印度學佛敎學硏究第六十七巻第一号 平成三十年十二月
中世禅林における重陽の喫茶文化
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茱萸茶・菊花茶をめぐって
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舘
隆
志
一
はじめに
本論では、日本の中世禅林で重陽に際して行なわれた喫茶 文化である、 茱 萸 茶と菊花茶について諸史料を通して解明す ることで、中世禅林における文化の受容過程の一端を明らか にしたい。また、同じような習俗である端午の菖蒲茶との比 較を行ない、重陽の喫茶文化の実体を探るものである。 重 陽 ) 1 ( は 九 月 九 日 の 節 供 で あ り、 中 国 を 由 来 と す る も の で、 陽 数 ︵奇 数︶ で あ る 九 が 月 と 日 と も に 重 な る こ と を 尊 ん で 嘉 し、 陽 数 の 九 が 重 な る こ と か ら 重 陽 と も 重 九 と も 言 う。 ま た、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日などの重数節 日の成立は、二世紀末頃と考えられている [池田一九八六] 。 重 陽 の 説 明 に よ く 用 い ら れ る の が、 武 徳 七 年 ︵六 二 四︶ 述 の﹃芸 文 類 従﹄ 巻 四 歳 時 部 の 九 月 九 日 条 収 録 の 魏 文 帝 ︵曹 丕、 一 八 七 ︱ 二 二 六︶ の﹁書﹂ で あ り、 こ れ に よ っ て、 二 世 紀 末頃には九月九日の節供が成立していたことを裏付け、陽数 の九の月日の重なりを尊んだことが知られる。 重陽の習俗としては、この日には、高い場所に登る習俗が あ り、 宴 が 催 さ れ、 茱 萸 を 用 い る 習 俗、 菊 花 を 用 い る 習 俗、 重 陽 ︵だ ん ご︶ を 食 す る 習 俗 な ど が あ っ た。 重 陽 は、 地 方によってはではなく粽が食された。茱萸は赤い実のなる 植 物 で、 は げ し い 赤 い 色 や 香 り で 辟 邪 す る と さ れ た。 ま た、 茱萸と菊花には延年の呪術的な効能が知られ、酒とともに飲 むようになるのは、 このような事情にもよるのだろう。 このうち、唐代頃までの茱萸を用いる主立った習俗に、頭 に茱萸を戴く習俗﹁茱萸戴頭﹂があり、他にも茱萸を入れた 袋を帯びる習俗﹁茱萸 嚢 ﹂が行なわれた。また、唐代は酒に 浮かべて飲む習俗﹁茱萸酒﹂もあったが、あまり一般的では なく、主流は菊花を酒に浮かべて飲む ﹁菊花酒﹂ であった。 しかし、宋代になると﹁菊花酒﹂の習俗は廃れ、 ﹁茱萸酒﹂ が隆盛するようになり、宮廷行事としてわずかながら残って いる他は﹁茱萸酒﹂が基本となっていた。菊花はそれを頭に中世禅林における重陽の喫茶文化︵舘︶ 戴 く 習 俗﹁菊 花 簪 頭 ﹂ が 宋 代 の み に 流 行 し た。 ま た、 宋 代 以降は菊花を視覚的に鑑賞する ﹁賞菊﹂ が行なわれた。
二
宋代の禅林における重陽の受容
