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宗 教 に お け る 基 礎 的 思 惟 研 究 且 〔 付 ・ 美 学 論 放 〕

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(1)

文化論集第二号  一九九三年二月  

聖なるものの呼名︑人格的・非人格的把撞と表現  

人間の宗教的認識にあってまず第一条件として考えられることは︑聖なる存在︑神︑仏︑神々などをどのように  

把接し︑表現しているかという問題である︒ここでまず問題になるのは︑人格的︑非人格的な把握と表現である︒  

この世界の多くの宗教のさまざまの宗教現象を考える上で︑すべてを網羅包摂することはむつかしいけれども︑現  

在為し得る範囲で考察し︑分析整理してみたい︒   

神を呼ぶのに﹁父﹂︑﹁われらの父﹂あるいは﹁天の父﹂ときわめて親近感をもって語りかけている︒大地母神あ  

るいは女神にたいしては﹁われらの母﹂︑﹁天の女神﹂︑﹁恵み深き母神﹂などと呼んでいる︒この僅かな例をみても  

分かるように︑神性を男性的︑女性的どちらかの特質で感受していることである︒さらに﹁われらの主なる神﹂︑  

すなわち宇宙の主︑主宰者︑統一の主体とみる見方もある︒たんに﹁主人﹂という意味だけではなく︑﹁創造の主﹂  

宗教における基礎的思惟研究且 ︹付・美学論放︺  

植 田 重 雄  

588   

(2)

文化論集第2号  

という呼び方もある︒宇宙の一切の創造者という意味である︒これを造物主ともいっている︒陶工が土をこねて壷  

や皿を創るように一︑この世界の存在はすべて神の手のわざと見る︒神が父であるならば︑人間ハその他の存在は神  

の子であり︑神が主であるならば︑人間︑その他は神のしもべ︑は七ためであり︑神が創造主であるなら▼ば︑人間︑  

自然的存在は被造物となる︒   

聖なるものと人間の親密で人格的交わりを表す呼び名に︑夫と妻︑愛し合う恋人同志という比喩を用いる場合も  

多い︒I神と人間の関係を親しい ﹁友﹂と呼ぶことすらある︒その他牧者と家畜の比喩で示したりする︒神道では神  

ジウス︵Ange−usSi−esius︶は﹁瞑想詩集﹂ の中でつぎのように述べている︒   を親神といい︑崇んで大御親神ともいう︒仏教では阿弥陀信仰の表象ではやはり阿弥陀仏を﹁親株﹂と称してあが  めている︒このように見てくると︑聖なる存在を父母あるいは親とtて把握している場合が多く︑恋人︑花嫁︑花  むこ︑夫と妻︑親しき友といった把握が次いでいる︒沖縄の民間信仰では神を﹁とうとがなし﹂と呼んでいる︒  

﹁とうと﹂は﹁貴きもの﹂の意味である︒沖縄では愛する者︑恋人のことむ﹁かなしや﹂とか﹁加那﹂とかいって  

いる︒畏れかしこむべくしてしかも愛する慕わしき者という神の二つの内容を一つの言葉で的確に表現している︒  

南島の宗教感覚の鋭敏さに感銘を受ける︒   

この他に重要な把捉の仕方と思われるものは︑二人称で﹁なんじ﹂と一人称の﹁われ﹂が呼びかけ︑呼びかけら  

れる人格的関係である︒l茶に﹁兎も角もあなた任せの年の暮﹂の句がある︒この場合の﹁あなた﹂は阿弥陀仏の  

意味である︒ヘブライ系の宗教文献では枚挙にいとまない程二人称の表現が多く1神が人間に向かって︑﹁なんじ﹂︑  

﹁なんじら﹂と呼びかけ︑人間が神に向かってやはり二人称で呼びかける︒この密接な関係性をアンゲルス・シレ  

587   

(3)

宗教における基礎的思惟研究(三)   

非人格的把握と表現   

人間は聖なるものの存在を客観的にいい表し︑一般化して理解しょうと長い間努力を重ねてきた︒とくに言葉︑  

命辞によって明らかにしようと試みてきたことは︑人類の宗教史の発展を見れば思い半ばに過ぎるものである︒し  

かしそれはかならずしも成功しているとはいえない︒宗教的な乳厳性をもつ存在は︑有限な人間の存在の概念や思  

われとなんじの関係の外に何もない︒    だからもしわれらにこの二つの関係がなくなれば︑   

神はもはや神でなく︑天は崩れ落ちる︒︵第二章一七人︶   

われとなんじの間の声のひびきがきこえ︑相互の息づきが感じられる表現かもしれない︒古代︑原始の昔から人   間は太陽や月を神として仰いで来︑山や海︑雷や風のごとき天空の現象をも神的なものとしておそれてきた︒ある   いは祖先の霊を敬い︑大地の霊をあがめ︑宗教的に聖化された人間をむ崇拝してきた︒しかしそれらを通じてつね   にかわらずに求め︑呼びつづけてきた人格的主体は︑﹁われ﹂と﹁なんじ﹂という結合の関係性である︒この場合︑   宗教語として明確にいい表すならば︑﹁永遠のなんじ﹂乃至は﹁すべてを超えるなんじ﹂とでもいうべきであるか   もしれない︒それ程にわれとなんじは包括的な内容をもっている︒もし歴史的︑言語的にことなる神の呼び名︑神   名の差異を削除してしまうならば︑この人格的表現にすべての関係を還元することができるかもしれない︒人間は  

人間であるがゆえに︑自己が体験する親子︵父母子︶の関係や相互に愛し合う恋人︑夫婦の間柄などでもって親し  

さ︑不即不離の愛を感じ表現してきた︒そのために聖なるものの尊厳が傷われるのではないかと思う程に︑身近に   親しくその結合の一体観を生きようとしてきたのである︒  

586   

(4)

文化論集第2号  

惟をもっては把えがたいからである︒宗教的主体の聖なるものはつねに言葉を超えているために︑客観的に表現し  

ようと思えば思う程︑その不充分︑不的確さにあせりや焦だちを感じ︑遂にはいうべき言葉のないことを知る︒   

聖なる者の存在性を示すには︑その特質を挙げることである︒たとえば︑﹁絶対者﹂といった場合︑一切の相対  

性をもたない特質である︒また人間の不完全性にたいして﹁完全者﹂という名で呼ぶこともできる︒当然有限な存  

在を超えているのであるから︑﹁超越者﹂として思惟することができる︒これとほぼ同じ特質を表すものは︑﹁永遠  

者﹂または﹁永遠の存在者﹂である︒モーセがホレブ ︵シナイともいう︶ の山で羊を飼っていたとき︑茨に火が燃  

えていたが︑茨は焼けることはなかった︒奇異におもって見つめていると︑﹁モーセよ︑モーセよ﹂と呼ぶ声に思  

わず地にひれ伏す︒これは出エジプト記︵三ノ十三︶ に叙述されている神体験である︒ここは聖なるところである  

から︑履き物を脱ぎなさいといわれ︑裸足になってひれ伏す︒この召命体験から︑苦役の苦しみにあえぐイスラエ  

ルの民を救い︑荒野に導くよう命ぜられ︑それを受諾する︒その時︑帰ってエジプトにいる民に神の名をいうとき︑  

何といったらよろしいかとたずねると︑﹁在りて在る者﹂があなたがたのもとへ︑わたしをつかわされたと告げな  

さいと述べている︒﹁在りて在る者﹂とは何か︒のちに神学の論争の焦点になった表現である︒存在を存在たらし  

める者︑窮局の存在者︑その他さまざまの神学的解釈が生まれ得るであろう︒詳しいことは別の個所で改めて考察  

することにして︑ここでは神が絶対的存在を主張して止まぬ強烈な意志の主体であることを宣言した神名である︒  

ヘブライ系︑とくにキリスト教が﹁永遠性﹂について後の時代に思索を深めるのは︑たえず現実超過を志向する聖  

なる意志に基づいているといえる︒   

聖なるものの表象はこれだけにとどまらない︒これとは正反対の場合もある︒﹁無﹂という言葉で表しているも  

のがそれである︒さらに抽象的な表現をいい表せば︑﹁天﹂は宇宙の主体的な精神であり︑老荘の﹁道﹂も一切の  

585   

(5)

