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「遊び」のもつ教育的構造 ―幼児教育基礎論―

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「遊び」のもつ教育的構造

―幼児教育基礎論―

原  野  利  彦

 1 問 題 意 識

 :遊びは教育特に幼児教育において根幹をなすものだと云われる。確かに表面的にみても 遊びは自発性とルールとを両立させる稀有の現象であり,必ずしも自発性を必要とはしな い「仕事」とはきわだった違いを示す。教育が持続的かつ内発的な経験の再構成のプロセ スである,とすれば遊びほど教育の原型をさぐる場として適したものはないようにも思わ れる。そして実際各方面から遊びの教育的意味についての研究は行われてきたのである。

 だがこれらの研究を通じて見る事が出来るのは,遊びの時間性への問が欠落しているこ とである。不確定性にあそびの分析の軸をもとめている人々(特にRoger Cailloisや Jacques Henriot)も「通時性」の問題を提出しつつも,遊びの時間性については全く不 徹底である事は否めない。勿論ここでは単なる「客観的時間」の推移の中でどう遊びが進 展するのか,という類の時間性が問われているわけではないのだけれども。衰退,消減に 脅かされ時間の重みを痛感し,無為に過ぎてゆく時間ではなく,今,ここに存在したい,

というような期待を幼児の遊びに投影し,そこに何かを見ようとする,という動きも,所 詮遊びの時間性をめぐる問いかけに他ならない。本論考は,遊びの時間性に迫る私なりの 試みの手はじめである。

 皿 不 確 実 性

〔1〕R.Cailloisは遊びをパイディアとルドウスとの一対として見る(1)。前者は解放,気 晴しの欲求に見るような即興と陽気という原初的能力をさすのに彼が用いた語である。即 ち「遊戯本能の自発的表現を包括する言葉」と定義されるものである。転げまわる犬,玩 具を見て笑う乳児などは最初の例である。直接的で無秩序な興奮,衝動的で気儘で,羽目 をはずすような遊戯,このような無秩序な性格を特色とするものである,という。

 しかしこの未分化なあそびを経て約束,伎禰,用具などがあらわれ規則が故意につくり 出される。その規則はそれを乗り越えたという事実が,それを解決したという内的満足以 外のいかなる利点も持たないような困難を解決するという喜びをもたらす。分化,規則化 への原動力を「ルドウス」とよぶ。それはパィディアの補足及び教育として現われ,パィ ディァを鍛え豊かにする。この無秩序からルールへ,ルールから無秩序へ,という動きを 遊びの中に見る事,これは遊びが根本的には自由と解放に源泉がある以上,極めて興味深

いダイナミクスを洞察する事が出来るだろう。

〔2〕我々はヘーゲルにその頂点を見たような閉じられた世界像を現在新しく再建する事 は当然のように断念する。不確実が支配する世界,即ちく開かれた〉知識の形態をあれこ れ探し求めている。遊びにおいても「不確実」という角度からの洗い直しが必要であ る(2)。近代工業社会における技術革新の常態化は,あらゆる領域で非連続,断絶をもたら

している。しかし,この断絶こそが様々な根本的問題を提出したのである。遊びは人聞の

(2)

手工業的な生活が,それ以前のリズムに合致する程度のスピードである時には,日常生活 との調和もそれなりにコントロール出来るものであった。だが,機械技術の進展は人間の 生活と遊びとの間にズレを生じ,このズレを埋めるには,もはやけいれん的な反応か,堕 性的な対応だけが我々に許されている様に見える。あそびはもはや本来的生命を失い,伝 統的なあそびを姑息に改慶したダイナミクスの欠けた変種に堕してしまっているかのよう である。分業一専門化一分析の極度の進展を救うものとしてはかない;期待をかけられ るあそびもそれらを綜合する要求には応じられないでいる。むしろすべての生活,文化が あげて工業的ロジクックに還元されてゆく傍らでささやかな憩の場を提供しているにすぎ ない(3)。遊びの研究はこの技術的変革をも活用しうる綜合としての立場を確保出来るだろ うか。確かに伝統的遊びは遊びの構造を洞察する場を提供してはくれる。しかし今月の遊 びはエレクトロニクスを駆使した技術等々と大きなかかわりをもっている。TVは勿論手 軽に録音,録画出来る装置等々は遊びの手段1,内容を大きく変化させている。

