ノ比︑蒙古大府高麗己下之鬮々共之兵︑躯具〆三千餘艘二︑数千蕗人乘ツレ|プ來ケリ︑其中二

高腿之丘︵兵︶船五両艘春.壷岐.對馬ヨリ上一プ兇合荷ヲ打歌ス・人災絶力子テ妻子ヲ引具︐深山へ逃篭虚

一一︑赤子之位︵泣︶言う剛付テ︑抑寄一プ敦ケル程二↑︵下略︶

とあり.伏敵綱に蝶れぱ文明本にも︑壷岐對馬より上てとめるを︐類從本には堂岐對馬に上りてとあって︑恰か

も雨蝿に下船して戦ひ︑我が島民は山野にかくれ子を殺して鮴を免れしが如く叙せるは後人の改作にして︐從ふ

ことができない︒︵元走新研究に引く文明本に﹁壹岐對馬ニアヵリテ﹂とあるは誤嘉か︑別本の文明本ならんか

明かでなど自然その襲来により︑人災の山叫にかくれしこと︑必ずしも剛烏で起ったこと種︑一概に定めるこ やうに記録すれども︑紫本八帷患童訓には

元志と利風一○

に群對馬東而船餘串︵縦脈濁口阯良崎か︶一卉一↑叩錆一岐烏北淡曄調作干沙毛梁︵勝本︶咋網鐸朴加大傘瞬葬辨匙︶ ○00

繧日喉心没島に細醗窄細部朴加大︵博多津︶川日若

鰐浦から束海岸に廻航して網代に於て風待ちして二三日を饗してゐるのである︒網代は富浦︐こは尉殿崎の南北に

あってと︑もに南下するに便利な風待ち油であったのであらう︒西泊もこの附近にある︒猫ほ此の族行日程を汎

海小錐の行程に参考すれば常時の航行の詳易でなかったことを察し得られるのである︒

東路車襲來するや︑多く登岐對賜の海上を通過したもの苞如く︑下船して村落を鯉雌すること文永の時の︒如く

ではなかったやうである︒高腿史節要には高腿の將金刷鼎以下對馬に下船して戦ひ︑爲めに討死する薪間あった

やうに記録すれども︑そは極めて小規模の爾突であったであらう︒我が史料には同様のことは見えてゐない︒筑

(12)

とはできない︒日蓮聖人注謡読の弘安役の記事については︑元遥の新研究には八幡蛾童訓と同じ史料に蝶2しか

いたもので︑八幡患童訓に擬つたものでないとあるが︑私は大贈喪讃は憩童洲に振り︑↑卜百弘安二一年以下の文︑

即ち回二年の記事は︑他諜に依て.蛇足を添へ一一もので︑弘安四年以下の記事は愚童訓により︑たざ草野︑河野

の術氏の戦功談を削ったに過ぎない︒謹讃の蒋薪日澄は専ら伊豆相模地方に布教し︑永正七年に入寂してゐる︒

︵本化別顕佛岨統記︶から蝦誰訓かやうやく枇に行はれた甑︑認識は之れに推て書かれたものと恩ふ︒そして其

の文章は鯉厳訓を漢文に直したと恩はる置ふし人Iが多い︒元軍の数の如きも.愚童訓には船三千︑人数千寓人

○oとあるむ︑謡読には人数数千醐人とあるを削って︑紙数三千といふに︑七池を加へた如き巧みを樅じてある︒﹁人

口﹂とあるを﹁街談術話嗽﹂と直し︑﹁サ︑ヤキーを﹁私調合﹂と画してゐる︒愚童訓には﹁高麗之兵船五両艘堂

▽○○○○O▽

岐對馬ヨリ上テ見合背ヲ打款ス﹂とあるを︑誰謡読には﹁商歴舟五両舷.目壹岐︑對馬|下︑︵日澄は名分に注意

を桃はなかった︶打二殺兇他者一﹂と忠雷に課して居る︒次に大店と舟は對馬へ不寄壷岐之砧に荒くとあるを﹁然

間蒙古寄礎岐島﹂と課したのであって︑六月末から七月初めの堂岐の職を叙したのではない︒それはとにかく︑

誰読の此一條は忠蜜に筑紫本懸菰訓に推つたものであって︑共の邦人殺識の事を︑瀧岐對馬に於ける事とはして

ゐない靴を注意したいのである︒弘斐役に對馬に職のありしことを仰へたものは同局内の記録にも見えてゐな

い︒とかく針小棒大にしたいものは先岨の勤功であるが︑世にあらはれてゐるもの豈外︑予の探訪し↑脂宗氏家譜

宗氏年譜略︐宗氏故事談・對馬異孵辨︵海東諸醐記對馬の條の注樺︶史氏異Ⅲ︑樂郊紀附.津砧紀覗︑等にも此

の時戦雫がめった様には僻へてゐない︒たざ窪宗家家臣村岡氏所藏宗家御系圃といふ譜に︑助幽の子﹁右馬允硴明

元志と・神風一・一

(13)