宗教における基礎的思惟研究(三)  

人間臭を払拭し︑しかも一切を包括する意味を持っている︒仏教においては﹁仏法﹂︑あるいは単純に﹁法﹂といっ  

てしまう場合が多い︒道教では﹁道Jを﹁自然﹂ともいう︒現在われわれは﹁自然﹂を自然科学で把握し認識でき  

る自然現象を考えるが︑本来は宗教語であって宇宙の根源を表す象徴語である︒﹁道法自然﹂と道教ではいってい  

るが︑まさに﹁道ハ自然二法︵ノッ上ル﹂ものと観ている︒   

﹁神道﹂という呼称は︑﹁神﹂と﹁道﹂を一体のものとして表している︒道は神の道であり︑人間の歩むべき道  

であり︑一切の存在がのっとるべき規範を意味している︒一﹁神ながらの道﹂とは︑神のごときあり方を人間の理想  

としている︒キリスト教ではロゴス︵L︒g︒S︶を強調している︒ヨハネ福音書ではこれを﹁言葉﹂と訳しているが︑  

﹁道﹂とか︑﹁理法﹂と訳して一向に差し支えない︒﹁初めに言葉あり︑言葉は神なりき﹂︵ヨハネ一ノ一︶と叙述  

しているように︑ロゴス︵道︑真理︶と神は同一のものである︒宇宙に遍滴する﹁真如﹂を悟った者を仏教では覚  

者︵仏陀︶と称して敬った︒このように宗教においては一方できわめて人格的な心情や感情︑感覚をこめて神仏に  

接して霊感の交流を求め︑表現してゆく傾向をもつとともに︑他方では畏れ敬うべき厳粛崇高寧王体者として思索  

し︑意識を向けるのである︒この場合には非人格的な距離をもって見るから︑一見冷静で無機質な存在のごとく感  

じられる︒絶対者︑超越者︑永遠の真実の存在者としで表象するとき︑人間としてこのような表現でしか表し得な  

いかもしれないが︑限りなき距りと速さ︑近付きがたさが残るのは避けられない︒  

ユダヤ教では神の名を呼ぶことをおそれ︑忌み慎んだ︒モーセの十戒の一つに﹁なんじらは神の名をみだりに唱  

アドーナイ ぅべからず﹂と厳しく戒めた︒そのためにヤハヴュの名を用いず︑主に﹁主﹂︵AdOロai︶で呼んだ︒国家を失い︑  

ヨーロッパ︑中近東に離散したユダヤ人たちは︑もはやヤハヴエの名を忘れ︑﹁エホバ﹂なる呼称を用いたといい  

伝えている︒神を人間的立場から乱用したり︑人間本位に考えることを厳しく自省した態度である︒  

584   

(6)

文化論集第2号  

浄土系仏教では︑阿弥陀仏を無量寿如来︑無碍光如来とか︑さまざまの呼び名を与えている︒無量寿経に多く出  

ているその呼び名をみると︑いかに仏の特質が多く考えられるかということに驚く︒光に輝いているとか︑燃え上  

る炎であるとか︑光明と火による表現が浮かび上る︒また永遠の生命という表現が特徴となっている︒   

以上をむつセ知られるように︑重なるものの把撞と表現には︑歴史的に見て人間は苦心を重ね︑情熱を燃やして  

きたのである︒その特質をあげるならば︑聖なるものは︑言語であれ︑造型であれ︑音楽であれ︑人間の表現し得  

るすべての能力を超えており︑いかなる方法をもっても表現できない︒人間のどのようなものも︑一度たりとも的  

確に表現したものはない︒結果的には表現を絶していること︑ただ﹁無﹂とか﹁道﹂とか﹁神﹂とかで暗示するよ  

かほかはない︒′しかしこれでもなお不充分とする気持がつきまとうほどである︒西田幾太郎は﹁無﹂だけでは満足  

せず︑﹁絶対無﹂と呼んだが︑・これは難解さを加えただけであるともいえるが︑現代的要請でもある︒  

神どいう名辞は用いる人により︑文化により千差万別である︒中国の漢字は﹁精神﹂というようにすぐれた意識  

︵心︶ のはたらきをいい︑人間の心を表している︒﹁神遊﹂といえば︑神が遊んでいる意味はなく︑心の暢やかに  

遊戯していることを表す︑人間の世界のことである︒ところがヨーロッパの神︵GOdもOtt︶はすでに述べたように  

超越性が強調されるがゆえに︑漢字の﹁神﹂を用いると誤りを犯すとも解釈している人々もいる︒ヘブライ系の神  

には人間は絶対になれない︒もし人間が神になれるとすれば︑それは神ではない︒これに比べれば日本においては  

優れた人間は神として崇め︑死ねば神や仏になると楽天的に考えている︒このように双方は決定的にちがいがある  

以上︑カミ ︵カミガミとゴッド ︵ゴット︶ を同一に視るべきではないと主張することも可能である︒これに関連し  

て取り上げれば︑ヨーロッパ文化を支えている二つの柱の一つ︑キリスト教は唯一神︵GOd−GOtt︶であり︑他の柱  

のギリシア︑ローマの宗教は﹁神々﹂ ︵GOds一口eity︼G賢ter︶と呼んでいる︒一見すると神の単数︑複数のちがいの  

583   

(7)

宗致における基礎的思惟研究(三)  

ように感じられるけれど︑全く異質なものである︒この両者の相剋と調和がヨーロッパ文化である︒現代の人類的  

視野において︑神という概念のもとで共通に理解できる特質は何であるか︑という問題提起はしなければならぬ︒   

﹁神﹂という概念は極端にいえば個人的に差異があり︑もっとも一般化︑定式化しにくい︒それは個々の人間の  

感受の能力︑その認識の強さ︑深さにおいて表象力も異なってくることはさけがたいからである︒日本人は仏教受  しんぶつ  容とともに長い間の対立や争いの中からいつしか︑.﹁神仏﹂という統一概念を生み出していった歴史がある︒宗教  

観念︑宗教語の特質は︑それを語る人によって内容がちがってくることは避けがたい︒その上すでに前に述べてき  

たごとく︑すべての言葉や思惟を絶する難しさ︑われわれ人間の能力を否定し︑拒否する厳しさを持っているから  

である︒   

他方︑これとは正反対にいかなるものであろうと︑人間が聖なるものとして表してきたものは︑そこに聖が示さ  

れおり︑宿っているとする考え方がある︒したがって神や仏を造型したり︑画いたものはもちろん︑神仏を諾え︑  

呼びかけた詩歌音楽︑神学論文に至るまですべてそれらはたとえまだ未熟であり︑一部分しかいい得ていないかも  

しれないが︑人間に感受され︑体験された宗教的なものである︒これは人間の行為を積極的肯定的に認めた見方で  

ある︒仏教では仏︑菩薩︑天王部︑明王部等々で多様な仏の世界を表している︒キリスト教では聖者︑聖獣︑天使  

などで機能的神的な世界を表すのも︑宗教活動の多面︑多様性を肯定するからである︒絵画︑彫刻︑音楽︑詩歌︑ 

舞踏などは聖なるものにたいする人間の憧憶︑存在肯定への情熱であり︑切なる表現であり︑それとの交わりや結  

合への喜び︑感謝ならぬものはない︒人間の宗教的緊張はこの二つの肯定︑否定の間にあって︑その双方が聖なる  

ものの本質を明らかに究めようとしているのである︒  

582   

(8)