・〔3〕どんな現象にもみられることだが,何ら新たなものをもたらさず堕性的,飽和的に なってゆくという進行がある。だが,何らかの契機が介入して,旧来の構造に断絶をもた

らし,その断絶を解決するために,新しい手毅を見出して,今までのものとは全く異った 意味(構造)を形づくり,再び人間生活を新たな関係において活性化することがある。

 遊びの根本的問題も,定型化(索性化)と不確定との関係をどう把握するか,という事 である。定型化をぬけ出した時,時空はその進展をはじめる。パイディァとルドウスとの 相互作用は,遊びにおけるダイナミクスの源泉といいうるだろう。遊びの時間性とはまさ

に既存の出来事の飽和化をたえずつきくずし時間を刻ませてゆくエネルギーの凝縮として あるのだから。この時間性の形成こそ遊びをドラマとよばせるのである。「ドラマ的とい う用語は遊びの根本的な固有性を指し示している(4)。」例えばゲームにおいて両陣営が全 く同一の規則の支配下におかれるとはいえ,「最終的には勝利者と敗北者との非対象性を つくり出す⑤」というように遊びは時間性を凝縮しているのである。そしてこの勝敗の

「非対象性」こそ諸事象の不確実性を示すものなのである。

 仕事は行為の諸要素を必然的な連続性のもとにおく。計画された手順をきちんとふまね ばならず,即席の思いつきで変更出来るといった類のものではない。それに対して「遊び の場合,逐次的な要素群は,仕事の実現の段取りのように必然的なかたちで連鎖すべき節

〔線分〕群ではない。遊戯構造を構成するプラクシスの要素連続は,程度の差はあるにし てもとにかくく射倖的>aleatoireに継起する。……遊びの中の要素連続のあいだには,

相対的な無規定の地点のようなものがいくつかあって,そこには図式が分離しており,そ のすきまへ,いわば偶発的に遊び手による選択の可能性が挿入されており,ある限度ま で,遊び手の即興の可能性が入りこむ(6)。」

 以上を一言でいえばこうなる。「遊びとはすべて射倖性の程度の一定しないプラクシス の要素連続によって構成される通時的構造である(7)」と。つまり不確定性の本質である時 間性を凝縮して提示するものとして遊びはある。

皿 遊びのメカニズム

〔1〕すべての遊びは空間的に組織されている。とにかく遊びは何らかの場所で行われ,

しかも「ある程度厳密に描かれた空間的図式にもとづいて展開される⑧」しかも,「この

(3)

空間的構造性に,更に時間的構造性が重なる。すべての遊びは複数の要素あるいは活動が 組織的に続行されることによって成立するのであり,それらの要素乃至活動はある順序に 従って行われなければならない。人はでたらら6に遊ぶのではない(8)。」

 すくなくとも,遊びは一定の枠組をもって空間の特定部分を取り囲み,遊びのリズムを 決定する。その枠組の上に,ある時は急に,ある時は緩かに,様々な身ぶりや表情,技術 をもって様々なリムズをつくり出す。それらはその遊びを成立せしめるという枠内できわ めて自然に平衡が保たれる。こうして枠組によって捉えられた空間は,遊びのダイナミズ ムに十分な場を与えるのである。遊びはどこからでも見透しうるものであり,様々な可能 性を明示し,参加者並びに周囲の者に様々な期待や不安をいだかせうる。その可能性をみ せる領域には限りがなく,それ故にほとんど無限の可能性の前におかれているかのような 感じを人々に抱かせうる。

 参加者及び観客は,その位置,習熟度等々によって異る深さをもって一層遊びをダイナ ミックなものにする。考えようによっては,ある枠組で特定化された遊びの空間は,参加 者乃至観客の深さやダイナミズムを反映する鏡だといいうるだろう。そうだとすれば,遊

