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< 予備知識として信濃国の藩と幕末期の大名家 > 松代藩 (10 万石 )= 真田家 松本藩 (6 万石 )= 松平 ( 戸田 ) 家 上田藩 (5 万 3 千石 )= 松平 ( 藤井 ) 家 岩村田藩 (1 万 5 千石 )= 内藤家 小諸藩 (1 万 5 千石 )= 牧野家 田野口藩 (1 万

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松尾倶楽部 松尾倶楽部 松尾倶楽部 松尾倶楽部・・・講演・講演講演講演会会会会レジュメレジュメレジュメレジュメ 「 「 「 「知知られざる知知られざるられざるられざる上田藩上田藩上田藩上田藩とと真田家とと真田家真田家」真田家」」」 (講師・宮原安春) (1) 知知知知られざるられざるられざる上田藩られざる上田藩上田藩。上田藩 上田高校の校門は、上田藩の藩主の居館の門だったと言われてきた。だが、上田藩の 藩主は誰だったかを語られたことはない。上田高校の応援旗などには常に「六文銭」(正 しくは「六連銭」)が使われて、真田幸村のイメージでとらえられてきた。また、上田 市も「真田祭り」などで真田の城下町のイメージを植え付けてきた。それと対抗するよ うに、長野市松代では「真田10万石祭り」が開かれている。また、和歌山県九度山町 でも、「真田祭り」が毎年開かれている。江戸時代からの講談、大正初期に発行された 立川文庫によって真田幸村はかなり脚色されたヒーローとなってきた。本当にそうなの か。悲劇の武将・真田幸村の人気にあやかって、上田が有名になって観光客が増え、商 業的にうるおうことは結構だが、何かローカル的発想である。 基本的に、エンターテインメントとしての表現は大事にすべきである。元禄時代から の講談の古典として「真田三代記」があるのだから、これはれっきとした講談師に語っ てもらうべきである。江戸時代に、徳川家の統治に満足できなかった庶民が、講談とい う大衆娯楽でヤンヤの喝采を浴びせたものだ。 ⇒お勧めは、神田紅師匠 (日本講談協会会長)。彼女のギャラが高すぎたら弟子の神田蘭、神田京子などがいる。 また、小説としては池波正太郎の「真田太平記」(新潮文庫、12巻)があるし、晩 年の真田信之を描いた「錯乱」「獅子」も必読書だ。司馬遼太郎には短編「軍師2 人」 があるし、柴田錬三郎など多くの作家が幸村を書いている。 テレビではNHKが1985年4月から1年間、大河時代ドラマ「真田太平記」をオ ンエアし、すでに全12巻のDVDで発売になっている。 歴史書というのは常に、権力者に都合の良い形で描かれる。上田藩や上田の人は、な ぜか歴史の表に出ることがなかった。謙虚というべきか、地元に無関心だったのか。い までこそ有名な坂本龍馬も当時は無名で、明治時代の日露戦争の頃になってようやく知 られだした。これが大衆的人気を得たのは、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」によってで、 その後に映画化、テレビ・ドラマ化がされた。新選組は実は明治、大正時代まで嫌われ ていて、単なるならず者集団と考えられていた。これに脚光を浴びせたのは、昭和3年 (1928年)に子母沢寛が「新選組始末記」を発表してからである。 NHKの『八重の桜』によって、初めて薩長側以外の視点から、明治維新が語られて いる。「維新」という言葉は当時使われなかったし、官軍、賊軍と呼ぶのも勝った側の 呼び方である。当時は「東軍」「西軍」またはアメリカの南北戦争をヒントにして「南 軍」「北軍」と呼ばれた。これに上田藩が果たした役割は知られていない。 実際に開明派だった上田藩の史実を、世界的な視点や会津藩と対照的にみることで、 改めて検証する。