文化論集第2号  

悪と悪魔   

サパース   トープ  天地を創造した神は︑すべてを創り終えてすべて善し︵tOb︶として七日目には休息し︑この日を安息日︵Sabbath︶  

と定めた︒ところがアダムとエバはエデンの東︑楽園に住うこととなり︑他の生き物と一しょに楽しく暮らしてい  

たが︑そこにサタン︵Shatan悪魔︶ があらわれて︑エバに楽園の中央にある﹁善悪を知る木﹂ の実を食べると︑  

﹁目が開け︑神のように善悪を知る者となる﹂とそそのかす︒エバはその美しい実に魅せられとって食べ︑アダム  

にもすすめ︑かくて二人の目が開け︑自分たちが裸であることを知って恥ずかしくなり︑いちじゅくの菓で腰をお  

おうたという︒﹁アダムよ︑どこにいるか﹂と神から呼びかけられても︑二人は森の中に逃げ︑神の顔をさけたと  

いう︒アダムは知恵の木の実を食べた責任をエバに︑エバは蛇 ︵サタン︶ のせいにした︒   

神はエバに産みの苦しみを︑アダムには大地から食物をとるために︑額に汗してパンを食べ︑土に帰るであろう  

と宣言する︒善悪を知った人間は︑やがて生命の木の実をとって食べる︒このままでは不死の存在となるかもしれ  

ないと︑神は天使に命じて人間をエデンの園から追放する︒   

ここでまず問題になるのは︑天地創造の神はサタンも創造したとはどこにも書いてない︒しかし突然サタンがエ  

デンの園に登場し︑人間を誘惑し︑堕落させる︒それはさて措いて︑善悪の何であるかを知らぬ人間が︑知恵の木  

の実を食べることにより善悪を知るに至った︒むろん善と悪だけではなく︑ここには美と醜︑真偽︑幸福と災い等々  

すべての価値を含むものである︒幼児期︑少年期の無邪気からやがて善悪を自覚し︑自己の思考や行動に責任をと  

る青年になる︒この青年に至って人間のいかなる存在であるかが意識される︒このエデンのアダムとエバは人間が  

成人の自覚を持つに至る説話であり︑また性的目覚めを語る説話でもある︒男と女ほ成人すれば︑ともに父と母の  

581   

(9)

宗教における基礎的思惟研究(三)  

もとを離れ︑一体となるのである ︵創世記二ノ二四︶︒   

子供には善悪はない︒善悪を知ることによって大人は︑もはや子供には再び戻れない︒楽園で楽しく無邪気に遊  

んでいた世界を出て︑自ら額に拝して働かねばならない︒神話から出て歴史の道を歩む人間は︑仕事を身につけ︑  

家庭を持って妻子を養わねばならない︒このとき子供の頃をふり返って︑無心に遊び︑父母の庇護のもとに責任を  

もたずふるまっていた幼い日をふと懐かしく思うことがあるだろう︒父母にとって苦しみ多いことがあったにして  

も︑子供にとってはやはり良き楽園の子供時代なのである︒   

目覚めた人間にとって善を知ることは同時に悪をも知ることである︒真偽︑正邪︑美醜は相対的関係をもって価  

値観を提示する︒出エジプト記でモーセが十戒を授ける個所に︑わたしはあなたがたの前に善と悪︑幸いと災い︑  

光と閤を置く︑どちらを選ぶかはあなたがたの自由である︑もし善を選ぶならば︑あなたがたは幸いの道︑光の道  

を歩み︑悪を選ぶならば︑災いと闇を歩むことになろうと神は語っている︒善悪を知ることと︑それを選ぶ自由は  

人間に与えられている︒無意識に歩むのではなく︑善悪すべてを認識し︑行動しなければならない︒人間の行為の  

発端︑その始まりの尖端にはつねに﹁知る﹂という認識活動が働いている︒   

人間は自由があり︑自由意識を持つという︒しかしこれは途方もない重荷であり︑ときには苦しみである︒自由  

を無条件に喜ぶとすれば︑それは自由ではなくて︑勝手気侭︑わがまま︑放縦なふるまいであろう︒善悪を知ると  

いう単純化された表現の背景には︑人間のさまざまの欲求︵意欲︶が存在し︑それにまつわる推理︑判断︑喜怒哀  

楽などの情念︑心情がうごめいている︒選択の自由と簡単にいうけれども︑選びとるための悩み︑苦しみ︑人間は  

迷いの中で自己分裂を犯しかねないのである︒アダムとエバとはそれぞれの個々の人間の苦悩の姿を象徴的に説話  

的に表現したものである︒エバは﹁すべて生きた者の母である﹂︵創︑二フ二〇︶といっているように︑おそらく  

580   

(10)

文化論集第2号   10  

アダムも﹁すべて生きた者の父﹂ であり︑双方とも総括的な男性︑女性の人間像を表す︒人間は知恵の木の実を食  

べることにより︑善にも向かうことができるが︑悪にも向かう可能性を持つ存在となったのである︒宗教的にいえ  

ば︑それぞれの人間はすべてアダムであり︑エバであって︑歴史的に昔かくかくであったという説話ではなく︑つ  

ねに人間の過去にも現在にも︑未来にも生じる問題なのである︒人間は善を選びとる道もあるが︑悪に陥る傾向性  

ももつ︒悪はかならずしも意のままで誘惑するのではなく︑善や美であるかのごとく装い︑偽ることによって人間  

を惑わすことが多い︒人間はこのようにして罪に傾き︑悪にとらわれる危険性にたえずさらされている存在である  

ことを自覚すべきであると楽園説話は告知している︒   

悪は人間の実存にとっても中心的な重要課題であり︑時代ごとにそれぞれの人間が直面せざるを得ない事態であ  アポリア  る︒キリスト教の神学においては悪は最大の難問として謎にみちた得たいの知れぬ内容である︒なぜ悪があるのか︒  

この世界は書きもの︑秩序にみちた存在であるのに︑突如エデンの楽園から人間が追放される出来事が生起するの  

である︒悪の思索は楽園の説話とヨブ記によく出ているが︑キリスト教神学では︑悪への思索がずっと続き︑悪は  

善の欠如態と解釈するのが︑伝統的な見方である︒善の存在性が希薄になればなるほど︑悪の様相に近付くことに  

なる︒悪は実在するというより︑善の欠落した姿であると考える︒したがって本質的には人間も世界も善く美しき  

存在であり︑存在はすべて肯定さるべきものである︒ 

現代の哲学︑とくに科学的現実主義の立場からは︑悪︑過誤︑失敗と称するものはまだ技術的に未完成であるた  

めで︑医学や科学の研究︑応用が発達すれば︑おのずと解消してゆく問題であると考える︒その他に善なる神と悪  

なる神の闘争というゾロアスター教の考え方の流れを汲むグノーシスの二元論の説もある︒その他フロイドの心理  

学︑ドストエフスキーの文学︑無神論的実存主義など各分野からの悪の問題のアプローチがある︒ここではまず宗  

579   

(11)

宗教における基礎的思惟研究(三)  