I

東路軍はかくして四月より移動を始め︑六月の・初めに至りて椰多の近海に集合することができたやうである︒

張百戸の碑銘に︑六月六日志賀島に至るとあるは︑その鮫も遜く到つ仁もの了のちうp八幡愚童訓に擦ればかく

して六日から十三日まで戦がつゾいたやうに見えてゐる︒こ芦に於て大戦の序幕として︑換言すれば東路︑江南

元志と利風一二

公﹂の條に﹁弘安元年十月七日︑大元兵十寓攻州︑越前五郎公死之﹂とあり.元年は四年の課として︑此の事他

書に見えず︑恐らく誤であ白う・壷岐については六〃末から十月初めに亘る戦ひに開する文書記録はあるが︑襲

來の最初殺獣の行はれたL﹂いふことに就ては︑何等の史料もない︒に晋少武賓時が︐瀬戸浦に戦ひ︑五〃二十一

日戦死すといふ癖へがあるのみである︒︵堂岐郷土史︶察する所蒙古軍は江月二十曰頃から順次壷岐を経て博多の

近海をさして一路南下し︑高肥の船は對馬︑壷岐を経て南下し︑嬰阿に支隊を瞳いて︑後方の通路を守るぐらゐ

に止めたらしい︒そして雨島に上陸して大に我兵と戦ひ︑主要目的を逹成する以前に兵力を損失するが如き擬明

ならざる車略を棄てたものであらう︒一代要記弘安四年六月一日の條に︑敵船襲來すといふ太宰府からの報か萩

○O○つせてゐるが.それには﹁異國兵船五百艘汁襲二米對馬之澳一︵沖ピと見ゆる字や並も正しいとしなければならない︒

されば此の時敵はまづ根擴地を對馬に避いたといふ説も︑根擦の意義に依ては鋳成できない︒上記の如く若干の

足場を定める位の意味ならばよいが︑その全軍f根蝶地を對馬に置いたといふ意味であるならば遮かに養成でき

挿谷い0

︵三︶志賀島の意義とその後の元軍の退却地

L

(14)

P

の雨軍合して十四寓︑一畢して博多に上陸し︑以て太宰府を陥れて︑九州を席捲しようといふ方略の前衞戦とし

て志賀島攻略戦が開始せられた︒又別軍を長門方面に出して我が後続部隊を索制しようとした︒賊船が長門の浦

に押寄せたといふ太宰府の報知は︑十四日に京都に着いた︵自筆本勘仲記︶此の報まづ太宰府に着し︑更らにそ

れが京都に致されるには.十一︑二日を要すべく︑敵艦が長門の海上に襲來したのは︑六月の初めで︑その志賀

島についた以前のことであらう︒周到なる敵の軍略を知るべきである︒志賀島は上古以來牛島との交通を支配す

る要地である︒古の奴國の中心はこ笏にあったと憩老する︒耐功皇后の征韓軍には︑此の島の海人名草の活動は

著しいものであり︵日本菩紀︶島内綿津見神は對岸禰岡の住吉榊とともに︑小戸橘樟ヶ原の故事以來の由緒の

川祇である︒日明交通時代に至っても︐此の明祁の榊威艦然たるものがあった︒この役には高野山南院不動をこ

ゞに勧請して降伏の祇蒋をなすと鱒へられる︒︵高野春秋︶その遥蹟なりといふ火炎塚は蒙古塚の東北にある︒寳

に海上から攻めて︑太宰府の入口たる椰多を陥れんとせば︑まづ占領せざるべからざるは志賀島であった︒︾東路

軍は壹岐︑對馬に若干の足場を世いた如く︑志茂島を占領して大戦の準備となさんとしたことは︑かねての軍略

であったらう︒老松堂日本行鋒に擁れぱ︑︲大船は椰多漣内に深入りせずして︑志賀島に泊り︑小船に乗へ換て博多

ノ叩カタ津に着くのであった︒もしこれが常時一般の乘方であったら︑元顕は猫ほ更ら志賀島を占領する必要があったら

う︒しかしながら爲めに束路軍の主力に動揺を來すが如きことを避けたらしいo我が軍はかくて彼れ等が江南軍

十海の來り街するといふことを知悉することができかして︑これを不可思議に思った様子が見える︒伏敵綱に引

く正應本八幡患童訓に︑類類木文明本及筑紫本にも見ざる下の如き文が︑河野大友諸氏蘓戦の記事の次にあるゞ

元志と鰊風一三

(15)

近の景色を叙する文を紹介したい︒

元走と瀞鳳一関

一l此のち夜うちせし者ともは︑皆おほくうたれつ︑されとも蒙古一﹂の度ははなはだにおししつまりて軍ぜいそか

す何事ぜはかるとにかあらん兵船ともはるか沖の方なる朧肪へこそはこきよせけれ﹂とあるo何か擦る所あって

加へられた文であらう︒蒙古襲來繪訓の如きものに擁りしにあちぎるか︒總じて敵は能古︑・志変に着岸したるも

敵より我が︑王力に對して攻準したる様子なく︑夜秘かに同島に上陸したやうに恩はれることは︑蛾誰訓に︑その

報知の博多についたのが︑一夜中ノ事ナレゞハ﹂狼狐せるよしを傳へてゐるのである︒我が軍もこれに對して主力を

以て細攻撃したる様子なく.たざ海陸から夜・哩笹以て部分的攻雌をなしたに過ぎないやうであるpそれも扱害が

餘り多かつだから︑その夜襲をも止めようとした有様を︑筑紫本愚童訓に

一去程二死者數を不知︑前後二往謹者千寓人行テ一人モ廻ル童無卜見へシカハ此童無詮︑人胤不可有︑心々二

夜討可止埴︑合戦之次第ヲ評定可有トテ被鯛ケル︑サレトモ猫止ラ今ス伊與之國住人河野六郎通有者︵以下略︶

と見えてゐる︒既にして我が忠勇の武士なる執鋤な襲盤に堪へ兼て︑敵はつひに鷹島に退いた︒さてこの鷹島に

ついては二読あり︐元軍穫淡地は肥前臓島でありといひ︐或は玄界島であるともいふ︒伏敵繩︑一兀冠の新研究等

皆前説に從ひ︑中山平次郎氏元冠史籍研究には後論を取ってゐる︒予は後読に從ふものである︒其の理由は本研

究を通じて︑逐次これを明かにしたい︒今差常り筑紫本態童訓上巻の経り︵類從本下巻の一初め︶に箱崎八幡宮附

麥、朝其 雨日地 岐耀之 ニク鰯 秀磁畿

タ門

リ山此

、塵二 稻ニハ 葉交村 結ル里 フ光チ 白チ比 露ノ、ヘ ホ入テ ノ江如 力之櫛 二蝿喪 漉二祥チ ル浮潴冨

稻ダ

妾リ滿 之田テ 布地成 欺騰市 無IMチ

歎テ

之農家 假夫を 之緋二 病シ罐

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有溝夕

無ヲ部

僅奨励

如舸民 露チ之 亦成磁 電荷二

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I

(16)