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<予備知識として信濃国の藩と幕末期の大名家> 松代藩(10 万石)=真田家、松本藩(6 万石)=松平(戸田)家、上田藩(5万3千 石)=松平(藤井)家、岩村田藩(1万5千石)=内藤家、小諸藩(1万5千石)=牧野 家、田野口藩(1万6千石、現・佐久市)=松平(大給)家、須坂藩(1万石)=堀(奥 田)家、高遠藩(3万3千石、現・伊那市)=内藤家、高島藩(3万石、現・諏訪市) =諏訪家、飯田藩(1万7千石)=堀家。 (2) 上田地域を統一したのは真田家。 豪族・海野家の家臣だった真田幸隆(幸綱が正しいという説あり、1513~157 4)が、東信濃の小県地方を、村上義清らを破って支配し、武田信玄側の武将に。 だが、武田信玄の死後、武田勝頼は、織田信長・徳川家康連合軍と長篠合戦で敗退。 真田幸隆の後を29歳で継いだ真田昌幸は、家康に従い、交通の要地である甘ケ淵に築 城を開始した。天正12年、上杉氏と接近を図り、2男・信繁(のちに通称・幸村)を 人実として送った。上杉氏との接近を怒った徳川家康は総勢7000人の軍勢で上田城 を攻撃(第1次上田合戦)。徳川軍の完敗。その後、豊臣秀吉の命で、真田昌幸は家康 の臣下になり、東信地方、上州領地の3分の1が真田領となった。 天正18年(1590年)、秀吉は北条氏を滅亡させて天下一統。真田家は信濃・上 田城、上州・沼田城を保障された。昌幸は、長男・信幸に家康の重臣・本田忠勝の娘小 松姫(家康の養女という形)と結婚させ、2男・信繁に秀吉の家臣大谷刑部の娘と結婚 させた。パワー・ポリティックスの均等をとることに成功していた。 慶長5年(1600年)、関ケ原の決戦。徳川秀忠軍3万8千は8月24日に宇都宮 を出発、9月2日に小諸城に入った。秀忠軍が徳川軍の本隊で、中山道を経過する際に ついでに「真田に仕置を」と秀忠が命じたという。信幸が幸村のいた砥石城を攻めると、 あっさりと幸村は明け渡して上田城へ移った。真田昌幸、信繁軍は約2500人だった が、落城せず、秀忠は9日間も足止めをくらって、関ケ原決戦に間に合わなかった。 =第2次上田合戦。 関ケ原戦後、上田城は家康の命で破却されたので、藩主の真田信之(信幸から改名) は藩主屋敷を堀を巡らして造った。 信之は沼田城、上田城合わせて9万5千石の大名に任命されたが、6年後に突然、上 田藩から松代藩(10万石)に移封された。沼田領はそのままだったので栄転である。 =会報「上田」~「真田家」記事参照。 (昌幸は謹慎中に死去。信繁は、関ケ原合戦後、高野山麓の九度山村で雌伏し、大阪・ 冬の陣で外堀の天王寺口に新月型の出城・真田丸を築き、赤装束の軍を率いて力戦。夏 の陣では天王寺付近で戦死。なお、信繁が幸村を自称で名乗った史料は存在しない。 また、「真田日本一の兵=つわもの=、古よりの物語にもこれなき由」と書かれたのは 「薩藩旧記雑録」。上田藩と関係のない薩摩藩の文書なので、世間の評判として定着し ていたのである。)