11  

悪 龍   

ヨーロッパの各地を旅すると︑かならずや聖ゲオルク︵聖ジョージ︑聖ジョルジエ︶という聖者が甲常に身をか  

ため︑龍と闘っている彫刻や絵画のある教会や美術館に出合う︒龍は身を逆立て︑口からおそろしい火を噴き︑鋭  

い爪をむき出して襲いかかる︒騎士ゲオルクは槍︵又剣︶をかざして龍を刺し︑ついにはとどめをさす︒龍の犠牲  

とされる王女が震えながら湖の岸でこの凄まじい光景を見ているという図柄である︒王女は聖ゲオルタによって救  

われ︑これを機会に王女だけでなく王も住民たちもキリスト教に帰依し︑ゲオルクはさらに旅をつづけるという伝  

説である︒この場合︑善の象徴はゲオルクであり︑悪の象徴は龍である︒ヨーロッパでは表象すべき龍のモデルが  

ないために獅子のような猛獣型で表したり︑蛇に手足をつけ︑翼まで加えて︑その恐るべき狂暴さを示そうとして  

いる︒逆に現実性を出すために︑ナイルの鰐で表現しているものもある︒   

メソポタミア文化を潮ると︑七つの龍と闘う英雄神や混沌の海ティアマート︵龍ともいう︶と闘いこれを制圧し  

て秩序ある調和の世界を創り出す最高神マルドクなどの神話が語りつがれている︒ギリシア神話では︑ゼウスが世  

界を統治することができたのは︑悪龍を退治することによってである︒聖ゲオルクの龍退治の元型と思われる英雄  

ペルセウスはカシオペアとケフエウスのひとり娘アンドロメダ姫を放い出すために︑海の怪獣︵龍︶と闘ったとい  ヤマタオロチ  ぅ伝説がある︒出雲の須佐之男命が八岐ノ大蛇を退治し︑奇稲田姫を救う伝説も︑悪の制圧により︑文化が始まる  

ことをもの語る︒龍との闘いの神話︑伝説はかぎりないほど世界に広まっており︑生命を犯し︑生活を乱す暴虐を  

悪龍で表象した︒時には龍や蛇は生命や存在を否定する破壊や死の象徴ともなっている︒   教における悪と悪魔の挑戦とその克服のテーマにしぼって考察してみることとする︒  

578   

(12)

文化論集第2号    12  

善なる神にたいし悪なる神があり︑両者の闘いがこの世界にはあると考えてきた︒悪神から悪魔と呼ぶ存在にな  

る︒この世界には善なる神と対立する悪があり︑その悪の実体化︑象徴化として魔ないし悪魔を考えてきた︒仏教  

においても広目天︑毘沙門天などの天王部の足許には︑醜い邪鬼︵まがつみ︶が踏みつけられている︒これらは迷  

い苦しみ︑悪にはしりやすい人間の煩悩の姿である︒メソポタミアの大王と呼ばれる存在は︑悪龍︑猛獣と格闘し︑  

これを打ちたおす力をもつ英雄なるがゆえに大王として敬われた︒神︑聖者︑英雄は邪悪な龍︑暴虐な獣と闘って  

勝った存在である︒このことは同時に人間の内面性においても反覆して生起するドラマであり︑普遍性をもつ元型  

の一つである︒さきに述べたようにキリスト教の伝統的見解では︑悪は実在するのではなく︑善の欠如態である︒  

一見存在しているように見えるが︑絶対的悪は存在せず︑つねに善との相対的関係においての悪にすぎない︒一見  

悪の如く見えてもまだ高い次元に統一されていない低い段階の存在︑不完全なものを悪であると見る︒存在の深い  

意味を見誤らせる知識の不完全性のゆえに︑悪が存在しているかのように見えるにすぎないと主張する哲学者もい  

る︒   

キリスト教とその文化に育ってきた思想家たちは︑できるかぎり悪の存在をうすくし︑希薄化し︑弱めようと努  

力している︒アフリカのランバレーネの聖者ともいわれている神学者アルバート・シュヴァイツァーはキリスト教  

の特質を世界︑人間一切の存在肯定の楽天主義であると定義づけている︒彼は﹁生への畏敬﹂︵くeneratiOくitae︶  

を自己の信仰の根底に据えている︒アジアの宗教にみられる宿命観︑厭世思想とは異なるところはこの点にあると  

彼は強調している︒楽天主義と厭世主義は人間の立つ視点によってかならずしも固定しているわけではない︒極論  

すれば同一の人間に共存することもある観点かもしれない︒蛇で象徴されるサタン ︵悪魔︶は神の創造によるもの  

か︑全く別の創造による対立者であるのか︑多くの神学者はこの難問に直面する︒サタンははじめは神に仕えてい  

577   

(13)

13   宗教における基礎的思惟研究(三)   

神はすべてを肯定し︑すべての存在の意味を認めるが︑サタンはたえず反逆︑分裂︑闘争︑死と虚無を喜ぶ︒こ  

の点で神とサタンは相容れるものではない︒悪魔の誘惑の手におちたアダムとエバの子らは︑カイン︑アペルの兄  

弟間の殺傷の罪を犯し︑その子孫も姦通︑その他の多くの罪悪を行ってしまう︒復讐︑嫉妬︑詭計等悪の上に悪を  

重ね︑ついに神は人間の所業に絶望し︑ノアの一族を除いて大洪水によって地上から人間を絶滅させようとする︒  

ヘブライ人の宗教は時代を重ねるにつれ︑深刻に人間は悪の深みにおちいり︑悪と闘うようになる︒   

日本の知識層にはニーチェを読んで感化され︑共鳴する人々がいる︒ニーチェが﹁神は死んだ﹂といえば︑だか  

らもう神はいないのだと思い込む︒ニーチェははっきりいっている︑﹁人間が神を殺したのだ﹂と︒神を否定した  

現代の人間は︑悪魔の存在をも否定する︒悪魔は人間の心理の所産である︒神は人間の観念の産物であるという人々  

もいる︒神を否定した現代人は軽薄なヒューマニズムの幻想にひたるか︑逆にニーチェのように居直って凶暴にな  

るかである︒人間は理性だけを唯一の認識の道と考え︑他のさまざまの生の働きを押し込めてしまうために︑狂暴  

となる︒アンゲルス・シレジウスはつぎのように歌っている︒   た大天使であったが︑神に反逆を企て︑堕天使となったといわれる︒シレジウスは﹁永遠の肯定と否定﹂という詩  の中でつぎのように語っている︒  

神は常に肯定だけを語るが︑悪魔は否定しか言わない︒だから悪魔は神とともにヤー︵然りJa︶ということは  

あり得ないし︑神と一つになることもない︒︵二幸四︶  

576   

(14)

文化論集第2号   14  

たえず瞑想し︑祈る日々を送ったシレジウスは︑悪と悪魔と激しく闘っている︒神鱒王義というと︑すぐ神との  

恍惚とした神秘的合一に身を委ね︑甘美な夢に浸ることであると思いがちであるが︑自己の信念の確立のために激  

しく闘い︑さまざまな誘惑や威嚇の克服を目ざすのが︑神秘主義者である︒その一端をさらにあげてみることにす  

る︒   夜の闇の中に立って︑怪しい者︑悪を働こうとする者を見張る人がいて︑市民は女らかに眠ることができる︒現  代の文化や宗教は﹁悪﹂を見張らなくなった︒平和を叫んでいれば︑平和がやって来ると思う単純安易な平和主義  者は︑この世界にひそむ悪を正しく見つめようとしなくなった︒シレジウスはさらにつぎのように歌っている︒   

友よ︑気をつけてあなたのまわりを見回しなさい︒悪魔は絶えず降りてくる︒悪魔があなたの肉体の上にやって  

来るときには︑もうすでに負けなのだ︒︵六章二〇六︶  

キリスト者よ︒弱音を吐いてばかりいる年目を醒まし︑断食し︑祈れ︒かくすればあなたは悪魔の全軍勢を足  

許に踏みつけることができるのだ︒︵六章二〇七︶   眠りこんでしまった夜警人は役に立たない︒敵のことを考えないような魂は完全に堕落している︒︵六章二〇五︶  

シレジウスは瞑想だけでなく︑不眠の行︑断食の行もしばしば試みている︒この詩の中には原始キリスト教の気   

575  

(15)

宗教における基礎的思惟研究(三)  

