長崎地方にみる明治10年代の家族情況 三島(植木)とみ子
は じ め に 1 概 況 2 夫 婦 5 親 子 4 女性の地位 5 ま と .め
はじめに
本稿は明治10年代の家族の実態を,長崎地方の統計および当時の新聞記事から探ろうと するものである。長崎は封建的な土地柄であるといわれる。いまなお残る男尊女卑的な考 え方や,婚姻の際の伝統的な行動様式は,明治民法下のr家』制度の名残りと捉えられて いる。この現状を適確に把握するためには庶民の聞に浸透していたr家』制度を解明する ことが緊要である注1。本稿はそのための予備的段階としてr家」制度形成期以前の家族を
扱う注2。
1 概況
明治11年7月の「地区町村編成法」により,現長崎県域は1区10郡に編成されて,新し い事務処理がなされることになった。国内的にはすでに,新政府に対し国会開設を望むな ど自由民権運動が盛んになりつつあったが,長崎ではまだ政治意識の高揚はみられなかっ
た注3。明治15年1,月6日の西海新聞紙上では,東京の一民権家が長1崎県人にあてて,連帯して国会開設に向け準備するべきであると激を飛ばしている。もっとも自由民権という言 葉はすでに長崎県人の聞でもある程度使われていたようではある。16年9,月29日の鎮西日 報は「耳学狂人」という題で「今日流行りの民権説に心酔し我がままを自由と思ひ,人よ
り物を与へらるるを独立に非と考へ,妻子の諌むるを権外のことと認め,心配するを卑屈
と誤る」という庶民の姿を描き出している。明治19年の長崎県統計書によれば,長崎県の人口は16年以来増加し続け,19年には73万 人弱であった(表1)。長崎に籍を置く者と長崎県以外に籍を置きながら,長崎に定住し
ている者とがほぼ同じ割合で増加しているが,比率でみると本籍人[コより寄留人口の増加が多い。これにより長崎県の人ロ増加は自然増よりも他の地域からの人口流入によっても たらされたものであるとみることができる。寄留人口がとくに多いのは長崎市街一円を行
政範囲とする長崎区と,長崎区に隣…接し現在その一部が長崎市に編入されている西彼杵郡であり,反対に,本籍人ロの方が現住人ロより多く,人ロ流出が激しいと思われるのは,
島原一帯の南高来郡および対馬の上県郡,下県郡である(表2)。現住人口を現住戸数で
20 長崎地方にみる明治10年代の家族情況(三島)
表1 明治15〜19年忌長崎県の人口
隣人・(人)1本籍人・(人)1婚人・(人)塵人・増(人)牌人・増(人)
15年
703,042 694,162 8,88016年
700,989 697,978 3,011 3,816 一5,86917年
710,372 702,337 8,035 4,359 5,02418年
721,087 708,513@ 1
12,574 6,176 4,539
19年
729,922i710・566119・3561
2,053
@ 1
6,782 長崎県統計書より作成
表2 明治19年の長崎県各区の人口
\降人・(人)騰人・(人)瞬人・(人)現住戸数(戸)1平均家族船
長 崎 区
西 彼杵 郡
東彼杵郡
北高来 郡 南高来 郡
北 松 浦 郡
南松浦 郡
壱 岐・石田郡
上県・下県郡
計
47,790 164,042 68,549 60,466 146,138 108,392 69,998 34,480 30,067 729,922
34,083 157,987 68,556 60,466 146,710 107,931 69,842 34,587 30,404 710,566
13,707 6,055 一7 0 一572 461 156 一107 一337 19,356
7,411 30,717 14,846 12,326 28,337 23,047 14,118 8,866 5,523 145,191
6.45 5.34
4.62 4.91
5.16
4.70 4.96 3.89 5.44 5.03 長崎県統計書より作成
回したものを平均家族員数とすると,長崎県全体ではほぼ5人で,当時の東京の平均家族
員数4.5人と比較して多い濯。とくに長崎区では6.5人と2人も多くなっている。本籍を長
崎県に有する者だけについての平均家族員数はこれとはやや異なる(表3)。一戸主ごとに
家族が平均何人いるかを換算すると,士族で3.9人,平民で3.6人である。戸主も含めたも のを平均家族員数とみれば士族4,9人,平民4.6人で,現住人口を現住戸数で徐して算出し た平均家族員数よりやや少なくなる。とくに長崎区では士族が4.1人,平民が3.7人であるので,この違いはいつそう著しい。長崎区においては一戸の家屋に複数の家族が居住して
いたと考えざるを得ず,この地の近代当初からの住宅不足がうかがわれる。また,いずれ
の区においても士族の家族員数が平民のそれを上まわっているのが特徴である。士族の家
族結合が平民のそれより強固であったことが確められる瀬。
長崎大学教育学部社会科学論叢 第32号 21
表3 族籍:別家族員数
士 族 (人) 平 民 (人) 一戸主あたりのニ族員数(人)
郡 区
戸 主 家 族 戸 主 家 族
男 1女 男 1女 男 1女 男 1 女 士族平民
長崎区1・・7
4 121 255 7,5001,612}8,358!16,087 13.11 2.68
西彼杵郡
1,069 38L728
2,906 29.7181799 45.69・175・9754.19 3.99
東彼杵郡
3,022 50 4,298 7,409 12,1691 317i15,492
125・789 3.81
『 一 一 一 一 一
k高来郡
949 38P
1,394 2,551 11,428i 419 15,972t27,6974,・・1
3.69
南高来郡
1,254 34 1,986 28,273 642 40,996 69,568 4.4513.82北松浦郡
3,725 78 5,5303,740
X,273 19,182 543 25,656 43,894 3,891
3.53
南松浦郡
653 6 967 1,697 13,817 118 20,085 32,499 4.0413.77壱岐・石田郡 1,894 36 2,341 4,233 7,024 6,541 12,247 3.41 2.58
上県・下県郡 1 2,695 76 3,994 6,617 3,754 262
P24 5,122 8,021 3.83 3.39
合 計1、5,378 1 136・1
22・359138・681 132,865 4,836183,912 3.88 「 3.60 長崎県統計書より作成
明治15年長崎区統計表によると,職業人口が,官吏,兵隊,教導職,神官,僧侶,学士,
算術,代言,医術,農業,工業,商業,雑業,無業の別に記載されている(表4)。ほぼ,
同時期の東京府統計表の職業欄と比較すると,雑業には,学生,被雇用者,漁猟従事者,
芸娼妓などが含まれると解される。比較的人員の多い工業,商業,雑業人口の全職業人口
に対する比率をみると長崎区では順に,8。84%,31.88%,44.35%であり,東京府では,23・99%,35.47%,35.57%であった。東京は工業人口が比較的多いが,長崎では工業人 口の割合は非常に小さく,雑業人口の割合がもっとも高いことが分る。
長崎県警察統計書によると,明治15年の長崎区には丸山町,寄合町,浪ノ平町に娼妓が
計393裂いた。この全職業人ロに対する割合は4.1%で,東京の1.9%をはるかに上まわる。当時の新聞記事には妓楼の近況,娼妓の美談,色恋沙汰など声妓関係の記事の多さが目立 つ。明治12年2月24日には,このような一般の情況を「淫風世界」として批判する投稿が,
