台湾
の
現 代 仏 教
一拠 点寺 院
の門派化
とそ
の存在 形 態
一蓑 輪 顕
量
1
. は じめ に台 湾の 仏 教に は基 本 的に四方
僧
伽 の 意 識が存 在 する。十
方叢林
の伝 統
が 残 っ て お り,僧侶
が比較
的自
由に寺 院 間を往来
して い る。 とこ ろ が1980 年
代
以降
,経 済の 発展
に伴
い ,い くつ かの寺 院
を拠
点に巨大 な門侶 集団 が出現 し始 める よ うに なっ た。 これ らの集 団は伝 統 的な出家僧伽
の 意識 を持 ちなが ら も, 宗教的エ リー ト指導者
の も とに巨大 な集
団化
を遂 げ
たの であ る。 そ し て , そ れ らの集 団の中
に は門派
の 意識が生 じ始
めて い る。 その よ う な現代 台 湾の仏教
界の 事 情 に興 味を 引 か れ ,筆者 は1998
年
よ り訪
問 調 査 を行 うよ う になっ た。 本 拙 論は それ らの 調査
か ら得 られ た知見
に基
づ くもの であ る。2
.台
湾仏 教
の歴
史概観
まず, 台 湾に お ける宗 教 状況 を台湾 政 府の 内 政 部 民政 司
編
にな る 『全国 寺廟 名 冊』ω か ら概
観 し て お こ う。 現 在 ,台 湾 内に存 在す る寺廟
数は, 道教7
,416
,仏教1
,872
, 一貫道90
,軒 轅 教6
, 理 教4
, 天帝 教1
, 天徳
教5
の 合 計9
,394
箇 所で あ る とい う。 これ らの 寺 廟を その 建 設の 主体 別に 分類す れば、募
金に よ る建 立私財に よ る建立
公 的機 関に よ る建立の
3
つ に区分さ れ る。 ま た ,その 経営
の組
織形 態で 分 類す れば,管理委 員 会 制
管理人
制
財 団 法 人制 社 団法人制執 事会 の
5
つ に分類
され る とい う。現
代
, 台 湾に在 住す る台湾
人僧 侶の 数は台 湾 全土で約20
,000
人 とい わ れ る。 尼僧
が圧 倒 的に多 く, その比率は尼僧 と男僧 とで 約五対 一 と さ れ る。 と2
パ ーリ学 仏教文化学 に か く女性
の出
家 者が 多い のが特 徴で あ る。 これ らの 約20
,000
人の僧侶
の内
,1
,000
人前後
が上 座 仏教 またはチ ベ ッ ト仏教
を信奉
す る僧 侶で ある とい うω 。 中 国仏 教以外
の 信 奉 者の僧 尼が約5
パ ーセ ン ト ほ ど存 在す る こ とに な る。台 湾に仏教が伝わ っ たの は, 歴 史 的に知 られるの は明
末
の 頃か ら で ある。 台 湾はも とも と東 海に浮かぶ宝の 島と して 大 陸の歴 史 書に し ば しば名 前を登場
さ せ るが, 詳 しい 歴史
が記述
さ れ る よ うに なる の は意外
に新
し く, そ れ は 鄭 成 功が明朝
の復
興の ため に 台湾を拠 点 と してか ら以降
の こ と で ある。 明 王 朝は残念な が ら復興 さ れ るこ とな く,台湾は清 朝の支
配を受ける こ と に なっ た。 福建 省に所 属す る 一地域 と し ての 地位に甘 ん じ るこ と に なっ たの で あ る が, こ の清朝
の支配
時代 以 降の 歴史
が比較 的良
く知 られ るの で ある。 現在, こ の 時期を 日本
が支配
して い た時 代を基 準に, 日帝
支 配 時代(
日拠時代)
以 前と呼
ぶ こ とが多
い 。こ の
時期
に,大 陸
か ら仏教が伝 播 した との記録
を持
つ 寺 院が多 く, そ れ は 観 音 信 仰を媒
介にす る。 台 湾の 西 海 岸 沿い に 古い 寺 院が点 在 し, た と えば, 台北
の龍
山寺
, 嘉 義の 大 仙寺,台南の竹 溪 寺な どが挙 げられ る。 おそ ら くは 明朝末
期の混乱
期や清朝 初 期に福建系
や広東
地 方に住 し て い た客
家系の 漢民 族が移
住 して きた が ,彼らの素
朴な信 仰が伝 播 し, それに基づ い て寺 院が形 成さ れてい っ た の で あろ う (五 十 嵐真 子 [2006
]:17
−18)
。さて, 次の 日帝 支 配 時
代 (
1895
−1945)
に は斎教が組織
的に な り , 仏 教の 隆 盛を準 備 (日本 曹 洞 宗 と協 力)した。 も とも と斎教
は大陸
の 明代に生じた 在 家 仏教 運動で あっ た。 その 創 始 者は羅 夢 鴻(
1442
−1527
別 名 羅i
祖師
,羅孟 洪,無為 居 士)
で あっ た と言われ, 彼らは五戒十善
を保ち, 素食 (肉食を し ない , い わ ゆる菜
食主 義)
, 檳 榔 椰 子 を食 べ ない な どの禁 戒を守っ た。 その 信奉者
た ちは法 衣を着せず剃 髪 もせず とい う様
相で あ り, ま さ し く在家
主 義 の仏教運動
であっ た とい う。 この斎 教 は清代
に台湾に流入 し,龍 華教, 金幢
教 , 先 天 教の 三系
統が存 在す る (闌 正 宗[
2004
]:204
−225 )
。 当初
はバ ラバ ラ の信仰 集 団で あ っ た が, そ れ を組 織 化 したの は 日帝 支 配 時 代の曹
洞宗
で台 湾の現 代 仏 教
3
あっ た とい う。斎教
組織
はs その後
に出家者
の仏教
が興隆
するときに先行
す る組織
と して重
要な役割
を果た した。 ま た , こ の 日帝支 配 時 代に大 き な流派 が4
つ ほ ど存 在 した(
江燦
騰[
1996
]
な ど)
。 それ らは,1
. 月眉 山派 (
基隆
・月 眉 山霊泉寺
・1903
年 開 創日
本曹
洞宗)
2
.凌雲寺派 (淡 水 ・観 音 霊 雲山寺
・1909
年 開創日
本臨
済宗)
3
.法雲寺
派 (苗栗
・大湖
法 雲 寺 ・ 大 陸 鼓山湧 山寺
か ら覚
力 法 師来
台 ,1912
年開創)
4
.大 崗 山派 (高雄 ・大 崗 山超 峰 寺 ・1673 年開創)
で あ る。 月眉 山派,凌雲寺派
は 日本
の曹洞宗
と臨済宗
が そ れ ぞ れ関与
し, 日本
の在家
主義 的 な仏 教を台 湾に紹 介 した 。 い わゆ る僧 侶の妻 帯であ る。 一 方 の 法 雲寺 派,大 崗山 派 は 中 国 人 の出 家 仏教 者が その構成 員 となっ て い た派