びはまさに参加者等のidentityをくもりなく反映する鏡だといいうる。

〔2〕この枠組にとらえられた遊びのリズムは透明である。それは不透明な充満を基礎的 カテゴリーとする古典的概念ではとらえきれぬものである。J. Piagetが「子どもにおけ るシンボルの形成」の中で試みた構造の三類型の一つである「シンボル的なあそび」Jeux synboliques(9)を批判するJ. Henriotを見ると……彼は」. Chatoeuを辿りながら次の ように云う。「『ふりをする』遊びは「模倣」の枠を越え出る」のであって,モデルを確に 再現しようとするものではない。むしろモデルからの後退もしくは解除なのであって,ふ

りをすることは「表象」representationであるという⑩。遊びは空間の枠組みによって 特殊化されたた世界だとはいえ,不透明ではなく,たえず日常生活との交流,もしくは日 常生活の中からエネルギーを汲み上げているのである。

 換言すればR.Cailloisのいう非現実性という意味においてではないが,遊びは「虚構 的」活動である。虚構された筋書,作戦の連鎖が遊びを非物質的な透明なものにするので ある。それは素材を越えている。TVその他を見て喜んでいることも,それは物質として のエレクトロニクスを楽しんでいるのではない。虚構の世界をつくる事によってエレクト ロニクスを非物質化しているのである。TVの画面の素早い変化は,たえず空聞の構造を つくりかえる要素を次々と送り出す。かくして遊びのエネルギーは増大もしくは持続す る。遊ぶ者は,日常生活の中で培われた様々な技能をこの遊びの空間に凝縮し活用するζ とによって,日常生活を再び見直す。日常生活の中で培われたまなざしを乱反射し,絶え ずくるくると変る遊びは,日常的感覚を断絶させ,工業的社会の技術主義的思考に還元さ れる事を拒む場合もある。その程度が高いほど非日常的空間としての遊びを体現するもの であろう。それは分断と断絶に悩される世界に綜合の契機を与えるかもしれない。分断と 断絶こそ遊びという綜合の必須の要素なのであるから。

〔3〕かかる遊びは同時に集団的である(11)ため一つのスペクタクルを提供する。都市化し た社会においては,この遊びの要求を集団的に満足させる空間が形成されなければなるま い。特権的な人々にのみ解放される遊びは次々と大衆化の中に吸収されていかざるを得な いだろうし,またそうすることによってのみその遊びはエネルギーを持続出来るだろう。

(4)

それは工学的な手段を駆使しつつ,ますます社会的な文脈の中に遊びを位置づけてゆく働。

たしかに遊びは規則等によって,その厳密さの多寡にかかわらず何らかの構造性はもつ⑬。

だがこの構造こそ不確定性を特徴とし,時間性をもたらす。この不確定をまねきよせるも のこそ「群集」や「天候」である。遊びは天候によりその多様さを倍化し,群集もしかり である。群集は天候と同義のものを遊びにもたらし,遊びを「人間的自然」と「自然的人

聞」の間をゆれ動くものとするのである(14)。

〔4〕以上から次の事が云われうる。

 (1)遊びはその基礎的な構造によって質を規定される。

 ② 遊びの時間性は,その遊びの構成要素によって成立するのであり,その構成要素自   体の変化は不必要である。

 (3)遊びのダイナミクズは,それら構成要素の組織化の変化による。

 構造化が無秩序と両立しない,という事は遊びを見る事によって否定される。無秩序か ら秩序へという図式は一面的にすぎるだろう。無秩序は凍りついたような形式以上に無秩 序として組織化されうるのだ。このように不確定の要素を最初から導入しているものとし て遊びはすぐれて時間的なのである。開かれた体系としての遊びとはこの謂である。厳格 なルールと不確定性との両立によって遊びは無限を獲得しうるのである。