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(3) 仙石氏が藩主の時代 真田氏が松代に移った後、小諸藩主だった仙石忠政が徳川秀忠に領地替えを願い出て、 上田・小県5万石、川中島1万石の領主に。忠政の後、12歳の政俊が藩主に。3代目 は政俊の孫・政明。だが、宝永3年(1706年)に、但馬国出石に転封されて、仙石 氏の藩主時代は84年間で終わった。武士数1200人余。出石藩主だった松平忠周が 上田に移った。仙石家は明治維新まで出石藩主だった。 (4) 松平氏7代の上田藩主 仙石氏の後を、上田城主に任命されたのは、三河の藤井出身の松平忠周(ただちか)だ った。これ以降、江戸時代の165年間、松平家が藩主だったことを意味する。譜代大 名のため、2人が幕府の老中になっている。 忠周(老中、吉宗のもとで「享保の改革」を推進)→ 忠愛(ただざね、千曲川氾濫、火 事など災厄が多く出費多し。さらに8人以上の側室、26人の子どもを設け、吉原で遊 女遊びにふける女好き。このため、上田藩の財政悪化)→忠順(ただより、父のせいで 財政悪化したので倹約に努めたが、増税のため宝歴11年に最大の百姓一揆が起きてい る)→忠済(ただまさ)→忠学(たださと、藩校・明倫堂を設立)→忠優(ただます、 のちに忠固を名乗る。姫路藩酒井家の2男だったが、養子として上田藩藩主につく。老 中になっていたとき、ペリー来航し、忠優は開国を主張。日米修好通商条約を締結する ことを推進したが、勅許を得ていなかったとして井伊大老から老中を罷免されて失意の うちに死去。暗殺説もある。この時期に、貿易が許されて、生糸が高く輸出できること を知り、上田藩のなかで養蚕業を奨励した)→忠礼(ただなり、10歳で藩主になり、 1868年の明治維新期には新政府軍側につき、北越戦争、会津戦争に出兵。明治 2 年、 版籍奉還で上田藩知事に任命されたが、明治4年廃藩置県で、上田藩は消滅して長野県 の一部になった。明治5年、弟の松平忠厚とアメリカ留学。) (5) その後の上田城 廃藩置県後、上田城は兵部省の所管になったが、明治7年、9基のやぐらのうち西 やぐらを残して、土地、建物は払い下げになり、2基のやぐらは、明治11年、太郎山 麓にできた遊女屋・金秋楼、万豊楼となっている。上田城址にあった松平(しょうへい) 神社は、現在、真田神社となった。 (6) 上田藩が産んだ逸材人物 松平忠固(前述)。竹内善吾(和算家、「二三乗法算顆術」が有名)。加舎白雄(かや しらお、蕉風俳諧を復興させた俳人)。雷電為右衛門(相撲取り、大関在位 16年)、八 木郷助(法術家、銃や大砲の火器製造技術を学び、嘉永6年には諏訪部川原で野戦砲な どの試射をする。赤松らを登用し、西洋式銃撃訓練を進めた。戊辰戦争では上田藩を慶 喜支持から朝廷側支持に変更させた中心人物)。赤松小三郎(蘭学、英学を学び、「英国 歩兵練法」などを翻訳、幕末に京都で塾を開設、薩摩藩が重用した。選挙による議会政 治を提言。だが、京都で37歳で暗殺される。)

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2、幕末幕末幕末幕末からからからから 明治維新後明治維新後明治維新後明治維新後のののの上田藩上田藩上田藩上田藩 (7) 鼓笛隊を指揮する藩主。 初めて見て、「えっ、ホント!」と感じたのは、音楽史の著書に、洋装の軍楽隊のユ ニフォームだがまだチョンマゲ姿で、家来の鼓笛隊を指揮している写真だった。「日本 の洋楽」という分厚い著書に、日本最初日本最初日本最初 の日本最初ののの洋洋洋洋楽楽楽として、楽 「信州上田藩の鼓笛隊、左端が 上田藩主・松平伊賀守忠礼(慶應4年撮影)」と書かれている。鼓笛隊は、ペリー提督 と一緒に伝来したもので、兵士の行進の合図や公式儀式に不可欠のものであった。