で あっ た 。中
国人 の仏 教者た ちは出家
を守 り教 線を延 ばそ う とし た とさ れ る 。 当時, 日本
の仏
教 者 と台 湾の仏
教者
とが協
同 す る受 戒会 な ども催 されて お り, その 記録(
菩 薩 戒 受戒の 戒牒 )
が ,台 南の 妙心寺
に残っ て い る(
蓑輪 顕
量 ・林 淳[
2004 ])
。大 東亜
戦争
が終
了 し た後に 台湾
は 国民党の 支 配下 に入 っ た。 し か し大 陸に お い て は共 産 党 と国 民 党が争い を起 こ し,1946
年6
月 よ り国 共 内戦が勃 発 し た。 こ の時
期 の1947年
2
月
28
日に 台湾におい て い わ ゆ る二 ・二 八 事 件が 起き た。 こ の事件
は何の罪 もない 一老 女が国 民党 兵士 に乱暴
に 扱われ る とい う出来 事を皮切 りに大 き な暴 動に発展し,多数の 内省 人が虐 殺さ れ る事 態に 至 っ た。 そ して こ れ を契 機に台湾
全 土に戒
厳 令が布
告され る こ とに なっ た 。 この 時に発令さ れ た 戒厳 令
が解
除さ れ るの は約40
年 後の1987
年7
月15
日で あ る。さて, 大 陸に お け る 国 共内戦 は共 産 党
軍
の勝 利 に帰 し,1949年 10
月1
日, 北 京に中華
人民共和 国
が成
立 した。 国 民党 政府
は台湾に拠 点を移す こ とに な り,最初
は台 南に 拠 点を置 きやが て 台北に 移る。 こ の国 民党 政 府が 台 湾に移 住す る の に伴い 大 陸の仏 教者
も台 湾に移住
す るようになっ た。 この戒
厳 令下 に大 陸 か ら台湾に移住 した僧
侶 として 名高
い 人物
は,高
雄 近郊 に仏光 山 を築
4
パーリ学 仏 教文化学 い た 星雲であ り, ま た新 竹や台 北に 拠 点を持
っ た印順
で あ る。 印 順は1952
年
に台湾
に来 島
し, や がて新竹
に 福 厳 仏学 院 とい う僧侶養
成の専 門 学校を創 設 し, 台 北 に は慧日講 堂 とい う講説
専門
の道 場 を建立する に至
っ た。 また霊 源も来台 し, 台北か らほ ど近い基隆
の港
町 に拠 点を築い た。さ て ,
仏光
山の 星雲, 及び福 厳仏
学 院, 慧日講 堂の 印順な どは,戒厳 令 下 に も活 躍を見せ, と くに星雲は そ の集
団を大き く させて い っ た。 一 方,印順
は そ の よ うな組織化
を 見せ る よ りは台湾に存
在す る僧 伽の 構成
員で ある出
家 僧 侶の指導
的な人物
とし て 活躍し た。 そ して 台 湾の 仏 教が 大 き な発 展を見せ る の は 台湾
の経 済が 大 きな発展
を遂 げる1980
年 以 降で あ り, また そ れ に大 き な拍車
を掛け たの が ,先
に述べ た如 く戒厳令
の解除
であっ た。 その 後, 民 国31 (1942)年
2
月10
日に 制 定 さ れた 「人 民 団 体 法 」 が民国78 (1989
)年1
月27
日 及び民国82
(
1990
)年 12
月31
日に修正 さ れ ,宗
教 団 体へ の 国 家に よる監 視が緩や か になっ た こ と も台湾仏教
の隆盛
に対
して大 きな支援 となっ た。 そ して1999
年
9
月21
日に勃 発し た台 湾 中部大 地震が 一 つ の 試 練 とな っ た が ,こ の 時に慈済功徳
会は大 きな働 きをな し,台湾仏
教界
の 評 価を一段 と高
め たの で ある。3
.現
代
の拠点
寺
院
その門 派
化
一さて , 現代の 台湾に おい て 注 目され る
点
は,新
たに 拠 点 とな る寺院
が成 立 し, その 寺 院を中
心 に 仏教 界に門 派化が進 行 して い るこ と で ある。 門派 化 と 述べ た の は 日本
の宗派
とは異 なっ て 同じ仏
教者
と して の 意 識は継承 さ れて お り, 排 他 的な関 係に はなっ て い ない点
を重視
するか らで ある。 そ の拠
点 とな る寺 院は その 巨大 化の 年 代 順 に挙 げ れ ば仏 光山, 法 鼓 山,
慈
済
功 徳 会,中 台禅
寺
,霊
巌
山寺の5
つ であ る。簡単
に概 要を記せ ば次の 通 りで ある (江 燦 騰[
2000 ]
, 江 燦 騰[
2001
]
な ど参 照。 但 し江 燦騰 [
2000 ]
は霊巌
山寺に は触 れて い ない 。 ま た後に江燦 騰[
2003 ]
で は霊 鷲 山を挙 げて5
大 拠 点 と数え る)
。一,仏 光 山
高 雄を中心に
展開
す る一大仏
教セ ン タ ーで あ る。 正確
に は高台 湾の現代 仏 教 5 雄 縣で あるが, 高雄 市 とい う台湾
第
二 の人 口を抱える地に隣 接す る。 その 多 くの人口 を擁
す る大都 市
が隣接
する こ と も重 要 な要因
で ある。信者数
は100
万 人 を超え る と自称
し,台
湾内
に300
余 りの 支部(
分 院)
が設立 されてい る。 こ の仏 光 山は,星 雲 (1927
−)に指 導さ れて い るが , その星雲は1949
年に来 台 して い る 。 国共 内戦
が終
焉に向か い 共 産 党が 優 位にな り, 大 陸に おい て は宗教
活 動が 行い に く くな り, や がて中
華 人 民 共 和 国が成立 す るの で あ るが , その年に 台湾に来た の で あ る。 そ して,17
年 後の1967
年に は仏 光 山の第
一 歩 を高 雄の 地に築
い て い る。仏
光 山の 山 内に は 寺 院,博物館
, ゲス トハ ウ ス , 図書 館, 仏学 院,研 修 用 施 設な ど が揃っ て い る。 活 動の傾
向は 「文化
・ 教 育 ・慈 善 ・共修」 との標 語に端 的に表さ れ る よ うに,大 陸
に19
世紀末
に 始まっ た太虚の 提唱 し た人 生仏 教 (や がて は 人 間 仏 教 に 発展す る)の影 響を 受けて い る。 特に文 化的 な活 動に力を注い で い るの が特微で あ る。 台北な ど の 都 市 部に おい て は, 夕方か ら夜
間に仕 事 帰 りの サ ラ リーマ ン の 方々 に支部