東京の読者から寄せられた。また15年7月15日の社説では, 「環岸の物色」と題して,長
崎のような都会に「花街」や「柳港」の存在することを「大明私撰」あることとはいえないと批判している。10年代後半になると性風俗取締の記事が多くなるが,すでに海外渡航婦 の記事もあり,後に「からゆきさん」を多く出した長崎の性に対するおおらかな考え方瀬
の基盤を垣白みることができる。2 夫婦
明治15年から19年の統計によれば,長崎における婚姻率は6〜8.5日置注7で5年間の平均は 7.16%oである(表5)。東京の5年間の平均7.81%。,全国の8.00%。に比べ,ほぼ1%o低い。
離i婚率は1.5〜2.5%oで,5年聞の平均では2.17%oであり,同じく東京3.92%。,全国2.99%。
と比較してもっとも低い。結婚10件について離婚は,東京ではほぼ5件,長崎ではほぼ3
22 長崎地方にみる明治10年代の家族情況(三島)
表4 明治14年の職別本籍入口
長 崎
職 種i人員(人)1%
官 駐 兵 隊 教導職
男女
神 官 僧 侶 学 士 爵 当 代 言 医 術 農 業 工 業 商 業 雑 業 無 業
男 女 男 女 男 女 男 女 男 女
合計
41
33 29
1
30
3 12 4 2 8
68
56 21 819 28 2,820 235 3,252 998 884 269
77
847
3,055
4,250
1,153
9,583
8.84
31.88
44.35
東 京
職 種1人員(人)1%
官 吏
男女
兵 隊 授業師
男女
僧 尼
//
代言人
医
農
工
商
生 徒 雇 人 漁 猟 遊 伎
合計
男 女 男 女 男 女 男 女 男 女 男 女 男 女 男 女 男 女
3,597 22
3,619
896 758 119
877
1,018 27
1,045
64 834
1
365 12 36,424 793 50,433 4,598 15,182 11,776 16,552 8,066 638
1
1,164 1,817
835
377
37,217
55,031
)
55,196
127,925
155,157
27,232123.99
35.47
35.57
長崎区統計表および東京府統計表により作成
長崎大学教育学部社会科学論叢i第32号 23
表5 長崎,東京,全国の婚姻率,離婚率
年度
1882 (明治15年)
1883 (明治16年)
1884 (明治17年)
1885 (明治18年)
1886 (明治19年)
婚 姻
長 崎 婚姻
件数
4,861
3,987
5,185
5,313
6,232 率
6.91
5.69
7.30
7.37
8.54
東 京 婚姻
件数
9,489
9,514
9,107
8,892
13,250 率
8.09
7.87
7.53
6.84
8.72
全 国 婚姻率
8.42
9.01
7.60
6.80
8.19
離 婚
長 崎
件数
1,153
1,526
1,800
1,493
1,791 率
1.64
2.18
2,53
2.07
2.45
結婚10 あたり 件数
2.37
3.83
3.47
2.81
2.87
東 京
件数
4,651
4,844
4,677
4,267
6,962 率
3.96
4.00
3.87
3.28
4.58 結婚10 あたり 件数
4.90
5.09
5,14
4.80
5.25 全 国 離婚率
2.62
3.39
2.90
2.97
3.06 長崎県統計書および「東京府民生活史研究」より作成
件の割合である。長崎の離婚率が低いといっても,離婚が増加して社会問題となっている
現今の離婚率1,15(昭和53年)%oよりはるかに高い数値であることに注意しなければならない。この高い離婚率は『家』制度の拘束力が弱い社会で一時的な情欲にかられて結婚し,
しかも離婚しても何ら恥辱を感じない婚姻観,および家風にあわないなど一方的に妻子を 家から追い出すr家』制度の併存した社会構造の結果であることで説明されている。注8 婚姻の決定には,親の意思がかなり強く働いたようである。当事者たちが親の決定に従 わない場合,親ばかりか世間からも非難をあびた。明治15年9月13日の西海新聞では,親 の反対を押し切って夫婦になろうとした男女が二人で行方をくらましたことを,親の恩を 忘れ,親を棄てたあわれな不孝者だと非難している。さらに鎮西日報の明治16年7月22日 付では,結婚を反対された娘が自殺未遂をしたことを「不孝」と題して報じている。
西海新聞 明治朽年9月15日 雑報 不孝者
茂木村に住む其は(二十三四年)其の職業は魚商にて日々長崎に往復し勉め励みて暮す内,どう した神の御世話でか深堀村の其の娘の其と稲舟のいなとも言はず入れ細:の同じ心に慕ひつつ割り無 き中となりしょり,娘は茂木に来て宿り,男の其は深堀に通ひ住みつつ一年の余りも暮らす此の頃 は,娘の其は親人に長崎さして行きます,と言いつはりて茂木村の男の家に浮かれ来て,男の親の 目を忍び三日四日も滞留する。娘の両親は心を痛め長崎にて昇るに不分明より更に又憂を勝して親 類が皆打集て評議中帰りたるは,彼の娘を見より両親は捌しくも折濫せしを聞くや否,娘は又々引 返し茂木村さして日暮れより出掛けし処夜分故裸蝋燭とぼしつつ長崎十字合戦場を通り掛かるは午 前二時,おりから向ふへ大きなる怪火一つがあらはれ散じて数十の石地蔵となるに(チト信ぜられ ず)も臆せず彼の娘は横目も振らず茂木村へ登りて行くに,蝋燭はツイー本も無い様に遺ひしま\
に火も消えて心うもよわり物すごく覚えて行くに,数十の道あらはれたれども只管向ふをのみ差し て登るに漸くと田上の茶屋に行き着き,茶屋を起こして火を乞ふに,茶屋の者等は顔色の常ならざ ると深更に若き娘の鹿道,かれこれ怪しみ其の由来尋ねし処云々の模様を委く語りたり。其れより
24 長崎地方にみる明治10年代の家族情況(三島)
翌朝茂木村の恋しき人の所に至り種々冠し為したれど,男の親の不承知にや今は男と二人連れ,山 国に行きしや行き方を知る人も更になしとか。親の恩を打ち忘れ,親の身の上打すてて,あらぬ横
さの色道へ迷ひ出たるは,忌むべし又閥むべきの不孝者ならずや。
婚姻は親あるいは家にとって守るべき重要な制度であった。すでに自分の意思で他家に 婿養子縁組をしていた息子を,推定家督相続人であるという理由で,親が強制的に離縁さ せることもあった(鎮西日報,明治15年11月9日)。このような制度の中では当人たちの 好き嫌いの感情は問題にはならない。明治12年8月5日の西海新聞には,婚家先から逃げ 帰った娘を父親が許さず,自殺させてしまった痛ましい事故を報じている。
親は婿養i子に対しても大きな権力を持っていた。明治15年9月15日には「食料を養子に
責む」と題して,養i子に食料や生活費を請求する厚かましい母親が描かれている。西海新聞 明治15年9月15日 雑報 食料を養子に責む
描画の応手に当る其中程の町なる其家の宅には,親子三人暮しにて長女の其(二十八九年)と長 男其(二十六七年)と若盛の両人なれば,母親は長男に嫁を姿らんと思へども,姉を外へ片付ない 内はと思案に続けるも,天性不器量にて他より所望に来る人もなき其所へ,蓼喰虫も好好とかで喪 に本年三月頃或る細工場に日勤する某が同人の養i子とならん事を申込み,頓て夫婦の縁を結び此家 に来り凡そ六十日間斗りも同居なし居しが,少く勤務の都合ありとて勤先の近辺に下宿とかをなせ しとかや斯て,嫁の其も夫の跡を追て癖地に行かむとせしに,其母親の云に手前も行くなら両人の 食料其他家賃をも仕払して住べしとあるに,長女は不審顔をなして私は彼地へ行なと仰るなれば是 非なき次第ながら,初め養子とて貴ひ面し者より食料を取るなどの事は世間に例なき事のみかは,