特に 有名なのは、アメリカ大統領の国書を渡すとき、ペリー提督は 300 名の儀仗兵を整然 と並び、その先頭に軍楽隊がいて、行進の歩調を合わさせて、儀式では「ヘイル・コロ ンビア」「ヤンキー・ドートル」を演奏させた。国旗掲揚、国家吹奏の国際的儀式が必 要なことを日本が初めて知った瞬間である。ちなみに、「星条旗よ永遠なれ」が米国国 歌になったのは、もっと後のことである。 さらに見て、「えっ、ホント!」と叫んだのは、「写真の歴史入門」という写真史の中 に「フォトグラファーの伝播」という章があり、ここに「題不詳(松平忠礼像)」とい う写真が載っていた。これは慶應 4 年(1868 年)に導入された洋式調練服の指揮官の正 装だが、腰には二本の刀を差し、頭はまだチョンマゲ姿である。同書には、松平忠厚が 家来と一緒に撮影した写真が載っている。これが会報にも載せた松平忠厚の幕末の写真 である。家来はまだ和装で刀を差しているが、頭はすでにチョンマゲではなくザンバラ 髪になっている。もう少し気をつけて欲しいのは両側に立っている家来がいやに着膨れ していることだ。これはペリー提督が2度目の来航をしたときに公式記録を残すために お抱え写真家エリファレット・ブラウ・Jr を連れてきて、彼が持ってきた写真術がダ ゲレオタイプというガラス板使用のカメラで、左右反対の映像になり、少しでも動くと ぶれてしまうので立っている人の背後から「首押さえ」という台座をあてがってブレを 防いだのだ。写真は洋学研究の一環として舎密(せいみ=化学)と呼ばれて、最先端技 術の象徴的存在で、上田藩は藩主を先頭にこの写真術を学んでいた。 ⇒台東区の歴史文化財にガラス板が指定され存されている。 慶應 4 年は9月に明治元年となった1868年である。このとき、上田藩主の松平忠 礼は18歳、弟の忠厚(上田藩の飛び領地・更級郡塩崎村の領主)は 17 歳だった。 (8) 父・松平忠固老中の遺訓 1853(嘉永 6)年、ペリー提督が軍艦4隻を率いて浦賀に来航。このとき、上田藩主・ 松平忠優(ただます、のちに忠固と改名)は、老中の地位にあり、アヘン戦争で清が英 国に敗れて香港を割譲せざるを得なくなっていた世界情勢を把握していたので幕府中 枢の中で唯一、開国論を主張し、アメリカ大統領の国書を受け取ることを主張した。翌 年にペリーが軍艦7隻で来航し、日米和親条約を迫った。尊王攘夷の声が高まるなかで、 条約を結び、下田、箱館の2港を開港した。 忠優は一度老中の座を降りるが、再度老中・松平忠固として抜擢された時期に米国の

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ハリス総領事が赴任してきて、日米修好通商条約を迫った。これを朝廷は許可しなかっ たが、「長袖(公家)の望みに適ふやうにと議すれとも果てしなき事なればこの表限り に取り計らいしては覇府の権もなく時機を失い天下の事を誤る」(昨夢紀事)と主張し、 1858(安政5)年 6 月、修好通商条約を調印。だが、その5日後、井伊大老によって忠 固は罷免され、翌年死去した。これまで、日米修好通商条約の直後に起きた安政の大獄 (吉田松陰刑死など)やその後の井伊直弼暗殺が歴史書に書かれたが、松平忠固が幕府 の要職にいて開国の実行役だったことは知られていない。この後に上田藩から「英国式 歩兵練法」などを訳し、西洋兵術を教えた赤松小三郎が登場する。 上田藩を継いだ忠礼は、藩主になった時、数えで10歳。父・忠固の遺訓はこうだっ た。「交易交易交易交易はははは世界世界世界世界のの 通道のの通道通道通道なりなりなりなり。皇国の前途は交易によりて隆盛を図るべきなり。世論轟々 たるも聞くべきの通道必ず開けん。