に 立ち寄っ て もらい , 生け花,茶
道な どを 通 じ て仏 法を説 くとい う興 味深 い布教
の 形 式も採 用 して い る。 そのためか ,伝 統 的に保 持 し て きた非 時食 (午 後食
事を しない )の 習慣を仏 光山で は改め ,午
後に食
事を取 るこ と を認め て い る。 現 在, 海 外 す なわちロ サ ン ゼ ル ス(
1988 年 )
に支 部 を設立 した の を皮
切 りに,U
.S
.A
に9
箇 所, オ ー ス トラ リアに5
箇所 , その他, ヨーロ ッ パ , ア ジア各地 に支 部を持ち , 日本に も東 京仏 光山寺
, 大 阪仏
光 山寺(
新たに本栖湖湖畔
に も)
な ど多
くの 支部
を持
っ て お り, 世 界的規模
で活 動を展 開 して い る。二 . 法 鼓 山
こ の 門 派 は 台 北 に拠 点 を 築 くが, 現 在 の 指 導 者 は聖嚴
(
1930
−)
で あ る。 聖嚴 は江 蘇 省に 生 ま れ1943 年
に出
家 した。1949 年
還 俗 し て 国民党軍
の兵
士 と して従
軍 し台 湾に来 島し た。 や がて1960 年
,再
び出 家 して 台湾
に お い て 東初 (
1907
−1977
), に師 事 し, 東 初が1977 年 12
月 に遷化 し た後
その跡を継
承 して仏教文化
館の 経 営, 文化 ・学問
の奨
励を押
し進
め た。 拠 点 となっ た地 は台北郊 外
の北投
に ある農 禅 寺で あ る。 や がて 農禅寺
6 パ ーリ学 仏 教 文 化 学 て ω, 現 在で は 一大
拠 点
を基隆
の郊外
で あ る金 山郷
に築
い て い る 。 現 在そ こ が法鼓山
と呼
ば れ, 大 学 院の 中華仏 学 研究
所が存在
し, ま た寺院
の諸伽
藍も こ こ に存在
す る(
法 鼓禅 寺 と命 名され る。 法鼓
山大 学の創
設 も希
望し,2006
年
時 点で は法 鼓 僧 伽 大 学が成立 し て い る)。 指 導 者 となっ た 聖嚴は, 日本の 立 正大 学に留学
し,台湾
の僧侶
で初
めて文 学博
士の 学 位 を取 得 した こ とで有
名 となっ た。 ま た 聖嚴
の日本
へ の 留学中
に, 印順 にも その著 作
に対し て大 正 大 学 よ り学位
が授
与さ れ た(
国 史 舘 口述 歴 史 叢 書 (25
):211
−220
, 法 鼓 山[
2005
]
)
。 こ の法 鼓 山は, その 指 導者が現 代の 仏 教 学を学ん だ故 もあ ろ うが , 学 間及び瞑 想に その 特 徴が見出さ れ る。 後 述す る禅七 な どを頻繁
に行
い , 瞑 想 に 詳 しい 門 派で あ る。 実 際, 台湾 内で しっ か りとした学 問 的素養
に裏打
ち さ れ た門派
は法 鼓 山の みで ある との 世 評を勝ち取 っ てい る。その活動 は
1980
年 代 後 半 よ り活 発 とな り,台北
を中
心 に現在 40
万 人以上 の 信 者を擁 して い る。 ま た出家 に対 し て厳 しい 制 限を課して お り,宗 教 的素
養
を持
ち合わ せ た人物 しか出 家 させ ない 方策を実践 して お り, その僧侶
の育
成に は十 分の 注 意を払っ て い る(
蓑輪
顕量[
2000 ])
。三.慈済 功 徳 会
現
在
,台湾
で もっ とも知名度
の高
い 集 団 と なっ たの が こ の慈済
功徳 会で ある。 出家の集 団 と しては小さい が,社
会福祉
の面
で活 躍す る在 家の 「委 員」 と呼ばれ る人が2
万 人, そ して そ れ を支え る会員
が全 世 界 で400
万 人以 上 居 る とされ てい る。 その指 導者
は 尼僧の證嚴 (1937
−)で あ る。證嚴
は1992 年
台湾で ノ ーベ ル 平 和賞
の候 補
に推
さ れ た とい う経緯
を持
つ(
趙 賢 明[
1994
]〉
。人口 も そ れ ほ ど多 くはない 台 湾中東 部の都 市で あ る花蓮に その拠 点が存 在 す る。 台 湾の 開 発が大 陸に
面
した 西部
の平
野を 中心に進ん だの に対 し,東部
地域
は経 済 的
に も福祉 的
に も遅れ た と見
え, 行 政の仕 事 を代替
する よ う な形で證嚴は10数名
の同志
と共
に1966 年
よ り社 会 福祉
・救済 活 動を開始 し,1981
年 頃よ り大 発展
した。 こ れ も台湾
が経済
的に発 展 し始 め る時期 とほぼ 一致
し,台湾
の経済
の発展
と揆
を一 に して 大 発展 を遂 げた こ とが知 られる 。その活 動の
中
心 は社
会福祉活
動に あ る。 諸問
題の 最 終 的 な原 因を貧 困と位台湾の現 代 仏教
7
置づ け,貧
困に正面
切っ て取
り組
ん だ慈善救済活動
が その中
心に位置
するの で ある。 山間部
の少数
民族
に対す る援
助 活 動や ,低 所得者層
に対す る支援
な ど を仏法の 菩 薩道の 実 践 と位 置づ け, 急 速に支持 者 層を増や し, 世界に誇る 慈善
救済
団体
に成 長 し た。 現 在で は災害 時
の救援 活動
に その活動範
囲 を広 め ,赤十字
と と もに世 界の災害時
にヴィザ取得
な しに入国で きる まで の信
用 を獲得
して い る。 その 活動の 根本
に證 嚴の仏
法の 説教
と,委 員の 方に よっ て 構 成さ れ る の で ある が,実 際に援 助活 動の現 場で直 面 した事 例を持ち寄 り検
討す る検 討 会が存在 する。 こ の 検 討 会は高 度 専 門職 者 とし て の意 識を 生み 出 す 機 能 を十二 分に発 揮 して お り, その 活 動 を支 える重 要 な 役 割 を担 っ て い る。な お, 当初は国内の 貧困者救 済か ら始ま り, そ れ は或る意味で 国家の 福 祉 政 策の 肩代 わ りをするもの で あっ た と想 像 されるが, 台 湾
内
部の 状 況の 改 善 に よ り,海 外に お ける救 済 ・福 祉 援 助活 動へ と主 力を転 換 し, ま た災 害 時の 援 助に 重点が移 っ て きて い る。 た とえば,1999
年の 台 湾 中 部 大地震,2004