 出来事を出来事たらしめるもの,即ち時間性をもつ質の原型を(従って)遊びは示しう る。今そのメカニズムを見てみよう。構造成立のためには,一定の選択が行われねばなら ぬ。そこには他のあり方でも楽しめたはずの部分が断念される事を意味する。この除去の 苦痛(規定される苦痛)がその遊びの質を決定し,新たな地平を遊ぶ者に提供する。だが 遊びにおいてはこの新しい質の獲得は,その時間性を可能にするために,選ばれた各要素

に予め不確定の要素を含み込ませる。

 この不確定の要素がその後の過程において遊びの構造を開かれたものにするのである。

この故に遊びはその最終的結果を考慮することなしに様々な変化を期待しうるのである。

 遊びが最大の興味をひきおこすのは,第1に選択における自由であり,更に選ばれた要 素を厳密に結びつけることである。つまり厳密さと自由との両立であり,秩序と無秩序と の結合の遊びを決定するようにメカニズムを考案する事が重要なのである。それには空間 をある枠組で区切る(選択)事による特定の質的空間の創出と,この選ばれた枠組とその 要素に予め不確定の要素を含み込ませることによってそれ以後の時間性(同質の時間の堕 性的な推移ではなく,次々と意外性が展開するという意味での時間性)を可能にしなけれ ばならない。人々は刻々に訪れる飽和への恐怖からも,この時間性のメカニズムをつくら

ざるを得ない。

皿 遊びと疎外解除

〔1〕工業化の結果生み出された都市社会は,自然と人間の再結合を問題にしうる生活の 地平を現出させた。大気汚染,自然破壊にまで進んだ工業化は,人類の生態学的危機をも たらしている。自然を専ら操作の対象として切りきざんできた工業化のロジックによって 自然の回復をはかる事は非常に困難である様に見える。そして工業化のロジック(操作可 能なものに重点をおき,それ以外のものを残余として軽視もしくは排除する行為をも含め て)は,日常生活の中に根を下ろしているが故に様々な分野に不当に拡大適応されている。

(5)

遊びは「仕事」に比して「残余」であると限定する態度もその一つである。

 だが遊びは一特に現代の技術の上に成立する遊びは,気象のようにすみやかに変わった り,生物の成育や地質上の変化のように緩慢な変化を可能にする。自然のリズムとの合一 又はそれの凝縮は遊びの中に発見されうるであろう。大衆社会現象のもつvariationsは,

それを多面的に吸収,反映する遊びによってのみその綜合性を与えられるだろうし,その ような遊びこそ自然の復権としての群集性を凝縮してみせる場であろう(14)。

〔2〕従って遊びがその時間性を獲得しうるような性格を備えればそなえるほど,集団生 活の潜在的意識を表面化しうるだろう。技術の進展は大量のイメージや刺戟を社会にもた

らし,飽和からの解放を求めてあえぐ群集を生み出した。更に移動の常態化は,旅による 新しさなどを疑似的なものとしてしまった。飽和からの解放は社会的解放という大衆運動 の中で模索されざるを得なくなった。遊びはますますこの欲求に応える事が要求される。

人間の生命のリズムに何らかの強い反応をひき起し,時間性を感じさせるには,開かれた 構造(時間性)が要求されるのである。

 社会とは文字通り多数の人間がもつそれぞれの時間感覚の輻湊であり錯綜である。たと えば分裂病における時間概念の崩壊などはこの事を顕著に知らせるものであるα5)。これら の錯綜を同質化しようとする工業化のリズムは(作業開始,進行のtempoの厳守,契約 における期日の厳守等)他方において生活のリズムの加速化,複雑化をまねいている。社 会における集団はこれらの錯綜する時間を画一化する為に形成されたり,ある場合には各 人の個別的時間を共鳴しあわせて高揚した時間をつくったりするだろう。これらの生きら れる時間の交錯は巨大なうねりとなった様々な場において凝集,解体する。工業化による 画一的時間乃至は混乱した時間からの解放を求めて,人々は自発的な時間形成が可能にな りうる様な空間を形づくろうとする。遊びがその一つの場を提供する。事実遊びは各人の 時間感覚のふれあいをとりもどさせ,何らかの人間関係を形成し,一定の精神的昂揚を回 復させうる。この意味において大衆の中に遊びが次々とつくられてゆくことは,工業社会 のもとで分断されがちな生活のリズムの統合,調整の機能を果していることにもなるので