15  

荒野の試練   

キリストは荒野に赴いて四十日︑四十夜悪魔の試練に遭ったと聖書は伝えている︒断食をして空腹を感じていた  

イエスに︑サタンは﹁あなたが神の子ならば︑これらの石がパンになるように命じてみよ﹂といった︒するとイエ  

スは︑﹁人はパンのみによりて生きるにあらず︑主のロより出る御言葉による﹂といって斥けた︒つぎにサタンは  

聖都に連れてゆき︑神殿の屋根に立たせ︑﹁あなたが神の子ならば︑ここから飛びおりてみよ︑あなたが石に打ち  

あたらぬよう︑神は天使に命じて手で支えてくれるであろう﹂とそそのかした︒しかしイエスは︑﹁あなたの神で  

ある主を試みてはならない﹂といって拒絶した︒さらにサタンは高い山の上にイエスを連れてゆき︑すべての国々  

の栄華のありさまを見せたあとで︑﹁もしひれ伏してわたしを拝むならば︑これらのものをことごとく与えよう﹂  

といった︒イエスは﹁サタンよ︑退け︑あなたの神である主のみ拝し︑ただ主にのみ仕えよ﹂と大喝して斥けた︒  

そこでサタンは離れてゆき︑天使たちがイエスに仕えたという︵マタイ福音書四章一−二節︶︒   

この荒野の試練に象徴されているように︑いかにキリストが崇高な目的を目ざし︑高い倫理観をもって貫こうと  

していたかが分かる︒人間がもっとも惑わされやすい食慾のこと︑日々の生活の労苦について︑また神を試みるが  

ごとき倣慢な態度について︑この地上の栄華や権力所有にたいするサタンの誘惑にたいし︑いかにイエスがすさま  

じい闘いを行っているかが感じとちれる︒現代のキリスト教は信仰とか救いにのみ重点を措き︑ただ﹁信仰のみ﹂   魂が再現しており︑修道院や荒野で生涯を神にささげて生きる修道士の姿と重なる︒﹁勇気ある者よ︑敏捷に戦い  なさい︒玉座を手に入れるまで︒戦いに放けるような者は永久に馬鹿にされ︑もの笑いの種になる﹂︵三章一八二︶  とも歌っている︒  

574   

(16)

文化論集第2号   16   

を強調する傾向が強い︒信仰の重要性はいうまでもないが︑それとならんで愛の実践︑奉仕がなければならないし︑  

さまざまな誘惑︑苦難の克服の問題︑人間の文化全体の価値の自覚︑実存にたいするたえざる目的実現の更新の努  

力も必要である︒   

この荒野の試練の個所はドストエフスキーの長篇小説﹁カラマーゾフの兄弟﹂の中の大審間宮のプロ・エト・コ  

ントラでも取り上げている︒そしてこのサタンの誘惑のとき︑キリストが妥協して石をパンに変えていてくれたら︑  

人間は額に汗を流してして働いて︑パンを獲る必要はなくなり︑生活苦ということはなくなったのに︑なぜそれを  

拒絶したのだろうかと問う︒しかしその代わり人間は上からの権力の鞭で命ぜられるがままに︑黙々と動く羊のよ  

うな存在となったのかもしれない︒キリストはサタンを斥けて︑人間の自由を守ったのであると︑ロシア革命のた  

めに祖国をはなれパリに亡命した哲学者ベルジャエフは述べている︒しかし自由だけではない︑真理を守るためで  

あることも忘れてはならない︒   

この荒野の試練をうけて︑サタンの挑戦を斥けたあとに︑イエスは高まる歓喜と心魂の輝きが訪れ︑山上の垂訓  

が高潮した勢いで展開する︒﹁心の貧しき者はさいわいである︒天国は彼らのものである︒悲しむ者はさいわいで  

ある︒彼らは慰められるであろう︒栗和な者はさいわいである︒彼らは地を受け嗣ぐであろう︒義に飢え渇く者は  

さいわいである︒彼らは飽き足るようになるであろう︒心の措き者はさいわいである︒彼らは神を見るであろう︒  

平和をつくり出す者はさいわいである︒彼らは神の子と呼ばれるであろう︒義のために迫害される者はさいわいで  

ある︒天国は彼らのものである﹂ ︵マタイ福音書五ノ三−一〇︶︒これはのちに八福の教えとも呼んでいるものであ  

る︒  ツユダカー   この中で﹁義﹂ ︵Nedakha︶について﹁義に飢え渇く者﹂︑﹁義のために迫害される者﹂と二度にわたって取り上  

573   

(17)

17   宗教における基礎的思惟研究(三)   

げている︒それ程﹁義﹂をイエスは重くみている︒それにもかかわらず現代のキリスト者はこの言葉の意味を感じ  

なくなっている︒安易に﹁平和﹂や﹁柔和﹂を唱え︑それと並ぶ﹁義﹂を求めることをないがしろにしている︒キ  

リストがサタンの誘惑と闘った苦闘の宗教的意味を忘れ︑結果的にただキリストからの恵みを受ける救いだけを間  

エメート 題にしている︒﹁義﹂は正義︑公平を一般に意味するが︑それだけではなく︑真理︵真実︑房meth︶とか愛︑施し  

などをも含んでいる︒これはヘブライ語のもつ微妙な言葉のニュアンスと内容である︒   

イエスが総督のピラトの前に連れ出されたとき︑﹁わたしは真理につ.いて証しするために生まれ︑この世にやっ  

て来た﹂といい︑ピラトが﹁真理とは何か﹂と問い訊すところがある︒しかしイエスは答えていない︒ピラトには  

語っても理解できない役人であったからか︑沈黙を守ったのか︑叙述はここで途切れている︒イエスにとっては十  

字架にかかっても守り抜かねばならぬ﹁義﹂︵正義・真理︶が秘められていたのである︒   

悪と悪魔との闘いは︑中世の思想を貫く基本的なテーマとなる︒伝説によれば聖マグダレーナは砂漠に赴いて苦  

行したと伝える︒あるいは聖アントニウス︵St.Ant︒nius一アントワーヌ︑アントニオ︶がエジプトの砂漠で苦行し︑  

瞑想をつづけているとき︑さまざまな悪魔︑もろもろの迷いや惑わしの怪物による妨害を受け︑それと闘うテーマ  

は聖者伝説や画像にも数多く造型されている︒フローベルは﹁聖アントワーヌの誘惑﹂という文学作品を生み︑グ  

リユーネヴァルトの祭壇画にも画かれている︒聖クリストフォルスは自己の力を試そうとして︑力を持つものにあ  

こがれ︑一時悪魔に仕えるが︑最後には敬慶な修道士に教えられて︑川を渡るのに難渋している旅人や村民のため  

に渡守となって奉仕をしているうちに︑幼児キ〃ストを肩に乗せて神に仕えるようになる︒ついにキリストに帰依  

し︑さまざまの迫害と誘惑を斥けて殉教を遂げる︒聖者︑修道士︑殉教者は文字通り中世の精神的な英雄像である︒   

中世から近世にかけてつぎのような寓意的な画が盛んにもてはやされた︒それは豪華登呂廷の広間が画かれ︑そ  

572   

(18)