年の イ ン ドネシ ア 沖 大地 震の 際の 災害援
助活 動は,多
くの 注 目を浴びる こ と になっ た。 ま た證嚴の 周 りに集 まっ て き た尼 僧に よっ て形 成さ れ た出家 者の 集 団は,花蓮
郊 外の静思精 舎 に住 し,規 模 は小 さい が證 嚴 の意 志を継承 し て,自
給自
足を原 則 と した 生真面
目な 生活を続けて い る。 四. 中台禅 寺 こ の寺 院は台 湾 中部の埔里鎮に存在 し,発 展の時期は比 較 的 最近 で あ り,1990 年代
の後 半
以降
で あ る。 一 躍有 名
に なっ た の は1996 年
9
月1
日に100
人を集 団 出 家さ せ た 時か らで あ る。 こ の 集 団 出家 事 件は台 湾 社 会に衝 撃を与 え , 当時の新 聞に大 き く報道 さ れ ,物
議を醸し た。夏
の合宿
に参
加 して いた学生 を中
心 に 出家者
が輩 出 し, な かば強 制 的で は なかっ た か と疑
わ れ,事件性
を もっ て報
道さ れ たの で あ る が,実 際
には そ れ以降
, 大き な社 会問
題に は発展
しな かっ た。 か わ りに伝 統 的な仏 教の復
興 と意 識 さ れ, 知 名 度が上 が る とい う結果 を招い た。 こ の 門 派は惟
覺 禅 師(
1928
−)に指 導 さ れ るの で あ るが ,禅 師
とい う呼称
が示 す よ うに瞑想を中
心 に置
い て い る。 入息 出 息観
に始ま り, 中道 実 相 観を 目指す の で あ るが(
蓑輪
顕 量[
1999
]
及
8
パ ーリ学仏教 文化学び
同[
2000
]
)
, その名
称に は禅
の素養
と天 台の 素養
が感
じ られ る。 瞑想を中
心 と した合 宿で ある禅七 を1991
年に連 続 して 七 期 行っ た こ と か ら有名
に な り, ま た1996年
の集
団出家
を引
き起こす まで に 発展 したの で ある。台
中
よ り車
で約 2 時間
,埔
里鎮
に存在
す る現 在 の 中 台禅 寺は, 巨大な鉄骨
,鉄筋
コ ン ク リー ト製の大伽
藍で,表面
は大理石や御 影 石な どの 石で装飾 され た立派
な もの で ある。 しか し,1999年
9
月21
日の 台湾 中部 大 地 震の 際 に,庶 民が被 災 し て苦しむ中,建 設を強行 し た と の批 判を浴 び, 若 干, 衆 庶 の 厳 しい 目に 晒 さ れて い る とこ ろが ある。 なお, この門 派は大 陸の 虚 雲の 法脈
を継
承 し, どち らか とい えば伝統派
で あ る。台湾各
地に精舎
と呼
ぶ支部
を 数多
く持
つ 。五 .霊
巌
山 寺同 じ く
埔
里 鎮の 山中
に存
在す る寺 院
が こ の霊巌
山寺
で あ る。 こ の寺院
の創
設者
に な る人物
は妙蓮 (
1922
−)
で あ る 。 妙蓮
は1981
年に 来 台してい る。 台湾の 人々の純朴
なる こ とに 感心 し,仏
法 を広 め る に は適 地 で あ る と考え, 永 住を 決意 し, 大 陸 は蘇州 の霊巌
山寺に伝わっ た 念 仏修行 を台湾
に紹 介
し た。1984 年
に埔
里鎮
に拠点
を定
め台湾版
の霊巌
山寺
を創 設
し た。 念 仏に よ る瞑 想い わ ゆ る仏七 を広め るこ とになっ たの で あ る。 この修 行 方 法につ い て は後に記したい 。 今で はU
.SA
等に も支部を持っ 巨大な拠 点寺
院の 一っ となっ て い る。その 他, 注目 さ れ る寺 院は
幾
っ も存
在す る が,中
でも特
記す る に値
す る と 思わ れ る もの を若 干, 取 り上 げて 簡 潔に紹 介 して お き たい 。六. 西蓮浄 苑
こ の 寺 院は寺 とは名 乗っ てい ない が, 台北
郊外
の 三峡 鎮に 存 在す る成長 途 上の大 きな寺 院で ある。 他の 巨大 寺 院 と同 じ よ うに支 部寺
院 に相 当 するもの を幾つ か 持っ て い る。 指 導 者は, 智 諭(
1923
−2000 )
で あっ た が,2000
年に遷 化さ れ, 後は惠 敏が継
承して い る。 惠 敏は 日本
の東
京 大 学に留 学 し,文 学博士 の 学 位を取 得 した学 僧で もあ る。 現 在, 台 北の 北 投郊 外に在 る台湾 藝 術学 院の教 授も兼 任 しt ま た法 鼓 山の 中華 仏 学研 究所で も副 所 長の要 職を占め る。 こ の西蓮 浄 苑で は仏七 なる も の が 中 心 的な修 行 と し て行
わ れ,台湾内部
で も念仏
の実
践道
場 とし ての名
声 を得つ つ あ る。 実際
念台 湾の現代 仏教
9
仏
と坐禅
と を組み合わせ た独 特の 仏七 を実践 して お り, 台 湾 の 旧正月 を挟ん で年 に4
回ほ ど開催
さ れ る仏
七に は毎 回150
名 前後の参
加者
が あ る(
蓑
輪 顕 量[
2005
]
)
。七. 正 覚 精 舎
こ の 寺 院は
埔
里鎮
に存
在す る規 模の 小さい もの で あるが,戒律
の遵守
と瞑想の実
践の み を行い , そ れで い て運営
が成
り立 っ て い る極め て珍しい寺 院
で あ る。 い わ ゆる出家 修 行の 理想の道場
と言
え る。 僧 侶の中
に は, あた か も糞 掃 衣と紛 う ばか りの 継ぎ接 ぎ だ ら けの僧 服に身を纏っ た僧 侶 が存在
する が,糞掃衣
で は な く,単
に今風の 「勿体
ない 」精神
の現
れの み と い う。戒律
の遵 守を行い, 日々の 修 行を大 事にす る寺院
であ り, しか も在 家 向 けの一切の活
動 は行っ て い ない 。 こ の 点が珍 し く,寺院
の経済
を支え る も の は信 者の布
施の み で ある 。 出家 者の 修 行 専 門の 道 場 と して 注 目さ れ る。八 .南 普 陀 寺
台 中に存 在す るこ の
寺院
は仏学 院
を持
ち, その仏 学 院で有名
となっ た。 四分律に基づ い た生活を実践 し て お り,戒律
厳 守の 寺 院 とし て 評価
が高
い 。 波 羅 夷 法の 違 反 の 時に は僧伽
か らの 追放
が実 際
に行わ れて お り, 戒律
を厳 守 し なが ら律 学の 修 学 に務
