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貴族院議長・徳川家達と明治立憲制の展開

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Academic year: 2022

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

貴族院議長・徳川家達と明治立憲制の展開

原口, 大輔

http://hdl.handle.net/2324/1500465

出版情報:Kyushu University, 2014, 博士(文学), 課程博士 バージョン:

権利関係:Public access to the fulltext file is restricted for unavoidable reason (3)

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氏名:原口大輔

題目:貴族院議長・徳川家達と明治立憲制の展開

要旨

本論文は、徳川家達を事例に明治憲法体制下における貴族院議長の政治的位相を解明す るものである。徳川家達(一八六三~一九四〇)とは徳川慶喜の跡を継ぎ徳川宗家第一六代 当主となった人物である。静岡藩主、静岡県知事を経たのちイギリスへ留学、帰国後は公爵 を授けられ貴族院議員となった。家達は明治三六年に貴族院議長に勅任され、昭和八年まで の約三〇年間務めた。また、社会事業にも数多く携わり、各種団体の首長を歴任した。かか る経歴を有する家達だが、研究状況は不十分である。例えば、貴族院研究でこれまで分析さ れたのは一部の院内会派や議員の政治的動向・思想であり、また明治期以降の徳川家につい ても充分検討されていない。それゆえ、家達が貴族院議長としてどのような言動・役割を有 したかは不分明であった。明治立憲制の展開期に議長を務めた家達の言動を分析すること は、家達個人のみならず、明治憲法体制下における議長の政治的役割を明らかにするために も重要な課題である。そのため、本論文は現段階で蒐集可能な家達自身の史料、および関連 する政治家などの私文書、公文書などを用いて冒頭の課題の解明を試みた。

まず、議長・家達を分析する前段階として、明治憲法およびその付属法に規定された貴族 院議長の職務の確認するために枢密院での審議、および伊藤博文貴族院議長就任問題を検 討した。第一章で明らかにしたことは、多くの藩閥政治家たちが、来るべき議会開会にあた り、時の内閣が安定した議会運営を行うために、内閣と貴族院を繋げる貴族院議長の役割が 重要と認識していた点である(第一章)。

続いて、第三代貴族院議長・近衛篤麿と貴衆両院関係の分析を行った。立憲政友会を基礎 とする第四次伊藤内閣と貴族院の対立時、近衛は各派交渉会を取り纏め貴族院の意見を集 約し内閣や元老と交渉を行い、議長の位地を確立していった。また第一次桂内閣と衆議院が 対立した際は、貴族院こそ両者を調和する役割を担うべきとの信念のもと両者に介入した が交渉は失敗した。近衛の行為は議会政治が定着しつつあった二〇世紀初頭において、内閣 と貴衆両院との間に対立が生じた際、貴族院議長は何を為すべきかを課題として残した(第 二章)。

かかる時期に議長となったのが家達である。第一、二章で明らかにした点を踏まえて、第 三章から第七章では議長・家達の政治的言動を具体的に分析した。家達がまず着手したのは、

(1)内閣と各派交渉委員や衆議院との間に会合を設け意思疎通を図った点、(2)各派交 渉会を議長の諮問機関とした点である。この間、院外に対しては政友会の原敬と良好な関係 を築くことに成功し、院内に対しては、「公平」な議事運営を行い「院議」を尊重する議長 として評価されるようなった(第三章)。

第一次山本内閣と貴族院が対立した際、家達は「公平」な議事運営、「院議」尊重の姿勢 と政友会との間に板挟みとなり、その均衡を採る形で自らの振舞を律せねばならない難し

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い議事運営を迫られた。内閣総辞職後の元老会議では家達を後継首班候補として奏上した。

「徳川内閣」は貴族院と政友会からの支持が期待されるも、家達は組閣の大命を拝辞し「徳 川内閣」は未遂に終わった。本章では「徳川内閣」説が選択された当該期の政治構造を解明 した(第四章)。

大正一〇年、家達は原内閣によりワシントン会議全権委員に選出された。原内閣の貴族院 対策として全権となった家達は、アメリカでのパーティ外交や輿論対策を任務としたが、海 軍軍縮に関する「失言」により批判を浴びることとなった。家達が全権を承諾したことは、

原内閣を支持する政治勢力から称賛されたものの、それに対峙する人々からは批判が寄せ られ、議長・家達が院内に対して「公平」で、「院議」を尊重するかどうか疑問視された(第 五章)。

清浦内閣時、研究会と対立した家達は火曜会設立に着手し、貴族院の行動指針を示した。

家達は、政党内閣期の到来し、貴族院批判や改革論が勃興する中、貴族院が政党内閣を支持 し、補完する「第二院」となることで事実上の権限縮小を目指し、急進的な改革を避けよう とした(第六章)。

かかる活動を行ってきた家達は、元老の減少も相俟って、憲法上の公職として、また長年 議長として議会政治に従事した個人として「重臣」の一人に擬せる議論が生じた。さらに、

家達が議長を退任する際、元老と同等の待遇が検討されていたものの最終的に変更となっ た。だが、この事実は家達が貴族院議長として立憲政治の発展に多大な貢献をしたことが認 められていたことを意味した(第七章)。

本研究により、徳川家達は、貴族院議長の職務を通して大正デモクラシー体制(対内的に は政党内閣制、対外的にはワシントン体制)を支持し、体現した人物であったと評価でき、

かかる政治的活動を行う貴族院議長は、明治憲法体制下における立法・行政間の調整弁であ ったことを明らかにした。以上が本論文の結論である。

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