禅 籍 に お け る 重 陽 の 記 事 と し て は、 汾 陽 善 昭 ︵九 四 七 ︱ 一 〇 二 四︶ が 上 堂 に 際 し 述 べ た﹁重 陽 九 日 菊 花 新﹂ ︵大 正 蔵 四 七・ 五 九 七 b︶ が あ る が、 内 容 か ら は 重 陽 に 行 な わ れ た 上 堂 で あ っ た か は 見 極 め 難 い。 一 方、 ﹃列 祖 提 綱 録﹄ 巻 四 一﹁重 陽 日 提 綱﹂ に、 真 浄 克 文 ︵一 〇 二 五 ︱ 一 一 〇 二︶ を は じ め 北 宋 代の禅僧による重陽の上堂や示衆が記録され、重陽の上堂な どは北宋代から始まっていたと考えられる。ほかに、崇寧二 年 ︵一 一 〇 三︶ 成 立 の﹃禅 苑 清 規﹄ に は、 特 別 な﹁斎﹂ を 設 ける日の一つとして ﹁重九﹂ ︵重陽︶ が挙げられている。 南 宋 代 か ら は、 茱 萸 茶 を 飲 み、 重 陽 ︵黄 栗 ・ 黄 栗 粽︶ が 食されていたようだ。茱萸茶は﹁茱萸酒﹂という民間習俗が 禅林に受容されたものであり、酒を茶に変えて、茱萸を浮か べ て 飲 む の で あ る。 そ し て、 味 は﹁苦 渋﹂ ︵続 蔵 一 二 一・ 四四三 b︶ であったとい う ) 2 ( 。 また、重陽は多くは黄栗や黄栗粽とあり、黄色い栗が 中 に 入 っ て い た ら し い。 ﹃列 祖 提 綱 録﹄ 引 用 の 真 浄 克 文 の 重 陽 の 上 堂 に、 ﹁飽 黄 栗 ﹂ ︵続 蔵 一 一 二・ 三 八 六 c︶ と あ り、 北宋代にはすでに始まっている。文献上、禅林における端午 の粽の初出も真浄克文であることは興味深い [舘二〇一八] 。 た だ し、 端 午 の 菖 蒲 茶 と 粽、 重 陽 ︵粽︶ が 北 宋 代 に す で に始まっていることからすれば、重陽の茱萸茶も北宋代には じまり、南宋代にも受容されたと考えられ、さらに元代にも 継 承 さ れ た。 元 代 の﹃勅 修 百 丈 清 規﹄ 巻 七﹁月 分 須 知﹂ ︵大 正 蔵 四 八・ 一 一 五 五 a︶ に、 重 陽 の 上 堂 と 茱 萸 茶 が 清 規 に 記 さ れている。ただし、これより後の時代の中国では、重陽の上 堂以外はほとんど継承されなかったようで、茱萸茶も重陽 ︵粽︶ もほとんど記録にみられない。三
日本における重陽の受容
栄 西 ︵一 一 四 一 ︱ 一 二 一 五︶ の 記 述 に 重 陽 に 関 す る も の が な い の で、 栄 西 の 時 代 の 受 容 状 況 は 不 明 で あ る が、 道 元 ︵一二〇〇︱一二五三︶ の ﹃知事清規﹄ ︵大正蔵八二・三三七 a︶ で は、 ﹃禅 苑 清 規﹄ に 基 づ い て、 特 別 な﹁斎﹂ の 日 に 重 陽 を 含 めている。さらに、 ﹃正法眼蔵古鏡﹄が仁治二年九月九日に、 ﹃正 法 眼 蔵 身 心 学 道﹄ が 仁 治 三 年 重 陽 日 に 興 聖 寺 で 示 さ れ て い る の で、 重 陽 に﹁示 衆﹂ し て い た と 思 わ れ る。 そ れ ゆ え か、 道 元 の 語 録 に は 重 陽 の 上 堂 は 収 録 さ れ て い な い。 し か も、その後の曹洞宗の語録は江戸時代になるまで、重陽の上 堂 は 残 さ れ て お ら ず、 瑩 山 紹 瑾 ︵一 二 六 四 ︱ 一 三 二 五︶ の﹃瑩 山清規﹄ にも重陽に関する記事はない。