め て い る。 こ こ に学ぶ僧 侶 も100
人 を超えて お り, 周 辺 地 域に存 在す る寺院
か ら,布
薩の 日に は僧 尼 と も ど も集 まっ て き た り と, 拠 点 として の 役 割を果た しつ つ あ る。後
に述べ る仏学 院の代表
であ る福 厳 仏 学 院と も友 好な関係
に あ り, 教員
の 兼 任が 行われて い る。 こ こ は出家 者の 教 育で注 目すべ き寺院
となっ てい る。4
.子
弟
の教育
南 普 陀寺は仏 学 院 とし て
著
名で ある と先に述べ た が,僧 侶の教 育 機 関 と し て 設 置 されて い る もの が仏学院
と仏学
研 究 所で ある。 仏学院
は 日本
の 大 学で 言えば学 部に相 当し,仏学研
究 所は大 学 院に相 当 する。 しか し日本の 教育制
度と厳 密な 意味で は対 応せず,実質
的に は専 門 学校に近い 。 仏 学院
は仏教を 専 門に修 学 する機関
であ り,普
通 教育
とは一線を画 し て い る。 正式の教育 機 関で は ない の で 一般
の大学
と同等
の卒業資格
は残 念な が ら得 られ ない 。最
近 で は こ の よ うな位置
づ け を改 善すべ く , 仏学 研 究 所が正 式 に大学院
と して 認
10
パ ーリ学 仏教 文 化 学 め られた。 大学 院 を正 式に位置
づ け研 究者
を輩
出し, 正 規の大 学 の教 員 と し て 認め よ う との方針
で ある とい う。 つ ま り仏 学 院を4 年
生 の大 学 とし て 将来 的に は認め る方針
であ る とい う(
蓑 輪 顕 量[
2003
])
。仏 学 院の
代表 的
な もの とし て, 福 厳 仏学 院(
新竹 〉
, 圓 光 仏 学 院 (中櫪 ), 南普 陀仏 学 院(
台中)
,仏 光 山 仏 学 院 (高雄)
,中華仏
教学 院(
台 中)
,香
光 尼 衆 仏学院(
嘉 義)
な どが挙 げら れ, 全 台 湾で36 箇
所(
1997
年 版 『仏 教 通 訊録
』)
が知
られる。 これ らの 中で は, 印順が創 設した福 厳 仏 学 院が比丘 の 養 成 機 関と して(
閾
正宗 [
2004 ]
:302
−333
)
, 月眉山 円光寺
が創 設 し た 円光 仏学 院が尼僧の 養 成 機関
と して有 名で ある。拠
点寺 院
が設
立 した学院
は別 と して , そ れ 以外
の仏学院
は 四 方僧
伽の 僧 侶にオ ープンで あ り, 台湾全 土の 僧 侶子弟が入 学 す るこ とがで きる。 円光 仏 学 院は高 等 部も持
つ が ,普通高 校 と 同等で は な く, 大学 に進 学す る に は別 途 単位が必 要 となっ て い る。 東 南ア ジ ア(
マ レー シ ァ, イ ン ドネシ アな ど)
の華 人 社 会や イ ン ド, ネパ ール , ブー タ ン な ど か ら も留学
生 が集 ま り,ア ジ アの 仏 教 修 学の 拠点 にな りつ つ あ る 。 ま た現 教 務 部 長で あ る釈性
一(
尼僧)
は 日本 の 東 北 大学
へ の 留学 経 験が あ り, 海 外で学ん だ僧侶
が指導的
立場に立っ て い る。また 仏 学研 究所 と して は 圓 光 仏学 研 究所 (中櫪
)
,中華仏
学 研 究 所(
台 北 縣金 山郷 ),浄 覚 仏 教 研 究所(
台北 市)
、 慈 明仏 学 研 究所(
台中)
,仏
光 山 中 国仏 教研 究 院 (高雄 )な どが存在
す る。 なかで も, 円光 仏学研 究所, 中華 仏 学研
究所が規 模 も大き く, ま た その 教員 も充 実 し て い る点で 注目 すべ き代表
的な研 究所で あ る。 中華 仏学研究所 に は大学 も併 設さ れ よう と して い る。 実際2001 年
に は4
年 生 の 法 鼓 山僧
伽 大学
が設
立 さ れ て い る 。 そ れ らは金 山郷 の広 大な敷
地 の中
に建 物が点 在 し,質
量 と もに他を圧 倒して い る。そ して,僧 侶の 方が 発願して 大 学を設立 した ものすなわち仏 教
系
大学 (
教
育部認
可)
も4
箇所が知 られ る。中
国仏
教協会
が発願 した玄 奘 大学(
玄奘
人文社
会 学院
新 竹に存 在 ), 中国文 化大 学 の永 久教 授で あ っ た暁 雲が創 建 し た華梵
大学(
台北 に存 在 ),2002
年か ら 一般の学生 も正 式に募
集 し始
め た仏
光 大学 (
仏光
人文社 会
学院
,宜 蘭 縣に存 在)
,南華 大学 (
1996
年よ り嘉 義に台湾の現代仏 教 11
存
在)
で あ る。 こ れ ら は台湾 政 府の教 育部
に設
立の 認 可さ れ た数 少 ない 仏 教系
の大学
と して注 目さ れ る。仏
学院
,仏
学 研究
所に お い て は仏教 学が専 門 的に学ば れて お り,仏
学院
で は主に中国に成
立 した漢訳 仏 教 圏の仏 教が学ばれてい る。仏学
研究
所 に おい て は サ ン ス ク リ ッ ト, チベ ッ ト語を含ん だ高 度 な仏 教 学が学ば れて い る。 正 式の大学
で は,仏
教は仏
教学単
独で学
ばれてい る の で はな く, 哲 学 や 宗教 学 の一部
と して学
ばれてい る。 その実
態はU
.S
.A
の 宗教 学 科 等の 中で の 有 り様
に近 い 。何
れ に し ろ仏
教の研鑽
に関
しては, い ち早く近代 的教 育 制 度を取 り 入 れ た 日本
の例
が念頭
に置
か れてい る。 日本
の仏教系大学
のよ うに , 大学の中
に仏
教 学部
が設
立 さ れ るこ とが望ま れて お り,現在
,陳
水扁
政 権 下, その 方 向で 改 革が進 め られて い る 。5
.修行
の形
態
と社会 的布教
の特 徴
さて , 台湾 仏 教の特 徴 となる もの の 一つ は修 行 道で ある。 その 修 行 道は大 き く分けて二 つ 存 在 する 。 一つ が仏七 , も う 一 つ が禅 七で ある 。 こ の 二 つ に つ い て触れた い 。
(
1
)
仏 七ま
ず
仏七 は, その特
微を端
的に述
べ れば, 称名念仏
と坐禅
瞑想 とを組
み合 わせ た修 行 方 法で あ る。 中国の宋 代の頃 か ら主張され る 「禅