文化論集第2号   18   

こでは男女がきらびやかに着飾り︑テーブルには山海の御馳走があり︑人々はワインを飲み合い︑よきパートナー  

を見つけて歌に合わせて楽しくダンスに興じている︒燈火がきらめき︑饗宴に字頂天である︒そのかげで恋をささ  

やいたりする男女がいるかと思うと︑政治や経済のかけ引き︑取り引きにひそひそ話し合う者︑酔いつぶれる若者  

や賭けに熱中してわめき立てている者などさまざまである︒しかしこの宮廷というのは実は巨大な怪魚の大きな口  

の中であって︑その舌の上の広間の歓楽と陶酔に過ぎない︒大きな怪魚は眼を細め笑いながら︑今にもバクリと一  

口にすべてを飲み込もうとしている図である︒中世人はこのようなパロディーを考えた︒この怪魚の舌頭の人間の  

踊りや騒ぎを考える省察と辛殊さに比べれば︑現代の画や文学ははるかに軽薄で甘く︑味がうすくなっている︒   

仏教においても仏陀の成道をさまたげようとする第六天と呼ぶ欲界の悪魔が︑瞑想苦行している仏陀を威嚇した  

り︑暴力をふるおうとしたり︑妥協を申し出たり︑さまざまな妨害を企てる︒反対になまめかしい女性に変化して  

釈迦を誘惑しようとする︒しかしいかなる障害もおそれずついに仏陀は克服し︑魔道の群は退散し︑悟りを開くに  

至る︒   

キリストも仏陀もともに悪魔と闘い︑その威嚇や誘惑を斥たのに︑なぜ現代のキリスト者や仏教徒はこの悪魔の  

試練や降魔を間置にしないのであろうか︒現代の無宗教を標傍する知識人はおろか︑宗教者の中にも現在の文明に  

おもねって︑悪魔などは現実に存在しないとか︑悪魔は人間の心理的所産にすぎないという人々がいる︒人間的に  

理解できる道徳的教訓のみを宗教の中から取り上げて︑それでよしとする人々がいる︒キリストの十字架の死と復  

活の到達点から出発して︑それ以前の宗教的プロセスの展開を無視し︑ただ救済のみを考えるところに︑現代のキ  

リスト教の固定化︑硬直化が見られ︑生命の躍動が見られなくなった︒   

古代︑中世のキリスト者は苦難や迫害に耐えるための宗教的覚悟を持っていた︒その強さは十字架にもとづくか  

571   

(19)

宗教における基礎的思惟研究(三)  

19  

もしれない︒しかし苦難や貧しさに耐えるよりも︑暖衣飽食︑安易な便利さ︑感覚的悦楽︑贅沢や幸福な状態︑怠  

堕の誘惑の方がはるかに難しいことを忘れがちである︒メソポダミアその他人間の歴史をひもといてみれば︑文化  

的に豊かな民族や国家が素朴で粗衣粗食に甘んずる蛮族に滅されてゆく例が多い︒人間は一旦生活レベルをよくす  

るとそれ以下に下げるのは至難のわざとなる︒かくして個人の家庭や民族においても働く気力︑人間を支えている  

生産力︑活力を喪失して没落してゆく︒その挙句のはてに現代人とその文明は神や仏といった聖なるものの存在を  

否定し︑人間を最上位に置いた文明を遣ろうとしている︒﹁貧しき者﹂︵心の貧しき者︶という意味を社会的経済的  

な貧困であると解し︑その対策として政治的︑経済的闘争運動に熱中するキリスト者になウて︑人間の内面におけ  

る﹁心の貧しさ﹂︑己を無とし︑この世界を無と見た涯に見えてくる宗教的霊的世界を考えなくなってしまっている︒  

さきに述べた悪龍と闘う聖ゲオルクは︑神と悪魔の間にいる人間の象徴的存在である︒何もせず︑何も考えず︑た  

だ神仏を信じていればよいという宗教は︑一時の安らぎを与えるが︑結局は怠堕と安逸︑独善に走ってしまう︒宗  

教は生命保険が提示するような︑安心感とは別である︒   

宗教的にものを考え︑重い荷のようなものを背負うのではなく︑神や仏は存在しない︑宗教は無用であるといっ  

て︑人間は有限ではあるが与えられた能力をもって人間は自己の文明を造るのだと考えることは︑一見勇ましく見  

えるが︑じつは安易で倣慢な道を歩もうとすることになる︒歴史︑政治︑芸術︑倫理︑その他あらゆる文化現象を  

仔細に見てゆくと﹂人間にはさまざまのよき能力があるにもかかわらず︑我執︑我慾にとらわれ︑選択を誤ったり︑  

迷いに迷いを重ね︑自己分裂や自己崩壌におちいってしまう︒自然的存在には迷いや過失はない︒動物には本能的  

な生の衝動はあるけれど︑人間のもつような苦悩はない︒善悪を選ぶ自由意志がないからである︒人間の中には神  

も悪魔も天使も動物も世界もあらゆるものが宿っている︒自己自身で人間は己を制御し︑万事巧妙に処理できると  

570   

(20)

文化論集第2号   20   

考えやすい︒しかし妄想妄執におちるとき︑すでにそれは悪魔的なものになってゆく︒人間にはすばらしい自由が  

ある︒自由があるために迷い苦しむ︒苦悩は人間そのものの姿である︒社会的自由︑言論の自由︑その他もろもろ  

の自由を求め︑部分的に実現してきた︒しかし真の自由はまだ実現されていない︒近世以来信教の自由は一応唱え  

られはしたが︑人間の自由の宗教的問題は途中で重い荷という理由で放棄してしまった︒人間は現実の身の回りの  

物的幸福の文明を築こうと努力してきたが︑今や暗礁に乗り上げつつある︒かつては手離しで信じ期待してきた科  

学文明とその効果を︑今日だれも信じなくなっている︒自由な人間と思い込んだ人間が︑じつは自由が喪失しはじ  

めたことに気が付いた︒それどころか非人開化︑自己疎外がはじまりつつあるのである︒微笑をもって迎えた自然  

科学が︑かならずしも人間を幸福にしてはいないことに気付いたのである︒   

悪魔は存在しないという人間にたいし︑悪魔は姿を変えて︑人間を己の陣営に取り込めようとする︒悪魔はその  

存在を実感し︑これと正面向かって闘おうとする者は消え失せる︒神を死なしめ︑悪魔を否定したのは現代人の倣  

慢の結果である︒現代人は己を神と思った瞬間︑悪魔となった︒自分が悪魔になれば︑悪魔は見えなくなる︒善が  

存在するのと同じように︑悪は存在する︒キリストや聖者が生命を賭けて試練で闘った意味を.︑現代もやはり真剣  

に考えなければならない︒   

悪はさきに述べたように人間の実存の深いところにある中心的な問題であり︑現代といえどもやはりこれに取り  

組まなければならない︒人間の悪への衝動を罪と呼ぶ︒子供が自己の内部にあるものをどのように表現してよいか  

分からずにいたずらやぐずりをするように︑成人でも自己の考えや要求が正しく評価されないとき︑奇態な態度を  

とったり︑怒りを発散させることがある︒根本的な観点から見れば︑悪への衝動も善への衝動も生命の一種のエネ  

ルギーであり︑絶対的な悪は存在しないかもしれないが︑相対的な悪はつねに存在する︒日本でも鎌倉時代︑悪源  

569   

(21)

宗教における基礎的思惟研究(三)  

21   

太とか︑悪平衡景清といった呼び方があるが︑これは悪いというよりも︑﹁力強い﹂という意味が濃い︒人間は悪  

へ向かう傾向性をだれもが持っている︒闇によって光が知られるように︑悪によって善を知り︑神を知る︒人間は  

悪そのものを購って善に変容することができる︒変容された悪は神への帰依︑奉仕のエネルギーヘと転換すること  

ができる︒このことは人間の内面における葛藤であるが︑罪と悪へ向かうその力をもって︑俄悔し︑悔い改め︑浄  

化を行うことである︒それは聖なるものに真向かい︑その前に出て︑帰依し︑自己の内部の清浄な心魂を解放して︑  

自己の赴く道を問うことになる︒自由はただ自由によって得られるのではなく︑聖書がいうように︑﹁真理があな  

たがたに自由を得させる﹂のである︒悪は外にあるだけではなく︑むしろ人間の内面にあり︑これが混沌の渦︑緊  

張と対立︑分裂を生む︒悪に日をつぶるのではなく︑正視することにより︑光明的な善への転換を目ざすことが︑  

宗教的課題である︒  

転換浄化の道   

人間の中にあって善と悪が闘い︑善神と悪神の両者がいかに人間を自己の方に引き入れるか劇しく争っていると  

いわれる︒悪に傾こうとする傾向︑あるいは悪に魅せられてゆく弱さ︑さらに悪におち入り︑悪事をはたらいてし  

まった場合とか︑段階はさまざまある︒一瞬カッとなって相手を殺傷した人でも︑冷静に戻るといかに大きな罪を  

犯したかに気付いて戦懐する︒善と悪があるといっても︑人間は善を求める気持ちの方がはるかに強い︒人間は自  

己の内面の欲望と情熱の測り知れない深さをうかがわせて︑改めて戦懐し︑同時に自己の弱さに驚き嘆く︒実存の  

場にあってさまざまのしかも限りない欲望が絡まり︑自我中心の態度となって人間を苦しめ︑悩ませる︒何を選ぶ  

か︑何を捨てるかについてその処理し︑選択することで悩みを持たないひとはないであろう︒罪を現実に犯した場  

568   

(22)