ある。

〔3〕 教育と遊びとの関連におけるもう一つ欠かしてはならぬ観点は情報と遊びとの関

連である。

 遊びにおける時間性とは,また情報が入り処理され,出されるたえざるダイナミクスに 他ならない。その遊びが人々のエネルギーの解放をなしうるか否かは,その情報の質と量 とにかかっている。工業化の進展に伴い個人や集団の時間は多様化し錯綜する。時間処理 の方法も多様化されてきた。個人又は集団は膨大な時間に時間性を付与する。即ち,それ らは入ってくる時間に価値づけをし,自由に出来るレパートリーに再転換をする,即ち情 報化するのである。

 ところで「遊びは遊ぶ主体なしには存在しない(16)。」彼が如何なる態度をとる時遊んで いるといいうるのか。J. H:enriotを辿りながら見てみよう。まず第1にく魔術〉<非現 実感〉である。遊ぶ人間は「世界にメタモルフォースをほどこす。椅子はすでに椅子では なく,自動車である。」第2にく明澄性〉〈現実感〉がある。つまり第1の側面は遊び 手を見ている人問の見方であるにすぎないのである。「遊び手は椅子が椅子にすぎず,人 形が生きてはいない事を承知している。……彼は自分が遊んでいる事を承知している。こ

(6)

の知識が彼を保護し,彼に,彼の遊びそのものから距離をもたせる。彼は まるで……の ように ことを行うが,決してイリュージョンに全面的に身心をゆだねはしない(17)。」で は第1と第2の側面とはどう統一されるのか,これが第3の契機くイリュージョン〉〈超 現実性〉というわけだ。「人がある程度,自然に 無我夢中にならない ような遊びは遊 びではない。遊びは遊び手の周囲に呪術の輪をはる(17)。」

 この弁証法は時間性をつくり出しはしないだろうか。この遊びの構造には予めサスペン スが組みこまれている。作家達が好んでとりあげるテーマである愛のように,遊びのこの 弁証法は不確実性を十分にもっている。この不安定さは,飽くことなき新しい事態を提供 する。情報は刻々とつくられてゆく。だからこそゲームの実況放送も可能なのだ。

 だが「遊びの中で,日出モルフォーズをほどこされるのは対象ではなく,主体である…

…。対象は全くメタモルフォーズの手段,付属物,信実にすぎない。……遊ぶ役割を通じ て主体は,ある程度まで自分自身をみずから創作する(19。」即ち遊びを通じて時冷性をつ

くるのは遊ぶ主体なのである。遊びそのものの構造が時間性をつくるのではない。どんな 遊びの構造も遊び手を潜在的にせよ前提する。

 ここに遊びにおいては「自分が別のものになる」という事が根本におかれているのを見 る事が出来る。つまり「他者性」の観念と結びついており,常にその様々な解釈と結びつ いている。例えば」.HenriotのようにPasca1の代表する「みじめさのしるしとしての遊 び,人間を自己自身からそらせ,〈存在〉からそらせる遊びは……人聞の条件そのものの 結果である⑲。」というような「悲観主義」と近代における「楽観論」 (つまり絶えざる Proiectによる自己形成過程といった様な)とを対置ないし並置して遊びに関する考察を

しめくくることも出来るだろう。

〔4〕この事は遊びと情報との関係を「疎外」Entfremdungとの関係において論じる事 を可能にする。さて,すでにHegelとMarxとの「疎外」概念の相異をめぐる争点で論