浄双修 」 「禅 浄 一 致」 の 具 体 的な形 態 と考え られる。 その内実
は , 一時間 (
一支香分
=平
均的
な お線香
一本 分
の時間)
ま たは二時間 (
二 支香分 )
を一つ の ま とま り と し, 「南 無 阿弥 陀仏
」 → 「阿弥 陀仏
」 → 「阿 弥 陀 」 → 「阿弥」 と, ゆ っ く り と唱 えは じめて か ら次第
に その 唱和の テ ン ポを早 くす る。 そ し て, ピ ークを 迎えて か ら逆に ゆっ く り と唱え る方 向へ と変化 し, 途 中か ら完全に 黙 して 観 想の 瞑 想に入 るの で ある。 こ の 称 名念 仏 と観 想 念仏 と を組み合わせ た もの を 一単 位 とし , こ れ を日に何 度 も, 実際に は二 度ま たは三度
,繰
り返 すの で あ る。 こ の 仏七 の 最 中は食 事や休 憩 時 間も余 計な発語は控え る よ う注意が促
さ
12
パ ーリ学仏教 文 化学 れて お り,集 中
が途切
れ ない よ うに との 配慮
が働
い てい る。 こ の仏七 は在 家 者 と出家者が共 同し て行っ て い る。 なお仏光 山や霊厳 山寺 に行わ れ る仏七 で は称 名 と観 想 と を組み合わせ た一 つ の単位
はわずか一時間
弱であっ た。 こ の 点か ら考 えれば, 仏七は どち らか とい えぼ在家者
を意識
し た修 行 形 態 とい うこ とが で きる。し か し, 台北
郊
外の 三峡 鎮にある西蓮 浄苑 に行
わ れ る仏
七 で は, 一つ の 単 位の 時 間が二 支 香 分す な わち二 時間
近 くで あ り, こ ち らは か な り専
門的
な瞑 想を意 識 した形 態になっ てい る。但 し, こち ら も その称 名は ゆっ く りか ら早 くへ と唱えるの で , 心の 昂 揚が 生 じ て しま うこ と は間違い ない 。その 西
蓮浄苑
に行
わ れる仏
七 の 際に 配布
される仏 七 関連の 資 料の 中に 『佛 七手冊』 な るもの が あっ たが, その 中に次の ような一節が見 出さ れ る。円
満
日礼祖
頂
礼
西天東
土歴代祖師
頂 礼天下 宏揚 仏 法 諸大 善 知 識
頂礼初祖
廬山束
林遠公木師 頂礼
;組長安光明塰公太師
頂礼三祖 南 嶽 槃舟 遠公大 師
頂礼四祖五 台 竹 林 照 公 大 師 頂 礼 五 祖 新 定 烏 龍 康 公 大 師
頂礼本祖杭 州丞
明
寿公太師
頂礼
七祖杭
州昭慶 常
公 大師
頂礼△祖杭州雲棲宏公大 師
頂礼 九 祖北天 目霊 峰旭公 大
師
頂 礼十祖虞
山普 仁 策公大 師頂 礼十一祖 杭
州 梵 天
賢
公 大 師頂 礼 十二 祖紅
螺資福醒
公 大師
頂礼士三祖蘇 州霊巌量
公大 師
頂 礼 古 今蓮 社 宗 師
頂
礼
主 七和尚 (
点線
筆者付
す)
これ は 「円満 日礼 祖 」 と記さ れた部分で あ り, 円 満 日す な わ ち七 日 目の成満 日に礼拝 さ れ る諸祖 師である。 こ こに は廬 山の 慧 遠, 長 安の善導
,宋代
の永
明 延寿, 明代の雲棲 珠宏 ,清代の聖 量印光 ら が列 記されてい る。 仏七 の起 源 と して直
近 に大 陸蘇
州の霊巌
山寺
に住した印光 (1861
−1940
)が挙 げられ (4), 大 陸の 仏 教の影響
であ る こ とが 知 られ る点で興 味深 い 。 なお埔里 の 霊 厳 山 寺 に行わ れる仏七 の基 本は45
分(
30
分 称 名念仏,15
分 観想 念仏 )を単 位 とし て お り, 一 日に6
回繰
り返す もの で あっ た。台 湾の現 代 仏 教 13
禅 七
次に 注目 さ れ る ものは
禅
七で ある。 これ は終
日, 瞑想を中
心 に行 う行で あ る。 こ れ も在家者
と ともに行 うが ,時には出 家者のみ を対象
と して行
う場合
も存
在 する。 禅七 な ど瞑想を介して 台湾 社 会の 中に その 地歩
を築
い て巨大化
した寺 院は, 中 台禅 寺 と法 鼓山の 両 寺で あ る。 どち ら も, 瞑 想に秀で るとの評価
を台湾社
会の中
で勝
ち得
て い る。中台禅 寺
の禅
七は, 基本
は入 息 出息 観 で あ り,時
に は話頭
も使
用 され る。 こ の話頭
は 入息出
息観
で 心 の働きが落 ち着
い て き た とこ ろで把握
さ れ る よ うにな る, 心 の働
きの最
初の 揺 らぎを覚 知 す るこ と とさ れ て い る。 こ の よ うな話 頭の 理解
は19
世紀
か ら20 世 紀
にか けて 最 大の 禅 者 と言わ れ た虚 雲 (1840
−1960
)
に も見られ(
岑學 呂[
1996]
:141
−153
), 清 末 の仏 教 界 か ら確 認 さ れる もの で ある。 と くに 中 台禅寺を 興 し た惟覚禅 師
は虚 雲の流
れ を 汲 む こ と を標榜
して い るの で , その 影 響 と考えて 良い 。 ま た 最終 的な 瞑想の境地 は中道実 相 観 と表現 され, 天台 的な 理解も見 られ る。この
禅
七 と実 際には全 く同一 の内容か ら構
成さ れ るが, その 期 間 を短 くし た禅
一(
一 日だ けの 実 習)
, 禅二(
二 日間の実 習)
, 禅三 (三 日間の 実 習)
も 頻繁
に行わ れて お り, 瞑想を通じて 心 を観 察す る修 行が 見ら れ る。 これ らの 日程 を短 くした禅の 実 習は, 都 市 部に働 くビ ジネス マ ン を対 象 と し た もの で ,参 加 し やす い よ うに日程 上の 工夫が凝 らさ れ た もの で ある。 その ほか に も公案を用 い て心の 働 きを一つ の もの に集 中させ る瞑想 や, ま た 心 に 生 じ る働
きを覚
知 しつ づ け ,静
かに坐る黙 唱禅
も行わ れて い る。 ま た,東南
ア ジ ァ と くに ミャ ン マ ー か ら紹介
され た 上座仏
教の samatha(
止)
とvipassana(
観)
に よる瞑想 修 行 も 実 践 さ れて い る。 嘉 義市 郊 外の法 雨道場 は, 現代 ミャ ン マ ーの高僧
と さ れ るPa
Auk
比丘 の指導
す る瞑 想を実
習す る場