殊に島人が小使銭と五円三円とお前さんに遣はされしも度重りしに,食料を請求するの理由はある まじ。又た離縁したと云ふ事もなげれば其儀はお止め成さるが宜しかるべしと言を訳ての諌をも聞 入れず,母親は稲佐とやらに出掛て其に向ひ本年四月頃より本年月の食料を請求するとかにて,長 女は一方は夫なり一方は親なり,其中に立て取計の術に困じ果て,今は淵川へ身でも沈めなければ 致方もなしと発狂の如くなり面しとは気の毒な咄だが,理屈の分らぬ欲張親もあるもの,何しろ不 便なは言出さん。
もっとも婿養子になった者の中には自分の利益のみを考え,必ずしも家を継ぐという明
確な意識をもっていなかった者もいる。明治15年9.月14、日の西海新聞には,養子縁組後師範学校に入学し,卒業するとサッサと
実家に帰ってしまったチャッカリ者の婿養子のことが報じられている。また裕福な農家が 養子を取ったばかりに,その養子に家産をすべて費消され家をつぶされた話(西海新聞,
明治12年4,月29日)などもあり,現実には養子制度がその目的をうまく果たすということ
は,かなり困難だったようである。西海新聞 明治15年9月14日 雑報 節婦
先月頃とか県下東彼杵郡大村池田分とかの西林文兵衛の長女サト(十八年)は,其心志も至てや さしく面貌も人並なる女にて,両親も斯る娘を得たるを喜び其れ相応の養子をと思ふ折柄,去明治 十三年同村の坂本某の二男を貰ひしに,夫婦の中も悪しからず至て睦まじく暮す内養子某は当県の
長崎大学教育学部社会科学論叢 第32号 25
師範学校に入学し,後に残りし妻サトはやさしげにも夫を大事と明け暮れに夫の成学を神掛けて祈 る真心の通りけん,夫も卒業終りて帰りしも如何了見ありしにや,我家には帰らずして実家に戻 つかは
り或学校に出仕するを,其れと聞くよりおサトの親は心配して毎々人を遣せども,帰り来る色更に なく遂に離縁となりたるに,おサトがむねは如何ばかり,思も頼みも切ればてて何んとせん方泣く
ばか
斗り,斯くて止む可き事ならず,諸漏出はれぬ事ならばいっそ死なんと決心し,親の目忍んで取る 手も早やく髪剃を袖にかくして人目すくなき処うにて,我が咽喉を只々一突と突きし処を見付られ 遂に本望とげざりしと,其の疵ロは二寸余り命にさわりなかりしと。是ぞ真の節婦なり,継れに引 換へ彼教員は如何なる書物を学びしや,嫌やと思ふ女ならいっそ初めの其時に養子に行かずば斯く 迄はよもなるまいと,此事を伝へ聞たる吾れくはおサトの心情察し入ると探戯者が。
新聞は当時の夫婦の性関係のルーズさをよく伝えている。雑報の欄は,いわば今日の週 刊紙のゴシップ記事のようなものが多いのでこれもある程度は当然だが,それにしても夫 や妻の姦通の記事のなんと多いことか。庶民の婚姻におけるこのような性関係が当時の離 婚率を高めた大きな原因になっていることはいうまでもないだろう。さらにこの種の記事 が夫についても妻についても,ほとんど同じ頻度で登場していることは注目されなければ ならない。夫の不貞の例として西海新聞明治12年1月13日付を,妻の不貞の例として鎮西 日報明治15年11月7日付を挙げておく。
西海新聞 明治12年壌月15日 雑報
姉がさすなら妹もさせよと旨く口説いた醜聞は,県下藤津郡納富分村の辻士族田中安太郎(三十 才位)は兼て同珍本木村より妻サイ(二十四才)を執り,夫婦仲も睦まじき方なりしが,サイの妹 ハツ(二十二才)は姉婿安太郎方へ時々往来するうち何時しか味な仲となり,阿漕が浦に引網の度 干た些末にハツはお腹がポンポコリン,いっそ些末共白髪変るまいその恋中を早くも夫と見認られ,
其まま妻は実家松尾良右衛門方へ帰り,ハツは伯父松尾某へ保管申し付られし由,是は裁判臭い。
鎮西日報 明治{5年11月7日 雑報 見物人蟻集
ほの 兎角野蛮の風儀を行ふ下等社会には困たものだ。困るばかりか呆れて物も言へない位。風かに聞
くに,去る二日の日の事で有りしとか。高島の字金松といふ所に,雨も漏り風も吹き入る伏せ庵に,
其の日くを辛くして送り迎へて其の島の岸に寄せては又復る白浪の如き定らず心かはりの其の妻 ふるまい
の其挙動に,常々に心を注げて彼れ下れと物思もひつ\居たりしは,其の名を治助(六十年)と呼 ぶとか。其の妻ナツ(四十年)は其れとは夢にも知られざれば,人目の関を忍びつ\褄ならぬ褄を かけひ
重ねくに打ち重ねくて逢ふ瀬を楽しみと,下に逼るる覧の水隠れたるよりあらはれや。すきの まおとこ
道理を知らぬが女の浅き智恵くなき。姦夫の某は遠くはぬ面で何かに二つまづきとも謂ふべき狂 しやあ
句の体で,二日の夜に洒旧く然と出かけて来り,御主人一杯やらかそと勧めかければ,治助にも 先づ朋友の交際と常の如くにもてなして二人で対酌致しつ\,いずれも酔ひて歌ひけり,さて時も やうやう帰り時,暇を告げて別れむと為る頃,ほひに治助の妻のナツ阿魔は,密夫の直なれば一入 心をさしそへっ\,密夫の某に目をくばり,貴郎そんな汚れたる浴衣を着ずとも是れこ\にと口に わざ
はいはねど心に思ふ。故意と取り違へたる風を為て,夫の所有たる清らかに新しく見ゆる浴衣を密 いさかひ
夫に着せければ,語れを見て取る夫の治助,烈火の如くに面赤らめ種々争論の其の末,翻れ二人の 不義ものめ,用捨はならぬ,と飛び上り跳り立つ\明鏡の光に比しき出刃庖丁取るより早く密夫の 某へ切り懸らむとする所,蟻の集まる如くして傍に観て居りし見物人,此は大変と打ちよりて仲裁 人に立ち入りて何つれもく取り押さへ,欺きだまし慰めて先づは其のまま鎮まりしと。後は如何 なりしや。第一に悪むべきはナツの阿魔。第二に悪むべきは姦夫某なり。何と野蛮風儀を行ふ下等
26 長崎地方にみる明治10年代の家族情況(三島)
こまり
社会には困却,イや呆れ果たる次第ならずや。
後に制定された明治民法は妻の姦通は許さなかったが,夫の姦通には寛大であった。し かし,この明治10年代には庶民の間でこの点に関して夫と妻の差別はあまり感じられない。
また浮気された妻もだまって泣き寝入りばかりはしていなかったようである。15年1,月29 日の鎮西日報は,夫の留守中に,腹立ちまぎれに夫よりあずかっていた印鑑で借金をし費
消してしまった妻のことを報じている。西海新聞 明治15年1月29日 雑報
内を外なる亭主の蕩楽に変な了簡を起せし其お話は,当区銅座町の誰とかさんは此十年前より仲 買商を思ひ立ち久留米柳川其外藩本辺を掛て俳徊なす中草枕旅の独寝に淋しき所より,島原とかの 産にて其辺に遊女稼を為し居る某に何しか心を奪はれ末は夫婦と契約を結び追て熊本区に家宅を構 つがいはな おしどり
へ両人は此内に番離れぬ鴛鴛の裳を重ね今日を楽しと暮すものから,国元の事は更に心にも掛けず かさ
浮々と年月を累ね一返の音信だに通はさぬを本妻の玉とか石とかは兎角之を嫉み如何にしても胴欲 それ
なる夫の振舞かな,斯ては手前にも馬鹿くしき事なりと,夫より欲心を生じ兼て夫より預かり居 たん
し印形を取出し,是にて証文を持らへ女の身にして大胆にも金子四百八十円と言ふ大金を借用なせ しが,光陰は矢の如く追々其期限の迫るに心付ては片時も安心ならず,明ても晩ても八事ばかり心 病なし居る其所へ入来る一人は是こそ余人ならで己が夫なるに吃驚仰天し今此の切ない応命でに帰 もう とく
り来られては最百年目連も斯して居らねで,此上は其筋へ自首して至当の処分を受るがましならめ と覚悟して自首せしとの事だが夫婦共に片腹痛き笑ひ草ならずや。