中世禅林における重陽の喫茶文化︵舘︶ 中 世 の 臨 済 宗 の 受 容 状 況 と し て は、 蘭 渓 道 隆 ︵一 二 一 三 ︱ 一 二 七 八︶ の 語 録 に は 重 陽 の 上 堂 ︵大 正 蔵 八 〇・ 六 二 c︶ と 推 定 される上堂が収録され、その後の渡来僧の語録にも重陽上堂 が 記 録 さ れ て い る。 日 本 僧 の 白 雲 慧 暁 ︵? ︱ 一 二 九 七︶ 、 南 浦 紹 明 ︵一 二 三 五 ︱ 一 三 〇 八︶ の 語 録 に も あ る の で、 中 世 前 期 の 臨済宗では基本的に毎年の行事であったのだろう。 中世の曹洞宗の語録に重陽の上堂が見られない一方[安藤 二 〇 〇 八] 、 臨 済 宗 で は 江 戸 時 代 前 期 ま で、 重 陽 の 上 堂 は 受 け 継 が れ た。 そ れ ら の 記 録 に 見 ら れ る 重 陽 の 習 俗 は、 茱 萸 茶、 菊 花 茶、 黄 栗 ︵粽︶ で あ る。 こ の 点、 禅 林 に お け る 端 午の受容と異なるのは、端午の場合、粽を食べる習俗はすで に日本に入っていたし、菖蒲茶の基となる菖蒲酒の習俗も日 本に入っていた。端午そのものが日本ですでに受容されてお り、鎌倉時代に禅僧によって禅林文化として再び将来された ものである。しかしながら、重陽の菊花酒はあっても、茱萸 酒も重陽 ︵粽︶ も未だ日本に入ってきていなかった。 すなわち、鎌倉時代における重陽の禅林文化の導入は、民 間における受容状況とは関係なく、新しい宋朝文化として導 入されたことになるだろう。
四
重陽の喫茶文化︱︱茱萸茶︱︱
現在、鎌倉期禅僧の喫茶史料を収集し、訓を付す研究を 継 続 し て い る が[舘 二 〇 一 七 a]、 注 目 さ れ る の が、 茶 に 関 す る 説 示 を す る 日 が 端 午 と 重 陽 に 集 中 し て い る こ と で あ る。 すなわち、中世の日本の禅林では端午と重陽に特別な喫茶し ており、往々この日に茶に因んだ説法も行なわれていた。 菖蒲茶は濃い緑の茶に菖蒲を刻んで浮かべ、飲む際には菖 蒲 を 口 の 中 で 砕 い て 更 な る 苦 さ を 味 わ い 邪 気 を 祓 う も の で あ っ た[舘 二 〇 一 七 b]。 こ こ で い う 菖 蒲 は、 花 菖 蒲 で は な く、 菖 蒲 ︵シ ョ ウ ブ︶ や 石 菖 蒲 ︵セ キ シ ョ ウ︶ の こ と で あ る が、 菖蒲と石菖蒲は日本に自生し、菖蒲を用いる端午の諸習俗は 日本でも行なわれていたので再現は容易であった。 一方、これと様相を異にするのが茱萸茶である。茱萸とい うと、日本ではグミ科の植物で果実が食用になる﹁グミ﹂と して知られるが、これはいつの時代からかグミに茱萸の漢字 が当てられてしまったものであり、本来は誤用である。もと もと、古来より中世にかけて日本で茱萸は﹁シュユ﹂と読ん で お り、 あ る い は 呉 茱 萸 ︵ゴ シ ュ ユ︶ と 呼 ば れ、 ミ カ ン 科 の 植 物 の 一 種 の こ と で あ っ た[寺 井 二 〇 〇 八] 。 呉 茱 萸 は 重 陽 の節供には必要なものではあったが、日本には自生していな かった。そのため、平安時代の宮廷行事では呉茱萸の実は中 国から輸入されたものが用いられていた。 