で あ り, また 同 じ く嘉義
の郊外
で あ るが,香光
尼僧団
で も ミャ ン マ ーのMahasi
Sayadau
の ヴィ パ サ ナー瞑 想が紹
介 されて お り,積極
的に東南
ア ジ ア 各 地域の 仏 教の 修 行法が紹介 実 習さ れ て い る とこ ろ も存 在す る (蓑輪 顕量 ・林 淳 [2004
]
)。14 パ ーリ学仏 教 文化 学
(
3
) 布
教の形 態布 教の
媒
体 と して テ レ ビ が存
在す るこ と も大 き な特徴
と して上げ
られ る。 所 謂テ レ ビ布
教で あ る。台湾
に は仏教系
のチャ ンネル が4
つ ほ ど存 在 する。 大愛 (
慈済
功徳
会)
,仏光 (
仏
光 山)
, 法 界衛
星, 佛 衛電視
慈 悲 台の4
つ で あ るが ,朝
勤 に始 ま り僧尼の説法 や 夕方の 法 要な ど, ほぼ 一 日中放 送されて い る。中
で も大愛
は独自
の テ レ ビ局 を持
ち,本格
的 な放 送 を行
っ てい る。 日本
で は宗教
団 体の 運 営す る テ レ ビ局は存在して い ない の で, これ は大 き な相
違 で あ る。 ま た イ ン タ ー ネ ッ トの ホ ー ム ペ ー ジ を介 し て の 布 教 も充 実して い る。さ らに仏 学 社団 及 び 仏 教
青年
会が各
地 に存在
す る こ と も大きな特 徴 と な る。 仏学社
団 はかつ て は日本
の大 学の どこ に で も存 在 した仏 教 青 年 会に相 当 す る もの で , 大学
生がその構成
メ ン バ ーの中
心 であ る 。仏
教 青 年 会は独 自の 組織
を持っ 。 台北に拠
点を も ち活動
して い る青年僧
尼た ちの 団体
であ る。 こ れ らの 機 関も仏 教 体験の 合宿
を行 っ た り,子供向 けのプロ グラム を作っ た り と独 自の活動
を行
っ て い る。ま た出版 物が 多様に存 在す るこ と も
特徴
の 一っ で ある。特
に拠
点 となる寺
院に おい て は様々 な本が 出版され, 無料
で配布
されて い る。 た と えぼ,法鼓
山で は独 自の 出版 社であ る法 鼓文 化出
版公 司が設
立 さ れ 『法鼓文化叢書
』 な どが ,中
台禅 寺で は 『中台 山 月 刊』 『中 台電 子報
』 を始
め と して中台
山仏
教 基 金 会 に よる多 数の 出版が,仏 光 山で は 『普 門 』 『仏 光 文 化』, 電子 新 聞の 『人間福報
』 な ど寺 院 独 自の 出版 物が多様 に存 在 して い る。 その どれ もが無料
で 配布
されて お り,関
心の ある方に は絶 好の 読み物 となっ て い る。6
.台湾 仏 教
の存 在
の形態
さて,
最後
になっ たが,台湾仏教
の存在
の形 態
につ い て述
べ てみ たい。台
湾 に おける仏教の 存 在の有
り様
を見て み る と, そ こ に は独 自の 形 態が ある よ うに思 わ れ るの で ある。 その 一つ と して , 比丘 ・比 丘 尼 のため の房が同 一寺院 内
に存在す る こ とが まず 挙 げられ る。 一例
を挙 げれ ば,埔
里 の 中 台禅 寺が台湾の現 代 仏 教 15
挙 げ
られる。中台禅寺
は埔里の 郊 外に 巨大な伽藍 を築い た が , その伽藍
の中
に,左 右で 振 り分
け られて はい る が, 男僧
と尼 僧の た めの僧
房が存在
す るの で ある。 この よ うな形 態は台湾独特
の もの で あ り , 上 座仏
教 圏で は見 られ な い 。 上座仏教
圏で は比丘の寺 院 と比 丘 尼(
実際に は沙弥
尼であ り正 式の 尼は 存 在 しない こ とに なっ て い る)
の 寺 院は , 在 る程度
の 距離
を もっ て 離れて存
在
して い る。 こ の よ うな 比 丘 ,比丘尼の 居 住 区画
が一 っ の 寺 院の 中に共 存す る例は, 日本の 中世 末の寺院
の 中に は存 在 し た こ とが知
られて い る が〔5) , そ の他
の地域で は知 られて い ない 。 同 一寺 院 内の男女 の 共住 は時に は波羅
夷 に係
わ る事 件を惹起す る可能 性が あ り, 現在で は是 正の方 向を打ち出 して い る 処 も あ る。 例えば 台北郊外
の 西蓮 浄苑で は末寺
に相
当する西 蓮 光明寺
を男僧
の 住 す る寺 院に, 山峡鎮
の 西蓮浄苑
を尼僧の住 する寺院
に特化
さ せ る方 向を 打ち出 して い る。 ち な みに 台湾の研 究 者の 中に は, こ の男 女共 住の 形 式は 日 本 占領 時代の置 きみ や げで あ る と指摘
す る者 も あ る(
江燦
騰[
2000
]
:116
−120)
。ま た,
台湾
の僧
侶は圧倒 的に尼僧が多い 。 男女の 比率
は現 在, 五対一 と言 わ れ る。 しか も,尼 僧の 中に は 大 学卒 業の学士号を持
っ たハ イ レ ベ ル の 方が 多 く輩出
さ れてい る。 と くに近年
こ の傾 向が強い 。 女性
の自
己実現の 場 と し て 出家が存 在 して い る と言っ て も過言で は ない 。 その 理 由は明確に は示せ な い が ,儒教 道徳
の影 響で ある可 能 性も指摘
で きる。 男性に とっ て は祖先の 祭 祀な ど が義 務 と して存
在す るの で , その執
行の ため に家に留
ま ら ざるを得 ず 出 家は容易で はない が , 女 性に は その縛 りが 無 く出家が しや すい とい う雰 囲 気が あ る よ うで あ る。 ま た ,社 会 的な女性
の地位 と関 連す る点も あ る とみ え, 台湾 社 会に高 等 教 育が普及 し た こ と, 女性
の 未婚 , 晩婚
単
身 生 活が普
通に考
え られ るよ うに なっ たこ と, 女性
の自
己実現の 場が 出 家の 世界 に求 め ら れ, ま た寺 院の運 営が高度
化 し, 一種の 就職
の場 と化した こ とな ど が原
因 となっ てい る よ うで あ る(
江燦 騰[
2003
]
:243
−246
)
。ま た , 台湾 仏教 全 体 と して は単一 の 僧 伽が存在 して お り, い わ ゆ る四方 僧 伽の 意
識