汝らもその方法を講ずべし」 赤松小三郎に慶應 3 年、帰藩の命令を出したのは藩主・忠礼が英学、世界情勢を学び たいという意向だったようだ。赤松が京都で活躍した時代には、すでに松平忠固が没し ていて、彼を正当に評価してくれる要人が周囲にいなかったことが、無名の存在にして しまった。また、そもそも、松平忠固の名前が出てくる史料がほとんどない。また、最 気になって上田藩を脱藩して薩摩邸浪士隊に加わった丸山徳五郎などの史料が発掘さ れてきたが、まだ十分には研究されていない。 ⇒これからの研究課題だ。 (9) 若き藩主兄弟の青春 王政復古の後の戊辰戦争で、譜代大名なのに上田藩は官軍側について、北越戦争、会 津戦争に出兵。この前後に、兄弟は上田で、結婚式を挙げている。明治維新となった直 後に各地で世直し一揆が起こったのだが、上田藩でも明治2年、青木村から発生した一 揆は数千人規模に膨れ上がり、上田城下を暴れまわった。このため、上田町で214戸 が焼失し、90戸が打ち壊された。同時に周辺の庄屋、商家が襲撃された。 版籍奉還、廃藩置県という激動の中で、上田藩は消滅し、藩主は地位を失った。だが、 明治政府は旧藩が背負っていた債務、藩札債務を全て政府負担として、藩が抱えていた 債務を肩代わりすることとした。幕末に30万両(現在の金額に換算すると約180億円 の累積債務を抱えていた上田藩)にとっては願ってもない朗報だった。しかも、藩主の 家禄は実収石高の10分の1の2,280石を保証されていたから、かえって安心できる。 家来は約1200人いたが、彼らには若干の家禄(のちに公債)が政府から支給されたの で自力で生き抜くことを命じた。ここで、松平忠礼、忠厚の兄弟は、明治5年、家来の ひとりを連れて、渡米し、ニュージャージー州のラトガス大に留学したのである。なお、 忠礼は渡米中に家来に、何も家事ができないし、手紙も通り一遍のことしか書いていな い妻との離婚手続きを命じ、帰国後、別の女性と再婚した。弟の忠厚は、塩崎領主のと きに妻との間に子ども(夭折)を産ませていたが、カリー・サンプソンとニューヨーク で結婚後にその塩崎妻との離婚を申し出て、塩崎の旧家来たちがその手続きを行った。 ⇒会報「うえだ」~「松平忠厚」記事参照。

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3、戊辰戦争戊辰戦争戊辰戦争に戊辰戦争ににに出兵出兵出兵した出兵した信濃諸藩したした信濃諸藩信濃諸藩の信濃諸藩ののの実数兵力実数兵力実数兵力実数兵力 「長野県史」近代史料編のオリジナル史料によって、各藩の出兵した兵の実数が判明 した。西軍(官軍)は総数で、11,590 人というから、その約半分(合計 5,379 人)は 信濃国諸藩の兵士だったことになる。特に、大砲、最新のライフル銃の近代装備を備え ていた上田藩、松代藩の果たした役割は大きい。全体の指揮は薩長軍がとっていたとし ても、前線に送り出されたのは信州諸藩だといえる。明治政府が各藩に報奨金を出すた めに、実数を報告させた模様だ。この出兵数によって、田野口藩に5000両を下賜され た記録が残っている。戦死者は別途に報告され、招魂社に祭祀。 「 「 「 「慶應四年慶應四年慶應四年 慶應四年 戊辰役信州諸藩戦功録戊辰役信州諸藩戦功録戊辰役信州諸藩戦功録戊辰役信州諸藩戦功録」」」」(国立公文書館「内閣文庫」所蔵) ☆上田藩5万3千石・藩主松平忠礼 出兵371人(戦死10人) これに「外に145人、その後増減不詳」と但し書きあり。 (最初に北越戦争=長岡藩との戦争に出兵して、激戦を体験。