夫の専権離婚をはじめて否定して,妻にも離婚請求権を与えたのは明治6年5月15日の 太政官布告であったが,実際にはこれまでも妻側からの請求はある程度可能であったとい われている。そればかりか子どもの養育費が分与される慣行もあっだ主9。このような慣行 は庶民の間ではかなり普及していたのではないかと考えられる。なぜならば太政官布告か
らそう経たない明治12年7月17日の西海新聞に,浮気した亭主に愛想をつかした妻が夫に 離婚と,手切れ金200円を要求した記事が掲載されているからである。
西海新聞 明治12年7月17日 雑報
東彼杵郡の大村とか小村とかの徳といふ男は女と見ると如才なき助兵衛殿と見えまして,同村久 出津郷のおきよという五十ばかりの,しかも亭主と子供とある女に手を出したはなしは,丁度七月 七日の昼頃長生殿ではない長作殿が田くさ取りに出かけた留守中,女房のおきよが木綿車をビイビ イ曳いて居る側にあがり込んで口説きはじめたが,否やとかぶりを縦に振ったを合図に一番鎗分捕 切り捕りは好男子の重いと古事附けておきよ御前を下に組みしき,今は斯うよと見えたる所に息せ
き駆け来るは,田子平ならで女房のおとよの前なりしかば上にまします唯乗も左りの手ではなかっ た両手をあわせて女房に詫び入る風情ぞいちらしけれ(イヤ)いまはしけれ。斯くて相引に引く汐 の揺られ揺られて丸屋に帰りしが,徳は最初に引替へて権幕荒らく女房を割木にて折たたく故,女 房は愛想をつかし去状をくれうと言い出すと,徳が温くに去状さえやれば出て行く気か,女房の日 くに手切れ金二百円を去状に添へて渡しさへすれば唯今出て行きますと。そこで徳も大困りだと実 尾見多右衛門という名前で書おくられしが,徳さんも篤くと考えて身持を直し人に不徳と言われな い様にしたら宜からう。
長崎大学教育学部社会科学論叢 第32号 27
鎮西日報15年5月19日の「結婚条例」と題する論説では,夫の恣意による離婚を禁じ,
夫婦財産制に基づく財産の分配を定める結婚条例なるものの制定の必要性を説いているが,
これまでの例からすればこれもすでに庶民聞で行われている慣行を背景にして,その立法
化を提案するものであったと考えてよいのではないだろうか。妻のあり方に関しては,たとえ夫が留守であっても(西海新聞明治15年11,月9日),そ れどころか非行を働いても(西海新聞明治15年8月19日),貞節で,夫によく仕え,家事,
てほん
育児を滞りなく遂行し家族を守っている妻を「良妻」とか, 「善き女の鑑」 (西海新聞明
治12年7月26日)としてかなり数多く紹介している。庶民の間では,これまで見てきたよ うに現実の生活においては男女の差別があまり感じられないといっても,理念的にはやは
り女大学式の忍従する妻が理想像ととらえられていたことが分る。鎮西日報 明治15年11月9日 雑報 良妻
家乱れて孝子貞夫出で国乱れて忠臣現はるるは常なれど,家能く治りたる時は孝子貞夫忠臣の現 はるるは稀なることなるが,藪に当区伊勢町の衛生委員なる手島三志の娘ヨネは,夫(養子)三次 郎が両三年前より商用にて大坂に滞留中能く家事を治め三人の子供をも懇ろに教育し,老父三志へ 朝夕の孝養を怠らぬとは,実に感心の良妻ならし。
西海新聞 明治15年8月19日 雑報 女房の深切
長崎重罪裁判所第一期公判にて重禁鋼二年半の処刑を受けし松井房吉の女房は,夫房吉の罪あり て拘留せられしと聞くや否や大ひに驚き故郷長州を立ち出で当地に来り,房吉の上告申保釈金八十 円を才覚せんと種々工夫すれども旅中の事故金作出来兼し処ろより,夫に面会なし其身を泥水に沈 めて暫にても夫の苦楚を釈ん相談なせしも,保釈金を上納したところが本罪は脱れがたしと其節立 合の法宮より説諭を受け其事は思ひ止まりし由なるが,当地は桜町某方へ手加勢に行き困苦の中に も時々差入物等なし,夫房吉が三池の懲役所に行きなば自分も陰ながら付添行き,以後不良心の起 らぬ様看護をなし,満限中逃走などしては故郷の父母へ刻し自分も共に申訳なき故満今迄屹度勤め ます様と神に念じ,其期限迄は自分も三池にて働らき陰ながら夫を扶けんと決心して居るよしの噺 しを聞きしが,犯罪人の女房には天晴く。
西海新聞 明治12年7月26日 雑報
妻にして善く其夫に仕へ,弟にして善く其兄に事るは人の常なれども,世の澆季に及んでは,日 々に其常を失ふ者少なからず。今愛に説くも転た料れ常の道なれど当世には希らしき一美談とこそ 謂はまし。県下南串山村に馬場雄哉といへる入ありしが,七,八年前より不幸せにも麻痺病を煩ひ 半身不遂となり,歩行は勿論起臥さえ叶はず,自分には大小便の何時通ぜしも覚えぬ程の夢中の病 症なれども,煮魚は未だ年若けれど能く貞節を守りて永の間夫を看病して怠りなく子供をば学校に 通はせ家内を治ると,男子に勝りければ近郷の者皆感じ合へりとそ。又同人の弟道方,兄の彌太右 衛門と云へるも病人を労はり家向きの事忌血気越付け心を配るので病人は何一つ不足に思ふ事なく てほん
永の年月を送ると云ふ。類難に臨みて苛くも其志を移さゴるは,善き女の鑑なるべし。
5 親 子
統計によれば,明治10年代の長崎県の出生率は15〜20%。である(表6)。国勢調査が始
つた大正から戦後のベビーブームが終わるまで,出生率はほぼ30%oを超えていた。その後
28 長崎地方にみる明治10年代の家族情況(三島)
徐々に減少するが,15%。台になるのは子ども数の減少が深刻化する昭和50年に入ってから
である・このことからすれば,長崎県の当時の出生率の低さは注目に価する。平民の平均 家族員数が4,60人であることから,一夫婦あたりの子ども数は2人ないしせいぜい3人程 度であっただろう。出産1000に対する死産の率は13〜15%。で,これは昭和30年代の比率並 である (現在はそれよりずっと下がって4〜5%である)。死産については届出が怠られ たのか,子ども数が少ないからそれだけ看護が行きとどいたのか,いずれにしろ想像して いたよりはるかに小さい率であった。これまで医療の発達していなかった前近代的社会に おいては,多産多死が一般的な形態であったと考えられてきたが,これについては異論も
あり,我国では少ない子どもを大切に育てる伝統があったと田嶋一は述べている。注10長崎 における低い出生率はこのことを物語るものであろう。表6長崎県の出産率
郡 区
長 崎 区
西彼杵郡 東彼杵郡 北高来二 二高来郡 北松浦郡 南松浦郡
壱岐・石田郡 上県・下県郡
全管合計
同 18年 暦 17年 同 16年
総 数 (人)
総数
男 女生
産(人)}死産(人)
547 3,315
267
1,504 1,657
1,639 3,818 2,279
773 809 1,920 1,152 1,283 662
610 291 357 15,352
11,139 187 7,718
・5,600
12,638闘6,283 10,956 5,560
嫡 出
男隊
280 214
、,6581、,545
731 830 1,898 1,127 621 319 170 7,634
5,539 6,355
754 786 1,872 1,108 647 271 170 7,367
5β20 6,027
・,396}・,436 221 1,486 708 800 1,827 1,072 612 304 157 7,187
5,262 6,060 5,263
非嫡出 嫡 出
男i女囲女
48 62 17
52 67 19
3 43 2
4 100 4
非嫡出
男i女
20 42 32 9 20 11 261
172 162 124
29 61 38 8 15 7 296
160 216 133
2 7
/ 21 1 1 6 9 4
/ 3
72
95 78
?