そして、鎌倉時代に、渡来僧、あるいは入宋僧を介して重 陽の茱萸茶が日本の禅林に導入されたが、この事情を踏まえ中世禅林における重陽の喫茶文化︵舘︶ た場合、中世の日本において、茱萸茶をどのように再現でき 得たのかについてはよくよく考えなければならない。 このことに興味深い示唆を与えてくれるのが、無学祖元の ﹃仏光国師語録﹄巻三﹁建長寺語録﹂ ﹁重陽上堂﹂の﹁茱萸日 本無﹂ ︵大正蔵八〇・一四九 b︶ という一文であり、日本には呉 茱萸はなかったのである。たとえば、大休正念の﹃大休和尚 語 録﹄ を 見 る と、 ﹁厨 無 黄 栗 粽、 堂 乏 紫 萸 茶﹂ ︵仏 全 九 六・ 一 一︶ 、﹁厨 内 既 無 黄 栗 粽、 堂 中 休 点 紫 萸 茶﹂ ︵仏 全 九 六・ 三 九︶ と あ っ て、 重 陽 に 紫 萸 茶 ︵茱 萸 茶︶ が 飲 ま れ て い た か ら こ そ の言葉ではあるが、上堂を行なった時の重陽では、呉茱萸が 実際に無かったという状況も想定される。また、実際に茱萸 茶を飲んでいた場合、その呉茱萸は、渡来僧、入宋僧がもた らしたか、別に輸入されたと理解する他はない。 い ず れ に し て も、 鏡 堂 覚 円 ︵一 二 四 四 ︱ 一 三 〇 六︶ の﹃鏡 堂 和尚語録﹄巻一﹁建仁寺語録﹂の重陽上堂に﹁紫萸満泛趙州 茶﹂ ︵五 山 新 六・ 四 二 五︶ と あ り、 別 の 重 陽 上 堂 に も﹁紫 萸 醸 点 趙 州 茶﹂ ︵五 山 新 六・ 四 三 九︶ と あ る。 無 象 静 照 ︵一 二 三 四 ︱ 一 三 〇 六︶ の﹃無 象 和 尚 語 録﹄ 巻 上﹁浄 智 寺 語 録﹂ に﹁喫 了 茱 萸 茶﹂ ︵五 山 新 六・ 五 四 五︶ と あ る。 他 に も 鎌 倉 期 の 禅 語 録 に茱萸茶と考えられる記事が散見されるように、茱萸茶は鎌 倉時代には間違いなく飲まれていた。 この点、乾峰士曇 ︵一二八五︱一三六一︶ の ﹃乾峰和尚語録﹄ 巻四﹁偈頌﹂の﹁謝清拙和尚重陽恵茱萸﹂に﹁蘇州有也只聞 名、道地呉萸未見形。今日応時親納祐、郝翁盞底祝椿齢﹂ ︵五 山 新 別 一・ 五 一 八︶ と あ り、 清 拙 正 澄 ︵一 二 四 九 ︱ 一 三 三 九︶ か ら 呉 茱 萸 を 送 ら れ、 呉 茱 萸 の 形 を 始 め て 見 た と 述 べ て い る。 ﹁道 地 呉 萸﹂ は 本 場 の 呉 茱 萸 ほ ど の 意 で あ る が、 茱 萸 の 木 を 指すのか、房がついた呉茱萸の実を指すのか、実そのものを 指すのかよく解らない。呉茱萸が粉として輸入されるのが普 通であった場合、入元していない士曇が実の状態の呉茱萸を ﹁道 地 呉 萸﹂ と 評 価 し 得 る か ら で あ る。 い ず れ に し て も、 渡 来僧が呉茱萸を中国から運んでいることと、日本において呉 茱萸が珍しかったことは知られよう。 絶 海 中 津 ︵一 三 三 六 ︱ 一 四 〇 五︶ の﹃絶 海 和 尚 語 録﹄ 巻 上 ﹁慧 林 寺 語 録﹂ の﹁重 陽 上 堂﹂ に﹁盃 裏 紫 萸 茶 泛 春﹂ ︵大 正 蔵 八 〇・ 七 三 四 c︶ と あ る が、 別 に﹃絶 海 和 尚 語 録﹄ 巻 下﹁偈 頌﹂ の ﹁重陽次韻古剣和尚﹂ では ﹁呉地茱萸到口難﹂ ︵大正蔵 八〇・七五二 c︶ とあることは印象的である。 以上のことから、鎌倉時代の禅林では、重陽の茱萸茶は始 ま っ て い る が、 そ れ は 輸 入 さ れ た 茱 萸 を 用 い な け れ ば な ら ず、簡単には飲めなかったことがわかる。しかし、宋朝の禅 林独自の文化として、その後の中世の語録に見られ、江戸時 代までこの禅林文化は続くこととなった。ちなみに、中国で は も と の 茱 萸 酒 は 宋 代 以 降 廃 れ て い き、 禅 林 で も 宋 代 以 降、