この際に上田藩の砲術 家・八木剛助の息子・兼助が戦死した。上田藩兵士は慶應4年4月に出兵し、会津藩が 降伏した後、11月1日に帰藩。この兵士たちが「戊辰役上田藩従軍紀念碑」を明治3 6年に上田城址公園に建立した。) ☆飯山藩2万石・藩主本田助籠 出兵98人(戦死4人) ☆須坂藩1万石・藩主堀直明 出兵231人(戦死8人) ☆飯田藩1万5千石・藩主堀親広 出兵301人(戦死2人) ☆高遠藩3万3千石・藩主内藤頼直 出兵127人(戦死1人) ☆松代藩10万石・藩主真田幸民 出兵3271人(戦死52人) (松代藩がいち早く朝廷側につくことを表明したので、信州諸藩の触頭=ふれがしら= の地位を与えられた。薩長の軍は、艦船で移動してきたので、 兵力、大砲などに限度があり、松代藩の砲兵隊が活躍した模様。慶應4年2月に、松代 藩は796人を出兵して、幕府領だった甲府城守備軍となって、新選組らと戦闘。のちに 本隊を合流して北越、会津と転戦した。明治になって松代城は兵部省に受け渡されたが、 53門の大砲が残されていた) ☆松本藩6万石・藩主戸田光則 出兵410人(戦死3人) (西軍につくか東軍につくか迷っていて、官軍が松本城に迫った時にようやく、西軍に つくことを決定した。このため、征討軍に、藩が財政は破産しているのに1万5000両 を軍資金として上納した。) ☆田野口藩1万6千石・藩主大給乗護 出兵84人(戦死4人) ☆小諸藩1万5千石・藩主牧野康済 出兵56人(戦死なし) ☆岩村田藩1万5千石・藩主内藤正誠 出兵130人(戦死2人) ☆高島藩3万石・藩主諏訪忠礼 出兵300人(戦死なし)

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4、グローバリゼーショングローバリゼーショングローバリゼーショングローバリゼーションととと戊辰戦争と戊辰戦争戊辰戦争戊辰戦争 <戊辰戦争は武士対銃砲隊の戦い>NHK の大河ドラマ「八重の桜」で、ライフル銃を 構えた八重がタイトルバックに出ていた。だが、実際には、会津藩には、古いものを含 めて後装ライフル銃は全部で 300 梃しかなかったし、最新鋭のスペンサー銃を八重だ けが持っていたが弾丸の補給がないのでほとんど発射されなかった。前込め銃は、銃弾 を筒の前から押し込むため、立ってそれをするので戦場では自らを標的としてさらすこ とになる。西軍の最新大砲はアームストロング砲で射程距離3000m以上だった。 当時の銃砲戦力を比較する。 <西軍=新政府軍> 大砲総数 1,500(うち旋条砲394) 小銃総数75,000(後装銃11,252) <会津藩、28万石> 大砲総数 88(うち旋条砲23) 小銃総数4,200(後装銃332) 仙台藩(62 万石)は、東北の中心藩を自認していて、西軍の鎮撫総督参謀・世良修 蔵を斬殺して反薩長の先頭に立ったが、実際の軍備は旧態依然たるもので、砲撃され ると刀槍だけの武士たちはひたすら逃げた。米沢藩(15万石)には、大砲はなく、銃 は拳銃50梃があっただけだ。 薩長軍は参軍してくる諸藩の銃砲隊だけを受け入れ、刀槍の武士は拒否していた。 戊辰戦争は近代兵器を装備していたかどうかで決着がついた。信濃からは諸藩の他に、 幕府領だった領地から銃を持っていた猟師が国学者、神主とチームを組んで、「遊軍隊」 として約50人が出兵した。ここから、遅かれ早けれ、武家による官僚社会は崩壊した といえる。ここで当時の世界情勢とそれによって発生したグローバリゼーションを、 改めて研究してみた。 