9 14 1
/ 5 138
104 71
?
/ 3 2
/ 3 18
羽
16
?
3 5
/
/ 1
3
/
/ 1
13
コ
8
?
出産率
%o
11.4
20.2 21,9 27.1
26.1
21.0 18.3
17.7
11.9
21.0
15.5
17.8
15.6
生 産 1。000 中死産 の割合 %。
23.8 46.8 4,0
2.4
4.2
12.7
5.5
0 3.5
15.7
20.2 13.7
?
長崎県統計書より作成
長崎において出生児中に占める非嫡出子の割合はほぼ3%台で,国勢調査が由った大正 9年忌ろの全国平均が8%を上回っているのと比較するとかなり少ないといえる(表7)。
長崎区だけがひとり20%に達しようとしているが,これはこの地域に花街の多かったこと と関連しているのであろうか。嫡出,非嫡出別に死産の割合をみると,明治17年に順に,
1.23%,6.35%,18年に1.88%,7.83%,19年に1.44%,5.57%と,いずれの年において
長崎大学教育学部社会科学論叢 第32号 29
表7 出生児中の非嫡生子の割合
郡 区 嫡 出 子 非 嫡 出 学
長 崎 区
西 彼杵 郡
東彼杵郡
北高来 郡
南高来郡
北 松浦郡
南 松 浦 郡 壱 岐・石田郡 上 県・下県郡
全管 合計
同 18年 同 17年
半 (人)
435 3,031 1,462 1,586 3,699 2,180 1,259 575 327 14,554
10,582 12,087
(%)
81.31 95.92 97.60 97.00 97.29 96.89 98.67 94.26 94.78 96.31
96.96 96.97
同 16年
10,699 97.65(人)
100 129 36 49 103 70 17 35 18 557
332 378 257
(%)
18.69 4.08 2.40
3.00
2.71
3.11
1.33
5.74
5.22 3.69
3.04 3.03
2.35 長崎県統計書より作成
も非嫡出子の死産の率が高い。非嫡出子の地位の低さが象徴的に示されているといえよう。
日本においては諸外国と比べ非嫡出子は保護されていたといわれているが,これは家督相 続の順位についてであって,つぐべき家産のない庶民の間ではこれを保護する余裕もなか
ったのだろう。
親子間の感情は,現在とそう異なるところはなかったと考えられる。明治12年10,月25日
の西海新聞は,誤って自分の生んだ子を2人置も死なせてしまった貧しい農家の夫婦のな
げきをよく伝えている。西海新聞 明治12年10月25日 雑報
少し遅なはりし事なれど,世に類なき不運の咄し。人の父母たるもの\戒にも成る可けれとて今こ こに説き出すは,県下基疑郡田代駅に(元対馬公の領地にて万金丹の名所なり)夫婦二人の中に二 人の子を設け,最:とも貧しき暮しをなせる農家ありしが,長子は今年六,七歳にて未だ東西も弁ま へぬほどなれども,農務の忙しき時などは弟を背負はせ,父母の稼ぎを妨げざる様になさしむるは 何処も同じ田舎の習はせ,二男は今年僅かに二歳唯ぎゃあぎゃあと泣く図り,泣く子を負ふてもり をする長子の心も憐…れけれ。然るに本年夏頃の事にて漸く麦の取入れも仕舞しかば,数日の労れを 忘れんものと互に近隣往来して温饒を肴に飲めよ歌へと楽しむは,農家の今に始めぬ事,母は日暮 に丁丁を打ち物忙しくして居るところに長子は泣く子を背に負ひて,母さん乳が飲たいのか頻りに 此児が泣き叫く,一寸いと一口飲せて呉よと戸口の閾をこえて入る。母は忙しきときなれば,ア\
忙らしい,今暫し外に往ってもりをせよと言捨ながら顧視もせず居たりしに,二男はますます高く 泣く。長子はタッターロと迫れば,母はうるさく思ひ,其様に泣くなら前の池に投込んで来いと言
30 長崎地方にみる明治10年代の家族情況(三島)
ふは,母御の口癖とは知らず,長子は母に叱られてまたも泣く子を背負ひながら我家を出でて,近 辺の池端に到り,子供心といひながら無斬にも泣く子を卸し,南無三宝何んにもしらぬ弟をばどん ぶと池に投げ込むは,いかなる心か。白浪の跡は消失せ水沫のグルグル底よりわき出るを見流がし ながら,我家に帰れば,母は長子のただ一入表の口より入り来るを見て,弟は何処に置いたかと尋 る心は誹かしげに衣裳川の水底に都ありとは聞きたれど,はや我二男がまいったとは神ならぬ身の いかでか知るべき様あらん。長子は母に対ひ,御前が池に投げ込あと縛ることばに従ひて近所の池 に沈めたと聞いて吃驚。かたわらに有合ふ温感棒手に押っとり汝はいかなる心かなと言ひさま一打 ちなせしかば憐れなるかな,長男はワットー声頭脳の急所を打破られて地に倒れたるまま,息は絶 え,やれ宝丹,やれ気付よと言ふ間もなく死に果てたれば,母の心は如何ならん,二人設けし二人 の子を二人ともに死なしたは,自分一人の為したる業と思へば,この身は片時も世に永らふべき様 もなく,二人の死出の道筋を跡追駆んと温鈍切り庖丁を以て咽喉を衝き,グッと一声言ひしまま,
これも同じく黄泉の発足。此時この家の主人は,近所の人と諸共に我家の酒を飲ませんと帰りて見 れば,妻と長子は頭を並べ至る\血汐に浮かまされ,目もあてられぬ様子なれば,コリャ大変,如 何した訳かと倒れし妻を抱き起せば,草葉の陰に泣く虫の音ぞ微かなる声をもって事しかじかと言 ひ終りて,玉の緒こそは絶えにけり。主人は泣くに涙さえなく,途方にくれて,悲嘆せしも天にす てられたる事なればとて,自分も死なんと身構するを近処の人等が百方ぬかし,野辺の送りも助力 して,其れそれ仕舞はしたれども,主人は翻れより狂気となり,今は本復せざりしも道理と思い遣 ると,同地より報道ありしが,此く不便なる併しは,げに世の中は稀有なる事なれば,世の人々の 心得にと記者も涙を揮って書き識すになん。
もっとも非常に貧しい庶民の間では,自分の子どもを芸娼妓として売ったり,時には棄 てることすらあった。長崎県統計書によれば,当時棄て子は男女あわせて毎年ほぼ300人 に達し,とくに貧しかった南高来郡にその3分の2が集中していた。しかし,社会的な感 情としては,これは許されることではなく,鎮西日報明治16年11月15日では,子どもを棄 てた親を「鳥獣にもおとる不仁の極み」と非難する記事がみられ,また同22日では「忍ん で我が子を売るとは倫理の敗壊も余り甚し」とのはじまりで,娘を海外渡航婦として売り