とある・︵此の書の著者を老る條に参考せられたし︶この文意語勢によって老ふれば︑多認烏は玄界蝿なること

頗る明瞭である︒元冠の新研究には︑本書の作者は戦場の地理には暗かったであらうと云はれるが︑今此の箱崎壮

周囲の風最を叙するについても︑誤りはないばかりでなく︑営時の眞景として現代の地理を還元すべき歴史地理

上の好史料である︒故に同書に束路軍が志賀能古を去って﹁鷹ノ島へコソ引退ヶととある鷹島は.前に多可島

︵類從本に多駕島︶と記せし島をさしてゐるのである︒後世の學者の研究は知らず︑本書の著者は宮の前遥かの

沖の玄界島をさしてゐることは疑ひを入れない︒﹁茜海遥かに見渡せば﹂なる語や︑﹁遥かの沖﹂なる語は締崎八幡

を主艘とした主獅的な言葉として前にも︑こ画にも川ひられてあるのであるから︑之れを肥前雁島であると老定

するのはあまりにこの記事を史料扱ひにし過ぎた槻がある︒本番前には多可と書き︑後には鷹と書いたのは.前

には志賀︑野古といづれも字青をかりて書いたから︑多可と連ねたのであらう︒玄界島を多可島と書いた例はあ

るが︑鷹島とかいた確證のない限り︑これは肥前鷹島であるといふ断定は穂であるまい︒由来高島.平島︑大島

小島︑青島.黒島などいふ蝿の名は諸國に散在してゐる︒皆その島の地理的意義をあらはしたものである︒島の

高いのを高島といふ︑玄界島を高島といふも同意なるべく︑肥前の鷹島も商島なるべく諸閣海陸記には肥前の

鹿島を高島とか堕しゐる︒猫ほ膝砧問題については︑章を逐って論及しよう︒一言こ葛で注意しておくならば︑

それは大方の元冠研究肴は閥七月朔早天の元軍覆没の地と︑同七月五日より七日に亘る追盤職による元の敗残軍

元冠と祁風一五 ︵虫喰︶●●

千醐歩.浦之王一一比スヘシ︑青松茂/七八隅︑名所之中一一無双︑痔葉掻クメウナヒコカ冬畜スル栖居毛布キ前一一︿芳海●●●●●●●●遙一一見渡セハ︑多可︑野古︑志強︵獅從本には多駕鳥︑コノ島︑志変島とあり︶三島浮出タルワリナサハ莚莱方丈旗洲之三之祁山ソトアャマタル︵下略︶

I

I

(17)

元志と稗風

戯滅地とを混同するこ:・から︑

史料に鷹島は即ち元軍笹没し一

卜孝P可〃︑

一庇玄界島の沖まで退いた東路軍は磯岐に還った︒張百戸の菜碑銘に

軍還至二一岐島︽六月晦定叶︶七月二日賊舟雨至

とあり.鷹島に退き.更らに登岐に還るとは見えてゐない︒元冠の新研究には︑鷹島へ退却し亡﹂とを符筆し一﹄

のであらうと推定し︑然らざれぱ五月中旬から六剛末まで︑東路軍が壷岐にゐた間に︑我が將士は彼等や攻撃

しなかったであらうかと反問して今︑る︒老ふるに此の論法を以てすれば︑剛前脆島に退却してゐ↑Lとしても︐我

が將士は之れを追討しない筈がないといはなければならぬ︒今同島の駕時の歴史及び地理を老へん︲かc來烏文書

文永七年九月十五日附け︑大島︵來島︶▽へ爽郎通清及び弟地赦丸宛ての所領鍔堵欣に︑宇野庄御厨内大島︐〆あり︑

佐賀文書纂所收松浦戴山代文排︑建武四年四川三日の同様の朕に︑肥前剛宇野抑厨内山代︑多久︵度鮎︶寄島聯

島L﹂御厨半島の間にあり︶荒古田︵不明︶東島︵小明︶︲こ見え.同文書建武二年十二月十日附けの雑訴決断所牒

に︑宇野御厨内山代︑多久鴫︑船木︵不明︶束嶋と見ゆ︒束島は膨烏をさしたのではなからうか︒果して然らば

宇野御厨は西は午戸.東は朧励︑南は松浦郡の地方である山代地方に至︽っものLL見える︒後世松浦簾の中に・鷹

︵四︶所謂元軍の根擦地肥前應島

一一︿

職始の所在が問題に心るのである︒この混例説の隼じ易きは多く一兀史等︑支那の

繊滅せられし地とな・すに起因してゐる︒その樹否については.次第に惑老迩述ぺ

I

h

(18)