1) 英国の産業革命と帝国主義 18世紀から始まった英国の産業革命は、多くの工場を発展させると同時に、その資 源流入と製品輸出のために、世界的に植民地を必要としていた。インド、セイロンは完 全に植民地化された。カナダ、オーストラリア、南アフリカ、エジプト、南米のガイア ナ、カリブ海のジャマイカ、バルバドス、アジアのシンガポール、ビルマなどは植民地 または自治権があっても大英連邦となっていた。 工業の発達は輸送手段としての艦船の建造、武器の大量生産も可能にしていた。幕末 に幕府が開港すると、イギリス商人のトマス・グラバーらは薩長側に、軍艦、武器を売 りまくった。その支払い金を英国やスイスの銀行から借りていた例も多い。松代藩は維 新直前に累積債務100万両超なのに、5000両(武器代金)をスイスの銀行から借りて いた。 明治維新前にヨーロッパでクリミア戦争(1854~6)、アメリカでは南北戦争(1861 ~5)があった。この間に兵器は急速に進歩している。南北戦争で北軍が勝利したのは、 農業州の南軍に比して、工業が進んでいて銃砲の製造も可能だったからだ。南北戦争は

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た。なお、幕府側にはフランスのナポレオン三世から2000梃のライフル銃が贈られて いたが、将軍慶喜はそれを知らず、江戸城の武器蔵に眠っていた。 2) 海を渡った日本人 最初にアメリカ情報を教えたのは、土佐の漂流船員ジョン万次郎だった。 彼は14歳のときに漂流したところを米国の捕鯨船に助けられて、米国で教育を受けて、 1851 年(嘉永4年)に琉球に帰国。薩摩藩主・島津斉彬の優遇を受けて洋学塾の教師 に。だが、ペリー提督の黒船来航の時は、米側に都合の良い通訳をするだろうという嫌 疑で通訳を任されなかった。1860 年の咸臨丸渡航の時は通訳を兼ねて乗員に加えられ た。 1858 年(安政5年)に日米通商条約を締結すると、それに続いて仏、英、蘭、露と も条約を結び、幕府は条約批准書交換と海外事情視察のために、1860 年、遣米使節団 を皮切りに遣欧使節団やオランダ留学生(西周、榎本武揚ら15名)を派遣。 長州からは、1863(文久3年)に、伊藤博文、井上馨など5名を密航して英国に留 学させる。1865 年には薩英戦争で戦った薩摩藩からは近代軍備を学ぶために森有礼、 五代友厚ら19名を変名で派遣。長州、薩摩からの留学生はともにロンドン大学で学ん だ。越前藩は、米国に日下部太郎(卒業前に病死)、英国の海軍大学に八田裕二郎を派 遣、肥後藩は横井小楠の甥、横井佐平太、大平兄弟を米国ラトガス大に留学させた。明 治になると政府が留学を奨励したので、1年間の留学費は年間 1000円(今の貨幣価値 だと900万円)かかるのに明治初期に300人ほどが留学している。米国のラトガス大 に明治5年になって、上田藩の最後の藩主・松平兄弟が私費留学して学んだ。松平兄弟 のほかにラトガス大に在籍した生徒の氏名が判明している。前述の日下部太郎、横井兄 弟、勝小鹿(勝海舟の実子)、富田鉄之助(勝に同行、のちに日銀総裁)、岩倉具定・具 経兄弟(岩倉具視の実子)、服部一三(岩倉に同行、後に兵庫県知事)、畠山義成(のち に東京開成学校校長=東大の前身)、松村淳蔵(のちに海軍中将)、白峰駿馬(長岡出身、 のちに造船所を設立)、菅野覚兵衛(のちに郡山に入植)、工藤精一(のちに札幌農学校 教授)。 明治4~5年、岩倉具視米欧使節団がアメリカ、ヨーロッパを回る。 この使節団によって、日本の近代化が本格的になった。

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