渡そうとした親のことが批判されている。鎮西日報 明治16年11月15日 雑報 至不仁
其のしれものよ彼の稗史どもを聞け彼の謡本どもを聞け,焼け野の維子夜の鶴子を愛ひぬは無し といへるに非ずや,なお,古代に立ち上がりて奈良の古言どもをも聞け「たびゴとのやどりせむぬ にしもふらばわがこいぐ\めあまのたずむら」と有り,膨れ等は寒熱の子を愛ふ天性より出たる言 なり,今の人とても皆同じ情なるべきを如何なるしれもの\しれ心にや,聞くさえ忌ま忌ましきは 二,三日前の事とか,当卸本籠町六十番戸山崎野太郎氏の家の軒の下に生れて五十日ばかりも経ち たるならむと思ぼしき赤子を棄て置きたるものありしと。此の寒空に夜の事といひ赤子は如何に苦 痛しかりけむ想ひやるさえ憐れなるものを,その親たるものはそも如何なるしれ心,そも鳥獣にも か、る所為のあるべしやは,己れが生みたる子とはいえ実は天のたまものなり,それを棄つるとは 何に不仁の極みならずや。
鎮西日報 明治16年11月22日 雑報 貸視面子
忍んで我が子を売るとは倫理の一己も余り甚し。県下南高来郡南串山村当時諏訪町寄留某〔姓名
長崎大学教育学部社会科学論叢 第32号 31
は探知の上〕より五,六日前本県庁外務課に願ひ出でし趣は,支那上海に居留の一帯大病の旨申し 越たれば自分と娘イロ(十三年)共に渡航仕るに付,海外旅券下渡下されたしとのことなれば,外 務課にて聞届られ旅券下渡相成りしに,その後一両日前に右は全く娘イロを支那人に売渡してそれ が渡航の旅券と詐りて願い出でしものにてありしとが露見し,新地警察署より召喚せられ推間中な
りと。
しかし,何といっても子どもに関する記事中,もっとも多いのは,親に対する孝行をほ めたたえるものである。これは夫婦関係において妻の夫への服従忠節を多く取り上げてい たことと軌を一にする。現実の生活の中では,いくら貧しくても親は子に対して細やかな 情愛をもって懸命に育てあげ,子どももこれに答えて親に仕え助けていった。ところが新 聞という公けの場では,子どもの側のこの行為だけをとりあげ「女の模範」「泥中の蓮」
(西海新聞明治12年1月6日)とか「泥中の芙蓉」 (鎮西日報明治16年10月20日)と述べ て賞賛しているのである。この孝行のためには,時には身を売ることすら感心の対象とさ
れたのである。西海新聞 明治12年1月6日 雑報 孝女おたかの話
西彼杵郡大浦の五十七番地に母子三人前と幽かに縫針の業をして世を営む者あり。母の名を中ツ おさだと呼び今年四十にもやなりぬらん。又,娘は二十歳内外にして容貌も左迄いやしからず,手跡 なども又拙からず,外には幼少の弟一人あるのみ。元来,おたか母子は,由緒ある家に生育めれど 十年あまりの間不幸がうち続き,杖とも柱とも頼む亭主は八年前に世を早うし,後に残りし寡婦の いとけ
手に幼少なき子供を育げ,此間の浮き銀難は筆にもつくされざる程なりしに娘のおたかは成長す うまれつき
るに随ひ至って,孝心深き生面にて母を助けて其日其日をわっかに送りしが,父親は,以前長崎の 中にて最も繁昌の土地とよばる\鍛冶屋町通りにて,呉服店を開らき居りし程なれば,身代もかな わずら
りにありしに長の煩ひにて結局商売もできず,西山郷に住居を移しやがて卒去りしかば,頼む木陰 に雨漏る心持して,これまで西山郷に母子三人漸く糊口をしのぎしが,近頃縫針の仕事を頼む者も 多ければとて,人の勧むるにまかせ,大浦郷に転居しとそ。それはさておき,この大浦といへる土 地は,旧来よりの風習として,、トーピイと唱ふる一種の淫売女流行せるがこの土地にて下女を置く 家杯あれば,漸く半月と一月は辛抱して主家に奉公するも,自然と悪風を見習ひ,破れ草履を脱ぎ びろうと おしろい むく 捨てて堂島に履き替へ,紙緒は忽ち天鶏絨と変し,顔にベッタリ塗る白粉に顔は厩茶白垢連でも鍋 墨を塗るよりもましと御託をぬかし,一年の奉給をわっかに三日半に手捕にすれば,是にまされる ふんばたか 元手いらずの商法やはあると,恥ちや人目はまだおろか昼日中でも大の字なりに踏張散って五十銭 か一円をとらぬが損と,心得又相済ぬ事ハもし巡査さんに見とがめられたら,罰金くらいは御茶の など
粉(ドッコイ)御茶挽でも該金位は納めます杯と大言を吐く実に平気の平八連が多き中に,おたか
みなり かて
母子は,おちぶれて衣裳は人に及ばねども,実に蓮葉の濁りに浸染ぬ清浄潔白,貧しき家に糠は乏 しく,粥をそそり,しおをなめても不義の富貴は求めぬ,心体は貴人高位も恥づ可き品行故にや,
此家には巡査方も疑ひを入るる事更になしとそいふなる。また,おたかの母親に孝道を尽すを見て,
おのれ
人々皆あるいは感じ,あるいは己が身を顧て恥思ふ者もある由し,まこと女の模範ともなる可く又 泥中の蓮ともいふ涌きは此のおたかならんか。
鎮西日報 明治16年生月20日 雑報
泥中芙蓉と賞讃し世の不品行なる婦女子等の鑑ともいふべき一美談は,零丁浪の平町貸座敷福寿 楼(坂本屋)出稼娼妓の数多きその中に,シヲ(当二十歳位)とそ呼べる婦人は,性質至って優美
32 長崎地方にみる明治10年代の家族情況(三島)
にして殊に孝心深く,かつて父某が久しく病にかかりしころは,昼夜の別なく牽しも,とこより離 れず,百事思うがままに介抱せしも二二の免かれ難きにや,憐れにも尽せし医薬の効験なく,遂に 黄泉の客となりければ,シヲの愁傷一方ならず,さしても有べきとならねば,世の例のままに泣く 泣くも野辺の送りをなし,只管亡き後の菩提をぞ心ゆくかぎり,手厚く吊ひ祭りける。爾来シヲは 母親に仕え,日夜縫針に勉強し憂き年月を送りけるも,女世帯不如意より負債は少しも減ずること なく次第に嵩みければ,今ははや人の卑しむ純なれど,浮川竹に身を沈め償ふより丸瓦術なしと心 を決めて,母親へ事云々と物語れば,母親も不本意なりとは思へども,是非も泣々その意に任せ,
今の楼主より幾許の金を借り受けて,医薬の料や向々の負債を残らず償ひ却ひて妹に母を依托して 別に住居はせ,自分は稼業の隙には暇を乞ひ訪ひ尋ねては,母親の心を慰め妹を寵愛するなど,見 る人々何れも感ぜぬことはなきまでなりと云へり,実に感心なる婦人ならずや,凡そ婦女子の一度 娼妓社会に身を投ずるや親の恩さえ忘却し,臭名を世間に流布するものも往々あり,シヲの如きは,
謂はゆる泥中の芙蓉ともいふべきか。
4 女性の地位
女性の地位に関して,新聞記事は大きく女性が劣等であることを説くものと,劣等であ るがゆえに女性の教育が必要であると述べるものとの2つに分けることができる。