が 生 きて い る。 台 湾 全 土 に存 在す る中 小の 寺院
は4
,5
名か ら な る16 パ ーリ学 仏教 文 化 学 現
前
の僧伽
が基準
となっ て成立 してい る。 こ の よ うな場 合に は現 前の僧
伽に 所 属す る少
人数
の 比丘 また は比丘尼た ちが行
動 する単 位 とな る傾
向が強い 。 実 際 西蓮浄苑の 尼僧に対す るイ ン タビュ ーの 中で , 台 湾の仏
教 界で は 日本 の宗派
の よ う な組織
的な活 動が し難い との感 想が寄せ られ た が(
蓑輪
顕 量[
2005
])
, これ は その こ とを如 実に物
語っ て い よ う。 近 代 化 した組織
を持
つ 日本の 宗派に,多少
の 利 点 も存 在す る とい うこ とで あ ろ う。さて , 台湾の
仏教
界で は門
派化が進 行中
であ る こ と も大き な特 徴の 一つ で あ る。特
に高
雄の 仏 光 山,台北
の 法 鼓山, 埔 里の 中 台禅 寺,霊巌山寺, 花 蓮 の慈済功 徳 会 な どが 注目さ れ る存在であ るが, と くに 前四者は 出家集
団の 中 で 門派化
を進めて い る。拠
点寺院
を中 心に して その 配 下に支部
の 寺 院が 存在
して お り, その支 部の寺院
に住
す る僧
尼たちは, 拠点寺院
で学ん だ僧 侶 達で あ るこ とが多い。 拠 点 寺 院は日本
の本
山に相 当し,各
地の支部 (
精
舎 とも分院
と も呼ばれ る)
は末 寺に相
当す る。 実際 に は その よ うな 用語は存 在 しない が,実質
的に は ほぼ同様
の働
き を して い る。 こ の よ うに台 湾 の 仏教 界に お い て門派
化が進 行 中で あ り, そ れが新興宗教 とな る こ と な く, 伝 統 的 な仏教
界 の 枠 内に留まっ て い るこ とは注意さ れ る点で あ りs そ れ は東 南ア ジ アの仏
教 界に も共 通 し て見て取れ る現象の ように思 わ れ る(6)。7
.指 導
理 論 とそ
の提唱
者
さて,
縷
々述
べ て き たが , 台湾の仏
教に とっ て 現 在の ような隆盛
を築
い た 直 接の 切 っ 掛け は, 国共 内戦を機に 台湾に渡
っ た大 陸の 僧 侶達 で あっ た と 言っ て良 い。 中で も台湾 仏 教全 般 に対 して 大 き な影 響を与えた 人物
は 印Jl
頂で ある。彼
の 提 唱 した 「人間仏
教 」 とい う理 念は, 仏 光 山の 星雲, 法鼓山の聖 嚴, 慈済
功徳 会の 證嚴な ど に大 き な影 響を与え た。 ま た拠
点寺院
の 指導 者だ けで はな く, 中小の寺院
の 僧尼 に も少なか らず影響
を与えてい る。印
順の 主 張 す る 「人 間仏 教」 は,19
世 紀 末か ら20
世紀 に か けて 大 陸に活 躍 した太 虚 大 師の主 張を継 承 発展 さ せ た もの と考 え られる。 太 虚は そ れ まで の 中 国の 仏教 が, 霊魂
な ど死後
に関
す るこ とを中
心 とす る仏
教で あっ たこ と台 湾の 現 代 仏 教
17
に反省 を加え, 生きて い る人間に係わ るべ き もの で あ るこ と を主張した。 こ れが 「人 生仏
教」 とい うス ロ ーガ ン に結 実 し,20
世紀初
頭の 大 陸の 仏 教 界 を指導
する こ とに なっ た。印
順 も基本 的
に は この時
の 改革
運 動を継
承す る。 そ して ,印
順 は, 『増
一阿含 経
』 に登 場 する 「諸 仏 皆 出 人 間終不
在天 上成
仏 也 (仏た ち は皆
, 人々 の 間に出 現 し, け っ して 天 上で仏
とな るこ とは な かっ た)
」 とい う記述
に導か れ, 人々 の 間で す な わ ち 人間 (ニ ン カン )に活 動す る仏
教であ るべ きこ とを提唱 したの で あ る 。 そ もそ も 日本 語の 「人間
」 に は 人 の住む とこ ろ世 間とい う意味
と,社会的
な存
在 として の 人 とい う二 つ の意味
が 認め られ る が, 印順の主張は,前の 意 味, す な わ ち現実の この社 会 に積極 的に関 与す る仏 教 との 意味
合い が強い ω 。印 順 の著 作にな る 『人
間仏
教論集
』 に納
め られ た 「人 間 仏教 要 略」 に よ れ ば, その原 則に は 「法 与律 合一(
法 と律
との合一)」 「縁 起与 空統一 (縁 起 と 空 との統一)
」 「自利 与 利他 合一 (自利 と利他
との合一)
」 が あ る と謳わ れ て い る。 法と律
との合 一 とは仏 法 の 教え と戒律
と は表裏
一体の もの で あ り, 法 に よっ て発
心修行
し智
慧を成 就 し , 戒律に よっ て不道徳な こ と を止め僧 伽の 庶 務を処理 す るこ と,縁 起 と空との 合一 は初期仏教の精 髄が縁起で あ り大 乗 仏 教の 精 髄が空で あ る とい うこ と, 自利
と利他
との 合 一 は, 菩 薩 行 を 実 践 する人は 自利
と利他
とが相応
す る とい うこ と, と主張す る の で あ る (印 順[
2001
]
:
174
−182)
o次に注 目され るこ と と して
菩
薩 戒の 自由化が挙 げられ る。菩薩戒
は東
アジ ア 仏教 圏に おい て は ,古来
, 『梵 網 経』 に基づ い た梵 網 戒が ほ ぼ 全 面 的 に用 い られ て きた。 こ れ に対 し,1993
年に菩
薩 戒の 自由化が宣言
さ れ た。自由
化 とい うの は如 何なる経 典に基づ こ う と も否定
しない とい うこ とで , その背
景に は近代 仏 教 学が明 らか に した 『梵網経
』 は疑 経典で あ る とい う見解の 影 響が有
るもの と考え ら れ る。 その 結果 ,在 家 菩 薩の ため に は, 『優 婆 塞 戒経』 に 説か れる6
重28
軽 戒を用い て も, ま た 『梵 網 経 』 に説か れ る10
重48
軽
戒 を用い て も良
く, ま た出家菩
薩の た めに は10
重48 軽戒
で も, 『瑜伽 師 地 論』 の4
重43 軽
戒で も良い こ とにな っ た。 こ の よ うに学問 的 な研 鑽が僧 侶の 実