烏氏がある︵松浦蕊諸家譜︶鷹島士蒲の松浦の一難であらう︒併し室町時代にはその名が見はれなかったのであ

るまいか︒海東諸幽記に松浦猿にして朝鮮から旗造船をゆるされてゐたものが航る多かつだ︒睡烏附近のもので

は御厨︑大島︑志佐︑山城︵代︶の諸氏がある︒併し聡烏氏は見えてゐない︒永仁二年幕府邪異剛用心のため︑

峰火の波脅を大島叉次郎︵子孫来島氏と孵し.今幅岡に住す︒即ち來烏文齊の所藏者︶に命やる書に.一︲壷岐對嶋

より始て︑鴫々高き所に火を可し被し立之側・大島には壷岐岻の煙を守て︑その時をたがへず︑たき団多卜6つみ

て︐あまたたくべき也︑たがいに火のひかり煙を守てたかるべし.大島の火を見てたかしまにたきつくべき山︑

被相鯛畢﹄︵来島文書︶とあり︒壼岐の火を大島EL受け︑それを更らに鷹島にて受けて俸火をあぐべき事ぞ大島氏

に命じてゐるのは︑鷹島哨亦大島氏の勢力圏内にあった一とを語るものと見られないであらうか︒而して山代氏が

御厨︑大鳥︑平戸・有則志佐の諸氏の棟梁として︑弘安役に︑壷岐島の戦に参加して居り︑之れ等諦氏の悲戦

の見知の誰人をなしてゐろこし鮮佐費文書繁所收松浦燕山代文書に見えてゐる︒︵梼伏敵細に収められる︶前記水仁 の峰火の波禰は︑弘安役併時からの國防施設であったであらうし︑松浦蝋の一侯して剛結する瓜も古ハⅢEである︒

されば弘安役六月中旬から十川にかけて︑元軍の主力が鷹胎方面にゐたとすれば︑必ずや石志︑山代︑飛烏等の

文書にその誰があらねばならぬ筈である︒史料がないといふ塀は︑皆失ばれたといふことには備らない︒史料の

存在しないといふ覗も︑史料となることが多い︒此の際之れ等文背に元軍が久しく鷹島に披てゐにといふ卵ぞ證

寸べきものゞないといふ事は︑同貼を根推地として︑元姫が月餘に瓦2L同烏に割擁してゐたといふ頭を否先す寸べきものゞないといふ事は︑同

ろ史料であらなければなるまい︒

元潅と刺風

(19)

元潅と刺風一八

元耶峨滅の地として︑雌島が飛要史蹟となってから︑涯貼を以てその根源地と老へられるやうになったが︑此

の砧のすべての軸から老へて︑さうした費格が此の賂には仏だ乏しいのである︒敵の主力が此の島に擦るとすれ

ば︑棚常の平地ど必要とする︒部落がなければ夜笹をしなければならない︒彼れ等に夜誉の準備があらう筈がな

い︒又船を油めるとすれば︑海上にそのか這り場がなからなければならない︒予は此の烏の北部の船懸り場であ

る阿翁から︑西南の端の船懸り場である船版津まで歩いて見たことがある︒凡そ二里程あって︑その中央から北

の方殆んどは︑島を歩くとは恩へなかった︒悲辮時代には松浦群抑役が指揮して︑元遥曜退記念の行乖を行った

︵村長の話︒伏敵細に戦す同島々人の報告一︲靴碗﹂ルルし典る所あり︶爲めであるといはれ︑烏喚部には似合は

ない︒道路が胴地間に貫通してゐる︒而して此の道路は海上笹見時す所少く︑周廻数里の脇を歩くとは町芙なか

った︒一兀軍は農耕屯田の川意をして來にといは伽る︵八幡蛾誰訓︶から.或は根擦池哲こ豈に定めて︑持久の策

を術じたとも老へられるやうであるが︑以上の如き島の地勢は︑明かに之れをゆるさない︒況や何禽といふ兵な

どを收容すべき土地は此の砧にはない︒

然らば海岸はいかに露文年間幕府が普く西國の海岸を訓在して作らしめた西幽巡見記に︑

鷹島回り六里高武千石

平戸佃下ノウヲ

殿浦 三リ

家十三汗捧西風南風悪シ冊艘斗力︑ル

I 1

(20)

一硴瀬ェ十町乾ノ方

○佛嶋︑所ノ鴫︑赤瀬鴫︑大子鴫イッレモ七町八町酉ノ方

とあり︑海岸線は非常に多いが︑主要な船が琵りば二簡所のみであって︑周園ことに北海岸も西海岸も絶壁をな

してゐて浦といふほどのものもない位である︒千︑二千といふ船は阿翁.殿浦何れにもか豈りかねる︒加ふるに

四方に潮あり︑小さな漁船位ならばとにかく︑何十人何百人乗りといふ大船はとても自由に近寄れない︒若し是

非といふ必要があれば︑船毎に水先きが必要である︒同上書に擦れば︑漢としての星鹿.青島.御厨屋︑志佐︑今

禰皆同じやうなものである︒たゾ御厨屋は﹁湊︑南風︑東風悪シ︑両股ホドヵ︑ル﹂とあるのみ︒他は五十艘と

か覚り得ぬ所のみである︒然らば千崎背冊︐臓貼以南の湾内︵伊阿皿潤の外湾︶はいかに︑それは船懸り場とし

ては厭きに過ぎ︑風を避ける川をなさがして︑しかも嶋々湘々に依て塞がれた危瞼な瀬戸を通航しなければな

らないから︑これも害あつ.て征がないであらう︒然島.ぱ勝貼東北の外洋上に假泊し十一として︑如何なる便宜利益

があったのであるか︑馬斑陽︵松浦蹴馬斑氏の根搬地︒近時離れキリシタンの居住地として地方的に右名となる︶

元冠と刺風一九

チウ

△舟希所ヨリ 阿翁

○黒島エー里西ノ方

一エヒシ瀬ヱ牛里酉

一貝瀬ェ十町戌ノ方 ︺黒島エー里西ノ方此鴫二家五軒百姓一エヒシ瀬ヱ牛里酉ノ方 家三十三粁楼西風南風悪シ冊披斗力︑ル

(21)

争い 一﹄

1R担剖權画110

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く侭笥=、垂骨<掌倖e識謝細晨< 'LDwG'噂抽埋遅漿誉や熟らSfJ含『Q・望e担退遥匡頓.望這這塁型:三、Qや匡謹ド』

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トルJや軍繧P令幻蕊′登輔司志e獣雪望Jg・,p当今IJ罰中里キjLs,昼挫p起唯』迩轡&。幽雪e蔀帥e三抑遥髻巡′ ik

(22)