文化論集第2号   22   

合はむろんのこと︑罪を犯さずとも︑罪への傾向性を持つ存在であることを自覚するとき︑救いを求める︒救いは  

自己の力だけでは処理しがたいことを痛切に感じたときに︑ひたすら人間を超えた聖なる存在者︑神仏に向かって  

正しい道を求める︒   

まず神仏の前に立ち︑聖なる存在者と向かい合う︒呼びかけ︑正しき信仰︑正しき行い︑よきあり方を求める︒  

ここでは神仏と人間の人格的な交わりが生ずる︒わが為した行為︑誤ちをふりかえり︑神仏に俄悔し︑告白する︒  

かくて自己の仝存在︑仝心全霊をあげてひたすら神仏によって浄化され︑再び本来のあるべき姿に立ち帰ることを  

祈る︒   

罪︵原罪︶とか煩悩の深さ重さ︑その涯もない苦しみを覗き見た人は︑かならずや人間の自己中心︑自我の我執  

をいかにすべきかと深刻に考えるようになる︒神仏の前にすすみ出て︑聖なる存在に誓いを立てて︑生きるために  

はいかにあるべきかその道をたずね︑神仏の心と願いにはずれないように祈る︒ヘブライ系ではモーセ以来の十戒  

の教えがあり︑仏教においても戒律があり︑菩薩戒とか立場によって守るべき戒れは緩急差があるものの︑大きな  

意味では変わらない︒このように神の前で誓いをたてることを契約といった︒旧約︑新約聖書は本来神と人間が誓  

いを立てることであって︑普通の意味の世俗的人間の間の取引︑契約ではない︒もし造語するならば︑﹁聖約﹂と  

か﹁神約﹂あるいは﹁神盟﹂とでもいうべき方が誤らないかもしれない︒仏教では誓願︑信凰などさまざまな表現  

があるが︑慈悲を実現しようとする誓いであるから︑悲願ともいう︒   

自らが聖なる至偽者にたいし︑もっとも深いところで切に願うところのもの︑それは聖なる者の意志から逸れぬ  

あり方︑正しく生きたい︑つねに聖なる者と一致する道を歩むことを念じ︑祈るものを表白することによって︑閉  

されて方向を失い︑迷っている己の中に一条の光が射し込む︒そのとき自己の立っている場所が分かり︑他の存在  

567   

(23)

宗教における基礎的思惟研究(三)  

23  

との関係が見えてくる︒自己のとらわれた自己中心的な我執から解放され︑より高くより意義あるもののために自  

己を向かわせるあり方に気付かせられる︒今まで行くべき道が分からなくなって閣となり︑激しく荒れて衝突した  

り︑緊張していたさまざまの諸力は︑二疋の方向に集中し︑よきリズムをもって奉仕し︑献身し︑至高の意志を淋  

して善なる者を実現しょうとする︒このようにして人間の苦悩とか煩悩とかいうもろもろの悪や罪から浄化されて  

ゆく︒その心魂の状況は︑まさに聞から明け放たれ︑澄み浄まった朝の空のごときものに誓えられるべきものであ  

る︒さきに述べた悪の暗黒を打破し︑善の光明に転換することは︑この至高の聖なる者︑永遠のなんじへの帰依︑  

自我を無にして︑その聖なる意志を受け入れる浄化の道以外にはない︒人間が自己の内面に目を向けるとき︑それ  

は漠然としたものではなく︑人間のさまざまの欲望︑愛憎︑嘘偽︑嫉妬︑高慢︑所有慾︑自己の存在の価値付け︑  

名誉慾︑権勢慾︑闘争心︑偏狭等々ありとあらゆる障害︑誘惑を超えて︑浄化の願いを立てることによって︑道は  

可能となる︒これは人間が立てるだけではない︒至高の存在者の神仏が先ずかかる悲願︑愛の祈願を立てて︑人間  

を救おうとしていることが前提となっており︑双方の誓いがつながるところに︑宗教性の感応道交が成り立つ︒一  

瞬の中の永遠とか︑現実における過去︑未来の存続性はこの宗教的契合の中において閃光を放ち︑一切を解放し︑  

自覚をもたらし︑救いとなるのである︒  

アンゲルス・シレジウスにおける瞑想の意味について  

アンゲルス・シレジウス︵Ange−usSi−esi戻︶の代表的作品︑瞑想詩集︑﹁ケルビムの如きさすらい人﹂ ︵C訂r苧  

binischenWandersmanロ︶についてはなお論ずべきことが沢山残っているので︑それについてここでいくつかの問  

題を取り上げてみたい︒宗教現象においてはかならず教義︑数理があり︑さらに教義を簡略化し集約化した信仰個  

566   

(24)

文化論集第2号   24  

条︑すなわち﹁信条﹂と呼ぶものがあって一般にこれを信ずることにより︑同じ信徒たちが共同体をつくり︑とも  

に集り︑讃歌を捧げ︑祈りや︑奉仕の宗教的なその他の行為をなすのである︒もっとも日本の神道では教義︑教理  

を立てないことを基本にしている宗教もあるが︑教義を立てないということもーつの教義ともいえないことはない︒  

しかし教義があるのがきわめて一般的な宗教形態であって︑多くの人々はこれによって宗教的情熱や心情が形とな  

り︑生活の中に生きいきと働くのである︒しかし他方自己の宗教的意慾により︑自己自身でもって窮局の存在を体  

験してみたいと願う人々もいる︒このことは仲々困難な道ではあるが︑しかし人間の心魂に奥深く潜んでいる欲求  

である︒ヨーロッパで神秘思想家︵Mystiker︶と呼ばれる人々は︑普常の宗教の在り方に満足しないで︑窮局的存  

在とのただ一人になっても直接の交わりを果そうとする一種の精神的冒険家である︒宗教には聖職に携わる人々が  

世俗的な生活を営んでいる一般庶民と日曜日や︑特定の祭の日に集って宗教行事を行う営みと︑修道院や禅堂に篭  

もって祈りと瞑想︑あるいは坐禅その他の修行に励む純粋な宗教行為に生きるあり方との二つに分かれる︒修道院  

などは宗教を純粋化する機能を持つのにたいし︑教会の機能は世俗的世界と凝蝕し︑日常の生活の中にはいっていっ  

てさまざまな放いの働きを発揮する場である︒   

神秘思想家の多くは修道院より輩出しているが︑しかし修道院とはかぎらない︒神秘思想は時処を選ばない︒突  

出したものであり︑組織や集団である必要もない︒全くすべての規範を超えたところで誕生する︒神秘思想家は心  

的態度によって生まれるのであって︑知的態度からではない︒そこには一般に考えられる宗教とはちがい︑ただ心  

的な態度からのみ宗教的次元が新たに展開するのであって︑他の要素の介在を許さないほど直接的で純粋である︒  

シレジウスの短詩の中にそれをうかがうことができる︒  

565   

(25)

宗教における基礎的思惟研究(三)  