中央ではすでに,明治6〜7年ごろから「男女同権論」が紹介されたが,時期尚早と一 般には受け入れられず下火になっていた時期である注11。その後,婦人改良論が盛んにな
り女子に対する教育が考えられはじめたのは明治17〜8年ごろであった。
男女同権論は,長崎においてはあまり真面目には受け入れられなかった。明治15年の西 海新聞は,男女同権という言葉自体が非常にやゆ的にしか使われなかった当時の情況をよ
く伝えている。
西海新聞 明治15年7月22日 雑報 女権
男女同権が間違って女権の過ぎたも困った事だと人の男気を頭痛に病むも記者が神経質の為すと ころか。皆野浪ノ平町の貸座敷萬屋の女房元と泉屋の娼妓瀬山さんは,昨年五,六月頃今の御亭主 に身受され,金箔つきの御内儀さんになったのが御自慢か,元の狐の穴仲間ドッコイ家の娼妓に高 振りて,お前手前の呼捨も堪へて居れば天上り四,五日前も遊客と家の娼妓と戯れて居る真中に突 立て,お前達大概に大人しう為るが宜いと云ふと,其娼妓の気に障りしと見えお前くと言ふて貰 ふまい,座敷料も喰前も出して居るからお前の為には此方がお客様だと,思い切って怒り返して居 たと素手振連が。
西海新聞 明治15年9月28日 雑報 男女同権
男女同権といふことは女も男も同様の権利があることであるから,婦人諸君も孜々勉強して家を 守もり国を護られたしとの岸田山女の演説を聞かせなば,そんなら火吹竹を注意しませうとでも言 ひそうな女挙家といふは,東彼杵郡早岐村の反物商半造といふ人が妻君杉とかいふ女にて,一度亭 主が気に触るも家業を止め,薬喰い寝飲みし,十日位は大丈夫に寝込み,亭主が心配して病気は如 何医者でも迎へようかと慰籍へば,自分の病気は医者の知るところでない,薬ではなおらぬ杯と,
困じ果つるまで寝ることが月に一回は必ずあるゆえ隣家近辺まで見兼ねて居ると,先づ男女同権も 大概にしてよさねばす寝るにあたります。
長崎大学教育学部社会科学論叢 第32号 33
当時女性は依然として女大学の教えの下にあるべきものと見なされていた。しかし実際 には,男女同権の記事にみられるようにすでに女性もかなり強いカを発揮していた。明治 15年1月10日には「女大学二背キシ人ノ多クテ時弊二流ル・ヲ救ハン為メ」として女性に 説諭するための投稿が見られる。このように現実の生活の中では女大学に関係なく女性が
自由に振まっていても,建前上は女性は男性より劣弱のものでなければならなかった。明 治15年1,月17日から2月1日差での西海新聞紙上に連載された社説「婦女論」では, 「婦
女ハ性質既望柔弱ナルノミナラズ形体モ亦心耳強二堪ヘザル」ものであるから「婦女二・交際ノ甚シキ男子二恩テハ自然柔弱ノ質二感化セラレ知ラズ識ラズ勇敢剛毅ノ美質ヲ変ズル
ニ至ル」と述べているし,同年12.月3日から6日までの「女教員」と題する社説では,「開明社会二於テハ男子ノ女子二超越スルハ世態学者ノ皆是認スル所」であって「十歳以上ナ
マ マル男子ヲ教育スルニ女教員ヲ以テスルノ不可ナル」ことを強調している。鎮西日報の明治
16年7,月13日の雑報では「かたより」と題して,女教員のえこひいきを非難しているが,今日であれば,この記事自体がそれこそ偏見として女性からの批判のまとになることだろ
う。
鎮西日報 明治16年7月15日 雑報 かたより
是れは,とかく女の【三二として,かたよりたること多く,愛むことも憎むことも急ならぬ勝なり とも言ふ可くや,県下々県郡厳原の今屋敷町にある女子小学校の教員,それらは,今年五十路の坂 を越え,物の黒白も能く明らめ得るにもかかはらず,同じ生徒の中にも,阿賀尾二子とのみ中々に 愛み思ふ所より,此の子のみは,校則の外として年に三度も四度も学科の試験をして上等の席を進 め上げしにぞ,ほかの女生徒どもは(初等科に在る十五歳未満)少女心の浅はかをも又,忌々しけ れど何となくおちつかず,小賢しき口に「あれは,不公平ちふものならむ。わたくしどもも,同じ 生徒なり,それにかれこれと愛まるるも悪まるるも,あるいは怪しき事なり。男の為るごとき上申 せむ」と一同打ちそろいて,学務委員永留氏にしかじかと言い立てたれど,同氏は大きに驚かれ,
それらに云々さとされし二ついにその職を免されたりとそ,かたよりの害もまた恐しきものなり。
以上のように女性蔑視はかなり強くあったものの,女性に対する教育には熱心だったも のもいるようである。キリスト教の立場からすでに明治5年に我国4番目の女学校が創立
され,さらに明治12年には活水女学校が設立された。同年12.月25日の西海新聞紙上には生徒募集の広告が出されており,長崎以外の地からも多く生徒が集まった。
西海新聞 明治12年12月25日 広告
私共儀,今般大浦切リ通シ上へ十三番地二於テ女児学校開設致シ,殊:更月謝等モ廉ニシテ英語学,
日本普通学,其他西洋凡テ女手芸一ツモ不眠,音楽等二至ルマデ教授可妻問,有志ノ処女子飼入校 有ラン事ヲ希望ス。追テ有志ノ御方ハ大浦切リ通シ上り詰メ六番地テビソン氏方工高来臨ヲ給ハラ バ月謝及ビ教授方法等ハ悉シク御知ラセ内申候也。
大浦切り通シ十三番地 ロッセル氏,ギール氏
もっとも一般の子女の就学率はきわめて悪く,12年で29.54%,当時全国では41.15%で
34 長崎地方にみる明治10年代の家族情況(三島)
あるから注12,かなり低かった。その中でも女児の就学率は男児の半分にも満たなかった。
しかし女子の教育の必要性は,同12年長崎県でおこった港湾汚職事件の際に,このような ことを許すのは男子に影響力のある女子に政治的素養がないからであるという形で説かれ
ているし,さきに紹介した15年の社説「婦女論」においても, 「世人多クハ婦女ノ教育ヲ以テ之ヲ等閑二尊スルモノアリ誤レリト謂フベシ,抑モ婦女ハ社会ノ交際少キが醗酵ニ我 国今日ノ情勢二部ツテハ左マデ教育ヲ要セザルが如シト錐モ,余輩が前篇二論ゼシ如ク,
婦女ハ果シテ社会二重大ノ影響ヲ及ボスモノトセバ婦女モ亦男子ト共二之が教育ヲ勉メザ ルベカラザルナリ」と述べられている。一般にはこれは賛否両論をもって迎えられたよう で,つぎに女性の教育を否定する立場の投書とこれに反対する投書とを紹介しておく。
西海新聞 明治12年2月26日 投書 古今婦女子比較論 磯野 滋太郎