蕊︑周防︑長門四箇國結番して警問すべきこ︲こ︑建冶旭年五H二十日武田五郎二邸宛ての幕府の御教書︵東寺文聿巳 に見えてゐる︒長門だけではない︒薩摩方面に於てすら︑嘉兀三年︷ハ月二十九日下野彦三郎宛一礼の幕府の御教書

.︵島津文誰口に︑異峨防禦事︑早居庇鎭凹脈領禿兇徒令一鼬來一者︑可し教防戦忠一﹂とある︒か強ることは弘安

の前後に於てのみあったのではなく︑叉長門や薩摩方面ばかりにあったことでもない︒弘安七年の志々岐祁肺の

︵本ノマ︑︶祠官志ん岐氏の軍忠言上状に﹁去弘安川年異船鯉來之間︑要害津々注︵進字脱ヵ︶多之︑︲一とあり︑営時松浦郡

に於ける要害津々の弊術機開の活動を見るべきである︒前記貼津文圭脚にある如く︑壷岐や松浦郡地方の支配者は

公莊の差別なく︑皆その地につい︑て守倣どなしてゐたであらうと恩ふ︒弘安の役に志賀島峨に四閏や九州の肥後

筑後︑筑前︑竪後︑薩隅︑及び肥前の南東方面の豪族の活動は︑季長の繪詞︑愚童訓及び諸家の古文書に見えて

ゐるが︑北松浦郡地方の豪族の邪のあまり見えてゐないのは︑寧ろその土若地を室にして釜部博多に集ること力

できなかったが爲めではなからうかとさへ憩考するものである︒故に樹時聡島はまた砿事上安全地帯でないのみ

なら才︲松浦熊の活動地の中心にあったこと前に述べた通りである︒︲bしそ唾兀軍がこ菖に大根推地を求めんと

して︑占恢しようとしたならば︑登岐合戦以上の激戦がなからなけばならなかったであらう︒

江南軍十鱒︑戦艦三千五百砿︵一兀史世旭本紀其の他Ⅱ本肌征諸將の博︶は江南を發して六月望︵十五日︶前壹

岐に於て︑東路軍と相會し︑一畢して太宰府を占楓せんとするのが元軍の方略であった︒則ち東國通鑑に搬れば

元冠と瀞風二一

五江南軍發着の時期 I

I

(23)

I

元志と紳風二二

高腿の忠烈王は六年八月元に行って軍略を約し︑茶丘.怖都は蒙腿漢四禽軍を率ゐて合浦を渡し︑苑文虎は霊軍

十繭を率ゐて江南を發船し︑﹁倶會二一岐島︷雨軍罪し集︑直抵二日本城下︽砿し之必﹂と定められたのであるo東

路軍合浦渡船の條に於ても述べたことであるが︑大帆船が三千五百艘も黄海を渡って壹岐に集まるといふ事は尋

常の仕業ではない︒過唐使時代から日明交通時代にかけ︑我が渡航蹄航の船が︑多くて一度に十股ぐらゐであっ

たが︑各船とも無窮に航海し了へたといふことは︐何度あったであらうか︒それも一年中最も好い時節を搾ぴ︑

︵往航は多く四江月︑歸航は秋冬のⅢ︶あしかけ二年に一日一って往復したのである︒然るに元軍は日本海の日和を

主として五・六月を擁ぴ︑三千五百艘黄海を過ぎって襲来したのである︒階店い裳だかってかくの如き大船軍の

派逝あらずといばれたの︵汎海小鋒︶予はその無謀を驚くとともに︑とにかく軍を全うして博多近海に押寄せた

ことを以て大なる敵の成功なりと老ふるものである︒

三千五百艘大方風に依て動いたであらう︒蒙古襲來納詞に見ゆろ束路江南雨軍の船の繪は︑何れも人物を主と

して描かれたが故に︑船の上部帆柱の全部をあらはした繪がない︒そして多くそれが戦闘中であるから︑帆柱は

倒してゐたのであらうか︒砿︵擁の如くにも見えるが︑明かに艫←認むくきものもあるから︐姑く艫とする︶に

依て迩聰中であるから︑猶更ら帆柱に注意されてない︒志賀島戦の所に見ゆろ賊船四艘の中二艘はまるで帆柱が

描いてない︒そして片舷に四挺艫を立てた船があるやうであるから︑左右合せて八挺立であらう︒かの繪詞に見

る如き大船が八挺ぐちゐの艫では︑とて§黄海を四五日で一日一ることはできない︒よし三十挺五十挺立てにしても︑

大海を漕いで渡ることは不可能であ魚う︒矢張風力によって動いたであらう︒叉若干づや隊をなして誰船したで

(24)

︑︑あらう︒又風位潮流に依って︑風待ち潮待ちをしたであらう︒又九六月頃は對馬水道の東西︑日本海黄海はモャ

の多い時である︒私は下關門司の鐡道連絡船中で二時間もモャの爲め漂泊したとがある︒弘安三年十一月高歴王

は使者を元に遣はして︑明年五︑六月頃舟師を發船せしむくしといひ︑豫め綿食の閾乏せんことを怖ると述べ︑

其の理由として︑﹁我國毎歳五六月雨埋雨不レ止︑小有二西風﹃海遁霧陪︑侭或沌二留時日﹃未二即發移船︑恐軍民一

7時乏レ食﹂とある︒二に於て述べた如く︑東路軍の或るものが對馬︑壷岐︑及び肥筑の海岸に沼うて志賀島に至れる行程は其の航行の進だ券易であることを恩はしめない︒老松堂日本行録には草梁から志茂まで二十日を要し