25  

︑ミスティカー  神秘家は一切の媒介物を取り除き︑自己の光と凍る永遠者を直視することを求める︒直接﹁なんじ﹂と呼ぶ神と  

向かい合わねばならない︒向かい合う場は人間の内なるところ︑内面性の世界︑魂の中である︒シレジウスはこの  

内面についてつぎのように語っている︒  

現代人はつねに強迫観にとらわれたように︑忙しく走りまわる︒しかしシレジウスは﹁あなたの中﹂ へ沈潜する  

ことをすすめる︒人間の内面性をよそにして他の外的なところに求めれば︑神を見失うと戒めている︒これに類似  

した詩がある︒﹁わがキリスト者よ︑あなたはどこに走ってゆくのか︒天国はあなたの中にある︒まったく別の戸  

口で︑あなたは何を捜し求めているのか﹂︵第一啓二八九︶これは全く同工異曲で︑このように内面へ向かう内省  

を幾度も彼は語っている︒   媒介物を取り去り︑捨てよ︑わたしが自己の光を直視すべきであるならば︑  顔の前にいかなる壁も作ってはならない︒︵二幸四三︶  立ち止まりなさい︑あなたはどこに向かって走ってゆくのか︒天国はあなたの中にある︒  他の場所に神を求めれば︑あなたは永遠に神を見失ってしまう︒︵一章八二︶  

光を超えた光をこの生命に見るには︑  

冥暗に赴くに如くはない︒︵四章二三︶  

564   

(26)

26    文化論集第2号   

﹁冥暗﹂ ︵Dunk互とは暗がりであるが︑眼を閉じたり︑蝋燭を点さぬところの暗がりで瞑想することである︒  

﹁光を超えた光﹂は感覚的に感受されるような光でなく︑まさに霊的な光を指す℃シレジウスはつぎのように瞑想  を讃えている︒  

さきに述べたごとく︑天国は人間の内面に見出すべきものであり︑瞑想に没頭するところに在る︒ただ瞑想すれ  

ば良いのではなく︑﹁愛の心﹂をもってしなければならない︒瞑想と天国とは密接な関係を持つ︒それゆえに︑天  

国は他者として外に存在するのではなく︑つぎのように︑自分が﹁天国になること﹂である︒   この世が天国となる最も甘美な生活は︑  愛の心で瞑想に身を捧げる生活である︒︵五章二五七︶  

あなたが天国に行くのではない︒  

︵ただ喧騒から離れて︶ あなた自身がまず生きた天国になることである︒︵五章要一︶  

祈りといえば︑キリスト教においては日々の祈り︑日曜のミサの祈り︑特定の祭や行事の祈りその他︑﹁祈祷書﹂    人よ︑正しく祈るとはどんなことか知りたいと思うならば︑  あなたの内部に入り︑神の心にたずねなさい︒︵一章二三七︶  

563  

(27)

宗教における基礎的思惟研究(三)  

27  

近世以来︑とくにカントによって基礎づけられた哲学は時間︑空間は人間に与えられた先験的直観形式であって︑  

人間はその制約の下に存在せざるを得ないと考えている︒これにたいしアンリ・ベルグソン︑マルチン・ブーバー  

などはこの存在形態をいかに打破するかということで哲学論を展開してきている︒シレジウスは瞑想によって時間︑  

空間を超えることを主張する︒それだけではなく︑時間も空間も人間の所産であるとはっきりいっている︒仏教で   と呼ばれている書物がある程多い︒それは大部分が教会で定めたものである︒これにたいし﹁正しく祈る﹂ために  は︑自己の内面に薄いり︑内面に見出される﹁神の心﹂にたずねよという︒シレジウスにとって神の心に出合うこ  とに主眼がある︒内面の瞑想を通して神の心や天国にも出合うのである︒   

ここで注意しなければならぬことは︑神秘思想︑ないしは神鱒王義は神体験の特殊な形態として考えられている  

が︑神秘体験とヨーロッパでいっているものは︑ほとんど瞑想︵MeditatiO︶と同じと見てよい︒瞑想は神体験に至  

らんがためのもので︑それ以外のものではない︒瞑想によってどのような世界︑境地が開けてくるか︒  

場所の中にあなたが存在するのではなく︑  

場所があなたの中に存在するのだ!  

あなたが場所を捨ててしまえば︑すでにこの世が永遠の場になる︒︵一章一八五︶   あなた自身が時間をつくる︒意識が時計の機械である︒  あなたが平衡輪を止めるだけで︑時間は止まってしまう︒︵一章一八九︶  

562   

(28)

文化論集第2号   28  

は﹁三界唯心﹂を説き︑欲界︑色界︑無色界はすべて人間の心の所産であると考える︒仏教もシレジウスもともに  

共通点をもっているといって差支えない︒   

われわれは一般に人間の存在の外に時間︑空間があると思惟する︒自然科学的に客観的に認識する態度は︑二﹂れ  

によって自然や人間や世界の構造と法則を明らかにしよ︑ナビし︑今までに多ぐの成果をあげてきでいる︒これにた  

いして哲学︑とくに宗教は実存的な態度からアプローチする︒人間の意識の主体性を離れて時間も空間も存在しな  

い︒時間とは厳密に時間意識であり︑空間も空間意識といわなければならぬ︒時間の真の長短は人間の意識が感取  

すべきものである︒空間の真の広狭も人間の意識が成立させている︒一瞬の夢とか︑無限の時間とかいう表現は︑  

人間の意識によって成り立つ表象である︒  

この詩も人間の中に時間が存在することを明示している︒ただ前掲の二つの詩と同じく︑シレジウスは時間空間  

を放棄し︑永遠の神の中へ帰依することをすすめている︒マルチンニブーバーの﹁我と汝・対話﹂ ︵l註u邑rDu  

Nwiesprac計岩波文庫︑植田重雄訳︶・の中で﹁祈りは時間の中になく︑′祈りの中に時間がある︒犠牲は空間の中に  

なく︑犠牲の中に空間がある︒この関係を逆にするひとは︑現実を見捨てることになる︒これと同じように︑わた  

しが︵なんじ︶と呼ぶ.ひとを︑あるとき︑ある場所でわたしが見出すのではない︒わたしはそのひとを︑固定させ    場所の中にあなたが存在するのではなく︑  場所があなたの中に存在するのだ!  あなたが場所を捨ててしまえば︑すでにこの世が永遠の場になる︒︵一章一人五︶  

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(29)

宗教における基礎的思惟研究(三)  

29  

ることができるし︑つねにそうせざるを得ない︒しかし︑そのときは︑ひとりの︵彼︶ ︵彼女︶ ︵それ︶となって︑  

もはやわたしの ︵なんじ︶ ではなくなる︒︵なんじ︶ の天がわたしの上にひろがっ七い▼るかぎり︑因果律の風は︑  

わたしの踵に吹き止み︑宿命の渦も渦巻くことはない﹂±五︑一六頁︶︒ブーバーは祈りの行為に人間の主体をみ︑  

犠牲の行為︵献身︑奉仕の愛の行為︶に時空を超える人間のいとなみを考える︒それゆえカントが重んじた因果律  

︵Kausa−it呈の束縛を受けない︒祈りや犠牲は一つの例である︒瞑想そのものも時間の中の一行為ではなく︑瞑想  

の中から時間が生まれるのである︒人間の主体性の自覚は神秘思想の出発点である︒山河草木虫魚一切の存在はわ  

れによりて﹁観ぜられ﹂ている︒主体性の自覚は目覚め︑悟りである︒  

この詩は今まで述べてきたことを﹁超える﹂という形で強く確信したものである︒この瞑想によって開けてくる  

世界はつぎのよゝサな作品となって結実する︒    人よ︑あなたの魂が時間と空間を飛び超えるなら︑  いつでも永遠の中に存在することができるのである︒︵一章一二︶  

わたしのとどまる場所はどこか︑わたしとあなたはどこにもとどまるところはない︒  

わたしの行くべき場所はどこなのか︒それは何人も見つけないところ︒  

わたしは一体どこへゆくべきか︒神を超えて荒野へとわたしは行かねばならない︒︵早七︶  

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参照

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