じられてきたことであるが,「疎外」を「客体化」と混同して用いた所にHegelなりの 限界があるし,その混同が様々な形で(たとえば,SartreやHypPoliteらに)復活して いる,というような事がよく云われている。今,これを見てみると確かに疎外と客体化と の区別を曖昧にする時,疎外解除に向うダイナミクスが抽象化する事は疑えない。とい うのは疎外解除がある特定の対象の克服ではなくなるからである。つまりHege1に見た 様に,他者性は実在ではなく仮象にすぎず,やがて絶対的意識へと上昇してゆく一階梯に 他ならない事になろう。この点に関してMarxは次のようにいう。「意識はいま対象の 無内実性を,すなわち対象と自身との無区別性を,自身に対する対象の非存在性を知って いる。なぜなら,それは対象をみずからの疎外として知っているからである。それは自 己,つまり対象としての知識を,知っている。なぜなら対象とはせいぜい対象の仮象,つ まり目をあざむく幻影にすぎないからである。対象は,その本質より見れば,自己に自己 自身を対置するところの知識活動に・従って自己に無内実性を対置する知識活動,知識以 外た何一つ対象性をもたない何かあるものを対置する知識活動に他ならないのである(2①。」

 遊びは他者の有効な実在性を主張しないだろうか。遊びは他の諸行為とは異り,他者性 の関係を原初的なもの,除去不可能なものとしない例外でありうるのだろうか。遊びはこ れに肯定的な答を与えうるようである。棒にまたがり騎手となった子供は,自分が騎手そ のものではない事をよく知っている。興味が去れば,また以前の自分に戻ることよく知っ

(7)

ている。J. Henriotによれば「まず距離があるところに遊びは存在するe1)。」のである。

他者性は「みずからの疎外に他ならない」事が分っている。この他者性はやがて主体によ って回収されるのである。だから,」,Henriotにおいても,他者性は無限者の中にある 事となる。そしてこの無限者の回収が遊びなのである。彼はいう。「遊びは神聖さに対立 する。儀礼が執行される時,祭式執行者は自己の役割に密着し,決して少しでも後退する 事がないから,自己の行為からほんのわずかでも離脱する機会や,自身の現にしているこ とをしつつある自己を眺めたり,自身のしている事の意味や価値について自問するような 機会をもつ事などありえないのだ。……行為者は自身の行為と一体化している。彼はたぶ ん遊んではいるだろうが,遊んでいるという事を当人は知らない。つまり,決して遊んで いることにはならないのだ。彼がそれを意識しはじめ,遊びはじめるとたん,冒漬があら われる。ふりをするという冒漬だ。遊びと神聖なものとの間には,本性上の対立がある㈲。」

 従って,他の有限なものとの関係は低次のものとなり,「わたし」が残ることになる⑳。

遊びとはだから疎外解除への人間のはかない試みの一つであり,疎外解除の不可能性は人 間的事実である。この中でのあいも変らぬ解除へのもがきが時間性であり,情報なのであ る。だから遊びは「社会不安にそなえる安全弁」でありうるのだ。R. CaiUoisはいう。

「遊びの諸原理は,実際に強力な本能(競争,チャンスの追求,模擬,眩量)に対応して いる。しかし……これらが積極的創造的満足を得るのは,観念的で限定された条件一遊 びのルールがすべての場合について提示している条件一の下でだけである。これらの基 本的な衝動は,あらゆる本能と同じように,放置しておけば,結果で破滅的なものとな り,殆んど致命的な結果をもたらすものである。遊びは,本能に規律を与え,制度的存在 を強制する。遊びが本能に形式的な限定された満足を与える時,遊びは本能を教育し,豊 かにし,そして魂を本能の毒から保護するのである。同時に遊びは,本能が文化のスタイ ルを豊富にし,安定させるのに有効に役立つようにする23)。」Hege1においては有限と 無限との関係は,無限それ自体の「仮象」にすぎない。だが,遊びにとってそれは反対に 有限の疎外解除の不可能な事実であり,だからこそ,それは無限をカリカチュアライズし て精神の安定をはかり「文化のスタイルを豊富にする」事が出来るというのである。

 しかし人が必然的に疎外にある,という事は,入が現にあるもの以外にはなりえないこ とを意味するだろう。この事は疎外された状態にとじこあられる人間は,何を選択しよう とも全く同じである,という結果を導く。Pasca1が人間は「ひどく軽薄なので,倦怠に おちいるべき無数の重大な原因にみちていながら,玉突きやボール打ちのようないたって っまらないものによって十分気晴らしをする事が出来るのだ㈱。」という考えを我々は反 駁する事が出来ない様である。それに比すればR.Cailloisの「社会不安への安全弁,文 化の発展」説も軽視してもよさそうにさえ思える。つまり遊びを通して人間が疎外解除の 不可能性に閉じこめられているのが見えるとしたら,実践を軽視する方が当然となるのだ。