中世禅林における重陽の喫茶文化︵舘︶ ほとんど記録にはみられない。その意味では、重陽の茱萸茶 は、 まさしく南宋禅林文化の一つと言えるだろう。
五
重陽の喫茶文化︱︱菊花茶︱︱
日本では茱萸茶という禅林文化を輸入したが、呉茱萸が日 本で入手困難である以上、茱萸茶を行なえなかった寺院は多 かったはずである。また、大寺院であればこそ、量が必要と なり、茱萸茶を行なえなかったこともあろう。一方、重陽に 茶を飲む行為は呉茱萸がなくても行なわれたようで、重陽の 日には茶に関する上堂説法が記録される例が多い。 この重陽の喫茶文化の中で、特段に目を引くのが菊花茶で ある。重陽には菊を使った習俗があり、唐代には菊花酒が流 行り、宋代になると菊花酒から茱萸酒に変わり、菊花茶は宮 廷行事として残っていたことはすでに述べた。一般習俗が流 入 し や す い と い う 禅 林 の 性 質 上[舘 二 〇 一 八] 、 宋 代 の 禅 林 に茱萸茶が導入されたことは理解しやすい。 一方、鎌倉時代以降の禅籍にしばしば登場するのが菊花茶 で あ る。 ﹃大 休 和 尚 語 録﹄ ﹁建 長 寺 語 録﹂ ﹁重 陽 上 堂﹂ に﹁砕 擘 黄 花 浮 緑 茗﹂ ︵仏 全 九 六・ 二 九︶ と あ る よ う に、 茶 に 菊 花 を 細かくして浮かべて飲むものである。緑の茶に黄色い菊の花 を浮かべた、色彩豊かな茶を想像することができる。 白雲慧暁の﹃仏照禅師語録﹄ ﹁東福寺語録﹂ ﹁重陽上堂﹂の ﹁重 陽 佳 節 菊 花 開、 人 愛 秋 香 浮 玉 盃﹂ ︵大 正 蔵 八 〇・ 三 〇 c︶ は 菊 花 茶 で あ ろ う。 ま た、 東 明 恵 日 ︵一 二 七 二 ︱ 一 三 四 〇︶ の ﹃東明和尚語録﹄ ﹁東勝寺語録﹂ に ﹁茶杯泛菊英、一味渋人口﹂ ︵五 山 新 別 二・ 二 四︶ と あ る よ う に、 中 世 禅 林 で は ま ち が い な く、重陽に菊花茶も飲まれていた。 こ の 点、 中 巌 円 月 ︵一 三 〇 〇 ︱ 一 三 七 五︶ の﹃東 海 一 漚 集﹄ ﹁已丑九月八日、微雪降詩以記之﹂に、 ﹁九月利根天已雪、十 囲大木凍将折。茱萸日本本自無、黄菊早萎随変滅。明日重陽 一 盞 茶、 不 知 何 以 賞 佳 節﹂ ︵五 山 全 二・ 一 二︶ と あ る の は 興 味 深い示唆を与える。茱萸は日本にはないし、菊もダメになっ たので、明日の重陽の喫茶は、どのように佳節を賞したらよ いのかと記している。すなわち、茱萸があれば茱萸茶、無け れば菊花茶を飲んでいたことを伺わしめるからである。 禅林における菊花茶は、呉茱萸が無いという日本の状況に より生まれることになったのではないか。菊花茶は、大休正 念など渡来僧によって開始されたものかもしれないが、結果 として日本独自の禅林文化となったのである。六
おわりに