てゐる︒五島より志賀に至る︑猫史らの事である︒叉江南厩しといへども︑三千餘の帆船を一時に泊せしめて風

に安全といふ船懸りがあり得たであらうか︒同じ江南に發するといふも︑恐らく發船地は必ずしも一緒でなかっ

たであらう︒叉船も必ずしも皆統一されたものではなかったであらうと思ふ證擦もないではない︒かく老へれば

益々三千五百艘が短時日の間に目的地に集合し得るものでない︒

加ふるに日本近海︑ことに松汕郡から筑前海岸には相常脇喚や晤碓も多いのであるから︑航行は決して樂でな

い︒馴れないものが自由に航行することは不可能である︒元史世Ⅷ本紀に︑雄へた對馬人が太宰府の西六十里の

所に戌軍あり云々と云ったと見えてゐる︒又元史日本陣に.至元十八年三月︑日本の漂流船の水工に命じて地凶

を霊かしめて.近く太宰府の西に︑平戸島がある云々といふことを知ったとある︒かうした僅かな日本人かち獲

仁玄界灘方面の海に鮒する知識では頗る危嶮であった︒恐らく江南に來七日本人を撤迎して︑︵至元十五年日本

図人と市舶今や通ぜしむること元史仙肌本紀に兇ゆ︶或は其の知識を借らうとし︑時には日本人を捕へること︑對

元冠と刺風二三

I

(25)

元冠と抑風二四

馬に於けるが如き例もあったのではあるまいか︒對馬には文橡度遅役の岱峠ですら︑牛韓牛和ともいふべき住民

もゐたのである︒かうした考共をかり雌めて︑水先案内をさせたのであるまいか︒

肥筑海上の危嶮は林唐人もよく知ってゐた︒三韓詩他鑑に商腿の人郭預の詩あり︑中に﹁有し夷︵日本︶生二寄

海中央﹃水道繩通︑愛難し洲﹂と見え︑元史にも日本川征には瓜水の不便といひ︑海道瞼遠といってある︒元史相

威仰に弛文虎が﹁以二兵十鱒へ航し海征し倭︑七荘夜至二竹鮎一﹂とあるも︑遮かに信ぜられぬ︒なぜなれば弛文虎の

仰には干壷島に至て腿風に辿ふ鵬に見え︑同李廷仰には竹島に次て風に遇ふと見え︑一致してゐない︒七誰夜は略

ぽ江南から博多に至る航粍に苗るが︑さう毎日航行がつ晋けられるものでない︒そこに帆船の航行に︑非常な弱

味があるのである︒毎日順風順潮を以て航行し︑江南から博多に至る間を七笠夜にして蒲いた肴があったにして

も.それは極はめて肺れなことで︑苑文虎李廷等の部下の一二の船隊に過ぎないであったらう︒日明交通時代補

陀落山にあって風を待つのが最も時日を要したやうである︒故に七誰夜にして竹島に至るとあるのを以て︒三千

五百艘全部の行程とすることは︑除りにも海上交通史を顧みないものと云はなければならない︒

かくして三千五両艘が黄海ぞ渡って凡そ仰多の近海に達するには.何稚の時日を要したであらうか︒軍の行動

を吟味するに先さ立って︑上記航行の困雌に對する理解がまづ必要である︒元遥の新研究には高腿史世家に識軍

掘把沈總等六人が日本より逃れ來j︑至元十八年六月十八日︑乗船して日本に至ると︑語ったことを戦せてあるに

擦り︑江南軍の慶元川發を此の日と定め︑そして元史肚岨本紀︑至元十八年六月庚寅︵二十六日︶に世川は阿刺

竿が病の故と以て阿塔海に詔して︑軍馬を統率して日本を征せしむとある日附を信じ難いとなし︑丙寅︵六月二

(26)

日︶にかくべき事寳を謀って庚寅にかけたのではある土侭かと説墜Lある︒そして江南軍の行動の時日を考へる

に︑常に沈總等の川發期日六月十八日今ぜ以て基準としてあるのはいかざなものであらうか︒沈總等六人が乗船

︵必ずしも發船といひ得ない︒乗船して後︑風を待つこと・も常の例である︶したのが︑六月十八日であったであら

うが︑全軍此の日乗船叉は發船したとはいへない︒江南軍總帥阿塔海の乗船︑出發は六月二十六日か︑その以後

にあるものと上記元史世帆本紀に擁て定め疎ければならない︒中には出陣して︑しかも日本に至らずして還った

︵元肥嚢加汐傅︶群もあったが︑それは問七月一日の風に妨げられて︑途中から還ったものかも知れない︒故に元

史日木像に敗卒子閻が歸遼し−1報告したといふ言葉の中に﹁官軍六月入ン海︑七月至二干壷一﹂とあるのが︑江南軍

移動時日の大鰐を誤りなく仰へたものであるといふべきである︒

五月東路軍が初めて入遜せることに州する我が史料には︑高寵と蒙古とを併孵し︑かつ差別をしてゐる︒而し

て向筆本勘仲記六月一千四日の條に︑宋帆船三百對馬鴫に落したといふ太宰府の報をのせてゐる︒之れは明かに

宋軍を高麗蒙古軍と匝別をしたもので︐江南軍の來對馬鴫と詔むくきものであることは八代閏治氏などの説かれ

た通りである︒從って江南甑は六月十三四日函までに對賜に蒲いてゐたといふことを認めなければならぬが︑勿

論之れは典の主要勢力と老へら︑れぬことば・三両餘艘とあるに依ても明かであり︑かつ前記の如く江南軍の總帥

は六川二十六日か︑その以後出發してゐる事から老へても明かなことである︒これを以て江南軍の主力と老ふる

八代氏の説は元憲の新研究にも指摘されてある通り︑いかざなものであらうか︒前に述べた通り︐元史日本傳に

擦れば漂着日本人にか画せた地岡に依て︑新たに献莱せられた車略では︑平戸島を根搬とし︑こ典から使を壷岐

元潅と跡風二五

111

(27)