蓋し古今婦女子の所為の善悪を比較するに共に弊害あるを免がれざるなり。これを病者に讐へん に古と今と其病の性質を異にするのみにて虚病は共に未だ癒さるなり。初め患るも医師治法を西国 に効ひ其病を治せんとするや切なり。然れども看病者薬の煎法を謬証し,八病ひ癒えずして,反て 八病を醸すが如し。何を以て爾か云ん。抑も昔日の婦女や不学にして其子を養ふや忌寸憤を舐って 育つる如く而して真の教育の法を知らず。又,裁縫に疎く家政に拙く世事に漏し是昔日の婦女子の 病の容体なり。目今の女子は然らず,読書にふけ,教育に精しく裁縫に工みに,世事に明らかなり。
而して,婦は婦の権を具し,義を有す,然れども数学は山海の測量汽車汽船の速力より其他の測量 妙を得たりと錐も,然れども自家,日々の雑費を心するのを知もの詰れに,書は欧米諸国地理物産 を諸すると錐も,自家屋敷の坪数大福帳の記し方を知る者は稀れなり。其文章の如きは,証券註文 其他の日用の文の類に非ず。其記文の如きは,則ちEilく,某日某地に遊び鑓を花下に布き,終日虚
し宴己に酎にして歌もあり,吟もあり,或は踊り或は舞ひ, (評日芸妓の所業の如し)玉山の曲る るを知らずして,興を極めたりと。其他の論説皆此の如し。吾れ痴れを請し思うに,男子の文と訳 せは少しく可なり(賞するに足らず)。女子の文にして斯の如き心意,此の如き行状は実に混むべ
し,湿れか漏れを婆る者あらんや。 (官途好きの依頼すきの人は婆るや否や保証せず)詣れも人に 婆られざれば,何ぞ廃人と異ならん。学びて廃人となるより,寧ろ不学にして常人となるに若かす,
故に其父母亦た之れが虚学たるを知り,遂に其の女の学校に入るを止む止むに至れば,実学の道も 亦従て亡びる。鳴呼嘆せざらんや。遁ち時勢の然らしむが如しと錐も,婦女子自から弦に及ぶに非 らず,畢寛之れ教導者の然らしむる所ならんか。蓋し官も亦四方に此弊あるを憂れどもこれを矯む るに其山方如何せんや,之れ乃ち医師良薬を与ふれども,看病者之れを誤れば,病者は癒えず,医 は之れを憂うるも功なきに属する如し,此病猶未だ天下に普からざるは,国家の幸なりと錐も然れ ども往々之れを心復に兆し,胸弩に含むもの少しとせす,故に余希くは看病者能く医命に従ひ早く 心を危急の際に用ひ予め,後日弊害の出口を閉ぢ以て国家安全文化進歩の道を開かんことを。
西海新聞 明治12年5月14日 投書 駁古今婦女子比較論 唐津 中江豊造
細雨濠として昼尚ほ暗く独り,窓に彫りて詩を題しようと欲するの時,忽ち聞く何人か柴門を叩 ひて来るあり,これを迎ゆれば,量図らんや,相知,小学校生徒女子某なり,某日く,妾西海新聞 第五百九十八号(二月廿六日発兇)を閲するに磯野野太郎と云ふ先生の稿せられたる古今婦女子比 較論と塾せる一文あり。妾一読して熟考するに,未だ磯野先生の論に左崩する能はず。先生以て如 何と為すやと。其新紙を投じて去りぬ。余盛れを熟読するに余も亦磯野氏の論に少しく同意し能は
ざる所あれば,左に陳述して以て氏の答弁を乞。
長崎大学教育学部社会科学論叢 第32号 35
氏曰く。「数学は山海の測量汽船の速力より其他の測量妙を得たりと蹉ども(中略)大福帳の記 し方を知るもの稀なり」と。これ何の事ぞ。山海其他の測量に妙なるものにして自家日々の雑費を 期するを得ざるもの,又書は欧米諸国地理物産を諸するものにして自家屋敷の坪数大福帳の記し方 を知らざる挙国の如き人のなきことは,我輩が固く信じて疑ざる所なりと錐も,氏は定めて,此の 如き人のあること百も承知の上にて尽くは謂はれしならん。我輩に其の人を教え賜はんことを是れ 答弁を乞ふ一なり。又,氏は女子の学びて人の嬰らざる様になるを論魅して,教導者の然らしむる 所なりと云はれたり。是れ氏は其の一を知って未だ其の二を知らざるものなり。抑教導者たるもの は,自分一己の工夫を以て教導を為すものに非ず。必ずや一定の教則あり。教導者此の教則に従っ て業を授く。其の教則なるものは,則ち官の編製する所なる由,是羅馬教導者の然らしむる所に非 ずして,則ち官の然らしむる所なり。異れを氏は未だ其の二を知らずと云ふなり。然れども余は云 う。官の然らしむる所に非ずして教導者にあり,教導者に非ずして其の人にありと否な,其の人に 非ざるなりと此の如く平し,潤むれば何れに帰して可ならん。歎帰するに処なし,余は又云わんと 欲す。全く磯野氏の戦野なりと。何ぞ学んで其の記文の如きは某日某地に遊び鑓を花下に布き終日 等し」宴酊にして歌もあり,吟もあり,或は踊り或は舞ひと記する程の婦人たりとも人之れを姿ら ざることあらんや。近くば亀井少懇先づ此の如き婦人なりしに雷首際から求めて,君聖王上手我為 出頭天とまてで謂て,遂に其の出頭の天となられたり。かく我輩は得意然として陳述したれども,
知らず,我国の広き教導同業を授けて人も婆らず目して廃人とまでも為す程の教育をなす者有りや 否や。子は必ず判然其の人のあることを知らるるならん。委曲説教あらんことを之れ答弁を乞ふな
り。
すでに明治12年2月19日前の西海新聞には女子からの小学開学を祝す投書があり,編者 は「女子教育ノ進歩ヲ示ス」ものであると高く評価した。また巷間では,女子は三味線手 踊りを仕込んで芸者にするのが最上の策だと思われていた時に,敢然とこれに立ち向かっ て娘を学校に通わせ教育を受けさせる開明的な母親もいた。西海新聞明治15年9,月14日の
紙上でもこれを「吾独潔」と報じ感心している。西海新聞 明治朽年9月14日 雑報 吾独善
みだれ藍の汚き中に立てる蓮の愛出たきは,実に散花天女の舞ふ様と怪しむ事も蕾ならずと書出 す一行は,当区今町の門際西側なる果物店の主人とかや足手は,今年の春頃迄,今魚町の門際に焼 芋渡世を営みて最貧乏げに暮せしが,夫婦の中に二人物娘あり,姉をおハル(十八),妹をおカツ
(十二)と呼び,両人も美麗娘にて,往来の人も折々に足を止る斗りなり。それはさて置き,此の 母が二人の娘の教育を聞伝たる荒増は,姉のおハルを産し折,近所の婦人等寄集ひ此娘が成人した ならば三味線手踊り能く仕込み,芸者に為すなら貴方達夫婦は安心安楽に花見て暮すは遠からずと,
最羨しげに述べけれど,罵倒の女房憤然と顔色打替,これ若し妾は貧乏するけれど娘が庇陰で花見 遊山はしませんとつぎはもなき言葉に,賜れも恥ぢて胡早くと逃帰りしが其后はおハルも年月立 に随ひ,裁縫の業を励ませて,友達さへも選びしが,又妹おカツは文明開化の世の中に生まれしか らは学問の道一通り教んと焼芋の細き姻りの其中より国隣の学資を響けなく,月々更に怠なく納め て,本大工町なる女児学校へ通はせて,学事の余暇には筑後町の粒界甲鉄舘画師の弟子となし,絵 画の事に心を入れ平常賢事のみ噺し居れば近辺の人々の気に合はねども独り狸雑利欲の場に立入ら ぬとは感心く。