重 陽 の 上 堂 に は、 往 々、 茶 に 関 連 し た 説 法 が 行 な わ れ た。 端午の菖蒲茶と同様、重陽の喫茶も一年に一度の珍しい行事 であった。禅僧たちは、茶が印象的である日を選んで、茶に中世禅林における重陽の喫茶文化︵舘︶ 関連する説法をしていたのであろう。中国での重陽の茱萸茶 を受け継いで、日本でも重陽に茶を飲む禅林文化を継承した が、 日 本 に は 呉 茱 萸 の 木 は 生 え て い な か っ た。 そ れ ゆ え に、 菊花茶が生まれることになったのではないか。 臨 済 宗 で は 一 糸 文 守 ︵一 六 〇 八 ︱ 一 六 四 六︶ の﹃仏 頂 国 師 語 録﹄ ︵大正蔵八一・一八〇 b︶ にも記録されており、茱萸茶の禅 林文化は江戸前期まで伝えられていた。 中世曹洞宗における茱萸茶の受容状況は不明であるが、菊 花茶については中世曹洞宗の語録にも見られ、中世述の清 規には重陽の喫茶が記されている。曹洞宗の重陽の受容につ いては、別の機会を設けたい。 中世禅林に導入された重陽の茱萸茶は、日本の禅林におけ る 重 陽 の 喫 茶 文 化 を 定 着 さ せ、 あ ら た な 菊 花 茶 を 生 み 出 し た。渡来僧や入宋僧による南宋禅林の再現、そして宋朝禅林 を 思 慕 す る 禅 僧 た ち に よ る 重 陽 の 喫 茶 文 化 の 受 容 と 展 開 は、 日本独自の禅が花開く過程を示していよう。 1 重 陽 に つ い て は、 中 村 喬[ 二 〇 一 〇] 中 村 裕 一[二 〇 一 〇] を 参 照。 2 茱 萸 茶 は、 陸 游︵一 一 二 五 ︱ 一 二 〇 一︶ の ﹁荊 州 歌﹂ に﹁峽 人 住 多 楚 人 少、 土 鐺 争 餉 茱 萸 茶﹂ と あ り、 一 例 で は あ る が 民 間 の 記 録 に も 見 ら れ る。 し か し、 こ こ で い う 茱 萸 茶 は、 土 鐺︵ど な べ︶ を 用 い て 煮 て 作 ら れ た よ う で あ り、 あ く ま で 荊 州︵湖 北 省︶ に 伝 わ っ て い た 茱 萸 を 用 い る 独 自 の 茶 と 理 解 す る 他なく、禅林の ﹁茱萸茶﹂ とは別物と理解したい。 ︿略号表﹀ 五山全 上村観光編﹃五山文学全集﹄思文閣出版、一九九二 五 山 新 玉 村 竹 二 編 ﹃ 五 山 文 学 新 集 ﹄ 東 京 大 学 出 版 会 、 一 九 六 七 ︱ 一九八二 ︿参考文献﹀ 中村喬﹃中国の年中行事﹄平凡社、一九八八 池 田 温﹁中 国 古 代 に お け る 重 数 節 日 に 成 立﹂ 中 国 古 代 史 研 究 会 編 ﹃中国古代史研究﹄六、研文出版、一九八九 安藤嘉則﹃中世禅宗文献の研究﹄国書刊行会、二〇〇〇 寺 井 泰 明﹁ 茱 萸 とぐ み ﹂﹃日 中 言 語 文 化 桜 美 林 大 学 紀 要﹄ 第六集、二〇〇八 中村裕一﹃中国古代の年中行事﹄第三冊、古書院、二〇一〇 舘 隆 志﹁鎌 倉 期 禅 僧 の 喫 茶 史 料 集 成 な ら び に 訓 ︵上︶ ﹂﹃花 園 大 学国際禅学研究所論叢﹄第十二号、二〇一七 a 舘 隆 志﹁中 世 禅 林 に お け る 菖 蒲 茶﹂ ﹃印 度 学 仏 教 学 研 究﹄ 第 六 六 巻第一号、二〇一七 b 舘 隆 志﹁中 世 禅 林 に お け る 端 午﹂ ﹃東 ア ジ ア 仏 教 学 術 論 集﹄ 六、 二〇一八 ︿キーワード﹀ 中世禅林、禅文化、喫茶文化、重陽 ︵東洋大学東洋学研究所客員研究員・仏教学博士︶