1

元冠と瀞風二六

に篭はして︑折都茶丘を招き含せんとするにあった︒而して世組はその採否を江南軍總帥阿刺牢︵滴みて阿塔海

之れに代る︶に任せたことがある︒元遥の新研究にこの史蛮を参考とし︑此の宋船は六月十八日江南雛の︑王力

︵同研究は.六月十八日に江南軍主力が發船すと断ぜるこし前述の如し︶が期に遅れて出發せることを︑束路軍

に報告する篤めに︑對蛎に行った江南軍の先發隊であるとし︑謝時肥前朧貼にゐた東路軍︵六月十三日以後東路

軍は志賀島から肥前膳島に退き披ると同研究に老定しておることも前に述ぶるが如し︶は壷岐に移って新來の江

南軍を迎へ︑かくしてともに六月末から七月初めに霊岐で我が軍と戦ったのであらうと推定してある︒予は江南

軍の總帥は六月二十六日以後川發したであらうと考へ︑東路軍は志劉島から世ぐに壷岐に還ったと考へるから︑

極はめて複雑な此の考證により︑肯定せられた細蒋な所見ではあるが︑狭成川来ない︒この宋船は果して江南軍

の先發隊であるかどうか℃之より先宋船到着の報が︑我が史料に見えてゐないから︑或はかねて深く懸念せられ

てゐた宋船の初到着の急報であったかも知雌ない︒それはとにかく︑江南軍の一部が六月十三四日唖︑即ち東路

軍が志賀島戦浄.中止して︑壷岐に引揚げた頃︑對馬についた事だけは明白であると思ふ︒江南軍の一部が壷岐に

介せかして對馬に着いたのは︑偶然のことであらう︒或は朝鮮の南部に清き︑更らに南下して來たものかも知れ

ない︒篭唐・遣明諸船の復航に腿〃あった例である︒

六月中旬から績々來航した江南軍は︑壷岐に於て東路軍と合したのは豫定の軍略通りであったらしい︒三韓詩 j

六壹岐合戦の一意義と平戸島

(28)

魑鑑に牧むる高麗人郭預の題﹁感渡海﹂の詩にも︑﹁東南師期在二六月︽千艘駕し浪會一壹岐認詐﹂とあるに篠ても明

白である︒この時東路軍は︑或は両軍聯合の大艦隊の根擁地として登岐を占領しようとして︑こ上に六月の末か

ら七月の初めに亘る登岐瀬戸浦の合戦が起るのではあるまいか︒瀬戸浦合戦は薩藩薔記所收比志島文書︑龍造寺

文書︑張百戸墓碑銘等内外の史料の事奮がよく符合してゐる︒瀬戸浦の戦に参加した者にして︑今にその微證と

なるべき文書を傳へてゐるのは比志島氏︵薩藤暫記所收比志烏文書︶及び︑龍進寺氏︵佐賀文書纂所收龍迭寺文

書︶松浦燕山代氏︵佐蛮文書纂所牧松浦薫山代文書︶である︒松浦燕山代文書に見えてゐる弘安の役に動功あり

し者に︑御厨預所源右術門太郎兵術尉︑志佐小次郎︑志佐三郎入道︑沌吉園性房︐平戸平五郎.有田次郎︑大島

叉次郎の諸氏あり︑いづれも松汕蕪の人々であること頗る明白で︑之れ等諸家の名は明徳四年二月二土一百の同

燕の一撲結盟の證文の連群の中に︑皆見えてゐる員津山は佐世保と相對し︑平F烏の東南岸の船つきである︒津

山氏は恐らくこ﹄に土論した松浦薫であらう︶松浦燕山代文圭卸に見えてゐる︑松浦蕪以外の人々には河上氏︑益

田氏︑空閑氏︑船原氏︑橘氏がある︒肥前の河上淀姫帥杜の祠官は本姓藤原氏であることは︑河上文書に依て明

かである︒河上氏は此の祠官の家の人であらう︒松棚蕪山代文書に河上叉次郎と見えてゐる︒橘薩雌は橘諸兄の

後といはれ︐杵島郡に土蒲し︲郷名澁江を以て氏とした︒建武元年の龍迭寺文諜に橘薩摩聖空と見えてゐる︒薩

摩は稲號であらう︒益川氏の來歴については︑調森肢も困難であった︒管見では僅かに昭和五年探訪の肥前小城

郡岩藏寺過去帳に︑﹁應氷十一年匠四月十二日未尅︑河上合戦打死人々︑厚東武輿︑今川九郎殿以下辿名の中に︑

︒◎O○益田納所八人﹂と見え︑叉縢正三年云々と見えてゐる條の近くに︵此の過去帳は年次月次を明かにせず︑死亡︑

元志と利風二七

I

(29)