この意味で例えば「すべては遊びだ」という説などは,すべての人間的実践は気ばらしと して等質化出来るものだから,せめてその事を端的に見せる遊びこそ我々の行為にふさわ しい,即ち「すべてを遊びと見るべきだ」という主張のように見える。新一資本主義は新 たな味方を遊びの理論の隆盛に見出したようである。なぜならどのような社会体制をつく ろうとも疎外は持続するし,あらゆる社会的実践は気ばらしであることになるからだ。

 しかしここで起る根本的問題は何か。一体「遊びにすぎない」とか「すべては遊びであ

(8)

る」とか云う主張は,「何を参照にして」意味をもちうるのだろうか。遊びが社会的な不 安を和げるという「効果」が云々されるとすれば,少くともそこには超越的無限にもとづ いて,すべての実践を等伍にするという事は否定されているからである。社会や文化が豊 富化されるという事に「参照」されるならば社会的実践を可能化する分節化を遊びは提供 しうると考えざるを得まい。しかし同時にそれは超越としてある。しかも,現実の社会的 実践を無力化しない超越としてある。拘束されている有限なもの自身による疎外解除の可 能性を拘束を加えるものとしての超越が内蔵しているような,そのような超越である。勿 論それは一挙に疎外解除が可能になり,後はその堕性に従っておれば十分だ,というよう な基準を個別者に示すような超越ではない。絶えざる疎外態への再転落を防ぐような時間 性を提示してゆくようなものである。この超越を提供出来るものの一つとして遊びはある だろう。遊びはある歴史的段階において人間の可能性の最大限の豊富化を示し,可能性が 窃取される状況を生き生きと表現し,社会的実践の分節化,綜合を助けるところにその意 味をもつであろう。そこにおいてこそ遊びは良質の情報を生み出し得るし教育的意味をも つに違いない。

注(1)Roger Caillois, Les Jeux et les Hommes.:Le Masque et le Ventige, Paris, Galli−

   mard,1958清水幾太郎,霧生和生訳P.40以下

 (2)Jacques H:enriot, Le leu, Paris, Press Universitaires de France,1969佐藤信夫訳    P.123

 (3)上田篤「市民と広場」(岩波講座「現代都市政策」皿 ユ973p.272以下)

 (4)J.Henriot,前掲訳 P.49

 (5) 工bid.,P.50

 (6) Ibid.,P.57  (7) Ibid.,P.58  (8) Ibid.,P.37「

 (9) J.Piaget, La formation du symbQle chez I enfarlt,:Neuch飢e1−Paris, Delachaux

   &Niest16,1945.2e 6d,1959, PP.110−153

 (1①」.Henriot,前掲訳 p.64  (11)R.Caillois,前掲訳 第1部三

 ⑫ いわゆる余暇が社会の各層にわたって増大したという事による遊びの大衆化は数多く云々されて    いるが,遊びそのものが大衆化によって活力を帯びてくることへの 原理的 究明はほとんどな    されていないように見える。

 (13J. Henriot.前掲訳 p.37

 ㈹ 津村喬「身体性が喚起する群集」(「現代の眼」ユ975年5月号所収)

 (15)例えばEugらne Minkowski, Le temps v6cu:6re 6d.1933等  (16)」.Henriot,前掲訳P.137

 qrの Ibid.,p.143  (18} Ibid.,P.149  (19 1bid.,P.ユ60

 ⑳ K.Marx:「1884年の経済学,哲学手稿」邦訳 岩波文庫版 P。210  ⑳ J.Henriot,前掲訳 P,151

 ㈱ Ibid.,p,156

 ⑳R.Caillois,前掲訳P.80

 ㈱Pasca1, Pens6cs, Brunschvicg版第131

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