I

元志と跡風二八

逆修等の行はれし斗哀豈事にふれて記載す︶﹁益川汝行︵二字不明︶美濃守﹂と見えてゐる︒恐らく之れと同族の人

々なるべく︑肥前の豪族であらうと忠はれる︒山代文書に稀川大夫と兇えてゐる︒船原氏も系Ⅲ及び批地明かで

ないが︑之れも前記過去帳に﹁應永五年八月十日︑桐好合戦之打死人々﹂とあり︑以下戦死春名を列躯せる中に

◎○﹁下松浦丹後守源噸︑同船原宗玖︑同備中守︑同左術門太郎﹂と見えてゐる︒この船原と同じ家の人ならば︑

松浦城に脇せしか︑明徳四年の彼の結盟書には船原の名見えず﹃ふれの太郎握門守﹂の名見え︑﹁船の﹂は船原を

略したるか︑素より明かでない︒山代文書には船原三郎とある︒室閑は莊園の古制より起った地名で︑九州には

多い地名である︒肥前にも諸所にあb︑從って古烈.叉は室閑氏といふ氏の名は小くないが︑恐らくこの麥閑は

佐蛮郡の古賀︵西川刑字両古黄︑束興賀村字下古黄︶に士茄してゐたものであったらうc山代文番には案閑三郎

つ○つ○と見えてゐる︒之れ等諸氏の中で︑明かに壷岐合戦に勤功ありし薪は︑船原︑橘︑河上の三氏で︑他は庇々合戦

の動功とあり︑必ずしも壷岐砧合戦とは見えてゐないが.庇んの中には擬岐烏合戦も勿論含農れてゐる上見られ

る︒此の外武藤少戒家譜には前太宰少式入道兇悪の孫蚕時が︑壷岐島前に於て討死すとあり︑恐らく事変であら

う︒壷岐瀬戸浦にその城墓あり︑︵弘安四年五月二十一日討死と仰ふること別に述ぶるが如し︶

・之れ等諸氏の中で比志胎氏を除けば︑他は皆壷岐と特別の關係の多い松祁蝋か︑或は肥前の諸豪である︒壷岐

の軍事は太宰少式たる武藤氏が鎭西守護として直接管轄する所であったらしく︑太宰少式景賓の甥査時は︑文永

の役僅かに十二三にして初陣に臨みしことは︑愚童訓に見えてゐる︒弘安役には恐らく登時は鎭西守謹の代理と

して在島をしものであらう︒登岐は對馬.五島︑平戸︑その外肥前の海岸及び諸島喚に比して耕地多く︑九州北

1

(30)

遜の島喚中では︑肥後の上下天草諸島中に於ける大矢蝶島の如き萱格を有一.る烏である︒從って松浦諸黛の如き

この地に田園ど得るに至りしことは︑自然の然らしむる所であった︒松浦諸蹴のみでなく︑宗像︑箱崎の如き諸

大祗も亦所領をこの島で給せられてゐたo瀬戸浦は箱崎顕で地名も純崎と稗するに至った︒田村︵総崎宮大宮司

家︶文書中に︑

つOo○○O

八幡笛崎宮雑掌巾刷価壷岐島湘戸︑杷原西村事松浦小豆蠅血恥大嶋三郎九方術Ⅲ肘︑町田歪一画下輩致押

妨狼締云・葱︑事實者︑太招其讐欺︑所詮廠密退濫妨人等︑可沙汰付下地︑於雑掌史不可有陵志犠之壯如件

︵足利匝冬︶

槻應二年十一一月廿一日︲︵花押︶

とあり︑小豆︵五島の小仙嘉島土浩の者ならん︶大嶋︑町田︵明かならず︶の諸氏所恢を登岐に有し︑自然事を

純崎領し職へたものであらう︒又此の文書に依て志佐氏の壷岐に於ける勢力を察すべく︑小豆︑大嶋等の諸氏は

同島に於て志佐氏の下風にあったものではなからぅか︒

同國石田保藥師丸の地頭職が宗像紳祇の所領L﹂なりし起原は明かでない︒同赦文書では正和二年廿三日附け

沙彌側極が︑之れを夜叉女に宛てし誕壯が同所伽開係文書山吋取も古いものである︒側極は宗像紳祗に關係ありし

人か︒同斌の同地頭職を所有せろは之れより以前の事か︒而して同祗文書に蝶れば︑至徳元年六月一千三日︑明

徳三年十二月十五日︑︑水和四年三川二十五脚と数座に一間一って︑九州探題今川了俊は志佐壼岐守等に宛て︑同地顕

職を浅川志佐氏が逮凱せることを停止してゐる︒︵宗像川献文書︶又同献文書に︑氷仁正年十一月九日附け︑尼長阿

元潅と利風二九

OO松浦志佐左近將監殿

(31)

I

太宰府攻略の準備戦として東路軍が︑まづ志蛮島占領存企て画失敗し︑今や江南軍が続々として︑壷岐島方面

に來着するに際し︑いよノ︑附始せんとする太宰府總攻蝦の二度目の準備戦として︑雨軍の足場を壷岐島に定め

んとし︐之れが占領を開始したものであらう︒我が軍の防戦の成絞は如何やうであったか︒大將武藤登時の討死

は︑以てその苦戦の秋笹察せしむるに足る︒併し一方此の役に功を建てし肥前の諸氏及び比志島氏の如きは︑皆

命を全うせるものであるから︑文永の役に餅り對馬及び登岐に於て起りし如き悲惨事を見るに至らず︑或る程度

元走と利風三○

が壷岐烏石田郷薬師丸所峨川畠山野等の事を革野次郎に磯る證文がある︒壷岐郷土史には壷岐輪遺により︐此の

文書を城せ︑長阿を草野後家とせり︒之れに擁て草野氏の壷岐に所佃を有せることも︑元遥以前にあることがわ

がろ︒香椎祁宮が同國勝本の附近の香椎村を所領せることも.元遥以前からの事であらうか︒然らば弘安の役に

は登岐瀬戸浦合戦に勤功あり︐山城榮がその證人となった前記流氏や︑又前記大島︑小豆︑志佐︑町川︑演川.

草野の諸氏及び宗像.純崎︑香椎の諦枇の堂岐に於ける川佃朋係の人々が︑小武費時を大將として壷岐鮎を守っ

てゐたものであらう︒既にして弘安四年六月末から七月初めにかけて.元軍の壷岐攻略戦が開始せらる湧や︑之

れが防戦に力め︑比志島氏の如きその外文書はないが︑竹崎季長その外の將士は之れが援軍として渡海したもの

であらう︒張両戸の碑銘にはこの畔専ら海戦のみが行はれたやうに見えてゐるのは︑少しく信じ難い︒文永役に

比し弘安役には︑我れに海軍の用意は相常にあったやうであるが︑しかも大艦何百何千といふ敵の大集凹に對し︑

堂々と海上で戦ふことは不可能であったのではあるまいか︒志賀島職に於てすら.専ら軍舸を飛ばして夜襲を試

みたに過ぎなかったのである︒

I

参照

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